「本当にリヒト様が、ユーゴの言っていた『王様』で、ローズさんの聖剣の石が、本当にリヒト様が、本来待つはずだった魔力なら、それを元に戻すことさえ出来れば……!」
「しかし、そんなことが本当に可能なのか?」
リカルドの問いに、アカリは静かに頷いた。
「はい。『光の聖女』として、この世界に招かれた『異世界人《まれびと》』として、どうかその魔法を、私にお許しください」
「でも、アカリ。貴方は……」
異世界に戻るためにアカリは、魔法を使ってはならない――そう聞いていたローズは、アカリの言葉をすぐには受け入れることはできなかった。
「大丈夫、ですよ。……あのね。ローズさん、私ね」
自分を心配そうに見つめるローズに、アカリは振り返って笑みを浮かべた。
「この世界に来るまでの私は、ずっと病室で、窓の向こう側の世界を眺めて生きていました」
アカリは、静かにそう言った。
「自分もあの世界に行きたい。自分がもしあの世界に行けたら、きっと自分は変われると、ずっとそう思って生きていました。でも違った。体が強くなって、向こう側の世界に行っても、心はずっと変わらないまま。結局私は、自分の世界に閉じこもって、必死に自分を守ろうとしているだけだった。……ローズさんは、そんな私の世界の扉を叩いてくれた。蹲って震えることしか出来なかった私を信じてくれた。認めてくれた。本当なら私のことを、誰より嫌ってもおかしくなかったのに、いつだって私のことを一番に信じてくれたのはローズさん、貴方でした」
アカリの言葉は――ローズだけが知っていた『七瀬明《ほんとうのかのじょ》』の言葉は、しんとした広間に響き渡る。
「『魔法は、心から生まれる』――ローズさん昔私に、そう言いましたよね。だったら私に魔法を与えてくれたのはローズさん、貴方です。この世界も、自分も。何も信じられなかった私を、ローズさんは信じてくれた。ローズさんが信じてくれたから、貴方を守りたいと思えたから、私はあの日魔法を使えた。『何も出来なかったただの七瀬明』だった私に、ローズさんが私に、魔法を与えてくれた」
アカリはそう言うと、自らの胸に手を当てた。
「私、ずっとどこかで思ってました。ここは『ゲームの世界』だって。そういう思いが消えなかった。私が『光の聖女』だから、誰もが私に優しくしてくれる。気遣ってくれる。レオンさんたちのことは……ちょっと違ったけれど。結局他は『ゲーム』と同じで。私は、ああここはやっぱり『ゲームの世界』で、私は死んでこの場所に招かれて、『悪役令嬢』である貴方に苛められて、私を好きだという人たちと一緒に魔王を倒すのかなとか、そんなことを考えていました。私は魔法を使えない。でもいつか、『私だけにしか使えない特別な力』で、この『セカイ』を救うために喚ばれた。――……そんな、『セカイ』で」
アカリは、ゆっくりと息を吸い込んで言った。
「あの日リヒト様に婚約破棄されたローズさんが、ゲームじゃありない行動をとった」
「? 有り得ない??」
ローズは思わず首を傾げた。
自分はなにか、おかしなことをしただろうか?
