贄の花嫁の幸せな嫁入り〜八日後に永久なる愛の契りを〜


 夜のしじまのなか、その花嫁はやってきた。
 笠屋敷家では、贄の花嫁の嫁入りは必ず真夜中に行うというしきたりがある。
 蛇神が夜を好むためと、秘密裏に行うためである。
 贄の花嫁は七日で死ぬ。その後すぐ本物の花嫁を迎えるため、表向き贄の花嫁は存在しないものとされているのだ。
 とうとう、花嫁行列が笠屋敷家へ辿り着く。
 (かご)が静かに降ろされ、御簾(みす)が開けられる。
 白玖はなかを覗いた。暗くてよく見えない。
 籠の闇のなかへ目を凝らしていると、わずかに影がうごめいた。花嫁だ。
 白玖が手を差し出す。しかし人影は白玖の手を取ることなく、自力で籠から降りた。白玖から少し距離をとって。
 雲が晴れ、月が顔を出すと、明かりの下にその美貌がゆっくりと浮かび上がった。
 ――美しい。
 籠の前には、息を呑むほど美しい少女が立っていた。
 月明かりに青白く光る肌は白皙(はくせき)で、まつ毛は優雅に長く、瞬きのたびに音がしそうなほどだ。
 歳はたしか、白玖より五つほど歳下の十七だと聞いているが。
「よく来たな、歓迎する」
 白玖が言う。が、返事はない。
 花嫁はなにも言わず、ただ一度、ゆっくりと瞬きをした。白玖は気にせず続けた。
「俺の名は笠屋敷白玖だ。これから末永くよろしくな」
「末永く……?」
 白玖の言葉に、花嫁である橘花は首を傾げる。
「私は、七日後に死ぬ贄の花嫁ですよ。笠屋敷家の呪いによって」
「あぁ……そうだな」
 白玖は橘花を見つめた。橘花は悲しそうにするでも、怯えるふうでもない。かといって、白玖を責めるふうでもなかった。
 白玖は目を伏せた。
 橘花の認識は、間違っていない。彼女の言うとおり、笠屋敷家は橘花を贄の花嫁として迎え入れた。
 ただし、白玖は……。
「案ずる必要はない」
 ゆっくりと目を開けた白玖は、まっすぐに橘花を見つめる。
「橘花。おまえのことは、俺がぜったいに死なせない」
 白玖は言い切り、橘花の白い頬へそっと手を伸ばした。そのとき、初めて橘花が人形のような顔に表情を滲ませた。近付いてきた白玖の手を拒むように、後ずさる。
「……どういうおつもりですか」
 橘花の声には、困惑の色が浮かんでいた。
「言葉どおりの意味だ」
 白玖がはっきりと告げると、今度は橘花の瞳に拒絶の色が混じる。
 彼女のこれまでの境遇と、この屋敷での立ち位置を考えれば無理もない。
「私に触れたら死ぬのですよ」
 白玖の手は宙をさまよい、なににも触れることなく垂れた。
 白玖は橘花に――贄の花嫁に触れることができない。
 彼女の毒は、皮膚にも染み込んでいるからである。触れた者は、たちまち死に至る猛毒だ。
 だから、彼女の父は橘花を惜しげなく笠屋敷家へ嫁に出した。笠屋敷家へ嫁げばどうなるか、分かっていながら。
「……すまない」
「旦那さまが謝る意味が分かりません」
「……そう、だな……」
 彼女の生家である秋月家にはもうひとり娘がいる。姉の玲花だ。
 秋月家は、かつての先祖にあやかしと交わった者がいる混血の一族であった。
 そのため、秋月家ではごく稀に特殊な力を持った子が生まれる。橘花の姉である玲花もそのひとりで、あやかしの力を受け継いでいた。
 一族を守り、そして繁栄をもたらすであろう陽の力だ。
 しかし、姉の玲花が陽の力を持って生まれたせいか、妹である橘花は陰の力を持って生まれてしまった。じぶんでも手に負えないほどの毒を、その身に宿して。
 秋月家は、橘花を花嫁に出す際、こんな提案をしてきた。
 もし、万が一にも先の花嫁である橘花が亡くなった場合、新たな花嫁に玲花を娶ってほしいと。
 秋月家は、恐ろしい家だ。
 いらないほうも、必要なほうの娘も笠屋敷に送り込もうという。
 贄の花嫁を差し出すということは、笠屋敷家ではなく蛇神に恩を売ったことになる。
 つまり秋月家は、蛇神の加護を受ける笠屋敷家に新たに花嫁を送り、縁戚関係を結ぼうという魂胆なのだ。
 しかし、白玖の父、清雅はそれを分かっていて受け入れた。玲花の嫁入りを拒む白玖の意見を無視して。
『――笠屋敷白玖のもとへ、お前を嫁に出すことになった』
『――これがお前の、最初で最後の親孝行だと思え』
『――しっかりと使命を果たしてくるのだぞ』
 座敷牢で向かい合った父は、橘花にそう言った。
 笠屋敷家がどういう家なのか、その家の花嫁がどういうものなのか、すべて説明した上で、そう命令した。
 悲しくはなかった。むしろ、このまま死んでいくものとばかり思っていた橘花は、嬉しかった。
 このままこの牢のなかで無意味に死を待つより、贄の花嫁として死ねば立派に生きたと賞賛されると思ったのだ。
 家族から最後まで厄介な娘であったと思われずに済むし、なによりじぶんが生まれてきたことに意味があったと思える。
 それならば、あまんじてこの運命を受け入れよう。
 そう、思ったのだが。
 嫁入りの夜、橘花は夫となるひとの顔をまじまじと見つめた。
 白玖は端整な顔をしていた。涼し気で、どこか浮世離れした儚さをまとっている。
 ――このひとは今、なんと言った?
『橘花』
 名前を呼ばれたことに、まず驚いた。けれど、橘花の驚きはそれだけではなく、
『おまえのことは、俺がぜったいに死なせない』
 なにを今さら……。
 ――私を、贄の花嫁として迎え入れたくせに……。
「……どういうおつもりですか」
 首をかしげる橘花に、白玖は澄んだ声で言う。
「言葉どおりの意味だ」
 白玖の眼差しに、橘花はわずかに狼狽える。
「……ですが、私が死なねば、笠屋敷家は滅びるのでは?」
 歴代の贄の花嫁はみな、蛇神に魂を喰われ死んでいる。例外はない。
「それは……」
 言葉に詰まる白玖を見て、橘花は本音を呟く。
「旦那さまは、残酷なかたでいらっしゃるのですね」
 文句を言われるとは思わなかったのか、白玖は押し黙った。
 笠屋敷の繁栄は、花嫁(橘花)の死と引き換えである。
 橘花が贄の花嫁であることは、変えようのない事実だ。助かる方法は、橘花がこの婚姻を受けた時点でもはやないのだ。
 いたずらに期待をさせて、反応を見て楽しむ気でもいたのだろうか。趣味が悪い、と橘花は非難の眼差しを向ける。
「すまない」
「旦那さまが謝る意味が分かりません」
 白玖は、なにやら考え込み始めた。
「あ、あの……」
 少し焦る。言い過ぎたかもしれない。
 贄の花嫁の分際で、立場をわきまえない発言をしてしまった。
 実家に突き返されたらどうしよう。もしそうなれば、橘花の立場はない。
 撤回しなければ、と思って口を開きかけたとき、白玖の指先が、視界にちらついた。
 直後、じゅっと肌が焦げる音と匂いがした。
「っ!」
 驚きのあまり、橘花は目を見張った。
 白玖は、橘花の髪に触れていた。肌ではないとはいえ、橘花の髪にも毒はある。死ぬほどではないだろうが、無事では済まない。
 白玖の苦悶の表情に、橘花はハッと我に返る。
「なっ……なにをするのです!」
 橘花は慌てて着物の袖で、ばっと白玖の手を振り払った。橘花に触れた白玖の手は、真っ赤にただれてしまっていた。
「……すまない。どうしても、橘花に触れたかった」
 今度こそ、橘花は白玖を強く睨む。
「私を夫殺しにさせるおつもりですか」
 贄では飽き足らず、罪人としようとするつもりか、と橘花は白玖を咎める。
「……すまない」
 怒りを滲ませる橘花とは裏腹に、白玖は寂しげな瞳で橘花を見つめた。
 なぜそんな顔をするのか、橘花は分からなかった。
 だって、こうなることは分かっていただろうに。なぜ毒にじぶんから触れようなどと思ったのか――わけが分からない。
「……とにかく、八日後、必ずこうして顔を合わせて話そう。それまでは俺を恨んでもらってかまわない。だが、お前が八日目を迎えられたときは、俺を夫として受け入れてほしい」
 白玖は真剣な眼差しでそう告げると、くるりと背を向けて歩き出す。
「婚儀はそれまで延期とする。了承してくれるか」
「…………」
 ぽかんとする橘花を、白玖がじっと見つめる。
「今すぐしたいか?」
「あ、いえ。そういうわけでは……」
 というか、贄の花嫁に儀式などいらないだろうと思うのだが。そんな話は父からもされていないし。
 橘花はじっと白玖を見上げた。
 白玖はいったい、どういうつもりなのだろう。
「そうか。では、俺は仕事に戻る。日が昇る前に、また顔を見に来る」
「は……?」
 またとは?
