人生何事も、なるようにしかならない。
 自分の力でどうにかできることは少なすぎて、手の届く範囲はあまりにも狭い。ぶつけられる悪意をなんとか飲み込んでも、それらはすぐにまたやってきて。台風がすぎさるのを待つ雑草のように、日々を過ごしていくしかなくて。

 だから、こんな暮らしのわたしが、――九頭竜家の次期当主・()()(りゆう)(とお)()さまに愛されるなんて――夢じゃなければ、あるわけがない……。


        *     *     *


「これが書けるまで、(くら)から出てこないでね」
「…………」

 (よう)()(うち)()(おり)の前に、ばさり、と和紙の束が投げ付けられる。細長い(ふだ)の形に切られたそれは、畳に落ちると乱雑に広がった。
 伊織は、それを長い前髪の隙間から見ながら、無言で頭を下げた。

 時は、(めい)(れい)百六年。日本国、首都・(とう)(きよう)。二百年以上続いた江戸 幕府を終えて、次の百年に及ぶ年号は明令だった。
 古くは平安 時代から代々続いてきた家柄の、羊垣内家の由緒あるお屋敷で、――伊織は長女でありながら頭を下げていた。新しく替えた畳の青々とした匂いがして、次に目に入った自分の着物の裾がほつれていて――、その差に伊織は目を伏せた。
 
「返事は?」
「……はい……」
「もー。返事がいつも遅いのよ。こんなんで、『羊』の名を冠しているのが恥ずかしいと思わないのー?」

 腹違いの妹の、このような発言はいつもと同じで、

「…………」

 わたしをちらりと見た父が去って行ったのもまた、いつも通りだった。

「じゃ。私は、今夜の準備があるから。私とお父さまで、『今の羊は強い』って、しっかりとアピールしてきてあげるからね。だから。……それまでにその呪符、頼むわね? 無能なお姉さまー?」

 妹の()()()はそう言って、姉である伊織の髪をむんずと掴んだ。――視線が、合ってしまう。派手なメイクを施した梨々子の、切れ長の目。これにすごまれると、伊織はビクリとして目を泳がせてしまうのだった。

「……はい」
「へたくそな字を書いたら、承知しないんだからねー」

 そう言うと梨々子は、乱暴に手を振る。伊織の体は急に放たれ――どさりと畳に崩れた。
 頬に、ざらりとした畳の感触が伝わる。

「……っ」
「ふふん」

 梨々子は鼻で笑ったのち、去って行った。

「…………」

 足音が遠のいて、伊織はそっと顔を上げる。自分の頭に手をやると、髪がぐしゃぐしゃになってしまったことが、少し触れただけでもわかった。
 ――いつものこと、だけれど……。

「……ずっと、こんな日々が続く、のかな……」

 母が亡くなって、継母と梨々子がこの家にやってきてからは、ずっとこのような扱いだった。
 伊織はかぶりを振る。

「……それより、急がなきゃ」

 投げ捨てられた和紙を拾う。
 壁には真新しい西洋時計があり、時刻は十六時を指していた。同じく壁にかけられたカレンダーには、三月二日――、今日の日付に印がつけられている。
 父と梨々子は『会合』にでるため、今日の十八時半には出発する。あと二時間半だ。
 ……いや、出発する間際に 渡すことは、できない。怒鳴られるだけだ。それに、伊織が書いて終わりではない。梨々子が念を込めて、初めて呪符は完成する。その時間を考えると……あと二時間といったところか……。
 伊織は、抱えた和紙の束に目を落とす。――ゆうに百枚は超えているだろう。

「…………」

 間に合わないだろうそれを抱えて、伊織は蔵へと向かった。


        *     *     *


「呪符を書くのは、神聖な場所であるべきだ」

 そう父は言った。
 十一年前の、冬の日だった。灰色の空から雪がしんしんと降って、指先がしびれるような日の、午後のことだ。
 羊垣内家の中庭に呼び出された伊織は、小さな七歳の少女で、背の高い父を見上げて立っていた。父の眼鏡は曇り、顔はよく見えない。
 腕組みをした父は、それからこうも言った。

「伊織、お前は役に立たないのだから、蔵で呪符だけを書きなさい」
「……え……?」

 それは突然のことで、伊織は、開いた唇に指で触れる。
 久しぶりに父に呼ばれたものだから、――少し……勘違いをしていたのだ。持っている中で一番マシな着物を着てきたのが、急に恥ずかしくなった。

