金曜日の夜――所謂、花金だ。こんな日はやっぱりお酒が飲みたくなる。
いつも行っている店とは違う店へとやって来た。前から気になっていた店だ。
机を挟んで、一緒について来た花戸くんが向かい側に座る。
「何頼む?」
「取り敢えずビールで」
「わたしは梅酒にしようかな」
メニュー表を二人で眺めて、店員さんを呼んで料理を頼んでいた時だった。
「すみませんが、年齢が確認できるものを何か提示していただけますか?」
わたしの方を見て店員さんが訊ねて来た。
――ああ、またか。
そう思いつつ、鞄の中から財布を取り出す。
「わたし、成人していますよ」
運転免許証を見せれば、店員さんは「す、すみませんでした!」と謝った。
大丈夫ですよとひらひらと手を振る。注文を確認した店員さんはささっと部屋を出て行った。
「難儀だねぇ」
「いつものことだから」
花戸くんにわたしは苦笑いを零す。
体が小さいことはわたしにとってコンプレックスだ。
さっきみたいに年齢確認を要求されるのにも慣れてしまった。
たとえ体は小さくても中身は違う。お酒だって飲めるし、何もわからないほど幼くはないというのに。
この見た目のせいでいろいろとやるせない気持ちになることが多かった。
仕事の時もそうだった。
それは、職場の休憩室に入ろうとした時のことだった。
「青崎さんはね……ほら、見た目があれだから、頼りなさそうに見えるんだよね」
部屋の中から聞こえて来た声に、ドアノブを掴もうとした手が止まる。
そう語っているのは、みんなから所謂『お局様』と呼ばれている人だった。
「青崎さん小さいからねー」
「やっぱりそう見えちゃいますよね」
周りの人も賛同するばかりで。
――見た目なんて関係ないでしょ!
わたしは心の中で叫んだ。
でも、面と向かってなんて言えなかった。昔から体が小さいという理由で偏見を向けられることが多かった。その度にわたしは口を噤んだ。体が小さいことは事実だったから。
わたしは動くこともできないまま立ち尽くすことしかできなくて。
一生懸命に仕事をしていても、見た目が小さくて頼りなさそうという理由で侮られる。悔しいという気持ちとしょうがないという気持ちが押し寄せて来る。
「そうですか?見た目は関係ないと思いますけど」
その声ははっきり耳に届いた。それは、花戸くんの声だった。
「青崎さんは頼りになりますよ。この前だって、資料の間違いに気づいたし、丁寧な対応を褒められていましたし。仕事も真面目にやってくれているじゃないですか」
「まあ、確かにそうね……」
花戸くんの言葉に周囲が頷いた。
自分を肯定してくれたのが嬉しくて、見た目だけで判断されているんじゃないんだってわかって、何より花戸くんがわたしの内面を見てくれたことが嬉しかった。単純かもしれないが、それを機に花戸くんのことが気になるようになった。
同僚のよしみからか、花戸くんは優しかった。仕事のフォローをしてくれたり、愚痴を聞いてくれたり、一緒に飲みに行こうと素敵なお店に誘ってくれたりした。
優しくされれば絆されるもので。気づけば、わたしは花戸くんのことが好きになっていた。
仕事に一生懸命な姿も、好きなことの話になると子どものように無邪気に笑う姿も、いろんな表情を見る度にああ、好きだなぁと思うのだ。
でも、気持ちを伝えようとは思わなかった。
恋愛対象に見られているかどうかがわからなかったから。想いを伝えて気まずくなるぐらいなら伝えない方が良いと思った。
「何か、子どもを相手にしているみたいなんだよな」
昔、そう言った彼氏とは別れた。
見た目なんて、自分ではどうしようもできない。
何とか彼の身長に近づくためにヒールの高い靴を履いたり、大人っぽく見える化粧の仕方を覚えたりした。
けど、それらは全て水の泡になったのだ。
人を好きになっても、この見た目が原因で上手くいかない。わたしは恋愛をするのが怖いのだ。
「――だから、わたしには当分彼氏はできません!」
ドンッとグラスを叩きつけるように机の上に置いた。
――何で、わたし、好きな人に過去の恋愛なんか喋っているんだ?
