全てのことが片付いてから、レオンとギルバートは二人で話をしていた。

「しかし問題は残っているよな。魔法が使えるようになったからといって、『令嬢騎士物語』がある限りリヒトの評価を覆すのは難しい」
 レオンは顔を顰めた。

「……悪かった。あの時はああするのが、『正解』だったと思っていたんだ」
「あの場合の行動としては、お前の判断は間違ってはいなかったと思うから気にするなよ。まあ、大丈夫だろ。ようは黒を白に変えればいいだけのこと」
「何か算段はあるのか?」

 レオンの問いに、ギルバートは歯を見せて笑った。

「ああ。とっておきのが一つある」

◇◆◇

 穏やかな春の風が吹いていた。
 ユーリは木陰に座り込んで、一人空を流れる雲を眺めていた。

「ユーリ。何をしているんですか?」
 ベアトリーチェはそう尋ねると、了解も得ずにユーリの隣に座った。

「……ビーチェ。アカリ様はもういいのか?」
「はい。もう容態は安定しました。後はお目覚めになるのを待つだけだけです。……ユーリ? 何故そう不満そうな顔をしているのですか?」

 アカリの無事を聞いて表情を明るくしたものの、徐々に顔を曇らせたユーリに、ベアトリーチェは尋ねた。

 『光の聖女』であるアカリのおかげで、リヒトは魔力を取り戻した。
 その力はローズと同等であることがわかり、『五人の選択』もあって、リカルドは正式にリヒトを次期国王として認めた。
 しかし、当のアカリは魔力の使いすぎで倒れてしまい、ローズは彼女に尽きっきりで看病することとなった。
 そしてベアトリーチェは、彼が薬を専門にしていたこともあり、ローズが無理をしないよう側について、一睡もせず光魔法を使っていたローズのために薬を処方していた。

「……だって、十年前に戻ってやり直そうと思っても、千年以上も昔のことじゃどうしようもないじゃないか」
「貴方がそう思うのも仕方が無いかもしれませんが……ただリヒト様は、これからが大変かもしれませんよ」
「え?」

「魔力が戻ったのは良いとして、『光の王』の臣下だった彼が『精霊病』や『魔王』を作り出したのには変わらない。幸い私が特効薬を完成させたとはいえ、その出来事は私たちの記憶に新しい。もしかしたらその罪を、リヒト様は今後問われることになるかもしれない」
 ベアトリーチェは静かに目を伏せた。

 所詮前世の記憶なんて、無い方が楽に生きられる。
 遠い日の、前世の罪の贖罪を、生まれ変わってまで行うなんて、あまりにも窮屈な人生だ。
 だが人が人である限り、大切な人を奪われた人間がこの世界に生きている限り、『光の王』を恨んでしまう人間がゼロだとはベアトリーチェは言えなかった。
 『光の王の死(はじまり)』に悪意なんてなくても、喪失は時に人を歪め、原因となった相手を責め立てる。
 理屈ではないのだ。人の心は難しい。

「幸い、今のリヒト様には支えてくれる者たちがいる。学院を作ったとされる『三人の王』――『大陸の王』や『海の皇女』の国は、国の規模が大きかったのもあり被害も一番大きかった。ただその二人が、これからの世界を担う人材となるなら、リヒト様の研究も評価され、今後は多くの人と協力し、守られながら進められていくかもしれない」

 精霊病の原因を作った――その罪を問われれば、今のクリスタロスでは、リヒトを守れないかもしれない。
 たとえそれが千年前の出来事であったとしても、その事実が明らかになったとき人がどうとらえるかは、ベアトリーチェにもまだわからなかった。
 けれど、今のリヒトは一人じゃない。ベアトリーチェはそうも思った。

 リヒトには、彼を信じている『大陸の王(ロイ)』がいる。
 それに、魔法をうまく扱えない苦しさを知る『海の皇女(ロゼリア)』も。
 そして『光の王(リヒト)』を守りたいと願う『賢王《レオン》』も。
 ならばその責任や重圧を、リヒトだけが背負うことはい。
 『光の王』の記憶や記録が、彼の最期の願いのために消されたとしても、『祭典』が千年経っても残っているのは、彼が周囲から愛された存在だったという証のようにも、今のベアトリーチェには思えた。

「元々『大陸の王』は、リヒト様の才能を評価していたようですし。リヒト様は周りから嫌われているワケではありませんし。そうでしょう? ユーリ、貴方だって」

 『古代魔法の復元』――リヒトが短期間でそれをなし得たのは、元々『光の王』が作ったものだからというものあるだろうが、ある意味クリスタロスには、そのための書物があり、同時にその本を探すことが容易だったからこそ成し得たことだったのだ。
 『光の王』の遺産――それが結果として、今の『リヒト・クリスタロス』が、『光の王』と同じ魔法を作り出すための、最短の道を選ばせた。

 そうでなければ、いくらリヒトがたとえ優秀だとしても、今の人生では魔法が禄に使えない中、古代魔法の復元に成功するはずがなかった。

 ある意味それは、『光の王(かつてのリヒト)』が『リヒト・クリスタロス(いまのリヒト)』に与えた光そのものだ。
 そしてその魔法は、そもそも『ユーリ《かつてのじぶん》』のために作られたものだったことを、今のユーリは知っている。

「……それは、俺だって……」
 ユーリは否定出来なかった。
 リヒトは昔とは変わったと否定しようといても、嫌おうとしても――ユーリには結局、リヒトを嫌うことは出来なかった。
 言い淀むユーリを見て、ベアトリーチェは小さく笑った。

