真奈美の指示で皆、巫女さんを呼び出す儀式の準備をする。儀式自体は至って簡単でシンプルなものだ。
 まず、どこでもいいので、一箇所だけ窓を開けてカーテンを閉め、部屋を暗くする。後々、儀式に参加する面々で手を繋ぐので、皆円形に座る。その中心に赤いペンや筆で大きな鳥居とその中に五芒星を描いた和紙を置く。今回は真奈美が用意してくれた赤いボールペンを使って書いた物を用意した。その横に刃物を一本用意する。これは巫女さんと契約する者が、自分の指を少し切って拇印を押す為の物だ。真奈美の呪文が終わるのと同時に、和紙に血判を押さなければならない。血判を押せば、巫女さんとの契約は完了し、悪霊を祓ってくれるというのが一連の流れだと真奈美は淡々と説明した。

「ここまでは大丈夫?」
「途中で手、放してもいいのか?」
「うん。呪文が終われば、見えないけど、巫女さんは近くにいるみたいだから」
「間違って親指切るなよ、涼佑」
「そんな間抜けなことするか」
「あ、大丈夫。意外と親指切っちゃう人多いから、その時は反対の親指で押してね」
「お、おう」

 そう聞いて、少々心配になったのか、ちらりと涼佑はテーブルに置かれたカッターナイフを見つめる。唯一、気を付けるべきことは深く切らないことだけだ。しかし、そこで一つ疑問が持ち上がる。

「青谷、さっき巫女さんの分って言ってたやつは? 置かなくていいのか?」
「うん。今はまだ呼び出してないから、これは巫女さんが来てから使うの」

 座っている真奈美の傍には、さっき取っておいた大福と麦茶が置かれている。一切手を付けられていない様は何かお供え物みたいだなと涼佑は思った。

「じゃあ、始めよっか。……あ、言っとくけど、新條。絶対怖がっちゃダメだからね」
「は? 怖がる訳無いだろ」

 準備が整い、絢の一言で皆はお互いに手を繋ぐ。涼佑が直樹の方をちらりと見ると、左隣の真奈美と手を繋いでいることを分かりやすく意識していた。右にいる涼佑のことなんて、眼中に無い様子に彼は少しだけ腹を立てた。自分は至って真剣なのだがと言ってやりたい気分になる。静かになったところで、折りを見た真奈美が滔々と呪文を唱え始めた。

「巫女さん、巫女さん。彼方よりお出で下さい。此方にお迎え致します」

 ふわ、と開いた窓から弱い風が入ってきて、カーテンを捲り上げる。偶然の筈なのに、涼佑の背筋にぞくりと寒気とも怖気とも分からないものが駆け上がってきた。そうしているうちにも真奈美の声は続く。

「彼方よりお越しくだされば、貴方様の依代をお約束致します」

 ざわざわと身体中の毛が逆立つのが分かった。これは窓が開いてるから、風が入ってきて少し肌寒いせいだ。心霊的なものじゃない。そう自分に言い聞かせる涼佑。そろそろ血判の準備をしようとカッターナイフを取って刃を親指に当てそうになり、慌てて別の指にしようとして、手が滑った。スパッ、と小指側の掌側面を切ってしまい、血が滴る。一瞬、止めようと真奈美の言葉が詰まったが、「続けろ!」という涼佑の声に覚悟を決めたようで続行された。右手の親指に血を付けていつでも押せるようにしておく。

「此度、貴方様と契りを交わすは新條涼佑なる人。どうか、その体にお入りください」

 呪文が終わったと同時に、涼佑は和紙に血塗れの親指を押し付ける。無事、拇印が押されると、風が止み、皆少し疲れた溜息を吐いた。

「これで、終わり?」
「ううん、まだ。後は新條君の周りで何かが起きるのを待つ」

 集中していたせいか、緊張の糸が切れると、何だかどっと疲れが出て涼佑は体の力を抜く。これで儀式は終わったと肩の荷が下りたような心地でいると、ずり、ずり、と何かが這ってくるような音がする。その音に誘われるようにして何気なくドアの方を見た。いつの間にか部屋のドアは開いていて、そこから階段の降り口が少しだけ見える。どうやら、音は階段を上がってくるようだった。嫌な予感を覚え、奥歯を噛み締めるが、それ以外にできることは無く、階段の降り口からぬっと現れたのは長い黒髪を引きずるようにして上ってきた四つん這いの女の顔だった。

「うわぁああああああああっ!!?」

 瞬間、涼佑は他人の家にいるということも忘れて叫んだ。恐怖で心の底から叫び、怯えた。咄嗟に逃げようとしたが、カーペットか何かで滑って立ち上がることすらできない。彼の叫び声ですぐさま真奈美が動き、何故か涼佑の肩を押さえて動きを止めようとする。

「怖がらないで! 巫女さんはあなたの前に現れるけど、その姿は大抵普通の霊と変わらないの! 彼女を受け入れないと、悪霊は祓えない!」

 涼佑は真奈美の話を聞いているのか、いないのか、傍目から見て判断はできない。それ程、今の彼は怯えて錯乱状態になっていた。残念ながら真奈美達の目には、涼佑が見ているものは映っていない。彼が何を見て怯えているのか正確なことは分からないが、その反応から真奈美は巫女さんが現れたと確信できた。
 女はじっとそこから動かない。まるでこっちの様子を窺っているみたいだった。一気に近付いて来られるのも怖いが、じっとそこに居られるのも怖いと涼佑はどうにもならない凝り固まった恐怖と必死に戦っていた。涼佑が女と睨み合っている間も、真奈美は彼に落ち着くよう声を掛け続ける。

「大丈夫、落ち着いて。巫女さんはこっちが何かしない限り、近付いては来ないから。深呼吸して、ちゃんと彼女を見るの」

 そのままどのくらいの時間が経ったのかは分からない。けれど、真奈美の声かけが功を奏したのか、何とか落ち着き始めた涼佑は少し冷静さも取り戻した。確かに真奈美の言った通り、女は一向に近付いて来ない。だが、依然としてそこにいるのは変わらなかった。
 それから数分が経ち、一歩も近付いてこない女の姿に少し見慣れると、涼佑の恐怖は段々と融解して先程の叫び散らかしている状態からは脱し、いくらか冷静に周りを見ることができるようになってきた。それを好機と見た真奈美が静かに語りかける。

「ねぇ、新條君。巫女さんは今どこにいるの?」
「どこって……見えないのか?」

 涼佑の問いに真奈美は頷く。巫女さんの姿が見えるのは、契約した本人だけだと彼女が説明すると、涼佑はもう堪らないという顔で頭を抱えた。「何だよそれ、そんなん聞いてねぇよ……」と零された言葉に真奈美が淡々と返す。

「言ってなかったからね。それに、巫女さんの姿は見る人によって違うの。さっきは大抵、普通の幽霊の姿って言ったけど、稀にそれとは違う姿の巫女さんを見る人もいるみたい。新條君はどうなのか、分からなかったから」
「……階段のとこ。四つん這いで、こっち見てる」

「今の巫女さんはどんな風に見える?」と訊いた真奈美の様子があまりにも落ち着いていて、涼佑は自分の周囲を観察できるまでになった。直樹達も真奈美同様に巫女さんが見えないらしく、不安げに涼佑と階段を交互に見ている。周りの様子を見る余裕が生まれると、自分一人が心底怖がっているのが間違っているのかもとすら思えてきた涼佑は、もう一度、階段の方を見る――

「やっぱ、いるじゃん……」

 やっぱ、いるのである。こっちをじっと見つめていて動かない。いや、あっちも動けないと言った方が正しいか。こちらの様子をずっと窺っている。見えるありのままの様子を涙声で涼佑が報告すると、真奈美はうんうんと頷き、厭に優しく次の手順を教えてくれた。

「じゃあ、巫女さんの前にこれを置いて、『お供え物です。どうぞ』って言ってくれない? それで正式な契約は果たされるの」
「死ねって言ってる?」

 どう聞いてもそう言っているとしか思えない。それ程までに彼にとって、この任務は荷が重い。「だめ?」と小首を傾げて訊いてくる真奈美に、涼佑は絶望するしかない。

「巫女さんもあのままじゃ可哀想だよ? 都市伝説では私達と同い年くらいの女の子って聞いてるんだけど」
「え、そうなんだ」

 同い年の女の子と聞いて、何か複雑な感情を抱いた涼佑はもう一度巫女さんを見た。ちらりと階段の陰から覗いている顔は確かに大人というよりは幼いが、かといって子供とも違うように見える。それに、よくよく見れば、別にこっちを恨みがましく見ている訳じゃない。どちらかというと、こっちにいつ近寄っていいものか、少し戸惑っているようにも見えた。しかし、それを差し引いても涼佑にとっては存在自体が怖い。さっきまで何もいなかった場所に何の前兆も無く、いきなり現れたのだから当然だろう。誰だって怖がるに決まってる。現れるなら、もう少し普通に現れて欲しいと彼は思った。それこそ、ゲームのヒロインみたいに一陣の風が起きて、その中から神々しい巫女服着た女の子が現れても良いと思う、と切実に文句を言いたい気持ちになってしまう。それが何故、四つん這いで階段を這い上ってくるという手段に出たのか、心底理解できない。そんなことを考えていたのが顔に出ていた涼佑に、真奈美が釘を刺すように言ってきた。

「先に言っておくとね、巫女さんの姿は契約する人の感情や思い込みによって変わるって言われてるの。新條君、儀式の間、不安だったんじゃないかな」
「そんなつもりは……無かったんだけど……」

 尻すぼみになっていく言葉。自分ではそんなこと思っていなかったけど、無意識では違っていたのかと自分の感情が分からなくなってしまう涼佑。それを確かめようと、また巫女さんを見た。今度は顔がはっきり見える。別に彼女の位置が変わった訳じゃない。ただ顔の半分を隠していた黒髪が分けられて顔が全部見えるようになっただけだ。でも、それだけで涼佑の目にはだいぶ普通の女の子に見えた。顔は傷一つ無く、綺麗な肌をしていて、可愛らしい顔立ちをしていた。その状態の彼女を見て、彼は直感した。
 ああ、そうか。ずっと不安で怖かったんだと納得できた。巫女さんを喚んでも、同じ事が起こったらどうしようだとか、更に悪化したらどうしようだとか、先が見えない不安でいっぱいだった。それが彼女の姿に表れていたのかと涼佑は自分の恐怖を受け入れることができた。
 その気持ちに応えるように、いつの間にか巫女さんは普通に立っていて、階段を上りきっている。所々汚れてはいるが、白い着物に身を包んだ巫女さんは存外、小さな少女だった。随分、小柄な彼女は目の前まで来ると、儚げに微笑む。その笑顔を見ると、自然と体が動いて涼佑は真奈美の手から離れた。彼女に言われた通りに大福と麦茶を巫女さんへ差し出し、唱える。

