まさか、学生の時にアルバイトしていたラジオ局のビルに行くとは思わなかった。
街づくり会社に勤めているボクは、会社からの命令で食品衛生責任者講習を受けることになったのだが、まさか、その会場が岐阜県大垣市にある情報工房ビルだとは。
このビルの5階には、講演や講習、コンサートなどさまざまなイベントが行えるホールがあり、ここで今日は、朝から夕方までみっちりと勉強しなければならない。
大学の卒業とともに、ここでのアルバイトを辞めたのは、……5年前か。
見慣れた駐車場に車を停め、昔のようにビルの中に入る。
午前8時すぎ。こんな早い時間だと、ビル内の人はまばらだ。
1階の奥にガラス張りのスタジオが見えた。懐かしい。
5年前までボクは、あのスタジオがFM大垣のアシスタントディレクターをしていたのだが、……もう今となっては、ちょっとした苦い思い出だ。
今も変わらず、FM大垣はスタジオ前を一般の人が観覧できるようにベンチを配置し、この時間は朝のワイド生番組を放送しているようだ。
朋美は元気にしてるかな?
朋美も当時、大学生で、一緒にアルバイトでスタッフとして働いていたが、大学卒業後はそのままFM大垣の社員として採用された。
今もここで働いているかと思うと、すごく気になる。
その時、軽快な電子音とともに、ビルのエントランスすぐ近くにあるエレベーターの扉が開いた。
時間に余裕があればスタジオに顔を出して、朋美やほかの知っているスタッフにも挨拶したいが、……エレベーターに乗るしかない。
5階の講習会場に早めに入って、手続きを済ませておきたかった。
小さな声で「またな」と独り言をつぶやいて、ボクはエレベーターに乗り込む。
上昇するエレベーターの窓から外を眺めていると、改めて自分がありふれた大人へと変わりつつあるのを実感する。
街づくり会社の社員として、地域の産品を活用した商品開発や販売をする業務には慣れてきたが、そもそも好きな仕事ではなかった。今でも、好きになれないでいる。
よく会社を辞めずにここまでこれたものだ。
ストレスが多いし、つまらない。もう少し言えば、給料もよくない。だからいつか辞めて、違う仕事に就こうと理想を掲げていたのに、ズルズルとここまできた。
理想は日々の慌ただしさで薄れ、もはや何が自分の理想が何だったのかを見失い、不感症の図々しい大人へとボクは変貌していく。
エレベーターが5階に着いて扉が開かれた瞬間、刺激のない苦痛な日常、という現実が待ち構えていた。
他の受講生と紛れるように、ボクは個性を包み隠して、受付を済ませる。指定された座席に座り、机の上に置かれた分厚いテキストを開く。
────ボクの幸せって、何だっけ?
受講をすることで食品衛生責任者の資格を手に入れれば、仕事でできることが増えはする。しかし、ボクは仕事に対して完全に冷めていた。
どうでもいい。
仕事とはただ、苦痛に耐えるだけのものだ。
毎日、耐えて、耐えて、終業という解放の時を待つ。
食品衛生責任者の講習は座学のみで、内容もつまらない。
その講義中、ふと、また朋美のことを思い出してしまった。
今も、この真下のスタジオで仕事をしているのか……。
あの時、ボクは朋美のことが誰よりも好きだった。本人にも好きだと告白したし、それを朋美は軽く受け入れてくれていた。
それなのにキスすらしないまま、あの恋を卒業とともに終らせてしまったことを今でも後悔している。
当時、アルバイト終わりには、よく二人きりで大垣駅前まで歩いたものだ。
朋美は大垣駅からすぐそばのアパートに住んでいて、ボクは大垣駅から三区間離れた東赤坂駅からさらに自転車で20分もかかる僻地にアパートがあった。
せっかく二人きりになっても、歩いて10分もあれば大垣駅前の朋美のアパートに着いてしまう。
毎回抱きしめたい、という衝動に何度も駆られながら、ボクは何もできず、気が付いたらいつも駅前のアパートに着いてしまっていた。
「バイバイ」
毎回、駅前で別れるだけ。虚しく月日だけが過ぎていった。
ただ、あの夜だけは違った。
「うちに泊まる?」
もし時間を巻き戻せるなら、あの寒かった夜の時間をもう一度、ボクにほしい。
そう、あれは大雪となった5年前の1月。
昼過ぎから雪が降り積もり、ラジオのアルバイトを終わって帰る時間になると、積雪が30センチを越えていた。
電車は平常通り運行していて、大垣駅から東赤坂駅まで順調に行けるのはよかったが、そこから大雪の中を自転車に乗ってアパートまで行くのは、正直、かなり苦しい。
「こんな大雪の中、東赤坂駅からアパートまで戻るのは無理だって。しかも明日のアルバイト、早朝出勤なんでしょ?」
「うん」
