───映画の半券に眠る恋がひとつ、わたしにはある。






一週間のなかでいちばん好きなのは、休日前夜。

わたしの場合は、金曜日の夜だ。

残業は意地でもしない。定時で会社を出たあと、快速列車に小一時間ほど揺られ、町のはずれにある小劇場、「波止場キネマ」へと向かう。

ものすごく疲れているはずなのに、波止場キネマに近づけば近づくほど、スキップしたくなるくらいに身体は軽くなっていく。

駅から十五分ほど歩いたところでたどりついて、入口の自動ドアをくぐる。

劇場に、先客はいなかった。

肩につかないくらいの短い髪を手ぐしで整えて、首元にうっすらとかいた汗をハンカチで拭う。それから、上映作品と上映時間が表示されたモニターを見上げた。

波止場キネマは、商業施設に入っている人気の映画ばかりを上映する映画館とは違って、マイナーな作品や過去の名作の上映などもしてくれるすばらしい小劇場だ。

それなのに、いつも客は少なくて、金曜日の夜だってがらがらだ。でも、だからこそ、わたしは彼と親しくなれた。


今夜はどれにしましょうか。

いくつかの作品情報を見比べて考える。

しばらくすると、背後で自動ドアが開く音がした。振り返れば、見慣れたスーツの男の人の姿があった。

同じタイミングで目が合って、違うリズムでそれぞれ頭を下げる。もう何度も同じようなやりとりをしているのに、いつも新鮮で、胸がくすぐったくて、わたしはやっぱり、スキップしたい。

たった今、波止場キネマに入ってきたそのひとは、日中しっかりと働いてきたあとだろうに、疲労など一切感じさせない柔和な微笑みをたたえて、わたしのすぐ隣まで来て、モニターを見上げた。


葉野(はの)さん、お疲れさまです。今日は、おれの方が先につくと思ったんだけどな」

「ふふ、八木(やぎ)さんも、お仕事、お疲れさまです。わたしもさっき来たばかりですよ」

「気になる作品、ありました?」

「う~ん、今夜はラブコメディが見たい気分ですね。八木さんは?」

「奇遇だ。おれもです」

「本当ですか?」

「はは、ほんとは、ホラーがいいかなあって、ここに向かっているあいだは思ってたのだけど。でも、ポスターを見る限りこっちのほうが面白そうだから、今夜はこれにしましょう」


そう言って、隣の彼はラブコメディの作品の欄を指さして、モニターからわたしに視線をずらした。

わたしは、自分よりも頭ふたつ分ほど背の高い彼を、彼の目尻の美しいしわを、じっと見つめながら、やさしいひとだなあ、と感服する。

八木さん──彼は、わたしより二つ年上で、わたしとは別の職場で働いている、スマートな男のひとである。

わたしが知っている彼についての情報はそれくらいで、あとはほとんどなにも知らない。勤務先も、下の名前も、家族構成も、いちばん大切な思い出も。わたしたちの関係は、金曜日のレイトショー仲間、と呼ぶのがいちばんしっくりくるかもしれない。

わたしが、仕事を終えた金曜の夜に波止場キネマに通い出したのはちょうど三年前で、八木の姿を見かけるようになったのは、それから数か月ほど経ったあとだった。

はじめは、毎週金曜日の夜、がらがらの劇場でよく同じ作品を鑑賞する男のひと、という認識しかもっていなかったけれど、それがあまりにもずっと続いたものだから、彼自身にも興味が湧いて、一年ほど前のとある金曜日の夜、映画が終わったあとで思い切って彼に声をかけた。

『おれも、ずっと話してみたかったです。でも、怖がらせたくはなかったから。あなたから話しかけてくれて、すごくうれしい』

決して上手な声のかけ方などできていなかっただろうわたしに対して、はじめて口を開いたときの彼も、今と変わらない柔和な微笑みを浮かべていた。

彼もわたしと同じようなことを思っていたらしく、映画好きのわたしたちはすぐに打ち解けて、いつの間にか、どちらかが提案するでもなく、同じ作品を並んで鑑賞するようになった。

