さよならマーメイド

「雫って、冷めてるね」

 卒業式の日、吐き捨てるようにそう言った彼女の瞳には、諦めと、蔑みと、微かな怒りが浮かんでいた。クラスで一番仲のいい女の子だった。くるっと毛先だけウェーブした髪や、うっすらとピンクに色づいた唇が、まさに女の子って感じでかわいかった。そんなことないよぉ、って笑おうとしたけれど、まわりの空気を感じて、やめた。教室中の誰もが「卒業」っていう一大イベントの波に乗っかって、しくしくと泣きながら抱き合ったり、卒業アルバムに寄せ書きをしたり、スマートフォンで写真を撮りまくっていた。大して仲よくもないくせに、最後の最後で仲間意識が芽生えたようだった。

 まわりの子たちと比べてみると、確かにわたしは冷めていた。涙の一粒も流さず、寄せ書きをもらうこともなく、スマートフォンはポケットに入れたまま、取り出すことすらしていない。寄せ書きだって写真だって、求められたら応じるけれど、大げさに悲しんだり、さみしがったり、「また遊ぼうね」と社交辞令を言うこともなかった。彼女はわたしのそういうところを見て、「冷めている」と言ったのだろう。そう思われてもしかたがない。彼女は悲しそうに微笑んで、わたしの元から去っていった。

 少し、大げさすぎやしないか、と思ったのだ。クラスメイトのほとんどは、県内の高校に進学する予定だった。同じ高校に行く子たちだってたくさんいるだろうし、連絡を取ればすぐに会える距離なのに。まるで今生の別れのようにさみしがるもんだから、うさんくさくてたまらなかった。

 わたしは静岡にある実家を出て、東京の高校に進学することが決まっていた。つまりは、ここにいる誰よりもずっと、ひとりぼっちになるのである。本来、一番悲しむべきなのはわたしだ。だけど、大して遠くに行くわけでもないのに、その場の空気に合わせるように悲しんでいる子たちを見ていたら、ひとつまみの哀愁さえも、すぅーっと波のように引いてしまったのだ。

 その日、一番わたしの胸を震わせたのは、クラスメイトとの別れでも、先生からのありがたいお言葉でもなかった。今朝、家の玄関を出たその瞬間に見えた、消え入りそうな虹だった。明け方まで降り続いた雨が上がったあとの、瑞々しさを感じる朝の空。誰にも汚されていない、生まれたての生命のような、霞みがかった白と青の中、花を添えるように架かった虹は、寝ぼけたわたしの目を覚ますには十分だった。まばたきも、呼吸も、鼓動すらも、奪われたような気がした。学校に着く頃には消えてしまったけれど、こんな時に思うのだ。この手にカメラがあったなら、と。もうとっくの昔に捨てたその選択肢を、性懲りもなく、思い浮かべてしまうのだ。

 卒業式から二週間が経っても、その時の風景は目の奥にしっかりと焼きついたまま、わたしの心をつかんで離さない。住み慣れた街にさよならをして、新しい土地に降り立った今、わたしの頭上に広がるのは、あの時のように広々とした青空ではなく、背の高いビルの隙間に、パズルのピースのようにはめ込まれた四角い空だ。のろのろと歩くわたしを急かすように、大通りを走る車が、ブロロロロ、と、獰猛な音で唸っている。昨日まで住んでいた場所とは、空も、お店も、車や人の数も全然違う。

 逃げるように小道に入ったら、ようやく喧騒から遠ざかることができた。ふぅ、と息をつき、スマートフォンで地図を確認する。慣れない土地というものは、どれだけ単純な道のりでも方向が分からなくなるからいやだ。

 矢印に従って歩いていくと、ふわりと甘いかおりが鼻をくすぐった。都会には似つかわしくない、懐かしささえ感じるかおりだ。蜜に吸い寄せられる蜂のように近づいていくと、コンクリートの家が立ち並ぶ中に、突如花畑が現れた。赤や黄色、それに白。種類は分からないけれど、どれも見たことがある花ばかりだ。迷い込んだわたしを歓迎するように、風に揺られて踊っている。 

 そこは二階建ての小さなアパートだった。レンガ造りがレトロな感じで、まるで絵本に出てくるお屋敷のようだ。建物の面積より庭の方がはるかに広くて、住人よりも花の方がえらいみたい。さっきまで見えていた、ビルの立ち並ぶジャングルはどこへやら。そこはまさに、砂漠に突然現れたオアシスのような場所だった。庭の入り口には芸術品のようなアーチがあって、その中心にある看板には、丸っこい文字で「フラワーガーデン」と刻まれている。

「もしかして、雨宮雫さん?」

 花畑の向こう側から、むりに明るくしたような、甲高い声が聞こえてきた。金色に近い、腰くらいまで伸びた髪がうねうねと蛇のようにウェーブしている。不自然なほど白い肌と、蝶のようにバッサバサと量の多いまつげ、そして、血でも塗りたくったみたいに真っ赤な唇。美人、というより、美人を取り繕っている、って感じ。若くはないと思うけど、おばさんって感じでもない。その証拠に、ちょっと派手なショッキングピンクのワンピースも、まったく違和感なく着こなしている。デートにでも行くのかと思ったけれど、右手に握られているジョウロを見て、花壇に水を遣っていただけだと分かった。

「ずいぶん早いのね。夕方って聞いてたけど」
「すいません、連絡もしないで……」
「ううん、早く会えて嬉しいってことよ。わたし、大家の蓮城智恵理(れんじょうちえり)。これからよろしくね」

 よろしくお願いします、と頭を下げたら、かけていた眼鏡がずるっと鼻までずり落ちてきた。慌てて手で押さえて顔を上げる。智恵理さんがばかにしたようにふんっと鼻で笑った。
「荷物届いてるわよ。部屋に案内するからついてきて」

 くるりと踵を返した途端、アルコールを含んだような、つんとしたにおいが漂ってきた。わたしは気づかれないように鼻を押さえながら、智恵理さんのあとについていった。 

 

「フラワーガーデン」という名前のアパートは、最寄駅まで徒歩十分、高校まで自転車で約十五分という非常に便利な場所にある。家具は備えつけ、おまけに女子学生専用だというから、初めてのひとり暮らしには十分すぎるくらいだ。普段はどこの仲介業者も紹介していないらしいけれど、たまたまこの三月に空きが出たらしい。受験が終わって気の抜けたわたしの代わりに、お母さんがどこからか情報を仕入れ、あっという間に契約まで済ませてしまったのだ。そこまではありがたかったのだけれど、そこでぷつんと気力が途切れたらしく、肝心の引っ越し日には手伝わないと言い出した。その結果、わたしはひとりでここにいる。

 一階部分が大家である智恵理さんの居住スペースで、二階には四つ部屋がある。そのうちの一つが、今日からめでたくわたしの部屋となるのだ。

「ここね、201号室」

 案内されたのは、廊下の突き当たりにある角部屋だった。玄関を開けて真っ先に目に飛び込んだのは、コンロが一つあるだけの小さなキッチン。その隣には、備えつけの冷蔵庫。そして見るのもおそろしいくらい大量に積まれた段ボール。

 他人の部屋に入るように、そっと靴を脱いだ。靴下越しに、フローリングの床の冷たさが伝わってくる。つい先週まで他の人が住んでいたらしいけど、そんなことを感じさせないくらい、どこもかしこも新しい。

 ひとり暮らしの部屋ってこんなに狭いんだ。キッチンの反対側にあるドアを開いてみると、そこは洗面所だった。その奥には浴室がある。これもまた小さい。ひとり暮らしって、こんな感じなんだなぁ。実家とはサイズ感がまったく違う。今日からここで暮らすなんて、なんだか実感が湧かない。

「水道とか電気はもう契約済みだから。共益費は家賃と一緒に口座から引き落とし。あと、ペットは禁止ね。魚とか、小さなものだったらいいけど」

 背中から聞こえる説明は、まるで聞かれることを想定していないように早口で、わたしが戻る頃には、もう智恵理さんの口は閉じていた。

 背負っていたリュックを床に置いてから、山積みされたダンボールの隙間を通ってベランダに出た。真っ白な光が降ってきて、目の奥が痛くなる。眩しさを堪えて庭を見下ろすと、予想通り、先ほど見た花畑が、視界を埋めるように広がっていた。庭の端には大きな桜の木まである。春を象徴するように花はどれも満開で、まるで絵本の挿絵みたい。大きく息を吸い込んだら、花の混ざった空気が肺に入って、体の芯が甘ったるくなった。

「きれいでしょう」

 いつの間にか隣に立っていた智恵理さんが、自慢げに胸を張った。

「死んだダーリンがすきでね、春は特にきれいなの。手入れは面倒なんだけどね」
「……あの建物は?」

 わたしは大きな桜の近くにある、白い建物を指差した。倉庫にしては大きい、一階建ての建物が、庭の片隅にぽつんと存在している。華やかな庭に不釣り合いなさみしさをまとっているそれは、独立した一つの国のようだった。あまりにもまわりになじんでいないから、なんだかものすごく気になったのだ。

 智恵理さんはわたしの指差した方向を一瞥すると、まるで汚物を見たように顔をしかめた。

「ああ……あれは、うちの離れ。あそこには近づいちゃだめよ」
「どうして?」
「雫ちゃんの教育によろしくない」

 一体どういう意味なのだろう。わたしを拒絶するように、智恵理さんは「あっ、そうだ!」と勢いよく手を叩いた。

「雫ちゃん、恋人いる?」
「は? ……いないですけど」
「あら、そうなの。もし恋人ができても、うちは異性入室オッケーだから心配しないでね。まぁ……当分ないでしょうけど」

 智恵理さんはわたしをじろじろと眺め、実にいやなため息を漏らした。ずいぶん失礼なことを言うものだ、と思ったけれど、図星なので反論できない。どうせ彼氏なんてできたことないし、すきな人さえいないですよ。加えて、今の格好は着古した無地のTシャツに安物のジーンズ。ぐぅの音も出ないとはこのことである。

「じゃ、とりあえずわたしは退散するわね。困ったことがあったらいつでも声かけて」

 智恵理さんはわたしに鍵を手渡すと、上機嫌で部屋から去っていった。



 ひとりになったわたしが最初に始めたのは、ブロックのように積まれた段ボールを片っ端から片づける作業だった。ガムテープを乱暴に剥がして、衣服や本を取り出す。それを衣装ケースや本棚に収納、その繰り返し。単純な作業だけど、意外と手間と時間がかかる。しまったなぁ、こんなに面倒だとは思わなかった。やっぱり、お母さんに手伝いにきてもらえばよかったな。いくら後悔してももう遅い。

 根気よく作業を続けること約五時間。足の踏み場のなかった部屋も、ようやく人が住める空間になってきた。ぎっしり衣類が詰め込まれた衣装ケース。本棚には真新しい教科書類。ここまでやれば上出来だろう、と、額に滲んだ汗を拭う。さぁ、残すところあと一つだ。そう意気込んで最後の段ボールを開封した瞬間、体温が、すぅー……っと下がっていくような感覚に襲われた。

 そこにあったのは、年季の入った古いカメラだった。ところどころに傷があるけれど、黒色が、塗りたてみたいにてらてらと光っている。押入れに封印していたはずなのに、どうしてここにあるんだろう。まるで死んだ人が帰ってきたみたい。よく見たら、段ボールの底には小さなアルバムまで入っていた。わたしが今まで撮りためてきた写真が詰まっている。きっとお母さんが勝手に入れたのだろう。気を利かせたつもりなのだろうか。いずれにせよ、とんだお節介だ。

 わたしはカメラとアルバムを乱暴に取り出し、押入れの一番奥に押し込んだ。段ボールをぐしゃりとへこませて、ベランダの外に放置する。全身の疲れを吹き飛ばすように、背中からベッドへ倒れた。

 視界いっぱいに、白いだけの天井が広がる。しぃん、と、絶え間なく響く静寂がうるさい。スマートフォンの時計を見ると、もう十九時を過ぎていた。いつもだったら、お母さんがリビングから「ご飯よぉ」と叫ぶ頃だ。でも、今日からは違う。お父さんもお母さんもいない。今日からわたしは、ひとりぼっち。

 ふと、夕食を準備しなければならないことに気がついた。外も暗いし、そろそろ買い出しに行かなければ。重たい体をなんとか起こし、わたしはコンビニへ向かうことにした。
 


 外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でて気持ちよかった。ぼんやりと夜空を見上げると、数個の星がさみしげにちかちかと瞬いている。都会は星が少ないって本当だったんだ。自然の光も、地上にある人工的なライトに負けてしまうのだろうか。そうだったら、ちょっと悲しい。

 最寄りのコンビニで、パスタと二リットルのお茶、それに食パンを買って帰路に着いた。部屋に戻る前になんとなく、庭の端っこにある桜に近づいてみた。春真っ盛り、桜も満開。薄紅色の花びらが、ひらひらと宙に舞っている。月の光で反射して、まるで雪のようだ。こんな都会のど真ん中にも、桜の木ってあるんだなぁ。一歩大通りに出たら、見る影すらないのに。桜だけじゃない。花壇に植えられているたくさんの花も、きっとここにしかない。

 写真を、撮りたいな。

 ごく自然に、そう思った。あのカメラで、最高の一枚を撮りたい。そう考えて、ああ、と我に返った。そうだ、もう撮れないんだった。褒めてくれる人はもう、どこにもいないのだから。

 わたしの心を映すみたいに、月が雲に隠されて、夜の闇が深まった。一体、何を考えていたのだろう。今更写真を撮ろうだなんて、ばからしい。早く部屋に戻ってパスタを食べよう。歩き出そうとした、その時だった。

 すぐ近くから物音がした。びっくりして振り向くと、離れの扉が開いている。人の気配を感じたわたしは、慌てて桜の木の陰に隠れた。

 ないしょ話をしているような、男女の声が聞こえた。わたしはそっと顔を出し、じぃっと暗闇に目を凝らした。

 男の人の姿が見えた。暗くてよく分からないけれど、背が高くてすらっとしている。あんなところで何をしているんだろう。そう考えていたら、真っ白な細い腕がぬぅっと暗闇から伸びてきて、彼を部屋の中へと引きずり込んだ。

 ふたりのささやき声がとまった。

 何も見えないはずなのに、なぜか、胸がどきどきした。

 数秒後、男の人がもう一度姿を現した。軽く手を振って、足早にその場を離れていく。

 彼を見送るように、女の子が部屋から出てきた。わたしは息を潜めてその後ろ姿を見つめた。腰まで伸びた長い髪が、踊るように風になびいている。白くて長い手足が、暗闇にぼんやりと浮かび上がっていた。男の人の姿が見えなくなっても、まるで時間がとまったかのように、彼女はその場に立ち尽くしていた。

 より一層強い風が吹いて、庭中の草花が、さぁぁぁ、と歌うように音を立てた。桜の花びらが、彼女を隠すように舞い落ちてくる。手に持っていたビニール袋がガサガサと騒ぐ。ゆっくりと、彼女が振り向いた。

 目が、合った。

 わたしは咄嗟に木の陰に身を隠した。両手で口を覆って、じっと息を潜める。一分ほどかくれんぼしたら、足音と、扉の閉まる音が聞こえてきた。わたしは細心の注意を払い、離れの扉が閉まっていることを確認して、一目散にアパートへと逃げ込んだ。一気に二階まで駆け上がり、もつれる手でドアを開けて、籠城するように鍵をかけた。

 びっくり、した。

 体中の空気を押し出すように、長く息を吐いた。胸に手をあてたら、心臓が飛び出しそうなほどばくばくしている。

 見てはいけないものを見てしまった気がした。ロミオとジュリエットの逢瀬みたいな、ロマンチックで、でもどこか、危うい感じ。あれは一体何だったんだろう。何をしていたのだろう。あの女の子は誰だろう。おそろしいくらいきれいだった。顔を見なくても、雰囲気だけでそうだと分かった。そんな、気がした。

 ふらふらと部屋の中に入ったわたしは、カーテンの隙間から庭をのぞき込んだ。満開の桜の近くに、ぽつんと建っているそれは、神秘の宮殿みたいな風格があった。窓はついているものの、中は真っ暗で見えない。人がいる様子もない。だけど確かに、あの子はあそこにいたのだ。

 わたしはカーテンを閉め、ぐにゃりと床に座り込んだ。まるで脳みそがふやけてしまったみたいだ。床の一センチ上に座っているみたいな浮遊感が抜けない。買ったパスタを一口食べたら、少し冷めていた。



 部屋の片づけや買い物に追われていたら、あっという間に入学式の日になった。真新しい制服はなんだかこそばゆいし、汚れ一つないカバンを持つのもそわそわする。春は、新しいものだらけ。

 十五分ほど自転車をこいだら、もう高校が見えてきた。与えられた教室に入ると、大半の生徒はもう自分の席に着いていた。わたしの席は案の定、一番前の一番窓際。小学校の時からの定位置だ。席に着くと、まわりからぽつりぽつりと友だち作りの会話が聞こえてきた。この人はどんな性格か見定めるための、お芝居みたいな会話だ。

 わたしはこの空気が苦手だった。別にひとりでいたいとか、友だちがいらないってわけじゃない。愛想笑いや、ぎこちない会話が苦手なのだ。ああ、早く先生がやってきて、このお芝居を中断させてくれないかな。始業のチャイムが鳴るのをぼんやりと待っていたら、後ろから肩を叩かれた。

「なぁ、雨宮雫だろ」

 振り向いた先にいた男子生徒が、確かめるようにわたしの名を呼んだ。短い髪に、パッチリとした二重。どこかで見たことがあるような、そうでもないような。なかなか答えを出せないわたしに痺れを切らしたのか、そいつは「おれだよ、おれ」と自分を指差した。

「忘れちゃったのか? 奏真だよ、一色奏真」
「えっ、奏真?」

 わたしは不満そうに口を曲げているその顔をまじまじと見つめた。雰囲気は変わってしまったものの、確かにわたしの知っている男の子だ。昔はもっと背が低くて、女の子のようなかわいらしい印象だった。だけど今は背も伸びて、体つきもがっしりしている。男の子の成長スピードってめまぐるしい。

「久しぶり。なんか、感じ変わったね」
「そうか?」
「うん。背伸びたし。何センチ?」
「一七五。牛乳飲みまくってたら伸びた。雫はあんまり変わらないな」
「まぁ、奏真に比べたらね。ここ受けてたの、知らなかった」
「おれも、まさか雫がいるとは思わなかったよ。引っ越したの?」
「うん。わたしだけね」
「わたしだけって、えっ、ひとり暮らし? すっげぇな」
「大げさだよ」

 大きな瞳が、新しいものを発見したみたいにきらきらと輝く。外見は変わったけれど、その純粋な反応はちっとも変わっていない。  

 一色奏真は、保育園からの幼なじみだ。家が近所だったこともあって、小さい頃はお互いの家でよく遊んだ。小学五年生の時、奏真が転校したのを境に疎遠になってしまったけれど、まさかこんなところで再会するとは。腐れ縁というやつだろうか。

「また雫と同じ学校かぁ。しかも同じクラスなんて、小三以来じゃない?」
「よく覚えてるね、そんなことまで……」
「そりゃ覚えてるよ、ついこの間じゃん」

 この間って言っても、数年以上前のことだろう。わたしなんて、昨日の朝食すら思い出せないのに。奏真は懐かしそうに目を細めた。

「昔はよく一緒に遊んだもんな。あっ、そうだ! 写真は?」
「えっ?」
「雫、写真撮るのすきだったよな。まだ撮ってるの?」
「……ううん、撮ってない」
「そうなの? どうして?」
「あんなの、ただの趣味だし。続ける理由なんてないもん」

 ぶっきらぼうに答えると、奏真は「なんだ、残念だなぁ」と肩を落とした。わたしは話題を変えようと、きょろきょろと教室を見渡した。

「そ、そういえば、あの席の子まだ来てないね」
「え? どこ?」
「ほら、あの一番後ろの」

 奏真は振り向いて、わたしが指差した先を見やった。廊下側の列の、一番後ろ。ちょうどわたしの対角線上にある席だ。もうすぐ始業のチャイムが鳴るというのに、一向に人が座る気配がない。入学式から遅刻だなんて、きっと、とんでもない不良に違いない。

「蓮城りせ」
「えっ?」
「あの席の生徒。蓮城りせってやつだろ」
「何で知ってるの?」
「名簿見たら分かるよ」

 そうだった。手元にあるクラス名簿を見ると、なるほど、確かに「蓮城りせ」と書いてある。最後の席だから、特定するのも容易だ。

 蓮城りせ。なぜだろう、歯の奥に何かが引っかかる。

 わたしの思考をさえぎるように、始業のチャイムが鳴った。担任の先生が教室に入ってきて、軽い自己紹介と今日の流れを説明した。それから体育館に案内され、あれよあれよという間に入学式が始まった。

 校長の長い話を延々と聞くだけの簡素な儀式が終わったら、高校一年生の初日はめでたく終了だ。ちょうど十二時を過ぎたところだったので、入学式に来ていたお母さんと昼食を食べることになった。

「荷物の整理は終わった? 食べ物には困ってない?」

 三日ぶりに会ったお母さんは、オムライスを食べながら、ひどく饒舌に娘の心配をしてきた。いつもはノーメイクにステテコのくせに、今日はめずらしくばっちりお化粧をして、スーツなんか着ちゃってる。

「お米、足りなくなったら早めに言うのよ。送ってあげるから」
「いいよ、自分で買うから……」
「でも、お米って重いでしょ。いいわよ、缶詰とかレトルト食品と一緒に送ってあげる」

 わたしはあいまいに返事をして、とろとろのオムライスを口に運んだ。お父さんが心配してるだの、体育館は少し寒かっただの、奏真くんと再会するなんてびっくりね、だの。ひとりでしゃべり続けるお母さんは、まるでラジオのパーソナリティみたいだ。どうでもいい話題は、右から左へするりするりと抜けていく。

 今、わたしの頭の中は、「蓮城りせ」のことでいっぱいだった。結局彼女が登校することはなく、残念ながら会うことはできなかった。思い違いかもしれないけど、「蓮城」なんてめずらしい苗字、めったにあるものではない。

 もしかして、だけど。あの夜出会った女の子は智恵理さんの娘で、今日欠席したクラスメイトと同一人物なのだろうか。だったらなぜ、智恵理さんはわたしに娘の存在を教えてくれなかったのだろう。普通、わたしと同い年の娘がいたら、話題の一つにでも出しそうなのに。それに、あの時――

「ねぇ、聞いてるの?」

 お母さんが苛立ったように、わたしの目の前でぶんぶん手を振ってきた。

「聞いてるよ」

 わたしは清々しいほどの嘘をついて、オムライスを口に詰め込んだ。


 
 ランチを終えたお母さんは、娘との別れを惜しむことなく、軽い足取りで喧騒の中へと消えていった。久々に会ったママ友と、互いの子供の悪口を言い合うのだろう。わたしも一緒に、と誘われたけれど、わざわざ嫌味を言われにいく筋合いはない。

 アパートに戻ったわたしは、自室に入るより先に、一階のインターホンを鳴らした。

「あら、雫ちゃん。おかえりなさい」

 目の前に現れた智恵理さんは、フリルのついたシャツに赤いスカートという、宝塚女優みたいな恰好をしていた。やっぱり、普段からこういう服装なんだ……。漂ってくる香水から逃れるように、わたしは一歩後ろに下がった。

「入学式はもう終わったの? どうだった?」
「ふつーです」
「ふつーかぁ……今時の子ね。趣味とかないの? 彼氏もいないんでしょ。女の子なんだし、もっと楽しみ持った方がいいわよ」
「はぁ……」

 わたしはずり落ちそうになる眼鏡を押さえながら、適当に相槌を打った。どうして大家にそんなことを言われなければいけないんだろう。そう思わないこともないけれど、いちいち腹を立てる気力もない。現代っ子の典型である。

「あの、これ母から」
「えっ、いいの? 嬉しーい!」

 お母さんから預かってきた菓子折りを渡すと、智恵理さんは女子高生のように甲高い声を上げた。

「もぉー、気なんて遣わなくていいのに。ありがとうって伝えておいて」
「はい。あの、えっと……」
「ん? なぁに?」

 わたしはちょっとためらって口をつぐんだ。どうしてこんなに気になるのか、自分でも分からない。知らなくてもいいことなら、知らないままでいればいい。いつものわたしなら、そう思うのに。「雫って、冷めてるね」卒業式で言われた、あの言葉を思い出す。そう、そうだ。わたしって、冷めてる、はずなのに。

「智恵理さんって、娘さんいますか? わたしと同じくらいの……」
「……いきなり、どうしたのよ」

 智恵理さんの表情が、テレビのチャンネルを切り替えたみたいに険しくなった。怯みそうになったけれど、聞いた以上は引き返せない。

「同じクラスに、蓮城って苗字の子がいるんです。それでちょっと、気になって……」
「ふぅーん、雫ちゃんと同じクラスなんだ。学校も行かずにぷらぷらほっつき歩いてるような子、娘なんて思いたくないんだけどね」
「じゃあ、あの離れにいるのって……」
「もしかして、りせに会った?」

 何も言えずに目を逸らすと、智恵理さんは苛立ったように前髪を掻き上げた。

「友だちになろうなんて思わないでね。あんな勝手な子と仲よくしても、雫ちゃんにメリットないわよ」
「どうして別々に暮らしてるんですか? 同じ敷地内なのに……」
「そんなのわたしが聞きたいわよ! 何にも言わずに出ていって、しかも学校まで行かなくなって……。いじめが原因とかならまだ分かるんだけど、そうでもないみたいだし。もう心配するのも疲れちゃった」

 濁っていく空気を吸い込むまいと、わたしはきつく唇を結んだ。やっぱり軽率に聞くんじゃなかった。親子関係が悪いことくらい、予測できたはずなのに。しゃべりすぎたと思ったのか、智恵理さんはごほん、とわざとらしく咳払いをした。

「とにかく、あの子にはもう近づいちゃだめよ! 性病がうつるから!」
「は、はぁ……」

 十五歳のわたしにはとても不適切な単語を投げつけて、智恵理さんはそそくさと部屋の中に戻っていった。

 ひとり残されたわたしは、振り返った先にある小さな建物を見つめた。大きな桜の近くにひっそりと佇む、「蓮城りせ」のお城。隙間なく閉められたカーテンは、まるで鉄の扉のようだ。中の様子は見えないし、夜になっても明かりが灯ることはない。

 だけどあの夜、彼女は確かにあそこにいたのだ。正直、あの日のことはあまりよく覚えていない。銀色に輝く月と、桜の花びら。夜の闇に浮かび上がった肌が、おそろしいほど白かったこと。思い出すのは、それだけ。



 ひとり暮らしって案外退屈だ。自由と引き換えに会話を失う。暇を潰す相手をなくして、ひとりごとばかりが増えていく。

 それに気づいたのは、入学式が終わってすぐのこと。もう部屋もこれ以上できないってくらいきれいに片づけ、足りないものがないってくらい買い出しも終わり、入学式でもらった説明資料も一通り読み終わって、あとは始業式を待つだけっていう日曜日。

 何をするわけでもなくだらだらとテレビを見ていたら、あっという間に日が暮れてしまった。夕ご飯もお風呂も済ませ、時計を見ると二十三時。電気を消してベッドに寝転んでみるけれど、目蓋は全然重くならない。

 彼女と出会うことになるのは、そんな、退屈な夜だった。

 ちょっとだけ開いた窓の外から、微かな歌が聞こえてきた。わたしははっと頭を上げて、その歌声に耳をすませた。

 風に揺れる風鈴のような、朝にさえずる小鳥のような、透明な歌声だった。わたしは慌ててベッドから下りてベランダに出た。声は確かに聞こえるのに、庭には人の姿なんてどこにも見えない。

 気づいたらわたしは、アパートの外に飛び出していた。いつものわたしなら絶対にこんなことしないのに。見えない糸に引かれるように、歌声によって、誘い出されたのだ。

 外に出ると、冷たい夜風がびゅうっと襲いかかってきた。寒い、だけど、そんなこと今はどうだっていい。この歌声が消える前に、早く、早く見つけなきゃ。何かに急き立てられるように、右から左へ何度も視線を往復させた。色とりどりの花たちが嘲るように左右に揺れているだけで、人の姿はどこにも見えない。歌声だけがBGMのように聞こえ続けている。

 わたしは息を潜め、もう一度歌声に耳をすませた。草木のさざめきに紛れた声は、細い糸みたいに頼りない。切れないようにそっと、足を地面に滑らせていく。吸い寄せられた先にあったのは、大きな桜の木だった。

 誰も、いない。春の寿命を縮めるように、花びらがはらはらと降っているだけ。でも確かに、ここから聞こえる。一体どこにいるんだろう。桜を見上げたわたしは、ぎょっと目を見張った。

 青白い二本の足が、ぬぅっと暗闇に浮き出ていた。風に流されるように、ぶらぶらと宙に揺れている。雲に隠れた月が顔を出し、あたりがぼんやりと明るくなった。

 暗闇でもはっきりと分かる、天使みたいに甘い顔立ち。雪みたいに白いワンピース。長い髪が、花びらに絡まるようにたゆたっている。祈るように。楽しそうに。でも、切なげに。澄んだ声で歌っている。

 ――ああ、この子だ。
 この子が、「蓮城りせ」だ。

 歌声がとまり、りせの大きな瞳がわたしを捉えた。わたしは息をするのも忘れて、呆然とその場に立ち尽くした。声を出すこともできない。出そうとも思わない。指先すら動かない。動かそうとも思わない。まるで、脳みそがとろけてしまったみたい。

 りせは未知の生物に出会ったように、注意深くわたしを見つめた。わたしもまばたき一つせず見つめ返した。

「ハロー」
「……は、はろー……?」

 突然出た英語に、わたしは動揺した。えっ、何で? どうして英語? もしかして、外国人だった? ありもしない可能性を考えてうろたえていると、りせはけらけらとおなかを抱えて笑い出した。まるでいたずらが成功した子供のようだ。動揺と混乱がぐるぐると渦巻く中で、ああ、からかわれたのだなぁということだけが、すとんと腹に落ちてきた。

 ひとしきり笑いを吐き出したりせが、突然、宙ぶらりんだった足を枝の分かれ目にかけた。

「ねぇ、そのまま動かないで」
「えっ?」
「受けとめて」
「ちょ、ちょっと……」

 わたしは大慌てで両腕を広げた。拒絶も逃亡もできないうちに、りせの体が空中に舞った。

 ふわり。長い髪が宙に広がる。桜の花びらを道連れに、りせが空から降ってくる。

 彼女の重みを捉えたら、堪え切れずにそのまま地面に倒れ込んだ。背中に強い衝撃が走って、全身がびりびりと痺れる。うぅ、と短く呻いたら、上に乗っていたりせが、のっそりと頭を起こした。

 間近で見るりせの瞳はものすごく大きくて、黒い真珠のようにきらきらしていた。肌は同じ人間と思えないほど真っ白で、滑らかで、ああ、もう、どうしよう。自分が恥ずかしくてたまらない。

「……ごめんね」

 唇から漏れたのは、幽霊みたいにか細い声だった。

「重かったでしょ」
「……平気」

 奪われていた声を、喉の奥からぎゅうっと絞り出した。本当は、声じゃなくて心臓が口から飛び出しちゃいそうだ。やわらかな髪が頬に触れてくすぐったいし、甘ったるいかおりで頭がくらくらする。りせはのんびり立ち上がって、膝についた土を軽く払った。

「服、汚れちゃったね」

 嘲るような言い方をして、わたしに手を差し伸べる。ちょっと上から目線だと思った。まぁ、実際上にいるわけだけれども。平気、とロボットのように繰り返して、わたしは彼女の手を取った。ぐいっと乱暴に引っ張るので、足がもつれてりせに倒れかかってしまった。きゃっ、と反射的に飛び跳ねたら、繋いでいた手がぱっと離れた。りせはふしぎそうに小首を傾げた。わたしはもうどうしたらいいのか分からなくて、ひとまず心臓が飛び出さないようにと、唇を真一文字にきゅっと結んだ。目の前の女の子はわたしと違ってとても落ち着いていて、そういう彼女を見ていたら、どうしてわたしだけこんなに取り乱しているのだろう、すきな芸能人に会ったわけでもあるまいし、と、ますます自分を恥ずかしく思った。

 わたしの焦りを包み込むように、りせはふんわりと微笑んだ。

「来て」



 りせに招かれたのは、桜のすぐそばにある白い建物だった。

「すごい……」

 一歩足を踏み入れたら、そこは、星の海だった。電気のない薄暗い空間に、投影された星の光が無数に浮かんでいる。まるで本物の星空みたいだ。

「きれいでしょ」

 薄暗闇の中で、りせが自慢げに微笑んだ。

「ごめんね、暗くて。適当に座って」

 わたしはおそるおそる靴を脱いで部屋に上がり込んだ。テーブルの前に腰を下ろし、そわそわと部屋の中を見渡してみる。女の子らしいくまやうさぎのぬいぐるみ。マカロンの形のクッション。棚にはたくさんのCDが並べられている。手に取って目を凝らすと、どれもこれも「コペルニクス」というアーティストのものばかりだった。

「ねぇ、紅茶すき?」

 わたしがうなずくと、りせはテーブルの上のスタンドライトをつけて、キッチンでお湯を沸かし始めた。わたしはぼんやりとりせの後ろ姿を眺めた。ああ、どうしてこんなことになってしまったのだろう。暗闇でふたりきり、なんて。まるでいけないことをしているみたい。わたしは緊張を紛らわせるように視線を泳がせた。

 テーブルの上に置いてある写真立てが、ふと目に飛び込んできた。ライトに照らしてみるけれど、よく分からない。

「それね、しし座流星群」

 キッチンから戻ってきたりせが、はい、とマグカップを差し出した。

「2001年にね、一時間あたり二千個も出現したんだって。その時の写真だよ。これを越える流星群は当分見られないだろうって予想されてるの」
「……星がすきなの?」

 マグカップを受け取りながら尋ねる。りせは「別に」とそっけなく答え、わたしの隣に座り込んだ。

 こんなに暗い部屋の中じゃ、表情すらよく見えない。漂ってくる香水のかおりと、闇に揺れる長い髪と、青白く浮かぶ肌だけが、彼女の「すべて」だ。

「あなた、新しい人でしょ。名前は?」
「あ、雨宮雫」
「ふふっ、潤ってるね」
「よく言われる」

 りせの大きな瞳がふっと細められた。笑っているようだ。

「わたしのこと、ちーちゃんから何か聞いてる?」
「ちーちゃん?」
「蓮城智恵理。不良娘とか、引きこもりとか言ってなかった?」
「……聞いてないよ」
「優しいね」

 りせはすべてを見透かしてつぶやいた。わたしは嘘を蹴ちらすように、紅茶を舌に流し込んだ。

「あなたは、蓮城りせ、さん?」
「りせでいいよ。わたしの名前、知ってるんだ」
「今日入学式で……あなたと同じクラスだったの」
「へぇ、そうなんだ。クラスまで同じなんて運命だね」

 運命、という言葉にどきりとした。マグカップを包む冷えた両手が、どんどん熱を帯びていくのが分かってこわくなった。

「入学式、どうして来なかったの?」
「あ、わたしね、出席日数足りなくて留年してるの。だから、ってわけじゃないんだけど」
「えっ、じゃあ年上?」
「うん。でも、敬語とか使わなくていいからね」

 わたしの心境を察したように、りせが早口で言った。留年、という事実には驚いたけれど、なんだか妙に納得した。りせは同世代の子たちよりずいぶん大人びて見える。髪を掻き上げる仕草とか、耳につけたピアス、とか。全部、わたしとは正反対だ。

「学校には行かないの?」
「今のところ」
「どうして?」
「制服がきらいなの。子供の象徴みたいで」

 たったそれだけ? 尋ねようとしたけど、りせの目を見てやめた。それだけじゃないことなんて、聞かなくても分かった。

「ここに越してきたってことは、ひとり暮らしだよね。どこに住んでたの?」
「静岡」
「遠いね。何でこっちに来たの?」
「……なんとなく」
「そう。ま、そういうこともあるよね」

 りせはうーんと伸びをして、そのまま背中から床に倒れた。長い髪が絨毯みたいに床に広がる。

「同年代の女の子と話すの、久しぶりだな。なんか楽しいや」
「……うん。わたしも」

 わたしはちょっと嬉しくなって微笑んだ。ふひひ、とりせがいたずらっぽく笑う。

 なんだか、ふしぎだった。ついさっき出会ったばかりなのに、全然ぎこちなくない。会話を探らなくても、知りたいことが喉から出てくる。こんな気持ち、初めてだ。

「りせは、いつからここで暮らしてるの?」
「半年くらい前かな。本当は雫みたいに家を出たいんだけどね、お金がないから。食費とか、最低限の生活費は自分で稼いでるの」
「えっ、じゃあ、生計が別ってこと?」
「全部ってわけじゃないけどね」

 びっくりした。家族がすぐそばにいるのに、そんなの、まるで他人みたい。

「どうして智恵理さんと一緒に暮らさないの? こんなに近くにいるのに」

 りせは大きな瞳で天井の星をじっと見つめ、黙った。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。怯えながら口を閉ざしていると、りせはゆっくりと体を起こした。

「わたし、呪われてるの」
「……え?」
「魔女に呪いをかけられたのよ」

 何を言っているのか、分からなかった。からかわれているのかとも思ったけれど、彼女の目は真剣だった。

 りせはそっと立ち上がると、偽りの星空に手を伸ばした。

「わたし、ここから出られないの。あそこに居続けたら死んでしまうから、ここにいるの」

 祈るように、縋るように。その姿はまるで迷子の子供のようにさみしげで、今にも消えてしまいそうなほど儚かった。

「ひとりぼっちでもがきながら、海の藻屑になる時を待ってるの」

 わたしはどうしたらいいのか、何を言えばいいのか、何も分からなかった。彼女が伝えたいことも、彼女が抱えている大きな秘密も、まだ、何も知らなかった。

 りせは振り向くと、泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「……ねぇ、雫。また会おうよ。わたし、雫のことが知りたい」

 天井に伸ばした手をわたしに差し出す。つかんだら、何かがわたしの手のひらに落ちてきた。開いてみたら、そこには小さな瓶があった。じっと目を凝らすと、中にはさらに小さな星くずがたくさん入っていた。

「……金平糖?」
「うん。雫にあげる」

 わたしは立ち上がって、りせと向かい合った。どちらからともなく、両手を握り合った。額と額をくっつけたら、彼女の呼吸を頬に感じた。

「……歌が聞こえたら、会いにきてね」

 まるでないしょ話をするように、ひっそりと、彼女は言った。
「誰にも見つからずに、こっそり。わたし、待ってるから」

 やくそく、よ。

 そうささやいた言葉は熱を持ち、暗闇の中に溶けて消えた。



 部屋に戻ったわたしは、夢見心地でベッドの中に潜り込んだ。

 体が熱い。全身がどくどくと脈打っているのが分かる。ぎらぎらと冴え渡った目は、天井のシミまで見つけてしまいそうだ。

 りせと出会った。りせとしゃべった。透明な歌声、白い肌、香水のかおり、甘い約束。ふたりだけの、秘密の時間。

 呪いって一体何だろう。魔女って、どういうことだろう。彼女に対する疑問は会う前よりも深まって、ますます惹かれてしまった。もっと、りせのことが知りたい。もっとりせとしゃべりたい。

 ――歌が聞こえたら、会いにきてね。

 彼女の言葉が心に反響する。あの美しい歌声を、もう一度聞いてみたいと思った。

 わたしは枕元に置いてある小瓶を手に取った。パステルカラーの星たちが、ぎっしりと詰め込まれている。まるで流星群を網ですくい上げたよう。

 蓋を開けて、ピンク色の金平糖を指でつまんだ。桜と同じ色をしたそれを、口の中に放り込む。砂糖で作った小さな星は、甘みを残して、口の中で溶けていった。





 四月も半分を過ぎると、庭に咲いた桜も徐々にさみしくなり始めた。新しい制服も肌になじみ、朝起きる時間も、登校する道順も身に染みてくる。クラスでもそこそこ顔見知りができ、そこそこ連絡先を交換し、そこそこ仲よくなり始める頃だ。

 すべてがゆっくりと進んでいく中、一番後ろの席は、時がとまったように空白のまま。

 りせは、相変わらず学校に来ない。

「なぁなぁ、雫!」

 とある日の放課後。終業の挨拶と同時に帰ろうとしたわたしを、奏真の声が呼びとめた。

「このあと、ちょっと時間ある?」
「何、いきなり……」

 きらきらと目を輝かせている奏真を見たら、いやな予感がした。こういう顔をしている奏真は、小学校の頃何度も見たことがある。何か、おもしろい遊びを思いついた時の顔だ。新しいゲームを買った時なんて、そりゃもう朝から大騒ぎで、ゲームに興味のないわたしまでしつこく誘ってくるものだから、全速力で逃げた記憶がある。

 教室からクラスメイトたちがぞろぞろと廊下に流れ出ていく。ああ、わたしもその波に乗りたい。別に部活に行くわけでもないし、誰かと約束しているわけじゃないけど。

「カメラ買おうと思ってるんだけどさ、選ぶの手伝ってくれない?」
「……はぁっ?」

 大声を上げたら、近くにいた数人が振り返った。わたしは慌てて声を潜めた。

「どういうこと、それ」
「おれ、ずっとカメラほしくてさ。でも、種類とかよく分かんないんだ。ほら、雫ってそういうの詳しいだろ」
「だからって、どうして……」
「なっ、頼むよ。雫しかいないんだ。この通り!」

 周囲の視線がちくちくと刺さる。あらぬ誤解が生まれる恐怖に負け、わたしはしぶしぶ首を縦に振った。



「うわ、七万……」

 目の前にあるカメラの値段を見て、奏真は絶望したように頭を抱えた。

「予想はしてたけどやっぱ高いなぁ。げ、こっちは十万!」
「安い方だよ。高いやつだと百万とかするし」

 オーバーリアクションに苦笑しつつ、わたしは並んでいるカメラを眺めた。大型の家電量販店なだけあって、デジカメコーナーには、広さに見合った品数がそろっている。ニコン、キャノン、ソニー。おなじみのメーカーはやっぱり種類が豊富で、コンパクトなものから本格的な一眼レフまで勢ぞろいだ。加えて、ピンクやブルーのカメラまであるから、どれだけ抑え込んでいても胸が踊ってしまう。

「どんなカメラがほしいの?」
「うーん……実は、あんまり決めてないんだよね。インターネットで調べたりしたんだけど、結局よく分かんなくてさ」
「そうだなぁ……。たとえばこれ」

 わたしは目に入ったカメラを手に取って、奏真に手渡した。

「これは?」
「ミラーレス一眼。一眼レフには、レンズを通った光を光学ファインダーに導くためのミラーがあるんだけどね、これにはそのミラーがないの。レンズがない分持ち運びが便利だし、設定もある程度カメラがやってくれるから、初心者におすすめ」

 奏真はへぇーっと興味深そうな声を上げ、あらゆる角度からカメラを眺めた。わたしは別の種類のカメラを手に取った。

「で、こっちがデジタル一眼レフ。ミラーが入ってる分だけ大きいの。ミラーレスより本格的な写真が撮れるんだけど、そのためにいろいろ設定を考えなきゃいけないから、ちょっと操作が難しいかな。ミラーレスの方が簡単だと思うけど、本格的に写真を始めたいなら……」

 そこまで話して、わたしははっと口をつぐんだ。おそるおそる奏真の顔色をうかがう。奏真はあっけにとられたように、ぽかんと口を開けていた。

「……ごめん、しゃべりすぎた?」
「違う。やっぱ雫はすげーなって思ってさ」
「す、すごくないよ、このくらい」
「そんなことない。詳しい上に分かりやすいし、ほんと助かるよ!」

 奏真があまりにも力強く言うので、わたしは恥ずかしくなって顔を背けた。こいつは昔から素直というか、裏表がないというか。まっすぐ気持ちを伝えてくるので、戸惑ってしまう。

 ふと、近くでカメラを選んでいる親子が目に入った。会社帰りのお父さんと、小学生くらいの女の子だ。好奇心できらきらと目を輝かせている女の子に、お父さんがうんうんとうなずいている。その光景を眺めていたら、急に、過去の記憶が心の奥底からよみがえってきた。

 わたしも昔、あんな風におじいちゃんとカメラ屋さんに行ったことがあった。口下手なおじいちゃんは、ぽつりぽつりと雨のように拙い言葉を紡いで、懸命に説明してくれたけど、結局わたしは、おじいちゃんの使っているカメラがいい、とごねたので、新しいカメラは買わず、おじいちゃんのお古をもらうことになった。あれは何年前だっけ。いつの出来事だっけ。もう、誰も覚えていない。わたし以外は、誰も。

「……ねぇ、何で写真を始めようと思ったの?」

 そっぽを向いたまま尋ねると、背中から奏真の唸り声が聞こえた。振り向いたら、奏真はちょっと気まずそうに頭を掻いていた。

「かっこいい理由はないんだよ。ほら、SNSに写真投稿するの、はやってるだろ。だから、自然と写真を見る機会が多くなったし、その分『いいな』って思う写真も増えたってだけ。それで、おれも撮ってみたいなって思ったんだ」

 なるほど。わたしは妙に納得した。確かに、昔に比べて他人が撮った写真を見る機会が増えた気がする。SNSってあんまりすきじゃないけれど、写真に興味を持つ人が増えるのは、なんだか嬉しい。

「カメラがほしいって思ったのはいつからなの?」
「中学入ったくらいから。スマートフォンでも撮ったりしてたんだけど、もっと本格的な写真を撮りたいなって思ってさ。それで、雫がカメラ持ってたなって思い出したんだ。何でその時いろいろ聞かなかったんだろうって後悔したよ。だから、同じ高校になれて本当によかった」
「……あ、そう」

 やっぱり、聞くんじゃなかったかも。なんだか恥ずかしくなって、わたしはまたまた奏真から目を逸らした。

「これからずっと続けるの?」
「もちろん!」
「じゃあ、こっち」

 わたしは持っていたデジタル一眼レフを奏真に押しつけた。

「操作は難しいかもしれないけど、画質はすごくいいし、かなり長い間使えると思う。……わたしの使ってたやつも、そっち」

 奏真はカメラを受け取ると、真価を定めるように、大きな目をぎょろぎょろさせた。ファインダーをのぞいたり、手触りを確かめたり。その目は、新しいゲームを買った時よりもきらきらしている。

「よし、買ってくる!」
「えっ、今?」
「大丈夫、金持ってきたし」

 本当に大丈夫なのだろうか。不安を抱えながらレジに行くと、店員が「八万二千円です」と現実を告げた。奏真が財布から八枚の一万円札を取り出す。高校生では考えられない大金を目にしてあっけにとられていると、奏真が絶望した顔でわたしを見た。

「ごめん、雫」
「なに?」
「二千円貸して……」

 予想通りの展開にため息をつき、わたしはカバンから財布を取り出した。



「ごめん。付き合ってもらった上、金まで借りて……」
「いいよ。返してくれれば……」

 なんとかカメラを手に入れた奏真とわたしは、家電量販店を出て帰路に着いた。赤色に染まった空を、カラスが悠々と飛んでいる。都会でも、夕焼けってちゃんと見られるんだ。あたりまえのことを思いながら、自転車を押して歩いていく。地面には長く伸びた影が二つ。わたしと、奏真の分。

「それにしても即決だったね。たくさんお金持ってたから、びっくりした」
「カメラ買うためにコツコツ貯めてたからさ。今までの小遣いとか、お年玉とか全部ぶっ込んだ」

 笑いながら話す奏真を見て、わたしは素直に感心した。正直、カメラを選ぶことに協力なんてしたくなかった。もう自分には関係のないものだし、奏真が写真を始めたいというのも、ただの好奇心だと思っていた。だけど、そうじゃないんだ。八万円なんて大金、簡単に出せるものじゃない。それくらいの覚悟があったってことだ。わたしが思うよりずっと、奏真は真剣だったんだ。

「せっかく雫に協力してもらったんだから、頑張って上達しないとな。よかったら、また撮り方とか教えてくれよ」
「えっ?」
「だめかな。図々しいのは分かってるんだけど、雫しかいないんだ」

 奏真は眉を下げて、申し訳なさそうにわたしの顔をのぞき込んだ。計算か、それとも天然か。頼みごとをする時に、こういう顔をするのはずるい。

「いや、いいけど……」
「やった! ありがとな。ほんと、雫がいてよかった!」

 奏真は心底嬉しそうに両拳を握った。なんか、調子狂うなぁ。わたしは心の中でため息をついた。カメラにはもう二度と関わらないと決めたのに、今日は厄日だ。

 気づいたら、隣から奏真の姿が消えていた。あれ、どこ行ったんだあいつ。振り返ると、奏真は立ちどまってスマートフォンを空に向けていた。わたしの視線に気づいて、ちょっと照れたように笑う。奏真はわたしの元に駆け寄って、スマートフォンの画面を見せた。

 そこには、目の前にある夕焼けが、色鮮やかに写っていた。

「きれいだなぁ」

 写真と夕焼けを見比べて、奏真が静かにつぶやいた。横顔が夕日に照らされて、空と同じ色に染まっている。

 風で乱れた髪を耳にかけながら、わたしはぼんやりと、西の空に沈む太陽を眺めた。

 すごく、きれいだ。まるで世界が終わる瞬間のような、尊さと危うさを含んでいる、そんな赤色だ。だけど奏真の瞳には、わたしよりもっと美しく映っているのだろう。それがとても、うらやましいと思った。



 部屋に帰ったわたしは、夕飯を食べ終えたあと、押入れの奥に封印していたカメラを引っ張り出した。

 壊れないようにそっと手に取って、表面を指で撫でた。何も忘れていない。何も変わっていない。変わってしまったのは、わたしの方だ。 

 わたしはカメラを手に持って部屋を出た。庭の桜は緑が混じり、かつての美しさは衰え始めていた。カメラを構えて、ファインダー越しに葉桜を見つめる。あと少しで命を終える、儚さと美しさを切り取るために。

 ――今更こんなことをして、どうするの?