吹雪の中を、二人で傘を差して歩いていた。
「じゃあ、もううちに泊まりなよ」
ボクは耳を疑う。泊まるということは、そういうことだけど、それでいいと朋美は思ってくれているのだろうか。
「いいの? ホントに?」
「……うん」
その横顔が、あまりにもかわいくて、ボクは赤面してしまう。
しかし、この時のボクはあまりに青く、余裕がなかった。自分の納得できるタイミングでないと、なかなかこういうシチュエーションを受け入れられない。
「ごめん、やっぱり帰るよ。明日の朝までに家でやらなきゃならない大学の宿題があってさ」
「そう」
朋美は不服そうだった。
「また、今度ね」
「うん」
そしてボクらは、いつもどおり大垣駅前で別れる。
それ以後、何も進展しないまま3月の大学卒業とともにボクはFM大垣のアルバイトを辞め、朋美と離れ離れになった。
ボクは就職してから、大垣市内の実家で暮らしている。今もお互い市内に住んでいるというのに、一切連絡を取っていない。
その気になればいつでも会えると思っていたら、結局会わないまま今日まできてしまった。
朋美はきっと、ボクのことなど忘れているだろう……か? 男もきっといるだろう。それはそれでいい。
遠い記憶と、あの夜の後悔を思い浮かべながら、気が付いたら食品衛生責任者の講習は終わった。
他の受講生らとともにエレベーターに乗って1階に下りる。ドアが開くと、朝と同じように、遠くにスタジオが見えた。
今は午後5時15分。ちょうど夕方の生放送の真っ最中だ。男性のパーソナリティがスタジオで喋っている。
あのパーソナリティはきっと久世さんだろう。
朋美はあの番組を担当しているのかな?
近づいて、挨拶をしてもいいが、……今更、バカだね、ボクは。
ボクはためらいを振り払うように勢いよく反対の方を向いて、玄関の自動ドアへと進む。
その時、背後から大きな声が聞こえた。
「仁人! 待って」
まさか。いや、間違いない。
低めの声ですぐに、ピンときた。振り返ると、……やっぱり朋美だ! 息を切らしながら駆け寄ってきた。
街づくり会社に勤めているボクは、会社からの命令で食品衛生責任者講習を受けることになったのだが、まさか、その会場が岐阜県大垣市にある情報工房ビルだとは。
このビルの5階には、講演や講習、コンサートなどさまざまなイベントが行えるホールがあり、ここで今日は、朝から夕方までみっちりと勉強しなければならない。
大学の卒業とともに、ここでのアルバイトを辞めたのは、……5年前か。
見慣れた駐車場に車を停め、昔のようにビルの中に入る。
午前8時すぎ。こんな早い時間だと、ビル内の人はまばらだ。
1階の奥にガラス張りのスタジオが見えた。懐かしい。
5年前までボクは、あのスタジオがFM大垣のアシスタントディレクターをしていたのだが、……もう今となっては、ちょっとした苦い思い出だ。
今も変わらず、FM大垣はスタジオ前を一般の人が観覧できるようにベンチを配置し、この時間は朝のワイド生番組を放送しているようだ。
朋美は元気にしてるかな?
朋美も当時、大学生で、一緒にアルバイトでスタッフとして働いていたが、大学卒業後はそのままFM大垣の社員として採用された。
今もここで働いているかと思うと、すごく気になる。
その時、軽快な電子音とともに、ビルのエントランスすぐ近くにあるエレベーターの扉が開いた。
時間に余裕があればスタジオに顔を出して、朋美やほかの知っているスタッフにも挨拶したいが、……エレベーターに乗るしかない。
5階の講習会場に早めに入って、手続きを済ませておきたかった。
小さな声で「またな」と独り言をつぶやいて、ボクはエレベーターに乗り込む。
上昇するエレベーターの窓から外を眺めていると、改めて自分がありふれた大人へと変わりつつあるのを実感する。
街づくり会社の社員として、地域の産品を活用した商品開発や販売をする業務には慣れてきたが、そもそも好きな仕事ではなかった。今でも、好きになれないでいる。
よく会社を辞めずにここまでこれたものだ。
ストレスが多いし、つまらない。もう少し言えば、給料もよくない。だからいつか辞めて、違う仕事に就こうと理想を掲げていたのに、ズルズルとここまできた。
理想は日々の慌ただしさで薄れ、もはや何が自分の理想が何だったのかを見失い、不感症の図々しい大人へとボクは変貌していく。
エレベーターが5階に着いて扉が開かれた瞬間、刺激のない苦痛な日常、という現実が待ち構えていた。
他の受講生と紛れるように、ボクは個性を包み隠して、受付を済ませる。指定された座席に座り、机の上に置かれた分厚いテキストを開く。
────ボクの幸せって、何だっけ?