「葉野さん、ときには、ポップコーンとかどうですか」

「わたし、歯につまると気になって、映画に集中できなくなるんです」

「あ、それ前も聞いた気がするな。おれは今日は食べたい気分なので、ちょっと買ってきます。静かに食べるから不安になんないでね」

「ふふ、分かってます」

いまのわたしの生活において、金曜日の夜のひとときは、そう。たとえるならば、月曜日から金曜日まで日中みっちり働くことで、ログインスタンプを五つためて、波止場キネマでのレイトショー、八木という存在、その二つをログインボーナスとしてもらっているようなもの。

上映中、八木はときどき、身を乗り出してスクリーンに釘付けになる。わたしはそれを視界の端っこでとらえるたびに、年上なのに可愛いひとだなあ、と笑ってしまいそうになる。

どの映画もひとりで見ていたときからわたしを惹きつけていたけれど、八木と一緒に見るようになってからは、より満足できる映画が増えた。

だれと、どこで、どういうタイミングで見るかによって感じることが変わる。映画とは、そういうものだから。



この夜に選んだラブコメディは、思いのほかしっとりしていて、コメディなのに少し切ないものだった。

エンドロールを見届けて、明るくなった空間で八木の方に目をやる。

八木は、映画の途中で身を乗り出すことはあっても、エンドロールのあとに目立った喜怒哀楽をわたしに見せることは、今までにほとんどなかった。だけど、今日の彼はなぜか、もう何も映ってはいない灰色のスクリーンをじっと眺めたまま、悲し気な表情を浮かべている。

余韻に浸っているだけならよいのだけど、違和感を覚えて咄嗟に「八木さん」と呼んでしまう。彼は、わたしの声にハッとしたように瞬きをしてこちらに顔を向けた。

「大丈夫ですか?」

「ん、悪い。平気です。出ましょうか」

八木が立ち上がると、彼のスーツの太もものところにあったポップコーンが、ぽとり、と床に落ちた。八木はすぐにそれを拾って、空の容器に戻す。

それから、ふたりで顔を見合わせてくすりとわらい合って、シアタールームの出口へと向かった。

ゆっくりと階段を下りながら、映画の感想を零し合う。

八木の着眼点はいつもするどくて、わたしは、あなたが作品のために選ぶ言葉の数々がとても好ましいのだと、レイトショー仲間としていつか八木に言えたらいいな、と思う。


朝、確認した天気予報では降水確率は0%のはずだったけれど、映画を見ているあいだに空は予報を裏切ることにしたようで、波止場キネマの外は、しとしとと夜雨が降っていた。

ちょうど屋根のあるところで八木とふたり突っ立って、暗い空を仰ぎ見る。

「雨、降ってますね。天気予報の嘘吐きです」

「ね。だけどおれは、折りたたみ傘もってるんで、天気予報に嘘吐かれても平気なんです」

「でも、わたしだって、『雨に唄えば』を頭に浮かべれば、傘がなくても無敵になれちゃいます」

「はは。確かに、それは無敵になれちゃうな」

「八木さん、先に行ってもらって大丈夫ですよ。わたしは、ちょっと雨が落ち着いたら駅に向かいます」

いつも、八木とは、波止場キネマの出入り口のところで解散する。また次の金曜日に、と口にしたり、しなかったりして、手を振り合う。

いつも、少し寂しくて、物足りない。その名残惜しさを感じるところまでが、わたしの金曜日の夜のひとときの範囲だった。それ以上はもう、八木のいない世界で、わたしは休日前夜をあっさりと終える。