 シャッターを押そうとしたら、もうひとりの自分がささやいてきた。

 ――もうとっくに捨てたじゃない。全部過去に変えたはずでしょ。今更、何を撮ろうと言うの。褒めてくれる人はもう、どこにもいないのに。

 分厚い雲が、地上を照らしていた月の光をさえぎった。暗闇がぐっと深まって、夜風の冷たさを濃くする。カーディガン越しの肌に、ぞわりと鳥肌が立った。なぜだろう、どうしてだろう。今ここに立っていることが、とても無意味なことに思えた。カメラを構えている自分が、ひどく滑稽に思えた。

 その場から動けずにいるわたしの耳に、あの時と同じ歌声が届いた。弱々しくて儚い、美しい声だ。振り向いたら、りせが歌いながら庭に入ってくるところだった。

「雫?」

 りせはわたしに気づくと、ちょっと驚いたように目を見開いた。

「りせ。……おかえり」
「ただいま。びっくりした」

 りせは疲れた笑みを浮かべながら、ゆっくりとわたしに近づいてきた。

「今、ちょうど雫に会いたいなって思ってたんだ。だから歌ったの」

 ――歌が聞こえたら、会いにきてね。

 以前交わした約束を思い出して、恥ずかしくなった。ただの偶然、なのに。どうしてこんなに嬉しいんだろう。

「今帰り?」
「そうよ」
「ずいぶん遅かったんだね」

 もう時刻は二十二時を過ぎている。りせは「うん」ともう一度うなずくと、持っていたカバンを無造作に捨て、倒れ込むようにわたしに抱きついてきた。

「ちょ、ちょっと……」
「疲れちゃったの」

 そうつぶやくりせの声は、言葉通り疲労をたっぷり含んでいた。鼻につくにおいに気づいて、わたしはもがくことをやめた。

「……煙草吸ってる?」
「受動喫煙」

 りせがぶっきらぼうに答えた。わたしはそう、とだけ答えて、カメラを落とさないように気をつけながら、りせの背中に腕をまわした。

 彼女の体はやわらかくて、だけどとても細くて、力を込めたら折れてしまいそうだった。雨に打たれたわけでもないのに、その体は氷のように冷えていて、生まれたての雛鳥のような弱さを感じた。

「……わたしのこと、見損なった?」

 怯えるようにか細い声だった。わたしは抱き締める腕に力を込めた。

「別に。……そういうことは、自由だと思うし」
「雫は優しいね」

 耳元で、りせが微笑んだのが分かった。ふたりの体がそっと離れた。月明かりの下で見る彼女の顔は、あの時と同じ輝きを放っていた。二重の大きな瞳。陶器のようにさらりとした白い肌。高い鼻筋。桃色の唇。人形のような、完璧な美。彼女を輝かせるスポットライトなんていらない。淡い月明かりさえあれば、それでいい。

「いいカメラだね」

 わたしの手にあるカメラに気づき、りせが言った。

「触ってもいい?」
「いいよ。……そっとね」

 今まで誰にも触らせたことのなかったカメラを、一瞬のためらいもなく差し出した。りせはカメラを受け取ると、にやりと口元を歪ませた。軽やかに飛び跳ねて、二本の足で走っていく。

「ちょ、ちょっと!」
「追いかけてきたら返してあげる!」

 まるではしゃぐ子供のようだ。無邪気に笑うりせを見たら、なんだか無性におかしくなって、地面を蹴って走り出した。

 じゃれるように笑い合いながら、りせの部屋に飛び込んだ。笑いすぎて息が苦しい。ベッドにダイブして、お互いの顔をじっと見つめる。そこでふと我に返って、わたしは慌てて目を逸らした。

「古いカメラね。年季入ってる」

 背中から、りせの興味深そうな声が聞こえてきた。

「写真を撮るの?」
「……昔の話」
「すきなのね。今も」

 わたしは答える代わりに黙った。どう取り繕っても、彼女には見透かされてしまうような気がした。

「わたしのこと、撮ってみて」
「え?」

 振り向いたわたしに、りせはカメラを差し出した。

「わたしは雫からどんな風に見えてる? 雫の目にはどう映ってる?」
「……どうして、そんなこと聞くの」
「初めて会う人はね、わたしのこと清純そうな子っていうの。かわいいとか、お人形さんみたいとか、美しいって褒めちぎるの。中途半端な知り合いはね、かわい子ぶってるとか、男に色目使ってるとか、性格キツそうとか言うのよ」

 人工的な星明かりの下で、りせは自虐的に笑った。

「だから、雫はどう思う? ファインダー越しのわたしはどう見える?」

 わたしは感触を確かめるように、人差し指でカメラをなぞった。ファインダーをのぞき込もうとしたけれど、こんな暗闇では何も見えない。

「……撮らないよ」
「どうして?」
「よく知らない人のことを、こうだと決めつけることはしたくないから」

 きっぱりと言い放ったら、りせは大きな瞳をぱちくりさせた。

「……ほんと、変わってるね」
「あなたほどじゃない」
「わたし? わたしは普通だよ。平凡な十六歳」
「呪いをかけられてる時点で普通じゃないよ」
「……そうかな」

 彼女の声が、低くなった。

「結構、多いと思うけどなぁ」

 口の端を上げるその仕草は、とても意味深で、妖しくて、なぜだろう、とてもおそろしく感じた。知らなくていいことを知っているような、子供のくせに、大人の遊びを知っているような、そんな気味悪さを感じた。

「……ねぇ、その呪いって」

 尋ねようとしたわたしは、あっと気づいて体を起こした。つられて上半身を起こそうとしたりせの体を手で制す。

「だめ。寝てて」
「何で?」
「体調、悪そうだから」
「大丈夫よ。ちょっと貧血気味なだけで……」
「大丈夫じゃない。生理でしょ」

 りせは困惑したようにわたしを見上げた。

「……どうして分かったの?」
「女だから。薬、飲んだ?」
「飲んでない……」
「どこかにある?」
「その棚の、一番上」

 わたしは立ち上がって、彼女の示した棚を開け、中から薬を取り出した。

「コップ使うね」
「うん」

 りせはもぞもぞと布団にくるまり、猫のように体を丸めた。暗闇に目を凝らしながら、わたしは食器棚からコップを一つ取り出した。水を注いで、薬と一緒にりせのところへ持っていく。りせは少しだけ頭を上げて、わたしの与えた薬を口に含んだ。水を喉に流し込み、無事体内に取り入れる。濡れた口元をカーディガンの袖で拭ってやると、りせは安心したようにへへ、と笑った。

「ふしぎだね、こーゆーの」
「何?」
「だってわたしたち、まだ二回しか会ってないのに」
「……道端に弱ってる子猫がいたら拾うでしょ。そんな感じ」
「わたし、猫と同じかぁ」

 りせはおなかを押さえながらごろりと寝返りをうった。人工的な星空をぼんやりと見上げる。わたしはコップをテーブルに置いて、ベッドに腰かけた。

「生理なら、彼氏とそういうことしちゃだめなんだよ」
「……彼氏じゃないよ」

 ぽつりと、りせがつぶやいた。わたしはびっくりして振り向いた。

「でも」
「恋人じゃなくても、恋人らしいことはできるの」

 吐き捨てるような言い方だった。何か言おうとしたけれど、何も言葉が思いつかなかった。恋愛経験のないわたしには、りせの言葉も、心の中も、まったく理解できなかった。

「手、握ってもいい?」

 青白い腕が、暗闇を這って伸びてくる。わたしは小さくうなずいて、りせの手に自分の手を重ねた。指と指が蔓のように絡み合って、互いを繋ぐ。

「あったかいね」

 彼女の手はおそろしいほど冷えていた。わたしの体温まで奪われてしまいそうだ。それと同時に、やわらかいな、と思った。小さくて、ふわふわしていて、壊れやすい。

 わたしは誰かと手を繋ぐことがすきじゃなかった。異性でも同性でも、べたべたするのは苦手だった。でも、今の彼女はなんだか生まれたての雛鳥のような、迷子の子供のような、危うさを持っていた。わたしがこうして繋いでいなければ、今にも闇に溶けて消えてしまうような気がした。

 しばらくすると、すぅすぅと微かな吐息が聞こえてきた。どうやら眠ってしまったようだ。わたしはそっと前髪を払って、りせを見つめた。水分を含んだ長いまつげが微かに震えている。気づかれないようにそっと、その涙を指で拭った。

 わたしは彼女のことを何も知らない。彼女も、わたしのことを何も知らない。何も伝えていないから。何も聞いていないから。他人になんて興味はない。だけどなぜだろう。この壊れやすい女の子の、涙の理由を知りたい。そう、思った。



 遠くから歌が聞こえてくる。小鳥のさえずりのように楽しげで、だけど人魚の叫びのように切ない、そんな声だ。鼓膜を震わせて、脳に直接入ってくる。歌に誘われるように、わたしはゆっくりと目を開けた。

 寝ぼけた眼に飛び込んだのは、からっぽの白いベッドだった。働かない頭を起こして、ぼんやりとあたりを見渡してみる。わたしの部屋とは違う景色。ああ、そういえばりせの部屋に来たんだった。真っ暗だった部屋が新鮮な明るさで満ちている。どうやら朝まで眠ってしまったらしい。

 立ち上がろうとしたら、ブランケットが床に落ちた。寝ている間にりせがかけてくれたのだろう。ブランケットを羽織り直し、サンダルを履いて外に出た。

 瞬間、朝日の眩しさに目が眩んだ。歌声を乗せた風が、歓迎するように頬を撫でていく。新しい朝を喜ぶように花たちが揺れ、残り少ない桜の花弁も、命を惜しむことなく宙に舞っている。

 白い光の中で、りせが振り向いた。わたしに気づいて歌うのをやめ、凪いだ海のように微笑んだ。

「おはよう」
「もう平気なの?」
「うん。なんだかすごく気分がいいの」

 わたしはそう、とうなずいて、生まれたての青空を見上げた。清々しい一日の始まりだ。都合がいいことに今日は土曜日だった。部活動もなければ友だちとの約束もない。制服を脱いだわたしは、実に自由だ。

 その時、ぎゅるぎゅると虫の鳴くような音が聞こえた。りせを見ると、おなかを押さえて照れくさそうにしている。

「おなかすいちゃったぁ」

 わたしは思わず吹き出してしまった。大人っぽい彼女にも、こんなかわいい一面があったんだ。

「わたしの部屋においでよ。朝ご飯作ってあげる」
「いいの?」

 うん、とうなずくと、りせはやったぁ、と大きく飛び跳ねた。



 部屋に人を招くのなんて、いつ以来だろう。小さい頃から、同年代の子と遊ぶより、写真を撮る方がすきだった。道端に咲く小さな花や、空を飛ぶ鳥。ころころと表情を変える空に気づいていたから。世界がこんなにも美しいと、知っていたから。

 わたしが目玉焼きを作っている間、りせはシャワーを浴びていた。自分の部屋で浴びればいいのに、と思ったけど、それを口に出すことはしなかった。自由奔放な彼女に振り回されるのも悪くない。

「おいしそうなにおい」

 風呂場から出てきたりせを見て、ぎょっとした。下はかろうじて履いているものの、その他はまったく身につけていない。わたしは慌てて顔を背けた。

「な、何か着てよ!」
「パンツは履いてるよ」
「パンツだけじゃん」
「じゃあ、着るもの貸して」

 りせは体を隠す素振りも見せず、勝手にクローゼットを開けて服を選び始めた。

「ねぇ、服、少ない」
「越してきたばかりだから。冬服とかは実家にあるの」
「それにしたって少ないよ。新しい服買ったりしないの?」
「買わない。おしゃれとか、あんま興味ないし」
「ふーん。もったいない」

 目玉焼きが完成すると同時に、オーブントースターがチン、と音を立てた。食パンを二枚取り出して、それぞれに目玉焼きを乗せる。テーブルの上に運んだら、りせはわたしのスウェットに身を包んでいた。

 ひとり用のテーブルをふたりで囲んで、「いただきます」と手を合わせた。窓から差し込む春の陽気と、あたたかなコーヒーのかおりが部屋を満たしている。そして目の前にはとびきりの美少女が、CMみたいにおいしそうに食パンを頬張っている。何の変哲もないこの部屋が、途端に宮殿に変わったみたい。

「おいしい。雫はいいお嫁さんになるね」
「こんなの大したことないよ」
「わたし、目玉焼き作れないもん。黄身がうまく固まらなくていらいらしちゃうの」
「料理、苦手なの?」
「あんまり得意じゃない」
「いつもご飯はどうしてるの?」
「コンビニで買うか、バイト先のまかない」
「バイトしてるんだ」
「うん。カフェとファミレス」
「二つも? どうして?」
「質問ばっかり!」

 目玉焼きを思い切り口に含みながら、りせがおかしそうに笑った。わたしは自分が身を乗り出していることに気づいて、慌てて体を元の位置に戻した。りせは大きく伸びをして、そのままベッドに背を預けた。

「ねぇ、雫の話してよ」
「え?」
「雫のことが知りたい」

 りせの大きな瞳が、好奇心できらきら輝いている。まるで夜空にきらめく星みたいだ。

「……わたし、話すの苦手だよ」
「何でもいいよ。何にも知らないもの」

 わたしは黙って食パンをかじった。わたしのことって、何だろう。話すようなこと、あるのかな。普通の人って何を話すんだろう。趣味とか、特技とか、すきな人のことだろうか。それは、りせにとっておもしろい話なのかな。そんなことを考えていたら、ほらまた、何も言えなくなる。

「雫は、静岡から来たんだよね?」

 そんな杞憂を吹き飛ばすように、りせは気さくな笑顔を浮かべた。

「静岡の、どこ?」
「下田。ペリーが開国の時にやってきたところ。わたしの家からは少し離れてるけど、おばあちゃんの家は海に近いよ」
「そうなんだ。わたし、海行ったことないからうらやましいなぁ」

 ほんの三年前までは、よくひとりで電車に乗っておばあちゃんの家に行った。きれいなものを撮りたくて、カメラを首からぶら下げて、遊びにいったものだった。おじいちゃんが他界してからは、ひとりで行く理由がなくなってしまって、おばあちゃんに会う回数も少なくなった。

 そうこうしているうちに、わたしはセーラー服を脱ぎ、代わりにブレザーを着て高校に通うようになった。少しずつ変化していく日常が、なんだかとてもおそろしく感じる。

「そういえば、カメラがすきなんだよね」

 テーブルの上に置きっぱなしだったカメラを見て、思い出したようにりせが言った。

「今まで撮った写真とかないの?」
「ないよ、そんなもの」

 わたしはぶっきらぼうに答えた。答えてから、しまった、と思った。

「……もう、飽きたから全部捨てたの」

 取り繕うようにつけ足すと、りせは「ふぅん」と目を細めた。

「わたしたち、まだお互いのこと何も知らないね」
「し、知る必要なんてある?」
「必要なんてないよ。わたしが知りたいだけ」

 わたしの天邪鬼な答えにも、りせが怒ることはなかった。ごちそうさま、と手を合わせ、残りのコーヒーを一気に喉に流し込む。

「今日、何か用事ある?」
「特に何もないけど……」
「じゃあわたしとデートしない?」

 突然の提案に、わたしは目をまん丸くした。

「何で?」
「決まってるでしょ」

 りせはふふ、と口の端を開けると、試すように顔を近づけてきた。ピンク色の唇から漏れる声をそっと潜めて、

「お互いを知るために」



 服を着替えたわたしたちは、電車に乗って新宿へと向かった。こんな風に友だちと出かけるのは久しぶりだ。新しい街で、新しく出会った人と並んで歩くなんて新鮮すぎる。

 休日の新宿は想像以上の混み具合で、特に改札付近は、何かのイベントがあるんじゃないかってくらい人で溢れ返っていた。こんなところ、ひとりじゃ絶対来ない。というか、来られない。りせは慣れた様子でするりするりと人の合間を通っていく。

 やっぱり、東京の女の子っておしゃれだなぁ。すれ違う人たちを見て、わたしはほぅっと息を吐いた。ちょっと奇抜な服装も着こなしちゃってるし、スタイルだって抜群だ。一方わたしは髪もぼさぼさだし、メイクだってしていないし、田舎者丸出しファッションだし。誇れるものなんてないけれど、これだけは自信を持って言える。

 わたしの隣にいる女の子が、一番きれいだ。

「ねぇ、雫はどんな服がすき?」

 たくさんの女の子たちがいる中で、りせはわたしだけの目をじぃっと見つめて、にこやかに話しかけてくる。

「特にこだわりはないかなぁ。着られればいいっていうか……」
「もったいないなぁ。じゃあ、本は? 雫はどんな本がすき?」
「少年漫画は結構読むよ。お父さんがすきなの」
「わたしも少年漫画の方がすき。少女漫画はきらい」
「きらい? どうして?」
「だって、きらきらした恋なんて信じられないの。突然かっこいい男の子が現れて、告白されて……とか、現実にはありえないじゃん」
「意外。もっとかわいいものとか、きれいなものがすきなんだと思った」
「よく言われる」

 りせがふふっと困ったように笑う。

 話していくにつれ、彼女は見た目よりずっと親しみやすいと感じた。栗色の髪は染めたのではなく生まれつきであること。それによって何度も生活指導を受けたこと。高い服はあまり買わないこと。団体行動は苦手で、ひとりで過ごす方がすきなこと。少しだけ、わたしと似ていると思った。今朝の仕返しをするように、りせは次々とわたしに問いかけてきた。

「すきな季節は?」
「春。あったかいから」
「泳ぐのは得意?」
「得意じゃないけどすき。体が宙に浮かんでる感じが心地いいの」
「海にはよく行った?」
「小さい頃はね。今はもう、行く機会もないし」
「わたしも行ってみたいなぁ……あっ、ちょっと見て!」

 彼女の話はCMのようにころころと変わった。いきなり走り出したかと思うと、マネキンが着ているワンピースを指差して、

「この服、雫に似合いそう!」
「ええ……そうかなぁ」

 わたしは首を傾げてマネキンを眺めた。少し大人っぽい、ライトグリーンのワンピースだ。わたしのクローゼットには一着もない。

「着てみてよ。ねっ、お願い!」

 わたしの返事を聞く前に、りせは店員を呼びとめて、勝手に試着を頼んでしまった。わたしはしぶしぶ試着室に入って、ワンピースに着替えてみた。

 鏡に映る自分を見たら、普段と違う自分になったみたいでどきどきした。なんだか、わたしじゃないみたい。少し、かわいすぎやしないかな。こういうの、りせの方が似合うんじゃないかな。

「着替えた?」

 カーテンの向こうから、りせが尋ねてくる。

「う、うん」
「開けるね?」

 心の準備ができないうちに、カーテンが勢いよく開けられた。りせはわたしの頭からつま先まで、観察するようにじっくりと見つめて、満足そうに笑みを浮かべた。

「やっぱりかわいい。あと、眼鏡も取った方がいいよ」
「そう?」
「そうだよ。高校デビューしちゃおう」

 りせに言われると、そっちの方がいいように思えるからふしぎだ。結局彼女に圧倒され、わたしはワンピースを購入することにした。自分で服を買うのはこれが初めてだった。



 そのあとは、おしゃれなカフェでランチをしたり、CDショップに行ったりと、女子高生らしく新宿を満喫した。おいしいスイーツやはやりの音楽、今時のファッションやコスメ。りせから教えられるものはすべて、今まで生きてきた十五年がむだに思えてしまうくらい、魅力に溢れていた。

 ああ、どうしてアイスがこんなにもおいしいってことに気づかず生きてきたんだろう。新品のワンピースがこんなに艶やかなことを、どうして知らずにいたんだろう。女の子として生まれた以上、かわいくなくちゃいけないのよ。ちょっと芝居がかった口調でりせが言う。かわいい、なんて、わたしには縁のない言葉だけど、こうしてりせの隣にいると、少しだけ信じてみたくなる。自分の中にある、「女の子」ってやつを。

 太陽が西に傾き始めた頃、遊び疲れてくたくたになったわたしたちは、もう帰ろうか、そうだね、なんてうなずき合いながら、人の少ない道を歩いていた。

「あっ」

 わたしはふと、道のはずれにある、小さなお店が気になって声を上げた。なんとなく近寄ってみると、手書きで「小さな写真展 神岡美代子」という看板がかけてある。そこは寂れたビルの一階で、透明な扉から中をのぞいてみると、白い壁に何枚もの写真が飾ってあった。

「入場無料だって。入ってみる?」

 りせが試すようにわたしを見る。あ、口角が上がってる。何でもお見通し、って感じの顔だ。わたしはちょっとためらったけれど、結局扉を押すことにした。この瞳に嘘はつけない。

 看板に書いてあった通り、中はさほど広くなく、お客さんもまばらだった。わたしとりせは端っこから順番に、壁に飾ってある写真を眺めていった。

 それは、ひとりの女の子の写真だった。生まれたての姿から始まって、小学生、中学生と、どんどん成長していく姿がおさめられていた。

「かわいいね」

 隣でりせが静かにつぶやく。わたしは返事をするのも忘れて、写真の中の少女に見入っていた。長い黒髪がよく似合うその女の子は、写真家の娘のようだった。大切に大切に育ててきたその子の写真は、一枚一枚に生命が宿っているように、生き生きと、色鮮やかに呼吸をしていた。

 解説文を読んでみると、そこには彼女の短い一生が綴られていた。写真家である母に撮られることが何よりすきで、将来は女優になりたかったこと。夢半ばにして交通事故で亡くなってしまったこと。胸の奥がじんと熱くなった。

「ねぇ、雫はどうしてカメラを始めたの?」

 写真を眺めながら、そっとりせが問いかけてきた。

「……九歳の時、おじいちゃんが教えてくれたの」

 その声に応えるように、わたしも大切に言葉を選んだ。

「おじいちゃんはいつもいろんな風景を撮ってたの。おじいちゃんの写真ってすごいんだよ。植物や動物が生き生きしてて、今にも動き出しそうなの。夕焼けの写真も、実際よりずっと鮮やかで、世界の終わりみたいな危うさがあって……興味を持ったの。それで、おじいちゃんが昔使ってたカメラを譲ってもらったんだ。それからいろんなところに行って、いろんな写真を撮るようになったの」

 一つ思い出したら、おじいちゃんとの思い出が、心の器からどっと噴きこぼれてきた。まん丸な白髪頭。生きてきた年月が刻まれた、しわくちゃの顔。穏やかな瞳。薄い唇から漏れる言葉は、砂漠に降る雨のように、わたしの心を潤していった。

「わたしが写真を撮るたびに、おじいちゃんが褒めてくれた。もっとこうした方がいいってアドバイスもくれた。だけど……」

 そこでわたしは口ごもった。もうずいぶん時が経つというのに、言葉にするには、一呼吸置く必要があった。

「中学一年生の春に、おじいちゃんは死んじゃったの」

 隣にいるりせは、何も言わずにじっとわたしを見つめている。

 わたしはとても能天気な子どもだった。死や別れを、頭では理解していても、どこか他人ごとのように感じていた。遠いところで見知らぬ人が死んでも悲しくはならなかったし、自分の身近な人が死ぬわけないと、都合のいいことを考えていた。そんなこと、あるわけないのに。

 当時のわたしは、毎週のようにおじいちゃんの家に遊びにいっていた。別れの直前も、いつものように写真を撮って、ご飯を食べて、笑っていた。虫の知らせとか、別れの予感とか、そんなものは微塵もなかった。つい先日まで元気だったのに、次に会った時、おじいちゃんは冷たくなっていた。笑うことも、口を開くこともできなくなっていた。

 わたしは、おじいちゃんがだいすきだった。おじいちゃんに褒められるためだけに写真を撮っていた。もう頭を撫でてくれることもない。アドバイスもくれない。じゃあわたしは、誰のために写真を撮ればいいのだろう。何を撮ればいいのだろう。そう考えたら、写真を撮るのがこわくなった。

「それから、わたしは写真を撮れなくなったの。何のために撮るのか分からなくなって、撮りたいものもなくなっちゃった。もう褒めてくれる人がいないって思ったら、カメラを持つこともいやになっちゃって」

 こんなことを人に話すのは初めてだった。お母さんにだってしゃべったことがないのに。なぜか、りせには話したくなった。まだ出会って少ししか経っていないのに。わたしのことを、知ってほしくなった。

「そう。そっか、そうだね」

 彼女のあたたかな手が、そっとわたしに重なった。隣を見たら、りせはにっこりと笑っていた。

「いつか、雫が撮りたいと思えるくらい、素敵な景色に出会えたらいいね」
「……うん」

 わたしは強く、りせの手を握り返した。どうしてだろう。どうしてかな。彼女はわたしの心を軽くする方法を知っているみたいだ。たった一言。短くも長くもないその一言で、心にのしかかっていた重たい石が消え去ってしまったようだ。わたしはぐっと唇を噛んで、写真の中の少女を見つめた。髪の長いその女の子は、どこかりせに似ていた。



 りせといると、時間があっという間に過ぎ去ってしまうからふしぎだ。写真展を見終えたわたしたちは、くだらないことを話しながら帰路に着いた。地面に長く伸びた影が、時折じゃれるように重なり合った。赤く染まった空が、わたしたちだけを照らすスポットライトのようだ。この夕焼けも、頬を撫でる優しい風も、全部わたしたちのもの。そんな、傲慢なことを思った。

 アパートに着くと、駐車場に見慣れない車が停まっていた。特に気にすることなく部屋に戻ろうとしたら、りせの歩調が急にゆるんだ。

「どうしたの?」

 わたしは足をとめて振り返った。りせは車を見つめたまま、喜んでいるような、悲しんでいるような、今まで見たことのない顔をしていた。何かに怯えているようにも見えた。

「あっ、帰ってきた!」

 玄関から、女の人が出てきた。ショートボブの髪にくりっとした瞳の女性だ。りせほどではないけれど、かわいらしい顔立ちをしている。白いロングスカートを翻しながら、りせの元へ駆け寄ってくる、その仕草すら女性らしい。

「おかえり、りせ」
「……お姉ちゃん」

 ピンク色の唇の隙間から、雨粒のように言葉がこぼれた。りせの姉だという女の人は、わたしに気づくと「そっちの子は?」とりせに尋ねた。わたしは慌てて頭を下げた。

「あっ、雨宮雫です」
「こんにちは。お姉ちゃんの小咲(こさき)です。新しく来た子かな?」

 わたしは小さくうなずいた。小咲さんはふふ、と嬉しそうに笑った。

「りせと仲よくしてあげてね。この子、友だち少ないから」
「やめてよ、そういうこと言うの……」

 りせは眉をひそめ、ぶっきらぼうに言い放った。こういう顔もするんだなぁ。わたしは初めて見る彼女の表情を新鮮に思った。どんな時でも大人びている子だと、勝手にそう思っていたから。彼女のことなんてまだほんの一部しか知らないのに。りせは車をちらりと見てから、遠慮がちに口を開いた。

「柊(しゅう)くん、来てるの?」
「そう。今から夕飯だから、連絡しようと思ってたとこ。あ、よかったら雫ちゃんも一緒にどう?」
「いえ、わたしは……」
「いいじゃん。雫も一緒に食べよう」

 りせがわたしの手をつかんだ。明るい声だったけど、その手は少し震えていた。お願い、と、声を発さずに唇が動いた。

「……うん、分かった」

 わたしはうなずいて、りせの手を握り返した。



 玄関に足を踏み入れた途端、「他人の家」独特のにおいが漂ってきて、少し怯んだ。
「どうしたの?」

 わたしの異変に気づいたりせが、脅迫するように繋いだ手に力を込める。ここまで来たら裏切らないよね? 顔は笑っているけど、そう言っている。だって、目が笑ってないもん。

 わたしは観念して靴を脱ぎ、りせと一緒にリビングをのぞき込んだ。当然のことながら、わたしの部屋より広々としている。大型のテレビ、ダイニングテーブル。そして、大きなソファには、わたしがこの家に足を踏み入れたくない理由でもある智恵理さんが座っていた。足を組んでいるせいで、膝上のスカートが更に短くなっている。長い髪がだらりとソファまで垂れて、呪いの市松人形みたい。茶髪だけど。

「お母さん、りせ帰ってきたよ」
「えっ、来たの? めずらしいわねぇ」

 小咲さんの言葉を聞くと、智恵理さんは露骨に顔をしかめた。りせは対抗するようにふいっと顔を背けた。

「わたしだって会いたくなかった」
「またそうやって喧嘩ばっかりして。いい加減仲よくしてよ。雫ちゃんも来てるんだよ」

 りせの後ろに隠れていたわたしは、ぎくりと肩を震わせた。おそるおそる顔を出すと、智恵理さんが「あれ、ほんとだ」と驚いたように目を丸くした。

「お、お邪魔します」
「……びっくりした。あんたたち、いつ知り合いになったの」
「この間よ。いいでしょ、そんなこと」

 りせが、わたしをかばうように腕に抱きついてきた。

 引っ越してきた日、智恵理さんはわたしに、「離れには近づくな」と言った。りせのことを尋ねた時も、鬼のような形相で、「友だちになるな」と忠告したのだ。それなのに家まで押しかけてしまったら、もう言い訳はできない。

「すいません、お邪魔してしまって……」

 いたたまれなくなって頭を下げると、智恵理さんは意外にも、不自然なくらい明るく笑った。

「いいのよ、全然。ひとり暮らしって栄養偏るでしょ。食べてって」
「……ありがとうございます」

 わたしは人見知りの子犬みたいに、びくびくと怯えながら応えた。顔は笑ってる。声も穏やかだ。だけど、絶対歓迎されてない。だって目が笑ってないもん。こういうところ、今のりせとそっくりだ。さすが親子と言うべきか。

 りせはさっきから一度も智恵理さんと目を合わせようとはしない。肌にまとわりつく空気がピリピリしている。ああ、息が苦しい。胃がキリキリする。どうしよう、何も食べられる気がしない。わたしがおなかを押さえていると、智恵理さんが勢いよく立ち上がった。

「じゃ、わたしは退散しようかな」
「えっ、何で?」

 小咲さんが動揺したように声を上げた。

「こんな若い子に囲まれるなんてやーよ。若者同士楽しく食べなさいよ」
「そ、そんなこと」

 ないです、と否定しようとしたけれど、残念ながら言葉が出なかった。

「じゃあね、雫ちゃん。ゆっくりしてってね」

 そう言って通り過ぎていく、その瞬間。空気に紛れるほど小さな声が、確かにわたしの鼓膜を揺らした。

「近づくなって言ったのに」

 その氷のような冷たさに、背筋がぞっとした。香水をまき散らしながら、智恵理さんはリビングから出ていった。

 しん、と重たい沈黙が訪れた。今の、絶対りせにも聞こえてた。寄り添った体が微かに震えている。日常茶飯事なのか、小咲さんはあきれたように「もぉ、お母さんったら」と息を吐いた。

「ごめんね、雫ちゃん。みっともないとこ見せちゃって。気にしないで」
「は、はい……」

 なんとかうなずいてみたけれど、この明らかに下がった室温をどうしてくれよう。今すぐ逃げ出したいけれど、りせが手を離してくれる気配はない。これはもう、覚悟を決めるしかないんだ。

 張り詰めた空気を破ったのは、キッチンから聞こえた叫び声だった。

「小咲ぃ、皿運んでよ」

 男の人の声だった。はぁい、と陽気な返事をして、小咲さんがキッチンへと消えていく。

「……大丈夫?」

 わたしはりせの顔をそっとのぞき込んだ。りせは困ったように眉を下げ、安心させるように微笑んだ。

「平気、いつものことだもん。もう慣れっこだし」
「そんな……」

 気の利いたことを言おうとしたけれど、言葉は一つも見つからない。部外者のわたしが何を言ったって慰めにはならないと、本能で分かった。

 どうしてりせと智恵理さんは仲が悪いんだろう。親子なのに。わたしとお母さんは、すごく仲がいいってわけじゃないけれど、別に悪くもない。すきとかきらいとか、そういう次元で考えたこともない。親子だから、あたりまえだと思う。愛してるとか愛してないとか、そんなこと、考える必要もないから。

「さぁ、ご飯にしよう」

 キッチンから小咲さんが夕食を運んできた。お皿に乗っていたのは、おいしそうなハンバーグだ。さっきまでの胃の痛みはどこへやら、ぐるぐる、と唸りそうなおなかを押さえて席に着くと、小咲さんの後ろから、男の人がやってきた。

 背の高い人だった。爽やかな短い黒髪。切れ長の瞳。どこか飄々とした雰囲気のあるその人は、りせを見てにやりと口角を上げた。

「おー、久しぶり、りせ」
「あっ、し、柊くん……!」

 りせの肩が、ぴょんっと大きく飛び跳ねた。その拍子に、りせがわたしからあっさりと離れた。柊と呼ばれたその人は、りせを見て優しく目を細めた。

「ハンバーグ作った。りせ、すきだろ」
「……すき。だいすき!」

 力強くりせが答える。男の人は、そーかそーかー、と、満足そうにうなずくと、りせの髪をぐしゃぐしゃにした。もぉ、やめてよぉ、と、甘ったるい声でりせが言う。だけどその顔は全然いやがってなんかなくて、むしろとっても嬉しそうだ。まるで飼い主に再会した子犬みたい。

 あ、れ?

