ふわり、ふわりと淡く優しい光が舞う。
無数に飛び交う青白い光。儚く静かな生命の輝き。
あの中のどこかに、もしかしたら──。
*
「ああ美味しい! 一緒に来てくれてありがとう、むっちゃん」
“むっちゃん”こと私、篠原睦月。二十八歳。
目の前で苺白玉パフェを頬張っているのは、私の祖母、佐々田弥生。七十八歳。
「おばあちゃんが喜んでくれてよかったよ」
「ずーっとここの『ぱふぇ』が食べてみたかったのよ〜。でも一人じゃお店に入りにくいし。むっちゃんがいてくれてよかったわ〜」
小さな商店街のお洒落カフェ。看板メニューの『苺白玉パフェ』が以前ローカルテレビで特集されてから、ずっと気になっていたらしい。
ここは、昔ながらの商店街が残る、どこか昭和感のある街だ。祖母が結婚前に住んでいた辺りらしく、久々の帰郷に珍しくはしゃいでいる。今日は二人であちこち歩き回った。
「しかしよく歩いたね。疲れてない?」
「疲れたわ〜。だからこうして糖分補給。ほら、むっちゃんも食べて食べて」
「では少しだけ……。んー! 美味しい〜」
祖母は若々しくてお洒落だ。私が幼い頃から全く見た目が変化していない。今も髪の毛は明るい茶色に染めて綺麗にまとめ、モスグリーンの爽やかなシャツワンピを着こなしている。昨年喜寿を迎えたなんて信じられない。明るく優しい自慢の祖母だ。
そんな祖母だが、実は先月までずっと塞ぎ込んでいた。家から出ようとせず、食事の量も減って少し痩せた。きっかけは、祖父が昨年突然の事故で亡くなったことだった。
祖母の瞳から光が消えて、外出も減りお洒落をすることもなくなってしまった。涙など見せたことのなかった彼女の泣き暮らす姿は、見ていてとても辛かった。何をしても何を言っても寂しそうにするばかり。時間が解決するだろうと家族で順番に様子を見に行き、連絡を取り合って過ごしてきた。
しかし、祖父が亡くなって一年が過ぎた頃、急に祖母は元気になった。何故だか分からないが、生き生きと暮らすようになったのだ。
いつも通り祖母の家に寄ったある日、祖母が見せてきたのは手帳にびっしり書かれた『やりたいことリスト』。残りの人生で沢山のやりたいことを叶えるために協力してほしいと言ってきた時は、元通りの活力ある祖母に戻った気がして嬉しかった。
「それで? おばあちゃんの『やりたいことリスト』は、あと何個あるの?」
「う〜ん、そうねぇ。むっちゃんに手伝ってもらって随分叶えられたんだけど、あといくつだったかしらね」
そう言って祖母はお気に入りの手帳を鞄から取り出した。生前祖父が使っていた皮の手帳カバーを使用している。祖母は祖父が大好きだったのだと、こういうところでひしひしと感じて、なんだかむず痒い。でもどこか嬉しい。
羨ましくなるほど仲睦まじい二人だった。祖母が今、一人でこうして座っているのが不思議に思うくらいに、いつも二人は一緒にいた。私もいつか、祖父母のように四六時中一緒にいても飽きないような人に出会えるだろうか。
「に、し、ろ、は、……うん、あと八十一個ね!」
「おお〜、随分減ったね」
最初に手帳の『やりたいことリスト』を見た時は百個あった。ノートびっしりにやりたいこと、挑戦してみたいことが書き記してあるのだ。小さな願いから大きな願いまで沢山。『テレビで観たお饅頭が食べたい』だとか『北海道旅行で五稜郭に行きたい』だとか。それを少し前からちょっとずつ叶えていくのが、最近の私たち家族の楽しみになっている。今日は『実家があった辺りを巡りたい』という要望に応えて、二人でこの街にやってきた。
「今日はあと、近くの神社にお参りに行きたいわ」
「これから? もう日も暮れてきたし夜になりそうだけど。大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。足元には気をつけますから」
祖母は昨年大怪我をしている。祖父を亡くしてすぐ、落ち込んでいた頃のことだ。自宅の玄関先の段差で転んで、大腿骨を骨折した。入院も長引き、このまま弱ってしまうのではと家族みんなで心配した。一人暮らしをやめて同居をしないかと母が提案したが、祖父との思い出の家を手放したくない離れたくないの一点ばり。リハビリを頑張り退院してからも一人暮らしを続けているので、私や母が度々訪ねるようにしている。
商店街の一番奥に見える鳥居。あれが今日の最後の目的地だ。祖母の歩幅に合わせて歩きながら、その横顔を見ると、懐かしそうに目を細めている。元気になってくれてよかったなとしみじみしていると、祖母がくすくすと笑った。
「あの神社はね、初恋の思い出の場所なの」
「え〜初めて聞く! その話」
「ふふっ。秘密にしておきたかったの。だから誰にも言ってないのよ」
「私聞いていいの?」
「ええ。何だか話したくなっちゃったから」
***
数十年前。その夜、十六歳の弥生は、友人と近くの神社に出掛けた。神社の向こうには川がある。現在は対岸工事が施され整備されているが、当時はまだ雑草もそのままの小さくて美しい川だった。
その川のほとりには蛍が住んでいる。
神社では「ホタルまつり」が催されていた。そこへ友人の芳子ちゃんと、浴衣を着て出掛けることになったのだ。
弥生は高揚していた。今までは両親が門限に厳しく、夜間の外出は禁止されていたからだ。大きな工場を営む弥生の家は、近所でも有名でやっかむ人も少なからずいた。両親は弥生を守るため、夜間や一人での外出を固く禁じていたのだ。
でも今年は「芳子ちゃんと一緒なら」と許可が出た。初めてのお祭り。新しい浴衣。特別に許された夜の外出。弥生の心はウキウキして、はしゃいで出掛けた。
だが、珍しい出店をあれこれ眺めていたせいで、すぐに芳子ちゃんと逸れてしまった。お祭り会場は人が多く探しても探しても見つからない。携帯電話がない時代。連絡の取りようもなくて、とぼとぼと神社を歩いた。
