「雫って、冷めてるね」

 卒業式の日、吐き捨てるようにそう言った彼女の瞳には、諦めと、蔑みと、微かな怒りが浮かんでいた。クラスで一番仲のいい女の子だった。くるっと毛先だけウェーブした髪や、うっすらとピンクに色づいた唇が、まさに女の子って感じでかわいかった。そんなことないよぉ、って笑おうとしたけれど、まわりの空気を感じて、やめた。教室中の誰もが「卒業」っていう一大イベントの波に乗っかって、しくしくと泣きながら抱き合ったり、卒業アルバムに寄せ書きをしたり、スマートフォンで写真を撮りまくっていた。大して仲よくもないくせに、最後の最後で仲間意識が芽生えたようだった。

 まわりの子たちと比べてみると、確かにわたしは冷めていた。涙の一粒も流さず、寄せ書きをもらうこともなく、スマートフォンはポケットに入れたまま、取り出すことすらしていない。寄せ書きだって写真だって、求められたら応じるけれど、大げさに悲しんだり、さみしがったり、「また遊ぼうね」と社交辞令を言うこともなかった。彼女はわたしのそういうところを見て、「冷めている」と言ったのだろう。そう思われてもしかたがない。彼女は悲しそうに微笑んで、わたしの元から去っていった。

 少し、大げさすぎやしないか、と思ったのだ。クラスメイトのほとんどは、県内の高校に進学する予定だった。同じ高校に行く子たちだってたくさんいるだろうし、連絡を取ればすぐに会える距離なのに。まるで今生の別れのようにさみしがるもんだから、うさんくさくてたまらなかった。

 わたしは静岡にある実家を出て、東京の高校に進学することが決まっていた。つまりは、ここにいる誰よりもずっと、ひとりぼっちになるのである。本来、一番悲しむべきなのはわたしだ。だけど、大して遠くに行くわけでもないのに、その場の空気に合わせるように悲しんでいる子たちを見ていたら、ひとつまみの哀愁さえも、すぅーっと波のように引いてしまったのだ。

 その日、一番わたしの胸を震わせたのは、クラスメイトとの別れでも、先生からのありがたいお言葉でもなかった。今朝、家の玄関を出たその瞬間に見えた、消え入りそうな虹だった。明け方まで降り続いた雨が上がったあとの、瑞々しさを感じる朝の空。誰にも汚されていない、生まれたての生命のような、霞みがかった白と青の中、花を添えるように架かった虹は、寝ぼけたわたしの目を覚ますには十分だった。まばたきも、呼吸も、鼓動すらも、奪われたような気がした。学校に着く頃には消えてしまったけれど、こんな時に思うのだ。この手にカメラがあったなら、と。もうとっくの昔に捨てたその選択肢を、性懲りもなく、思い浮かべてしまうのだ。

 卒業式から二週間が経っても、その時の風景は目の奥にしっかりと焼きついたまま、わたしの心をつかんで離さない。住み慣れた街にさよならをして、新しい土地に降り立った今、わたしの頭上に広がるのは、あの時のように広々とした青空ではなく、背の高いビルの隙間に、パズルのピースのようにはめ込まれた四角い空だ。のろのろと歩くわたしを急かすように、大通りを走る車が、ブロロロロ、と、獰猛な音で唸っている。昨日まで住んでいた場所とは、空も、お店も、車や人の数も全然違う。

 逃げるように小道に入ったら、ようやく喧騒から遠ざかることができた。ふぅ、と息をつき、スマートフォンで地図を確認する。慣れない土地というものは、どれだけ単純な道のりでも方向が分からなくなるからいやだ。

 矢印に従って歩いていくと、ふわりと甘いかおりが鼻をくすぐった。都会には似つかわしくない、懐かしささえ感じるかおりだ。蜜に吸い寄せられる蜂のように近づいていくと、コンクリートの家が立ち並ぶ中に、突如花畑が現れた。赤や黄色、それに白。種類は分からないけれど、どれも見たことがある花ばかりだ。迷い込んだわたしを歓迎するように、風に揺られて踊っている。 

 そこは二階建ての小さなアパートだった。レンガ造りがレトロな感じで、まるで絵本に出てくるお屋敷のようだ。建物の面積より庭の方がはるかに広くて、住人よりも花の方がえらいみたい。さっきまで見えていた、ビルの立ち並ぶジャングルはどこへやら。そこはまさに、砂漠に突然現れたオアシスのような場所だった。庭の入り口には芸術品のようなアーチがあって、その中心にある看板には、丸っこい文字で「フラワーガーデン」と刻まれている。

「もしかして、雨宮雫さん?」

 花畑の向こう側から、むりに明るくしたような、甲高い声が聞こえてきた。金色に近い、腰くらいまで伸びた髪がうねうねと蛇のようにウェーブしている。不自然なほど白い肌と、蝶のようにバッサバサと量の多いまつげ、そして、血でも塗りたくったみたいに真っ赤な唇。美人、というより、美人を取り繕っている、って感じ。若くはないと思うけど、おばさんって感じでもない。その証拠に、ちょっと派手なショッキングピンクのワンピースも、まったく違和感なく着こなしている。デートにでも行くのかと思ったけれど、右手に握られているジョウロを見て、花壇に水を遣っていただけだと分かった。