今日もそれは、変わらないはずだった。


「葉野さん」

「どうしました?」

「あなたさえよければ、なんだけど。今日、ちょっとふたりで歩きませんか」

思いがけない提案におどろいて、八木の方に顔を向ける。彼の瞳は、うすぐらい夜の色に湿っていて、ありえないのに、なぜか淡い星の光があるように見えた。

それに目を奪われて、あ、と思ったときには、わずかに自分の心臓の位置がずれたような、決して不快ではない甘酸っぱい違和感がせまってくる。


「ゆるしてくれるなら、葉野さんの乗る電車の駅まで送ります」

気がつけば、わたしは、ゆっくりと頷いていた。八木は、ほっとしたような表情で、よかった、と呟いた。


「でも、わたしは傘を持ってないです」

「一本の傘、という概念はね、ときにふたりで入るためだけに存在しているから大丈夫ですよ、葉野さん」

「相合傘ということでしたら、わたし、人生で一度もしたことがなくて」

「そうですか」

「だから、下手だと思いますけど、いいんですか」

「はは。大歓迎です」

八木はいつもより少し雑にわらって、鞄から折り畳み傘をだした。わたしの心臓は、その彼の雑さによってまた位置をずらして、むずがゆい摩擦を引き起こした。

でも、それだけではなく、どうしてか、漠然と切なかった。猫が死期を悟り、飼い主のもとを離れるのと同じような切なさがあった。

先に夜雨の世界に足を踏み出したのは、八木だった。

八木の折り畳み傘はふたりがイメージしていたよりも小さくて、大人ふたりが一緒に入るには窮屈すぎた。

傘に雨粒がぶつかる音がやけに大きく聞こえる。自分と八木の腕が触れたり離れたりする。知らない彼の清潔な体臭をうっすらと知る。

スキップしたい、以上の気持ちが生まていて、わたしは困っている、ふりを自分にしてみせようと思ったけれど、やめた。


「葉野さん、濡れてませんか」

「ちょっと、濡れてます」

「おれが思ってたより、この傘、小さかったです」

「これは、ひとり用ですね」

「ね。そうとなれば、ちょっとゲームとかしましょうか」

「ゲーム?」

八木は、わたしの顔を覗き込むようにして、に、とわらった。柔和な微笑みではない、はじめて見た彼の子どもっぽい無邪気な笑顔にわたしは、このひとにも子どもだったときがあるのだ、と当たり前のことを突き付けられて、胸がきゅっとなった。

わたしは、金曜日の夜の、今の八木しか知らない。でも確かに、わたしの知らないところで、彼は子どもから大人になった過去があるのだ。

「あの電柱まで、じゃんけんで勝った人がこの傘をひとりじめできます。で、電柱までいったら、またじゃんけんをして勝った人が指定した場所まで傘をひとりじめできます」

「ふふ、下手したらわたしも八木さんもすごーく濡れますね。でも、楽しそうです」

「する?」

「……します」

はじめにじゃんけんに勝ったのは、わたしだった。

八木から傘を奪ってひとりで濡れずに電柱まで歩いているだけなのに、可笑しくって、笑いが止まらなかった。八木も夜雨に打たれて濡れながら、けらけらと笑っていた。わたしは彼の知らない笑い方をまた新たに知った。

次は、八木が勝って、かなり離れたところにあるビルを指定されて、わたしはちょっと怒ったふりをしてみせたけれど、雨に濡れながら、結局吹きだしてしまって、笑うしかなかった。

まともに歩けば駅までは十五分ほどでたどりつくのに、くねくねと道を曲がり、何度も同じ道を行ったり来たりしながら、わたしと八木は傘の奪い合いを楽しんだ。

こんな最高の夜雨の愛し方を知ってしまったら、これからひとりで過ごすであろういくつもの雨降る夜がゆううつになってしまう。途中で、わたしはひそかに不安になったけれど、爆笑して誤魔化した。


ひとしきり濡れて、笑い合って満足したあと、十メートルほど離れた地点、五メートルほど離れた地点、三歩先、一歩先と、わたしと八木は互いに、自分が傘をひとりじめする距離を短くしていき、しまいには元通り。

窮屈な一本の傘にまたふたりで入った。

雨の匂いが傘のなかには立ち込めている。

わたしは、八木を見上げた。八木は、数秒間、じっとわたしを瞳に映したままでいた。それがこの世でいちばん小さなスクリーンのように思え、彼の瞳に映るわたしはいま、どのような物語を生きているのか気になった。

