すっかり奏澄の体調も回復し、ハリソンから説明を受けるため、たんぽぽ海賊団は島の広場に集まった。そこには、既にエドアルドと、白虎海賊団の幹部たちがいた。
驚きを隠せないたんぽぽ海賊団の面々だったが、全てはハリソンが説明してくれるだろう。皆大人しく、ハリソンに視線を集めた。
「皆さん集まりましたね。では、この本の内容について説明します」
ハリソンが掲げた本は、奏澄が預けたセントラルの禁書だった。
「結論から言います。無の海域への入口は、セントラルが封鎖しています」
「!」
ハリソンの言葉に、にわかに広場がざわつく。しかし、動揺しているのはたんぽぽ海賊団の側だけで、白虎の者たちは落ちついていた。
「場所はセントラルの領地、東の端にある監獄島。その裏にある洞窟内に、無の海域への入口を封じているようです。そして、その封印を解く鍵になるのが、はぐれ者の血――つまり、カスミさんの血です」
一斉に、奏澄に視線が集まる。それを受けて、奏澄はたじろいだ。
「カスミさんの持つコンパスは、はぐれ者の生き血を吸わせることで、その機能を果たします。おそらく、それを知っていたから、セントラルは『生け捕り』で指名手配したのでしょう」
生き血。体の内を巡る血液。殺して血を絞ったのでは、意味が無い。だから、生け捕りのみだと。
「入口にさえ辿り着ければ、あとはコンパスが導いてくれます。問題は、場所が監獄島だということです」
監獄島。奏澄にはわからないが、他の面々はわかっているようだった。皆一様に厳しい顔をしている。
困惑する奏澄に気づいて、メイズが説明した。
「監獄島というのは、セントラルの重罪人を捕らえておくための監獄がある孤島だ。島が丸ごと監獄のための設備だから、警備が厳重で、近づくことすら困難な場所だ」
それを聞いて、奏澄は事の大きさを理解した。それほどの場所に、たんぽぽ海賊団の戦力では、立ち向かうことはできない。
たんぽぽ海賊団の、戦力では。
はっとして、奏澄は白虎海賊団の者たちへ視線を向けた。
彼らがこの場にいる意味を。ハリソンの説明に、驚きを見せない理由を。理解して、喉が詰まる。
けれど、それは。
奏澄の想像通りなら、彼らは奏澄が言い出すのを待っている。心から助けを求めれば、きっと力を貸してくれるだろう。
そうして元の世界に帰れたとして。奏澄は、彼らに何も報いることはできない。
仲間たちとは、信頼関係がある。奏澄の目的を最初から理解して、奏澄の方も旅の中で精一杯心を尽くしてきたつもりだ。
でも白虎は違う。出会ったばかりで、しかも奏澄はさんざん助けてもらった後だ。その上で、まだ助力を乞おうなどと。
青い顔をした奏澄の肩を、メイズが支えた。
「カスミ。巻き込むのが辛いなら、止めておけ。俺が何とかする」
頼もしい言葉に、メイズを見上げる。この人はいつだって、奏澄を尊重してくれる。助けてくれる。無理をしてでも。
自分の力が及ばない事態に、メイズは、奏澄のために白虎を頼った。
ならば、奏澄が今更、他者を巻き込みたくない、などと。
優先順位を、間違えてはいけない。このままでは、メイズは無茶をして、最悪命に関わることになる。それだけは、避けなくてはならない。
奏澄は前に進み出て、エドアルドと白虎の幹部たちに頭を下げた。
「さんざんお世話になった後で、厚かましいのは承知の上です。私にできることなら、何でもします。だからどうか、力を貸していただけないでしょうか……!」
奏澄には、このくらいしかできない。差しだせるものが何もない。だから誠意だけは、尽くしたい。
奏澄は本当に、どんな要求でも呑むつもりだった。無論それは、白虎ならば常識的な要求しかしないだろう、という前提があってのことだったが。
「えっマジで何でもいいの? じゃぁカスミちゃんハグしてもらっていい?」
能天気に両手を広げたアニクは、隣の幹部に頭を叩かれてよろけた。
「アホかお前は」
「だぁーって! せっかく何でもしてくれるって!」
「最低だな」
「ちゅーしてとか言わなかっただけえらくない!?」
「ケダモノ」
他の幹部にボコボコにされているアニクを、奏澄はぽかんとして見つめていた。
頭を抱えたエドアルドが、奏澄に声をかけた。
「うちのが馬鹿ですまん」
「あ、え、いえ。えぇと、ハグくらいなら、構いませんよ……?」
混乱のせいか、頓珍漢な回答をした奏澄を、エドアルドは渋い顔で見た。
「年頃のお嬢さんが、簡単に何でもするなどと口にするもんじゃない。それと、そういうことは連れの顔を見てから言うんだな」
奏澄はメイズの顔を見て、すぐ目を逸らした。なるほど却下だ。
「そう思い詰めずとも、俺たちは元より力を貸すつもりでここに残っていた。お前さんの口から意志が聞けた今、何の異存もない。白虎海賊団は、全面的に協力する」
「ありがとうございます。あの、本当に、できることがあれば言ってください」
「……対価が要求されないと不安か?」
言われて、奏澄は目を丸くした。そんなつもりはなかったが、確かに、そう取られてもおかしくない。これでは、彼らの善意を疑っているようだ。
「ご、ごめんなさい。そういうつもりでは」
「ああいや、いい。そうだな、なら――親愛の握手を、頼めるか」
差し出された大きな手に、奏澄は少しだけ驚いた後、笑顔で握手を交わした。
白虎は言葉通り、団をあげて協力してくれるようだった。今は主船のみで行動しているが、既に分隊にも伝令を飛ばしており、白の海域で合流する手はずらしい。
「俺たちと一緒に行動していると目立つからな。サロリオン島で落ち合おう」
四大海賊は誰もが知る所であるし、巨大な船は目を引く。セントラルに悟られぬよう、白虎海賊団とたんぽぽ海賊団は別々の航路を使い、監獄島から少し離れた島で落ち合うことにした。
いよいよ、全てに決着がつこうとしている。
本当に、元の世界に帰れるかどうかはわからない。けれども、ただのオカルトだと思われた無の海域が、手の届くところまできている。
どことなく現実感に欠けて、サロリオンまでの航海中、奏澄はずっと上の空だった。
「カスミ」
「メイズ」
船首近くでぼうっとしていたところ、後ろから声をかけられ、ふわふわとしたまま奏澄は答えた。その様子に、メイズは何かを言いたそうにしていたが、結局当たり障りのない言葉を選んだ。
「大丈夫か」
「何が?」
「……いや」
言葉少なに、メイズは奏澄の隣に立った。
沈黙が、怖くない。そう思える程度には、この人と長く一緒にいる。
このまま黙っていても良かったが、奏澄は口を開いた。どうでもいい話が、したかった。
「メイズって、煙草の臭いしないね。吸わないの?」
「……なんだ藪から棒に」
「白虎のアニクさん、煙草の臭いがしたから」
やけに奏澄に馴れ馴れしかった男を思い出し、メイズは顔を顰めた。
「うちの船、誰も吸わないよね」
「ラコットたちはたまに吸ってる」
「そうなの? 見たことない」
「まぁ船ではな」
奏澄は特に禁煙をルールにした覚えはなく、首を傾げた。
「木造船で火災は命取りだからな。よほどの馬鹿でない限り、パイプや葉巻は陸でしかやらない」
「ああ、そういうこと」
アニクから煙草の臭いがしたのは、島にいたからだろう。しかし、よほどの馬鹿、とつけるからには、もしかして船上で喫煙して火災を起こした人物でも過去にいたのだろうか。
「じゃぁ船ではずっと禁煙? 辛くない?」
「いや、噛み煙草」
「噛み煙草」
「火を使わないから、船乗りはだいたい持ってる」
「へぇ……。でもそれも見たことない気がする」
「お前がいるところじゃやらないだろ」
「そんな気にする?」
「臭いに過敏だろ」
「……そうかなぁ?」
そんなこともない、と奏澄自身は思っている。
確かに、体臭の強い傾向にある欧米人に比べて、日本人は臭いに敏感かもしれない。風呂だってできれば毎日入りたい。けれど海の上でそんなわけにもいかず、奏澄も随分と慣れた。火を使わない煙草なら、煙も出ない。それほど臭いが気になるとは思わなかった。
「メイズはやらないの?」
「……昔やってた」
「え、そうなんだ。じゃぁなんでやめたの?」
渋い顔で奏澄を見るメイズに、自分が何か言っただろうか、と奏澄は記憶を辿った。しかし思い当たることはない。
「……以前」
「うん」
「パイプの近くで咳してたことがあったろ」
奏澄は目を瞬かせた。そんなことも、あったかもしれない。すっかり忘れていたが。
そんな奏澄自身も覚えていないような出来事を、メイズは記憶していて。何も言わずに、禁煙を決めた。
おそらく噛み煙草も続ければ陸で煙を吸いたくなるから、全て断ったのだろう。彼のそういうところには、本当に脱帽する。
「メイズって、ほんと私のこと、よく見てるよね」
しみじみと感心したように告げると、照れ隠しのように髪をかき回された。