酔っ払っている訳ではない。顔は赤くなっているだろうけど、自分の許容量ぐらいわかっている。
それなのに、ある意味醜態をさらしているんじゃないだろうかと己の中の冷静な部分が言っている。
もういっそのこと酔っ払いの戯言として受け流してくれないだろうか。
黙ってわたしの話を聞いていた花戸くんが口を開いた。
「つまり、ある種の恋愛恐怖症になっているんだね」
「……そうなのかな?」
恋愛するのが怖い。確かに、言われてみればそうかもしれない。相手にどう思われているのか怖くて、気持ちを伝えることもできないのだから。
「それなら、僕と恋人ごっこしませんか」
「……はい?」
言われた意味がわからなくて、わたしは目を見開いた。
「青崎さんの恋愛恐怖症をなおしたいなと思いまして」
「……いやいやいや!そんなことしてもらわなくても大丈夫だよ!?」
「んー、でも、それだといろいろと困るし」
「何が困るというの……?」
「内緒」
口に人差し指を当てて花戸くんがそう言った。そんな仕草に色っぽさを感じてしまったわたしは、自分が思っているよりも酔っ払っているのかもしれない。
「せめて今夜だけは、僕のこと、彼氏だと思って」
じっと見つめられて、結局断ることもできないまま、わたしは押し流されてしまって。好きな人からの提案の断り方を誰か教えて欲しいと切実に思った。
何故かこの後、花戸くんの家で映画を観ることになってしまった。
店を出ると、空気がひんやりとしている。どんどん体から熱を奪われていく。
ぼんやりと月を眺めていると、はい、と花戸くんが手を差し出して来た。
「……何この手」
「手を繋ごうよという意味です」
「……子ども扱いしている?」
「女の子扱い、強いて言うなら恋人扱いしていますよ。恋人なら当然、手を繋ぐものでしょ?」
「そうかもしれないけど……」
ちゃんと女の子扱いしてもらえていることに何だかむずむずして、気恥ずかしくなって固まっていると、許可なく手を掬われた。
大きな手でわたしの小さな手が優しく包み込まれる。
――男の人の手だ。
心臓がどきりと高鳴った。冷たい手に、自分以外の体温が混じっていく。
――ええい、もうどうとでもなれ!
ぶんぶんと大きく手を振ってやれば、花戸くんがははっと笑った。何だかとても楽しそうだ。……ええもう楽しそうで何よりですよ!
花戸くんの家に着いて、ソファに座らせられる。花戸くんが温かいミルクを持って来てくれて、それを渡して来た。一口飲んで、ほっと一息つく。
花戸くんもソファに座って来た。それは、いいんだけど……。
「ね、ねえ」
「んー?」
「何か、近くないですか?」
「恋人だったらこんなもんでしょ」
三人は座れそうなソファなのに、花戸くんは何故かわたしの横にぴたりと座ってきたのだ。せめて握り拳一つ分くらいの隙間はあっても良いじゃないかと思っても、その距離は変わらない。
ぽんっと花戸くんが自身の膝を叩く。
「膝の上に乗ってくれてもいいけど」
「それは無理!」
反射で答えた。「そんなに拒否らなくてもよくない?」と花戸くんは不服そうに呟いた。……いやいやいや、無理ったら無理だから!
「何観る?ここはベタに恋愛映画?」
「知り合いと恋愛映画観るのは何だかこう、むず痒いかな」
「知り合いじゃなくて恋人です」
恋人という設定は貫くらしい。
でも、たとえ恋人同士だとしても、フィクションと言えど他人の恋愛を観るのはなんだか恥ずかしくて。
ホラーなんてもっての外。怖いのに乗じてくっつこうなんて下心が起きる以前の問題だ。わたしは断固拒否した。
結局選んだのは、犬と飼い主の感動ものの映画だった。
映画を観始めると、また手をするりと繋がれる。しかも今度は所謂恋人繋ぎというもので。
――え、映画どころじゃない!
