満月の夜、夏の生暖かい風が髪を揺らす。虫の鳴き声が疲れた頭に響いて来た。
仕事も終わらせ、帰ったらビールでも飲もうとささやかな楽しみを胸に抱えつつ歩いていた時だった。
「久しぶり。元気していた?」
目の前に白いワンピースを着た女性が現れた。色白の肌に長い黒髪が流れる。覗く足はほっそりとしている。
月明かりの下、その姿は柔らかく光って見えた。
「……可絵?」
「そうですよー」
彼女――可絵がひらひらと手を振る。
瞠目する僕に対して、可絵は足取り軽く近づいて来た。じろじろと僕を眺めて、くすりと小さく笑う。
「真都くんは昔と変わらないねー。でもちょっと痩せた?夏バテ?」
可絵はそんなことを言っていたが、僕はそれどころじゃなかった。
「今まで何処に行っていたんだ!?」
「んー、内緒」
「内緒って……」
飄々とかわす姿は付き合っていた頃と変わっていない。
何だかそのことに安心して、少しだけ冷静になった。
僕を見て、可絵がこてりと首を傾げて窺ってくる。
「ねえ、これからデートしない?」
「デート?」
「そう、デート!」
さあ、行こう、と可絵は歩き出した。
――相変わらず、マイペースだなぁ。
小さな後ろ姿に手が伸びそうになったが、可絵に触れて良いのかわからなくて、僕はぐっと手を握りしめた。
*
流されるままやって来たのは水族館だった。
期間限定で、夜まで開館時間が延長されているらしい。
館内に入ると冷房が効いていて涼しい。ハンカチで汗を拭う僕とは違って、可絵は汗一つかいていなかった。
日中に比べると、人は少ないと思う。僕と同じで、仕事着のままの人もちらほらいた。時間が遅いからか子どもはあまりいない。何となく、カップルが多い気がする。
――僕たちもその中の一組に思われているのかな……。
別にそう見られていたって、嫌な気持ちになんかならなかった。寧ろ、嬉しいと思っている自分がいた。
何故かなんて、そんなことわかりきっている。僕は可絵のことを嫌いになって別れた訳じゃないからだ。
――可絵は、僕のこと、嫌いになったのかな……。
そんな問答を一人で何度もして来た。けれど、答えは出ないままで……いや、ただ、答えが出るのを恐れていただけかもしれない。
館内の照明は昼間よりも落とされているのだろう。薄暗い空間の中で水槽が光り、青色の世界が広がっている。
白い体躯で優雅に泳いでいるのはベルーガだ。
人懐っこいのか、眺めていれば僕たちの近くまで寄って来た。そうかと思えば、その場でくるくると回り始めた。まさかパフォーマンスを見られるとは思わなかったから、「おおー!」と僕たちのテンションは上がった。
「この子はあれかな?」
「あっちじゃない?」
壁に掛けられた、ベルーガの名前や特徴が書かれた掲示板を見ながら、二人でああだこうだと言い合った。
大きな水槽の中には何千尾ものイワシが泳いでいた。渦を巻き、銀色の鱗がきらきらと輝きを放っている。
水面が床一面に映り、まるで水の中にいるように錯覚する。
壮観なそれに、僕たちは「凄いね」と呟き合った。
「イワシかぁ……」
「食べたいとか言わないでよ」
「まだ何も言っていないですー」
膨れっ面で可絵は不貞腐れた。僕はそれにつられて、ははっと笑ってしまった。
二人で住んでいた頃、可絵は肉料理よりも魚料理を作ることが多かった。可絵も僕も魚料理が好きだったから。
食事の支度は僕も手伝える時は手伝った。二人で料理を作るのはとても楽しかった。
「あ、焦げた!」
「んー、まあ、大丈夫大丈夫」
僕は失敗することもあったけど、そんな時は二人で笑い合った。片付けも二人でして、その後ゆっくりと過ごす。それが僕たちの日常だった。
順調に過ごしていたと思っていた。それなのに、僕たちは別れてしまった。
ある日突然、可絵がいなくなってしまったのだ。
家に帰って残されていたのは、合鍵と一枚のメモ用紙だった。
可絵が「可愛い!」と言って買っていたメモ用紙にはこう書かれていた。
『今までありがとう。さようなら』
部屋の中を見ても、可絵が住んでいた痕跡は何処にもなくて。僕はただ、一人立ち尽くした。