「目が離せないからだろ」
それは、どういう意味で。
ぐしゃぐしゃになった髪を直すふりをして、奏澄は顔を隠した。
どうでもいい話をしていたい。普段通りにしていたい。
今は、まだ。
約束のサロリオン島に辿り着き、たんぽぽ海賊団は白虎海賊団と秘密裏に合流した。
白虎と繋がりのある酒場にて。どうやって監獄島に乗り込むか、その作戦会議を、両団の船長と幹部たちで行っていた。
「監獄島は、三六〇度見張られている。隠密に近づくのは無理だ。だから、俺たちが囮となって、正面で騒ぎを起こす。兵力が正面に集まったタイミングで、お前たちは裏の洞窟へ向かえ」
地図を指し示しながら、エドアルドが説明する。
監獄島は西側に監獄の正面入口があり、護送船はそちらから入ることになる。監獄の裏には切り立った山があり、それを隔てて東側に洞窟があった。
洞窟は、表向きには中に有毒ガスが発生するとして封鎖されている。そのため、洞窟の前に見張りは配置されていない。東側から上陸しても、険しい山を越え、監視の目を掻い潜り、西側の監獄に辿り着くのは厳しい。東の警備は西より手薄だった。
「騒ぎって……」
「なに、無茶はしない。目的は陽動だからな。適当に引っ掻き回すだけだ」
「それで釣られるかい? いきなり白虎がセントラルに喧嘩売るなんて、何かあると思うだろ」
疑わしげなマリーに、アニクが答えた。
「のってくるさ。監獄島には、白虎の仲間も何人か捕まってるからな。実際、助け出そうとしたことも過去にはあったんだ」
その言葉に、奏澄たちは目を丸くした。道理で、監獄島の地形を把握している。
けれどそれは、逆に不安の種でもある。戦力を揃え、傷を負い、そこまでするのなら、仲間を優先したいのでは。
「優先順位を見誤ったりはしない。そこは信頼してほしい」
白虎の眼差しを受け止めて、奏澄は頷いた。
「わかりました。ご厚意に、心から感謝します」
ここまで来て、怪我をしないでくれなどと、甘えたことは言えない。奏澄にできることは、信じて、祈ることだけだ。
「オレたちの船って、そのまま入れそう?」
航海士であるライアーの疑問に、エドアルドは髭を撫でた。
「入口の大きさだけ見れば、あの船ならそのまま入れるだろうが……中はどうなっているかわからんぞ」
「小艇の方がいいんじゃねぇか?」
隠密性から考えても、小さな船の方が見つかりにくい。白虎の幹部からの提案に、ライアーは少し考えて首を振った。
「いや、戦力は分散させない方がいい。コバルト号は喫水も浅いし、行けるとこまでは行こう」
見知らぬ洞窟内となれば、操船には相当の技術が必要なはずだ。それでも、ライアーは全員が共に動くことを選んだ。
「いい航海士を持ったな」
「でしょう。うちの自慢の航海士です」
エドアルドの言葉に、奏澄は満面の笑みで胸を張った。ライアーは照れたように頬をかいた。
「では、決行は今夜」
「ご武運を」
エドアルドと奏澄は、固く握手を交わした。
*~*~*
日没後。白虎の船団に隠れる形で、コバルト号も監獄島付近まで近づく。感知されるギリギリのところでそっと離れ、待機した。白虎の船団は速度を上げて正面へと向かう。
監視圏内に入ったのだろう、島に警報が鳴り響く。それを無視して、白虎の船団は正面へ向けて、大砲を放った。
ドン!! と大きな音がして、爆炎が上がる。途端、島は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
開戦の、合図だ。
胸中で白虎の無事を祈り、コバルト号は東の洞窟へと回る。
「……ここが……」
大きな洞窟の入口を見上げて、奏澄は固唾を呑んだ。胸元のコンパスが、熱を帯びている気がする。
それをぎゅっと握りしめて、奏澄は仲間たちに告げた。
「行こう」
仲間たちは、真剣な顔で頷いた。
明かりが外に漏れないよう、ある程度進むまではほんの僅かな明かりだけを頼りに進むことになる。海底や岩の様子に気をつけながら、ライアーの指示で慎重に船を進めていく。
思ったより内部は広く、船底をこすることも、岩壁にぶつかることもなく、コバルト号はゆっくりと奥へ向かう。
ある程度進んだところで、明かりを灯していく。
「今のところ、見つかって、ないよな……?」
「多分、ね」
小声でのやり取りを聞きながら、奏澄はコンパスを取り出した。
奏澄がちらりとハリソンの方を窺うと、ハリソンは真面目な顔で頷いた。不安げな顔をする奏澄の肩を、メイズが抱いた。少しだけ、奏澄の体から力が抜ける。
奏澄は意を決したようにコンパスの蓋を外すと、中の磁針を指に刺した。僅かに走った痛みに、肩が跳ねる。指から零れ出した血を吸って、磁針が徐々に赤く染まる。その様を見て、奏澄が息を呑む。
半分ほど赤く染まった磁針はくるくると回り、やがてぴたりと止まった。磁針は赤い方が、船の進行方向を指している。その方角に何かあるのだろうか、と目を向けると、磁針から赤い光が伸びた。
「えっ!?」
誰ともなく、声を上げた。
赤い光は、奏澄を導くように、洞窟の奥へと続いていた。
「……進みましょう」
コンパスに、従うしかない。
赤い光を辿るようにして、奥へ奥へと進んでいく。
やがて、コバルト号は開けた場所に出た。天井に大きな穴が空いていて、月明かりが差している。
正面には祭壇のようなものがあり、セントラルの紋章である女神のレリーフが置かれていた。月明かりに照らされたそれは、何故だかとても幻想的で。
「……綺麗……」
奏澄は思わず、そう零していた。
「おい、ちょっと待て……なんだ、この壁……!」
焦ったような声を皮切りに、上甲板にざわめきが広がる。
暗さで気づきにくいが、周囲の壁には、あちこちに人為的な穴が空いていた。まるで、もぐらの穴のような。
「ご苦労様」
その一言で、空気が張り詰める。
良く通る、女性の声だった。柔らかいのに冷たく、色気があるのに恐ろしい。
この声に、奏澄は聞き覚えがあった。
「オリヴィア……!」
壁の穴から姿を現した彼女に、メイズがリボルバーを構えた。しかし。
「大人しくしてなさい」
すっとオリヴィアが手を上げると、壁の穴の全てに一斉に明かりが灯った。どうやら、本当にもぐらの穴同様、壁の穴全てが通路となっていて、どこかへ繋がっているようだった。
穴の中にいるのは、銃を構えた兵士たちだ。その銃は、以前セントラルで追われた時のマスケットとは違う。
――ライフルだ。
奏澄はぞっとした。四方からあれに狙われて、自分たちに抵抗する術など、無い。
震える奏澄の代わりに、メイズが構えたまま大声で問いかける。
「ここまで放っておいて、今更何の用だ」
「彼女に、資格があるとわかったから。私たちを、無の海域――いえ、『はぐれものの島』へ、案内してもらうわ」
「……どうして」
半ば呆然として、奏澄は零した。
「どうして、あなたが、行きたがるんですか。セントラルが、その島に、いったい何の用があるんですか」
「……あなた、私たちが持っているこの武器は、どこから来たのだと思う?」
オリヴィアは、ホルスターからリボルバーを取り出した。
「これは、はぐれ者の技術よ」
「え……?」
「セントラルを軍事国家として発展させたのは、あなたの世界の武器なの」
言われている言葉が、飲み込めない。あの武器が、奏澄の世界から?
「けれどこれでは足りない。セントラルは、最強の武力を持つ必要がある。だから、連れて行ってもらうわ。もっと優れた武器を、技術を、持つ島へ」
「セントラルは、今だって、世界一の大国でしょう。それ以上、強くなって、何の意味があるんですか。何のために」
「平和のために」
迷いなく答えた彼女に、奏澄は言葉を失った。
「言ったでしょう、足りないのよ。四大海賊だの、悪魔だの、そんなのがいる内は。誰も逆らおうと思わないほどの力がいるの。そうすれば、戦争なんて起こらないわ」
――駄目だ。言葉の通じる相手じゃない。
奏澄は、肌で感じていた。この人とは、根本的に考え方が異なる。
オリヴィアは、絶対的な正義を持っている。正しいと思っているから、揺るがない。言葉の応酬は無意味だ。
「もういいかしら。あなたの案内がいるから付き合ったけれど、力尽くでもいいのよ」
オリヴィアは、今のところ、奏澄たちに危害を加える発言はしていない。要求は、はぐれものの島へ案内することだけ。従っても、はぐれものの島へは行けるし、仲間たちも傷つかない。けれども。
「――嫌です」
確信がある。この人を、はぐれものの島へ、連れて行ってはいけない。
「銃で人を脅しながら口にする平和なんて、私は信じられない!」
この国の人たちは違うかもしれない。この世界の人たちは違うかもしれない。
それでも、私は。私は!
仲間たちの暮らす世界が、そんな世界であってほしくない!