「だって、有り得ないですよ。お嬢様なのに、公爵令嬢が騎士にだなんて。それも、騎士団長であるユーリさんを倒して、だなんて。信じられない。だってこんなの、『ゲーム』には無かったのに。……その時私、余計に怖くなったんです。ローズさんが、もしかしたら私と同じような『異世界人《そんざい》』で、私と同じ世界から来た人間なら――今度は私が、貴方に糾弾されるんじゃないかって。ここにも、私の居場所はないんじゃないか、って。でも、そんな風にしか考えられない弱い私を、ローズさんは死ぬかもしれないのに庇ってくれた」
魔王討伐。
ローズは自分の命の危険をかえりみずアカリを助けた。
ローズは思い出した。アカリが自分に歩み寄ろうとてくれたのは、その出来事以降だった。
「私は、たくさん……たくさん、貴方を傷つけたのに……!」
胸を抑えて、悲鳴の様に言葉を紡ぐ。
とぎれとぎれになる声を、ローズは黙って聞いていた。
アカリのことを『光の聖女』――『世界に光をもたらすという伝説の少女』だと、この世界で誰もが思っても、『青い鳥』に焦がれていると、かつてローズに話して泣いた彼女が、今も変わらずそこにはいた。
「でもその後、ミリアさんに怒られて、『ああやっぱり、自分は駄目なんだ』って。……何も出来なくて、変われなくて、目の前が真っ暗になったときも、ローズさんは私に手を差し出してくれた」
アカリはそう言うと、ローズの前まで歩いて立ち止まった。
「ローズさん、気付いていましたか? あの日私を『信じる』と言った貴方の手が、本当は震えていたこと」
「……え?」
ローズは目を瞬かせた。
「その様子じゃ、やっぱり気付いてなかったんですね」
アカリは、そんなローズを見て苦笑いした。
『ローズが握るアカリの手は小さく震える』
アカリを信じるとローズが初めて言った時。
あの時、本当に震えていたのは――……。
「その時私ね、この人は確かに私と同じように『生きている人』だって、そう思えたんです」
アカリは目を閉じた。
『七瀬明』は、本来病で死ぬはずだった。
その事実が現実味を帯びてきた時、いつも話しかけてくれていた看護師《あいて》もまた、ローズのようにアカリのために嘘をついて震えていた。
そして彼女が、ある夏の日に子どもを救おうとして亡くなったということを知った後に、アカリもまた同じように、子どもを救おうと火にとびこんで、ユーゴに導かれ聖女としてこの世界にやってきた。
命を賭して誰かを救おうと手を伸ばしても、愚かだと言われるそんな世界で、アカリは自分の人生は、一度終わったとのだと思っていた。
そして新しい人生を送れると思った世界でも、本当の自分を受け入れてくれる人なんて、アカリは結局居ないんだと思っていた。
――それでも。
震える手。
ローズの隠せなかった嘘は、アカリに『真実』をつきつけた。
これが、自分の受け入れるべき現実であることを。
人間は嘘を吐く。真実を隠す、優しい嘘を。
「この『セカイ』は、ゲームで。私は、この『セカイ』に選ばれた聖女で。いつかは私の為にハッピーエンドになる、そんな『セカイ』。私にとって、守るべき世界は偽物だった。――そんな『セカイ』で」
アカリは、そっとローズの手を取った。
「ローズさんだけが、私にとっての『本物』だった」
その言葉を聞いて、ベアトリーチェは大きく目を見開いた。
アカリが魔法を使えなかったとき、ベアトリーチェは彼女の味方であろうと努力していたつもりだった。
けれど、と思う。
その一方で、自分たちは彼女のことを『力の使えない聖女』として扱ってはいなかっただろうか?
あの日々の中で、自分たちはどれだけの期待《おもに》を、彼女に背負わせてしまっていたのだろうか?
『七瀬明』という少女は――この世界に連れてこられた、ただの少女でしかなかったというのに。
そして思う。
あの時アカリの心の弱さを正しく認識出来ていなかったのは、本当にローズ一人だけだったのか?
