その夜、白玖が赴いた。
「少し話せるか?」
 窓を開けて月を眺めていた橘花は、白玖の訪問に驚いた。
 嫁入りの際は来ると言われたが、まさか本当に来るとは思わなかったのだ。
 窓を閉めてベッドから降りようとすると、白玖が「いい」と制止する。
 ふと、白玖の手に巻き付けられた包帯が目に入る。手のひらの部分には、黒ずんだ染みが広がっていた。橘花の視線に気付いた白玖が、さっと手を隠す。
 橘花の胸に罪悪感が広がる。
 おとなしくベッドに座ったままでいると、あろうことか白玖は橘花のすぐとなり、ベッドに腰を下ろした。橘花と並ぶかたちで。
 橘花は慌てて白玖から距離をとる。
「……そんなに逃げなくても」
 離れた橘花に、白玖の表情がほんの少し翳る。
「……あなたはいいかもしれないけれど、私はいやです」
 今でも、橘花の髪に触れたときの白玖の苦痛に歪む顔を思い出すと、心が騒ぐ。心地のいいものではなかった。できれば、もうあんな思いはしたくない。
「……焼き菓子を持ってきたんだ。甘いものは好きか?」
「え?」
「なにが好きか分からないから、いろいろ持ってきたんだが」
「……食べたことがないので、分かりません」
「じゃあ、食べたら感想をくれ。次は好きなものをあげたいから」
「はぁ……」
 橘花は戸惑いながらも、渡された紙袋を受け取った。
 紙袋はほんのりとあたたかく、甘い匂いがした。
 なぜか、無性に泣きたくなる。
「……旦那さまは、どうしてあんなことを言ったのですか」
「あんなこと?」
「ぜったいに死なせない、って……」
 沈黙が落ちた。
「……花嫁を守りたいと思うのは、おかしいことだろうか」
 返事が返ってくるとは思わず、橘花はわずかに目を見張る。
 白玖の眼差しは真剣そのもので、声には抑えようのない切実さが滲んでいた。白玖は本気で言っている。それが分かり、橘花は戸惑う。
「……あ、いえ。ふつうの花嫁ならば、おかしくはないですけれど」
「ふつう?」
「私は、贄ですから。父からはそのように言われて嫁ぎましたし、あなただってそのつもりで私を迎えたのでは」
 白玖がわずかに息を詰める。
「……ずっと気になっていた。橘花はなぜ、こんな目に遭わされて怒らない?」
「怒る?」
「怒るべきだ。生まれてからずっとあのような牢の中に閉じ込められて、そのうえ……」
 白玖が言葉に詰まる。膝の上で握った拳はかすかに震えていた。白玖のほうが、怒っていた。
「……怒るもなにも、私にとってはそれが日常でした。傷付けられることには慣れていますし、それよりも……私は、傷付けてしまうほうがずっと怖い」
 橘花は既に、その力で母を殺しているのだ。
「……そうか」
 白玖は、包帯に包まれた手をもう片方の手でさすった。
「悪かったな」
「……?」
「触れて、怪我をしたことだ。橘花の気持ちを軽んじた行動だった」
 真摯に言われ、橘花は戸惑う。小さな声で「いえ」と言うのがやっとだった。
「橘花は優しい子だな。それから案外、照れ屋なんだな」
「そ、そんなことは」
 白玖の不意打ちの笑顔に、橘花は顔が熱くなるのを感じた。初めての心地だった。
「……その傷、痛みますか?」
「手はなんともない。でも、少し苦しいな」
 どきっとする。
「苦しい? どこが……」
 不安になって、橘花は白玖を見つめた。白玖は心配そうな眼差しを向ける橘花に、苦笑を向けた。
「そんな顔されると、余計に抱き締めてやりたくなる。でも、それができない。……それに、橘花もそれを望んでない」
 橘花ははっとした。気まずくなって、白玖から目を逸らす。
「望んでないわけでは……」
 白玖に触れられたのは、ただ驚いただけで、いやだったわけではない。と、思う。でも。
 ちらりと白玖を見ると、白玖は驚いた顔をして、それからふっと笑った。
「……そうか。じゃあ、七日の朝が明けたら、抱き締めてもいいか?」
「だから、私に触れたら死ぬって……」
「もしもの話でいい。もし橘花の身体から毒が消えたら、触れていいか」
 なぜだか恥ずかしくなって、橘花はくるっと背中を向けた。
「も、もう寝ます」
 背中を向けたまま言って、ベッドに入る。白玖は少し腰を浮かして端に避けた。
「俺は、もう少しここにいてもいいか?」
「ね、寝るんですよ。お話はしませんよ」
「うん。いい。気が済んだら、勝手に出ていくから」
 橘花はふん、と息を吐く。
「……好きにしてください」
 橘花はシーツにくるまりながら、そう返した。頬が熱い。きっと呪いのせいだ、と言い聞かせた。