 思っていた対応とずいぶん違うことに、橘花は戸惑いを隠せない。
 橘花は呆然と、白玖の後ろ姿を見つめた。
 橘花に与えられた部屋は、白とレースが印象的な、洋風の部屋だった。
 橘花は、与えられた部屋を見て驚いた。もっと、寒々しい部屋を想像していた。たとえば、秋月家の座敷牢のような。
「ここが私の部屋?」
 そばにいたメイドに訊ねると、彼女は怯えたように橘花を見た。
「は、はい……そうでございます」
 怯えはするが、答えてくれる。橘花はこれまた驚いて固まった。
「……あ、あの……?」
 メイドがおどおどと橘花を窺い見る。
「あ、ごめんなさい。まさか、反応してくれると思わなくて」
「え?」
「私、実家では無視されてたから」
「…………」
 メイドは黙り込んだ。なんと返せば良いのか分からないようだ。
「あ、ごめんね。いきなり。気にしないでいいから」
 それにしても、と橘花は部屋を見渡す。
 なんだ、ここは。
 橘花に与えられる部屋は、逃げ出さないよう、外から鍵がかけられる仕組みの牢だと聞いていた。
 かつて、脱走を図った贄の花嫁がいたためである。しかし、橘花が案内されたこの部屋は、当時から使われていた部屋とは思えない。頑丈な錠もないし、窓も開く。
 橘花は実家の部屋を思い出す。
 一度入り、外から鍵をかけられてしまえば、自らの力で出ることは許されない寒々しい牢。
 暗い照明。薄い布団。仕切りの奥に洗面所とトイレがあるばかりで、ほかにはなにもない。部屋、というより空間、といったほうがしっくりくるそんな場所。
 橘花は与えられた部屋に戸惑う。
 明るくきらきらした照明。柔らかそうなベッドに、陽の光を優しく絡めとってくれそうなレースのカーテン。本棚には文庫本や漫画もある。橘花のために用意されたのだろうか。
 部屋の真ん中でぼんやりしていると、「あの」とメイドが恐る恐る声をかけてきた。
「ここは、歴代の贄の花嫁が使っていた部屋とはべつのお部屋でして……若さまが奥さまのために新たに作った部屋なんです」
 ――わざわざ?
「どうして? 今までの部屋は? 私、鍵付きの牢に閉じ込められるって言われてきたんだけど」
「そ……そちらは今、若さまが使っております。今晩から、若さまはその座敷牢で休むことにすると」
「……は?」
 ――なぜ?
 意味が分からず眉を寄せると、それに対してメイドはびくっと過敏な反応を示した。
「もっ……申し訳ございません。若さまに案内するよう指示されたのがこの部屋でして……」
「いや……べつにあなたに怒ってるわけじゃ」
 ないのだが。
 目が合うと、メイドはやはりびくっと肩を揺らした。
 どうも、橘花のことが恐ろしくて仕方ないらしい。
 橘花はため息をついた。
 実家にいた頃、世話をしてくれたメイドたちも似たような態度だったから慣れているが。
「……ねぇ、あなた、名前は?」
「え?」
 たった七日間しかここにはいないのだから聞かなくてもいいかと思ったが、呼ぶときの名前がないのは面倒だ。
「えと……(たま)と申します……」
「珠。素敵な名前ね」
 なるべく、怯えさせないように微笑む。
「……あ、ありがとうございます」
 珠は一瞬戸惑いの表情を浮かべてから、こわごわと礼を言った。
「私は橘花。贄の花嫁だけれど、よかったらよろしくね」
「……はぁ……」
 それと、と続ける。
「聞いていると思うけど、私はこの身が毒に侵されてる。間違っても私には触れないで。分かった?」
「は、はいっ」
 珠はわずかに目を見張って、橘花を見つめていた。
 橘花の世話は、珠がほとんどのことをしてくれた。
 珠はまだ学生で、近くの中学に通っているらしい。学校に通いながら仕事をこなすのは大変そうだったが、珠は真面目な性格のようで、橘花に怯えつつも丁寧な仕事をした。
 今までのメイドは怯えるか面倒そうな顔を見せるばかりだったが、珠は怯えながらも橘花の問いかけには答えてくれたし、素直に反応してくれる。それも、橘花にとっては予想外なことであった。


 ***


 その夜、白玖が赴いた。
「少し話せるか?」
 窓を開けて月を眺めていた橘花は、白玖の訪問に驚いた。
 嫁入りの際は来ると言われたが、まさか本当に来るとは思わなかったのだ。
 窓を閉めてベッドから降りようとすると、白玖が「いい」と制止する。
 ふと、白玖の手に巻き付けられた包帯が目に入る。手のひらの部分には、黒ずんだ染みが広がっていた。橘花の視線に気付いた白玖が、さっと手を隠す。
 橘花の胸に罪悪感が広がる。
 おとなしくベッドに座ったままでいると、あろうことか白玖は橘花のすぐとなり、ベッドに腰を下ろした。橘花と並ぶかたちで。
 橘花は慌てて白玖から距離をとる。
「……そんなに逃げなくても」
 離れた橘花に、白玖の表情がほんの少し翳る。
「……あなたはいいかもしれないけれど、私はいやです」
 今でも、橘花の髪に触れたときの白玖の苦痛に歪む顔を思い出すと、心が騒ぐ。心地のいいものではなかった。できれば、もうあんな思いはしたくない。
「……焼き菓子を持ってきたんだ。甘いものは好きか?」
「え?」
「なにが好きか分からないから、いろいろ持ってきたんだが」
「……さぁ。食べたことがないので、分かりません」
「そうか。じゃあ、食べたら感想をくれ。次は好きなものをあげたいから」
「はぁ……」
 橘花は戸惑いながらも、渡された紙袋を受け取った。
 紙袋はほんのりとあたたかく、甘い匂いがした。
 なぜか、無性に泣きたくなる。
「……旦那さまは、どうしてあんなことを言ったのですか」
「あんなこと?」
「ぜったいに死なせない、って……」
 沈黙が落ちた。
「……花嫁を守りたいと思うのは、おかしいことだろうか」
 返事が返ってくるとは思わず、橘花はわずかに目を見張る。
 白玖の眼差しは真剣そのもので、声には抑えようのない切実さが滲んでいた。白玖は本気で言っている。それが分かり、橘花は戸惑う。
「……あ、いえ。ふつうの花嫁ならば、おかしくはないですけれど」
「ふつう?」
「私は、贄ですから。父からはそのように言われて嫁ぎましたし、あなただってそのつもりで私を迎えたのでは」
 白玖がわずかに息を詰める。
「……ずっと気になっていた。橘花はなぜ、こんな目に遭わされて怒らない?」
「怒る?」
「怒るべきだ。生まれてからずっとあのような牢のなかに閉じ込められて、そのうえ……」
 白玖が言葉に詰まる。膝の上で握った拳はかすかに震えていた。白玖のほうが、怒っていた。
「……怒るもなにも、私にとってはそれが日常でした。傷付けられることには慣れていますし、それよりも……私は、傷付けてしまうほうがずっと怖い」
 橘花は既に、その力で母を殺しているのだ。
「……そうか」
 白玖は、包帯に包まれた手をもう片方の手でさすった。
「悪かったな」
「……?」
「触れて、怪我をしたことだ。橘花の気持ちを軽んじた行動だった」
 真摯に言われ、橘花は戸惑う。小さな声で「いえ」と言うのがやっとだった。
「橘花は優しい子だな。それから案外、照れ屋なんだな」
「そ、そんなことは」
 白玖の不意打ちの笑顔に、橘花は顔が熱くなるのを感じた。初めての心地だった。
「……その傷、痛みますか?」
「手はなんともない。でも、少し苦しいな」
 どきっとする。
「苦しい? どこが……」
