常に静かな珍しいカフェが、ボクの家の近所にある。
桐林館喫茶室と名付けられたこの店舗は、いわゆる「筆談カフェ」と言われるもので、客も店員も店内で話すのは一切、禁止されている。店員に注文したり、一緒に来た人と会話をしたい場合は、各テーブルに置いてあるノートで筆談するか、ジェスチャーや手話でコミュニケーションをとる、というのがルールだ。
ここは、静かだからいい。
ボクは、休みの日にここによく来る。この店に来たら、なけなしのお小遣いを使って一番安いコーヒーを注文し、カウンターに座る。そしてヘッドフォンをして、タブレットで作詞・作曲をしたり、楽曲に仕上げたりするのがボクの趣味だ。
いつか、有名なアーティストになりたい。
まだ中学生のボクにとって、その夢はあまりに遠く果てしないから、怖くて誰にも話したことがなかった。ボクが曲をつくることを、クラスの誰も知らないし、親も知らない。ましてやつくった曲を誰かに聴かせたこともない。
いつも静かなこの店で生まれたボクの曲は、これまでひっそりと匿名でネットに投稿しているものの、評判はまるでダメだ。
きっとボクには表現者として、まだ決定的なものが足りないみたい。
でも、いつか、多くの人たちが口ずさむような曲をつくってやる。
あの日も、ボクはお気に入りのこの店にいた。
店に入ると、レジカウンターに置いてあるメニュー表からホットコーヒーと書かれたところを指差して、店員に見せる。すると店員は、コクン、と頷いた。
いつもどおりカウンターの一番奥の席に座り、リュックからタブレットとヘッドフォンを取り出す。
ここでボクは、それに出会った。
────何だ、これ? 確か、先週はこんなのなかったのに。
客によく見えるように、それはカウンターの後ろに貼り付けてある。
タブレットを立ち上げている時、それが目に入って思わず見入ってしまった。
美しい。というより、迫力が生々しい。
それは、曇り空をバックに、紅の梅の花が描かれた掛軸。真っ白な雪が積もっている太くて力強い枝は、、空を掴みかかろうと威勢よく伸びている。
その絵は美しくもあり、見ている人を威圧するかのようで怖くもあった。
この絵が気になって仕方がない。
ボクはテーブルに置かれた筆談ノートに(この絵を描いたのは誰?)と書き込んで、そのメモを店員に見せる。すると、店員はカウンターから出て、二つ後方のテーブルまで小走りし、そこでとびきりの笑顔でボクを手招きした。
そこには一人で座って、写真を見ながら何かをスケッチしている女子かいる。店員はその女子の肩を軽く叩き、掛軸とボクを指差すと、女子はボクに目を合わせることなく会釈した。
この女子が、作家?
ボクと同い年くらいかな?
掛軸が力強い筆運びだから、作家はベテランの男性だと思い込んでいた。
同じテーブルに座り、(はじめまして。豊樹と言います)とノートに書いて見せると、その横のスペースに(ツキカです)と書いてくれた。
ツキカさんは眼鏡をしていて、色白で背が小さめだ。白いセーターが似合っている。髪を括っていて、見た目にアーティストっぽくはない。
(あの梅の絵、サイコーだね!)と伝えると、今度は書き込まないで、立ち上がって礼儀正しく礼をした。やっぱり目を合わせてくれないが、はにかんで頬を赤らめるその表情は、かわいい。
それからボクたちは、静寂が支配する会話禁止のカフェで、筆談ノートを文字で埋め尽くして会話(回文)を重ねた。
ツキカさんは、ボクよりも1歳下。本人が言う(書く)には「私は障がい者。耳は聞こえるけど、話せない」そうだ。
話せない人はみんな、耳が聞こえないものだと思い込んでいたボクには、こういう障がいがあるのを知って驚いた。
話せないツキカさんにとって、この静かなカフェは話す必要がないから居心地がいいのだという。
ツキカさんが障がい者だと知ると、急に親近感がわく。
(ボクも発達障がいだよ)と告白する。こんなこと、知らない人に自分から話すのは珍しい。
(どんな障がい?)
