人生何事も、なるようにしかならない。
 
 自分の力でどうにか出来ることは少なすぎて、手の届く範囲はあまりにも狭い。ぶつけられる悪意をなんとか飲み込んでも、それらはすぐにまたやってきて。台風がすぎさるのを待つ雑草のように、日々を過ごしていくしかなくて。

 だから、

 こんな暮らしのわたしが、――()()(りゆう)()の次期当主・()()(りゆう)(とお)()さまに抱きかかえられてるなんて――夢じゃなければ、あるわけがない。



  ***



「これが書けるまで、(くら)からでてこないでね」
「…………」
 (よう)()(うち)()(おり)の前に、ばさり、と和紙の束が投げられる。細長い札の形に切られたそれは、畳に落ちると乱雑に広がった。
 伊織は、それを長い前髪の隙間から見ながら、無言で頭を下げた。

 時は、(めい)(れい)106年。日本国 首都・(とう)(きよう)
 二百年以上続いた江戸幕府を終えて、次の百年間の年号は(めい)(れい)だった。

 古くは平安時代から代々続いてきた家柄の、(よう)()(うち)()の由緒あるお屋敷で、――伊織は長女でありながら頭を下げていた。新しく替えた畳の青々とした匂いがして、次に目に入った自分の着物の裾がほつれていて――、その差に伊織は目を伏せた。

「返事は?」
「……はい……」
「もー返事がいつも遅いのよ。こんなんで、『羊』の名を冠しているのが恥ずかしいと思わないのー?」

 腹違いの妹のこのような発言はいつもと同じで、

「…………」

 わたしたちをちらりと見た父が去って行ったのもまた、いつも通りだった。

「じゃ。私は今夜の準備があるから。私とお父さまで、『今の羊は強い』ってしっかりとアピールしてきてあげるからね。だから。……それまでにそれ、頼むわね? 無能なお姉さまー?」

 妹の()()()はそう言って、姉である伊織の髪をむんずと掴んだ。――視線が、合ってしまう。派手なメイクを施した梨々子の、切れ長の目。これにすごまれると、伊織はビクリとして目を泳がせてしまうのだった。

「……はい」
「へたくそな字を書いたら承知しないんだからねー」

 そう言うと梨々子は手をぱっと離す。
 伊織の体は自由になり――畳に崩れた。
 ざらりと、畳の感触が指に伝わる。

「……っ」
「ふふん」
 梨々子は鼻で笑ったのち、去って行った。

「…………」
 足音が遠のいて、伊織はそっと顔を上げる。

 ……もう、大丈夫だ。

 整えた髪は崩れてしまったけれど――もともと、綺麗じゃ、ないし……。
 伊織は、そうは思いながらも自分の頭を触る。指が少し髪をなでただけで、派手にぐしゃぐしゃになってしまったことが分かった。

「……ずっと、こんな日々が続くの、かな……」
 伊織はかぶりを振る。
「…………それより、急がなきゃ」
 投げ捨てられた和紙の束を拾った。




 和室の壁には真新しい西洋時計があり、時刻は十六時を指していた。
 同じく壁にかけられたカレンダーには、三月二十三日――今日の日付だ――に印がつけられている。
 父と梨々子は『会合』にでるため、今日の十八時には出発する。あと二時間だ。
 ……いや、出発する間際に渡しても、意味がない。

「梨々子が念を込めることを考えると……あと一時間……」
 伊織は、手元の和紙の束を見る。ゆうに二百枚は超えているだろう。
「…………」

 伊織はその束を抱きしめると、走らないように気をつけながら、できるだけ急いで蔵へと向かった。



 ***



「呪符を書くのは、神聖な場所であるべきだ」

 そう父は言った。

 十年前の、冬の日だった。雪がしんしんと降っており、父の眼鏡が曇っていた。
 伊織は小さな八歳の少女で、背の高い父を見上げて立っていた。

 父は腕組みをして、それからこうも言った。

「伊織、お前は役に立たないのだから、蔵で呪符を書き続けなさい」
「……え……」

 伊織は突然のことで、目を丸くした。
 久しぶりに父に呼ばれたものだから、――少し……勘違いをしていたのだ。持っている中で一番マシな着物を着てきたのが、急に恥ずかしくなった。

