コンビニエンスストアの駐車場で車を停めた結城綾世(ゆうき あやせ)は、購入したアイスコーヒーの氷が全部溶けてしまうまで微動だにできなかった。


 告白をされたのは、初めてではなかった。

 二十四年の人生のなかで、男性に想いを告げられたことは三回ある。好意を告げられる理由がわからなくて問いかけたときに、彼らが口にした返答は「いいなと思ったから」「顔がタイプだったから」「恋愛慣れしていなさそうだったから」と、綾世にとってはどれも不可解で首を傾げてしまうものばかりだった。

 大して接点もない、話したことすら記憶にない、そんな人を好きだと思って告白できるのはなぜだろう。

 それとも綾世自身が誰かに恋愛感情を抱いたことがないから理解できないだけで、恋とは理屈ではないのだろうか。人は恋に落ちるときには雷に撃たれたときのような衝撃が体中を走って、理性では制御できなくなってしまうのだろうか。

 理解はできないけれど、理解をしたいとは思ってきた。

 人の感情と行動の理屈が知りたくて、人見知りゆえに他人と仲良くなるのに時間がかかる苦手な綾世だったが意を決して、自分でも向いていないとは思いつつ――学習塾講師という多感な時期の子どもたちと多く接する仕事を選んだ。

 集団学習塾という箱の中で綾世が改めて確認したのは、大学合格を目指す彼らはまだ十五歳から十八歳だというのにもかかわらず、彼氏彼女というパートナーがいる子たちが実に多いということだ。

 綾世が観測できる範囲でも多いということは、秘密にしている交際や片想いをしている人数まで含めたら、生徒の八割くらいは恋愛状態にあると推測できる。

 最近の子は……と考えて、かぶりを振った。いや、綾世が中高生の時代からそうだったじゃないか。大人も子どもも関係なく、人は恋をせずにはいられないのだ。

 だから小説やドラマには恋愛要素が含まれることが多いし、芸能人の恋愛スキャンダルは度々ニュースになるのだろう。

 この世界は綾世が思っている以上に、恋や愛に溢れている。それらの情報量とスピードは、二十四歳で恋愛未経験の綾世を置いてけぼりにするかのようだった。

 ――……実は、わたしも。恋愛に夢中になる人の気持ちって、よくわかんないんですよね。

 だから、蝶野(ちょうの)玲央奈(れおな)がそう打ち明けてきたときは本当に驚いた。

 数学の授業を担当している綾世と、英語の授業を担当している玲央奈は、歳の近い同僚だというのに普段からほとんど接点はなかった。ただ、綾世のほうはどこにいても目立つ玲央奈の存在を、よく知っていた。

 人目を惹きつける華やかな容姿に、華奢で小顔で手足が長い抜群のスタイル。綺麗すぎる顔立ちなのに愛想がよく誰にでも気さくに話しかけるものだから、男性は教師も生徒も皆例外なく彼女を目で追っているし、親しみやすくて授業もユーモアがあってわかりやすいと評判ゆえに女生徒もよくなついている。

 ただでさえ人間というものは、見た目がいいだけで一目置かれる存在になる。同僚にも生徒にもよく囲まれている玲央奈の様子は、綾世の視界にもよく入ってきた。


 そんな玲央奈は意外にも、綾世と同族だったらしい。恋愛経験が豊富そうだと勝手に思い込んでいた彼女もまた綾世と同様、人を好きになる気持ちがわからないのだと口にした。

 エンジンを止めていた車内は、いよいよ暑さを実感するほどに高温になり綾世は慌ててキーを回した。ここで呆然としていても仕方がない。明日も仕事だ。家に帰らなければ。

 だが車を走らせていても、今までの玲央奈との思い出がぐるぐると脳内を駆け巡ってしまい、集中を欠いていることを自覚した。綾世は感情があまり顔に出ない方だと言われ誤解されがちなのだが、あの日からずっと、内心はしっかり動揺していた。

          ★

 少しだけ、過去の話に遡る。

 玲央奈とはおよそ一か月前、夏期講習の多忙な時期を共に過ごすうちに少しだけ話すようになった。生徒の間で自分がつまらない教師だと揶揄されているのは知っている。綾世を遠巻きにしたりあるいは見下したりする生徒ばかりだったから、玲央奈が一つ先輩である綾世を慕って話しかけてくれるようになったのは、嫌な気分ではなかった。

 ふたりの関係が急展開したのは、八月三十一日だった。

 ――結城先生。ようやく夏期講習も終わりましたし、飲みに行きましょうよ。

 ――ううん、私は遠慮しておく。蝶野さんは皆と楽しんできてね。

 ――誤解しているようですが、わたしは結城先生とふたりで飲みたいって誘っているのですよ?

