人は一生のうちに何回くらい死ぬほど好きになる人に出会うのだろう。
人は一生のうちにどのくらい忘れられない恋をするのだろう。
私にとってはそれがあなただった。
あなたにとってはそれが私じゃないことくらいわかっていた。

*

*

「じゃあ、カンパーイ!」
「カンパーイ!」

 騒がしい居酒屋の店内に二つのジョッキングラスがぶつかり合う音が響く。

「そういえば、この店に来たのいつぶり?」
「一年前くらいじゃない?ほら、あの飲み会の日に来たぶりだと思うよ」
「あー、あのアイツたちと飲んだ時ね」

 モカはわかりやすく顔を顰めて、届いたばかりの枝豆に手を伸ばした。

「もう一年前か。早いね」

 そう、一年前にこの店で、ある人と再会した私は人生で一番甘くて切ない夜を過ごし、罪を犯した。
 ハイボールの入ったジョッキを傾けるとカランと氷がぶつかり合う音が耳に届き、そのままお酒を体に流し込む。
 私はアルコールに犯されていく脳内でぼんやりとその日のことを思い出していた。



―――私には大人になっても忘れられない人がいた。

『ねえ、リュウたちから呑みに行こって誘われてるんだけど一緒に来てくれない?』
『んー、別にいいけど』
『え、いいの?』

 親友のモカに誘われて私が二つ返事をしたらそれが珍しかったのか目を大きく見開いてこちらに視線を向ける。

『うん』
『いつも誘ってもこないのに』
『たまには、ね』
『そっか。じゃあまた日時決まったら言うね』
『了解』

 リュウ以外に誰が来るのかは知らない。
 でも、私はこの時もしかしたら君に会えるかもしれない、なんて淡い期待を抱いていた。
 最後に会ったのは中学の卒業式の日でもう7年も経っているからさすがに彼に未練はないつもりだけど、心の奥底では忘れられずに眠っているのだ。

―――日高斗真

 人生で一番好きだった。
 中学が一緒でなんとなく気が合って、一緒にいると落ち着いてなんか居心地がよくて。
 そんな私たちが付き合うのにそう時間はかからなかった。でも幸せは長くは続かなかった。
 私と斗真は一ヶ月後にはただの友達に戻っていたのだ。
 振ったのは斗真。友達の冷やかしや嘘の話を信じて別れを告げられたのだと後から知った。
 今考えれば、中学生のありきたりな子供みたいな恋人期間だったな、と思う。それでも私は22歳を過ぎた今でもその恋をどこかで引きずっているのだ。
 彼は当時県外の高校に進学することが決まっていて、気まずいまま離れ離れになってそれっきり。好きだったのはまだあどけなさが残る中学生の時だというのに一ヶ月だけしか付き合っていない彼とは未練を残したまま離れ離れになったからなのか今でも胸のしこりとなって残っていた。
 SNSで姿を見ることはあっても直接会うことはなかったからドキドキと胸を高鳴せながら私は何を着ていこうかとクローゼットの中を開けた。

 ◇

 そして、飲み会当日。
 大人数用の座敷の席順は適当らしく、みんなまだらに座っていた。
 きょろきょろと店内を見渡していると『沙羅』と懐かしい声が私の名前を呼んだ。
 顔を見なくても誰なのかわかる。ずっと、ずっと聴きたかった声。
 私は声のした方へゆるりと視線を向ける。その刹那、綺麗な瞳と視線が絡み合い、心臓がどくん、と大きく跳ね上がった。
―――斗真だ。
 久しぶりにこの瞳に映した彼の姿は中学の頃よりもずいぶんと大人びた雰囲気になっていて短髪だった髪はゆるくパーマがかけられていた。
 だけど、あの頃と何も変わらない笑顔や甘く低い声に当時の記憶がフラッシュバックしてくるみたいに、身体中に衝撃が走る。
 それと同時に私の大好きな笑顔は変わっていなかったこともひどく安堵したのだ。
 彼は私に手招きして自分の隣の席をぽんぽんと叩いた。
 ここに座ってってことなのかな。
 あくまで何とも思ってないように。私と彼は友達なんだから変な気なんて起こさないように。
 私は何度も心の中でそう唱えながら『久しぶり!元気だったー?』と彼の隣に腰を下ろし、口角を上げて話しかけた。