「よく言った!」
「ッ!?」
パン、と発砲音がして、オリヴィアのリボルバーが弾き飛ばされた。
「え、あ……アニクさん!?」
壁の穴の一つに、銃を構えたアニクの姿があった。
「なん、なんで」
「ぐあッ!?」
目を白黒させる奏澄の耳に、次々と兵士の悲鳴が聞こえた。
周囲を見渡せば、それぞれの穴の中で、背後から斬られたり撃たれたりしている兵士の姿が見えた。アニクの足元にも一人倒れており、彼を倒してその場所を奪ったのだと見て取れた。
「船長が、妙な動きしてる奴らがいるからこっち加勢してこいってさ! まさかこんな隠し通路があったとはな」
アニクの部隊のみ、別動隊として、こちらに回されたのだろう。少数ではあるが、この狭い場所では充分だった。
オリヴィアはアニクを睨みつけた。
「あの男を撃ち落としなさい!」
「うおっと」
アニクは弾を避けようとして、まだ息のある兵を盾にしながら穴の奥へと体を引かせた。
「こっちは何とかするから、早いとこ行った方がいいぜー!」
緊迫感のないアニクの大声が、穴の中から聞こえた。
「ありがとう、ございます!」
奏澄は、負けないくらいの大声で叫んだ。
「って、どうするんだよ、カスミ。ここまで来たけど、この先はもうないぜ」
「大丈夫、わかる」
焦ったライアーの声に、奏澄は落ちついて答えた。
わかる。どうすればいいのか。コンパスが、教えてくれる。
奏澄は、コンパスから伸びる赤い光を、祭壇のレリーフへ当てた。
途端、地響きがして、洞窟内の海が真っ二つに割れていった。
「なになに!? なにこれ!?」
ライアーが慌てふためいて海を覗き込んだ。割れ目の下は、見えない。航海士の常識を覆す現象に、見るからに混乱している。
「っていうか、このままだとこの船落ち……ッ」
もう遅い。コバルト号の下は、完全な空白となった。乗組員たちを、嫌な浮遊感が襲う。
「全員、船に掴まれ!!」
メイズが大声で指示を出すと、全員が船にしがみついた。
「カスミ!」
メイズは奏澄を抱き寄せて、船端を掴み体をなるべく固定させた。
船はそのまま重力に従い、見知らぬどこかへ落下していった。
着水した、という感覚は無かった。一瞬意識が飛んで、気がつくと船は再び海面に浮かんでいた。しかし、そこは先ほどまでいた洞窟でも、監獄島付近の海でもない。周囲には霧がかかっており、薄暗いものの僅かな明るさがあった。時刻は夜であったはずだが、今は日中のように思える。空気はひやりとしており、肌寒さを感じた。
現実感の無い異様な空間に、メイズは奏澄の体を抱き寄せた。――いや、抱き寄せようと、した。
「――カスミ……?」
腕の中は、空だった。メイズの全身から、血の気が引いた。まさか。
「カスミ!!」
あらん限りの大声で叫んだが、応答が無い。心音が、耳にまで響く。
自分が、手を離すはずがない。そんなはずはないのに。
「メイズさん!」
意識を取り戻したライアーが、メイズに声をかける。
「カスミは!?」
真っ青な顔で答えないメイズに、ライアーは愕然とした。しかし、メイズの様子を見て、自分が何とかせねばと思ったのだろう。船を見渡し、仲間たちに声をかける。
「すぐに全員いるか確認しろ!」
意識を取り戻した者から名乗りを上げ、それぞれが所在を確認する。結果、全員無事だった。船長ただ一人を除いて。
「まさか、どっか吹っ飛んじまったんじゃ……」
「縁起でもねぇこと言うなよ!」
デリカシーのないラコットの発言に、レオナルドが声を荒げた。しかし完全に否定はできない。ざわつく乗組員たちをよそに、ハリソンは何かを考え込んでいる。
メイズは、周囲を気にする余裕が無かった。何故。確かに、この腕の中に、いたのに。まるで霞のように、消えてしまった。
――『でもほら、可能性の話として、いきなりこっちに来たわけだから。いきなり向こうに帰っちゃうってことも……』
いつかの言葉が、急に蘇る。思考を搔き消すように、乗組員の声が上がった。
「おい! 島があるぞ!」
その言葉に皆が目を凝らすと、霧の中にうっすらと島が見えた。それほど距離もないのに、気づかなかった。やけに存在感の曖昧な島だ。
不気味に感じながらも、コバルト号を島に寄せる。現状、ここがどこなのかの手掛かりは、この島にしかないだろう。
「ね、ねぇ……あれ、なんだろう」
呆然とした様子で、アントーニオが空中を指さした。そちらに目を向けると、島近くの海上に大きな枠が浮かんでいた。
枠、としか言いようがない。六角形のそれは、巨大な船でも潜り抜けられそうなほどの大きさをしていた。鏡のようにも見えるが、映している海は、こことは違うようだった。
明らかに異様な物質に皆が言葉を失っていると、島の方から低い男の声がした。
「あれは、窓だ」
急に割って入った声に、全員が一斉にそちらに視線を向けた。見ると、島の端に一人のガタイの良い男が立っており、メイズたちのいる船上を見上げながら、小銃を構えていた。
「お前たちは、何者だ。どうやってここへ来た」
厳しい視線からは、敵意と怯えが見て取れる。メイズが意識を研ぎ澄ますと、姿を見せている男以外にも、何人かの気配を感じた。突然現れた海賊に、警戒しているのだろう。
どうしたものか、と考えていると、マリーが身を乗り出して答えた。
「あたしたちは、『はぐれものの島』を探しているんだ。島の人間に危害を加えるつもりはないから、安心して。ここは、はぐれものの島なのかい?」
「何故、はぐれものの島を探している」
女性であるマリーの姿にも、言葉の内容にも、一切の警戒を解くことなく、島の男は再び問うた。
「あたしたちの仲間に、はぐれ者がいる。だけど、ここに来て、突然姿を消した。何か知ってるなら教えてほしい。降りて話をさせてくれないかい?」
その言葉に、男はようやく警戒以外の反応を見せた。背後を窺うようにした後、銃を下ろし、重々しく口を開いた。
「……わかった、話を聞こう」
島へは、メイズ、ライアー、マリー、ラコット、アントーニオ、レオナルド、そしてハリソンが降りることになった。皆、奏澄との関りが深い者たちだ。他の者たちも一様に心配していたが、全員が船を降りるわけにはいかない。大人数で行けば威圧することにもなる。渋々、船に残ることを了承した。
「ついてこい」
メイズたちが島へ降りると、男はそれだけ言って、黙って歩き出した。周囲の気配も、姿は見せないままだが、同じように移動する。メイズたちは、黙って従った。
暫く歩くと、小さな村が見えた。簡易な木造の家に、最低限の大きさの畑。柵で囲われた中には家畜もいた。自給自足でまかなっていると見える。一見すると技術力は低い方の部類に思えたが、見たこともないような精巧な物が無造作に転がっていたりする。見ただけでは、素材が何なのかわからないものまであった。それらは、セントラルの技術を彷彿とさせた。オリヴィアの言葉を思えば、逆なのかもしれない。
表には人の姿は見えなかったが、視線を感じた方に目を向けると、戸の隙間から顔を覗かせている子どもが見えた。子どもは母親らしき人に叱られ、すぐに顔を引っこめた。どうやら、家族単位で生活しているようだった。
「こっちだ」
男について、立ち並ぶ中でも一番大きな建物の中に入る。どうやら、寄合所のようだった。
メイズたちが全員中に入ると、その後ろから数人の男たちが入ってきた。ずっと感じていた気配の正体は彼らのようだ。出入口と、部屋の周りを固めるように広がった男たちは、老いた者も若い者も、皆武装していた。
「話を、聞こう」
先導した男は、アルフレッドと名乗った。
依然厳しい目をしたアルフレッドに、代表してメイズが一歩前へ出た。逸る気持ちを抑えるように、一度息を吐く。自分の悪い癖が出ないように。彼らは武装してはいるが、どの者も戦い慣れているようには見えない。ここで恐怖心を与えれば、何も聞き出せなくなる。それを承知しているのだろう、ラコットも腕を組んで、決して手を出さないようにしている。
メイズは平静を装って、口を開いた。
「俺たちの船長は、カスミという女だ。彼女は、自分は違う世界から来たのだと言っていた。だから、元の世界に帰る方法を探すために、無の海域にあるという『はぐれものの島』を探していた。はぐれものの島は、異界に通じているという噂がある。そこになら、彼女を故郷に帰す手掛かりがあるかもしれないからだ」
それを聞いて、アルフレッドは片眉を上げた。
「……彼女は、帰りたいと、言ったのか? 自分から?」
その反応に、今度はメイズが訝しんだ。今の話で最初に気にかかることが、何故そこなのか。
「何かおかしいのか」
メイズが聞き返すと、僅かに周囲にも動揺が広がった。下を向く者、唇を引き結ぶ者。その様子からは、語りたくないことだと読み取れる。
「彼女の出身は」
「ニホンだと、言っていた」
「ニホン……ジャパニーズか。あそこの人間は、比較的多いな。国民性なのかもしれんが」
アルフレッドが呟いた内容はメイズにはわからなかったが、口ぶりから、アルフレッドは奏澄の出身地を知っているようだった。となれば、この男はやはり奏澄と同じ世界の者なのだろう。