 ふたりのやりとりを見つめていたら、妙な違和感を覚えた。この雰囲気、どこかで見たことがある気がする。柊と呼ばれた男の人を、じぃっと見つめてみる。初めて会う、はずなのに。どうしてだろう。確かに、どこかで――

「あ、雫ちゃん。この人、恋人の柊くん」

 小咲さんが思い出したように、彼を紹介した。わたしははっと我に返って、慌てて頭を下げた。

「初めまして。雨宮雫です」
「こんにちは。稲葉柊です。りせの友だち?」

 友だち、という響きに、ちょっと照れくさくなった。わたしは声を出す代わりに、小さくうなずいた。

「お前が友だちと一緒なんて、めずらしいじゃん。雫ちゃん、こいつ友だち少ないからさ、仲よくしてやってよ」

「それ、お姉ちゃんにも言われた」

 りせは拗ねたように頬を膨らませた。こんなに幼い表情を見るのは初めてだ。柊さんが笑うたび、りせも笑う。今にも泣き出しそうな表情で。

 四人で食卓を囲むのは、なんだかちぐはぐな感じがした。初対面の人とご飯を食べるのはちょっと気が引ける。だけど、小咲さんも柊さんもとても気さくで、すんなりと会話に溶け込むことができた。

「えっ、柊さんって先生なんですか?」

 たった今柊さんの口から出た言葉に、わたしはびっくりして箸をとめた。

「そうだよ。藤が丘高校ってとこ」
「すごい。何の教科を教えてるんですか?」
「物理。あんまりすきじゃないんだけど」
「柊くんはね、大学で天文学を勉強してたの。星についてすごく詳しいんだよ」

 隣から、小咲さんがつけ足した。

「よく星を見にいって、写真を撮ったりするの。去年の夏にはりせと三人で行ったんだよ。どこだっけ、えっと……」
「ひろのまきば天文台」

 ぼそっとりせがつぶやいた。

「そうそう。もう、すっごくきれいで感動しちゃった」
「あの時は天気もよかったしな。遠かったけど、行ったかいがあったなぁ」

 柊さんが懐かしむように目を細めた。

 わたしは頭の中で満天の星空を思い描いた。今まで意識して星を見たことなんてあっただろうか。きっと天文台から見る空は、呼吸を忘れるくらいきれいなのだろう。そう考えたら、胸が高鳴った。

「ねぇ、よかったら今度は雫ちゃんも一緒に行こうよ」
「えっ?」

 小咲さんが身を乗り出して誘ってきたので、わたしはたじろいだ。

「でも、わたし……」
「人数は多い方が楽しいし。ね、りせ」

 わたしは助けを求めるようにりせを見た。りせは「そうだね」と小さくうなずいて、テーブルの下でわたしの手をつかんだ。

「雫も一緒だと、嬉しい」
「……うん」

 懇願にも似たその瞳を見たら、わたしは逆らうことができなかった。

「いいよ、じゃあ今度行こう」

 柊さんが優しく微笑みかける。ありがとうございます、とお礼を言ったら、りせの手がするりと離れた。

 楽しげに続く会話の中で、りせの横顔はいつまでも硬く、今にも壊れそうだった。一点の曇りもない、完璧な団欒は、お皿が空っぽになるまで続いた。



 夕飯を終えたわたしたちは、早々に自室へと戻ることを選んだ。これ以上はきっと、限界だと思った。もう、りせが耐えられない。

「ありがとうございました。ごちそうさまでした」
「ごめんね、むりに誘っちゃって。またいつでも来てね」

 玄関まで見送りにきた小咲さんは、にっこりと人のよい笑みを浮かべた。この人の笑顔って、ひまわりみたい。昔、保育園の時にだいすきだった先生を思い出しちゃう。やわらかくて、あたたかい。ついさっき知り合ったばかりなのに、心を許してしまう。

「じゃーな、りせ。夜更かしするなよ」
「分かってるもん」

 保護者みたいな柊さんの言葉に、りせはむぅっと頬を膨らませた。そんなふたりのやりとりを見て、小咲さんがくすくすと笑う。

「じゃあな、ふたりともおやすみ」
「おやすみなさい」

 ふたりの笑顔に見送られ、わたしたちは玄関を出た。

 家の扉が閉まった瞬間、りせの顔から表情が消えた。突然わたしの手をつかむと、そのまま強い力で引っ張っていく。

「ちょ、ちょっと……」

 わたしの声なんて聞こえていないように、りせはずんずん進んでいく。空はもうおそろしいほど暗く、月の光も雲に隠れて地上までは届いてこない。りせは離れにわたしを引きずり込むと、怒りをぶつけるように勢いよく扉を閉めた。

 真っ暗な部屋の中は、なぜか外よりも肌寒く感じた。しん、と静まり返った空気が冷たい。部屋中に溢れたさまざまなものが、一斉に黙り込んでいるみたいだ。

「……りせ」

 目の前にあるりせの背中に、そっと呼びかけた。こんなに近くにいるのに、その姿はどこか遠くて、今にも消えてしまいそうだ。

「ごめんね、付き合わせて」
「……ううん。いいよ」

 わたしたちは、少し黙った。沈黙の理由が、さみしげな横顔のわけが、なんとなく分かってしまった。他人の気持ちとか心とか、そんなのどうでもいいと思っていたけれど、りせだけはなぜか違った。彼女の心の軋む音が、聞こえた気がした。

 つかまれていた手が痛い。ああ、これはきっと。この痛みこそが、きっと。

「わたし、ここから出られないの」

 偽りの星空に怒鳴るように、りせが叫んだ。

「出ちゃいけないの。出たら、心が悲鳴を上げるから。そういう呪いを、魔女にかけられたの」

 声は次第に激しさを増していった。体中に絡まっている蔦をほどくように、りせは全身を震わせた。

「顔だって頭だってわたしの方がいいのに。わたしの方が愛されてるのに。わたしの方が絶対たくさんキスしてる、絶対たくさんセックスしてる。毎日連絡だって取ってるし、昨日だって会ってたの。全然久しぶりなんかじゃないの! でも、それでもかなわないの。超えられないの。解けないの」

「……呪いって?」

 壊れないようにそっと、問いかけた。答えなんて、聞かなくても分かっていたのに。あの、完璧な食卓が始まった時から、気づいていたのに。

 りせはゆっくりと振り向いて、

「すきな人と、結ばれない呪いよ」

 そう言って、強い彼女は弱く笑った。





 重たく浮かんだ灰色の雲が破れて、糸のような雨が降ってくる。そんな日がだんだんと多くなった。

 りせにかかっている「呪い」の正体が分かった日。あの日から、二週間が過ぎようとしていた。たった二週間。それなのに、カレンダーを一枚めくっただけで、何年も会っていないような気がするからふしぎだ。ああ、そういえば連絡先を聞いていなかったな。あまりにも近くに住んでいるから、聞く必要なんてないと思っていた。いつでも会えるはずなのに、離れをノックする勇気がない。時折ちらりと窓の外をのぞいてみるけれど、部屋の中は明かりが灯らないから、彼女がいつ帰ってきて、いつ出ていくのかさえ分からない。

 ほんの少し一緒にいただけなのに。彼女がどんな子か、知った気になっていた。仲よくなれたと勘違いしていた。わたしが知っていることなんて、空から降る大量の雨の一滴くらいしかないのに。小瓶に入った金平糖は、りせを思うたびに一粒ずつ減っていって、気づけばもう半分しかない。

 この二週間のうちに、高校最初の難関である中間テストが行われた。噂には聞いていたけれど、高校のテストってものすごく範囲が広い。課題に追われながらなんとかテストを乗り切ると、落ち着く間もなくそれぞれに順位が通達された。先生から順位が書かれた紙を受け取った生徒は、喜んだり、悲鳴を上げたり、まるで世紀末みたいに騒々しい。わたしはというと、三二十人中六十二位だった。可もなく不可もなく、まずまずの結果。

 うちの高校では、五十位以内の成績優秀者が掲示板に貼り出される。初めてのテストとあって、廊下に順位が貼られた途端、生徒が虫のように群がっていった。人の順位なんて興味はないのだけれど、クラスメイトに連れられて虫の一匹になってみると、予想もしていなかった事実が発覚した。

『一位 一色奏真』

「すげーじゃん、奏真!」

 背後から男の子の声が聞こえた。振り向くと、奏真が友人に肩を組まれて頭をわしゃわしゃと搔き乱されている。当の本人は、「たまたまだよ」なんて言いながら、はにかんだように笑っている。

 わたしは停止した思考をなんとか再起動させ、古い記憶を思い起こした。あれ、こいつ、こんなに賢かったっけ。確か、ジャングルジムのてっぺんに登ってぼーっとしていたり、ゲームがなかなかクリアできないと泣き始めたりする、そんなやつじゃなかったっけ。

「あっ、雫!」

 そそくさとその場から離れようとしたら、空気を読まない声が背中にあたった。振り向くと、群衆を抜け出して、奏真がわたしの元へ駆け寄ってくる。やめろ、こっちへ来るな。歩くスピードをぐんっと速めてみたけれど、あっという間に追いつかれてしまった。

「あのさ、今週末って暇?」
「……どうして?」

 わたしは足をとめずに答えた。確か先月も似たような質問を受けた気がする。ちょっと身構えると、案の定、奏真は興奮した声で言った。

「この間買ったカメラ、使い方教えてほしいんだよ。あと、ようやくテストの順位出たから、小遣いもらえるんだ。二千円、返すの遅れてごめんな」
「それはいいけど、どこに行くつもり?」
「上野動物園!」
「……ふたりで?」
「そりゃそうだろ。雫に教えてもらうんだから」

 奏真はあたりまえだろ、と言うように首を傾げる。まぁ、そうかもしれないけど、そういうことじゃなくて。休日にふたりで動物園って、それってなんだか……。

「奏真って、彼女とかいないの?」
「え? いないよ。何で?」
「いや……何でもない」

 言いかけた言葉を飲み込んで首を振る。これ以上こいつには何も言うまい。

「じゃあ、土曜日あけといてくれよ。詳しいことは、まだ連絡するから」
「分かった。でも、あんまり期待しないでよ」
「大丈夫、ダメ出ししてくれるだけでもいいから。ありがとな!」

 奏真は目尻をくしゃくしゃにして笑うと、軽い足取りでクラスメイトの元へと戻っていった。

 またあいつのペースに乗せられてしまった。ひとりになったわたしは、遠ざかっていく奏真の後ろ姿を見て息を吐いた。土曜日の天気はどうだったっけ。雨だったらいやだなぁ。朝見た天気予報を思い出しながら、いつの間にかとまっていた足を再び動かした。



 わたしの思いが通じたのか、土曜日は快晴だった。まだ五月にもかかわらず夏のように燦々と輝く太陽は、奏真のあっけらかんとした無邪気さに似ていた。昨日まで晴れる気配すらなかったのに、どうしてこんなにタイミングがいいんだろう。日頃の行いがいいからかな。わたしじゃなくて、奏真の。

 上野駅の改札を出ると、息苦しいほどの人混みの中、カメラを首から下げている奏真を見つけた。

「ごめん、お待たせ」
「おー、おはよ」

 奏真は能天気な声で挨拶をしたあと、ものめずらしそうな目でわたしを上から下まで眺めた。

「な、何よ、じろじろと……」
「いや、やっぱ制服とは雰囲気違うなって思って。女の子らしくてかわいいな」
「……あんた、わざと言ってる?」
「え、何が?」
「いや、何でもない……」

 わたしは気恥ずかしさとあきれを感じ、奏真から目を逸らした。

 本当にこいつは、無意識なんだろうなぁ。悪気も下心もない。だけどその素直さと純粋さは、わたしの心臓には毒だ。先日りせと出かけた時に買ったワンピースの裾を、きゅっと握り締めた。別に気合いを入れているわけじゃない。今日の今日まで着る機会がなかっただけ。だけど、褒められると悪い気はしない。りせのセンスに感謝しなければ。

 休日というだけあって、園内は家族連れや恋人で賑わっていた。

「あっ、パンダ!」

 入口を抜けてすぐに、奏真が人だかりに向かって走り出した。慌てて奏真のあとを追いかけ、人と人の隙間からなんとか顔を出すと、黒と白のころころとした生き物が、のんびりと笹を食べていた。

「かわいいなー、ぬいぐるみみたいだな」
「ほんとだね」

 奏真が口元をゆるませるのもむりはない。遠目から見ても分かるくらいふわふわした毛も、笹を食べる愛らしい仕草もかわいい。不覚にも胸がきゅんとしてしまった。まわりから、「かわいい」がこだまのように聞こえてくる。この愛らしさ、人間では太刀打ちできない。

「ねぇ、何で動物園なの? 写真なんて、どこでも撮れるのに」
「おれ、動物すきなんだよ。犬とか、猫とか、うさぎとか。だから、やっぱりすきなもの撮りたいって思ってさ。それに……」
「それに?」

 奏真は大きな瞳でじぃっとわたしを見つめた。なになに、わたしの顔、何かついてる? 疑問をぶつけるように眉を寄せたら、奏真は慌てたように目を逸らした。

「いや、雫とどっか出かけたいなぁ、って思ってただけ!」
「はぁ? 何それ」
「まぁまぁ、いいじゃん。あっ、写真撮らないと」

 わたわたと慌ただしく首にかけていたカメラを手に持つ。何をそんなに慌てているんだ。わたしが首を傾げているうちに、奏真はパシャリとシャッターを切った。

「どう?」

 わたしは撮れたての写真をひょっこりとのぞき込んだ。丸っこいパンダがのんびりと笹を食べている様子が写っている。後ろの方にある木でできた遊具も、目で見た通りだ。

「シンプルでいいと思うよ」
「そうかな。でも、どれも似たような写真になるんだよ。同じ構図だとまったく同じに見えるっていうか……」
「絞りとか、シャッタースピードを変えてないからじゃない?」
「絞り? シャッタースピード?」
「……説明書、ちゃんと読んだ?」

 じろりと奏真を睨むと、奏真は気まずそうに頬を掻いた。

「実は、あんまり……。雫に教えてもらおうと思って」
「そういういい加減なところ、変わってないよね……」

 わたしは長く息を吐いて、奏真の手からカメラを奪い取った。

「絞りっていうのは、カメラに取り込む光の量のこと。絞り値を大きくすると取り込む光の量が減って、逆に小さくすると光の量が増えるの」

 パンダ目当てにできた人混みを抜けると、だいぶ呼吸がしやすくなって、いつもよりすらすらと言葉が出てきた。肩を並べて歩きながら、カメラを適当に調整していく。

「今撮った写真みたいに、被写体も背景もピントが合っているか、人物だけにピントを合わせて背景をぼかすか。絞り値を大きくすれば背景にもピントが合うし、逆に小さくすれば背景がぼやけるの。ほら、これで撮ってみて」

 わたしは絞りを小さく調整して、奏真にカメラを返した。近くにいたゾウにカメラを向けて、パシャリとシャッターを切る。できあがった写真を見て、あっ、と奏真が声を上げた。

「さっきと違って、背景がぼやけてる! ゾウが主役って感じに写ってるな」
「でしょ。絞りを変えるだけでも、雰囲気変わるよね」

 わたしはもう一度、奏真からカメラを受け取った。

「次、シャッタースピード。簡単に言うと、噴水の水を水滴で写すか、水の線として写すか、って感じ。シャッタースピードが速いと動いてるものがとまって写るし、逆に遅いと動きがそのまま写るの」

 シャッタースピードを適当に調整して、はい、と奏真に手渡す。わたしたちはゾウから離れ、鳥類のいるゾーンへと歩いていった。風を切るようなスピードで飛んでいるワシにカメラを向け、同じようにシャッターを切る。奏真の撮った写真をのぞき込むと、予想通り、飛んでいるワシの姿がぶれずに写っていた。

「ほんとだ、すごい!」
「好みはあるし、調整の仕方はもっとたくさんあるけど、一番手っ取り早いのはこの二つを変えることかな。そうすれば、撮り方のバリエーションが増えるんじゃないかな」
「へーっ、おもしろいなぁ」

 奏真は興奮したようにつぶやいて、パシャパシャとシャッターを切っていく。その子供っぽい無邪気さに、思わずわたしもくすりと笑った。

「結局、習うより慣れろ、だから。とにかくたくさん撮りまくれば上達すると思うよ。それに、わたしは風景を撮るのがすきだから、生き物を撮るのはあんまりうまくないし」

「得意とか苦手とかあるの?」
「そりゃ、あるよ。すきなものはやっぱり上手に撮れると思う。わたしはプロじゃないから、えらそうなこと言えないけど……被写体をどれだけ愛せるかっていうのが大切だと思う」
「そういえば、雫のおじいちゃん、カメラマンだったよな? 元気?」
「……三年前に死んじゃったよ」

 答えてから、はっとした。しまった。声が、曇ってしまった。ちらりと奏真を見ると、彼は予想通り、ちょっと困ったように眉を下げていた。

「そっか。ごめんな、悲しいこと思い出させて」

 わたしは慌てて首を振った。

「次、行こう。いっぱい写真撮るんでしょ」  

 空気を切り替えるように叫んで、そそくさと歩き出す。奏真は元気よく「おう!」と返事をして、わたしのあとをついてきた。



 写真を撮り終えたわたしたちは、園内の一角にあるフードコートで休憩を取ることにした。

「はい、雫の分」
「ありがと」

 奏真に買ってもらったソフトクリームを受け取って、ぺろりと舌で舐めた。夏にはまだ早いけれど、ぽかぽか陽気と相まってとてもおいしい。

「ごめん、おごってもらって」
「何言ってんだよ。元々借りてた分を返してるだけだって」
「でも、入園料も出してもらったし」
「授業料だと思ってくれよ。今日だってむりに付き合ってもらってるんだしさ」
「別に、むりってわけじゃないよ。……わ、わたしも楽しいし」

 わたしは恥ずかしさを堪えて答えたけれど、奏真は先ほど撮った写真に夢中でまったく聞いていなかった。

「いやー、それにしてもいい写真撮れたなぁ。設定の仕方も分かってきたし。雫って教え方うまいから、分かりやすくて助かる」
「あ、そう……」

 わたしは大きく口を開け、ソフトクリームにかぶりついた。

 久しぶりに浴びる太陽の日差しが、やわらかく肌に浸透して気持ちいい。木々から放出されるマイナスイオンがおいしい。さらさらとした春の風が、わたしの短い髪を揺らしていく。

 なんだか、恋人みたいだなぁ。

 奏真の横顔を盗み見て、そんな、ばかげたことを考えた。

 ――恋人じゃなくても、恋人らしいことはできるの。

 ふと、りせの言葉が脳裏をよぎった。聞いた時は、正直ありえないと思った。そんなの不純だよ、って。だけど、今ならりせの言葉の意味が分かる。

 休日にふたりで出かける。もちろん、わたしと奏真はそんな関係ではないけれど、はたから見たらデートかもしれないし、恋人と間違われるかもしれない。男と女である以上、恋人じゃなくたって、しようと思えばきっと、何だってできるのだ。

「今度は人も撮りたいな。あと、風景も。昔からスマホのカメラで撮ったりしてたんだけど、どうしてもうまく撮れないんだよな」
「それもカメラの設定をきちんとすればきれいに撮れるよ。あとは、レンズを変えたり……。いろいろ試していくうちに、なんとなくコツがつかめてくるはず」

「そっか、そうだよな」

 わたしはちょっと身を乗り出して、奏真の持っているカメラをのぞき込んだ。奏真がボタンを押すたび、パンダやゾウ、ワシやペンギンなど、さまざまな動物が次々に現れていく。

「あっ!」

 その中の一枚を見て、わたしは大きく声を上げた。

「ちょっ、ちょっと、戻って!」
「え? これ?」

 画面の中に写し出されたのは、動物を見ているわたしの姿だった。しかも眼鏡を外した、ほんの一瞬の場面だ。横を向いていたからまったく気づかなかった。

「何で勝手に撮ってんの!」
「なんかいい感じだったから、思わず」

 奏真は悪びれる様子もなくへへ、と笑った。

「昔から思ってたんだけどさ、眼鏡外した方がいいよ。かわいい顔してんだから」
「……そういうこと、気軽に言わないほうがいいよ」
「何で?」
「わたしはいいけど、勘違いしちゃう子いるよ。恋人でもないのにさ」
「恋人だったら言っていいの?」
「う、うーん、そういう問題じゃなくてさ……」

 わたしは何と言ったらいいのか分からず、言葉を濁した。こいつはなんというか、同年代の男子に比べて、恋愛沙汰には疎いというか。勉強はできるくせになぁ、ふしぎなものだ。

「じゃあ恋人になる?」
「……何言ってんの、ばかじゃない」

 わたしはもう驚くことにも疲れて、冗談じみた奏真の言葉を軽くあしらった。奏真は「へへ」とはにかんだように笑い、そして黙った。

 空を見上げたら、ソフトクリームと同じ形をした雲が、ゆらりゆらりと流れていた。



 ああ、そういえば。

 傾き始めた太陽を眺めながら、わたしはぼんやりと思い出した。

 写真を撮り始めたばかりの頃だ。おじいちゃんと一緒にカメラを持って、近所をぐるぐると歩き回ったことがあった。道端に咲く名前のない花、何でもない標識、公園にある遊具、空を横切る飛行機雲。目新しい風景なんて一つもないのに、どうしてだろう。レンズを通すと、わたしにだけ与えられた特別な景色に思えた。きっと、意識しないと気づけない。風に揺らめく花のかわいらしさに。「止まれ」という標識のおもしろさに。飛行機雲の儚さに。

 そういう「特別」を集めて並べてみたら、なんだかすごく誇らしくなったの。この「特別」を作ったのはわたしだ。わたしが、この「特別」を生み出したのだ。

「ありがとな、今日は」

 動物園を出たら、あっという間に別れの時間がやってきた。カメラを満足げに触りながら、奏真は屈託のない笑みを向けた。

「いいよ。わたしも楽しかったし」

 駅の時計は午後五時を示していた。頬を撫でる風もなんだかさみしげで、早くおかえりと急かしているようだ。

「やっぱり、ひとりで撮るのとは全然違った。雫と同じ高校になってよかったよ」
「もう、いつも大げさだよ」

 不釣り合いな感謝を向けられて、わたしは肩をすくめた。今日集めた「特別」は、全部奏真が作り出したものだ。感謝されることなんて何もない。

「あのさ、これからもちょくちょく教えてもらっていいかな? おれ、もっと上手になりたいんだ。もちろん、むりにとは言わないけどさ……」

 笑顔の代わりに、真剣な眼差しをわたしに向ける。答えようと口を開けたけれど、なぜだろう、すぐに声が出なかった。いやだよ、そんなの。めんどくさいよ。そうやって、いつもみたいに拒否したいのに。奏真の大きな瞳に映っている自分に気づいて、わたしは一歩、たじろいだ。

 やめてよ、そんな真剣な表情。そんなまっすぐにわたしを見つめないでよ。わたしをみじめにしないでよ。奏真の真剣さを知れば知るほど、わたしはなぜだかこわくなる。

 たぶん、最初からおそろしかった。奏真はわたしが捨てたものを持っているから。カメラに対する純粋な好奇心。向上心。知れば知るほどうらやましくなる。うらやましくて、みじめになる。だからわたしは遠ざけようとしていた。過去の自分を見ているようで、苦しくなるから。

 だけど、それでも。

 一緒にカメラを選んでしまったのは、まだ捨てきれないものがあるから。動物園に行くのを断らなかったのは、もう一度「特別」を作りたいと、心のどこかで思っているから。

 ああ、やっぱり。
 まだまだ甘いなぁ、わたしは。

「……いいよ」
「ほんと?」
「うん。でもわたしはもう写真は撮らないし、あんまり役に立たないよ」
「おれが撮った写真を評価してくれるだけでもいいよ! うわー、ほんと助かる。ありがとな、いつも」
「そんな感謝されるほどのことじゃないって、やめてよ」

 わたしは気恥ずかしさを振り払うように、奏真の肩を強く叩いた。奏真はいてっ、と小さく飛び跳ねると、照れたように頬を掻いた。

「じゃあ、またな」
「うん。また」

 わたしたちは簡単な別れを告げて、別々の道を歩き始めた。が、十メートルほど進んだところで、「しずくー!」と大きな叫び声が背中にあたった。振り向くと、奏真が口元に両手をあてて立っている。

「眼鏡、絶対取った方がいいからなー!」
「なっ……!」

 わたしは驚きと恥ずかしさで、思わず周囲をきょろきょろと見渡した。幸いなことに人通りは少ないけれど、それでも何人かは怪訝そうに奏真を見ている。こいつの面倒なほどの無邪気さには慣れたつもりだったけど、もうだめだ、ギブアップだ。わたしはくるりと背を向けて、早足でその場から離れた。

 ひとりになった途端、今日の出来事がため息となって口から出てきた。

 疲れた。楽しかったけど、なんだか疲れた。奏真といるといつもこうだ。下心はないんだろうけど、素直すぎて心臓に悪い。いちいち意識していたらキリがないので、深く考えないようにしているけれど、一応異性である以上、どうしても反応してしまう。大した意味はないって分かってるのに。

 電車の乱暴な揺れに身を任せながら、流れていく景色を見送る。せわしなく走る車。手を繋いで歩く親子。犬の散歩をする小学生。みんな、それぞれの時間を、それぞれの速度で生きている。いつだってそうなんだ。

 人には平等に時間が与えられている。だけど、それなのに、時間が足りないとか、時の流れが遅いとか、文句を言いたくなるのはなぜだろう。今日もあっという間に西の空が真っ赤になって、やがて夜になる。

 今日の奏真、きらきらしてたな。楽しそうで、嬉しそうで、輝いていた。まだまだ技術は拙いけれど、とってもいい写真だった。そりゃそうか。カメラを買うために、勉強も頑張ったんだもんな。かっこいいな。素敵だなぁ。……悔しい、なぁ。

 突然、両方の瞳から、金平糖みたいな涙がぽろっとこぼれた。あれ、どうしたんだろう。泣くことなんてめったにないのに。まわりに人がいるのに。わたしは慌てて眼鏡を外し、手の甲で涙を拭った。何で。なぜ。どうしてこんなに涙が出るの。そんな、上辺だけの自問自答はあっさり剥がれて、とめどなく、感情が溢れて、くる。

 わたしは今日も、カメラのシャッターを切れなかった。今日も停滞した。今日も、わたしだけの「特別」は何にもなかった。一歩踏み出さなければいけないのに。結局何も変われなかった。後悔は西の空と同じように燃え広がってキリがない。こんなにすきなのに触れられない。押入れの奥からカメラを取り出すこともできない。だって、思い出が優しすぎるから。だいすきで、大切な日々が多すぎて、心が耐えられそうにないの。今は、まだ。



 電車を降りる頃には、なんとか涙はとまっていた。しまった、こんなセンチメンタルな気分になるつもりじゃなかったのに。ずびずびと鼻水をすすっていると、突然、視界が真っ暗になった。

「だーれだ!」

 頭の後ろから甲高い声が響いて、わたしはぎゃっと飛び跳ねた。

「り、りせ!」
「えへへ、びっくりした?」

 振り向いた先にいたのは、満面の笑みを携えたりせだった。一つに束ねた長い髪が、無邪気にゆらゆら揺れている。ぱっちりとした二重の瞳。桃色の唇。すらりと伸びた長い手足。久しぶりに会ったもんだから、そのかわいらしさに心臓が飛び出そうになった。

「び、び、びっくりした……」
「やった、大成功! 会うの久しぶりじゃない? 一緒に帰ろ」
「う、うん……」

 激しく鳴る心臓を押さえながら、わたしはぎこちなくうなずいた。

 ずっと会いたかったはずなのに、いざ会ってみると、何を話したらいいのか分からない。顔、まっすぐに見れない。うつむくと、すりきれた灰色のスニーカーと、真新しい水色のサンダルが、同じ速度で動いている。

「それ、この間買ったワンピースだよね。やっぱりすっごく似合ってる」
「そう、かな」

 あ、よかった。わたしはほっとして、ようやく顔を上げた。あの夜見た、泣き出しそうな顔のりせはもういないんだ。

「どこ行ってたの? バイト?」
「そう。開店からずーっと働いてたから疲れちゃった」
「そんなに? 大変じゃない?」
「平気だよ、慣れてるもん」

 そう言うりせは、ちょっと強がっているようにも見えた。細い腕をぶらぶらと前後に振る。その先にぶら下がっている、レジ袋が目に入った。

「それ、もしかして夕ご飯?」
「そうだよ。さっきコンビニで買ったやつ」
「毎日コンビニで買ってるの?」
「まかないの時もあるけど、大体はそうだなぁ」
「……ご飯作ってあげようか?」

 思わずそんな提案をすると、りせの顔がぱっと明るくなった。

「ほんと? いいの?」
「いいよ。ひとりだとあまるし。その代わり、買い物付き合ってもらうけど」
「付き合う付き合う! やったー、ありがとう!」

 りせは大げさに声を上げ、両手を高く空に伸ばした。



 スーパーで買い物を終えて、りせと一緒に部屋へと帰った。健康的なものが食べたい、という彼女のリクエストに応えて、ふたりで肉じゃがを作ることにした。じゃがいも、人参、玉ねぎ、こんにゃく、あと、豚肉。いつもは適当に入れる調味料も、今日はちゃんとレシピ通りの分量を入れる。だって、りせのために作るんだもん。失敗なんて許されない。

「あー、おいしかった!」

 気合いを入れたかいあって、りせはお皿に盛った肉じゃがをぺろりと平らげ、満足そうにおなかをさすった。

「雫はほんとに料理上手だね。わたしは全然できないや」
「栄養バランスが偏るから、コンビニ弁当ばっかりはよくないよ。また作ってあげる」
「えっ、いいの?」
「うん。いつも作りすぎちゃうし、いつでも食べにきて」
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」

 りせはえへへ、と嬉しそうに笑った。わたしはつられて目を細めた。

 よかった。ちゃんと、普通に話せてる。あの夜の、弱々しいりせはもうどこにもいない。ここにいるのは、明るくて、元気な女の子だ。

 そのままふたりでだらだらとしゃべっていたら、あっという間に時間が過ぎていった。カーテンの隙間から見える空の色がどんどん濃くなって、夜へと姿を変えていく。ベランダに出ると、冷たい夜風がするりと頬を撫でていった。

「風が気持ちいいね」

 夜空に浮かび上がる半月を眺めながら、りせがぽつりとつぶやいた。最近は雨続きだったから、こうしてはっきり月や星が見えるのは久しぶりだ。ううん、晴れていたとしても、こんな風にゆっくり眺めたりしない。きっと、りせが隣にいるからだ。りせと一緒だからこそ、この景色が見られるんだ。

「……流れ星って見たことある?」

 秘密の話をするように、りせがささやく。わたしは静かに首を振った。

「ううん、ない。りせは?」
「わたしは何度もあるよ。よくニュースでしし座流星群とか、ふたご座流星群とか言ってるでしょ。そういう時にね、夜更かしをしてじっと待つの。いつ流れるか分かんないし、すっごく眠たいんだけど、見える時はいっぺんに何十個も見えて、ああ、生きててよかったって思うのよ」

 風で乱れる髪を押さえながら、りせの横顔をじっと見つめた。彼女の大きな瞳は、星の瞬きにも負けないくらいきらきらと輝いている。まるで、夜空を通してここにはいない誰かを見ているようだ。

 その瞳に映る人を、わたしは知ってる。気づいてしまった。初めてりせを知ったあの夜、彼女が誰と会っていたのかを。

「……りせは、柊さんのどこがすきなの?」

 気がついたら、ぽろっとそんな質問が口から漏れた。慌てて口をつぐんだけれど、もう遅かった。りせは夜空を見上げたまま、一時停止ボタンを押したみたいにぴたりと動かなくなった。

「……あの」
「えっ!」

 肩に手をかけたら、りせはぴゃっと飛び跳ねて、ものすごい勢いで振り返った。

「えっ、いきなり? いきなりそういうこと聞くの?」
「う、うん。ごめん……」 

 絵に描いたような動揺ぶりだ。それまでの落ち着いた雰囲気はどこへやら、彼女は真っ赤になった頬に両手をあててしゃがみ込んだ。うーん、うーんと唸ったあと、不安そうにわたしを見上げて、

「……誰にも言わない?」
「う、うん。もちろん」
「絶対?」
「うん」

 わたしは強くうなずいた。りせはためらうように下唇を噛んでいたけれど、やがて小さな声で話し始めた。

「……元々ね、柊くんはわたしの家庭教師だったの。ほら、母親があんなだからさ、お姉ちゃんが昔からわたしの保護者代わりだったんだ。だから、全然勉強しないわたしを心配して、中学生の時に柊くんを紹介してくれたの」

「そうだったんだ……」

 わたしは小咲さんの笑顔を思い出した。少ししか言葉を交わしていないけれど、優しい人だということはすぐに分かった。

「柊くんは大学生でね、その頃から教え方がすごく上手だったの。勉強だけじゃなくて、柊くんはいろんなことを教えてくれた。だいすきな星のこととか、大学生活のこととか、すきな音楽とか。自分のことだけじゃなくてね、わたしにいろいろ聞いてきたの。『りせは何がすき?』『何がしたい?』って。それがすごく、嬉しかったの……」

 しゃがみ込むりせの姿は、まるで小さな子供のように見えた。出会った時受けた印象とは違う。ひとりの、か弱い女の子が、そこにいた。

 夜風がそよそよと庭の青葉を揺らした。微かな虫の吐息。遠くから聞こえる車の走る音。すべてが透明に澄み切って、優しく鼓膜を震わせる。ほんのりと色づいた彼女の頬や、彼女の震える声ですら、とてつもなく尊いものに思えた。

「いいよ、別に肯定してくれなくても」

 わたしが黙り込んでいると、りせは拗ねたようにうつむいた。

「許されないって分かってるもん……」
「……違うの。そうじゃないの」

 わたしは静かに首を振って、りせの隣に腰を下ろした。

「うらやましいって思ったの」
「うらやましい?」

 りせはふしぎそうな顔でわたしを見上げた。

「わたし、恋とかしたことないから。そんなにすきになれる人に出会えていいなって。りせを見てると、そう思うよ」

「……ほんと? ほんとに、否定しない?」
「うん。……大丈夫」

 ――だって恋心を否定できるほど、わたしは恋を知らないもの。

 わたしは誰かをすきになったことがない。同じクラスの男の子より、写真を撮る方がすきだった。恋愛話も興味がない。すきな男の子の話でどうしてそこまで盛り上がることができるのか、わたしにはよく分からない。

 だから、りせの恋心が間違っているなんて断言できない。正しいとも言えない。それを判断できるだけの経験が、わたしにはないから。世間一般の人だったら、違ったことを言うかもしれない。本当の友だちなら、ちゃんと道を正してあげるべきだと。でも今は、わたしだけは、彼女の味方でいたいと思った。そうしないと、りせがわたしから離れていってしまうような気がした。

「……嬉しい。ありがと」

 りせは膝を抱えたまま、安心したように目を細めた。わたしもつられて微笑んだ。今は、この笑顔をわたしに向けてくれる。それだけでいい。それだけが、すべて。

「あ、そうだ。七月になりそうだから」
「え?」

 首を傾げると、りせはもぉ、ほっぺたを膨らませて立ち上がった。

「こないだ言ってた、柊くんとの天体観測。雫も来るでしょ?」
「興味はあるけど……わたしが行ってもいいの?」
「むしろ来てくれなきゃ困るの。お姉ちゃん、今回はちょっと行けないんだって。だから、雫が来てくれないと合法的に遠出できないの」
「そ、そーいうもん?」
「そーいうもんなの。三人が気まずいなら、誰か他の人誘ってもいいよ」
「そうだなぁ……」

 わたしは顎に手をあててうーんと唸った。柊さんはいい人だし、話しやすいけれど、三人となるとちょっと居場所に困るかもしれない。誰とでも仲よくなれて、こういうイベントにすぐ参加しそうな人といえば――

 そこまで考えて、思い浮かんだ人物はたったひとり。

『七月、一緒に星を見にいかない?』

 その夜、奏真にこんなメッセージを送ったら、彼は二つ返事で了承した。





 春と夏の境目というのは、年々あいまいになっているような気がする。天気予報で知らされる数字が日ごとに上がっていって、太陽光が強さを増していく。制服が眩しいほど白い半袖シャツに変わったら、いつの間にか夏への移行は完了している。季節の変わり目はいつだってそうだ。月日で区切るのではなく、五感で認識する。

 学生は気楽でいいわねぇ、学生に戻りたいなぁ、なんて、お母さんがよく言っていたのを思い出す。だけど高校生って、大人が思うほど楽じゃない。この間中間テストが終わったと思ったのに、実力テスト、期末テストと、せわしない日々が続いた。一応うちの高校はそこそこ進学校なので、授業のペースだって、まるで早送り再生をしているかのよう。日頃の予習復習だって気が抜けないわけで、そうなると、心休まる日なんてないのである。わたしは帰宅部だからまだ時間に余裕があるけれど、部活に所属している子たちは一体どうやって生活しているのだろう。勉強と部活動の両立なんて、わたしには到底むりな話だ。

 梅雨が明けたばかりの七月初旬。かねてから計画していた天体観測の日。

「助けて、雫!」

 朝、サイレンのようなインターホンに起こされ扉を開けたら、今にも泣き出しそうな顔のりせが、大量の服を抱えて飛び込んできた。

「どうしたの?」
「服が全然決まらないの!」

 寝ぼけているわたしの横を風のようにすり抜け、姿見の前に直行する。フローリングの床に服をどさりと捨てて、自分のお人形さんみたいな顔をじぃっと見つめ、

「どうしよう、あと一時間しかない……!」
「……今着てる服でいいじゃん」

 くたびれたTシャツにショートパンツのわたしは、花柄のワンピースを見て大あくびをした。予定より三十分も早く起きてしまったせいで、頭がうまく働かない。

「一週間前からこれにしようって決めてたんだけど、今日着てみたらやっぱ違うなって。そもそも、もっと動きやすい服にするべきだったの! あーもう、何で今更気づくんだろう。やっぱりこっちのショートパンツにしようかな。でも、ちょっと足出すの恥ずかしいかも……」
「あー、うん。いいんじゃない?」

 のそのそと洗面所に行き、冷たい水で顔をパシャパシャと洗う。

「上はどうしよう、このレースのシャツが合うと思うんだけど、前も着たしなぁ。でも、こっちのボーダーでもいいかな。ねぇ、雫はどう思う?」
「かわいいかわいい」

 鏡を見ていたら、目の下のクマが気になった。昨日、遅くまでテレビを見ていたせいだ。歯磨き粉を歯ブラシに乗せて口に含む。歯を磨き終えてリビングに戻ると、着替えを済ませたりせがいた。ボーダーのシャツにショートパンツ。さっきまで着ていたワンピースは床に脱ぎ捨てられている。

「やっぱりこっちにしようかなぁ。夏っぽいし、着てみたらわりとかわいいし。あっ、でもこれならポニーテールの方がいいかなぁ」
「そうだねぇ」

 わたしは衣装ケースを引っ張って、一番上にあるシャツを取り出した。下はいつものジーンズでいいや。

 三十秒ほどで着替えも終わった。髪を軽くヘアブラシでといて、眼鏡をかけて、必要なものをリュックに詰めたら準備完了。振り返ると、りせが数種類のピアスをテーブルに並べて、うーんうーんと唸っていた。

「……どれもかわいいよ?」
「やだ、一番似合うやつがいい」

 りせは頬を膨らませながら、星の形のピアスを指でつまんだ。慣れた手つきで両耳につけて、鏡の前で自分とにらめっこ。そんな彼女の様子を見て、わたしは思わず笑みを漏らした。

 恋を、しているんだな。

 その服もお化粧もピアスも、全部すきな人のためにあるんだ。一生懸命悩んで、迷って、すきな人に褒められようと頑張っている。かわいいなぁ、かわいいなぁ。

「よし、これにする」

 りせは見せつけるように、くるりとその場で一回転した。ポニーテールがふわりと舞う。

「どう?」
「うん。すっごくかわいい」
「ほんと? 変じゃない?」
「ほんと。柊さんも褒めてくれるよ」

 そう言うと、りせはぽっと頬を赤らめて、照れくさそうに下唇を噛んだ。

 ちょうどその時、外から車のエンジン音が聞こえてきた。壁にかかっている時計を見ると、約束の時刻である十時を示している。

「柊くん来た! 行こう、雫」
「ちょっと、待ってよ!」

 さっきまでののろさはどこへやら。風を切って部屋を飛び出すりせのあとを、わたしは笑いながら追いかけた。



 外に出ると、車の運転席の窓が開いて、中から柊さんが手を振ってきた。全速力で駆け寄っていくりせに続いて、わたしも慌てて両足を動かす。りせは後部座席のドアを開け、わたしに乗るように指示した。続いてりせも乗ってくると思ったら、彼女はちゃっかり助手席に乗り込んでいた。

「おはよ、柊くん」
「おはようございます」
「おはよ。何、お前そこに乗るの?」
「うん。だって、もうひとり乗るし」
「あっそ。じゃ、出発しまーす」

 陽気な合図とともに、車が勢いよく前進した。

 りせの努力に応えるように、空はどこまでも青く透き通っていた。窓をちょっとだけ開けたら、隙間から新鮮な風が入ってきた。気持ちいいなぁ。目を細めていると、柊さんがミラー越しにこっちを見てきた。

「雫ちゃん、久しぶり。元気にしてた?」
「はい、元気です」
「今日暑いなぁ。日焼けどめとか持ってきた?」
「ばっちり!」

 わたしの代わりに、りせがバッグから日焼けどめを取り出した。

「日焼けどめと、サングラスと、汗ふきシートと……」
「お前には聞いてないって。今雫ちゃんと話してんの」
「えっ、でもぉ……」

 りせがむぅっと拗ねたように頬を膨らませる。ふたりのやりとりがおかしくて、わたしは思わず笑ってしまった。

「仲よしだね」

 わたしの一言で、りせの顔がぱっと輝く。まるでテレビのチャンネルを変えたみたいだ。柊さんはいじわるをするように、りせの頬を優しくつねった。

「まぁ、付き合いも長いからなぁ。こいつ、母ちゃんとうまくいってないしさ。保護者みたいなもん」
「ふぅん……」

 保護者、か。

 わたしは試すようにふたりを交互に見た。痛い、痛い、とわめくりせは、心なしか嬉しそうだ。比べて柊さんは、さっきから表情一つ変えやしない。本当に、「いいお兄ちゃん」って感じ。

 初めてふたりを見た、あの夜を思い出した。暗闇に隠された、秘密の逢瀬。りせの白い肌だけがぼんやりと照らされていた、あの夜。

 もしあの月の夜、ふたりを見ていなかったら、わたしは柊さんの言葉を信じたかもしれない。今だって、りせの恋心はまごうことなき事実だけれど、ふたりが「そういう関係」だって聞かなければ、ただの微笑ましいやりとりにしか見えない。

 もしかして本当は、ふたりは何もないんじゃないかな。りせが一方的にすきなだけで、本当は、何もないんじゃないかな。

「あ、もうひとりの子に、あと十五分くらいで着くって連絡しといて」
「分かりました」

 わたしはスマートフォンを取り出して、言われた通り奏真に連絡を取った。奏真とは駅前で合流することになっている。駅に近づいたら、首からカメラをぶら下げた、見慣れた男の子がいた。わたしは窓を開けて、「奏真!」と大きく名前を呼んだ。奏真はわたしに気づくと、元気よく手を振って駆け寄ってきた。

 柊さんがロータリーに車を停め、後部座席のドアを開けた。

「おはよう、雫」
「おはよ、待った?」
「ううん。おはようございます」

 奏真はわたしの隣に乗り込むと、柊さんとりせに挨拶をした。おはよ、と柊さんが振り向く。りせは興味深そうに奏真を見つめた。

「この子が雫の幼なじみ?」
「うん。えっと、紹介するね。同じクラスの一色奏真。小学校からの腐れ縁」
「一色奏真です。今日はよろしくお願いします」
「で、こっちが蓮城りせ。話した通り、うちの大家さんの娘。で、こちらが稲葉柊さん。高校の先生で、星にすごく詳しいの」
「雫から聞いてます。おれ、天体観測ってしたことないから、すっげー楽しみ!」
「今日は星だけじゃないからなー。貴重な男手としてこき使うから、覚悟しとけよ」

 柊さんはにやりと口角を上げ、アクセルを踏んだ。ぐん、と車が振動して、旅が再スタートする。車内のスピーカーから、ドライブにぴったりな音楽が流れ始めた。

「ねぇ、奏真って呼んでいい? わたしもりせでいいし」
「いいよ。同じクラスなんだよな? 何で学校来ねーの?」

 突拍子もない質問に、ぎょっとした。仮にも不登校の人間に向かって、いきなりそれを聞くか。こいつの素直さには時折肝を冷やす。りせはまったく気にならないようで、ははっ、と声を上げて笑った。

「いきなりそれ聞いちゃう?」
「こいつ、不良娘だから。あんま関わんない方がいいぞ」
「もぉ、何でそういうこと言うの! 奏真、今日は来てくれてありがとね。雫が男の子連れてくるなんて、ちょっと意外だったけど」
「べ、別にそういうんじゃないから!」
「そういうって、どういう?」

 奏真が首を傾げたので、わたしはますます慌てて、「何でもない、何でもない」と手を振った。

「若いねぇ、高校生。なんかうらやましーわ」

 運転席から、ため息混じりの声が聞こえる。奏真は身を乗り出して、柊さんに尋ねた。

「柊さんっていくつなんですか?」
「二十六。もうアラサー突入ですわ」
「まだまだ若いじゃないですか。大人って感じで、あこがれる」
「今も体が酒と煙草を求めてる」

 ぐうう、と我慢するように、柊さんが体を縮めた。りせはくすくす笑って、

「こんな大人になっちゃだめだよ」
「うるさい、不良娘」

 ふたりの仲睦まじいやりとりを乗せて、車は長い長い高速道路を駆けていく。耳に流れ込む音楽が、突如聞き覚えのあるものに変わった。懐かしいような、さみしいような。どこで聞いたんだっけ……。わたしは思い出すように瞳を閉じた。

 目蓋の裏側に、満開の桜が映し出された。夜空にはたくさんの星と大きな満月。桜の木の上に座って、切なげに歌うきれいな女の子。

 ああ、そうだ。これは、りせがよく口ずさんでいるメロディーだ。どうしてりせがこの曲を歌っているのか、今になってようやく分かった。

 ――柊さんがすきな曲だからだ。

 低い歌声が鼓膜を揺さぶる。スピーカーから流れる音楽に乗せて、柊さんが小さな声で歌い始めた。りせの透明な歌声が重なって、穏やかなハーモニーを生み出していく。

 のどかだなぁ。素敵だなぁ。目を開かなくても、りせが笑っているのが分かる。普段のいたずらっぽい笑顔とは違う。はにかんだような、照れくさそうな、子供っぽい無邪気な笑み。

 ああ、そうか。気づいたら、心にすとんと、小石が落ちたようにしっくり来た。

 ――これが、恋か。



 サービスエリアに寄りながら、ドライブすること約二時間。

 わたしたちがやってきたのは、都心から離れた場所にあるキャンプ場だった。広い芝生に、さらさらと流れる透明な小川。少し離れたところにはドッグランや牧場まである。用意をしなくても、お金さえ払えばバーベキューに必要な道具や食べ物は手に入るらしく、特に大がかりな準備もなく始めることができた。

「ほらほら、食え、若者ども」

 柊さんは慣れた手つきで肉や野菜を焼いていく。奏真はきらきらと目を輝かせ、「いただきまーす」と箸を手に持った。

「柊さん、慣れてますね……」

 トングで野菜をひっくり返す手際のよさに、わたしは思わず息を漏らした。柊さんはそう? と、こともなげに笑った。

「まぁ、大学時代によくやったからなぁ。最近はめっきり」
「わたし、バーベキューって初めて」
「雫って、アウトドアのイメージないもんね」

 りせが隣でくすっと笑った。

「うん。たぶん、想像通り……」
「小学生の時は一緒にプール行ってたよな? うちの父ちゃんに連れてってもらってさ」
「え、そうだっけ?」
「そうそう。おれと雫と、あと姉ちゃん。父ちゃん、雫のこと気に入ってたからさぁ、高校同じになったって言ったら喜んでたよ。また家に連れてこいって」
「仲いいんだね、ふたりの家族」

 りせがわたしと奏真を交互に見た。まぁ、家も近所だったから、とわたしは答えて、柊さんが盛ってくれたピーマンを口に含む。ひとり暮らしだと野菜ってあまり食べないから、とてもありがたい。

「はい、バトンターッチ」

 柊さんがトングをりせに差し出す。りせは自分の箸をテーブルに置いて受け取った。それと同時に、柊さんの分の箸とお皿を渡す。その一連の流れがキャッチボールのようにスムーズで、わたしは思わずまじまじとふたりを見つめてしまった。奏真も同じことを思ったようで、頬張っていたお肉をごくりと飲み込んだ。