「はじめて『加護』を使えた時、私、ずっとローズさんの言葉を繰り返していました。あの日から、ずっと。ローズさんが、私の心を守ってくれた。ローズさん私ね、きっと私は貴方に出会うためにここに来たんだって、今はそう思うんです。だから私は、ずっと貴方の幸せを願っています。貴方が笑える未来を作るために、私は祈りを捧げる。この世界を知らない私はまだ、この世界の光の聖女にはなれない。でも貴方が愛するこの国を守りたい。この願いは、祈りは、届くと信じている。私は弱くて、この世界の全てを守ることなんてきっと今は出来ないけれど、貴方の幸せを願うことが、この世界の幸せに繋がると信じています。だから、今は……今の、私は……っ」
アカリは真っ直ぐに、ローズを見つめて言った。
「――私は、ローズさんの光の聖女になりたい」
アカリは、ローズの手を握る手に力を込めた。
「私がリヒト様の器を元に戻します。光魔法は、力の循環を司る。私が本当に、この世界の光の聖女なら。きっと、それが出来るのは私だけ。ローズさん、信じてください。私なら出来ると。そうすれば私はきっと、何だって出来る」
「アカリ……」
ローズはアカリの言葉に、すぐ返事をすることが出来なかった。
アカリは以前、光魔法を失敗させた。しかもギルバートやレオンの、命のかかった光魔法を。
もし彼女が失敗すれば、今度はリヒトの器が壊れる可能性もある。
そしてきっと今回は、ローズはアカリの失敗を今度は補うことは出来ない。
でも、ローズには予感があった。
これは、『光の聖女』にしか出来ない魔法なのだと、そんな予感が。
ローズはアカリの目を見つめた。
少女の瞳には、かつてのような迷いは感じられない。アカリはもう、あの頃の彼女ではない。今のローズにはそう思えた。
その時ローズは、遠い日のことを思い出した。それは、アカリが初めて加護を使った日――死んでしまうと思った時、照らされた光の温かさだった。
――信じられている。それに気付く、それだけで。どうして心は、こんなにも熱く滾るの?
かつての自分を思い出す。そしてかつて、自分自身がアカリに向けた言葉を。
相手を守りたいと思うこと。相手を思い、慈しむ。その心が、誰かを守る力になるなら、そのとき祈りは、自分だけのものではなく、誰かに影響を与える力になる。それは共に戦うことと等しい。
この祈りが、思いが、誰かの力になると信じている。それが、光属性の適性。ローズは胸をおさえた。
魔法は心から生まれる。
ならば。
この言葉は、彼女に捧げる光の魔法《いのり》だ。
「信じて、います。貴方は……貴方は、きっと。この世界を守ってくれる、光の聖女なのだと」
ローズの手はもう、あの日のように震えてはいなかった。
「はい。――私に、お任せください!」
その言葉を聞いて、アカリは笑みを浮かべると、ラピスラズリの青い石に触れてから、手を空に掲げた。
その瞬間、アカリの足元に円を描くように、地面に光の輪が広がる。
光魔法特有の温かさがローズを包む。
その光は、かつて魔王討伐の際、一度だけアカリが垣間見せた力より、ずっと柔らかく温かかかった。
「ローズさん。剣をお借りしてもいいですか?」
ローズは、アカリに祖父の家系に引き継がれた剣を差し出した。
アカリは剣に触れると、聖剣から石を取り外した。
「リヒト様」
アカリに呼ばれ、リヒトは緊張した面持ちで前へ踏み出した。
「リヒト様は、私のことを信じてくださいますか?」
アカリはかつて、絶対に失敗を許されない祭典で失敗している。
けれど。
「……ローズが信じるなら、信じない理由はない」
「ふふっ」
リヒトのその返答に、アカリは目を瞬かせてから笑った。