彼女の兄も会場にいるはずだが、見つからない。ならば蛍を見に行ったのかもしれないと川沿いに来てみたが、暗くて人の顔がよく見えない。その上、川沿いの道は足元が悪かった。少しぬかるんだ地面に足を取られ、弥生は尻餅をついて転びそうになった。
「きゃ!」
「っ! 大丈夫ですか?」
運よく後ろをを歩いていた青年が、弥生を抱き止めてくれた。──それが出会いだった。
***
「もしかしてその抱き止めてくれた人に、おばあちゃん一目惚れしちゃったの?」
日も暮れて夜の帳が下りそうな商店街。閉まるお店も、これから開くお店もあるようだ。鳥居まであと少し。二人で並んで商店街を歩きながら、祖母の初恋話を聞いていた。
「一目惚れではないわねぇ。瓶底メガネをかけてて、服もヨレヨレでね。髪の毛もボッサボサ。蛍の光だけだったらよく見えなかったでしょうけど、その日は月明かりが綺麗でね。その人の姿がよく見えたの」
姿に文句をつけているはずなのに、祖母の顔が優しく緩む。好きだった人を思い出し、くすくすと笑う。ここ数年寂しそうな姿ばかり見ていたから、久々に穏やかに笑う祖母をみて、私は少しほっとした。
一方で、あんなにも愛していた祖父以外にも、こんな顔をする相手がいることを意外に思った。
***
弥生は助けてくれた青年に、一緒に来ていた友人とはぐれてしまったことを説明した。それを聞いて何故か彼は少しホッとした顔を見せ、夜道は危険だから家まで送ると言い出した。
しかし弥生はまだ家に帰りたくない。お祭り会場にいれば、芳子ちゃんと合流できるかもしれないし、せっかくの浴衣をもう少し着ていたかった。
「私、まだ蛍を見ていなくて……。よかったら、一緒に探してくださらない?」
「えっ……!」
弥生は帰りたくない一心で、彼の手を握った。
「お願いします。どうしても見てみたいの」
「わ、分かりました。いいですよ、ご案内します」
「まぁ、ありがとうございます!」
一瞬驚いた顔をした彼は、弥生のお願いに顔を朱く染めた気がした。暗いのではっきりと見えないが、それを隠すように俯く。もしかしたら女性と話すことにあまり慣れていないのかもしれない。
彼は「もう少し上流の方が蛍が多く飛んでいましたから、参りましょう」と言い、弥生の歩幅に合わせてゆっくりと歩き始めた。時折弥生が遅れていないか、チラリと振り返って確認してくれる。優しい人だなと弥生はぼんやり考えた。弥生も普段、男性と話す気会はほぼない。父は寡黙で愛想がないし、芳子ちゃんのお兄さんは明るく賑やかでガサツだ。この人のような優しい殿方は目新しかった。
しばらく歩いた先に、川沿いに木が茂り、月明かりがあまり届かない場所があった。彼が立ち止まったので川の方を見ると、無数の青白い光が心許なく点滅していた。
「まぁ。もしかしてあれが蛍?」
「そうです。ご覧になったのは初めてでしたか?」
「ええ。父が厳しくて夜の外出は許してもらえなかったので、初めて見ました。もっとキラキラと輝くのかと想像していたけれど……」
「……小さくて優しい光ですよね」
明らかに弥生のほうが年下なのに、彼はずっと敬語だった。彼は、落ち着いて座れそうな岩場を見つけ、ハンカチをそこに敷いた。しかしそのハンカチもまた、彼の服と同様しわくちゃだ。一瞬弥生が座るのを躊躇していると、彼はすぐに気づいて、恥ずかしそうに「やっぱりこれでは座りにくいですよね」と片付けようとした。だが弥生は、彼の袖を引っ張って制止する。
「ありがとう。座らせていただきますね」
「あ……はい」
彼は何故か弥生が一瞬触れた袖を凝視している。嫌だったのだろうか。
「よかったらあなたも一緒に座りましょう?」
「……ありがとう、ございます」
彼は少し迷った後、そっと弥生の横に腰掛けた。小さな岩場に二人並んで座る。夜の少し冷たい風が弥生の頬を撫でた。
瞳が暗闇に慣れて、今まで以上に光の群がよく見えてくる。ふわりふわりと点いては消える、優しい小さな光。
星の瞬きや月の輝きほどの光量はないけれど、間違いなく美しい光景だった。
「綺麗」
「ええ。綺麗ですね」
低くて優しい彼の声。弥生はその瞬間、彼が横にいることがひどく自然に感じた。自分自身でも信じられないけれど、彼の隣が『自分の居場所』なのだと悟った。電気が走ったような衝撃ではなく、割れた茶碗の破片が揃うような、パズルのピースをはめたような、手袋の片方を見つけたような、そんな感覚だった。
でもそんなことを急に言い出したら、はしたないと思われるかしら。横を盗み見ると、彼もこっそり弥生を見ようとしたのか、バチッと目が合う。思わず二人とも目をそらした。自分の顔こそ朱く染まってしまった気がする。弥生はバクバクと鳴る心臓の音を隠したくて、おしゃべりを始めた。
「あ、あの、今日はお一人でいらしたの?」
「え、ええ。私の田舎では蛍は珍しくはないのですが、……懐かしくて」
「ご実家から離れて下宿していらっしゃるの?」
「はい。この近くに。学生ばかりが集まる下宿がありまして」
「まぁ、学生さんなんですね。私の家も近いんです。父がネジ工場を経営していて」
「ああ。あの大きな……。ご立派なお父上ですね」
「……ありがとうございます」
聞くと、彼は近くの大学に通う学生で、法律の勉強をしているらしい。実家は山口で次男坊。将来は故郷で弁護士になるのが夢なのだと穏やかな口調で語ってくれた。低く優しい音色で横から響いてくる声は、弥生の心を温かく包むようで。
まだもう少し、彼の隣にいたい。
こんな気持ちになるなんて、自分はどうしてしまったのだろう。でも、それでも「あと少し」と願ってしまう。
「あの、もしよかったら神社のお祭りも一緒に行きませんか?」
「……はい、僕でよかったらお供します」