 少し前から、『会合』に連れて行ってもらえなくなった。父と梨々子だけが行って、伊織は留守番になっていた。しかし、それでも努力してきたつもりだった……。
 蔵は、遠目に見ると立派な建物に見えたが、父が戸に手を掛けると、軋んだ音を立てた。戸が開けられたことで、暗い部屋の中に白い埃が舞う。ほとんど開けられる ことのなかったこの蔵は、埃っぽく、かび臭い。伊織が見てきた限りでは、物置として使用している建物である。

「入りなさい」
「ここは……。あの……」
「早く」
「……はい」

 背を押されるがままに、蔵の中へと入る。
 ビュオと風が吹いて、入り込んだ雪が、灰色の床に染みをつくった。いかにも手入れのされていない蔵は薄暗く、見た目通りとてもよく冷えた。壁にひびも入っており、これが外の冷気をいれているようだった。
 蔵の中には、古ぼけた机と、いくつかの筆記用具があった。
 伊織が戸惑っていると、父は言った。

「お前に羊垣内家の能力はない。ただ、呪符は書けるようだからな。ここで梨々子のための呪符を作るように。……これからは、お前は能力の訓練をしなくていい」
「そんな……」

 伊織と違って、父と同じ妖怪祓いの呪符を使いこなす能力 を授かった、妹の梨々子。その梨々子が、呪符の文様を書くことを面倒くさがっているのは、知っている。
 ――だが。

「ど、どうして、こんなところで……なのですか……?」
「この蔵は昔、呪符を書くのに使用されていた。ここで書けば、無能なお前でも多少マシなものができるだろう。呪符を百枚書いてくるまで、家には帰ってくるな」
「ひゃく、まい……?」

 呪符は、生気を吸う。初めて書いたときは、十枚書いただけで半日動けなかったものだ。……とてもじゃないが、今日中に終わる量ではない。

「そんな……。お父さま……!」

 その時、カサカサ、と音がして、音のした方を見ると、おぞましい姿の虫がいた。

「ひっ……!」
「虫が出る。履物 は履いておくように」

(こんなところでなんて、嫌……!)

「お、お父さま……」

 伊織は、父の顔を仰ぎ見ようとした。
 しかし――。すでに父の姿はなく、鈍色の戸がバタンと閉まる音だけが、大きく響いた。

 伊織の過酷な呪符作りは、この日から始まったのだ。


        *     *     *


 あれから――十一年の月日が流れた。
 妹と比較されることも、妹の代わりに呪符を書くこともつらかったけれど、それでも父の言うとおりに生きてきた。言うとおりにしていたら、いつかわたしも 愛されるんじゃないかって、そう思って頑張ってきた。
 けれど、家族の伊織に対する態度は冷たく、変わらないままだった。
 だから――いつしか、伊織には、諦める癖が付いていた。
 冷たい蔵に向かいながら、伊織はぼんやりと思う。

(……いつも通り我慢すれば、いいだけだから……」

 ――日々、言われた仕事を、こなすだけだ。



 蔵に入った伊織は、和紙の束を古い文机に置いた。
 薄暗く古い、虫の出る蔵が神聖と呼べるのか――はじめは疑問に思ったが、今ではもう考えるのをやめていた。伊織が毎日コツコツと掃除をしたおかげで、蔵の様子は多少は 片付いたと言えなくもなかった。もっとも、他に雑用を押しつけられていなければ、もっと掃除もできるはずなのだが。今日も朝から、使用人のように屋敷の掃除や洗濯を言いつけられ、それから……これだ。

「時間がないから……急がなくっちゃ……」

 伊織は、古ぼけた時計を見た。焦る気持ちはあるが、それでも丁寧に、伊織は準備を進めた。まずはじめに、香を焚く。それから硯に水を垂らし、墨を磨った。呪符用の和紙は、渡された時から札のサイズである。それから伊織は、細い筆に墨を取り、呪符の文様を書いていった。長い文字列が、一枚の紙の中にぎっしりと連なる。ゆっくり、慎重に、丁寧に、それでいてほんのちょっぴり早く――。
 一枚書き終わると、その墨文字は艶やかに光った。

「はぁ……」

 疲労感が襲ってくる。たった一枚書いただけで、ぐっと胸が苦しくなった。呪符の文字が、伊織の生気を吸ったのだ。……百枚も書けば、ごっそりと気力を持っていかれることだろう。

