しばらくは、紅茶とシュークリームを楽しみながら、他愛も無い話に相槌を打つ。そのほとんどが、美香の愚痴と言う名の惚気話で、内心うんざりするが、それは、顔には出さない。美香の惚気は今に始まったことじゃない。
何故だか私に懐いた彼女は、大学時代の私の思い出のほとんどに登場する程に、常に私の隣にいた。
出会ってから、これまで、彼女の話題はいつだって恋愛絡みだ。美香の、のほほんとした性格はイヤになるくらい男に受ける。しかも、本人も恋愛脳なので、誰それに告白された、誰それがカッコいいなんて話は、日常茶飯事だ。
だから、私は彼女のこれまでの恋愛遍歴を全て知っていた。もちろん、彼女の結婚相手についても、付き合い始めてから、結婚に至るまでのほとんどを知っているだろう。
それは、言い過ぎでも何でもない。なぜなら、彼女から聞かされる愚痴や惚気と同じくらい、今は不在にしている彼女の結婚相手の義博からも、彼女との日々を聞かされているからである。
義博とは、美香よりも付き合いが長い。高校からの付き合いになる。彼とは、好きなものから嫌いなものまで不思議と気が合い、気がつけば、一番気心の知れる仲になっていた。
だから、2人が付き合い出したと知った時は、正直驚いた。美香は、義博がもっとも苦手とするタイプの女子だったからだ。
ほわほわとしていて、いかにも守ってあげたくなる、そんな女のことを義博は面倒だと思っていたはずだ。それなのに、今では、結婚までして美香を庇護下に置いている。なぜ、そのような心境になったのかは、どんなに問い詰めても、いつもサラリとかわされて分からずじまいだが、結局のところ、義博も他の男達と変わらないと言うことなのだろう。
美香の少し間の抜けた甘ったるい声を聞きながら、適当に相槌を打ち、ぼんやりと自身の思考に浸かっていると、不意に、美香が手の平を打合せた。
「そうだ! 茉莉花に渡したいものがあったのよ。ちょっと待ってて」
そう言いながら席を立った美香は、小さめの紙袋を持ってすぐに戻ってきた。
「コレ、私から茉莉花に」
美香は、紙袋をテーブルに置くと、ずいっと私の方へ押しやった。
「何?」
「開けてみて」
訝る私に、満面の笑みを向ける美香。促されるまま、私は、紙袋の中身を取り出した。
手にしたそれは、ピンクと薄い緑の花が小さくまとめられ、少し長めのリボンが掛けられた花束。意図がわからず、私は、美香に向かって小首を傾げた。
「うふふ。かわいいでしょ? ソレね。私がお式で使ったブーケを、少し小さくしてもらったものなの」
嬉しそうに目を細めてブーケを見る美香。しかし、その目が笑っていないような気がして、私は思わず美香から目を背ける。そんな私の些細な動揺など気がつかないように、美香の甘ったるい声が嬉しそうに、言葉を奏で続ける。
「知ってると思うけど、本当は、盛大にお式をやるつもりだったのよ? でも、あのウィルスのせいで、親族だけのこじんまりとしたお式になっちゃったでしょ? それで、茉莉花にも来てもらえなくなっちゃって……」
そうなのだ。数カ月前に突然、感染力の高いウィルスが蔓延しだし、感染防止の観点から、世の中は、軒並み大人数で集まることを規制された。それは、日常の飲食に始まり、冠婚葬祭といった集まりにまで至る。もちろん、美香たちの結婚式も、中止か、規模の大幅な縮小の決断を余儀なくされた。それで、美香は、先日親族だけで結婚式を済ませていた。
「本当は、サプライズ企画で、ブーケプルズをやるつもりだったのよ。あ、もちろん、形だけなんだけどね。だって、私、初めからブーケは茉莉花に渡すって決めてたから」
その言葉に、私は思わず眉をピクリと動かした。しかし、それを誤魔化すように、私は、頬にかかった髪をスッと手櫛で梳いてから、カップにわずかに残った、もう冷めきってしまった紅茶へと手を伸ばす。その間も、美香は楽しそうに、もう一生開催されないであろう結婚式について語り続けている。
「まぁ、やらせって言っちゃえばそうなんだけどね。でも、どうしても、私のブーケは茉莉花に受け取ってもらいたかったのよ。だから、当たりのリボンをスタッフの人から、茉莉花に渡してもらうようにお願いまでしてたのよ」
楽しそうに真相を語る美香の言葉に、思わずカップを持つ手が止まる。喉から出た声は、思いのほか硬かったが、美香は気がついただろうか。
「何それ、私、聞いてない」
「うん。だって、サプライズだから」
「どうして?」
「え?」
