四月も半分を過ぎると、庭に咲いた桜も徐々にさみしくなり始めた。新しい制服も肌になじみ、朝起きる時間も、登校する道順も身に染みてくる。クラスでもそこそこ顔見知りができ、そこそこ連絡先を交換し、そこそこ仲よくなり始める頃だ。

 すべてがゆっくりと進んでいく中、一番後ろの席は、時がとまったように空白のまま。

 りせは、相変わらず学校に来ない。

「なぁなぁ、雫!」

 とある日の放課後。終業の挨拶と同時に帰ろうとしたわたしを、奏真の声が呼びとめた。

「このあと、ちょっと時間ある?」
「何、いきなり……」

 きらきらと目を輝かせている奏真を見たら、いやな予感がした。こういう顔をしている奏真は、小学校の頃何度も見たことがある。何か、おもしろい遊びを思いついた時の顔だ。新しいゲームを買った時なんて、そりゃもう朝から大騒ぎで、ゲームに興味のないわたしまでしつこく誘ってくるものだから、全速力で逃げた記憶がある。

 教室からクラスメイトたちがぞろぞろと廊下に流れ出ていく。ああ、わたしもその波に乗りたい。別に部活に行くわけでもないし、誰かと約束しているわけじゃないけど。

「カメラ買おうと思ってるんだけどさ、選ぶの手伝ってくれない?」
「……はぁっ?」

 大声を上げたら、近くにいた数人が振り返った。わたしは慌てて声を潜めた。

「どういうこと、それ」
「おれ、ずっとカメラほしくてさ。でも、種類とかよく分かんないんだ。ほら、雫ってそういうの詳しいだろ」
「だからって、どうして……」
「なっ、頼むよ。雫しかいないんだ。この通り!」

 周囲の視線がちくちくと刺さる。あらぬ誤解が生まれる恐怖に負け、わたしはしぶしぶ首を縦に振った。



「うわ、七万……」

 目の前にあるカメラの値段を見て、奏真は絶望したように頭を抱えた。

「予想はしてたけどやっぱ高いなぁ。げ、こっちは十万!」
「安い方だよ。高いやつだと百万とかするし」

 オーバーリアクションに苦笑しつつ、わたしは並んでいるカメラを眺めた。大型の家電量販店なだけあって、デジカメコーナーには、広さに見合った品数がそろっている。ニコン、キャノン、ソニー。おなじみのメーカーはやっぱり種類が豊富で、コンパクトなものから本格的な一眼レフまで勢ぞろいだ。加えて、ピンクやブルーのカメラまであるから、どれだけ抑え込んでいても胸が踊ってしまう。

「どんなカメラがほしいの?」
「うーん……実は、あんまり決めてないんだよね。インターネットで調べたりしたんだけど、結局よく分かんなくてさ」
「そうだなぁ……。たとえばこれ」

 わたしは目に入ったカメラを手に取って、奏真に手渡した。

「これは?」
「ミラーレス一眼。一眼レフには、レンズを通った光を光学ファインダーに導くためのミラーがあるんだけどね、これにはそのミラーがないの。レンズがない分持ち運びが便利だし、設定もある程度カメラがやってくれるから、初心者におすすめ」

 奏真はへぇーっと興味深そうな声を上げ、あらゆる角度からカメラを眺めた。わたしは別の種類のカメラを手に取った。

「で、こっちがデジタル一眼レフ。ミラーが入ってる分だけ大きいの。ミラーレスより本格的な写真が撮れるんだけど、そのためにいろいろ設定を考えなきゃいけないから、ちょっと操作が難しいかな。ミラーレスの方が簡単だと思うけど、本格的に写真を始めたいなら……」

 そこまで話して、わたしははっと口をつぐんだ。おそるおそる奏真の顔色をうかがう。奏真はあっけにとられたように、ぽかんと口を開けていた。

「……ごめん、しゃべりすぎた?」
「違う。やっぱ雫はすげーなって思ってさ」
「す、すごくないよ、このくらい」
「そんなことない。詳しい上に分かりやすいし、ほんと助かるよ!」

 奏真があまりにも力強く言うので、わたしは恥ずかしくなって顔を背けた。こいつは昔から素直というか、裏表がないというか。まっすぐ気持ちを伝えてくるので、戸惑ってしまう。

 ふと、近くでカメラを選んでいる親子が目に入った。会社帰りのお父さんと、小学生くらいの女の子だ。好奇心できらきらと目を輝かせている女の子に、お父さんがうんうんとうなずいている。その光景を眺めていたら、急に、過去の記憶が心の奥底からよみがえってきた。

 わたしも昔、あんな風におじいちゃんとカメラ屋さんに行ったことがあった。口下手なおじいちゃんは、ぽつりぽつりと雨のように拙い言葉を紡いで、懸命に説明してくれたけど、結局わたしは、おじいちゃんの使っているカメラがいい、とごねたので、新しいカメラは買わず、おじいちゃんのお古をもらうことになった。あれは何年前だっけ。いつの出来事だっけ。もう、誰も覚えていない。わたし以外は、誰も。

「……ねぇ、何で写真を始めようと思ったの?」

 そっぽを向いたまま尋ねると、背中から奏真の唸り声が聞こえた。振り向いたら、奏真はちょっと気まずそうに頭を掻いていた。

「かっこいい理由はないんだよ。ほら、SNSに写真投稿するの、はやってるだろ。だから、自然と写真を見る機会が多くなったし、その分『いいな』って思う写真も増えたってだけ。それで、おれも撮ってみたいなって思ったんだ」

 なるほど。わたしは妙に納得した。確かに、昔に比べて他人が撮った写真を見る機会が増えた気がする。SNSってあんまりすきじゃないけれど、写真に興味を持つ人が増えるのは、なんだか嬉しい。

「カメラがほしいって思ったのはいつからなの?」
「中学入ったくらいから。スマートフォンでも撮ったりしてたんだけど、もっと本格的な写真を撮りたいなって思ってさ。それで、雫がカメラ持ってたなって思い出したんだ。何でその時いろいろ聞かなかったんだろうって後悔したよ。だから、同じ高校になれて本当によかった」
「……あ、そう」