「巫女さん、お供え物です。どうぞ」

 差し出されたそれに巫女さんが触れると、大福と麦茶から半透明な像が浮かび上がる。実体の方ではなく、像の方を手にすると巫女さんは半透明の大福を食べ、麦茶を飲んだ。
 その瞬間、それまで典型的な幽霊少女の姿はかき消え、代わりに巫女服を着たポニーテールの少女がそこに立っていた。巫女服の上に薄く白い上着のような着物を着て、腰には刀を携えている。少女の小柄な体に似合わない、少々大振りの物だ。それに左手をかけて巫女さんは不敵に口端を上げた。

「漸く私を受け入れたか。遅いぞ、涼佑」

 さっきまでのしおらしい雰囲気はどこへやら、やや偉そうな態度で巫女さんはふん、と鼻を鳴らした。涼佑が無事お供え物をあげることができ、契約が完了したので、真奈美はほっと胸を撫で下ろして「これで大丈夫」と零す。

「どう? 新條くん。巫女さんはちゃんと傍にいる?」
「やっぱ、オレ以外には見えないのか?」
「彼女はちょっと特殊な守護霊で、見える人には見える守護霊とは違うの。契約した人にだけ見える都市伝説の巫女さん」
「ああ、そうそう。その都市伝説ってどういう話なんだ?」

 少し前から訊こうと思っていたことを漸く訊くと、真奈美は「始める前に話しておけば、良かった?」と逆に質問してくる。

「ん~……いや、よく訊かなかったのはオレの方だからなぁ」
「じゃあ、話しておくね」

 真奈美から聞いた話はこんな話だった。
 昔、ある女子高生が非常にたちの悪い悪霊に取り憑かれてしまったが、周囲に相談できないので、一人で巫女さんの儀式をした。巫女さんが彼女に憑依してからは悪霊はどこかへ去り、彼女と悪霊の縁を巫女さんが断ち切ってくれたお陰で、その女子高生はもう二度と霊に悩まされることは無くなったという話。
 他にも巫女さんに関する有り難い話はあるが、丁度タイムリーな話の方が良いと思って話したと言う真奈美。傍らに立つ巫女さんに本当の話か訊くと「ああ、まぁな」とだけ返ってきた。どうやら、彼女の口調は元々男勝りなもののようだ。

「さて、新條君に巫女さんも憑いたことだし、ご飯にしましょうか」

『ご飯』という単語に急に現実に引き戻されたような感覚があって、思わず涼佑は「へ?」と間抜けな声を出してしまう。念を押すように直樹が訊いた。

「いや、飯の準備は良いんだけど、もう涼佑に危険は無いのか?」
「うん。ちゃんと新條君には巫女さんの姿が見えてるし、お供え物をあげたから守ってくれるよ」

 真奈美の手に巫女さんに差し出した大福と麦茶があるのに気付いて、何となく見つめていると、巫女さんはにやりと笑って言った。

「食ってみるか? かなり不味くなってるがな」
「いや、いいよ。というか、巫女さんっていつもそういう口調なのか?」

 ついさっき涼佑が思ったことを質問としてぶつけると、彼女は些か不愉快そうに眉を顰め、「なんだ、お前。女がこういう口調なのが許せないタイプか? 今、西暦何年だ? 令和だろ?」と嫌味っぽく言ってくる。そういう意図は全く無いと言った上で、涼佑は思ったことを正直に言った。

「そうじゃなくて、その、幽霊でもこういうことに巻き込まれてばっかりいたりしたから、自然とそういう口調になったのかなって。もちろん、巫女さんにも今まで色々あっただろうし、詮索する気は、無いけど」
「……まぁ、私達、ついさっき会ったばっかりだしな。お互いに知らないだろ」

「でも、お前がちょっとだけ話の分かる奴だってのは、分かった」と巫女さんはニカッと笑った。
 何故、今が令和だと分かったのかと涼佑が訊くと、巫女さんはこれまでも何人もの人達に憑依して守ってきたので、彼らと関わっていく中で、今が西暦二千二十三年で年号が平成から令和に変わったことも知識として知っているのだという。彼の知らないところで、案外と彼女は忙しい日々を送っていたようだ。
 夕食の準備をするから席で待っていてと言って、先に階段を降りて居間へ向かう真奈美に皆付いて行く。その道中、巫女さんは涼佑に非常に興味をそそられているようでやたらと話しかけてくる。

「おお、夕食か! 誰が作るんだ?」
「青谷……あー、髪の長い女の子が作るって」
「よし、なら、手伝ってやれ。涼佑」
「ああ、それはもちろん。そのつもりだけど」

 涼佑が巫女さんと話していても、このメンバーだとそっとしておいてくれる。それが彼にとっては有り難かった。涼佑が手伝うつもりと言った瞬間、巫女さんはふ、と微笑して「良い子だな」と呟いた。その表情が一瞬だけ何だか彼の母親を彷彿とさせて、少しドキッとした。外見は自分と同い年くらいなのに、ふと見せる表情から実は彼女は自分よりずっと年上なのではないかとすら思ってしまう。居間へ向かう中、窓の外を見ると、もうすぐ夜になろうとしていた。
 居間に着いてすぐ、電気を点けて台所に向かう女子三人と時間を確認する涼佑と直樹。針は五時を少し過ぎた辺りを指していた。そういえば、真奈美の祖母が帰ってくるはずの時間はとうに過ぎている。一応、玄関の電気も点けておいた方が良いかと真奈美に訊き、「お願い」と許可をもらった涼佑は絢の「気が利くじゃん」の声を背中に受けながら、玄関へ向かった。
 玄関は彼と直樹が入ってきた時のまま、鍵も掛かっていなかった。今更ながら、それなりの人数がいるとはいえ、少し不用心だったかと思った涼佑は電気を点けて一番上の鍵だけでも掛けておこうと自分の靴を履こうとした。

「涼佑、あれか?」
「え?」

 巫女さんが玄関扉を指す。その指先を目で追った涼佑の目に、玄関扉のガラスに顔を付けて中を見ようとしているあの影が映った。顔の両側に手を付いて陰を作って中をよく見ようとしている。近すぎるせいか、いつもより顔が微かに見える。顔立ちはまだ幼さが残る少女のようだが、死人の目と言うのだろうか、全く光の無い目で射貫くようにこちらを見つめていた。

「っ!?」

 咄嗟に涼佑は後退りして玄関扉から離れる。その隣で巫女さんが静かに鯉口を切る気配と音がした。彼にとっては有り難いことに、彼女はそのまま静かに話しかけてくれる。

「離れて正解だ。こっちが開けない限り、中には入れない」

 断定的な物言いにいくらか安心して、今の涼佑は以前よりはずっと落ち着いて物事を考えられるようになっている。せめて鍵を掛けたいと考えているが、巫女さんの様子からそれもやらない方が良いのではないかと思ってしまう。その気配を察して、巫女さんは刀から手を放さずに簡潔に告げた。

「涼佑、ゆっくりだ。ゆっくり静かに近付いて鍵を掛けろ。私が見張っててやる」

 声すら出してはいけないような気がする涼佑は、一度だけ頷いて言われた通りにする。そっと彼が鍵を掛けると、途端にばんっ、と扉の向こうにいる影が扉を強く叩いた。びくっと体が震えて一歩鍵の掛かった扉から離れる。その間もあの影は続けてばんっ、ばんっ、と叩き続けている。無表情で両手を拳の形にして叩き続けている姿を見ていると、また恐怖が限界を迎えようとしていた。呼吸が浅くなり、今にも叫び出しそうになる。
 そんな彼の目の前にふわりと進み出た巫女さんが、涼佑と影の間に立つように割り込む。彼に背中を見せたまま、彼女は言った。

「なぁに。ガキがお前に拒絶されて、癇癪起こしてるだけだ」

 少し腰を落とした巫女さんは身を低くして刀を抜く、かと思われた。
 唐突にガチャリ、と玄関扉が開かれて「ただいまぁ」と恐らく真奈美の祖母であろう女性が顔を覗かせた。物凄い勢いで叩かれている最中に開かれたので、一瞬涼佑は何が起こったのか認識できなかった。「どうしたの?」と真奈美の祖母に声を掛けられて、やっと我に返る。

「あ、えっと……お、邪魔して、ます」
「あら、もしかして、真奈美のお友達?」
「と、友達って言うか……」
「いつも仲良くしてくれて、ありがとうね」
「あ、はい」
「じゃあ、真紗子さん。また明後日、迎えに行きますね」

 恐らくデイサービスの職員だろう若い女性が開けっぱなしにされている玄関扉から少し中に入って、深々と頭を下げる。まるでさっきまでの異様な空気など無かったかのような光景に、大丈夫なのかと心配になった涼佑だが、段々心臓の鼓動は落ち着いてきた。巫女さんは中から開けなければ、大丈夫と言っていたが、外から開けられた場合はどうなんだろうと考えを巡らせる。
 職員と真紗子の朗らかな会話が終わるまで、ただ一人何となく気まずいような油断ならないような気持ちで待っていると、涼佑が待っていることに気付いた真紗子がキリの良いところで会話を終わらせて、玄関扉を閉める。扉が閉められる様をぼうっと見ていて、そこで初めて涼佑は彼女が杖をついて歩いていることに気付いた。玄関の邪魔にならないところに杖を立てかけて、靴を脱いで玄関に上がろうとしている真紗子を見た涼佑は思わず、手を差し出す。

「大丈夫ですか?」
「あら、ありがとう。優しいのね」
「いえ……玄関、締めておきますね」
「悪いわねぇ」

 あの影が見えないので、そのまままた鍵を掛ける。夕食を食べたら帰るので、上の鍵だけ掛けておいた。さっきまで扉をばんばん叩いていたあの影はどうなったのか、家の中に入っていないのか、気になった涼佑は小声で巫女さんに確認する。