(自閉症)
(うそ。分からない)
(よく言われるけど、小さいころからずっとビョーインに通ってる。人とうまく合わせられないし、よくカン違いしてしまう)
(豊樹くんはフツウの中学校に行ってるの?)
(うん。でも通級だよ。フツウの人から見たら、ボクはすごく変な人らしい)
(そう?)
(こだわりが多すぎて、一人よがりなんだって。みんなボクのことをバカにするし、笑われることも多いよ)
(それって、個性じゃないの?)
(大人とか先生は個性だよって言うけど、ボク自身が個性だって思えない。やっぱりボクはどこまでいっても障がい者なんだ)
(じゃあ、わたしたち、障がいがある者同士だね)
(なんだか、ツキカさんだと何でも話せてしまう)
(でも、豊樹くんっていいな。フツウの中学校に通えるのって)
近所に住んでいるが、ツキカさんはボクと同じ中学ではなく、特別支援学校に通っているそうだ。
絵だけは誰にも負けたくないらしく、去年は中学生の全国美術コンクールで入賞したこともあって強い自信を持っていた。
(豊樹くんも、イラストを描くの?)とツキカさんはノートに書くと、ボクのタブレットを指さす。
(いや、ボクはこれで、ちょっと)
(ちょっと何? イラストじゃないの? 執筆?)
ボクは曲づくりしていることをまだ、誰にも言っていない。恥ずかしいし、つくっている曲に自信もないから、秘密にしておきたいが……。
(じゃ、私が今描いていた絵を見せたげるから、教えて)とノートに書いた後、ツキカさんはスケッチブックをめくる。すると、そこにはヒマワリ畑と電車の絵が鉛筆でスケッチしてあった。
見事な下絵だ。
(上手だね)
(ありがとう。じゃあ、豊樹くんの見せて)
困った。秘密にしておきたいが、もうそういう訳にもいかない。どうしよう、バカにされたら……。
えい! と心の中で叫んで、ボクはタブレットの編曲アプリの画面を見せた。
(ボクは、これで曲をつくってる)
すると、ツキカさんはすごく嬉しそうな表情になった。
(カッコいい)
(ヒミツだよ。曲をつくってるって、誰にも言ってないから)
(何で?)
(全然うまくないし、はずかしいから)
(曲をききたい!)
(え? ツキカさんの絵のように、ボクは曲づくりがうまくないよ)
(アートにうまいとかヘタとかないよ。ききたい!)
しぶしぶ、ボクはヘッドフォンをツキカさんの耳にあてた。そして、最近つくったばかりの曲を再生する。
これがボクの中の一番の自信作ではあるが、……。
ツキカさんは目を閉じて聴いてくれている。
曲を最後まで聴き終えると、やさしい笑顔になった。
(すごくいいよ。シンセサイザーの音が超個性的。まるで平成の懐かしい曲みたいで新しい)
(ホント?)