リヒトはアカリが、自分の言葉や行動で本当に笑ったのは、それが初めてのような気がした。
そしてアカリ自身も、リヒトにちゃんと向き合ったのは、それが初めてのような気がしていた。
『貴方には貴方のいいところがある』
そう言葉では言えたとしても、結局誰かの言葉を借りるだけでは、本当の意味で人の心は動かせない。
それに、『リヒト・クリスタロス』は『ゲームの中の攻略相手』ではないのだから。
それでも、この世界が『自分のための世界』ではなくても、アカリはこの世界に生きる人々と、これからは生きていきたいと思った。
たとえもう二度と、元の世界に戻ることが出来なくても。
自分を愛してくれた家族に、二度と会うことは叶わなくても。
いつかこの世界の『光の聖女』として、この世界の全てを愛せる自分になりたいと。
「……なんで笑うんだ?」
アカリの笑みはどこか大人びていて、自分の知る『アカリナナセ』とは、リヒトは少し違う少女のように見えた。
リヒトの問いに、アカリは真っ直ぐにリヒトを見てこたえた。
「だって、リヒト様――やっぱり貴方は私に似ている」
それはアカリの本心だった。
そして同時に、アカリが本当はずっと前から、わかっていたことだった。
光の名を持つ自分とリヒト。
ローズはアカリのことを大事にした。
でもそれは、自分とリヒトが似ているとローズが思っていたからなのだと、アカリは思っていた。
シャルルのことでロイに怒りを向けたアカリに対し、ローズはリヒトに似ていると言った上で、こう言ったのだ。
『だから貴方はどうか、そのままで』
アカリは魔王の持つ魔力の『冷たさ』に気付ける感性の持ち主だ。
そのアカリが、言葉の奥にある本心に気付かないわけがない。
アカリはずっと理解していた。
ローズはずっと、自分を通してリヒトを見ていたのだと。
ローズの心を占める一番には、どうあがいてもなれないことを。
レオンをさん付けで呼ぶアカリが、リヒトだけは様付けで呼んだのは、元からそうだったということもあるけれど――ローズと和解してからの一番の理由は、『リヒト・クリスタロス』を、自分から遠ざけるためだった。
この世界で、いちばん大切な相手が愛する人を。
アカリはリヒトに向かって微笑んだ。
――それでも、いい。
今のアカリには、不思議とそう思えた。
――ローズさんの一番が私じゃなくても、今この世界での、私の一番は変わらない。自分に向けられた感情が、本当は別の誰かに与えられるべきだったものだとしても、貴方が私の心を動かしたことに変わりはないのだから。貴方が与えた優しさが、私に魔法を与えてくれた。この事実に代わりが無いのなら、もう何も望まない。
「私も信じています。ローズさんが信じる、貴方の可能性を」
アカリはそう言うと、手を合わせて祈りを捧げた。
『光の聖女』のみが仕えるとされる『加護』の魔法は、この世界で唯一、あらゆる願いを叶えることの出来る魔法だとも言われている。
大きな魔法を使うときに生じる時空のゆらぎのなか、静止したようにも見える世界で、アカリにはローズの姿が見えていた。
自分を見つめるその瞳が、アカリには『誰か』と重なって見えた。
アカリはローズに向かって駆け出すと、彼女の体を強く抱きしめた。
「――さん。私……本当はずっと、貴方のこと」
アカリの唇が言葉を紡いだ。
でもそれは、ローズの耳には届かなかった。
ローズの知らない『異世界《くに》』の言葉。
それでも、その意味が自分にはわかる気がして、ローズはアカリの背にそっと手を伸ばした。
きっとそれはアカリからの、自分への祝福の言葉のようにローズは思えた。
「はい。私も、ずっと貴方のことが好きでしたよ」