 時計を見ると、先ほどより針が三分ほど進んでいる。
 昔より、呪符の文様を書くのは早くなった。けれど、気力を吸われる倦怠感と息苦しさ――これが伊織を苦しめた。……後半はもっと苦しいだろう。だからこんな序盤で、一枚に一分だってかけられない。
 伊織は、筆を執った。
 こうして、羊垣内家の呪符はできていく。



 この国には、十二支の名を冠した家がある。
 子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥……。十二の家の彼らは、特殊な能力を持つ家系である。彼らは古くから祓い屋として、人に仇なす妖怪から国を守ってきた。

 十二支の家は、能力を活かして莫大な富を築いた。彼らは祓い屋とは別に、各家がそれぞれ日本有数の大企業を経営している。財閥、大病院、商家、製薬会社、ホテル業界、老舗の和菓子屋など……どの家の社名も、日本中の誰もが知るような会社だった。
 しかし、そんな大企業の経営も、祓い屋に比べれば副業に過ぎない。日本国内には妖怪が多数出現し、それとの戦いは十二支の能力を持つ人間でないと難しい。

 羊垣内家は、そういった十二支の家の一つ、『羊』の家である。首都・頭京で、『羊』の本家として祓い屋を、副業として商家をしている。

 そんな家で――能力を持たずに生まれたのが、伊織である。いや、わずかながらはあるのだろう。現に、呪符を書けている。……それでも、唯一の役目であるこの呪符作りさえも、所詮は梨々子の下準備なだけなのだ。



「……はぁ……」

 ようやく書き終わった呪符を集めながら、伊織はくらくらする頭を押さえた。その顔は青く、今にも倒れてしまいそうだ。能力の微弱な伊織にとって、これはつらいことだった。
 だが、なんとか百枚書ききったのだ。呪符を、墨が乾いた順に重ねていく。

(……これが、梨々子(かぞく)のためになるのなら……)

 か細いため息をつきながら、時計を見る。いつのまにか時計は十八時を過ぎていた。梨々子が出発するまで、あと三十分もない。

「ひっ……」

 伊織は、慌てて屋敷へと戻った。



「おっそい!」
「……ごめんなさい……」

 伊織が部屋に入るなり、梨々子は大きな声を上げた。
 中庭に面した、居間として使用しているうちの一部屋。そこにふたりの姿はあった。部屋の中に は、畳の部屋に不釣り合いな、 大きなローソファがあり、それに梨々子はふんぞり返って座っていた。

「早く渡しなさいよ!」
「はい……。……っ」

 呪符の束を伊織が差し出すと、梨々子は、それをひったくる。
 その拍子に手の甲に痛みが走った。――梨々子に引っかかれたのだ。つー……と血が滲むが、伊織は一瞬顔を歪めただけで、また元の諦めを孕んだ表情に戻った。

「…………」

 今日の梨々子はたいそう着飾っており、上等な着物を着ていた。伊織が着たこともないような、派手な装飾のついた訪問着だ。艶やかなウェーブがかかった黒髪には、大きなリボンがつけられている。伊織が呪符を書いている間に、着替えたのだろう。
 梨々子はローソファーに座ったまま、伊織のことを睨みつけた。

「ねーぇ? お姉さまぁ、私を見下ろす気ぃ?」
「……いえ……」

 立っていた伊織は、うつむいたまま、静かに畳に座った。

「ほんっと! とろいんだから!」

 言いながら梨々子は、満足げな表情を浮かべた。それから、梨々子は呪符の束に片手をかざして、ぶつぶつと小さな声で呪文を唱える。
 すると、梨々子の頭から、にょきっと羊の巻き角が現れる。――これが、能力を使うときの特徴だ。呪符の束が光に包まれて――文字の墨色が赤色に変わる。しばらく光った後、光は霧散した。……これで、本当に呪符の、完成だ。

 伊織とは違い、腹違いの妹である梨々子には、強い能力があった。二歳下のこの妹は、寝転びながらでも力を込められるだろう。
 梨々子は、呪符を広げると、扇のようにあおいだ。

「お姉さまがおっそいから、危うく呪符なしで出かけるところだったわよ!」
「……ごめんなさい……」
「ちゃんと全部あるんでしょうねー。足りなかったら承知しないから」
「……あります……」