ずっと、わたしと八木は、映画のことを語り合うだけのレイトショー仲間だった。それを、今日、先に飛び越えたのは彼だけれど、そのあとを追随したのはわたしだった。

「八木さん」

「ん」

「いや、なんでもないです」

「なんだそれ」

「呼んでみただけです」

「葉野さん」

「なんでしょうか」

「おれはね、あなたが思いっきり笑うのをさっきはじめて見て、そういうあなたを見ることができただけでよかったって思いました」


そう言って、八木は、傘をもつわたしの手に自分の手をそっと重ねた。雨に濡れているのに、ほんのりと熱くて、自分とは違うその大きさに、心臓が震える。

駅が遠くの方に見える。

八木にはもう角を曲がってさらなる遠回りをする気はないようだった。でも、わたしは駅にはついてほしくなくて、もうこのまま永遠にふたりで同じ傘に入って歩き続けてもいいなんて、馬鹿なことを考えていた。

先週の金曜までは恋ではなかったのに、いまわたしが八木に対して抱えている感情は、はっきりと恋だった。

立ち止まってしまう。八木も足を止める。


「八木さん」

「また呼んでみただけ?」

「ちがい、ます」

「じゃあ、なんですか」

「わたしはね、八木さんはどういうふうに大人になったんだろうって考えました。それは知りようもないから、八木さんが口で説明してくれたとしても、触れようがないものだから、悔しいなあって、さっき、八木さんが子どもみたいにわらったから、一緒に変なゲームをしてわらい合ってしまったから、はじめて思ってしまいました。レイトショーを一緒に楽しんで、感想を言い合って、キネマの前で手を振って別れるだけでわたしはずっと十分だったのに、それ以外の八木さんがいるんだという当たり前のことに気づいてしまったから、いま、いつまでも、駅につかなければいいなあって思ってます」


狭い傘のなかで向かい合う。

見上げたら、八木は、灰色のスクリーンを眺めていたときのような悲し気な表情で、うすい微笑みを浮かべた。


「葉野さん、ここでキスでもしたら、ちょっとすてきな映画みたいじゃないですか」

「これは、映画じゃなくて、わたしと八木さんだけの真実だけど、キスくらいなら、わたしはしてもいいですよ」

「いや、しない。どうして、相合傘ははじめてのくせに、キスはしてもいいっていうんですか」

「八木さんの知らないところで、八木さんとは違う風に、わたしは大人になったからです」

八木から、微笑みがすーっと消えていく。

彼は、眉間にしわをよせて長く息を吐いた。それは、なにかを諦めるための仕草のようにも思えた。目尻のしわと同じくらいに眉間のしわは美しくて、わたしはこんなときなのに、好きだと思ってしまった男に見惚れてしまう。

わたしの手から、八木の手のひらが離れていく。

すべて、知らない八木だった。わたしは、知らない彼を、一夜にして一気に知りすぎている。それは、わたしのなかで眩しく苦しい情報として雨のように流れていき留まろうとはしなかった。


「やっぱり、いろいろと知りたかったな。映画以外の話をして葉野さんと金曜以外の時間も過ごせたらきっと楽しいだろうなと思ったことも、ほんとはたくさんあります。でも、金曜の夜に映画を一緒に見て、ああだこうだと言い合うだけで、十分だった。おれもそれは葉野さんと同じです。でも、もう少しだけって思ってしまったのは、今日が、最後だからです」

「……最後?」

夜雨は、いつの間にか強さを増していた。八木の傘を、容赦なく雨粒がたたく。八木は浅く頷いた。彼の喉ぼとけが上下に動いた。それは何らかの合図に違いなかった。

「海外支部への転勤が決まったから。今日で葉野さんと会えるのは最後です」

漠然とした切なさの正体がはっきりとする。

すこし遅れて、八木に対するわたしの恋は、まさにわたしと八木のふたりの時間の終幕にあったからこそ、生まれて煌めいたのだと悟った。そして、自惚れでなければ、きっと八木の恋もわたしとそうたいして変わらないものであるのだった。

