穏やかな風の吹く春の陽気が満ちる中、白銀の天龍は、翼を持つ生き物でありながら、大地を駆けて遊んでいた。
『最も高貴』。
そう呼ばれる生き物は、楽しそうに、目の前を飛ぶ蝶を追いかけている。
美しい春の風景。
しかしその背にのる青年は、慌てた様子で、天龍の背にしがみついて叫んでいた。
「待て。フィンゴット! 俺が乗っているときにそれはやめろ! 俺が落ちるっ!」
彼の悲痛な叫びなどお構いなしで、天龍は野原を駆けていく。
そして池を前に地面を強く蹴ると、天龍は青年を池に振り落とした。
「うわああああッ!!」
――悲鳴。
ばっしゃーん! という大きな水音ともに、盛大に池に落ちた青年は、咳き込みながら池の中から起き上がった。
「うえ……っ。水飲んだぞ……。ったくもう、何なんだよ。今日のあいつは……」
金色の髪に赤い瞳。
美しい外見をした青年の頭には、青緑色の蛙が乗っかっていた。
ゲコ、ゲコゲコ。ゲコゲコゲコゲコ。
蛙は青年の頭を蹴ると、ゲコ、という声と共に水の中に帰っていく。
「ふふふ……あはははっ! 相変わらず剣も魔法も、そして契約獣も、陛下は本当に自由ですなあ!」
すると、無様というに相応しいびしょ濡れの青年を見て、老年の騎士が豪快に笑った。
その声を皮切りに、どこからともなく笑い声が上がる。
青年は最初こそ不満顔だったが、自分の失態をきっかけに楽しそうに笑う人々に気付くと、一度きょとんとした表情《かお》をして、それからどこか満足げに、彼自身も微笑んだ。
その時、空からまるで彼らを優しく見守るように、どこからか薄紅色の花びらが降ってきて、青年は空を見上げた。
見れば空には、虹がかかっていた。
美しい、空の色。
神々が住まうという青い空――セレストブルーに架かる虹は、まるで天上と地上を繋ぐ、虹の橋のようだった。
それがまぶしくて、綺麗で。
青年が目を細めて虹に手を伸ばそうとすると、『何か』が彼の体を頭から飲み込んだ。
ぱくんちょ。
「……フィンゴット。助けてくれるのはいいが、頭から俺の体を噛むな」
自分を池に落とした本人に、引き上げるためにぱくりと体を口に含まれ、溜め息とともに彼は顔を顰めた。
池の水とは違う、服についた『それ』に触れれば、透明な糸がのびる。
「ああもう……。べちょべちょじゃないか……」
「――我が君。こんなところで遊んでいないで、政務をなさってください」
彼ががっくり肩を落としていると、小さな少年がハキハキとした声で言った。
「ユーゴ。いやこれはだな、別に遊んでいたわけじゃなくて、皆に騎乗の訓練を……」
「言い訳は結構です。その格好では、皆に示しがつきません。早急にお着替えください」
「……はい……」
『我が君』
子どもは青年をそう呼んだが、これではどちらが立場が上か分らない。
立ち上がろうとした青年は、足下に貯まっていた唾液で足を滑らせ、体に更に葉や泥を纏わせた。
ユーゴと呼ばれた少年は、その様子を見て深く溜め息を吐くと、青年に手を差し出した。
「我が君、参りましょう」
子どもは騎士たちに小さく頭を下げると、青年の手を引いて歩いた。
いつものように、強制的に執務室へと連行された青年の後ろ姿を見送りながら、騎士たちは話を続ける。
「宰相殿はリヒト様のせいか、日々お疲れのようですな」
「いやはや、『神の祝福を受けた子ども』――リヒト様が彼を迎えられた時は、どうなるかと思いましたが、今ではこうやって隣にいらっしゃるのが、当たり前に思えるのだから不思議なものです」
その声は、誰もがどこか楽しげだ。
「なんと申しますか、実に微笑ましい光景ですな。私の孫もちょうどあのくらいの背格好なので、ついつい彼を私は子ども扱いしてしまいがちなのですが、リヒト様が隣にいらっしゃると、彼がリヒト様より歳上だと感じるのですよ」
「確かに、そう私も感じます」
「昔から、祝福の子の忠誠を得る王は優れた王であるとされるが、彼がリヒト様を選ばれたのは、なんとも不思議としか言いようがありませんな」
「いやまあ、こう言う俺たちも、リヒト様に仕えているんだがな」
「違いない」
はははは、と笑い声が響く。
その国は一人の王を中心に、いつも笑い声に満ちていた。
◇
「うう。流石に疲れた……。大陸の王や海の皇女と、久しぶりに遊びたい」
漸く執務を終えた彼は、ペン置いて机にうつ伏せになった。
「我が君。言っておきますがあの方々は、貴方の遊び相手ではないのですよ」
「何を言うんだ! 学校を作ろうという俺の話に乗ってくれた二人とは、熱い友情で結ばれている!」
青年は拳を握って熱弁した。だが、ユーゴの反応は冷めていた。
「ですが我が君、貴方もあの御方方も、そうやすやすと、時間を取れる方ではないのはおわかりでしょう?」
「……」
「ロイ・グラナトゥム様もロゼリア・ディラン様も、立場あるお方です。貴方だって、それはわかって……」
いつものように『常識』を説く。
ユーゴの説教を黙って聞いていた青年は、ユーゴが席を外した途端、いいことを思いついたとばかりに瞳を輝かせ、勢いよく立ち上がった。
「よし。神殿に行こう!」
この世界にある各国の王都に存在する神殿には、共通点が一つある。
それは各国の神殿に一つずつある水晶が、現存する唯一の魔力をためおくことができる石であり、光魔法のみだがその石を使い魔法が使えることだ。
その石にはかつては空をも貫く巨大な水晶だったと言うまことしやかな話があり、事実各国にある水晶は元は一つの石である場合の性質である、「石を通して通信」が可能であり、石は光魔法での国の守護と通信に用いられている。
ただ、この「通信」機能は特定の国を指定できないず石を持つ全ての国に情報が伝わるため、この石の力は基本、有事の際にしか使われてこなかった。
「なあ二人とも、今度俺の国に来ないか?」
その石を使って、青年は「会いたい」二人と話すことにした。
『君……。突然連絡を寄越すものだから、神官たちが困っていたぞ。連絡するなとは言わないが、前もって教えておいてくれ』
『そうよ。全く、貴方って人は礼儀ってものを知らないんだから』
王城に居たところ、突然青年から連絡が入ったと伝達があり、慌てて神殿に赴いた二人の王は、石に映し出された満面の笑みを浮かべる青年を見て溜め息を吐いた。
「すまない。……でも、今俺はロイたちと話したいって思ったんだ」
素直に謝罪した青年の言葉を聞いて、ロイとロゼリアは「全く」と呟いて苦笑いした。
『まあいい。丁度俺も仕事は一段落はしたところだったんだ。それにしても……最も高貴な生き物とされる一族の生き残り――フィンゴットは君の話だと、随分自由な気性なんだな』
『ロイ、違うわ。彼が舐められているだけじゃないかしら』
「いや、そんなはずは……! あ、でも……実際に顔を舐められて転んだせいで、顔に葉がついたりしてこの間はとんでもないことに……」
『水晶』ごしのロゼリアの言葉に、青年の顔に焦りが宿る。
優秀なはずなのに、決してそうは見えない青年に、二人の王は『水晶』ごしに笑いをこらえていた。
その瞬間、青年の背後の扉が勢いよく開いた。
「我が君! 仕事をさぼって神殿の石を使うとは何事ですか!」
『おや、笑っている場合ではなかったな。お目付役が来たようだ。ロゼリア。俺たちはそろそろ退散するとしよう』
『そうね。貴方、次に繋ぐ時は、出来るだけ前もって連絡を入れてちょうだい』
水晶越しにユーゴの姿を見たロイとロゼリアは、無情にも水晶に布をかぶさせた。
途端、青年から見える『視界《がめん》』は、暗くなってしまう。
「待……っ!」
――俺を一人置いていかないでくれ!
しかし青年が水晶に触れるも、なんの反応もない。
「――我が君?」
一人残された青年は、背後から聞こえる自分を呼ぶ冷たい声に、ぎくりと体を震わせた。
「ゆ、ユーゴ……」
ぎぎぎぎ……。
そんな音が聞こえそうなほど、青年はゆっくり振り返った。
「我が君! その石は使うと、お二人だけでなく世界中の神殿の石に繋がってしまうのをご存知ないわけではないでしょう!? この石は世界が危機に陥ったとき、そのような大事の時にのみ使うことを許されているのですよ!? それなのにそれを、貴方と来たら!」
ガミガミと怒る少年に対し、青年は視線を逸らして、小さな声で反論した。
「……別にバレて困ることは話してないし、あの二人が国をあけたからかって、おいそれと他国に攻め入られるような守りしかない国じゃないから大丈夫だろう? それに俺は、他の国の人間が俺たちの話を聞くのも、何なら会話に混じるのも、いいことだと思っているからこうするんであって……。三国の仲が良好だと示すのは、国益にこそなれ、問題はないと思うんだが……?」
「貴方はそう、どうして詭弁ばかり……!」
反論したせいでユーゴに更に小言を吐かれ、彼は暫く頭を上げることが出来なかった。
◇
「なるほど。それで、今日はマトモな出迎えだったわけか」
数日後。
青年の願い通り、大国から二人の王がクリスタロスを訪れた。
「うう……」
今日の青年の格好は、ロイやロゼリアが知る『彼』とは、随分出で立ちが異なっていた。
随分王らしい――いや、普通だ。
そのせいで二人は、思わず『彼』が本人か疑ってしまった。
「君、前回俺たちにこの国に招いたときは、突然ピクニックに行こうなんて言い出したじゃないか」
「あれは、『異世界人《まれびと》』の本でそういうものを見かけて、ピクニックっていいなあって思って……」
「まさか他国の王の手料理を振る舞われる日が俺の人生であるなんて、思ってもみなかったぞ」
青年は、ロイの言葉を聞いて――おずおずと彼に尋ねた。
「いや、でも……! ま、不味くはなかっただろ?」
「ああ。『不味くは』なかったな」
「含みのある言い方をするなよ」
「君が先に言い出したんだろう?」
ロイに強い口調で返されて、リヒトは怒られた子どものように肩を落とした。
「だって、せっかく二人が遊びに来てくれたんだから、のんびり俺の国を楽しんで欲しいって思ったんだ……」
『悪気はなかったんだ』――そう語る青年は、一国の王で立派な成人男性のはずなのに、ロゼリアよりも小さく見えてロイは思わず笑ってしまった。
「全く君は……本当に、面白い男だな」
「ロイ、違うわ。この人は子どもっぽいのよ。発想も奇天烈だもの。本当に何が出てくるか分からない、びっくり箱みたいな人」
「それ、俺のこと褒めてるのか? 貶してるのか?」
「その問いには答えないわ」
ロゼリアは、困った顔をした彼を軽くあしらう。
そんな彼女の横で、『結局どっちなんだ……?』と、青年は至極真面目な顔して頭を捻った。
「まあ確かに、君が年の割に落ち着きがないのは事実だろうな。君もそろそろ妃を迎えるべきだろうし、落ち着きは身につけるべきかもしれないな」
「でも、それをいうならロゼリアだって……この間、結婚話が破談になったと聞いたけど」
「私に話を振らないで。 大体、魔力が強すぎて怖いとか、そんな貧弱な男はこちらから願い下げだわ!!」
「ご、ごめん……」
声を荒げたロゼリアに、青年が慌てて謝罪する。
「もう二度とその話は私に振らないことね。分かった?」
「あ、ああ……」
「もういっそ、君たち二人が結婚すればいいのにな」
ある意味息ぴったりな二人を見てロイが呟けば、二人は同時に同じ言葉を発した。
「遠慮しておく」
「遠慮しておくわ」
沈黙。
ロゼリアは青年の襟元を掴むと、ぎりぎりと締め上げた。
「何? 私じゃ不満だって言うの?」
「ちが……っ! そ、そういうわけではなくて! 俺もこの国の王だから無理だろって話で……!」
「そう。それなら許してあげるわ」
ロゼリアはそう言うと、ぱっと青年を締め上げていた手を離した。
ロイは横暴な妹分《ロゼリア》には一切手を上げず、彼女の理不尽に付き合っている友人を見て苦笑いした。
「ロゼリアの話は置いておいて、君は本当に落ち着きは持ったほうがいい。今のように子どもっぽいままでは、色恋なんて無理だろう」
「……!! ロイ! 俺が子どもっぽいから、恋愛出来なさそうってどういうことだよ!」
「言葉のままの意味だ。君はいい年して経験が無さ過ぎる」
「ふふふふふ」
ロゼリアは、ロイの言葉にお腹を抱えて笑いだした。
「五月蝿い! ロイ、既に結婚してるからって馬鹿にするなよ! あとロゼリアは笑うな!」
「まあ、君と俺が出会ったのは俺の結婚式だったからなあ。あの時の贈り物を見たときは、立派な青年に見えたんだが……。ちなみに、君はどういう女性が好みなんだ?」
「そうだなあ……。大人しくて、女の子っぽくて、俺の一歩後ろをついて来てくれる可愛い子かな」
「独創的過ぎる君についてこられる女性が、そんなおしとやかなわけがないだろう」
照れながら理想を述べた青年を、ロイは一刀両断した。
彼は思わず膝をついて倒れ込んだ。その様子を見て、ロゼリアはポツリ呟く。
「貴方には似合わないわ」
「ふざけんな!」
青年は思わず顔を上げて叫んでいた。
「その怒り方が子どもっぽいんだよ。だから駄目なんだ君は」
「モテませんわねえこれは。王だというのに、相手が居ないんじゃなくて? おしとやかな女性は、貴方のような方は好みませんわ」
「二人とも五月蝿い!」
――せっかく会えたのに、なんで俺にひどいことばっかり言うんだ!