「……っ!」
ローズの言葉に、アカリの瞳から涙が溢れた。その瞬間、アカリは自分の内側で、殻が壊れる音が聞こえた気がした。
真っ白な羽を生やした鳥が、大空に向かって高く飛び立つ。そんな光景が、まぶたの下に広がる。そして、アカリの心の変化に合わせるように、彼女の魔法はより強く光り輝いた。
光の粒子は空を貫く。
光の聖女のみが使える『加護』の力。
それはどんな絶望をも覆す、希望の光だ。
光は温かく柔らかく、ローズに降りそそいでいた。
聖剣の石を中心に、光が広がっていく。その光は空へと届き、どこからか現れた薄桃色の花びらが、光を囲むように空へと舞い上がる。
人々は空を見上げた。
そして空に映し出された光景に、誰もが胸を抑えた。
「しかし、そんなことが本当に可能なのか?」
リカルドの問いに、アカリは静かに頷いた。
「はい。『光の聖女』として、この世界に招かれた『異世界人《まれびと》』として、どうかその魔法を、私にお許しください」
「でも、アカリ。貴方は……」
異世界に戻るためにアカリは、魔法を使ってはならない――そう聞いていたローズは、アカリの言葉をすぐには受け入れることはできなかった。
「大丈夫、ですよ。……あのね。ローズさん、私ね」
自分を心配そうに見つめるローズに、アカリは振り返って笑みを浮かべた。
「この世界に来るまでの私は、ずっと病室で、窓の向こう側の世界を眺めて生きていました」
アカリは、静かにそう言った。
「自分もあの世界に行きたい。自分がもしあの世界に行けたら、きっと自分は変われると、ずっとそう思って生きていました。でも違った。体が強くなって、向こう側の世界に行っても、心はずっと変わらないまま。結局私は、自分の世界に閉じこもって、必死に自分を守ろうとしているだけだった。……ローズさんは、そんな私の世界の扉を叩いてくれた。蹲って震えることしか出来なかった私を信じてくれた。認めてくれた。本当なら私のことを、誰より嫌ってもおかしくなかったのに、いつだって私のことを一番に信じてくれたのはローズさん、貴方でした」
アカリの言葉は――ローズだけが知っていた『七瀬明《ほんとうのかのじょ》』の言葉は、しんとした広間に響き渡る。
「『魔法は、心から生まれる』――ローズさん昔私に、そう言いましたよね。だったら私に魔法を与えてくれたのはローズさん、貴方です。この世界も、自分も。何も信じられなかった私を、ローズさんは信じてくれた。ローズさんが信じてくれたから、貴方を守りたいと思えたから、私はあの日魔法を使えた。『何も出来なかったただの七瀬明』だった私に、ローズさんが私に、魔法を与えてくれた」
アカリはそう言うと、自らの胸に手を当てた。
「私、ずっとどこかで思ってました。ここは『ゲームの世界』だって。そういう思いが消えなかった。私が『光の聖女』だから、誰もが私に優しくしてくれる。気遣ってくれる。レオンさんたちのことは……ちょっと違ったけれど。結局他は『ゲーム』と同じで。私は、ああここはやっぱり『ゲームの世界』で、私は死んでこの場所に招かれて、『悪役令嬢』である貴方に苛められて、私を好きだという人たちと一緒に魔王を倒すのかなとか、そんなことを考えていました。私は魔法を使えない。でもいつか、『私だけにしか使えない特別な力』で、この『セカイ』を救うために喚ばれた。――……そんな、『セカイ』で」
アカリは、ゆっくりと息を吸い込んで言った。
「あの日リヒト様に婚約破棄されたローズさんが、ゲームじゃありない行動をとった」
「? 有り得ない??」
ローズは思わず首を傾げた。
自分はなにか、おかしなことをしただろうか?
