私の海賊さん。~異世界で海賊を拾ったら私のものになりました~

 銃を奏澄に預けたメイズがラコットと向き合うと、周囲が一斉に騒がしくなる。野次を飛ばしているのは主に互いの仲間だが、どうやらギャラリーも湧いてきているようだ。
 ラコットはギャラリーがいると盛り上がるタイプなのか、嬉しそうに拳を鳴らしていた。

「最近強い奴と戦えてなくてな、ちょうどいいぜ」
「そうか。後悔するなよ」

 互いが構えの姿勢をとったのを見て、舎弟の一人が合図を下した。

「ファイッ!!」

 合図とほぼ同時に、ラコットが先制してメイズに殴りかかる。
 真っすぐ向かってきたその腕を弾くようにしていなし、メイズは懐へもぐりこむ。
 そのまま腹へ一撃叩きこむが、相手は倒れることもなく、逆にその腕を取られた。
 掴んだ腕を捻るようにして投げ飛ばされ、受け身を取るメイズ。
 間髪入れずに上から振り下ろされた踵を飛び上がって避け、一度距離を取る。

「おーおー、ちょっとはやるじゃねぇか」
「でかい図体のくせに、よく動くな」

 今度はメイズから仕掛ける。
 数回打撃を打ち込むも、ラコットは軽い調子でそれを受ける。

「どしたどしたぁ、拳が軽、っとお!?」

 打撃に混ぜて急に飛んできた目つぶしを、顔を逸らせ避けるラコット。
 上体が不安定になったところで、メイズは膝に蹴りを入れる。
 体勢が崩れ、受け身を取ろうとするラコットを上から足で地面に叩きつけるように押さえ込み、そのまま喉に一撃入れようとメイズが振りかぶった時。

「そこまで!!」

 響いた声に、両者の動きが止まる。

「……まだ、勝負は」
「ついた。文句ないですよね、ラコットさん」

 不満そうなメイズを遮り、奏澄はラコットに視線を向ける。
 ラコットは深く息を吐いた後、降参を示すように、地面に倒れたまま両手を上げた。

「もうちょっとやってたかったが、ま、この辺かね。女を泣かせる趣味もねぇしな」

 まいったまいった、と言いながら身を起こすラコット。
 勝敗が決し、周囲がどっと沸く。

「メイズさんさすがっす!」
「一生ついて行きます!」
「アニキいぃ~~!!」
「それでもアニキが最強なんだー!!」

 寄ってくる乗組員を適当にあしらい、真っすぐ奏澄の元へ向かってくるメイズ。
 奏澄は俯いたまま、顔を上げられなかった。
 顔の見えない奏澄に、どうしたものかと困惑しているのが空気でわかった。

「勝っただろ」
「そう、だね。ありがとう」
「……泣くなよ」
「泣いて、ない」

 泣いては、いない。泣いてはいないが、まだ心臓がうるさい。
 大怪我をしているわけでもなしに、メイズを心配する必要は無いだろう。そこではない。
 目つぶしも、喉への攻撃も、これが『試合』なら反則だ。
 そうでは、ないのだ。
 殺し合い、というほど殺伐としたものではなかったが、ここではこの程度『遊び』の範疇なのだ。
 メイズとて殺意があったわけではなく、体格差から打撃が有効でなかったから、搦め手を使っただけだ。
 少なくとも、ラコットは楽しそうだった。その価値観を、否定してはならない。
 ぐっと腹に力を入れ、顔を上げて、努めて明るい声で預かっていた銃を返した。

「お疲れ様でした」
「……ああ」

 奏澄自身がわかるほど、作られた笑顔だった。
 それでも。メイズの行動は奏澄のためだ。それもまた、否定してはならない。

「よっし決めた! なぁ、俺らをあんたらの船に乗せちゃくれねぇか?」
「え!?」

 ラコットからの予想外の申し出に、奏澄はひどく驚いた。

「俺がこの島にいるのは、外から来る強い奴と手合わせするためだ。ついでに、美味いモンが食えるのと、美人が多いのもあるがな。しかし、一所(ひとところ)に留まるのもそろそろ飽きてきたところだ。嬢ちゃんの船に乗れば、いつでもそこのメイズと戦えるだろ!」
「えぇと……うちの船では、基本的に乗組員同士の戦闘行為は禁止なんですけど……」
「なんだぁ? 堅ぇなぁ。別に喧嘩しようってんじゃねぇよ。海賊なら他の船との戦闘だってあるだろ。訓練みたいなもんだって」

 それはそうだろうが、奏澄たちの船の目的は通常の海賊とは異なる。それらの事情を、果たしてラコットに説明して良いものだろうか。
 それに、ラコットの目的はメイズだ。メイズが嫌がるようなら、奏澄としても承諾しかねる。
 どうしたものか、と奏澄は窺うようにメイズを見た。

「お前の好きにしろ」
「メイズは大丈夫なの? あの感じだと、毎日手合わせを申し込まれるかも」
「うっとおしいが、戦闘員が増えるのは賛成だ」
「え?」
「今のうちの船には、戦力が少なすぎる。一度でも海賊を名乗った以上、今後戦闘行為は避けられないだろう。セントラルの件もあるしな」
「あ……」

 奏澄は自分の甘さを恥じた。メイズが怪我をしなければいい、とそればかり考えていたが、そもそも戦闘をメイズに任せきりにしていることが問題だ。最初は商船も同然だったからそれでも良かったが、セントラルでの出来事を思い返せば、当然戦力の確保は考えるべきだった。それは船長の仕事だろう。
 落ち込む奏澄に、メイズは困ったように頭をかいた。

「お前の中には、まだ戦闘が日常として落とし込めてないんだろう。こればっかりは慣れだ」
「うん……ごめん。気をつける」

 何も言わなかったが、奏澄が何に落ち込んでいるのか、メイズはわかったようだった。奏澄の考えを察せるようになってきたのだろう。それが嬉しくもあり、恥ずかしさもあり、不甲斐なくもある。
 落ち込んでばかりもいられない。気持ちを切り替えて、奏澄はラコットに向き直った。

「私たちの船は、ちょっと変わった目的があって旅をしているんです。それでも良ければ、是非こちらからお願いします」
「変わった目的ぃ?」

 奏澄は、ラコットとその舎弟たちに、旅の目的が奏澄の帰郷であること、そのために『はぐれものの島』を目指していること、その過程でセントラルに追われていることを説明した。

「あのセントラルを敵に回すたぁ……さすが、俺が目をつけただけはある」
「メイズは強いですからね」
「違う違う、嬢ちゃんのことだよ」
「私?」

 てっきりメイズのことを褒めているのだと思った奏澄は、ラコットの指摘に目を丸くした。

「俺たちとそっちの野郎どもが喧嘩してた時、あんたは真っ先に自分の乗組員を庇っただろ」
「庇った……というか……そうですね、船長ですから」

 結果を見ればなんとも情けないことになったので、歯切れが悪くなってしまう。

「そのちっこいナリでなぁ、俺の前に立つのは、さぞ度胸が要るだろうよ。喧嘩慣れしてる風でもないしな」
「それはもう、お察しの通りで」
「だからな。仲間のために、自分の恐怖を押してでも矢面に立てる。そういう船長のためになら、この拳を振るってもいいと思ったんだよ」

 ぐ、と拳を握ってみせたラコットに、奏澄は目を見開いた。

「ま、一番はやっぱメイズと戦いたいんだけどな! そういう事情なら喧嘩も多いだろうし、飽きなくていいぜ!」

 そう言って、ラコットは自分の舎弟たちを見渡した。

「お前らも、文句ねぇよなぁ!? 女守るために海に出るなんて、男のロマンじゃねぇか!」
『応!』

 豪快に笑って見せるラコットと、声を揃えて応えるラコットの舎弟たちに、奏澄は少しだけ涙の滲む目で微笑んだ。

「歓迎、します。ようこそ、『たんぽぽ団』へ」

 差し出された奏澄の手を握り返したラコットは、不思議そうに首を傾げた。

「あ? 『たんぽぽ海賊団』じゃなかったか?」
「そ、そのあたりは、追々」

 往生際が悪いかもしれないが、奏澄はまだ海賊団というのを了承した覚えは無い。しかし、このままでは事実上海賊となっていくだろう。そろそろ諦めた方がいいかもしれない。

「しかしやわこい手だなぁ。武器を握ったことも無いんじゃねぇか? 教えてやろうか?」

 握った手をぶんぶんと上下に振られて、奏澄の体が揺れる。
 奏澄が何かを言う前に、メイズがラコットの手を無理やり離した。

「放せ」
「なんだよ、親睦を深めてただけだろ。男の嫉妬は見苦しいぜ」

 軽口を叩くラコットを、メイズはじろりと睨んだ。

「メイズ、あのくらいなら自分でなんとかするから」
「あまり気を許すな」
「入団に賛成してたから、てっきり誤解は解けたんだと思ってたんだけど」
「手合わせすれば、性根が腐ってないことくらいはわかる。が、それとこれとは別だ」

 戦闘員として信頼はしているが、人間としては微妙ということだろうか。確かに、悪気無くセクハラをかましてきそうな気配が無くはない。しかし本気で拒否すればしてこないだろう。引き際は心得ているタイプだと奏澄は推察している。
 むすりとしているメイズの心配も、わからなくはない。奏澄はどう見ても押しに弱いタイプだ。そして、今までコバルト号に同乗していた男性陣はメイズと奏澄が恋仲だと思っているから、必要以上に奏澄に接触するようなことはなかった。ラコットのような人種に対して、対応できないと思っているのかもしれない。