彼は憤慨したが、大国の二人の王は終始笑ってばかりだった。
ロイとロゼリアが帰国した翌日、青年はサボった分の仕事をユーゴに積み上げられていた。
「……二人に会いたい。会って話がしたい」
山積みになった仕事を素早く片付けて、彼が小さな声で呟けば、ユーゴは元気のない彼にお茶を差し出した。
『神に祝福された子ども』――ユーゴは元々、青年に王城に招かれるまでは、森に一人で暮らしていた。
そのこともあり、ユーゴは森を思わせる香りがするものを好んでいた。
「我が君。いい加減、もう少し落ち着きというものを身につけてくださいませ。先日お二人に会われた時も、馬鹿にされていたではありませんか」
「いや、あれは……だな。信頼故の軽口って言うか……本音を言い合えるのも友情だろ?」
爽やかな香りが部屋に満ちる。
「私にはわかりかねます」
「いやでもまあ、ひとつだけ、俺も気に食わない話があったな。酷いと思わないか? 中身が子どもっぽいから、恋愛出来なさそうってどういうことだよ!」
「その言葉には私も賛同いたします」
「おいユーゴ、お前もか!」
『裏切られた!』とばかりに、青年は声を上げる。
「ところで我が君。貴方の理想は、一体どんな方なのですか?」
「そうだなあ……。大人しくて、女の子っぽくて、俺の一歩後ろをついて来てくれるそんな可愛い子かな」
「独創的過ぎる貴方についてこられる女性が、そんなおしとやかな方であるはずがないではありませんか」
「お前まで悪口言うなよ!」
臣下からさえロイたちと全く同じ言葉が返ってきて、彼は思わず叫んだ。
「率直な意見を申し上げたまでです」
「はあ……ったくもう……。俺の周りは、本当に俺に遠慮が無い奴ばっかりだな。これでも一応国王なんだが」
「私は、それも貴方の人徳だと思っておりますよ。人の言葉を聞き入れて、自分に対する暴言にも手を上げない貴方だからこそ、人はみな率直な意見を口にできるのです」
「……褒めるのか貶すのかどっちかにしてくれ……」
ユーゴの言葉に、彼は少し間を空けてから、顔を真っ赤に染めた。
いくら顔を覆おうと、耳まで赤くなっては隠すことが出来ない。
「照れていらっしゃるのですか?」
「う、五月蝿い。しかし……恋、か」
そう言うと、青年は机に肘をついて思案するそぶりを見せた。
「我が君?」
「でも俺はさ、この国の王だから。自分の感情よりもきっと、国の為に結婚すべきとは思ってはいるんだ。俺の結婚相手は、魔力の高い人間が望ましい。……結局は、俺の意思よりも、そっちの方が大切だよな」
彼はそう言うと、同意を求めるようにユーゴのほうを見た。
「……行儀が悪いので、その格好はやめてください」
「今言うか!? それ!」
しかし帰ってきた言葉は予想と反し、青年は思わずツッコんだ。
◇
「そういえば今年は、騎士団に一人女性が入ったんだよな」
書類にサインをしながら、青年はユーゴに思い出したように尋ねた。
「はい。何でもその方は女性から恋文をもらうこともあるとかで、巷では『薔薇の騎士』とも呼ばれて人気があるそうですよ」
ユーゴは苦笑いした。
珍しいユーゴの表情に、青年はくすりと笑う。
「まさかあの制度を利用して、騎士団入りをする実力者が出るなんて思いもしなかった」
「これまでは、騎士団は男性ばかりでしたからね」
クリスタロス王国には、王国騎士団が存在し、その団員は男性で構成されていた。
そんな中、二つ名を持つ人間を倒し、一人の少女がクリスタロスの騎士団に入団した。
「男所帯だろうし……何か困っていることはないか、せっかくだし直接会って聞いてみようと思うんだ」
『ローズ・レイバルト』紙に書かれたその名を見て、青年はぼつり呟いた。
「一体、どういう女性なんだろう?」
青年は急ぎの書類を全て片付けると、騎士の訓練場へと向かった。
「陛下! 申し訳ございません。今日いらっしゃるとは伺っていなかったので……」
青年の突然の来訪に、真面目そうな少年が頭を下げた。
青年は気にするなと軽く手を上げた笑った。
「ああ、いや。今日は少し様子を見に来ただけなんだ。俺のことは気にしないでくれ。さて、噂の彼女はどこに……」
青年が周りを見渡していたときだった。
彼は何者かによって体を強く押された。
「危ない!」
「えっ?」
――誰かに押し倒された?
上から降ってくる声は、意思を感じる凛とした声。だがその声は、男性のそれではない。
「大丈夫……ですか?」
青年は自分の代わりに水を被った少女を見て、大きく目を見開いた。
亜麻色の髪に、琥珀の瞳。
長い髪は高く結われ、その瞳は、まるで剣のような鋭さを宿す。
「……貴方が、ご無事でよかった」
「ローズ!」
彼女の後ろからは、慌てた様子の別の騎士がやってきていた。
「申し訳ございません。実は私、魔法があまり得意ではなくて。友人に稽古をつけてもらっていたのですが……」
話によると二人で訓練を行っていたが、自分を押し倒した少女がそれを受け止めきれずに起こった事故ということだった。
「申し訳ございません。陛下」
「俺は大丈夫だ。それより君、体に痛いところは無いか?」
「いいえ。陛下のお手を煩わせるようなことは」
「そうですよ。リヒト様」
「……神官がどうしてここに?」
『神官』と呼ばれた音は少女の頭に無遠慮に手を置くと、無理矢理頭を下げさせた。
「妹がご迷惑をおかけしてしまってすいません」
「……神官の妹?」
神官というには不似合いな、黒いローブを纏った青年は、妹だと言った少女と違い、黒に近い髪に朱色の目だった。
魔力による外見の変化。
その血筋では、本来ありえないはずの色。
「妹の怪我は俺が見るので大丈夫です。昔からそそっかしくて」
「今の私があるのは兄上のせいです。兄上が私を弟のように扱うから」
「妹の扱い方なんてわかるか! お前の性格は俺のせいじゃなくて昔からだろ」
外見は全く違う。けれど二人は、誰が見ても『兄妹』だった。
「では、俺たちはこれで」
『神官』は、不満顔の妹を引きずるように引っ張った。
青年は、その姿を黙って見送った。
「……ユーゴ。今の女性が?」
「はい。彼女がローズ・レイバルト。『薔薇の騎士』と呼ばれている女性です。二つ名を持つ騎士を倒し、唯一女性で騎士団に入団を果たした、神官殿の妹君です」
「薔薇の、騎士……」
「我が君、どうかなさいましたか?」
「いや……」
青年の頬がほんのりと赤く染まる。彼は落ち着かない様子で胸をおさえた。
◇
青年はそれから、騎士団を訪れるときは、必ずローズに声をかけるようになった。
「見てくれ! 薔薇の騎士!」
青年が手を開くと、紙の鳥が一斉に空へと飛び立った。
「これは、一体……」
「驚いたか?」
「紙の鳥が空を飛ぶ。面白い魔法だろう?」
「……資源の無駄です。一体なぜこんなことを?」
「だって」
ローズは青年の期待より少し冷めた反応を見せた。
「……君が、笑ってくれるかと思ったんだ」
え?」
「いや、もともと大陸の王の祝いに作ったんだが……。君が笑ってくれるかと思って」
「……リヒト様。貴方は国王なのですから、こんなことをして私を驚かせるより他に、やるべきことが沢山おありではないのですか?」
「はい……」
淡々と諭され、青年は肩を落とす。
「でも、この魔法――手紙に使ったら良さそうですね」
「なるほど。それは確かにいいかもしれないな」
その後『紙の鳥』は、誰もが使える伝達手段として使えるよう、青年は魔法の研究を行った。
そんな二人のやりとりを見ていたとある騎士は、ローズに笑って言った。
「ローズさんは、リヒト様と仲が良いのですね?」
「最近よく声を掛けていただくことが多いのですが、何故私なんかに……。この国で、女騎士が珍しいからでしょうか?」
「いえ、リヒト様はただ……」
「そういえば先日はお菓子をいただいたんですが、リヒト様には私がそんなに物欲しそうに見えていたんでしょうか? 確かに甘いものは、昔から大好きですが……」
「ローズさん。それ、本当にそう思っているんですか?」
「はい。だって、他に何か理由があるんですか?」
「……………ローズさんは本当に、こういうことに疎い方のようですね……?」
「え?」
首を傾げるローズを見て、童顔の騎士は苦笑いした。
その後青年は、弟である第二王子も連れて訓練場へとやってきた。
強い魔力を持ち、魔法の研究は追随を許さない。
優秀な兄と比べられて育った年の離れた第二王子は、少し気弱な少年だった。
しかし彼は兄を敬愛し、そして青年も弟をとても可愛がっていた。
「兄上がとんだご迷惑を」
「いえ。レオン様が謝られることではありませんよ。レオン様は真面目ですね」
「――それだけが僕の取り柄ですから。せめて少しでも、兄上に追いつきたくて」
「レオン様はリヒト様を尊敬されているのですね」
「はい! 兄上は少し抜けたところもあって頼りない時もあるのですが、本当に兄上の魔法はすごくて――僕は将来、兄上をお支えしてお守りするのが夢なんです!」
「抜けているというか、ずれているというか、頓珍漢というか……。人間味があるといえば、そうなのですが……」
「僕は、それも含めて兄上の魅力だと思っています。だから、きっと兄上の周りには沢山人が集まる。……僕は、兄上とは違うから」
「レオン様」
「?」
「レオン様は、レオン様ですよ」
「…………はい」
ローズに微笑まれ、幼い王子は頬を染めた。
その様子を見て、騎士は溜め息を吐いてローズの肩を叩いた。
「ローズさん、無自覚にレオン様に茨の道を歩ませないでください……」
「?」
ローズはありのままのレオンを肯定したが、その後レオンは、上昇志向の強いロゼリアとぶつかり、喧嘩しながらも交友を深めていく。
それは光の巫女が書いたという、『はぴねす』に描かれた二人のように。
◇
ある日のことだった。
ローズに元に、神殿に勤めていてなかなか外出を許されないはずの兄がやってきた。
「ローズ」
「兄上」
「リヒトがここに来なかったか?」
彼は青年を探していた。
「いいえ。今日はお見かけしていません」
「おっ。レオンは来てたんだな」
「……頭を撫でないでください」
「撫でたくなるんだよなあ。お前は弟みたいなものだしな」
「神官のくせに、言葉遣いがなっていませんよ」
レオンは顔を顰めたが、神官はどこ吹く風だった。
「いいんだよ、俺は俺なんだから」
「兄上、一体どうされたのです? 何かご用でも?」
「いや、何でもない。ここに居なかったならいいんだ。少し、リヒトの水晶に影が見えてな。……多分、俺の取り越し苦労だろうが」
「『先見の神子』の兄上の水晶に影……?」
「ただ、今の俺は神殿勤めで力が少し制限されてるから、今のままだとよく見えないんだよ。だから、リヒトに許可を貰って詳しく調べようかと」
『先見の神子』は神殿で働くに当たり、魔法を制限されてた。
大きな魔法を使うには、神殿と国王の両方の了解を得る必要があると彼はローズに話をした。
青年が行方をくらましては臣下たちが捜索するということは、たまにあることだった。
その日、青年を捜し当てたのは童顔の騎士だった。
「リヒト様! お探ししましたよ! ……その花は?」
騎士が青年を見つけたとき、彼はとある花を手にしていた。
それは、地属性を持つ騎士が知らない『新種』の花だった。
「この花は、『屍花』というんだ。綺麗だろう? でも、切なくもある。病で亡くなったものたちのの墓の上に咲く、治療薬となる花。ベアトリーチェ、君は地属性の魔法が使えるんだろう?」
「ええはい……」