 伊織は、梨々子の切れ長の目から逃げるように、下を向きながら返事をした。
 数は……集めているときに数えた。ちゃんとある。大丈夫なはずだ。
 梨々子は、目を細めて言った。

「馬鹿なお姉さま、ねぇ、どーして今日はこんなにもあるのか、お聞きにならないのー?」
「……え……」

 伊織は、小さく顔を上げた。
 確かに、普段よりは多いとは思った。しかし、疑問に思うよりも先に、達成できなかったときに能力でいじめられるかもしれないという焦りが、上回ったのだ。
 梨々子は、おもむろに呪符を一枚手に取ると、伊織に投げ付けた。それは伊織の腕へ、ぺたりと貼り付く。貼り付いた箇所から、ジュウと焦げるような痛みがした。

「うぁ……っ」
「いいこと教えてあげる。今日の会合ではね、私の能力をお披露目するのよ。各家の跡継ぎの紹介なの。くすくす! 長女なのに呼ばれないって、どんな気分?」
「う、……ぐ……っ」
「十二支の家の本家で、ちゃんとした能力がないのって、お姉さまだけだって噂されてるの、知ってるわよねぇ? 今日は分家でも出席できる日なのに、来られない 可哀そうなお姉さま! ねぇねぇ、どんな気分?」
「……家で……っ、待機っ、しています……っ」
「あははっ!」

 梨々子が手を払うように動かすと、伊織の腕から呪符が剥がれた。赤い跡がついた皮膚は、じんじんと痛み、伊織は顔を歪めた。
 会合には、七歳の時を最後に、行っていない。……七歳で、父に見切りをつけられたのだ。

(もう、だれもわたしのことなんて、覚えてないだろうな……)

 伊織は、腕をさすりながら考える。
 ……世間は、羊垣内家の娘はひとりだけだと思っているかもしれない。
 梨々子の頭から、スゥーと羊の巻き角が、消えていく。この角は、能力を使い終えると消えるのだ。
 梨々子は言った。

「そうだわ! ねぇねぇ、お姉さまには、一生関係ない話をしてあげる。なんとね、今日は九頭竜家の次期当主さまも来るんですって! 十二支トップの家柄! イケメンって噂だし! だけど、忙しいとか言って、なかなか会合ではお目見えできないのよねー」

(九頭竜家の、次期当主さま……)

 伊織とて、九頭竜家を知っている。というより、十二支の家で九頭竜家を知らぬ者はない。
 十二の家には序列があり、それは一族の規模や能力の強さで決まっている。
 龍の力を持つとされる九頭竜家は、十二支の筆頭だった。
 その次期当主といえば、抜きん出た能力を持つという、彼しかいない。

(九頭竜、十夜さま……)

 お目に掛かったことはないが、歴代最強と名高い彼の噂は、伊織の耳にも届いていた。けれども、もう二度と会合にさえ行かないだろう伊織にとっては、遠い世界の人のように思えた。
 黙っている伊織にお構いなしに、梨々子は言った。

「いいでしょ? 私、九頭竜家の次期当主さまと、お話ししてみようと思ってるの!  うふふふっ!」
「……そう、ですか」
「それにー。今日は猿(えん)城(じよう)寺(じ)ヤシロさまも来られるしねっ! ヤシロさまは猿城寺家で一番のイケメンだしっ! ああっ、そっちも楽しみっ! 今日のチャンス、絶対にモノにしてみせるわ! 今日の演舞が猿城寺に認められれば、婚約も確定よ♪」
「…………」

 たびたび家へやってくる妹の婚約者候補の青年。それが、猿城寺ヤシロだった。
 猿城寺家は、羊垣内家と同じく、十二支の家である。名の通り『猿』の力を持つこの家系は腕力が強く、十二支序列第三位の家柄だった。猿城寺の家には男子が多く、ゆえに父が梨々子の婿にと選んだ男が、猿城寺ヤシロなのだった。

「梨々子」
「あ! お父さま!」
「……あ……」

 スッと襖が開いて、父が入室してきた。梨々子がぱっと顔を輝かせ、父の腕に抱きつく。伊織の体はとっさには動かない。父を見ようと少し首をもたげただけだった。
 父の目線は伊織に向かない。父は、梨々子だけを見ながら言った。