岩場から腰を上げ、ハンカチを丁寧に畳んでお礼を言う。もしよかったら洗濯をしてお返しさせてほしいと言うと、「差し上げます」と恥ずかしそうにはにかんだ。そんな小さな笑顔が、弥生の胸をキュンと締め付ける。経験のない弥生には、それが初恋の胸の痛みだとは分からなかった。
神社の境内に入ると、暗い小川を眺めた後のお祭り会場は眩しくて、思わず目を細めてしまった。お互いのそんな表情に気づいて二人でちょっと笑い合う。
「何か食べますか?」
「案内していただいた御礼にご馳走します! りんご飴なんていかが?」
「いえいえ。ここは僕が」
見るからにお金に苦労している貧乏学生なのに、いいところを見せようとしている彼が、ちょっと可愛い。明るいところで見ると、彼のボサボサ頭も瓶底メガネの奥に見える切長の瞳も、なんだか魅力的に感じた。
彼がりんご飴の屋台に近づいたその時、「弥生ちゃーん!」と芳子ちゃんの声がした。振り向くと芳子ちゃんが彼女の兄とこちらに向かって走ってきていた。
「芳子ちゃん!」
「よかった! 弥生ちゃんとはぐれてからずっと探してたんだよ!」
「そうだったの。ごめんなさい」
彼を見上げると、「お友達が見つかってよかったですね」と微笑んでくれた。唐突に終わりを迎えた彼との二人の時間。そこで弥生は焦りを覚えた。ここで別れたらもう会えなくなるかもしれない。
「また、お会いできますか?」
「いいえ。これが最後になると思います」
キッパリとした彼の言い分に弥生は驚く。後から考えれば、大きな工場の社長令嬢と貧乏学生だ。しかも彼の志す先は司法の道。年齢や性別の差もあるため友人関係にもなれない二人の距離は大きい。交わらない将来を頭の良い彼は最初から悟っていて、ずっと敬語だったのかもしれない。
「貴女のような素敵な人と、お話しできただけで。素晴らしい夜でした」
「え?」
「良い思い出をありがとうございました」
「あ、あの! お名前だけでも!」
「……佐々田滋、と申します」
「佐々田さん……」
「では」
少しだけ寂しそうに微笑みながら、彼は人波に消えていった。芳子ちゃんが「だれ?」と聞いてきたけれど、弥生は呆然と彼を見送ることしか出来なかった。
***
「ま、待って!? おじいちゃんとの思い出だったの!?」
最後に名前が出てきて驚いた。『佐々田滋』は祖父の名前だ。
「ええそうよ。私の初恋は滋さんですよ?」
「しかもおじいちゃんじゃなくておばあちゃんが先に好きになったの?」
「ふふふ。そうよ〜。見た目は全然素敵じゃなかったんだけどね。すごーく優しくて年下の私にも丁寧で。ああ、この人のお側にずっといたいなぁって思ったの」
「ええ〜。素敵だね」
「ありがとう。おじいちゃんはどう思っていたのか、結局聞けなかったけどね」
ゆっくりと歩いて商店街を通り抜け、鳥居に到着した。一礼して二人で更に境内を進む。
今日はお祭りが開催されているようだ。「ホタルまつり」と書いてある。祖母は知っていたのか、知らずにたまたま今日来たのか、懐かしそうに祭りの明かりを見つめている。
出店の前で、浴衣の女性とシャツ姿の男性が仲良く祭りを楽しんでいた。かつての自分たちを重ね合わせているのか、眩しそうに祖母は微笑んだ。
「それで、どうやっておじいちゃんと再会したの?」
「全然会えなかったの。失恋したのよ」
「え!?」
「大学まで会いにいったの。ハンカチを返しに。でも会えなかった。次の年のお祭りも行って、蛍を見たあの岩場に行ったりして。でもずっと滋さんは来なかった」
友達からは「大学名も名前も嘘だったのではないか」「騙されたに違いない」と言われてしまった。
「でも嘘をつくような人に見えなかった。くしゃくしゃのハンカチを敷いてくれた優しいあの人にもう一度会いたくてね」
「それで、どうしたの?」
「どうにもできなかったわ」
「じゃあ、どうやっておじいちゃんと結婚できたの?」
「あんまり私が諦めないから、父がね、滋さんを探し出してくれたの。『娘と結婚してやってくれ』って頼んでくれてね。滋さんはどう思っていたか分からないけど、受け入れてくれた。私は幸運だったわね」
その言葉を聞いた時、祖父の声で『俺は幸運だった』と脳内に再生された。
あれはいつのことだっただろう。何の話だったけ。祖父からは今聞いた祖母の初恋話は聞いていない。それに私はずっと、「祖父が」祖母を大好きなのだと思っていた。だから、祖父が亡くなって祖母がショックを受けているのを見て、本当に驚いたのだ。どうしてそう思っていたんだっけ。
「滋さんは、私と結婚して、幸せだったのかしらねぇ」
暗くなった空を見上げて、祖母がポツリと呟いた。「幸せだったに決まってるでしょ」と返しながら、さっき感じた違和感の原因を頭の中で探っていく。
「私、りんご飴がたべたいわ」
「まだ食べるの?」
「ふふっ。たまにはいいじゃない」
りんご飴を買って、二人で川沿いを歩く。蛍がいたはずの川には水のせせらぎの音しか聞こえない。
「もっと上流に行けば、蛍が見れるかな。今度車で行こうか」
「そうねぇ。でもいいわ。むっちゃんとこうしてまたここに来れて、それだけで嬉しい」
「あれ? 『蛍をまた見たい』っていう願いはないの?」
「うん。蛍はね、滋さんと見たから」
「ふぅん」
綺麗に整備された川の護岸。川の中に小さな岩場があった。祖母は立ち止まりその辺りをじっと見つめた。
ああ、この街にも祖父との思い出があったのか。愛しい人の気配が、記憶が、そこら中に残っている。でも、もう二度と会えない。そんなとてつもない悲しみを、祖母はどうやって乗り越えたのだろう。
「ねえ、おばあちゃん……」
何気なく尋ねようとした瞬間、月が雲から顔を出し、祖母の顔が明るく照らされた。見えたのは、今にも泣きそうな顔だった。
ああ。まだ、ちっとも乗り越えていないんだな。
急に元気になったように見えたけれど、無理をしていたのかもしれない。どこにいても、何をしていても、愛しい祖父に会えなくて、苦しくて辛くてたまらないのだ。体も弱って怪我もして、思い通りに行かなくて。