『まあまあかな』

 ガヤガヤと騒がしい店内で少し恥ずかしそうに微笑みながら彼は言った。
 なんだか胸の奥から懐かしさが込み上げてくる。
 そういえば中学の時もこんなふうにしょっちゅう二人で話してたなあ、なんて思いながら届いたばかりのお酒を流し込んだ。
 今はもう合法でお酒が飲める年齢になっていることが私たちが成長した何よりの証なんだと思う。

『お酒強いの?』
『いや、俺弱いんだよね。すぐ眠くなる』
『え!意外!強そうなのに!』

 斗真は元野球部で体育会系だから勝手に強いと思ってたけど違ったんだ。

『意外ってなんだよ。そういう沙羅こそ弱そうなのに結構強いんだ』
『人並みだけどね』

 それから、元から仲が良かったのもあってずっと会っていなかったのが嘘みたいにすぐに打ち解けた私たち。

『なんか沙羅が昔と変わってなくて安心した』

 急にそう言うと私のほうをまじまじと見ながら口許を緩める斗真。

『え、なに?それは私が垢抜けてなくてまだ芋みたいだってこと?』

 きっとそういう意味で言ったんじゃないってわかっているけれど、私はわざとおどけたようにそう言った。

『違う違う。中身の話。外見は昔からずっと可愛いだろ』
『ほんとに思ってるー?』
『思ってるよ。昔から俺が好きな沙羅のまんま』
『っ、』

 不意打ちはズルいと思う。
 どうせ、そんな“好き”の言葉に意味なんてない。
 そう理解しているつもりなのに単純な私の鼓動がドッドッドッと早鐘を打ち始める。

『斗真も変わってなくて安心した。相変わらず意地悪だけど優しいし』

 なんとか理性を取り戻した私は平然を装って彼に笑顔を向ける。
 ずっと、私が好きで好きで忘れられなかった君のまま。いくら恋を重ねても君の存在が薄れたことはなかったよ。
 なんて、今更君に言ったところで意味ないけど。

『まあ、俺は当時よりさらにイケメンになったかなー』
『はいはい。そういうところも変わってない』
『うわー、その沙羅の“はいはい”も懐かしい。なんかいいな』

 なんて、嬉しそうにジョッキを傾けてレモンサワーを飲んでいる彼は私の気持ちなんてきっと何にも知らないんだ。
 付き合っていた当時も君が何気なく言った『俺、沙羅はポニーテールの方が好き』という言葉を鵜吞みにして付き合っていた間はずっと君の為に朝早く起きてポニーテールにしていたことも斗真は知らない。

『ていうか、俺まじで沙羅の匂い好きなんだよなあ』

 私がポテトを食べながらぼんやりと周りをみていると隣に座っていた斗真が私の洋服の匂いを嗅ぐなりそう言った。

『それずっと言ってるよね、絶対柔軟剤なんて変わってるよ』

 彼は昔から私の柔軟剤の匂いがお気に入りらしく、私が学校にタオルを持っていくと斗真のタオルと交換させられて自分のタオルは斗真の手に渡ってしまうことが多かった。
 まさか、数年が経っても言われるなんて思ってもなかったけれど。柔軟剤の匂いなんて変わっているだろうし。

『いや、変わってない。これ以上に好きな匂いの人に出会ったことない』

―――だったら。

 身勝手な言葉が口を突いて出そうになったので私は慌ててその言葉ごとアルコールで体に押し戻した。

『またそんなこと言ってー。私以外の女の子だったら勘違いしちゃうから気をつけなよ』
『沙羅はしないの?』
『……するわけないよ。私たちそういうのはもう終わったじゃん』

 私は何とも思っていないように軽い口調でそう言った。
 本当は今もまだずっと忘れられていないくせに。君と別れてから誰かを好きになっても、君以上に好きになれる人なんていなかった。
 私はあの恋を手放せていない。心の奥深くにしまい込んだまま、消化させることもなく、ただただ淡い記憶と一緒に年を取ってしまったのだ。
 恋をすると胸が痛くなるってよく聞くけれど君を好きになる前の私はそんなの嘘だと思っていた。でも、君に恋に落ちてからは君を想うと胸が痛くて苦しくて。息の仕方を忘れてしまうほど君のことしか考えられなくて。私に恋の痛みを教えたのは君だ。