 ――え? どうして私と? 私、面白い話なんてできないけど……。

 ――わたしが結城先生ともっと仲良くなりたいからです。それでは理由になりませんか?

 どうして仲良くなりたいと思ってくれたのかは、聞いてもはぐらかされるばかりでわからなかった。

 ただ、玲央奈は彼女らしからぬ強引さで誘ってきた。押し切られた綾世はその夜、彼女の家で飲むことになったのだった。


 夏期講習という繫忙期を無事に乗り越えたことを互いに労いあって、生徒たちのことや授業の進め方についての話に花を咲かせた。
口下手な綾世でも楽しく話すことができたのは、偏に玲央奈のコミュニケーション能力の高さ以外に理由はない。

 そして、酒は進んでいく。

 きっかけは覚えていないけれど、話題は恋愛の話になり……アルコールの力と玲央奈が聞き上手すぎるせいもあって、綾世は二十四年間で誰かを好きになったことがないことを気がついたときには吐露してしまっていた。

「信じられない」だとか「恋愛っていいですよ」みたいなリアクションが返ってくると思っていたのに、玲央奈まで「わたしも恋愛に夢中になる人の気持ちがよくわからない」なんて言ったものだから、綾世が驚いたのも無理はなかった。

 ――意外だね。すごくモテそうなのに。

 ――モテてはいますよ。交際経験もそれなりにあります。ただ、本気で好きになれないだけで。

 ――それはなんか……付き合った相手がちょっとかわいそうじゃない?

 ――結城先生が相手だったら、ちゃんとしますよ。

 アルコールのせいだろうか。綾世の頭が上手く働かなかったこともあって、言葉の意味を飲み込むまでに数秒を要した。

 ――……もしかして私、口説かれてる?

 ――そうですね……わたし、酔っているみたいです。

 隣に座っていた玲央奈に手を握られ、肩をもたせかけられたとき、綾世はひどく動揺した。玲央奈に想いを寄せる男であれば、たまらないシチュエーションなのではないかと客観的に思考ができる脳みそと、慌てふためく心の間で綾世は動けなくなってしまった。

 そんな綾世を見て、彼女は蠱惑的に笑って首に手を回してきた。

 ――結城先生はわたしのことを、どう思っていますか?

 そう尋ねられたとき、どんな気持ちよりに先に浮かんだのは「どうしよう」という思いだった。

 人付き合いが苦手で他人との距離の詰め方をよくわかっていないせいで、綾世は自分でも気づかぬうちにおかしな行動をしていて、玲央奈を誤解させてしまったかもしれないと不安になった。色欲の目で同性の後輩を見ているのだと彼女に思われて、勘違いから軽蔑されたくはなかったのだ。

 ――蝶野さんのことは……今年新卒で入ってきた、仕事熱心で生徒から人気のある後輩だと思ってる。

 ――それだけですか?

 ――それだけだよ。

 ――嫌いだとか、ウザいとは思ってないですか?

 ――一度も思ったことないよ。

 ――だったら、わたしを試してみませんか? わたしも結城先生も、ほんとの「好き」がわかるかもしれませんよ?

