おれは、ユイと一緒に、丘の上の公園に座っていた。
丘の上は、狂瀾怒濤の日々が嘘だったかのように静かだった。
宵の帳がうっすらとかかるビル群のあちらこちらから、赤黒い炎が上がっている。
街の象徴だった天を突くビルは、まるで魔女狩りで火あぶりにされているようだ。
多分、ヤツらはあの炎に焼かれて平穏を得るのだろう。
死してなお、苦しみ惑う亡者たちに、ようやく安らぎが訪れるのだ。
「終わったんだな……」
そんな様子を眺望し、おれは、かすれた声で呟いた。
おれの背にもたれかかり、うとうとしていたユイがかすかに身じろいだ。
「あ、ふぁ……」
ユイに抱かれた赤ん坊が、眠りながらあくびをする。
ユイ、おれの愛する人。
たとえ命を捨てても、護り抜くと誓った恋人。
ヤツらさえ現れなければ、おれたちは、今頃は平凡な幸せを手にして、かわりばえのしない生活を送っていたはずだ。
朝起きて、二人で朝食を取り、満員電車に揺られて出勤する。
仕事が終われば、駅で待ち合わせて、一緒に買い物をして小さな我が家に帰って、夕飯を作って、食べて……。
そんな生活が……。今はもう、渇望しても手に入らない平凡な生活が、愛おしくて仕方ない。
ヤツらが現れたのは、わずか三ヶ月前だった。
日本では根絶されているはずの、狂犬病が発生したという噂が最初に流れた。
移民を受け入れている限り、その危険はある程度、予測されていた。
海外から入国するペットの検疫期間が大幅に短縮されたからだ。
狂犬病は、発症したらほぼ百パーセント死に至る。
だが、その感染症は狂犬病ではなかった。
人が人を咬む。咬まれることによって感染する、死に至る病。
発症までの潜伏時間は、人によって差があった。免疫力なのか、咬まれた傷の場所なのか。傷の大きさなのか。
それでも、三日以内には発症して、ヤツらの仲間になった。
ヤツらを殲滅するには、脳を破壊するか、炎で焼き払うかのどちらかしかない。
生き残ったおれたちは、高層ビル群へヤツらをおびき出し、火をかける計画を立てた。
ヤツらは新鮮な人肉を好む。
ヤツらを火あぶりにする計画を立てたとき、大きな問題が持ち上がった。
エサだ。
ヤツらをおびき寄せるためには、たくさんの生き餌が必要だ。
自分の家族を逃がすために、自ら志願した老夫婦がいた。
ヤツらの襲撃から妻子を護って足を咬まれた男がいた。
実は咬まれていたのに、それを必死に隠す者たちもいた。
中世の魔女狩りのように、大勢の感染者は見つけ出され、次々とその、ビルという名の柩に押し込まれていった。
一度咬まれれば、回復の見込みはない。咬まれたときに、その人の死は確定してしまったのだ、と。
そうやって、エサを選別した。
自ら進んで拘束してくれと言い出した感染者のおかげで、おれたちは心を鬼にした。感染者が、いつ発症しても他の者を咬まないように、鎖で繋いで自由を奪ったのだ。
そうして、志願した者たちと感染者たちを閉じ込めた火あぶりの塔は、封印された。
「あんなこと、許されるわけないよね……」
おれの背にもたれていたユイが、震える声で言った。
「それでも、誰かが生き残れるなら……」
「仕方ない?」
「…………」
おれは、答えられなかった。
「ほかのみんな、ちゃんと逃げられたかな?」
生き餌を集め、火をかける役目を買って出た若者がいた。
おれの親友だった。
おれと、あいつと、ユイは幼なじみだった。
そして多分、あいつもユイのことが好きだった。
あいつは、ヤツらを引き連れて火あぶりの塔にタンクローリーで突っ込み、自爆する計画を立てた。
言い出しっぺがその役目を担うのは当然だと笑って言った。
「ユイを、頼む」
泣きながらあいつにすがりつくユイの姿を見るのは辛かった。
だが、ユイがヤツらに喰われるのを想像するのは、身を斬られるより辛かった。
だから。
おれは、決断した。
「絶対に、ユイを護る」
あいつと拳を打ち付け合い、おれたちは別れた。
もう二度と、会うことはない。
「ユイ! 幸せになれ!」
映画のヒーローみたいなかっこよさで、あいつはタンクローリーに乗り込んだ。
ユイは、必死で涙を拭って、あいつを見上げた。
「うん」
しっかりとうなずいたユイは、おれの腕に自分の腕を絡めて、あいつに背を向けた。
おれは、あいつの目を見て浅くうなずくと、ユイの手を握って走り出した。
もう、振り返らない。
ひとりでも多く生き残る。
それが、人類の芽を絶やさないための、おれとユイの使命だ。
瓦礫と、喰い散らかされた肉片、そして、頭を吹き飛ばされたヤツらの死骸が散乱する街を、二人で進んだ。
崩れた雑居ビルの陰から、ヤツが現れた。
「あそこ!」
ユイがいち早く見つけて指をさした。
おれの武器は散弾銃だ。
素早く構えて、元は髪の長い女だっただろうヤツの頭を狙った。
銃声が轟き、ヤツは吹っ飛んだ。
最初は、怖くて引き金が引けなかった。
やられる!