私も優しかった祖父が大好きだった。今でも会いたいと願う。でもそんな気持ちは比べられないほどに、祖父が祖母の心を占めている。「会いたい」と祖母が身体中で叫んでいる。
そうだ。祖父もそうだった。祖父も『弥生に会いたくてたまらなかった』と言っていた。会えなくて、辛かった。だから『俺は幸運だった』と。──思い出した。
「おばあちゃん。おじいちゃんが私に『俺は幸運だった』って言ったことがあってね。おばあちゃんと出会った頃のこと、教えてもらったことがあったの」
「え?」
「おばあちゃんのことが好きだったけど貧乏な学生だったから誘えなかったって。ずっとずっと好きだったけど、遠くからたまに見かけるだけで声をかける勇気もなかったって言ってた。でも一度、偶然に話す機会があって、それで良い思い出にして諦めるつもりだったって。……それって、さっきのホタル祭りの夜のことだよね?」
「知らないわ、そんな話……」
「何度も諦めようとして、会わないように気をつけて、でも会いたくてたまらなかったって。会えなくて辛かった、勉強にも打ち込めなくて、人生に迷っていた時、縁あっておばあちゃんの旦那さんに選んでもらえたんだって言ってた。だから『俺は幸運だったんだ』って幸せそうに教えてくれたよ」
「……まぁ……本当に?」
「おじいちゃんから聞いてた話と全然違ったから私、混乱してたけど、思い出した。確かおじいちゃんは、そのお祭りで出会うもっと前からおばあちゃんが好きだったはずだよ」
「そう、そんなこと、滋さん全然言わないから……っ」
その時だ。
この辺りにはいないはずの、小さな小さな蛍が、一匹ふわりと目の前に飛んできた。そして祖母のまわりをゆっくり旋回する。まるで、『そばにいるよ』と祖母に訴えるように。再び空へと飛んだかと思うと、淡い光は夜の闇に溶けていった。
「ああ……ああ……」
祖母の、小さな嗚咽も、川のせせらぎに消えて。私はそっと月を見上げた。
「滋さん……っ」
「おばあちゃん、私は、そばにいる。ずっといる」
「うん……うん……ありがとう。むっちゃん」
母よりも他の従兄弟よりも、私は祖父似だと言われてきた。だから私の顔を見て、祖父を思い出させてしまうのではと心配した日もあったけれど。
祖父との思い出を私と辿ることで、祖母の寂しさが少しだけでもほんのちょっとでも埋められたらいいなと願った。小さくなって泣き崩れる祖母の背中を、そっと撫でる。鼻の奥がツンとしたけれど、泣くのはぐっと我慢した。
しばらくして、落ち着いてきた祖母は恥ずかしそうに笑った。
「茂さんと私は幸せ者ね」
「え?」
「むっちゃんという可愛い可愛い孫がいて」
「そう?」
「うん。茂さんに今度会ったら二人でそう話すわ」
泣き笑いながら祖母が言った。今度、とはいつだろう。そんな私の疑問を察してか、祖母が付け加えた。
「私ね、病気が見つかったの」
「えっ」
予想もしていなかった一言に、驚いた。祖母が病気? こんなに元気そうなのに?
「末期癌ですって。最期は緩和ケアだけしてもらって、滋さんのところに逝くつもり」
「え、待って、おばあちゃん。そんな話、聞いてない……!」
「誰にも言ってなかったの。ごめんね。……むっちゃん、いつか茂さんと蛍になって、むっちゃんに会いに行くわね」
「蛍……?」
「蛍になれるかはわからないけれど、何に生まれ変わっても、私は滋さんの奥さんになる」
「何それ……。もう。ラブラブじゃん……」
「そう、らぶらぶなのよ」
ふふふと笑う祖母。祖母が急に活発になった理由が分かった。人生を閉じようとしていたのだ。後悔のないように。祖父に会うために。
とてつもない寂しさがよぎる。
「おばあちゃん、私、もっとおばあちゃんと生きていたい」
「そうねぇ。私も限界まで生きるつもりだけど、随分色々転移してるみたいでね。余命宣告までされちゃった。でもね、このやりたいことリストを叶えるまではちゃんと生きて、最期まで生きて、楽しく過ごすつもり。むっちゃんも、協力してね」
「おばあちゃん……」
病気の宣告を受けた時、祖母はどんな気持ちだったのだろう。祖父にもうすぐ会えるのだと、喜んだのではないか。それで元気になったのか……。なんという皮肉だろう。どうして一人で病気と向き合っていたの。なんで私を頼ってくれなかったの。祖父を愛しているのは知っているけど、私を置いていくのだって、寂しいとは思わないの。
祖母が最期まで生きようとしているのは嬉しい。少し前までの塞ぎ込んでいた彼女よりも、今の祖母の方が素敵だ。間違いなく生き生きとしている。でもそれが、命を蝕む病気のおかげだなんて、そんなの……。
「……いやだよ、おばあちゃん」
「大丈夫よ。むっちゃんにもきっと、良い人が現れる」
「そうかなぁ」
「ええ。私たちの孫ですもの」
死が二人を別つとも、ずっと続いていく二人の絆。私にもそんな愛を知る日が来るのだろうか。祖母と二人で月明かりの下、ひっそりと泣きながらそんなことを思った。
***
いくつかの季節が過ぎて、夏。あの夜、祖母と見た川の上流に私はいた。
青白く頼りない光。ふわりと光っては消える。儚い輝き。
「おじいちゃん、おばあちゃん」
あの中に二人が居るのかは分からない。でも、この世界のどこかで、二人はきっと一緒にいる。
暗い山道を通り、川の上流にやってきたが、蛍の名所と呼ばれるここには見物客も数人いた。しかし女性一人なのは私くらいだ。さっさと帰ろうと踵を返すと真後ろに人が立っていた。
「きゃ」
「大丈夫ですか?」
暗くてよく見えないが、背の高いくしゃくしゃ頭の男性が、私を支えてくれていた。
「すみません! ありがとうございます」
「いえ」
彼に支えてもらいながら転びそうになった体勢を戻した時、淡い光が二つ、目の前を横切った。
「……あ、あの!」
丸く輝く月も、私たちを照らしていた。