 不安になって、橘花は白玖を見つめた。白玖は心配そうな眼差しを向ける橘花に、苦笑を向けた。
「そんな顔されると、余計に抱き締めてやりたくなる。でも、それができない。……それに、橘花もそれを望んでない」
 橘花ははっとした。気まずくなって、白玖から目を逸らす。
「望んでないわけでは……」
 白玖に触れられたのは、ただ驚いただけで、いやだったわけではない。と、思う。でも。
 ちらりと白玖を見ると、白玖は驚いた顔をして、それからふっと笑った。
「……そうか。じゃあ、七日の朝が明けたら、抱き締めてもいいか?」
 目が泳ぐ。
「だから、私に触れたら死ぬって……」
「もしもの話でいい。もし橘花の身体から毒が消えたら、触れていいか」
 なぜだか恥ずかしくなって、橘花はくるっと背中を向けた。
「も、もう寝ます」
 背中を向けたまま言って、ベッドに入る。白玖は少し腰を浮かして端に避けた。
「俺は、もう少しここにいてもいいか?」
「ね、寝るんですよ。お話はしませんよ」
「うん。いい。気が済んだら、勝手に出ていくから」
 橘花はふん、と息を吐く。
「……好きにしてください」
 橘花はシーツにくるまりながら、そう返した。頬が熱い。きっと呪いのせいだ、と言い聞かせた。
 笠屋敷家へ嫁入りして二日目の朝が来た。
 目を覚ますと、白玖はいなくなっていた。
 橘花はよろよろと身体を起こす。
 ――いつ帰ったんだろう……。
 いや、白玖が来たと思っていたのは、橘花のただの夢だったのではないか。部屋を見て、そう錯覚してしまいそうになる。
 とはいえ、橘花は悪夢以外の夢を見たことがなかったが。
 ベッドサイドのテーブルにちょこんと置かれた紙袋を見つめ、ぼんやりしていると、扉から声がかけられた。
「失礼いたします、奥さま」
 珠の声だった。
「あ……はい、どうぞ」
 返事をすると、珠が扉を開けて入ってきた。手には盆を持っている。
「お食事をお持ちしました」
「ありがとう」
 橘花が礼を言うと、珠はぽっと頬を染めて、嬉しそうにした。昨日より怯えていない。少し慣れてくれたようだ。
 しかし、珠が持ってきてくれた食事に手を付ける気にはなれなかった。
 朝、起きてから橘花は、食欲を失っていた。
 実家を出る前、父から聞いた話を思い出す。
 父の話によると、笠屋敷家の呪いは嫁入りしたその日から花嫁を蝕むという。
 食欲不振、倦怠感と続き、歩行不良、発熱を経て寝たきりとなるのだとか。
 七日目には、全身が引きちぎられるような痛みで、意識混濁のなか、死に至ると資料には残されているという。
 沼池の中央にいるような気分だ。もがけばもがくほど、ずぶずぶとなかに飲み込まれていくような。
 けれど、手がある。白玖だ。沼池の中央にいる橘花に向かって、まっすぐに白玖の手が伸ばされている。
『八日後、必ずこうして顔を合わせて話そう』
 八日後の話なんて、されると思わなかった。
『婚儀はそれまで延期とする』
 婚儀の話もそうだ。まるで、呪いを解いたあと、やろうとでもいうような。
『また顔を見に来る』
 死を受け入れるな、と言われているような気がした。
 そんなことを言われても、贄の花嫁として嫁いだ橘花に、呪いはどうしようもない。
 そう思う反面、差し出された手に縋りつこうとするじぶんもいることを、橘花は自覚していた。
 いたずらに差し出された手は、橘花にとって、なにより残酷な光に映った。
 望みを知らなければ、こんな恐怖は知らずに済んだ。
 今は食欲不振だけ。倦怠感も歩行不良も発熱もないが、死の影がひたひたと迫っているのはたしかに感じる。
 ――怖い。
 迫る死の恐怖も相まってか、それとも、そのぬくもりに触れるのが怖かったからか。白玖がくれた焼き菓子は、とても食べる気にはなれなかった。
 ぼんやりとその紙袋を眺めていると、ふと、昨日の夕食に出た水まんじゅうを羨ましそうに見ていた珠の顔を思い出した。もしかしたら、甘いものが好きなのかもしれない。
 ……あげたら、喜ぶだろうか。

 おそらく、珠が橘花に心を許したきっかけはその焼き菓子だった。
 案の定、焼き菓子をあげると、珠は瞳をきらきらと輝かせて、それを受け取った。
 こんな高級な焼き菓子を食べるのは初めてなのだと言って無邪気に笑っていた。
 その笑顔があまりに可愛かったものだから、以来橘花は食事に甘味が出たら珠にやろうと思った。
 それから、珠は橘花にも屈託のない笑顔を見せるようになった。
 珠は素直で可愛らしい少女だった。そして、慣れるととてもおしゃべりな子だった。
 二年前、親に売られて笠屋敷家に来てから、仲良くしてくれるメイドはおらず、寂しかったのだという。
「メイド同士で仲のいい子はいないの? 珠は元気だから、可愛がられるでしょう?」
 何気なく訊ねると、珠はそれまでの華やかな声から一転、か細い声で言った。
「……いえ、お姉さまがたは、私よりずっと歳上ですし……私、お仕事の覚えも悪いから」
「そうなの? ここでは、とてもしっかりやってくれているのに」
「えっ! そ、そうですか?」
「うん。私の会話にもちゃんと答えてくれるし……私は、珠がメイドになってくれてよかったよ」
「そっ……そんな……えへへ」
 珠は照れたように笑いながら、手を握ったり開いたりしている。
 可愛らしい。
 もし妹がいたら、こんな感じだったのだろうか、と微笑ましくその様子を眺めていた。
 そのとき、ふと彼女の腕に黒い影が見えた気がした。
 その影は、これまでも幾度となく橘花の心に引っかかりを落としていた。深い仲でもないし、見間違いだろうか、と思って聞かずにいたけれど。
「……ねぇ、その痣ってどうしたの?」
 珠の顔が引き攣るのが分かった。
「……あ、えと……これは、生まれつきで」
 言いながら、珠は服の袖をぐっと引き伸ばした。
 ひととの付き合いが希薄な橘花でも、それが嘘であることは分かった。
 けれど。
 これ以上話したくない、とでも言うように、珠は俯いてしまう。
「……そう」
 橘花はそれ以上、なにも聞けなくなってしまった。
「あ、そうだ。焼き菓子、どうだった?」
 橘花は話を変えようと、昨日あげた焼き菓子に話題を変える。
 珠はわずかに視線を彷徨わせてから、
「あ……は、はい! とっても美味しかったです!」
 と、答えた。
「そっか。よかった。珠は焼き菓子は好き?」
「はい!」
「そのほかでいちばん好きなのはなに?」
「いちばん……は、プリンでしょうか」
「ぷりん?」
 橘花は初めて聞く。
「はい! 熱が出たとき、父がよく買ってきてくれました」
「そうなの」
 珠の笑顔に、橘花は眩しそうに目を細めた。
「……まぁでも、結局その父にも売られちゃいましたけどね」
 珠は悲しみの混ざった笑みを浮かべた。


 ***


 嫁入りして三日目の深夜、いつものように白玖が部屋に訪れた。
 白玖はやはり、深夜にしか訪れない。昼間なにをしているのか気になったが、聞く気にはなれなかった。
 しかしその日やってきた白玖は、むっつりとしていた。
「……なんですか?」
「なにがだ?」
 被せるように質問返しされ、橘花はむっとする。
「……だってなんだか、機嫌が悪そうなので」
 いきなりやってきて、ふくれっ面をされても困る。
「…………」
 橘花は困ったように白玖を見た。白玖はしばらくむっつりしたあと、橘花の眼差しに根負けしたように息を吐いた。