 やっぱり、聞くんじゃなかったかも。なんだか恥ずかしくなって、わたしはまたまた奏真から目を逸らした。

「これからずっと続けるの?」
「もちろん!」
「じゃあ、こっち」

 わたしは持っていたデジタル一眼レフを奏真に押しつけた。

「操作は難しいかもしれないけど、画質はすごくいいし、かなり長い間使えると思う。……わたしの使ってたやつも、そっち」

 奏真はカメラを受け取ると、真価を定めるように、大きな目をぎょろぎょろさせた。ファインダーをのぞいたり、手触りを確かめたり。その目は、新しいゲームを買った時よりもきらきらしている。

「よし、買ってくる!」
「えっ、今?」
「大丈夫、金持ってきたし」

 本当に大丈夫なのだろうか。不安を抱えながらレジに行くと、店員が「八万二千円です」と現実を告げた。奏真が財布から八枚の一万円札を取り出す。高校生では考えられない大金を目にしてあっけにとられていると、奏真が絶望した顔でわたしを見た。

「ごめん、雫」
「なに?」
「二千円貸して……」

 予想通りの展開にため息をつき、わたしはカバンから財布を取り出した。



「ごめん。付き合ってもらった上、金まで借りて……」
「いいよ。返してくれれば……」

 なんとかカメラを手に入れた奏真とわたしは、家電量販店を出て帰路に着いた。赤色に染まった空を、カラスが悠々と飛んでいる。都会でも、夕焼けってちゃんと見られるんだ。あたりまえのことを思いながら、自転車を押して歩いていく。地面には長く伸びた影が二つ。わたしと、奏真の分。

「それにしても即決だったね。たくさんお金持ってたから、びっくりした」
「カメラ買うためにコツコツ貯めてたからさ。今までの小遣いとか、お年玉とか全部ぶっ込んだ」

 笑いながら話す奏真を見て、わたしは素直に感心した。正直、カメラを選ぶことに協力なんてしたくなかった。もう自分には関係のないものだし、奏真が写真を始めたいというのも、ただの好奇心だと思っていた。だけど、そうじゃないんだ。八万円なんて大金、簡単に出せるものじゃない。それくらいの覚悟があったってことだ。わたしが思うよりずっと、奏真は真剣だったんだ。

「せっかく雫に協力してもらったんだから、頑張って上達しないとな。よかったら、また撮り方とか教えてくれよ」
「えっ?」
「だめかな。図々しいのは分かってるんだけど、雫しかいないんだ」

 奏真は眉を下げて、申し訳なさそうにわたしの顔をのぞき込んだ。計算か、それとも天然か。頼みごとをする時に、こういう顔をするのはずるい。

「いや、いいけど……」
「やった! ありがとな。ほんと、雫がいてよかった!」

 奏真は心底嬉しそうに両拳を握った。なんか、調子狂うなぁ。わたしは心の中でため息をついた。カメラにはもう二度と関わらないと決めたのに、今日は厄日だ。

 気づいたら、隣から奏真の姿が消えていた。あれ、どこ行ったんだあいつ。振り返ると、奏真は立ちどまってスマートフォンを空に向けていた。わたしの視線に気づいて、ちょっと照れたように笑う。奏真はわたしの元に駆け寄って、スマートフォンの画面を見せた。

 そこには、目の前にある夕焼けが、色鮮やかに写っていた。

「きれいだなぁ」

 写真と夕焼けを見比べて、奏真が静かにつぶやいた。横顔が夕日に照らされて、空と同じ色に染まっている。

 風で乱れた髪を耳にかけながら、わたしはぼんやりと、西の空に沈む太陽を眺めた。

 すごく、きれいだ。まるで世界が終わる瞬間のような、尊さと危うさを含んでいる、そんな赤色だ。だけど奏真の瞳には、わたしよりもっと美しく映っているのだろう。それがとても、うらやましいと思った。



 部屋に帰ったわたしは、夕飯を食べ終えたあと、押入れの奥に封印していたカメラを引っ張り出した。

 壊れないようにそっと手に取って、表面を指で撫でた。何も忘れていない。何も変わっていない。変わってしまったのは、わたしの方だ。 

 わたしはカメラを手に持って部屋を出た。庭の桜は緑が混じり、かつての美しさは衰え始めていた。カメラを構えて、ファインダー越しに葉桜を見つめる。あと少しで命を終える、儚さと美しさを切り取るために。

 ――今更こんなことをして、どうするの?

 シャッターを押そうとしたら、もうひとりの自分がささやいてきた。

 ――もうとっくに捨てたじゃない。全部過去に変えたはずでしょ。今更、何を撮ろうと言うの。褒めてくれる人はもう、どこにもいないのに。

 分厚い雲が、地上を照らしていた月の光をさえぎった。暗闇がぐっと深まって、夜風の冷たさを濃くする。カーディガン越しの肌に、ぞわりと鳥肌が立った。なぜだろう、どうしてだろう。今ここに立っていることが、とても無意味なことに思えた。カメラを構えている自分が、ひどく滑稽に思えた。

 その場から動けずにいるわたしの耳に、あの時と同じ歌声が届いた。弱々しくて儚い、美しい声だ。振り向いたら、りせが歌いながら庭に入ってくるところだった。

「雫?」

 りせはわたしに気づくと、ちょっと驚いたように目を見開いた。

「りせ。……おかえり」
「ただいま。びっくりした」

 りせは疲れた笑みを浮かべながら、ゆっくりとわたしに近づいてきた。

「今、ちょうど雫に会いたいなって思ってたんだ。だから歌ったの」

 ――歌が聞こえたら、会いにきてね。

 以前交わした約束を思い出して、恥ずかしくなった。ただの偶然、なのに。どうしてこんなに嬉しいんだろう。

「今帰り?」
「そうよ」
「ずいぶん遅かったんだね」

 もう時刻は二十二時を過ぎている。りせは「うん」ともう一度うなずくと、持っていたカバンを無造作に捨て、倒れ込むようにわたしに抱きついてきた。

「ちょ、ちょっと……」
「疲れちゃったの」

 そうつぶやくりせの声は、言葉通り疲労をたっぷり含んでいた。鼻につくにおいに気づいて、わたしはもがくことをやめた。

「……煙草吸ってる?」
「受動喫煙」

 りせがぶっきらぼうに答えた。わたしはそう、とだけ答えて、カメラを落とさないように気をつけながら、りせの背中に腕をまわした。

 彼女の体はやわらかくて、だけどとても細くて、力を込めたら折れてしまいそうだった。雨に打たれたわけでもないのに、その体は氷のように冷えていて、生まれたての雛鳥のような弱さを感じた。