好きな人と恋人繋ぎをして、何とも思わない訳がない。親指で撫でられたり、にぎにぎと握りられたりして、何だか変な気分になってくる。
どきどきという心臓の音が五月蝿いのがわかる。そんな訳ないのに、繋がれた手からその音が伝わってしまうんじゃないかと思ってしまった。わたしは、何とか映画に集中しようとした。
映画に集中した結果、わたしはぐずぐずと鼻を鳴らしていた。隣に花戸くんがいるなんてお構いなしに、犬と飼い主の別れのシーンに号泣してしまった。
「な、泣いているの?」
ぎょっとした様子で花戸くんが「はいこれ」と机の上に置いてあったティッシュを渡してくる。
わたしは大人しくそれを受け取った。
「む、昔犬を飼っていたから……その子を思い出したらつい……年を取ると涙脆くなって嫌だね……」
「僕も同い年なんだけどなぁ……」
花戸くんが苦笑いを零す。
目元にティッシュを押し当てていると、映画を観ている間ずっと繋がれていた手が離された。
そうかと思えば、花戸くんはわたしと向かい合うように座り直して両手を広げて来た。
背中に腕を回される。そのまま「よしよし」と、背中を摩られた。
「青崎さんは結構涙脆いんだね」
その声は何だか嬉しそうだ。何が嬉しいのかさっぱりわからない。
さっきまでよりも近い距離に、やはり心臓は五月蝿くなるばかりで。でも、とても安心する。
わたしが身を委ねると、手の動きが止まった。ぎゅっと抱き込まれる。
――少しなら、良いかな……。
わたしも、その広い背中に手を回した。
どれくらい経っただろう。おずおずと手が離された。
少し距離が開く。ぱちり、と花戸くんと目が合った。
あ、と思った時には、花戸くんの顔が近づいて来た。
――キス、される。
わたしは咄嗟に顔の前に手を置いてそれを遮った。
ちょっともったいないなと思ってしまった気持ちには蓋をする。
「何で邪魔するの」
「流石に、それはちょっと……」
むっとした表情の花戸くんにしどろもどろに答える。
酒を飲んだ時よりも顔が熱い。きっと、わたしの顔は真っ赤に染まっているだろう。
――恋人ごっこって一体何処まで!?
頭の中でぐるぐると考えながら顔を俯けていると、ぷ、と吹き出した声が聞こえて来た。
え、と思って顔を上げる。すると、花戸くんは肩を震わせて笑っていた。
「な、何で笑うの……」
「ごめんごめん。まさか青崎さんがここまで初心だとは思わなくて」
「馬鹿にしています!?」
「していないよ。可愛いなって思っただけ」
柔らかくて優しげな瞳で見つめられる。
いつもなら可愛いと言われても馬鹿にされている気しかしないけど、この場の雰囲気が甘さを含んでいるように思えて、何も言えなかった。
花戸くんの顔を見ていられなくて、視線を逸らす。わたしは花戸くんとの間に手を置いた。ぐっと手を伸ばして、距離を取る。
「も、もう良いよ。ごめんね。こんなことさせちゃって」
勘違いしてはいけない。花戸くんは、わたしの恋愛恐怖症を直そうとしてくれているだけ。
あれもこれも、全部花戸くんの善意でしかないのだ。
――好きな人と手を繋げて、抱きしめられて、それで十分じゃない。
きっと、今夜のことは忘れないだろう。幸せだという気持ちは消えない。
でも、幸せの魔法は解けてしまう。
自分の欲から断れないまま流されてしまったけど、こんなことを花戸くんにさせるべきではなかった。
申し訳なくて、むなしい気持ちが広がっていく。胸が苦しくて、切なくて、仕方がなかった。
静寂がわたしたちを包み込む。
不意に、花戸くんが声を発した。
「僕が好きでもない人にこんなことすると思ってんの?」
「え……」
「少しでもどきどきしてほしくて、頑張っているんだけど」
――それってどういうこと?