「わかった。じゃぁ、何かされたら真っ先にメイズに報告するから。それでいい?」
「おいおい、信用ねぇな!」

 大人しく会話を聞いていたラコットが悲痛な声を上げた。

「ごめんなさい。信用はしてますけど、メイズが不安がるので。何もなければいいだけですから」
「ぐぬぅ……」

 そこで不満げにしてしまうから、何かする気だと思われてしまうのではないだろうか。
 メイズがすっと目を鋭くしたのを見てしまった奏澄は、心の中で息を吐いた。
 しかし、奏澄にとってはメイズの不安を払拭するほうが優先順位が上なので、特にフォローはしない。

「それにしても、一気に人数増えたなぁ。備品とか、食糧とか、考えないと」

 そう呟いて、奏澄はあることに思い至った。

「人数が増えたら、調理大変だよね。料理人、いたら、助かるよね」

 メイズに視線を向けて発言したが、それは質問ではなく、確認だった。もう奏澄が心を決めているのを見て、メイズは静かに息を吐いた。

「好きにしろ」

 何度目かになるお決まりの言葉を聞いて、奏澄は微笑んだ。
 商会メンバーにラコットたちの案内を任せ、奏澄はメイズと共にアントーニオのいる店へと戻った。もしかしたらまた外で作業をしているのではないか、と思ってのことだったが、店周辺に姿は無かった。おそらく中に戻ったのだろう。
 客として訪れたわけではないので、店の営業時間中は迷惑になるだろうと考え、奏澄は店が閉まる頃に出直すことにした。

 時間が空いたため、奏澄はカラルタン島を散策することにした。島を広く歩いて回ることで、何かがあれば、セントラルの時のように感じ取れるかもしれない。
 店が立ち並ぶ開けた場所から奥へ奥へと進めば、緑が深まっていく。ジャングルと言っても差支えないだろう。見たこともない虫が横切るのを目にした奏澄は、大きく肩を揺らした。

「カスミ、そろそろ引き返した方がいい」
「確かに、足場がだいぶ不安定になってきたかも。でも、気をつけて歩けばいけないことも」
「それだけじゃない。このあたりまで来ると、毒のある虫や生き物も」
「痛ッ!」
「カスミ!」

 声を上げ、しゃがみこんだ奏澄にすぐさまメイズも膝をついた。

「どうした」
「なんかに……噛まれた……」
「言った側から」
「面目ない……」

 なんて見事なフラグ回収、と言わざるを得ない。
 ふくらはぎのあたりを押さえる奏澄を、メイズは有無を言わさず抱えあげ、近くの岩場に座らせた。

「何に噛まれたのかわからないから、念のため血を吸いだしておくぞ」
「吸いだす……って」

 それは、フィクションでよく見る、あの。
 認識した途端、ぶわっと顔に血が集まり、直後に下がっていく。いや、恥ずかしい、のもあるがそれ以上に。
 あれはただの民間療法で、口は粘膜だから、吸い出す方法は推奨されていなかったはずだ。

「あ、だ、大丈夫! 自分でやるから」
「自分じゃ無理だろ」

 裾を捲り、傷口の上あたりを布で縛りながら至って冷静にメイズが言う。

「そうじゃなくて、これで」

 自分のナイフを取り出した奏澄に、メイズはぎょっとした。

「しまえ」
「いや、これで傷口を切って、血を」
「わかるが、しまえ。傷が広がる」
「でも……ッ」

 奏澄が引かないのを見越したのか、メイズは奏澄の抗議を無視してふくらはぎの傷口に吸いついた。

「~~~~ッ」

 痛いやら恥ずかしいやら心配やらで奏澄は声にならない声を上げた。
 ロング丈だったのに。まさか裾から入ってくるなんて。今後のために裾まで入るロングブーツを買わなければならない、早急に。などと取り留めのないことを考えることで、何とか意識を逸らした。
 メイズは数回吸っては吐き捨ててを繰り返し、最後に傷口を水で洗い、自身も口を濯いだ。
 奥地に入るからと水を持ってきていて正解だった。

「戻って一度医者に見せるぞ。痛みや熱が出たらすぐに言え」
「あ、ありがとう。メイズこそ、大丈夫? 口の中痺れたりとか、してない?」
「問題無い」

 言って、メイズはカスミの前にしゃがみこんだ。

「ほら」
「え……え?」
「歩けないだろう、背負っていくから」
「あ、歩ける歩ける! 全然歩けるよ!」

 こんな足場の悪い所を背負わせるなんてとんでもない。それに、足を折ったわけでも切ったわけでもなく、噛まれただけだ。そんな大げさな傷じゃない。

「万が一毒だったら、歩くと回るだろう」
「いや、そんなすぐには」
「これ以上問答するなら抱えるが」
「……オネガイシマス」

 セントラルで一度抱えられている奏澄は、大人しく背負われることにした。

「お手数おかけします……」
「慣れてる」
「ぐうの音も出ない」

 奏澄は申し訳なさから、重いよね、と言おうとして、止めた。重いと言われてもショックだし、軽いと言われても比較対象はおそらく成人男性だろう。参考にならない。自分で自分の首を絞めるだけな気がした。

 首を、絞める。

 ふっと思い立って、奏澄はメイズの首に回した腕に、少しだけ力を込めた。
 ぴくり、とメイズは反応したが、何も言うことは無かった。
 この人の、首を絞められる位置に、自分はいる。
 当然そんなことを実行しようものなら即座に落とされるだろうが、急所を晒していることに変わりはない。
 そのことが、何故だか少し、奏澄に優越感を与えた。
 


*~*~*



「この噛み痕なら、毒の無い種ですね。傷口の消毒だけしておきましょう」

 島の診療所にて好々爺然とした医者からそう言われ、奏澄はほっと胸を撫で下ろした。外で待っているメイズにも早く伝えてあげたい。きっと心配していることだろう。

「でも奥地に入るなら、もっとちゃんとした装備で行かないと駄目ですよ。袖口や裾、襟なんかも詰めないと」
「気をつけます……」

 当然のことを諭され、恥ずかしくなる。いい大人が、情けない。

「あんな方まで、何をしに? 食材を探しにって風にも見えないですが」
「あ……えっと、探索、というか。その、この島に、何か変わった場所ってないですかね?」
「変わった場所……ですか」
「ざっくりしていてすみません」

 医者は少し考えるそぶりをしたが、首を振った。

「特に変わった場所は無いですね。変わった食材ならありますが、それだってほとんどはどこかの店が見つけていて、提供されてますから」
「そうですよね……。ありがとうございます」

 そううまくはいかないか。少々気落ちした様子の奏澄に、医者は気をつかったのか、言葉を続けた。

「観光だったら、西の海岸近くにある『トラモント』というダイニングバーがおすすめですよ。夕日が綺麗に見えるとかで、カップルに人気みたいです。時間的にもちょうどいいんじゃないですか」

 奏澄は一瞬きょとん、とした後、すぐに気づいた。おそらく、メイズと恋人同士だと思われているのだ。

「あ、ありがとう、ございます」

 わざわざ訂正するのも変な気がして、照れ笑いでごまかした。メイズがこの場にいなくて良かった。
 メイズが、いない。
 そう思うと、ふつふつと好奇心が湧き上がる。その疑問を、奏澄は思い切って口に出した。

「その……どうして、カップルだって、思ったんですか?」
「おや、違いましたか? それは失礼を」
「ああ、いえ、その……結構歳が、離れているので」
「そうでしたか? 私くらいになると、多少の年齢差は同じに見えてしまうので」

 なるほど。奏澄の年代からすれば、五つも離れていればそれなりに上に見えるが、歳を重ねてしまえば、十や二十は大差ないのかもしれない。

「それより、随分とあなたのことを心配していたようでしたから。親密な関係なのかと」
「そんなに、心配、して見えました?」

 メイズのことだから、心配はしていただろう。しかし、奏澄の目には、人から言われるほどわかりやすく心配しているようには見えなかった。うろたえたりもしていなかったし、至って普通に奏澄を預けていたと思ったが。

「長く医者をやっていればね、わかりますよ。特に男なんて口下手なものですから。大丈夫かの一言もかけられないくせに、奥さんから片時も離れられない旦那とかね」

 それを聞いて、奏澄は思わず笑った。

「それ、先生のことですか?」
「さぁ、どうでしょうね」

 治療費を支払い礼を告げて、奏澄はメイズの元へ戻った。

「お待たせ」
「大丈夫だったか」
「うん。無毒だって。傷の手当てだけ」
「そうか」

 ほっとした様子のメイズに、奏澄は微笑んだ。自分のことで一喜一憂してくれるということが、不謹慎かもしれないが嬉しかった。
 空を見ると、もう日暮れ時だった。先ほど聞いたおすすめの店が脳裏を過ぎったが、奏澄は首を振った。興味はあるが、おそらく今その店に行けばカップルだらけだ。確実にその空気に萎縮する自信がある。
 結局、普通の食事処で夕食を済ませ、コバルト号で時間を潰した後にアントーニオの店に出直した。
 店には閉店の札がかかっていたが、明かりがまだついていたので、外で出てくるのを待つことにした。しかし、一向に出てくる気配が無い。