「きっと私や貴方、彼女たちは、これまでいろんな形で出会っていたんでしょうね。命を、時を、巡りながら。時には結婚して、子どもを設けたこともあるかもしれない」

 おそらく、『ローズ・レイバルト』の相手はユーリだ。
 ベアトリーチェには、確信めいたものがあった。
 説明なんて出来ない。でも、そう思わずにはいられなかった。
 今のユーリの魂を継ぐ存在が、確かに『あのユーリ』であったなら――きっと大切な人を失い傷付いたローズ・レイバルトを、支えようとした可能性は高い。
 その心こそが、ユーリの魂に強い風属性の適性を与えたのだろう。
 そうして、今度はきっと。
 ローズだけではない。自分とミリア(じぶんたち)の幸せを願う心が、ユーリを本当の『騎士団長』に相応しい、光魔法を与えてくれる。

 その力を得ることでやっと、ユーリは『ベアトリーチェに指名された』騎士団長ではなくなる。
 誰もから認められる、信を置かれる存在となる。
 それは彼の優しさが、彼に与える新しい力。
 彼がずっと望んできた、仲間からの――他者からの信頼だ。

「ユーリ。私は、人と人の結びつきというのはきっと、そういうものだとどこかで思っているのです。肉体は、ただの器でしかない。大事なのはきっと、魂や、心と呼ばれるもの。では私たちの心は、一体誰が決めるのか。生来のものはあるかもしれない。けれどきっと人は、生まれ育った環境で変化する。何を見て、何を選び、何を知り、何を学ぶのか。人は、言葉には出来ない沢山のものの積み重ねで、『今の自分』を作る。それは風景でもまた、同じように」
 
 ベアトリーチェはそう言うと、どこからか飛んできた一枚の赤い花びらに手を伸ばした。
 
「春に咲く花を憂い、夏にはあらゆるものを輝かせる日の光に目を細める。秋には沈みゆく夕焼けに胸をおさえ、冬には儚く消える雪に、『時』を想う」
「夏、秋……?」
「ええ。この国には、春と冬しかない」

 花びらは、ベアトリーチェの手のひらの上でとまる。
 彼がその花びらを、自分の物にするのは簡単だった。手を握り、花びらを閉じ込めさえすれば、花はどこにも行けやしないのだから。
 だがベアトリーチェは、その花びらを綺麗だとは思ったけれど、手に力を込めることはなかった。

「移り変わる四つの季節、魔法の有り無し。発達した技術だけではない。アカリ様の世界とこの世界とでは、違うことが山ほどある。言葉を紡ぐ。誰かに伝える。きっとそういう感性を宿す心でさえも、人は自分が生まれた世界や、育った環境の影響を受ける。だからこそ違う世界を、自らが与えられた世界だと、自分が生きるべき世界だと、簡単に思うことは難しい。ましてそれが、『架空の物語』だったと思っていたのなら尚更」

 その時、少しだけ強い風が吹き、ベアトリーチェの手のひらにあった花びらは、風に浚われて空高く飛んでいった。
 ベアトリーチェは少し名残惜しそうに手を眺めたが、自分の手を離れた花びらには、手を伸ばすことはなかった。

「でも、それでも……今の自分が在る場所を、自分の居場所だと思うことが出来たなら――その時は彼女は本当の意味で、自分を許し、誰かの幸福を願える人になっているでしょう。そうしてきっとそうなれば、彼女は本当の意味で、『この世界の光の聖女』になれる」

 ローズの光の聖女になりたいと願った、今のアカリは完全に『光の聖女』になれたわけではない。
 『光の聖女』として、今の彼女の『祈り』は急ごしらえだ。

「人の心は目に見えない。けれどもし、魔法という形で心が人の目に映っても、目に見えるものばかりが、人のまこととは限らない。魔法は心から生まれる。経験も、感情も、出会いも。この世界に無駄なものなんて一つもない。貴方が居たから、今のローズ様が居る。私が居る。『貴方と出会えてよかった』『貴方が生まれて来てくれてよかった』たとえそれが、どんな繋がりであったとしても。――この出会いに、感謝している。私もローズ様も、同じ気持ちを、きっと貴方に抱いている」

 ベアトリーチェのその顔は、かつて彼の養父《ちち》であるレイゼルが、メイジスに向けた表情《もの》とどこか似ていた。
 誰か一人が欠けたとしても、この結末は存在し得ない。今のベアトリーチェは、そう信じたいと思った。
 
「ビーチェ……」
「思うに」
「?」
「今になって考えると、私は今の世界を生きるローズ様に、試練を与えるために産まれてきたのかもしれない」
「……つまり、どういうことだ?」
「私が居たからこそ、ローズ様は兄とレオン様を守るために今の自分を『作られた』。私は、本来彼女の代わりに二人の生命を維持するための『光の巫女』を殺すために産まれた」
「え……?」

「『国の未来を変える者』――この予言の本当の意味は、私がレオン様を説得するなどという行動よりは、『光の巫女』が私を生かすために、死ぬことに意味があったと考える方が、余程しっくりくるのです」

『貴方はいつか、この国を変える人になる。だから、貴方を生かすと決めたのです』

 今のベアトリーチェには、光の巫女はこの未来を知っていたように思えた。
 自分を殺すための子ども。
 そのための布石のような運命を与えられた子どもに、希望を与えるために彼女は真実を口にはしなかった。
 その言葉があったからこそ、ベアトリーチェは前を向けた。今日まで生きることができた。

 そしておそらく――彼女の息子であり光属性の適性者であるローゼンティッヒは、この事実を知っている。
 それでもずっと、ローゼンティッヒはベアトリーチェに対して優しかった。それがきっと、母の願いだと知っていたから。
 だとしたら自分がどうあるべきかは、どう生きるべきかは、ベアトリーチェはもう定められているような気がした。
 心臓は、とくとくと音をたてる。ベアトリーチェはそっと自分の胸に手を当てた。