「どうして、そこまでして、私に?」
「だって、私は、どうしても、茉莉花に幸せになってほしいのよ。ほら、花嫁のブーケを手にした人は、次に必ず幸せになれるって言うでしょ?」
美香の言葉に心の中の重石がズシリと動いた気がした。結婚式が親族のみになって、本当に良かった。危うく私は大勢の前で晒し者にされるところだったのか。一瞬でそんな思いが胸に渦巻いた。
ブーケを渡されてから、私の心には、どす黒い靄のようなものがかかっていた。いつもならば、くだらないと思いながら聞き流せる美香の甘ったるい惚気話が、癪に障る。くだらない話が、いつにも増してくだらなく聞こえる。
聞き流せばいい。そう思うのに、そのくだらない言葉は汚泥のように私の中に溜まっていく。汚泥に塞がれて息がうまくできない。苦しい。
そう思った時、美香が暢気な声をあげる。
「ちょっと茉莉花。ちゃんと聞いてる?」
限界だ。なぜ、私がこんな奴の惚気を延々と聞かなければならないのか。
私は、最大限の作り笑顔で相槌を打つと、この後も予定があるからと言って、その場から逃げ出すことにした。美香は、もっと話したかったのにと、不満げな顔をしたが、私は、もう、一秒だってこいつの顔を見ていたくなかった。
何が幸せになって欲しいだ。私から幸せを奪った張本人が、よくも呑気にそんな事が言えるものだ。こんな花束まで渡してきて、私にマウントを取ってるつもりだろうか。
苛立ちが抑えきれず、自宅に戻ると、手にしていた紙袋をソファに投げ捨てる。ソファの上で跳ねた紙袋は、横倒しになり、その拍子に小さな花束が床に転がり落ちた。
私は、それを無視するように、わざとフンと鼻を鳴らし、そのままキッチンへ向かう。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、そのままゴクゴクと音を鳴らして一気に半分程を飲み干してから、盛大なため息と共に、缶をバンと打ち付けるようにしてダイニングテーブルに置いた。あまりの勢いに、中身が少し溢れたことに、更に苛立つ。
イライラとしている原因は、分っている。私は、美香と自分を比べているのだ。
結婚したからと言って、人生の勝ち組というわけじゃない。自分がいかに満足に人生を送るかが大切なのだ。本当に心からそう思っている。
だから、周りがいくら結婚しようと、出産しようと、私は、焦ったりはしない。笑顔で『おめでとう』の言葉を送ってきた。
でも、美香だけは、あの子にだけは、心から『おめでとう』とは言えなかった。義博と付き合う事になったと報告された時。結婚すると聞いた時。おめでたいなんてこれっぽっちも思わなかった。
ただただ悔しかった。負けたと思ってしまった。それからは、あの子の言動がいちいち鼻につく。
ブーケプルズだって、本当なら、そんなに目鯨立てるほどの事じゃない。独身だからなんだっていうのだ、そう笑い飛ばせるイベントだったのかもしれない。
しかし、それを彼女が私のためにするのだというあの物言いが、たまらなく嫌だった。いかにも、勝ち組目線で言われているようで、腹立たしい。きっと、彼女自身には露ほどもそんな考えはない。純粋に、私の幸せを願ってのことなのだろう。そうは思っても、胸に渦巻く嵐は当分収まりそうになかった。
いつから、私はあの子に対してこんな感情を抱くようになったのだろうか。以前は、恋愛脳で甘ったるい子だと思うだけで、こんなイラつきは感じなかったはずなのに。
イラつきに溺れる私を現実に引き戻したのは、インターフォンのチャイムだった。モニターを覗くと、義博が俯きがちに映っている。
「はい?」
“開けてくれ”
マイク越しに聞こえた彼の声は、どこか歪で、いつものような聞き心地の良い芯の通った響きがなかった。
「何か用? 話があるなら、どこか外で話しましょ。今、行く……」
“いいから! 開けてくれ”
私の声を遮って苛立った声がマイク越しに部屋に響く。私は仕方なくオートロックを解除した。程なくして、彼が私の部屋へやってきた。
玄関を開けると、義博は無言で靴を脱ぎ、室内へとあがる。そのままキッチンを通り抜け、寝室兼リビングのソファにどさりと体を投げだした。その振動で、先ほど投げ捨てた紙袋が、バサリと床に落ちた。
「部屋へは来ないで。いくら友達だからって、誤解されるようなことしないで」
私の非難の籠った言葉を、目を瞑ったまま聞き流した義博は、先ほどよりも苛立ちが落ち着いたのか、心地よさそうにソファに沈み込みながら、ボソリと胸の内を零す。