「今はまだ外にいる。安心しろ」

 彼の隣に浮いている彼女からはそれだけ返ってきた。彼女の話だと、中にいる人間が招かなければ、外から人間が来ても霊は入れないのだという。

「基本的にはな。例外の場合もあるが」

 今回はその例外の場合ではないようだ。なら、彼女が傍にいてくれる間は本当に大丈夫なのだろう。真紗子の手を取った涼佑はそのまま居間まで手助けすると、夕食を作っていた女子三人に遅いと怒られたが、真紗子を手伝っていたと報告すると、「なら、よし」と許された。
 許されたついでに手伝えと直樹に言われて、涼佑は彼と一緒に真奈美が事前に味付けをしておいた鶏肉に粉を付けて、ぽふぽふと余計な粉を落とす作業に入る。粉の付いた鶏肉を真奈美は油を少し多めに引いたフライパンに入れていく。揚げてるのか、焼いてるのかよく分からない料理に涼佑は思わず「これは揚げ? 焼き?」と訊いてしまう。

「今日は元々絢達が食べに来る予定だったから、鶏の揚げ焼き。カロリー低めで唐揚げが食べたい時に良いから」

 なるほどと彼が頷いていると、絢に呼び出され、今度は彼女らと一緒に手でレタスを千切って人数分のサラダを作った。今日は鶏の揚げ焼きとグリーンサラダとスープにご飯というバランスの良いメニューのようだ。でも、恐らく自分と直樹はバランス悪く食べるんだろうなと思うと、涼佑の口元に苦笑が浮かんだ。
 直樹はお湯で溶かすスープの準備をしている。レタスがたくさん入ったサラダが出来たら、箸、スプーンと一緒にテーブルに並べ、取り皿も持って行く。テーブルに次々と食事の用意がされていく様を見て、ソファに座ってテレビを見ていた真紗子は「今日はご馳走ね」と嬉しそうに微笑んだ。

 夕食はついさっきまでの幽霊騒ぎなど無かったかのように、和やかで楽しい時間だった。途中、何度か巫女さんが物欲しそうな目で涼佑に訴えてきたが、彼にしか見えない彼女には少しの間、我慢してもらうしかない。最初に大福と麦茶を食べて飲んでいたので、やっぱり普通の食事にも興味があるのだろう。真奈美に巫女さんの様子をこっそり話すと、無言で唐揚げを別の皿に取ってくれた。
 食事が終わると、真紗子は「ゆっくりして行ってね」と言い残して自分の部屋に引っ込み、その間に絢と友香里は残った唐揚げと新しく小さいサラダを作って、スープも用意した。そこで漸く巫女さんの食事の時間になる。

「巫女さん、どうぞ」
「やったー! 唐揚げー!」

 真奈美が箸とスプーンも用意したので、それも霊体にして食べ始める巫女さん。先程まで頼もしかった彼女は、子供のようにはしゃいで、実に美味しそうに唐揚げを頬張っている。守護霊という神聖さを感じる単語からは程遠い姿に、涼佑は思わず笑いが零れた。それを巫女さんに目敏く咎められて理由を話すと、今度はむっとされる。

「いいだろ、別に! 唐揚げに喜んじゃいけないのかっ!?」
「い、いや、いけなくはないけど……ふっ……くく……」

 唐揚げに年頃の少女らしく、幸せをそのまま表したような表情を浮かべる巫女さん。幽霊なのに物凄く生命力に溢れている姿を見て、アンバランスでとにかく可笑しくて涼佑は笑いが引っ込まなかった。

「涼佑、巫女さん何か言ってる?」
「む、夢中で、食べてる……っ!」
「幽霊なのに!?」



 巫女さんの食事も終わって、彼女は誤魔化すようにティッシュを要求してきたので、涼佑が箱ごとお供え物としてあげると一枚取って口元を拭く。拭き終わり、こほんと咳払いを一つしてから「真奈美に伝えてくれ」と真剣な顔で彼女は続けた。

「美味しかった。ご馳走様だ」
「ああ、分かったよ」

「あんなに夢中で食べてたもんな」と涼佑にからかわれると巫女さんは「もういいだろ! それは!」と顔を赤くして怒り出す。涼佑が宥めながらも、彼女の伝言を伝えると、真奈美は口では「そう」と素っ気無かったが、その口元だけは嬉しさを隠し切れないようだった。
 皆で洗い物を片付けてから、涼佑達は帰ることにした。窓の外はもうすっかり暗くなっている。夜のトンネルは危ないからと、真奈美が玄関脇のクローゼットから懐中電灯を出そうとしてくれたが、彼らは自分の家から持って来ていたので断った。本格的に懐中電灯を持ってこなかったのは涼佑だけだ。真奈美に「要る?」と訊かれたが、直樹達が持っているから大丈夫と彼は断った。

「暗いから足元気を付けて。それと、はい」

 もう出るという時に真奈美が差し出してきたのは、人数分のラップで包んだおにぎりだった。海苔も巻かれていない真っ白なおにぎりで、涼佑達は不思議そうに首を傾げたが、それぞれ合点がいったようで皆受け取る。

「おっ、サンキュー。青谷。夜食まで持たせてくれるなんてな」
「そういう訳じゃないんだけど。まぁ、いっか。うん、持って行って」

 全員におにぎりを二つずつ持たせてくれたが、涼佑はもうお腹いっぱいだから、明日の朝食にでもしようと少々無理矢理にポケットへしまった。
 玄関のすぐ外まで見送りすると言う真奈美に、寒いからいいよと断る絢と友香里。見送りなら玄関まででいいと涼佑達も遠慮して、少し残念そうにしていた真奈美だったが、寒い思いをさせずに済んだ。玄関ドアを少し開けて顔を覗かせ、手を振る真奈美に皆それぞれ「ご馳走様でした」と「おやすみなさい」を言って、すぐそこにあるトンネルへ足を向けた。
 真奈美の家から少し歩いて、またトンネルの前で止まる。夜のトンネルは真っ暗で懐中電灯が無ければ、目の前すら見えない。古いトンネルだからか、電灯すら付いていなかった。全く光の無いトンネルの口というのは、まるで怪物か何かがぽっかり開けた口のようで、あまり良い連想はできない。しばらく黙ってトンネルを見つめていたかと思うと、沈黙に耐えられなくなったのか、友香里が呟く。

「このトンネル、夜だとこんなに暗いんだね」

 彼女がぽつりと呟いた一言に、皆無言で同意した。暗闇に慣れていない涼佑達にとってはかなり怖い。この暗いトンネルには、流石にいつも強気な絢も二の足を踏んでいるらしく、黙ったままだ。

「お前ら、夜にここ通ったことある?」
「ある訳無いじゃん。怖いもん」
「だよなぁ」

「夜遅くなる時は真奈美ん家に泊まるし」と開き直る絢。その後も直樹と絢が何故か小声でやり取りしている中、ざあっと後ろから風が吹いてくる。秋風にしては、厭に生温い。何となく嫌な予感がした涼佑が巫女さんに話しかけると、彼女は容赦なく「ここ通らないと帰れないんだろ? じゃあ、早く行った行った」と無常なコメントをした。

「大丈夫なのか? 何か出そうな雰囲気なんだけど」
「大丈夫だ。出る時は出る」

「霊なんて、その辺にうじゃうじゃいるぞ」と追加で全く要らない情報を添えられた。涼佑に憑いているというあの影のこともあるので、一切安心できない。「もしもの時は守ってやるから」と最後に付け足されても安心感はやっぱり湧いてこなかった。
 皆怖気付いているので、最後の抵抗にスマホで周辺にトンネルを避けられる迂回ルートが無いか検索したが、見事に惨敗した。

「マジでこのトンネルしか無いとか」
「もういいよ、行こう。ここ通らないと帰れないし。そんなに長いトンネルじゃないから、一気に抜けちゃおう」

 絢の提案に若干青い顔をしながらも、皆頷くしか無かった。

 トンネルの中はやはり真っ暗で、懐中電灯の明かりだけが頼りだ。気味の悪いトンネル内にいつまでも居たくない一同は、絢の提案通りに懐中電灯をしっかり持って、走り出す。走れば、すぐに出口が見えてくる。確かそうだったと皆記憶を掘り起こしつつ、走り続ける。友香里は走るのが得意ではないから、彼女のペースに合わせてだが。



 どのくらい走っただろう。でも、確実に五分以上は走っていると、涼佑は思う。他の皆もそう思ったのか、絢が息を乱しながらも「一旦、止まろう」と誰にともなく言った。
 足を止めて、呼吸を整え、スマートフォンを見る。時刻はトンネルを入ってからまだ一分しか経っていなかった。

「絶対嘘! だって、もう五分は走ってる!」

 この中で一番息を切らしている友香里が声を上げた。彼女の言う通り、体感でも本来なら確実に五分以上は走っている。加えて、妙なことに前方にはトンネルの出口さえ未だ見えてこない。彼らはこの短いトンネルの中に閉じ込められてしまったようだ。
 真っ暗なトンネルの中で、皆一度懐中電灯を下げて今まで来た道とこれから進む道を見た。どちらも終わりは見えず、完全に閉じ込められたと理解してしまった涼佑達は有り得ない状況に頭がおかしくなりそうだと思った。

「どうなってんだよ、これ」
「こんなこと、今まで無かったのに……」

 蹲った友香里の目に涙が滲み出し、今にも泣き出しそうな顔をした時、巫女さんが涼佑に話しかける。その目は辺りを警戒しきっており、いつでも刀を抜けるように腰に利き手が添えられている。

「涼佑、繋ぎ目だ。繋ぎ目を探せ」
「え? 何?」
「繋ぎ目だ。今、このトンネルは霊によって、入口と出口が繋がった状態にされている。その繋ぎ目を探してくれ。後は私がやる」
「繋ぎ目を見つけられれば、出られるのか?」
「ああ、約束しよう」
「分かった。みんな、聞いてくれ」

 巫女さんの説明を涼佑がまとめて伝えると、解決策を提示されたお陰か、皆いくらか落ち着いて話ができ、手分けして繋ぎ目を探すことになった。二手に分かれて探そうということになったが、男と女で分かれるよりは何かあった時の為に、男女二人組になった方が良いだろうと、涼佑と友香里、直樹と絢という感じで分かれることになった。何かあったら、スマホで連絡を取ろうと決めて、彼らはそれぞれの方向へ歩き出した。
 直樹達に背を向けた涼佑は恐らく再び彼らと向かい合わせになった時、そこに繋ぎ目があるのだろうと見当をつける。頭ではそう考えながらも時々、隣を歩いている友香里に声を掛けたり、様子を見たりして彼は彼女の歩幅に合わせて進む。