END
無数に飛び交う青白い光。儚く静かな生命の輝き。
あの中のどこかに、もしかしたら──。
*
「ああ美味しい! 一緒に来てくれてありがとう、むっちゃん」
“むっちゃん”こと私、篠原睦月。二十八歳。
目の前で苺白玉パフェを頬張っているのは、私の祖母、佐々田弥生。七十八歳。
「おばあちゃんが喜んでくれてよかったよ」
「ずーっとここの『ぱふぇ』が食べてみたかったのよ〜。でも一人じゃお店に入りにくいし。むっちゃんがいてくれてよかったわ〜」
小さな商店街のお洒落カフェ。看板メニューの『苺白玉パフェ』が以前ローカルテレビで特集されてから、ずっと気になっていたらしい。
ここは、昔ながらの商店街が残る、どこか昭和感のある街だ。祖母が結婚前に住んでいた辺りらしく、久々の帰郷に珍しくはしゃいでいる。今日は二人であちこち歩き回った。
「しかしよく歩いたね。疲れてない?」
「疲れたわ〜。だからこうして糖分補給。ほら、むっちゃんも食べて食べて」
「では少しだけ……。んー! 美味しい〜」
祖母は若々しくてお洒落だ。私が幼い頃から全く見た目が変化していない。今も髪の毛は明るい茶色に染めて綺麗にまとめ、モスグリーンの爽やかなシャツワンピを着こなしている。昨年喜寿を迎えたなんて信じられない。明るく優しい自慢の祖母だ。
そんな祖母だが、実は先月までずっと塞ぎ込んでいた。家から出ようとせず、食事の量も減って少し痩せた。きっかけは、祖父が昨年突然の事故で亡くなったことだった。
祖母の瞳から光が消えて、外出も減りお洒落をすることもなくなってしまった。涙など見せたことのなかった彼女の泣き暮らす姿は、見ていてとても辛かった。何をしても何を言っても寂しそうにするばかり。時間が解決するだろうと家族で順番に様子を見に行き、連絡を取り合って過ごしてきた。
しかし、祖父が亡くなって一年が過ぎた頃、急に祖母は元気になった。何故だか分からないが、生き生きと暮らすようになったのだ。
いつも通り祖母の家に寄ったある日、祖母が見せてきたのは手帳にびっしり書かれた『やりたいことリスト』。残りの人生で沢山のやりたいことを叶えるために協力してほしいと言ってきた時は、元通りの活力ある祖母に戻った気がして嬉しかった。
「それで? おばあちゃんの『やりたいことリスト』は、あと何個あるの?」
「う〜ん、そうねぇ。むっちゃんに手伝ってもらって随分叶えられたんだけど、あといくつだったかしらね」
そう言って祖母はお気に入りの手帳を鞄から取り出した。生前祖父が使っていた皮の手帳カバーを使用している。祖母は祖父が大好きだったのだと、こういうところでひしひしと感じて、なんだかむず痒い。でもどこか嬉しい。
羨ましくなるほど仲睦まじい二人だった。祖母が今、一人でこうして座っているのが不思議に思うくらいに、いつも二人は一緒にいた。私もいつか、祖父母のように四六時中一緒にいても飽きないような人に出会えるだろうか。
「に、し、ろ、は、……うん、あと八十一個ね!」
「おお〜、随分減ったね」
最初に手帳の『やりたいことリスト』を見た時は百個あった。ノートびっしりにやりたいこと、挑戦してみたいことが書き記してあるのだ。小さな願いから大きな願いまで沢山。『テレビで観たお饅頭が食べたい』だとか『北海道旅行で五稜郭に行きたい』だとか。それを少し前からちょっとずつ叶えていくのが、最近の私たち家族の楽しみになっている。今日は『実家があった辺りを巡りたい』という要望に応えて、二人でこの街にやってきた。
「今日はあと、近くの神社にお参りに行きたいわ」
「これから? もう日も暮れてきたし夜になりそうだけど。大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。足元には気をつけますから」
祖母は昨年大怪我をしている。祖父を亡くしてすぐ、落ち込んでいた頃のことだ。自宅の玄関先の段差で転んで、大腿骨を骨折した。入院も長引き、このまま弱ってしまうのではと家族みんなで心配した。一人暮らしをやめて同居をしないかと母が提案したが、祖父との思い出の家を手放したくない離れたくないの一点ばり。リハビリを頑張り退院してからも一人暮らしを続けているので、私や母が度々訪ねるようにしている。
商店街の一番奥に見える鳥居。あれが今日の最後の目的地だ。祖母の歩幅に合わせて歩きながら、その横顔を見ると、懐かしそうに目を細めている。元気になってくれてよかったなとしみじみしていると、祖母がくすくすと笑った。
「あの神社はね、初恋の思い出の場所なの」
「え〜初めて聞く! その話」
「ふふっ。秘密にしておきたかったの。だから誰にも言ってないのよ」
「私聞いていいの?」
「ええ。何だか話したくなっちゃったから」
***
数十年前。その夜、十六歳の弥生は、友人と近くの神社に出掛けた。神社の向こうには川がある。現在は対岸工事が施され整備されているが、当時はまだ雑草もそのままの小さくて美しい川だった。
その川のほとりには蛍が住んでいる。
神社では「ホタルまつり」が催されていた。そこへ友人の芳子ちゃんと、浴衣を着て出掛けることになったのだ。
弥生は高揚していた。今までは両親が門限に厳しく、夜間の外出は禁止されていたからだ。大きな工場を営む弥生の家は、近所でも有名でやっかむ人も少なからずいた。両親は弥生を守るため、夜間や一人での外出を固く禁じていたのだ。
でも今年は「芳子ちゃんと一緒なら」と許可が出た。初めてのお祭り。新しい浴衣。特別に許された夜の外出。弥生の心はウキウキして、はしゃいで出掛けた。
だが、珍しい出店をあれこれ眺めていたせいで、すぐに芳子ちゃんと逸れてしまった。お祭り会場は人が多く探しても探しても見つからない。携帯電話がない時代。連絡の取りようもなくて、とぼとぼと神社を歩いた。