 父は蔵の戸を開け、伊織を中へと押した。
 
「入りなさい」
「ここは……あの……」

 戸が開けられたことで、暗い部屋の中に白い埃が舞う。あまり開けられるのことのなかった蔵は、埃っぽく――かび臭い。本来物置として使用している建物である。

「早く」
「……はい」

 足を踏み入れる。
 雪が屋内に入り込んで、染みをつくった。いかにも手入れのされていない蔵は、見た目通りとてもよく冷えた。
 伊織が戸惑っていると、父は言った。

「お前に羊垣内家の能力はない。しかし、呪符を書く力は多少はあるようだ。ここで練習しなさい」
「な、なんでこんなところでなのですか……?」
「この蔵は昔、呪符を書くのに使用されていた。ここで書けばお前のその微々たる力も増幅されるだろう」
「でも、」

 ここは寒くて、とても寒くて、おまけに薄暗くて――伊織は父の顔を仰ぎ見た。

 しかし。

「呪符を100枚書いてくるまで、家には帰ってくるな」

 伊織の呪符作りは、この日から始まったのだ。




あれから――十年。

 なんとか愛されたくて、頑張ってきた。
 けれど、家族の伊織に対する態度は冷たくて。
 だから――いつしか、伊織には諦める癖が付いていた。

「……我慢すれば、いいだけだから……」

 伊織は、ぽつりと呟いた。

 ――日々言われた仕事を、こなすだけだ。



 ***



 伊織は、庭に降りるとまっすぐ蔵へと向かった。中庭に鎮座するその白い蔵は、遠目に見ると立派な建物に見えた。
 この蔵――古く壁にひびも入っており薄暗く、虫の出る蔵だ――が神聖と呼べるのか、伊織は初めは疑問に思ったが、今ではもう考えるのをやめていた。
 蔵の入り口へ着くと履き物を脱がずに――脱ぐと虫などがいて危ないのだ――、薄暗い中へと入っていった。
 長年使用している場所だ、伊織が毎日掃除をしているおかげで、多少は綺麗と言えなくもなかった。最も、他にやることを押しつけられていなければ、もっと掃除できるはずなのだが。
 今日も朝から使用人のように屋敷の掃除や洗濯を言いつけられ、それから……これだ。

「時間がないから……急がなくっちゃ……」
 伊織はそれでも丁寧に、準備を進めた。

 まずは、香を焚く。
 それから硯に水――日の出前に汲んで置いた井戸水だ――を少量ずつ落としながら、墨を磨った。墨が、ゆっくりと水に溶けていく。
 和紙は、渡された時から札のサイズである。
 
「…………」

 伊織は、筆に墨を取ると、文字を書いていく。――退魔の呪文だ。

 小さな小筆で、長い文字を書いていく。ゆっくり、慎重に、丁寧に、それでいてほんのちょっぴり早く――。

 一枚書き終わると、その文字は艶やかに光った。

 幼い頃は、十枚書いただけで半日動けなかったものだ。今は、……今も、ごっそりと気力を持って行かれるけれど。

「…………」

 伊織は、筆を執った。

 こうして、羊垣内家の呪符はできていく。





 この国には、十二支の名を冠した家がある。
 子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥……。十二の家の彼らは、特殊な能力を持つ家系である。古くから祓い屋として、妖怪どもから国を守ってきた。

 十二支の家は、能力を活かして莫大な富を築いた。
 そして、彼らは祓い屋としての業績とは別に、日本有数の大企業を経営している。財閥、製薬会社、ホテル業界、老舗の和菓子屋、誰でも知っている大手調味料メーカーなど……どの家の社名も、誰もが知るような会社だった。