こんな褒められたことがないボクは、嬉しくて照れてしまう。
(おせじでも、うれしいよ)
(おせじじゃないよ。本当だよ。私そんなつまらないウソつかないもん)
(ありがとう。ボクも曲で認めてもらえるようがんばってみる)
毎月第2と第4土曜に、ツキカさんはこのカフェの近くで手話サークルの活動をしていて、毎回その活動終わりにここに寄って一人でスケッチをしているそうだ。
それを知ったボクは、それ以後、毎月第2と第4土曜にここに来て、ツキカさんと筆談するようになった。
会うたびに、ツキカさんは描いたばかりの絵を見せてくれて、ボクは自分の最新曲を聴かせる。月一回のそのわずかな時間が、ボクには楽しくて仕方がない。
それ以来ボクは、ただ、ツキカさんに喜んでほしくて曲をつくるようになっていた。
桐林館喫茶室と名付けられたこの店舗は、いわゆる「筆談カフェ」と言われるもので、客も店員も店内で話すのは一切、禁止されている。店員に注文したり、一緒に来た人と会話をしたい場合は、各テーブルに置いてあるノートで筆談するか、ジェスチャーや手話でコミュニケーションをとる、というのがルールだ。
ここは、静かだからいい。
ボクは、休みの日にここによく来る。この店に来たら、なけなしのお小遣いを使って一番安いコーヒーを注文し、カウンターに座る。そしてヘッドフォンをして、タブレットで作詞・作曲をしたり、楽曲に仕上げたりするのがボクの趣味だ。
いつか、有名なアーティストになりたい。
まだ中学生のボクにとって、その夢はあまりに遠く果てしないから、怖くて誰にも話したことがなかった。ボクが曲をつくることを、クラスの誰も知らないし、親も知らない。ましてやつくった曲を誰かに聴かせたこともない。
いつも静かなこの店で生まれたボクの曲は、これまでひっそりと匿名でネットに投稿しているものの、評判はまるでダメだ。
きっとボクには表現者として、まだ決定的なものが足りないみたい。
でも、いつか、多くの人たちが口ずさむような曲をつくってやる。
あの日も、ボクはお気に入りのこの店にいた。
店に入ると、レジカウンターに置いてあるメニュー表からホットコーヒーと書かれたところを指差して、店員に見せる。すると店員は、コクン、と頷いた。
いつもどおりカウンターの一番奥の席に座り、リュックからタブレットとヘッドフォンを取り出す。
ここでボクは、それに出会った。
────何だ、これ? 確か、先週はこんなのなかったのに。
客によく見えるように、それはカウンターの後ろに貼り付けてある。
タブレットを立ち上げている時、それが目に入って思わず見入ってしまった。
美しい。というより、迫力が生々しい。
それは、曇り空をバックに、紅の梅の花が描かれた掛軸。真っ白な雪が積もっている太くて力強い枝は、、空を掴みかかろうと威勢よく伸びている。
その絵は美しくもあり、見ている人を威圧するかのようで怖くもあった。
この絵が気になって仕方がない。
ボクはテーブルに置かれた筆談ノートに(この絵を描いたのは誰?)と書き込んで、そのメモを店員に見せる。すると、店員はカウンターから出て、二つ後方のテーブルまで小走りし、そこでとびきりの笑顔でボクを手招きした。
そこには一人で座って、写真を見ながら何かをスケッチしている女子かいる。店員はその女子の肩を軽く叩き、掛軸とボクを指差すと、女子はボクに目を合わせることなく会釈した。
この女子が、作家?
ボクと同い年くらいかな?
掛軸が力強い筆運びだから、作家はベテランの男性だと思い込んでいた。
同じテーブルに座り、(はじめまして。豊樹と言います)とノートに書いて見せると、その横のスペースに(ツキカです)と書いてくれた。
ツキカさんは眼鏡をしていて、色白で背が小さめだ。白いセーターが似合っている。髪を括っていて、見た目にアーティストっぽくはない。
(あの梅の絵、サイコーだね!)と伝えると、今度は書き込まないで、立ち上がって礼儀正しく礼をした。やっぱり目を合わせてくれないが、はにかんで頬を赤らめるその表情は、かわいい。
それからボクたちは、静寂が支配する会話禁止のカフェで、筆談ノートを文字で埋め尽くして会話(回文)を重ねた。
ツキカさんは、ボクよりも1歳下。本人が言う(書く)には「私は障がい者。耳は聞こえるけど、話せない」そうだ。
話せない人はみんな、耳が聞こえないものだと思い込んでいたボクには、こういう障がいがあるのを知って驚いた。
話せないツキカさんにとって、この静かなカフェは話す必要がないから居心地がいいのだという。
ツキカさんが障がい者だと知ると、急に親近感がわく。
(ボクも発達障がいだよ)と告白する。こんなこと、知らない人に自分から話すのは珍しい。
(どんな障がい?)