そう訊く前に、唇を塞がれた。柔らかな感触が唇から伝わってくる。
そっと、花戸くんの顔が離れていく。その目には熱が篭っていた。
「好きだよ」
真っ直ぐに見つめられる。
告げられた言葉の意味が一瞬わからなかった。
目を瞬かせるわたしの耳元に、唇を近づけられる。
「好きだ」
今度こそ、その言葉の意味を理解した。咄嗟に逃げ出したくなったけど、その熱から逃げられそうにもない。
「僕のこと、少しでも好きになってくれた?」
こんなの、意識しない方が無理だ。
驚きと喜びで体が震えた。
――わたしもちゃんと伝えないと。
わたしは勇気を出して花戸くんの頬に手を添える。
ゆっくりと唇を、花戸くんのそれと合わせた。
この想いが伝わりますように、と願いを込めて声に出す。
「好きです。前からずっと」
今夜が過ぎ去ってしまっても、それは解けない魔法だったらしい。
いつも行っている店とは違う店へとやって来た。前から気になっていた店だ。
机を挟んで、一緒について来た花戸くんが向かい側に座る。
「何頼む?」
「取り敢えずビールで」
「わたしは梅酒にしようかな」
メニュー表を二人で眺めて、店員さんを呼んで料理を頼んでいた時だった。
「すみませんが、年齢が確認できるものを何か提示していただけますか?」
わたしの方を見て店員さんが訊ねて来た。
――ああ、またか。
そう思いつつ、鞄の中から財布を取り出す。
「わたし、成人していますよ」
運転免許証を見せれば、店員さんは「す、すみませんでした!」と謝った。
大丈夫ですよとひらひらと手を振る。注文を確認した店員さんはささっと部屋を出て行った。
「難儀だねぇ」
「いつものことだから」
花戸くんにわたしは苦笑いを零す。
体が小さいことはわたしにとってコンプレックスだ。
さっきみたいに年齢確認を要求されるのにも慣れてしまった。
たとえ体は小さくても中身は違う。お酒だって飲めるし、何もわからないほど幼くはないというのに。
この見た目のせいでいろいろとやるせない気持ちになることが多かった。
仕事の時もそうだった。
それは、職場の休憩室に入ろうとした時のことだった。
「青崎さんはね……ほら、見た目があれだから、頼りなさそうに見えるんだよね」
部屋の中から聞こえて来た声に、ドアノブを掴もうとした手が止まる。
そう語っているのは、みんなから所謂『お局様』と呼ばれている人だった。
「青崎さん小さいからねー」
「やっぱりそう見えちゃいますよね」
周りの人も賛同するばかりで。
――見た目なんて関係ないでしょ!
わたしは心の中で叫んだ。
でも、面と向かってなんて言えなかった。昔から体が小さいという理由で偏見を向けられることが多かった。その度にわたしは口を噤んだ。体が小さいことは事実だったから。
わたしは動くこともできないまま立ち尽くすことしかできなくて。
一生懸命に仕事をしていても、見た目が小さくて頼りなさそうという理由で侮られる。悔しいという気持ちとしょうがないという気持ちが押し寄せて来る。
「そうですか?見た目は関係ないと思いますけど」
その声ははっきり耳に届いた。それは、花戸くんの声だった。
「青崎さんは頼りになりますよ。この前だって、資料の間違いに気づいたし、丁寧な対応を褒められていましたし。仕事も真面目にやってくれているじゃないですか」
「まあ、確かにそうね……」
花戸くんの言葉に周囲が頷いた。
自分を肯定してくれたのが嬉しくて、見た目だけで判断されているんじゃないんだってわかって、何より花戸くんがわたしの内面を見てくれたことが嬉しかった。単純かもしれないが、それを機に花戸くんのことが気になるようになった。
同僚のよしみからか、花戸くんは優しかった。仕事のフォローをしてくれたり、愚痴を聞いてくれたり、一緒に飲みに行こうと素敵なお店に誘ってくれたりした。
優しくされれば絆されるもので。気づけば、わたしは花戸くんのことが好きになっていた。
仕事に一生懸命な姿も、好きなことの話になると子どものように無邪気に笑う姿も、いろんな表情を見る度にああ、好きだなぁと思うのだ。
でも、気持ちを伝えようとは思わなかった。
恋愛対象に見られているかどうかがわからなかったから。想いを伝えて気まずくなるぐらいなら伝えない方が良いと思った。
「何か、子どもを相手にしているみたいなんだよな」
昔、そう言った彼氏とは別れた。
見た目なんて、自分ではどうしようもできない。
何とか彼の身長に近づくためにヒールの高い靴を履いたり、大人っぽく見える化粧の仕方を覚えたりした。
けど、それらは全て水の泡になったのだ。
人を好きになっても、この見た目が原因で上手くいかない。わたしは恋愛をするのが怖いのだ。
「――だから、わたしには当分彼氏はできません!」
ドンッとグラスを叩きつけるように机の上に置いた。
――何で、わたし、好きな人に過去の恋愛なんか喋っているんだ?