「やっぱり、オレはこの部屋がいいわ」
「はぁ? 何言っているのよ。この御曹司が。あんな高級マンションに住んでるくせに、こんな1Kの狭い部屋がいいとか、意味わかんないんですけど」
悪態をつく私に、気だるげに鼻から息を吐きだした義博が視線を向ける。
「来たのか?」
「まぁね。美香に呼ばれたから」
私の答えを聞いた彼は、一瞬目を瞑り、天を仰ぐような仕草を見せる。それから、大きなため息を吐き出して、目を開けた。その目は、どこか暗い色を宿しているように見えた。
「あいつ、何か言ってたか?」
義博の言葉に、私は一瞬、また苛立ちのようなものを自身の中に感じたが、それを振り払うように、無理やり明るい声を出す。
「べっつに。相変わらず、愚痴という名の、あなたの惚気話を聞かされただけよ」
それを聞いた義博は、心底嫌そうに顔を歪ませて、項垂れた。
義博の態度はいつも通りと言えば、いつも通りだった。美香に振り回されて、辟易としている。そんな風に私には見えた。
美香は、いつでも惚気話を披露して2人の仲の良さを語ってくるが、実は、彼らの間には、些細だが温度差がある。義博の普段の話ぶりから、私はそれに気がついていた。
しかし、彼がその事を明確に口にした事はない。ましてや、今のように明からさまに態度に現した事など一度だってない。違和感を覚えた私は、訝し気に彼の歪んだ顔を見る。
「ねぇ。あなた、もしかしてお酒を呑んでるの?」
私の問いに、義博は、フッと息を吐き出しながら、皮肉げに笑う。
「そりゃ、オレだって呑むことくらいあるさ」
そんな彼に呆れつつ、私は、常備してあるミネラルウォーターのペットボトルをキッチンから持ってくると、項垂れている彼の顔の前に突き出した。
「もう、何やってるのよ? 呑めないくせに。ほら、お水飲んで」
顔を上げた義博は、私の小言に、一瞬嬉しそうな笑みを漏らす。
「茉莉花のそういうところ、やっぱ、オレ好きだわ」
義博は、そうサラリと言うと、ペットボトルではなく、私の右手首を掴んで自身の方へと引き寄せた。
「ちょっ……」
突然の引力に慌てて発した私の声は、手首を掴まれた拍子に手から滑り落ちたペットボトルのゴトリと床に転がる大きな音に、敢えなく掻き消された。
「茉莉花だって、本当はオレの事……」
「ちょっと、やめて! 何を言い出すの!」
義博に掴まれていた手を振り解き、自分の意に反して彼の方に流れてしまった身体を、急いで立て直す。
彼から少し距離を取り、一瞬にして激しく暴れ出した心臓を少しでも落ち着けようと、大きく息を吐いた。
「あなた、ちょっと飲み過ぎよ」
気持ちを落ち着けてから、義博に非難の目を向けるが、彼は、それ以上に強い眼差しを私に向けてくる。
「オレは、茉莉花が好きだった。茉莉花だって、同じ気持ちだったはずだ」
彼の強い視線に、私の鼓動は一層早く波打ち、息が詰まりそうだ。苦しくて言葉が出ない。
暫くして、私を射抜いている彼の視線が、沈黙に耐えられず、揺らぎ出す。
「……オレの勘違いか?」
「……」
「何か言ってくれ」
懇願する彼の瞳は大きく揺れていて、まるで捨て犬のように寂しげな色をしていた。
「……もし……もし、仮にそうだったとしても、美香を選んだのは、あなたよ?」
私は精一杯の強がりを口にする。強がっていなければ、すぐにでも本心が溢れ出そうだった。
そんな私の言葉に、彼はひどく傷ついたような悔しそうな顔で、下唇を噛んだ。
「俺たち、……いや、オレはあいつにハメられたんだ」
「は? あいつって?」
「……美香だ」
義博は、憎々し気に自分の妻の名前を口にした。
「はぁ? なに? あなたたち喧嘩でもしたの? あの子はこれっぽっちもそんなこと言ってなかったけど……」
義博の様子があまりにもおかしいので、私は、思わず彼の肩に手をかけ、そっと彼の隣に腰を下ろした。互いの膝頭が触れる。小さめの二人掛けソファは窮屈で、座り直そうにも身動きが取りづらかった。私は、敢えて気がつかないふりをする。俯きがちに前傾姿勢になり、自身の膝の前で両手を組んでいる義博も、互いの距離の近さに気がついているはずなのに、二人の接触部が離れることはなかった。
しばらく何かを考えるように沈黙を守っていた義博だったが、意を決したのか、小さく息を吸い、ポツリポツリと話し始めた。
「オレと美香が付き合った……というか、結婚した理由って、話したことがなかったよな?」
「……うん」
「あいつからは?」