「いつか君のように魔法を使える人間に、薬学・医学と魔法の壁を、超えてほしいと俺は思っている。無理にとは言わない。でももし、それが叶ったら。俺はこの世界は、もっと優しい世界になるんじゃないかって思うんだ」
青年は優秀だった。
だが、今の自分に薬の研究までは行う余裕はないからと、彼は騎士に――ベアトリーチェに話をした。
また別の日。
ベアトリーチェが青年を見つけたのは、魔物との戦闘で腕をなくした男の家だった。
男は神殿での治療費が高価なこともあり、治療も出来ず片腕を失い職を辞した騎士だった。
「君は、忘却魔法というものを知っているか?」
自分を見つけたベアトリーチェに、青年は尋ねた。
「……いいえ」
「心に与えられた負荷が魔法に繋がるという考え方はある。しかし、辛い思いを抱えたまま生きることは難しい。なら俺は、その痛みを忘れることも、生きていくうえでは必要なのかもしれないと思うんだ」
『魔法は心は生まれる』
力をつけるため、無理な訓練を行う者がいることを青年は危惧していた。
そして青年は、心に傷を負った者に後天的に魔法が発現する事例は確かにあるが、多くは心的外傷により廃人になるということを、ベアトリーチェに話して聞かせた。
大国グラナトゥムでは、ロイが治めるより昔の時代、人為的に魔法を発現させるために、人の心に傷を負わせる研究が行われていたという。
そして青年は、その被験者たちを救うためにも、『忘却魔法』という新しい魔法を作り出したと言った。
「民と共にあれ。民と友であれ。それが、俺の理想だ。この国の多くの人間は魔法を使えない。俺は、人と人との壁をなくしたい。誰もが笑い合える、そんな国を作りたいんだ」
「陛下。陛下がそう望まれるなら、私は貴方の望みのままに、最善を尽くしましょう」
「ありがとう。ベアトリーチェ」
青年が礼を言えば、ベアトリーチェは笑った。
青年はそうやって、様々な人々と交流を重ねていた。
その中には、ユーリによく似た者の姿もある。
彼が望む知識を簡単に得ることが出来るように――青年は図書館に、望む本と出会えるように魔法をかけた。
◇
ある日のこと。
青年と弟のレオンは王の執務室で話をしていた。
「魔法の複製を禁じる魔法?」
「はい!」
レオンは元気よく返事をした。
「兄上の作ったものは、恐らく他国でも利用が可能なものでしょう。しかし、特別なこの魔法に価値を与えることで、我が国の国力を上げることが可能だと僕は考えます。魔法の収益化。これが見込めれば、クリスタロスは、もっと栄えることができると思うんです」
「魔法を……」
笑顔で話すレオンを前に、青年は顔を強ばらせた。
「提案をありがとう。悪いがレオン、この件については少し考えさせてもらってもいいか?」
弟が部屋を出て行くのを笑顔で見送り、青年は頭を抱えた。
「……今よりも使える人間を狭めた『技術《まほう》』に価値を与えすぎれば、格差を広げることになりかねない。誰もが魔法を使える世界。そんな世界を望んで、僅かな魔力でも魔法を使えるように研究をしてきたのに」
生活を便利にする、誰もが使える魔法。
青年は、そんなものを望んでいた。
――わからない。誰かの幸福を願うこの心に、価値を与えることが、本当に正しいことなのか。
「レオン……。俺は、俺の考えは、間違っていたのか?」
青年の問いは、誰にも届くことなく消えていった。
それからも、変わらない日常は過ぎていった。
ある日レオンは、兄が紙の鳥を飛ばしているところに出くわした。
「兄上、何をなさっているんですか?」
「鳥がどこまで飛ぶか試してみようかと思って。……『手紙』みたいな?」
「……兄上、一体誰に『手紙』を出されたです?」
「大陸の王と海の皇女に」
「兄上! すぐに戻してください。兄上!」
兄がまた突拍子もない内容を他国に送りつけたのではと、レオンは慌てて叫んだ。
「無理だ。一度飛ばしたものは戻せない。この魔法は、まだそこまでの性能は付けていない」
「兄上――!!!」
『紙の鳥』を受け取ったロイとロゼリアは、それを受け取って笑った。
「相変わらず自由な発想の持ち主だな。かの国の王は」
「しかし、この魔法は複製を禁じられているようですね? こんな魔法も作れるなんて、やはり彼は天才と呼ぶべきなのかしら」
「馬鹿と天才は紙一重というだろう」
「――確かに」
「これを、クリスタロス王国へ届けさせろ」
ロゼリアは、ロイが手にしていたものを見て尋ねた。
「あら。『幸福の葉』を彼に贈るの?」
「彼が誰に渡すか知りたいと思わないか?」
いたずらっ子のような顔をして笑う従兄弟を見て、ロゼリアは笑った。
◇
爽やかな風が吹いていた。
ある晴れた日に、木陰で涼んでいたローズに、青年は尋ねた。
唯一の女性騎士。
青年はなぜ、ローズが騎士になりたいと思ったのか疑問だった。
「君はどうして、女性なのに騎士になりたいと思ったんだ?」
「リヒト様。性別で人を判断するのはやめてください」
不機嫌そうな顔をしてローズが言えば、青年はためらいなく頭を下げた。
「す、すまない……」
「私、昔兄上から聞いた話で、好きな話があるんです。確か題名《タイトル》は『騎士の結婚』――いえ、『ガヴェインの結婚』というお話だったかと思うのですが……」
その話は、青年は知らないものだった。
「陛下は、『すべての女性の願い』とはなんだと思われますか?」
「……守られて暮らすこと? 子どもを産んで、夫婦仲良く、健やかで幸せな家庭を築いて……」
「違います」
青年の言葉を、ローズはぴしゃりと否定した。
「なら、一体何なんだ?」
そしてローズは、笑って答えた。
「正解は、『自分の意志を持つこと』です」
「…自分の、意志……?」
リヒトは、ローズの言葉に目を瞬かせた。ローズはそんな彼の顔をじっと少し眺めてから、青く晴れた空を仰いだ。
「でも私は、それはどんな人も、同じだと思うんです。『選択』が人を作る。だとしたら、性別も立場も関係ない。自分の意志で、望む自分を、未来を選ぶこと――それこそが、私は幸せなことだと思うんです」
ローズはそう言うと、胸に手を当てて青年を見た。
「私は選択の自由を与えられ、兄上と一緒にこの国を守りたいと思い、騎士に志願しました。そうして、沢山の人と出会った。ユーリや、ベアトリーチェさん、ローゼンティッヒさん。この世界ではまだ女性騎士は少なくて、でもそんな道を選んだ私を、認めてくれる人と出会えた。幼い頃は、魔力の強い兄上が神殿に行ってしまって寂しかったけれど――その間訓練をしていたおかげで、私は騎士になれた。兄上に守られてばかりの私じゃないと、今はそう思える。私、自分はとても幸せなんだと、今はそう思えるんです。だからこれからも、そう思えるように生きていくこと。そのために、自分の意思で選択し続けられる世界を守って、自分が貫くべき意思を持ちつづけること。それが、私の願いです」
「――……君は本当に、真っ直ぐな人なんだな」
熱の籠もった声で言うローズを見て、青年はまぶしいものを見るかのように目を細めた。
そんな青年の前に跪き、ローズは綺麗に微笑んだ。
「陛下のことも、私がお守りします。それが、私の『意思』です」
「ああ……。ありがとう。薔薇の騎士」
まっすぐに人の目を見て話す。
そんな彼女の瞳を見て、青年は少し頬を染めてから微笑んだ。
それからも二人の交流は続いた。
ある日、ローズは訓練中に契約獣の背から落ちそうになり、偶然その場に居合わせた青年はフィンゴットに乗って彼女を助けた。
「君は、一体何を考えているんだ!」
いつもは穏やかな青年に珍しく声を荒らげられ、ローズはびくりと体を震わせた。
「……君を失うかと思った。もう二度と、こんな危ないことはしないでくれ」
「大丈夫……です」
その出来事があってから、青年は訓練中の彼女の身を案じるようになった。
「この怪我は?」
「それはその、訓練で……」
「……あまり、体に傷を作るな」
「申し訳ございません」
「責めて居るわけじゃないんだ。ただ、俺が君には怪我をしてほしくないというか……」
「――陛下?」
二人がそんなやりとりをした日。
ロイから青年宛てに手紙が届いた。
『お前が好きな相手に渡せ』
手紙には、『四枚の葉』が同封されていた。
「……好きな……? それは……王である、俺には出来ない」
青年はそう呟くと、手紙を握る手に力を込めた。
「強い魔法を使えることを強者というなら、この国の多くの人間は弱者だ。俺は弱者の味方でありたい。そのために、俺はこの国の王として、強くあらなくてはならない。この国ためには、魔力の強い人間との婚姻しか認められない。彼女を、王妃に迎えたい。……でも」
魔力の弱い騎士と王とが、結ばれることなんて許されない。
この想いは、抱いてはならぬものだと知っている。
祝福されない結婚を、王である自分が選ぶことは出来ない。
『自分の意志を持つこと』
それが幸せだと語る騎士の顔を思い出して、青年は静かに目を瞑った。
王である自分に、身勝手な意思を持つことなど許されない。けれど自分の心を貫きたいと語る騎士の心を、守りたいと彼は思った。
「君を傍で守ることが出来ないなら、いつでも君を守ることの出来る魔法道具を作ろう」
魔力の使える人間と、使えない人間の差。
それは、魔力を貯蔵する器の大きさの差だ。
「そうだ。だったら……器の一部を、体外に取り出すことが出来れば……」
『自分の代わりに彼女を守る魔法』を作るため、彼は研究を重ねた。
「出来た!」
そしてついに、彼の研究は形になった。
「彼女を后に迎えることは出来なくても、これさえあれば、いつでも彼女を守ることが出来る」
その魔法を、青年は愛する女性のために使った。
「俺はこの魂をもって、彼女を守ると誓う。『誓約の指輪』よ。指輪の持ち主を守れ」
三重の魔法陣。
指輪を身に着けた者の身が危険にさらされた時に、魔法が発動するように彼は石に式を書き込む。
この世に二つと存在しない、複雑な形をした魔法陣は、彼が騎士として戦う彼女の為に作った最終兵器だ。
国を守るために、命の危機にさらされる可能性がある彼女の為に、彼はこの魔法をつくりだした。
「君を選ぶことはできなくても……。せめてこれくらいは、許されても良いだろう?」
「リヒト様……」
ユーゴは、青年の呟きに首を縦に振ることは出来なかった。
そんなユーゴに、青年は苦笑いした。
希望の光。
国を明るく照らす光のような王は、少し影のある笑みを浮かべた。
「指輪の魔法は成功だ。あとは他にも同じような物を作って、みんなが利用できればいい」
水を希釈して広げるように、魔力を溜めおくことの出来る石《うつわ》を作る。
自分の魔法に影響のない程度に、少しだけ取り出すだけのはずだった。
「大丈夫。俺なら出来る」
だがその彼の願いは、人の身には許されぬものだった。
「……がっ! あ、ああ、あああああああ!」
リヒトの叫び声に気付いた彼の弟と臣下が、勢いよく彼の部屋の扉を開ける。
部屋の中で、青年は血溜まりの中に倒れていた。
「リヒト様!」
「兄上!!」
ユーゴとレオンの悲鳴が響く。
血まみれの青年の傍には、大きな赤い石が落ちていた。
――苦しい。
青年の顔が苦痛に歪む。兄の喘鳴に顔を青くする、泣きそうなレオンは何もすることが出来ず、ユーゴはリヒトの脈を確かめながら、顔を顰めて叫んだ。
「我が君! ああ、どうして。どうして、こんなことを……! 魔法を。早く、光魔法を!!」
「だい、じょうぶ、だ。それは、俺が自分で」
治癒魔法を使おうとして、青年はとある変化に気が付いた。
――どうして、魔法が使えない?