「……遅いね」

 誰も出てこない、というところが奇妙である。片付けに相当時間がかかるのだろうか。
 すると、メイズが無言のまま店の前まで行き、扉に手をかけた。

「え、ちょっと、黙って入ったら」

 奏澄の静止を無視して、メイズは扉を開けた。すると、そこには誰もいなかった。

「あれ……?」
「人の気配が殆ど無いと思ったが、やっぱりな」
「でも、明かりが」
()()()いるんだろ」

 その言葉の意味を奏澄が聞こうとしたところで、足音が聞こえた。

「ごめんなさい、営業はもう終わっていて……って、あれ?」
「アントーニオさん」

 厨房の方から駆けてきたのは、奏澄が待っていたアントーニオだった。

「良かった、まだいらしたんですね」
「えと、ぼくに何か……?」
「はい。ちょっと、お話があって。でも、まだ作業中ですよね。終わるまで待たせていただいても?」
「あ、その……時間、かかっちゃうので。先にどうぞ」
「え? でも、他の方をお待たせしてしまうのでは」
「それは、その」

 言いにくそうに言葉を濁すアントーニオに奏澄が首を傾げた時、メイズが言葉を挟んだ。

「他の奴はどうした」
「メイズ?」
「あんたしかいないんじゃないのか、今」
「え……っ」

 奏澄がメイズからアントーニオに視線を戻すと、暗い表情で俯いていた。

「それ、って」
「ち、違います違います! その、閉店後に厨房を自由に使わせてもらう条件で、ぼくが自分から」

 いじめではないのか、と思った奏澄の考えを察したようで、アントーニオは手を振って否定した。

「でも普通、厨房スタッフなら、条件など無しに自由に使えるものでは」
「あ……昼間は、みんなの邪魔になる、から。ぼくは、この時間しか」
「それで、閉店作業を、一人で?」
「ぜ、全部じゃないですよ! ある程度はみんなでやって、るんです、けど」

 尻すぼみになっていく台詞。これ以上は、アントーニオを責めることになる。奏澄は口を噤んだ。

「わかりました。手伝います」
「えっ!? いや、これはぼくの仕事だから」
「私たち、あなたにお願いがあって来たんです。だから、これは少しでも心証を良くする作戦なんです。気にしないでください」
「で、でも」
「とはいえ、これで絶対にお願いをきいてくれってことでもないので。そこは安心してください」

 笑顔で腕まくりをする奏澄に、アントーニオは言葉が出ない様子だった。

「メイズも」
「仕方ないな」

 メイズまでもが作業に加わろうとしたのを見て、さすがにぎょっとしたようだった。しかし要らないとも言えないのだろう、あわあわしているアントーニオに、奏澄がフォローを入れた。

「大丈夫ですよ、噛みついたりしませんから。遠慮なく使ってください」
「え、えっと」
「まず何からしたらいいですか?」

 奏澄が引かないことを察したのだろう、アントーニオは、遠慮がちに奏澄とメイズへ指示を出した。
二人がやったのは簡単な洗い物や掃除、片付け程度だったが、それでもそれなりの量があった。普段はこれをアントーニオ一人がやっているということだ。奏澄は眉を顰めた。
 作業が終わり、三人はホールのテーブルについた。

「ありがとうございました。手伝ってもらっちゃって」
「いえ、このくらい」
「それで、ぼくにお願い……というのは」

 おどおどとするアントーニオを真っすぐ見据えて、奏澄は告げた。

「アントーニオさん。私たちの船で、コックをしませんか」
「え……?」

 予想外の言葉に、アントーニオは何を言われているのか飲み込めていない様子だった。

「私たちの船には、コックがいないんです。今は私と、数人の乗組員で食事の用意をしています。でも、急に乗組員の人数が増えることになって。専門の料理人がいてくれたら助かると思っているんです」
「それで、ぼくに?」
「はい」
「それは……ぼくが、ここで、うまくやれてなさそうだから、ですか?」

 その言葉に、奏澄ははっとした。アントーニオにも、料理人としてのプライドがある。哀れまれて、同情で誘われているのだとしたら。それは彼にとって侮辱になりえる。
 奏澄は慎重に言葉を紡いだ。

「正直、全く関係ないとは言いません。あなたと出会えたのも、それがきっかけだから。でも一番は、あなたの料理の腕を信頼しているからです」
「ぼくの、料理……」
「最初にお会いした時、言いましたよね? アントーニオさんの作ったスープ、本当に美味しかったです。毎日でも食べたいと、思いました。あれほどの腕を持つ人が、それを発揮できないという状況が、私は悔しいんです。あんなに楽しそうな顔で料理を語れる人なら、きっと、この先もっとたくさん美味しい料理を作れるはず」

 戸惑うアントーニオの手を、奏澄は両手でしっかりと握った。

「私は、あなたが欲しいんです」

 目を見て告げる奏澄に、アントーニオは瞳を揺らした。
 奏澄は、自分の手が震えないように、ぎゅっと力を込めた。心臓が早鐘を打っているが、それを悟られるわけにはいかない。
 欲しいと。必要だと。ずっと、そう言って欲しかった。だから、それを人に告げることを、ためらいたくない。
 迷惑なんじゃないか。気持ち悪くないか。的外れじゃないか。
 でもそれは、奏澄が恥をかけばそれで済むことだ。
 その程度で、もしも、誰かの心を軽くできるのなら。

「先に、私たちの事情も話しておきますね」

 船に乗ると言うのなら、それを伝えないわけにはいかない。奏澄はラコットにしたのと同じ説明を、アントーニオにも話した。ただでさえ混乱しているアントーニオは、情報量の多さに目を白黒させていた。

「答えは、今すぐでなくて構いません。お店のこともあるでしょうし、明日また、どうするか返答を聞きに来てもいいですか? その上で、準備に時間が必要なら相談しましょう。お店の人にアントーニオさんから言いづらければ、私たちからお話することもできますから」

 準備だとか、手続きだとか、そういう面倒なことは後回しだ。まずは何より、アントーニオの意思確認が重要だ。それでも、この場ですぐに答えが出るものではない。せめて一晩、よく考えてほしい。短くて申し訳ないが、奏澄たちもあまりこの島に長居できるわけではない。

「……わかり、ました。ぼくなんかのために、そこまで考えてもらって、ありがとうございます」
「アントーニオさん。『なんか』ではありません。あなた『だから』です」

 そう言うと、アントーニオは、戸惑ったような、泣きそうな顔で、少しだけ笑った。



 店から出て、奏澄とメイズは夜の街を歩いた。
 飲食店が多いからか、深夜になっても酒場などが開いており、街は比較的明るいままだった。

「アントーニオさん、来てくれるかな」
「さぁな。やるだけのことはやったんだ。後はあいつ次第だろ」
「そう……なんだけど、ね。きっと、すごく悩ませてるから」
「……よくわかるんだな」
「なんとなく、ねー」

 あくまで奏澄の主観だが、アントーニオと自分は少し似ている。それでも、奏澄とアントーニオは違う人間だ。
 これがもし奏澄なら。きっと、無理やりにでも自分を引っ張り出してくれる存在を望んだ。その強引さが、奏澄には必要だから。
 しかしアントーニオの場合は。今まで積み上げたものを捨て、訳ありの集団についていくと言うのなら。自分で決めた、という確かさが必要だ。決断は、彼自身に委ねなければ。

「そんなに、気に入ったか」
「うん?」

 珍しい言い方をする、と思ってメイズを見上げる奏澄。気のせいかもしれないが、微妙に怒っているかのように見えた。いや、これは多分。

 ――拗ねてる?

 浮かんだ考えに、自分で驚いた。メイズが、拗ねる、などと。
 しかし一度そう考えてしまうと、もうそうとしか見えなかった。怒っているような圧は感じない。しかし妙なとげとげしさを感じる。不機嫌、という方が正しい。
 拗ねるような要素があっただろうか。この流れから考えると、アントーニオを勧誘したことに対してとしか思えないが、勧誘に関して反対するようなそぶりは一切なかったはずだ。いったいどこで。

 ――『私は、あなたが欲しいんです』

 奏澄は自分の台詞を思い出し、あ、と思った。奏澄にしては珍しく、かなり直接的な言葉を使った。それほど強い言葉でなければ、アントーニオには響かないと思ったからだ。
 自分で集団を作る、ということが初めてなので、あくまで想像でしかないが。会社の立ち上げから力を尽くしてきたのに、急にヘッドハンティングに熱を上げて、ないがしろにされた気分なのだろうか。
 それは良くない。内部不和を起こす。どうしたものか、と考えて、奏澄はメイズの手をとった。

「私が一番頼りにしてるのは、メイズだよ」

 一番、などと順位をつけるような言い方は本来良くないが。メイズに関しては、いいだろう。彼だけは、唯一無二なのだから。

 言われたメイズは、少し複雑そうな顔をした後、溜息を吐いた。

「知ってる」

 奏澄の頭に手を乗せたメイズは、いつもの顔だった。それに奏澄は、笑顔を返した。
 翌日。コバルト号に来客ありと報告を受け奏澄が出迎えると、そこにいたのは顔を腫らしたアントーニオだった。

「ア、アントーニオさん!? ど、どうしたんですかその顔!?」
「あ……はは、ちょっと、殴られちゃった」
「殴られちゃった、って」

 まさか、自分が誘ったせいで。奏澄は青ざめた。

「これは、いいんだ。気にしないで」
「でも……!」
「それより、君に一緒に来てほしいところがあって。いいかな……?」

 遠慮がちな声だが、眼差しは真剣だ。奏澄はしっかりと頷いた。

「あの、メイズも一緒でも?」
「あ、も、もちろん!」

 少し迷ったが、アントーニオの事情はメイズも知っているし、護衛も兼ねて同行を許可してもらった。

 奏澄とメイズは、アントーニオに案内されるまま、黙って歩いた。何も言わないが、今のアントーニオからは暗い雰囲気は感じない。客と店員という立場ではなくなったからか、口調も砕けていた。仲間になるかどうかは抜きにしても、もう心配は要らないかもしれない。