「……わたしのこと、見損なった?」

 怯えるようにか細い声だった。わたしは抱き締める腕に力を込めた。

「別に。……そういうことは、自由だと思うし」
「雫は優しいね」

 耳元で、りせが微笑んだのが分かった。ふたりの体がそっと離れた。月明かりの下で見る彼女の顔は、あの時と同じ輝きを放っていた。二重の大きな瞳。陶器のようにさらりとした白い肌。高い鼻筋。桃色の唇。人形のような、完璧な美。彼女を輝かせるスポットライトなんていらない。淡い月明かりさえあれば、それでいい。

「いいカメラだね」

 わたしの手にあるカメラに気づき、りせが言った。

「触ってもいい?」
「いいよ。……そっとね」

 今まで誰にも触らせたことのなかったカメラを、一瞬のためらいもなく差し出した。りせはカメラを受け取ると、にやりと口元を歪ませた。軽やかに飛び跳ねて、二本の足で走っていく。

「ちょ、ちょっと!」
「追いかけてきたら返してあげる!」

 まるではしゃぐ子供のようだ。無邪気に笑うりせを見たら、なんだか無性におかしくなって、地面を蹴って走り出した。

 じゃれるように笑い合いながら、りせの部屋に飛び込んだ。笑いすぎて息が苦しい。ベッドにダイブして、お互いの顔をじっと見つめる。そこでふと我に返って、わたしは慌てて目を逸らした。

「古いカメラね。年季入ってる」

 背中から、りせの興味深そうな声が聞こえてきた。

「写真を撮るの?」
「……昔の話」
「すきなのね。今も」

 わたしは答える代わりに黙った。どう取り繕っても、彼女には見透かされてしまうような気がした。

「わたしのこと、撮ってみて」
「え?」

 振り向いたわたしに、りせはカメラを差し出した。

「わたしは雫からどんな風に見えてる? 雫の目にはどう映ってる?」
「……どうして、そんなこと聞くの」
「初めて会う人はね、わたしのこと清純そうな子っていうの。かわいいとか、お人形さんみたいとか、美しいって褒めちぎるの。中途半端な知り合いはね、かわい子ぶってるとか、男に色目使ってるとか、性格キツそうとか言うのよ」

 人工的な星明かりの下で、りせは自虐的に笑った。

「だから、雫はどう思う? ファインダー越しのわたしはどう見える?」

 わたしは感触を確かめるように、人差し指でカメラをなぞった。ファインダーをのぞき込もうとしたけれど、こんな暗闇では何も見えない。

「……撮らないよ」
「どうして?」
「よく知らない人のことを、こうだと決めつけることはしたくないから」

 きっぱりと言い放ったら、りせは大きな瞳をぱちくりさせた。

「……ほんと、変わってるね」
「あなたほどじゃない」
「わたし? わたしは普通だよ。平凡な十六歳」
「呪いをかけられてる時点で普通じゃないよ」
「……そうかな」

 彼女の声が、低くなった。

「結構、多いと思うけどなぁ」

 口の端を上げるその仕草は、とても意味深で、妖しくて、なぜだろう、とてもおそろしく感じた。知らなくていいことを知っているような、子供のくせに、大人の遊びを知っているような、そんな気味悪さを感じた。

「……ねぇ、その呪いって」

 尋ねようとしたわたしは、あっと気づいて体を起こした。つられて上半身を起こそうとしたりせの体を手で制す。

「だめ。寝てて」
「何で?」
「体調、悪そうだから」
「大丈夫よ。ちょっと貧血気味なだけで……」
「大丈夫じゃない。生理でしょ」

 りせは困惑したようにわたしを見上げた。

「……どうして分かったの?」
「女だから。薬、飲んだ?」
「飲んでない……」
「どこかにある?」
「その棚の、一番上」

 わたしは立ち上がって、彼女の示した棚を開け、中から薬を取り出した。

「コップ使うね」
「うん」

 りせはもぞもぞと布団にくるまり、猫のように体を丸めた。暗闇に目を凝らしながら、わたしは食器棚からコップを一つ取り出した。水を注いで、薬と一緒にりせのところへ持っていく。りせは少しだけ頭を上げて、わたしの与えた薬を口に含んだ。水を喉に流し込み、無事体内に取り入れる。濡れた口元をカーディガンの袖で拭ってやると、りせは安心したようにへへ、と笑った。

「ふしぎだね、こーゆーの」
「何?」
「だってわたしたち、まだ二回しか会ってないのに」
「……道端に弱ってる子猫がいたら拾うでしょ。そんな感じ」
「わたし、猫と同じかぁ」

 りせはおなかを押さえながらごろりと寝返りをうった。人工的な星空をぼんやりと見上げる。わたしはコップをテーブルに置いて、ベッドに腰かけた。

「生理なら、彼氏とそういうことしちゃだめなんだよ」
「……彼氏じゃないよ」

 ぽつりと、りせがつぶやいた。わたしはびっくりして振り向いた。

「でも」
「恋人じゃなくても、恋人らしいことはできるの」

 吐き捨てるような言い方だった。何か言おうとしたけれど、何も言葉が思いつかなかった。恋愛経験のないわたしには、りせの言葉も、心の中も、まったく理解できなかった。

「手、握ってもいい?」

 青白い腕が、暗闇を這って伸びてくる。わたしは小さくうなずいて、りせの手に自分の手を重ねた。指と指が蔓のように絡み合って、互いを繋ぐ。

「あったかいね」

 彼女の手はおそろしいほど冷えていた。わたしの体温まで奪われてしまいそうだ。それと同時に、やわらかいな、と思った。小さくて、ふわふわしていて、壊れやすい。

 わたしは誰かと手を繋ぐことがすきじゃなかった。異性でも同性でも、べたべたするのは苦手だった。でも、今の彼女はなんだか生まれたての雛鳥のような、迷子の子供のような、危うさを持っていた。わたしがこうして繋いでいなければ、今にも闇に溶けて消えてしまうような気がした。

 しばらくすると、すぅすぅと微かな吐息が聞こえてきた。どうやら眠ってしまったようだ。わたしはそっと前髪を払って、りせを見つめた。水分を含んだ長いまつげが微かに震えている。気づかれないようにそっと、その涙を指で拭った。

 わたしは彼女のことを何も知らない。彼女も、わたしのことを何も知らない。何も伝えていないから。何も聞いていないから。他人になんて興味はない。だけどなぜだろう。この壊れやすい女の子の、涙の理由を知りたい。そう、思った。