受講をすることで食品衛生責任者の資格を手に入れれば、仕事でできることが増えはする。しかし、ボクは仕事に対して完全に冷めていた。
どうでもいい。
仕事とはただ、苦痛に耐えるだけのものだ。
毎日、耐えて、耐えて、終業という解放の時を待つ。
食品衛生責任者の講習は座学のみで、内容もつまらない。
その講義中、ふと、また朋美のことを思い出してしまった。
今も、この真下のスタジオで仕事をしているのか……。
あの時、ボクは朋美のことが誰よりも好きだった。本人にも好きだと告白したし、それを朋美は軽く受け入れてくれていた。
それなのにキスすらしないまま、あの恋を卒業とともに終らせてしまったことを今でも後悔している。
当時、アルバイト終わりには、よく二人きりで大垣駅前まで歩いたものだ。
朋美は大垣駅からすぐそばのアパートに住んでいて、ボクは大垣駅から三区間離れた東赤坂駅からさらに自転車で20分もかかる僻地にアパートがあった。
せっかく二人きりになっても、歩いて10分もあれば大垣駅前の朋美のアパートに着いてしまう。
毎回抱きしめたい、という衝動に何度も駆られながら、ボクは何もできず、気が付いたらいつも駅前のアパートに着いてしまっていた。
「バイバイ」
毎回、駅前で別れるだけ。虚しく月日だけが過ぎていった。
ただ、あの夜だけは違った。
「うちに泊まる?」
もし時間を巻き戻せるなら、あの寒かった夜の時間をもう一度、ボクにほしい。
そう、あれは大雪となった5年前の1月。
昼過ぎから雪が降り積もり、ラジオのアルバイトを終わって帰る時間になると、積雪が30センチを越えていた。
電車は平常通り運行していて、大垣駅から東赤坂駅まで順調に行けるのはよかったが、そこから大雪の中を自転車に乗ってアパートまで行くのは、正直、かなり苦しい。
「こんな大雪の中、東赤坂駅からアパートまで戻るのは無理だって。しかも明日のアルバイト、早朝出勤なんでしょ?」
「うん」
吹雪の中を、二人で傘を差して歩いていた。
「じゃあ、もううちに泊まりなよ」
ボクは耳を疑う。泊まるということは、そういうことだけど、それでいいと朋美は思ってくれているのだろうか。
「いいの? ホントに?」
「……うん」
その横顔が、あまりにもかわいくて、ボクは赤面してしまう。
しかし、この時のボクはあまりに青く、余裕がなかった。自分の納得できるタイミングでないと、なかなかこういうシチュエーションを受け入れられない。
「ごめん、やっぱり帰るよ。明日の朝までに家でやらなきゃならない大学の宿題があってさ」
「そう」
朋美は不服そうだった。
「また、今度ね」
「うん」
そしてボクらは、いつもどおり大垣駅前で別れる。
それ以後、何も進展しないまま3月の大学卒業とともにボクはFM大垣のアルバイトを辞め、朋美と離れ離れになった。
ボクは就職してから、大垣市内の実家で暮らしている。今もお互い市内に住んでいるというのに、一切連絡を取っていない。
その気になればいつでも会えると思っていたら、結局会わないまま今日まできてしまった。
朋美はきっと、ボクのことなど忘れているだろう……か? 男もきっといるだろう。それはそれでいい。
遠い記憶と、あの夜の後悔を思い浮かべながら、気が付いたら食品衛生責任者の講習は終わった。
他の受講生らとともにエレベーターに乗って1階に下りる。ドアが開くと、朝と同じように、遠くにスタジオが見えた。
今は午後5時15分。ちょうど夕方の生放送の真っ最中だ。男性のパーソナリティがスタジオで喋っている。
あのパーソナリティはきっと久世さんだろう。
朋美はあの番組を担当しているのかな?
近づいて、挨拶をしてもいいが、……今更、バカだね、ボクは。
ボクはためらいを振り払うように勢いよく反対の方を向いて、玄関の自動ドアへと進む。
その時、背後から大きな声が聞こえた。
「仁人! 待って」
まさか。いや、間違いない。
低めの声ですぐに、ピンときた。振り返ると、……やっぱり朋美だ! 息を切らしながら駆け寄ってきた。