「コーヒーでも淹れましょうか」

 作業に取り掛かってから二時間ほど。報告書と実験の結果は一通り頭に入れ、プレゼン資料の構成は纏め終わった。資料は全て一から作るわけではなく、過去の資料を使いまわせるものは適宜更新しながら利用する。一年前までは同じ部署で豊留先輩の研究成果を纏めていたから、ある程度の勝手はわかった。
 逆に、ここから先は報告書と実験の結果を見ながら一から資料を作っていくこととなる。まだ作業は続くしこの辺りで一息入れたかった。
 カタタタタタと高速でキーボードを叩いている先輩が頷くのが見えて、僕は腰を上げて軽く伸びをする。一応リビングにはソファーベッドもあるのだけど、そちらで作業しようものならあっという間に夢の世界へ旅立つ自信があった。
 あくびを噛み殺しつつ、キッチンでコーヒーメーカをセットする。夜更かし用にコーヒー粉と合わせて買ったものだけど、最近は殆ど使っていなかった。

「ブラックでよかったですよね?」
「うん。ありがと」

 マグカップ二杯分の抽出はすぐに終わった。自分一人なら滅多に飲まないけど、コーヒーの香ばしい匂いが広がると何だか元気になる。両手にマグカップを持ってリビングに戻ると、先輩は僕に小さく頭を下げて桃色のマグカップを受け取った。

「進捗はどうですか?」
「報告書はもう少しで終わるから、そしたら私もプレゼン資料作るよ」
「さすが、僕の手伝いなんていらなかったですかね」
「ううん。すごく助かってる」

 自虐的な冗談をまっすぐに否定されて、僕は笑い方を忘れた。向かい側では先輩は両手で包み込むように持つマグカップの黒褐色の水面をじっと見ている。

「最近ね、よく実感する。痛感するって言った方がいいのかな。あの頃の私がどれだけ喜瀬君に支えられてたのかってこと」

 滔々と語る先輩の言葉が胸に染みる。マグカップを見つめる先輩から目が離せなくなると同時に、上手く息ができなくて胸がぎゅっと苦しくなる。
 僕は研究者ではなく技術系の職員で、先輩みたいに新規性のある発見や考察ができるわけではない。正直、研究については先輩が何を考えているか理解できないことの方が多い。
 でも、だからこそ先輩の研究を伝えるために何が必要かは手に取るように分かったし、そういった資料を作るのは得意だった。自分で言うのもなんだけど、先輩の部下として働いていた二年間、僕たちはいい仕事上のパートナーだったと思う。

「まあ、喜瀬君はどこにいっても誰からでも重宝されるんだろうけどね」

 先輩には珍しい拗ねたような口調に、我慢しようとしても頬が上がってしまう。
 先輩の部下となったばかりの頃は不愛想な人だと思っていたけど、少しずつ馴染んでいくように先輩の表情や声色は豊かになっていった。
 一年前に部署が変わって、先輩と距離が開いて初めて気づくことも多かった。

「先輩と働いている二年間は、今後の人生を含めたとしてもとても充実してたと思います」

 三年前に先輩と働きだした頃は毎日が発見の連続だった。初めのうちは技術的なこととか、三歳しか違わないはずなのに知識量の差に驚かされた。そして、少しずつ発見は技術的なことから先輩自身のことへと変わっていった。
 コーヒーはブラックが好きで毎日1Lくらい飲んでるとか、研究に没頭すると文字通り寝食を忘れてしまうこととか。外に出なくても誰からも何も言われないから梅雨が好きとか、料理は苦手だけどカレー作りだけは得意なこととか。
 二十代も後半になってするような表現じゃないのかもしれないけど、あの頃は毎日がキラキラとしていた。

「時々考えることがある。もし何かが少しでも違ったら、今も喜瀬君と働いてる可能性があったのかなって」

 同じことを、僕も時々考えることがある。
 今もまだ先輩の新たな発想に驚かされたり、実験の合間に仮眠している先輩に毛布をかけたり、そんなことをしている自分が思い浮かぶ。
 だけど、考えれば考えるほど、どう頑張ってもそんな未来はありえなかったと思う。僕が惹かれたのは生活の全てを研究につぎ込んでしまうほど真っすぐな先輩で。僕がそんな先輩の傍にい続けることはできなかった。
 僕の向かいでマグカップの黒く澄んだ表面を見つめる先輩の瞳は、どこか遠くを見ているようでもあって。

「なんて。時間も限りあるし、続きやろうか」

 少しだけ流れた沈黙を破ったのは先輩だった。
 あっさりとした口調の先輩は表情もいつもの先輩に戻っていて。大事に両手で抱えていたマグカップをグイっと傾けると、まだ熱の残るブラックコーヒーを一気に飲み干した。