彼女の兄も会場にいるはずだが、見つからない。ならば蛍を見に行ったのかもしれないと川沿いに来てみたが、暗くて人の顔がよく見えない。その上、川沿いの道は足元が悪かった。少しぬかるんだ地面に足を取られ、弥生は尻餅をついて転びそうになった。
「きゃ!」
「っ! 大丈夫ですか?」
運よく後ろをを歩いていた青年が、弥生を抱き止めてくれた。──それが出会いだった。
***
「もしかしてその抱き止めてくれた人に、おばあちゃん一目惚れしちゃったの?」
日も暮れて夜の帳が下りそうな商店街。閉まるお店も、これから開くお店もあるようだ。鳥居まであと少し。二人で並んで商店街を歩きながら、祖母の初恋話を聞いていた。
「一目惚れではないわねぇ。瓶底メガネをかけてて、服もヨレヨレでね。髪の毛もボッサボサ。蛍の光だけだったらよく見えなかったでしょうけど、その日は月明かりが綺麗でね。その人の姿がよく見えたの」
姿に文句をつけているはずなのに、祖母の顔が優しく緩む。好きだった人を思い出し、くすくすと笑う。ここ数年寂しそうな姿ばかり見ていたから、久々に穏やかに笑う祖母をみて、私は少しほっとした。
一方で、あんなにも愛していた祖父以外にも、こんな顔をする相手がいることを意外に思った。
***
弥生は助けてくれた青年に、一緒に来ていた友人とはぐれてしまったことを説明した。それを聞いて何故か彼は少しホッとした顔を見せ、夜道は危険だから家まで送ると言い出した。
しかし弥生はまだ家に帰りたくない。お祭り会場にいれば、芳子ちゃんと合流できるかもしれないし、せっかくの浴衣をもう少し着ていたかった。
「私、まだ蛍を見ていなくて……。よかったら、一緒に探してくださらない?」
「えっ……!」
弥生は帰りたくない一心で、彼の手を握った。
「お願いします。どうしても見てみたいの」
「わ、分かりました。いいですよ、ご案内します」
「まぁ、ありがとうございます!」
一瞬驚いた顔をした彼は、弥生のお願いに顔を朱く染めた気がした。暗いのではっきりと見えないが、それを隠すように俯く。もしかしたら女性と話すことにあまり慣れていないのかもしれない。
彼は「もう少し上流の方が蛍が多く飛んでいましたから、参りましょう」と言い、弥生の歩幅に合わせてゆっくりと歩き始めた。時折弥生が遅れていないか、チラリと振り返って確認してくれる。優しい人だなと弥生はぼんやり考えた。弥生も普段、男性と話す気会はほぼない。父は寡黙で愛想がないし、芳子ちゃんのお兄さんは明るく賑やかでガサツだ。この人のような優しい殿方は目新しかった。
しばらく歩いた先に、川沿いに木が茂り、月明かりがあまり届かない場所があった。彼が立ち止まったので川の方を見ると、無数の青白い光が心許なく点滅していた。
「まぁ。もしかしてあれが蛍?」
「そうです。ご覧になったのは初めてでしたか?」
「ええ。父が厳しくて夜の外出は許してもらえなかったので、初めて見ました。もっとキラキラと輝くのかと想像していたけれど……」
「……小さくて優しい光ですよね」
明らかに弥生のほうが年下なのに、彼はずっと敬語だった。彼は、落ち着いて座れそうな岩場を見つけ、ハンカチをそこに敷いた。しかしそのハンカチもまた、彼の服と同様しわくちゃだ。一瞬弥生が座るのを躊躇していると、彼はすぐに気づいて、恥ずかしそうに「やっぱりこれでは座りにくいですよね」と片付けようとした。だが弥生は、彼の袖を引っ張って制止する。
「ありがとう。座らせていただきますね」
「あ……はい」
彼は何故か弥生が一瞬触れた袖を凝視している。嫌だったのだろうか。
「よかったらあなたも一緒に座りましょう?」
「……ありがとう、ございます」
彼は少し迷った後、そっと弥生の横に腰掛けた。小さな岩場に二人並んで座る。夜の少し冷たい風が弥生の頬を撫でた。
瞳が暗闇に慣れて、今まで以上に光の群がよく見えてくる。ふわりふわりと点いては消える、優しい小さな光。
星の瞬きや月の輝きほどの光量はないけれど、間違いなく美しい光景だった。
「綺麗」
「ええ。綺麗ですね」
低くて優しい彼の声。弥生はその瞬間、彼が横にいることがひどく自然に感じた。自分自身でも信じられないけれど、彼の隣が『自分の居場所』なのだと悟った。電気が走ったような衝撃ではなく、割れた茶碗の破片が揃うような、パズルのピースをはめたような、手袋の片方を見つけたような、そんな感覚だった。
でもそんなことを急に言い出したら、はしたないと思われるかしら。横を盗み見ると、彼もこっそり弥生を見ようとしたのか、バチッと目が合う。思わず二人とも目をそらした。自分の顔こそ朱く染まってしまった気がする。弥生はバクバクと鳴る心臓の音を隠したくて、おしゃべりを始めた。
「あ、あの、今日はお一人でいらしたの?」
「え、ええ。私の田舎では蛍は珍しくはないのですが、……懐かしくて」
「ご実家から離れて下宿していらっしゃるの?」
「はい。この近くに。学生ばかりが集まる下宿がありまして」
「まぁ、学生さんなんですね。私の家も近いんです。父がネジ工場を経営していて」
「ああ。あの大きな……。ご立派なお父上ですね」
「……ありがとうございます」
聞くと、彼は近くの大学に通う学生で、法律の勉強をしているらしい。実家は山口で次男坊。将来は故郷で弁護士になるのが夢なのだと穏やかな口調で語ってくれた。低く優しい音色で横から響いてくる声は、弥生の心を温かく包むようで。
まだもう少し、彼の隣にいたい。
こんな気持ちになるなんて、自分はどうしてしまったのだろう。でも、それでも「あと少し」と願ってしまう。
「あの、もしよかったら神社のお祭りも一緒に行きませんか?」
「……はい、僕でよかったらお供します」