 遠くから歌が聞こえてくる。小鳥のさえずりのように楽しげで、だけど人魚の叫びのように切ない、そんな声だ。鼓膜を震わせて、脳に直接入ってくる。歌に誘われるように、わたしはゆっくりと目を開けた。

 寝ぼけた眼に飛び込んだのは、からっぽの白いベッドだった。働かない頭を起こして、ぼんやりとあたりを見渡してみる。わたしの部屋とは違う景色。ああ、そういえばりせの部屋に来たんだった。真っ暗だった部屋が新鮮な明るさで満ちている。どうやら朝まで眠ってしまったらしい。

 立ち上がろうとしたら、ブランケットが床に落ちた。寝ている間にりせがかけてくれたのだろう。ブランケットを羽織り直し、サンダルを履いて外に出た。

 瞬間、朝日の眩しさに目が眩んだ。歌声を乗せた風が、歓迎するように頬を撫でていく。新しい朝を喜ぶように花たちが揺れ、残り少ない桜の花弁も、命を惜しむことなく宙に舞っている。

 白い光の中で、りせが振り向いた。わたしに気づいて歌うのをやめ、凪いだ海のように微笑んだ。

「おはよう」
「もう平気なの?」
「うん。なんだかすごく気分がいいの」

 わたしはそう、とうなずいて、生まれたての青空を見上げた。清々しい一日の始まりだ。都合がいいことに今日は土曜日だった。部活動もなければ友だちとの約束もない。制服を脱いだわたしは、実に自由だ。

 その時、ぎゅるぎゅると虫の鳴くような音が聞こえた。りせを見ると、おなかを押さえて照れくさそうにしている。

「おなかすいちゃったぁ」

 わたしは思わず吹き出してしまった。大人っぽい彼女にも、こんなかわいい一面があったんだ。

「わたしの部屋においでよ。朝ご飯作ってあげる」
「いいの?」

 うん、とうなずくと、りせはやったぁ、と大きく飛び跳ねた。



 部屋に人を招くのなんて、いつ以来だろう。小さい頃から、同年代の子と遊ぶより、写真を撮る方がすきだった。道端に咲く小さな花や、空を飛ぶ鳥。ころころと表情を変える空に気づいていたから。世界がこんなにも美しいと、知っていたから。

 わたしが目玉焼きを作っている間、りせはシャワーを浴びていた。自分の部屋で浴びればいいのに、と思ったけど、それを口に出すことはしなかった。自由奔放な彼女に振り回されるのも悪くない。

「おいしそうなにおい」

 風呂場から出てきたりせを見て、ぎょっとした。下はかろうじて履いているものの、その他はまったく身につけていない。わたしは慌てて顔を背けた。

「な、何か着てよ!」
「パンツは履いてるよ」
「パンツだけじゃん」
「じゃあ、着るもの貸して」

 りせは体を隠す素振りも見せず、勝手にクローゼットを開けて服を選び始めた。

「ねぇ、服、少ない」
「越してきたばかりだから。冬服とかは実家にあるの」
「それにしたって少ないよ。新しい服買ったりしないの?」
「買わない。おしゃれとか、あんま興味ないし」
「ふーん。もったいない」

 目玉焼きが完成すると同時に、オーブントースターがチン、と音を立てた。食パンを二枚取り出して、それぞれに目玉焼きを乗せる。テーブルの上に運んだら、りせはわたしのスウェットに身を包んでいた。

 ひとり用のテーブルをふたりで囲んで、「いただきます」と手を合わせた。窓から差し込む春の陽気と、あたたかなコーヒーのかおりが部屋を満たしている。そして目の前にはとびきりの美少女が、CMみたいにおいしそうに食パンを頬張っている。何の変哲もないこの部屋が、途端に宮殿に変わったみたい。

「おいしい。雫はいいお嫁さんになるね」
「こんなの大したことないよ」
「わたし、目玉焼き作れないもん。黄身がうまく固まらなくていらいらしちゃうの」
「料理、苦手なの?」
「あんまり得意じゃない」
「いつもご飯はどうしてるの?」
「コンビニで買うか、バイト先のまかない」
「バイトしてるんだ」
「うん。カフェとファミレス」
「二つも? どうして?」
「質問ばっかり!」

 目玉焼きを思い切り口に含みながら、りせがおかしそうに笑った。わたしは自分が身を乗り出していることに気づいて、慌てて体を元の位置に戻した。りせは大きく伸びをして、そのままベッドに背を預けた。

「ねぇ、雫の話してよ」
「え?」
「雫のことが知りたい」

 りせの大きな瞳が、好奇心できらきら輝いている。まるで夜空にきらめく星みたいだ。

「……わたし、話すの苦手だよ」
「何でもいいよ。何にも知らないもの」

 わたしは黙って食パンをかじった。わたしのことって、何だろう。話すようなこと、あるのかな。普通の人って何を話すんだろう。趣味とか、特技とか、すきな人のことだろうか。それは、りせにとっておもしろい話なのかな。そんなことを考えていたら、ほらまた、何も言えなくなる。

「雫は、静岡から来たんだよね?」

 そんな杞憂を吹き飛ばすように、りせは気さくな笑顔を浮かべた。

「静岡の、どこ?」
「下田。ペリーが開国の時にやってきたところ。わたしの家からは少し離れてるけど、おばあちゃんの家は海に近いよ」
「そうなんだ。わたし、海行ったことないからうらやましいなぁ」

 ほんの三年前までは、よくひとりで電車に乗っておばあちゃんの家に行った。きれいなものを撮りたくて、カメラを首からぶら下げて、遊びにいったものだった。おじいちゃんが他界してからは、ひとりで行く理由がなくなってしまって、おばあちゃんに会う回数も少なくなった。