◇
青年の事故の後、レオンは父である先王に呼び出された。
「どうして。どうしてなのですか。父上!」
「言葉の通りだ。リヒトは魔法を失った。あれはもう王とは呼べない。レオン。お前が、この国の王となるんだ」
「…………ッ!」
ずっと、期待なんてされていなかったのに。ずっと兄だけが、周りに愛されてきたのに。
小さな肩にのしかかる重圧に、レオンは、肩を震わせて唇を噛んだ。
自分を見つめる、兄を見捨てる者たちへの怒りと、期待への恐怖だけが、彼の中にはあった。
青年は日に日に衰弱していった。
訓練場に行くことも叶わなくなった青年のために、ローズは見舞いのため城に訪れた。
「リヒト様。体調が悪いというのは本当ですか?」
「……どうして君がここに?」
「レオン様が、城に来るように仰って――ここまで案内してくださって」
「ああ。でも、大丈夫だ。じきに良くなる」
「本当に?」
「少し、徹夜続きでいろいろ作っていたせいだろうな。だからそう心配そうな顔をしないでくれ」
青年は少女に、精一杯笑ってみせた。
「ですが……」
「大丈夫。この程度でくたばる俺じゃない」
「リヒト様……」
「『薔薇の騎士』」
青年は最期まで、彼女のことを名前で呼ぶことはなかった。
「はい。何でしょう?」
「……少しの間だけ、君の手を触れさせてくれないか?」
「え?」
「やはり、駄目か?」
「えっと、その……。…。わかりました」
青年が柔らかく微笑む。
「君の手は、温かいな」
「……っ!」
その笑顔が、本当に嬉しそうに見えて――ローズは顔を真っ赤に染めた。
「そうでした。これを」
「レオン様に教えていただいたんです。陛下の好物だと」
ローズが差しだしたホワイトチョコレートの中には、乾燥させた苺が入っている。
「ありがとう。では俺からは君にあれを」
青年はそう言うと、壁に掛けられた一本の剣を指さした。
「?」
「以前助けてくれたお礼に」
それは、ローズの祖父グラン・レイバルトの家に伝わっていた、家宝である『聖剣』だった。
「助けた? ……でもあれは、そもそも私のせいで」
ローズは、青年との出会いを思い出して言った。
「君に、持っていてほしいんだ」
「この剣に誓って、貴方の国を守ることを誓います」
「――ありがとう。薔薇の騎士。君の忠義に感謝する」
そして青年は、彼女に一枚の葉を手渡した。
「この葉は?」
「……おまけだ」
レオンはそう言ってローズから顔を逸らした。ハート型の緑の葉。ローズはそれがなにかわからず首を傾げた。
「?? ありがとう……ございます?」
剣と葉を受け取ったローズは、青年の快復を願って部屋を去った。
「ゆっくり、休まれてくださいね」
「ああ。――ありがとう」
ローズが部屋を出て行くと、代わりにレオンが彼の部屋へと入ってきた。
「……兄上は大馬鹿です」
「すまない」
「レオン」
「……はい」
「俺は、お前にこの国を任せたい」
「無理です。人には向き不向きがある。僕は王には向いていない」
「大丈夫。お前なら出来る」
「無理、です。……僕じゃ、無理なんです」
震える幼い弟の頭を、青年は優しく撫でた。
「誰も、俺のような王になれなんて言っていないさ。レオン。お前は、お前らしい王様になればいい」
「あに、うえ……」
レオンは優しい兄の最後の願いを叶えるために、涙を拭って決意を述べた。
「わかりました。――この国は、僕の国です。これからは……これからは僕が、兄上の代わりにこの国を守ってみせます」
「ありがとう。レオン。流石、俺の弟だ」
いつものように自分に優しい兄の言葉が、レオンは嬉しいのに胸が痛かった。
「なあ、レオン。お前にもう一つ、頼みたいことがあるんだ」
「はい。なんですか?」
レオンは精一杯の笑みを作った。
「俺の存在を、この世界から消してほしい」
「……え?」
レオンは、驚きのあまり言葉が出なかった。
「今回のことでわかった。俺の魔法は、今のままでは不完全なのかもしれない。未完成の魔法。この魔法に欠陥が発見された時、それに対応できる人間が今この世界には居ない。俺が作り出したものが、今後どう悪用されるか。その時どうするか、俺は考えていなかった」
子どものような自由な発想。
その心は空を目指して墜落する。
古代魔法。
この世界にはなかった特殊な魔法は、彼がたった一人だけですべて作り出したものだ。
情報はすべて彼の頭の中にある。クリスタロスは、グラナトゥムのようほど大きな国ではない。
その魔法がどのようにして世界を変える力を持つのか、その理由を、正しく理解できているのは作り出した青年一人だった。
彼は自分の魔法について、多くを人に語ることはなかった。
仕組みを理解せずとも、誰もが使える魔法を目指したからだ。
だが自分の命が失われようとしたとき、青年は怖くなった。
自分の作り出した新しい魔法が、いつかもし、今の自分のように、誰かの命を奪うことがあるなら――そのとき責任を問われるのは、愛すべき自分の国になるかもしれない。
――争いの火種になるかもしれない不完全な魔法を遺して、死ぬことはできない。
青年は、そう考えた。
「俺はもう魔法が使えない。だから……これは、お前にしか頼めないんだ。これは忘却魔法。俺も、俺の魔法も。全部この世界から消してくれ」
しかし、その魔法は不完全で。
魔法の存在の記述だけは、消すことが出来ず現代へと引き継がれた。
そして時を経て少しずつ、不完全な魔法は解け、かつて彼を慕った者たちの中に、『彼』の存在を蘇らせた。
「あに、うえ……」
青年を呼ぶ、レオンの声は震えていた。
「嫌です。だって、そんなの。この国の民が、どれほど……どれほど、兄上のことを」
たとえ兄の願いとはいえ、兄の存在を消す自分が、王になるなんて――そんなことは許されない。
「頼む。任せられるのは、お前しかいないんだ。お前に魔法が使えない筈がない。お前には力がある。ただそれに、気付いていないだけなんだ」
青年は、弟を信じていた。
自分と比べられ、そのせいでどんなに傷ついても、自分を兄と慕ってくれた優しい心を持った弟を。
「お前なら出来るよ。だってお前は世界でたった一人の、俺の弟なんだから」
その言葉は、ローズが大好きな兄の言葉と似ている。
「兄上は、残酷です。ひどい。ひどすぎます。こんな……こんなふうに、兄上の心を知りたくなかった」
「ごめん。ごめんな」
笑おうと努力しても、レオンは泣いてしまった。
そんなレオンを気遣うように、青年は小さな弟の頭を優しく撫でた。
「許してくれ。レオン。お前の馬鹿な兄を」
泣きじゃくる第二王子に笑いかける、そんな優しい声を聞いて、扉の向こう側で一人の男は血が滲むほど唇を噛みしめた。
予見されていた未来を、防げてはずの災厄を、防ぐことが出来なかった自分を苛んで。
起こってしまえば何も出来ない。運命は変えられない。
そんな自分の無力さが、ギルバートの瞳に涙をにじませる。
「――……リヒト……!」
青年とギルバートは、旧友のような、親友のような関係だった。
青年が王になれば、クリスタロスの繁栄は約束される。強い力を持ち、幼くして神殿ですごすこともあったギルバートは、青年とは偶然街で出会った。
身をやつして、『普通の子ども』のように遊んでいるときにできた友人だった。
お互いの立場が明らかになってからも、二人の仲は変わらなかった。
青年が王になったとき、ギルバートが青年に『祝福』を与えた。
クリスタロスでは王の即位の際、神殿で最も高位なものが、新しい王に花の枝を王に与える習わしがある。それは古くから、樹木を神とみなす信仰の名残で、王は神ではなく、神によりその地を統べる力を、分け与えられるということを認識させるための儀式である。
王は神ではない。
そう王に教えることが、神殿で最も高位であったギルバートの、いちばん大切な役割だった。
なのに、それが出来なかった自分なんて。
「何が『先見の神子』だ。こんなんじゃ、俺は、俺は……ただの『無能な預言者』じゃないか」
吐き捨てるようなギルバートの声は、ただただ虚しく響く。
光の王は、愛する女性の写真を指輪に仕舞った。
叶えてはならないその想いは、誰に明かすことも許されないと知っている。
それでも。
「太陽《かみ》に近すぎた人間は、蝋で固められた翼を失い墜落する、か。確かにその通りだ。人は、神にはなれはしない」
だからこれは、傲慢な願いに対する神の罰。
あらゆる願いを叶えられた、この世界で最も優れた力を持っていた王は、今はその全てを奪われる。
光の王は最期の瞬間まで、『彼女《きし》』のことを想った。
自分が死んで記憶がなくなれば、いつか違う誰かと結ばれるかもしれない愛しい人を。
「薔薇の騎士。――君に指輪は渡さない。でも、どうか。この心だけは、君の傍に居させてくれ」
自分の瞳と同じ色。
他とは違う、特別な人間である証。深紅の薔薇のような赤い指輪に、彼は口付けて目を瞑る。
閉じられた王の瞳は、二度と開くことはなかった。
「我が君……! 嫌です。目を開けてください。お願いです。私を、私を一人にしないでください。貴方が私に教えたんです。この世界に、あたたかな場所があることを。それなのに……それなのに……っ! 貴方が、貴方がいない世界なんて。私は、私は……!」
ユーゴが部屋に駆け込み、目覚めることのない王に呼びかける。そんな彼を、周りの者たちは王から引き剥がす。
取り乱して、泣き叫ぶ声だけが、部屋の中には響いていた。
◇
「陛下は、お亡くなりになりました」
「リヒト、様が……?」
『薔薇の騎士』が王の死を知らされたのは、それから少し時間が経ってからだった。
「亡くなったというのは、どういうことです!?」
王は、これからの国の守護を担うであろう騎士のうちの数名を、自分の
死後呼び寄せるように言葉を残していた。
「だって。だって……昨日まで、大丈夫だって、すぐに元気になるって笑ってたのに!」
ローズは告げられた事実が受け入れられず、思わず王城からの遣いの人間に掴みかかった。
「ローズ!」
そんなローズを、後ろから手を回してユーリは男から引き剥がした。
ユーリの服を、どこからともなく落ちてくる涙が濡らす。
「大丈夫だって、そう言ってたの……」
「ローズさん」
ユーリに支えられ、涙を流すローズの名前を呼んだのは、彼の弟である少年だった。
「……レオン様」
「兄上に、会われますか?」
レオンの問いに、ローズは静かに頷いた。
王の寝室で、青年はまるで眠るように息絶えていた。
「リヒト、様」
ローズは、彼の心臓に耳を当てるようにして――それから震える声で呟いた。
「どうして……?」
心臓の音がしない。
その事実が、彼女に現実を突きつける。
「目を、開けてください。……嫌です。こんなの。こんなのは。こんな別れは」
泣き崩れるローズの声が静かな部屋の中に響く。
ユーリとベアトリーチェは、レオンが目の前にいることもあり、ローズのように感情を顕わにはしなかった。
「陛下を失い、これからこの国はどうなるのでしょうか。陛下は、なんと仰っていたのでしょうか」
ベアトリーチェの問いに、レオンは静かに答えた。
「兄上は、『自分を消せ』と仰いました」
「え……?」
ベアトリーチェは、思わず目を瞬かせた。
「そんな。なんで……!」
ユーリは動揺のままに疑問を口にした。
「それが必要だからです。兄上は、兄上の研究も、自分のことも、この世界から消すようにと仰いました」
兄の死を嘆くこともなく淡々と語る。
非情な弟王子に、ユーリはレオンに掴みかかって叫んだ。
「レオン様……! 貴方は、リヒト様のことをなんとも思っていないのですか!? そんな非情なことが、許されるとお思いですか!? それほど……あの方を消してまで、貴方は王になりたいんですか!? それほどまでにリヒト様がお嫌いでしたか!?」
『レオン・クリスタロス』は、『リヒト・クリスタロス』に劣る存在だ。
それがその世界での、誰もの共通の認識だった。
だがそれでも――青年が兄として、弟を思っていたことを、国の誰もが知っていた。
「ユーリ!」
ベアトリーチェは、割って入って二人を引き離した。
長身のユーリに怒鳴りつけられている間も、レオンは微動だにしなかった。
「――僕が……兄上を嫌いだ何て、いついいましたか?」
だがその言葉を口にするレオンの体は僅かに震え、声は涙で微かに掠れていた。
「兄上は……兄上は僕にとって、誰より大切な人です。これまでも、これからも。ずっと、この気持ちは変わらない。だから、叶えるんです。僕がこの魔法を使うことが、この国を僕に託すことが、兄上の最後の願いだから。……だから……!」
いつも笑っていた優しい王様。
誰もが『彼』を愛し、誰もが『彼』を王にと願う。
そんなお伽噺のような優しい国で、彼はずっと一人悩んでいた。
この世界にある魔法が、人と人とに隔たりを作ることを。
彼のことを自由な人だと、きっと誰もが彼を思っていた。大変な時だって顔に出さずに、いつだって彼は笑っていたから。
本当の意味で、彼の心の痛みを知る者は居なかった。
だって彼は、それを明かそうとはしなかったから。
『民と共にあれ。民と友であれ』
それが理想だと語る優しい王様。
いつも笑っていた彼は、いつだって孤独だったというのだろうか。
その痛みは、全て彼だけの責任なのか。
「――僕が、この国の王となる」
小さな新しい王の言葉に、人々の声が続く。騎士の心は、民の心は、失われた王の下にあり続ける。
けれど、その記憶をとどめることは許されない。
だからその願いは、遠い未来に向けた、祈りの言葉だ。
いつかもう一度この国に産まれ、遠い未来、再び『彼』と出会うことが出来たなら。
「この国は僕が守る」
「わかった。……なら。この国の為に俺はこの目をつかう」
「ならば私は、この剣でお守りします」
それは彼らの、最初の約束。喪失への慟哭と、祈りと願いがこもる言葉。
その想いは、千年の時がたったとしても、彼らの魂に深く刻まれ強い魔法を生み出す。
「私……私は。貴方は一人ではないと、私が証明してみせる。私は、貴方の国を守ると誓う。この剣に……たとえこの魂が、何度巡っても。私は……私は、ずっと。ずっと……!」
赤い石の宿る剣を手に、亜麻色の髪の少女は言葉を紡ぐ。
「強くなりたい。今度は、貴方を守れるように。貴方が、一人で戦わなくてもいいように。すべてを一人で、背負わなくてもいいように。今度は私が、一緒に背負うから。大丈夫。……もう、大丈夫、だから」
それは、今のローズの口癖とよく似ている。
「貴方が心から笑えるように――私は、強く、強くなりたい」
『魔法は心から生まれる』
この世界で今は常識とされるこの言葉は、元々後天的に魔法を使えるようになった人間をさして使われた言葉だ。
少女の髪は、瞳は、生まれかわる度に色を変える。
茶色の髪と瞳は、真っ赤な瞳と黒髪へと。
生まれ変わるたびに大きくなる魔力。
魂に刻まれたその決意は、力の弱い一人の少女を、国を守る器へと変える。
『貴方はまるで、いつも不思議な力に守られているような方ですね』
ベアトリーチェは昔、魔王討伐の後に、ローズにこう言った。
魔法は心から生まれる。
その想いの強さは、誰にもはかることなんて出来やしない。
その誓いは、彼女の剣を神の頂にまで近付ける。
測定不能の魔力も、『剣神』の名も。
彼女のはじまりの全ては、ただ一人に捧げられたものだ。
彼女の魂はずっと、その『誰か』を探している。
――その人物の、名前は?