岩場から腰を上げ、ハンカチを丁寧に畳んでお礼を言う。もしよかったら洗濯をしてお返しさせてほしいと言うと、「差し上げます」と恥ずかしそうにはにかんだ。そんな小さな笑顔が、弥生の胸をキュンと締め付ける。経験のない弥生には、それが初恋の胸の痛みだとは分からなかった。
神社の境内に入ると、暗い小川を眺めた後のお祭り会場は眩しくて、思わず目を細めてしまった。お互いのそんな表情に気づいて二人でちょっと笑い合う。
「何か食べますか?」
「案内していただいた御礼にご馳走します! りんご飴なんていかが?」
「いえいえ。ここは僕が」
見るからにお金に苦労している貧乏学生なのに、いいところを見せようとしている彼が、ちょっと可愛い。明るいところで見ると、彼のボサボサ頭も瓶底メガネの奥に見える切長の瞳も、なんだか魅力的に感じた。
彼がりんご飴の屋台に近づいたその時、「弥生ちゃーん!」と芳子ちゃんの声がした。振り向くと芳子ちゃんが彼女の兄とこちらに向かって走ってきていた。
「芳子ちゃん!」
「よかった! 弥生ちゃんとはぐれてからずっと探してたんだよ!」
「そうだったの。ごめんなさい」
彼を見上げると、「お友達が見つかってよかったですね」と微笑んでくれた。唐突に終わりを迎えた彼との二人の時間。そこで弥生は焦りを覚えた。ここで別れたらもう会えなくなるかもしれない。
「また、お会いできますか?」
「いいえ。これが最後になると思います」
キッパリとした彼の言い分に弥生は驚く。後から考えれば、大きな工場の社長令嬢と貧乏学生だ。しかも彼の志す先は司法の道。年齢や性別の差もあるため友人関係にもなれない二人の距離は大きい。交わらない将来を頭の良い彼は最初から悟っていて、ずっと敬語だったのかもしれない。
「貴女のような素敵な人と、お話しできただけで。素晴らしい夜でした」
「え?」
「良い思い出をありがとうございました」
「あ、あの! お名前だけでも!」
「……佐々田滋、と申します」
「佐々田さん……」
「では」
少しだけ寂しそうに微笑みながら、彼は人波に消えていった。芳子ちゃんが「だれ?」と聞いてきたけれど、弥生は呆然と彼を見送ることしか出来なかった。
***
「ま、待って!? おじいちゃんとの思い出だったの!?」
最後に名前が出てきて驚いた。『佐々田滋』は祖父の名前だ。
「ええそうよ。私の初恋は滋さんですよ?」
「しかもおじいちゃんじゃなくておばあちゃんが先に好きになったの?」
「ふふふ。そうよ〜。見た目は全然素敵じゃなかったんだけどね。すごーく優しくて年下の私にも丁寧で。ああ、この人のお側にずっといたいなぁって思ったの」
「ええ〜。素敵だね」
「ありがとう。おじいちゃんはどう思っていたのか、結局聞けなかったけどね」
ゆっくりと歩いて商店街を通り抜け、鳥居に到着した。一礼して二人で更に境内を進む。
今日はお祭りが開催されているようだ。「ホタルまつり」と書いてある。祖母は知っていたのか、知らずにたまたま今日来たのか、懐かしそうに祭りの明かりを見つめている。
出店の前で、浴衣の女性とシャツ姿の男性が仲良く祭りを楽しんでいた。かつての自分たちを重ね合わせているのか、眩しそうに祖母は微笑んだ。
「それで、どうやっておじいちゃんと再会したの?」
「全然会えなかったの。失恋したのよ」
「え!?」
「大学まで会いにいったの。ハンカチを返しに。でも会えなかった。次の年のお祭りも行って、蛍を見たあの岩場に行ったりして。でもずっと滋さんは来なかった」
友達からは「大学名も名前も嘘だったのではないか」「騙されたに違いない」と言われてしまった。
「でも嘘をつくような人に見えなかった。くしゃくしゃのハンカチを敷いてくれた優しいあの人にもう一度会いたくてね」
「それで、どうしたの?」
「どうにもできなかったわ」
「じゃあ、どうやっておじいちゃんと結婚できたの?」
「あんまり私が諦めないから、父がね、滋さんを探し出してくれたの。『娘と結婚してやってくれ』って頼んでくれてね。滋さんはどう思っていたか分からないけど、受け入れてくれた。私は幸運だったわね」
その言葉を聞いた時、祖父の声で『俺は幸運だった』と脳内に再生された。
あれはいつのことだっただろう。何の話だったけ。祖父からは今聞いた祖母の初恋話は聞いていない。それに私はずっと、「祖父が」祖母を大好きなのだと思っていた。だから、祖父が亡くなって祖母がショックを受けているのを見て、本当に驚いたのだ。どうしてそう思っていたんだっけ。
「滋さんは、私と結婚して、幸せだったのかしらねぇ」
暗くなった空を見上げて、祖母がポツリと呟いた。「幸せだったに決まってるでしょ」と返しながら、さっき感じた違和感の原因を頭の中で探っていく。
「私、りんご飴がたべたいわ」
「まだ食べるの?」
「ふふっ。たまにはいいじゃない」
りんご飴を買って、二人で川沿いを歩く。蛍がいたはずの川には水のせせらぎの音しか聞こえない。
「もっと上流に行けば、蛍が見れるかな。今度車で行こうか」
「そうねぇ。でもいいわ。むっちゃんとこうしてまたここに来れて、それだけで嬉しい」
「あれ? 『蛍をまた見たい』っていう願いはないの?」
「うん。蛍はね、滋さんと見たから」
「ふぅん」
綺麗に整備された川の護岸。川の中に小さな岩場があった。祖母は立ち止まりその辺りをじっと見つめた。
ああ、この街にも祖父との思い出があったのか。愛しい人の気配が、記憶が、そこら中に残っている。でも、もう二度と会えない。そんなとてつもない悲しみを、祖母はどうやって乗り越えたのだろう。
「ねえ、おばあちゃん……」
何気なく尋ねようとした瞬間、月が雲から顔を出し、祖母の顔が明るく照らされた。見えたのは、今にも泣きそうな顔だった。
ああ。まだ、ちっとも乗り越えていないんだな。
急に元気になったように見えたけれど、無理をしていたのかもしれない。どこにいても、何をしていても、愛しい祖父に会えなくて、苦しくて辛くてたまらないのだ。体も弱って怪我もして、思い通りに行かなくて。