「ずいぶん早いのね。夕方って聞いてたけど」
「すいません、連絡もしないで……」
「ううん、早く会えて嬉しいってことよ。わたし、大家の蓮城智恵理(れんじょうちえり)。これからよろしくね」

 よろしくお願いします、と頭を下げたら、かけていた眼鏡がずるっと鼻までずり落ちてきた。慌てて手で押さえて顔を上げる。智恵理さんがばかにしたようにふんっと鼻で笑った。
「荷物届いてるわよ。部屋に案内するからついてきて」

 くるりと踵を返した途端、アルコールを含んだような、つんとしたにおいが漂ってきた。わたしは気づかれないように鼻を押さえながら、智恵理さんのあとについていった。 

 

「フラワーガーデン」という名前のアパートは、最寄駅まで徒歩十分、高校まで自転車で約十五分という非常に便利な場所にある。家具は備えつけ、おまけに女子学生専用だというから、初めてのひとり暮らしには十分すぎるくらいだ。普段はどこの仲介業者も紹介していないらしいけれど、たまたまこの三月に空きが出たらしい。受験が終わって気の抜けたわたしの代わりに、お母さんがどこからか情報を仕入れ、あっという間に契約まで済ませてしまったのだ。そこまではありがたかったのだけれど、そこでぷつんと気力が途切れたらしく、肝心の引っ越し日には手伝わないと言い出した。その結果、わたしはひとりでここにいる。

 一階部分が大家である智恵理さんの居住スペースで、二階には四つ部屋がある。そのうちの一つが、今日からめでたくわたしの部屋となるのだ。

「ここね、201号室」

 案内されたのは、廊下の突き当たりにある角部屋だった。玄関を開けて真っ先に目に飛び込んだのは、コンロが一つあるだけの小さなキッチン。その隣には、備えつけの冷蔵庫。そして見るのもおそろしいくらい大量に積まれた段ボール。

 他人の部屋に入るように、そっと靴を脱いだ。靴下越しに、フローリングの床の冷たさが伝わってくる。つい先週まで他の人が住んでいたらしいけど、そんなことを感じさせないくらい、どこもかしこも新しい。

 ひとり暮らしの部屋ってこんなに狭いんだ。キッチンの反対側にあるドアを開いてみると、そこは洗面所だった。その奥には浴室がある。これもまた小さい。ひとり暮らしって、こんな感じなんだなぁ。実家とはサイズ感がまったく違う。今日からここで暮らすなんて、なんだか実感が湧かない。

「水道とか電気はもう契約済みだから。共益費は家賃と一緒に口座から引き落とし。あと、ペットは禁止ね。魚とか、小さなものだったらいいけど」

 背中から聞こえる説明は、まるで聞かれることを想定していないように早口で、わたしが戻る頃には、もう智恵理さんの口は閉じていた。

 背負っていたリュックを床に置いてから、山積みされたダンボールの隙間を通ってベランダに出た。真っ白な光が降ってきて、目の奥が痛くなる。眩しさを堪えて庭を見下ろすと、予想通り、先ほど見た花畑が、視界を埋めるように広がっていた。庭の端には大きな桜の木まである。春を象徴するように花はどれも満開で、まるで絵本の挿絵みたい。大きく息を吸い込んだら、花の混ざった空気が肺に入って、体の芯が甘ったるくなった。

「きれいでしょう」

 いつの間にか隣に立っていた智恵理さんが、自慢げに胸を張った。

「死んだダーリンがすきでね、春は特にきれいなの。手入れは面倒なんだけどね」
「……あの建物は?」

 わたしは大きな桜の近くにある、白い建物を指差した。倉庫にしては大きい、一階建ての建物が、庭の片隅にぽつんと存在している。華やかな庭に不釣り合いなさみしさをまとっているそれは、独立した一つの国のようだった。あまりにもまわりになじんでいないから、なんだかものすごく気になったのだ。

 智恵理さんはわたしの指差した方向を一瞥すると、まるで汚物を見たように顔をしかめた。

「ああ……あれは、うちの離れ。あそこには近づいちゃだめよ」
「どうして?」
「雫ちゃんの教育によろしくない」

 一体どういう意味なのだろう。わたしを拒絶するように、智恵理さんは「あっ、そうだ!」と勢いよく手を叩いた。

「雫ちゃん、恋人いる?」
「は? ……いないですけど」
「あら、そうなの。もし恋人ができても、うちは異性入室オッケーだから心配しないでね。まぁ……当分ないでしょうけど」

 智恵理さんはわたしをじろじろと眺め、実にいやなため息を漏らした。ずいぶん失礼なことを言うものだ、と思ったけれど、図星なので反論できない。どうせ彼氏なんてできたことないし、すきな人さえいないですよ。加えて、今の格好は着古した無地のTシャツに安物のジーンズ。ぐぅの音も出ないとはこのことである。