「私は…………」
いつの間にか、空に映し出された映像は姿を消していた。
そしてリヒトの碧の瞳は、今は紅にその色を変えていた。
その色は『光の王』と同じ――今のローズと遜色ない、強い魔力を持つ者の証だった。
「魔法が……魔法が、使える……!」
リヒトの手に宿るのは、『王』に相応しいとされる火の力。
けれど溢れる魔力の制御を上手く出来ず、リヒトが作り出した火は火柱となって大きく燃え上がった。
「う、うわ!? ……あっ、あつっ!!!」
「リヒト!」
「リヒト様!」
「何をしているんだ君は!」
「何やってるの!」
リヒトの行動を見かねて、レオン、ローズ、ロイ、ロゼリアが、慌てて魔法を発動させる。
四人が放った水魔法は、リヒトに盛大に降りかかった。
「……へ?」
一瞬でびしょ濡れになったリヒトは、何が起こったかわからずに呆然としていた。
アカリは、そんなリヒトを見て微かに笑った。
その瞬間、アカリの体はゆらりと傾いた。
「アカリ!」
「――すいません。ローズさん。私……少しだけ、眠くて……」
魔力の使い過ぎだ。
そのことに気付いて、ローズはアカリのために光魔法を発動させた。
「ありが、とう……。ありがとうございます。アカリ……っ!」
リヒトが魔法を取り戻せたのは、アカリのおかげだ。
ローズはアカリを抱きしめた。
「貴方の。……貴方の、おかげです」
「――いい、え……」
「ローズさんが……みんなが、居てくれた……おかげ、です」
かつて、ローズが魔王を討伐した日。
ユーリの腕の中でローズが口にした言葉と同じ言葉を告げて、アカリはローズの腕で小さく笑い、そのまま深い眠りについた。
『最も高貴』。
そう呼ばれる生き物は、楽しそうに、目の前を飛ぶ蝶を追いかけている。
美しい春の風景。
しかしその背にのる青年は、慌てた様子で、天龍の背にしがみついて叫んでいた。
「待て。フィンゴット! 俺が乗っているときにそれはやめろ! 俺が落ちるっ!」
彼の悲痛な叫びなどお構いなしで、天龍は野原を駆けていく。
そして池を前に地面を強く蹴ると、天龍は青年を池に振り落とした。
「うわああああッ!!」
――悲鳴。
ばっしゃーん! という大きな水音ともに、盛大に池に落ちた青年は、咳き込みながら池の中から起き上がった。
「うえ……っ。水飲んだぞ……。ったくもう、何なんだよ。今日のあいつは……」
金色の髪に赤い瞳。
美しい外見をした青年の頭には、青緑色の蛙が乗っかっていた。
ゲコ、ゲコゲコ。ゲコゲコゲコゲコ。
蛙は青年の頭を蹴ると、ゲコ、という声と共に水の中に帰っていく。
「ふふふ……あはははっ! 相変わらず剣も魔法も、そして契約獣も、陛下は本当に自由ですなあ!」
すると、無様というに相応しいびしょ濡れの青年を見て、老年の騎士が豪快に笑った。
その声を皮切りに、どこからともなく笑い声が上がる。
青年は最初こそ不満顔だったが、自分の失態をきっかけに楽しそうに笑う人々に気付くと、一度きょとんとした表情《かお》をして、それからどこか満足げに、彼自身も微笑んだ。
その時、空からまるで彼らを優しく見守るように、どこからか薄紅色の花びらが降ってきて、青年は空を見上げた。
見れば空には、虹がかかっていた。
美しい、空の色。
神々が住まうという青い空――セレストブルーに架かる虹は、まるで天上と地上を繋ぐ、虹の橋のようだった。
それがまぶしくて、綺麗で。
青年が目を細めて虹に手を伸ばそうとすると、『何か』が彼の体を頭から飲み込んだ。
ぱくんちょ。
「……フィンゴット。助けてくれるのはいいが、頭から俺の体を噛むな」
自分を池に落とした本人に、引き上げるためにぱくりと体を口に含まれ、溜め息とともに彼は顔を顰めた。
池の水とは違う、服についた『それ』に触れれば、透明な糸がのびる。
「ああもう……。べちょべちょじゃないか……」
「――我が君。こんなところで遊んでいないで、政務をなさってください」
彼ががっくり肩を落としていると、小さな少年がハキハキとした声で言った。
「ユーゴ。いやこれはだな、別に遊んでいたわけじゃなくて、皆に騎乗の訓練を……」
「言い訳は結構です。その格好では、皆に示しがつきません。早急にお着替えください」
「……はい……」
『我が君』
子どもは青年をそう呼んだが、これではどちらが立場が上か分らない。
立ち上がろうとした青年は、足下に貯まっていた唾液で足を滑らせ、体に更に葉や泥を纏わせた。
ユーゴと呼ばれた少年は、その様子を見て深く溜め息を吐くと、青年に手を差し出した。
「我が君、参りましょう」
子どもは騎士たちに小さく頭を下げると、青年の手を引いて歩いた。
いつものように、強制的に執務室へと連行された青年の後ろ姿を見送りながら、騎士たちは話を続ける。
「宰相殿はリヒト様のせいか、日々お疲れのようですな」
「いやはや、『神の祝福を受けた子ども』――リヒト様が彼を迎えられた時は、どうなるかと思いましたが、今ではこうやって隣にいらっしゃるのが、当たり前に思えるのだから不思議なものです」
その声は、誰もがどこか楽しげだ。
「なんと申しますか、実に微笑ましい光景ですな。私の孫もちょうどあのくらいの背格好なので、ついつい彼を私は子ども扱いしてしまいがちなのですが、リヒト様が隣にいらっしゃると、彼がリヒト様より歳上だと感じるのですよ」
「確かに、そう私も感じます」
「昔から、祝福の子の忠誠を得る王は優れた王であるとされるが、彼がリヒト様を選ばれたのは、なんとも不思議としか言いようがありませんな」
「いやまあ、こう言う俺たちも、リヒト様に仕えているんだがな」
「違いない」
はははは、と笑い声が響く。
その国は一人の王を中心に、いつも笑い声に満ちていた。
◇
「うう。流石に疲れた……。大陸の王や海の皇女と、久しぶりに遊びたい」
漸く執務を終えた彼は、ペン置いて机にうつ伏せになった。
「我が君。言っておきますがあの方々は、貴方の遊び相手ではないのですよ」
「何を言うんだ! 学校を作ろうという俺の話に乗ってくれた二人とは、熱い友情で結ばれている!」
青年は拳を握って熱弁した。だが、ユーゴの反応は冷めていた。
「ですが我が君、貴方もあの御方方も、そうやすやすと、時間を取れる方ではないのはおわかりでしょう?」
「……」
「ロイ・グラナトゥム様もロゼリア・ディラン様も、立場あるお方です。貴方だって、それはわかって……」
いつものように『常識』を説く。
ユーゴの説教を黙って聞いていた青年は、ユーゴが席を外した途端、いいことを思いついたとばかりに瞳を輝かせ、勢いよく立ち上がった。
「よし。神殿に行こう!」
この世界にある各国の王都に存在する神殿には、共通点が一つある。
それは各国の神殿に一つずつある水晶が、現存する唯一の魔力をためおくことができる石であり、光魔法のみだがその石を使い魔法が使えることだ。
その石にはかつては空をも貫く巨大な水晶だったと言うまことしやかな話があり、事実各国にある水晶は元は一つの石である場合の性質である、「石を通して通信」が可能であり、石は光魔法での国の守護と通信に用いられている。
ただ、この「通信」機能は特定の国を指定できないず石を持つ全ての国に情報が伝わるため、この石の力は基本、有事の際にしか使われてこなかった。
「なあ二人とも、今度俺の国に来ないか?」
その石を使って、青年は「会いたい」二人と話すことにした。
『君……。突然連絡を寄越すものだから、神官たちが困っていたぞ。連絡するなとは言わないが、前もって教えておいてくれ』
『そうよ。全く、貴方って人は礼儀ってものを知らないんだから』
王城に居たところ、突然青年から連絡が入ったと伝達があり、慌てて神殿に赴いた二人の王は、石に映し出された満面の笑みを浮かべる青年を見て溜め息を吐いた。
「すまない。……でも、今俺はロイたちと話したいって思ったんだ」
素直に謝罪した青年の言葉を聞いて、ロイとロゼリアは「全く」と呟いて苦笑いした。
『まあいい。丁度俺も仕事は一段落はしたところだったんだ。それにしても……最も高貴な生き物とされる一族の生き残り――フィンゴットは君の話だと、随分自由な気性なんだな』
『ロイ、違うわ。彼が舐められているだけじゃないかしら』
「いや、そんなはずは……! あ、でも……実際に顔を舐められて転んだせいで、顔に葉がついたりしてこの間はとんでもないことに……」
『水晶』ごしのロゼリアの言葉に、青年の顔に焦りが宿る。
優秀なはずなのに、決してそうは見えない青年に、二人の王は『水晶』ごしに笑いをこらえていた。
その瞬間、青年の背後の扉が勢いよく開いた。
「我が君! 仕事をさぼって神殿の石を使うとは何事ですか!」
『おや、笑っている場合ではなかったな。お目付役が来たようだ。ロゼリア。俺たちはそろそろ退散するとしよう』
『そうね。貴方、次に繋ぐ時は、出来るだけ前もって連絡を入れてちょうだい』
水晶越しにユーゴの姿を見たロイとロゼリアは、無情にも水晶に布をかぶさせた。
途端、青年から見える『視界《がめん》』は、暗くなってしまう。
「待……っ!」
――俺を一人置いていかないでくれ!
しかし青年が水晶に触れるも、なんの反応もない。
「――我が君?」
一人残された青年は、背後から聞こえる自分を呼ぶ冷たい声に、ぎくりと体を震わせた。
「ゆ、ユーゴ……」
ぎぎぎぎ……。
そんな音が聞こえそうなほど、青年はゆっくり振り返った。
「我が君! その石は使うと、お二人だけでなく世界中の神殿の石に繋がってしまうのをご存知ないわけではないでしょう!? この石は世界が危機に陥ったとき、そのような大事の時にのみ使うことを許されているのですよ!? それなのにそれを、貴方と来たら!」
ガミガミと怒る少年に対し、青年は視線を逸らして、小さな声で反論した。
「……別にバレて困ることは話してないし、あの二人が国をあけたからかって、おいそれと他国に攻め入られるような守りしかない国じゃないから大丈夫だろう? それに俺は、他の国の人間が俺たちの話を聞くのも、何なら会話に混じるのも、いいことだと思っているからこうするんであって……。三国の仲が良好だと示すのは、国益にこそなれ、問題はないと思うんだが……?」
「貴方はそう、どうして詭弁ばかり……!」
反論したせいでユーゴに更に小言を吐かれ、彼は暫く頭を上げることが出来なかった。
◇
「なるほど。それで、今日はマトモな出迎えだったわけか」
数日後。
青年の願い通り、大国から二人の王がクリスタロスを訪れた。
「うう……」
今日の青年の格好は、ロイやロゼリアが知る『彼』とは、随分出で立ちが異なっていた。
随分王らしい――いや、普通だ。
そのせいで二人は、思わず『彼』が本人か疑ってしまった。
「君、前回俺たちにこの国に招いたときは、突然ピクニックに行こうなんて言い出したじゃないか」
「あれは、『異世界人《まれびと》』の本でそういうものを見かけて、ピクニックっていいなあって思って……」
「まさか他国の王の手料理を振る舞われる日が俺の人生であるなんて、思ってもみなかったぞ」
青年は、ロイの言葉を聞いて――おずおずと彼に尋ねた。
「いや、でも……! ま、不味くはなかっただろ?」
「ああ。『不味くは』なかったな」
「含みのある言い方をするなよ」
「君が先に言い出したんだろう?」
ロイに強い口調で返されて、リヒトは怒られた子どものように肩を落とした。
「だって、せっかく二人が遊びに来てくれたんだから、のんびり俺の国を楽しんで欲しいって思ったんだ……」
『悪気はなかったんだ』――そう語る青年は、一国の王で立派な成人男性のはずなのに、ロゼリアよりも小さく見えてロイは思わず笑ってしまった。
「全く君は……本当に、面白い男だな」
「ロイ、違うわ。この人は子どもっぽいのよ。発想も奇天烈だもの。本当に何が出てくるか分からない、びっくり箱みたいな人」
「それ、俺のこと褒めてるのか? 貶してるのか?」
「その問いには答えないわ」
ロゼリアは、困った顔をした彼を軽くあしらう。
そんな彼女の横で、『結局どっちなんだ……?』と、青年は至極真面目な顔して頭を捻った。
「まあ確かに、君が年の割に落ち着きがないのは事実だろうな。君もそろそろ妃を迎えるべきだろうし、落ち着きは身につけるべきかもしれないな」
「でも、それをいうならロゼリアだって……この間、結婚話が破談になったと聞いたけど」
「私に話を振らないで。 大体、魔力が強すぎて怖いとか、そんな貧弱な男はこちらから願い下げだわ!!」
「ご、ごめん……」
声を荒げたロゼリアに、青年が慌てて謝罪する。
「もう二度とその話は私に振らないことね。分かった?」
「あ、ああ……」
「もういっそ、君たち二人が結婚すればいいのにな」
ある意味息ぴったりな二人を見てロイが呟けば、二人は同時に同じ言葉を発した。
「遠慮しておく」
「遠慮しておくわ」
沈黙。
ロゼリアは青年の襟元を掴むと、ぎりぎりと締め上げた。
「何? 私じゃ不満だって言うの?」
「ちが……っ! そ、そういうわけではなくて! 俺もこの国の王だから無理だろって話で……!」
「そう。それなら許してあげるわ」
ロゼリアはそう言うと、ぱっと青年を締め上げていた手を離した。
ロイは横暴な妹分《ロゼリア》には一切手を上げず、彼女の理不尽に付き合っている友人を見て苦笑いした。
「ロゼリアの話は置いておいて、君は本当に落ち着きは持ったほうがいい。今のように子どもっぽいままでは、色恋なんて無理だろう」
「……!! ロイ! 俺が子どもっぽいから、恋愛出来なさそうってどういうことだよ!」
「言葉のままの意味だ。君はいい年して経験が無さ過ぎる」
「ふふふふふ」
ロゼリアは、ロイの言葉にお腹を抱えて笑いだした。
「五月蝿い! ロイ、既に結婚してるからって馬鹿にするなよ! あとロゼリアは笑うな!」
「まあ、君と俺が出会ったのは俺の結婚式だったからなあ。あの時の贈り物を見たときは、立派な青年に見えたんだが……。ちなみに、君はどういう女性が好みなんだ?」
「そうだなあ……。大人しくて、女の子っぽくて、俺の一歩後ろをついて来てくれる可愛い子かな」
「独創的過ぎる君についてこられる女性が、そんなおしとやかなわけがないだろう」
照れながら理想を述べた青年を、ロイは一刀両断した。
彼は思わず膝をついて倒れ込んだ。その様子を見て、ロゼリアはポツリ呟く。
「貴方には似合わないわ」
「ふざけんな!」
青年は思わず顔を上げて叫んでいた。
「その怒り方が子どもっぽいんだよ。だから駄目なんだ君は」
「モテませんわねえこれは。王だというのに、相手が居ないんじゃなくて? おしとやかな女性は、貴方のような方は好みませんわ」
「二人とも五月蝿い!」
――せっかく会えたのに、なんで俺にひどいことばっかり言うんだ!