「……焼き菓子」
「え?」
 白玖は、聞こえるかどうかくらいの小さな声で呟く。
「……俺があげた焼き菓子。珠が嬉しそうに持っていた。橘花からもらったと言っていた」
 白玖は口を尖らせて言った。
「……もしかして、焼き菓子を珠に譲ったから怒ってるんですか?」
 図星をつかれたことが余計苛立ったのか、白玖は、
「怒るだろう! 俺は橘花にあげたのに」
 と言った。
 そういうものなのか、と橘花は反省した。まさかそんなに機嫌を悪くされるとは思わなかった。
「……ごめんなさい。もうしない」
 しゅんとした橘花に、白玖は慌てる。
「あ、いや……責めているわけじゃない。ただ、寂しかっただけで」
「食欲がなくて……食べられなくて悪くするより、珠が食べてくれたほうがいいと思って」
 呟く橘花に、白玖はハッとした。
「食欲がないのか?」
「……まぁ、はい」
 橘花は小さく頷く。
「……なにか食べられそうなものはあるか? 用意する」
「いえ、べつに大丈夫です。どうせ……」
 抗ったところで死ぬのだし、と言いかけて、口を噤む。
 さすがに白玖の前でそう言うのは不謹慎だろう。
「……じゃあ、プリン」
 ふと、そんな言葉が口をついた。
「プリン? プリンが好きなのか?」
「あ、いえ、食べたことはないのですが……珠が好きだと言っていて。あまりに嬉しそうに言うから、食べてみたくなって」
「そうか。分かった。明日には必ず用意する」
「……ありがとうございます」
 プリンがどういうものかは知らないけれど。
 白玖がくれたものなら食べられる気がする、と橘花は思った。
 その翌日。
 白玖は約束どおり、プリンを持ってきた。初めてのプリンは、不思議な食感だった。とろとろしていて、濃厚で美味しい、と思った。
 橘花は白玖とともにプリンを食べながら、話をしていた。
「――珠ですか?」
「あぁ。あの子はどうだ?」
「どうもなにも……」
 橘花はプリンを食べていた手を止め、考える。
「珠はまだ幼いし、メイドになって間もないから、いろいろ粗相もあるかと思う。なにかあったら遠慮なく言ってくれ」
 その言葉に、ふと疑問が浮かんだ。
「……気になったのですが。珠を指名したのは、旦那さまですか?」
 橘花は、贄とはいえ表向きは花嫁である。
 べつに、珠に不満があるわけではないが、次期当主の花嫁に付くのが新米のメイドというのは、どうなのだろう。
 橘花は世間一般のふつうというものを知らないが、それでも違和感を抱かずにはいられない。
 橘花の疑問に、白玖は気まずそうな顔をした。
「……いや、最初はメイド長に頼んだんだが、本人の強い希望があったとかで珠に変更したんだ」
「珠の希望?」
「あぁ」
「…………そうですか」
 橘花は呟く。
「珠では不満か? やっぱり、メイドは変更したほうがいいか?」
 白玖が変に気を回したので、橘花は慌てた。
「いえ。珠はよくやってくれています」
「そうか。なら、なんだ?」
「……いえ、その……」
 橘花は唇を引き結んだ。
 珠について、ひとつだけ思うことがある。だが、これは聞いて良いものか。
「……珠は、両親に売られたと聞きましたが」
 白玖は神妙な面持ちで、橘花に訊ねた。
「……珠が言ったのか?」
「違うのですか?」
「……珠が来たのは二年くらい前だが、売られたというよりは、こちらが買い取ったというほうが正しい」
「買い取った?」
「あぁ。珠はずっと、母親から虐待を受けていたみたいでな。出会った頃、珠は痩せ細っていて、餓死寸前だった」
 橘花は目を伏せる。
「虐待ということですね。両親ともにですか?」
「母親からだ。父親は愛人のところへ行ったっきり、ほとんど家に帰らなかったようだ。見かねて、笠屋敷家で引き取ることになった」
「……これは、あくまで憶測ですが。もしかして珠は、メイドたちと上手くいっていないのではないでしょうか」
「メイド同士か……」
 珠は、橘花よりみっつ歳下の十四歳の少女である。
 珠は最初、びくびくと仔うさぎのように怯えていた。
 それについて、橘花はなにも違和感を抱かなかった。怯えられるのがふつうだったからだ。
 だから珠も、毒を持つ橘花に怯えていたのだと思っていた。
 けれど最近は、違うのではないか、と思い始めた。
 あれは、橘花に怯えていたのではなく、大人の女性に怯えていたのではないだろうか、と。白玖の話を聞く限り、珠は白玖に怯えてはいないようだし。
「……なんて、さすがに考え過ぎでしょうか」
「いや」
 白玖は首を振る。橘花は続けて口を開いた。
「……珠の腕には、生まれつき痣がありますか?」
「痣?」
「はい」
 白玖は怪訝そうに空を見上げた。
「いや……身体まではあまり記憶にないが……珠のことは、メイド長に任せていたからな」
「メイド長……」
「珠に痣があるのか?」
「はい。珠は生まれつきだと言っていたのですが、どうも気になってしまって」
 橘花はためらいつつも続ける。
「……珠は最初、私に怯えていました。最初は私が毒を持っているから恐ろしいのだろうと思っていましたが……そのわりに、焼き菓子ひとつで簡単に私に懐いてくれましたし」
「……まぁ、珠にとっては満足に食べられなかった頃の記憶はまだ生傷として残ってるだろうからな」
「ですが、もしそうだとしたら、なおさら珠は大人の女が怖いのではないでしょうか?」
「それはそうだが……」
 白玖は考え込んだ。
「贄である私が、やすやすと口を出すことではないと分かっています。でも……」
 でも、と橘花は唇を噛み締める。
 珠との会話は、今の橘花にとって数少ない癒しの時間となっている。
 けれど、橘花はもうすぐいなくなる。
 そうしたら、残された珠はどうなるだろう。
 また、今までの生活に戻ることになる。そうなれば、またメイドたちと過ごす時間が増える。
 もし、珠が彼女たちから虐げられていたとしたら。
 考えるだけでも胸が締め付けられた。
「橘花。珠を心配する気持ちは分かる。でも、正直俺は今、珠のことを気にかけてやる余裕はない。俺はまず、橘花を助けたい」
 橘花は押し黙る。
 実家にいた頃も、メイド同士の諍いは絶えずあった。そのせいでメイドをやめていった者も、心を病んだ者も、自ら命を絶った者もいた。
 橘花の父は、メイドなどいくらでも代わりはいると言って気にも止めていなかったし、実際、橘花もどうでもいいと思っていた。
 あの頃、橘花はひとのことに無頓着だった。
 でも、今は違う。
「私は……心のなかに箱があります」
 白玖が顔を上げた。
「箱?」
「じぶんで、じぶんを生かすための箱です。ほんのちょっとした嬉しかったこととか、気になったこととか、好きだと思ったものを心の箱に詰めたりして、この世に未練を残してきました。そうでないと、生きていられなかったので」
 白玖は黙って耳を傾けている。
「父にこの屋敷の花嫁になれと言われたとき、悲しくはありませんでした。家の役に立って死ねるのなら、このまま飼い殺されるよりずっといい。それまで必死に貯めていた箱のなかの宝物はすべて無駄になってしまったけれど、それでも、家のために私ができることはこれしかないから。だから、この運命を受け入れなきゃいけないのだと、言い聞かせてきました」
 でも。嫁入りしたその日、橘花は出会ってしまった。白玖や、珠に。