 しかし、そんな大企業の経営も、祓い屋に比べれば副業に過ぎない。
 日本国内には妖怪が多数おり、それとの戦いは能力者――十二支の力を持つ家でないと難しい。

 羊垣内家は、そういった十二支の家の一つ、羊の家である。
 首都・頭京に、羊垣内家はあった。
 表の顔を祓い屋、副業として商家をしている。

 そんな家で――能力を持たずに生まれたのが、伊織である。
 いや、わずかながらはある。現に、呪符を書けている。……それでも。この能力を活かせる唯一の役目であるこの呪符作りさえも、所詮は梨々子の呪符の下準備なだけなのだ。



「……ふぅ」

 書き終わった呪符を集めながら、伊織は汗を拭った。文字を書くだけでも多くの気を持っていかれる。それは、能力の微弱な伊織にとって辛いことだった。

 けれど。

 伊織がこの家で暮らしていくには、必要なことだ。

 墨を乾かすために並べた札を、書いた順に重ねていく。



「にゃ~ん」
 ふと、鳴き声がして、伊織は振り返る。
 蔵の中に、足に包帯を巻いた猫が入ってきた。見覚えのある、近所の猫だ。

「猫ちゃん……怪我してるんだね……」
 伊織が手招きをすると、猫はするりとそばへやってきた。
「にゃ~ん」
「よしよし。早く良くなるように……よく、眠れますように……」

 伊織が猫を撫でると、猫はぷるぷると体を振る。
 そして、するりとそのまま離れていった。

「あ…………」

 伊織は、自分の手のひらを見る。

「……やっぱりわたしには、力がないのね……」



 それから、はたと我に返り、

「……あ、えっと……今、何時……」
 ――壁に掛かった、古い時計を見る。
 ……いつのまにか時計は十七時半を過ぎていた。梨々子が出発するまで、あと三十分だ。

「ひっ……」

 伊織は、慌てて屋敷へと戻った。



 ***



「おっそい!」
「……ごめんなさい……」

 屋敷に戻ると、梨々子の部屋に行く前に廊下で梨々子に会った。
 梨々子は着飾っており、――今まで伊織が着たこともない上等な着物に、頭にも大きく派手なリボンをつけている。
 今夜は、十二支の会合に行くため、気合いが入っている。

 梨々子はずんずんと目の前の部屋――ローソファが置いてある客間のひとつだ――に入ると、どかっとソファに腰掛けた。

「早く貸して!」
「はい……」

 伊織が呪符を差し出すと、梨々子は座ったまま、片手をかざす。

 そして、
「…………」
 ぶつぶつと小さな声で呪文を唱えた。

 するとすぐに梨々子の頭から、にょきっと羊の巻き角が現れる。――能力を使うときの特徴だ。
 それから呪符の束が光に包まれて――文字の墨色が赤色に変わる。しばらく光った後、光は霧散した。……これで、本当に呪符の、完成だ。

 伊織とは違い、妹の梨々子には強い能力があった。二歳下のこの妹は、寝転びながらでも力を込められるだろう。

 梨々子は、呪符を広げると、扇のようにあおいだ。

 羊の巻き角は、もう消えている。

「お姉さまがおっそいから、危うく呪符なしで出かけるところだったわよ!」
「……ごめんなさい……」
「ちゃんと全部あるんでしょうねー。今日は二百枚はいるんだから」
「……あります……」

 伊織は、目線を合わせないように下を向きながら返事をした。

 数は……集めているときに数えた。二百枚はある。大丈夫だ。
 梨々子は、目を細めて言った。

「馬鹿なお姉さま、ねぇ、どーして今日は二百枚もあるのか、お聞きにならないのー?」
「……え……」

 伊織は、小さく顔を上げた。
 確かに、普段よりは多いとは思った。しかし、疑問に思うよりも先に、達成できなかったときに能力でいじめられるかもしれないという焦りが上回ったのだ。