私も優しかった祖父が大好きだった。今でも会いたいと願う。でもそんな気持ちは比べられないほどに、祖父が祖母の心を占めている。「会いたい」と祖母が身体中で叫んでいる。
そうだ。祖父もそうだった。祖父も『弥生に会いたくてたまらなかった』と言っていた。会えなくて、辛かった。だから『俺は幸運だった』と。──思い出した。
「おばあちゃん。おじいちゃんが私に『俺は幸運だった』って言ったことがあってね。おばあちゃんと出会った頃のこと、教えてもらったことがあったの」
「え?」
「おばあちゃんのことが好きだったけど貧乏な学生だったから誘えなかったって。ずっとずっと好きだったけど、遠くからたまに見かけるだけで声をかける勇気もなかったって言ってた。でも一度、偶然に話す機会があって、それで良い思い出にして諦めるつもりだったって。……それって、さっきのホタル祭りの夜のことだよね?」
「知らないわ、そんな話……」
「何度も諦めようとして、会わないように気をつけて、でも会いたくてたまらなかったって。会えなくて辛かった、勉強にも打ち込めなくて、人生に迷っていた時、縁あっておばあちゃんの旦那さんに選んでもらえたんだって言ってた。だから『俺は幸運だったんだ』って幸せそうに教えてくれたよ」
「……まぁ……本当に?」
「おじいちゃんから聞いてた話と全然違ったから私、混乱してたけど、思い出した。確かおじいちゃんは、そのお祭りで出会うもっと前からおばあちゃんが好きだったはずだよ」
「そう、そんなこと、滋さん全然言わないから……っ」
その時だ。
この辺りにはいないはずの、小さな小さな蛍が、一匹ふわりと目の前に飛んできた。そして祖母のまわりをゆっくり旋回する。まるで、『そばにいるよ』と祖母に訴えるように。再び空へと飛んだかと思うと、淡い光は夜の闇に溶けていった。
「ああ……ああ……」
祖母の、小さな嗚咽も、川のせせらぎに消えて。私はそっと月を見上げた。
「滋さん……っ」
「おばあちゃん、私は、そばにいる。ずっといる」
「うん……うん……ありがとう。むっちゃん」
母よりも他の従兄弟よりも、私は祖父似だと言われてきた。だから私の顔を見て、祖父を思い出させてしまうのではと心配した日もあったけれど。
祖父との思い出を私と辿ることで、祖母の寂しさが少しだけでもほんのちょっとでも埋められたらいいなと願った。小さくなって泣き崩れる祖母の背中を、そっと撫でる。鼻の奥がツンとしたけれど、泣くのはぐっと我慢した。
しばらくして、落ち着いてきた祖母は恥ずかしそうに笑った。
「茂さんと私は幸せ者ね」
「え?」
「むっちゃんという可愛い可愛い孫がいて」
「そう?」
「うん。茂さんに今度会ったら二人でそう話すわ」
泣き笑いながら祖母が言った。今度、とはいつだろう。そんな私の疑問を察してか、祖母が付け加えた。
「私ね、病気が見つかったの」
「えっ」
予想もしていなかった一言に、驚いた。祖母が病気? こんなに元気そうなのに?
「末期癌ですって。最期は緩和ケアだけしてもらって、滋さんのところに逝くつもり」
「え、待って、おばあちゃん。そんな話、聞いてない……!」
「誰にも言ってなかったの。ごめんね。……むっちゃん、いつか茂さんと蛍になって、むっちゃんに会いに行くわね」
「蛍……?」
「蛍になれるかはわからないけれど、何に生まれ変わっても、私は滋さんの奥さんになる」
「何それ……。もう。ラブラブじゃん……」
「そう、らぶらぶなのよ」
ふふふと笑う祖母。祖母が急に活発になった理由が分かった。人生を閉じようとしていたのだ。後悔のないように。祖父に会うために。
とてつもない寂しさがよぎる。
「おばあちゃん、私、もっとおばあちゃんと生きていたい」
「そうねぇ。私も限界まで生きるつもりだけど、随分色々転移してるみたいでね。余命宣告までされちゃった。でもね、このやりたいことリストを叶えるまではちゃんと生きて、最期まで生きて、楽しく過ごすつもり。むっちゃんも、協力してね」
「おばあちゃん……」
病気の宣告を受けた時、祖母はどんな気持ちだったのだろう。祖父にもうすぐ会えるのだと、喜んだのではないか。それで元気になったのか……。なんという皮肉だろう。どうして一人で病気と向き合っていたの。なんで私を頼ってくれなかったの。祖父を愛しているのは知っているけど、私を置いていくのだって、寂しいとは思わないの。
祖母が最期まで生きようとしているのは嬉しい。少し前までの塞ぎ込んでいた彼女よりも、今の祖母の方が素敵だ。間違いなく生き生きとしている。でもそれが、命を蝕む病気のおかげだなんて、そんなの……。
「……いやだよ、おばあちゃん」
「大丈夫よ。むっちゃんにもきっと、良い人が現れる」
「そうかなぁ」
「ええ。私たちの孫ですもの」
死が二人を別つとも、ずっと続いていく二人の絆。私にもそんな愛を知る日が来るのだろうか。祖母と二人で月明かりの下、ひっそりと泣きながらそんなことを思った。
***
いくつかの季節が過ぎて、夏。あの夜、祖母と見た川の上流に私はいた。
青白く頼りない光。ふわりと光っては消える。儚い輝き。
「おじいちゃん、おばあちゃん」
あの中に二人が居るのかは分からない。でも、この世界のどこかで、二人はきっと一緒にいる。
暗い山道を通り、川の上流にやってきたが、蛍の名所と呼ばれるここには見物客も数人いた。しかし女性一人なのは私くらいだ。さっさと帰ろうと踵を返すと真後ろに人が立っていた。
「きゃ」
「大丈夫ですか?」
暗くてよく見えないが、背の高いくしゃくしゃ頭の男性が、私を支えてくれていた。
「すみません! ありがとうございます」
「いえ」
彼に支えてもらいながら転びそうになった体勢を戻した時、淡い光が二つ、目の前を横切った。
「……あ、あの!」
丸く輝く月も、私たちを照らしていた。
END