「ふたりって、もしかして付き合ってんの?」
「えっ」

 りせとわたしの肩が同時に飛び跳ねた。わたしは両手をぐっと強く握って、奏真の頬をぶん殴りたい衝動に駆られた。こいつは何でこんなに空気が読めないのか。デリカシーがないってレベルじゃない。りせは顔を真っ赤にして固まっている。何言ってんの、とフォローを入れようとしたら、柊さんがぷっと吹き出した。

「そんな風に見えた?」
「え、違うんですか?」
「惜しいけど、おれが付き合ってんのは姉の方。小咲に怒られちまうな」

 特に慌てる様子もなく彼は答える。

 その瞬間、りせの表情が強張ったのを、わたしは見た。

「……うん。付き合ってなんか、ないよ」

 絞り出すように発した声は、傷ついたようにかすれていた。むりに作った笑顔はぎこちなくて、口の端が歪んでいる。

 心の軋む音が、聞こえた気がした。

「……ほら、奏真、そっち焼けてる」
「あ、ほんとだ。いただきまーす」

 わたしはなんとかこのひび割れた空気を変えようと、焼けた肉を奏真のお皿によそっていった。いっぱい食えよー、と、まるで先生のように柊さんが笑う。ああ、そういえば高校教師だった。そうでした。

 ――なんだか、無性に腹が立った。

 わたしは奏真と張り合うように、口の中に大量の肉を詰め込んだ。焼きたての肉はとても熱くて、舌を火傷してしまいそうだ。でも今は、そんなことどうだっていい。

 なんだかとても、いらいらした。

 分かってた。柊さんが付き合っているのはりせじゃなく小咲さんだってことは。分かってる。柊さんは奏真の質問に答えただけだって。分かってはいるけれど、やるせなかった。

 だって、りせはこんなにも柊さんがすきで、すきですきでたまらないのに。柊さんのために何時間もかけて服を選んで、メイクだって頑張ってきたのに。こんなにもふたりは息ぴったりで、恋人よりも恋人らしいのに。ふたりが恋人だったらいいなっていうわたしの願いも、りせの淡い想いも、たった一言で打ち砕かれた気がしたのだ。どうにもならないのに、どうにもならないからこそ、悔しかった。

 バーベキューを終え、日が沈むまでの時間。昼寝をするという柊さんを置いて、わたしたち三人はキャンプ場の中を歩き回ることにした。

 あたたかい太陽光の下、場内ではたくさんの人がバーベキューをしたり、小川で水遊びをしたりと、楽しげに過ごしている。普段はひきこもりがちなわたしだけれど、おいしい空気を肺に取り込んだら、自然と歩調が速くなった。

「へぇ、いいカメラ持ってるんだね」

 小川に沿って散歩をしている時。奏真が持っている一眼レフを見つめて、りせが目を輝かせた。

「この間雫に選んでもらったんだ。まだ腕は全然だけど」
「じゃあ、いっぱい練習しなきゃね」

 そう言うやいなや、突然りせが猛ダッシュした。数メートルくらい全力で走ったあと、振り向いて大きくピースサインを出す。

「ねぇ、撮って撮って!」

 無邪気に笑うりせに向かって、奏真がカメラを構えた。パシャリ。軽快なシャッター音が鳴る。わたしは奏真のカメラをのぞき込んで、思わず笑みを零した。自然に囲まれてVサインをするりせが、とても生き生きと写っている。

「うん、かわいく撮れてる」
「はしゃいでるのが伝わってくるな」

 奏真とうなずき合っていると、またまた猛ダッシュでりせが戻ってきた。

「どう? どう?」
「いい感じだよ、ほら」

 奏真が差し出したカメラをまじまじとのぞいて、りせはむむっと顔をしかめた。

「やだ、髪の毛乱れてる」
「全然分かんねーよ、そんなの」
「そうだよ、十分かわいいよ」

 わたしは力強く奏真に同意した。写真のりせも実物のりせも、ため息が出るくらいかわいくて眩しい。今はやりのアイドルよりも、アカデミー賞を獲った女優よりも、きらきらと輝いている。りせはそうかなぁ、と言いながら、ポニーテールをあっという間に結び直した。ポケットからリップクリームを取り出して、手際よく唇に塗る。その動作一つ一つが「女の子」って感じで、りせの隣に立っている自分がミジンコか何かに思えた。

「やっぱりいいカメラだときれいに写るね。今日はいっぱい撮ってね」
「もちろん!」

 奏真は大きくうなずいて、被写体を探すようにきょろきょろとまわりを見渡し始めた。りせはわたしに向かって笑いかけると、スキップをするようにどんどん前に進んでいった。

 わたしはふと歩みをとめて、はしゃぐように揺れるポニーテールが遠ざかっていくのを眺めた。無邪気で、素直で、明るくて、かわいくて。わたしにないものを全部持っている。分かっていたことなのに、急に、心にずしんと来た。

「どうした?」

 微動だにしないわたしをふしぎに思ったのか、奏真がこちらに戻ってきた。わたしはううん、と首を振り、ぽつりとつぶやいた。

「りせは、かわいいなぁって」

 言葉にしたら、自然と口から息が漏れた。

「顔だけじゃなくて、性格とか仕草とか……」
「確かになぁ」

 奏真は遠くにいるりせを見つめて、納得したようにうなずいた。

「今朝会った時は大人っぽいなと思ったけど、わりと落ち着きないよな」
「あんたも人のこと言えないけど」
「えっ、そうかな?」
「何で今驚いたのよ」

 相変わらずの天然ぶりにあきれ、わたしはゆっくりと歩き出した。遠くから聞こえる人々の笑い声。小鳥のさえずり。水の跳ねる音。すべてが穏やかに流れているのに、心はどこか重たい。どうして、どうして。人はこんなにも違うのだろう。神様って不公平だ。かわいさって武器を手にしたら、それだけで人生は違うのになぁ。りせくらいかわいかったら、人生イージーモードなのに。

「でも、雫もかわいいけどな」

 唐突に後ろから聞こえたのは、あっけらかんとした声だった。わたしはぴたりと足をとめ、口元をきつく結んだまま振り向いた。

 案の定、まぬけな顔をした幼なじみが、カメラを構えてそこにいた。ファインダー越しに見るわたしは、さぞかしふてくされた顔をしているのだろう。いたずらな風にさらわれた葉っぱが、ふたりの視界をさえぎるように、邪魔して、邪魔して。 

 ああ、もう、何も、見えないよ。

「だから、そういうことは誰にでも言うもんじゃないって」
「誰にでも言ってるわけじゃねーよ」

 カメラを下ろした奏真は、めずらしくふくれっ面をしていた。

「雫だから、言うんだよ」
「……なに、それ」

 意味が、よく分からなかった。奏真はきゅっと唇を結んで何も言わない。言おうとしない。わたしもそれ以上何も聞かない。聞けない。一つでも、一言でも核心に触れてしまったら、今手にしている平穏が、一つ残らず消え去ってしまうような気がした。そんな、予感が、していた。

「雫! 奏真!」

 りせの叫び声が、ふたりの沈黙を破った。振り返ったら、膝くらいまで小川に浸かっているりせが、おーい、と大きく手を振っている。わたしは奏真から逃げるように、りせの元へ走っていった。



 夕食を軽く食べたあと、遊び疲れたわたしは、柊さんと入れ替わるように車の中で眠りについた。どこからか、りせと柊さんのひそやかな話し声が聞こえてきたような、そうでないような。昼間の奏真の言葉も、もう夢か現実か分からない。全部、考えないようにしよう。考えないようにすれば、平穏な日々が約束されるんだ。

「……ずく、雫」

 現実の向こう側から、わたしを呼ぶ声が聞こえた。意識がぐぅぅんと深いところから引っ張られていく。ゆっくりと目蓋を開けると、薄暗い闇の中に、りせの白い肌が浮かんでいた。

「起きて。もう夜だよ」

 ひそやかな声に急かされて、わたしは重たい上半身を起こした。もぞもぞと車から降りたら、ふらりとめまいがした。りせは支えるようにわたしの手をつかみ、ふたりの元へと引っ張っていく。

 拓けた原っぱの上で、柊さんが天体望遠鏡をのぞいていた。その隣には興奮した様子の奏真が立っている。わたしに気づいた柊さんが、顔を上げて空を指差した。わたしは眠たい目をこすって、ぼんやりと夜空を見上げた。

 ――瞬間。

「わぁっ……」

 そこに広がっていたのは、宝石箱のような星空だった。きらきら、きらきら。普段見てい
る夜空とは全然違う。まるで星の海の中にいるみたいだ。今にも降り出しそうな星たちが、一斉に、白い光を放っている。

「驚くのはまだ早いぞー」

 柊さんはいたずらっぽく笑うと、望遠鏡をのぞくよう促した。わたしはどきどきしながら、言われるがまま望遠鏡をのぞき込んだ。

「すごい……!」
「きれいだろ」

 そこには、まん丸な月がはっきりと映っていた。手を伸ばしたら触れられそうなくらい大きい。月の模様が隅々まで見える。少し都心を離れただけで、こんなにも違うのか。心が震えて、瞳がじんわり潤んできた。

「すごい、すごいね奏真。のぞいた?」
「ああ、さっき見た。ほんと、想像以上で手が震えてる」

 奏真は興奮ぎみにうなずいて、三脚にセットしてあるカメラのシャッターを切った。この日のために、奏真がまた貯金をはたいて用意した三脚と望遠レンズだ。奏真のカメラを見て、わたしはちょっとだけ後悔した。こんな幻想的な風景を撮れないなんて、もったいないな。やっぱりわたしもカメラを持ってくるべきだったかな。心がむずむずと疼くけれど、やっぱりそう簡単に決心は変えられなくて、小さく息を吐く。

「雫、見て」

 りせがひときわ輝く星を指差した。

「あれがデネブ、アルタイル、ベガ。夏の大三角形」
「素敵……」

 夏の大三角形、って、名前だけは聞いたことがあるけれど、結構細長い。正三角形というより、二等辺三角形って感じ。

「あっちに見えるのがわし座。あそこの光ってる三つを線で繋ぐの」
「詳しいな」

 奏真が感心したように言うと、隣で柊さんが「おれの受け売り」と笑った。ポケットから煙草を取り出して、ライターで火をつける。暗闇の中で、オレンジ色の灯がぽうっと灯って、柊さんの端正な顔を明るく浮かび上がらせた。白い煙が宙をたゆたう。りせはあっと声を上げ、柊さんの顔をのぞき込んだ。

「禁煙するんじゃなかったの?」
「今日はいいんですぅ」
「ふぅーん」

 柊さんは煙草を口にくわえたまま、ふいに、りせの耳に手を伸ばした。 

「そのピアス、似合ってるな」
「え?」
「今日にぴったり」

 耳元できらめくそれは、今朝りせが一生懸命選んだ星のピアスだった。ふたりのやりとりを遠目に見ながら、わたしはちょっと嬉しくなった。りせの顔は見えないけれど、きっとはにかんだ笑顔を浮かべているに違いない。

「あっ、流れ星!」

 夜空をじっと眺めていた奏真が、大きく叫んだ。わたしたちは一斉に空を見上げた。

 たくさんの星が、ものすごいスピードで落ちてきた。一、十、二十……いくら数えても数え切れない。目で追うこともできないくらい、無数の星が降ってくる。

「みんな、祈れ!」

 柊さんが号令をかけるように言ったので、わたしは慌てて目をつぶった。どうしよう。両手の指を絡めてみるけれど、願うことなんて思いつかない。無病息災、健康第一? なぜか若者らしくないことばかり浮かんでくる。薄目を開けて隣を見ると、奏真はぎゅーっときつく両目をつぶり、一心に何かを祈っていた。柊さんは煙草を吸ったまま望遠鏡をのぞき込んでいる。りせは何を願っているのだろう。わたしは気づかれないように、そっと視線を動かしてみた。

 暗闇の中、りせは瞳を開けたまま、まっすぐに流れ星を見上げていた。祈ることもせず。願うこともせず。ただひたすら、睨むように見つめ続けている。その瞳には、何かを覚悟したように、強い光が宿っていた。

 わたしは息をすることも忘れ、りせの横顔に見惚れた。風にたなびく栗色の髪。白い肌。鋭い眼差し。そのすべてが、同じ人間とは思えないくらいきれいで、でもどこか、さみしげだった。

 りせは今何を考えているの。星に願うこともせず、何を思っているの。誰を、想っているの。

 わたしはもう一度夜空を見上げ、ぎゅっと強く両目をつぶった。願いを叶える方法は、流れ星に三回祈ること。今、わたしが祈ることは。

 りせのことを知りたい。
 りせのことを知りたい。
 りせのことを、もっと知りたい。

 心が潰れそうなくらい強く願った。こんなことを思うのは初めてだった。わたしは誰かを愛したことがない。興味があるのは写真だけ。ずっと、そうやって生きてきたから。だけど、りせに会ってからどこか変わった。彼女の笑顔の理由も、悲しみのわけも、すべて知りたい。幸福も不幸も、すべて分かち合いたい。星の流れが消えるまで、強く強く、祈り続けた。



 キャンプ場をあとにしたのは、二十一時をまわった頃だった。星空の興奮が冷めやらぬまま車に乗り込んだわたしたちだったけれど、三十分も経つ頃には、穏やかな寝息が車内を包み始めた。あいまいになる意識の中、柊さんとりせのひそやかな話し声が、子守歌のように鼓膜を揺らしていた。

 夜がますます深まり始めた時間。寝静まった車内で、わたしはふと夢から覚めた。ゆっくりと目蓋を開けて隣を見ると、奏真のまぬけな寝顔が目に入った。助手席にいるりせも、窓に寄りかかって寝息を立てている。

「起きちゃった?」

 運転席から、柊さんが小さな声で話しかけてきた。ミラー越しに目が合う。時刻を確認したら、二十三時を過ぎていた。

「まだ時間かかるから、寝てていいよ」
「……柊さん、疲れてないですか?」
「疲れたに決まってるだろ。もう若くねーもん」

 はは、と笑う彼の声には、言葉通り疲れの色が含まれていた。窓の外に見える景色はどこもかしこも真っ暗で、車のライトだけが、薄ぼんやりと一寸先を照らしている。まるで深い海の底から、地上を眺めているみたい。

「今日、ちゃんと楽しめた?」
「はい。すごく、素敵でした」
「そっか」

 柊さんは安心したように、心底優しく微笑んだ。バーベキューの時も天体観測の時も、柊さんはみんなに気を配って、楽しませようとしてくれた。アウトドアの苦手なわたしが気を遣わずに楽しめたのは、柊さんのおかげでもある。きっとこういうところがすきなんだろうな。

 ――すき、なんだろうけど。

「……りせ、今日の服を選ぶのに一時間かかったんです」
「なに、それ。時間かけすぎだろ」
「柊さんに褒めてもらえるようにって、頑張ったの」

 柊さんは何も答えなかった。表情ももう見えないし、何を考えているのかも分からない。夜を知らせる沈黙が、ただ、わたしたちを包んでいる。

 今日、柊さんを見ていて思ったこと。大人。頼りになる。優しい。素敵。……嘘つき。

「……りせは、柊さんのことがすきなんです」
「知ってるよ」

 そっけない、でも優しい声だった。その優しさが、なんだか無性に腹立たしかった。

「柊さんは、どう思ってるの?」
「どうって」

 柊さんの言葉が不自然に途切れた。何かを言いかけて、やめたような様子だった。

 わたしは、心がどんどん冷えていくような感覚に襲われた。聞いてはいけないようなことを聞いてしまったような気がした。踏み込んではいけない、ふたりだけの領域に、足を踏み入れてしまった。その実感がじわじわとつま先から心臓まで駆け上がってきて、急に、こわくなった。

「大人には、いろいろ事情があるんだよ」

 長い長い沈黙のあと、ちょっとぶっきらぼうに、柊さんが答えた。

「雫ちゃんには、まだ早いかな」

 少し笑い声を含んで、ごまかす。今度はわたしが黙る番だった。本当は黙りたくなかったけれど、黙ってあげた。きっとそれ以上問いただすことを、りせは望まないだろうと思ったから。

 言いたいことをすべて飲み込んで、柊さんとの会話をやめた。目蓋を閉じて、再び眠るふりをした。車の振動が体に響いてうっとうしい。さっきまであれだけ眠たかったはずなのに、今はちっとも眠れる気がしない。

 早いって、何よ。わたしが子供だから、分からないって言いたいの。わたしが恋を知らないから? わたしに、恋人がいないから? 人を愛したら理解できるの? もっと、りせのことを知ることができる?

 結局、もやもやを抱えたまま時間が過ぎて、やがて別れの時が来た。

「今日はありがとな。すっげー楽しかった!」

 車から降りた奏真は、さっきまで眠っていたとは思えないほど高いテンションでそう言った。

「ごめんな、遅くなって。親御さん心配してるだろ」
「大丈夫です。連絡もしてあるし」

 りせは助手席の窓を開け、奏真に笑いかけた。

「じゃあね、奏真。また写真見せてね」
「もちろん。……じゃあ、おやすみ、雫」
「うん……」

 わたしは小さくうなずいて、奏真の背中が遠ざかっていくのをぼんやりと眺めた。いつもなら別に何とも思わないのに、なぜだろう。今はなんだか、このまま離れたくない。

 ――雫だから、言うんだよ。

 その言葉の、意味を知りたい。

 気がつくとわたしは、閉まりかけたドアの隙間から、外に飛び出していた。

「雫?」
「ごめん、すぐ戻る!」

 りせの驚いた声に答えながら、わたしは全速力で奏真のあとを追いかけた。

「奏真!」

 曲がり角を曲がったところで、ようやく奏真に追いついた。振り向いた奏真は、びっくりしたように目を見開いた。

「どうした? おれ、忘れ物でもしてた?」
「う、ううん……」

 わたしは膝に手をついて、乱れた呼吸を整えた。ほんの少し走っただけなのに、もう体力が尽きかけている。

 ようやく動悸が正常に戻ったところで、わたしは膝をまっすぐ伸ばした。

「……動物園に行った時、わたしに言ったこと、覚えてる?」
「え?」

 奏真はちょっと首を傾げて笑ったけれど、すぐに笑みは薄れていった。

 ――じゃあ、恋人になる?

「なっても、いいよ」

 その言葉が、どれだけ本気だったのかは分からない。冗談だったのかもしれない。だけど、それはとても都合のいい言葉で。大人に近づくための、ちょうどいい手段だったのだ。

 わたしは眼鏡を外して、まっすぐに奏真を見つめた。夜の闇に紛れて、奏真がどんな表情をしているのか、もうわたしには見えなかった。

「恋人に、なってみようよ」

 それを知らないことが、子供の証だと言うのなら。少しでもあなたに近づきたい。あなたの孤独を理解したい。たとえ、誰を利用しても。

 美しいはずの月はもう、雲に隠れて見えなかった。





 蝉の鳴く声が重なり合って、窓の外でこだましている。部屋の中にいても分かるほど強い直射日光。熱気でぼやける庭の景色。コップから滴り落ちる透明な水滴と、低く唸る扇風機の音。不規則なシャープペンシルの音が、二つ。

 そのうち一つがゆっくりと速度を落とし、やがて空気の中に消えていった。

「もうむり。ギブ」

 わたしはシャープペンシルを手から離し、匙を投げるように机に突っ伏した。小一時間座りっぱなしのせいで腰が痛い。もうこのまま眠ってしまおうか。頬が冷たくて気持ちがいいし、課題が終わる気配もないし。落ちそうになる目蓋を阻んだのは、聞き慣れた声だった。

「どこ?」

 わたしはちょっとだけ頭を上げて、無造作に広げたテキストを指差した。

「ここ。全然分かんない」

 反対側からでは見づらかったのか、奏真はわたしの隣に移動して、まじまじと数式をのぞき込んだ。数センチの距離に奏真の横顔がある。ああ、意外とまつげ長いんだなぁ。近くにいすぎて気づかなかったけど、よく見るとかわいい顔立ちをしている。そういえば、昔から近所のおばちゃんたちに人気あったもんなぁ。

「……そしたら、こう。……なぁ、聞いてる?」
「え?」

 はっと我に返ると、奏真がじろっと目を細めてこっちを見ている。ノートにはびっしり解説が書き込まれていた。

「ごめん。ぼーっとしてた」
「せっかく教えてやったのに。じゃあ、もう一回な」

 これはXに3を代入して……と、普段からは想像もできないほどすらすらと問題を解いていく。わたしはなんとか理解しようと、真剣に耳を傾けた。言われた通りの順序でシャープペンシルを動かす。

「……できた」
「だろ?」
「すごい、すごいね奏真。こっちも教えて」
「ん、こっちはこう。この式を展開すると、こうなる」
「じゃあ、これ」
「うーん、これは……」

 次々と問題を解いていく奏真の手がぴたりととまった。じろりと不審そうな目でわたしを見る。

「もしかして、全部おれにやらそうとしてない?」

 わたしは唇を尖らせて、奏真から目を逸らした。奏真はしかたないなぁーと息を吐いて、大きく伸びをした。

「ちょっと休憩する?」
「する!」

 わたしは大きくうなずいて、久々に手に入れた自由を大きく吸い込んだ。ずるずると扇風機の前まで這っていき、あああああーっと無意味に声を出してみる。ゆらゆら揺らいだぶさいくな声が反響する。見慣れた部屋。いつものわたしの部屋。違うのは、奏真がいることだけ。

 天体観測から二週間後。夏休みに突入したわたしたちは、気が遠くなるほどの課題を一つ一つ片づけていく作業を進めていた。高校生の男女が部屋でふたりきり。この前までならちょっと抵抗した。でも今は何もおかしくない。

 わたしたちは、付き合っている。

「そうだ、こないだの写真現像したんだ。データで送ろうとも思ったんだけど、せっかくなら、と思ってさ」

 すっかり休憩モードに切り替わった奏真が、カバンから封筒を取り出した。さっきまでノートが広げられていた机の上に、溢れんばかりの写真が並べられた。

「わぁ、すごい……!」

 視界を埋め尽くした数々の写真を見て、疲れはどこかに吹っ飛んでしまった。まるで現実世界を閉じ込めたような仕上がりだ。透き通るような風景も、りせの笑顔も、すべてが生き生きと写っている。木々の揺れる音や川の流れる音、笑い声まで聞こえてきそうだ。わたしはそのうちの一枚を手に取った。夜空に浮かぶ無数の星がきらきらと輝いている。

「きれいに撮れてるね。星空撮るのって難しいんだよ」
「雫に教えてもらったおかげだよ。ほら、りせと雫もたくさん撮ったよ」
「ほんとだ」

 示された先にある写真を見て、自然と笑みがこぼれた。ふたりでポーズを決めている写真。いつ撮られたか分からないような、何気なくおしゃべりしている写真。日常の一コマ一コマが、鮮明に、生き生きと切り取られている。

 ふと、机の上にある一枚の写真が目に留まった。壊れものに触れるようにそっと、その写真を手に取る。薄暗闇の中、肩を並べて星を眺める柊さんとりせの姿。きっと見知らぬ誰かがこの写真を見たら、間違いなく勘違いするだろう。

「こうして見ると、ほんとにカップルみたいだよなぁ」
「うん……」

 奏真の声が、右耳から左耳へと抜けていく。一枚一枚確認するように、ふたりが写っている写真を目で追っていく。わたしとの写真ももちろん楽しそうだけれど、その笑顔とは違う。もっと幸せで、もっと楽しくて、もっと繊細。幸せの先にある何かを悟ったような、そんな微笑みだ。

 りせの笑顔はすきだ。太陽のように、ぱっとまわりが明るくなる。りせが楽しいとわたしも自然に笑ってしまう。だけどこの写真に写っているのは、どれもこれも、危うい儚さを持った笑みばかりだ。

 どうしてそんな顔をするの。涙の理由は分かる。悲しいから人は泣くんだ。だけど、この笑顔の理由はなんだろう。何がそんなに悲しいんだろう。

「そういえば、奏真が全然写ってないね」
「あー、おれはずっと撮る側だったから」

 数十枚もある中で、奏真が写っている写真は一枚もない。奏真は大して気にしていないようだけれど、なんだか申し訳なくなった。

「奏真も撮ってあげればよかったね。ごめん」
「いいんだよ。写るのより、撮る方がすきだし」
「そっか」

 あ、わたしと同じだ。共通点を見つけて、心の中でそっと笑った。

 わたしも昔から、写真を撮られるより撮る方がすきだった。自分の顔立ちがすきじゃないから、自分の姿を見るのがいやだった。この世にはわたしよりもきれいな人がいる。きれいな風景がある。だから、わたしはきれいなものを撮りたかった。ほら、きれいでしょ。そう自信を持って言えるものを撮りたかった。

「なぁ、今度ふたりでどっか行こうぜ」
「どっかって?」
「水族館とか、プールとか。映画とかもいいよな」
「でも、どこも写真撮れないじゃん。何しに行くの?」
「何言ってんだよ。そりゃ、写真も撮りたいけどさ。おれたち付き合ってるんだろ?」
「……うん、まぁ、たぶん」
「だったら、デートしようって話。せっかくの夏休みだしさ」

 デート。なじみのない単語に、わたしは目をぱちくりさせた。頭の中で咄嗟に辞書をめくる。デート。親しい男女がふたりで出かけること。ああ、そうか。デート、デートね。

 奏真は何枚かの写真を手に取って、「やっぱきれいに撮れるよなー」と早速話題を変えている。その楽しげな横顔が、なんだか余裕の表情にも見える。

「……デートって何するの?」
「ふたりで出かける」
「それ、付き合う前からしてたよね」
「うん。まぁ、そーいうこともあるよな」
「じゃあ、別に今までと変わんないじゃん」
「変わるだろ。付き合ってるんだし」

 奏真がようやく顔を上げた。大きな二つの目に、まぬけな顔のわたしが映っている。

 扇風機の音が、ごおおおと強まった気がした。蝉の鳴き声が警告音のように大きくなって、耳の奥をつんざいていく。

 あ、なんだか。
 吐息、が、交わりそう。

「……奏真って、今まで付き合ったことあるの?」
「あるよ。中学の時」
「えっ」
「初めて付き合ったのは小五だけど」
「えっ、えっ」
「何だよ、その反応。絶対失礼なこと考えてるだろ」

 奏真は机に置いてあったコップを手に取り、ぐいっと麦茶を喉に流し込んだ。絶え間なく襲いかかる衝撃的な事実。放心状態になりながら、わたしもつられてコップを手に取る。溶けかけの氷が喉に引っかかって、むせ返りそうになった。

「告白したの? されたの?」
「うーん、したことはないな。告白されて、まぁいっかなって」
「それって、そんなにすきでもなかったけど、とりあえず付き合ってみたってこと?」
「まぁ、そうだな」
「それってどうなの? 向こうは奏真のことが本当にすきだったんでしょ?」

 そこまで言って、はっとした。奏真に向けたはずの言葉は、見事に自分に跳ね返ってきた。投げたナイフが心にぐさぐさと刺さって、罪悪感という痛みが広がる。わたしだって似たようなもんだ。別に告白されたわけじゃない、と、思うけど。……あれ、じゃあ何で付き合ってるだろ、わたしたち。

 奏真はうーんと考え込むように腕を組んだ。

「付き合ってすきになるかもしれないかなと思って。ただの友だちのままでは分かんない、その人のいいところが見つかるかもしれないじゃん。気遣いができるとか、優しいとか。愛情ってやつが見えやすくなるっていうか……うまく言えないけどさ」
「……そんなもん?」
「どうだろ。考え方は人それぞれだと思うけど。若いうちにいろんな経験しとけって、ねーちゃんが言ってた」
「お姉さん、結構年離れてたよね。何歳だっけ」
「今年で二十八。大人になったら、軽々しく恋愛なんてできないんだからって言ってた。学生のうちにしかできないことをたくさんしなさいって。遊びも勉強も」

 わたしはまったく新しい数式を教えられたような気持ちになった。そういう考え方もあるのか。思ったより奏真の考えがしっかりしていたことにびっくりした。今まで子供だと思っていたけど、奏真の方がずっと大人だ。それなのにわたしは、自分のエゴで奏真を利用している。ずるい、情けない。恥ずかしい。

 何も言えずに目線を落としたら、柊さんとりせの写真が目に入った。一枚、二枚、三枚……数え切れないくらいの、ふたりの笑顔。

 奏真の言いたいことは分かるよ。分かるけど。わたしは両手を強く握り締めた。じゃあ柊さんは? りせのことどう思っているの? りせを受け入れて、そのあとは? 小咲さんのこと、どう考えてるの?

 ――いつか、りせを突き放すの?

「雫」
「え?」

 名前を呼ばれて顔を上げた。奏真の顔がものすごく近くにあった。っていうか、近すぎて顔全体が見えない。真剣な瞳に吸い込まれそうになる。なに、何なのこれ。
「ちょ、ちょっと!」

 わたしは咄嗟に奏真を突き放した。どんっ、と鈍い音がして、「いたっ」と奏真が声を上げた。どうやらクローゼットに頭をぶつけたらしい。

 わたしはベッドに逃げ込み、怯えた猫のように布団にくるまった。

「な、な、何すんの!」
「いや、恋人っぽいこと、してみようかなって思って」

 奏真が頭を押さえながら立ち上がった。一歩一歩、距離が縮まる。奏真の手がベッドに沈み込んで、スプリングがぎしっと軋んだ。

「だめ?」
「いや、だめっていうか……」

 わたしは言葉を濁し、逃げるように目を逸らした。どうしよう、よく知っているはずなのに。昔から知ってる男の子なのに。なんだか知らない男の人に見える。

 奏真の顔が近づいてきた。心臓がばくばくとうるさい。どうしよう、付き合ってるし、彼氏なんだし、受け入れるべきなのかな。付き合っているのに何もしない方が変なのかな。だったら、いや、でも――

「……ごめんっ!」

 わたしは奏真の肩に両手をついて、弱い力で押し返した。

「やっぱ、まだむり……」

 緊張で声が震えた。室温が二度くらい下がったみたいだ。奏真はベッドから離れ、すとんと床に座り込んだ。

「いいよ。おれもいきなりごめん」

 おそるおそる顔を上げると、奏真はちょっと申し訳なさそうに笑っていた。わたしはほっと息を吐いた。ああ、よかった。いつもの奏真だ。

「せっかく付き合ったんだから、特別なことしたいなって。でも、さすがに早かったよな。おれたち、恋人ってより友だちって感じだし」
「う、うん」

 わたしはどぎまぎしながらうなずいた。被っていた布団から出て、奏真の隣に腰を下ろす。奏真の手が、優しくわたしの頭に触れた。子供をあやすように、ぽんぽん、と軽く叩く。

「おれは単純に雫といるのが楽しいし、すきだからさ。とりあえず、今度出かけてみない? 写真も、アドバイスくれると嬉しい」
「うん……ありがと」

 なぜだか瞳が潤むのを感じて、うつむいた。自分の情けなさが悔しくて、きゅっと唇を噛む。

 何でだろう。奏真のことはきらいじゃないのに。わたしたち、付き合ってるのに。どうして何もできないんだろう。

 蝉の声が騒々しさを増した気がした。コップの中の氷が、臆病なわたしを嘲笑うように、からん、と音を立てて溶けていった。



 結局課題は予定の三分の一しか終わらず、恋人らしいこともしないまま、わたしたちは解散した。

 夜。お風呂上がり。火照った体を冷ますためベランダに出ると、大きな満月が、空にあいた穴のように浮かんでいた。うさぎが餅をついているとか、大きな蟹だとか諸説あるけど、濁ったわたしの瞳にはただの幾何学模様にしか見えない。

 はぁーっとありったけの息を心から吐き出す。だめだ、胸に鉛が詰め込まれたみたいだ。自分の幼さに腹が立つ。

 恋人ができたら、りせの気持ちが少しは分かると思っていた。だけど結局何も変わらない。早く大人になりたいのに。少しでもりせに近づきたいのに。どうしてこんなにうまくいかないんだろう。わたしはいつも、溺れる鳥のようにもがくことしかできない。

 ふと、庭の隅っこにある離れが目に入った。相変わらず明かりはついていない。そういえば、天体観測の日からりせを見かけていないな。こんなに近くにいるのに、わたしたちの距離は相変わらずだ。わたしもりせも、積極的に「会おう」と声をかけるタイプじゃないから、仲よくなっても会う頻度は変わらないのだ。

 りせは元気だろうか。こんなに近くにいるんだから、会いにいってみようかな。そんな思いつきで、わたしは離れを訪ねることにした。

 庭に出ると、生ぬるい風が全身に絡みついてきた。あれほど艶やかに花を咲かせていた桜は、もうすっかり青葉になっている。時が少しずつ進んでいる証拠だ。

 わたしはちょっと緊張しながら、離れの扉を軽くノックしてみた。しん、と沈黙が帰ってくる。やっぱり今夜はいないのだろうか。諦めて帰ろうとしたら、扉の向こうで物音がした。そのまましばらく待っていると、警戒するようにじわじわと扉が開いた。

 現れたりせの顔を見て、ぎょっとした。かわいらしい二つの目は、暗闇でも分かるほど赤く充血している。クマもひどいし、髪もぼさぼさ。いつものりせとは別人みたい。

「ど、どうしたの?」
「拗ねてるの」

 りせはぶっきらぼうに答えると、ふいっと背中を向けて部屋の中に戻っていく。わたしは慌ててりせに続いて扉を閉めた。薄暗い部屋の中、相変わらず明かりは淡いキャンドルだけだ。りせはふらふらとベッドに近寄ると、そのまま倒れるように沈み込んだ。

「寝てた?」
「さっき起きたとこ」

 声色が冷たい。これは相当機嫌が悪いな。わたしはおそるおそる、持ってきた写真をりせに差し出した。

「これ、奏真から」
「……何それ」
「こないだの写真。現像してくれたの」
「あっ! ありがと!」

 ガバッと勢いよく跳ね起きて、わたしの手から奪うように写真を受け取る。りせはぴょんっとベッドから飛び跳ね、テーブルの上に写真を広げた。

「わーっ、すごい! 全部きれいに撮れてる」
「奏真に感謝しなきゃね」
「ほんとだね。あっ、でもこのわたしぶさいく。これはいらない」
「十分かわいいよ。ほら、これとか。柊さんもいっぱい写ってる」

 柊さんの姿を見つけた瞬間、りせはぱっと顔を輝かせたけれど、すぐにむすっと頬を膨らませた。

「こんな男、もー知らない。きらい!」
「え?」

 予想外の反応に、わたしはぽかんと口を開けた。りせはぽいっと写真をテーブルの上に放り投げ、勢いよく立ち上がった。

「カラオケ行こ」
「い、今から?」
「うん。行こう!」

 りせは目の端をつりあげたまま、強引にわたしの腕を引っ張った。



「世の中くそくらえだ――!」

 狭いカラオケルームに、りせの声がぐわんぐわんと響き渡った。彼女には似合わないロックを、荒々しい声で歌いまくる。マイクがハウリングするのもおかまいなし。もう歌っているのか叫んでいるのか分からない。なんだか、いつになく荒れてるなぁ……。髪の毛を振り乱してシャウトするりせの横で、わたしはおとなしくジュースをすすった。

「雫も歌って!」
「へ?」
「いいから、歌うの!」

 りせは強引にもう一本のマイクをわたしに手渡した。

「わたし、この曲知らない……」
「じゃあ知ってる曲入れて! ほら!」

 今度はデンモクをぐいっと押しつけてくる。これは歌わないと気がおさまりそうにないな。わたしはしかたなくデンモクを操作し、適当に知っている曲を入れた。

 狭い密室で、ふたりの声が重なる。画面に映る文字を追いながら、ぎゃんぎゃんとぶさいくな声で歌う。肩を組んで左右に揺れて、さみしさを紛らわせるように叫んで、怒鳴って、その繰り返し。タイムリミットが迫る頃には、息も絶え絶えになっていた。

「……柊くん、旅行してるの」

 テーブルに突っ伏しながら、りせがかすれた声でつぶやいた。

「小咲さんと?」

 わたしはがらがら声で尋ねた。りせは何も答えない。否定しないのが、肯定の合図だ。

「こんなこと思う権利なんてないし、当然のことなんだけどね、やっぱりいやだよ……」

 長い髪が机にだらりと垂れ下がっている。いつになく弱々しい彼女を見たら、わたしは黙るしかなかった。りせは頭を起こすと、弱さを振り払うように息を吐いた。

「ごめん。雫に愚痴ってもしかたないのに」
「ううん……」

 わたしは首を振りながら、自分のボキャブラリーと経験値のなさに肩を落とした。

 りせのこういう感情、嫉妬、っていうのかな。すきな人が別の女の人と一緒にいたら、いやになるものなの? 悲しくて、辛くて、さみしくなるものなの? もし奏真がりせとふたりで出かけたら、わたしは悲しい? さみしくて涙が出ちゃう? ……今のわたしには分からない。

「……りせは、柊さん以外の人をすきになったこと、ある?」
「え? そうだなぁ……小六の時、一週間だけ付き合った人ならいる。サッカー部の和哉くん」

 りせはへへ、と恥ずかしそうに頬を掻いた。

「でも今思うと、それは本当の恋心じゃなかったなって。幼すぎたから、好意を愛情だと錯覚してたのよ。柊くんとは全然違うもん」
「付き合うって何するの? どんな感じ?」
「うーん……和哉くんとは特に何もしてないけど、普通はキスとか、デートとかかな。あと……」

 りせの艶めいた唇がわたしの耳元に近づいてくる。吐息の隙間からささやかれた単語に、耳の奥がぞくっとした。

「えっ、えっ?」
「恋人なら、するでしょ」

 りせはきょとんと首を傾げる。からかっている様子はない。あくまで普通のことを述べました、って感じだ。

「ほ、他には?」
「まだ聞きたいの? やらしーい」
「そうじゃなくて、そういうこと以外で!」

 にやりといじわるく笑うりせの前で、わたしは大きく両手を振った。りせはつまらなさそうに唇を尖らせる。わたしははぁーっと大きく息を吐いて、ジュースの入ったグラスを両手で包み込んだ。

「……付き合うって、よく分からないの。手を繋ぎたいとか、キスしたいとか思わないし。どこかに出かけるのだって、友だちでいる時と何が違うの? わたしはまだ、全然分かんないや」
「なに、奏真と付き合ったの?」
「……えっ!」
「あ、そうなんだ」
「な、な、何で?」
「仲よさそうだったから。恋人同士って感じでもないけどねー」

 りせはけらけらとおかしそうにおなかを抱えた。言い訳する間も与えてはくれない。彼女には嘘は通用しない。わたしは観念してうなずいた。

「きらいじゃ、ないんだけど……」
「分かるよ。恋愛の『すき』とは、また違うんだよね」

 わたしは驚いてりせを見た。りせはすべてを包み込むように、優しく目を細めた。
「どうして付き合うことになったのかは分からないけど、雫が思うようにしたらいいんじゃない? どんな関係になっても、きっとふたりは大丈夫だよ。奏真、いいやつだもん」

 ああ、どうして何も言わなくてもほしい言葉をくれるの。わたしはりせに何も言ってあげられないのに。溢れそうになる涙を、隠すようにうつむいた。

「うん。ありがと」

 かろうじて声を絞り出す。ちょっとかすれて不自然になってしまった。りせはそっとわたしに体を寄せ、小さくつぶやいた。

「……わたしだって、ほんとは……」

 わたしは耳をすませたけれど、その続きが聞こえることはなかった。

「だめだ、暗くなる! 歌おう!」

 りせは突然立ち上がると、ものすごいスピードで曲を入れた。再びマイクを持って、ぴょんぴょん跳ねながら激しいロックを歌い始める。髪を振り乱しながら、全力で愛を叫ぶ。その無邪気な瞳。強い意志。きれいな声で歌うりせに、わたしは呼吸を奪われた。

 ああ、きらきらしてるな。

 笑ってる顔も泣きそうな顔も尊いな。りせはいろんな表情を持っている。どれもこれも眩しいくらい輝いていて、美しい。

 すきって何だろう。わたしにはまだ分からない。人を愛するって何だろう。わたしにはまだ理解できない。

 でも、一つ。たった一つだけ、確かに思ったことがある。

 ――わたし、この子を撮りたいな。



 カラオケから出て、コンビニで買ったアイスを食べながら帰路に着いた。夜風が汗を乾かすように全身を撫でて気持ちがいい。わたしたちは酔っぱらいのように歌いながら、ふらふらと夜道を歩いていった。

 アパートが見えたところで、普段はからっぽの駐車場に、車が停まっていることに気がついた。中から二つの人影が出てくる。わたしたちは顔を見合わせ、小走りで車に近づいた。

「柊くん、お姉ちゃん!」
「……あ、りせ」

 小咲さんは弱く微笑むと、気分が悪そうにうつむいて口を押さえた。柊さんが支えるように腰に手を添える。

「どうしたの? 大丈夫?」
「大したことないんだけどね。ちょっと、体調悪くて帰ってきたんだ……」

 小咲さんは申し訳なさそうに柊さんを見上げた。

「ごめんね、せっかくの旅行だったのに」
「そんなの気にすんなよ。ほら、歩けるか?」

 柊さんはゆっくり小咲さんを玄関まで誘導し、「りせ、鍵開けて」と家の鍵をりせに渡した。りせはぎこちなく玄関を開け、真っ暗な部屋に明かりを灯した。

「ちーちゃんは?」
「日付が変わるまでには戻ってくると思うけど……。今日デートなんだって」

 デート。子供がふたりいるのに、デート、とは。わたしは三人の後ろでぎょっと飛び上がった。なんというか、見た目通りの人だ。

 ふたりが小咲さんをベッドに連れていく間、わたしはそわそわと玄関で待っているしかなかった。十分ほどして、ふたりが玄関に戻ってきた。

「小咲さん、大丈夫ですか?」

 尋ねると、柊さんは返事に困ったように頭を掻いた。

「最近ずっとあんな感じだからなぁ」
「だから、天体観測も来れなかったの?」

 りせの顔が険しくなった。自分を責めるように強く、両手を握ったのが分かった。柊さんは安心させるように、りせの頭をくしゃくしゃと撫でた。

「まぁ、あんま心配すんなよ。そうだ、ちょっとこっち来て」

 柊さんは思い出したように車に向かった。わたしとりせは戸惑いながら、柊さんについていく。柊さんは車の後部座席から大きな袋を取り出すと、わたしに「はい」と差し出した。

「これ、雫ちゃんにお土産」
「えっ、いいんですか?」

 袋の中をのぞくと、そこには甘夏ゼリーの箱が入っていた。

「うん。奏真にもあげといて」
「ありがとうございます」
「わ、わたしには?」

 りせがぎこちなく柊さんに尋ねる。柊さんはふしぎそうに首を傾げた。

「え? ないよ」
「ええ――っ!」
「うそうそ、これ」

 柊さんは苦笑しながら、小さな紙袋をりせに渡した。りせがそわそわしながら中身を取り出す。それは、星の形をしたキーホルダーだった。

「……かわいい!」
「三百円な」

 柊さんがいじわるく言う。しかしりせの耳にはもう届いていないようだった。

「わーい、わーい!」

 無邪気な子供のようにぴょんぴょん飛び上がって、最大限の喜びを表現している。柊さんは大げさだなぁ、と目を細めた。

 わたしは、その眼差しがとてもとても優しいことに気づいた。他の人に向けるものとは違う、愛しそうな瞳。嘘つきなこの人の、素直な心が表れているようだった。

 柊さんはわたしの目線に気づくと、愛しさを振り払うように、運転席に乗り込んでエンジンをかけた。

「じゃーな、おやすみ」
「おやすみ、柊くん!」
「おやすみなさい」

 開け放たれた窓から挨拶を交わすと、微笑みを置き去りに、車はどんどん遠ざかっていく。曲がり角で消えて見えなくなるまで、わたしたちは柊さんを見送った。

 車のエンジン音が消えると、波が引いたあとの浜辺のように、すーっと静けさが満ちてきた。

「……都合いいでしょ、わたし」

 キーホルダーを胸に抱きながら、りせが静かにつぶやいた。風で乱れる髪を押さえながら、わたしはりせの方を見た。さっきまでの無邪気な笑みとは違う。静かで、物悲しい、大人っぽい微笑みがそこにはあった。

「些細なことで悲しくなったり、喜んだりするの。これが、恋」
「……お似合いだよ、ふたりは」

 心の底から、そう思った。

「すごく、きらきらしてる。お互い大切なのが伝わってくるの。お似合い、なのに……」
「いいの。わたし、今すっごく楽しいの。ちょっとでも会えたら幸せで、小さなプレゼントでも嬉しいの。柊くんのことが、すごく、すごく大切なの……」

 手の中のキーホルダーを、大切そうに見つめる。たった三百円のお土産も、百カラットの宝石に変わる。世界のすべてが色づいて、どうしようもなく、愛しく、なる。

「……どうしたの?」

 りせが、驚いたように目を見開いた。

「何で泣いてるの?」

 彼女の言葉で、わたしは初めて自分が泣いていることに気がついた。

「どっか痛い? 風邪でもひいた?」

 りせがおろおろしながらわたしの背中をさする。わたしは首を振りながら、何度も何度も手の甲で涙を拭った。

 違うの、りせ。そうじゃないの。

 こんなに彼を想っているのに。こんなに大切にしているのに。それは彼も同じはずなのに。

 だからこそ、柊さんが憎らしくなった。どうしてふたりは結ばれないの。どうしてりせを選ばないの。こんなに、こんなにすきなのに。涙はやまない雨のように、頬を伝ってとまらない。

 恋人なのにキスすらできないわたしと奏真。恋人じゃないのに、愛し合っているりせと柊さん。

 付き合うって何。恋人って何。人を愛するって、どういうこと。

 恋人の定義を、教えてほしいよ。



 翌朝。わたしはめずらしく早起きをして、引き出しの奥に閉まってあった、古いカメラを取り出した。年季が入っているせいで、シャッター部分がうまく動かない。気合いを入れるように深呼吸し、よし、とつぶやいた。直射日光にやられないよう帽子を被り、外に一歩、踏み出す。

「あ、おはよー雫ちゃん」

 庭に出たわたしは、名前を呼ばれてぎょっとした。じりじりと焼けるような太陽の下、花壇に水を遣っている女性が、ひとり。わたしは慌てて小咲さんに駆け寄った。

「おはようございます。もう大丈夫なんですか?」
「ごめんね、心配かけちゃって。寝たらよくなったの。あっ、柊くんからお土産受け取った?」
「はい。ありがとうございました」
「よかったぁ。ちゃんと渡してくれたか不安だったんだ」

 小咲さんは額の汗を拭いながら、ほっとしたように微笑んだ。昨日よりずいぶん顔色がいい。どうやら、本当に体調は回復したようだ。
「今からお出かけ? もしかして、デート?」
「ち、違います!」
「ふふ、冗談。気をつけてね」

 わたしはぺこりと一礼して、小走りでその場を離れた。



 わたしが向かったのは、カメラ修理のお店だった。年季の入ったわたしのカメラは、長年封印していたせいでところどころ調子が悪くなっている。今まで、そのことに気づきながらも目を逸らしてきたのだ。だけど、いつまでも立ちどまったままではいけない。そう思い始めたのはたぶん、未熟な自分に気づいたから。

 カメラを修理に出し終えたわたしは、ちょうどお昼時ということもあり、適当なカフェで昼食を取ることにした。

 サンドイッチとアイスティーを購入し、スマートフォンをいじりながら窓際の席に腰かけた。夏休みというだけあって、まわりはおしゃれをした女の子たちでいっぱいだ。制服を脱ぎ捨てたカップルばかりがやたらと目につく。誰もかれも、こんなに暑いというのに手を繋いだり、ぴったりと体を寄せ合ったりと、見ているだけで暑くなっちゃう。

 そうか、普通の恋人ってあんな感じなんだ。目一杯のおしゃれをして、ふたりで出かけて、手を繋いで、幸せそうに笑い合う。わたしと奏真と、全然違う。手すら繫げないわたしたちは、まるで恋人ごっこをしているみたい。昨日だって、何にも、できなかった。

 アイスティーの水面に、冴えない女の子が映っている。ちょっと眼鏡を外してみたからって、おしゃれ女子とはほど遠い。スカートって足がスースーして苦手だ。今日着てるレースのシャツだって、りせの方が数倍似合う。りせはいつだって、道行くどんな女の子よりもおしゃれで、どんなアイドルよりもかわいい。

 どうして同じ人間なのに、こうも違うんだろう。わたしは時折、りせがひどくうらやましくなる。かわいくて、恋をしていて、きらきらしているりせが。

 外を見たわたしは、人混みの中に見慣れた影が紛れ込んでいることに気がついた。どんなに遠くても分かる。色白で、目が大きくて、栗色の髪を一つにまとめた、きれいな女の子――りせが、歩いている。

 ああやっぱり、りせのかわいさって別格だ。夜の闇にぽっかりと浮かぶ月のように、どこにいても目立つ。そして彼女のそばにいるのは、小咲さんの恋人である柊さんだった。

 柊さんの後ろを子犬のようについていくりせ。その表情は、まるで溶けたアイスみたい。全身から幸せが溢れているのが、こっちにも伝わってくる。

 わたしはぼんやりと、ふたりが消えた方向を眺め続けた。柊さんがどんな顔をしていたかは分からない。だけど、なんだか、他のどの恋人より仲睦まじげで、絵になっていたから。ほんの一瞬だったけど、まるで映画のワンシーンみたいにきらめいていたから、見入ってしまったのだ。

 お似合いって、こういうことを言うんだなぁ。わたしはサンドイッチを両手でつかみ、思い切り口に放り込んだ。ああ、今日もりせが眩しい。りせと柊さんって、本当に――

 ……あれ? 