 橘花は涙を滲ませて、白玖に訴える。
「あなたが助けるだなんて言うから……贄として迎え入れたくせに、八日後の話なんてするから……」
 今まで貯めてきた箱の比にならないくらい、未練ができてしまった。生きたいと思ってしまった。
「だから私は、無理だと分かっていても、あなたに、命を預けたいと思った」
「……橘花」
「私は、おろかですか……?」
 なぜなら、嫁入りから七日過ぎて、生きていた花嫁はいない。そのことを考えるならば、おろかとしか言いようがない。
「…………」
 言葉を詰まらせた橘花に、白玖は強い口調で告げる。
「そんなことはない。俺は、言葉だけで終わらせるつもりはない。橘花のことは、俺が必ず助ける」
 そうであればいいと、切に願う。
 だが……だが。
 もし。もしも、あと四日で死ぬとしたら。
「珠は……初めて、私に笑いかけてくれた子です。私は彼女を助けたい」
 せめて、珠の居場所だけは作ってから死にたいと思った。
 そして、嫁入りから五日目の朝。
 珠が食事を運んでくる前に、白玖がやってきた。白玖が朝早く来るのは初めてのことだ。
 白玖とともに、橘花は部屋を出た。鍵がないとはいえ、嫁入りしてから部屋を出るのははじめてのことだった。
 珠たちメイドの住まいである屋敷の離れへ向かう。
 案の定、庭で洗濯物を干す珠がいた。近くには背の高いメイドがいて、厳しい目つきで見張るように珠を見下ろしている。
「あれはメイド長の浅香(あさか)だな」
「彼女、珠を睨んでるように見えますけれど」
「珠の教育係を任されているのは彼女だからな」
 洗い終わった洗濯物を、珠がひとつずつ竿に干していく。しかし、なにぶん背が低いので、ひとつ干すのにも時間がかかってしまう。
「遅い。もっときびきび動いてくれなきゃ、仕事前までに全員分終わらないわよ。まったく、あなたが学校に行っているあいだ、私たちが仕事ぜんぶ変わってあげてるんだから、これくらいさっさとやってよ!」
 遅いというなら、手伝えばいいのに、と橘花は見ながら思う。
「は、はい。申し訳ございません……」
 珠はメイド長の怒鳴り声に怯えながら、一生懸命手を早める。しかし、慌てたせいで、衣をひとつ地面に落としてしまった。
「ちょっと!」
 メイド長は金切り声を上げ、手を振りかざした。容赦なく珠を頬を打つ。華奢な珠は地面に崩れ落ちた。
 橘花は思わず声が漏れそうになり、慌てて手で口を押さえた。
「ひどい……」
 思わず呟く橘花の横で、白玖も厳しい視線を送っている。
「なにしてるの! 早く起きて洗い直して!」
「もっ……申し訳ございません!」
 珠は震える声で地面に落ちた衣を拾う。
 濡れて色が濃くなっているが、あれはメイドが着ているものだ。笠屋敷家の人間の衣服ではない。
「メイド服の洗濯も、珠がすべてやることになっているのですか?」
 橘花が白玖に訊ねると、白玖はいや、と首を横に振った。
「メイドたちはそれぞれ、じぶんのことはじぶんでやる決まりだ」
「じゃあ、珠は私の世話だけでなく、同僚の世話までさせられてるってことですね?」
「……そのようだ」
 白玖は目を伏せた。珠がこうした仕打ちを受けていることを知らなかったのだろう。
「そういえば、珠が嬉しそうに焼き菓子をもらったと言っていた日、メイド長たちが焼き菓子の話をしていた」
「え?」
「最初は、珠が彼女たちと一緒に食べたのかと思ったが……もしかしたら、珠の持っていたそれを、むりやり奪ったのかもしれない」
「なっ……」
 橘花は、珠に焼き菓子のことを聞いたときのことを思い出す。よくよく思い起こせば、ぎこちない返事だったように思う。
 ――今さら気付くなんて……。
「とりあえず、証拠はこの目に収めた」
 白玖が珠たちのもとへ止めに入ろうと動く。
 しかしその前に、橘花が動いた。
「珠!」
 橘花の声に、珠が顔を上げる。
「お、奥さま……?」
 驚く珠の背後で、メイド長は引き攣った顔をして礼をした。橘花と、その横にいた白玖に気付いたのだ。
「これは、若旦那さま。奥方さままで……」
 橘花は庇うように珠の前に立つと、メイド長を睨みつけた。
「あなた、私のメイドになんてことをするの」
「あれは……その、教育でございます。この子は覚えが悪くて……」
「教育? 打つのが?」
 橘花はメイド長に聞き返す。
「珠は私の世話に関して、なにも問題はない。それに、失敗したからといって、なにも打つことないでしょう。教育係だからって、なんでもやっていいわけじゃないはずよ」
「それは……」
「珠にじぶんの仕事まで押し付けて……私のメイドの件だって、最初はメイド長に任せた仕事だったと聞いたけれど」
「それは……」
「珠」
 白玖が珠の手を掴む。袖を捲りあげた。珠の肌には、痣がいくつもあった。白玖は眉間に皺を寄せた。痣を指でなぞると、珠は痛かったのか、びくりと肩を震わせた。
「これは、メイド長にやられたのか?」
「…………」
 白玖が問うと、珠は泣きそうな顔をして頷き、そのまま俯いた。
「なっ……珠! あなたよくも私を……」
 メイド長は顔を真っ赤にして珠に詰め寄る。すかさず白玖が背中に珠を隠した。
 白玖の眼差しに怯んだように、メイド長は言葉を飲んで後退る。縋るようにメイド長は橘花を見た。
「っ……奥方さま、違います! 私ではありません! 珠は嘘をついております。私を陥れようと……」
 言い訳を始めるメイド長に、橘花は冷ややかな視線を送る。
「私は、珠の言うことを信じる。この子はうそは言わないもの」
 はっきりと告げると、メイド長は悔しそうな顔をして、小さく舌打ちをした。
「……贄の花嫁のくせに」
 メイド長は蔑むような視線を橘花に向ける。
「知ってるのよ。あなた、どうせもうすぐ死ぬ花嫁なんでしょ。身代わりのくせに、本妻面しないでくれるかしら」
「…………」
 言葉を失くす橘花に、メイド長はふっと鼻で笑った。
「あなた、この屋敷のメイドたちになんて言われてるか知ってる? 毒妃って呼ばれてるのよ。毒で若さままでたぶらかした忌まわしい毒妃。目障りだからさっさと死んでくれないかしらね」
 橘花はなにも言い返せないまま、俯いた。はっきりとした悪意に、怯んでしまったのだ。
「おい。今、なんと言った?」
 橘花が黙り込んでいると、すぐとなりから、身震いするほど低い声がした。
 白玖がメイド長の前に立つ。しかし、メイド長もやけくそになったのか、怯む様子はない。
「あら。今度は浮気男が説教する気かしら」
「浮気だと?」
「知ってるんですよ。若旦那さまだって、最近は身代わりの花嫁を閉じ込めるはずだった座敷牢に、べつの女を連れ込んでいるらしいじゃないですか?」
「なっ……」
 橘花も珠も驚いて白玖を見る。
 白玖は、メイド長の暴露に明らかに動揺していた。その横顔に、橘花はすうっと心が冷えていくのを実感する。
「若旦那さま……? うそですよね? なにかの間違いですよね?」
 橘花のとなりで珠は驚愕しながらも、信じられないといった眼差しで白玖に問う。
 しかし、珠の問いかけにも、白玖は肯定も否定もしない。つまり、メイド長の話は事実だということである。
 橘花は目を伏せた。
 なにを落ち込んでいるのだろう。橘花はそもそも身代わりの花嫁である。白玖が新たな花嫁を娶ることは、橘花が嫁入りする段階から既に決まっていたことだ。