眉間に皺を寄せながら、考えるような間を置いて、アルフレッドは口を開いた。
「この島は、確かにお前たちが『はぐれものの島』と呼ぶ場所なのだろう。俺たちは、はぐれた。だがそれは、この世界に来てしまったからはぐれたのではない。元々、世間からはぐれた者たちが、ここに集っている」
「……どういう意味だ?」
要領を得ない言い方に、メイズが問いかける。
「この島のものに共通するのは、皆、元の世界で不要とされた――或いは、不要だと自ら思ったものたちだということだ」
その言葉に、たんぽぽ海賊団の面々は息を呑んだ。堪えきれないように、マリーが声を荒げた。
「そりゃいったいどういうことさ!」
マリーの剣幕に眉一つ動かすことなく、アルフレッドは答えた。
「この島に流れ着く物に、完全な物は一つも無い。修理をすれば使えるが、どれもどこかが壊れていたり、欠けていたりする。ここはゴミ捨て場と同じだ。要らなくなった物を、無造作に捨ておく」
あまりの言い草に、動揺が隠せない。アルフレッドは少し目を伏せて続ける。
「人間も同じだ。生きる意味を失った者。生きる気力を失った者。僅かでも死を、消失を望んだ者が、死神に背を押されてここに落とされる。世界にとって不要だと、排除されて」
「嘘だ!!」
悲鳴に近い声を上げたのは、レオナルドだ。
「母さんが、死にたいなんて、思っていたわけがない!」
「……彼は」
メイズに視線をやったアルフレッドに、レオナルドの代わりにメイズが答えた。
「あいつの母親は、カスミと同じニホンの出身だったんだ」
「そうか……。外の海域で、家庭を持った者がいたのか」
呟くように言ったアルフレッドに、ハリソンが問う。
「彼の母親は、青の海域に流れ着きました。カスミさんは、赤の海域に。この島ではなく、他の海域に流れ着いた者については、何か条件が違うのではないですか」
「いや。異世界から流れてきたものは、全てこの海域に落ちてくる。ただ稀に、窓を通って他の海域にまで流れてしまうものがある。それが、彼女たちだったんだろう」
「窓……って、あれだよな。来た時に見た、でっかいやつ」
ライアーの言葉に、アルフレッドは頷いた。
「あれは、この島を囲うように六枚ある。それぞれが、別の海域に通じている」
「それって、あの窓を潜るだけで、どの海域にも自由に行き来できるってこと?」
だとしたら、とんでもないことだ。航海の概念を覆す。ひどく驚いた様子のライアーに、アルフレッドは首を振った。
「行き来はできない。出ていくだけだ。この島のものは、基本的に全て不可逆なんだ」
「不可逆……?」
「この島に落ちたものは、元の世界に戻ることはない。この島から流れ出たものは、この島に戻ることはない。ここは向こうの世界とこちらの世界を繋ぐ通過点でしかなく、どちらにも身の置き場の無いものの溜まり場だ」
宝の島だと、夢の島だと語られていたはぐれものの島。その実態に、皆が口を噤む。
暗い空気の中で、レオナルドがぽつりと零した。
「一度全てを捨てた、って」
俯いたままのレオナルドに、皆の視線が集まる。
「カスミが、読んでくれた。母さんの言葉。一度全てを捨てたって、書いてあった。それが、もしかしたら、あんたの言う『死を望んだ』ってやつなのかもしれない」
カスミ以外は、サクラのメッセージを知らない。ハリソンが、そっと肩に手を置こうとした。
「でも」
レオナルドが、顔を上げる。その瞳は、強い意志を宿していた。
「その後に、こう書いてあった。『全てを与えてくれた』って。俺たち家族を、『愛している』って。母さんは、この世界で、ちゃんと前を向いて生きていた。生きる理由を、持っていた。不要な存在なんかじゃない! 暗い顔で俯いて生きてるような、あんたたちとは違う!」
レオナルドの叫びに、島の者たちが怯んだ。違う、と言えないのだろう。この島の閉鎖的な空気。余所者に対する異常な警戒。この小さなコミュニティで、彼らは何を思って生きているのだろうか。
「カスミも、そうだったよ」
僅かに震える声で発言したのは、アントーニオだった。内気な彼が、こういった場で声を上げるのは珍しい。
「カスミも、できることに一生懸命だった。むしろ、閉じこもってしまっていたぼくを、引っ張り出してくれた。ぼくは彼女のおかげで、広い世界を見ることができたんだ。ぼくも必要とされてるって、思えたんだよ。彼女はぼくにとって、ぼくらにとって、かけがえのない存在なんだ」
緊張からか、息を切らせたアントーニオの背中を、ラコットが叩いた。そして、島の者たちを見渡す。
「この島は、通過点だって言ったよな。お前らは、外に出ようとは思わなかったのか? こんな辛気臭い場所から飛び出して、新しい人生を生きようって思わなかったのかよ」
「知ったような口を……!」
苛立ったように踏み出した若者を、アルフレッドが制した。
「この島の者たちは、皆傷を負った者たちだ。前を向く気力が、持てない者もいる。残っている者たちは、それぞれに傷が癒えるまで、支え合って生きている。馴れ合いだと言われても構わない。誰もが、明るい場所で生きられるわけじゃない」
その言葉が、メイズには理解できた。誰もが光の当たる場所で生きられるわけじゃない。それを望んでいるとも限らない。その場所が幸せなのだと、どうして他人が決めることができようか。暗闇を必要とする者も、それと寄り添うことでしか生きられない者も、確かに存在するのだ。
「あんたたちの生き方に、口を出す気は無い。問題は、それが事実なら、カスミは元の世界には帰れないということだな? ならどこに姿を消した」
問い詰めるような口調のメイズに、アルフレッドは考え込んだ。
「本来なら、流れは不可逆だ。だが、どういう手段か知らないが、お前たちはこの島へ訪れた。こちらから向こうへの道を開いた。お前たちはこの世界の住人で、この世界にとって『不要なもの』ではないから、この島に留まっているのだろう。しかし、彼女はもともと向こうの人間だ。彼女がお前たちの言うように変化し、向こうの世界にとって『必要なもの』になったのだとしたら、今度はこちらの世界に『不要なもの』として向こうに流れた可能性は高いだろう」
メイズは、言われた言葉が理解できなかった。理解することを、脳が拒んだ。
――カスミが、帰った?
「……ッふざけるな!」
大声を上げたメイズに、島の者たちが怯えた。しかし、感情を抑えることができなかった。
「あいつが変わったのだとしたら、それはこの世界で生きるために変わったんじゃないのか! 要らないと追い出しておいて、今更元に戻すのか!」
帰りたいと、言っていた。帰りたい理由が、あるのだと思っていた。残してきたものが。会いたい人が。居場所が、あるのだと思っていた。だから協力した。自分の心を、押し殺すことができた。
だが、そうでないのなら。彼女を拒んだ世界なら。彼女が、消失を望むほどの何かがあったのだとしたら。
そんな場所に、帰してなどやるものか。
荒い息を吐くメイズに、仲間たちは誰も声をかけられなかった。しかし、アルフレッドは、落ちついた様子で言った。
「元の世界に帰るために、この島まで来たのだろう。彼女自身が、それを願ったのだろう。なら、望みは達成されたのではないか」
メイズは歯を食いしばった。その通りだ。奏澄自身が望んだことだ。メイズの怒りは、メイズのエゴだ。彼女の意志とは関係無い。だとしても。
それの、何が悪い。
メイズは、奏澄のエゴで救われた。メイズが拒んでも、彼女は手を離さなかった。
今度は、自分が。
「帰ったという確証は無いんだろう。この島を探させてもらう」
「……島を荒らさないのなら、好きにするといい」
アルフレッドの返答を聞き、メイズは乱暴に扉を開け、外へと出ていった。
「メイズさん!」
焦ったように、ライアーが後を追いかける。ハリソンがアルフレッドに向かって一度頭を下げ、残りの仲間たちも寄合所を出ていった。
メイズはライアーが付いているからと、他の者たちは一度船に戻り、たんぽぽ海賊団総出で奏澄の捜索を行った。しかし、島のどこにも、彼女の姿はなかった。
霧で太陽の明るさはわかりにくかったが、それでも完全に日が落ちれば夜の闇に包まれた。夜間の捜索は危険だからと、乗組員たちは全員船に戻った。島には宿泊施設は無い。尋ねればどこか場所を借りられたかもしれないが、誰もそんな気にはなれなかった。
寄合所にいた面々は、再び船の会議室に集まっていた。ライアーに引きずられる形で船に戻ったメイズは、仏頂面で腕を組んでいた。
皆の顔を見れば、成果が無かったことなど一目瞭然だ。だが、誰もそれを言い出せずにいた。
空気に耐えかねて、ライアーが努めて明るく声を発した。
「ま、まだ初日だしさ! 明日も探そうぜ! もしかしたら、どっかからひょっこり出てくるかもしんないし」
それがただの希望的観測でしかないことは、わかっていた。この島はそう広くない。急に、見つかることなど。
「……彼女は、元の世界に帰ったと。そう考えるのが、妥当でしょう」