 わたしはかじりかけのサンドイッチをお皿の上に置いた。りせのことばかり考えて忘れていたけれど、柊さんは、小咲さんの恋人なんだよね。小咲さんは、このことを知っているのだろうか。いや、知っているわけないか。知ったらきっと、あんな穏やかに笑えないだろう。

 ――もし、知ってしまったら?

 起こりうる未来を考えたら、急に心がひやっとした。

 りせのことばかり考えていた。わたしはりせの友だち、だから。りせの喜びや悲しみを多く知っているから、りせが幸せになればいいと願っていた。それに、きっとりせの恋を否定したら、りせはわたしの元から離れてしまう。そんな気がしたから。だけど、りせの幸せは小咲さんの不幸なんだ。

 ……これって、よく考えたら、いや、よく考えなくても「浮気」ってやつだよね。何で今まで深く考えなかったんだろう。柊さんは、浮気している。恋人の妹と。それって、すごくすごく悪いことじゃないか。

 今だって、小咲さんは体調を崩している。今朝だって笑っていたけれど、顔色は決していいとは言えなかった。それなのに柊さんとりせは、のうのうとデートを楽しんでいる。

 あ、れ?

 わたし、りせのこと、応援していいのかな。

 小咲さんの笑顔がよみがえった。優しくて、穏やかで、素敵な女の人。食べかけのサンドイッチには、もう手をつける気になれなかった。



 何をするわけでもなくカフェで時間を潰し、夏服やら生活雑貨やらを買っていたら、家に帰る頃には夕方になっていた。こんなに長時間ひとりで出かけたのは久しぶりだ。外の暑さに反比例するように、ショッピングモールはクーラーがききすぎていて肌寒かった。

 かわいい服を選んでいる時も、雑貨を見ている時も、わたしの頭の中は小咲さんでいっぱいだった。並んで歩くりせと柊さんの、楽しそうな表情がちらつく。幸せは、すべての不幸の上に成り立っている。そのワンフレーズが、カビみたいにこびりついて離れない。

 帰宅して、荷物を整理したわたしは、道すがら購入したプリンを片手に再び部屋を出た。一階に行き、チャイムを鳴らす。はぁい、という高い声とともに、すぐに玄関の扉が開いた。

「あれ、雫ちゃん。おかえりなさい」

 小咲さんが出てきてくれたことに、ほっとした。智恵理さんはどうも苦手だ。わたしは軽く頭を下げ、手に持っていたプリンを差し出した。

「あの、お土産ありがとうございました。これ、お見舞い」
「えっ、いいの? 気遣わなくていいのに、ごめんね」

 小咲さんは眉を下げながらも、わたしのプリンを受け取ってくれた。今朝に比べて、ずいぶん顔色がよくなっている。

「高校生に心配されるなんて情けないな。ありがとう」

 小咲さんの屈託のない笑みを見た途端、ぎゅうっと胸が締めつけられた。お礼を言われる資格なんてないのに。だって、わたしは秘密にしている。りせと柊さんのこと、ないしょにしている。りせの幸せを願っている。今こうしている間にも、りせと柊さんは――そう考えたら、小咲さんの顔がまともに見られない。 

 ――小咲さんが、このことを知ったら。

「あの……」

 言葉にしようとしたら、声が震えた。動揺を抑えるように、両手をぎゅっと握り締める。小咲さんのためにも、知らせた方がいいんじゃないの。間違っているのはりせの方なんだから、小咲さんのことを考えるべきじゃないの。そうだ、それが世間一般的には正しいんだ。だったら、言った方が……。

「どうしたの?」

 小咲さんがふしぎそうに顔をのぞき込んでくる。わたしは肩を震わせ、慌てて首を左右に振った。

「いえ、あの……いつもりせに仲よくしてもらってるんで、そのお礼も兼ねてるんです」
「やだ、お礼を言うのはこっちの方よ。雫ちゃんに会ってから、なんか楽しそうだもん、あの子」

 雫ちゃん、しっかりしてるね。小咲さんが感心したように言うので、わたしはもう引きつり笑いを浮かべるしかなかった。

「今日はりせと一緒じゃないのね。夕飯誘ったんだけど返事が来なくて。どこ行っちゃったんだろう、あの子」
「あ、えっと……たぶんバイト、だと思います」
「そう。ならしかたないか。あ、ちょっと待ってて」

 小咲さんは何かを思いついたように、パタパタと部屋の奥に消えていった。

 ひとり残されたわたしは、緊張の糸がぷつんと切れたのを感じて、長く息を吐いた。危なかった。勢いで言ってしまうところだった。言うべきだったのかもしれない。だけど、言わなくてよかったという気もする。結局、わたしは「他人」なんだ。わたしが何を言ったって、信じてもらえないかもしれない。小咲さんの心をむだに傷つけてしまうだけかもしれない。軽率な行動をとってしまうところだった。わたしは額に滲んだ汗を拭った。

 小咲さんを待つ間、わたしはかかとを伸ばしたり、地面につけたりを繰り返した。無意味に周囲を見渡してみる。白い天井。整列された靴。虹色の傘。

 ふと、玄関に飾られた数枚の写真が目に留まった。これは、若い頃の智恵理さんだろうか。今とあまり容姿が変わっていない。隣にいる男の人は、亡くなったという旦那さんかな。ふたりが腕を組んで幸せそうに写っている。別の写真には小さな女の子が写っていた。きっと小咲さんだろう。楽しそうにピアノを弾いている。

 そして一番奥の写真立てには、小咲さんと柊さんが写っていた。ベンチで寄り添い、仲睦まじく肩を寄せ合っている写真だ。とてもお似合いで、とても幸せそうで、とても、自然。

 わたしはなぜか、自分がものすごくいけないことをしているような感覚に襲われた。知らなくていいことを知ってしまったような、見てはいけないものを見てしまったような後悔が、波のように押し寄せてきた。

「ごめんね、お待たせ!」

 小咲さんが玄関へと戻ってきたので、わたしははっと顔を上げた。

「これ、あまっちゃったからよかったら食べて」
「えっ?」

 そう言って差し出されたのは、大きな紙袋だった。中をのぞくと、タッパーが三つくらい入っている。

「余計なお世話かもしれないけど、ひとり暮らしだと栄養偏っちゃうでしょ。体壊さないように……って、わたしが言えることじゃないけど……」
「い、いえ。ありがとうございます。いただきます!」
「おいしいか分からないけどね」

 小咲さんは自信なさげに頬を掻いた。

「わたし、あんまり料理得意じゃないから。柊くんの方が何倍もおいしくできるんだけど」
「そうなんですか……」

 わたしはバーベキューの時のことを思い出した。確かに、あの時の柊さんは手際がよかった。前に食べたハンバーグもおいしかったし。きっと何事も卒なくこなすタイプなんだろう。

 小咲さんが、ふっと微笑みを薄めた。何かを伝えたいような、そうでないような。愛しさのような、哀れみのような。わたしを見ているけれど、その瞳にはわたしなんて映っていないような、そんな顔だった。

「りせのこと、これからもよろしくね。あの子がつらい時は、そばにいてあげてね」

 わたしはなぜだかその言葉が、上辺だけのものではなく、遠くない未来を予期しているように思えた。いつか、確実にりせが辛くなる。そのことを知っているような笑みだった。

 わたしは黙ってうなずいた。うなずくことしかできなかった。紙袋を胸に抱き、逃げるようにその場をあとにした。



 筑前煮と、ほうれん草の胡麻和え、それにサラダ。それが、わたしの夕飯になった。料理は苦手だと言っていたけれど、筑前煮は味が染み込んでいてとてもおいしい。優しさがじんわりと広がって、心が落ち着く。本当は、りせに食べてもらいたかったんだろうな。体調が悪いのに、一生懸命りせのためを思って作ったんだろう。りせが、今誰といるかも知らずに。

 シャワーを浴びたら、夏の暑さと相まって体が火照った。昼間はあれほどうるさく鳴いていた蝉たちも、夜になるとかくれんぼをするように息を潜めている。ベランダに出ると、ぬるい夜風が全身を撫でていった。空には三日月と、薄灰色の雲。そして心もとない星の光。

 手の中のスマートフォンが陽気な音を立てた。見ると、奏真からメッセージが届いている。

『魚ってすき?』

 いきなり何を聞いてくるのだろう。付き合い始めてから、こういう内容が増えた気がする。世の中の恋人たちって、こういう中身のないやりとりをするのかな。わたしはちょっと面倒に思いながら返信をした。

『すきだよ。マグロのお刺身とか』
『食べる方じゃなくて、見る方な!』

 ……なんだ、そっちか。日本語って難しい。

『今度、水族館行こうぜ。魚の写真展もやってるらしいよ』

 魚のスタンプとともに、デートのお誘い。友だちとしてじゃない、恋人として出かけようと言っているのだ、奏真は。

 彼女なら思い切り喜んで、すぐに返事をしなければならないだろう。だけど、わたしの指はなかなか動いてくれない。今、どこかに出かけたいとか、そんなことを考える気分じゃない。数秒悩んだ末、わたしはスマートフォンをパジャマのポケットにしまった。

 ベランダの柵に寄りかかりながら、目をつぶって耳をすませた。葉の揺れる音。鈴虫の鳴き声。遠くを走る車の音。長くて短い夏の気配が、五感を揺さぶる。夏の音の合間に、微かに混ざって、歌が聞こえてきた。わたしはそっと目を開けた。

 やっぱり、帰ってきた。

「りせ!」

 庭を歩いている少女に向かって、大声で叫んだ。りせはぼんやりと顔を上げ、安心したように微笑んだ。わたしはいてもたってもいられなくなって、サンダルを履いて庭へと飛び出した。

「……どうしたの?」

 息を切らしているわたしを見て、りせはおかしそうに首を傾げた。月明かりの下で見る彼女は、やっぱりいつかと同じように美しかった。彼女には夜が似合うと、そう、思った。

「歌が、聞こえたから」

 荒い呼吸の隙間で、途切れ途切れに答えた。りせはくすっとおかしそうに笑った。そのあどけない笑顔に、ほっとした。なんだか、泣いているような気がしたから。

 そのまま、わたしは流れるようにりせの部屋に転がり込んだ。部屋に入るやいなや、りせはカバンをベッドに放り投げ、疲れを吐き出すように床に座り込んだ。

「ずいぶん遅かったんだね」

 わたしは向かい側に腰かけて、探るように言った。

「うん。出かけてたから」
「……柊さんと?」
「そう!」

 りせはえへへ、と照れたように顔をふやけさせた。

「今日はね、久しぶりにデートしたんだぁ。すっごく楽しかった」
「……小咲さん、体調崩してたのに?」

 言ってから、しまった、と思った。いやな言い方をしてしまった。おそるおそるりせの顔色をうかがう。キャンドルの光に照らされたりせの顔から、表情が消えた。さっきまでの笑顔は死んで、代わりに、顔の筋肉がぴんと強張っていた。だけど、それも一瞬のこと。

「……軽蔑した?」

 ちょっとさみしそうな、悲しそうな、傷ついた微笑みだった。わたしは慌てて両手を振った。

「ごめん、そういうつもりじゃないの」
「いいよ、分かってるから」

 りせは立ち上がると、着ていたシャツを唐突に脱ぎ始めた。白い肌と、ピンク色の下着が露わになる。わたしは慌てて顔を背けた。

 妙な沈黙が流れた。空気が肩にのしかかって重たい。クーラーがまだきいていないのか、汗がじんわりと額に滲む。わたしはためらいながら、もう一度りせの方を見た。さっきまで着ていた服は床に落ち、代わりにラフなシャツに着替えていた。その背中がとても小さくて、さみしそうで、何か言わなければ、という衝動に駆られた。

「わ、わたしはりせの味方だよ」
「ほんとにぃ?」

 りせは肩越しに振り返ると、疑うようににやりと笑った。シャツのボタンを留め終えて、脱力したようにベッドに倒れ込む。わたしは立ち上がって、そっとベッドに腰かけた。りせは大きな目を見開いたまま、じっと天井の星を見ていた。

「嘘じゃないの。嘘じゃないけど……」
「うん」

 りせは静かにうなずく。わたしは戸惑いながら、言葉を続けた。

「小咲さんに言われたの。『りせのこと、よろしくね』って。すごくりせのことを大事にしてる。いい人だなって、思うの……」
「……お姉ちゃん、すごく優しいの。優しくて面倒見がよくて、かわいくて……わたしの命の恩人なんだ」
「恩人?」
「うん。わたし、本当は生まれてくるはずじゃなかったの」
「……どういう意味?」
「わたしとお姉ちゃんね、半分しか血が繋がってないの。お姉ちゃんのお父さんは、お姉ちゃんが生まれてすぐ死んじゃったんだって。それが、このアパートの管理人。だからちーちゃんが代わりに管理人になったの。ちーちゃん、あんな感じだけどさ、頑張ってお姉ちゃんを育てたんだよ。そこはえらいと思うんだ。苦労もしただろうし」

 りせは笑うでもなく、泣くでもなく、淡々と事実を語っていった。

「で、旅行先で知り合った男とワンナイトして、ついうっかりできちゃったのがわたし。名前も知らないらしいよ、ありえないよね。だからもうやだ、おろすって駄々こねたらしいの。それをね、お姉ちゃんがとめたんだって。きょうだいがほしいから、産んでって。りせって名前も、お姉ちゃんがつけてくれたの。お姉ちゃんがいなかったら、わたしは生まれてきてないの」
「そうだったんだ……」

 わたしは初めて聞かされる事実に、ただ相槌をうつことしかできなかった。知らなかった、何も。わたしが知っていいことじゃないけれど、こういう時思い知らされる。わたしはりせのことを何も知らない。

「なのにわたし、最低だよね……」

 りせは自虐的にそう言うと、逃げるように両腕で瞳を隠した。ああ、りせは本当に小咲さんのことがすきなんだ。自分の命を救ってくれた、たったひとりの姉。それなのに――

「そんなにすき? 柊さんのこと」
「……すき、なんてもんじゃないの」

 細い喉から絞り出された声は、強い意志を持っていた。

「愛してるの。……他のどんなものを捨ててもいいって思えるくらい」
「傷ついても、いいの?」
「覚悟してるから。これまでも、これからも、ずっと」
「……りせは泣かないね」
「泣かないよ。泣いたらみじめになるでしょ」

 りせは勢いをつけて上半身を起こした。その瞳に涙は浮かんでいない。強がるようにわたしに笑いかける。いつもの、りせだ。

 その笑顔を見た瞬間、わたしは無性にりせを抱き締めたくなった。触れようと伸ばした手は、直前のところで臆病に負けて届かない。今触れてしまったら、りせの精一杯の強がりが壊れてしまうような気がした。

「あっ、また泣いてる!」

 りせが、ぎょっとしたように声を上げた。

「もぉー、何で泣くの」
「……りせの代わりに泣いてるの!」

 わたしはうつむいて、声を上げないように唇を噛んだ。

 りせのために何もできない、自分の無力さがやるせなかった。自分の幼さが悔しくて、奏真にも顔向けできない。りせのことも、小咲さんのこともすきだ。何が正解か分からない。全員が幸せになる方法なんてないのかもしれない。だけど、だからこそ、幸せになってほしいと思う。柊さんを責めるのは簡単だけれど、きっとりせはそれを望まない。望まないから、行き場のないこの悔しさが、涙となって溢れ出るんだ。

 りせは何も言わず、そっとわたしを抱き締めた。わたしができなかったことを、りせはいとも簡単にやってのけるのだ。りせの体はとても細くて、強い力で抱き返したら、ぽきんと折れてしまうくらい弱々しかった。

 早く、大人になりたいな。りせの悲しみも苦しみも、すべて受けとめられるくらいの存在になりたい。りせに頼られたい。りせの、力になりたい。

 壊れないようにそっと、りせの背中に腕をまわした。りせは安心させるように、わたしの背中を優しく叩き続けた。

 この時、わたしは知らなかった。名前のない関係の脆さも、小咲さんの言葉の意味も。そして、これから来る別れも。





 それは、とてもとても些細なこと。
 すきになった人に、恋人がいた。
 たった、それだけ。



「……あ」

 重ねていた唇の隙間からあなたの息が漏れた。ゆっくりと目蓋を開けてみたら、わたしを見つめていたはずの瞳は藍色の空を映していた。

「なぁに?」
「流れ星」
「えっ、どこ?」
「あの辺流れてた」

 わたしは慌てて柊くんの人差し指の先を辿った。けれどそこには静止した星が瞬くだけだ。わたしは、あーあ、と大げさに肩を落とした。

「もう一回流れないかなぁ」
「流れるといいな」

 柊くんはおもしろそうに口の端を上げる。ちょっと眠たそうに目をこするその仕草で、夜が深まっていくのを実感した。

 夏の夜、ベランダに吹く風は生ぬるい。こうしてふたりでぼんやりと夜空を眺めるのは何度目だろう。ゆるやかな時間の流れを確かに感じるのに、時計を見ると驚くほど時が過ぎている。だからいつも時計は見ない。タイムリミットを気にしたくないから。別れを切り出されるのがこわいから。わたしはねだるように柊くんの横顔をじっと見つめた。

「なーに?」
「……月がきれいですね」
「そーだね」

 使い古された愛の台詞も、柊くんはあっさり受け入れるだけで、応える素振りなんて見せやしない。そういうところがすきなのもまた事実だけれど、もどかしさに自然とほっぺたが膨らんでしまうのも、また事実。

「なに、拗ねてんの」
「別に」

 わたしは子供っぽく顔を背け、不機嫌を背負って部屋に戻った。シングルベッドにダイブして、枕に顔を埋める。あ、柊くんのにおいがする。

 煙草のにおいって落ち着く。きらいって言う人も多いけど、昔からちーちゃんが吸ってたせいかな、わたしは全然気にならない。大人って感じがするし、たぶん、吸っている仕草がすきなんだと思う。火をつける動作とか、口から白い煙を吐く流れとか、その一つ一つが大人っぽいと思う。自分で吸おうとは思わないけれど、なんか、あこがれる。

「なに寝転がってんだよ」
「眠たいの!」

 柊くんの足音とベランダの窓を閉める音が聞こえる。絶対に無視してやる。そう決意していたのに、ベッドに沈む体重を感じて、思わず顔を上げてしまった。瞬間、あやすように短く、唇が重なる。目をつぶる暇もない、ついばむみたいなキスだった。

「もう、おかえり」
「……キスだけ?」

 柊くんは困ったように微笑んだ。

「そうだよ。キスだけ」
「けち!」
「だって、終電間に合わなくなるじゃん。明日おれ仕事なの」
「……朝イチで帰るもん」

 わたしはごろりと仰向けになって、柊くんの首に腕をまわした。所有権を主張するように引き寄せると、柊くんはしかたないなぁ、と抱き締めてくれた。

「起きれるの?」
「起こして」
「起こせるかなぁ」

 試すような会話をして、部屋の電気を消す。

 静まり返ったここは、まるで深海の底のよう。誰にも見られない。誰にも邪魔されない。今だけは、わたしだけのものだ。見せつけるように、まわした腕に力を込める。

 この恋は、流れ星。一瞬でも逃したら消えてしまう。すぐに覚める夢のよう。分かっているから楽しくて、分かっているから苦しい。罪悪感を消すように、わたしはそっと目を閉じた。



 太陽よ、昇ってくれるな。そんなことを考えては、無情にやってくる朝に絶望する。その繰り返し。

 翌朝。わたしはむりやり柊くんに起こされて、荷物のように車に乗せられた。そんなに焦らなくてもいいのに、と寝ぼけたふりをして言ったら、ほっぺたを思いきりつねられた。

「学校も行ってない不良娘と、社会人を一緒にするな」

 ごもっともな意見である。

 駅までは車で三分ほど。短すぎるドライブは流れ星のように過ぎて、あっという間にお別れの時間が来る。

「じゃあな、気をつけて」

 車を降りたわたしに、柊くんはお決まりの台詞を告げる。うん、とうなずいて、わたしは手を振る。さみしそうに眉を下げてみるけれど、柊くんが留まってくれることはない。黒いステップワゴンが見えなくなるまで、わたしはその場を動かない。もしかしたら、何かの気まぐれで引き返してくれるかも。そんな百億分の一の可能性を夢見ているから。

 数十回目の絶望を味わったあと、電車に乗って自宅へと戻った。



 わたしの家は、「フラワーガーデン」という二階建てのアパートだ。色とりどりの花が咲く大きな庭。その真ん中に立っている大きな木は、春になるとピンク色の花弁を身にまとう。小さい頃は、よくお姉ちゃんと一緒に木登りをしたっけ。そのたびにちーちゃんに怒られて、ふたりで抱き合って泣いていた。あの頃はまだ、何のわだかまりもなく、お姉ちゃんの目を見ることができた。素直に甘えて、笑い合うことができた。新緑に衣替えした桜をじっと眺めて、わたしは眠たい目をこすった。あの頃は無垢な子供だったのになぁ、とばばくさい懐古をして、アパートの一階を睨む。

 わたしの家。そう胸を張って言えたのはもうはるか昔のこと。わたしの居場所はあそこにはない。生まれた時からなかったけど、それでもなんとか生きられたのは、お姉ちゃんが居場所を作ってくれていたから。わたしを産む気なんてさらさらなかったちーちゃんを説得して、「りせ」って名前を与えてくれたのは、他でもないお姉ちゃんだ。ちーちゃんの代わりに一緒に遊んでくれたり、勉強を教えてくれた。お姉ちゃんの方がよっぽど母親らしい。優しくて賢くてかわいい、自慢のお姉ちゃん。
 それなのに、その居場所を奪ったのはわたし。お姉ちゃんを裏切ったのはわたし。

 柊くんをすきになった瞬間からね、わたし、裏切り者なの。大切にされた。優しくされた。それなのに、その恩を返すより先にごみ箱に捨てちゃった。その罪悪感に耐えきれず、わたしは家を出ようと決意した。

 どこか遠くへ行きたかった。空気のおいしい山頂とか、海の見える田舎町とか。わたしのことを誰も知らない場所で、ひとりで生きていきたかった。でも、未成年のわたしはあまりにも無力で、経済力なんて持ち合わせていない。きっとドラマや漫画なら、ひとりで旅をしたりするんだろうな。親戚もいない。友だちもいない。そんなわたしがひとりで行ける範囲なんて、あまりにも限られていた。

 無力なわたしの精一杯の反抗が、同じ敷地内にある離れだった。元々、死んだ父親の両親が暮らしていたらしい。わたしの父親じゃなく、お姉ちゃんの父親。その人が死んでしばらくして、ちーちゃんは両親と大喧嘩をしたらしく、それからずっと空き家だった。わたしが距離を置くにはぴったりの物件だったというわけだ。

 離れで暮らし始めると同時に、わたしはバイトを始めた。せめて食費くらいは自分でまかないたい。少しでも家から独立したい。そしていつかは、この場所から離れられるように。焦る気持ちが先走って、学校を休んで働く日が増えた。その結果、勉強についていけなくなって、学校に行くのがますますいやになって、結局留年。二回目の一年生。ほんと、いやんなっちゃう。

 わたしは大あくびをしながら、アパートの二階を見上げた。

 真新しい空も、ぎらぎら照りつける太陽もきらい。ぜーんぶ、わたしと柊くんを切り裂くもの。すべてを覆い隠してくれる夜が、永遠に明けなければいいのに。

 ああ、眠たいな。もう寝ちゃいたいよ。でも、なんだかさみしいな。ひとりがすきなはずなのに、孤独を感じるのはきらいなの。柊くんと別れた直後はいつも、迷子の子供になった気分だ。

 そんな時は、歌を歌う。こんな早朝に、こんな小さな声で歌っても、きっと誰も気づきやしない。だけど、一パーセントの奇跡を信じて、わたしは歌う。

 一曲歌い終えても、人が出てくる気配はない。じんわりと体が汗ばんできた。しかたないから、おとなしく籠城しよう。そう思うのに足が動かない。ねぇ早く。早く気づいて。脅迫するようにベランダを睨む。

 勢いよく窓が開いて、大きな布団が現れた。日向ぼっこをするように半分に折れる。

 布団を干し終えた雫の目が、わたしを捉える。ああ、やっぱりあなたは気づいてくれるね。驚いた雫の顔を見て、わたしはにっこりと笑った。



 転がり込むように雫の部屋へ行って、朝ご飯をごちそうになった。七畳一間の狭い部屋で、おしゃべりをしながらご飯を食べる。最近ではもうすっかりおなじみの光景だ。
「ちゃんと栄養のあるもの食べなきゃだめだよ」

 お母さんみたいな台詞を言うのは、雨宮雫。瑞々しい名前の女の子。わたしの、唯一の友だち。

 出会ったのは四ヶ月ほど前。一目見た瞬間に仲よくなれると分かった。女の子同士なのに変かもしれないけれど、運命だって思ったの。根拠なんてない。女の勘ってやつだ。

 歌が聞こえたら会いにきて。冗談で言った約束を、雫は律儀に守ってくれる。悲しい時、さみしい時、つらい時。わたしは決まって口ずさむ。柊くんがすきなメロディーを。ふたりで歌ったあの曲を。そうすると雫がやってきて、さみしさを埋めてくれるから。ご飯を作ってくれたり、看病してくれたり、甘やかしてくれるから。

 そう、まさに。
 都合のいい、友だち。

「ずいぶん眠そうだね」

 大きなあくびをしたら、食器を洗い終えた雫が戻ってきた。

「寝たの遅かったからなぁ」
「何時に寝たの?」
「何時だろ……三時くらいかな」
「そんなに? 何してたの?」
「うーん……」

 わたしはあいまいに唸って、真っ白な天井を見上げた。昨日あった出来事を、一つ一つ順に思い出してみる。柊くんの部屋に遊びにいって、夕ご飯を一緒に食べて、星を見た。時計を見たら日付を超えそうで、帰りたくないとねだった。仕事あるのにむりさせちゃったかな。柊くんの疲れた笑顔を思い出したら、申し訳なさが募った。と同時に、口の端がにやける。はっとして雫を見たら、彼女はものすごく不審そうに顔をしかめていた。

「何にやにやしてるの?」
「な、何でもない、何でも……」

 わたしはぎこちなく笑って、逃げるようにベッドに転がった。横向きになって、床にちょこんと座っている雫を眺める。最近、雫は眼鏡をかけなくなった。服装も以前よりおしゃれになった気がする。

「そういえば、最近奏真には会ってる?」

 そう尋ねると、雫は気まずそうに目を逸らした。

「あ、会ってない……」
「デートしてみたらいいじゃん。誘われてるんでしょ?」
「うーん……あんまり気が進まないっていうか」
「何で? 前からふたりで出かけてたんじゃないの?」
「それはそうだけど……でも、デートって、ただ出かけるだけじゃなくてさ……」
「手を繋いだり、キスするかもしれないってこと?」

 返事がない。唇をきゅっと結んで、照れるようにうつむく。ああ、ウブだな。純粋だな。枕に頭を委ねたら、目蓋がどんどん重たくなった。雫の姿が、暗転しては現れ、現れては、また暗転。

「だって、奏真は小さい頃から知ってるし、いざそうなると、なんか恥ずかしいっていうか」
「そんなのすぐ慣れるって。っていうかさぁ……」

 ――だったら、どうして付き合ってるの。

 心で思ったことは言葉にならず、口の中でもごもご消えてしまった。あ、だめだ。声がどんどん溶けていく。

「りせ? 寝るの?」
「うーん……」
「寝るなら自分の部屋で寝なよ」

 あきれた雫の声に答える気力はもうなかった。睡魔に抗うことをやめ、わたしはそのまま我が物顔で眠りについた。



 とっても変な夢を見た。

 透明な水の中、わたしはひとり地上を見ている。まわりには何もない。色鮮やかな珊瑚礁も、自由に泳ぎ回る魚たちも、暗い深海のどこかに身を潜めている。どんなにもがいても浮かび上がれない。手足を動かせば動かすほど、重たい水が絡まって、体がどんどん沈んでいく。呼吸がどんどん苦しくなって、酸素不足で目が霞む。地上から降り注ぐわずかな光すら、

 ――見えなく、なる。



「……あ、やっと起きた」

 ぼんやりと目蓋を開けたら、本を読んでいる雫が目に入った。あれ、ここどこだっけ。何で雫がいるんだろ。思考を巡らせていたら、だんだん記憶がよみがえってきた。  

 ああ、そうか。わたし、雫の部屋で寝ちゃったんだ。どれくらい眠っていたんだろう。早く起きないと、遅刻しちゃう――

 そこまで考えて、わたしは勢いよく上半身を起こした。

「今、何時?」
「一時半。お昼だよって言ったのに、全然起きないんだもん」

 やばい。やばいやばいやばい。全身からすぅーっと血の気が引いていく。わたしは転がるようにベッドから下りた。

「どうしたの?」
「バイト行ってくる!」

 身支度を整える暇もなく、風のように玄関を出た。バイトは午後一時から。大遅刻確定だ。

 時間通りに来ないバスに苛立ち、乗ったら乗ったで何度も行く手を阻む赤信号に苛立ち、ようやくバイト先に着いたわたしを待っていたのは、店長のしかめっ面だった。

「おはよう、ございます……」
「早く、着替えてこい」

 店長は声を荒げることもなく、更衣室を顎で示すだけ。それが逆におそろしい。わたしは逃げるように駆け足で更衣室へ行き、制服に着替えた。

 カフェとファミレス。それがわたしのバイト先。今日の仕事場は、ファミリーレストラン「ハッピーベア」だ。知り合いに会わないように、片道三十分かかる場所を選んだ。街中にあるから、家族連れや学生でいつも混んでいる。時給は高くないけれど、人手不足だから、結構シフトを入れてくれる。わたしにとって最高の稼ぎ場だ。

 ランチのピークは過ぎたけれど、お客さんが減る気配はない。次から次へと鳴るベルに、目がまわりそうになる。

「こちらハンバーグ定食になります」 

 注文の品を届けると、それまでスマートフォンを見ていた男がぱっと顔を上げた。軽く会釈をして、わたしをじーっと見る。ん、いや、これ見すぎじゃないの。訝りながらも、とりあえずマニュアルに倣って営業スマイル。そのまま去ろうとしたら、あの、と引き留められてしまった。

「はい?」

 振り向いた途端、何かをむりやり渡された。手の中を開いてみたら、ぐちゃぐちゃに丸められた紙だった。一瞬ごみかと思ったけれど、中を開いてみたら連絡先が書いてあった。思わず眉間にしわが寄る。殴りつけてやろうかと思ったけど、ここはぐっと堪えてあげる。どうにか口の端を上げて、足早に厨房へと戻った。客に見えないように、連絡先をごみ箱に放り投げる。何なの、こっちは仕事中だっつーの! 

「今日もモテるねぇ、君は」

 後ろからからかうような声が聞こえた。振り向いた先にいたのは、女子大生の先輩だ。にやにやしながらこっちを見ている。

「やだ、やめてくださいよ」

 わたしはぎこちなく笑顔を作って、そそくさと更衣室に逃げ込んだ。微かな期待を胸に抱きながら、ポケットからスマートフォンを取り出す。

 新着メッセージ、0。

 膨らんでいた胸が、空気の抜けた風船のようにしぼんでいく。別に用事があるわけじゃないし、こっちから連絡したわけでもないんだけどさ。

 男の人って、あんまり連絡を取らないものなのかな。普通の恋人って、どのくらいの頻度で連絡を取っているんだろう。仕事の愚痴とか、今日あったおもしろかったこととか、そういうの、あんまり言わない方がいいのかな。そもそも、ちゃんと付き合っているわけでもないし……。

 ぐるぐると考えを巡らせても、答えなんて出るわけがない。違う、違うの。結局わたしは連絡をもらうことによって、「求められてる」って実感したいだけなのよ。わたしばっかりすき。そう思いたくないだけなの。分かっていることだけど、この想いが一方通行であると、思い知らされるような。そんな虚しさを感じるから。わたしはポケットにスマートフォンを戻し、さみしさを振り払うように仕事へ戻った。



 今日のシフトは二十時まで。せわしなく動き回ったあとの体は、重力が三倍になったみたい。のろのろとタイムカードを切ったら、待ちに待ったまかないの時間だ。制服を着替えて休憩室に行くと、ふたり分のご飯と店長が待っていた。

「オムライスとチャーハン、どっちがいい?」
「チャーハン!」

 勢いよく席に着くと、店長は苦虫を噛み潰したような表情で自分側にあったチャーハンをわたしに差し出した。いただきます、と同時に手を合わせ、スプーンを握る。

 古びたエアコンから、ごおお、と埃っぽい風が唸る。慌ただしい店内から隔離された休憩室は、別世界にいるみたいでなんとなく落ち着く。いつも通りのまかないも、疲れた胃袋にはまるで極上キャビアだ。

「蓮城さぁ、学校、ちゃんと行ってんの?」

 チャーハンを口に放り込んでいると、店長が突然尋ねてきた。

「行ってませんよ。夏休みだし」
「まぁそうだけど、そーゆーことじゃなくてさ」

 その続きにある言葉を予測して、わたしはじろりと睨んでやった。店長はぐう、と怯んで、ま、いいけど……と口を濁した。

 ハッピーベアの店長、本名永瀬博仁さん。推定年齢四十歳、独身、彼女あり。見た目は冴えないおじさんって感じ。髪もぼさぼさだし、無精髭生えてるし。全然かっこよくないけれど、なんとなく雰囲気が柊くんと似てる。あくまで、雰囲気だけ。

「でもなぁ、お前の高校、進学校だろ? せっかく受かったのに、もったいないよ」
「その話、もう百回くらい聞きました。いいんです。わたし、自立したいから。早くちゃんとひとり暮らししたいの」
「うん、分かった。分かってるよ……」

 語気を強めたわたしに気圧されたのか、店長は半ば投げやりにうなずいた。

 ろくに高校にも行っていないわたしを雇ってくれたのは、他でもないこの人だ。そこは感謝しているし、何かと面倒を見てくれるのもありがたい。でも、わたしはわたしで、どうしても譲れないものがある。若気の至りとか、考えが甘いと言われても曲げられない。浅はかな青春をやりきりたいのだ。

「お前、まだ母ちゃんとうまくいってないの」
「店長には関係ないでしょ」
「じゃああっちは? 男の方」
「ますます関係ないじゃん! それ、セクハラ!」
「いや、変な意味じゃなくて。お前、危なっかしいから心配になるんだよ。面接に来た時だって切羽詰まっててさ……おれ、落としたら自殺するんじゃないかって思ったよ」
「そんなに?」
「うん、もう、こんな顔」

 店長が目を見開いて、唇を真一文字に結ぶ。そのあまりにも深刻な面持ちにドン引きした。うわ、わたしこんな顔してたのか。

「そんなぶさいくじゃないもん。っていうか、バイトの面接に落ちたくらいで死なないもん」
「例えだよ、例え」

 オムライスを口に運びながら、店長が肩を落とした。

「こんなおっさんのお節介なんて、迷惑だと思うよ。おれだってお前くらいの年だった時は、うるせぇ、ほっとけ! って思ってたし。でもさ、お前が何を抱えてるか知らないけど、幸せになってほしいって思うんだよ」
「……どうして?」
「どうしてって、そりゃ、あたりまえだろ」

 さも当然のような顔をされて、わたしは言い返す言葉が思いつかなかった。あたりまえ、なのかな。ただのバイトのわたしにこんなに優しくしてくれるのって、世間では普通なのかな。わたしは店長に何も話していないのに。バイトを始めた理由も、抱えている悩みも、言っていないのに。苦しい時って、何も言わなくてもまわりの人に伝わってしまうものなのだろうか。

 わたしは今、幸せ。
 そう言い聞かせているのに、わたしは自分を騙せずにいる。

「……ただのおっさんのくせに」
「あっ、てめぇ、このやろ」

 ピコン、とゲームの効果音のような通知音が鳴った。店長はポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を見てちょっとだけ表情をゆるめた。

「……彼女からですか?」
「うん」

 最後の一口をそのままに、スプーンを置いてスマートフォンを操作する。わたしと話している時には見せない、優しい顔。特別な表情。

 急速に心が冷えていくのを感じた。残りのチャーハンを一気に口に詰め込んで、「ごちそうさまでした」と席を立つ。

「あれ、もう食べたの?」
「はい。おつかれさまでした」
「あ、うん。おつかれ」

 食べ終わった食器を片づけ、わたしは足早にその場を離れた。ご飯を食べたばかりなのに、なんだかおなかが膨らまない。食べる前より満たされない。心が、体が、からから、からっぽ。

 逃げるようにファミレスから出たら、急に瞳が潤み出した。おかしいな、何でだろうな。慌てて手の甲で目をこする。店長のことなんて全然すきじゃないのに。何でこんなに悲しいんだろう。

 この人もどうせ、他に大切な人がいる。どれだけわたしのことを気にかけてくれても、どれだけ大切にしてくれても、やっぱりわたしは一番じゃない。わたしは、いつもひとりぼっち。それを思い知らされた気がしたんだ、きっと。

 二番目でもいいなんて嘘です。さみしかったらさみしいと言いたい。会いにきてと言える資格がほしい。わたしはいつだって、最優先の権利がほしい。

 ポケットに入れたスマートフォンは死んだように黙り込んで、ほしい知らせを運んではくれなかった。



 若者の日常なんてそうそう変わるもんじゃない。学校に行って、授業を受けて、部活動をして、帰る。夏休みというイレギュラーを除けば、その繰り返し。

 一方、不登校児のわたしの日常はもっと単調だ。

「こちら、ハニーロイヤルミルクティーになります」

 翌日、午後三時。本日のわたしは、「リトル」という小さなカフェで接客中だ。昨日とメニューが違うだけで、仕事内容は変わらない。わたしの、二つ目のバイト。「ハッピーベア」と違って、都会の喧騒から外れた場所にあるため、それほど客数は多くない。時給もよくはないけれど、店の雰囲気とゆるさが気に入っていて、もう半年ほど続いている。労働時間も特に決まっていない。自分のすきな時に働いて、すきな時に帰る。それが定番。

「りせちゃん、もう上がっていいよ」

 この日はオーナーの一言で、十九時に店をあとにした。

「おつかれさまでしたー」

 あまったクッキーを手土産に帰路に着く。空を見上げると、太陽が西の空を赤色に染めていた。薄い雲が長く伸びて、空を泳ぐ魚のようだ。頬を撫でる生ぬるい風が、夏のにおいを連れてやってくる。夏草の青さと、元気をなくした蝉の声。もうおかえり、と急かすように、カラスが頭上を飛んでいく。スマートフォンの通知を気にしながら、河川敷をだらだらと歩いた。

 結局、昨日は柊くんから連絡が来ることはなかった。仕事が忙しかったのだろうか。教師って、夏休みは一体何をしているんだろう。部活とか、補習かな。連絡をする時間もないくらい忙しいのかな。何度目か分からない杞憂を繰り返す。通知なしの通知を見て肩を落とす、そんな自分がきらいだ。