『そう?俺はずっと沙羅のこと忘れたことなかったよ』
『あのね、振ったのはそっちなんだから。わかってる?』
『うん。なんで振ったんだろうってめちゃくちゃ後悔してる。今の俺たちだったらずっと一緒にいられそうだよな』

 なんで今そんなこと言うかな。
 せっかく頑丈に鍵をかけて閉じ込めていた気持ちが溢れ出してしまう。
 私は今まで忘れたフリ、見ないフリをしていた。そしたら楽になれるから。もう君を想って泣くことも傷つくこともないから。
 心のどこかに鍵をして必死に閉じ込めて、未だに覚えているのに何もかもを忘れた“つもり”になっていたのだ。
 本当は忘れられていないこともわかっていたけれど、見ないフリをして忘れたのだと心に言い聞かせてきた。

『そんなのわかんないよ』
『いや、わかる。だって俺ら気が合うし』

 真っ直ぐに私の瞳を見つめ、少しだけ大人になった彼の目尻がすぅっと下がった。
 その笑顔にキュンと胸が甘く弾ける。だけど、惑わされちゃいけない。もうこの人と恋に落ちてはいけない。
 私の頭の中で警告音がけたたましく鳴り響く。そんな警告音をBGMに私はゆっくりと口を開いた。

『まあ、確かにそうだけどさ。私があの時、どれだけ斗真のことが好きだったかわかってないでしょ、めちゃくちゃ好きだったんだから』

 この際だからもう全部言ってしまおうと思ったのだ。
 過去のことだから時効だ。今も引きずってるなんてきっと思いもしないだろう。
 お酒が入ると普段は絶対に言えないようなことでも口にできてしまうから恐ろしい。
 でも、あの時はお酒が入っていたからと言えるのは便利で都合のいい大人の言い訳だな、と頭の隅っこで考える。

『俺だって沙羅のことめちゃくちゃ好きだったよ。人生で一番好きになった人だし』

 そうやってまた淡い期待を抱かせるからズルい。
 まるで、今でも忘れられていない私の気持ちを見透かしているかのように。

『どうだか』
『なあ、ちょっとコレ付き合ってよ』

 そう言いながら斗真がポケットから取り出したのはタバコだった。

『え、タバコ吸ってるの?』

 知らなかった。いや、知らなくて当然なんだけど。
 それでもこの短時間ですべてを知っているような気になっていた私の胸はチリリと焦げるように痛んだ。

『うん。タバコ嫌い?』
『髪の毛に匂いついちゃうし苦手かなー』
『じゃあ、こっちなら?』

 そう言って今度は電子タバコを持って私に見せてきた。
 どちらもあんまり変わりない気がするけれど、電子タバコを私の周りで吸っている人がいないからどれくらい匂いがするのかわからない。

『まあ、そっちならいいよ』

 匂いがついたからなんだと思った私は首を縦に振った。
 すると、斗真は『じゃあ、外の喫煙所まで行こ』とお酒でほんのりと赤くなった頬を緩ませた。

『さむっ』

 二人で外に出ると、店内で火照った身体を12月の夜風が容赦なく冷やしてくる。

『確かに思ってたよりも寒いな。沙羅、俺のアウター着る?』
『いや、ジャンパーにジャンパーなんて重ね着したらとんでもないことになるって』
『あはは、アニメのキャラみたいになりそうだな』
『でしょ?』

 私と斗真の陽気な笑い声が冷たい夜に響いて空気の中に溶けて消えていく。
 なんで斗真は私を連れ出したんだろう。まだ店内にはみんないるのに。
 そんな疑問を抱いているとはつゆ知らず、彼は慣れた手つきで電子タバコを吸って、ふぅと吐いた。
 不健康な香ばしい匂いが鼻を掠めると同時に吐き出された煙がゆらり、と漂って静かに空気に溶け込んで消える。
 それがいい香りなわけもなく、いつもならただただ不快になる匂いなはずなのに今は何とも思わない。それはきっと相手が君だからだ。
 お店を出てすぐにあった椅子に座ってタバコを吸っている彼を無意識のうちに見つめていると、その綺麗な瞳とばちんと目が合った。