 それなのに、どうしようもなく心が痛んでしまう。
 やはり、嫁入りの日、白玖に希望を見出してしまったことが、間違いであったのだ。
 あのときの白玖の言葉さえ信じなければ、今頃こんな気持ちにはならずに済んだのに。
 それでも。
 傷ついてなお、せめて、じぶんが死ぬそのときまででいいから、白玖のいちばんでいたかった。……なんて、許されない思いを抱いてしまって、笑いそうになる。
 いつの間にか橘花は、白玖にずいぶん心を許してしまっていたようだ。
 胸の痛みに耐え切れず、橘花はしゃがみ込んだ。
「橘花!」
 白玖が橘花へ手を伸ばす。
「触らないで!」
 橘花の声に、白玖の手が宙でぴたりと静止する。
「……すみません、大きな声を出してしまって」
 橘花は、叫んでから我に返った。
「いや……」
 わざわざ叫ばずとも、きっと白玖は橘花に触れることはなかった。なにしろ、橘花は毒妃なのだから。そう思うと、橘花の胸の痛みはさらに増してくるようだった。
 白玖は苦しげに息を吐くと、手を引っ込め、メイド長を睨む。
「……浅香。これ以上俺の花嫁を罵倒するのは許さな――」
 白玖がメイド長を叱りつけようとしたときだった。珠がメイド長の前に飛び出し、その身体を突き飛ばした。
「きゃっ!? ちょっと、なにするのよ!!」
「撤回してください!」
 珠は顔を真っ赤にして、メイド長に覆い被さる。
「奥さまは毒妃なんかじゃない! とっても優しいひとです! 撤回して!」
 珠は泣いていた。橘花は、声を荒らげた珠に呆然とする。
「た、珠、落ち着け」
 橘花と同様、一瞬呆然とした白玖だったが、ハッと我に返ると珠をメイド長から引き剥がした。
「奥さまはだれより素敵なひとです!」
 白玖に押さえつけられながらも、それでも珠はじたばたともがきながら、メイド長に叫んだ。
「突然叫んで……なんなのよあなた! 私にこんなことしてただで済むと思ってるの!?」
「珠。大丈夫だ。橘花のために怒ってくれてありがとう」
「う……若旦那さま」
 白玖は珠の頭を優しく撫でると、メイド長の前に再び立った。
「ただで済まないのはおまえだ」
 白玖の眼差しに、メイド長がハッとする。途端に肩を落とし、俯いた。
「浅香、今の珠への暴行と花嫁への暴言は、次期当主として到底看過できるものではない」
 白玖の口調は厳しいものだった。
 本来なら、長としてメイドたちを導かなければならない立場だ。そんな人間がいじめを主導していたなど言語道断である。じぶんへの暴言は置いておいても。
「メイド長は変える。それから、しばらくの間謹慎を命ずる」
「…………」
「返事は」
「……はい。申し訳ございませんでした……」
 白玖がメイド長に下した処罰は、寛大なものだった。
 花嫁のメイドに日常的ないじめを行っていたのだ。ふつうなら、屋敷を追い出されてもおかしくないことである。
 しかし、橘花は正式な花嫁ではない。花嫁という位はあるものの、結局は七日後には死ぬ贄である。
 だから白玖は、この程度で済ませたのだろう。珠の今後については白玖のことだから配慮があるだろうが、珠のことを思うと、橘花は複雑な気持ちになった。

 浅香がいなくなったあと、橘花は珠に歩み寄った。
「珠、大丈夫?」
 しゃがんで視線を合わせると、珠が顔を上げる。珠の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。橘花は苦笑する。
「まったく、じぶんのときはなにされても我慢してたくせに。どうして私のことで怒るのよ」
「だって……だって、悔しかったんれすよ〜」
「ふふっ……分かった分かった! ほら、これで涙拭いて」
 橘花は珠にハンカチを差し出す。
「……うっ、すみません」
 珠はそれを当たり前のように受け取った。
 これまで、橘花が触れたものを素手で受け取ってくれたひとはいなかった。
 ハンカチをぎゅっと握って鼻をすする珠の姿に、橘花は胸の辺りがむずむずした。
「ありがとう、珠」
 橘花が礼を言うと、となりにいた白玖も珠に言った。
「俺からも。橘花を庇ってくれてありがとう。珠はいい子だな」
 珠は白玖を見上げ、すぐに逸らした。
「いえ」と、返す珠の頬は、ほんのりピンク色に染まっている。
「その……私のほうこそ、ありがとうございました。それから、取り乱してしまって……」
「礼なら橘花に言ってくれ。珠を心配していたのは、橘花だから」
 白玖が言うと、珠は橘花へ視線を流した。
「奥さま……ありがとうございました」
「こちらこそ」
 橘花が笑みを返すと、珠はさらに頬を赤くした。そのまま俯いて、制服の袖をぎゅっと握った。落ち着かないのか、そわそわと袖をいじっている。
「……ねぇ珠。よかったらなんだけど、私のところへ来ない?」
「え?」
 恥ずかしそうに顔を俯けていた珠は、今度は顔を上げて目を丸くした。
「完全に橘花のメイドとして働いてもらえないかってことだ」
 白玖が付け足す。
「珠がそうしてくれると、俺も橘花を安心して任せられるからな。珠が望んでくれるなら、すぐに部屋も用意する。もちろん、珠の意思を尊重するつもりだけれど」
 珠は俯いたまましばらくもぞもぞとして、そして、顔を上げた。
「私も……奥さまのおそばにいたいです」
「本当? 珠」
「は、はい! わ、私でいいなら」
 橘花の胸に、安堵と幸福感が広がっていく。珠につられるように頬を染めた橘花を見て、白玖はふっと微笑んだ。
「分かった。すぐに手配しよう。珠、とりあえず持てるだけの荷物を持って、母屋のほうに来なさい」
「は、はい!」
 珠は元気よく返事をした。


 ***


 橘花が部屋へ戻ってからしばらくして、珠がやってきた。手には食事の盆を持っている。
 珠は盆をテーブルへ置くと、もぞもぞと両手の指先を合わせて、橘花を見ている。
「どうしたの?」
 橘花が優しく訊ねると、珠はおずおずと顔を上げた。
「奥さま、あの……今朝は本当にありがとうございました」
 橘花は礼を言う珠に、「いいえ」と呟く。
「私こそ……余計なことをしてしまった」
 弱々しく言う橘花に、珠はぶんぶんと首を振った。
「いえ! そんな……私はとても嬉しかったです。助かりましたし」
「……でも、私がいなくなったら、あなたはまた彼女のもとで働くことになるのよね」
 白玖は、彼女に謹慎を言い渡し、役職から外すだけだった。
「……私にもう少し力があれば、あなたが穏やかに仕事をできるような環境を作ってあげられたのに」
 ごめんなさい、と橘花は呟く。
「とんでもない! 私は、そのお気持ちだけでじゅうぶんでございます」
 珠の笑顔に、橘花の心とふっと和らぐ。
「ですが、あの……奥さまは、どうして私のような下層の者に優しくしてくださるのですか」
 どうして、か。橘花はぼんやり考える。
「そうねぇ……」
 橘花は目を伏せた。
「……だって、私なんかのメイドを押し付けられただけでもきっと逃げ出したいはずなのに、あなたはちゃんと私の世話をしてくれたから」
 今までも、珠のように世話をしてくれるメイドはいた。けれど、ここまで深く関わり合ったのは、珠が初めてだった。
 今までのメイドは違った。
 世話はしてくれたが、橘花に声をかけてくることはなかった。牢のなかにいる橘花を、みんな獣かなにかのように見た。