「ごめんね。足引っ張っちゃって」
「足引っ張るとか、そういうんじゃないだろ。誰だってこんな状況になったら、怖いし」
「それでも、ごめん。私なんかより、新條君の方がよっぽど怖い思いしてるのに……」
「いや、いいよ。オレは、大丈夫だから……」

 友香里の一言で涼佑は一瞬、あの影のことを思い出してしまい、ぶるりと震えた。もし今、この暗闇の向こうからあの影が全力疾走して来たりしたら、絶対に気絶する。彼にはその確信があった。そう思いはするが、今ここで自分が気絶したら、友香里が可哀想だと彼は思う。今、彼女が頼れるのは自分だけなんだと自身を奮い立たせて前を向いた。
 気を引き締め直した涼佑はあの影のことは頭の隅に追いやった。とにかく今は繋ぎ目を探すことだけに集中しようと辺りに目を配りつつ、友香里と共に慎重に先へ進む。こんな状況下では何が起こっても不思議じゃないと素人なりに警戒を怠らない。このトンネルが繋がっている状態だとしたら、普通に考えれば直樹達と鉢合わせになる場所が繋ぎ目だろう。それまでに何も起こらないことを祈りながら、彼らは歩いて行った。



 警戒した割には何も起こらず、涼佑達と直樹達はあっさり鉢合わせすることになった。涼佑は直樹達にもここまでで何か変わったことは起こらなかったかと訊いてみたが、特に何も無かったようだった。

「じゃあ、ここが繋ぎ目ってことか?」

 四人で周囲を見回すも、それらしいものは見当たらない。てっきり涼佑は線のような物があるのかと思っていたので、また彼は巫女さんに訊いてみる。

「なぁ、巫女さん。繋ぎ目かなっていうとこまで来たけど、何も――」
「いや、ここだ。これにはちょっとコツがいるからな。涼佑、今から私の言う通りにしろ。いいな?」
「……ああ、うん」

 人の話を聞かない巫女さんの言うことには、涼佑がやることは二つ。一つ目は懐中電灯を直樹達の方へ投げる。二つ目は、それが終わったらあるイメージを思い浮かべる。イメージ自体はトンネルでも舟でも何でもいいが、とにかく巫女さんと端と端で渡り合って交代するイメージを持て、というのが彼女のお達しだった。そういった知識が皆無な涼佑には、全く意味が分からない。懐中電灯を投げることとイメージすることに何の関係があるのかと考えそうになったが、たとえ意味不明な行動でもそうしないと帰れないと聞かされればやるしかない。直樹達には今から彼がやることを話し、危ないから少し離れてるように言うと、二人とも不思議そうに首を傾げていたが、意味が分からないなりに従い、少し後ろへ下がってくれた。涼佑も友香里と一緒に少し下がって、懐中電灯をしっかり握る。

「これで本当に帰れるのか?」
「心配するな。私を信じろ」
「ん~……頑張る」

「信用するのに、頑張るってなんだ」と突っ込んでくる巫女さんを無視して、涼佑は勢いを付けて懐中電灯を前方へ高く投げた。弧を描いて飛んでいく懐中電灯。どうせそのままアスファルトに落ちるだけだろうと彼は思っていたが、一番高い地点に到達した途端、「ぎゃっ」と獣のような声が響き渡り、懐中電灯はそのまま垂直に落下した。

「え?」
「ほら、涼佑! 私と交代しろ!」

 巫女さんの言葉は今の涼佑には届かない。彼は目の前の光景に釘付けでそれどころではなかった。ある一点を凝視し、身動きができない。彼の視線の先には有り得ないものが居座っていたからだ。
 トンネルを塞ぐように居座っていたのは、大きな腹をした動物だった。オスかメスかまでは分からないが、毛色から何となく狸なんじゃないかと涼佑は予想する。しかし、その狸は厭に巨大で、でっぷりとした腹が目立ち、あまりにも腹が大きいからトンネルの天井に付いている頭が圧迫されているようにも見えた。そして、何より不気味なのは、その腹から狐や兎などの小動物の頭がぼこぼこと生えていて、悲痛な鳴き声を上げていることだった。何これ、何これ何これ何これ。冗談のような、意味不明過ぎる光景に涼佑の頭の中は真っ白になって、もうそれしか言葉が出てこない。

「何、これ」
「動物霊だ。大方、餓死した奴らの集合体だろう。涼佑、早く交代しろ! 食われるぞ! こいつらは今、正気じゃない!」

 巫女さんの鬼気迫る声を聞いても、涼佑は半ば夢の中にでもいるような心地で目の前の景色をじっと見ている。狸っぽい生物なのか、幽霊なのか最早よく分からないものが彼の頭目掛けて腕らしきものを振り下ろし――
 そこまで考えて、涼佑の体は唐突に本能的に動いた。人間、本当に間近に死が迫ると本能で動くんだな、と頭の片隅で呑気に考えてしまう。そんなことを考えつつも、足を無理矢理動かして後方に下がったせいか、体のどこかを捻ったようだ。脇腹にじんわりと遅れて痛みが広がるが、そんなことに構ってはいられない。さっきまで彼が立っていた場所に小さいクレーターができている。その悪夢みたいな現象を目の当たりにして、改めて涼佑の背筋に寒いものが駆け抜けた。おい、これ、ドッキリでも何でも無いのかよと未だどこか夢見心地だった情感が一気に吹き飛ぶ。同時に、さっきまで一緒にいた友香里や直樹達のことを思い出して、慌てて周囲を見回し、彼らの姿を捜す。

「周りなんて気にしてる場合か! それに、あいつらならここにはいない!」
「どういうことだ!?」
「説明してる暇は無い! このままじゃ、お前死ぬぞ!」

『死ぬ』と聞かされてはなりふり構っていられないと、涼佑は狸の振られる腕を何とか間一髪で避けつつ、やけくそに「ああもう!」と自然と出た言葉を続ける。

「これで死んだら、呪ってやるからな!」

 狸の動きに注意し、時折振ってくる腕をどうにかこうにか避けながらも、彼は頭の中でイメージを作り出す。何でもいいと言われていたので、この際だからトンネルにしようと頭の中に思い浮かべた。トンネルを通って、その向こうにいる巫女さんと入れ替わる。トンネルの向こうの彼女と入れ替わるイメージをした途端、不意に体が引っ張られる感覚がして、涼佑の体は宙へ放り出された。
 いや、放り出されたのは体ではない。そうだったら、彼自身がトンネルの天井に付いている筈は無い。地面に立っていた涼佑の姿がみるみるうちに変わっていく。身長は彼より小さく、黒髪を一つに結ってお札で結んでいる。真っ白な着物と目の覚めるような緋袴。たすき掛けをして腰に提げた大振りな刀を抜いた巫女さんは、不敵に笑った。

「嗚呼、この感覚……久しぶりだな。現世に来たのは。さて、こいつは肩慣らしに丁度良い」

「細切れにしてやろう」と刀を振るう、その凶悪とも取れる巫女さんの笑みを最後に、涼佑の意識はぷつりと途絶えた。



 どこかから涼佑の耳に動物の悲痛な鳴き声が届いた。きゅうん、きゅうんとまるで助けを呼んでいるような声に導かれるようにして、彼は目を覚ました。
 目を開けると、そこはひどくカラフルな空間だった。一面緑や茶色、時々黄色と灰色、黒という具合で塗りたくられた空間の中に、ぽつんと穴があった。一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった彼はここに来る前のことを思い返してみるも、こんなところに来た覚えは全く無い。周囲を見回しても誰もいない。涼佑はたった一人で、小さな動物が入れるくらいの穴の前に放置されていた。
 周囲に人影らしいものは無いので仕方なく、彼は地面に膝を付いて――上下左右色のみの空間なので、地面というものがあればの話だが――穴を観察してみる。暗い穴の上にはいつの間にか木の根っこが張っており、その表面には狸の絵が描いてある。この穴に何の意味があるのかは彼には全く分からない。けれど、この向こうに行けば、この変な空間から出られるような気がした涼佑は殆ど迷わずに穴を潜ろうと頭を入れた。
 穴を通り抜けると、また同じような色に塗られた空間に今度は穴が三つ。それぞれには狐、兎、狸の絵が描いてある。そこでも狸の鳴き声に導かれて、彼は一番左の穴を選んだ。この穴の根っこにはお腹を鳴らしている狸の絵が描いてあった。その穴を潜ると、今度は真っ黒い空間に出て、扉が一つ。
 扉の表面には、地面に倒れた狸の絵。その絵を見た瞬間、彼はここまでの穴の意味を理解した。これは、恐らくあの狸に実際に起こった出来事を指している。あのカラフルな空間には緑と茶色、時々黄色と灰色、黒が混じっていたのは、この狸が見ていた景色の色だろうか。だとすれば、今彼がいるこの真っ黒な空間は、死んだということなのではないか。
 ぞっと涼佑は怖気を感じた。さっきまではあんなに色とりどりの空間だったのに、この空間は正に『何も無い』、空っぽそのものだからだ。何も無いこの先には何があるのか、気になる上にいつまでもこんなところに居たくないと思った彼は目を瞑り、思い切って扉を開けた。
 トンネル内に金属音が響く。涼佑の身体を媒介にこの世に顕現した巫女さんは、久しぶりに動かす生身の感覚に未だ少々慣れないながらも、刀を振るって応戦していた。肩慣らしには丁度良いとは言ったが、久しぶりの肉体を得ると、五感や距離感が掴みにくい。加えて、相手はこのトンネルの口いっぱいに広がる巨体。その巨躯から繰り出される単純な攻撃でも、大きさ故に当たれば、ただでは済まない。いくら弱い動物霊の集合体でもこれだけ大きければ、彼女は涼佑の身体を守りつつ、応戦するので精一杯だ。