 ――自分の中には、自分を生かしてくれた人たちがいる。

「『光の巫女』がいなかったからこそ、ローズ様は愛する人間の命を守ることになり、そんな彼女だからこそ、魔王を倒すという大役を担うことが出来た。リヒト様が彼女に贈られた指輪は、本来レオン様が継ぐべきもので、リヒト様は本来、兄の命が危うい時に、兄の婚約者候補に求婚するような方ではない。ローズ様が追い込まれていたからこそ、彼は彼女に指輪を贈った。だとしたら――私に課せられた一番の役目は、誰かの大切な人を死に追いやり、ローズ様とリヒト様の関係性を動かすことだったのかもしれない。……婚約も、何もかも」

 ベアトリーチェは唇を噛んだ。
 自分の人生は、まるでこの結末を導くための舞台装置だ。
 地属性の人間には、死が付きまとう。
 それでも、この世界に生を受けた自分が向けられた感情や言葉には、確かに意味があると、今のベアトリーチェは信じていた。

「そんな……」
 愕然とするユーリに、ベアトリーチェは笑って見せた。
「ユーリ。この世界は、『神様』は――きっと、優しいばかりではないのです」

 世界は不確かだ。
 もしこの世界で本当は、『結末《みらい》』が決まっていたとしても、人間である自分たちは、目の前の現実しか受け入れることしかできない。
 人は今を信じて前を向かなければ、前には進めない。
 希望を抱く。誰かを想う。そういうふうに『信じる』ことは、その上に成り立っている。
 『その先』にあるものを知らない自分たちだからこそ、許される特権だ。
 わからないから助け合う。わからないから結びつく。  
 人は一人では生きていけない。

 ベアトリーチェは空を仰いだ。
 あまりに大きな青い空。
 神々が住まうという至上の色を、空に焦がれる彼は鳥の名に与えた。そう選択した自分の心を、彼は今でも、鮮明に覚えている。
「でも。……でも、だからこそ」
 ベアトリーチェは顔を手で覆った。その手の間からは、一筋の涙が頬を滑って地面に落ちた。

「信じることは、美しい」
 


 アカリの容態が安定したことで、不眠不休で看病に当たっていたローズは、少しだけアカリの寝台に寄りかかるようにして仮眠をとっていた。
 ローズは目を覚ますと、穏やかな寝息を立てるアカリを見て安心して息を吐いた。
 少し風に当たりたくてローズが外に出ると、まぶしい日の光が彼女のことを待っていた。

「ローズ、少しいいか?」
 目を細めて空を仰いでいると、リヒトに声をかけられて、ローズは振り返った。

「その、俺は……前に一方的に婚約破棄したわけだし……こんなこと、本当は駄目だっわてわかってる。でも、今は……これを、受け取ってほしい」
 
 リヒトが差し出したのは、『四枚の葉』で作られた指輪だった。
「ありがとうございます」
 ローズはリヒトから指輪を受け取ると、その葉を一枚千切った。

「何でちぎるんだよ!!」
 リヒトは思わず突っ込んだ。
 『完璧でいい場面だった』と思ったはずなのに、自分のツッコミのせいでムードは台無しだ。
 リヒトは口を手で覆った。
 ――どうして自分はこういつも、かっこよく決められないんだろう?

 ガックリ肩を落とす。
 ローズを好きだという想いに向き合うことが出来ず、傷付けたという自負はある。それでも諦められい思いがあるから、勇気を出して指輪を贈ったというのに――やはり彼女は、自分のことを許してくれないんだろうか?

「リヒト様」
 落ち込んでいると名前を呼ばれて、リヒトは恐る恐る顔を上げた。

「この指輪は、リヒト様が下さった、この世界にたった一つしかないものです。――だから私は、この葉を貴方に贈りたい」
「?」

 ローズの言葉の意味が分からず、リヒトは首を傾げた。
 だがその時、彼はとあることを思い出して、リヒトは顔を真っ赤に染めた。

『なぞかけか?』
 思い出す。かつて彼女の問いに、自分はなんと答えたか。
『俺なら、一番好きなやつに贈るけど』

 四枚の葉をどうするのか。
 ベアトリーチェは昔、ローズに葉を与えて問うた。
 自分の幸運を分け与えて、相手の幸福を願う。四枚の葉は、それを誰かに与えたときに、特別なものではなくなってしまう。
 かつてのローズは、誰か一人を選べなかった。

 でも、今は。
 ローズは、ただ一人を選ぶ。

「……っ!」
 リヒトはローズから渡された葉を抱いて、震える声で彼女の名前を呼んだ。

「……ローズ」
 リヒトの声に、ローズは今は穏やかな笑みを浮かべている。
「これからは、もう間違えないようにするから。これからは、ずっとそばにいるから。だから。……だから、俺と」
 リヒト、は大きく息を吸い込んで言った。

「俺と、結婚してほしい」

「――はい。リヒト様」
 ローズは三枚の葉の指輪をリヒトに手渡すと、彼に自分の手を差し出した。
 リヒトは指輪を受け取ると、ローズの指に指輪を通した。
 それはもし二人が今の立場で、リヒトが最初から今と同じ強い力をを持っていたとしたら、幼い頃にあったかもしれない出来事だった。
 でも同時に、『光の王』と『薔薇の騎士』としてでは、絶対に叶わなかったこと。
 だからこそ――野に咲く葉で作られた指輪が、ローズはこの世界のどんなものよりも、価値あるものに思えた。
 

 春の風が心地いい。
 リヒトと共に木陰で休んでいたローズは、リヒトから貰った指輪の葉を楽しそうに指でつつきながら言った。

「今の私はお兄様のことが大好きだったんですが、『ローズ・レイバルト(むかしのわたし)』は今ほどまでは兄を好きではなかったような気がするのです。『今のお兄様』は、『昔のリヒト様』にどこか似ています」

「?」
「お兄様が目覚めないと知ったときに感じた痛みは、かつて私が貴方を失ったときに感じたものに近かったのかもしれない」
「私はこれまで、あなたの影を、ずっと探していたのでしょうか……?」