『俺さ、今日沙羅がいるって聞いたから来たんだよね』
『え?』

 思わぬ言葉に私の口から驚きの声が洩れた。
 じゃあ、もし私が今日行かないと言っていたなら斗真は出席しなかったんだろうか。今の言葉を聞くとそう思ってしまっても仕方ないと思う。

『沙羅が来なかったら俺、今日来てないよ』

 私の疑問を見透かしたようにそう言いながら優しく目を細めた。
 それは、一体どういう意味なんだろう。私の心を試しているの?

『なんで……?別に私がいなくても仲がいい子も来てるじゃん』
『俺は沙羅に会いたかったから。沙羅に会えて嬉しいけどちょっと可愛すぎて今もドキドキしてる』

 ほら、と私の手を取って自分の心臓の方に持っていき、そのまま私の手のひらを当てた。
 布越しでもわかるほど、せわしなく音を立てている鼓動は彼が今言ったようにドキドキしていることを教えてくれる。
 どうして。どうしてそんなにドキドキしてるの?
 私のことなんて忘れてくれていいのに。どうせ、この恋は叶わないんだから。
 今、この心のストッパーを外してしまえば私はまた傷つくことになる。

『……こんなドキドキしてたら彼女に怒られるよ』

 私は笑顔と呼べるかどうかもわからない表情を浮かべながら視線を足元に落とした。

―――彼にはもうすでに相手がいる。

 SNSを通して君に彼女ができたと知ったとき、私がどんな気持ちだったか知らないでしょ?
 中学生の頃、君に恋していた時に聞いていた曲の数々を未だに覚えているくらい私の中で君は特別で。
 君はモテる人だから高校生になって彼女ができないわけがないのもわかっていたから覚悟していたつもりだった。
 それでもショックでしばらくSNSが見れなかったんだよ。その彼女と今でも付き合っていることも知っている。
 だから、わたしの恋はあの日に捨てたはずだった。心の奥に眠らせて二度と起きないようにしていたはずだったのに。
 どうして、どうしてそんな目で私を見つめるの?

『彼女なー、好きとか思わないからもう別れたいんだよな。彼女と別れたら俺と付き合ってくれる?』
『なにそれ。期待しちゃうから別れてから言ってくれるー?』
『んー、期待してもいいよ。俺、沙羅と付き合いたいし』

 熱を持った瞳が私をじっと見つめる。見ていられなくなった私はふいっと視線を逸らした。
 本当は、彼女と別れたいと思っているけど中々別れてくれないこと、彼女と高校の時から付き合って別れてを繰り返していることも人づてに聞いて知っていた。だからこそ、その言葉が嘘ではないと信じてしまいたくなるのだ。

『私、単純だから信じちゃうし好きになっちゃうからやめて』
『好きになっていいよ』

 斗真は電子タバコを吸っていたはずなのにいつの間にか吸い終えていて、私の冷えた手を彼の大きな手が包み込んだ。
 瞬間、私の中で理性が音を立てて崩れていく。
 ダメだって、今すぐ振りほどかなきゃって、頭の中ではわかっているのに身体が動かなかった。
 恐怖でとかじゃない、私の本能がそうしたいと言っている。
 本当に別れてくれるかもしれない。私のことを好きになってくれたのかもしれない。
 そんな都合のいい解釈をしてしまう私は正真正銘のバカだ。
―――たとえ傷ついたとしても、今はこの手を取りたい。
 そう思ってしまったのだから仕方ない。これが罪になるとわかっていても。

『解散したらまた会いたい』
『うん』

 きっとそれが合意の有無だったのかもしれない。
 私たちは店に戻り、飲み会がお開きになった後に二人でこっそり合致した。
 色とりどりの光を放つネオンの街を、手を絡めてゆっくりと歩く。
 まさかこんなことになるなんて思ってもなかった。引き返すなら今しかない。
 でも、私はどうしてもこの手を振りほどくことができなかった。
 しばらく歩いて適当に入ったホテルは最近リニューアルオープンしたばかりらしくとても綺麗だった。