ヤツらに襲いかかられる寸前、自衛隊上がりのおっさんに助けられた。
いかつくて、豪快で、やたら歯の白いおっさんだった。
「ヤツらはもう人間じゃない!」
そうだ。ヤツらは人を喰らう化け物だ。
頭ではわかっている。でも、心は別だ。
そのおっさんは、たくさんの人を助けたが、足を咬まれて感染した。
おっさんは、一晩高熱で苦しみ、そして発症した。
「その銃で、おれを撃て!」
おれは、泣きながら引き金を引いた。
おっさんの頭が、スイカのようにはじけ飛んだ。
おれは、初めて人を殺した。
もう人ではなかったかもしれないが、それでも、おれにとっておっさんは、最期まで勇敢な人間だった。
荒廃した道なき道をユイの手を引いて歩いた。
どこかで、かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえた。
……ような気がした。
ユイは、とっさに走り出した。
泣き声を頼りに、路上に放置されていた車に駆け寄った。
ドアが開け放たれていて、のぞき込むと、そこにはベビーピンクのおくるみにくるまれた赤ん坊がいた。
ヒカリをよろしくお願いします。
と書かれたメモといっしょに、おむつやミルクの入ったバックが横に置かれていた。
おそらく、この子の母親は感染してしまったのだろう。
だから、かすかな望みにすがるように、この子をここに放置した。
もしかしたら……。
さっき撃ち殺した長い髪のヤツは……。
いや。
考えても詮ないことだ。
ユイは、赤ん坊をそっと抱き上げた。
「ねえ……。ダメかな?」
赤ん坊なんて、足手まといにしかならない。
そんなことはわかっていた。
「この子も連れて、行けるところまで」
ユイの言葉に、俺は黙って赤ん坊のバッグを肩にかけた。
そうだ。おれたちの逃避行にアテはない。
人間のまま、どこまで行けるか。
それだけだ。
いざとなれば、この子をヤツらの群れの中に放り込んで、その隙に逃げ……。
などという恐ろしい考えが浮かんで、おれは必死でそれを打ち消した。
自分が、どんどん狂ってきているのを感じていた。
異常な緊張状態が続くと、人は適応という名の狂気に陥るのだろうか。
そうして、おれとユイは、拾った赤ん坊を連れて、街が一望できるこの丘の公園まで来た。
今夜はここで休んで、また朝になったら出発しよう。
おれたちの未来に向かって。
「ふふっ。可愛い」
ユイは、自分の人差し指を赤ん坊に吸わせて笑っていた。
ちゅっちゅっと可愛い音をたてて、ユイの指を吸う赤ん坊は、無垢な本能に従うだけの天使のような存在だった。
「ねえ。お腹すいてるかもだから、ミルク作ってあげなきゃね」
ユイがおれを振り返って、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
つまり、彼女が赤ん坊をあやしている間にミルクを作れと言っているのだろう。
「って言っても、お湯湧かす場所なんてな……」
「きゃ、痛っ!」
ユイが、小さく叫ぶ。
「えっ!?」
おれは、雷に打たれたみたいな衝撃を受けた。
「どうした、ユイ!?」
慌てて、赤ん坊を抱くユイに駆け寄った。
赤ん坊は、ユイの腕の中で天使のように微笑んでいた。
その小さな唇を、真っ赤な血で染めながら……。
「血!?」
ユイは、震える声で呟いた。
「咬……まれた……みたい」
「な!?」
咬まれた? 赤ん坊に?
まだ、ちっちゃな乳歯が何本か生えたくらいの赤ん坊に?