「じゃ、とりあえずわたしは退散するわね。困ったことがあったらいつでも声かけて」

 智恵理さんはわたしに鍵を手渡すと、上機嫌で部屋から去っていった。



 ひとりになったわたしが最初に始めたのは、ブロックのように積まれた段ボールを片っ端から片づける作業だった。ガムテープを乱暴に剥がして、衣服や本を取り出す。それを衣装ケースや本棚に収納、その繰り返し。単純な作業だけど、意外と手間と時間がかかる。しまったなぁ、こんなに面倒だとは思わなかった。やっぱり、お母さんに手伝いにきてもらえばよかったな。いくら後悔してももう遅い。

 根気よく作業を続けること約五時間。足の踏み場のなかった部屋も、ようやく人が住める空間になってきた。ぎっしり衣類が詰め込まれた衣装ケース。本棚には真新しい教科書類。ここまでやれば上出来だろう、と、額に滲んだ汗を拭う。さぁ、残すところあと一つだ。そう意気込んで最後の段ボールを開封した瞬間、体温が、すぅー……っと下がっていくような感覚に襲われた。

 そこにあったのは、年季の入った古いカメラだった。ところどころに傷があるけれど、黒色が、塗りたてみたいにてらてらと光っている。押入れに封印していたはずなのに、どうしてここにあるんだろう。まるで死んだ人が帰ってきたみたい。よく見たら、段ボールの底には小さなアルバムまで入っていた。わたしが今まで撮りためてきた写真が詰まっている。きっとお母さんが勝手に入れたのだろう。気を利かせたつもりなのだろうか。いずれにせよ、とんだお節介だ。

 わたしはカメラとアルバムを乱暴に取り出し、押入れの一番奥に押し込んだ。段ボールをぐしゃりとへこませて、ベランダの外に放置する。全身の疲れを吹き飛ばすように、背中からベッドへ倒れた。

 視界いっぱいに、白いだけの天井が広がる。しぃん、と、絶え間なく響く静寂がうるさい。スマートフォンの時計を見ると、もう十九時を過ぎていた。いつもだったら、お母さんがリビングから「ご飯よぉ」と叫ぶ頃だ。でも、今日からは違う。お父さんもお母さんもいない。今日からわたしは、ひとりぼっち。

 ふと、夕食を準備しなければならないことに気がついた。外も暗いし、そろそろ買い出しに行かなければ。重たい体をなんとか起こし、わたしはコンビニへ向かうことにした。
 


 外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でて気持ちよかった。ぼんやりと夜空を見上げると、数個の星がさみしげにちかちかと瞬いている。都会は星が少ないって本当だったんだ。自然の光も、地上にある人工的なライトに負けてしまうのだろうか。そうだったら、ちょっと悲しい。

 最寄りのコンビニで、パスタと二リットルのお茶、それに食パンを買って帰路に着いた。部屋に戻る前になんとなく、庭の端っこにある桜に近づいてみた。春真っ盛り、桜も満開。薄紅色の花びらが、ひらひらと宙に舞っている。月の光で反射して、まるで雪のようだ。こんな都会のど真ん中にも、桜の木ってあるんだなぁ。一歩大通りに出たら、見る影すらないのに。桜だけじゃない。花壇に植えられているたくさんの花も、きっとここにしかない。

 写真を、撮りたいな。

 ごく自然に、そう思った。あのカメラで、最高の一枚を撮りたい。そう考えて、ああ、と我に返った。そうだ、もう撮れないんだった。褒めてくれる人はもう、どこにもいないのだから。

 わたしの心を映すみたいに、月が雲に隠されて、夜の闇が深まった。一体、何を考えていたのだろう。今更写真を撮ろうだなんて、ばからしい。早く部屋に戻ってパスタを食べよう。歩き出そうとした、その時だった。

 すぐ近くから物音がした。びっくりして振り向くと、離れの扉が開いている。人の気配を感じたわたしは、慌てて桜の木の陰に隠れた。

 ないしょ話をしているような、男女の声が聞こえた。わたしはそっと顔を出し、じぃっと暗闇に目を凝らした。

 男の人の姿が見えた。暗くてよく分からないけれど、背が高くてすらっとしている。あんなところで何をしているんだろう。そう考えていたら、真っ白な細い腕がぬぅっと暗闇から伸びてきて、彼を部屋の中へと引きずり込んだ。

 ふたりのささやき声がとまった。

 何も見えないはずなのに、なぜか、胸がどきどきした。

 数秒後、男の人がもう一度姿を現した。軽く手を振って、足早にその場を離れていく。

 彼を見送るように、女の子が部屋から出てきた。わたしは息を潜めてその後ろ姿を見つめた。腰まで伸びた長い髪が、踊るように風になびいている。白くて長い手足が、暗闇にぼんやりと浮かび上がっていた。男の人の姿が見えなくなっても、まるで時間がとまったかのように、彼女はその場に立ち尽くしていた。

 より一層強い風が吹いて、庭中の草花が、さぁぁぁ、と歌うように音を立てた。桜の花びらが、彼女を隠すように舞い落ちてくる。手に持っていたビニール袋がガサガサと騒ぐ。ゆっくりと、彼女が振り向いた。