「ハリソン先生」
「目を逸らしても始まりません。その前提で、我々は身の振り方を考えるべきです」
最年長でもあり、奏澄との付き合いも一番浅いハリソンは、この中では最も冷静に物事を捉えていた。彼の言うことは正しい。メイズは目を閉じて、深く息を吐いた。
「……そうだな」
反発すると思われたメイズの落ちついた様子に、皆が驚きを露わにした。
「あいつは、元の世界に帰ったんだろう。もう二度と、この世界に来ることは無いかもしれない」
突きつけられる事実に、唇を噛む者、泣きそうに瞳を揺らす者、反応は様々だが、皆悲痛の表情をした。突然の別離を、急に受け入れる方が難しいだろう。メイズとて、同じこと。だから。
「その上で、俺はこの島でカスミを待つ」
告げられた言葉に、皆が言葉を失った。戸惑うように、マリーが零す。
「待つ……って、カスミは、もう」
「わかってる。それでも、万に一つでも可能性があるなら、俺はここを離れるわけにはいかない。俺には、あいつだけが生きる理由だ。そういう意味では、この島の連中と同じだな」
もしかしたら、生きる意味を失ってこの世界に不要とされたら、奏澄と同じ場所へ行けるもかもしれない、などと。馬鹿な妄想に、メイズは自嘲した。
メイズは、奏澄のためだけに生きている。彼女が故郷へ帰れたのだというのなら、もはや生きる意味も無い。海への執着も無い。
けれど、もしも。ほんの僅かでも、彼女がまだこの世界にいる可能性があるのだとしたら。或いは、戻ってくる可能性があるのだとしたら。
彼女の、帰る場所でなくてはならない。彼女が、自分を見つけられるように。
奏澄はきっと、メイズを探すだろう。どれだけ困難でも、探すだろう。その確信がある。
だから自分は。ここで、彼女を待つ。いつまでも。いつまででも。永遠に、その時が訪れなかったとしても。
「今日はもう遅い。お前たちがどうするのかは、一晩ゆっくり考えろ」
「どうするって、オレだってもちろん、カスミを待って」
「焦って決めるな。二度と戻らない可能性の方が高いんだぞ。この島にお前を縛りつけることを、あいつが望むと思うか」
メイズの返答に、ライアーは歯噛みした。ライアーは、メイズの次に奏澄との付き合いが長い。割り切ることは、できないだろう。それでも。
この海賊団の目的は、奏澄だった。彼女が楔だった。その彼女がいなくなったのなら、もはや集う意味さえ無い。
彼らには、帰る場所がある。それを放り出してまで、不確かな自分のために時間を使うことを、彼女は良しとしないだろう。
残りの人生全てを捧げる覚悟でなければ、この島に留まることはできない。
それぞれが複雑そうにしながらも、その場は一度解散となった。
メイズは会議室を出て自室まで向かい、隣の部屋に目をやった。少し考えて、メイズはドアに手をかけ、ためらいがちに開いた。
主のいない部屋が、メイズを迎えた。奏澄の姿は無いのに、香りだけが、僅かに残っている。
静かに足を踏み入れて、部屋を見渡した。彼女の部屋は、綺麗に整理されている。持ち物が少ないのだろう。帰郷を前提としていたから、彼女は私物をあまり増やさなかった。
目についた机の引き出しを開けると、冊子が二冊入っていた。一つは、航海日誌。これは、メイズも見たことがある。めくれば、事務的な内容が淡々と記載されていた。顔に似合わず、こういうところがある、とメイズは軽く息を漏らした。
もう一冊は、個人的な日記だろう。つけている、と聞いたことはあるが、中身を見たことはなかった。メイズは逡巡しながらも、それを手に取ってめくった。と同時に、拍子抜けした。中身は読めなかった。これは、奏澄の故郷の文字だろう。読めもしないのになんとなく文字を目で追って、気づいた。一つだけ、読める単語がある。
「俺の、名前……」
奏澄に文字を教えていた時に、興味本位で聞いたことがあった。奏澄の名前は、故郷の文字でどう書くのかと。その時に彼女は、メイズの名前も教えてくれた。メイズが覚えた文字は、彼女の名前と、自分の名前。それだけだ。
それが、書かれていた。一つ、二つ、数えていくうちに、胸が詰まる。
全てのページに、その文字が、ある。
「――……」
言葉にならない感情を押し込めるように。口元を、手で覆った。
夜が明けても薄暗く見通しの悪い景色は、皆の心情を表しているようだった。コバルト号の上甲板には、全ての乗組員が集まっていた。皆、心は決まったのだろう。最初に、マリーが口を開いた。
「あたしたちドロール商会は、アルメイシャに戻るよ。あたしは、商会長だしね。やっぱり自分の商会を放っておくわけにはいかない」
一晩、話し合った結果なのだろう。マリーの後ろに立つ商会員たちも、同意の様子だった。
「ぼくも、カラルタンに戻ろうと思う。カスミには、勇気をたくさん貰ったから。今なら、店のみんなとも、違う向き合い方ができる気がするんだ」
眉を下げて、アントーニオは微笑んだ。
「俺たちもカラルタンに戻るぜ。ここには戦えそうな奴もいないしな。アントーニオ一人で帰すのもなんか心配だし、ついてってやるよ」
ラコットが、アントーニオの肩に腕を回しながら言う。それを、舎弟たちは苦笑しながら見ていた。
「俺は、暫くこの島に残ろうと思う」
真っすぐなレオナルドの目を、メイズが見返す。
「カスミをいつまでも待つ、ってわけにはいかない。ヴェネリーアには、ちゃんと帰る。あの工房は……母さんと、親父と過ごした場所だから。俺に、遺してくれたものだから。だけど、俺はこの島のことをもっと知りたい。あの人たちの話も、ちゃんと聞いてみたい。だから、少しの間ここにいるよ。窓を通れば、帰るのはいつでもできるみたいだしさ」
奏澄の帰還を期待してのものなら、止めただろう。ずるずると居残ってしまい、踏ん切りがつかなくなる可能性があるからだ。しかし、明確な目的を持って、短期間のみと定めているのなら。それもまた、彼の道だろう。
「私も、この島に残ります」
意外な申告に、皆が目を丸くしてハリソンを見た。
「白虎は、いいのか」
監獄島へ突入するのを手伝ってもらったきり、そのまま別れてしまった。彼らがあの後どうなったのか、気にならないはずがない。
ハリソンは、奏澄のためにたんぽぽ海賊団へ移籍した。その彼女がいないのなら、白虎に戻るとばかり思っていた。
メイズの問いかけに、ハリソンは緩やかに微笑んだ。
「あの人たちなら心配要りませんよ。長い付き合いですから、わかります。同じように、白虎の皆も、私のことをわかっているでしょう」
仲間たちを思い返すように、ハリソンは一度目を伏せた。そしてメイズに向けて、言葉を続ける。
「言ったでしょう。私が最も必要とされる場所に、身を置いていたいと。聞けば、この島には医者がいないそうです。交易の無いこの島では、薬を手に入れることも困難でしょう。できる限りのことを、したいのです。この島なら、セントラルにもそうそう見つかりませんしね」
穏やかな笑みを浮かべたハリソンは、偽りを述べているようには見えなかった。彼らには彼らの、信頼関係がある。ハリソンの信念に基づく決断なら、口を挟む理由も無い。
残るは、ライアーのみ。未だ迷いが残る様子で手に持った布を握りしめた彼に、メイズは急かすこともなく、ただ視線を向けた。ライアーは、途切れ途切れに言葉を吐き出した。
「オレ、は。カスミのことも、もちろん、心配だけど。ずっと、アンタたちに、笑ってて欲しいって。二人が幸せになることが、オレの、願いだったんだよ」
ライアーは、手に持った布をメイズの胸元に叩きつけた。
「オレは帰る。でもメイズさんは、ちゃんとカスミのこと、待ってろよ! 途中で諦めたり、腐ったりしないで。戻ってきたカスミが悲しまないように、アンタちゃんと生きてろよ!」
強い言葉で言い切ったライアーは、うっすらと涙を浮かべていた。メイズが押し付けられた布を受け取ると、それは海賊旗だった。掲げるべき人を失って、外されたもの。
「それ、カスミが戻ってきたら渡してください。それはカスミの物だから。んで、できれば、また海に出てくださいよ。二人で」
この旗に、どれほどの願いが込められているか。メイズはそれを受け取って、ごく自然と言葉が口をついて出た。
「会いに行く」
ライアーが目を瞠った。
「カスミが戻ってきたら、二人で会いに行く。約束する」
仲間と、約束など。初めてかもしれない。こんな言葉は信用されないかもしれない。それでも、しっかりと目を合わせたメイズに、ライアーは僅かに唇を震わせた後、明るい笑みを見せた。
「ちょっとちょっと、ライアーだけかい?」
茶化すように割って入ったマリーの言葉に、メイズは微笑した。そして、仲間たちの顔を見渡す。
「カスミが戻ったら、お前たちに、必ず会いに行く。約束だ」
その言葉に、全員が笑顔で答えた。
*~*~*
奏澄が目を覚ますと、暗い闇の中にいた。右も左もわからない中で、それでも体を横たえていたのだから地面はあるのだろう。地面らしき場所に手をついて、だるさが残る体を起こした。