酔っ払っている訳ではない。顔は赤くなっているだろうけど、自分の許容量ぐらいわかっている。
それなのに、ある意味醜態をさらしているんじゃないだろうかと己の中の冷静な部分が言っている。
もういっそのこと酔っ払いの戯言として受け流してくれないだろうか。
黙ってわたしの話を聞いていた花戸くんが口を開いた。
「つまり、ある種の恋愛恐怖症になっているんだね」
「……そうなのかな?」
恋愛するのが怖い。確かに、言われてみればそうかもしれない。相手にどう思われているのか怖くて、気持ちを伝えることもできないのだから。
「それなら、僕と恋人ごっこしませんか」
「……はい?」
言われた意味がわからなくて、わたしは目を見開いた。
「青崎さんの恋愛恐怖症をなおしたいなと思いまして」
「……いやいやいや!そんなことしてもらわなくても大丈夫だよ!?」
「んー、でも、それだといろいろと困るし」
「何が困るというの……?」
「内緒」
口に人差し指を当てて花戸くんがそう言った。そんな仕草に色っぽさを感じてしまったわたしは、自分が思っているよりも酔っ払っているのかもしれない。
「せめて今夜だけは、僕のこと、彼氏だと思って」
じっと見つめられて、結局断ることもできないまま、わたしは押し流されてしまって。好きな人からの提案の断り方を誰か教えて欲しいと切実に思った。
何故かこの後、花戸くんの家で映画を観ることになってしまった。
店を出ると、空気がひんやりとしている。どんどん体から熱を奪われていく。
ぼんやりと月を眺めていると、はい、と花戸くんが手を差し出して来た。
「……何この手」
「手を繋ごうよという意味です」
「……子ども扱いしている?」
「女の子扱い、強いて言うなら恋人扱いしていますよ。恋人なら当然、手を繋ぐものでしょ?」
「そうかもしれないけど……」
ちゃんと女の子扱いしてもらえていることに何だかむずむずして、気恥ずかしくなって固まっていると、許可なく手を掬われた。
大きな手でわたしの小さな手が優しく包み込まれる。
――男の人の手だ。
心臓がどきりと高鳴った。冷たい手に、自分以外の体温が混じっていく。
――ええい、もうどうとでもなれ!
ぶんぶんと大きく手を振ってやれば、花戸くんがははっと笑った。何だかとても楽しそうだ。……ええもう楽しそうで何よりですよ!
花戸くんの家に着いて、ソファに座らせられる。花戸くんが温かいミルクを持って来てくれて、それを渡して来た。一口飲んで、ほっと一息つく。
花戸くんもソファに座って来た。それは、いいんだけど……。
「ね、ねえ」
「んー?」
「何か、近くないですか?」
「恋人だったらこんなもんでしょ」
三人は座れそうなソファなのに、花戸くんは何故かわたしの横にぴたりと座ってきたのだ。せめて握り拳一つ分くらいの隙間はあっても良いじゃないかと思っても、その距離は変わらない。
ぽんっと花戸くんが自身の膝を叩く。
「膝の上に乗ってくれてもいいけど」
「それは無理!」
反射で答えた。「そんなに拒否らなくてもよくない?」と花戸くんは不服そうに呟いた。……いやいやいや、無理ったら無理だから!
「何観る?ここはベタに恋愛映画?」
「知り合いと恋愛映画観るのは何だかこう、むず痒いかな」
「知り合いじゃなくて恋人です」
恋人という設定は貫くらしい。
でも、たとえ恋人同士だとしても、フィクションと言えど他人の恋愛を観るのはなんだか恥ずかしくて。
ホラーなんてもっての外。怖いのに乗じてくっつこうなんて下心が起きる以前の問題だ。わたしは断固拒否した。
結局選んだのは、犬と飼い主の感動ものの映画だった。
映画を観始めると、また手をするりと繋がれる。しかも今度は所謂恋人繋ぎというもので。
――え、映画どころじゃない!