『戻ってきてくださったのだと思うと嬉しくて』
『――お帰りをお待ちしておりました』

「……」
 兄にかけよる妹の図。
 それにしてはどこか近すぎる気もする二人の関係。
 でもそこに、『光の王(かつてのじぶん)』を重ねていたと言われては……。

「リヒト様」
「……ああ」
「好きです」
「えっ」
「大好きです」
「は!?」

 水属性と最も相性が良いのは水属性だと言われている。
 ローズはこれまで、誰かに好意を示したことは無い。彼女は人に優しくても、誰かの心を動かしても、彼女自身が誰かに惹かれているわけではない。
 そしてそれはリヒトに対しても、殆どそんなそぶりは見せてこなかった。

「リヒト様の心音は安心いたします。……貴方が本当に、ここに生きていらっしゃるのだと思えて」
「や、やめてくれっ!」

 リヒトは自分からローズを引きはがした。 
 ローズは切なげな瞳でリヒトを見つめる。

 ――その顔はやめろ! 
 リヒトの心臓は、はち切れそうなほど高鳴っていた。

「リヒト様……」

 『何故駄目なのですか?』
 赤い瞳がそう訴える。いつも強気な彼女が、潤んだ瞳で自分を見上げる。
 器を取り戻してから少し身長が伸びたせいで、リヒトにはローズが今は少し小さく見えた。赤い薔薇のように艶やかな、彼女の唇が目に入る。

「お願いだから……っ。これ以上、俺を煽るな」

 リヒトはたじろいだ。
 水属性の人間は好意を持った人間に積極的なはずなのに、ローズは水属性の割に冷静だと思っていたら、まさか自覚したとたんここまで素直になられると対処に困ってしまう。
 どうやら他人の好意に疎いだけでなく、自分の好意にも疎かったらしい。
 面倒なことこの上ない。
 堰き止められていた感情を一気に向けられて、リヒトは慌てふためいた。
 
 その時だった。
 涼やかなベアトリーチェの声が響いた。

「――随分と、仲がよろしいのですね?」
「ビーチェ様」
「げっ」
 リヒトは、ベアトリーチェの笑顔が少し怖くて、思わず後退った。

「……私でなかったら、王子とはいえ許されませんよ」
 リヒトのことで頭がいっぱいのローズは嬉しくてつい指輪を受け取ってしまったが、ベアトリーチェとの婚約がある今の状況で、その行為は本来許されることではない。
 ベアトリーチェの指摘にローズがリヒトから離れて下を向くと、ベアトリーチェはローズに優しげな笑みを浮かべた。

「ローズ様、よかったですね。これでやっと、貴方の願いは叶う。私は、貴方が私の幸福を願ってくださったように、あなたの幸福を願っております」
「……申し訳ございません」

 ベアトリーチェの言葉でそのことに気付いたローズは、思わずそう呟いていた。

「謝らないでください。それに、謝るのは私の方です。――すいません。私は、本当はずっとどこかで、貴方に嘘を吐いていました」
「え?」

 ベアトリーチェの言葉に、思わずローズは顔を上げて目を瞬かせた。
 ローズと視線が合うと、ベアトリーチェはいつものようににこりと笑った。

「私の初恋が叶わなかったから、私は貴方には、納得のいく選択をして欲しかった。自分を選んでほしいと思う一方で、貴方には私じゃない誰かを選んでほしいとも思っていました。貴方をずっと思う誰か、貴方が初恋だった誰かに。だから心のどこかで、貴方に対する私の言葉は、貴方を困らせるものだったのかもしれない。本当は、わかっていたんです。貴方から棘を奪って、ただの花にしてしまったら、それは『貴方』でなくなることと理解しながら、そうしなければ他の誰かに取られることを、私はどこかで怯えていた。そして『貴方を待つ』と言いながら、私はどこかで、貴方が違う誰かと結ばれることを望んでいた。だから私は嬉しい。貴方方二人が、貴方方の初恋が叶ったことが」

 ベアトリーチェの声は、とても嘘をついているようには二人には聞こえなかった。

「ベアトリーチェ……」
「お二人の結婚を、私は反対しません。それにお二人のように千年越しの初恋が実るなら、私も彼女を待ってみようかと思いまして」
「「え?」」

 ローズとリヒトは、ベアトリーチェの言葉に首を傾げた。

「あの光景を見た時。『精霊病』の話を聞いた時。婚約者である貴方が、危機に陥っていたというのに、私は彼女のことを考えてしまっていた。それがたとえ一瞬だとしても、私は、貴方を裏切った。……きっとこの心は、誰と結ばれても、彼女のことを忘れられない」

「ビーチェ様……」
「そんな顏、なさらないでください。それに、ローズ様。私はあの光景で――一瞬ですが、私に似た少年と彼女に似た少女を見たんです」
「それって……」

 ローズにはベアトリーチェが『彼女』と呼ぶ相手は、一人しか思いつかなかった。
 『ティア・アルフローレン』――それは精霊病によって亡くなった、ベアトリーチェの初恋の相手だ。

「ええ。偶然かもしれない。……でも、私は」
 ベアトリーチェは声を震わせて、そうして綺麗に笑った。

「それを、『嬉しい』と思ってしまったから」
 
「ビーチェ様……」

「貴方のことを、幸せにしたかった。それは本当です。貴方となら、自分は前に進めると、そう思う気持ちは今も変わらない。私の人生は長くて、彼女を待つ間、貴方と結婚しても、きっとなんの問題も生まれない。貴方となら私は、幸せな時間を過ごせる。貴方にもそう思ってもらえるよう、努力するつもりでした。――でも、その貴方が、本当に愛しく思う相手と結ばれるなら。私は、貴方を祝福します。だから」

 ベアトリーチェの手の上には、契約水晶が載せられていた。

「私は、貴方との婚約を破棄する!」
 ベアトリーチェの言葉と共に水晶は砕け粒子となり、それから花びらとなって空へと昇る。
 
 聞き覚えのある言葉。
 でもそれは、かつてのように自分を責める言葉ではなく、幸福を願う言葉のようにローズには思えた。
 ベアトリーチェの表情《かお》は晴れやかで、もうそこに、迷いは存在していなかった。