そうですか、と、わたしは当たり障りのない返事をした。八木は、そうなんです、とまた浅く頷いて、駅の方へ歩き出した。

駅に着くまで、わたしも八木も一言も話さなかった。ただふたり、狭い傘の中で、腕を触れ合わせたまま、歩いた。


永遠なんてものはないから、駅にはすぐにたどりついてしまう。八木の傘から、じゃんけんに負けてはいないけれど、ひとりで出る。八木とじゃんけんをすることはもうきっとない。

駅の屋根のあるところまで行って、八木と向き合う。さいご、という言葉を口の中でなめる。さいご、という言葉は終わりで尖るからひりひりする。心臓はゆっくりと元の位置に戻ろうとしている。

今日で葉野さんと会えるのは最後です、最後です、最後です、駅のアナウンスのように繰り返しあたまの中で響く。

「八木さん」

でも、それでも、わたしと八木が、波止場キネマでふたりでレイトショーを楽しんで、関係が途切れる間際にとても短かい恋をしていたということがなくなることはない。最後、というものが奪えるのは未来だけで、過去を奪うことはできない。

「出会えてよかったです。今までの金曜日と、今日、ありがとうございました」

「おれも、波止場キネマで葉野さんと出会えてよかった。それで、あなたさえよければだけど、今日のレイトショーの半券、お互いのを交換しませんか。おれのを葉野さんが持っていて、おれは葉野さんのを持ってたいです。そうしたら、思い出せるから」

「それは悔しいですが、賛成です」

「はは、なんで悔しいの」

八木は、はい、と自分の半券をわたしに差し出してくる。わたしも自分の半券を鞄から取り出して、彼に渡した。

「葉野さんの姿が見えなくなるまで、ここで見送ってもいいですか」

なんてことを聞くのだろう、とわたしはあまりに切なくなったから、首を横に振った。

「いやです」

「でも、悪いね。おれもいやです」

ずっとこれからも、金曜日の夜、波止場キネマで八木さんと一緒に映画を見たいです。知ってもよかったなら、わたしはあなたのことをもっと知りたかったです。もっと早いうちに、もっとたくさん、知りたかった。わたしはあなたが作品のために選ぶ言葉の数々が好きでした。さっき、あなたを好きになりました。好きになりました。好きなんです。

「八木さん、お元気で」

言いたいことをすべて言い切ることだけが、美しいお別れの方法ではない。

「葉野さんも、お元気で」

「おやすみなさい」

「うん、葉野さんも、おやすみなさい」

わたしは、彼に背を向けて、歩き出す。

最後に目に映した彼は、いつも波止場キネマで見せてくれたような柔和な微笑みを浮かべていた。

もう八木と会うことはないのだと思うとさみしくて、さみしくて、でも、どうにかなりそうだ、なんてことは思わない。

快速列車ではなく、いつもは選ばない普通列車に乗り込む。車窓の向こうでは、いまだ、雨が降っていた。

エンドロールのひとつひとつの文字を確かめるように、八木と見たいくつもの映画を、八木がくれた言葉を、八木の仕草を、思い出して、思い出して、今夜限りのわたしと八木の恋をなぞる。

それから、八木と交換した半券をつまんで、そこにすべてを閉じ込めるべく指先にぎゅっと力をこめた。









「次は、△△前、△△前───」

電車の車内アナウンスが、小説の世界から現実へとわたしを引き戻した。


栞のかわりにしている映画の半券を読みかけのページに挟んで、本を閉じる──その前に、印字された文字のほとんどがすでに消えかかったぼろぼろの半券をひと撫でする。

それはもう、懐かしいだけの遠い過去だった。

だけど、ふとしたときにわたしはその栞代わりの半券を撫でる。癖のようなものである。

撫でれば、普段はすっかり忘れているのに、夜雨の音と今よりもうんと若かったわたしとスーツの男のわらい声が淡い記憶としてよみがえる。

わたしが、波止場キネマのある町を去ったのはもう十数年も前で、あれから、あたらしい恋愛もたくさんした。

だけど、今もなお、わたしは、波止場キネマでの彼との思い出を、最後の金曜の夜に彼との間に生まれた恋を、この半券のなかに、ひっそりと眠らせたままでいる。