 そうこうしているうちに、わたしはセーラー服を脱ぎ、代わりにブレザーを着て高校に通うようになった。少しずつ変化していく日常が、なんだかとてもおそろしく感じる。

「そういえば、カメラがすきなんだよね」

 テーブルの上に置きっぱなしだったカメラを見て、思い出したようにりせが言った。

「今まで撮った写真とかないの?」
「ないよ、そんなもの」

 わたしはぶっきらぼうに答えた。答えてから、しまった、と思った。

「……もう、飽きたから全部捨てたの」

 取り繕うようにつけ足すと、りせは「ふぅん」と目を細めた。

「わたしたち、まだお互いのこと何も知らないね」
「し、知る必要なんてある?」
「必要なんてないよ。わたしが知りたいだけ」

 わたしの天邪鬼な答えにも、りせが怒ることはなかった。ごちそうさま、と手を合わせ、残りのコーヒーを一気に喉に流し込む。

「今日、何か用事ある?」
「特に何もないけど……」
「じゃあわたしとデートしない?」

 突然の提案に、わたしは目をまん丸くした。

「何で?」
「決まってるでしょ」

 りせはふふ、と口の端を開けると、試すように顔を近づけてきた。ピンク色の唇から漏れる声をそっと潜めて、

「お互いを知るために」



 服を着替えたわたしたちは、電車に乗って新宿へと向かった。こんな風に友だちと出かけるのは久しぶりだ。新しい街で、新しく出会った人と並んで歩くなんて新鮮すぎる。

 休日の新宿は想像以上の混み具合で、特に改札付近は、何かのイベントがあるんじゃないかってくらい人で溢れ返っていた。こんなところ、ひとりじゃ絶対来ない。というか、来られない。りせは慣れた様子でするりするりと人の合間を通っていく。

 やっぱり、東京の女の子っておしゃれだなぁ。すれ違う人たちを見て、わたしはほぅっと息を吐いた。ちょっと奇抜な服装も着こなしちゃってるし、スタイルだって抜群だ。一方わたしは髪もぼさぼさだし、メイクだってしていないし、田舎者丸出しファッションだし。誇れるものなんてないけれど、これだけは自信を持って言える。

 わたしの隣にいる女の子が、一番きれいだ。

「ねぇ、雫はどんな服がすき?」

 たくさんの女の子たちがいる中で、りせはわたしだけの目をじぃっと見つめて、にこやかに話しかけてくる。

「特にこだわりはないかなぁ。着られればいいっていうか……」
「もったいないなぁ。じゃあ、本は? 雫はどんな本がすき?」
「少年漫画は結構読むよ。お父さんがすきなの」
「わたしも少年漫画の方がすき。少女漫画はきらい」
「きらい? どうして?」
「だって、きらきらした恋なんて信じられないの。突然かっこいい男の子が現れて、告白されて……とか、現実にはありえないじゃん」
「意外。もっとかわいいものとか、きれいなものがすきなんだと思った」
「よく言われる」

 りせがふふっと困ったように笑う。

 話していくにつれ、彼女は見た目よりずっと親しみやすいと感じた。栗色の髪は染めたのではなく生まれつきであること。それによって何度も生活指導を受けたこと。高い服はあまり買わないこと。団体行動は苦手で、ひとりで過ごす方がすきなこと。少しだけ、わたしと似ていると思った。今朝の仕返しをするように、りせは次々とわたしに問いかけてきた。

「すきな季節は?」
「春。あったかいから」
「泳ぐのは得意?」
「得意じゃないけどすき。体が宙に浮かんでる感じが心地いいの」
「海にはよく行った?」
「小さい頃はね。今はもう、行く機会もないし」
「わたしも行ってみたいなぁ……あっ、ちょっと見て!」

 彼女の話はCMのようにころころと変わった。いきなり走り出したかと思うと、マネキンが着ているワンピースを指差して、

「この服、雫に似合いそう!」
「ええ……そうかなぁ」

 わたしは首を傾げてマネキンを眺めた。少し大人っぽい、ライトグリーンのワンピースだ。わたしのクローゼットには一着もない。

「着てみてよ。ねっ、お願い!」

 わたしの返事を聞く前に、りせは店員を呼びとめて、勝手に試着を頼んでしまった。わたしはしぶしぶ試着室に入って、ワンピースに着替えてみた。

 鏡に映る自分を見たら、普段と違う自分になったみたいでどきどきした。なんだか、わたしじゃないみたい。少し、かわいすぎやしないかな。こういうの、りせの方が似合うんじゃないかな。

「着替えた?」

 カーテンの向こうから、りせが尋ねてくる。

「う、うん」
「開けるね?」

 心の準備ができないうちに、カーテンが勢いよく開けられた。りせはわたしの頭からつま先まで、観察するようにじっくりと見つめて、満足そうに笑みを浮かべた。

「やっぱりかわいい。あと、眼鏡も取った方がいいよ」
「そう?」
「そうだよ。高校デビューしちゃおう」

 りせに言われると、そっちの方がいいように思えるからふしぎだ。結局彼女に圧倒され、わたしはワンピースを購入することにした。自分で服を買うのはこれが初めてだった。



 そのあとは、おしゃれなカフェでランチをしたり、CDショップに行ったりと、女子高生らしく新宿を満喫した。おいしいスイーツやはやりの音楽、今時のファッションやコスメ。りせから教えられるものはすべて、今まで生きてきた十五年がむだに思えてしまうくらい、魅力に溢れていた。

 ああ、どうしてアイスがこんなにもおいしいってことに気づかず生きてきたんだろう。新品のワンピースがこんなに艶やかなことを、どうして知らずにいたんだろう。女の子として生まれた以上、かわいくなくちゃいけないのよ。ちょっと芝居がかった口調でりせが言う。かわいい、なんて、わたしには縁のない言葉だけど、こうしてりせの隣にいると、少しだけ信じてみたくなる。自分の中にある、「女の子」ってやつを。

 太陽が西に傾き始めた頃、遊び疲れてくたくたになったわたしたちは、もう帰ろうか、そうだね、なんてうなずき合いながら、人の少ない道を歩いていた。

「あっ」

 わたしはふと、道のはずれにある、小さなお店が気になって声を上げた。なんとなく近寄ってみると、手書きで「小さな写真展 神岡美代子」という看板がかけてある。そこは寂れたビルの一階で、透明な扉から中をのぞいてみると、白い壁に何枚もの写真が飾ってあった。

「入場無料だって。入ってみる?」

 りせが試すようにわたしを見る。あ、口角が上がってる。何でもお見通し、って感じの顔だ。わたしはちょっとためらったけれど、結局扉を押すことにした。この瞳に嘘はつけない。