「ついたよ」

 開けた場所に出て、強い風に奏澄は目を閉じ、髪を押さえた。ゆっくり目を開くと、そこは海を臨む墓地だった。

「ここ、って」
「ここにね、先代のお墓があるんだ」
「え……」
「って言っても、遺体はここにはないんだけどね」

 先代とは、アントーニオを店に誘ったという前の料理長のことだろう。二代目になった事情は知らなかったが、まさか亡くなっていたとは。
 アントーニオは、静かな笑みのまま、一つの墓の前に座り込んだ。奏澄は少し迷って、アントーニオの傍に立った。メイズは口を出す気は無いらしく、後方で傍観の姿勢だ。

「昔、あの店にセントラルから出張の依頼がきたんだ。本当は、ぼくが行くはずだった。でもぼくは、自信がなくて……見兼ねた先代が、代わりに行ってくれた。向こうでのイベントは大盛況だったけど、帰りに運悪く嵐に遭って。先代は、助からなかった」

 拳を握りしめたアントーニオに、奏澄は胸が痛んだ。

「店は二代目が継いで、何とかなったんだけど。二代目は、先代のことが大好きだったから、ぼくのことが許せなかった。お前が代わりに死ねば良かったのに、って」
「そんなこと……!」
「ぼくも、思ったよ。あんなに好かれて、頼られていた先代が亡くなって、どうしてぼくが生きてるんだろうって。あの時、ぼくがわがままを言わなければ、こんなことにはならなかったのにって。その引け目があるから、二代目に何を言われても、今までぼくは言い返せなかった。ぼくに当たって二代目の気が紛れるなら、それでもいいと思ってた」

 奏澄は言葉が出なかった。
 この人は。弱いから、臆病だから、何もできなかったのではない。
 強いから、優しいから、耐えてきたのだろう。それが理不尽な八つ当たりだとわかっていて。
 やり場のない悲しみを、受け止めてきたのだ。一人で、ずっと。

「でもそれは、二代目のためじゃ、ないよね」

 アントーニオは自嘲気味に笑った。

「ぼくは二代目に怒られることで、勝手に罰を受けている気になっていたんだ。そうする度に、ぼくは先代にしたことを思い知って……二代目は、嫌でも先代を思い出す。今ぼくが二代目のために、店のためにできることは……多分、あの場を離れることだ」

 それは。果たして、それで、いいのだろうか。それでは結局、わだかまりは解けないままだ。

「後ろ向きな理由だって、思ったかな?」

 アントーニオに見上げられて、奏澄はどきりとした。思っていたことを、見透かされたようだった。

「アントーニオさんは、それで、辛くないんですか。結局、恨まれたままじゃないですか」
「うん。そうだね。だから、殴られちゃったんだけど」

 から笑いするアントーニオだったが、何故かふっきれたような顔をしていた。

「でもぼくは、これで良かったと思ってる。例え許されないとしても、逃げ出したと後ろ指をさされても。誰かに許しを乞うような生き方じゃなくて、ぼくを必要としてくれる場所で、ぼくにできることをして生きたいから」

 そう言って、アントーニオは墓に手を合わせた。

「だから先代。ぼくは、あの店を、この島を、出ます。あなたが教えてくれたことを、忘れてしまわないように。場所は変わっても、ずっと料理を作り続けます。ぼくを見つけてくれた人のために」

 決意を込めたアントーニオの言葉に、奏澄はそっと隣に座って、手を合わせた。

「先代さん。アントーニオさんを貰っていきます。大切にすると、約束します。安心してください」

 至って真剣に言ったつもりだったが、言った後で、なんだか嫁に貰い受けるようだなどと思ってしまった。言葉の選択を誤ったかもしれない。

「ごめんね、こんなところまで付き合わせて。どうしても、先代の前で話したかったんだ」
「いえ。むしろ、大切な場所に連れてきていただいて、ありがとうございます」
「えっと、それじゃ、改めて」

 立ち上がって、ズボンで手を拭ってから、アントーニオは背を丸めて奏澄に手を差し出した。

「ぼくを、船に乗せてください」
「はい。歓迎します、アントーニオさん」

 奏澄はその手をしっかりと握って、笑顔を見せた。
 ラコット一味とアントーニオを仲間に加え、たんぽぽ団はカラルタン島を出航した。
 ラコットたちは細かいことを気にしない性質(たち)なので、あっという間に船に馴染んだ。たまにデリカシーの無い言動で女性陣から怒られていたが、力仕事は進んでするので、そこは頼りにされていた。
 アントーニオの料理は乗組員たちに大好評だった。奏澄は手伝いで共に厨房に立つことも多く、人見知りするアントーニオが船に馴染むのに一役買った。次第に笑顔も増え、奏澄は内心ほっとした。経緯が経緯なので無理をしているのではと心配していたが、環境を変えたことはアントーニオにとって良い方向へ働いたようだ。
 一気に人が増えて気苦労も増えるかと心配していた奏澄だったが、特に不都合が起こることもなく、船内は平和だった。ただ一つ、大きく変わったことは。

「っしゃーかかってこいやぁ!」
「おねしゃぁっす!」

 バチン、という人と人の肌が強くぶつかる音がして、反射的に奏澄は肩を竦めた。

「おーおーやってるねぇ」
「マリー」
「あんた苦手なんだったら見るの止めたらどうだい?」
「そうなんだけど、毎日やってれば目に入るから、慣れておきたいし」

 二人が眺める先では、ラコットを筆頭に男性陣が手合わせをしている。
 ラコット一味が仲間になってから、悪天候でない限りは、ほぼ毎日上甲板で戦闘訓練が行われていた。参加は任意だが、ラコット一味は基本全員参加、メイズとドロール商会のメンバーは各自の都合に合わせて参加していた。
 ラコットは格闘技が主だが、カトラス程度なら扱えるようだった。肉体を鍛えるための基礎訓練、格闘術、剣術を指導している。それに加えて、メイズが銃や戦術を教えていた。自身が使うのはリボルバーだが、船に用意があるのはマスケットのみだ。それでも、教えるのに支障はないらしい。
 二人とも『習うより慣れろ』という方針らしく、よく参加者はぼろぼろになっている。
 ラコットはともかくメイズは理論派だとばかり思っていた奏澄は、それを意外に思っていた。参加者いわく、奏澄が見ていると少しましになるらしい。そのせいか、メイズが参加している時は、あまり見ていると良い顔をしない。
 商会メンバーは戦闘員ではないため、戦闘時に表に出る必要は無い。しかし、本人たちたっての希望で戦闘訓練に参加している。自衛程度はできるようになりたいらしい。それは奏澄がセントラルと問題を起こしたからではないか、と思ったものの、聞くことはしなかった。聞けば否定するだろうし、聞くだけ野暮というものだ。
 本来戦闘員ではない者も、戦わねばという意志を持っている。それは、そうせざるを得ない状況下にあるということだ。だから当然奏澄も、その意識を持っていた。では何故戦闘訓練に参加していないのかというと。



「ねぇメイズ、やっぱり私も訓練に参加した方が」
「却下」
「まだ最後まで言ってないじゃない!」

 膨れる奏澄に、メイズは駄々っ子にするように言い聞かせた。

「お前は戦わなくていい。というか、その段階にない」
「でも武器を買った時は、自衛できた方がいいようなこと言ってなかった?」
「あの時は俺とお前の二人しかいなかったし、心構えをしておけという話だ。元々戦えるようになるとは思ってない」
「でも、できるに越したことはないんじゃないの」

 言い募る奏澄に、メイズは溜息を吐いた。呆れられたかと身構えたが、そうではないらしい。言うことを整理しているようだった。

「自衛ってのは、何も戦闘技術だけを指すんじゃない。逃げるのも、隠れるのも、誰かに助けを求めるのも、自分の身を守るための行動だ。お前が危ない目に遭った時、まず最初に考えるべきなのは逃げることだ」
「逃げる……」
「下手に小手先の技術を覚えると、それが『通用するんじゃないか』と錯覚する。真っ先に逃げるべき場面で、立ち向かってしまう。それは一番やったらいけない」

 それは、現代でも警察から教わったことがある。日本には銃刀法があり、一般人は武器を持ってはいけなかった。立ち向かう術がないから、逃げるのだと思っていた。だが、例え武器を持っていたとしても。それが付け焼刃でしかないのなら、無いのと一緒だ。

「というわけで、お前に今できるのは、逃げ足を鍛えることくらいだ。暫くは体力づくりに専念しろ」
「うん……」

 正論過ぎて、何も言えなかった。船内生活では体も鈍るし、セントラルの一件もあり、奏澄も体力づくりをしてはいた。しかし、ラコットたちの訓練に混ざれるほどかといえば、全然足りない。今加わったところで、早々にへばって終わるだろう。何かを教わったからといって、それが覆るわけではないのに。
 へこんだ奏澄に、メイズは言葉を続けた。

「やる気は買う。何かあった時の逃げ方くらいなら教えてやるから」
「うん、ありがとう」

 またフォローされてしまった、と奏澄は力なく笑った。無理を言って困らせたのは自分の方なのに。

「私ムキムキだったら良かったね」

 奏澄は肘を曲げて、力こぶ一つできない腕を残念そうに見た。
 今や女性でもマッチョは珍しくない。武術をやっている、までの贅沢は言わずとも、せめてスポーツ体型だったら、訓練に混ざれる程度にはなったかもしれないのに。
 そう思って零したひとり言も同然の呟きだったが、それを聞いたメイズは顔を逸らせて少し黙った。