すると、ぼうっと光るものが目の前に現れた。明るさに慣れない目を数回しっかりと瞬かせると、それはどうやら変わった形の窓のようだった。六角形のそれは、姿見程度の大きさだった。奏澄がそれを鏡ではなく窓だと認識したのは、映っているのが自分の姿ではなく、見慣れた景色だったからだ。
「どうして……」
呆然として、言葉を零した。窓の中に映るのは、かつて自分がよく通った場所。元いた世界の、海の見える高台だった。
震える手を伸ばして窓に触れると、とぷん、と水のような感触がして、手が窓の向こうまで入っていった。驚きに、すぐさま手を引っこめる。心臓が、早鐘を打っている。
この窓の向こうは、元の世界だ。
帰れる。ようやっと、自分の世界に。長く続いた航海の目的が、目の前に。
だというのに、どうしたことか。奏澄の胸には、歓喜も、安堵も無かった。ただ困惑と、後悔があった。
メイズに、何も言わずに来てしまった。
別れの言葉一つ、告げられなかった。心の準備をする暇も無かった。こんなに、急に。
考えたところで、奏澄は俯いた。急ではない。帰ると、そう言って旅をしていたのだから。コンパスを使えば、はぐれものの島に辿り着けるだろうと、元の世界に帰る手掛かりが掴めると、わかっていて行動したのだから。結果は変わらなかったはずだ。それが少し、早まっただけ。
向き合うことを恐れて、後回しにしたのは奏澄だ。
「――……」
目から熱いものが流れ落ちて、奏澄は顔を覆った。わかっていた。別れが来ることは。自分がそれを選択したのだから。
帰らなければいけないと、思っていた。自分が在るべき場所に。それは義務感にも近かった。自分を形作ったものがある。世話になった人たちがいる。その恩を、返し切れていない。
だというのに。それより大切なものが、できてしまった。残してきたもの全てを放り投げてでも、ただ一つ、守りたいと思うものが。
本当は、途中から帰りたい気持ちは失せていた。でもそんな無責任なことは、口が裂けても言えなかった。
奏澄を元の世界に帰すために、メイズはずっと大変な思いをしてきた。仲間たちも、その願いを叶えるために、力を尽くしてくれた。他にも、奏澄のために、力を貸してくれた人たちがいる。彼らを大切に思えばこそ。自分の勝手で振り回すことなど。
言えなかった。メイズは、奏澄が元の世界に帰るまでの護衛だったから。もういいと、帰らなくていいと言ってしまえば、彼に守ってもらう理由は無くなる。
怖かった。メイズは、自分に引け目を感じている節があったから。奏澄が仲間を得て、生きる術を手に入れて、危険が無くなり、航海の必要が無くなれば。自分を、不要だと思ってしまうのではないかと。奏澄がどこか安心して暮らせる場所を用意して、姿を消してしまうのではないかと。航海を続けることでしか、彼を自分に繋ぎとめておくことができなかった。
メイズがどこかで幸せになってくれれば。それでもいいと、思ったこともあった。彼を偶像化して一線引くことで、自分が傷つくことのない、安全な場所から彼の幸福を願った。
無理だ。
今なら言える。彼を幸せにできるとしたら、自分だけだと。
玄武に襲われた時、本気で失うかもしれないと思った。そうしてやっと気づいた。どうしても、この人を失いたくないと。見える所にいてほしい。手の届く所にいてほしい。できれば笑っていてほしい。この人を、幸せに、してあげたい。
メイズは自分の幸せを二の次にしてしまう。その彼に、自身の幸福を考えさせようというのなら。メイズを誰よりも大切に思う人間が必要だ。奏澄が、必要だ。例え彼自身が、拒んだとしても。
メイズには、あれほど傍にいろ、と言っておいて。どうして、相手も同じかもしれないとは、考えなかったのだろう。どうして、自分も同じように渇望されていると、信じられなかったのだろう。帰郷を目的とする奏澄に対して、メイズが口に出せるはずがなかったのに。
「ごめんなさい……」
帰らなければと。そればかりで、メイズに対する気持ちをごまかしてきた。好きになってはいけない人だと、無意識に歯止めをかけていた。今の関係を壊すのが怖くて、気持ちを伝える勇気が無かった。失ってしまえば、戻らないのに。
「会いたい」
今更、もう遅い。それでも、口にせずにはいられなかった。
「メイズに、会いたい……っ!」
何も要らない。二度と元の世界に帰れなくてもいい。恩知らずだと、罵られてもいい。
どうか、あの人の傍にいさせて。あの弱くて寂しい人を、この先ずっと、守ってあげたい。
涙を流し続ける奏澄の背後に、ぼうっと明かりが灯った。驚いて振り返ると、そこには正面にある窓と同じ、六角形の窓があった。
全く同じものかと思われたが、違う。映している景色は、霧のかかったどこかの島。小さく、コバルト号が見える。
「これ……」
メイズのいる、世界だ。
奏澄は呆然と、その窓を覗き込んだ。
片方は、生まれ育った世界。片方は、仲間と旅した世界。
どちらかを、選べということだろうか。
奏澄は黙って、高台の見える窓の前に立った。そして目を閉じて、深く、深く頭を下げた。
今までの人生に、感謝を。残していくものに、謝罪を。
暫くそうしてからゆっくりと顔を上げ、霧の島の窓の前に立ち、向こうを見据えた。
この窓を越えれば、もう二度と、元の世界には帰れないだろう。
それでも。
「!」
とん、と何かに背を押された。ぐらりと、奏澄の体が傾いて、霧の中へ倒れ込んでいく。
「――ありがとう」
奏澄は、見えざる手に礼を告げた。
その手は、優しかった。もしかしたら、背中を押してくれる存在なのかもしれない。
新しい人生へ、踏み出すための。
暗闇の向こうに、優しい女性の微笑みが見えた気がした。
「――――……」
波の音が聞こえる。潮の香りがする。
薄暗い中で、意識が浮上する。また気を失っていたのだと、奏澄はこめかみを押さえながら体を起こした。パラパラと砂が落ちて、どうやら砂浜に倒れていたらしい、ということに気づく。
立ち上がって服の砂を叩くと、すぐ近くに船があることに気づく。コバルト号だ、と奏澄はほっとした。海に浮かべられているのではなく、傾船修理の時と同じように、浜に傾けて置かれていた。直後、違和感に眉を顰めた。
古びた臭いがする。長期間、帆が張られた様子が無い。奏澄はぐるりと歩いて船を見て回った。細部を見れば、全く人の手が入らずに放置されている、というわけでもないようだ。しかし思った通り、この船は暫く航海に出た形跡が無い。
マストを見上げれば、いつもそこに掲げられていた海賊旗は無かった。だが、これは奏澄と一緒に航海をしてきた、コバルト号だ。それは間違いない。奏澄は、不安に襲われた。
使われていない船。仲間たちがいる様子もない。もうこれは、奏澄の船ではないのではないか。奏澄がいなくなったことで、団は解散し、船を手放したのではないか。
奏澄にとっては、仲間たちと別れてから、それほど長い時間は経っていない。しかし、あの窓のあった不思議な空間に、どれほどいたのかわからない。この船の状態を見れば、あれから幾ばくかの時間が流れているのではないだろうか。
もうここに、仲間がいないのだとしたら。誰も奏澄を、待ってなどいないのだとしたら。
過ぎった考えを頭を振って追い払った。深呼吸をして、言葉に出す。
「メイズが、待ってる」
待っている。メイズは。彼だけは、必ず。
他の誰がいなくなったとしても、メイズとは、絶対の約束がある。 彼はその約束を、決して違えない。奏澄が、ちゃんと元の世界に帰ったのだと。その確信が持てていなければ、きっと。彼が待ってさえいてくれるのなら、奏澄はどこへだって会いに行く。
奏澄は船に背を向けて、島に足を踏み入れた。しかし、霧の漂うその島は見通しも悪く、奏澄の恐怖心を煽った。ここがどこだかわからない。誰がいるかもわからない。どちらに行けば、人のいる場所へ辿り着けるのか。
初めてこの世界へ来た時と同じだ。それでも、あの時より恐怖は無い。
会いたい人が。帰りたい場所が。居場所があると、知っているから。
奏澄は大きく息を吸って、歌い出した。この世界で初めて歌う、愛の歌を。
暖炉の火だと、言ってくれた。それなら、どうか。明かりを、灯して。私を見つけて。
歌なら、ただ呼びかけるよりも遠くまで声が届く。不思議に思った島民が、見に来るかもしれない。そうしたら、案内してもらえばいい。二、三曲歌って誰も来なかったら、とりあえず中心部を目指して歩いてみよう。
そう考えながらも、奏澄はどこかで期待していた。この歌を聞いて、メイズが自分を見つけてくれることを。
さすがにそれは都合が良すぎるだろうか、と歌いながら表情だけで苦笑して。草むらが揺れる音に、目を向ける。霧の向こうに、人影がある。思惑通りにいったことにほっとして、歌を止め人影の方に足を向けた。
「すみません、ここ……って……」
声をかけながら、はっきりと見えてきた姿に、足を止めた。
「……メイズ?」
見慣れた姿に、息が止まる。メイズは幽霊でも見るような顔で、呆然と立ち尽くしていた。
じわじわと、嬉しさと、愛しさと、色々なものが込み上げて。涙で霞む視界のまま、奏澄は勢いよく駆け出した。