 看板に書いてあった通り、中はさほど広くなく、お客さんもまばらだった。わたしとりせは端っこから順番に、壁に飾ってある写真を眺めていった。

 それは、ひとりの女の子の写真だった。生まれたての姿から始まって、小学生、中学生と、どんどん成長していく姿がおさめられていた。

「かわいいね」

 隣でりせが静かにつぶやく。わたしは返事をするのも忘れて、写真の中の少女に見入っていた。長い黒髪がよく似合うその女の子は、写真家の娘のようだった。大切に大切に育ててきたその子の写真は、一枚一枚に生命が宿っているように、生き生きと、色鮮やかに呼吸をしていた。

 解説文を読んでみると、そこには彼女の短い一生が綴られていた。写真家である母に撮られることが何よりすきで、将来は女優になりたかったこと。夢半ばにして交通事故で亡くなってしまったこと。胸の奥がじんと熱くなった。

「ねぇ、雫はどうしてカメラを始めたの?」

 写真を眺めながら、そっとりせが問いかけてきた。

「……九歳の時、おじいちゃんが教えてくれたの」

 その声に応えるように、わたしも大切に言葉を選んだ。

「おじいちゃんはいつもいろんな風景を撮ってたの。おじいちゃんの写真ってすごいんだよ。植物や動物が生き生きしてて、今にも動き出しそうなの。夕焼けの写真も、実際よりずっと鮮やかで、世界の終わりみたいな危うさがあって……興味を持ったの。それで、おじいちゃんが昔使ってたカメラを譲ってもらったんだ。それからいろんなところに行って、いろんな写真を撮るようになったの」

 一つ思い出したら、おじいちゃんとの思い出が、心の器からどっと噴きこぼれてきた。まん丸な白髪頭。生きてきた年月が刻まれた、しわくちゃの顔。穏やかな瞳。薄い唇から漏れる言葉は、砂漠に降る雨のように、わたしの心を潤していった。

「わたしが写真を撮るたびに、おじいちゃんが褒めてくれた。もっとこうした方がいいってアドバイスもくれた。だけど……」

 そこでわたしは口ごもった。もうずいぶん時が経つというのに、言葉にするには、一呼吸置く必要があった。

「中学一年生の春に、おじいちゃんは死んじゃったの」

 隣にいるりせは、何も言わずにじっとわたしを見つめている。

 わたしはとても能天気な子どもだった。死や別れを、頭では理解していても、どこか他人ごとのように感じていた。遠いところで見知らぬ人が死んでも悲しくはならなかったし、自分の身近な人が死ぬわけないと、都合のいいことを考えていた。そんなこと、あるわけないのに。

 当時のわたしは、毎週のようにおじいちゃんの家に遊びにいっていた。別れの直前も、いつものように写真を撮って、ご飯を食べて、笑っていた。虫の知らせとか、別れの予感とか、そんなものは微塵もなかった。つい先日まで元気だったのに、次に会った時、おじいちゃんは冷たくなっていた。笑うことも、口を開くこともできなくなっていた。

 わたしは、おじいちゃんがだいすきだった。おじいちゃんに褒められるためだけに写真を撮っていた。もう頭を撫でてくれることもない。アドバイスもくれない。じゃあわたしは、誰のために写真を撮ればいいのだろう。何を撮ればいいのだろう。そう考えたら、写真を撮るのがこわくなった。

「それから、わたしは写真を撮れなくなったの。何のために撮るのか分からなくなって、撮りたいものもなくなっちゃった。もう褒めてくれる人がいないって思ったら、カメラを持つこともいやになっちゃって」

 こんなことを人に話すのは初めてだった。お母さんにだってしゃべったことがないのに。なぜか、りせには話したくなった。まだ出会って少ししか経っていないのに。わたしのことを、知ってほしくなった。

「そう。そっか、そうだね」

 彼女のあたたかな手が、そっとわたしに重なった。隣を見たら、りせはにっこりと笑っていた。

「いつか、雫が撮りたいと思えるくらい、素敵な景色に出会えたらいいね」
「……うん」

 わたしは強く、りせの手を握り返した。どうしてだろう。どうしてかな。彼女はわたしの心を軽くする方法を知っているみたいだ。たった一言。短くも長くもないその一言で、心にのしかかっていた重たい石が消え去ってしまったようだ。わたしはぐっと唇を噛んで、写真の中の少女を見つめた。髪の長いその女の子は、どこかりせに似ていた。



 りせといると、時間があっという間に過ぎ去ってしまうからふしぎだ。写真展を見終えたわたしたちは、くだらないことを話しながら帰路に着いた。地面に長く伸びた影が、時折じゃれるように重なり合った。赤く染まった空が、わたしたちだけを照らすスポットライトのようだ。この夕焼けも、頬を撫でる優しい風も、全部わたしたちのもの。そんな、傲慢なことを思った。

 アパートに着くと、駐車場に見慣れない車が停まっていた。特に気にすることなく部屋に戻ろうとしたら、りせの歩調が急にゆるんだ。

「どうしたの?」

 わたしは足をとめて振り返った。りせは車を見つめたまま、喜んでいるような、悲しんでいるような、今まで見たことのない顔をしていた。何かに怯えているようにも見えた。

「あっ、帰ってきた!」

 玄関から、女の人が出てきた。ショートボブの髪にくりっとした瞳の女性だ。りせほどではないけれど、かわいらしい顔立ちをしている。白いロングスカートを翻しながら、りせの元へ駆け寄ってくる、その仕草すら女性らしい。

「おかえり、りせ」
「……お姉ちゃん」

 ピンク色の唇の隙間から、雨粒のように言葉がこぼれた。りせの姉だという女の人は、わたしに気づくと「そっちの子は?」とりせに尋ねた。わたしは慌てて頭を下げた。

「あっ、雨宮雫です」
「こんにちは。お姉ちゃんの小咲(こさき)です。新しく来た子かな?」

 わたしは小さくうなずいた。小咲さんはふふ、と嬉しそうに笑った。

「りせと仲よくしてあげてね。この子、友だち少ないから」
「やめてよ、そういうこと言うの……」

 りせは眉をひそめ、ぶっきらぼうに言い放った。こういう顔もするんだなぁ。わたしは初めて見る彼女の表情を新鮮に思った。どんな時でも大人びている子だと、勝手にそう思っていたから。彼女のことなんてまだほんの一部しか知らないのに。りせは車をちらりと見てから、遠慮がちに口を開いた。

「柊(しゅう)くん、来てるの?」
「そう。今から夕飯だから、連絡しようと思ってたとこ。あ、よかったら雫ちゃんも一緒にどう?」
「いえ、わたしは……」
「いいじゃん。雫も一緒に食べよう」