『俺、こういうところ来るの初めてなんだよね』
『え、そうなの?』
『うん。てことは沙羅は来たことあるの?』
『まあ、そりゃあ彼氏いたし』

 斗真よりは好きじゃなかったけど、ちゃんと好きだった人。

『ふーん。なんか妬ける』
『なにそれ』

 可愛いな、なんて思ってしまうのはきっと私が君を好きだからだ。
 恋の魔法にかけられた私はもう君しか見えない。
 他のことなんて何も考えられないほどに。君も私と同じならいいな、なんてね。

『沙羅、会いたかった』

 そう言って私をぎゅっと強く抱きしめた斗真。
 その温もりに、私の鼻を擽る柔軟剤の匂いに、なんだか泣きそうになってくる。

『私も会いたかった』
『素直で可愛いじゃん』
『だってほんとだもん』
『あー、まじで心臓の音がやばい。破裂しそう』

 照れたように私から視線を逸らしながら手の甲で口許を隠す。
 胸に耳を当てるとその鼓動は規則正しいリズムではなく、ドッドッドッと激しく叩くドラムみたいに大きな音を立てていた。
 その音を聴いていると本当に彼女と別れてくれるかもしれない。私をもう一度彼女にしてくれるかもしれない。
 なんて単純すぎる考えが脳裏をよぎる。
 私がそっと瞼を閉じると柔らかいものが唇に触れ、そのまま甘く幸せな夜へと落ちていった―――。

『じゃあね』
 あの夜の別れ際はそんな言葉を交わした気がする。
 ゆっくりと明けていく夜の中で私の育てすぎた恋はあっけなく散っていった。
 小さくなっていく背中に縋りつくことができたなら、どれだけよかったのだろう。
 あの日の夜からしばらくして斗真からの連絡が途絶えた。SNSで彼女と微笑み合っている投稿がスマホの画面に表示されていることが、彼女と別れていないことを物語っていた。
 最初から弄ぶつもりだったのか、別れられなかったのかは知らない。
 だけど、私は君と運命だと、私にはこの人しかいないと本気でそう思っていた。
 自分の全細胞が君のすべてを好きだと言っていた。
 たとえ、他の誰かのものだとしても私は君がどうしようもなく好きだった。
 それでも、現実はあまりにも残酷で。
 ハッピーエンドを迎えられると思っていたのは私だけだった。
 私に幸せな甘い爪痕と消えることのない深い傷を残して君はいなくなってしまった。
 ねえ、どうして君は私に言い寄ってきたの。こんなに好きにさせたくせになかったことになんてしないでよ。
 期待していいよ、好きになっていいよ、信じていいよ。
 全部、君だったからもう一回信じたのに簡単に泡になって消えていく。
 わたしに向けてくれた笑顔も、抱きしめたときに早鐘を打つ鼓動の音も、真っ直ぐで甘い言葉も、重ね合わせた唇も、手のひらの温度も、全部嘘だったのかな。
 耳元から流れてくる失恋ソングの歌詞が痛いほど胸に刺さって、視界が滲んでどうしようもないほど泣いた。
 泣いても泣いても胸の痛みは、勝手に終わらせられた恋の痛みは、消えてはくれなかった。
 君はあの時、私のことをどう思ってた? 君の中で私は傷つけてもいいような存在だった? もう二度と会わないってそう思ったの? 聞きたいことは山ほどあるのにどれも君には届かないなんて。
 私は君と過ごした日々に囚われて、君の面影を探して、君の言葉も、声も、仕草も、忘れられなくてこんなにも苦しんで泣いているのに君は全部忘れて何にもなかったような顔をしてあの子の手を繋いでぎゅっと抱きしめるのだろう。
 私にしていたみたいに。
 それが、心臓が握りつぶされてしまいそうなくらい辛くて痛かった。
 人の物に手を出したのは、私だ。
 自業自得だと言われるかもしれないけれど、好きな人の言葉を信じていたかったんだ。
 今は食事が喉を通らなくても、何もする気にならなくても、私はこれからも自分の人生を歩んでいく。
 でも、心にぽっかりと開いた穴は時が経つにつれて小さくはなっても完全に塞がりはしない。
 例えるなら、君と一緒にいる世界は色とりどりのカラフルな世界なのに、君一人がいなくなってしまっただけで何の色もないモノクロの世界を生きているみたいに感じてしまう。生きていても楽しくない生き地獄みたいな世界を彷徨うのだ。きっとその人がいないと楽しくないから幸せを感じられないから一緒にいたくて離したくなかったんだと思う。
 私にとって、君という人はそういう大きな存在だったということ。