「だって、有り得ないですよ。お嬢様なのに、公爵令嬢が騎士にだなんて。それも、騎士団長であるユーリさんを倒して、だなんて。信じられない。だってこんなの、『ゲーム』には無かったのに。……その時私、余計に怖くなったんです。ローズさんが、もしかしたら私と同じような『異世界人《そんざい》』で、私と同じ世界から来た人間なら――今度は私が、貴方に糾弾されるんじゃないかって。ここにも、私の居場所はないんじゃないか、って。でも、そんな風にしか考えられない弱い私を、ローズさんは死ぬかもしれないのに庇ってくれた」
魔王討伐。
ローズは自分の命の危険をかえりみずアカリを助けた。
ローズは思い出した。アカリが自分に歩み寄ろうとてくれたのは、その出来事以降だった。
「私は、たくさん……たくさん、貴方を傷つけたのに……!」
胸を抑えて、悲鳴の様に言葉を紡ぐ。
とぎれとぎれになる声を、ローズは黙って聞いていた。
アカリのことを『光の聖女』――『世界に光をもたらすという伝説の少女』だと、この世界で誰もが思っても、『青い鳥』に焦がれていると、かつてローズに話して泣いた彼女が、今も変わらずそこにはいた。
「でもその後、ミリアさんに怒られて、『ああやっぱり、自分は駄目なんだ』って。……何も出来なくて、変われなくて、目の前が真っ暗になったときも、ローズさんは私に手を差し出してくれた」
アカリはそう言うと、ローズの前まで歩いて立ち止まった。
「ローズさん、気付いていましたか? あの日私を『信じる』と言った貴方の手が、本当は震えていたこと」
「……え?」
ローズは目を瞬かせた。
「その様子じゃ、やっぱり気付いてなかったんですね」
アカリは、そんなローズを見て苦笑いした。
『ローズが握るアカリの手は小さく震える』
アカリを信じるとローズが初めて言った時。
あの時、本当に震えていたのは――……。
「その時私ね、この人は確かに私と同じように『生きている人』だって、そう思えたんです」
アカリは目を閉じた。
『七瀬明』は、本来病で死ぬはずだった。
その事実が現実味を帯びてきた時、いつも話しかけてくれていた看護師《あいて》もまた、ローズのようにアカリのために嘘をついて震えていた。
そして彼女が、ある夏の日に子どもを救おうとして亡くなったということを知った後に、アカリもまた同じように、子どもを救おうと火にとびこんで、ユーゴに導かれ聖女としてこの世界にやってきた。
命を賭して誰かを救おうと手を伸ばしても、愚かだと言われるそんな世界で、アカリは自分の人生は、一度終わったとのだと思っていた。
そして新しい人生を送れると思った世界でも、本当の自分を受け入れてくれる人なんて、アカリは結局居ないんだと思っていた。
――それでも。
震える手。
ローズの隠せなかった嘘は、アカリに『真実』をつきつけた。
これが、自分の受け入れるべき現実であることを。
人間は嘘を吐く。真実を隠す、優しい嘘を。
「この『セカイ』は、ゲームで。私は、この『セカイ』に選ばれた聖女で。いつかは私の為にハッピーエンドになる、そんな『セカイ』。私にとって、守るべき世界は偽物だった。――そんな『セカイ』で」
アカリは、そっとローズの手を取った。
「ローズさんだけが、私にとっての『本物』だった」
その言葉を聞いて、ベアトリーチェは大きく目を見開いた。
アカリが魔法を使えなかったとき、ベアトリーチェは彼女の味方であろうと努力していたつもりだった。
けれど、と思う。
その一方で、自分たちは彼女のことを『力の使えない聖女』として扱ってはいなかっただろうか?
あの日々の中で、自分たちはどれだけの期待《おもに》を、彼女に背負わせてしまっていたのだろうか?
『七瀬明』という少女は――この世界に連れてこられた、ただの少女でしかなかったというのに。
そして思う。
あの時アカリの心の弱さを正しく認識出来ていなかったのは、本当にローズ一人だけだったのか?