 目が、合った。

 わたしは咄嗟に木の陰に身を隠した。両手で口を覆って、じっと息を潜める。一分ほどかくれんぼしたら、足音と、扉の閉まる音が聞こえてきた。わたしは細心の注意を払い、離れの扉が閉まっていることを確認して、一目散にアパートへと逃げ込んだ。一気に二階まで駆け上がり、もつれる手でドアを開けて、籠城するように鍵をかけた。

 びっくり、した。

 体中の空気を押し出すように、長く息を吐いた。胸に手をあてたら、心臓が飛び出しそうなほどばくばくしている。

 見てはいけないものを見てしまった気がした。ロミオとジュリエットの逢瀬みたいな、ロマンチックで、でもどこか、危うい感じ。あれは一体何だったんだろう。何をしていたのだろう。あの女の子は誰だろう。おそろしいくらいきれいだった。顔を見なくても、雰囲気だけでそうだと分かった。そんな、気がした。

 ふらふらと部屋の中に入ったわたしは、カーテンの隙間から庭をのぞき込んだ。満開の桜の近くに、ぽつんと建っているそれは、神秘の宮殿みたいな風格があった。窓はついているものの、中は真っ暗で見えない。人がいる様子もない。だけど確かに、あの子はあそこにいたのだ。

 わたしはカーテンを閉め、ぐにゃりと床に座り込んだ。まるで脳みそがふやけてしまったみたいだ。床の一センチ上に座っているみたいな浮遊感が抜けない。買ったパスタを一口食べたら、少し冷めていた。



 部屋の片づけや買い物に追われていたら、あっという間に入学式の日になった。真新しい制服はなんだかこそばゆいし、汚れ一つないカバンを持つのもそわそわする。春は、新しいものだらけ。

 十五分ほど自転車をこいだら、もう高校が見えてきた。与えられた教室に入ると、大半の生徒はもう自分の席に着いていた。わたしの席は案の定、一番前の一番窓際。小学校の時からの定位置だ。席に着くと、まわりからぽつりぽつりと友だち作りの会話が聞こえてきた。この人はどんな性格か見定めるための、お芝居みたいな会話だ。

 わたしはこの空気が苦手だった。別にひとりでいたいとか、友だちがいらないってわけじゃない。愛想笑いや、ぎこちない会話が苦手なのだ。ああ、早く先生がやってきて、このお芝居を中断させてくれないかな。始業のチャイムが鳴るのをぼんやりと待っていたら、後ろから肩を叩かれた。

「なぁ、雨宮雫だろ」

 振り向いた先にいた男子生徒が、確かめるようにわたしの名を呼んだ。短い髪に、パッチリとした二重。どこかで見たことがあるような、そうでもないような。なかなか答えを出せないわたしに痺れを切らしたのか、そいつは「おれだよ、おれ」と自分を指差した。

「忘れちゃったのか? 奏真だよ、一色奏真」
「えっ、奏真?」

 わたしは不満そうに口を曲げているその顔をまじまじと見つめた。雰囲気は変わってしまったものの、確かにわたしの知っている男の子だ。昔はもっと背が低くて、女の子のようなかわいらしい印象だった。だけど今は背も伸びて、体つきもがっしりしている。男の子の成長スピードってめまぐるしい。

「久しぶり。なんか、感じ変わったね」
「そうか?」
「うん。背伸びたし。何センチ?」
「一七五。牛乳飲みまくってたら伸びた。雫はあんまり変わらないな」
「まぁ、奏真に比べたらね。ここ受けてたの、知らなかった」
「おれも、まさか雫がいるとは思わなかったよ。引っ越したの?」
「うん。わたしだけね」
「わたしだけって、えっ、ひとり暮らし? すっげぇな」
「大げさだよ」

 大きな瞳が、新しいものを発見したみたいにきらきらと輝く。外見は変わったけれど、その純粋な反応はちっとも変わっていない。  

 一色奏真は、保育園からの幼なじみだ。家が近所だったこともあって、小さい頃はお互いの家でよく遊んだ。小学五年生の時、奏真が転校したのを境に疎遠になってしまったけれど、まさかこんなところで再会するとは。腐れ縁というやつだろうか。

「また雫と同じ学校かぁ。しかも同じクラスなんて、小三以来じゃない?」
「よく覚えてるね、そんなことまで……」
「そりゃ覚えてるよ、ついこの間じゃん」

 この間って言っても、数年以上前のことだろう。わたしなんて、昨日の朝食すら思い出せないのに。奏真は懐かしそうに目を細めた。

「昔はよく一緒に遊んだもんな。あっ、そうだ! 写真は?」
「えっ?」
「雫、写真撮るのすきだったよな。まだ撮ってるの?」
「……ううん、撮ってない」
「そうなの? どうして?」
「あんなの、ただの趣味だし。続ける理由なんてないもん」

 ぶっきらぼうに答えると、奏真は「なんだ、残念だなぁ」と肩を落とした。わたしは話題を変えようと、きょろきょろと教室を見渡した。

「そ、そういえば、あの席の子まだ来てないね」
「え? どこ?」
「ほら、あの一番後ろの」

 奏真は振り向いて、わたしが指差した先を見やった。廊下側の列の、一番後ろ。ちょうどわたしの対角線上にある席だ。もうすぐ始業のチャイムが鳴るというのに、一向に人が座る気配がない。入学式から遅刻だなんて、きっと、とんでもない不良に違いない。