「これだけデカいと、破魔矢と注連縄も効くかどうかってところ、だなっ!」

 噛み付こうと牙を剥いて迫ってきた狸の顔に、斬撃と蹴りを見舞う。狸が怯んだ隙を狙って、彼女はどこからか弓を取り出し、破魔矢を一度に四本つがえて、それぞれ狸を囲むように壁に放った。その矢じりには細い注連縄が結ばれており、みな地面に突き刺した五本目に繋がっている。最後に六本目を狸の体に放ち、突き刺さったと見るや、巫女さんは「食らえ!」と叫んで弓の弦を引っ張り、鳴らした。途端、トンネル内を明るく照らすように破魔矢が発光し、注連縄を伝って狸に電撃のような結界が叩き込まれた。



 扉を開けた向こうには、沢山の動物達が身を寄せ合っていた。狸、狐、兎、犬や猫もいる。真っ白な空間の中で、彼らは涼佑の姿を捉えると、一斉に威嚇し始めた。今襲いかかられたらひとたまりもないと思った涼佑は「待って! 待て! オレは何もしないよ!」と制止する。動物達はそれでも彼を取り囲んでうーうー唸っていたが、奥から弱々しい鳴き声が上がると、皆唸るのを止めた。見ると、他の動物達に隠れて見えなかったが、一匹の狸が蹲って鳴いている。その鳴き方に何か思い付いたのか、涼佑はポケットを探った。

「あ、あった」

 取り出したのは、真奈美からもらった二個のおにぎり。海苔も付いてないそれのラップを解いて、狸に近寄った。初めは弱っている狸に近寄ろうとした涼佑にまた威嚇しようとした動物達だが、「大丈夫! 大丈夫だから。怖いことはしないよ」と訴えたお陰か、お目こぼしを頂けた。

「ほら、お腹空いてるんだろ? 食べな」

 なるべく優しく話しかけ、狸の前におにぎりを置くと、匂いで気が付いた狸は、余程お腹を空かせていたのか、殆ど警戒すること無く、本当に美味しそうに食べ始めた。その様子にやっと涼佑は安堵の息を吐く。

「はぁ~……良かったぁ。お前ら、おんなじ思い抱えてたんだな。それで、あんなにデカくなっちゃったんだろ? オレ、これしか持ってないけど、ちょっとはお腹膨れたか?」

 涼佑の呼びかけにおにぎりを食べ終わった狸はぺろぺろと自分の口の周りを舐めつつ、すくっと四足で立って元気そうに鳴いた。どうやら、お腹は満たされたようだ。良かったと涼佑は手を伸ばして狸を撫でた。
それが合図だったかのように、気持ち良さそうに目を細める狸から光が溢れ、涼佑も周りの動物達も包んでいった。その光に飲み込まれるようにして、また涼佑は意識を失った。



 次に目を開けると涼佑はトンネルの中で倒れていた。周りには直樹達が心配そうにこちらを覗き込んでいる。巫女さんや巨大狸の姿は無い。倒れていたせいでアスファルトに預けた背中が痛くて冷たい。直樹に手を貸してもらって立ち上がった涼佑を傍らに現れた巫女さんがじろりと睨んでくる。

「お前、何した」
「何、って、なに……?」

 これまでで一番ぶっきらぼうな口調で、自分の顔を下から睨み付けてくる巫女さんにたじたじしながら、少し距離を取る涼佑。彼自身も何が起きたのかなんて全く分からない。ただ、自分にできることをしただけだ。一応念の為、涼佑はおにぎりを入れた方のポケットを探ってみたが、やはりそこには何も入っていなかった。
 それより彼には巫女さんに訊きたいことがたくさんある。しかし、その前に直樹達に「もうトンネルは元に戻ったから外に出よう」と言って、取り敢えず彼は外へ出ることを優先した。また変な現象に巻き込まれたら嫌だと思ったからでもある。直樹達も涼佑と同様、彼に色々と訊きたそうな顔をしていたが、何とか飲み込んで一緒に外へ出た。帰り際、投げた懐中電灯を回収する。手に取った時に軽く点検してみた涼佑はどこも壊れていないことを確かめてから持ち直した。
 トンネルを出ると、涼佑は案の定、直樹達から質問攻めに遭う羽目になった。

「さっき、お前倒れてたけど、本当に大丈夫か?」
「ねぇ、なんでトンネルが元に戻ったの? 新條、あんた何かした?」
「新條君、懐中電灯を投げてからのこと、覚えてる? 私、ちょっと記憶が飛んじゃってて……」
「ちょっと、待っ……ちょっと待ってくれ。オレもよく分かんないんだよ!」

 涼佑もまず、懐中電灯を投げてからの流れが整理できてないと素直に言うと、絢に「じゃあ、明日の昼休みまでに巫女さんに訊いてノートか何かにまとめて、説明して」と言われてしまった。それを聞いた涼佑も確かにこれまでの流れや情報を整理するには良いかもしれないと思ったので、素直に了承した。どうしてトンネルが繋がったのか、あの狸は何だったのか、涼佑だけが見たあの空間は何なのか。彼も巫女さんに訊きたいことが山積みだった。

「分かったよ。帰ったら、ちょっと巫女さんに訊いてみる」
「そうして。……もしかしたら、この先、あんたは何かと隠したがるかもしれないけどさ。あたしら、もう同じ秘密を共有する仲間でしょ。何か困ったことあったら、言いなよ。巫女さんの儀式を提案して協力したのはこっちだし、アフターサービスはある程度はちゃんとしてるつもりだから」

「じゃないと、真奈美の評判に関わる」と当たり前のように言う絢。そんなぶっきらぼうな彼女の言葉に涼佑の胸の中に温かいものが込み上げてくる。でも、それを口にするのは流石に恥ずかしいと思う彼は直樹と一緒に「ほ~ん」みたいな反応しかできない。

「何よ、その反応。バカにしてんの?」
「してないしてない。とにかく今日はもう帰ろう。これ以上変なこと起こったら、本当に帰れなくなりそうだし」

 直樹の言う通りだと思い、彼らは逃げるようにしてトンネルから学校の方へ歩いて行った。
 学校までたどり着き、近くの橋を渡った先が涼佑達が住んでいる住宅地だ。そこに入れば、後はそれぞれの家に帰るということで、そこまでは特に何も無く、涼佑達は解散した。去り際、涼佑は直樹にもう一度体の心配をされたが、「大丈夫」と返して自分の家に向かう。
 家に帰るといつも通りに家族に迎えられ、いつも通りに風呂に入り、後は寝るだけの体になる。そこまでやれば、後は宿題を片付けつつ、気持ちに大分余裕が出てきた涼佑は巫女さんに色々訊いてみたくなった。なるべく隣室のみきには聞こえないように、カモフラージュの意味も込めてスマホで数学の解法を紹介している動画を流す。こうしておけば、サボる時にも内緒話をする時も言い訳ができる。これを流しておけば、安心なので彼がいつも使っている手だ。改めて現代文明に感謝し、巫女さんに呼びかけてみると彼女は彼のすぐ隣に浮いて現れた。

「なぁ、巫女さん。トンネルで起こったことについて訊きたいことが山積みで、今から質問攻めにしちゃうけど、いい?」
「良いぞ。お前も同じ目に遭うだろうしな」

 したり顔で笑う巫女さんに思わず「お、おう」と押され気味になった涼佑だったが、負けずに遠慮なく最初の質問をすることにした。
「あの狸って、結局何だったの?」
「そこからか。それは簡単だ。トンネルの中でもちょっと説明したが、あの狸は餓死した動物霊達の集合体の根、大元になった霊だな。あの狸の『腹が減った』っていう思いに、同じ思いを抱えて死んだ他の動物達が共鳴し、くっついてああなった。その辺でたまに見る霊だな。飢餓の余り、トンネルを繋げて人間を迷わせ、体力を奪って食うつもりだったか、食べ物を奪うつもりだったんだろう」
「え、こわ」
「というか、涼佑。お前、あの狸におにぎりあげたんじゃないのか?」

 その一言で涼佑の中で漸くあの時起こったことの大半が繋がった。あのよく分からない空間で狸におにぎりをあげたから、無くなっていたのかと思い至る。しかし、そこで新たな疑問が浮かんだ。

「じゃあ、なんで青谷はあの時、おにぎりなんか持たせてくれたんだろう?」
「恐らく、知ってたんだろう。私に憑かれた人間は、霊を呼びやすくする体質になるからな。それで、あの狸を刺激した」
「へぇー、そうなん……いや、待てよ! なんでだよ!? なんで巫女さんが憑くと、霊が寄って来んの!? 普通、逆じゃないの!?」
「逆なもんか。そっちの方が私にとって都合が良いからそうなる」
「都合が良い?」

 そこからの話は何やかんやと誤魔化された涼佑だったが、それ以外のことについてならば、巫女さんは質問に答えてくれるようだ。彼女の態度から何か隠していると確信した涼佑だが、まだ憑いてもらったばかりだから話したくないこともあるんだろう、と彼女の意思を尊重し、そのことに関しては一時口を閉じることにした。

「で、お前が最大級に訊きたいことはあれだろ? 私と入れ替わるイメージをした直後辺り」
「うん。そこからよく分からないんだけど、オレはあの時、どうなってたの?」

 そこからの巫女さんのした話はこうだ。通常、彼女と入れ替わるイメージをすれば、涼佑と巫女さんの魂が入れ替わり、彼の魂は繋がったトンネルから弾き飛ばされて、彼女の戦いが終わるまで意識が無く、漂っているというのが普通らしい。しかし、今回は全く違っていたのだそうだ。

「今まで私が憑いた人間の魂は、悪霊や妖怪が生み出す領域『妖域』から弾かれて、安全圏で眠っているのが普通だった。だが、お前の魂は違う。私と入れ替わった直後、お前の魂はあの狸の中に吸い込まれるようにして入ったんだ」
「……えっーと、つまり?」
「入った後のことは私は知らんが、お前、あの狸の中でおにぎりやったか?」
「中、っていうのが正直、よく分かんないけど、オレ、気が付いたら変な空間に居てさ。周りは凄くカラフルな空間で、目の前に動物の巣穴っぽいのがあって、そこに――」
「待て待て待て。巣穴? 空間? 何の話をしてる?」
「えぇ……。何の話って、オレが見たものそのままの話だけど?」

 これ以上無いくらい涼佑は素直に見たままのことを話しているのだが、巫女さんには何のことか全く分からないようで、額に拳を当てて眉間に皺を寄せている。彼女のこの反応を見る限り、涼佑は自身で前代未聞の領域に達した人間なのだろうかと何となく考える。彼にも詳しいことは分からないが、彼女の反応からしてあまり嬉しい現象でないというのは薄々予感している。