見ると、ユイの右手の人差し指から、鮮血がしたたりおちている。
「赤ん坊をそこに置け」
顎をしゃくってベンチの方を見た。
ユイは、よろよろと芝生を歩いて、ベンチに赤ん坊を寝かせた。
「手を」
おれは、ユイの右手首を、結束バンドできつく締め上げた。
結束バンドは、サバイバルの必需品だ。
咬まれたのが指先だから、血流を遮断すれば、助かるかもしれない。
「斬り落として!」
ユイは、震えながら叫んだ。
「でも……」
「死にたくないよ……。あんな姿になって、人間を襲うのも嫌。だから、少しでも可能性があるなら、斬り落として!」
斬り落とす? ユイの手を……?
指を?
それとも、手首を?
おれの心臓は、口から飛び出そうなくらい暴れていた。
だが、迷っている時間はない。
いや、でも、あの赤ん坊は本当に感染しているのか?
「ちょっと待て。確かめる」
おれは、ベンチに寝かされた赤ん坊のおくるみをはいだ。
「おむつを替えたときに、それらしい傷はなかったわ」
だとすると……。下半身から腰ではない。
ロンパースの肩のスナップを外した。
左肩から背中にかけて、大きな絆創膏が貼ってあった。
そして、その周囲の皮膚が紫色に変色している。
何度も何度も見てきた、感染者の傷口周囲の浸潤……。
おれは、スナップを止め直しながら、大きく息を吐いた。
「ユイ」
低く呼びかける。
「斬るぞ」
「うん」
とうに覚悟を決めていたように、ユイはうなずいた。
そして、腰から下げていた鉈をおれに差し出した。
これが、彼女の武器だ。
ヤツらの頭を一撃で割れば、無力化できる。
おれは、それを公園の水道で丁寧に洗って、ライターで刃をあぶった。
「手首を落として」
ユイは、凛とした声で言った。
手首を落とす……。
なんて非現実的な言葉だろう。
だが、安全策を取るなら肩から斬り落としてもいいくらいの感染力なのだ。
おれたちは、いや、この世界に残された人間は、それをよく知っている。
木の切り株の上に布を敷いて、ユイはそこに右手を乗せた。
見つめ合う目と目が頷きあった。
おれは、鉈を振り上げ、その重さに渾身の力を込めて、ユイの右手首に振り下ろした。
悲鳴も上げずに、ユイは身体をのけぞらせた。
そのまま地面に倒れ込む寸前で、おれが抱き留める。
ユイは、気を失っていた。
なんで……。
なんでこんなことに……?
ユイ……。
幼い頃から勝ち気で、男の子とも本気で取っ組み合いをするような少女だった。
だけどそれは、大抵、おれが悪かったとき。
ユイは誰よりも優しくて、強くて、そして、本当は泣き虫だったのを、おれは知っている。
おれは、多分、子供の頃からユイのことが好きだったんだと思う。
だけど、ユイの方はどうだったのだろう?
ヤツらが現れて、看護師だったユイの母親が感染した。
最期まで、感染者を救おうと全力を尽くした医療従事者が、皮肉にも最初のクラスターとなり、感染爆発を起こすこととなった。
ユイの母親は、閉鎖された病院に立てこもり、集団自決をした。
そのときに、ユイの母親からおれは託されたのだ。
「ユイを、お願いね……」
母子家庭だったユイは、家族を失った。
彼女は、泣いて泣いて泣いて……。
そして、泣きはらした顔でおれを見上げてきた。
「ありがとう。一緒に居てくれて頼もしかった」
「ユイ、結婚しよう」
おれの口が勝手にそう喋っていた。
泣き顔で、なおも背筋を伸ばそうとしている彼女を見ていると、おれは、感情の制御ができなかった。
ムードも何もない。
いきなりのプロポーズだった。
ユイは、一瞬、驚いたように目を見開いて、そして微笑った。
「うん」
そのときの、ユイの泣き笑いのような美しい表情を、おれは一生忘れないだろう。
街を一望できる丘の上の芝に座って、おれは燃える街を見ていた。
夜の闇に、業火の赤い舌がメラメラと天を焦がしている。
膝枕でユイが眠っていた。
布でぐるぐる巻きにされたユイの欠損した右手を見て、おれは、絶対に離れないと心に誓った。
ユイは、おれの世界の全てだ。
たとえ、今夜、世界が終わるとしても、君を愛してる。
上弦の月が天空から淡い光を照らしている。
ユイは、かすかに身じろいで目を覚ました。
腕の痛みに顔をしかめる。
「やっぱり、痛いね」
やせ我慢して、辛そうに笑った。
おれは、そっと、ユイの髪を撫でた。
美しく艶やかな黒髪だった。
「熱がある。少し落ち着くまで、また寝たらいい」