訳がわからなかった。前日に喧嘩した訳でもなかったから。
――何か、嫌がることをしてしまったんだろうか……。
その兆候を僕が逃してしまっていたのかもしれないと思って呆然とした。
心当たりはなくて、でも、可絵が出て行くことに気づかなかった自分が許せなくて。何もできなかった後悔だけが心の奥底に溜まっていった。
電話を掛けても繋がらなくて、二人の思い出の場所を巡っても可絵はいなくて。
結局可絵と連絡がとれないまま、僕たちはそのまま別れることになってしまったのだ。
思い出が蘇る。二人で旅行をした記憶、美味しいものを分け合った記憶、くだらないことで喧嘩した記憶、様々な記憶が僕の頭の中を過った。
――そう言えば、可絵がいなくなる前に水族館に行きたいって言っていたっけ……。
確か、テレビで紹介されていて、それを眺めながらぽつりと可絵が呟いたのだ。
「夜の水族館って何だかロマンチックだよねぇ……。一回行ってみたいなぁ」
ほんと、ベタなのが好きだよなぁと呆れながらも僕は頷いた。
「いいよ。今度行こう」
「約束ね」
小指を差し出されたので、僕も絡めた。こういう子どもっぽいところがあるのも微笑ましかった。
結局、その約束が果たされることはなかった。突然可絵は僕の前から消えてしまったから。
「あ、イルカショーが始まっちゃう」
可絵に急かされ、僕は思考を振り払った。
過去のことに思いを馳せている場合ではない。今、目の前にいる彼女に集中しなくては。
メインプールへと向かい、ベンチに腰掛ける。
暫くして、ショーが始まった。
夜空の下、イルカたちがパフォーマンスを繰り広げる。月明かりと照明に照らされたその姿はとても幻想的だった。
時々水飛沫が上がり、可絵は顔を庇うように白い腕を掲げる。
水滴が光を浴びて七色に光る。その奥に、屈託なく笑う可絵の姿があった。
――ああ、好きだなぁ。
嫌いになって、別れた訳じゃない。僕はまだ、可絵のことが好きだった。
ずっとずっと、可絵に会いたかった。でも、どうして僕の前からいなくなったのか、訊くのが怖い。
燻り続ける熱を抱えつつ、ショーが終わった後も僕たちは館内を回り続けた。
サンゴにウミガメにペンギン。水槽を眺める可絵の表情がころころ変わって、見ていて飽きなかった。ずっと見ていたいと思った。
可絵といる時間が楽しくて、幸せで、これからも一緒にいたいと、そう願った。
閉館時間を告げるアナウンスが鳴り響く。
ゆらゆらとくらげが泳ぐ水槽の横で、可絵が言う。
「楽しかったー。……これで思い残すことはないや」
その言葉から、可絵が約束を覚えていたことを察した。
嬉しさと切なさ。何とも言えない気持ちが込み上げてくる。僕は思い切って口を開いた。
名前を呼べば、前を歩いていた可絵が振り返った。
「可絵、僕はまだ――」
――君のことが好きだ。
そう告げようとしたが、口元に人差し指を当てられて、僕は何も言えなかった。
「それ以上は言っちゃダメ」
優しげに、そして何処か寂しそうに可絵は笑った。
「真都くんの気持ち、とても嬉しいよ。わたしも真都くんと同じ気持ちだから」
「それじゃあ……」
「でも、ダメなの」
「何で?お互い同じ気持ちなら、また付き合ってもいいじゃないか!」
気持ちが昂って声を荒げてしまった。それでも、可絵は困ったように眉を下げるだけで。
「ごめんね、それはできないの」
すう、と可絵が息を吸った。僕の見つめるその瞳が揺れた気がした。
「わたし、もう死んじゃっているから」
僕たちを静寂が包み込む。
言われた言葉の意味がわからなくて、僕は一瞬、息の仕方を忘れた。
「……どういうこと?」
「そのままの意味。わたし、もう死んじゃっていて、幽霊なの」
「ゆう、れい……」
――そんな、まさか……。
信じきれない僕を納得させるように、可絵がゆっくりと説明する。
「実はね、余命宣告されちゃっていたんだよね。あの時は、頭が真っ白になっちゃって……兎に角、あなたの前から消えなくちゃと思ったんだ」
「それで、突然いなくなっちゃったの?」
「そうだよ」
こくりと可絵が頷く。
「何も言わなくてごめんね。でもね、真都くんに迷惑掛けたくなかったの」