「何なんだ、それは」
「何なんだろうな」
「……今までだったら、宿主の魂が避難している間に私が霊の核を破壊して消滅させた後、身体を宿主に返すんだが……」
「核って?」
「霊は生身じゃない分、非常に不安定なものなんだ。存在が不確かだから何かに惹かれ易く、くっつきやすい。生者・死者に関係無く、他存在の強い思いに同調して混ざり、別のものになる。それが悪いものなら、悪霊や妖怪。良いものなら神霊や神の使いに近いものになる。その霊がくっつくことになった大元の思いが核だ」
「強い思いって、さっきの狸みたいに何か未練を残してたりってこと?」
「それは霊が霊たる理由でしかない。動物の場合は同じ未練を持っているもの同士がくっつきやすいってだけだ。ま、それだけでもさっきの狸みたいにちょっと厄介なものになったりするが、人間はあの比じゃないぞ」

『人間』と聞いて、涼佑はここ最近の出来事を思い浮かべた。あの日、生徒の前で涙した先生、亡くなった望のことで談笑するクラスメイト。そして、亡くなる前の望のこと。人間は動物の比ではないと聞くと、そんな嫌な光景ばかりが思い浮かぶ。

「それは……最近オレに…………オレに付き纏ってる、『あいつ』も?」
「身をもって経験しただろう。そっちも早くケリをつけなきゃならんが、今はお前の体験談の解明が先だ。で、あの中で変な空間に行って?」
「あ、そうだ。それで、巣穴のところに狸の絵が描いてあったんだよ。歩いてる絵とお腹空かした絵。それから……死んじゃった絵」

 少しだけ気まずい沈黙が下りたが、巫女さんは無言で顎をしゃくって先を促す。涼佑は自分の考えも交えて話すことにした。

「その絵があった空間は真っ黒だったけど、そこを通ったら、真っ白な空間にたくさん動物がいたんだ。その中で弱った狸におにぎりをあげたら、光に包まれて――目が覚めたら、あのトンネルにいた。オレ、思うんだけど、あの空間はあの狸がいつも見ていた景色なんじゃないかな……って」

 彼が話し終わると、巫女さんは「ふむ……」と呟いたきり、考え事を始めてしまった。
 それから数分間待っていた涼佑だったが、巫女さんは一向に何も言わない。頼むから、放って置かないで欲しいと切実に彼は思った。時間が経つにつれて涼佑を言いようのない羞恥心が襲う。何言ってんだよオレ、と頭を抱え始めたところで漸く巫女さんはぽつりと呟いた。

「当たらずも遠からず、というところか」
「んえ?」
「恐らく、お前が見た……いや、近付いたのは霊の核だろう」
「核? あの空間が?」
「動物だから作りが単純なのかは分からんが、涼佑が私より先に狸の核に触れて、思いを満たしたから妖域が解けたのだとすれば、根拠は無くとも納得はいく上に、説明がつく。そうじゃなければ、核も見ない内に霊が消滅……しかも成仏する筈が無い」
「え? あの狸、成仏できたの? ……良かった」
「共感能力が高いのか、感受性が豊かなのか。私もその手の専門家じゃないから分からないが。涼佑、お前は恐ろしい才能を持ってる。霊を成仏させるなんて、並の人間ができることじゃないぞ」
「え? そ、そうかな? へへ」

 巫女さんに褒められたことと狸が無事成仏できたことに涼佑が嬉しくなったところで、彼女は容赦なく言い放った。

「但し、生きてるうちは全然嬉しくない能力だがな。私が憑いてる限り、碌な目に遭わん」
「上げて落とすの、やめない?」

 ちょっとぐらい少年漫画の主人公気分を味あわせてくれたって良いと思う、と彼は肩を落とした。
 ここまで出てきた情報をノートにまとめている最中、涼佑はふと、友香里が言っていたことを思い出し、それも訊いてみることにした。

「そういや、巫女さん。オレと一緒にいた高野は狸のこととか何にも覚えてないみたいだったけど?」
「ああ。妖域は招く側、つまり霊や妖怪が自分の思いや欲望に合致する人間や生き物しか招かないからだな。妖域を作り出す程、強い思いに囚われた霊は、根源となる思いで行動や引き込むもの全てが決まる。じゃなかったら、今頃、現世は行方不明者続出の世紀末だろうよ。今回、あの狸は私の存在に刺激されて出てきたから、お前だけを招いたんだろう」

「招かれなかった者に記憶が定着しないのは、当たり前だな。そもそも何が起こったのかすら、認識できない」と続ける巫女さんに「なるほど」と頷きつつ、それもノートに書き込んだ。ここまで来ると、涼佑はもう宿題なんてやってる場合じゃなかった。今の話もまとめていると、またある疑問が出てくる。

「待ってよ。その話が正しいとしたら、オレが招かれなかった時は? オレ以外の人じゃ、対抗する術が無くないか?」

 そこで「待ってました」とでも言うように、巫女さんはニヤリと悪い笑みを浮かべて絶望を口にした。

「安心しろ、涼佑。私とその宿主は妖域を『こじ開ける』ことができる。私が都市伝説であるが故にな」

 聞きたくなかった特典を聞かされて、涼佑はノートに書き込む手を止め、今度こそ頭を抱えた。一気に視野が狭くなったような気がする。せめてもの抵抗に発した一言すら、彼女にぴしゃりと叩き落された。

「聞かなかったことにしてい――」
「ダメだ」

 なんで何も罪を犯していないのに、そんな目に遭わなきゃいけないのか。できれば、今後そんなことをしなくて済みますようにと、涼佑は切に願った。今、異様にもち子のほっぺを揉みたいという感情に苛まれる。
 涼佑が死んだ目つきで隣の浅田家で飼われている柴犬のもち子を恋しく思っていると、「お兄ちゃん、うるさい」と隣室から突撃してきたみきに注意された。
 みきが自分の部屋に戻った後、またすぐにコンコンとドアがノックされる。今度は何だと思い、ドアを開けようと涼佑がノブに手を掛けたところで、巫女さんが鋭い声を上げた。

「開けるなっ! 涼佑!」
「うぉっ!? いきなりデカい声出すなよ、巫女さ――」

 手元を見ずにそのままきぃ、と少しだけ開けられたドアの先を見た涼佑は、そのまま動けなくなった。巫女さんにも緊張が走り、咄嗟に腰に提げている刀に手を添える。僅かに開いたドアの隙間からは、あの影が覗いていた。今まで以上にすぐ近くにいるせいか、いつもは見えない部分が見える。その影は厳密には影ではなく、真っ黒い人間のような『何か』だった。ドアの隙間からこちらをじっと見つめるその目には生気というものが全く無く、真っ黒な虚無を映している。あまりにも距離が近くて、涼佑は悲鳴すら上げられずに、苦しげな浅い呼吸を繰り返していた。
『何か』は何も言わずに廊下に佇んでいた。顎までの短い髪からぽたぽたと雫が落ち、着ている制服を濡らす。青白い肌に紫色の薄い唇が、今目の前に佇んでいるものが死者なのだと否が応でも示している。ぐっしょりと全身が濡れたそれに釘付けになりながら、涼佑はただ動けずにいた。身動ぎすらできないでいる彼の視界に青白いものが映る。反射的にそれに目をやると、ドアの隙間から青白い手がゆっくりと差し入れられている。
 中に入って来ようとしている! 涼佑がそれに気付くとほぼ同時に、刀を抜いた巫女さんがドアの隙間を刺し貫こうとした。

「ちっ。やっぱり、駄目か」

 巫女さんからその言葉が発されると、重苦しい空気は消え、涼佑の体からも強張った力が抜けた。浅かった呼吸を整え、さっきまで『何か』が佇んでいた場所を怖い物見たさで、確認しようとドアを少し大きく開けた。一人ではすぐに確認など、無理だが、今は傍に巫女さんがいる。少し安心していた気持ちから、普段の涼佑ではあまり考えられない大胆な行動に出られた。

「う……そ、だろ」

 ついさっきまで、あれは現実ではないのかもしれないという淡い期待はそこに残されていたものに打ち砕かれた。涼佑の部屋の前にだけ広がる水溜まり。単に水を零しただけのように見えるが、よくよく見ると、砂と水草のような欠片が浮いている。何より、水っぽい中に腐ったような臭いが混ざっており、涼佑は思わず鼻を摘まんだ。

「……あまり時間は無いのかもしれないな」

 巫女さんが呟く言葉をどこか遠くで聞いていた涼佑は、翌日、母が「もう誰よ、こんなところに水零したの」と文句を言いつつ、雑巾で拭いてくれるまで一歩も部屋の外に出られなかった。



 翌朝、涼佑は宿題を全くやってないことに気付き、飛び起きて死に物狂いで取り掛かる。朝からなんでこんなに疲れなきゃいけないんだと自分の迂闊さと世の中の理不尽さを思い知り、教訓を一つ得た。宿題は早めにやろう。学生としてそんな当たり前のことを噛み締めて、何とか終わらせた彼は忘れないようにそのまま鞄に突っ込む。部屋から出る際、昨日の水溜まりが本当に無いかどうかだけを確認し、無いと分かると、涼佑は鞄を抱えてなるべく廊下の端を歩き、階下へ降りて行った。

 それからはいつも通りに登校し、休み時間に巫女さんに訊いたことをちゃんとまとめられているかノートを確認して、昼休みを迎えた。涼佑の高校は昼食は弁当なので、各自好きな場所で食べられる。天気の良い日は中庭に出て食べたりもするが、今日は人が多いところを避け、空き教室に昨日のメンバーが集まった。
 話し合いをしやすくする為、皆互いの顔が見えるように座って、食べながら昨日のトンネルでの出来事を共有する。涼佑の話は恐らく一番内容が濃いという理由で最後に話すことになった。と言ってもトンネルでのことは彼以外大した差は無く、皆懐中電灯を投げた辺りで記憶が途切れ、気が付いたら涼佑がその場に倒れていたという。前日に巫女さんが言っていた通り、涼佑と彼女以外は何も見ていないようだった。その間、真奈美はずっと何か思案しながら聞いているようだった。話している間は箸が止まるので、いつもより食べ終わるのが遅い。