「お前は、そのままで、いいんじゃないか」
「……え、嘘。メイズ、もしかして、笑ってる?」
「笑ってない」
「じゃぁこっち向いてよ」
「おいやめろ」

 無理やり自分の方を向かせようとする奏澄に、メイズは手を掴んで抵抗した。奏澄が怪我をしないように加減しているのだろう、力を込める奏澄と拮抗している。

「ずーるーいー」
「見て面白いもんじゃないだろ」
「私は見たい」
「その内な」

 結局あしらわれたが、奏澄は胸が温かくなるのを感じていた。メイズが、笑った。それだけのことが、すごく嬉しかった。
 笑顔を見たことが無いわけではないが、こんな風に無邪気に笑ってくれたことは無かったように思う。気を許してくれているのだろう。

 ――もっと笑ってくれたら、いいのにな。

 仲間も増えて、メイズだけが気を張る必要は無くなった。もっと人を頼って、背中を預けて、気を緩めてくれたら嬉しい。できることなら、自分に頼ってくれたら、もっと嬉しい。
 そのためには、まず心配されることがないようにしなくては。奏澄は筋トレメニューを頭に浮かべた。



 そんなやり取りがあり、奏澄は未だに眺めるだけの日々を送っている。

「ま、うちの男共も鍛えてもらえてありがたいよ。強くなったら商会に戻った後も、わざわざ護衛を雇わなくてよくなるしね」
「うん……そうだね」

 商会に戻ったら。この旅が終わった後の話をされて、奏澄の顔が陰る。最初からわかっていたことだが、それでも離れることが寂しいと感じるくらいには、今の生活に馴染んでいた。

「そんな顔しなさんな。まだ暫くは先の話でしょ?」
「わっ!」

 肩に腕を回されて、マリーとの距離がぐっと近くなる。

「あたしはあんたに最後まで付き合うって決めてるから。あんたが無事に元の世界に帰るまでは、一緒だよ」
「……うん、ありがと、マリー」

 そう。いつかは、この船の人たちとは離れる。奏澄は元の世界に帰るために、旅をしているのだから。その目的を遂げれば、皆もそれぞれの場所へ帰る。

 ――メイズは。身を寄せる場所は、あるのだろうか。

 帰る場所は、無いのだと言っていた。奏澄が元の世界へ戻った後。メイズは、どうするのだろう。

「カスミ?」
「ううん、なんでもない」

 やめよう。今はまだ、それを考える時じゃない。
 自分は、元の世界へ帰るという自分の願いのために、これほどの人たちを巻き込んでいる。まずは、それを達成するところからだ。
 奏澄はもやもやとした気持ちを振り払うように、笑顔を作った。
「とうちゃーく!」
「よーし、買い出し班こっちー」

 たんぽぽ団は次の島へと降り立った。カラルタン島で特に何も見つからなかったものの、コンパスに変化は無く、奏澄たちはとりあえず青の海域方面へ進路を取り、緑の海域を進行中だ。
 人数が増えたことで物資は以前よりも頻繁に補給する必要があり、途中の島々にはなるべく立ち寄っている。下船するメンバーを確認し終えた奏澄の元へ、上機嫌のラコットがやってくる。

「カスミ、デートしようぜ!」
「メイズの許可が取れたらいいですよ」
「またかよ!」

 ラコットが大げさに天を仰いだ。似たようなやり取りを何度もしているので、奏澄もすっかり慣れてしまった。

「しょーがねぇ、その辺でナンパでもすっかぁ」
「揉め事起こさないでくださいねー」
「信用ねぇなぁ」

 それがただの軽口であることもわかっているので、奏澄は苦笑で流した。
 ラコットに対しても敬語を崩すかどうかは迷ったのだが、今更口調一つで奏澄をどうこう思う者もいないだろうということで、そのまま話している。崩す時がくれば崩れるだろうし、特に意識して切り替えることはしない。

「んじゃ、今日はカスミはオレとデートな」
「ライアー」

 ぽんと肩を叩かれて、珍しい誘いに奏澄は驚いた。

「あ、ちゃんとメイズさんの許可は貰ってるから」
「メイズが?」

 デートだ、と言って許可を貰ったのだろうか。そう考えるとなんだかもやもやして、奏澄は首を傾げた。

「ていうか、メイズさんと相談の上、オレとカスミで偵察。あの人目立つから」
「ああ、そういう」

 ライアーとカスミの組み合わせなら、歳も近いし違和感が無い。お互いに相手に威圧感を与える見た目もしていないし、動きやすいのだろう。

「メイズが外れるってことは、セントラル関係?」
「そ。ちょっとギルドで確認しておきたいことがあって」
「ギルドに? それ、私行って大丈夫なのかな」
「うん、だから念のため変装的なことをね」
「え?」

 きょとん、と首を傾げた奏澄に、ライアーは悪戯っ子のような顔で笑った。



「おお、いいじゃん似合うじゃん」
「これはちょっとスカート短すぎない……?」
「えぇー、じゃぁこっち」
「それは背中が開きすぎだと思う……」

 ギルドに偵察に行くはずだったのに、何故か服屋にいる。全く臆することなく女性物の服を選べるライアーに、奏澄はいっそ尊敬の念を抱いた。

「じゃコレで!」
「ライアー、遊んでるでしょ」
「あはは」

 ぱっと見で奏澄だとわからないように、普段と違う服装をしようということになり、奏澄の服を買いに来た。
 しかしライアーが選ぶのは奏澄にはどれもこれも気が引けるものであり、かつライアー自身も本気で選んでいなさそうだった。

「もう、真面目に選ばないなら私自分で選ぶからね」
「奏澄に自分で選ばせると、メイズさんみたいになっちゃうじゃん」
「……どういう意味?」
「無難。飾りっけなし。それじゃ変装の意味ないし」
「そ、そんなことないし」

 奏澄が普段全く飾りけのない格好をしているのは、初期に節約しようと思ったことと、旅をするのに適している服装を選んだだけだ。選ぼうと思えば、TPOに合わせた服装くらい選べる。

「まぁまぁ、デートなんだし、選ばせてよ」
「次で最後にしてね」
「りょーかい」

 やけに楽しげなライアーが最後に持ってきたのは、奏澄の好みにも合う、派手過ぎず可愛らしいデザインの服だった。
 ふわりと揺れるロングスカート、ノースリーブのブラウスは袖口と襟に控えめなレースがあしらわれている。足元はローヒールのパンプスで、足首にストラップがついていた。

「スカートが長めだし、ほんとはもっとヒール高い方が合いそうなんだけどねー、走るかもしれないから」

 見た目だけで選んだのかと思っていたが、そのあたりはちゃんと考えているらしい。奏澄は鏡の姿を思わずまじまじと眺めた。

「どうです? 姫」
「え、あ、い、いいと思う」
「よし。んじゃそれ買って、顔も髪もいじろっか」

 何故か上機嫌のライアーは、そのまま服を購入し、メイクスペースで奏澄にメイクを施し、髪を編み込んだ。

「なんでライアー、こんなのできるの」
「んー? 女の子にモテるための努力なら惜しみませんよオレは」
「本当に尊敬する。なんでモテないんだろうね」
「上げて落とすのやめてもらっていい?」

 ふふ、と思わず笑いを零す奏澄に、ライアーは苦笑した。

「ほら、できたよ」
「わ……」

 奏澄は、鏡に映る自分を信じられない気持ちで見つめた。自分でだってメイクをしないわけじゃないが、正直あまり器用なことはできない。ライアーに整えてもらった姿は、自分でも見違えるようだった。

「すごい。ライアー、ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」

 ふわりと笑った奏澄に、ライアーも嬉しそうに返した。

「それ、メイズさんに見せるの楽しみだね」
「えっ」

 急にメイズの名前を出されて、奏澄は動揺した。何故だか、顔が熱くなる。

「え、いや、これ変装だし、見せないでしょ」
「そのまま戻ればいいじゃん」
「だって、なんか……へ、変じゃない?」
「なんで? 可愛いよ」

 そういうことではない。この姿が変だとかそういうことではなく、わざわざ着飾った姿をメイズに見せることが変ではないか、ということなのだが。さらっと可愛い、と言われると、それ以上続けられなくなる。しかもこの台詞に全く他意が無いのだから恐れ入る。

「……ライアーがモテない理由がわかる気がする」
「えぇ!? 嘘、なんで!?」
「ちょっとだけルイのこと見習った方がいいよ」
「いやほんとアイツがモテるの理解できないんだけどツラかツラなのか」

 恨み言に変わっていく様子を見ながら、奏澄はくすりと微笑んだ。
 ライアーは、根本的に人を喜ばせることが好きなのだろう。手慣れた様子でわかる。多分、今までにもこうやって女性を着飾ってあげたことがあるのだと思う。自分ではない誰かのために、綺麗になりたい女性を。
 初めて声をかけてきた時もそうだった。ライアーは、弱っている女性を放っておけない。でも決してそれに付け込むことはしない。元気になって他の人の所へ行っても、それはそれで良かったと思ってしまうタイプだ。

 ――いい人止まり、なんだろうなぁ。

 ライアーに感じる妙な安心感は、そのあたりも関係しているのだろう。不憫だが、それがライアーの良い所なので、そこを好きになってくれる人と幸せになってほしい。

「ライアー、ほら、ギルド行くんでしょ」
「ああ、うん、行こっか」
 清潔な白い外壁の四角い建物。その前で、奏澄とライアーは足を止めた。
 ギルドの外観は、島によって異なる。しかしそれとわかるように、入口には必ずセントラルの紋章を掲げている。女神をモチーフにしたそれを一瞥して、二人は中に入った。
 建物内はそれなりに混んでいた。手続き待ちの人が手持無沙汰に壁の掲示を眺めている。