 彼は待つと決めたのだ。
 これから自分を残して、大切な人々が亡くなることを受け入れることを。そうして、その上で――初恋の少女を待つことを。
 たとえそのために永遠とも思える月日が、その心を苛んでも。
 待って、生きると決めたのだ。

「ローズ様。どうか、幸せになってください。私は、お二人の幸福を願っています」

 千年後にしか実らない恋だとするならば、彼がローズと数十年の人生をともにすることを誰も責めやしないだろう。
 けれどもう彼の瞳は、ローズの心が欲しいと言った、かつての彼のものとは違っていた。
 陽の光から人を守る、木陰を作る木の葉のような彼の新緑の瞳は、今はローズと、その後ろでどこかバツが悪そうにしているリヒトへと向けられている。

「――はい」
 二度目の婚約破棄を告げられたはずのローズは、優しい目で自分たちを見るベアトリーチェの言葉に、静かに首肯した。

「――リヒト様」
「ローズ様を、よろしくお願いします」
「……おう」
「本当ですか? 次泣かせたら、今度こそ他の人間は黙っていませんよ」
「?」
「ローズ様沢山の方から慕われていらっしゃる。正直な所を申し上げますと、婚約破棄の一件で、彼女に恥をかかせて心を傷付けた貴方の印象は、彼女の父からすると最悪だと思います。リヒト様から遠ざけるために、レオン様ではなく私を指名されたくらいですから」
「……」

「でも、これだけは忘れないでください。公爵令嬢として、ずっと誰かに求められる人間であろうとしてきた彼女が、父親の決めた相手を蹴ってまで選んだのは貴方だということを。貴方にどんな欠点があったとしても、これまで何があったとしても。彼女が未来を過ごしたいと思ったのはリヒト様、貴方だということを。魔法が使えても、使えなくても。どんな貴方だったとしても、彼女が貴方を信じ――誰より愛していらっしゃることを」

 ベアトリーチェはそう言うと、リヒトを見上げて微笑んだ。

「どうかその心に、留めておいてください」
「……ああ、わかっている。だから、もう」
 リヒトは手を握りしめた。
「ローズを一人にはしない」
「その言葉を聞いて安心いたしました。――では、私はこれで」

 ベアトリーチェは安堵したかのように微笑むと、静かにその場を去った。
 二人っきりになったリヒトは、ローズに口付けようとして全力で拒まれた。

「な、な、ななな……っ! 何をなさるおつもりですかっ!」
 ローズの顔は真っ赤だった。

「なんで拒むんだよ!? 今のはそう言う雰囲気だっただろ!」
「だ、駄目です。手や髪や瞼と唇では意味が違うのです。時と場合と立場を考えてください」

 心音を聞くのは良くて、キスは駄目な理由がリヒトにはわからない。

「は!? 瞼ってなんだよ。それ俺は知らないぞ!?」
「知らなくて当然です。誰にも言っていませんから」
 ユーリとのことは口外していなかったのに、ついローズは口を滑らせていた。
「はあ!? ローズ! お前、まさかやっぱり女性と関係が……」
「だから、なぜそうなるのです!? 私がお慕いしているのは、ずっとリヒト様ただお一人です!」

 失言だった。
 沈黙の後、ローズはしどろもどろになりながら言った。

「………………い、今のは、今のは聞かなかったことにしてください」
「それは無理な注文だ」
 ふわりと笑う、大人の笑み。
 それは今世のリヒトというよりも、かつての彼《おう》のそれと似ていた。

「愛している。俺の――薔薇の騎士」

 その言葉はきっと、遠い日の彼が、彼女に伝えられなかった言葉。
 誰かが彼女に触れた場所に自分を上書きするように、リヒトはローズに口付けた。
 ローズは目を瞑った。
 触れる温度も何もかもが、嬉しくて、愛しくてたまらない。自分の心は、こんなにも彼が好きだと叫んでいる。
 ――この人には、敵わない。

「これで、全部か?」
「あとは手のひらと手首ですね」
「……ローズ…………」
「はい?」
「いくらなんでも無防備すぎるだろう。どこまで許しているんだ」
「別に許しているわけでは……」

 ローズはボソリ呟いた。
 そう。別に、許しているわけではないのだ。いつも知らないうちに、身動きをとれなくされているのは否めないが……。
 
「もう面倒だから、お前ははやく俺と結婚してくれ。頭痛がする……」
 想い人が人から好かれるのは、それだけ相手が魅力的だということだろうが、そのせいで誰かに奪われるのだけは絶対に嫌だ。
 リヒトの言葉はそう思ってのことだったが、言い方がまずかった。

「面倒だなんて失礼な。リヒト様にとって私は、面倒な女なのですね」
「えっ。いや、ちが」

 不機嫌そうな声がローズから返ってきて、リヒトは慌てた。
 まずい怒らせた。どうやら自分は、また失言してまったらしい。
 ぷんすか怒る彼女は昔よく見ていた気もしたが、今の彼女の怒り方はなんだかリヒトには可愛く見えた。欲目だろうか……ではなく。

「ごめん。違うんだ。そう言う意味じゃなくて……だから、その。ローズは俺のだって、他の奴らに知らしめないと、今のままじゃ俺が安心できないんだよ」
「リヒト様……」
「だから、俺が言いたいのは……」