「今日の会合は、お前のお披露目と――近頃現れる鬼についての情報交換だ」
「わかってるわよ! 私とお父さま、それぞれ大事なお仕事、だわ♪」
「もう出発するぞ」
「はぁい! もうねぇ、お姉さまがとろくってぇ! お母さまに言っちゃおうかしら! くすくす!」
「……っ」

 梨々子の口から〝母〟の単語が出て――びくっと伊織の体が強張 る。
 父の腕に抱きついたまま、梨々子は玄関に向かう。

「じゃあねー。お留守番、よろしくね、お姉さまー」
「…………」
 伊織は、会合に興味があるわけではない。しかし、羨ましいと思う。

 なぜなら――、

「お前はこちらへ来なさい」
「……っ」

 背後から空気を切り裂くような声がして、伊織は恐る恐る、振り返る。

「折檻の時間よ」

 そこには、継母の姿があった。


        *     *     *


 羊垣内()()()は、伊織の継母である。彼女は、伊織にとても厳しく当たった。艶やかな黒髪をまとめ上げ、梨々子によく似た、切れ長の目をした女性だ。
 
 伊織の実の母・(なな)()は、伊織が六歳の時に病死している。
 その後、現在の継母である嘉代子が後妻にはいったわけだが、――実は、父・(えい)(すけ)と嘉代子は元々恋人同士だったのだ。
 だがしかし、 栄介と嘉代子の婚約直前に、当時の当主で栄介の兄――羊垣内(そう)(いち)(ろう)が、亡くなった。元々、長男・宗一郎の新妻であった七緒は、羊の分家の出で、能力を高く評価されていた。
 一方、嘉代子は、一般人だった。当時の評価では、七緒とは比べものにならなかった。その時まだ若かった栄介は……反対をしなかった。いや、できなかった。
 そうして、亡き長男の嫁が、次男の嫁にスライドすることが決まったのだ。
 嘉代子は、七緒が――伊織の母が、憎くて憎くて、嫉妬して嫉妬して嫉妬して、呪って呪って呪って、呪い続けた。
 そうして、数年が経ったあの日――伊織の母の葬儀会場に、嘉代子は梨々子を連れて現れたのだ。
 大雨がザアザアと降っており、ゴロゴロと落雷の音が響く夜だった。
 当時、六歳だった伊織の前に現れたのは、すでに能力を顕現させていた、四歳の梨々子だった。
 こうして、伊織は一夜にして、母と次期当主の座を失ったのだった。


        *     *     *


「きゃ……!」

 どん、と突き飛ばされて、伊織は固い床に転がった。
 ガチャン、と無慈悲な錠前の音が響く。

「ここから、出して、ください……」
「だめよ」

 継母は冷たく言い放つ。
 伊織は、『折檻部屋』にいた。それは、屋敷の裏庭にある小屋だ。小屋には二つのスペースがある。一つは、扉付近の三畳ほどのスペース。壁には壁面収納用のフックがあり、いくつかの工具が掛かっている。もう一つは、……その奥の、座敷牢。こちらも三畳ほどのスペースで、しかしこちら側は掃除をまったくされていなかった。床は腐っているところもあるというのに、牢の格子だけは新調してある。
 伊織はその中に入れられていた。布団も、食べ物も、なにもない、薄暗い部屋。そこが、継母お気に入りの折檻部屋だった。

 継母は、部屋の壁に立てかけてあった鞭を手に取る。

「今日は、ずいぶんと呪符を書くのが遅かったみたいね。梨々子が会合に遅刻なんてしてしまったら、どうしてくれるの?」
「ご、ごめんなさい……」
「ふっ……」

 継母はうっすら笑うと、バチンッ!――と、鞭で檻を叩いた。
 伊織は、思わず目を瞑る。
 バチンッ! 鞭がもう一度振るわれる。伊織は体を震わせた。
 ――伊織は、母・七緒によく似た容姿で、それが一層、継母の加虐心を煽っていた。

「今夜はそこで反省なさい。食事も許さないわよ」
「わ……。わたし……っ! で、でも、ちゃんと間に合いました……!」

 バチンッ! 鞭が振るわれ、その先端が、伊織の体に当たった。

「……っ!」

 バチンッ!