「はじめて『加護』を使えた時、私、ずっとローズさんの言葉を繰り返していました。あの日から、ずっと。ローズさんが、私の心を守ってくれた。ローズさん私ね、きっと私は貴方に出会うためにここに来たんだって、今はそう思うんです。だから私は、ずっと貴方の幸せを願っています。貴方が笑える未来を作るために、私は祈りを捧げる。この世界を知らない私はまだ、この世界の光の聖女にはなれない。でも貴方が愛するこの国を守りたい。この願いは、祈りは、届くと信じている。私は弱くて、この世界の全てを守ることなんてきっと今は出来ないけれど、貴方の幸せを願うことが、この世界の幸せに繋がると信じています。だから、今は……今の、私は……っ」
アカリは真っ直ぐに、ローズを見つめて言った。
「――私は、ローズさんの光の聖女になりたい」
アカリは、ローズの手を握る手に力を込めた。
「私がリヒト様の器を元に戻します。光魔法は、力の循環を司る。私が本当に、この世界の光の聖女なら。きっと、それが出来るのは私だけ。ローズさん、信じてください。私なら出来ると。そうすれば私はきっと、何だって出来る」
「アカリ……」
ローズはアカリの言葉に、すぐ返事をすることが出来なかった。
アカリは以前、光魔法を失敗させた。しかもギルバートやレオンの、命のかかった光魔法を。
もし彼女が失敗すれば、今度はリヒトの器が壊れる可能性もある。
そしてきっと今回は、ローズはアカリの失敗を今度は補うことは出来ない。
でも、ローズには予感があった。
これは、『光の聖女』にしか出来ない魔法なのだと、そんな予感が。
ローズはアカリの目を見つめた。
少女の瞳には、かつてのような迷いは感じられない。アカリはもう、あの頃の彼女ではない。今のローズにはそう思えた。
その時ローズは、遠い日のことを思い出した。それは、アカリが初めて加護を使った日――死んでしまうと思った時、照らされた光の温かさだった。
――信じられている。それに気付く、それだけで。どうして心は、こんなにも熱く滾るの?
かつての自分を思い出す。そしてかつて、自分自身がアカリに向けた言葉を。
相手を守りたいと思うこと。相手を思い、慈しむ。その心が、誰かを守る力になるなら、そのとき祈りは、自分だけのものではなく、誰かに影響を与える力になる。それは共に戦うことと等しい。
この祈りが、思いが、誰かの力になると信じている。それが、光属性の適性。ローズは胸をおさえた。
魔法は心から生まれる。
ならば。
この言葉は、彼女に捧げる光の魔法《いのり》だ。
「信じて、います。貴方は……貴方は、きっと。この世界を守ってくれる、光の聖女なのだと」
ローズの手はもう、あの日のように震えてはいなかった。
「はい。――私に、お任せください!」
その言葉を聞いて、アカリは笑みを浮かべると、ラピスラズリの青い石に触れてから、手を空に掲げた。
その瞬間、アカリの足元に円を描くように、地面に光の輪が広がる。
光魔法特有の温かさがローズを包む。
その光は、かつて魔王討伐の際、一度だけアカリが垣間見せた力より、ずっと柔らかく温かかかった。
「ローズさん。剣をお借りしてもいいですか?」
ローズは、アカリに祖父の家系に引き継がれた剣を差し出した。
アカリは剣に触れると、聖剣から石を取り外した。
「リヒト様」
アカリに呼ばれ、リヒトは緊張した面持ちで前へ踏み出した。
「リヒト様は、私のことを信じてくださいますか?」
アカリはかつて、絶対に失敗を許されない祭典で失敗している。
けれど。
「……ローズが信じるなら、信じない理由はない」
「ふふっ」
リヒトのその返答に、アカリは目を瞬かせてから笑った。
リヒトはアカリが、自分の言葉や行動で本当に笑ったのは、それが初めてのような気がした。
そしてアカリ自身も、リヒトにちゃんと向き合ったのは、それが初めてのような気がしていた。
『貴方には貴方のいいところがある』
そう言葉では言えたとしても、結局誰かの言葉を借りるだけでは、本当の意味で人の心は動かせない。