 『俺がローズを好きだってことで』――リヒトはそう続けようとしたが、予想外の言葉が返ってきてリヒトは目を瞬かせた。

「わかりました。お父様も、早く孫の顔が見たいと仰っていましたし、すぐに了承してくださることでしょう」
「……待て、ローズ。お前、意味わかって言ってるか?」

 何故今子どもの話になるんだとリヒトは頭を抱えた。

「ええ。結婚した夫婦の間には、コウノトリという鳥が子どもを運んでくるのでしょう?」
「…………頭痛が悪化しそうだ……」
「嘘です」

 困惑を隠せずにいるリヒトを見て、ローズはくすりと笑った。

「医学・薬学を学んでいた私が、知らない筈がないでしょう?」
「私も、早く貴方と血の繋がった子どもが欲しいなと思っただけです」

 そして、その子どもがこの国を守ってくれる。
 それはなんて幸せな未来だろう? ローズの中での幸福はイコール国の幸福だったせいで、発想がやや斜め上だった。
 リヒトの顔は真っ赤だった。

「……どうかされたのですか?」

 ローズ自身もそうだったが、アカリが見せた自分の前世に影響を受けていたのは、リヒトも同じだ。
 恋心を自覚する。それと同時かつて叶わなかった想いの、彼女への愛しさがこみあげてくる。
 剣《こころ》を贈り指輪《あい》は贈れなかった、自分の感情を思い出す。
 千年越しの初恋が実ったのだと実感して、心臓の鼓動がおかしい。

「ローズ。俺はさ……うわっ!」
 リヒトは立ち上がろうとして、何もないところで躓いた。
 リヒトはローズにぶつかりそうになるのを避けようとしたが、逆にその手をローズに捕まれた。

「リヒト様!」
 二人はそのまま地面を転がった。幸い体の痛みはない。
 地面が柔らかくてよかったと思い、リヒトが立ち上がろうとしたのもつかの間。

「わ、わるい。だいじょう――」

 今の自分たちの状態に気付いて、リヒトは言葉をつまらせた。
 ――これでは俺が、ローズを押し倒したみたいじゃないか!
 『あの日』と立ち位置が逆だ。リヒトは顔には出さないよう努力しながら、内心パニックに陥っていた。

「リヒト……様……」
 ローズの赤い唇が、自分の名を呼ぶ。
 その瞬間、リヒトの中で感情が溢れるのを感じた。
 とどめていたはずの思いが、封じこめてていたはずの思いが、まるで濁流のように押し寄せて、自分の心を満たしていく。

 ――好きだ。好きだ、好きだ。ずっと、遠い昔から。この魂は、ずっと彼女だけを。

 今のリヒトのように、『光の王』も国を愛していた。だから『薔薇の騎士(かのじょ)』の手をとれなかった。
 でも千年の時をかけ、彼女は自分のところに来てくれた。自分のために――そのことが、リヒトはたまらなく嬉しかった。
 そしてそれがどんなにつらい道だとしても、前に進もうとする強い意志を感じる瞳だけは、彼女は昔から変わらないように思えた。

 ――ああそうか。こんな彼女だから、自分は彼女に惹かれたのかもしれない。

 『自分の意志を持つ』
 そして自分の人生を『選択』すること。
 それこそが幸せなのだと語った初恋の相手は、生まれ変わっても消えない光を瞳に宿しているようにリヒトには思えた。
 ただリヒトにとっての問題は、過去と今の自分たちの関係が逆転していることだ。
 だからこそこれからは、誰かのためでなく自分のために、今度は自分が頑張る番なのだとリヒトは思った。


 ――強くなりたい。誰かに認められたいからじゃない。祝福されたいからじゃない。ただ彼女の側に在ることを、愛する人と共に生きることを、自分自身が、恥じなくていいように。
 

「ローズ……」
 リヒトは目を瞑り、口づけ――ようとして。

「仲直りはしたか?」
 ギルバートに阻まれた。

「……………ギル兄上……」
「恨みがましそうな目で見るなよ」
「何故邪魔をするんですか!!!」
「妹を結婚前に傷物にされそうだったから助けたまでだ。流石に未来の弟でも、結婚前に手をだされるのは兄として見過ごせないからな」
 
「し……しませんよ。そんなこと」
「大丈夫だ。心配しなくても、ローズはお前しか選ばない」
「言っただろ? 『弟みたいなものだしな』って」
「え? まさか、最初から……?」
「……さあ? どうだろうな?」
「結末は見えても途中は見えないってこと、直感ではよくあることだろ?」
「ありませんけど!?」

 リヒトはその時、とある琴に気が付いた。
 アカリの見せた光景通りギルバートが『先見の神子』の転生者であるなら、その潜在能力は普通ではないのかもしれない。
 歴史の中で、最も多くの未来、先の未来を予言した人物。
 それが、『先見の神子』の伝承だ。
 『神子』は歴史の中に現れては、未来視をして他人を救い、いずれも力の使い過ぎで早世している。彼の能力は諸刃の剣なのだ。

 ――だったら、もしかしてあの包帯の下は……。

「本当は、ギル兄上は……」
 リヒトが泣きそうな顔をしてギルバートを見つめれば、ギルバートはいつものように軽い口調で言った。
「気にするな。これは俺の意志で、俺が俺の願いのためにやったことだ。お前が気に病むことじゃない。それにほら、昔からよく言うだろ?」

「『終わり良ければ全て良し』」
「良くありません!」
 リヒトは思わず叫んでいた。

「大丈夫だ。それに幸い俺のこれについては、彼の薬が効くことがわかったんだ。これからは治療のためあまり魔法を使えないかもしれないが、それでも俺は後悔はしていない。それに『今回』は、自分が『先見の神子』だと明かさなかったぶん、前世《これまで》よりは体への負担はまだ少なくて済んでいる方なんだ」

「でも」
「だからそんな顔するなよ。俺はお前にそんな顔をさせたくて、こうしたんじゃないんだから。それなりには大変だったんだぞ? 目が覚めたらお前は婚約破棄してるし、五歳児みたいなこと言い出すし……。本当にお前には昔から、苦労ばかりさせられる」