「……ッメイズ!!」
なりふり構わず思い切り叫んで、走った勢いのまま飛び込んだ。固まっていたメイズは、その勢いを受け止めきれず、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
「メイズ! メイズ!」
「……カ、スミ……?」
泣きながら名前を呼び続ける奏澄に、メイズは信じられないような声を漏らした。震える彼の手は、奏澄を抱き締めようとする形のまま、宙に浮いている。
「本当、に、本物か?」
幻覚の類だと思っているのかもしれない。触れたら、消えてしまうのではないかと。その不安を払拭するように、奏澄は泣きじゃくりながらも、メイズの首に腕を回して、ぎゅうとしがみついた。
「私だよ、カスミだよ! メイズ、ただいま!」
奏澄の言葉にメイズは息を呑み、そして奏澄を抱え込むような形で、強く抱き締めた。
「……ッ、カスミ……!」
奏澄と同じように、何度も何度も、名前を呼んで。その存在を確かめるように、きつく抱き締めた。その声色から、メイズも泣いていることが窺えて。苦しさは心地良くすらあった。奏澄は泣きながら笑った。
暫くそうして、メイズが名残惜しそうにしながらも少しだけ体を離し、額を合わせた。その目に涙は無かったが、目元が少しだけ赤くなっているのを見て、奏澄は微笑んだ。
「おかえり、カスミ」
「うん。ただいま、メイズ」
その言葉に、ここが、この腕の中が、帰る場所なのだと。メイズも同じように、思ってくれていたのだと。そう感じられて、胸が温かくなった。
「そうだ、メイズ。他のみんなは? どうなったのか、聞いてもいい?」
「ああ……。お前がいなくなって、もう一年以上経つからな。順に話す」
一年以上。頭の中で繰り返して、奏澄は目を見開いた。
「一年!?」
「そうだ。お前の方では違うのか?」
言われて、奏澄は目を逸らした。奏澄にとっては、つい先ほどのことだ。だが、そうとは言いづらい。
一年。であれば、メイズの反応は納得だ。しかし、あれだけの再会劇をかましておいて、自分の方は今さっき別れたばかりです、と言ってしまうのはあまりに恥ずかしい。奏澄の方でも、大きな決断をしたり、心境の変化があったりと、言い訳はしたいところなのだが、メイズの耐えた時間と比べてしまうと。
「時間の流れが、ちょっと、違うみたい?」
「そうか。まぁ、いい。歩きながら話そう」
ごまかした奏澄をさして気にすることもなく、メイズは立ち上がって、奏澄に手を差し伸べた。奏澄がその手を取って立ち上がると、逆の手を繋ぎ直し、手を引いて歩き出す。メイズの方から手を繋がれたことに驚いたが、しっかりと握られた手に、奏澄は申し訳なさを感じた。これはきっと、奏澄が急に姿を消したせいだ。また消えてしまうのではと、怯えているのかもしれない。
奏澄は繋がれた手をもぞもぞと動かして、指を五本全て絡めた。そして、ぎゅっと握り返す。決して離れないと、伝わるように。
歩きながら、奏澄はこの一年のことをメイズから聞いていた。
ここが、はぐれものの島であること。奏澄は元の世界に帰ったと、皆が判断したこと。そのため、一部を除いて自分たちの居場所に帰ったこと。いつか再び海へ出る時のため、コバルト号は置いていったこと。メイズは村に間借りしていて、船では生活していないこと。
レオナルドは三ヶ月ほど島にいて、島民の話を聞いたり、島の物を分解したり修理したりと研究していたようだが、その後ヴェネリーアに戻ったそうだ。
ハリソンは、今も村で診療所を開いている。だが、一人ではなく助手を雇い、自分に何かあっても島の人間を治療できるように、医学を教えているらしい。
まずはハリソンに顔を見せに行こう、と二人は診療所の戸を叩いた。
奏澄の姿を見たハリソンは大きく驚いて、次に二人の繋がれた手を見て、表情を緩めた。
「おかえりなさい、カスミさん」
「ただいま、ハリソン先生」
深く聞かずにそれだけ言ったハリソンに、奏澄は紳士ぶりは健在だと思いながら微笑んだ。
「カスミさん。あのコンパスは、どうなりましたか?」
「え? あ、あれは、まだ持ってます」
奏澄は首から下げたコンパスを、襟元から取り出した。
「ただ、針の色は戻ってしまったんですけど」
奏澄の血で赤く染まっていた磁針は、元通りの鉄の色に戻っていた。
それを眺めて、ハリソンは何かを考える目をした。
「それは、もうあなたの物です。元の世界に戻るつもりがなくても、今後も持っていると良いでしょう」
「……はい、そうします」
正直、このコンパスはトラブルの元になるのではないかと思っているのだが。こっそりセントラルに返すわけにもいかないし、オリヴィアの言葉を思い返せば、返したいとも思わない。ハリソンが持っていた方が良いと言うのであれば、何か意味があるのだろう。そう考えた奏澄は、今後もこれを肌身離さず首から下げていようと決めた。
診療所を出て、今度は一軒の家を訪れた。中から出てきたのは、アルフレッドだ。奏澄は彼のことを知らないので、一歩下がった位置で頭を下げた。
「彼女は」
「彼女が、以前話したカスミだ」
「……戻ってきたのか」
アルフレッドは、心底驚いた様子だった。複雑な表情で自分を見つめるアルフレッドに、奏澄は居心地の悪さを感じ、身じろぎした。
「待ち人が戻ってきたということは、お前はこの島を出ていくんだな」
「そうなる。長い間、世話になった」
「お前たちには、俺たちも随分刺激を貰った。今夜は、祝いの席を設けよう。大したことはできないが、送別だ」
「感謝する」
短いやり取りではあるが、関係は悪くなさそうだ。メイズはこの村で、それなりにうまくやっていたのだろう。そのことに、奏澄は少しだけ寂しさを覚えていた。自分がいなくても、メイズは普通の人たちと普通に暮らしていける。それは、良いことだ。寂しいと思うのは、あまりに自分勝手だろう。その気持ちには、蓋をした。
夜までの時間、奏澄たちは船の準備をすることにした。予想通り、たまに手は入れていたようだった。島の人間も手伝ってくれていたらしい。最低限航海をするのに問題は無いということで、荷物の積み込みや簡単な点検を行えば出航できる。
コバルト号に乗り込んだ奏澄に、メイズは一枚の布を手渡した。
「これ……」
広げると、それは見慣れた海賊旗だった。
「ライアーから、お前が戻ったら渡すように頼まれた」
「ライアーが……」
彼の描いたたんぽぽを眺め、奏澄はそれを大切に抱き締めた。
自分が戻ることを。メイズ以外にも、望んでくれていた。
「お前が戻ったら会いに行くと、あいつらと約束している」
その言葉に、奏澄は驚いてメイズを見た。メイズが、仲間と、約束を。
「一緒に会いに行くだろ?」
「――もちろん!」
たんぽぽが咲くような笑顔で、奏澄は答えた。
夜になると、寄合所でささやかな送別会が行われた。島の人間たちは控えめな性格が多く、大騒ぎになるようなことはなかったが、それでも穏やかに食事や酒を楽しんだ。奏澄と同じ日本出身の島民にも会うことができ、奏澄は久方ぶりに故郷の話に花を咲かせた。
夜も更けてきたところで会はお開きになり、二人は島民たちに礼を告げ、退席した。
メイズは自分が間借りしている部屋に奏澄を案内すると、ベッドに座らせた。
「それ使え。俺は別の場所で寝る」
「え、なんで? 一緒に寝ようよ」
当然のように言って、奏澄はメイズの服を引いた。今までも、何度も一緒に寝ていたことはあった。特に今日は、離れたくない。そう思っての行動だったが、メイズの方は非常に複雑そうな顔をした後、目を逸らした。
「……今日は、駄目だ」
「なんで? こういうの、嫌になった?」
拒絶されたことに、泣きそうな声が出てしまった。再会してからのメイズの態度を思えば、嫌われたとは思わない。思わないが、以前ほど近い距離にいるのは、嫌だということだろうか。離れている間に、彼の方は、何か心境が変化してしまったのだろうか。
訴えかけるような奏澄の視線に、メイズは苦虫を噛み潰したような顔をした後、片手で顔を覆った。
「今日は、何もしない、自信が無い」
言われた内容が予想外すぎて、奏澄は口を開けた。
「明日からは、ちゃんとする。以前の俺と同じに戻る。だから、今日だけは勘弁してくれ」
言い逃げるように部屋を出ていこうとするメイズに、奏澄は全力で服を引っ張った。
「待って待って待って!」
「放せ」
「なんで!? 今まで一回だってそんなの言ったことないじゃない!」
「そりゃ今までは……」
言いかけて、メイズが口を噤んだ。そして、おそらく言おうとしていたこととは別のことを口に出した。
「人のこと毛布扱いする奴に言われたくない」
確かに。メイズのことを、先に安心毛布などと言い出したのは奏澄だ。しかし、メイズの方だって、一度として奏澄を女性として意識しているような発言をしたことはなかった。女として扱われなかったわけではないが、彼自身が、そういう対象として見たことがある、などと。