好きな人と恋人繋ぎをして、何とも思わない訳がない。親指で撫でられたり、にぎにぎと握りられたりして、何だか変な気分になってくる。
どきどきという心臓の音が五月蝿いのがわかる。そんな訳ないのに、繋がれた手からその音が伝わってしまうんじゃないかと思ってしまった。わたしは、何とか映画に集中しようとした。
映画に集中した結果、わたしはぐずぐずと鼻を鳴らしていた。隣に花戸くんがいるなんてお構いなしに、犬と飼い主の別れのシーンに号泣してしまった。
「な、泣いているの?」
ぎょっとした様子で花戸くんが「はいこれ」と机の上に置いてあったティッシュを渡してくる。
わたしは大人しくそれを受け取った。
「む、昔犬を飼っていたから……その子を思い出したらつい……年を取ると涙脆くなって嫌だね……」
「僕も同い年なんだけどなぁ……」
花戸くんが苦笑いを零す。
目元にティッシュを押し当てていると、映画を観ている間ずっと繋がれていた手が離された。
そうかと思えば、花戸くんはわたしと向かい合うように座り直して両手を広げて来た。
背中に腕を回される。そのまま「よしよし」と、背中を摩られた。
「青崎さんは結構涙脆いんだね」
その声は何だか嬉しそうだ。何が嬉しいのかさっぱりわからない。
さっきまでよりも近い距離に、やはり心臓は五月蝿くなるばかりで。でも、とても安心する。
わたしが身を委ねると、手の動きが止まった。ぎゅっと抱き込まれる。
――少しなら、良いかな……。
わたしも、その広い背中に手を回した。
どれくらい経っただろう。おずおずと手が離された。
少し距離が開く。ぱちり、と花戸くんと目が合った。
あ、と思った時には、花戸くんの顔が近づいて来た。
――キス、される。
わたしは咄嗟に顔の前に手を置いてそれを遮った。
ちょっともったいないなと思ってしまった気持ちには蓋をする。
「何で邪魔するの」
「流石に、それはちょっと……」
むっとした表情の花戸くんにしどろもどろに答える。
酒を飲んだ時よりも顔が熱い。きっと、わたしの顔は真っ赤に染まっているだろう。
――恋人ごっこって一体何処まで!?
頭の中でぐるぐると考えながら顔を俯けていると、ぷ、と吹き出した声が聞こえて来た。
え、と思って顔を上げる。すると、花戸くんは肩を震わせて笑っていた。
「な、何で笑うの……」
「ごめんごめん。まさか青崎さんがここまで初心だとは思わなくて」
「馬鹿にしています!?」
「していないよ。可愛いなって思っただけ」
柔らかくて優しげな瞳で見つめられる。
いつもなら可愛いと言われても馬鹿にされている気しかしないけど、この場の雰囲気が甘さを含んでいるように思えて、何も言えなかった。
花戸くんの顔を見ていられなくて、視線を逸らす。わたしは花戸くんとの間に手を置いた。ぐっと手を伸ばして、距離を取る。
「も、もう良いよ。ごめんね。こんなことさせちゃって」
勘違いしてはいけない。花戸くんは、わたしの恋愛恐怖症を直そうとしてくれているだけ。
あれもこれも、全部花戸くんの善意でしかないのだ。
――好きな人と手を繋げて、抱きしめられて、それで十分じゃない。
きっと、今夜のことは忘れないだろう。幸せだという気持ちは消えない。
でも、幸せの魔法は解けてしまう。
自分の欲から断れないまま流されてしまったけど、こんなことを花戸くんにさせるべきではなかった。
申し訳なくて、むなしい気持ちが広がっていく。胸が苦しくて、切なくて、仕方がなかった。
静寂がわたしたちを包み込む。
不意に、花戸くんが声を発した。
「僕が好きでもない人にこんなことすると思ってんの?」
「え……」
「少しでもどきどきしてほしくて、頑張っているんだけど」
――それってどういうこと?
そう訊く前に、唇を塞がれた。柔らかな感触が唇から伝わってくる。
そっと、花戸くんの顔が離れていく。その目には熱が篭っていた。
「好きだよ」
真っ直ぐに見つめられる。
告げられた言葉の意味が一瞬わからなかった。
目を瞬かせるわたしの耳元に、唇を近づけられる。
「好きだ」
今度こそ、その言葉の意味を理解した。咄嗟に逃げ出したくなったけど、その熱から逃げられそうにもない。
「僕のこと、少しでも好きになってくれた?」
こんなの、意識しない方が無理だ。
驚きと喜びで体が震えた。
――わたしもちゃんと伝えないと。
わたしは勇気を出して花戸くんの頬に手を添える。
ゆっくりと唇を、花戸くんのそれと合わせた。
この想いが伝わりますように、と願いを込めて声に出す。
「好きです。前からずっと」
今夜が過ぎ去ってしまっても、それは解けない魔法だったらしい。