「蓮城りせ」
「えっ?」
「あの席の生徒。蓮城りせってやつだろ」
「何で知ってるの?」
「名簿見たら分かるよ」

 そうだった。手元にあるクラス名簿を見ると、なるほど、確かに「蓮城りせ」と書いてある。最後の席だから、特定するのも容易だ。

 蓮城りせ。なぜだろう、歯の奥に何かが引っかかる。

 わたしの思考をさえぎるように、始業のチャイムが鳴った。担任の先生が教室に入ってきて、軽い自己紹介と今日の流れを説明した。それから体育館に案内され、あれよあれよという間に入学式が始まった。

 校長の長い話を延々と聞くだけの簡素な儀式が終わったら、高校一年生の初日はめでたく終了だ。ちょうど十二時を過ぎたところだったので、入学式に来ていたお母さんと昼食を食べることになった。

「荷物の整理は終わった? 食べ物には困ってない?」

 三日ぶりに会ったお母さんは、オムライスを食べながら、ひどく饒舌に娘の心配をしてきた。いつもはノーメイクにステテコのくせに、今日はめずらしくばっちりお化粧をして、スーツなんか着ちゃってる。

「お米、足りなくなったら早めに言うのよ。送ってあげるから」
「いいよ、自分で買うから……」
「でも、お米って重いでしょ。いいわよ、缶詰とかレトルト食品と一緒に送ってあげる」

 わたしはあいまいに返事をして、とろとろのオムライスを口に運んだ。お父さんが心配してるだの、体育館は少し寒かっただの、奏真くんと再会するなんてびっくりね、だの。ひとりでしゃべり続けるお母さんは、まるでラジオのパーソナリティみたいだ。どうでもいい話題は、右から左へするりするりと抜けていく。

 今、わたしの頭の中は、「蓮城りせ」のことでいっぱいだった。結局彼女が登校することはなく、残念ながら会うことはできなかった。思い違いかもしれないけど、「蓮城」なんてめずらしい苗字、めったにあるものではない。

 もしかして、だけど。あの夜出会った女の子は智恵理さんの娘で、今日欠席したクラスメイトと同一人物なのだろうか。だったらなぜ、智恵理さんはわたしに娘の存在を教えてくれなかったのだろう。普通、わたしと同い年の娘がいたら、話題の一つにでも出しそうなのに。それに、あの時――

「ねぇ、聞いてるの?」

 お母さんが苛立ったように、わたしの目の前でぶんぶん手を振ってきた。

「聞いてるよ」

 わたしは清々しいほどの嘘をついて、オムライスを口に詰め込んだ。


 
 ランチを終えたお母さんは、娘との別れを惜しむことなく、軽い足取りで喧騒の中へと消えていった。久々に会ったママ友と、互いの子供の悪口を言い合うのだろう。わたしも一緒に、と誘われたけれど、わざわざ嫌味を言われにいく筋合いはない。

 アパートに戻ったわたしは、自室に入るより先に、一階のインターホンを鳴らした。

「あら、雫ちゃん。おかえりなさい」

 目の前に現れた智恵理さんは、フリルのついたシャツに赤いスカートという、宝塚女優みたいな恰好をしていた。やっぱり、普段からこういう服装なんだ……。漂ってくる香水から逃れるように、わたしは一歩後ろに下がった。

「入学式はもう終わったの? どうだった?」
「ふつーです」
「ふつーかぁ……今時の子ね。趣味とかないの? 彼氏もいないんでしょ。女の子なんだし、もっと楽しみ持った方がいいわよ」
「はぁ……」

 わたしはずり落ちそうになる眼鏡を押さえながら、適当に相槌を打った。どうして大家にそんなことを言われなければいけないんだろう。そう思わないこともないけれど、いちいち腹を立てる気力もない。現代っ子の典型である。

「あの、これ母から」
「えっ、いいの? 嬉しーい!」

 お母さんから預かってきた菓子折りを渡すと、智恵理さんは女子高生のように甲高い声を上げた。

「もぉー、気なんて遣わなくていいのに。ありがとうって伝えておいて」
「はい。あの、えっと……」
「ん? なぁに?」

 わたしはちょっとためらって口をつぐんだ。どうしてこんなに気になるのか、自分でも分からない。知らなくてもいいことなら、知らないままでいればいい。いつものわたしなら、そう思うのに。「雫って、冷めてるね」卒業式で言われた、あの言葉を思い出す。そう、そうだ。わたしって、冷めてる、はずなのに。

「智恵理さんって、娘さんいますか? わたしと同じくらいの……」
「……いきなり、どうしたのよ」

 智恵理さんの表情が、テレビのチャンネルを切り替えたみたいに険しくなった。怯みそうになったけれど、聞いた以上は引き返せない。

「同じクラスに、蓮城って苗字の子がいるんです。それでちょっと、気になって……」
「ふぅーん、雫ちゃんと同じクラスなんだ。学校も行かずにぷらぷらほっつき歩いてるような子、娘なんて思いたくないんだけどね」
「じゃあ、あの離れにいるのって……」
「もしかして、りせに会った?」