彼は憤慨したが、大国の二人の王は終始笑ってばかりだった。
ロイとロゼリアが帰国した翌日、青年はサボった分の仕事をユーゴに積み上げられていた。
「……二人に会いたい。会って話がしたい」
山積みになった仕事を素早く片付けて、彼が小さな声で呟けば、ユーゴは元気のない彼にお茶を差し出した。
『神に祝福された子ども』――ユーゴは元々、青年に王城に招かれるまでは、森に一人で暮らしていた。
そのこともあり、ユーゴは森を思わせる香りがするものを好んでいた。
「我が君。いい加減、もう少し落ち着きというものを身につけてくださいませ。先日お二人に会われた時も、馬鹿にされていたではありませんか」
「いや、あれは……だな。信頼故の軽口って言うか……本音を言い合えるのも友情だろ?」
爽やかな香りが部屋に満ちる。
「私にはわかりかねます」
「いやでもまあ、ひとつだけ、俺も気に食わない話があったな。酷いと思わないか? 中身が子どもっぽいから、恋愛出来なさそうってどういうことだよ!」
「その言葉には私も賛同いたします」
「おいユーゴ、お前もか!」
『裏切られた!』とばかりに、青年は声を上げる。
「ところで我が君。貴方の理想は、一体どんな方なのですか?」
「そうだなあ……。大人しくて、女の子っぽくて、俺の一歩後ろをついて来てくれるそんな可愛い子かな」
「独創的過ぎる貴方についてこられる女性が、そんなおしとやかな方であるはずがないではありませんか」
「お前まで悪口言うなよ!」
臣下からさえロイたちと全く同じ言葉が返ってきて、彼は思わず叫んだ。
「率直な意見を申し上げたまでです」
「はあ……ったくもう……。俺の周りは、本当に俺に遠慮が無い奴ばっかりだな。これでも一応国王なんだが」
「私は、それも貴方の人徳だと思っておりますよ。人の言葉を聞き入れて、自分に対する暴言にも手を上げない貴方だからこそ、人はみな率直な意見を口にできるのです」
「……褒めるのか貶すのかどっちかにしてくれ……」
ユーゴの言葉に、彼は少し間を空けてから、顔を真っ赤に染めた。
いくら顔を覆おうと、耳まで赤くなっては隠すことが出来ない。
「照れていらっしゃるのですか?」
「う、五月蝿い。しかし……恋、か」
そう言うと、青年は机に肘をついて思案するそぶりを見せた。
「我が君?」
「でも俺はさ、この国の王だから。自分の感情よりもきっと、国の為に結婚すべきとは思ってはいるんだ。俺の結婚相手は、魔力の高い人間が望ましい。……結局は、俺の意思よりも、そっちの方が大切だよな」
彼はそう言うと、同意を求めるようにユーゴのほうを見た。
「……行儀が悪いので、その格好はやめてください」
「今言うか!? それ!」
しかし帰ってきた言葉は予想と反し、青年は思わずツッコんだ。
◇
「そういえば今年は、騎士団に一人女性が入ったんだよな」
書類にサインをしながら、青年はユーゴに思い出したように尋ねた。
「はい。何でもその方は女性から恋文をもらうこともあるとかで、巷では『薔薇の騎士』とも呼ばれて人気があるそうですよ」
ユーゴは苦笑いした。
珍しいユーゴの表情に、青年はくすりと笑う。
「まさかあの制度を利用して、騎士団入りをする実力者が出るなんて思いもしなかった」
「これまでは、騎士団は男性ばかりでしたからね」
クリスタロス王国には、王国騎士団が存在し、その団員は男性で構成されていた。
そんな中、二つ名を持つ人間を倒し、一人の少女がクリスタロスの騎士団に入団した。
「男所帯だろうし……何か困っていることはないか、せっかくだし直接会って聞いてみようと思うんだ」
『ローズ・レイバルト』紙に書かれたその名を見て、青年はぼつり呟いた。
「一体、どういう女性なんだろう?」
青年は急ぎの書類を全て片付けると、騎士の訓練場へと向かった。
「陛下! 申し訳ございません。今日いらっしゃるとは伺っていなかったので……」
青年の突然の来訪に、真面目そうな少年が頭を下げた。
青年は気にするなと軽く手を上げた笑った。
「ああ、いや。今日は少し様子を見に来ただけなんだ。俺のことは気にしないでくれ。さて、噂の彼女はどこに……」
青年が周りを見渡していたときだった。
彼は何者かによって体を強く押された。
「危ない!」
「えっ?」
――誰かに押し倒された?
上から降ってくる声は、意思を感じる凛とした声。だがその声は、男性のそれではない。
「大丈夫……ですか?」
青年は自分の代わりに水を被った少女を見て、大きく目を見開いた。
亜麻色の髪に、琥珀の瞳。
長い髪は高く結われ、その瞳は、まるで剣のような鋭さを宿す。
「……貴方が、ご無事でよかった」
「ローズ!」
彼女の後ろからは、慌てた様子の別の騎士がやってきていた。
「申し訳ございません。実は私、魔法があまり得意ではなくて。友人に稽古をつけてもらっていたのですが……」
話によると二人で訓練を行っていたが、自分を押し倒した少女がそれを受け止めきれずに起こった事故ということだった。
「申し訳ございません。陛下」
「俺は大丈夫だ。それより君、体に痛いところは無いか?」
「いいえ。陛下のお手を煩わせるようなことは」
「そうですよ。リヒト様」
「……神官がどうしてここに?」
『神官』と呼ばれた音は少女の頭に無遠慮に手を置くと、無理矢理頭を下げさせた。
「妹がご迷惑をおかけしてしまってすいません」
「……神官の妹?」
神官というには不似合いな、黒いローブを纏った青年は、妹だと言った少女と違い、黒に近い髪に朱色の目だった。
魔力による外見の変化。
その血筋では、本来ありえないはずの色。
「妹の怪我は俺が見るので大丈夫です。昔からそそっかしくて」
「今の私があるのは兄上のせいです。兄上が私を弟のように扱うから」
「妹の扱い方なんてわかるか! お前の性格は俺のせいじゃなくて昔からだろ」
外見は全く違う。けれど二人は、誰が見ても『兄妹』だった。
「では、俺たちはこれで」
『神官』は、不満顔の妹を引きずるように引っ張った。
青年は、その姿を黙って見送った。
「……ユーゴ。今の女性が?」
「はい。彼女がローズ・レイバルト。『薔薇の騎士』と呼ばれている女性です。二つ名を持つ騎士を倒し、唯一女性で騎士団に入団を果たした、神官殿の妹君です」
「薔薇の、騎士……」
「我が君、どうかなさいましたか?」
「いや……」
青年の頬がほんのりと赤く染まる。彼は落ち着かない様子で胸をおさえた。
◇
青年はそれから、騎士団を訪れるときは、必ずローズに声をかけるようになった。
「見てくれ! 薔薇の騎士!」
青年が手を開くと、紙の鳥が一斉に空へと飛び立った。
「これは、一体……」
「驚いたか?」
「紙の鳥が空を飛ぶ。面白い魔法だろう?」
「……資源の無駄です。一体なぜこんなことを?」
「だって」
ローズは青年の期待より少し冷めた反応を見せた。
「……君が、笑ってくれるかと思ったんだ」
え?」
「いや、もともと大陸の王の祝いに作ったんだが……。君が笑ってくれるかと思って」
「……リヒト様。貴方は国王なのですから、こんなことをして私を驚かせるより他に、やるべきことが沢山おありではないのですか?」
「はい……」
淡々と諭され、青年は肩を落とす。
「でも、この魔法――手紙に使ったら良さそうですね」
「なるほど。それは確かにいいかもしれないな」
その後『紙の鳥』は、誰もが使える伝達手段として使えるよう、青年は魔法の研究を行った。
そんな二人のやりとりを見ていたとある騎士は、ローズに笑って言った。
「ローズさんは、リヒト様と仲が良いのですね?」
「最近よく声を掛けていただくことが多いのですが、何故私なんかに……。この国で、女騎士が珍しいからでしょうか?」
「いえ、リヒト様はただ……」
「そういえば先日はお菓子をいただいたんですが、リヒト様には私がそんなに物欲しそうに見えていたんでしょうか? 確かに甘いものは、昔から大好きですが……」
「ローズさん。それ、本当にそう思っているんですか?」
「はい。だって、他に何か理由があるんですか?」
「……………ローズさんは本当に、こういうことに疎い方のようですね……?」
「え?」
首を傾げるローズを見て、童顔の騎士は苦笑いした。
その後青年は、弟である第二王子も連れて訓練場へとやってきた。
強い魔力を持ち、魔法の研究は追随を許さない。
優秀な兄と比べられて育った年の離れた第二王子は、少し気弱な少年だった。
しかし彼は兄を敬愛し、そして青年も弟をとても可愛がっていた。
「兄上がとんだご迷惑を」
「いえ。レオン様が謝られることではありませんよ。レオン様は真面目ですね」
「――それだけが僕の取り柄ですから。せめて少しでも、兄上に追いつきたくて」
「レオン様はリヒト様を尊敬されているのですね」
「はい! 兄上は少し抜けたところもあって頼りない時もあるのですが、本当に兄上の魔法はすごくて――僕は将来、兄上をお支えしてお守りするのが夢なんです!」
「抜けているというか、ずれているというか、頓珍漢というか……。人間味があるといえば、そうなのですが……」
「僕は、それも含めて兄上の魅力だと思っています。だから、きっと兄上の周りには沢山人が集まる。……僕は、兄上とは違うから」
「レオン様」
「?」
「レオン様は、レオン様ですよ」
「…………はい」
ローズに微笑まれ、幼い王子は頬を染めた。
その様子を見て、騎士は溜め息を吐いてローズの肩を叩いた。
「ローズさん、無自覚にレオン様に茨の道を歩ませないでください……」
「?」
ローズはありのままのレオンを肯定したが、その後レオンは、上昇志向の強いロゼリアとぶつかり、喧嘩しながらも交友を深めていく。
それは光の巫女が書いたという、『はぴねす』に描かれた二人のように。
◇
ある日のことだった。
ローズに元に、神殿に勤めていてなかなか外出を許されないはずの兄がやってきた。
「ローズ」
「兄上」
「リヒトがここに来なかったか?」
彼は青年を探していた。
「いいえ。今日はお見かけしていません」
「おっ。レオンは来てたんだな」
「……頭を撫でないでください」
「撫でたくなるんだよなあ。お前は弟みたいなものだしな」
「神官のくせに、言葉遣いがなっていませんよ」
レオンは顔を顰めたが、神官はどこ吹く風だった。
「いいんだよ、俺は俺なんだから」
「兄上、一体どうされたのです? 何かご用でも?」
「いや、何でもない。ここに居なかったならいいんだ。少し、リヒトの水晶に影が見えてな。……多分、俺の取り越し苦労だろうが」
「『先見の神子』の兄上の水晶に影……?」
「ただ、今の俺は神殿勤めで力が少し制限されてるから、今のままだとよく見えないんだよ。だから、リヒトに許可を貰って詳しく調べようかと」
『先見の神子』は神殿で働くに当たり、魔法を制限されてた。
大きな魔法を使うには、神殿と国王の両方の了解を得る必要があると彼はローズに話をした。
青年が行方をくらましては臣下たちが捜索するということは、たまにあることだった。
その日、青年を捜し当てたのは童顔の騎士だった。
「リヒト様! お探ししましたよ! ……その花は?」
騎士が青年を見つけたとき、彼はとある花を手にしていた。
それは、地属性を持つ騎士が知らない『新種』の花だった。
「この花は、『屍花』というんだ。綺麗だろう? でも、切なくもある。病で亡くなったものたちのの墓の上に咲く、治療薬となる花。ベアトリーチェ、君は地属性の魔法が使えるんだろう?」
「ええはい……」