「中に入るの初めて」
「用がないなら来ない方がいいよ」
「受付に?」
「いや、こっち」

 ライアーに促されるままついていくと、手配書の束が置かれていた。

「手配書は閲覧自由なんだ。持ち出しには許可がいるけど」
「手配書って、メ……あ、えっと」

 手配書があるのだから、ここには商人だけでなく賞金稼ぎもいるかもしれない。ギルドの職員もいる。名前を聞かれたらまずいかもしれないと、奏澄は口ごもった。ライアーはすぐにそれを察したようだった。

「いや、今回は新しく追加されたものをね」
「……それって」
「多分想像通り」

 つまり、セントラルの一件で奏澄が手配書に追加されていないかどうか、確認に来たのだ。

「私が来ない方が良かったんじゃないの?」
「まぁ安全だけ取るなら、あの一件後に加入した人の方が良かったんだろうけど……目立つからなぁ」

 確かに。口には出さなかったが、奏澄もそれには同意だった。アントーニオは体が大きすぎるし、ラコットたちは声が大きい。

「女の子は見た目の印象変えやすいし、他で目立ったことしてないから、手配書が出てたとしても見た人の印象にはあまり残らないだろ。そうなる前に、船長も一回くらいギルドを見ておいた方がいいかと思って」
「それもそっか」

 奏澄もギルドには興味があったし、手配書がどういうものかも見ておきたかった。この先どうなるかわからないが、顔を出せなくなってから来たかったと思っても遅い。

「えーっと」

 ぱらぱらと手配書を捲るライアーの手がぴたりと止まったので、奏澄は横から覗き込んだ。

「あちゃー……悪い方に予想当たっちゃったなぁ」
「わ……本当に載ってる」

 そこには、奏澄の手配書があった。似顔絵はそれなりに特徴を捉えており、よく見比べれば奏澄だとわかる。図書館に入館する時にサインしたからか、名前も載っていた。さすがに団名はあの後決めたからか載っていない。

「金額っていくら?」

 手配書に載っているということは、懸賞金がかかっているはずだ。興味本位で数えようと金額のところに指を滑らせると、ライアーが急に息を呑んだ。

「あー、金額は大したことないな、良かったじゃん。他の乗組員は載ってないかな」
「ライアー?」

 何かを隠すように、ライアーは奏澄の手配書を捲ってしまった。
 その様子は気になったが、奏澄は追及しなかった。必要なことなら、後で話してくれるだろう。

「げっ」
「あ」

 捲った先にあったのは、ライアーの手配書だった。

「逃げた時一緒にいたからか……」
「それで載っちゃうものなんだ」
「う~~ん、普通はそれだけじゃ……いやでも、色々異例だからなぁ」

 全く予想していなかったわけではないのだろう、それほど驚いているようには見えない。
 しかし、ライアーは奏澄と違ってろくな変装をしていない。大丈夫なのだろうか、と思っていたところに、後ろから人が来た。

「あーあんたら、すまねぇな。熱心に見てるとこ悪いが、長くなるなら先にちょっと貸してもらっても」

 言いながら、商人とは思えない風貌の男は、ライアーの手元に目をやった。

「! あんた……」

 やばい、と小声で零して、ライアーは奏澄の手を引いた。

「あはは、占領してすみません、どうぞー」

 人の間を縫って足早にギルドを出るライアーに、奏澄は足をもつれさせそうになりながらついていった。

「ねぇ、さっきの人」
「あの格好で商人はないな、賞金稼ぎかも。オレなんて大した額じゃないけど、小金稼ぐタイプなら追ってくるかな」

 ちょうどライアーの手配書を開いている時だったのがまずかった。出たばかりの手配書だから、ほとんど認知されていないだろうが、逆に言えば今なら競争相手がいないということだ。ライアーは強そうには見えないし、すぐ手の届く所にいるのなら捕まえておきたくなるのが心理だろう。

「――!」
「うわ、やっぱ来た」

 後方から聞こえた叫び声に、ライアーは顔を顰めた。

「あれカスミの方には気づいてないっぽいな……。二手に分かれよう。オレはアイツ撒いてから船に戻るから、カスミはできれば誰かと合流して船に戻って」
「うん、わかった。気をつけて」

 留守番の面子以外は島に降りているはずだ。中心街はそこまで広くもないし、探せば誰かには会えるだろう。そう考え、奏澄はライアーの提案に頷いた。
 ライアーは奏澄の手を離し、あっという間に駆けて行った。追手は奏澄には目もくれず、ライアーを追った。

「さて」

 仲間を探そう、と奏澄は歩き出した。



「……迷った……」

 奏澄は途方に暮れていた。まさかの誰とも会えていない。どころか、下手に歩き回ったせいでコバルト号への帰り道もよくわからなくなってしまった。
 一人での行動なんて、セントラル以来だ。あの時だって、すぐ近くにメイズが待機している安心感があった。
 いつも、誰かが傍にいた。たいていの場合、メイズが。
 急に心細くなって、涙が浮かんできた。久しぶりに履いたパンプスが靴擦れして、足が痛い。

「うー……」

 道の端に寄って、しゃがみこんだ。少しだけ。少しだけ落ち込んだら、気を取り直してコバルト号を探そう。

「お姉さん、どうしたの?」

 急に上から声をかけられ、奏澄はびっくりして顔を上げた。顔を上げた途端、頭の中がパニックになった。いつの間にか、厳つい四人組の男に囲まれていた。一気に血の気が下がり、先ほどまでとは違う涙が浮かんでくる。今こそ逃げ足を発揮すべき時だろうが、この足でどこまで走れるだろうか。そもそもこの四人組の壁をどうやって突破したらいいのだろうか。
 震えながら涙を零した奏澄に、男の一人が慌てたように腰を屈めて目線を下げた。

「ああごめん、怖がらせたかな」
「だから気をつけろって言ったろ、お前顔怖いんだから」
「でもほっとけないだろ」

 どう見ても堅気の人たちではなさそうだが、会話の内容からすると、単純に奏澄を心配して声をかけてきたようだ。驚きでぱちりと瞬きすると、また涙が零れ落ちた。

「あれ、メイクで大人っぽく見えるけど、まだ子ども?」
「おい失礼だろ、あんま覗き込むなよ」
「ごめんね。えぇと、君一人かな。誰か――」

「うちの船長に……ッ何してんだーーーーッ!!」

 突然飛んできた拳に、奏澄に話しかけていた一人が吹っ飛ぶ。
 その拳の持ち主を認めて、奏澄は声を上げた。

「え……あ……ラ、ラコットさん!?」
「おう! カスミ、無事……か……」

 奏澄の顔を見て、ラコットの動きが止まる。そのまま手近な男を掴み上げた。

「てめぇら……うちの船長泣かすたぁ、いい度胸してんじゃねぇか……」
「えっ」
「くっそ! 何すんだいきなり! てめぇらどこの(モン)だ!」
「俺たちゃ『たんぽぽ海賊団』の(モン)だ!」
「えっ!?」

 ラコットと共に来ていた舎弟たちも戦闘の構えを見せ、四人組と一触即発の空気になった。
 奏澄は混乱した。ラコットたちが来てくれてほっとしたものの、勘違いからどんどん展開が進んでいく。この原因は明らかに奏澄なのだが、普通に声をかけたところで聞いてくれそうにない。何故こうも血の気が多いのか。とにかく止めなければ、と頭と目をぐるぐるさせたまま、大きく息を吸った。

「ストーーーーップ!!」

 精一杯の大声を出し、肩で息をする奏澄に、双方が視線を向けた。

「せ、」
「船長……?」

 おそるおそる声をかけてくる仲間に、カスミは強い視線を向けた。

「何勘違いしてるんですか! この人たちは、私のことを心配して声をかけてくれたんです!」
「そ、そーなんすか……?」

 勢いが削がれ、引く姿勢を見せる仲間たちだったが、ラコットはうろたえたまま言い募った。

「で、でもよ、お前泣いて」
「それは……っ」

 一人が心細かった、なんて言えない。口を噤んでしまう奏澄。けれど何も言わなければ誤解は解けないままだ。息を吸って、なんとか説明しようとする。

「ちょっと、道に、迷って」
「あれ? そういやライアーと一緒だったんじゃ?」
「あいつどうしたんです?」
「あ、はぐれちゃったんです?」
「だから泣いてたんです?」

 矢継ぎ早に指摘されて、奏澄の目にどんどん涙が溜まっていく。恥ずかしくて泣いているのか、ほっとしたから泣いているのか、もう奏澄本人にもよくわからなかった。

「わああ船長!」
「泣かないで船長!」
「すいませんでした船長!」

 えぐえぐと涙ぐむ少女を強面の男たちが必死で宥めるという異様な光景に、四人組は毒気を抜かれたようにぽかんとしていた。実際は少女というほどの年齢ではないが、四人組には知る由もない。

「わ、私じゃなくて、その人たちに謝るのが先、でしょう」
「でも船長」
「でもじゃないの! ちゃんとごめんなさいしなさい!」

 ――ごめんなさいって。

 仲間たちの心が一つになる。しかしそのつっこみは音になることはなかった。
 正常な判断ができないのか、言動が子ども返りしている。しかし奏澄の様子が常ではないこと、おそらくそれが自分たちのせいであることくらいは無骨な男たちにもわかったのだろう、黙って従った。