「聞いたことない。ただ、あなたから告白されたって聞いただけ」
「告白?」
私の言葉に、義博は訝しそうに眉を顰める。
「そう。あなたに、結婚を前提にって、言われたって。違うの?」
「ああ。そう言うことか」
義博は、呆れたように鼻で笑った。
「確かに、それは言った。いや、言わされた」
「言わされた?」
今度は、私が眉を顰める番だった。
「ああ。あいつは、うちの金が目当てだ」
「まさか」
信じられない思いで、言葉を口にするが、彼は力なく首を振る。
「本当だ。あいつの日記にそう書いてあった。しかもあいつは、お前の気持ちにも気が付いていた。お前が惚れる程の相手だから、オレを奪うと……」
「何それ? どういうこと?」
「あいつは、ずっとお前に勝ちたかったんだ。あいつには、お前が何でも苦もなく手に入れている様に見えているらしい。だからオレを……」
「ちょっと待ってよ」
私は、悔しそうに話す義博を制す。
「あなたを奪うって……あなたとは友達で、別にそういう関係じゃ……」
「オレは、いずれそういう関係になろうと思ってたよ! 茉莉花だって、そうだろ?」
彼は勢いに任せて私の手を握り、真っ直ぐに私の瞳を見つめてくる。その視線を避ける様に顔を逸らし、私は小さくつぶやいた。
「でも……でも、あなたは美香を選んだ」
私の言葉に項垂れた彼の口から、苦し紛れの声が漏れた。
「オレは、妊娠させてしまったと思ったんだ。だから、責任を取るためにあいつとの結婚を決めた」
「やっぱり、自分で美香を選んでるじゃない!」
私は、語気を強めて睨む。そんな私に、悲しそうな色を瞳に宿して、義博は弱々しい視線を返してくる。
「違う! そうじゃないんだ! あいつは、オレに烏龍茶だと偽って酒を飲ませ、酔ったオレと関係を持った様に偽ったんだ! その時に妊娠したと!」
彼の言葉に、私は思わず目を見張った。まさか、あの子は本当にそんな事をしたのだろうか。
「だま、された?」
「そうだ」
「そんな……妊娠なんて、すぐにバレる嘘を?」
「あいつは流産した事にするつもりだったらしい。でも……」
私の呆然としたつぶやきに、義博の瞳が揺れる。
「……妊娠は、してるんだ」
「は?」
彼の口からもたらされた矛盾に、思わず間の抜けた声が出る。
「婚約中に、オレたちは……その……それは、覚えてる」
義博は、言いにくそうに私から顔を背けた。美香の嘘は、既成事実となり彼を縛っている様だった。
「……あなたは、美香にそんな事をされたと知ってどうしたいの?」
「オ、オレは……茉莉花がいい」
義博は不安そうにチラリと私を見る。私はその視線の中に、言葉にされていない言葉を読み取る。
「じゃあ、美香とは別れるの?」
「……それは……」
口籠った彼が、自分の思いに押しつぶされそうになっているのは、一目瞭然だった。彼が、美香を、そしてまだ見ぬ我が子を裏切るわけがない。そんな事が出来る人ではない事を、私は知っている。
「義博……もう帰って」
私は、すくっと立ち上がると、彼に背を向けた。
「茉莉花……」
「出ていって。私には、そんな気持ちはないわ」
「でも……」
その後、義博の声に一切反応を示さない私の態度に諦めた彼は、静かに部屋を出ていった。 一人になった狭い部屋に、ドアが閉まる音が大きく響く。
ドアが閉まる時に微かに動いた空気の振動は、私の瞳に溜まった滴を揺り動かし、ポタリと絨毯に染みを作った。
そのまま崩れる様に座り込む。
カサリと何かが爪先に触れた。次から次へと溢れる涙を左手で拭いながら、右手で足元を探る。指先に触れたそれを引っ張った。リボンだ。涙を拭う。足元には、美香に渡された花束がバラけていた。
私は唇を噛み、しばらくの間花を睨みつけてから、むんずと掴み立ち上がる。
「美香。おめでとう。あなたの勝ちよ」
そう言って、私は、花と共に、友情と愛情をゴミ箱に投げ捨てた。
完
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『ブーケプルズ』、完結しました☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
いかがでしたでしょうか?
レビューや感想などを頂けました、今後の創作活動の励みになります。
是非、お気軽にコメントください。
さてさて明日からは、『ラストデータ』が連載開始!
互いを大切に想いあう恋人たちの思いの行く方を描いた作品です。
明日の15時をお楽しみに♪