 ギルバートは優しく笑ってリヒトの頭をぽんぽんと軽く叩いた。

「お前たちが、笑って過ごせる未来が一番だ。――ああ」
 ギルバートはそう言うと、何かに気付いたように空を見上げた。

「お兄様?」
「そろそろ、彼女が起きるな」
「え?」
「行くぞ。ローズ、リヒト」
「どこへ行くのですか?」
「決まっている。『光の聖女』のところへ」

 ギルバートはそう言うと、いつものようににっと笑った。

「ユーゴは彼女をこの世界に招いたのは自分だと言ったが、元々彼女は選ばれて、この世界に来た人間だ」



 アカリの部屋にローズが戻ると、ちょうどアカリが意識を取り戻したところだった。

「アカリ!」
「ローズ、さん……?」

 アカリは自分を心配そうに見つめるローズの名を口にした後に、その隣にいたリヒトの赤い瞳を見て微笑んだ。

「ありがとうございます。ローズさんが、私に魔法をかけてくれたんですよね?」
「礼を言われるほどのことではありません。それよりアカリ、貴方が目をさましてくれて本当に良かった。改めて、貴方に感謝を述べさせてください。――本当に、本当にありがとう」

 自分の手を握り、何度もそう繰り返すローズに、アカリは苦笑した。

「でもリヒト様は、赤よりも碧の瞳のほうが、リヒト様らしい気もします」
 金色の髪に赤い瞳。
 魔力を取り戻したリヒトの姿を見てアカリがそういえば、リヒトは少し小さな声で言った。

「……そのことについてなんだが、瞳の色は碧に戻すつもりだ。この赤い瞳のせいで、話しかけにくいと思われるのは嫌だから……」

 それは『光の王』が、かつてその魔法をつくりだした理由と同じだった。
 王族なのに気安い存在だと思われていいのか、とその場の誰もが思ったが、胸に手を当てて嬉しそうに微笑むリヒトには、誰も何も言わなかった。

「それに瞳の色が何色だって、俺自身は変わらないんだって、今はそう思えるから」
 自分への自信を口にするその赤い瞳には、柔らかく光が灯る。
「はい。リヒト様なら、きっと何色でもお似合いになりますよ」

 アカリは笑顔でそう言った。

「ただ、リヒト様はこれまでのことがあるので、瞳は赤いほうが正当性は示しやすいとは思います……」
 リヒトの瞳の色に対し肯定的なアカリとは違い、ローズは冷静な意見を述べた。

「そのことなんですが……あの、ローズさん」
「何でしょう? アカリ」
「私の名前で、発表してほしい小説があるんです。実はこっちの世界に来てから、ずっと書いていて……」

 アカリはそう言うと、寝台のそばに置かれていたチェストから、紙の束を取り出した。
 どうやらアカリが描いた小説らしい。
 ローズはそのタイトルを見て顔を顰めた。

「でもこれでは……貴方が」
 確かに『光の聖女』が書いたこの物語が発表されれば、リヒトの印象は大きく変わるだろう。
 けれど『ローズ・クロサイト』を『悪役』だとするこの物語は、きっと今度はアカリを貶めてしまうことになるのではとローズは思った。

「私のことは、気にしないでください」
「――でも」

 ローズはアカリの提案にすぐに頷くことは出来なかった。
 アカリのおかげで、リヒトは力を取り戻せたのだ。
 その恩だけじゃない。今のローズにとって、アカリもまたリヒトと同じ、守りたい大切な存在だった。
 アカリを――七瀬明を、『悪役』にすることなんて出来ない。
 駄目だと首を振るローズの手に、アカリは手を重ねて笑った。

「もしそうなったとしても……。ローズさんが信じてくれるなら、私は誰に『悪役《わるもの》』と罵られても構わない」
「アカリ……」
「だから大丈夫」
 アカリは綺麗に笑った。

「今のこの国には、物語が必要です。それこそ、あらゆる運命《けつまつ》を覆す物語が」

 そのためには、世の中の認識を変えるしかない。
 その力を持つのは、異世界から召喚されたアカリが書いた物語だけだ。
 婚約破棄も何もかも、発端は『光の聖女』が原因だという物語が発表されれば、きっとリヒトや、リヒトを選んだローズの評価も変わる。
 それは物語《アカリのことば》で、『正史《れきし》』を変えるということだ。

「いいえ、アカリ」
「ローズさん……?」
 この世界のために、一人罪を背負うと言ったアカリに、ローズは首を振って言った。

「私は、貴方を悪役になんてさせません。貴方も私にとって、大切な人です。私は貴方一人に、全てを背負わせたりなんてしない」

 その言葉は昔、『ローズ・レイバルト』が『光の王(リヒト)』のために口にした言葉と同じだった。
 けれど今の彼女の言葉は、他の誰のためでもなく――『七瀬明』のために、『ローズ・クロサイト』の心に生まれた決意の言葉だった。
 今のローズの瞳はリヒト越しではなく、確かにアカリの姿だけを映していた。

「それにこの話も、より多くの視点で書いたほうが、もっといいものになると思いませんか?」
「それは面白そうだな」
「お兄様?」
「提案なんだが、どうだ? この際みんなでこの話に、それぞれの視点を取り入れるっていうのは」
「なるほど。そういう話なら、僕も協力するよ」
「私も協力しましょう」
「ロイさん、レオンさん、ベアトリーチェさん……」

 アカリは自分を囲む人々を見渡して目を瞬かせた。
 かつて白い病室で、画面の向こう側に居た筈の住人たちは、今彼女にその手を差し出していた。
 この世界を生きる、一人の人間として。

「私も、貴方に協力します。……今は貴方のことを、認めていないわけではありません」
 それはかつて、彼女の存在を否定した相手でさえも。
 アカリはこの世界で、もう一人きりではなかった。