 分かっている。忙しさは関係ない。いつも連絡が途絶えないのは、わたしが連絡しているからにすぎない。柊くんは返事をしているだけ。わたしが連絡をしなければ、柊くんも連絡してこない。柊くんにとってこのやりとりは、わたしほど特別な意味を持たないのだ。

「不安になるくらいなら、自分から連絡をすればいいのに」

 こんなことを雫に話したら、きっと彼女はそう言うだろう。変な意地を張らないで、素直に甘えてみれば? って。そんなの、わたしだってそうしたい。だけどわたしにはその権利がない。素直に甘える権利を持つのは恋人だけ。特別な存在だけ。その名を持たないわたしが、頻繁に連絡なんてできないの。

 そこまで考えて、わたしはぎゅうっと両目をつぶった。涙を目の奥に引っ込めて、ぱっと開く。やめよう、考えてもしかたない。そう思うのに、自然と歩行速度が落ちていく。バイトに行く時は急ぎ足なのに、家に帰るときはいつもそうだ。

 帰りたくないなぁ。

 誰に言うわけでもなく、心の中でつぶやいた。帰りたくない。帰る場所なんてない。お姉ちゃんの近くに、いたくない。幸せそうな顔なんて見たくないから。わたしが知らない柊くんを、知りたくないから。

 でも、それでも会ってしまうのは。
 姉妹だから、かな。

「りせ」

 背後から名前を呼ばれ、両足をとめた。胃がきゅうっと締めつけられる。夜に怯える子供のようにおそるおそる振り向いたら、もう逃げることはできなくなった。

「お姉ちゃん」

 わたしはいつも、その名を呼ぶたび呪いを吐き出すような感覚に陥る。すきな人に愛されない呪い。すきな人と、結ばれない呪い。それをかけた張本人。

 だいすきな、わたしの姉。

 小咲お姉ちゃんは、口の端に穏やかな笑みを携えてわたしに近づいてきた。

「偶然ね。バイト帰り?」
「うん……」

 わたしはぎこちなくうなずいて、お姉ちゃんを頭のてっぺんからつま先まで眺めた。一つにくくった髪の毛、控えめな化粧、上品なシャツに黒のタイトスカート。手に持っている買い物袋は、仕事も家事もできる女の証。バイトくらいで自立した気になっているわたしとは違う。

「荷物、半分持つよ」
「そう? ありがと」

 せめてもの背伸びをするように、お姉ちゃんの手から買い物袋を奪い取った。仲よし姉妹を装って、肩を並べて歩いていく。

 こんな風にふたりで歩くのは何年ぶりだろう。小さい頃、わたしはお姉ちゃんがだいすきだった。ちーちゃんがわたしに辛くあたるたび、守ってくれたのはお姉ちゃんだった。テストで満点を取った時、褒めてくれるのはちーちゃんじゃなくてお姉ちゃんだった。友だちと喧嘩をした時、楽しいことがあった時、お姉ちゃんはいつも話を聞いてくれた。優しくて、頭がよくて、かわいい。わたしの自慢のお姉ちゃん。

 わたしは今、あなたの目を見ることができない。

「今日もバイト?」
「うん」
「毎日大変ね。わたしより働いてるんじゃない?」
「そんなこと、ないよ」

 スムーズに答えているはずなのに、どうしてだろう。一言一言口にするたび、空気が冷えていくように感じる。コンクリートに伸びた二つの影はどこかいびつで、永遠に重なることはない。背後に迫る太陽が、じりじりと背中を焦がしていく。

 ああ、暑いな。呼吸が苦しいな。
 喉が、乾くな。

「……ねぇ、りせ」

 改めて名前を呼ばれると、わたしの肩は跳ね上がる。何か、重要なことを言われるような――隠しごとが、見つかったような。

 そんな、予感、が。

「やっぱり、うちには戻りづらい?」

 だけど、お姉ちゃんが口にしたのは、予想と全然違う言葉だった。わたしは思わずお姉ちゃんを見た。お姉ちゃんは困ったような、申し訳なさそうな笑みを浮かべていた。

「もうずいぶん経つよね、りせが離れで暮らすようになってから」
「そう、だね」
「最初はびっくりしたけど、むりもないかなって思ったよ。お母さん、わがままだし、りせにばっかり辛くあたるし……。りせのこと、きらいってわけじゃないのよ。大切には思ってるの。だからこそ、わたしができるだけフォローしなきゃって思ってたんだけど……うまくできなくてごめんね」
「そんな……お姉ちゃんのせいじゃないよ」

 わたしは慌てて首を振った。どうやら、わたしが家を出たのはちーちゃんとの確執が原因だと思っているらしい。

「わたし、ちーちゃんのことそこまで気にしてないもん。確かに仲よくはないけど……」
「そう? それならいいんだけど……」
「別に、特別な理由はないの。元々ひとりの方がすきだし、居心地がいいの。ちーちゃんと顔合わせると喧嘩しちゃうし……だから、今のままがいいの」

 言い訳を並べると早口になった。悟られてはいけない。本当の理由を、知られてはいけない。そしたらわたしは、きっとすべてを失ってしまう。お姉ちゃんはそう、とうなずいたきり、何も聞いてはこなかった。

「今日、しょうが焼き作ろうと思うの。よかったら手伝ってくれない?」
「え、でも……」
「いいじゃない、たまには。家族なんだから」

 家族。なんだか脅しのような単語だ。わたしと同じ色の瞳が、脅迫のようにわたしを見つめる。わたしはいつもこの瞳に怯えている。すべてを見透かしたような、大きな瞳。

「……うん、分かった」

 なるべく自然を装おうとしたら、頬の筋肉がつった。痛い。逃げ出すことに失敗して、心臓がきゅうっと締めつけられるのを感じた。ばか、何で了承したの。もうひとりの自分が怒っている。傷つくのも、傷つけるのも分かってるでしょ。

 その時、ポケットにしまっていたスマートフォンが震えた。取り出して見ると、柊くんからメッセージが届いていた。震える心を押し殺して、お姉ちゃんに気づかれないようメッセージを見る。

『夕焼けがきれいですね』

 短いメッセージとともに添えられていたのは、燃えるような夕焼けだった。わたしは振り向いて空を見た。

 写真と同じ、息を呑むほど深い、赤。薄く延びた雲。沈む太陽。頬を撫でる風すらも、夕焼けのにおいがしそう。

「りせ?」

 足をとめたわたしを、お姉ちゃんが呼ぶ。もう、わたしの耳には届いていない。

 そう、こうして世界は色づいていく。何気ない風景も、途端に価値のあるものに変わってしまう。あなたの言葉一つで世界が変わる。心が震える。喜びも悲しみも、幸福も不幸もあなた次第。

 その理由をわたしは知ってる。

 恋を、しているからだ。



 自分の家なのに、靴を脱ぐ時ちょっとためらってしまうのはなぜだろう。たぶん、答えは分かっている。玄関に飾られた写真が、わたしを責めているような気がするからだ。

「あれ、あんたたちふたりでいるの。めずらしい」

 リビングに入ると、ちーちゃんがソファに座ってテレビを見ていた。煙草の煙が目に染みる。わたしはむっと顔をしかめた。

「いい加減、煙草やめたら」
「やーよ。あんたこそ、いい加減学校行ったら」
「もう、やめてよ。親子なんだから」

 ギスギスした空気を破くように、お姉ちゃんがわたしたちを制した。ぷん、と子供のように顔を背けるちーちゃん。わたしは目を合わさず、お姉ちゃんと一緒にキッチンへ移動した。買い物袋から食材を取り出して、夕飯の準備を始める。

 こんな風にふたりで料理をするなんて、なんだか気恥ずかしい。わたしがキャベツを切って、お姉ちゃんが豚肉を焼く。姉妹の分担作業だ。ちーちゃんはめったに料理をしない。わたしたちが子供の頃は、いつもスーパーで買ったお惣菜か出前のピザだった。栄養が偏らないように、と、お姉ちゃんが家事を始めたのは高校生の時。わたしにとって家庭の味は、お姉ちゃんの手料理だ。

 できたてのしょうが焼きを、何年かぶりに家族三人で食べた。大抵の私物は離れに移したのに、ちゃんと今でもわたしの分のお皿があって、コップがあって、箸がある。どれだけ足掻いたって逃れられない。ここは、わたしの生まれた場所。

「あんた、料理なんてできたの?」

 しょうが焼きを口に含みながら、ちーちゃんが目を真ん丸くした。

「ちーちゃんよりはね」
「あっ、また生意気言って! ほんとむかつく」
「ふたりとも、落ち着いて食べなさい!」

 キャットファイトを繰り広げようとしたら、お姉ちゃんの怒鳴り声が飛んできた。こうなったら、わたしもちーちゃんもおとなしくなるしかない。昔から、この家の大黒柱はお姉ちゃんだ。

 結局、会話らしい会話もせず、あっという間にお皿がからっぽになった。働き疲れた胃袋はいっぱいに膨らんで、食欲が満たされたのを実感する。

「あんたにしては、おいしかったんじゃない」

 ちーちゃんはぶっきらぼうに吐き捨てると、さっさと自分の部屋にこもってしまった。相変わらず素直じゃない。幼稚な母親にあきれてしまう。

 わたしたちは、昔からこうなのだ。他の親子より仲が悪いけれど、他人から見るほど深刻じゃない。たぶん、わたしとちーちゃんは親子というより「ちょっと仲の悪いクラスメイト」みたいな距離感で、気は合わないけれどさして問題ではなく、ほんのちょっとのきっかけで仲よくなれる可能性を秘めている。そんな、関係なのだ。だから別に、愛してほしいとも思わないし、仲よくなりたいとも思わない。わたしにとってちーちゃんは、親でもなく友だちでもなく、だからといって他人でもない。おなかから産み落とされた以上、この縁が強いことを、わたしは知ってる。そして、ちーちゃんも。

 食事を終えたあとは、再びキッチンに戻って洗い物を手伝った。お姉ちゃんが洗って、わたしがタオルで拭く。こうしていると、昔に戻ったみたいだ。何もかも忘れられるような安心感に包まれて、自然に顔がほころんだ。お姉ちゃんの横顔をちらりと見る。ショートボブの髪がふんわりと揺れて、いいかおりがする。ああ、やっぱり、だいすき。

「お母さん、あれでも一応心配してるのよ。分かりづらいけど」
「うん、分かってる」
「ふたりにはもっと仲よくなってほしいな。いつまでも三人でいられるわけじゃないんだから……」

 お姉ちゃんの何気ない言葉に、心臓がどくん、と跳ねた。お皿を拭いていた手がとまる。

 あ、だめだ。わたしは直感的に考えることをやめた。深く考えちゃだめ。その言葉の意味を、理解しては、だめ。

「りせは、気になる子とかいないの?」
「えっ?」

 わたしは危うくお皿を落としそうになった。

「い、いるわけないじゃん! 学校もろくに行ってないのに……」
「バイト先の先輩とか、中学の同級生とかは?」
「もぉ、やめてよ。そんな簡単にすきにならないもん」

 必死に否定すると、お姉ちゃんはふふ、とおかしそうに笑った。

「りせはかわいいから、すぐにいい人見つかるよ。大切にしてもらえるだろうし……」

 不自然に途切れた言葉が、空中に溶ける。「どうしたの?」と尋ねたら、お姉ちゃんはううん、と首を振った。

「ちょっとうらやましいなぁって」
「何で?」
「だって、りせはまだ若いし、いろんな出会いがあるじゃない。柊くんとはもう付き合って長いから、ときめきなんか感じないもん」
「……そうなの?」

 無意識に、眉と眉の間が近くなった。お皿を拭く手は、もう完全にとまってしまった。お姉ちゃんは不満そうにうーんと唸った。

「優しいは優しいんだけどさ、それだけだよね。もう家族って感じで。女としては見られてない気がするもん。ま、それはそれでいいんだけどさ、たまにむかつくかな」
「へぇー……」

 わたしは平然を装って相槌をうった。微かな苛立ちがむくむくと育って、今手に持っているお皿を、思い切り床に叩きつけたくなった。

「この間もさ、せっかく柊くんの部屋に行ったのに、ただ寝てるだけなんだもん。昔はかまってくれたのに……」

 ――うるさいなぁ!

 心の中のわたしが、わたしの代わりに咆哮した。

 やめて、やめてよ。わたしの知らない柊くんなんて聞きたくないの。今すぐ耳を塞ぎたいのに、弱虫なわたしはそれすらできない。ねぇ、その話前も聞いたよね。悪口を言うくらいなら別れればいいのに。どうしてそれをしないの。どうして、わたしを飼い殺しにするの。
 心の中で吐いた暴言も、生まれた疑問も、どうしようもない虚しさも、音にならず消えていくだけ。誰にも伝わらない。苦しみも悔しさも、理解してもらえない。だからこうやって、唇をぐっと噛み締めて、作り笑いの準備をする。

 ちょうど洗い物を終えた頃、お姉ちゃんのスマートフォンが愉快な音を立てた。

「もしもし、柊くん? ……え?」

 電話の相手は柊くんのようだった。それにまた、いらいら。洗い物も終わったし、離れに戻ろうかな。リビングを出ようとしたら、お姉ちゃんがこっちを向いた。

「柊くんが、今からお土産持ってきてくれるって」
「えっ!」

 思いがけないサプライズに、喉の裏側から声が出た。

「な、何で? お土産? 何の?」
「なんか、生徒のお母さんにケーキもらったらしいよ。でも、柊くん甘いものあんまりすきじゃないから」

 知ってます。苦手なものは甘いもの、すきなものはオムライスです。

 ああ、どうしようどうしよう! もう当分会えないと思っていた! でも、いきなり会うとなると、それはそれで困る。だって、こんなに髪もぼさぼさだし、メイクもしてないし、服だって安いシャツとショートパンツだし。全然、かわいくないんだもん!

 お姉ちゃんによると、あと十分ほどで到着するということなので、わたしは洗面所にこもり、できる限り不自然にならないようメイクをした。

 ピンポーン。

 タイムリミットを告げるチャイムが鳴る。はぁい、とお姉ちゃんが玄関に向かう。これが自分の部屋だったら真っ先に飛び出すのだけれど、ここではそうもいかない。わたしは洗面所からこっそり様子をうかがった。

「悪いな、いきなり」

 玄関から柊くんの声が入ってくる。低くて優しくて、まぁるい声。いつまでも聞いていたい、心地よい音色。もっと近くで聞きたくて、おそるおそる玄関に出た。

「し、柊くん」

 お姉ちゃんの後ろから、おずおずと声をかける。柊くんはぱっとこちらを向いて、満面の笑みを浮かべた。

「久しぶり、りせ」
「……久しぶり、柊くん」

 口の端をくいっと上げて、いつもお決まりの台詞を言う。最後に会ったのは昨日。でも、公式には二週間前。

 あなたに出会ってからわたしは、嘘がうまくなったわ。



 柊くんにもらったケーキを体に取り込んでから、わたしは離れに戻った。

 キャンドルに光を灯すと、天井に人工の星が浮かび上がった。ちゃんと電気は通っているのだけれど、薄暗い方が落ち着くので、大抵こうしている。深海にたまったごみくずのように、床にはありとあらゆるものが散乱していた。さすがにそろそろ掃除をしなければ。近くに捨てられていたスカートを足で払いながら、わたしはげんなりと肩を落とした。 

 ほんの数ヵ月前までは、もっと片づいていたのにな。最近、柊くんはうちに来てくれない。まあ、元々頻繁に来ていたわけじゃないけれど。わたしが風邪をひいていた時、お見舞いに来てくれたのが最後。桜が満開だったから、あれは確か四月のこと。

 部屋は心を表すと思う。心が落ち着いている時はきれいで、悲しかったり苦しかったりすると、部屋の中も荒れていく。最近のわたしは台風が停滞しているように荒れ狂っていて、その証拠に、部屋の中はぐちゃぐちゃだ。もうこの状態に慣れてしまったけれど、座る場所くらいは確保しなければ。

 わたしはしゃがみ込んで、手の届く範囲にあるものから片づけ始めた。大抵は服だった。この一年で、がらりと服の好みが変わった。昔はレースとか、花柄とか、女の子らしいものがすきだったけれど、最近はロングスカートとか、大人っぽい服を好むようになった。おかげで服が溢れてしかたない。適当に畳んでは、衣装ケースの中に戻す。洋服が一段落したら、今度は本やCDだ。大抵は柊くんから薦められたもの。「コペルニクス」というアーティストも、知ったのはつい最近だ。柊くんに教えられるまで、名前すら知らなかった。今では知らない曲はないくらい、歌詞を見なくても歌えるくらい、心の奥に刻み込まれてる。

 CDの山を崩していったら、ぼろぼろのノートがひょっこりと顔を出した。わたしはタイムカプセルを掘り起こした気分になって、素早くノートを手に取った。色褪せたノートの表紙には、子供っぽいまん丸な字で、「家庭教師のぉと」と書かれている。そばにはぶさいくな猫のマーク。柊くんの落書きだ。わたしは懐かしさに目を細めた。

 わたしと柊くんが出会ったのは三年前。当時わたしは中学二年生、絶賛反抗期。長年積み重なったちーちゃんへのいらいらがとうとう爆発し、ご飯も食べない、勉強もしない、お姉ちゃんにすら牙を向けるとんでもない女の子だった。

 その時わたしはまだ、お姉ちゃんたちと同居していた。六畳ほどのわたしの部屋はとても狭かったけれど、広いリビングにちーちゃんといるよりは全然息苦しくなかった。お姫様みたいなベッドと、用途を守っていない勉強机、クローゼット。たくさんのぬいぐるみがぎゅうぎゅうと敷き詰められた、わたしのお城。ちーちゃんもお姉ちゃんも踏み込ませないその空間に、ある日、侵略者が現れた。

 その年の九月九日は金曜日だった。窓から見えた月がテカテカと白く輝いていたのを覚えている。凶暴なわたしの元にお姉ちゃんが家庭教師として送り込んだのは、当時大学生だった恋人、柊くんだった。スクランブル交差点のようにごちゃごちゃしたこの部屋で、柊くんはまるで避暑地に来ている金持ちみたいにリラックスしていた。初対面だというのに勝手にベッドに腰かけて、手元にあったぬいぐるみをミキサーのようにこねくりまわし、

「よぉ、りせ」

 と、まるで昔からの知り合いみたいに、わたしの名前を呼んだのだ。

 狂犬みたいに荒れていたわたしは、その失礼な声にものすごく警戒した。なによ、馴れ馴れしくしないでよって。どうせあんたもわたしの栗色の髪をめずらしそうに見て、むだに整った顔を褒めて、つまんない話をするんでしょ。分かってんのよ、そんなこと。わたしは世界を斜めに見るくせがついていた。でも柊くんは、もっと傾いた角度でわたしを見ていた。誰しもが賞賛するわたしの美貌を見て、柊くんが最初に放ったのは、「おい、ぶさいく」という痛烈な一言だった。

「何ふてくされてんだよ。根暗な美人より明るいブスのがモテるんだぞ」
「な、何それっ!」
 わたしはかちんときて、二つに縛った髪の毛をびゅんって鞭のようにしならせた。柊くんはくっくって喉で笑って、おいでおいで、と自分の隣に手招きをした。わたしは警戒しながらじりじりと柊くんに近づいて隣に座った。

 その時の会話は、一字一句覚えてる。

 家庭教師として雇われているにもかかわらず、柊くんは最初、まったく勉強を教えてくれなかった。代わりに柊くんが教えてくれたのは、星の話だった。

「星がどうやって生まれるか知ってる?」

 わたしは情けない声で、「そんなの分かんないよぉ」と首を振った。柊くんはちょっと待てよぉ、と言いながら、スマートフォンをわたしに見せてくれた。

「これ、オリオン大星雲。こういうとこで、奇跡みたいな化学反応が起こるの。おもしろいだろ」
「へぇーっ、詳しいね」
「そりゃ、先生だからな!」

 わたしのきらきらした眼差しを受けて、柊くんは得意げに笑った。その少年みたいな笑顔に、わたしはすっかり懐いてしまったのである。

 毎週金曜、十九時。わたしのゴールデンタイム。学校が終わってもなかなか帰宅しないわたしだけれど、金曜は風を切るように家に帰って、部屋を片づけて、ちょっと軽めのメイクをして柊くんを待った。

 教員免許を持っているだけあって、柊くんはとても教え方が上手だった。わたしが分からないところは丁寧に教えてくれて、テストでいい点数を取ったらまんべんなく褒めてくれた。相変わらずわたしをぶさいくって言うし、いじわるばっかりするけど、褒める時に頭を撫でてくれる、その手がすきで。最下位に近かったわたしの成績は風に乗った凧のように急上昇、十二月の期末テストでは、なんと学年五位になってしまった。

「すげーな、りせ。やるじゃん!」

 いつものゴールデンタイム。成績表を見せると、柊くんは大きく仰け反って、それからムツゴロウさんのようにわたしの髪をぐちゃぐちゃにした。もうっ、せっかくかわいくセットしたのに! いつもなら怒るところだけど、この日のわたしはもう、空にも飛べそうなくらいの気持ちだったから、えへへ、ってはにかむことしかできなかった。

「頑張ったご褒美あげないとなぁ。何がいい?」
「えっと、えっとね」
「ん?」
「……ほんとに、何でもいいの?」
「いいよ。何?」

 柊くんが、隣に座ってるわたしの顔をのぞき込んでくる。わたしはもう、どうにでもなれ! って思って、勢いよく願いを告げた。

「柊くんと、遊びたい!」
「え? 何して?」
「それは、それは、な、何でも!」
「そんなんでいいの?」

 わたしは何度もうなずいた。顔が真っ赤になって、柊くんをまっすぐ見れない。柊くんはうーんと唸ってから、「明日暇?」と聞いてきた。

「ひ、暇。朝から晩まで暇」
「じゃあ、おれんち来る?」
「へっ」
「前、星の写真見たいって言ってたろ。うちにいっぱいあるから、見せたげる」
「……行く!」

 わたしはとんでもなく飛び上がって、大げさだなぁと笑う柊くんをにこーって見つめた。この時すでに、わたしは柊くんのことをすきだったんだと思う。そりゃ、お姉ちゃんの恋人ってことは分かっていた。でも、なんというか、奪いたいとか付き合いたいなんてちっとも考えていなくて、一緒にいるのが楽しいから、もっともっと一緒にいたいな、って、本能のままに行動していたの。

 わたしはそれまで、人をすきになったことがなかった。告白はされたことがある。付き合ったことも、一応ある。でもわたしはやっぱりすきって感情が分からなくて、キスをしたいとも思わなかったし、させなかった。柊くんのことも、別にキスしたいとか、そういうやましい感情は一切なくて、子供が親戚のおにーちゃんに懐くような感じだったんだと思う。この時までは。

 忘れもしない、十二月三日、土曜日。その日はインクをこぼしたように濃淡がある空で、わたしはお気に入りの白いニットとセットアップのスカートを履いて、柊くんの家の最寄り駅でそわそわ待っていた。風で乱れる前髪を直していたら、寒そうに首を縮めた柊くんが現れた。緊張しているわたしを見て、「なんか、外で会うと変な感じだな」とぎこちなく笑った。あれ、もしかして柊くんもちょっと照れてる? そう思ったのは一瞬で、すぐいつもの余裕綽々の顔に戻った。

 ちょうどお昼時だったので、近くにあったレストランでランチをした。男の人とふたりでランチなんて初めてだから、デートみたいだなぁと思った。柊くんは、そんなこと思ってないんだろうけど。わたしの分までさらりとお金を出してくれるところとか、道路を歩く時車道側に立ってくれるところとか、細かいところに感動したの。あ、ちゃんと女の子扱いされてるって、嬉しくなったの。

 レストランを出たあとは、スーパーで買い物をしてから柊くんの部屋に行った。柊くんは五階建てのアパートの三階に住んでいた。どうぞ、と招かれるままに足を踏み入れた瞬間、あ、もしかしてこれって悪いことなんじゃないかな、って、初めて不安が襲ってきた。こういうの、お姉ちゃんに見られたら怒られるんじゃないかな。普段は優しいお姉ちゃんだけれど、怒るととってもこわい。わたしとちーちゃんが喧嘩すると、優しい目を鬼のようにつり上げて、ぐわっと雷様のように怒る。地震、雷、火事、お姉ちゃん。そんなレベル。

 だけど別に、付き合ってるわけじゃないし。家庭教師のお兄ちゃんと、場所を変えておしゃべりするだけ。別に悪いことじゃない。そう納得させて、わたしは柊くんの部屋にお邪魔した。

 柊くんの部屋は、すごくごちゃごちゃしていた。わたしの部屋がおもちゃ箱だとしたら、ここは宇宙空間だった。衣服の惑星、カバンの惑星、CDの惑星、本の惑星。それぞれ場所が決まっていて、でも、ぐちゃぐちゃ。壁にはいろんな星の写真が飾られていた。わたしは緊張も忘れて、その壮大な宇宙に見入った。出会った時に見せてくれた、オリオン大星雲。デネブ、アルタイル、ベガ。夏の大三角形。まるで魔法みたいな流星群の写真。目を奪われていたら、柊くんが後ろから「座れば?」と声をかけてきた。わたしはぎこちなくその場にしゃがみ込んだ。

「すごいね、写真。きれい」
「そーだろ。もっとあるよ。その前に、煙草吸っていい?」
「柊くん、煙草吸うの?」
「うん。実はヘビースモーカー」

 柊くんはベランダに出ると、煙草を一本取り出して、ぽっとライターで火をつけた。わたしはもぞもぞと四つん這いになりながらベランダのそばまで行って、ぼーっと煙草の火を見つめた。柊くんが、ん、とこっちを見て、大人っぽく目を細めた。

 風が、強く吹いた。

 オレンジ色の灯を見た瞬間、ああ、素敵だなと思った。同級生の男の子よりずっと大人で、いじわるなこの人を。心の底から、愛しさがこみ上げた。その長い腕に抱き締められたい。もっとこの人を知りたい。そう、思ってしまったのだ。

 突如生まれた感情をどうしたらいいか分からずに、わたしはじっと柊くんを見上げた。「待て」と命令された犬のように、柊くんが煙草を吸い終わるのを待った。柊くんはのんべんだらりと煙草を吸いながら、「流れ星ってさぁ」と口を開いた。

「肉眼では見えないけど、毎日二兆個くらい降り注いでるんだって」
「えっ、そんなに? どこ?」
「だから、見えないんだってば」

 柊くんはわたしのおでこを指で弾いた。ぐぃん、と頭がのけぞる。結構痛い。柊くんは煙草を灰皿に押しつけて、ベランダから部屋に戻ってきた。ぴしゃりとベランダの窓を閉めたら、風の音がシャットアウトされて、静けさが響いた。

 柊くんが脱力するようにベッドに腰かけたので、わたしもそそくさと隣に移動した。柊くんはぼんやりと壁にかかっている星の写真を眺めた。

「時々思うんだよ。流れ星が全部目に見えたら、すっげーきれいなんだろうなぁって。ま、そんなこと絶対むりなんだけどさ……」
「流れ星は、どこに行くの?」
「ん? 流れ星は、地球に落ちてるんだよ」
「えっ?」
「でも、地上に落ちる前に大気圏で燃やされちゃうの。たまに燃やされないものもあって、それが隕石」
「へぇーっ! 柊くん、物知り!」
「ま、先生だからな」
 いつものように誇らしげに、柊くんが胸を張る。それからちょっとばかにしたように、
「りせは何にも知らないんだなぁ」
「うん。だから、もっと教えて。わたしの知らないこと、もっと知りたい」
「星のことだけ?」

 試すように、聞かれた。わたしはびっくりして、魔法にかかったようにぴたりと動きをとめた。ふっと、柊くんの目が細くなる。

 最近、柊くんはわたしを見る時こういう目をする。なんというか、子供を見つめる時のような、愛しくてたまらないって瞳。その顔を見るたびに、鼓動が高鳴るのを感じる。

「……ううん」

 わたしは小さく首を振って、柊くんの顔をのぞき込んだ。

 近くで見た柊くんは、まつげがとっても長かった。まん丸な目は、小さな宇宙みたいにきらきらしていた。柊くんがおいで、って言うみたいに微笑んだので、わたしはどきどきしながら、柊くんの膝に手を置いた。

「柊くんの、ことが知りたい」
「ほんとに?」

 わたしは何度もうなずいた。柊くんはけらけら笑って、わたしの腰に両腕を回すと、まるでぬいぐるみを抱きかかえるみたいにぎゅっと抱き締めた。わたしはひゃあっと飛び上がって、でも逃れることなんかできなくて、親に甘えるみたいに抱き締め返した。そしたら世界があっという間に反転して、気づいたら、天井が正面にあった。影の入った柊くんの顔は、知らない男の人みたいだった。わたしはちょっぴりこわくなって、これから起こるすべてのことを想像して、どきどきした。でも、柊くんが安心させるように微笑んだから、わたしはそっと、両目を閉じることにしたのだ。やわらかい唇と唇が重なって、それから、わたしのちっぽけな意識は宇宙の果てまでぶっ飛んだ。これからどうなるのかとか、どうするのが正解だとか、そんなこと、どうでもよかった。

 この時わたしは、世界のすべてを知った気になったのです。
 


 いろんなことを思い出したら涙がじんわり染み出してきたので、わたしは慌ててシャワーを浴びた。髪を乾かす気力もなく、ばたんとベッドに倒れ込む。暗い部屋で、スマートフォンの明かりだけが、夜の電灯みたいに青白く光っている。

『ケーキありがと』

 メッセージを送ったら、すぐに返事が来た。

『喜んでくれてよかった。髪乾かして寝ろよ』

 わたしはがばっと起き上がって、きょろきょろと周囲を見渡した。じっと目を凝らしてみるけれど、当然のことながら人の気配はない。あーあ、何でもお見通しだなぁ、と息を吐いて、しぶしぶドライヤーを手に取った。

 ごおおおお。 

 乱暴な風が吹く。

 テーブルの上に開きっぱなしのノートが、過去からわたしを見ている。拙い方程式と、赤ペンで書かれた花丸。この頃は、考えることなんて何もなかった。罪悪感も抱かず、未来に悲観することもなく、今感じる幸せがすべてだと思えた。目の前にある幸福を、素直に楽しいと思えた。涙も一緒に乾かすみたいに、時折、ドライヤーを顔にあてる。ぶわぁっと熱い風が両目を襲って、目の奥がじぃんと痛くなった。八割ほど髪を乾かし終えたら、乱暴にドライヤーを放り投げて、もう一度、ベッドにダイブした。しぃん。しぃん。さみしさが鳴って、ああ、うるさい。耳を塞ぐように、枕に顔を押しつけた。

 まだほんの少ししか時は流れていないのに、どうしてこんなに悲しくなってしまったんだろう。きっともう、すぐそこに迫ってる。雪はもうすっかり溶けて、春の桜も散ってしまった。夏の太陽も、もうすぐ沈んでしまう。

 ふたりでいる時、柊くんはたくさんわたしを甘やかす。頭を撫でて、ぎゅうっと優しく抱き締めてくれる。言葉で伝えてくれることは少ないけれど、愛だけは確かに感じる。この間だってそう。口では面倒そうに言うけれど、顔を近づけたらにこって笑って、わたしを優しく受けとめてくれた。それでいい。それだけでいい。頭を撫でて顔を触って、猫じゃらしのように目の前で愛情をぶら下げるの。

 ――そうやって、わたしを犬猫みたいに扱って。

 目覚めた時には何もなくなる。分かっているの、そんなこと。

 枕がじんわりと濡れていった。悲しいな。切ないな。伝わらないな。今日もわたしは、泣きながら夢に潜り込むのだ。



 八月の中旬になると、気温も蝉の鳴き声もピークを迎えた。

 夏といえば入道雲。海にプールにかき氷。夏祭りに線香花火。ラブソングの歌詞みたいな単語を並べれば並べるほど、自分には無関係だと思い知らされる。

「いらっしゃいませー」

 今日も今日とて、わたしは「ハッピーベア」で仕事に精を出す。

 柊くんは顧問であるバスケ部の合宿で一週間いない。教師って、夏休みは暇なものだと思ってたけど、どうやらそうでもないらしい。補講をしたり、部活の顧問をしたり。柊くんがいないさみしさを紛らわせるように、わたしはバイトをぎゅうぎゅう詰めにしていた。

「……蓮城、最近太った?」

 客入りのピークがちょっと過ぎた時間帯。休憩室で一息ついていたら、店長がいきなりとんでもないことを言ってきた。

「えっ、うそ!」
「いや、元々細いんだけど。なんつーか、腹回りが」
「やだー! 何でそんなこと言うの! そういうこと言うからモテないんですよ」
「今更モテなくてもいいもん」

 店長はふんっと鼻を鳴らした。わたしは自分のおなかを摘まんで、うっと唸った。最近、柊くんに会えないストレスで甘いものを食べすぎたかもしれない。

「ストレスためてんだろ、まかないめちゃくちゃ食ってたもんな」
「そんなとこ気づかなくていいんですけど」
「心配してんだよ」
「わたしの体重なんて心配してくれなくていいの」
「いや、そっちじゃなくて」

 店長はうーん、と、ちょっと言いづらそうに口を開いた。あ、またおっさんくさいことを言おうとしてるな。わたしは身構えて、そっと店長から距離を取った。

「めちゃめちゃ働いてくれるのはありがたいんだけどさ、ちゃんと遊んでるか? 働くのなんて社会人になったらいやでもするんだからさ、夏休みくらい遊んどけよ。将来働き口がなかったら、ちゃんとおれが面倒見てやるから……」
「えぇ、わたし、一生ファミレス?」
「文句言うな。おれだって、今はしがない店長だけど、金が貯まったら……」

 そこで店長は、しゃべりすぎた、というように口をつぐんだ。

「何で黙るの? お金が貯まったらどうするの?」
「いや、別に、大したことじゃないけど……」
「何でそこまで言ってはぐらかすんですか。教えてくださいよ、ねぇねぇ」

 よれよれのエプロンを引っ張ったら、店長は観念したように「分かった、分かった」と語り始めた。

「おれの実家、和菓子屋でさ。でも、数年前の大地震で家が壊れてから休んでるんだよ。だから、金が貯まったらリフォームして、和菓子屋継ぎたいなって……」
「……へぇーっ、夢があるんですね」

 ちょっと意外だった。店長はいつもだらだらしていて、夢とか将来とか、そういうのには無縁な人だと思っていたから。

「和菓子屋って、かわいいなぁ。再開したら行ってみたい」
「おー、うまいぞうちは。ぜひ来てくれよ」

 店長は嬉しそうににやりと笑った。

「だから、行くあてなかったらちゃんと大人を頼れよ。そんな片意地張らなくてもいいんだ、子供は」
「またそんなこと言って! 何でそんなに、わたしのこと心配してくれるの?」
「そりゃするだろ」
「……でも、一番じゃないでしょ」

 わたしはちょっと声を低くした。エプロンを翻し、店長に背を向ける。レジでお客さんの呼ぶ声がする。ああ、もう行かなきゃ。

「一番じゃないなら、いらない」

 吐き捨てたら、店長の苦い視線が背中に突き刺さった。あーあ、やだやだ。最近涙腺がやけにゆるい。些細なことで悲劇を連想しては、ぽろっと涙が転がり落ちる。

 ――あなたに愛されてからわたしは、嘘がうまくなったわ。

 あれも嘘。これも嘘。今のも、嘘。

 一番じゃなきゃいやなんて、他の人には言うくせに。だったらなぜあの人に縋るのよ。会えない時間が長引くと、気分がどんどんセンチメンタルになっていく。憂鬱になっていく。愚痴を言いたくなってしまう。

 会えない時間が愛育てるのさ、って言うけど。それは名前のある関係だから言えることだ。会えなくなって、連絡も取らなくなったら、わたしみたいなちっぽけな存在は、忘れられちゃいそうな気がしてこわい。忘れられても、責められない。何で会ってくれないの、って。そう主張してもきっと、望んだ答えなんて得られないから。さみしさを訴える権利を、わたしは持たない。

 本日のバイトは十六時に終了。一直線に家まで帰ったわたしは、庭に着くと同時に雫に電話をした。

『もしもしぃ?』

 たった三コールで出てくれる。ちょっと疲れたような声だ。

「ねぇ、今部屋にいる?」

『え? うん』
「ベランダに出てきて」

 少し強引な口調で言った。ベランダの窓が開いて、スマートフォンを耳にあてた雫が出てくる。わたしはスマートフォンを耳から離して、大きく息を吸い込んだ。

「プール行こ!」
「え、今から?」
「今から!」

 むだに視力がいいおかげで、雫が驚いているのがよく分かる。そうよね、普通の女の子なら、前日からちゃんと計画を立てて、朝から遊びにいくものよね。でも、そんな常識関係ない。わたしたちには意味がない。

「……いーよ」
「え?」

 雫の声が聞き取れなくて、聞き返す。雫はちょっと恥ずかしそうにしたあと、夕方のぬるい風を思い切り吸い込んで、

「行く――っ!」

 その絶叫みたいな大声に、わたしは声を出して笑った。



 自転車で十分ほどのところにある区民プールは、ひとり五百円で何時間でも入れる、学生に優しいスポーツ施設だ。二十五メートルのレーンが八列。夕飯時の時間だからか、人はまばらだった。体力作りを目的とするお年寄りとか、大学生がちらほら。

 店長に言われた憎い言葉を思い浮かべながら、わたしはがむしゃらに泳いだ。クロール五十メートル、平泳ぎ百メートル、バタフライ五十メートル。ついでに背泳ぎで五十メートル泳いだところで、ようやく足を床につけた。ふぅっと息を吐きながらゴーグルを外したら、隣のレーンにいる雫が、ぽかんと口を開けてわたしを見ていた。

「……りせは、人魚姫みたいね」
「え?」
「歌もうまいし、泳ぎもうまいし。きれいだし……」
「――叶わない恋をしてるのが?」

 声に出してから、はっとした。雫の顔から表情が消えた。わたしはゆるく笑って、

「ごめん。じょーだん」
「ううん……」

 雫は微かに首を振って、ゆっくりと水中を歩き出した。わたしは息をとめて水中に潜り、雫のレーンに移動した。

 重力のない空間を、ゆっくりゆっくり歩いていく。冷たすぎない水の重さが心地いい。ふわふわ浮かぶような感覚が、非現実さを誘う。

 こうして水の中を歩いていたら、現実なんて至極どうでもいいことのように思える。肌に絡みつくぬるい水。高い天井。非現実的な今も、水着を脱げば現実に戻る。家に帰って泣きながら眠って、なかなか来ないメッセージを待ちながら、朝から晩までバイト、バイト、バイト。

 季節はどんどん変わっていく。きっと、わたしの知らないところで状況はどんどん進んでいる。なのにわたしは、明日も明後日も何の変哲もない日々が続く。わたしだけ、何も変われないまま。

「あーあ、楽しいことないかなぁ!」

 叫ぶだけじゃ何も変わらない。分かっているけど、叫ばずにはいられない。少し前を歩いていた雫が、「楽しいこと?」と振り返った。わたしは強く床を蹴って、雫の隣までひとっ跳びした。

「雫はないの? 楽しいこと」
「うーん、別に、ないかなぁ……」 
「奏真とどっか出かけたりしないの?」

 びくっと肩が飛び跳ねた。ああ、実に分かりやすい。

「……今度、水族館行く」
「そうなんだ。いいじゃん、わたし、水族館すき」

 雫はうぅん、と低く唸って、困ったように肩を水中に沈ませた。あ、またこの反応。

「どうしたの? 楽しみじゃないの?」
「……やっぱり、よく分かんないの」

 雫は消え入りそうな声で言った。濡れた頬が紅潮している。

「奏真のことはきらいじゃないし、一緒にいて楽しいんだけど……。友だちだった時の方が、気楽だったかなって」

「キスとか、まだしてないの?」
「で、できるわけないじゃん、そんなの!」
「何で? 付き合ってるんでしょ」
「それは……」

 雫はぐっと言葉に詰まった。わたしは追い詰めるように、わざと首を傾げてみる。雫の濡れた肩に手を置いたら、自然と、ふたりの足がとまった。

「……わたし、恋人ってよく分かんないよ。キスすらできない恋人って、付き合ってるって言うのかな。恋人の定義って、何なんだろう」
「そんなの……」

 ――そんなの、わたしが教えてほしいよ。

 喉から出そうになった言葉を、わたしは慌てて飲み込んだ。

 恋人じゃなくても、恋人らしいことはできる。手を繋いだりとか、キスしたり、とか。でもたぶん、それは永遠じゃない。恋人っていう肩書きがない限り、また同じことができるとは限らない。それを保証されているのが、付き合うっていうことだと思う。

 わたしは立ちどまっている雫を置いて、少し早足で歩き出した。水の重みで足がうまく進まない。りせ、と雫が呼びかけてくる。わたしは肩越しに振り返って、いたずらっぽく笑って見せる。そうすると、雫は慌てたようにわたしを追いかけてきた。わたしは追いつかれないように、わざと歩調を速くする。ゆるすぎるわたしの涙腺が、また、疼き出したから。

 雫がデートに乗り気じゃない理由を、わたしは知ってる。雫は本当の恋を知らない。奏真とどうして付き合い始めたのかは分からない。でも、雫の「すき」は友だちとしての「すき」で、男の人としての「すき」じゃない。だから、デートにもそんな乗り気じゃないんだ。

 わたしはぐっと唇を噛み締めた。いいな、ずるいな。堂々とデートできるなんて、うらやましいな。「恋人」って言葉、あこがれるな。わたしの方が、何倍も焦がれているのに! ほしくてほしくてたまらないものを、雫は持ってる。望んでもいないくせに簡単に手に入れて、それで「友だちの方がよかった」なんて! ずるいなぁ。贅沢だなぁ――うらやましいなぁ。

 こぼれた涙をごまかすため、わたしは水中に潜り込んだ。このまま、海の底まで沈み込めたらいいのに。



 プールを出る頃には、空は赤色に染まっていた。夏の夕焼けって、なんだか哀愁が漂っていてきらいだ。楽しい一日をリセットされてしまうような虚しさがある。肌に絡みつく風はプールと同じぬるさで、水分を含んだ髪や肌をするりと乾かしては去ってゆく。遠くで騒ぐ虫たちが、太陽を急かして、夜へと向かわせているようだ。

 雫のこぐ自転車の後部座席に乗って、坂道を勢いよく滑り落ちていく。きゃあきゃあ叫びながら校則違反をするのは青春の証。若さゆえの過ち、で片づけられるこの瞬間に、目一杯の悪さをする。それが、わたしたちの特権。

「夜ご飯、作ってあげる!」

 自転車をこぎながら、雫が叫んだ。

「いいの?」
「野菜炒めくらいしかできないけど!」
「食べたい! 食べる!」

 まるで喧嘩をしているような怒鳴り声。それがなんだかおかしくて、わたしたちは思い切り笑った。

 自転車でのドライブは十分ほどで終わった。自転車から降りた瞬間に、ポケットの中にあるスマートフォンが音を立てた。取り出して画面を見てみると、柊くんからメッセージが届いていた。

「どうしたの?」

 前を歩いていた雫が振り返った。わたしは咄嗟に、スマートフォンの画面を胸にあてた。

「……今から、来ないかって」

 消え入りそうな声で伝えたら、雫の顔から笑みが消えた。

「柊さんから?」

 わたしは少しためらったあと、無言でうなずいた。どうしよう。こういう時、どうするべきなのか、どうするのが正しいのか、ちゃんと分かっているのに。気持ちがついていかない。

 雫は短く息をついて、諦めたように微笑んだ。

「いいよ。行っておいで」
「……ごめんね」
「気にしないで。わたしとはいつでも会えるんだから」

 その声はちょっとさみしそうだった。わたしはもう一度ごめん、と頭を下げて、逃げるように離れに戻った。水着を置いて、お泊まりセットをカバンに詰め込む。髪の毛をくるくる巻いて、軽めにメイクをしてから、猛ダッシュで柊くんの部屋に向かった。