 何も言えずに目を逸らすと、智恵理さんは苛立ったように前髪を掻き上げた。

「友だちになろうなんて思わないでね。あんな勝手な子と仲よくしても、雫ちゃんにメリットないわよ」
「どうして別々に暮らしてるんですか? 同じ敷地内なのに……」
「そんなのわたしが聞きたいわよ! 何にも言わずに出ていって、しかも学校まで行かなくなって……。いじめが原因とかならまだ分かるんだけど、そうでもないみたいだし。もう心配するのも疲れちゃった」

 濁っていく空気を吸い込むまいと、わたしはきつく唇を結んだ。やっぱり軽率に聞くんじゃなかった。親子関係が悪いことくらい、予測できたはずなのに。しゃべりすぎたと思ったのか、智恵理さんはごほん、とわざとらしく咳払いをした。

「とにかく、あの子にはもう近づいちゃだめよ! 性病がうつるから!」
「は、はぁ……」

 十五歳のわたしにはとても不適切な単語を投げつけて、智恵理さんはそそくさと部屋の中に戻っていった。

 ひとり残されたわたしは、振り返った先にある小さな建物を見つめた。大きな桜の近くにひっそりと佇む、「蓮城りせ」のお城。隙間なく閉められたカーテンは、まるで鉄の扉のようだ。中の様子は見えないし、夜になっても明かりが灯ることはない。

 だけどあの夜、彼女は確かにあそこにいたのだ。正直、あの日のことはあまりよく覚えていない。銀色に輝く月と、桜の花びら。夜の闇に浮かび上がった肌が、おそろしいほど白かったこと。思い出すのは、それだけ。



 ひとり暮らしって案外退屈だ。自由と引き換えに会話を失う。暇を潰す相手をなくして、ひとりごとばかりが増えていく。

 それに気づいたのは、入学式が終わってすぐのこと。もう部屋もこれ以上できないってくらいきれいに片づけ、足りないものがないってくらい買い出しも終わり、入学式でもらった説明資料も一通り読み終わって、あとは始業式を待つだけっていう日曜日。

 何をするわけでもなくだらだらとテレビを見ていたら、あっという間に日が暮れてしまった。夕ご飯もお風呂も済ませ、時計を見ると二十三時。電気を消してベッドに寝転んでみるけれど、目蓋は全然重くならない。

 彼女と出会うことになるのは、そんな、退屈な夜だった。

 ちょっとだけ開いた窓の外から、微かな歌が聞こえてきた。わたしははっと頭を上げて、その歌声に耳をすませた。

 風に揺れる風鈴のような、朝にさえずる小鳥のような、透明な歌声だった。わたしは慌ててベッドから下りてベランダに出た。声は確かに聞こえるのに、庭には人の姿なんてどこにも見えない。

 気づいたらわたしは、アパートの外に飛び出していた。いつものわたしなら絶対にこんなことしないのに。見えない糸に引かれるように、歌声によって、誘い出されたのだ。

 外に出ると、冷たい夜風がびゅうっと襲いかかってきた。寒い、だけど、そんなこと今はどうだっていい。この歌声が消える前に、早く、早く見つけなきゃ。何かに急き立てられるように、右から左へ何度も視線を往復させた。色とりどりの花たちが嘲るように左右に揺れているだけで、人の姿はどこにも見えない。歌声だけがBGMのように聞こえ続けている。

 わたしは息を潜め、もう一度歌声に耳をすませた。草木のさざめきに紛れた声は、細い糸みたいに頼りない。切れないようにそっと、足を地面に滑らせていく。吸い寄せられた先にあったのは、大きな桜の木だった。

 誰も、いない。春の寿命を縮めるように、花びらがはらはらと降っているだけ。でも確かに、ここから聞こえる。一体どこにいるんだろう。桜を見上げたわたしは、ぎょっと目を見張った。

 青白い二本の足が、ぬぅっと暗闇に浮き出ていた。風に流されるように、ぶらぶらと宙に揺れている。雲に隠れた月が顔を出し、あたりがぼんやりと明るくなった。

 暗闇でもはっきりと分かる、天使みたいに甘い顔立ち。雪みたいに白いワンピース。長い髪が、花びらに絡まるようにたゆたっている。祈るように。楽しそうに。でも、切なげに。澄んだ声で歌っている。

 ――ああ、この子だ。
 この子が、「蓮城りせ」だ。

 歌声がとまり、りせの大きな瞳がわたしを捉えた。わたしは息をするのも忘れて、呆然とその場に立ち尽くした。声を出すこともできない。出そうとも思わない。指先すら動かない。動かそうとも思わない。まるで、脳みそがとろけてしまったみたい。

 りせは未知の生物に出会ったように、注意深くわたしを見つめた。わたしもまばたき一つせず見つめ返した。

「ハロー」
「……は、はろー……?」

 突然出た英語に、わたしは動揺した。えっ、何で? どうして英語? もしかして、外国人だった? ありもしない可能性を考えてうろたえていると、りせはけらけらとおなかを抱えて笑い出した。まるでいたずらが成功した子供のようだ。動揺と混乱がぐるぐると渦巻く中で、ああ、からかわれたのだなぁということだけが、すとんと腹に落ちてきた。