 りせがわたしの手をつかんだ。明るい声だったけど、その手は少し震えていた。お願い、と、声を発さずに唇が動いた。

「……うん、分かった」

 わたしはうなずいて、りせの手を握り返した。



 玄関に足を踏み入れた途端、「他人の家」独特のにおいが漂ってきて、少し怯んだ。
「どうしたの?」

 わたしの異変に気づいたりせが、脅迫するように繋いだ手に力を込める。ここまで来たら裏切らないよね? 顔は笑っているけど、そう言っている。だって、目が笑ってないもん。

 わたしは観念して靴を脱ぎ、りせと一緒にリビングをのぞき込んだ。当然のことながら、わたしの部屋より広々としている。大型のテレビ、ダイニングテーブル。そして、大きなソファには、わたしがこの家に足を踏み入れたくない理由でもある智恵理さんが座っていた。足を組んでいるせいで、膝上のスカートが更に短くなっている。長い髪がだらりとソファまで垂れて、呪いの市松人形みたい。茶髪だけど。

「お母さん、りせ帰ってきたよ」
「えっ、来たの? めずらしいわねぇ」

 小咲さんの言葉を聞くと、智恵理さんは露骨に顔をしかめた。りせは対抗するようにふいっと顔を背けた。

「わたしだって会いたくなかった」
「またそうやって喧嘩ばっかりして。いい加減仲よくしてよ。雫ちゃんも来てるんだよ」

 りせの後ろに隠れていたわたしは、ぎくりと肩を震わせた。おそるおそる顔を出すと、智恵理さんが「あれ、ほんとだ」と驚いたように目を丸くした。

「お、お邪魔します」
「……びっくりした。あんたたち、いつ知り合いになったの」
「この間よ。いいでしょ、そんなこと」

 りせが、わたしをかばうように腕に抱きついてきた。

 引っ越してきた日、智恵理さんはわたしに、「離れには近づくな」と言った。りせのことを尋ねた時も、鬼のような形相で、「友だちになるな」と忠告したのだ。それなのに家まで押しかけてしまったら、もう言い訳はできない。

「すいません、お邪魔してしまって……」

 いたたまれなくなって頭を下げると、智恵理さんは意外にも、不自然なくらい明るく笑った。

「いいのよ、全然。ひとり暮らしって栄養偏るでしょ。食べてって」
「……ありがとうございます」

 わたしは人見知りの子犬みたいに、びくびくと怯えながら応えた。顔は笑ってる。声も穏やかだ。だけど、絶対歓迎されてない。だって目が笑ってないもん。こういうところ、今のりせとそっくりだ。さすが親子と言うべきか。

 りせはさっきから一度も智恵理さんと目を合わせようとはしない。肌にまとわりつく空気がピリピリしている。ああ、息が苦しい。胃がキリキリする。どうしよう、何も食べられる気がしない。わたしがおなかを押さえていると、智恵理さんが勢いよく立ち上がった。

「じゃ、わたしは退散しようかな」
「えっ、何で?」

 小咲さんが動揺したように声を上げた。

「こんな若い子に囲まれるなんてやーよ。若者同士楽しく食べなさいよ」
「そ、そんなこと」

 ないです、と否定しようとしたけれど、残念ながら言葉が出なかった。

「じゃあね、雫ちゃん。ゆっくりしてってね」

 そう言って通り過ぎていく、その瞬間。空気に紛れるほど小さな声が、確かにわたしの鼓膜を揺らした。

「近づくなって言ったのに」

 その氷のような冷たさに、背筋がぞっとした。香水をまき散らしながら、智恵理さんはリビングから出ていった。

 しん、と重たい沈黙が訪れた。今の、絶対りせにも聞こえてた。寄り添った体が微かに震えている。日常茶飯事なのか、小咲さんはあきれたように「もぉ、お母さんったら」と息を吐いた。

「ごめんね、雫ちゃん。みっともないとこ見せちゃって。気にしないで」
「は、はい……」

 なんとかうなずいてみたけれど、この明らかに下がった室温をどうしてくれよう。今すぐ逃げ出したいけれど、りせが手を離してくれる気配はない。これはもう、覚悟を決めるしかないんだ。

 張り詰めた空気を破ったのは、キッチンから聞こえた叫び声だった。

「小咲ぃ、皿運んでよ」

 男の人の声だった。はぁい、と陽気な返事をして、小咲さんがキッチンへと消えていく。

「……大丈夫?」

 わたしはりせの顔をそっとのぞき込んだ。りせは困ったように眉を下げ、安心させるように微笑んだ。

「平気、いつものことだもん。もう慣れっこだし」
「そんな……」

 気の利いたことを言おうとしたけれど、言葉は一つも見つからない。部外者のわたしが何を言ったって慰めにはならないと、本能で分かった。

 どうしてりせと智恵理さんは仲が悪いんだろう。親子なのに。わたしとお母さんは、すごく仲がいいってわけじゃないけれど、別に悪くもない。すきとかきらいとか、そういう次元で考えたこともない。親子だから、あたりまえだと思う。愛してるとか愛してないとか、そんなこと、考える必要もないから。

「さぁ、ご飯にしよう」

 キッチンから小咲さんが夕食を運んできた。お皿に乗っていたのは、おいしそうなハンバーグだ。さっきまでの胃の痛みはどこへやら、ぐるぐる、と唸りそうなおなかを押さえて席に着くと、小咲さんの後ろから、男の人がやってきた。

 背の高い人だった。爽やかな短い黒髪。切れ長の瞳。どこか飄々とした雰囲気のあるその人は、りせを見てにやりと口角を上げた。

「おー、久しぶり、りせ」
「あっ、し、柊くん……!」

 りせの肩が、ぴょんっと大きく飛び跳ねた。その拍子に、りせがわたしからあっさりと離れた。柊と呼ばれたその人は、りせを見て優しく目を細めた。

「ハンバーグ作った。りせ、すきだろ」
「……すき。だいすき!」

 力強くりせが答える。男の人は、そーかそーかー、と、満足そうにうなずくと、りせの髪をぐしゃぐしゃにした。もぉ、やめてよぉ、と、甘ったるい声でりせが言う。だけどその顔は全然いやがってなんかなくて、むしろとっても嬉しそうだ。まるで飼い主に再会した子犬みたい。

 あ、れ?