「迷惑だなんて……そんなこと思わないよ」
「そうだよね。そう言うと思ったよ」
「……そんなに、僕は頼りなかった?」
「違うよ。ただわたしが、真都くんの重しになりたくなかっただけ」
ごめんねと、可絵は何度も謝った。……謝って欲しい訳じゃないのに。
「約束したのに水族館行けなかったのが心残りで……こうして、化けて出ちゃったの」
ふふっと悪戯っぽく可絵が笑った。その笑い方は昔と何も変わっていないのに。
でも、生者と死者として、僕たちの間には大きな隔たりがあった。それは僕にはどうしようもできなくて。
「さいごに真都くんと過ごせて嬉しかった」
心の底から、可絵が言葉を吐き出した。
その笑顔に胸が苦しくなる。僕は堪らなくなって、可絵に手を伸ばして、細いその体を掻き抱いた。
驚く彼女に顔を近づける。そして、勢いのまま唇を合わせた。
唇から伝わるぞっとする冷たさに、ああ、もう可絵は生きていないんだと実感してしまった。
ゆっくりと唇を離す。漆黒の瞳と目が合った。
「好きだ」
真っ直ぐにその思いを告げる。愛しい気持ちと悲しい気持ちがごちゃまぜになって僕の中を回っている。
可絵の大きな目が見開かれる。ぽろりと小さな雫が彼女の柔らかな頬を伝った。
僕は優しくその涙を拭った。頬擦りするように、可絵が身を寄せてくる。さらりと、彼女の黒髪が滑り落ちた。
「わたしも大好きだよ。……真都くんと一緒に過ごせて、楽しかった。真都くんが好きになってくれて、真都くんを好きになれて、本当に嬉しかった」
ありがとう。
可絵はまるで夜に浮かぶ月のように、眩く、優しく微笑んだ。
繋ぎ止めていたはずの手が空を切る。
周りを見ても、可絵の姿は何処にもなくて。
「……それはこっちの台詞だよ」
ぽとり、と床に雫が落ちた。
可絵との記憶は色褪せない。優しい眼差しも、その温もりも、記憶が、体が、全部全部覚えている。
「忘れないから」
この気持ちはずっとずっと、消え去ることなんてない。手放したいだなんて思わない。
可絵への想いを抱えて、僕は生きていく。
彼女がいなくなったこの青の世界で。
仕事も終わらせ、帰ったらビールでも飲もうとささやかな楽しみを胸に抱えつつ歩いていた時だった。
「久しぶり。元気していた?」
目の前に白いワンピースを着た女性が現れた。色白の肌に長い黒髪が流れる。覗く足はほっそりとしている。
月明かりの下、その姿は柔らかく光って見えた。
「……可絵?」
「そうですよー」
彼女――可絵がひらひらと手を振る。
瞠目する僕に対して、可絵は足取り軽く近づいて来た。じろじろと僕を眺めて、くすりと小さく笑う。
「真都くんは昔と変わらないねー。でもちょっと痩せた?夏バテ?」
可絵はそんなことを言っていたが、僕はそれどころじゃなかった。
「今まで何処に行っていたんだ!?」
「んー、内緒」
「内緒って……」
飄々とかわす姿は付き合っていた頃と変わっていない。
何だかそのことに安心して、少しだけ冷静になった。
僕を見て、可絵がこてりと首を傾げて窺ってくる。
「ねえ、これからデートしない?」
「デート?」
「そう、デート!」
さあ、行こう、と可絵は歩き出した。
――相変わらず、マイペースだなぁ。
小さな後ろ姿に手が伸びそうになったが、可絵に触れて良いのかわからなくて、僕はぐっと手を握りしめた。
*
流されるままやって来たのは水族館だった。
期間限定で、夜まで開館時間が延長されているらしい。
館内に入ると冷房が効いていて涼しい。ハンカチで汗を拭う僕とは違って、可絵は汗一つかいていなかった。
日中に比べると、人は少ないと思う。僕と同じで、仕事着のままの人もちらほらいた。時間が遅いからか子どもはあまりいない。何となく、カップルが多い気がする。
――僕たちもその中の一組に思われているのかな……。
別にそう見られていたって、嫌な気持ちになんかならなかった。寧ろ、嬉しいと思っている自分がいた。
何故かなんて、そんなことわかりきっている。僕は可絵のことを嫌いになって別れた訳じゃないからだ。
――可絵は、僕のこと、嫌いになったのかな……。