(自閉症)
(うそ。分からない)
(よく言われるけど、小さいころからずっとビョーインに通ってる。人とうまく合わせられないし、よくカン違いしてしまう)
(豊樹くんはフツウの中学校に行ってるの?)
(うん。でも通級だよ。フツウの人から見たら、ボクはすごく変な人らしい)
(そう?)
(こだわりが多すぎて、一人よがりなんだって。みんなボクのことをバカにするし、笑われることも多いよ)
(それって、個性じゃないの?)
(大人とか先生は個性だよって言うけど、ボク自身が個性だって思えない。やっぱりボクはどこまでいっても障がい者なんだ)
(じゃあ、わたしたち、障がいがある者同士だね)
(なんだか、ツキカさんだと何でも話せてしまう)
(でも、豊樹くんっていいな。フツウの中学校に通えるのって)
近所に住んでいるが、ツキカさんはボクと同じ中学ではなく、特別支援学校に通っているそうだ。
絵だけは誰にも負けたくないらしく、去年は中学生の全国美術コンクールで入賞したこともあって強い自信を持っていた。
(豊樹くんも、イラストを描くの?)とツキカさんはノートに書くと、ボクのタブレットを指さす。
(いや、ボクはこれで、ちょっと)
(ちょっと何? イラストじゃないの? 執筆?)
ボクは曲づくりしていることをまだ、誰にも言っていない。恥ずかしいし、つくっている曲に自信もないから、秘密にしておきたいが……。
(じゃ、私が今描いていた絵を見せたげるから、教えて)とノートに書いた後、ツキカさんはスケッチブックをめくる。すると、そこにはヒマワリ畑と電車の絵が鉛筆でスケッチしてあった。
見事な下絵だ。
(上手だね)
(ありがとう。じゃあ、豊樹くんの見せて)
困った。秘密にしておきたいが、もうそういう訳にもいかない。どうしよう、バカにされたら……。
えい! と心の中で叫んで、ボクはタブレットの編曲アプリの画面を見せた。
(ボクは、これで曲をつくってる)
すると、ツキカさんはすごく嬉しそうな表情になった。
(カッコいい)
(ヒミツだよ。曲をつくってるって、誰にも言ってないから)
(何で?)
(全然うまくないし、はずかしいから)
(曲をききたい!)
(え? ツキカさんの絵のように、ボクは曲づくりがうまくないよ)
(アートにうまいとかヘタとかないよ。ききたい!)
しぶしぶ、ボクはヘッドフォンをツキカさんの耳にあてた。そして、最近つくったばかりの曲を再生する。
これがボクの中の一番の自信作ではあるが、……。
ツキカさんは目を閉じて聴いてくれている。
曲を最後まで聴き終えると、やさしい笑顔になった。
(すごくいいよ。シンセサイザーの音が超個性的。まるで平成の懐かしい曲みたいで新しい)
(ホント?)
こんな褒められたことがないボクは、嬉しくて照れてしまう。
(おせじでも、うれしいよ)
(おせじじゃないよ。本当だよ。私そんなつまらないウソつかないもん)
(ありがとう。ボクも曲で認めてもらえるようがんばってみる)
毎月第2と第4土曜に、ツキカさんはこのカフェの近くで手話サークルの活動をしていて、毎回その活動終わりにここに寄って一人でスケッチをしているそうだ。
それを知ったボクは、それ以後、毎月第2と第4土曜にここに来て、ツキカさんと筆談するようになった。
会うたびに、ツキカさんは描いたばかりの絵を見せてくれて、ボクは自分の最新曲を聴かせる。月一回のそのわずかな時間が、ボクには楽しくて仕方がない。
それ以来ボクは、ただ、ツキカさんに喜んでほしくて曲をつくるようになっていた。