 ふたりのやりとりを見つめていたら、妙な違和感を覚えた。この雰囲気、どこかで見たことがある気がする。柊と呼ばれた男の人を、じぃっと見つめてみる。初めて会う、はずなのに。どうしてだろう。確かに、どこかで――

「あ、雫ちゃん。この人、恋人の柊くん」

 小咲さんが思い出したように、彼を紹介した。わたしははっと我に返って、慌てて頭を下げた。

「初めまして。雨宮雫です」
「こんにちは。稲葉柊です。りせの友だち?」

 友だち、という響きに、ちょっと照れくさくなった。わたしは声を出す代わりに、小さくうなずいた。

「お前が友だちと一緒なんて、めずらしいじゃん。雫ちゃん、こいつ友だち少ないからさ、仲よくしてやってよ」

「それ、お姉ちゃんにも言われた」

 りせは拗ねたように頬を膨らませた。こんなに幼い表情を見るのは初めてだ。柊さんが笑うたび、りせも笑う。今にも泣き出しそうな表情で。

 四人で食卓を囲むのは、なんだかちぐはぐな感じがした。初対面の人とご飯を食べるのはちょっと気が引ける。だけど、小咲さんも柊さんもとても気さくで、すんなりと会話に溶け込むことができた。

「えっ、柊さんって先生なんですか?」

 たった今柊さんの口から出た言葉に、わたしはびっくりして箸をとめた。

「そうだよ。藤が丘高校ってとこ」
「すごい。何の教科を教えてるんですか?」
「物理。あんまりすきじゃないんだけど」
「柊くんはね、大学で天文学を勉強してたの。星についてすごく詳しいんだよ」

 隣から、小咲さんがつけ足した。

「よく星を見にいって、写真を撮ったりするの。去年の夏にはりせと三人で行ったんだよ。どこだっけ、えっと……」
「ひろのまきば天文台」

 ぼそっとりせがつぶやいた。

「そうそう。もう、すっごくきれいで感動しちゃった」
「あの時は天気もよかったしな。遠かったけど、行ったかいがあったなぁ」

 柊さんが懐かしむように目を細めた。

 わたしは頭の中で満天の星空を思い描いた。今まで意識して星を見たことなんてあっただろうか。きっと天文台から見る空は、呼吸を忘れるくらいきれいなのだろう。そう考えたら、胸が高鳴った。

「ねぇ、よかったら今度は雫ちゃんも一緒に行こうよ」
「えっ?」

 小咲さんが身を乗り出して誘ってきたので、わたしはたじろいだ。

「でも、わたし……」
「人数は多い方が楽しいし。ね、りせ」

 わたしは助けを求めるようにりせを見た。りせは「そうだね」と小さくうなずいて、テーブルの下でわたしの手をつかんだ。

「雫も一緒だと、嬉しい」
「……うん」

 懇願にも似たその瞳を見たら、わたしは逆らうことができなかった。

「いいよ、じゃあ今度行こう」

 柊さんが優しく微笑みかける。ありがとうございます、とお礼を言ったら、りせの手がするりと離れた。

 楽しげに続く会話の中で、りせの横顔はいつまでも硬く、今にも壊れそうだった。一点の曇りもない、完璧な団欒は、お皿が空っぽになるまで続いた。



 夕飯を終えたわたしたちは、早々に自室へと戻ることを選んだ。これ以上はきっと、限界だと思った。もう、りせが耐えられない。

「ありがとうございました。ごちそうさまでした」
「ごめんね、むりに誘っちゃって。またいつでも来てね」

 玄関まで見送りにきた小咲さんは、にっこりと人のよい笑みを浮かべた。この人の笑顔って、ひまわりみたい。昔、保育園の時にだいすきだった先生を思い出しちゃう。やわらかくて、あたたかい。ついさっき知り合ったばかりなのに、心を許してしまう。

「じゃーな、りせ。夜更かしするなよ」
「分かってるもん」

 保護者みたいな柊さんの言葉に、りせはむぅっと頬を膨らませた。そんなふたりのやりとりを見て、小咲さんがくすくすと笑う。

「じゃあな、ふたりともおやすみ」
「おやすみなさい」

 ふたりの笑顔に見送られ、わたしたちは玄関を出た。

 家の扉が閉まった瞬間、りせの顔から表情が消えた。突然わたしの手をつかむと、そのまま強い力で引っ張っていく。

「ちょ、ちょっと……」

 わたしの声なんて聞こえていないように、りせはずんずん進んでいく。空はもうおそろしいほど暗く、月の光も雲に隠れて地上までは届いてこない。りせは離れにわたしを引きずり込むと、怒りをぶつけるように勢いよく扉を閉めた。

 真っ暗な部屋の中は、なぜか外よりも肌寒く感じた。しん、と静まり返った空気が冷たい。部屋中に溢れたさまざまなものが、一斉に黙り込んでいるみたいだ。

「……りせ」

 目の前にあるりせの背中に、そっと呼びかけた。こんなに近くにいるのに、その姿はどこか遠くて、今にも消えてしまいそうだ。

「ごめんね、付き合わせて」
「……ううん。いいよ」

 わたしたちは、少し黙った。沈黙の理由が、さみしげな横顔のわけが、なんとなく分かってしまった。他人の気持ちとか心とか、そんなのどうでもいいと思っていたけれど、りせだけはなぜか違った。彼女の心の軋む音が、聞こえた気がした。

 つかまれていた手が痛い。ああ、これはきっと。この痛みこそが、きっと。

「わたし、ここから出られないの」

 偽りの星空に怒鳴るように、りせが叫んだ。

「出ちゃいけないの。出たら、心が悲鳴を上げるから。そういう呪いを、魔女にかけられたの」

 声は次第に激しさを増していった。体中に絡まっている蔦をほどくように、りせは全身を震わせた。

「顔だって頭だってわたしの方がいいのに。わたしの方が愛されてるのに。わたしの方が絶対たくさんキスしてる、絶対たくさんセックスしてる。毎日連絡だって取ってるし、昨日だって会ってたの。全然久しぶりなんかじゃないの! でも、それでもかなわないの。超えられないの。解けないの」

「……呪いって?」

 壊れないようにそっと、問いかけた。答えなんて、聞かなくても分かっていたのに。あの、完璧な食卓が始まった時から、気づいていたのに。

 りせはゆっくりと振り向いて、

「すきな人と、結ばれない呪いよ」

 そう言って、強い彼女は弱く笑った。