「で、ここからはいよいよ新條の話よ。どう? 説明できる感じ?」
「うん。大丈夫。ノートにまとめてきた」
「真面目かよ」
「いや、だって、オレだって色々知りたかったし」
「巫女さん、新條君に何があったのかは教えてくれた?」

 友香里に痛いところを突かれて、涼佑は答えを窮した。非常に答えにくいと思いながら、取り敢えず「う~ん……」と声を出して考える。数秒稼いで言うか言うまいか判断し、決めた。
「それがさ、そこも訊いたんだけど、逆に巫女さんに質問されちゃって。何かオレは今まで巫女さんが憑いた人達とはちょっと違うみたいで……」

『今まで憑いた人達と違う』という部分を聞いた途端、皆一斉に涼佑へと期待の眼差しを向ける。直樹なんかは「おっ? おっ?」と隙あらば、ちょっとからかってやろうと顔に書いてあった。しかし、涼佑にとって『人と違う』ということは輝かしいものでも何でも無い。心の中でどこか自嘲気味に笑いながらも、真奈美まで目を輝かせて見つめてきたのは意外だなと思いつつ、説明を始めた。
 昨日巫女さんと話し合った内容を涼佑なりにまとめたものを話し終わると、真奈美は大変興味をそそられたようで、目をきらきら輝かせながら考え事をしている。絢が彼女に「ねぇ、真奈美。今までこんな事例あったっけ?」と訊いたが、彼女も聞いたことが無かったらしく、「いいえ。こんなことは今まで聞いたことも無い」と返した。彼女達も聞いたことが無いと聞くと、彼は「とうとうオレは一人だけちょっとヤバめな世界に片足突っ込んじゃってんのか?」と自分を疑いたくなる。

「でも、新條君が見たその空間には興味をそそられる。狸だから巣穴っていうのも、何かリアルだし。まだ確信は持てないけど、新條君が入った空間って、心象風景の世界だったりするのかも」
「心象風景?」
「他人の目には見えないけど、みんなそれぞれ自分の中にはあるじゃない? 印象に残ってる景色とか絵とか音楽、芸術だけに限らず、色々。そういうのをまとめて心象風景――イメージってこと」
「ああ、そういうことか。…………。そうなのかな。入ってた時はよく分からなかったけど」
「でも、それだって凄ぇじゃん。幽霊の中に入って、そいつのイメージを見られるって。絶対普通の人間にはできねぇよ」
「おい、それだとオレは普通の人間じゃないって言いたいのか?」
「おれはできないもん、絶対」
「否定しろよ! 主にオレが普通じゃないって部分を!」

 涼佑と直樹がぎゃあぎゃあ言い合っていると、不意に友香里が何か思い付いたのか「じゃあ!」と希望に溢れた口調で言った。

「新條くんは霊を正しく成仏させてあげられるってこと、だよね? それって凄く良いことしてると思う。この世に彷徨ってる人達が少しでも減って、安心して旅立てるってことじゃない?」

 彼女の言葉に、涼佑の心がいくらか救われたのは事実だ。彼自身、そう言われるまでそんな風に考えたことは無かったからだった。友香里の言葉に他の面々も納得したようで、一様にうんうんと頷く。

「そうかな?」
「うん! きっとそうだよ! 彷徨ってる魂を救ってあげることができるんだよ! 凄いじゃん!」

『救う』。その言葉は涼佑の中で燦然と輝いているように感じた。霊を救うというと、住職や宮司のイメージが強いが、そこに『涼佑にしかできない』という要素が加わると、何か凄いことができそうな気がしてくる。
 成仏という点では、巫女さんが付け加えてくれた話では、彼女の刀で霊の核を破壊すると、核を持っていた霊は成仏ではなく、消滅するのだそうだ。消滅とは、もうこの世からもあの世からも一切の痕跡を残さず、跡形もなく消えること。彼岸と此岸の境界を越えて害を成す者に、容赦などする必要は無いというのが彼女の考えだ。それはそれで一つの解決策ではあるが、涼佑はそれだけでは救いが無いと思えた。罰が重過ぎるのではないか。相手の理由によっては、思いを叶えて成仏させるという手段もあって良いのではないか。それを自分ができるかもしれないとあっては、彼はやりたいと思いそうになって、慌てて止めた。そもそも巫女さんに憑いてもらったのは、他でもない『あの影』を祓うことだ。あっぶね、と彼は一旦落ち着きを取り戻す。おだてられて、危うく全く関係ないことに手を出そうとしてしまったと涼佑は反省した。
「いや、でも、オレは『あいつ』さえ居なくなってくれれば、それでいいから」
「あ、そっか。そうだよね。巫女さんに憑いてもらったのって、そういう話だったし。ごめん。余計なこと言っちゃった」
「いいよ、別に。オレもちょっと考えたけど、オレには荷が重過ぎるから」

 少しだけ落胆する友香里に涼佑は何か言葉を掛けるべきかと悩んだが、何も出てこない。何だか彼女とは昨日から謝り合ってばかりだと思っていると、少し気まずくなる空気を一掃するように、絢が一度手を叩いてある提案をした。

「連絡先交換しとこ。あたしとはしたけど、真奈美と友香里とはまだしてないよね? 新條達」

 彼女の言葉にそういえばと涼佑と直樹は自分のスマホを取り出した。メイムの連絡先一覧を見ると、確かに真奈美と友香里の名前は無い。していないと二人が報告すると、真奈美と友香里はおずおずと自分のスマホを近付けてくる。

「あ、コードでやる?」
「振るやつをやってみたいの」

 何だか若干わくわくしている様子の真奈美を見て、絢が「ああ。真奈美、振るのやったこと無いもんね」と言ったので、何故彼女がスマホを近づけて来たのか納得した。しかし、コードで交換する方法とは違って、振るやつはあまり感度が良くない。
 真奈美と涼佑の二人でスマホを左右に振るという傍から見たら、異様な光景であろう手順を踏む。しかし、やっぱり振るやつは感度が良くないのか、彼のスマホに真奈美のIDは届かなかった。

「新條君の来ない……」
「オレんとこにも来ない。青谷、やっぱコードでやろう?」
「………………うん」

 少しの間、「納得できかねる」と言いたげな顔をしていた真奈美だったが、渋々コードで交換した。友香里とも同じように交換する。雨に降られた犬のようにあまりにも真奈美が落ち込んでるので、「どんだけやりたかったんだよ」と直樹に言われていた。

「これで何かあった時、すぐ連絡できるね」
「あの、新條君」

 真奈美がまたおずおずと、今度は小さく挙手したので、涼佑は努めて優しく「なに?」と返すと、彼女はぐっと意を決したように一瞬、口を引き結んでから言った。

「な、まえで呼んで、いい? その、連絡先を交換したら、友達だから……」

 一瞬、「何、その謎ルール」と飛び出しそうになった言葉を、涼佑は慌てて飲み込む。彼にとっては謎極まりないルールでも、真奈美にとっては違うかもしれないと考えたからだ。何より、精一杯の勇気を振り絞って言い出したであろう彼女の気持ちを裏切りたくない。涼佑の反応を窺っている真奈美に、彼は快く「いいよ」と伝えた。

「オレのことも好きに呼んでいいから」
「じゃあ、りょ……涼佑、君って呼ぶね」
「じゃあ、オレも真奈美って呼ぶな」
「うん」
「別にりょーちゃんでも良いと思うけどな。おれは」
「小さい頃のあだ名止めろ」

 すかさず、茶々を入れてくる直樹の脇腹を涼佑が肘でつついてやると、彼は「止めろや」と冗談っぽく言って身を引いた。追撃しようかどうしようか涼佑が迷っていると、感慨深そうな真奈美の呟きが聞こえてきた。

「初めてできた……男友達」

 本人は気付いているのか、いないのか。自分のスマホを大事そうに見つめる真奈美は、いつもの無表情が少し崩れて、薄く微笑んでいた。真奈美と話すようになるまでは分からなかったが、彼女は案外と年相応の反応をする。しかし、そこで涼佑は当然かと思い直す。彼女も自分達と同い年で、何も特別なことは無いのだから、と。
 真奈美とのやり取りを皮切りに、他の面々もお互いに名前呼びを定着させようという流れになり、そのついでにまだ連絡先を交換していない者同士で交換を済ませた。これで何かあってもすぐに全員と連絡がつく態勢が整うと、絢が本題に入る。

「んでさ、ここからが問題だよ。涼佑に憑いてる霊をどう祓うか」

 早速名前呼びをする絢。彼女によって挙げられた本日の議題に、一同は考え込んでしまう。生憎とオカルト方面の知識が皆無な涼佑と直樹は、こういう時は何の戦力にもなれない。解決策が何も出ないまま、数秒が過ぎたところで真奈美が一つ提案した。

「逆に今の時点で分かってることから考えてみない? 今の私達に何ができそうか」
「確かに」
「流石」

 ノートを貸して欲しいと言う真奈美に涼佑が自分のノートを渡すと、彼女は彼がまとめたページを全員に見えるように持って、霊の特徴をまとめた箇所を見る。その中のある一文に彼女は目を留めた。

「あ、ここ。妖域を作り出す霊は強い思いが原因って書いてある。巫女さんと涼佑君が協力して祓えるのは、この妖域ができた時でしょう? まずは涼佑君に憑いてる霊が何者で、どんな思いがあるのか調べてみない? これが分かれば、妖域が作られて祓えるんじゃないかな」
「なるほど。出ないんなら、こっちで作っちゃおうってことか」
「そういや、涼佑。昨日聞いた話だと、ちょっとだけ姿見えたんだよな? 誰とか、分かんなかったの?」

 直樹の質問に涼佑は凄まじい嫌悪感を覚えながらも、今まであの影が現れた時のことを思い返してみる。彼の前に度々現れる『あの影』。あれが何者なのかなど、できれば考えたくないと思う涼佑だが、考えない訳にはいかない。
 彼より小柄で、頭から水を被ったように全身ずぶ濡れで、髪が短くて、制服を着た――

「っ! そうだ、あいつ……!」

 涼佑はそこで漸く思い出した。何故今まで忘れていたんだと彼は己の鈍感さを心底悔やむ。しかし、すぐに思い直す。そんな訳が無いと頭は現実を否定する。何かの間違いだと思いたいが、ある一つの仮説を言うしかない。先を目で促す一同に、彼は自分でも驚く程暗い声で言った。