「……っ。ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「もっと早く呪符が書けるように。能力が高められるように。月にでも祈ってなさいよ。あははっ」

 継母は楽しそうに笑うと、和紙と筆を投げ入れる。呪符を作れということだろう。
 そうして、ひとしきり伊織を鞭で脅かすと、愉快そうな笑みを浮かべて屋敷へと戻って行った。
 継母の姿が見えなくなると、伊織はその場にへたり込んだ。

「うぅ……っ」

 能力がないのが、悪いのかもしれない。梨々子が呪符を書いたなら、わたしのように疲れないのかもしれない。だけど、今日だって、膨大な量を間に合わせたはずだ……。
 投げ入れられた和紙が、目の端に留まった。……震える手で、呪符を一枚、書いてみる。腕が不自然に痺れ、また気力が削がれていくのだと感じる。
 書けた呪符を前に、梨々子の真似をして手をかざしてみる。――しかし、何も起こらなかった。
 やはり自分には、能力がないのだ――そう思った伊織は、力なく肩を落とした。



 やがて夜がきて、月が昇った。
 この折檻部屋には、 屋根部分に小さな窓がひとつだけある。それにはガラスがはめられていないため、そこから冷たい夜風が入り込んだ。
 しかし、部屋には毛布の一枚もなかった。

「…………」

 体はこんなにもだるくて重いのに、寒くてうまく眠れない。ぼんやりとした輪郭の檻の格子だけが、横たわった伊織の目に映る。

(どうして、こんな風になっちゃったんだろう――……。もう、わからない……)

「……誰か……。……」

 ……言いかけて、やめてしまう。

(……ううん。もう、誰もいない……)

 母の記憶はもう、薄く、……いつからか、思い出さないように、自らしてしまった。
 あの柔らかな記憶を思い出そうとしても、すぐに『もういない』ことが苦しくて、胸が詰まって、それ以上考えられなかった。
 寒さからなのか、疲労からなのか、不安からなのか――震える手を、弱々しく握る。

「……大丈夫。我慢すれば、大丈夫……」

 そう、自分に言い聞かせる。
 しかし、胸の空白は寒くて、とても寒くて。

「……誰か、そばに……。……」

 伊織は、縮こまりながら夜を過ごした。



 翌朝、伊織は早朝から目を覚ました。――と言っても、そもそもあまり眠れなかった。窓が開いているだけでなく、隙間風も吹き込むこの場所で、快眠などできるわけもなかった。

「…………」

 伊織は縮こまったまま、少しでも暖を求めて体をさする。
 その時、ギィと折檻部屋の扉が開いた。やってきた人物は、――若い使用人だった。彼女は「はぁ」とため息をついて、めんどくさそうに立っている。

「もうでてもいいって、奥さまが。てか、井戸の水汲むの早くしてくれない? 朝食の準備できないじゃん」

「……はい……」

 使用人は皆、伊織に冷たかった。継母や梨々子、父の仕草を見ているので、自然とそうするものだと思ってしまっている。――みんなが馬鹿にしている人物は自分も馬鹿にして良いのだと、そう染みついてしまっているのだ。
 しかし、伊織は反論をしなかった。……したところで、どうせ継母に報告されるだけなのだ。そうすると、……折檻部屋からでられる日が延びてしまうだろう。
 若い使用人が牢の鍵をあけると、伊織は外に出た。

「じゃ」
「……あ……。……ありがとうございます……」

 お礼を言うのが正しいのか、伊織にはわからない。継母の命で牢にいれられ、この使用人は継母の命でやってきただけだ。……けれども、伊織は言った。
 伊織は顔を上げる。しかし、その場にはもう誰もいなかった。



 朝五時頃から使用人同然の仕事をして、ようやく伊織が朝食を取れたのは、十時も過ぎた頃だった。おひつに残った固く冷たいご飯――これが伊織の朝食だった。
 父と梨々子は、まだ寝ているようだ。他の使用人たちが話していたが、ふたりが帰宅したのは、どうやら深夜だったらしい。

 この隙に、伊織は風呂場へと向かった。
 継母は、自分が汚い折檻部屋に閉じ込めているくせに、そこから出したら出したで、伊織が風呂に入らないと厳しく(なじ)った。伊織を虐げていることは、他人に知られたくないのだろう。鞭も、体に当てるだけで、顔にはほとんど当ててこなかった。伊織は、日中屋敷にいる間は、身だしなみを整えることを命じられていた。
 廊下を歩くと、すぐに風呂場へ到着する。黒い石の壁で囲まれた、暗い場所だ。当然、お湯は冷めているが、沸かし直すことは禁じられている。伊織は急いで体を洗い、湯船とは名ばかりの水風呂に浸かった。そして、お風呂から上がろうと立ち上がり、