 ひとしきり笑いを吐き出したりせが、突然、宙ぶらりんだった足を枝の分かれ目にかけた。

「ねぇ、そのまま動かないで」
「えっ?」
「受けとめて」
「ちょ、ちょっと……」

 わたしは大慌てで両腕を広げた。拒絶も逃亡もできないうちに、りせの体が空中に舞った。

 ふわり。長い髪が宙に広がる。桜の花びらを道連れに、りせが空から降ってくる。

 彼女の重みを捉えたら、堪え切れずにそのまま地面に倒れ込んだ。背中に強い衝撃が走って、全身がびりびりと痺れる。うぅ、と短く呻いたら、上に乗っていたりせが、のっそりと頭を起こした。

 間近で見るりせの瞳はものすごく大きくて、黒い真珠のようにきらきらしていた。肌は同じ人間と思えないほど真っ白で、滑らかで、ああ、もう、どうしよう。自分が恥ずかしくてたまらない。

「……ごめんね」

 唇から漏れたのは、幽霊みたいにか細い声だった。

「重かったでしょ」
「……平気」

 奪われていた声を、喉の奥からぎゅうっと絞り出した。本当は、声じゃなくて心臓が口から飛び出しちゃいそうだ。やわらかな髪が頬に触れてくすぐったいし、甘ったるいかおりで頭がくらくらする。りせはのんびり立ち上がって、膝についた土を軽く払った。

「服、汚れちゃったね」

 嘲るような言い方をして、わたしに手を差し伸べる。ちょっと上から目線だと思った。まぁ、実際上にいるわけだけれども。平気、とロボットのように繰り返して、わたしは彼女の手を取った。ぐいっと乱暴に引っ張るので、足がもつれてりせに倒れかかってしまった。きゃっ、と反射的に飛び跳ねたら、繋いでいた手がぱっと離れた。りせはふしぎそうに小首を傾げた。わたしはもうどうしたらいいのか分からなくて、ひとまず心臓が飛び出さないようにと、唇を真一文字にきゅっと結んだ。目の前の女の子はわたしと違ってとても落ち着いていて、そういう彼女を見ていたら、どうしてわたしだけこんなに取り乱しているのだろう、すきな芸能人に会ったわけでもあるまいし、と、ますます自分を恥ずかしく思った。

 わたしの焦りを包み込むように、りせはふんわりと微笑んだ。

「来て」



 りせに招かれたのは、桜のすぐそばにある白い建物だった。

「すごい……」

 一歩足を踏み入れたら、そこは、星の海だった。電気のない薄暗い空間に、投影された星の光が無数に浮かんでいる。まるで本物の星空みたいだ。

「きれいでしょ」

 薄暗闇の中で、りせが自慢げに微笑んだ。

「ごめんね、暗くて。適当に座って」

 わたしはおそるおそる靴を脱いで部屋に上がり込んだ。テーブルの前に腰を下ろし、そわそわと部屋の中を見渡してみる。女の子らしいくまやうさぎのぬいぐるみ。マカロンの形のクッション。棚にはたくさんのCDが並べられている。手に取って目を凝らすと、どれもこれも「コペルニクス」というアーティストのものばかりだった。

「ねぇ、紅茶すき?」

 わたしがうなずくと、りせはテーブルの上のスタンドライトをつけて、キッチンでお湯を沸かし始めた。わたしはぼんやりとりせの後ろ姿を眺めた。ああ、どうしてこんなことになってしまったのだろう。暗闇でふたりきり、なんて。まるでいけないことをしているみたい。わたしは緊張を紛らわせるように視線を泳がせた。

 テーブルの上に置いてある写真立てが、ふと目に飛び込んできた。ライトに照らしてみるけれど、よく分からない。

「それね、しし座流星群」

 キッチンから戻ってきたりせが、はい、とマグカップを差し出した。

「2001年にね、一時間あたり二千個も出現したんだって。その時の写真だよ。これを越える流星群は当分見られないだろうって予想されてるの」
「……星がすきなの?」

 マグカップを受け取りながら尋ねる。りせは「別に」とそっけなく答え、わたしの隣に座り込んだ。

 こんなに暗い部屋の中じゃ、表情すらよく見えない。漂ってくる香水のかおりと、闇に揺れる長い髪と、青白く浮かぶ肌だけが、彼女の「すべて」だ。

「あなた、新しい人でしょ。名前は?」
「あ、雨宮雫」
「ふふっ、潤ってるね」
「よく言われる」

 りせの大きな瞳がふっと細められた。笑っているようだ。

「わたしのこと、ちーちゃんから何か聞いてる?」
「ちーちゃん?」
「蓮城智恵理。不良娘とか、引きこもりとか言ってなかった?」
「……聞いてないよ」
「優しいね」

 りせはすべてを見透かしてつぶやいた。わたしは嘘を蹴ちらすように、紅茶を舌に流し込んだ。

「あなたは、蓮城りせ、さん?」
「りせでいいよ。わたしの名前、知ってるんだ」
「今日入学式で……あなたと同じクラスだったの」
「へぇ、そうなんだ。クラスまで同じなんて運命だね」