「いつか君のように魔法を使える人間に、薬学・医学と魔法の壁を、超えてほしいと俺は思っている。無理にとは言わない。でももし、それが叶ったら。俺はこの世界は、もっと優しい世界になるんじゃないかって思うんだ」
青年は優秀だった。
だが、今の自分に薬の研究までは行う余裕はないからと、彼は騎士に――ベアトリーチェに話をした。
また別の日。
ベアトリーチェが青年を見つけたのは、魔物との戦闘で腕をなくした男の家だった。
男は神殿での治療費が高価なこともあり、治療も出来ず片腕を失い職を辞した騎士だった。
「君は、忘却魔法というものを知っているか?」
自分を見つけたベアトリーチェに、青年は尋ねた。
「……いいえ」
「心に与えられた負荷が魔法に繋がるという考え方はある。しかし、辛い思いを抱えたまま生きることは難しい。なら俺は、その痛みを忘れることも、生きていくうえでは必要なのかもしれないと思うんだ」
『魔法は心は生まれる』
力をつけるため、無理な訓練を行う者がいることを青年は危惧していた。
そして青年は、心に傷を負った者に後天的に魔法が発現する事例は確かにあるが、多くは心的外傷により廃人になるということを、ベアトリーチェに話して聞かせた。
大国グラナトゥムでは、ロイが治めるより昔の時代、人為的に魔法を発現させるために、人の心に傷を負わせる研究が行われていたという。
そして青年は、その被験者たちを救うためにも、『忘却魔法』という新しい魔法を作り出したと言った。
「民と共にあれ。民と友であれ。それが、俺の理想だ。この国の多くの人間は魔法を使えない。俺は、人と人との壁をなくしたい。誰もが笑い合える、そんな国を作りたいんだ」
「陛下。陛下がそう望まれるなら、私は貴方の望みのままに、最善を尽くしましょう」
「ありがとう。ベアトリーチェ」
青年が礼を言えば、ベアトリーチェは笑った。
青年はそうやって、様々な人々と交流を重ねていた。
その中には、ユーリによく似た者の姿もある。
彼が望む知識を簡単に得ることが出来るように――青年は図書館に、望む本と出会えるように魔法をかけた。
◇
ある日のこと。
青年と弟のレオンは王の執務室で話をしていた。
「魔法の複製を禁じる魔法?」
「はい!」
レオンは元気よく返事をした。
「兄上の作ったものは、恐らく他国でも利用が可能なものでしょう。しかし、特別なこの魔法に価値を与えることで、我が国の国力を上げることが可能だと僕は考えます。魔法の収益化。これが見込めれば、クリスタロスは、もっと栄えることができると思うんです」
「魔法を……」
笑顔で話すレオンを前に、青年は顔を強ばらせた。
「提案をありがとう。悪いがレオン、この件については少し考えさせてもらってもいいか?」
弟が部屋を出て行くのを笑顔で見送り、青年は頭を抱えた。
「……今よりも使える人間を狭めた『技術《まほう》』に価値を与えすぎれば、格差を広げることになりかねない。誰もが魔法を使える世界。そんな世界を望んで、僅かな魔力でも魔法を使えるように研究をしてきたのに」
生活を便利にする、誰もが使える魔法。
青年は、そんなものを望んでいた。
――わからない。誰かの幸福を願うこの心に、価値を与えることが、本当に正しいことなのか。
「レオン……。俺は、俺の考えは、間違っていたのか?」
青年の問いは、誰にも届くことなく消えていった。
それからも、変わらない日常は過ぎていった。
ある日レオンは、兄が紙の鳥を飛ばしているところに出くわした。
「兄上、何をなさっているんですか?」
「鳥がどこまで飛ぶか試してみようかと思って。……『手紙』みたいな?」
「……兄上、一体誰に『手紙』を出されたです?」
「大陸の王と海の皇女に」
「兄上! すぐに戻してください。兄上!」
兄がまた突拍子もない内容を他国に送りつけたのではと、レオンは慌てて叫んだ。
「無理だ。一度飛ばしたものは戻せない。この魔法は、まだそこまでの性能は付けていない」
「兄上――!!!」
『紙の鳥』を受け取ったロイとロゼリアは、それを受け取って笑った。
「相変わらず自由な発想の持ち主だな。かの国の王は」
「しかし、この魔法は複製を禁じられているようですね? こんな魔法も作れるなんて、やはり彼は天才と呼ぶべきなのかしら」
「馬鹿と天才は紙一重というだろう」
「――確かに」
「これを、クリスタロス王国へ届けさせろ」
ロゼリアは、ロイが手にしていたものを見て尋ねた。
「あら。『幸福の葉』を彼に贈るの?」
「彼が誰に渡すか知りたいと思わないか?」
いたずらっ子のような顔をして笑う従兄弟を見て、ロゼリアは笑った。
◇
爽やかな風が吹いていた。
ある晴れた日に、木陰で涼んでいたローズに、青年は尋ねた。
唯一の女性騎士。
青年はなぜ、ローズが騎士になりたいと思ったのか疑問だった。
「君はどうして、女性なのに騎士になりたいと思ったんだ?」
「リヒト様。性別で人を判断するのはやめてください」
不機嫌そうな顔をしてローズが言えば、青年はためらいなく頭を下げた。
「す、すまない……」
「私、昔兄上から聞いた話で、好きな話があるんです。確か題名《タイトル》は『騎士の結婚』――いえ、『ガヴェインの結婚』というお話だったかと思うのですが……」
その話は、青年は知らないものだった。
「陛下は、『すべての女性の願い』とはなんだと思われますか?」
「……守られて暮らすこと? 子どもを産んで、夫婦仲良く、健やかで幸せな家庭を築いて……」
「違います」
青年の言葉を、ローズはぴしゃりと否定した。
「なら、一体何なんだ?」
そしてローズは、笑って答えた。
「正解は、『自分の意志を持つこと』です」
「…自分の、意志……?」
リヒトは、ローズの言葉に目を瞬かせた。ローズはそんな彼の顔をじっと少し眺めてから、青く晴れた空を仰いだ。
「でも私は、それはどんな人も、同じだと思うんです。『選択』が人を作る。だとしたら、性別も立場も関係ない。自分の意志で、望む自分を、未来を選ぶこと――それこそが、私は幸せなことだと思うんです」
ローズはそう言うと、胸に手を当てて青年を見た。
「私は選択の自由を与えられ、兄上と一緒にこの国を守りたいと思い、騎士に志願しました。そうして、沢山の人と出会った。ユーリや、ベアトリーチェさん、ローゼンティッヒさん。この世界ではまだ女性騎士は少なくて、でもそんな道を選んだ私を、認めてくれる人と出会えた。幼い頃は、魔力の強い兄上が神殿に行ってしまって寂しかったけれど――その間訓練をしていたおかげで、私は騎士になれた。兄上に守られてばかりの私じゃないと、今はそう思える。私、自分はとても幸せなんだと、今はそう思えるんです。だからこれからも、そう思えるように生きていくこと。そのために、自分の意思で選択し続けられる世界を守って、自分が貫くべき意思を持ちつづけること。それが、私の願いです」
「――……君は本当に、真っ直ぐな人なんだな」
熱の籠もった声で言うローズを見て、青年はまぶしいものを見るかのように目を細めた。
そんな青年の前に跪き、ローズは綺麗に微笑んだ。
「陛下のことも、私がお守りします。それが、私の『意思』です」
「ああ……。ありがとう。薔薇の騎士」
まっすぐに人の目を見て話す。
そんな彼女の瞳を見て、青年は少し頬を染めてから微笑んだ。
それからも二人の交流は続いた。
ある日、ローズは訓練中に契約獣の背から落ちそうになり、偶然その場に居合わせた青年はフィンゴットに乗って彼女を助けた。
「君は、一体何を考えているんだ!」
いつもは穏やかな青年に珍しく声を荒らげられ、ローズはびくりと体を震わせた。
「……君を失うかと思った。もう二度と、こんな危ないことはしないでくれ」
「大丈夫……です」
その出来事があってから、青年は訓練中の彼女の身を案じるようになった。
「この怪我は?」
「それはその、訓練で……」
「……あまり、体に傷を作るな」
「申し訳ございません」
「責めて居るわけじゃないんだ。ただ、俺が君には怪我をしてほしくないというか……」
「――陛下?」
二人がそんなやりとりをした日。
ロイから青年宛てに手紙が届いた。
『お前が好きな相手に渡せ』
手紙には、『四枚の葉』が同封されていた。
「……好きな……? それは……王である、俺には出来ない」
青年はそう呟くと、手紙を握る手に力を込めた。
「強い魔法を使えることを強者というなら、この国の多くの人間は弱者だ。俺は弱者の味方でありたい。そのために、俺はこの国の王として、強くあらなくてはならない。この国ためには、魔力の強い人間との婚姻しか認められない。彼女を、王妃に迎えたい。……でも」
魔力の弱い騎士と王とが、結ばれることなんて許されない。
この想いは、抱いてはならぬものだと知っている。
祝福されない結婚を、王である自分が選ぶことは出来ない。
『自分の意志を持つこと』
それが幸せだと語る騎士の顔を思い出して、青年は静かに目を瞑った。
王である自分に、身勝手な意思を持つことなど許されない。けれど自分の心を貫きたいと語る騎士の心を、守りたいと彼は思った。
「君を傍で守ることが出来ないなら、いつでも君を守ることの出来る魔法道具を作ろう」
魔力の使える人間と、使えない人間の差。
それは、魔力を貯蔵する器の大きさの差だ。
「そうだ。だったら……器の一部を、体外に取り出すことが出来れば……」
『自分の代わりに彼女を守る魔法』を作るため、彼は研究を重ねた。
「出来た!」
そしてついに、彼の研究は形になった。
「彼女を后に迎えることは出来なくても、これさえあれば、いつでも彼女を守ることが出来る」
その魔法を、青年は愛する女性のために使った。
「俺はこの魂をもって、彼女を守ると誓う。『誓約の指輪』よ。指輪の持ち主を守れ」
三重の魔法陣。
指輪を身に着けた者の身が危険にさらされた時に、魔法が発動するように彼は石に式を書き込む。
この世に二つと存在しない、複雑な形をした魔法陣は、彼が騎士として戦う彼女の為に作った最終兵器だ。
国を守るために、命の危機にさらされる可能性がある彼女の為に、彼はこの魔法をつくりだした。
「君を選ぶことはできなくても……。せめてこれくらいは、許されても良いだろう?」
「リヒト様……」
ユーゴは、青年の呟きに首を縦に振ることは出来なかった。
そんなユーゴに、青年は苦笑いした。
希望の光。
国を明るく照らす光のような王は、少し影のある笑みを浮かべた。
「指輪の魔法は成功だ。あとは他にも同じような物を作って、みんなが利用できればいい」
水を希釈して広げるように、魔力を溜めおくことの出来る石《うつわ》を作る。
自分の魔法に影響のない程度に、少しだけ取り出すだけのはずだった。
「大丈夫。俺なら出来る」
だがその彼の願いは、人の身には許されぬものだった。
「……がっ! あ、ああ、あああああああ!」
リヒトの叫び声に気付いた彼の弟と臣下が、勢いよく彼の部屋の扉を開ける。
部屋の中で、青年は血溜まりの中に倒れていた。
「リヒト様!」
「兄上!!」
ユーゴとレオンの悲鳴が響く。
血まみれの青年の傍には、大きな赤い石が落ちていた。
――苦しい。
青年の顔が苦痛に歪む。兄の喘鳴に顔を青くする、泣きそうなレオンは何もすることが出来ず、ユーゴはリヒトの脈を確かめながら、顔を顰めて叫んだ。
「我が君! ああ、どうして。どうして、こんなことを……! 魔法を。早く、光魔法を!!」
「だい、じょうぶ、だ。それは、俺が自分で」
治癒魔法を使おうとして、青年はとある変化に気が付いた。
――どうして、魔法が使えない?