「……あ、れ……?」

 目の前がまっくらになった。



 目を覚ますと、伊織は自室で寝ていた。

「う……」

 ゆっくりと、体を起こす。

(わたし……お風呂で倒れたんだ……)

 大きなお屋敷の中で、部屋は余るほどあるのに、伊織にあてがわれたのはこの三畳の部屋だけだった。小さな箪笥、小さな鏡台、何もかかっていない衣(い)桁(こう)があるだけの、名家のお嬢さまにしては質素な部屋だった。そこに敷き布団を敷くと、より一層狭く感じた。

 本当は、六歳までは自分の部屋があった。しかし、継母と梨々子がやってきて――それらはすべて取り上げられた。母の残したもの――着物や宝石などの高価な物は継母にもって行かれ、日用品は愉悦混じりに破壊された。
 そして父も、ようやく結婚できた愛人の我が儘を、黙認した。
 いま部屋にある箪笥の中身だって、いつまた破かれるかわからない。〝私の物〟は、なんにも、ないのだ……。

 伊織は、時計を見た。風呂場に向かったときから一時間ほどしか経っておらず、伊織は、ほっと胸をなで下ろした。



 ずんずんと廊下を歩く音がして、――ノックもなしに、襖が開かれる。
 自室へやってきたのは、若い使用人だった。

「ああ、起きたの。風呂で倒れるの何回目なわけ? 掃除の、邪魔だから」
「……すみません……」
「梨々子さまが、起きたわよ。早く支度して」
「あ……はい。……わかり、ました……」

 若い使用人は言いたいことだけ言うと、さっさと行ってしまった。
 伊織は立ち上がると、継ぎ接 ぎだらけの着物を着て、部屋を出た。



「昨日は本当にすごかったのよぉー!」

 梨々子の大きな声が、廊下まで聞こえる。
 伊織が呼ばれたのは、この屋敷で一番広い部屋で、客間としても使用している和室だった。高名な画家に描かせた、見栄を張った掛け軸と、 襖絵には羊の絵が描かれている。
 伊織がお茶を持って部屋に入ると、梨々子と父と継母が、座卓を囲んでコの字に座って談笑をしていた。三人とも、まるで伊織を気に留めていないそぶりだ。
 少し離れた場所で、伊織は、うつむきながらお茶を淹れる。
 本当はここへは来たくない。だが、会合の後は、話を聞きに来なければならなかった。

(来なければ、また叱られるだけ……)

 梨々子が上機嫌なので、……きっと昨日はうまくいったのだろう。
 自分の能力がいかに認められたか――梨々子はそれを得意げに語っていた。
 父も継母も、そんな梨々子を「すごいすごい」と褒めちぎる。
 そんな会話を、湯飲みを配膳しながら伊織は聞いていた。

 
 梨々子は、ひとしきり自分の活躍を語った後、「それにしても――」と話し出した。

「来るって聞いてたのに、九頭竜家の次期当主さまは、いなかったわね。残念だわ。あぁん、噂では顔面国宝って言われてるのに、見たかったわ! めったに会えない上に、いつもチラリとしか拝見できないんですもの!」
「あなた、梨々子なら九頭竜も婿にできるんじゃなくて?」
 継母が言って、父は首を振った。
「家には序列がある。……九頭竜は無理だ」
「なによ、いっつも序列序列って。私はイケメンと結婚したいだけなのに!」
「……お前には、猿城寺がいるだろう」
「ふふん。まあねー♪」

 父は、眼鏡をあげながら言った。

「――昨夜は、会合の直前で鬼がでたとの報告があった。九頭竜が見回りに向かったらしい」
「ふーん。それでいなかったのね」
「鬼が……。どのあたりで、でるんです?」

 継母が聞いて、父が答える。

埼多摩(さいたま)あたりだそうだ」
「ずいぶん近くですね」
「我々も、もし鬼に遭遇したら『すぐに他の家に協力要請をだすように』、という話だ。連携して退治にあたらねばならない」

 ――鬼。妖怪の中で最上位の力を持ち、最も退治が難しい存在だ。日本のどこかに隠れ住んでおり、時折、姿を現しては人を攫っていくのだという。その集落がどこにあるのかは、いまだにつかめない。滅多に姿を現さないため、ほとんどの人間は鬼を見たことはない。
 祓い屋たちが普段退治しているのは、もっと弱い妖怪たち――といっても害のある危険なものなのだが――だ。
 鬼の出現報告があったなら、一番強い能力を持つ九頭竜家が見回りに出るのは、妥当だった。
 父の難しい顔と対照的に、梨々子は興味なさげにあくびをする。