「ヒカリちゃんは?」
「多分、苦しまなかったと思う」
「そう……」
春になると公園一杯に咲き乱れる桜の木の下に、赤ん坊の遺体とユイの手首を一緒に埋めた。
「ごめんね」
何に対しての謝罪なのか……。
赤ん坊を連れてきた事への謝罪なのか、手首を切り落とすなどという蛮行を強いた事への謝罪なのか……。
ユイは、それだけ呟くと再び眠りに落ちた。
大丈夫だ。おれは、ユイを護るためなら何だってする。
彼女と一緒に居るためなら、なんだって……。
でも、もし、彼女を失うようなことがあったら……。
膝にユイの重みを感じながら、おれは、最悪の考えが浮かんでくるのを必死で拭い去ろうとした。
東の空が白み始めたころ、ユイは再び目を覚ました。
熱で朦朧としているのか、うつろな目をしている。
「ユイ」
おれは、祈るような気持ちで呼びかけた。
「おはよう」
ユイは、かすれた声で挨拶をした。
切断した手首に巻いた布が、血を吸って赤く染まっている。
手首はギチギチに締め上げている。二の腕に止血帯を巻いたので、それを時々緩めてやらねばならない。
だから、心配したほどの出血量ではない。
「ビスケットがある。食えるか?」
おれは、リュックからペットボトルの水と、ビスケットを出して、ユイの左手にビスケットを一枚握らせた。
ユイは、ビスケットをそっと口に運んだ。
一口、囓る。
「う……」
その場に崩れるようにして、ユイはビスケットを吐き出した。
おれは、黙ってユイの背をさする。
ダメか……。
やっぱり、ダメなのか……。
ユイの右腕が、切断面から少しずつ紫色に変色してきていた。
それは、ゆっくりと腕を這い上るように、紫色の蛇に絡め取られるように腕を登ってきている。
もっと上の方から落とせば間に合っただろうか?
そもそも、血流に乗って感染が広がるものならば、感染部位を切除しても気休めにしかならないのはわかっていたのに。
ユイは身体を起こすと、少しだけペットボトルの水を飲んだ。
そっとおれの肩に頭を預ける。
熱を帯びたユイの身体は、とても熱かった。
「あのね……。結婚しようって言われたとき、わたし、すごくびっくりしたんだ……」
ユイは唐突に話し出した。
「好きだとも、付き合おうとも言わずに、いきなり結婚だもん」
「なんだか、テンパっちゃって、おれ……」
「でも」
ユイは、ぱぁっと花が咲くように笑った。
「とっても嬉しかった」
「うん」
「これからは、ずっとずっと一緒にいられるんだって……」
「うん」
「だからね、どんなことにも耐えようって思ってた。こんなになっちゃった世界でも、望みのない未来でも、二人で一緒なら……って」
「うん」
「いつか、赤ちゃんが出来て、産んで育てて、その子と一緒に、家族を作って……」
「うん」
「わたしはシワシワのおばあちゃんになって……、あなたはツルピカのおじいちゃんになって……それでも仲良しで……」
「うん」
相づちを打つおれは、いつの間にか泣いていた。
ユイがあまりに幸せそうに話すから。ほんものの未来のように明るく語るから。
だから、おれも、その来るはずもない未来を思い描いた。
胸がえぐられるようだった。
息が出来なかった。
何か重たい物が、どんどん身体の中に詰まっていくような、胃袋が苦い砂で満たされていくような。
そんな苦しさで押しつぶされそうだった。
「……ちゃん……ありが……とう……」
ユイの声は、もうほとんど聞こえなかった。
「だから……生きて……」
そう言い残して、ユイはまた眠りについた。
ここから一晩か二晩……。
高熱の中、地獄の苦しみに襲われ、獣のような咆吼をあげて、ユイはヤツらの仲間入りをするのだ。
おれは、ユイをそっと芝の上に寝かせた。
その唇に最期のキスを送る。
「おやすみ、ユイ」
俺は銃を構えた。
視界は涙でぐちゃぐちゃで、よく見えない。
ユイ……ユイ……ユイ……。
うわごとのようにその名を呼び続けた。
そして、震える指先で引き金を引いた。
おれは膝から崩れ落ち、彼女の亡骸にすがって泣いた。
喉がひりつき、声が出なくなるまで泣いた。
ユイは最期に、おれに生きろと言った。
この狂った世界で、おれに、独りで生きろと言った。
もし、おれがこの世界を救える救世主なら、それもアリかもしれない。
だけど……。
おれに残されたのは、ユイへの想いだけだ。
だから。
おれは……。
なあ、ユイ……。
今夜、世界が終わるとしたら、君と眠ろう。
了