「ラコットさん! ちゃんと謝って!」
「お、おう」

 奏澄の勢いに押され、ラコットは渋々四人組に向き直った。

「あー……殴って、悪かったな」
「いや、その……こっちも、誤解されるような体勢だった」

 ラコットたちが頭を下げることで、なんとかその場は収まった。
 未だぐずる奏澄をあやすたんぽぽ団の乗組員を横目に、四人組がラコットに話しかける。

「あんたたち、海賊なのか?」
「おう、一応な」
「珍しいな。あんな女の子が船長なんて」
「まぁ、色々あんだよ」
「そうか。なら気をつけろよ。この辺りは目が厳しい」
「目ぇ?」

 ラコットが片眉を上げると、相手が周囲を見回した。途端、慌てたように走り去る人影がある。挙動から、兵の類には見えなかった。ただの一般人だと思われるが、何故逃げ去ったのか。答えはすぐに返ってきた。

「相互監視の意識が高いんだ。住民と役人の関係も密で、何かあれば報告がいきやすい。だから治安もいいんだが、余所者にはあまり居心地がいいもんじゃないな。大した奴もいないから、腕に自信の無い賞金稼ぎが、小金目当てでたまに来る弱いのを狙ってる」
「ほぉ……。だっせぇ奴もいるもんだな。ま、気をつけるわ。あんがとよ」
 四人組と別れ、幾分落ちつきを取り戻した奏澄はラコットたちに事情を説明し、共にコバルト号に戻ることにした。
 すたすたと歩き出してしまうラコットに、奏澄は小走りでついていくが、靴擦れがずきりと痛んだ。

「ラコットさん、待って」
「あん? どした」

 前を行くラコットは、首を傾げるだけだ。そして奏澄は気づいた。メイズやライアーがよく気がつくだけで、普通の反応はこんなものだ。察してもらうのではなく、主張していかないと、何も気づいてもらえない。

「ちょっと、靴擦れが痛くて。少しゆっくり歩いてもらってもいいですか?」
「靴擦れぇ?」

 怪訝な顔で奏澄の足元を見て、ようやくラコットは奏澄の装いが普段と違うことに気づいた様子だった。

「そういやなんかいつもと違うな。そんなの履いてるからじゃねぇか?」

 悪気は無いのだろうが、奏澄はぐっと言葉に詰まった。というか、メイク程度ならまだしも、これだけ普段と違って、気にも留めないものか。それはルイに負けて当然だ、と内心ぼやいてしまう。

「しょうがねぇな」

 言うと、ラコットは奏澄の返事も聞かずに、片手でひょいと奏澄を担ぎ上げた。

「ちょっと、ラコットさん!?」
「足が痛ぇんだろ? この方が早ぇ」

 それはそうだろうが。奏澄は既視感を覚え、遠い目をした。

「あ、ダメっすよアニキ!」
「あん?」

 あまりにデリカシーの無い行動にさすがに見兼ねたか、と奏澄が感謝の視線を向けると。

「女の子抱える時はお姫様だっこするもんだって聞いたことが! あとそれ人さらいに見えるからアウトっす!」
「あぁ? なんだお姫様だっこって」
「横抱きのことみたいっすよ」
「両手塞がるじゃねぇか」
「そこ気にしたらダメなんじゃないすかね?」

 違う。全体的に気にするところが違う。と思ったが、奏澄が口を挟む間もなく、ラコットは奏澄を抱え直した。

「ほら、これで文句ねぇだろ。行くぞ」

 一応ラコットなりに気はつかったのだろう。これ以上何かを言う気力は無く、しかし恥ずかしさから奏澄は顔を隠した。



「カスミ!」

 コバルト号に戻ると、先に戻っていたライアーが慌てて駆け寄ってきた。

「どした、なんか怪我した?」
「え、ああ、違う、大丈夫」

 ラコットに抱えられていたので、歩けない状態だと思われたのだろう。奏澄はすぐに下ろしてもらった。目線が近くなったことで、ライアーが違和感に気づく。

「あれ? カスミ、目――」
「随分遅かったな」

 心配と安堵を混ぜ合わせたような声を聞いて、奏澄は一瞬メイズに目をやった。直後、すぐに下を向いた。

「カスミ?」

 怪訝な声を聞きながら、それでも顔を上げず、奏澄はラコットの背に隠れた。
 忘れていたが、ボロ泣きしたということは、多分メイクは崩れている。それを見られたくなくて、顔を上げられない。しかしそれを馬鹿正直に言えば、呆れられる気しかしない。何とかメイズに見られずにこの場を切り上げたいのだが、今の状態が既にだいぶ不自然だ。どうしよう、と思いながら、ラコットの服を強く握る。

「あ? なんだぁ?」

 当然、伝わるはずもない。ラコットはわけがわからないまま、首を捻って奏澄を見ようとする。謎の行動にその場の皆が首を傾げた時。ライアーが、ピンときた様子を見せた。

「カスミ、こっちおいで」

 ちらりと窺うと、ライアーは心得たように笑って見せた。それにほっとして、奏澄はライアーの方へ移った。

「メイズさん、ちょっと待機! 後は解散!」
「はぁ?」

 釈然としない男たちを置き去りに、ライアーは奏澄を連れていった。



 奏澄を船室内の椅子に座らせて、ライアーは一度部屋から出ていった後、すぐに戻ってきた。

「お待たせ。はいこれ、先に少しだけ冷やしとこう」
「ありがとう」

 ライアーから濡らしたタオルを受け取って、奏澄は目にタオルを当てた。

「泣いた理由は聞いても?」
「ああー……これは、ちょっと、情けないやつなので。誰かに何かされたとかじゃないから、大丈夫」
「そっか」

 奏澄の調子から、それほど深刻なことではないと判断したのだろう。ライアーはそれ以上深入りしなかった。

「足ちょっと貸してね」
「えっ大丈夫、あとで自分でやるから」
「いいからいいから」

 触るよ、と声をかけてから、ライアーは奏澄の靴擦れを手当てしていく。
 
「ありがとう。よくわかったね」
「歩き方ちょっと変だったからね。ストラップ付いてたし、あんまズレないかと思ったんだけど……ごめんな」
「ううん、歩きやすかったよ。普段ブーツだし、慣れない靴は仕方ないかな」

 さすが、よく気がつく。これに慣れてしまうと大変そうだ。ラコットの方が普通なのだ、と奏澄は自分に言い聞かせた。

「よし。じゃ、メイクも直しちゃおうか」
「え、でも」
 
 手当てを終えたライアーがメイク道具を準備し始めたので、奏澄は疑問の声を上げた。
 直したところで、もう変装の意味は無いだろう。崩れた顔を見せたくなかっただけで、奏澄はもう落としてしまうつもりでいた。

「まだメイズさんにちゃんと見せてないだろ?」
「み、見せなくていいよ」
「意地張らないの。というか、オレが見せたい」
「なんで?」
「あの人もたまには思い知るべきなんだよ」

 何を? と思ったものの、奏澄は口には出さなかった。あまり深掘りしても良いことにならない気がした。
 
「そのメイク道具、どうしたの?」
「エマたちに借りた。カスミのためって言ったら快く貸してくれたよ」
「それは……あとでお礼言わなくちゃ」

 店には自由に使えるメイク道具があったが、船内には個人所有のものしかない。奏澄は最小限しか持っていないし、出どころがわかって申し訳なくなった。

「エマたちもやりたがってたぜ。今度人形にされるかも」
「それはちょっと」

 エマのはしゃぐ顔が目に浮かぶ。奏澄は思わず遠い目をしてしまった。

「ほい、できた」
「ありがとう。ごめんね、何から何まで」
「オレが好きでやってるんだから、気にしない」

 道具を片付けたライアーは、恭しく奏澄の手を取った。

「んじゃ、行きましょうか。お姫様」

 エスコートは、足を怪我した奏澄のためだろう。それがわかっていても、芝居がかった仕草に気恥ずかしくなって、奏澄は照れ笑いした。



 律儀に待っていたメイズの元へ戻ると、思わず尻込みしかけた奏澄の背を押して、ライアーが自慢げに声をかけた。

「お待たせしましたー!」

 ずい、と前に出されて、メイズの視線が奏澄を捉える。そんなのはいつものことなのに、何故だか落ちつかなくて、そわそわする。

「……何だったんだ?」
「えっ」
「メイズさん!!」

 メイズからすれば至極もっともな疑問だと思われる。ふわふわした気持ちが急降下し、説明しなくてはいけないだろうか、と奏澄が青い顔をしたところで、ライアーがメイズを引っ張り小声で耳打ちした。

「アンタ! もっとなんか! あるでしょうが!」
「なんなんだいったい……」
「女の子があんだけオシャレしてんですよ。褒めるとか、称えるとか、賛美するとか」
「ああ、確かにいつもと違うな」
「いいから、持てる限りの語彙をもって、褒めろ」

 いつにない剣幕のライアーに、メイズは若干引き気味になりながらも、改めて奏澄を見た。

「あー……カスミ」
「な、なに?」
「………………」

 声をかけたものの、何と言ったらいいのか、ひどく迷っている様子だった。
 
「…………似合ってる」

 ようやくそれだけ絞り出したメイズに、ライアーは顔を覆って天を仰いだ。

「……ありがとう」

 それでも、奏澄は嬉しそうにはにかんで笑った。



*~*~*



 ひとまずは満足したからと、奏澄は着替えに部屋に戻った。暫くそのままでいればいいとライアーが提案したが、スカートを船に引っかけて破きそうだから、とのことだった。
 残されたライアーは、メイズに向き直った。