「ふーん。まあ、見かけたらすぐに逃げて、九頭竜家に連絡すればいーんでしょ」
「梨々子は、それでいい」
「はぁーい。お父さまー」

 通常であれば一般市民に被害が出ないよう、祓い屋こそが妖怪を食い止めるものだ。
 ましてや羊垣内家は、分家ではなく、『羊』の本家である。それでも、父は梨々子が可愛いのだろう。戦闘を避けることを許容していた。

「私は戦うのって全然好きじゃないし。それに――、私の『仕事』は、縁談、でしょう? だから、見かけたところで、さっさと逃げるしか選択肢がないわね。うふふ」

 そう言って、梨々子は笑った。

「ま、それでいうと、私はとても上手くやってるわよ! 猿城寺ヤシロさまとの婚約も、昨日でついに決まったわ! ヤシロさまも結構イケメンなのよねー♪」
「……普通なら上位の家との婚姻は難しいところだったが、猿城寺の当主が了承してくれて良かった。今度正式に書面でやり取りをする段取りを、つけてきた」
「あなた、それはきっと梨々子が可愛くて優秀だからよ!」
「うふっ! もちろんそうよね!」

 梨々子はそう言って笑った。

 十二支の家には、一族の規模や能力の強さによって序列がつけられている。
『羊』の家は最下位の十二位 ながら、梨々子は序列三位の『猿』の家と婚約したのだった。

 楽しく談笑する家族と少し離れ、伊織は部屋の隅に下がっていた。
 数秒、話がやんだので、ちらりと様子をうかがい見る。父と目が合わない代わりに――ぱちりと梨々子と目が合って、伊織は慌てて下を向いた。

「…………」

 梨々子は、そんな伊織を見て、うっすらと笑みを浮かべた。

「ねぇお姉さま――。私とヤシロさまが結婚したら、お姉さまには 家を出て行ってもらわなくちゃねー」
「…… え……」

 急に話を振られて、伊織は控えめに顔を上げた。
 梨々子が、笑みを深めた。

「だってそうでしょう? 私とヤシロさまの愛の巣に、お姉さまみたいな異物を置いておきたくないんですもの」
「え……? どういうこと……? 梨々子、何を――……」

 考えないようにしていた。この先のことなんて。ただ、今と同じ日々が続いて、それを耐え忍ぶ日々だと、そういうことにしておかなくちゃ、わたし。

「見てわからない? 私と、お父さまと、お母さま、今三人で――綺麗な家族でしょう? お姉さまって、いなくても――なにか問題あるかしら?」

(……家族?)

 目の前には、父と継母と梨々子が三人で座卓を囲んでいて、伊織はひとり離れた部屋の隅で正座していて……。
 ぐわり、景色が歪む。

(あ、れ……?)

 今まで三人で楽しそうに談笑していて、伊織は会話に加わらなくて。
 使用人のように注 いだお茶も、誰も口をつけていない……。

「……ぁ……」

 気付かないようにしていた。
 見ないようにしていた。
 動悸が、止まらない。
 梨々子と、父と継母は、揃って伊織をじっと見ている。
 頭の中に響く、速い鼓動。ドッドッドッと、まるで胸の内側から拳で叩かれているかのようだった。

 ようやく伊織の口からでたのは、か細い掠れた声だった。

「で、でも……呪符とか……。わたし、梨々子の分……」
「ふふん」

 梨々子は、湯飲みを持つと――パシャリと伊織の顔にかけた。

「熱……っ!?」
「あんなもの、本当は私でも書けるわよ。でも、やることがない可哀想なお姉さまに、やりがいと使命を与えてあげてるだ・け 」
「はぁ、はぁ……。梨々子……何を言って……?」
「無能よねぇお姉さまって! 呪符を扱えない羊垣内に、価値はあるのかしら?」
「……っ」
「うっふふふふ!」

 梨々子が、笑う。
 そして、大きな声で宣言した。

「家は私が継ぐ。お姉さまのような、学なし・能なし・用なしは、羊垣内家には、いらないの!」
 前髪から滴り落ちるお茶の雫を、伊織は呆然と眺めていた。