そんな問答を一人で何度もして来た。けれど、答えは出ないままで……いや、ただ、答えが出るのを恐れていただけかもしれない。
館内の照明は昼間よりも落とされているのだろう。薄暗い空間の中で水槽が光り、青色の世界が広がっている。
白い体躯で優雅に泳いでいるのはベルーガだ。
人懐っこいのか、眺めていれば僕たちの近くまで寄って来た。そうかと思えば、その場でくるくると回り始めた。まさかパフォーマンスを見られるとは思わなかったから、「おおー!」と僕たちのテンションは上がった。
「この子はあれかな?」
「あっちじゃない?」
壁に掛けられた、ベルーガの名前や特徴が書かれた掲示板を見ながら、二人でああだこうだと言い合った。
大きな水槽の中には何千尾ものイワシが泳いでいた。渦を巻き、銀色の鱗がきらきらと輝きを放っている。
水面が床一面に映り、まるで水の中にいるように錯覚する。
壮観なそれに、僕たちは「凄いね」と呟き合った。
「イワシかぁ……」
「食べたいとか言わないでよ」
「まだ何も言っていないですー」
膨れっ面で可絵は不貞腐れた。僕はそれにつられて、ははっと笑ってしまった。
二人で住んでいた頃、可絵は肉料理よりも魚料理を作ることが多かった。可絵も僕も魚料理が好きだったから。
食事の支度は僕も手伝える時は手伝った。二人で料理を作るのはとても楽しかった。
「あ、焦げた!」
「んー、まあ、大丈夫大丈夫」
僕は失敗することもあったけど、そんな時は二人で笑い合った。片付けも二人でして、その後ゆっくりと過ごす。それが僕たちの日常だった。
順調に過ごしていたと思っていた。それなのに、僕たちは別れてしまった。
ある日突然、可絵がいなくなってしまったのだ。
家に帰って残されていたのは、合鍵と一枚のメモ用紙だった。
可絵が「可愛い!」と言って買っていたメモ用紙にはこう書かれていた。
『今までありがとう。さようなら』
部屋の中を見ても、可絵が住んでいた痕跡は何処にもなくて。僕はただ、一人立ち尽くした。
訳がわからなかった。前日に喧嘩した訳でもなかったから。
――何か、嫌がることをしてしまったんだろうか……。
その兆候を僕が逃してしまっていたのかもしれないと思って呆然とした。
心当たりはなくて、でも、可絵が出て行くことに気づかなかった自分が許せなくて。何もできなかった後悔だけが心の奥底に溜まっていった。
電話を掛けても繋がらなくて、二人の思い出の場所を巡っても可絵はいなくて。
結局可絵と連絡がとれないまま、僕たちはそのまま別れることになってしまったのだ。
思い出が蘇る。二人で旅行をした記憶、美味しいものを分け合った記憶、くだらないことで喧嘩した記憶、様々な記憶が僕の頭の中を過った。
――そう言えば、可絵がいなくなる前に水族館に行きたいって言っていたっけ……。
確か、テレビで紹介されていて、それを眺めながらぽつりと可絵が呟いたのだ。
「夜の水族館って何だかロマンチックだよねぇ……。一回行ってみたいなぁ」
ほんと、ベタなのが好きだよなぁと呆れながらも僕は頷いた。
「いいよ。今度行こう」
「約束ね」
小指を差し出されたので、僕も絡めた。こういう子どもっぽいところがあるのも微笑ましかった。
結局、その約束が果たされることはなかった。突然可絵は僕の前から消えてしまったから。
「あ、イルカショーが始まっちゃう」
可絵に急かされ、僕は思考を振り払った。
過去のことに思いを馳せている場合ではない。今、目の前にいる彼女に集中しなくては。
メインプールへと向かい、ベンチに腰掛ける。
暫くして、ショーが始まった。
夜空の下、イルカたちがパフォーマンスを繰り広げる。月明かりと照明に照らされたその姿はとても幻想的だった。
時々水飛沫が上がり、可絵は顔を庇うように白い腕を掲げる。
水滴が光を浴びて七色に光る。その奥に、屈託なく笑う可絵の姿があった。
――ああ、好きだなぁ。
嫌いになって、別れた訳じゃない。僕はまだ、可絵のことが好きだった。
ずっとずっと、可絵に会いたかった。でも、どうして僕の前からいなくなったのか、訊くのが怖い。
燻り続ける熱を抱えつつ、ショーが終わった後も僕たちは館内を回り続けた。