 友だちより男を取るなんてきらわれちゃうかな。雫の、さみしそうな笑みを思い出す。いやな女だな、わたしって。恋をするほどずるくなる。心も体も汚くなってく。でも、わたしたちには時間がないから。こうして一緒にいられるのも、きっともう永くないから。

 だからごめんね、許してね。今だけは、あなたを優先していたい。

 たとえあなたが、わたしを優先してくれなくても。



 今まで何度も辿ったはずの道なのに、いつもとっても遠くに感じる。なかなか速度を出せないこの両足がもどかしい。柊くんの部屋の前に到着する頃には、せっかく整えた髪もぼさぼさになっていた。震える指でインターホンを鳴らす。黒い扉がすぐに開いて、煙草をくわえた柊くんが現れた。

「来たー」
「おまたせ!」
「こらこら、抱きつくな」

 飛びつこうとしたら、柊くんが慌てて煙草を口から離し、手を高く上げた。わたしはおかまいなしにぎゅうっとその胸に飛び込んだ。

「暑い、暑いから」

 磁石のようにくっついたわたしをずるずる引きずりながら、柊くんはのろのろと部屋の中に戻った。

「腹減ってる? 何か食った?」
「ううん、食べてない。おなかすいてる、何か食べたい」
「いっぺんに言うな。とりあえず離れて」

 わたしははぁい、とふてくされた返事をして柊くんから離れた。大きすぎる座椅子に腰かけると、柊くんは煙草を灰皿に捨てて、キッチンへと消えていった。ごそごそと何かを取り出す音がする。一体何をしているんだろう、そわそわしながら待っていたら、柊くんがひょっこり顔を出した。

「じゃじゃーん」
「あっ!」

 柊くんが持っているものを見て、わたしは思わず立ち上がった。

「流しそうめん!」
「そーだよ、買っちゃった」

 それは、小さな流しそうめんセットだった。プラスチックの滑り台みたいな形をしている。柊くんは器用にそれをテーブルまで運ぶと、再びキッチンに戻った。わたしは子犬のように柊くんのあとに続いていった。鍋にたっぷり水を注いで火にかける。沸騰してからそうめんを入れて、ふにゃふにゃになるまでぐつぐつ茹でる。

「見てても何も楽しくないよ」

 じぃっと鍋を見つめるわたしを見て、柊くんがあきれぎみに笑う。違うの、別に楽しいからここにいるわけじゃないの。言葉で伝える代わりに、背中からぎゅっと抱きついてみる。

「ほらー、暑いから」

 柊くんはいやがる素振りを見せるけど、決して腕をほどこうとはしない。胸焼けするほど甘やかされる。それが、日常。

 茹だったそうめんをざるに移して、テーブルの上に運んだ。ふたり分のお皿と、箸、それに麦茶も。

「いただきまーす!」

 ふたりで同時に手を合わせたら、楽しい流しそうめんの始まりだ。

「いくぞー」

 おもちゃみたいな機械に、柊くんがするするとそうめんを流していく。必死でつかみ取ろうとするけれど、あれ、意外とうまくできない。何度チャレンジしても、するりするりと箸の間を滑っていく。え、何これ。何だこれ。

「もぉ、全然つかめない!」
「下手くそだなー、ほら、交代」

 今度はわたしがそうめんを流す番だ。するすると流れていくそうめんを、柊くんは器用に箸でキャッチした。

「はい、つかめたー」
「ええー、ずるい!」
「ずるくない、実力」

 柊くんは少年のようににこにこしながら、そうめんをおいしそうにすすっていく。ぎゅるぎゅるとおなかをすかせて見ていたら、柊くんが「じゃあ、もう一回交代な?」と言ってくれた。

「つかめないなら、下の方で待ち構えてみな。いくよ」
「うん!」

 わたしは大きくうなずいて、柊くんのアドバイス通り、箸を動かさずにそうめんを待ち構えた。流れ落ちてきたそうめんが、箸のところでぴたりととまる。

「やったー! つかめた!」
「よかったなー。いっぱいお食べ」

 わたしはようやくそうめんを口にすることができた。流しそうめんなんて、よく考えたら人生で初めてかもしれない。コシのある麺が喉元を過ぎて、おいしさが広がる。

「おいしい。柊くん、天才」
「茹でただけだけど」

 のんべんだらりと会話をしながらも、どんどん箸が進んでいく。三十分も経つ頃には、ざるの中身はすっからかんになっていた。

「おなかいっぱい……」

 ごちそうさまをしたわたしは、はち切れそうなおなかをさすって、ぐでーっとベッドに倒れ込んだ。柊くんも座椅子に腰かけてリラックスしている。

「おいしかったな。よかった」
「うん……あっ!」
「どうした?」
「ダイエットしてたの、忘れてた」
「もう遅い!」

 柊くんが鋭くつっこむ。せっかくプールで泳いだのになぁ、と先ほどの努力を憂いた。まぁ、でもいいや。おなかいっぱいの今は、何も考えられない。わたしはぼんやり柊くんの部屋を眺めた。壁一面に飾られた宇宙の写真。隅っこに置かれた天体望遠鏡。ぐちゃぐちゃに畳まれた服やカバン。もう何度も見た景色。あと何回見られるだろう。

 ふと気がつくと、柊くんがじっとわたしを見ていた。何か言いたげに、薄い唇が震えた。なぁに、と問いかけるように顔を上げたら、何でもないよ、と言うように、瞳がすうっと細くなった。

「あのさ、来週の水曜日あいてる?」
「うん」
「おれ、行きたいところあってさ。もしよかったらついてくる?」

 それって、もしかしてふたりきり? わたしは勢いよく飛び起きた。

「行きたい! どこ?」
「星がすっごくきれいな場所」
「えー、どこだろ! 楽しみ!」
「りせは星がすきだからなー。小咲は全然興味ないから」

 小咲。その一言で、わたしの表情が固まった。抱き着こうと伸ばした腕を引っ込めて、「……ふぅん」とつぶやく。

 だったら何で、付き合ってるの。

 喉まで出かけた言葉を飲み込んで、わたしは枕に顔を押しつけた。やめてよ、お姉ちゃんの名前なんて出さないで。本音を言ったらきっと気まずくなる。あなたに、きらわれてしまう。だからこうやって、枕で口を塞ぐの。

 柊くんが座椅子から身を起こして、わたしの方に近づいてきた。ぎし、とベッドのスプリングが軋む。

「なに拗ねてんの」
「拗ねてない」
「拗ねてるじゃん」
「……拗ねてます」

 降参して本音を言ったら、ぷっと柊くんが吹き出した。ちらりと見上げると、柊くんはくっくっと喉を鳴らして笑っていた。

「ばかだなぁ」
「ばかって言った! 柊くんきらい」
「嘘つき」
「嘘じゃない。きらい」
「はいはい。じゃあ、知らない」

 突然笑みを引っ込めて、柊くんがふんっと顔を背けた。そのままキッチンに行こうとするので、わたしは慌ててベッドから下りた。勢いよく背中に飛びつくと、柊くんは「ぐえっ」とカエルが潰れたような声を出した。

「何だよ」
「嘘、嘘です。きらいなんて嘘」

 早口で捲し立てたら、柊くんがくるりとこちらを向いた。口元をにやつかせた、いたずらっぽい笑みを浮かべている。

「ほんとは?」
「……すき」

 もう何度目か分からない告白をすると、柊くんは思い切り笑って、ご褒美のようなキスをした。

 ――あなたに愛されてからわたしは、ずるい女になったわ。

 照れる自分を演出するのが得意です。自分をかわいく見せる手段を知っているから。後ろからぎゅって抱きついたり、上目遣いで見つめたり、キスをする時背伸びをしたり。そういうの、全部計算済み。つまらないことに嫉妬したり、わざと「きらい」と言ってみたり。そうやって、柊くんの望む「りせ」を演じるの。かわいいって思ってもらえるように。都合がよくて、頭の悪い、清純な女の子を演じるのよ。

 優しくて、あたたかくて、いじわるな柊くん。わたしにとって最高の人。でもたぶん、他人から見たら最低の男。お姉ちゃんの、恋人。

 こうしてキスをして微笑んで、恋人みたいな顔をする、あなたを見ていつも思う。だいすきなの。大切なの。そばにいたいの。愛してるの。

 でも、それでも。

 罪悪感のかけらも見せずにわたしを抱く。あなたってちょっと歪んでる。



 悪いことは、人に隠れて行うもの。

 授業中にスマートフォンをいじったり、禁止されているバイトをしたり。制服のスカートを短くするのも、隠しごとだから楽しいんだ。

 夜の闇は、すきだ。わたしたちを隠してくれるから。誰にも邪魔されない。罪悪感なんて見えない。新鮮な朝より、汚れた夜がいい。ぐちゃぐちゃになった日中の想いや、いやな出来事も、全部包んでくれるから。

 ――りせは、泣かないね。

 雫から言われた言葉に、わたしはまた嘘をついた。泣かないなんて嘘。本当は些細なことで涙が出るの。一生分の幸せを知ったわたしは、一生分の涙を流してる。

 深夜、人も虫も寝静まった時間。隣で穏やかな寝息を立てる柊くんを、わたしは息を潜めて見つめていた。かち、かち、かち、と、規則的に進む時計が憎らしい。どうして時間ってとまらないの。何で太陽が昇るのを急かすの。そう思うだけで、瞳からつぅーっと涙が流れる。

 わたしは、柊くんがすき。それ以外どうだっていい。だから何も、考えないようにしよう。来るはずのない幸せな未来を夢見ながら、わたしはそっと目を閉じるのだ。
 


 朝よ、来ないで。ふたりの時間を奪わないで。何千回祈っても、いじわるな神様は今日も願いを叶えてくれない。その証拠に、起きたら朝をすっ飛ばしてお昼になっていた。

 寝過ぎたねぇ、なんて寝ぼけ眼で笑い合って、近くのレストランで昼食を取った。柊くんも一日休みだと言うので、そのまま部屋でだらだらと過ごした。別に何をするわけでもないけれど。お気に入りのDVDを見ながらくっついたり、楽しそうに星の話をする柊くんに、うんうんとうなずいたり。そんな些細なことが、幸せだと思うのだ。

 夜。夕飯を食べ終えたら、あっという間にお別れの時間になった。

「じゃあね、柊くん」

 大きな荷物を背負ったわたしは、玄関でにこりと微笑んだ。

「駅まで送らなくて平気?」
「大丈夫。柊くんお酒飲んでるし、お風呂も入っちゃったでしょ」
「気をつけろよ、顔はかわいいんだから」
「かわいいって言った!」
「うるせー。浮かれるな、ぶさいく」

 喜ぶわたしの頭をくしゃくしゃと撫でて、柊くんはおかしそうに目を細めた。

「また、水曜日な」
「うん!」

 わたしは大きくうなずいて、別れを惜しむようにじっと柊くんを見つめた。柊くんはすぐに察して、上からちゅっと唇を重ねた。拙い、ままごとみたいなキスだった。

「おやすみ柊くん」
「おやすみ、りせ」

 恋人にささやくような甘い声で、束の間の別れを告げ合った。後ろ髪を引かれながらも、くるりと踵を返して走り出す。カンカンカン、と鉄の階段を軽快に下りて、人の寝静まった街に飛び出した。さみしさを吐き出すように、大きく深呼吸をする。都会でも田舎でもないこの場所では、中途半端なネオンと車のライトが、ちかちかと夜を照らしている。本日の天気は曇り。空に浮かぶ光は何もない。ぬるい風が、洗い立ての肌を撫でる。

 わたしは振り返って、柊くんのアパートを眺めた。楽しい時間って流れ星みたいだ。大気圏で燃やされて、地上に着くまでに消えてしまう。なんて、脆い。ひとりぼっちで帰る時、必ず悲しさがつきまとう。だけど、今日は少し違った。水曜日、柊くんとまた会える。あと三回眠ったら、また会えるんだ。それだけでわたしは、生きていける。

 どんな服を着ようかな。どんなアクセサリーを着けようかな。少しお金が貯まったから、新しい服を買おうかな。そう考えただけで、小さな胸がスーパーボールみたいに弾む。わたしはにやけながら、再び前を向いて歩き出した。

 その、時だった。

「りせ」

 踊り出しそうなほど軽い足取りが、突然、鉛のように重くなった。横断歩道の信号が赤に変わり、わたしの逃げ道を奪った。

 ゆっくりと、振り向いた。

 そばを走る車のライトが、警告のようにちかちかと光った。車が横を過ぎ去るたび、彼女の姿が見え隠れした。眩しいほどの白い肌。ぞっとするくらい、穏やかな瞳。

「……お姉、ちゃん」

 声を出したら、唇が、震えた。お姉ちゃんは無邪気に微笑んで、ゆっくりとわたしに近づいてきた。

「こんな遅くに、こんなところで何してるの?」

 じんわりと汗が滲むのは、きっと暑いからじゃない。心臓が蛇のようにうねって、叫び声を上げている。

 嘘を、つかなきゃ。
 わたしの得意な、嘘を。

「バイト、してたの」

 わたしは口の端をくいっと上げて、ぎこちなく笑って見せた。

「五時間くらい働いたから、もうへとへと。今から帰るとこなんだ」
「そんなに働いてたの? 大変ね、おつかれ」
「ありがと。……お姉ちゃんは?」
「柊くんの家、ここの近くなの。ちょっと用事があって」
「へぇ、そうなんだ……」

 話を続ければ続けるほど、喉の奥がぐっと塞がれていくような気がした。真綿で首を絞められているような、やわらかな閉塞感、が。どんどん、呼吸を奪っていく。

 わたしの緊張とは裏腹に、お姉ちゃんはいつもとまったく変わらない。肩まで伸ばした髪が、さらさらと夜風に揺れている。瞳だって、口元だって、確かに笑みを浮かべているのに。すごくこわいのはなぜだろう。

「そうだ、柊くんのとこ、一緒に行く?」
「え?」
「だって、柊くんのことすきでしょ」

 びくっと肩が跳ねた。お姉ちゃんがふしぎそうに首を傾げる。わたしはしまった、と思った。

 だめだ。動揺を、悟られるな。わたしが柊くんのことをすきなのは周知の事実でしょ。子供が親戚のお兄ちゃんに懐くような、そういう「すき」でしょ。だから全然不自然じゃない。分かっていることを言われただけ。わたしは慌てて首を振った。

「ふたりの邪魔しちゃ悪いよ。それに、もう疲れちゃったから。早く帰って寝たいの」
「そう? でも、夜道は危ないよ」
「平気。慣れてるから」

 わたしはちらっと後ろにある信号を見た。お願い、早く青になって。早く、早く。わたしをここから助け出して。

 祈りが通じたように、ぱっと信号の色が変わった。わたしはほっと息をついて、重たい足を浮かせた。

「じゃあ……」
「楽しかった? 今日」

 逃げ出そうとしたわたしを、心ごとつかむ声だった。

「……え?」
「楽しかった?」

 わたしは、どう答えたらいいのか分からなかった。楽しかった、って、何が? バイトのこと? それとも――別のこと? この時わたしは、張り巡らされた罠にかからないよう、必死で思考を巡らせていた。だけどもう、むだだったんだ。

 もうとっくに、捉えられていた、のだ。

 お姉ちゃんは微笑んでいた。だけど、瞳はちっとも笑っていなかった。いつもよりずっと暗くて、それがすごくこわかった。

「ちゃんと分かってるよ。でも、どうせなら、もっとうまくやりなよ。せっかく気づかないふりしてあげてるんだから……」
「……何の、こと」
「りせ、昔からそうだもん。わたしね、これでもかわいいって言われてたんだよ。でも、りせを見ると、みんなりせに夢中になるの。わたしは大したことない子になっちゃう。勉強も、容姿も、全部普通になっちゃう」

 お姉ちゃんは少女みたいに背中の後ろで手を組んで、風に流されるように数歩、歩いた。

「別にいいの。りせはわたしの自慢だから。だけどね、だからこそ、思ったの。りせの一番すきなもの、これだけは譲れないって」

 優しさを含んだ目が、鋭く光った。わたしは、怯えることしかできなかった。

「柊くん、りせの家庭教師をやってた頃ね、よくりせの話してたの。あいつかわいいな、飲み込みも早いし、素直ないい子だなって。ちょっと嫉妬しちゃうくらい、楽しそうにりせのこと話すのよ。ふたりでいる時なんか、わたしよりずっと、本当の恋人同士みたいだった。うらやましかった。わたしよりお似合いだった。今だって、りせの方が愛されてると思う。敵わないなって思ったの」
「お姉ちゃん……」
「でもね」

 突然、声が大きくなった。

「肩書きって、強いの」

 ぴたりと両足をとめて、まっすぐにわたしを見る。もう笑顔は浮かんでいない。刃のような眼差しが、わたしを突き刺す。

「どれだけ愛されていても、どれだけ大切にされていても、肩書きがある限りわたしは一番なの。安定した位置にいるの。わたしが今までどれだけあなたに搾取されてたか、考えたことある? わたし、後悔してるの。お母さんに、りせを産んでって言ったこと。そしたら全部、わたしが一番だったのにって」

 お姉ちゃんはどんどん早口になる。まるで呪いを吐き出すかのよう。わたしはもうこわくて、とてもとてもこわくて、全身を子猫のように震わせることしかできなかった。

「ねぇ、全部あげる。美貌も、賢さも、全部あげる。だけどその代わり、一つだけわたしにちょうだい。わたしに、一番愛する人をちょうだい。絶対に渡さないから。……覚えておいてね」

 わたしは逃げるように走り出した。点滅する青信号に滑り込んで、全速力で横断歩道を駆け抜けた。走って、走って、走って、走った。振り返ることはしなかった。短距離走のように夜の街を駆け抜けて、地下鉄の階段を勢いよく下りて、ちょうど来た電車に飛び乗って、ようやく、足をとめた。

 ぜえぜえと獣のような呼吸をして、倒れるように座席に腰かけた。全身の震えがとまらない。汗が滝のように流れ落ちて、体中を冷やしていく。

 ばれて、しまった。ううん、違う。ばれていたんだ、最初から。お姉ちゃんは全部知っていた。わたしと柊くんの関係を。知っていて、今まで普通に接していたんだ。

 どうしよう。これからどうなるんだろう。お姉ちゃん、わたしに会ったことを柊くんに言うんだろうか。そうしたら、柊くんはどうするんだろう。もう、会ってくれないかもしれない。ああ、でも、どうなるにせよ。もう、今までとは違うんだ。

 電車が揺れるたび、ぎりぎりまでためた涙が、ぽろっと頬にこぼれていく。唇をぐっと食い縛って、漏れそうになる嗚咽を押し殺した。

 震える息の隙間に、こっそりと、歌を歌った。わたしと柊くんのすきな歌。今まで何度も口ずさんだ、あのメロディー。

「何で、来てくれないのぉ……」

 ――歌が聞こえたら、会いにきてね。

 そう、約束したのに。今までずっと、すぐに気づいてくれたのに。こんな閉鎖的な電車の中じゃ、誰にも歌は届かない。雫。雫。わたしの、たったひとりの、友だち。

 傷だらけのメロディーと透明な涙は、誰にも気づかれることなく、ゆらゆらと電車に揺られ続けた。



 どこか遠くに行きたい。そう思うのに、呪いがかかったわたしは自分のお城から出られないまま。できることと言えば、お姉ちゃんを避けることだけだった。

 あのあと、お姉ちゃんと柊くんがどういう会話をしたのかは分からない。だけど、部屋に戻ったわたしに、柊くんは「無事に帰れた?」という、いつも通りのメッセージをくれた。ぼろぼろ泣きながら、「帰れたよ」と精一杯の強がりを送ったら、「よかった、ゆっくりおやすみ」って言ってくれた。お姉ちゃんは、何も言わなかったんだ。それが逆に、責められているような気がしておそろしかった。

 約束の水曜日は、あっという間にやってきた。三時間かけて服を決めた。ピアスも決めた。前夜には顔パックもした。ただ最悪だったことは、目がうさぎのように腫れていることだった。二重の幅がいつもより広い。全然、かわいくない。

 そんなことを言ってもしかたないので、できる限りのメイクをして、お姉ちゃんに会わないように気をつけながら、待ち合わせ場所に向かった。人気の多い、駅前のロータリー。ここがいつもの待ち合わせ場所。人混みが、わたしたちを隠してくれるから。

 そわそわしながら待っていたら、見覚えのある車が目の前に停まった。わたしはむりやり笑顔を張りつけて、助手席に乗り込んだ。

「おはよ、柊くん!」
「おはよ、お待たせ」

 三日ぶりに見た柊くんは、いつもと同じように甘ったるく笑った。勢いよくアクセルを踏み込めば、ふたりきりのドライブが始まる。BGMはもちろん、「コペルニクス」の曲だ。

「あれっ、これ、新曲?」
「そう。昨日買った」
「いいなー、貸して!」
「いいよ。帰る時持ってきな」
「やったー!」

 こうしてふたりで遠くにいくのは久しぶりだ。ドライブにぴったりなポップスをBGMに、高速道路をびゅんびゅん走っていく。わたしたちを祝福するように、空は雲一つない快晴で、自然と気分も高揚する。

「今日はどこ行くの?」
「ふふん。内緒」
「えーっ、まだ?」
「行ってからのお楽しみ」

 柊くんはいたずらをしかける少年のように、含みのある笑い方をした。わたしはわざとほっぺたを膨らませて、機嫌を損ねたふりをする。だけどそんな演技はすぐにばれて、ふたりで笑い合ってしまうのだ。お気に入りの音楽を口ずさみながら、まっすぐな道をどこまでも走る。どこまでも、どこまでも、走っていく。

 ――考えないようにしよう。

 流れていく景色を眺めながら、わたしは心の中で言い聞かせた。お姉ちゃんのことも、未来のことも。考えないようにすればいいんだ。柊くんがすき。その気持ち自体は、悪いことじゃないんだから。そのことだけを、考えていよう。

 ドライブは、いつもよりものすごく長かった。東京を出たと思ったら、いつの間にか山梨も過ぎていて、高速道路の標識に示された地名は、まさか、まさかの。

「えっ、長野?」
「そーだよ」

 柊くんはあっさりと肯定する。いやいや、聞いてない。さすがにこんな遠出するなんて聞いてないよ。いや、嬉しいけど。これって、デートってレベルじゃない。旅行じゃん! そう意識したら、なんだか急に鼓動が速くなってきた。車のミラーをちらっと見て、前髪を軽く手で整える。朝、あれだけセットしてきたのにもう乱れてる。ピアスはこれでよかったかな。このワンピース、子供っぽくなかったかな。そわそわと体を揺らしているうちに、ふたりを乗せた車は一般道に下りていた。

「腹減ったなぁ、何か食べるか」
「は、はい!」

 緊張して声が上ずった。「何でいきなり敬語?」柊くんがふしぎそうに笑う。

 松本城の近くにあるパーキングに車を停めたわたしたちは、洋食屋さんに行ってハンバーグを食べた。おいしいはずなのに、緊張が胃に溢れていまいち味がよく分からない。柊くんは「うまいなぁ」とおいしそうにハンバーグを食べ、白米を二回もおかわりしていた。

「時間に余裕あるから、松本城寄る?」
「う、うん!」

 松本城は「烏城」という別名の通り、真っ黒な外観が印象的なお城だった。水堀にかかった朱色の橋がとてもきれいだ。柊くんは「かっこいいなぁ」と言いながらパシャパシャと写真を撮っていた。わたしはというと、水面に映る松本城と、ゆらゆら泳ぐ鯉を眺めながら、夢の中にいるような浮遊感と幸福感に浸っていた。

 ああ、なんて、幸せなの。

 おそるおそる柊くんの腕に抱きついてみる。柊くんは振り払わない。子供っぽいなぁ、と笑って、わたしの頭をくしゃりと撫でる。そうだ、ここでなら、他人の目なんて気にしなくていい。思う存分甘えていいんだ。道行く人たちは、わたしたちのことを恋人だと思っているのかな。そうだといいな。

 神様、ねぇ、今日だけは、柊くんの恋人でいさせて。この恋が叶うなら、わたし、死んだってかまわないから。



 松本城をあとにしたわたしたちは、スーパーで飲み物とおつまみを買ってから宿へと向かった。

「ここが本日のお宿でございます」

 車から降りた柊くんが、芝居がかった口調で言った。わたしは助手席から降りて、ぽけーっと目の前に建っている立派な旅館を見上げた。

 本日の宿、ってことは、やっぱりお泊り? お泊りですよね。普段柊くんと出かけるところといえば、家の近くのスーパーとか、あと、ほんのたまーに映画館に行くくらいだ。それなのにいきなり長野県で、しかも、こんな温泉宿に泊まるだなんて。試しにほっぺたをつねってみる。痛い。確かに痛い。

「何してんの。行くよ」

 柊くんは荷物をトランクから出すと、わたしを置いてすたすたと旅館に入っていく。わたしは慌てて柊くんを追いかけた。

 チェックインを済ませて部屋に入ると、畳の上に小さなちゃぶ台と座椅子が二つあった。ちゃぶ台の上には和菓子と緑茶が用意されている。こんな、絵に描いたような「旅館」に泊まるのって初めてだ。旅行なんて修学旅行くらいしかしたことがない。部屋の隅を見たら、ふたり分の浴衣が畳んであった。
「夕食まで時間あるから、それまで休憩な。そのあと、また出かけるから」

 柊くんは荷物を畳の上に置くと、どかりと座椅子に腰かけた。わたしはきょろきょろとせわしなく部屋を眺め、窓の外を眺め、無意味に箪笥を開いたり閉じたりした。
「何してんの、さっきから」

「今日はここに泊まるの?」
「そーだよ、さっき言っただろ。もしかして、明日予定でもあった?」
「ううん、ない」

 わたしは慌てて首を振った。実は「ハッピーベア」のシフトが入っていたけれど、店長にむりを言って変更してもらったのだ。「まぁ、お前はシフト入れすぎなくらいだからいいけど」と、店長はいやな顔をすることなく了承してくれた。

「泊まりって、言ってなかったっけ? 着替え持ってきた?」
「……持ってきた」
「下心あるな」
「いや、だって、もしものために」
「もしもって何だよ。すけべ」

 柊くんがにやにやといじわるく笑う。わたしは恥ずかしくなって唇を噛み、「そ、そーいえば」と話題を逸らした。

「どうして今日はここに来たの?」
「もちろん、星を見るためだよ」

 柊くんはおいでおいで、と小さく手招きをした。わたしは柊くんの元に駆け寄ってしゃがみ込んだ。スマートフォンを操作し、地図をわたしに見せてくる。長野県阿智村。ここがわたしたちの現在地らしい。

「ここ、阿智村。小さい頃一回来たことあるんだけど、あんま覚えてなくてさ。日本一の星空って有名なの。夜はヘブンズそのはらってとこに行くよ」 
「へぇーっ、今まで見た星よりすごいの?」
「すっごいよ。今日は満月だし、雲もない。こないだのより、もっときれい」
「わぁ! 楽しみ。すっごく楽しみ!」

 星空は何度も見たことがあるけれど、それを超える美しさなんて想像もつかない。そして何より、そんな最高の星空をわたしと一緒に見ようとしてくれていることが嬉しい。柊くんはわたしをじぃっと見つめると、髪をくしゃくしゃと撫でてきた。

「なぁに?」
「ありがとな、いつも付き合ってくれて」
「ううん、連れてきてくれて嬉しいよ!」

 満面の笑みを浮かべたら、柊くんも嬉しそうに微笑んだ。そのまま目を閉じようとしたら、邪魔するみたいに柊くんのスマートフォンから音楽が流れた。

「ごめん、ちょっとだけ待ってて」

 柊くんは立ち上がると、会話が聞こえないように早足で部屋の外まで出ていった。ただの電話なら、この場で出ればいいのに。それをしないのは、きっと相手が悪いから。ちらりと見えた、スマートフォンに表示された名前。……お姉ちゃんの、名前だ。

 たった今溢れたはずの高揚感は、しゃぼん玉のようにパチンと弾けて消えてしまった。恨むように部屋の扉を睨む。どんな会話をしているんだろう。どんな言い訳を並べているの。聞きたい、でも、聞きたくない。わたしは両手で耳を塞いだ。

 こうして、何も知らないふりをしていよう。ふたりの思い出とか、愛、とか。知らないなら、ないのと一緒。何も感じていないふりをして、柊くんが戻ってきたらにっこりと微笑もう。わたしさえ我慢していれば、きっと幸せでいられる。わたしが何も望まなければ、きっと仲よしでいられるから。さみしがり屋のこの口は、嘘で、塞いでしまおう。

 五分も経たないうちに電話は終わって、柊くんがひょっこり戻ってきた。わたしは練習していた笑顔を張りつけて柊くんを見上げた。そうしたら、柊くんは何でもないようにそっと笑って、ぽんぽんと頭を軽く叩いた。

 両腕を、差し伸べた。

 柊くんは何のためらいもなく、さもあたりまえのように受け入れて、わたしの背中に腕をまわす。何かを守るみたいに、ぎゅうっと強く抱き締める。

 柊くんの体温を感じるたび、目蓋の裏にいろんな人の顔が浮かぶ。お姉ちゃんが、ちーちゃんが、わたしを責めてる。雫はいつも何も言わない。何かを言いたげに見つめるだけで、絶対にわたしを責めない。

 だけどね、わたし、分かってるの。応援してくれてないって。本当は、わたしたちをとめたいんだって。ちゃんと、分かってるの。

「いけないことでしょ。こんなこと、しちゃ、いけないでしょ」

 どうして? 

「だって、柊さんには恋人がいるんだもん。りせは、遊ばれてるだけなんだよ。付き合ってないってことは、結局、遊びでしかないんだよ」

 そっと目を開けたら、誰もいないはずの空間に、雫がぼんやりと浮かび上がった。やるせない、悲しげな表情でわたしを見ている。わたしはじっと彼女を見つめる。

 こんなわたしたちを見ても、それが言えるの?
 こんなに甘やかされているのに、愛がないなんて言えるの?

 見せつけたい。全部ばらしたい。わたし、こんなに愛されてるのよって。愛して、愛されて、境目がなくなるまでどろどろに溶けて、作りものみたいな幸せとか、筋書き通りの未来とか、全部めちゃくちゃに壊したいのよ。シャツにすりつけたチークとか、おそろいの香水とか、そんな、蝶の羽ばたきみたいに些細なことで、明日は簡単に変わるから。

 ――でも、それができないのはきっと、惚れた弱みってやつなのでしょう。

 雫の幻は諦めたように、すぅっと空気に溶けて見えなくなった。



 夕食は、大広間での囲炉裏会席だった。目の前の囲炉裏で、旅館の人が野菜や信州牛を焼き上げてくれるのだ。お酒がだいすきな柊くんは、「酒が飲めないのがつらい」と嘆いていた。これから、わたしたちは車に乗って星を見にいくのだ。

 免許を取りたいな、と、ふと思った。そうしたら、柊くんを助手席に乗せて、どこにでも連れていけるのに。終電の時間を気にせず、柊くんと一緒にいられるのに。この旅行が終わったら、バイトをもっと増やそう。そして、教習所に通えるお金を稼ごう。

 夕食を食べ終わった、午後八時。夏の日の入りは遅いといえど、この時間になるとさすがに空は真っ暗だ。わたしたちは車に乗り込んで、ヘブンズそのはらまでの山道を駆け抜けた。「コペルニクス」の「星を見にいこうよ」という曲を流して、ふたりでカラオケにいる時のような大声で歌うと、テンションはどんどん高まっていった。

 車を二十分ほど走らせたところで、ようやく、ヘブンズそのはらに到着した。

「わぁ、すごい!」

 夜空を見上げると、そこには無数の星がダイアモンドのように輝いていた。やっぱり、街中で見るものとは比べものにならない。

「まだ、これが本番じゃないからな」

 柊くんはぽんぽんとわたしの頭を軽く叩き、足を進めた。わたしも慌ててあとについていく。

 お盆ということもあり、駐車場には車が溢れていて、チケット売り場にも長蛇の列ができていた。ヘブンズそのはらは阿智村の中にあるスキー場だ。スキー場としての運営が休止している春から秋にかけては、「天空の楽園ナイトツアー」が開催されているらしい。ゴンドラに乗車して、余分な光が届かない標高一四〇〇メートルの高原に移動し、満天の星空を楽しむことができる。

 なんとかチケットを購入したわたしたちは、スタッフの誘導に従ってゴンドラに乗車した。ゴンドラは約十五分、真っ暗な上、人が多くてなかなか外を見ることができない。混んでるなぁ、と柊くんが辟易したようにつぶやいた。わたしはうなずくのに精一杯で、少なくなっていく酸素を取り入れようと、口をぱくぱくさせていた。

 やっとの思いで山頂に着くと、夏場なのに空気がひんやりとしていた。ドリンクやチュロスを販売している売店が二店舗あり、その近くにはヘブンズそのはらの星見マップがあった。「おすすめスポット」「カメラ、三脚ならここ」「カップルでゆっくりするならここ」などが書かれている。

「ど、どこにする?」

 ちょっと試すように聞いてみた。柊くんは「うーん」と唸って、

「今日、三脚持ってきてないんだよなぁ。人の少ないところに行こうぜ」
「……はぁーい」
「何でそんな不満そうなの」
「別に」

 わたしはツンとそっぽを向いて、柊くんの前を歩いた。別に、いいんだけど。カップルって言ってほしかったわけじゃないけど。

 わたしたちは比較的人の少ないところにレジャーシートを広げた。空は視界に収まりきらないほど広い。じっと星を見続けていたら、自分の瞳に焼きつかないかな。そうしたら、いつまでもいつまでも、この景色を覚えていられるのにな。

 ぼんやりと星を眺めていたら、ガイドの人から注意事項などの案内があり、そのあと唐突にカウントダウンが始まった。

「えっ、何?」

 わけも分からず柊くんを見る。柊くんはいつものようににやっと笑って、まわりに合わせて数を唱えている。

「三、二、一……消灯!」

 ふっ、と、一斉に照明が消され、あたりが真っ暗になった。

 夜空の星がひときわ輝きを放った。光を邪魔するものが何もないからだ。その、見たこともない美しさに、息をするのを忘れた。

 一億の星が、降ってくる。

「すごいな。感動するなぁ」

 隣にいる柊くんの声も興奮ぎみだ。

 ガイドさんは手に持っていたライトで星を示しながら解説を始めた。まさに、天然のプラネタリウムだ。

 わたしたちは肩を寄せ合って、ぼんやりと星空を眺め続けた。ガイドさんの説明は、BGMのようにゆったりと耳を通過するだけで、あまり脳まで浸透してこなかった。

 わたしはなぜだか、じんわりと瞳が潤ってくるのを感じた。ああ、これは、一生の思い出になるな。何年経ってもきっと思い出す。この、天国みたいな星空と、少年みたいな柊くんの横顔を。わたしはそっと、柊くんの手に手を重ねた。柊くんは指を絡めて、わたしの手をぎゅっと包んだ。

 あたりが暗くてよかったと思った。涙が頬を伝って、膝の上にぽたりと落ちた。こんな些細なことで幸せを感じるなんて。それで安心するなんて。ばかみたい、こんなの。

「そーだ、りせ。これあげる」
「えっ、なに?」

 突然、柊くんがカバンから小さな袋を取り出した。わたしはふしぎに思いながらそれを受け取った。

「開けてみて」

 急かされるまま、こわごわと袋を開けてみた。中には長細いケースが入っていた。期待で膨らむ胸を押さえながら、ゆっくりとケースを開ける。

「わぁっ……」

 そこには、三日月型のネックレスが入っていた。

「誕生日、おめでと」
「……覚えててくれたの?」
「そりゃ覚えてるよ。お前、アクセサリーすきだろ」

 さもあたりまえのように、柊くんが言うけど、全然あたりまえなんかじゃない。だって、誕生日プレゼントをもらったのは初めてだもん。去年もその前も、ほしかったけれどねだれなかった。誕生日すら伝えることができなかった。

「ねぇ、つけてつけて!」

 涙を振り払うように、無邪気にねだった。柊くんはいいよ、って笑うと、丁寧にネックレスをつけてくれた。まるで、神聖な愛の儀式みたいだった。

「よかった、似合ってる」

 胸元にきらめいたネックレスを見て、柊くんが満足そうにうなずいた。わたしはぎゅっとネックレスを握った。

「……ありがとう、一生大切にする」
「しなくていいよ、安物だよ」
「やだ、ずっと大事にするの」
「はいはい、ありがとな」

 柊くんの大きな手が、わたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。少し哀愁を含んで、その手が離れた。

「りせ」

 改まったように、名前を呼ぶ。

「今、幸せ?」
「幸せだよ」

 わたしは大きくうなずいた。これが幸せじゃないのなら、きっと世の中に幸せなんてない。そう思えるくらい、満たされている。

「わたし、柊くんと出会わなかったら何にも知らなかったもん。空がこんなに広いってことも、星がこんなにきれいだってことも。だからわたし、幸せ。柊くんが幸せなら、もう何もいらないって、そう、思うんだ……」

 わたしは星空を見上げて、歌うように嘘をついた。幸せなのは本当、だけど、あなたが幸せなら幸せだというのは真っ赤な嘘です。わたしは、もっと幸せになりたいです。わたしはあなたの幸せになりたい。わたしの「すき」は、「全部ほしい」の「すき」です。あなたが思うほど、健気な女じゃないんです。

「そうか」

 柊くんは小さくつぶやいて、そっとわたしを引き寄せた。呼吸を奪うみたいに、ぎゅうっと強く抱き締めた。

「……どうしたの?」 

 柊くんから抱き締めてくるなんて、めずらしい。いつもわたしから抱きついて、しかたなく受け入れてくれる。それが普通なのに。

 いつもなら喜ぶはずなのに、なぜか、背中に腕をまわすのをためらった。わたしは白い両腕をだらりとぶら下げたまま、弱々しい柊くんに戸惑っていた。柊くんの息が耳にかかる。何かを、わたしに、伝えようとしている。

 それは、今に始まったことじゃなかった。振り返ってみればずっとそうだった。こないだ会った時も、その前も、ずっと、伝えようとしていた。だけどわたしは知るのがこわくて、無邪気を装って気づかないふりをしていた。

 ずっと、覚悟していた。
 その瞬間が、きっと、今。

「りせ。おれな」

 やめて。聞きたくない。聞きたくないよ。そう願うのに、耳を塞ぐことはできない。体が石のように固まって動かない。何にも、抵抗、できない。柊くんのことがすきだから。柊くんの弱々しい声に、耳をすまさなくてはいけない。

 震える息の隙間に、聞こえてきた、言葉は。

「おれ、小咲と結婚するよ」



 薄暗い空間は、深海のようにひっそりとしていた。水槽の中にはさまざまな種類の魚が、自由を見せつけるように悠々と泳いでいる。突然、ぬっと白いものが視界に入ってきた。と、思ったら、それは巨大なエイだった。驚いているわたしを嘲るように、すいすいと目の前を横切っていく。

「でっかいなぁ」

 隣にいる奏真が、感心したようにつぶやいた。わたしはそうだね、とあいまいにうなずくだけで、目を合わせることはしなかった。

 夏休み最終日。訪れた水族館は、ささやくような人の声に満ちていた。手を繋いで歩く恋人、仲睦まじい家族連れ、仲よしグループ。わたしたちはどこにも属さない。恋人だけど、恋人じゃない。だから、手も繋がない。空から落ちる雨粒のように、ぽつりぽつりと会話をするだけ。

「すげーな、この写真」

 訪れた水族館では、海の生き物の写真展が開催されていた。壁にかけられたさまざまな生き物の写真は、今にも動き出しそうだ。大きなウミガメ、ジンベエザメ、かわいらしいイルカやペンギン。名前も知らない小さな魚まで、生き生きと写っている。

「すごいな、迫力あるなぁ」
「ほんとだ、どうやって撮ったんだろ……」

 わたしはぼんやりとイルカの写真を眺めた。水色に染まった海中で、悠々と泳ぐイルカ。すごく、のびのびしている。

「こういうの見ると、撮りたくなってくるんだよなぁ。ちくしょ、カメラ持ってくればよかった」
「今日は何も撮るものないでしょ」
「そんなことないよ」
「なに?」
「雫」

 突然、真剣な声色で名前を呼ばれた。わたしは怯えを隠すように、「え?」と引きつった笑いを浮かべた。

「雫の写真が撮りたい」
「な、なに言ってんの」
「だって、彼女だし」

 手持ち無沙汰なふたりの手が、触れるか触れないかくらいの距離で揺れている。わたしは無意識に重心を片足に移して、奏真から距離を取った。

「……もっと奏真が上達したらね」
「ちぇっ、厳しいなー」

 奏真が不満そうに口を尖らせる。作り笑いでごまかして、わたしは逃げるように歩き出した。

 奏真と付き合い始めて、約一ヶ月。相変わらず手も繋がない。キスもできない。それに、少しずつ広がっていく、この違和感。

 奏真って、こんな感じだったっけ? こんな、積極的なタイプだったっけ? わたしの知っている奏真って、もっと子供で、キスとか、歯の浮くような台詞を言うような子じゃなかったのに。奏真を知れば知るほど、どんどん距離が開いていくような気がする。

 水族館から出ると、ぎらぎらと激しい太陽が鋭い光を浴びせてきた。ああ、眩しいな。忘れていた暑さがじんわりと肌を汗ばませる。喉が乾いて、呼吸がしづらい。

「……ねぇ、奏真」

 わたしは動かしていた足をぴたりととめ、振り向いた。奏真はいつもと変わらない顔で首を傾げた。小さい時から知っている、わたしの幼なじみ。わたしの、こいびと。

「奏真は、何であんなこと言ったの?」
「あんなこと?」
「……『恋人になる?』って」

 奏真の表情が固まった。いつもの楽しげな笑みが消え、大きな瞳はまばたき一つしない。わたしたちだけ、時間がとまったみたい。恋人たちが、隣を流れるように歩いていく。わたしと奏真は、立ちどまったまま。

 奏真はちょっと悲しそうな、諦めたような顔をした。それから何でもないって言うように、いつもみたいな能天気な笑顔を張りつけた。

「雫と一緒にいたら、楽しいだろうなって」
「……楽しい?」
「付き合っちゃえば、気兼ねなく一緒にいられるし。それに、写真も教えてもらえるだろうしさ。いいことづくし」
「な、なにそれ。下心ある!」

 奏真はへへっと照れたように頭を掻いた。

「正直言うとさ、おれも『すき』とか『付き合う』って、よく分かってないんだよね。雫もそうじゃない?」
「それは……」

 見事に言いあてられて、言葉に詰まった。言い訳なんてできない。奏真はやっぱりな、と、少し残念そうに笑った。

「いいよ、難しく考えなくて。おれはただ、雫と一緒にいるのが楽しいんだ。だから一緒にいる。今はそれでいいよ」
「……ほんとに?」
「うん。雫がいやなら別だけど……」
「そんなことない。そんなことは、ないの……」

 わたしは何か言おうとしたけれど、言葉が見つからずにまた黙った。奏真のことはいやじゃ、ない。ただ、どんどん変わっていく日常に、関係に、順応できないだけ。奏真はわたしの背中を軽く叩いて歩き出した。

「すずしいとこ行こうぜ。外にいたら、熱中症になりそう」
「うん……」

 わたしは重たい足を動かして、奏真の隣を歩いた。太陽にあたためられたコンクリートは熱を孕んで、足元からわたしをじりじりと焦がしていく。まるで責められているみたい。

 奏真が今言ったことは、本心なのかな。本当にこのままでいいって思ってるのかな。奏真の優しさに甘えっぱなしの自分がいやになる。

 すきって、何だろう。付き合うって、何なんだろう。未熟なわたしは、今日も答えが出ないままだ。



 夏休みはあっという間に過ぎていった。修理に出していたカメラが戻ってきても、わたしはまだシャッターを押せずにいる。どこにも行けない。踏み出せない。いつまで経っても、わたしは子供のまま。

 りせは、何をしているんだろう。以前もらった金平糖を口に含むたび、彼女のことが気になった。最近全然会っていない。連絡も取っていないし、部屋をノックしても出てこない。