 玲央奈の艶のある唇に触れられてからはもう、一瞬だった。

 綾世は魔法をかけられたみたいに、思考回路も体の自由も完全に彼女に掌握されてしまった。綾世は玲央奈が求める欲望を、従順に受け入れてしまったのだ。

 だけど決して嫌な気持ちがあったわけではない。自分の知らない扉を強引にかつ優しく丁寧に、こじ開けられていくのは気持ちがいいと思った。

 自分のなかにこんな熱っぽい色の感情が眠っていただなんて。二十四年間、綾世自身も知らなかったことを気づかされていた。


 事が終わったあと、ベッドの中で彼女は私を抱き締めながら告白した。

 ――すみません。わたし、ふたつの嘘を吐きました。

 その嘘とは、最中に耳元で何度も囁かれた愛の言葉だと思った。

 そうだ。冷静になってみれば、玲央奈みたいに綺麗で相手がいくらでもいそうな人が、綾世を選ぶ理由なんてあるはずがない。

 ――わたし、お酒がとても強いんです。あれくらいの量じゃ酔わないんですよ。

 玲央奈が口にした懺悔は、綾世の予想とはまるで違っていた。当然、綾世は小首を傾げることになる。

 ――え? そうなの? てっきり私は、興味本位と酔った勢いであんなことをしたのかと……。

 ――結城先生を抱いたのは、興味本位でも酔った勢いでもありません。

 ――じゃあ、どんな理由があったの?

 ――教えません。

 ――なんでよ……じゃあ、二つ目の嘘は?

 玲央奈は真剣な顔で、綾世を見つめていた。

 ――恋愛に夢中になる人の気持ちがわからなかったのは、結城先生と出会う前までです。……わたしはもう、本気の「好き」を知っているんですよ。

          ★

 九月も半ばを過ぎてからは、職場で玲央奈を目にする機会が減っていた。

 その理由はすぐにわかった。玲央奈がわかりやすく、綾世を避けるようになっていたからだ。

 何か気に障ることでもしてしまったのかと綾世は不安になったが、玲央奈が同期の男性講師と交際しているという噂を聞いたとき、すべてが腑に落ちた。

 綾世を避けるようになったのはきっと、玲央奈の恋人が嫉妬しやすい性格なのだろう。ゆえに、彼女は恋人の気持ちを酌んで気を遣っていることが考えられる。

 ほんの少しだけ、胸に寂しさに似た感情が湧いたけれど、気にしないようにした。同僚として、先輩として、彼女の恋を見守ることが優しさであり筋なのだと、そう思ってきたのに……それなのに。

 綾世の胸にはずっと靄がかかっている。頭のなかはずっと、玲央奈のことで埋め尽くされている。

 初めての感情に戸惑い、わからないことだらけだ。だが混乱する頭を差し置いても、綾世の細胞は玲央奈を求めている。

 綾世は玲央奈が自分のパーソナルスペースに入ってくることに、抵抗感を覚えにくいことは自覚していた。いや……取り繕った言い方はやめよう。

 手を握られたときも、抱き締められたときも、キスをしたときも、一緒に眠ったときも。

 綾世は玲央奈とするそれらの行為を、彼女との肌の触れあいを、彼女の体温を、心地よいと思っているようだった。

 ……そう、いよいよ認めなければいけない。

 綾世は彼女を他の同僚とは違う、特別な存在であると思っている。


 だが、この気持ちが恋なのかどうかは綾世にはまだわからない。それにきっと玲央奈は、もう自分から綾世に好意を告げたり、接触したりすることはないだろう。

 ――恋愛に夢中になる人の気持ちがわからなかったのは、結城先生と出会う前までです。……わたしはもう、本気の「好き」を知っているんですよ。

 あの言葉が玲央奈の本心なのだとしたら、彼女はもう動かない。

 綾世が人を好きになる気持ちを自分で十分に理解してから行動に移すのを、待っているのだろう。

 そうでなければ……対等な恋愛にはならないことを、彼女は十分に知っているから。


 順調に走らせていた車は、信号が青から黄色に変わったのを視認した綾世によって減速して停車した。どれだけ人通りの少ない道でも、信号が黄色なら綾世は絶対に突っ切らない。無視して進むなんてことは、人生で経験したことがない。

 ……だけど、今。蝶野さんに対して、私は……。

 信号が赤から青に変わり、綾世は急遽目的地を変更する。衝動で行動するなんて、実に綾世らしくなかった。

 ――綾世は、この気持ちの正体に、ほとんど気づきかけている。


 彼女の家まで、もう少し。答え合わせはもうすぐだ。 (了)