 ”バカ、クズ。女の子のこと平気で傷つけられるようなやつになってるなんて残念だよ、弄ぶなんて人として終わってる”

 なんて、思いつくだけの悪口をいくら言ってみたって嫌いになんてなれなかった。
 どれだけ心の中で恨んだって結局“それでも好きだった”って庇っちゃうなんて私が一番バカなんだと思う。
 私がタバコは髪の毛に匂いがつくから苦手だって言ったら君は電子タバコしか私の前で吸わなかった。
 その優しさが好きだった。
 焦げたような独特の香りがする電子タバコの匂いを初めて知ったあの夜。
 タバコは苦手だったのに、君の吸うタバコの銘柄も覚えちゃったし、吸ってる姿も頭にこびりついて消えてくれない。
 煙みたいに消せたら楽なのに。やっぱり、タバコなんて大嫌い。
 見るたびに、匂いを感じるたびに君を思い出しちゃうから。

 結局、重ねることができたのは身体だけで心を重ね合わせることはできずに私の心だけが置いてけぼりになってしまった。
 こんなにも失恋ソングが身に染みるのは人生で初めてだった。今ではたった一文の歌詞ですら君を思い出す材料になってしまう。
 私はきっとあの夜のことを本当の意味で忘れる日なんて来ないだろう。

 私を選ばなかったことを後悔すればいいと思う。
 でも、本音を言えば、私を選んでほしかった。

*

*

「沙羅を傷つけたアイツは地獄に堕ちればいいと思う」

 眉間に皺を寄せて怖い顔を浮かべながらダン!と豪快にジョッキグラスをテーブルに置いたモカ。

「あはは、あの時まじで私病んでたもんね」

 そんなモカとは反対に私は軽快に笑って返す。

「アイツだけは来世まで呪お」
「モカってば、怖いって」

 傷ついてボロボロになって泣いていたのも一年前の話。
 今はあの時のことを笑って話せるくらいになった。
 傷ついた恋は時間が忘れさせてくれるっていうのはあながち間違いじゃないのかもしれない。

「だって私の大事な沙羅をあんなに悲しませるなんて許せるわけないじゃん」
「ありがとう、モカがいてくれてほんとによかった」
「恋に終わりはあっても私たちの友情は永遠だからね!」

 こうして寄り添ってくれる友達の存在にも救われた。
 いつかきっとふとしたときに君と過ごした夜を思い出すこともあるだろう。
 それでも、もう私は泣かない。ただ、こんなこともあったなって懐かしく思うだけ。
 あの夜、私に甘い言葉を吐いていた彼は死んだと思うことにした。死んだ人間には会えないし。だからもうあの日の君に会うことは二度とない。
 あの時は傷ついて苦しくて、生きているのもしんどかったけれど、今は君のことを思い出すことももったいないと思うくらい私は楽しく笑って生きている。
 きっと私が終わった恋を手放して、自分が幸せになるために、大切にしてもらえる相手を見つけるために次へと歩み始めることができている証だ。
 失恋して傷ついて、苦しくて、どうしようもない時は落ちるところまで落ちてしまえばいい。病めるだけ病めばいい。
 そうしたらいつか、少しは上を向けるはずだから。
 私はあの夜の自分の行動を正当化するつもりはないけど、相手が君じゃなかったらあんなことはしてないよ。
 でも、君だったから。
 君のことが死ぬほど好きだった―――だから罪を犯したの。

 ふと、どこかから不健康な香ばしい匂いがした。
 だけど、君の面影を探す私はもうここにはいない。
 私は君以上に幸せになるから君もどこかで幸せでいてね。

Fin.