 運命、という言葉にどきりとした。マグカップを包む冷えた両手が、どんどん熱を帯びていくのが分かってこわくなった。

「入学式、どうして来なかったの?」
「あ、わたしね、出席日数足りなくて留年してるの。だから、ってわけじゃないんだけど」
「えっ、じゃあ年上?」
「うん。でも、敬語とか使わなくていいからね」

 わたしの心境を察したように、りせが早口で言った。留年、という事実には驚いたけれど、なんだか妙に納得した。りせは同世代の子たちよりずいぶん大人びて見える。髪を掻き上げる仕草とか、耳につけたピアス、とか。全部、わたしとは正反対だ。

「学校には行かないの?」
「今のところ」
「どうして?」
「制服がきらいなの。子供の象徴みたいで」

 たったそれだけ? 尋ねようとしたけど、りせの目を見てやめた。それだけじゃないことなんて、聞かなくても分かった。

「ここに越してきたってことは、ひとり暮らしだよね。どこに住んでたの?」
「静岡」
「遠いね。何でこっちに来たの?」
「……なんとなく」
「そう。ま、そういうこともあるよね」

 りせはうーんと伸びをして、そのまま背中から床に倒れた。長い髪が絨毯みたいに床に広がる。

「同年代の女の子と話すの、久しぶりだな。なんか楽しいや」
「……うん。わたしも」

 わたしはちょっと嬉しくなって微笑んだ。ふひひ、とりせがいたずらっぽく笑う。

 なんだか、ふしぎだった。ついさっき出会ったばかりなのに、全然ぎこちなくない。会話を探らなくても、知りたいことが喉から出てくる。こんな気持ち、初めてだ。

「りせは、いつからここで暮らしてるの?」
「半年くらい前かな。本当は雫みたいに家を出たいんだけどね、お金がないから。食費とか、最低限の生活費は自分で稼いでるの」
「えっ、じゃあ、生計が別ってこと?」
「全部ってわけじゃないけどね」

 びっくりした。家族がすぐそばにいるのに、そんなの、まるで他人みたい。

「どうして智恵理さんと一緒に暮らさないの? こんなに近くにいるのに」

 りせは大きな瞳で天井の星をじっと見つめ、黙った。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。怯えながら口を閉ざしていると、りせはゆっくりと体を起こした。

「わたし、呪われてるの」
「……え?」
「魔女に呪いをかけられたのよ」

 何を言っているのか、分からなかった。からかわれているのかとも思ったけれど、彼女の目は真剣だった。

 りせはそっと立ち上がると、偽りの星空に手を伸ばした。

「わたし、ここから出られないの。あそこに居続けたら死んでしまうから、ここにいるの」

 祈るように、縋るように。その姿はまるで迷子の子供のようにさみしげで、今にも消えてしまいそうなほど儚かった。

「ひとりぼっちでもがきながら、海の藻屑になる時を待ってるの」

 わたしはどうしたらいいのか、何を言えばいいのか、何も分からなかった。彼女が伝えたいことも、彼女が抱えている大きな秘密も、まだ、何も知らなかった。

 りせは振り向くと、泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「……ねぇ、雫。また会おうよ。わたし、雫のことが知りたい」

 天井に伸ばした手をわたしに差し出す。つかんだら、何かがわたしの手のひらに落ちてきた。開いてみたら、そこには小さな瓶があった。じっと目を凝らすと、中にはさらに小さな星くずがたくさん入っていた。

「……金平糖?」
「うん。雫にあげる」

 わたしは立ち上がって、りせと向かい合った。どちらからともなく、両手を握り合った。額と額をくっつけたら、彼女の呼吸を頬に感じた。

「……歌が聞こえたら、会いにきてね」

 まるでないしょ話をするように、ひっそりと、彼女は言った。
「誰にも見つからずに、こっそり。わたし、待ってるから」

 やくそく、よ。

 そうささやいた言葉は熱を持ち、暗闇の中に溶けて消えた。



 部屋に戻ったわたしは、夢見心地でベッドの中に潜り込んだ。

 体が熱い。全身がどくどくと脈打っているのが分かる。ぎらぎらと冴え渡った目は、天井のシミまで見つけてしまいそうだ。

 りせと出会った。りせとしゃべった。透明な歌声、白い肌、香水のかおり、甘い約束。ふたりだけの、秘密の時間。

 呪いって一体何だろう。魔女って、どういうことだろう。彼女に対する疑問は会う前よりも深まって、ますます惹かれてしまった。もっと、りせのことが知りたい。もっとりせとしゃべりたい。

 ――歌が聞こえたら、会いにきてね。

 彼女の言葉が心に反響する。あの美しい歌声を、もう一度聞いてみたいと思った。

 わたしは枕元に置いてある小瓶を手に取った。パステルカラーの星たちが、ぎっしりと詰め込まれている。まるで流星群を網ですくい上げたよう。

 蓋を開けて、ピンク色の金平糖を指でつまんだ。桜と同じ色をしたそれを、口の中に放り込む。砂糖で作った小さな星は、甘みを残して、口の中で溶けていった。