それに、『リヒト・クリスタロス』は『ゲームの中の攻略相手』ではないのだから。
それでも、この世界が『自分のための世界』ではなくても、アカリはこの世界に生きる人々と、これからは生きていきたいと思った。
たとえもう二度と、元の世界に戻ることが出来なくても。
自分を愛してくれた家族に、二度と会うことは叶わなくても。
いつかこの世界の『光の聖女』として、この世界の全てを愛せる自分になりたいと。
「……なんで笑うんだ?」
アカリの笑みはどこか大人びていて、自分の知る『アカリナナセ』とは、リヒトは少し違う少女のように見えた。
リヒトの問いに、アカリは真っ直ぐにリヒトを見てこたえた。
「だって、リヒト様――やっぱり貴方は私に似ている」
それはアカリの本心だった。
そして同時に、アカリが本当はずっと前から、わかっていたことだった。
光の名を持つ自分とリヒト。
ローズはアカリのことを大事にした。
でもそれは、自分とリヒトが似ているとローズが思っていたからなのだと、アカリは思っていた。
シャルルのことでロイに怒りを向けたアカリに対し、ローズはリヒトに似ていると言った上で、こう言ったのだ。
『だから貴方はどうか、そのままで』
アカリは魔王の持つ魔力の『冷たさ』に気付ける感性の持ち主だ。
そのアカリが、言葉の奥にある本心に気付かないわけがない。
アカリはずっと理解していた。
ローズはずっと、自分を通してリヒトを見ていたのだと。
ローズの心を占める一番には、どうあがいてもなれないことを。
レオンをさん付けで呼ぶアカリが、リヒトだけは様付けで呼んだのは、元からそうだったということもあるけれど――ローズと和解してからの一番の理由は、『リヒト・クリスタロス』を、自分から遠ざけるためだった。
この世界で、いちばん大切な相手が愛する人を。
アカリはリヒトに向かって微笑んだ。
――それでも、いい。
今のアカリには、不思議とそう思えた。
――ローズさんの一番が私じゃなくても、今この世界での、私の一番は変わらない。自分に向けられた感情が、本当は別の誰かに与えられるべきだったものだとしても、貴方が私の心を動かしたことに変わりはないのだから。貴方が与えた優しさが、私に魔法を与えてくれた。この事実に代わりが無いのなら、もう何も望まない。
「私も信じています。ローズさんが信じる、貴方の可能性を」
アカリはそう言うと、手を合わせて祈りを捧げた。
『光の聖女』のみが仕えるとされる『加護』の魔法は、この世界で唯一、あらゆる願いを叶えることの出来る魔法だとも言われている。
大きな魔法を使うときに生じる時空のゆらぎのなか、静止したようにも見える世界で、アカリにはローズの姿が見えていた。
自分を見つめるその瞳が、アカリには『誰か』と重なって見えた。
アカリはローズに向かって駆け出すと、彼女の体を強く抱きしめた。
「――さん。私……本当はずっと、貴方のこと」
アカリの唇が言葉を紡いだ。
でもそれは、ローズの耳には届かなかった。
ローズの知らない『異世界《くに》』の言葉。
それでも、その意味が自分にはわかる気がして、ローズはアカリの背にそっと手を伸ばした。
きっとそれはアカリからの、自分への祝福の言葉のようにローズは思えた。
「はい。私も、ずっと貴方のことが好きでしたよ」
「……っ!」
ローズの言葉に、アカリの瞳から涙が溢れた。その瞬間、アカリは自分の内側で、殻が壊れる音が聞こえた気がした。
真っ白な羽を生やした鳥が、大空に向かって高く飛び立つ。そんな光景が、まぶたの下に広がる。そして、アカリの心の変化に合わせるように、彼女の魔法はより強く光り輝いた。
光の粒子は空を貫く。
光の聖女のみが使える『加護』の力。
それはどんな絶望をも覆す、希望の光だ。
光は温かく柔らかく、ローズに降りそそいでいた。
聖剣の石を中心に、光が広がっていく。その光は空へと届き、どこからか現れた薄桃色の花びらが、光を囲むように空へと舞い上がる。
人々は空を見上げた。
そして空に映し出された光景に、誰もが胸を抑えた。