 生まれたときからそんなだったから、それが橘花にとっては当たり前で、どちらかといえば今のほうが落ち着かない。
 でも、落ち着かないけれど、いやではない。
 むしろ……。
 橘花は、優しくされることの心地良さを知ってしまった。
「……あの、奥さま」
「なに?」
「あの……これからは、橘花さま、とお呼びしてもいいでしょうか?」
 涙が出そうになる。
 名前を呼ばれたのは、ここへ来て二度目だ。
 今まで、名前なんてあってないようなものだった。名前を呼ばれるということが、こんなにも心地良いものだったなんて、知らなかった。
 橘花は死を待つだけの身だ。こういう関わり合いは、間違っていると分かっている。
 でも、今だけ。
 橘花は涙をこらえて珠を見つめた。
「……嬉しい」
 今だけ、この幸福に浸っていたい。橘花は気だるい身体を震わせて、強く思った。


 ***


 嫁入りして六日目。橘花の体調に大きな異変がおとずれた。
 発熱が始まったのだ。身体もずっしりと重くなり、眠気もひどい。目を開けていることすら億劫だった。
「橘花さま。お食事です」
 布団に横になったままぼんやりとしていると、珠が食事を運んできた。橘花はよろよろと身体を起こす。
「大丈夫ですか……?」
 珠が心配そうに橘花を見た。
「うん、平気」
 珠が運んできたのは、橘花を気遣ってか、食べやすそうな粥だった。小皿には、梅干しや細かくほぐされた鮭の身も添えられている。
「ありがとね、珠」
 橘花は食事を運んできた珠に、静かに礼を言う。
 粥を見つめたままぼんやりとする橘花に、珠がそろそろと言う。
「橘花さま。少しだけでも食べてください」
 心配そうな眼差しを向ける珠に、橘花はかすかに笑みを返した。
「食欲がないの。贄になる日が近付いてきているからかな」
「橘花さま……」
「珠、この六日間、本当にありがとう。珠のおかげで、私は幸せに死ねる」
 珠は一度目を伏せてから、橘花を見る。そして、橘花に歩み寄った。
「珠?」
 珠は橘花のかたわらへ来ると、粥を匙で掬った。
「お口へお運びいたします」
「だ、ダメ。もし万が一にでも触れてしまったら……」
「私がこうしたいんです」
「……珠。どうしてそこまでしてくれるの? 私が怖くないの?」
 珠は一度手に持った匙を椀へ戻し、橘花を見た。
「……最初は、怖かったです。……私は、浅香さまに押し付けられるかたちで、橘花さまのメイドになりました。少しでも触れれば死ぬと聞いたときは、浅香さまの脅かしかとも思いましたけど……若旦那さまから改めて橘花さまの体質を聞いて、背筋が震えました。橘花さまのちょっとした仕草にも過敏に反応してしまって……初めは、眠ることもできませんでした。でも、橘花さまは怯える私を叱るどころか、とてもお優しくしてくれて……」
「じぶんより幼い子に優しくするのは当然でしょう? まして、私に怯えてるならなおさらよ」
「……私は、私が恥ずかしいです。なにも知らないのに、橘花さまを自分勝手に判断してしまいました。橘花さまが毒をまとうからといって、その心まで邪悪であると決めつけて」
 珠はくりりとした目から大粒の涙をこぼしながら、頭を下げた。
「申し訳ございませんでした……」
「……謝らないで。あなたはなにも間違ってないんだから」
 それに、と橘花は続ける。
「私はむしろ、恐れてくれて嬉しかった」
「え……どうして」
「だって恐れてくれなきゃ、私はあなたを殺してしまうかもしれない。だから珠は謝る必要なんてないし、泣く必要もないの」
 橘花は珠に手を伸ばす。その頬に触れかけて、止めた。
「……ごめんね。涙を拭ってやりたいのだけど」
 橘花は、この体質のせいで、珠を慰めることもできないのだ。
「いえ……いえ……っ」
 大切だと思っているのに、触れられないもどかしさと虚しさが、じんわりと橘花の胸に広がる。
「私が……私が、身代わりになります。私が橘花さまの代わりに、贄になります。だからどうか……どうか」
 生きてほしい、と珠が呟く。
「珠……」
 視界が一瞬にして滲んだ。
「……ありがとう」
 だれが、こんな言葉をもらえるなんて想像しただろう。
 透き通る珠の涙に、橘花の心は救われた。
 死ぬ前にこの感情を知ることができただけでも、橘花はこの屋敷へ嫁に来てよかったと思えた。
「でも、気持ちだけで十分よ。珠……あなたは私の大切な友だち。死んでも忘れない」
「橘花さま……」
 白玖や珠のおかげで、ささくれだっていた心が少しだけ丸くなったような気がする。
 橘花は珠から匙を受け取ると、粥をそっと口に含んだ。
 その翌日から、呪いはさらにひどくなった。
 日に日に身体が重くなっている。死が近づいているのが分かる。
 高熱が続き、寝ている時間が増え、呼吸が苦しくなった。
 寝たきりの橘花を、珠は一生懸命看病してくれた。
 滋養(じよう)のあるものを食事に出してくれたし、痛み止めの薬もくれた。無論、呪いなので薬などまるで効きはしないが、身体には効かずとも、心には効いた。
 白玖は、数日前からまったく姿を見せていない。少し寂しかったが、これで良かったとも思う。こんな姿を見られるのは、いやだ。
 それくらいには、橘花は白玖を想っていた。たとえ一方通行の想いだとしても。
 ――願わくば……。
 橘花は窓の向こうの月を見上げる。
 ――願わくば、来世では白玖と添い遂げたい。身代わりとしてではなく……。そして、珠とも本当の友だちになりたい。
 そう、月に祈りながら、橘花は深い眠りについた。


 ***


 橘花は薄暗い沼池のなかで目を覚ました。
 半身が沼に沈んでいて、身動きが取れない。
 ぐっと足に力を入れると、なにかに引っ張られるような感覚を覚えた。足首をなにかに強く掴まれている。ぐっと引かれた。バランスを崩し、泥に手をつく。
 いったい、なにに。
 そう考える暇もなく、手首になにかが触れた。驚いて手を引くと、泥とともに現れたのは、(むくろ)だった。
「ひっ……」
 思わず尻もちをつく。骸は強い力で、橘花を泥のなかに引きずり込もうとしている。
 泥が跳ね、水面がわずかに揺らめく。
 泥池のなかに沈んだ橘花の半身を、またべつの骸の手が掴んだ。
 細い骨だ。
 ――これは、もしや。
 歴代の花嫁の骸……。
 橘花は確信する。
 笠屋敷家の呪いは、ひとつではないのだ。
 蛇神だけではなく、犠牲となって死んでいった花嫁たちの呪いも綯い交ぜになって花嫁を襲う。
 そのうち、いくつもの骸が泥のなかから姿を現した。
「クルシイ……タスケテ」
 骸が呪文のような言葉を吐く。
「タスケテ、タスケテ……」
「シニタクナイ」
「シニタクナイ」
「クルシイ」
「ニクイ」
「ドウシテワタシガ」
「ニクイ」
「ニクイ」
 泥のなかからいくつもの手が現れる。その手は、まっすぐ橘花へ伸ばされた。
「っ……」
 恐ろしい力で泥のなかへ引き込もうとする。皮膚を掴む骸の感触は冷たかったが、肉を引きちぎろうとしているかのごとく強かった。怨念だ。
「やだっ……離して!」
 逃げなければ。このままでは、溺れてしまう。
「アバレルナ」
「オマエハニエダ」
「ニエダ」
「ワレラト、オナジ」
「ブザマナニエ」
 恐怖が橘花を襲う。
 しかし、もがけばもがくほど、沼のなかに引きずり込まれていく。
「うそ……」
 ――このまま沈むの?