 梨々子は長いまつげをばちばちとさせて、言った。

「いいこと教えてあげる。今日の会合ではね、私の能力をお披露目するのよ。各家の跡継ぎの紹介なの。くすくす! 長女なのに呼ばれないって、どんな気分?」
「…………わたしは、大丈夫です……」
「十二支の家の本家で、ちゃんとした能力がないのって、お姉さまだけだって噂されてるの、知ってるの?」
「…………」
「今日は分家でも出席できる日なのに、これないお姉さま! ねぇねぇ、どんな気分?」
「……家で、待機しています……」
「あははっ!」

 会合には、七歳の時を最後に、行っていない。……七歳で、見切りをつけられたのだ。

(もう、だれもわたしのことなんて、覚えてないだろうな……)

 ……世間は、羊垣内家は梨々子のみの一人娘だとおもっているかもしれない。
 

 梨々子は続けた。

「お姉さまには一生関係ない話をしてあげる。なんとね、今日は()()(りゆう)()の次期当主さまも来るんですって! 十二支トップの家柄! イケメンって噂だし! だけど、忙しいとか言ってなかなか会合ではお目見えできないのよねー」
「九頭竜家の、次期当主さま……」

 伊織とて、九頭竜家を知っている。というより、十二支の家で九頭竜家を知らぬ者はない。

 十二支の家には、序列があった。それは、単純に力の強さに由来する。

 龍の力を持つとされる九頭竜家は、十二支の筆頭だった。

 そして、

(九頭竜、……十夜さま……)

 以前、一度だけお見かけしたことがある。
 伊織が連れて行ってもらえた、最後の会合の日。
 九頭竜家の次期当主さまは、少し年上の男の子だった。堂々とした佇まい、キリリとした顔、はきはきとした口調、高い能力――そのどれもが、伊織にはないもので。

 そのどれもが、キラキラと輝いて見えた。

(結局、お話しすることはなかったけれど……。噂では、ご活躍されてるみたい……)

 梨々子の言うとおり、遠い世界のお方だ。対面することなど、ないだろう。

「…………」


 黙っている伊織にお構いなしに、梨々子は言った。

「いいでしょ? 私、九頭竜家の次期当主さまとお話ししてみようと思ってるの! うふふ」
「…………そう、ですか」
「それにー。今日は(えん)(じよう)()ヤシロ様もこられるって話だしね! ヤシロ様は猿城寺家で一番のイケメンだし! ああ、そっちも楽しみ!」
「……ヤシロ様……」
「今日のチャンス、絶対モノにしてみせるわ!」

 伊織は、たびたび家へやってくる青年のことを、思い出した。
 
 (えん)(じよう)()()
 (よう)()(うち)()と同じく、十二支の家である。
 猿城寺の家には男子が多く、ゆえに父が誰か一人を羊垣内家の婿に、と考えているのは気付いていた。
 そしてそれが叶ったなら、梨々子のためであるというのも、薄々気付いていた……。


 すると、
 
「梨々子。今日の会合は、近頃現れる鬼についての情報交換だ」
 足音もなく低い声がして、
「あっ! お父さま!」
「……あ……」

 梨々子がぱっと顔を輝かせ、やってきた父に抱きついた。
 伊織の体はとっさには動かない。父を見ようと少し首をもたげただけだった。

「…………」
 父の目線は伊織に向かない。

「わかってるわよ! お父さまはお仕事でしょ。でも、私のそれだって、お仕事、だわ♪」
 父は、梨々子だけを見ながら言った。
「もう出発するぞ」
「はぁい! もうねぇ、お姉さまがとろくってぇ! くすくす!」
「…………」

 梨々子が父の腕に抱きついたまま、にまにまと伊織を見た。
 ――父が伊織を見ないのを知っていて、そうしている。
 伊織は、どうすることもできず、ふたりを見送るだけだった。

「じゃあねー」
 梨々子と父が玄関に向かう。
「…………」

 伊織は、会合に興味があるわけではない。
 しかし、うらやましいと思う。

 なぜなら――

「お前はこちらへきなさい」
「…………っ」

 背後から空気を切り裂くような声がして、伊織は目をつぶった。

 目を開けて、振り返る。

 そこには、

「折檻の時間よ」

 継母の姿があった。