◇
青年の事故の後、レオンは父である先王に呼び出された。
「どうして。どうしてなのですか。父上!」
「言葉の通りだ。リヒトは魔法を失った。あれはもう王とは呼べない。レオン。お前が、この国の王となるんだ」
「…………ッ!」
ずっと、期待なんてされていなかったのに。ずっと兄だけが、周りに愛されてきたのに。
小さな肩にのしかかる重圧に、レオンは、肩を震わせて唇を噛んだ。
自分を見つめる、兄を見捨てる者たちへの怒りと、期待への恐怖だけが、彼の中にはあった。
青年は日に日に衰弱していった。
訓練場に行くことも叶わなくなった青年のために、ローズは見舞いのため城に訪れた。
「リヒト様。体調が悪いというのは本当ですか?」
「……どうして君がここに?」
「レオン様が、城に来るように仰って――ここまで案内してくださって」
「ああ。でも、大丈夫だ。じきに良くなる」
「本当に?」
「少し、徹夜続きでいろいろ作っていたせいだろうな。だからそう心配そうな顔をしないでくれ」
青年は少女に、精一杯笑ってみせた。
「ですが……」
「大丈夫。この程度でくたばる俺じゃない」
「リヒト様……」
「『薔薇の騎士』」
青年は最期まで、彼女のことを名前で呼ぶことはなかった。
「はい。何でしょう?」
「……少しの間だけ、君の手を触れさせてくれないか?」
「え?」
「やはり、駄目か?」
「えっと、その……。…。わかりました」
青年が柔らかく微笑む。
「君の手は、温かいな」
「……っ!」
その笑顔が、本当に嬉しそうに見えて――ローズは顔を真っ赤に染めた。
「そうでした。これを」
「レオン様に教えていただいたんです。陛下の好物だと」
ローズが差しだしたホワイトチョコレートの中には、乾燥させた苺が入っている。
「ありがとう。では俺からは君にあれを」
青年はそう言うと、壁に掛けられた一本の剣を指さした。
「?」
「以前助けてくれたお礼に」
それは、ローズの祖父グラン・レイバルトの家に伝わっていた、家宝である『聖剣』だった。
「助けた? ……でもあれは、そもそも私のせいで」
ローズは、青年との出会いを思い出して言った。
「君に、持っていてほしいんだ」
「この剣に誓って、貴方の国を守ることを誓います」
「――ありがとう。薔薇の騎士。君の忠義に感謝する」
そして青年は、彼女に一枚の葉を手渡した。
「この葉は?」
「……おまけだ」
レオンはそう言ってローズから顔を逸らした。ハート型の緑の葉。ローズはそれがなにかわからず首を傾げた。
「?? ありがとう……ございます?」
剣と葉を受け取ったローズは、青年の快復を願って部屋を去った。
「ゆっくり、休まれてくださいね」
「ああ。――ありがとう」
ローズが部屋を出て行くと、代わりにレオンが彼の部屋へと入ってきた。
「……兄上は大馬鹿です」
「すまない」
「レオン」
「……はい」
「俺は、お前にこの国を任せたい」
「無理です。人には向き不向きがある。僕は王には向いていない」
「大丈夫。お前なら出来る」
「無理、です。……僕じゃ、無理なんです」
震える幼い弟の頭を、青年は優しく撫でた。
「誰も、俺のような王になれなんて言っていないさ。レオン。お前は、お前らしい王様になればいい」
「あに、うえ……」
レオンは優しい兄の最後の願いを叶えるために、涙を拭って決意を述べた。
「わかりました。――この国は、僕の国です。これからは……これからは僕が、兄上の代わりにこの国を守ってみせます」
「ありがとう。レオン。流石、俺の弟だ」
いつものように自分に優しい兄の言葉が、レオンは嬉しいのに胸が痛かった。
「なあ、レオン。お前にもう一つ、頼みたいことがあるんだ」
「はい。なんですか?」
レオンは精一杯の笑みを作った。
「俺の存在を、この世界から消してほしい」
「……え?」
レオンは、驚きのあまり言葉が出なかった。
「今回のことでわかった。俺の魔法は、今のままでは不完全なのかもしれない。未完成の魔法。この魔法に欠陥が発見された時、それに対応できる人間が今この世界には居ない。俺が作り出したものが、今後どう悪用されるか。その時どうするか、俺は考えていなかった」
子どものような自由な発想。
その心は空を目指して墜落する。
古代魔法。
この世界にはなかった特殊な魔法は、彼がたった一人だけですべて作り出したものだ。
情報はすべて彼の頭の中にある。クリスタロスは、グラナトゥムのようほど大きな国ではない。
その魔法がどのようにして世界を変える力を持つのか、その理由を、正しく理解できているのは作り出した青年一人だった。
彼は自分の魔法について、多くを人に語ることはなかった。
仕組みを理解せずとも、誰もが使える魔法を目指したからだ。
だが自分の命が失われようとしたとき、青年は怖くなった。
自分の作り出した新しい魔法が、いつかもし、今の自分のように、誰かの命を奪うことがあるなら――そのとき責任を問われるのは、愛すべき自分の国になるかもしれない。
――争いの火種になるかもしれない不完全な魔法を遺して、死ぬことはできない。
青年は、そう考えた。
「俺はもう魔法が使えない。だから……これは、お前にしか頼めないんだ。これは忘却魔法。俺も、俺の魔法も。全部この世界から消してくれ」
しかし、その魔法は不完全で。
魔法の存在の記述だけは、消すことが出来ず現代へと引き継がれた。
そして時を経て少しずつ、不完全な魔法は解け、かつて彼を慕った者たちの中に、『彼』の存在を蘇らせた。
「あに、うえ……」
青年を呼ぶ、レオンの声は震えていた。
「嫌です。だって、そんなの。この国の民が、どれほど……どれほど、兄上のことを」
たとえ兄の願いとはいえ、兄の存在を消す自分が、王になるなんて――そんなことは許されない。
「頼む。任せられるのは、お前しかいないんだ。お前に魔法が使えない筈がない。お前には力がある。ただそれに、気付いていないだけなんだ」
青年は、弟を信じていた。
自分と比べられ、そのせいでどんなに傷ついても、自分を兄と慕ってくれた優しい心を持った弟を。
「お前なら出来るよ。だってお前は世界でたった一人の、俺の弟なんだから」
その言葉は、ローズが大好きな兄の言葉と似ている。
「兄上は、残酷です。ひどい。ひどすぎます。こんな……こんなふうに、兄上の心を知りたくなかった」
「ごめん。ごめんな」
笑おうと努力しても、レオンは泣いてしまった。
そんなレオンを気遣うように、青年は小さな弟の頭を優しく撫でた。
「許してくれ。レオン。お前の馬鹿な兄を」
泣きじゃくる第二王子に笑いかける、そんな優しい声を聞いて、扉の向こう側で一人の男は血が滲むほど唇を噛みしめた。
予見されていた未来を、防げてはずの災厄を、防ぐことが出来なかった自分を苛んで。
起こってしまえば何も出来ない。運命は変えられない。
そんな自分の無力さが、ギルバートの瞳に涙をにじませる。
「――……リヒト……!」
青年とギルバートは、旧友のような、親友のような関係だった。
青年が王になれば、クリスタロスの繁栄は約束される。強い力を持ち、幼くして神殿ですごすこともあったギルバートは、青年とは偶然街で出会った。
身をやつして、『普通の子ども』のように遊んでいるときにできた友人だった。
お互いの立場が明らかになってからも、二人の仲は変わらなかった。
青年が王になったとき、ギルバートが青年に『祝福』を与えた。
クリスタロスでは王の即位の際、神殿で最も高位なものが、新しい王に花の枝を王に与える習わしがある。それは古くから、樹木を神とみなす信仰の名残で、王は神ではなく、神によりその地を統べる力を、分け与えられるということを認識させるための儀式である。
王は神ではない。
そう王に教えることが、神殿で最も高位であったギルバートの、いちばん大切な役割だった。
なのに、それが出来なかった自分なんて。
「何が『先見の神子』だ。こんなんじゃ、俺は、俺は……ただの『無能な預言者』じゃないか」
吐き捨てるようなギルバートの声は、ただただ虚しく響く。
光の王は、愛する女性の写真を指輪に仕舞った。
叶えてはならないその想いは、誰に明かすことも許されないと知っている。
それでも。
「太陽《かみ》に近すぎた人間は、蝋で固められた翼を失い墜落する、か。確かにその通りだ。人は、神にはなれはしない」
だからこれは、傲慢な願いに対する神の罰。
あらゆる願いを叶えられた、この世界で最も優れた力を持っていた王は、今はその全てを奪われる。
光の王は最期の瞬間まで、『彼女《きし》』のことを想った。
自分が死んで記憶がなくなれば、いつか違う誰かと結ばれるかもしれない愛しい人を。
「薔薇の騎士。――君に指輪は渡さない。でも、どうか。この心だけは、君の傍に居させてくれ」
自分の瞳と同じ色。
他とは違う、特別な人間である証。深紅の薔薇のような赤い指輪に、彼は口付けて目を瞑る。
閉じられた王の瞳は、二度と開くことはなかった。
「我が君……! 嫌です。目を開けてください。お願いです。私を、私を一人にしないでください。貴方が私に教えたんです。この世界に、あたたかな場所があることを。それなのに……それなのに……っ! 貴方が、貴方がいない世界なんて。私は、私は……!」
ユーゴが部屋に駆け込み、目覚めることのない王に呼びかける。そんな彼を、周りの者たちは王から引き剥がす。
取り乱して、泣き叫ぶ声だけが、部屋の中には響いていた。
◇
「陛下は、お亡くなりになりました」
「リヒト、様が……?」
『薔薇の騎士』が王の死を知らされたのは、それから少し時間が経ってからだった。
「亡くなったというのは、どういうことです!?」
王は、これからの国の守護を担うであろう騎士のうちの数名を、自分の
死後呼び寄せるように言葉を残していた。
「だって。だって……昨日まで、大丈夫だって、すぐに元気になるって笑ってたのに!」
ローズは告げられた事実が受け入れられず、思わず王城からの遣いの人間に掴みかかった。
「ローズ!」
そんなローズを、後ろから手を回してユーリは男から引き剥がした。
ユーリの服を、どこからともなく落ちてくる涙が濡らす。
「大丈夫だって、そう言ってたの……」
「ローズさん」
ユーリに支えられ、涙を流すローズの名前を呼んだのは、彼の弟である少年だった。
「……レオン様」
「兄上に、会われますか?」
レオンの問いに、ローズは静かに頷いた。
王の寝室で、青年はまるで眠るように息絶えていた。
「リヒト、様」
ローズは、彼の心臓に耳を当てるようにして――それから震える声で呟いた。
「どうして……?」
心臓の音がしない。
その事実が、彼女に現実を突きつける。
「目を、開けてください。……嫌です。こんなの。こんなのは。こんな別れは」
泣き崩れるローズの声が静かな部屋の中に響く。
ユーリとベアトリーチェは、レオンが目の前にいることもあり、ローズのように感情を顕わにはしなかった。
「陛下を失い、これからこの国はどうなるのでしょうか。陛下は、なんと仰っていたのでしょうか」
ベアトリーチェの問いに、レオンは静かに答えた。
「兄上は、『自分を消せ』と仰いました」
「え……?」
ベアトリーチェは、思わず目を瞬かせた。
「そんな。なんで……!」
ユーリは動揺のままに疑問を口にした。
「それが必要だからです。兄上は、兄上の研究も、自分のことも、この世界から消すようにと仰いました」
兄の死を嘆くこともなく淡々と語る。
非情な弟王子に、ユーリはレオンに掴みかかって叫んだ。
「レオン様……! 貴方は、リヒト様のことをなんとも思っていないのですか!? そんな非情なことが、許されるとお思いですか!? それほど……あの方を消してまで、貴方は王になりたいんですか!? それほどまでにリヒト様がお嫌いでしたか!?」
『レオン・クリスタロス』は、『リヒト・クリスタロス』に劣る存在だ。
それがその世界での、誰もの共通の認識だった。
だがそれでも――青年が兄として、弟を思っていたことを、国の誰もが知っていた。
「ユーリ!」
ベアトリーチェは、割って入って二人を引き離した。
長身のユーリに怒鳴りつけられている間も、レオンは微動だにしなかった。
「――僕が……兄上を嫌いだ何て、いついいましたか?」
だがその言葉を口にするレオンの体は僅かに震え、声は涙で微かに掠れていた。
「兄上は……兄上は僕にとって、誰より大切な人です。これまでも、これからも。ずっと、この気持ちは変わらない。だから、叶えるんです。僕がこの魔法を使うことが、この国を僕に託すことが、兄上の最後の願いだから。……だから……!」
いつも笑っていた優しい王様。
誰もが『彼』を愛し、誰もが『彼』を王にと願う。
そんなお伽噺のような優しい国で、彼はずっと一人悩んでいた。
この世界にある魔法が、人と人とに隔たりを作ることを。
彼のことを自由な人だと、きっと誰もが彼を思っていた。大変な時だって顔に出さずに、いつだって彼は笑っていたから。
本当の意味で、彼の心の痛みを知る者は居なかった。
だって彼は、それを明かそうとはしなかったから。
『民と共にあれ。民と友であれ』
それが理想だと語る優しい王様。
いつも笑っていた彼は、いつだって孤独だったというのだろうか。
その痛みは、全て彼だけの責任なのか。
「――僕が、この国の王となる」
小さな新しい王の言葉に、人々の声が続く。騎士の心は、民の心は、失われた王の下にあり続ける。
けれど、その記憶をとどめることは許されない。
だからその願いは、遠い未来に向けた、祈りの言葉だ。
いつかもう一度この国に産まれ、遠い未来、再び『彼』と出会うことが出来たなら。
「この国は僕が守る」
「わかった。……なら。この国の為に俺はこの目をつかう」
「ならば私は、この剣でお守りします」
それは彼らの、最初の約束。喪失への慟哭と、祈りと願いがこもる言葉。
その想いは、千年の時がたったとしても、彼らの魂に深く刻まれ強い魔法を生み出す。
「私……私は。貴方は一人ではないと、私が証明してみせる。私は、貴方の国を守ると誓う。この剣に……たとえこの魂が、何度巡っても。私は……私は、ずっと。ずっと……!」
赤い石の宿る剣を手に、亜麻色の髪の少女は言葉を紡ぐ。
「強くなりたい。今度は、貴方を守れるように。貴方が、一人で戦わなくてもいいように。すべてを一人で、背負わなくてもいいように。今度は私が、一緒に背負うから。大丈夫。……もう、大丈夫、だから」
それは、今のローズの口癖とよく似ている。
「貴方が心から笑えるように――私は、強く、強くなりたい」
『魔法は心から生まれる』
この世界で今は常識とされるこの言葉は、元々後天的に魔法を使えるようになった人間をさして使われた言葉だ。
少女の髪は、瞳は、生まれかわる度に色を変える。
茶色の髪と瞳は、真っ赤な瞳と黒髪へと。
生まれ変わるたびに大きくなる魔力。
魂に刻まれたその決意は、力の弱い一人の少女を、国を守る器へと変える。
『貴方はまるで、いつも不思議な力に守られているような方ですね』
ベアトリーチェは昔、魔王討伐の後に、ローズにこう言った。
魔法は心から生まれる。
その想いの強さは、誰にもはかることなんて出来やしない。
その誓いは、彼女の剣を神の頂にまで近付ける。
測定不能の魔力も、『剣神』の名も。
彼女のはじまりの全ては、ただ一人に捧げられたものだ。
彼女の魂はずっと、その『誰か』を探している。
――その人物の、名前は?
「私は…………」
いつの間にか、空に映し出された映像は姿を消していた。
そしてリヒトの碧の瞳は、今は紅にその色を変えていた。
その色は『光の王』と同じ――今のローズと遜色ない、強い魔力を持つ者の証だった。
「魔法が……魔法が、使える……!」
リヒトの手に宿るのは、『王』に相応しいとされる火の力。
けれど溢れる魔力の制御を上手く出来ず、リヒトが作り出した火は火柱となって大きく燃え上がった。
「う、うわ!? ……あっ、あつっ!!!」
「リヒト!」
「リヒト様!」
「何をしているんだ君は!」
「何やってるの!」
リヒトの行動を見かねて、レオン、ローズ、ロイ、ロゼリアが、慌てて魔法を発動させる。
四人が放った水魔法は、リヒトに盛大に降りかかった。
「……へ?」
一瞬でびしょ濡れになったリヒトは、何が起こったかわからずに呆然としていた。
アカリは、そんなリヒトを見て微かに笑った。
その瞬間、アカリの体はゆらりと傾いた。
「アカリ!」
「――すいません。ローズさん。私……少しだけ、眠くて……」
魔力の使い過ぎだ。
そのことに気付いて、ローズはアカリのために光魔法を発動させた。
「ありが、とう……。ありがとうございます。アカリ……っ!」
リヒトが魔法を取り戻せたのは、アカリのおかげだ。
ローズはアカリを抱きしめた。
「貴方の。……貴方の、おかげです」
「――いい、え……」
「ローズさんが……みんなが、居てくれた……おかげ、です」
かつて、ローズが魔王を討伐した日。
ユーリの腕の中でローズが口にした言葉と同じ言葉を告げて、アカリはローズの腕で小さく笑い、そのまま深い眠りについた。