「やだっ……やだ、白玖! 白玖!」
 叫ぶけれど、橘花の声を拾ってくれる白玖はどこにもいない。白玖はきっと、新しい花嫁のもとへ行ってしまったのだ。橘花のことなど、すっかり忘れて。
 ――白玖……。
 叫びが嘆きに変わったとき、どろり、と沼が動いた。
 骸ではない、なにかがいる。橘花は動きを止めた。
 薄暗い沼のなか、重々しい泥がゆっくりと動く。
「な、に……?」
 泥の中から、鋭いふたつの眼が橘花を見ていた。黄金色の瞳は、じっと橘花だけを見つめている。
 ――あれは。
 沼のなかにいたのは、蛇だった。
 泥色の大蛇が、橘花を取り囲むようにとぐろを巻いている。
「そなたが、我が愛しい花嫁か」
 大蛇の声だった。
「待ちわびたぞ」
 大蛇が舌なめずりをする。
 すべての力が身体から抜けた。
 あぁ、もう終わりだ。
 橘花は贄。
 このままこの大蛇に絞め殺され、呑み込まれるのだ。逃げようにも、骸に動きを封じられている。ぜったいに逃がさない、と。
 橘花は為す術をなくし、脱力した。
 すべてを諦めて目を伏せようとしたとき、すっと光が射し込んだ。
 空を見上げる。
 雲間から、陽が射していた。光はスポットライトのように、ある一点へ落ちると、流れるように橘花のいるほうへと向かってくる。
 だんだん、周囲が明るくなってくる。
 泥池に陽が射し込むと、どす黒かった泥が、さらりとした澄んだ水に変わる。
 光がある一点を照らし、止まった。そこには、一艘の舟が浮かんでいた。舟にはだれも乗っていない。
 しかし大蛇は舟を見て、
「我が花嫁」
 と呟いた。
 大蛇は、舟を追いかけるように光の川を泳いでくだっていく。
 瞬きをするように一瞬だった。
 大蛇は、舟をその身体で押し上げて転覆させると、まるごと呑み込んだ。
 ばきばきと、木の舟が壊れる音だけが、その空間に響いていた。
 大蛇の喉がごくりと動き、その眼がすうっと細められた。
 満足したのか、大蛇はそのまま川の底へと消えていった。
 舟を照らしていた光が動き出す。
 光はどんどん橘花に向かってくる。泥が浄化されていく。
 橘花はそれを、目を見開いて見つめていた。
 ――どうして……。
 橘花は泉のなかに立っていた。
 足元を、小魚たちが泳いでゆく。いつの間にか、骸も消えていた。
 どういうことだろう。
『――か』
 困惑していると、声が聴こえた。
 ハッとする。
『橘花』
 今度は、はっきりと聴こえた。
 白玖の声だ。
「白玖?」
 橘花は弾かれたように立ち上がる。
「白玖っ……!」
 涙があふれる。
 ――助けて。お願い。私の名前をもう一度、呼んで。私が必要だと言って。
『橘花』
 光のなかに手を伸ばす。指先に、なにかが触れたような気がした。
 声が聴こえる。
「橘花」
 はっきりと、じぶんを呼ぶ声。優しく、澄みきった水のように清らかな声。
 橘花は目を開けた。
「橘花!」
 目を開けると、白玖の顔が飛び込んできた。
 ほっとしたような顔で、橘花を見つめていた。白玖のとなりには、珠もいる。
「橘花さま! 橘花さまぁっ」
 珠はベッドにすがりついて、子どものように泣きじゃくっていた。
「うう、よかったです……」
「私……」
 呟きかけて、手になにかが触れていることに気付く。橘花は自身の手元を見る。
 白玖に手を握られていた。
 橘花は顔を蒼白にさせて、手を引っ込める。
「橘花。大丈夫だ」
 動揺する橘花に、白玖は優しく言った。
「大丈夫って……なにが」
「橘花の毒は消えた」
「消えた……?」
 困惑したまま、橘花は自身の手を見る。
 その手を、白玖はためらいなく握った。橘花は息を詰めて、繋がれた手を見る。
「ほらな?」と、白玖は柔らかく微笑んだ。
「うそ。どうして」
 橘花は信じられないものを見るように白玖を見た。
「本当になんともないのですか……?」
「うん。ない。橘花はもう、贄でもないし毒妃でもないからな」
 白玖の言葉に、橘花はハッとする。
「そうでした! 呪いは……」
「術が成功した。蛇神は身代わりの贄を喰らったから、もう橘花を襲いに来ることはない」
「身代わり……? それって、私の代わりにだれかが……?」
 不安な眼差しを向ける橘花に、白玖は首を振る。
「案ずることはない。身代わりにしたのは、人形だから」
「人形?」
「橘花は、流し雛というものを知っているか?」
 橘花は戸惑いながらも頷く。
「人形を川に流して、厄を流すとかいう……」
「そうだ。橘花は贄の花嫁として嫁いだ日、橘花に見立てた人形を作って、牢に閉じ込めた。人形に、じぶんは贄の花嫁であると、毒妃であると信じ込ませて、昨晩、川に流した」
「では、夢で見た大蛇が喰らっていたのは……」
「橘花に見立てた人形だろう。呪いや橘花の身体を蝕んでいた毒ごと、喰らってくれたんだ」
 白玖は橘花の手を握り直した。橘花は身を起こす。白玖はそっと背中に手をやり、橘花の身体を支えた。
 橘花は白玖を見つめる。白玖は橘花に優しく微笑んだ。
「必ず助けると言っただろ?」
 橘花は泣きそうになる。
「……どうして、そこまで」
「花嫁を守るのは、夫としての務めだ。俺は当然のことをしたまで」
 白玖はさらりと言った。
 そんな、ひとことで終わらせるようなことではなかったはずだ。
 人形に魂を持たせ、己はひとであると錯覚させるのは、相当な力がないとできないと本で読んだことがある。それに、力だけではない。川に流すその日まで、そのひととして接していかねばならない。気力だけでなく、根気もいる術だ。
 だから、未だに人柱というものが存在するのだ。
「……もしかして、座敷牢に入り浸っていたというのは」
「あぁ。人形に、じぶんは花嫁であると信じさせるためにだな……それなりの演技をしなくてはならなかった」
 白玖はそう言ったあと、「誤解させたようで、申し訳なかった」
「い、いえ……」
 全身から力が抜けていく。
 メイド長の話にすっかり騙されてしまったが、つまり白玖は浮気などしていなかったのだ。白玖は橘花を裏切っていなかったし、新たな花嫁を迎えたわけでもなかった。
 安堵のため息が漏れた。
 白玖はこの日まで、橘花のためにどれだけの力を尽くし、動いてくれたのだろう。
 橘花は白玖になんと言えばいいのか分からなかった。
 ありがとう、ではとても足りない。
「あの……旦那さま」
 橘花は白玖を見つめながら、口を開く。が、続ける言葉が出てこない。
「……あの……」
「白玖」
「え?」
「白玖、と呼んでくれ。礼はそれでいい」
 どこか早口で白玖が言う。
「……白玖」
 言われたとおりに名前を呼んでみれば、白玖はそわそわと落ち着きなさげに視線を泳がせた。
「白玖?」
 もう一度呼ぶ。今度こそ、白玖は手で顔を覆ってしまった。
「あぁ……」
 息を吐くように呟き、指の隙間から橘花を見る。ようやく目が合う。白玖の瞳に熱を感じ、どきりと心臓が跳ねた。
 白玖らしからぬ感情が滲んだその表情に、橘花まで熱くなってくる。
「橘花」
「は、はい」
 白玖は手を離し、橘花に向き合った。真剣な眼差しに、橘花は姿勢を正す。
「嫁入りの日、話したことを覚えているか?」
 橘花はこの屋敷に来た日のことを思い出す。
『お前が八日目を迎えられたときは、俺を夫として受け入れてほしい』
「……は、い」
 忘れるはずがない。
 あの言葉のせいで、この世に未練ができたのだから。
 あの言葉のおかげで、もう一度生きたいと思ったのだから。
「橘花。俺と生きてくれるか?」
 橘花は俯く。こういうとき、なんと返せばいいのだろう。分からない。
 橘花は顔を上げる。そっと手を伸ばした。白玖の頬に触れ、撫でる。白玖がくすぐったそうにはにかんだ。白玖の肌は、とてもあたたかかった。
「私も……生きてみたいです。白玖と」
 思うままに言うと、白玖はさわやかに破顔した。
「ありがとう」
 白玖の顔が近付く。橘花の心に、もう怯えはなかった。
 唇に、白玖の唇が触れる。柔らかな感触を感じた。
 これが、人肌。
 心地よくて、涙が出そう。
 見上げると、白玖はそれまで涼しげだった目元を和らげ、優しい笑みを浮かべていた。
「橘花。俺の愛しい花嫁。愛してる」

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