サンゴにウミガメにペンギン。水槽を眺める可絵の表情がころころ変わって、見ていて飽きなかった。ずっと見ていたいと思った。
可絵といる時間が楽しくて、幸せで、これからも一緒にいたいと、そう願った。
閉館時間を告げるアナウンスが鳴り響く。
ゆらゆらとくらげが泳ぐ水槽の横で、可絵が言う。
「楽しかったー。……これで思い残すことはないや」
その言葉から、可絵が約束を覚えていたことを察した。
嬉しさと切なさ。何とも言えない気持ちが込み上げてくる。僕は思い切って口を開いた。
名前を呼べば、前を歩いていた可絵が振り返った。
「可絵、僕はまだ――」
――君のことが好きだ。
そう告げようとしたが、口元に人差し指を当てられて、僕は何も言えなかった。
「それ以上は言っちゃダメ」
優しげに、そして何処か寂しそうに可絵は笑った。
「真都くんの気持ち、とても嬉しいよ。わたしも真都くんと同じ気持ちだから」
「それじゃあ……」
「でも、ダメなの」
「何で?お互い同じ気持ちなら、また付き合ってもいいじゃないか!」
気持ちが昂って声を荒げてしまった。それでも、可絵は困ったように眉を下げるだけで。
「ごめんね、それはできないの」
すう、と可絵が息を吸った。僕の見つめるその瞳が揺れた気がした。
「わたし、もう死んじゃっているから」
僕たちを静寂が包み込む。
言われた言葉の意味がわからなくて、僕は一瞬、息の仕方を忘れた。
「……どういうこと?」
「そのままの意味。わたし、もう死んじゃっていて、幽霊なの」
「ゆう、れい……」
――そんな、まさか……。
信じきれない僕を納得させるように、可絵がゆっくりと説明する。
「実はね、余命宣告されちゃっていたんだよね。あの時は、頭が真っ白になっちゃって……兎に角、あなたの前から消えなくちゃと思ったんだ」
「それで、突然いなくなっちゃったの?」
「そうだよ」
こくりと可絵が頷く。
「何も言わなくてごめんね。でもね、真都くんに迷惑掛けたくなかったの」
「迷惑だなんて……そんなこと思わないよ」
「そうだよね。そう言うと思ったよ」
「……そんなに、僕は頼りなかった?」
「違うよ。ただわたしが、真都くんの重しになりたくなかっただけ」
ごめんねと、可絵は何度も謝った。……謝って欲しい訳じゃないのに。
「約束したのに水族館行けなかったのが心残りで……こうして、化けて出ちゃったの」
ふふっと悪戯っぽく可絵が笑った。その笑い方は昔と何も変わっていないのに。
でも、生者と死者として、僕たちの間には大きな隔たりがあった。それは僕にはどうしようもできなくて。
「さいごに真都くんと過ごせて嬉しかった」
心の底から、可絵が言葉を吐き出した。
その笑顔に胸が苦しくなる。僕は堪らなくなって、可絵に手を伸ばして、細いその体を掻き抱いた。
驚く彼女に顔を近づける。そして、勢いのまま唇を合わせた。
唇から伝わるぞっとする冷たさに、ああ、もう可絵は生きていないんだと実感してしまった。
ゆっくりと唇を離す。漆黒の瞳と目が合った。
「好きだ」
真っ直ぐにその思いを告げる。愛しい気持ちと悲しい気持ちがごちゃまぜになって僕の中を回っている。
可絵の大きな目が見開かれる。ぽろりと小さな雫が彼女の柔らかな頬を伝った。
僕は優しくその涙を拭った。頬擦りするように、可絵が身を寄せてくる。さらりと、彼女の黒髪が滑り落ちた。
「わたしも大好きだよ。……真都くんと一緒に過ごせて、楽しかった。真都くんが好きになってくれて、真都くんを好きになれて、本当に嬉しかった」
ありがとう。
可絵はまるで夜に浮かぶ月のように、眩く、優しく微笑んだ。
繋ぎ止めていたはずの手が空を切る。
周りを見ても、可絵の姿は何処にもなくて。
「……それはこっちの台詞だよ」
ぽとり、と床に雫が落ちた。
可絵との記憶は色褪せない。優しい眼差しも、その温もりも、記憶が、体が、全部全部覚えている。
「忘れないから」
この気持ちはずっとずっと、消え去ることなんてない。手放したいだなんて思わない。
可絵への想いを抱えて、僕は生きていく。
彼女がいなくなったこの青の世界で。