聞きたい。自分のことを、どう思っているのか。少しでも、異性として意識してくれているのか。喉まで出かかった言葉を、奏澄はぐっと堪えた。それを先に聞き出すのは卑怯だ。奏澄は、もう一度メイズに会えたら、今度こそ素直に気持ちを伝えると決めていた。そのタイミングは、今なのではないだろうか。
「メイズ、ちょっと、話させて」
渋るメイズを無理やりベッドに座らせ、奏澄はメイズと向き合った。
「えっと……メイズが一年どうしてたかは、聞いたけど。私が消えた後何があったか、ちゃんと話してなかったよね」
どう説明したものか。奏澄は一度目を閉じて、あの空間を思い出した。
「船が落ちた後、私はみんなとは違うところに飛ばされて……そこから、多分、帰れたの。元の世界に」
メイズは黙って話を聞いている。何を考えているのか、表情からは読み取れない。
「でも、帰らなかった。私は、私の意志で、この世界に残ることを選んだの」
怖い。指先が震える。それでも、伝えなければ、何も変わらない。
奏澄は自分の手をメイズの手に重ねて、まっすぐ視線を合わせた。
「メイズのことが、好きだから」
海の瞳が、揺れる。メイズの瞳に、奏澄が映っている。そのことが、泣きそうなほどに嬉しい。
「今までずっと、私を帰すために頑張ってくれたのに、ごめんなさい。自分勝手なことしたってわかってる。それでも、どうしても、もう一度メイズに会いたかった。メイズじゃないと、ダメなの。あなたと一緒に生きたいの」
メイズの口元が、何かを言おうと、僅かに動く。ぎゅっと眉が寄って、その表情は苦しげにすら見えた。
「お前のそれは、親愛の情だろ。俺が一番近くにいたから、勘違いしてるだけだ」
「勘違いなんかじゃない!」
奏澄は思わず声を荒げた。自分の気持ちが迷惑なら、それでも構わない。けれど、奏澄の気持ちを、否定しないでほしい。その気持ちだけで、この世界に戻ってきたというのに。
「お前、それがどういうことか、わかってるのか」
「馬鹿にしないでよ。子どもじゃないんだから」
「――本当に?」
言って、メイズは重ねていた奏澄の手を取った。支えをなくした上体を押されて、奏澄の体がベッドに沈む。ふっと影が差して、見上げた視界に映るメイズの表情に、奏澄は息を呑んだ。その瞳にちらつくものに、うなじがちりりとした。途端、心臓が早鐘を打つ。本能的に、体が硬直した。
「ほら。わかってなかっただろ」
覆いかぶさった体勢のまま、メイズが言った。その声は、何故だか泣きそうに聞こえた。
「び、っくり、くらいは、するでしょ」
「無理するな。怯えてるくせに」
怯えている、わけではない。ただ、メイズの視線はさすが海賊というか、独特の威圧感があって、完全に捕食者にしか見えなかった。蛇に睨まれた蛙の気分になる。
けれど、何故だろう。今、圧倒的に優位なのはメイズの方なのに。何故彼は。
「メイズは、何に怯えてるの」
奏澄の言葉に、メイズは目を瞠った。奏澄は手を伸ばして、メイズの頬を包んだ。
「何が怖いの。私が、怖いの?」
メイズの表情が崩れる。当たりだ。しかし、何故。
「私、何があっても、メイズのこと嫌ったりしないよ」
「……そうじゃない」
「なら、どうして。私の気持ちが、怖い? 嫌?」
人からの愛情そのものが、怖いのかもしれない。今まで彼には、向けられたことがなかったのかもしれない。一夜限りの情欲ではなく、人生を預けるような愛情は。
心変わりを恐れているわけではないのなら。この気持ちそのものが、彼の望む好意の形とは、違うのかもしれない。奏澄はメイズに必要とされている自負があったが、決してそれは異性として想われているということではない。
「迷惑なら、私のこと、そういう風に見れないなら、はっきりそう言って」
それで諦められるのか、と言われれば、また別の話なのだが。そういうことなら、意識してもらえるように、これから頑張ればいい。もしどうしてもメイズの負担になるようなら、諦める努力もする。だから、気持ちを口に出して欲しい。このままでは、お互いに理解できないまま中途半端に終わってしまう。
メイズはひどく言いにくそうに、何度か口を開いたり閉じたりしながらも、やっと言葉にした。
「見れない……というか、見たく、ない」
「どうして」
「お前が、穢れる」
ここで声を上げなかったことを褒めてほしい。奏澄は誰にともなく思った。
「……ちょっと、言ってる意味が」
「俺みたいなのがお前に触れたら、汚れる。お前には、もっとお前を大切にしてくれる、真っ当な人間が似合いだ」
奏澄をこの世で一番大切に扱ってくれるのは、メイズだ。だというのに、今更何を言い出すのだろうか。寄ってくる男を追い払っていたのも、メイズなのに。
奏澄は、ふつふつと怒りの感情が沸き上がってくるのを感じていた。
「真っ当な人間って、何? 誰ならいいの? 私これから、メイズがいいと思う相手しか、好きになっちゃいけないの?」
「そういうことじゃ」
「そういうことでしょ。私が自分で選んだ相手は、信じられないんだ。私が好きになった人を、信じられないんだ」
涙ぐんだ奏澄に、メイズははっとしたようだった。メイズの言い分は、奏澄の目が節穴だと言っているのと同義だ。
――私の好きな人を、悪く言わないで。
奏澄はメイズの首に腕を回してぐっと引き寄せると、軽く唇を重ねた。
触れるだけですぐに離したが、急な出来事にメイズは呆然としていた。
「こういうことも、それ以上も、他の人としていいの。メイズは、それで何とも思わないの」
気づいてほしい。さすがに、ここまでくれば奏澄にもわかる。だから、諦めたくない。望むものを手に入れることを、ためらわないで。
「私がキスしたいと思うのは、メイズだけだよ。愛してるのも、メイズだけだよ。汚そうが何しようが構わないから、もっと欲しがってよ」
愛情も、幸福も、もっと求めて、欲しがって。それらを手にすることを、抱えることを、持ち続けていくことを、怖がらないでほしい。そのための支えに、私がなるから。
メイズは瞳に戸惑いを宿しながらも、震える手で奏澄の頬を撫でた。その手に奏澄が手を重ねれば、泣きそうに顔が歪んだ。仕方のない人、と思いながら、奏澄は微笑んだ。
「お前を、壊すかもしれない」
「そんなに柔じゃないよ」
「束縛、するかも」
「やりすぎたら、ちゃんと怒るから」
「お前が思うような、男じゃないかもしれない」
「むしろもっと見せてほしい。私が知らないメイズを」
何を言っても微笑むばかりの奏澄に、メイズは続く言葉が思い当たらないらしい。
けれど、一番大切な言葉をまだ聞いていない。奏澄は、優しい声で促した。
「他に言いたいことは?」
メイズはぐっと言葉を詰まらせて、何度か息を吐き出した後、その一言を大切に、大切に音にした。
「――愛してる」
耳元で、掠れた声で囁かれた言葉に、奏澄は目が熱くなるのを感じていた。この言葉だけで、全ての過去に意味があったと思える。どんな未来にも立ち向かえる気がする。
交わした口づけは、今度は長く離れることはなかった。
「さて、天気良好、とはいかないけど、海に出るには問題なしかな」
久方ぶりに帆を張って、奏澄はコバルト号の上甲板から『窓』を眺めていた。
「でも、いいんですか? ハリソン先生。この島を出てしまうと、もうはぐれ者を治療する機会はなくなると思いますけど」
くるりと振り返った先には、ハリソンの姿があった。ハリソンは、この島には残らずに、奏澄とメイズの出航に合わせて、また船医として船に乗ってくれることになったのだ。
「構いませんよ。かなりのデータは取れましたし、助手も一年で随分と育ちました。もう私がいなくても、困らないでしょう。それなら、外の世界であなたの傍についていた方が安心です」
「正直、助かります。ありがとうございます」
奏澄が眉を下げて微笑むと、ハリソンも心得たように微笑んだ。
「最初は、どこに行くんだ」
メイズの言葉に、奏澄は決めていたとばかりに答えた。
「アルメイシャ! メイズと回った順に、回ろうかなって」
アルメイシャには、ライアーとマリーたちが待っている。最初に、奏澄の仲間になってくれた者たちだ。せっかくだから、仲間たちと会った順番に、もう一度世界を巡っていこう。
今度は、義務じゃない。会いたい人に会いに行くための、楽しい船旅だ。そして。
奏澄がメイズをじっと見ていると、視線に気づいたメイズが首を傾げた。それに何を答えることもなく、奏澄は照れくさそうに笑った。
愛しい人が隣にいる。それだけで、何も不安はない。大丈夫だ。
「出航!」
海面を波立たせ、船は進み、窓を潜って大海原を往く。
たんぽぽの旗を、風にはためかせて。
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これにて第一部・完結となります。
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少し間を空けて、第二部を毎日更新予定です。
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