「素直じゃないなあ。ミリアは」
「煩いので、黙っていてくださいませんか? ギルバート様」
「えっと。あの、その……喧嘩はあまり……」

 自分のベッドの前で、ぎゃあぎゃあ騒ぐミリアとギルバートを前に、アカリは困惑して二人の顔を交互に見た。

「アカリ」
 そんなアカリの手を、ローズ包んだ。
「ローズさん」
 その時、公爵令嬢にしては硬い手に気が付いて、ローズらしくてアカリは思わず笑ってしまった。

 ローズと自分は違う。
 でも違うからこそ、出来ることがある。違うからこそ、世界は作られる。違うからこそ、変えていけると信じている。
 この世界を、みんなが笑える国に出来ると、そう信じている。
 だって魔法は心から生まれる。
 アカリはそう思い、ローズの瞳を見つめた。
 強い意志を宿す赤い瞳は、今のアカリには、赤い薔薇のようにも、美しい宝石のようにも見えた。

「沢山の人の話をまとめるのは、貴方一人で書いていたときより、ずっと大変かもしれません。それでもアカリ、この仕事を、貴方にお願いしても良いですか?」

「はい。私に、お任せください!」

 アカリは元気良く返事をして、心からの笑みを浮かべた。
 


◆解説◆
 この物語は、千年前ある少女によって書かれました。
 この本が出版された当時、『魔王』という存在を恐れていた人々は、この書物が果たして本当のことなのか、そして自分たちが信じていた『聖女』との乖離から、多くの批判があったそうです。
 五人の選択により王に選ばれた彼はクリスタロスの王となり、そして彼の魔法は、たくさんの人の協力を得た上で、人々の生活を豊かにする道具として開発は進みました。

 これにより、魔法というものは貴族が専有する力ではなくなり、王侯貴族の中には反発する声もあったと聞きます。

 果たして、魔法とはなんなのか。
 その力を誰もが使えることが、本当に正しいことなのか。
 力がどこから生まれることも知らず、便利な道具として受けいれる世がくれば、その時魔法と呼ばれるものは、人々が憧れるような特別な才能や夢物語のものでもなくなり、生活の風景の中に受け入れられる。
 異世界の記憶を持って生まれたある少年は、今のこの世界を見て、『魔法道具《これ》の仕組みは自分の世界の科学と似ている』と、そう口にしたそうです。
 異世界では、風属性を持たぬものも、契約獣を持たぬものも、等しく空を飛ぶことができる乗り物があるそうです。

 人々の叡智が、世界を変えた瞬間。
 私はそれこそ、魔法と呼ぶべきものであると感じます。

 しかしどんな思いも、優れた力も、それを誰かに分け与えた瞬間に、自分の手を離れ、多くのものに共有される世界となったとき、それは特別なものではなくなり、どこにでもある風景の一部として、私のたちの生活の中にあらわれる。
 彼がこの世界に届けた四枚の葉の価値を、今、人々は忘れてしまっているのかも知れない。

 与えられることが当たり前。
 それが生活の一部となったとき、魔法が平等であることを願うからこそ、安全性を保ち発展させるために、複製を封じる魔法や、魔法に開発者の名を刻むことも義務付けられるようになりました。
 それは、彼が――かの優しき王が、一人の青年が、かつて望んだ魔法のあり方とは違うかもしれない。
 けれどそれは人々の選択であり、それこそが、世界が常に人々によって成り立っている証だと私は思います。

 誰もが使える魔法道具を作った、彼の選択が間違いだったのか。
 彼の選択は、自らの地位を揺らがせるだけのものであったのか。
 その答えは、もしかしたら彼以外には、誰にも出すことなどできないのかもしれません。

 しかし、私はこう思います。
 彼が亡くなったとき、夢見草がその死を悼むように花を散らし、多くの人に死を悼まれたかの王は、どんな未来をも受け入れることのできる、寛容さを持った優しい王であったと。
 そして彼らの信じた可能性は、きっと世界の、そして人々の、可能性を広げるものであったと。
 長くなりましたが、最後にこの本の初版が出版された際、あとがきとして書かれていた文章を最後に紹介し、終わりとさせていたどきます。

 魔法は心から生まれる。
 その言葉を信じ行動し、物語を紡いだ彼女たちへ敬意を込めて。
 この物語がまた、彼らから遠い未来に生きる貴方にも、四枚の葉となって届きますように。

 ベアトリーチェ・ロッドが娘 セレーナ・ロッド



◆あとがき◆
 物語は祈りだ。
 だから私は物語を描《えが》く。
 俯く誰かが前を向けるように、私の言葉が、もう一度誰かが前に進む力になれると祈りを込めて。
 人はすれ違う。
 人は間違える。
 完全な人間など無く、誰も傷つけない人間なんていない。
 人は、誰もが傷を背負って生きる。
 宝石の産出国。美しい水晶の王国。
 この国の人々は、誰もが心に傷を負う。
 けれど水晶の内に生まれる傷が、光を浴びて虹色に輝くように、この国に生きる人々は、その傷を持つがゆえに輝きを放っている。
 魔法は心から生まれる。
 この言葉を、私はこの世界で初めて知った。
 この世界は、私の産まれた世界とは違うけれど。
 この世界と私の世界と、一体何の違いがあるだろう?
 世界に影響を与えるほどの力は、いつだって人の心から生まれる。
 今の私は、そう思う。
 だからこそ私は願う。
 貴方の心に魔法をかけたい。
 この物語を最後まで読んでくれた貴方に、私は『加護』を与えたい。
 この世界に生きる誰もが、自分の物語の主人公だから。
 どうか後悔のない物語を、貴方が歩めるように。
 この国を、この世界を生きる全ての人に

 どうか、光の祝福を。
                  了

『婚約破棄された悪役令嬢は今日から騎士になるそうです。』
七瀬明著
協力 ローズ・クロサイト
   リヒト・クリスタロス
   ユーリ・セルジェスカ
   ベアトリーチェ・ロッド
   レオン・クリスタロス
   ギルバート・クロサイト
   ミリア・アルグノーベン
   ………………………




――『『婚約破棄された悪役令嬢は今日から騎士になるそうです。』了――

■■■以降番外編です■■■