「メイズさん、もうちょっと女心学んでくださいよ。見てるこっちがハラハラする」
「そういうのは女共がやるだろ。何で俺が」
「アンタが! 言うことに! 意味があるんでしょうが!」

 再びキレたライアーに、メイズは意味がわからないという視線を向けた。
 これは長期戦になりそうだ、とライアーはこめかみを押さえた。機微に疎いわけではないのに、意図的にそういった方面だけ切っているのだろうか。

「はいはい、オレが悪かったです。メイズさんには関係ないですよね。カスミが誰のためにオシャレしようが、誰と一緒に出かけようが、誰に泣かされようが、全然気にならないんですもんね」

 言った瞬間、びり、と肌を刺すような殺気がライアーを襲った。

「泣かせた話は初耳なんだが」
「……オレじゃないですよ。別れたあとなんかあったっぽいですけど、気になるなら本人に聞いたらどうですか」

 むっつり黙り込んだ顔を見て、ライアーは息を吐いた。
 なんだ。

 ――全然、関係無いなんて、思っちゃいないじゃないか。

 泣かせた相手を殺しかねない様子だが、奏澄の話を信じるなら、誰かが原因というわけではなさそうだから大丈夫だろう、とライアーは無理やり納得した。

「それより、ギルドの方はどうだったんだ」
「ああ、それなんですけど」

 ライアーは、奏澄と自分の手配書が出ていたこと、その内容を伝えた。
 最も気がかりなことを。

「『生け捕りに限る』?」
「やっぱおかしいですよね。普通手配書は『生死問わず』なのに」

 奏澄が手配書の金額を見ようとした時、隠したのは金額ではない。金額も初犯にしては破格だったが、そのすぐ下に書かれた注意書き『生け捕りに限る』という文言を、ライアーは隠したのだった。

「前例が無いわけじゃないが……」
「それって情報目的で拷問前提とかそういうやつでしょう。いったいカスミから何聞きだそうってんだか」
「何かを聞きたいのか、させたいのか。何にせよ、利用価値があると思っていることはこれではっきりした」

 生け捕りということは、少なくとも奏澄が賞金目当てに殺されることは無くなった。しかし、万が一捕まった場合には、死よりも酷い目に遭う可能性がある。

「わかってると思うが、カスミには」
「はいはい、言いませんて。でも、本人だってその内目にすると思いますよ」
「……わかってる」

 ――本当に、わかってんのかね。

 思ったが、口には出さなかった。
 その夜。航海日誌と日記を閉じて、奏澄は自室で大きく伸びをした。
 ライアーが追われるハプニングはあったが、そう大きな騒ぎでもない。急いで出航することもないので、コバルト号はまだ島に停泊している。宿を取っても良かったが、念のため奏澄は船の方にいることにした。

 今日の日記は、少し長くなってしまった。反省点や、思ったことなどをつらつらと書いていたら、文章がどんどん伸びてしまった。しかし、文字にすることで、多少気持ちが整理できたような気がする。
 事前に可能性を考慮していたから、手配書を見た時、大きく動揺するようなことは無かった。それでも、まさか自分が罪人として手配されるようなことが人生の内にあるとは思ってもみなかった。至って善良な一市民として生き、生涯そのままだと思っていた。
 元の世界に戻った時、自分は自分のままでいられるだろうか。
 今の自分は、昔ほど嫌いではない。失敗も多いが、大切な仲間がいて、仲間も大切にしてくれて、試行錯誤を繰り返す中で成長も感じていた。楽しい、と感じる時間が、確かにある。

 壁にかけられた、ライアーが選んでくれた服を見る。ライアーの手腕は、魔法のようだった。わくわくした。思い返して、笑みが浮かぶ。
 元の世界でだって着飾ることはしたが、どちらかと言うと体面を気にして、みっともなくないように、同行者に迷惑をかけないように、という意識が強かったように思う。着飾って、それを誰かに見てほしい、だなどと。
 メイズの言葉を反芻して、奏澄はにやけそうな顔を手でぐにぐにと伸ばした。別に、深い意味はない。褒められたら誰だって嬉しい。こちらに来てからおしゃれなどしなかったから、少しテンションが上がっただけだ。
 それだけの、はずだ。

 コンコン、とノックの音がして、奏澄の肩が跳ね上がった。

「ど、どうぞ」
「入るぞ」

 訪ねてきたのはメイズだった。こんな時間に部屋に来るような人物は他にいないので予想はしていたが、今まさに考えていた相手だったので、動揺してしまう。

「どうしたの?」
「今日のことで、ちょっとな」

 それを聞いて、奏澄は気を引き締めた。ギルドに行ったのは、メイズの意向だったはずだ。今後についての、重要な話かもしれない。
 しかしメイズは、すぐに話を切り出さず、何か言いにくそうにしている。

「メイズ? 何?」
「いや……お前、何か俺に話したいこととかないか」
「話したいこと?」

 奏澄は首を傾げた。メイズが聞きたいことならまだしも、奏澄が話したいこと、というのはどういう意味だろう。

「えっと……手配書のこと? ライアーから聞いたんじゃなかったっけ」
「ああ、そっちは聞いてる。そうじゃなくて、ライアーと別れた後、何ともなかったか」
「ああ、うん。ラコットさんたちと合流できたから、特には」
「……そうか」

 そう言ったものの、納得いかない顔をしている。真意が読めなくて、奏澄は不安になった。もしかして、ラコットたちがあの出来事を話したりしたのだろうか。

「何か気がかり?」

 奏澄が問うと、メイズは逡巡する様子を見せた後、重い口を開いた。

「お前が、誰かに泣かされたんじゃないかと」
「えっ」

 それは誤解だ。奏澄は勝手に泣いただけで、誰にも泣かされてなどいない。驚いた僅かな沈黙をどう取ったのか、メイズは言葉を続けた。

「言いたくないなら、言わなくていい。ただ、お前は抱え込むところがあるから、俺に遠慮しているなら話を聞こうと思っただけだ」

 その言葉を聞いて、奏澄は胸がぎゅっとなるのを感じた。奏澄が、何か辛いことがあったんじゃないかと心配して、でもそれを無理やり聞き出すのも憚られ、わざわざ様子を見にきてくれたのだ。
 衝動的に抱きつきたくなって、ぐっと堪えた。これがマリーだったら、多分、遠慮なく飛びついていた。でも今、メイズ相手には、何故かできなかった。

「心配かけてごめん。でもそれ、誤解で、誰にも泣かされてないよ」
「……つまり、あいつの勘違いだと」
「あ、いや、えと、泣いたことは泣いたんだけど」

 あいつ、がライアーなのかラコットなのかはわからないが、伝聞なのだとしたら相手を嘘つきにしてしまう。それは避けたくて補足したが、余計なことを口走ったかもしれない。

「やっぱり何かあったのか」
「えーーっと」

 断片的に情報を出すと、誤解が加速しそうだ。奏澄は観念して、ライアーと別れた後のことを話した。

「そういう、感じなので……自業自得というか、とにかく、大丈夫だから」

 話を聞いたメイズは、理解はしたようだが、納得はしていない、という顔だった。

「男に絡まれたことには変わりないだろう」
「だから、絡まれてないから。善意だから」
「善意とは、限らないだろ。下心があったんじゃないか」
「……メイズ?」

 何故だろう。ラコットと出会った時と同じような不機嫌さを感じる。

「今後、ああいう格好はしない方がいいんじゃないか」
「なんで?」
「女に見える」

 予想外の言葉が出てきて、奏澄は一瞬固まった。変化に無頓着なのかと思ったが、そういうわけでは無かったようだ。

「私、最初っから、女だけど」
「そういう意味じゃない。わかって言ってるだろ」

 わかる。わかるが、わからない。それは、悪いことなのだろうか。そして、メイズに指摘されるようなことなのだろうか。
 少しだけむっとして、なのに、何故か僅かに喜びがあった。
 多分、ここは、怒るところなのだ。奏澄の服装をメイズに決められる謂れはない。たまにはおしゃれしたい時だってあるだろう。その度に嫌な顔をされたら、奏澄だって傷つく。
 それでも。メイズは奏澄を子ども扱いしている節があったから、年相応に見てくれた気がして、嬉しい、と思ったのだ。着飾って良かった。やってくれたのはライアーだが。

「じゃぁ、ああいう格好するのは、メイズといる時だけにする。それならいい?」

 そう言うと、メイズは微妙な顔をした。

「絡まれるのが心配なんでしょ? 一緒にいれば、問題ないじゃない」
「片時も目を離さずにいられるわけじゃない」
「お父さんか」

 思わずつっこんだ。幼児か。一瞬でも目を離したら消えるとでも思っているのか。
 しかしその言葉を受け取ったメイズは、むしろ得心がいった、という顔だった。

「そうかもしれないな」
「はい?」
「父親ってのは、娘に虫が寄りつくのを嫌がるものなんだろ」

 奏澄は呆然とした。何だろう、この、一歩進んで二歩下がったような感じは。
 今度こそむっとして、奏澄はメイズに枕を投げつけた。

「メイズのばーーーーか!!」

 部屋から追い出して、ドアを閉めた。肩で息をして、そのまま座り込む。

「何してんだか……」

 それこそ、十代の反抗期のような態度を取ってしまった。自分でも、何故こんな馬鹿な真似をしたのかわからない。
 十代と違うのは、奏澄は自制が利く方なので、すぐに謝る方向へ思考が向くことだろう。
 今日はもう恥ずかしさから顔も合わせられないが、明日になったら自分から謝罪しよう、と心に決めた。