 新学期、始業式。
 再会は、思いがけない場所でやってきた。

 夏休み明けの教室は、新学期が始まった絶望感と、再会の喜びが入り混じっていた。日焼けをしたクラスメイトたちが、夏休みの思い出を語り合っている、例年の風景。自分の席に座って、近くの友だちとしゃべっていた時。突然、教室の空気が変わった。

 教室の後ろ側の扉から、ひとりの女の子が入ってきた。栗色の長い髪。耳にあけたピアス。それはもう、地球に隕石が落ちたってくらいの衝撃だった。教室は、一つの社会だ。閉鎖的で、排他的な、一つの世界。その世界に、突然異邦人が現れたのだ。しかも、とびきりかわいい女の子が。

 その女の子は、周囲の視線なんて気にも留めず、なんなら髪を掻き上げたりもして、堂々と教室に入ってきた。きょろきょろと周囲を見渡して、わたしを見つける。その端正な顔が、途端に年相応のものに変わった。

「雫!」
「り、りせ!」

 わたしはびっくりして席から立ち上がった。その瞬間、クラスメイトの目が一斉にわたしに向けられた。「あれ、誰?」「雨宮さんの知り合い?」みんなのひそひそ声が鼓膜に響く。りせはわたしに駆け寄ってにっこりした。

「おはよ。よかった、雫がいて」
「どうしたの、いきなり!」
「また留年するのもいやだからさ。雫もいるし、来てもいいかなぁって思ったの。ところで、わたしの席どこ?」

 わたしは戸惑いながらも、廊下側の一番後ろの席を指差した。「なーんだ、雫の近くがよかったぁ」りせは残念そうに唇を尖らせながら、自分の席へと向かっていく。長い髪が香水のにおいを振り撒きながら揺れている。登校してきた奏真と挨拶を交わして笑うりせを見ていたら、心の隅が疼くのを感じた。

 ずっと、りせが学校に来ればいいなと思っていた。そしたら、毎日楽しいだろうなって。

 ――制服が、きらいなの。

 そう言っていたのに、どうしていきなり学校に来たんだろう。学生が学校に来る。そんな、至極普通のことが、とても奇妙に感じる。嵐が来る前のような、妙な静けさに心がざわつく。

 何かが、変わってしまったような。
 そんな、予感、が。

 わたしの杞憂を嘲笑うかのように、日常は異常なくらい通常運行だった。りせは、まるで最初からそこにいたように、あっという間にクラスに溶け込んだ。二回目の一年生だからか、今まで授業を受けていないとは思えないほど優秀だし、アイドルみたいな容姿はみんなを引きつけるには十分で、わたしの交友関係をあっという間に追い越してしまった。

 りせは、太陽みたいな女の子だ。誰とでも気さくに話せて、すぐに仲よくなれる。だけど、なぜだろう。その完璧なまでの笑顔が逆に不自然で、ぎこちない。

「……りせ、むりしてない?」

 教室の片隅でそっと尋ねても、りせは「何が?」ととぼけた笑みを浮かべるだけだ。

「今まで学校ってきらいだったけど、雫と一緒なら楽しめるかなって思ったの。奏真もいるしね」
「……それなら、いいんだけど」

 わたしはそれ以上聞く勇気を持てなかった。一歩。あと一歩、踏み込んだら、何かが変わったのかもしれない。彼女の孤独に、気づいてあげられたのかもしれない。だけどわたしは、りせに拒否されるのがこわくて、一歩も動けなかったのだ。

 皮肉なことに、りせが学校に来るようになった途端、今までのように部屋で会うことがなくなった。りせは朝が弱いことを理由に一緒に登校することはなかったし、バイトを言い訳に一緒に帰宅することもなかった。別に、避けられているわけじゃないと思う。その証拠にお弁当は一緒に食べるし、他のどんな子といる時だって、りせはわたしに話しかけてくれる。

 例えるならそう、水槽の中にいる無数の魚のうち、一匹がどこかに行ってしまったような。些細な、でも、大きな変化だ。違和感と、不安と、正体不明の焦燥が、わたしの心を絶えず揺らし続けた。


 
 りせが学校に来るようになって、一週間ほど経った日。

 放課後、図書館に本を返し終わったわたしは、いつもより少しだけ遅く校舎を出た。

 九月とはいえ、太陽はまだまだ夏の顔をしている。半袖シャツが眩しい教室から一歩出ると、部活動をしている生徒たちの声が、波のように押し寄せてくる。こんなに暑いのに、よくやるなぁ。帰宅部のわたしは、照りつける太陽から逃れることに精一杯だ。早く部屋に帰ってクーラーにあたろう。そう思っていたのに、体育館のそばにいた人影に気づき、衝動的に方向転換をしてしまった。

「柊さん?」

 柊さんはわたしに気がつくと、くわえていたタバコを口から離した。

「雫ちゃん? 久しぶり」
「どうしたんですか? 何でうちの高校に?」
「顧問のバスケ部の練習試合。おれはただの付き添いなんだけど、煙草吸いたくなってさぼり中」

 見つかっちゃったな、と大して困ってない様子で笑って、再び煙草を口にくわえる。木漏れ日が夏の名残のように降ってきて、地面をまだら模様にしている。校庭に不釣り合いな白い煙が、空中をたゆたう。

 そういえば、こうしてふたりきりで話すのは初めてだ。聞きたいことはたくさんあるのに、いざ話そうとすると言葉が出てこない。わたしの戸惑いを察したのか、不自然な空白を埋めるように、柊さんが口を開いた。

「元気? りせとは相変わらず仲いいの?」
「はい、もちろん。……最近、りせは学校に来るようになったんです」
「へぇ、そうなの?」
「知らなかったんですか?」
「今知った。そうか、ようやく不良娘も更生したか」

 なんだか他人事みたいな台詞だと思った。伏し目がちなその様子は、どこか距離を感じさせる。若葉が、さぁ、とそっけない音を立てている。わたしの心を、揺らしていく。体育館から聞こえるバスケ部のかけ声が、どんどん遠ざかっていくように感じた。わたしの立っている場所が、日常からどんどん離れていくようで、急に、こわくなった。

「……りせと何かあったの?」
「何かって?」

 柊さんは素知らぬ顔で尋ねる。わたしと、目を合わせないまま。その横顔を見ていたら、なんだかやけに冷静になった。今までりせに対して抱いていた違和感。薄々勘づいていたその正体を、突きとめたような気持ちになった。

 ああ、やっぱり、原因はこの人だ。りせが学校に来たのも、悲しみを隠して笑っているのも、全部、この人のせいなんだ。

「りせを泣かせたら、わたし、柊さんのこと許さない」

 自分でも驚くくらい、はっきりと言い放った。まるでナイフを彼に突き刺したみたいだ。柊さんも驚いたようで、それまで伏せていた顔をこちらに向けた。いつも余裕な柊さんの仮面が、少しだけ剥がれた。

 だけどほころびはすぐに戻って、一秒後には嘲るような笑みが張りついていた。

「……恋人みたいな台詞。りせのこと、すきなの」
「えっ」

 思いがけないことを言われて、心臓が喉まで跳ね上がった。

「そ、そりゃ、友だちだし」
「奏真とりせ、どっちがすき?」

 絶句した。わたしは捕らえられた魚みたいにぽかんと口を開けた、まぬけな顔で柊さんを見つめた。柊さんはおもしろそうに喉で笑って、それから眉を下げた。

「いじわるしてごめんな。雫ちゃんがいれば、りせは安心だよ。……これからも、守ってやって、あいつのこと」
「……そ、そんなの、ずるい!」

 わたしは慌てて叫んだ。

「りせが一番必要としてるのはわたしじゃなくて、柊さんなのに。どうしてそういうこと言うんですか。どうして、どっちかを選んであげないの。小咲さんとりせ、どっちのことがすきなの?」

 背を向けた柊さんの表情は見えない。少し黙ったあと、柊さんは「すきの種類が違うんだよ」とつぶやいて歩き出した。

「わたし、柊さんのこといい人だと思います。でもやっぱり許せない。絶対、許してあげないから!」
 柊さんはちょっとだけ振り返ると、困ったように微笑んだ。そのまま何も言わずに右手を上げて、わたしの前から去ってしまった。



 ひとりになった途端、急に夏の暑さがぶり返してきた。部活動中の生徒の声が、テレビのボリュームを上げたように大きくなる。消えていった背中が、瞳に焼きついて消えない。わたしはぐっと唇を噛み締めて、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 たった三コール。まるで鳴ることが分かっていたかのように、奏真はすぐに電話に出てくれた。

『雫? どうしたの』
「ねぇ、まだ学校にいる?」
『いるいる。後ろ向いて』

 振り返ったら、スマートフォンを耳にあてた奏真が、遠くの方から歩いてくるところだった。わたしは通話を終了して、奏真に駆け寄った。

「今から少し時間ある?」
「え? あるけど」
「行きたいところがあるの。ついてきてくれる?」

 それは本当に衝動だった。きょとんとしている奏真の手を取って、帰り道とはまったく別方向へ進んでいく。

 わたしたちがたどり着いたのは、隣町にあるファミレスだった。

「ここがりせのバイト先?」
「うん、たぶん……」

「ハッピーベア」の看板を確認して、わたしはファミレスの扉を押した。店内は適度に混んでいた。きょろきょろ周囲を見渡してみる。りせの姿を確認する前に、大学生くらいのお姉さんに「いらっしゃいませ」と声をかけられた。

「二名様ですね。お席にご案内します」

 わたしたちは窓際の席に案内された。ここからだと、奥の方がよく見えない。奏真はメニューを広げながら、「何食おっかな、おなかすいてきた」と呑気なことを言っている。

「ハンバーグうまそう。でも、パスタもいいなぁ。雫はどれ食べる?」
「何でもいいよ。それより、りせ探して」
「でも、とりあえずなんか頼もうぜ。デザートも食っていい?」
「こんな暑いのによく食べられるね……」

 特に運動をしているわけでもないのに、なぜそんなにおなかがすくのだろう。男子高校生の食欲にあきれていると、水を運んできたウェイトレスが、わたしたちを見て声を上げた。

「えっ、雫? それに奏真も!」
「りせ!」
「びっくりした、どうしたの? 何でこんなとこにいるの?」

 ウェイトレス姿のりせは、全然知らない女の子みたいに見えた。さっきまで、わたしと同じ制服を着ていたのに。

「りせがバイトしてるの、見にきたんだよ。な、雫」
「う、うん」
「やだ! 恥ずかしいなぁ。来るなら先に言ってよね」
「蓮城ー」

 話し込んでいるわたしたちの元に、男の店員さんが近づいてきた。りせは「あ、店長」と背筋を伸ばした。

「どしたの、友だち?」
「そうです、すいません」
「めずらしいな、知り合いが来るなんて。早く上がってもいいぞ」
「いえ、いいです! 大丈夫!」
「そう? ならいいけど」

 店長と呼ばれた男の人は、わたしたちに向かってにっこりと笑いかけ、ひらひらと手を振って去っていった。りせは申し訳なさそうに両手を合わせると、

「ごめんね。今日はあと二時間くらいで終わるから、ゆっくりしてって」

 それから忙しそうに別のテーブルへと向かっていった。

「なんか、元気そうだな」
「そうだね……」

 せわしなく歩き回るりせの姿は、一点の曇りもないように感じた。とびきりの接客スマイルだって、他のどの店員さんよりもきらきらしている。

「奏真も、最近のりせ、変だなって思ってた?」
「まあ、ちょっとな」

 奏真はりせから目を離さずに答えた。

「おれは雫ほどりせのこと知ってるわけじゃないけどさ。天体観測した時となんか違うっていうか、むりしてるっていうか……」
「……そう、だよね」

 普段は鈍感な奏真も、こういうことには妙に鋭い。衝動的にここまで来てしまったのは、りせのことを少しでも知りたかったからだ。わたしが知らないりせ。柊さんが知っているりせ。流れ星に祈るだけじゃ叶わない。自ら行動していかなきゃ。

 わたしたちは少し早い夕食を食べながら、りせを待つことにした。りせはいつもと変わりなく、元気な様子で働いていた。時折男性のお客さんに声をかけられて困った顔をしていたけれど、いたって元気。いたって普通。悲しみなんてかけらも見せない。その、健気な仮面に、いつも騙されてきた気がする。あの、柊さんの様子。そして学校でのりせ。ふたりの間に何かあったのは明らかだ。だけど、わたしは何も聞けない。それはわたしが、ただの、友だちだから。

「ごめん、おまたせ!」

 午後七時半。制服に着替えたりせを加え、わたしたちは帰路に着いた。まだ暑いとはいえ、日が沈む時間は確実に早くなっている。ついこの間まで赤色に染まっていたはずの空には、今は星すら瞬いている。

「ごめんね、いきなり来て。ウェイトレス姿、似合ってたよ」
「ほんとほんと。おれもバイトしたくなったよ」

 奏真とふたりで褒めると、りせは照れくさそうに「やだ、もぉ!」と笑った。

「本当にびっくりしたんだから。誰もわたしのバイト姿見たことないのに」
「そういえば、うちの学校バイト禁止だろ? 許可取ってんの?」
「そんなわけないでしょ。ばれたら停学」

 りせは学生カバンをぶんぶんと振り回しながら、酔っ払いみたいに道の真ん中を歩いた。眩しい白の半袖シャツ。チェックのスカートが、ふわりと風に広がる。同じ制服を着ていても、りせはきらきらしている。だけどその後ろ姿は、やっぱりなんだかさみしげで、こんなに笑っているのに、どこか切なくなる。

「わたし、もう永くないから」

 空を見上げながら、宣言するように、りせが言った。

「学校に来たのもね、ほんのちょっとなの。ほんのちょっと、気を紛らわせたかっただけなの。もうちょっとしたら、目標の額に届くから。そしたら、バイトも辞めるつもり」
 言葉の意味がよく分からず、わたしと奏真は顔を見合わせた。永くないって、どういう意味だろう。声に出さず問いかけてみるけれど、奏真も首を傾げるだけだ。

「何かほしいものでもあるのか?」
「お金じゃ買えないものがほしいの」

 矛盾している台詞を、りせは言う。ますますわけが分からなくなった。表情すら、髪に隠れて分からない。

「りせは、自立してるな」

 何も言えないわたしの隣で、奏真がぽつりとつぶやいた。

「おれなんか全然だめだ。ほんとはさ、親にちゃんと塾に行きなさいって言われてるんだ。いい大学入って、いい会社に就職しなさいって。だから、カメラも反対されてるんだよ」
「えっ、そうだったの……」

 突然の告白に、わたしはびっくりした。そんなの、全然知らなかった。奏真は「実はね」と困ったように頬を掻いた。

「だからさ、もっと上達して、コンテストとかで入賞したら認めてくれるかなって思ってるんだけど……。なかなかうまくいかないな。上達しないし、金ばっかかかるし」
「そんなの、知らなかった……」
「言ったら、心配かけると思って」

 奏真は何でもない、という風に笑うけれど、わたしにとっては地球がひっくり返りそうなくらい衝撃的だった。そんなに真剣に、写真のことを考えていたんだ。思えば、最初からそうだった。カメラを買うために勉強を頑張っていること、ちゃんと知っていたのに。わたしは自分がカメラと関わりたくないあまり、その真剣さに向き合おうとしなかった。それに、奏真は、何でも話してくれると思っていた。なのに、わたしの知らない奏真がいる。そんなあたりまえのことすら、忘れかけていた。

 りせはううん、と首を振った。

「えらいのは奏真の方だよ。ちゃんと目標があって努力してるもん」
「りせだってそうだろ?」
「わたしは、違うの。逃げるための努力をしてるの」
「逃げる……?」

 わたしは急に不安になってりせを見た。りせはわたしに目線を移すと、いたずらっぽく笑った。

「逃げる時は全力ダッシュしなきゃね」

 わたしは笑い飛ばすことも、真剣に聞き返すこともできなかった。奏真は「何だよ、それ」とふしぎそうに首を傾げた。りせは何でもないように笑って、それ以上何も言うことはなかった。

 奏真と別れてふたりきりになると、ぷつりと不自然に会話が途切れた。いつもなら気にならない沈黙が、鋭い針のようにちくりちくりと肌に刺さった。どうしてだろう、いつもと何も変わらないのに。なんとなく、りせの雰囲気が硬い気がする。聞きたいことはたくさんあるのに、核心を突いてしまうのがこわい。わたしの少し前を歩くりせの後ろ姿が、どことなく拒絶しているみたいに見える。りせは今、どんな顔をしているのだろう。何を考えているのだろう。

「……今日、柊さんに会ったよ」

 苦し紛れにそんなことを言ってみる。りせは振り向かずに、「どこで?」と尋ねた。

「体育館裏。バスケ部の練習試合なんだって」
「そう」
「柊さんと……」

 何かあったの。

 そう尋ねようとして、口をつぐんだ。何かあったことは明確だし、わたしが聞いていいことじゃないと思った。

 ああ、こうして距離が開いていくのはいやだ。助ける手は持っていないし、お節介だと思われたくもない。何か言わなきゃと思うのに、何を言えばいいのか分からない。こういうところが、自分のだめな部分なんだ。人生の経験値が低いんだ、きっと。

「さっき、本当にびっくりしたんだよ!」

 作ったように明るい声で、りせが叫んだ。

「奏真とふたりで来るなんて。教室じゃあんまり話してなかったから。……やっぱり仲よしなんだね」
「そんなこと、ないよ」

 わたしはぎこちなく口角を上げた。どうしていきなりそんなことを言うのか、意図が読めない。りせは「……いいなぁ」と、小さな声でつぶやいた。

「雫は今、幸せ?」
「え?」
「死んでもいいくらいの幸せ、感じたことある?」
「……たぶん、ない」
「恋人がいるのに?」

 肩越しに、りせが振り向いた。その瞳はぞっとするくらい冷たくて、軽蔑の色が浮かんでいた。わたしはちょっとこわくなって、歩調をゆるめた。

「……何が言いたいの」
「別に。奏真がちょっと、かわいそうだなって思っただけ」
「かわいそう……?」
「でも、そんなものなのかもね。『きらいじゃない』って、ずるい感情だよね。そんなの、繋ぎとめておきたくなっちゃうもん」

 りせはごまかすようにうーんと大きく伸びをした。りせが何を言いたいのか分からない。けれど、もしかして、もしかしなくても、怒っているのかもしれない。何で? どうして? 動揺と混乱で何も言えずにいると、りせはさらに話を続けた。

「今日、どうしてふたりで来たの? 放課後デート?」
「やだ、何言って……」
「仲のよさでも見せつけにきたの? ……大して、すきでもないくせに」

 りせが体をこちらに向けた。わたしはびっくりして立ちどまった。

 りせは、笑っていた。穏やかで、無邪気な、いつもの笑みだ。今まで意識していなかったけれど、笑った顔、小咲さんにそっくり。だけど、大きく見開かれた二つの瞳は、遠くから見ても分かるくらい、からからに乾いていた。

「……雫は柊くんのこと、あんまりよく思ってないでしょう。最低な男だと思ってるでしょ。でもね、雫だって同じだからね。自分に与えられた愛に本気で応えてない。奏真は優しいから何も言わないだけだよ。あんまり本気に見えないかもしれないけどね、まわりから見たら、ああ、本当に雫のこと大事にしてるなぁって分かるよ。特別扱いされてるよ、雫は。ほしくても手に入らない人間から見ると、簡単に人の好意を手に入れてもてあましてるのを見るのって、すごく気分が悪いよ」

 乾いていたはずの瞳から、急に、蛇口を捻ったように一気に涙が流れ出した。

「わたしがふたりのこと、何とも思ってなかったと思う? 素直に祝福してたと思う? わたし、ずっと雫のことがうらやましかった。誰とでも卒なく付き合えて、何の努力もしてないのにあっさり誰かの一番になれて、器用に生きてる。雫は『そんなことない』って言うと思うけど、わたしにはそう見えるの!」

 わたしは石になる呪いにかかったように、指先一つ動かすことができなかった。りせの言葉を、意味のある言語として受けとめることができない。だって、分からないんだもん。今、目の前にいるのが、わたしの知っている「りせ」だなんて。信じられないんだもん、そんなの。

 りせはぐっと唇を噛み締めると、逃げるように背を向けて走り出した。引き留めることもできず、わたしは呆然とその場に立ち尽くしていた。りせの背中が小さくなっていくのを、ただ、見送ることしかできなかった。



 その夜は、悔しさと悲しさがぐちゃぐちゃになって、声を上げて泣きじゃくった。泣かないと言ったりせが、あんな風に泣くなんて思わなかった。それに、どうしてあんなことを言ったのかも分からない。わたしのことを、「うらやましい」だなんて。そんなの、わたしの台詞なのに。あれほどの美貌を持っているくせに、どうしてそんなことを言うの。友だちだってすぐにできるくせに。恋だって愛だって、十分するくらい知っているくせに。

 りせはいつもわたしのはるか先を歩いている。わたしができないことを平然とやってのける、そんなりせを、いつもうらやましいと思っていた。だから近づいてみたかった。そのために奏真を利用した。だけどわたしは大人になれない。本当の愛を知らないから。永遠に距離は縮まらない。りせが学校に来るようになって、一緒にいる時間は増えたのに、どうしてだろう、心の距離は反比例していった。

 明るくて、大人っぽくて、絶対に泣かない強い女の子。それがわたしの知っている「蓮城りせ」だ。だから、あんな風に泣き叫ぶ女の子を、わたしは知らない。りせのことを知りたいと願ったくせに、結局、何一つ本当の姿なんて分かっていなかったんだ。

 そんなことをぐるぐる、ぐるぐると考えながら眠りについたら、案の定、翌朝は頭がひどく痛んで、起き上がることすらできなかった。それでもなんとか昼過ぎにはベッドから下りて、のろのろと制服に着替えたのは、きっと、りせに対する意地なのだろう。目が真っ赤に腫れていても、うまく声が出なくても、りせから逃げたと思われたくなかった。



 四限目が終わった休み時間。教室に足を踏み入れたわたしは、すぐにその違和感に気がついた。視線を右から左へ動かして、ぐるりと教室内を見渡してみる。輝きが一つ、足りない。

 りせの席を見ると、夏休み前と同じ状態になっていた。カバンがかかっていないのだ。りせ、来てないのかな。あれからどうしたんだろう。やっぱり、わたしのせいなのかな。悪い想像ばかりが頭に浮かぶ。席に着くのをためらっていると、いつの間にか奏真が目の前に来ていた。

「雫、大丈夫か?」
「うん、平気……頭、ちょっと重たいけど」
「あのあと、りせと何かあった?」

 その質問に、はっとした。奏真は神妙な面持ちでわたしを見ていた。どうして、こういうことには鋭いんだろう。

 ――奏真が、かわいそうだなって。

 やだ、何でこんな時に、昨日の言葉を思い出すの。わたしは「何でもない」と首を振った。

「りせ、今日来てないの?」
「それが……」

 奏真は言いづらそうに目を逸らした。

「いや、今朝、職員室で見てさ。……あいつ、退学するかもしれない」
「……はっ?」

 隕石が落ちたくらいの衝撃だった。わたしは奏真の言葉の意味を、すぐに噛み砕くことができなかった。

 退学? りせが? どうして?

「な、何で? 何言ってんの? 昨日まで普通に来てたじゃん」
「だから、たまたま今朝職員室で聞いたんだよ。りせが先生と話してるの。聞き間違いかもしれないけど……」

 奏真は困ったように頭を掻いた。そうだ、奏真だって同じだ。りせの真意はりせにしか分からない。昨日まで普通に学校に来て、普通にバイトをして、それで、いきなり今日退学だなんて。

 ――わたしの、せい?  

「待てよ、雫!」

 教室を飛び出そうとしたわたしの手を、奏真が強い力でつかんだ。

「おれも行くよ。りせのところだろ」
「う、うん……!」

 うなずいたら、自分の声が震えていることに気がついた。永くない、とつぶやいた、りせの言葉が頭から離れない。何だろう、何が起こっているのかまったく分からないのに、悪い予感がとまらない。りせはどこにいるの? 何を考えているの? これから、どうするつもりなの? 全部、りせに聞かなくちゃ。 

「一色!」

 今度こそ走り出そうとしたら、また邪魔が入った。振り返ると、いつも奏真と一緒にいる男の子たちが、にやにやとこっちを見ている。

「なぁ、お前ら付き合ってんの?」
「はっ?」

 わたしははっとして、繋いでいる、ようにも見える奏真の手を振り払った。

「な、何、いきなり」
「昨日、一緒に歩いてるの見たってこいつが言うんだよ」
「ばか、お前も見ただろ!」

 昨日って、ファミレスに行った時のこと? りせに会いにいっただけだし、別にデートしていたわけじゃないのに。近くにいた女の子たちも、「なになに?」とおもしろがって集まってきた。わたしはかぁっと頬が熱くなるのを感じた。

「で、どうなの? 一色」
「あー、実は……」
「違うの!」

 奏真の言葉をさえぎるように、慌てて叫んだ。

「奏真とはただの幼なじみだから! 付き合うとか、絶対にないから!」
「そうなの?」
「そうだよ。今日だってたまたま用事があるだけだから! ほら、行こう」

 みんなの視線から逃げるように、わたしは奏真の手を引っ張って教室から出た。付き合ってるってだけで冷やかされるとか、好奇の目で見られるなんて、恥ずかしさでどうにかなりそう。

 昇降口にたどり着いたところで、突然、奏真が繋いでいた手を振り払った。

「……奏真?」

 振り向いたら、奏真はいつになく真面目な表情をしていた。いつも明るいその瞳は暗くくすんで、責めるようにわたしを見ている。肌に触れる空気が、ぴりぴりと痛い。

「前から思ってたけど、さ。雫って、何でおれと付き合ったの?」
「……え?」
「そんなにおれと付き合ってるって言うの恥ずかしい?」
「ちが、そういうことじゃ……今はそんなことより、りせが」
「そんなこと? 大事なことだと思うけど」

 廊下を歩いている他の生徒たちの視線が気になった。まわりからは、ただの雑談をしているように見られているのか、わたしたちを気に留める人は誰もいない。

「確かにおれ、雫と一緒にいられるだけでいいって言ったよ。ゆっくりでいいとも言った。でも、雫はいつもりせ、りせって。りせのことばっかじゃん。付き合ってることも公言しなくて、手も繋がなくて、ただ一緒に出かけるだけって、それ、恋人って言えるの? おれって雫にとって何なの?」

 わたしは何も言えなかった。悲しげに伏せられた瞳が、泣いているようにも見えた。そこで初めて、奏真が怒っているのではなく、傷ついているということに気づいた。

「はっきり言わないと、やっぱり伝わらないのかな。……おれ、雫がすきだ。雫の撮る写真だけじゃない。雫っていう女の子が、すきだったんだよ……」

 まるで彗星みたいに、奏真の声が消えていく。心が、冬の日ように震えた。何か言わなきゃいけないのに、頭が雪のように真っ白になって、何も考えられなかった。混乱しているわたしの心に気づいたのか、奏真は下手くそな笑みを浮かべて、目を逸らした。

「ごめん。やっぱり、ひとりで行って」

 立ちすくむわたしを置き去りに、奏真は早足に立ち去ってしまった。

 急いでいたにもかかわらず、わたしはしばらくその場を動けなかった。

 知らなかった。奏真がそんなこと思っていたなんて、分からなかった。だって奏真はいつだって、笑っていてくれたから。何もできないわたしを、笑って許してくれたから。奏真が傷ついていないわけないのに。

 ああ、りせが言っていたのは、こういうことだったのね。わたし、柊さんにあんなことを言ったくせに、柊さんと同じことをしていたんだ。奏真の気持ちを知りながら、まっすぐ向き合ってあげられなかった。自己嫌悪が波のように襲いかかる。心が重い。でも、いつまでもこんなところで立ちどまっているわけにもいかなくて、重くなった足をなんとか動かして、わたしはりせの元へと急いだ。



「フラワーガーデン」に着く頃には、髪はぼさぼさ、肌は汗でぐちゃぐちゃになっていた。嵐が吹き荒れているような心境とは違って、庭は実に穏やかだ。花壇に咲く色鮮やかな花は、わたしの焦りを嘲笑うみたいにそよそよと風に揺られている。乱れた息を整えるより早く、コンコン、と離れをノックした。返事はない。扉に耳をあててみるけれど、やっぱり人の気配はない。スマートフォンを取り出して、りせに電話をかけてみた。でもやっぱり無機質なコール音が何度も繰り返されるだけで、わたしとりせを繋いではくれない。

 もしかしたら、寝ているだけかもしれない。それか、バイトに行っているのかも。そうだったらどんなにいいか。りせが学校に来ないのなんて、元々はそっちが普通だったじゃない。学校に来ていないことが「あたりまえ」だったんだから。それなのに、どうしてこんなに不安になるんだろう。もう二度と、りせに会えないような。姿の見えない不安が、心を掻き乱していく。

 その時、後ろでバタバタと物音がした。振り向くと、アパートの一階から、戸惑った様子の智恵理さんが出てくるところだった。慌てたように車道に飛び出て、きょろきょろと首を振っている。わたしは咄嗟に彼女に駆け寄った。

「智恵理さん、どうしたんですか?」

 いつもばっちりセットしてある長い髪が、山姥みたいにぼさぼさになっている。智恵理さんは血相を変えてわたしを見ると、蜘蛛の糸を見つけたように目を見開いた。

「ねぇ、三尋木(みひろぎ)病院までの行き方分かる?」
「え? あの、はい」
「歩いて行けると思う? 遠い?」
「歩くと結構かかりますけど……どうしたんですか?」
「さっき小咲の会社から連絡があって、あの子、倒れて病院に運ばれたらしいの。タクシー呼んだんだけど、なかなか来なくて」
「えっ」

 倒れた? 小咲さんが?

 わたしは全身の血がぐぅーっと逆流していくのを感じた。そういえば、最近ずっと体調が悪かったっけ。どうしてこんなに次から次へといろんなことが起こるのだろう。今日は最低最悪の厄日だ。

「自転車ならたぶん十五分くらいです。わたしの自転車、貸しましょうか?」
「わ、わたし自転車乗れないもん……」
「じゃあわたしがこぎますから、後ろ乗ってください!」

 わたしは停めていた自転車の鍵を外してサドルにまたがった。

「で、でも、わたし重いわよ? いいの?」
「いいから! 緊急事態なんだからつかまって!」

 智恵理さんはためらいながらも後部座席に座り、わたしの体に腕をまわした。わたしはぐっとペダルを踏み込んで、勢いよく自転車を発進させた。ぎゃっと智恵理さんが潰れたカエルのような声を出した。

「やだ、やっぱりこわい、もっと静かにこいで!」
「急いでるんでしょ! 耐えてください」
「は、はい」

 ああ、もうすべてにいらいらする。早くりせに会いたいのに。でも小咲さんも心配だし奏真との関係はぐちゃぐちゃだし、考えることが多すぎる。乱雑な思考を振り払うように、わたしは全速力で自転車をこいだ。



 病院に着くと、病室にはすでに小咲さんの名前が記されていた。智恵理さんが看護師さんから簡単な事情を聞き、廊下で待っていたわたしに伝えてくれた。

「軽い脳震盪だって。大したことないから、明日には退院できるそうよ」
「よかった……」

 わたしはほっと胸を撫で下ろした。智恵理さんはめずらしく申し訳なさそうに眉を下げた。

「ありがとね、わざわざ連れてきてもらって。あの子、小さい頃からいろんな病気で入退院を繰り返してて。今回は大したことなさそうだけど……」
「いえ、いいんです。わたしも小咲さんにはお世話になってるし……」
「それで、ついでに悪いんだけど、もう一つお願いしてもいいかしら」
「何ですか?」

 尋ねると、智恵理さんはちょっと気まずそうに目を逸らした。

「りせに連絡してくれない? わたし、あの子の連絡先知らないのよ」

 智恵理さんからりせの名が出たことに、びっくりした。ふたりはすごく仲が悪そうに見えたから。普段はいがみ合っていても、やっぱり親子なのかもしれない。わたしはもちろんうなずいて、スマートフォンを取り出した。

 りせにもう一度電話をしたけれど、やっぱり彼女の声は聞けなかった。ひとまずメッセージを送って、わたしは智恵理さんと一緒に病室に入った。

 白いベッドの上で、小咲さんは穏やかに眠っていた。りせの面倒を見ていたのは小咲さんだって、前に聞いたことがある。小咲さんはいつも明るくて、優しくて。だから、こんなに弱っていたなんて知らなかった。しばらく小咲さんを見つめていたら、ゆっくりと、目蓋が開かれた。

「小咲!」

 智恵理さんが名前を呼ぶ。小咲さんは智恵理さんを見て、それからゆっくりとわたしに視線を移した。

「おかーさん、雫ちゃんも……」
「よかった、目覚めて。あんた、もう大丈夫なの? どっか痛くない?」
「大げさよ。大丈夫、ちょっと転んだだけだから。雫ちゃんも来てくれたの?」
「は、はい」
「雫ちゃんがわたしをここまで連れてきてくれたの。あ、先生呼んでくるわね」

 智恵理さんはわたしを残して、慌ただしく病室を出ていった。

「ごめんね、雫ちゃんにまで心配かけて」
「いえ……むり、しないでください」

 小咲さんは「ありがとう」と微笑むと、まわりを見渡すように頭を浮かせた。

「……りせは、いない?」
「さっき電話したんですけど、出なくて。でも、メッセージは送ってます。気づいたら、きっとすぐに来ると思います」
「そっか」

 小咲さんは残念そうな、ほっとしたような、複雑な表情を浮かべて頭を下ろした。

「最近、りせに会ってる? あの子、元気?」
「それが……昨日まで学校に来てたんですけど、今日は来てなくて。部屋をノックしても出てこないし……」
「そう……」
「りせと、何かあったんですか?」

 おそるおそる尋ねたら、小咲さんは何かを思い出すように、窓の外に顔を向けた。それから後悔するように、右腕を目蓋の上に乗せた。

「わたし、あの子にひどいこと言っちゃったの。あんなこと言うつもりなかったのに。りせのこと、傷つけちゃった。たったひとりの妹なのに」
「……りせは、小咲さんのことだいすきだって言ってました。自慢のお姉ちゃんだって」
「今は、どう思ってるかな……」

 わたしはそれ以上、かける言葉が見つからなかった。ふたりの間に何が起こったのか、聞く権利すら、わたしは持たない。だけど、聞かなくても分かる。柊さんのことだろうなと、直感的に理解した。

 だからこそ、わたしは何も言えなかった。わたしはただのりせの友だちで、完全なる部外者だった。どれだけりせと関わっても、どれだけ心配をしても、結局これは、彼女たちの問題なんだ。だからわたしは、そこに踏み込む権利を持たない。ずっと、感じていたことだった。

 しばらくすると、智恵理さんがお医者さんと一緒に病室に戻ってきた。お医者さんは、「しばらく安静にすること。むりはしないこと」というアドバイスだけして、せわしなくどこかへ行ってしまった。

 スマートフォンを確認すると、先ほど送ったメッセージに既読がついていた。やっぱり、来づらいのかな。今、どこにいるんだろう。まったく見当がつかない。それはきっと、わたしがりせのことをあまりにも知らないから。りせのことを知りたいと、流れ星に願ったはずなのに。何にも、前に進めていない。あんまり長居するのも申し訳ないし、そろそろこの場を去ろう。そう考えて帰ろうとした時、柊さんが病室に入ってきた。

「大丈夫か? 小咲」
「柊くん、来てくれたの」

 小咲さんの顔が、花が咲くようにほころんだ。柊さんは智恵理さんに軽く会釈してからわたしに気づいて、ちょっと驚いたような顔をした。

「雫ちゃんも来てくれたのか?」
「そうなの。お母さんを病院に連れてきてくれたんだって。お母さん、自転車も乗れないし、方向音痴だから」
「し、しかたないでしょ。タクシーが来なかったんだから」

 智恵理さんが少し恥ずかしそうに顔を背ける。柊さんは「ありがとな」とわたしの頭を優しく撫でた。

「それで、何ともないのか?」
「うん。ごめんね、心配かけて。仕事は?」
「仕事なんてしてる場合じゃないだろ。……いいんだよ、そんなの」

 小咲さんが弱く手を伸ばす。柊さんは一ミリのためらいもなく、その手をそっと包んだ。

 わたしはなんだか、ぎゅうっと心臓をつかまれたような気分になって目を逸らした。りせが来なくてよかったのかもしれない。ふたりのこんなやりとりを見たら、きっとまた傷ついてしまう。

「そういえば、りせは?」

 智恵理さんが、思い出したようにわたしに問いかけた。わたしは力なく首を振った。

「連絡はしたんですけど、返事がなくて……」
「まったく、あの子ったら。実の姉が倒れたっていうのに、冷たい子」
「りせもいろいろ忙しいのよ。分かってあげて、お母さん」
「でもぉ……」
「もう、ちゃんと仲よくしてよね。わたしももうすぐいなくなるんだから……」
「えっ?」

 さらりと重大なことを言われた気がして、わたしは思わず声を上げた。

「……いなくなるって、どういうことですか?」

 その場にいる全員に向けて、問いかける。柊さんはわたしの方を見ようとしない。知られたくないことを聞かれたように、うつむいたままだ。

「報告、遅れちゃったね」

 小咲さんは照れたように微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、心が、いやにざわついた。まるで、りせの心がわたしにリンクしたみたいだった。その先にある台詞が、分かってしまった。

 小咲さんは、柊さんの手を繋いだまま、幸せそうに目を細めた。

「わたしたち、来月結婚するの」

 ――ガタン。

 病室の入り口から物音がして、はっと振り向いた。曇りガラスに、人影が映っている。シルエットだけで、それが誰であるかすぐに分かった。

「……りせ?」

 わたしが名前を呼ぶと、人影が逃げるように消えていった。

「待って!」

 考えるより先に体が動いた。ぽかんとしている智恵理さんたちを置き去りに病室を出て、早足でりせを追いかけた。病院から出ると、自転車に乗ったりせの後ろ姿が見えた。わたしは慌てて駐輪場に向かい、自分の自転車に飛び乗った。

 りせの向かう場所なんて一つしかない。帰りたくなくても、他に行き場がないことを、わたしは知ってる。赤信号に阻まれながらも、なんとかたどり着いたのは、どこでもない、りせのお城だった。

 離れの前には、りせの自転車が乗り捨てられていた。わたしは自転車から降りて、ゆっくりと、離れの扉を開けた。

 部屋の中には、いつも映し出されていたはずの星空は浮かんでいなかった。まだ外は明るいのに、本当に深海の中みたい。部屋に一歩踏み入れたら、まったく別の世界に入ったような気がした。

 りせ、と名前を呼ぼうとしたわたしは、さざ波のようなすすり泣きに気づいて口をつぐんだ。目を凝らすと、岩礁に倒れ込む人魚のように、ベッドに寄りかかるりせが見えた。声が漏れないように、布団に顔を埋めている。肩が、凍えるように震えていた。

 わたしはそっと靴を脱いで、りせに一歩、近づいた。

「……知ってたんだね」

 りせは何も答えなかった。うなずくことも、首を振ることもしなかった。それが肯定だということも、ちゃんと、分かった。わたしは床に膝をついて、りせを背中から抱き締めた。

「う、う、うぇぇぇぇ……」

 何かの弦が切れたように、泣き声が一層大きくなった。まるで迷子になった子供のようだ。抱き締めたりせの体はとても細くて、このまま消えてなくなってしまうんじゃないかと思うほど脆かった。

 強く強く、抱き締めなければ。
 きっと、りせは消えてしまう。

「な、納得しようとしたの。いつかこうなることは分かってたし、覚悟は、してたの。だから、ち、ちゃんと受け入れようって」
「……うん」
「でも、もうむり。ずっと我慢してきたの。ふたりがデートしてるのも、三人で一緒にいる時も。全部、全部我慢してたの」
「うん」
「ほんとは、ほんとはね、ふたりが一緒にいるのを見るのもいやだった。死んじゃいたくなった。バイトをしてたのだって、この家から離れるためだった。だからせめてお金が貯まるまではここにいようって、頑張ろうって思ってたの……思ってたのに! 何であんなことしたの? どうしてネックレスなんてくれたの? 最後の思い出にしようと思ったから? だから旅行に連れていったの? おめでとうって言うと思った? 言うわけないじゃん! 結局キスするしやることはやるし意味分かんない! 何でわたしに優しくするの? 一番じゃないのに! 一番にしてくれないくせに! 選んでくれないなら、あんな優しさいらなかった! 思い出なんて作ってほしくなかった!」

 りせは床に転がっていたCDをつかんで、思い切り壁に投げつけた。「コペルニクス」のCDが、次々と粉々に砕けていく。ふたりの思い出が、壊れていく。

「これからずっと近くで幸せを見続けなきゃいけないなんて、想像しただけで吐き気がする! 式なんてしてほしくない! 一緒に暮らしてほしくない! 指輪、なんて、してほしくないよ……!」

 りせの叫びが、狭い部屋に反響する。暴れまわる小さな体は、まるで言うことを聞かない馬のよう。離さないように、離れないようにぎゅっと押さえつけていたら、りせの苦しみが、肌を通じて伝わってきた。涙がぽろぽろとこぼれてきた。苦しい。つらい。絶対に泣かないと言ったりせが、こんなに泣いている。泣いたら、みじめになるでしょ。そう言って笑っていたのに。こんなにも、苦しんでいる。

 叫びが終わると、りせの肩は激しい上下を繰り返した。まるで運動をしたあとのように息が荒い。りせがゆっくりと振り向いたので、わたしは思わず、抱き締めていた腕の力をゆるめた。

 泣きじゃくったりせの顔は、涙と汗でぐしゃぐしゃになっていた。美しかった長い髪は頬に張りついてぼさぼさになっている。チャームポイントの大きな瞳はうさぎみたいに真っ赤だ。白い頬は、涙で濡れていない部分なんてどこにもない。ぼろぼろに傷ついた女の子が、そこにいた。

「ねぇ、雫」

 りせの手が、縋るようにわたしの両肩をつかんだ。ぐっと近づいたりせの顔は、おそろしいくらい真っ白だった。大きな瞳に、動揺しているわたしが映っていた。

「わたしはどうしたらいいの? どうしたら幸せになれるの? これからずっと、ふたりの幸せを祝わなくちゃいけないの? おめでとうなんて言いたくない。こんな風に家族になんてなりたくない。きょうだいなんて、なりたくないの。……そんなのいらない。そんな形で、ずっと一緒にいたくない。そんな風になるくらいなら、もう、死んじゃいたい」
「りせ……」
「生きてるのがつらいの、苦しいの。わたしの方がすきって言うくせに。何で? 何でこうなっちゃうの? わたしのことだって大事にしてほしいよ。わたしの幸せ奪わないでよ、こんな思いを抱えて生きていくくらいならもう死んじゃいたい。……ねぇ、雫。わたしはどうしたらいいの? 教えてよ、しず……」

 りせの言葉が、不自然にとまった。ううん、違う。

 わたしが、言葉を、奪ったんだ。

 気づいたらわたしは、悲痛な叫びをとめるように、りせの唇を塞いでいた。やわらかい、マシュマロみたいな感触が、わたしの唇に伝わる。ゆっくりと口を離したら、熱い吐息が混じり合った。

「……もう、いいよ」

 ないしょ話をするように、そっと、ささやいた。

「いい子でいるのは、もうやめよう」

 りせは何をされたのか分からないように、大きな瞳を見開いていた。つい今し方までの叫びは、かけらすら出てこない。まるで、言葉を失った人魚みたい。

 わたしはまっすぐにりせを見つめた。初めて出会った時から、たぶんずっと分かっていた。満月の夜、逢引をしているあなたを見かけた。桜の下であなたに出会った。その笑顔に、その美しさに、ずっとあこがれていた。ずっと、惹かれていた。

 悲しみの海に沈むあなたを救ってあげたい。痛みも苦しみも全部取り去って、もう一度笑顔を見せてほしい。

「逃げよう。一緒に。りせのこと、誰も知らない場所に行こう」
「……逃げて、どうするの?」

 生まれたての雛のように、弱々しい声でりせが尋ねた。決まってるでしょ、とわたしは弱く微笑んだ。

「呪いを解きにいくの」

 あなたのことがすきだから。