「『あいつ』、うちの高校の制服着てた……」

 そう言うと、今度は彼の記憶は鮮やかにあの姿を思い返すことができる。何故、忘れていたのか、全く分からない。いや、そんなことどうでもいいと原因を追及することは止めた。目下の問題はあれが誰なのか。今、この場においてはそちらの方が重要だ。

「ねぇ、涼佑君。その子、男子? 女子?」
「……女子だったよ。あれは……あいつは多分…………樺倉だ。樺倉望」

 彼の殆ど確信に満ちた言葉に、両手で顔を覆っても、皆が息を飲むのが分かった。樺倉望。彼の祖母の葬式に告白してきた女の子。その次の日に氾濫した川に落ちて亡くなった子だ。よく考えてみたら、涼佑は彼女の通夜にも葬式にも行ってない。それで恨まれてるのかと彼は思った。

「どうしてそう思うの?」
「…………あの日、ばあちゃんの葬式の日に、樺倉に告白されたんだ。でも、オレ断って、そのまま……」

 後は皆の知ってる通りだと言外でしか言えない涼佑の背中を、直樹が擦ってくれた。泣くつもりなんて無かった彼の目には後から後から勝手に涙が出てくる。それを手で拭いつつ、涼佑はあの日のことを詳しく説明する。

「オレ、樺倉が亡くなったって聞いたその日に、あいつと何度か遭遇して、そのまま真奈美達に相談したから、通夜にも葬式にも行ってなくて、それで……」
「じゃあ、涼佑に憑いてるのって、マジで樺倉?」

 重い沈黙が流れる。それはそうだろう。涼佑に憑いている厄介な霊がもしかしたら、亡くなった同級生かもしれないなど、取り憑かれている彼自身もどう反応していいか分からない。しかし、いつまでも押し黙っている訳にもいかないので、気を取り直した直樹が言い出した。

「巫女さんは何か分かんねぇの? そいつが誰とか」

 直樹の質問に隣に出てきた巫女さんが答えた。

「私を下ろす前に死んだ奴のことなんて、分かる訳無いだろ」
「巫女さんがいない間のことは分かんないって」
「あー。まぁ、そりゃそうか」
「ただ、そいつ、いつもお前のすぐ近くにいるぞ。涼佑」
「は?」

 聞こえてきた不穏の塊に、涼佑は思わず巫女さんを見る。彼の顔色がさっと変わったのを見て、直樹達はすかさず食いついた。一瞬、そちらに気を取られた涼佑だったが、それに構わず、巫女さんは続ける。

「お前、最近姿が見えないからって油断してるだろ。見えなくてもいるんだよ。今は私が近くにいるから姿を見せないだけで、ずっとお前を見てる」

 真奈美の家で見た、あの生気の無い真っ黒な目がフラッシュバックして、涼佑はそれを振り払うように耳を塞ぎ、精一杯声を張り上げた。

「やめろよっ!!」

 突然、大声を出した涼佑に全員驚いたのが彼には気配で分かったが、頭の中はそれどころではないので、構っている余裕が一気に失われる。緊張と恐怖、ストレスで早くなる呼吸を整えようとしている彼に、巫女さんは死刑宣告のように淡々と告げた。

「そうやってお前が逃げている限り、この地獄は続くぞ」
 巫女さんは守護霊として憑いた人物に害をなす霊を斬って祓ってくれる。逆を言えば、具体的な害をなさない霊には手を出さない。しかも、姿が見えないとなれば、尚更手を出せないのだ。望が何故、涼佑に付き纏っているのかは分からない。否、もっと正確なことを言えば、涼佑自身いくつか原因は知っているが、どれもまるで確信が持てないのだ。
 一つは望が彼に対する恋心が原因で成仏できていない説。涼佑は彼女の告白を断ったが、望が諦め切れず、彼に取り憑いているのだとしたら解決方法は簡単だ。涼佑が彼女の告白を受け入れれば良い。しかし、言うは易しだが、実行するのは簡単ではない。何より、涼佑自身にそんなことするつもりは一切無い。もし、これが原因だった場合は何とかして諦めてもらうしかない。
 もう一つは望が涼佑を恨んでいる説。涼佑は彼女が亡くなったと聞いたあの日、死んだ望と至近距離で遭遇したせいで真奈美達に殆ど飛び入りで相談しており、当然、通夜も葬式も行っていない。この説が正解なら、恐らくそれが原因で彼女は涼佑を恨んでいるのだろう。もし、そうであれば、彼は望にちゃんと謝りたいと思う。行けなかった理由を今更並べてみたところで意味は無く、彼が行かなかったのは紛れもない事実だからだ。
 最後は涼佑の中の何かに望の霊が反応してくっついてしまっている説。巫女さんの話が本当なら、霊というものは金属に引かれる磁石のように、何かに反応して憑依してしまうこともあるのだという。起きていること自体は単純だが、その単純さ故に引き剥がすのに苦労する、と彼女は言っていた。
 涼佑個人としては最後の説を推したいところだが、実際の理由は望本人にしか分からない。昼休み後の授業中、授業そっちのけで考えうる限りの対策を絞り出している涼佑に、見兼ねた様子の巫女さんが助言した。

「涼佑が悩んで意味あるか? そんなに気になるなら、本人に直接訊きゃいいだろ」
「……………………ええっ!?」

 授業中といっても、丁度静かにしていた時だったので、周りからの視線が痛い。突然一人で奇声を上げた涼佑へ教師が言った「なんだ? 新條。寝ぼけてたのか~?」という一言に彼は乗っかり、「すいません! 寝ぼけてました!」と堂々と開き直って笑いを誘って誤魔化した。周囲の注目が散った頃合いに筆談で巫女さんに詳しい話を聞こうとした涼佑だったが、「授業が終わってからな」とすげなく返されてしまう。先に話を振ってきたのは向こうなのに、と少々不満に思いながらも彼は授業に意識を戻した。
 その後も学校が終わるまでなんだかんだと理由をつけて、巫女さんは教えてくれなかった。その間、真奈美達にも連絡した方が良いと思った涼佑は、授業の合間にグループトークで簡単に報告する。その流れで放課後、彼らは弁当を食べた空き教室に集合することになった。

「――そういう訳で、樺倉に直接訊けるんなら、オレは訊いてみようと思うんだ」
「大丈夫なの? それ」

 涼佑の宣言の直後、ほぼ同時に全員からそう言われる。その点については宣言した本人も同意する。同意はするが、やってみないと分からないのも事実だ。今のところは、それくらいしか望に対抗できる手段が無い。あちらはいつでも一方的に涼佑の前に現れて危害を加えることができるが、こちらは彼女が何かしてきた時には怯えるばかりで対抗手段が無い。ならば、ここは思い切って先手を打った方が良いと涼佑は思ったのだった。いつまでもやられっぱなしではいられないというプライドもある。



 涼佑の考えを話すと、皆すぐに賛成とは行かず、絢と直樹には反対された。悪霊と直接対話を試みるのは危険すぎる、というのが二人の言い分だ。

「二人の言うことも分かるけど、でも、だったら、他に対策はあるのか? 無いよ。樺倉の目的や思いを探ろうって言ったって、本当のところは樺倉にしか分からないだろ。遺書があったって話も聞かないし、樺倉の親御さんに直接訊く訳にもいかないじゃんか」

 娘を失って精神的なショックがまだ癒えていないところに、娘が自殺に至った動機を訊きに来る同級生なんて、門前払いされるのがおちだ。良くて怒鳴られて追い出され、悪くて警察を呼ばれるだろう。樺倉の家にはまだ行けない。それは皆分かっている。

「分かった。けど、まだ樺倉さんとコンタクトを取るのは待って。彼女のこと、クラスでなら何か手掛かりがあるかもしれないし。それに、まだ彼女の家に行けないって決まった訳じゃないよ」

 その口振りから真奈美には何か考えがあるようで、昼休みの時とは違って真剣な表情になる。情報収集はなるべく望を刺激しないように努めようということになり、彼女の家には真奈美達三人、彼女達のクラスで聞き込みをするのは、涼佑と直樹がやることになった。望の家に取り憑かれている涼佑本人が行ったら、何が起こるか分からない危険性があるからだ。

「なぁ、樺倉って、SNSやってなかったのか? あいつのアカ特定できれば、何か分かるんじゃない?」
「う~ん……確かに直樹君の言うことも考えたけど、樺倉さんってそういうタイプじゃない感じしたよ。スマホ触ってるとことか、あんまり見たこと無かった」
「だね。あの子、そういうのやってる暇無かったみたいだし」
「暇が無かった? どういうこと?」

 望は生前、真奈美達と同じクラスだったので、ある程度はどんな生徒だったかは涼佑達より彼女達の方が詳しい。その彼女達が一斉に表情を曇らせるのだから、良い話ではないのだろう。

「樺倉さん、いじめられてたみたいなの」
「え? いじめ?」

 涼佑にとっては初耳だ。昔からこの学校でいじめがあったなど、殆ど聞いたことが無かったから尚更彼は驚いた。三人共非常に言い出しにくそうな顔をしているが、友香里の話を絢が引き継ぐ。

「私らもはっきりしたことは分からない。教室ではそういう雰囲気無かったから。でも、あの子、何かと呼び出されてたし、いじめなんじゃないかって噂されてた」
「呼び出されてたって、誰に?」
「…………梶原さんに呼び出されることが多かったかな」

 梶原理恵。真奈美達のクラスにいるちょっと派手で目立つ、所謂ギャル系の女子生徒だ。いつも何人かの女子と一緒にいて、度々望をどこかに呼び出していたらしい。しかし、彼女達に関して表立って悪い話というものを涼佑も直樹も聞いたことが無い。ふと、思い出すのは望が行方不明と知った日のことだ。確か涼佑達のクラスでもそんな噂が囁かれていたような気がする、と彼はぼんやりと思い出した。そこまで聞いた彼は少し悩みはしたが、梶原理恵がまだ教室に残っているかもしれないと思うと、居ても立ってもいられなくなり、早速話を聞きに行こうとした。しかし、それは彼の手をそれぞれ掴んだ絢と友香里によって止められる。

「だから、ちょっと待ってって言ってるでしょうが!」
「なんでだよ!? 悠長にしてる場合じゃないだろ!?」
「涼佑君、明日からにしよう。彼女、もう多分、帰っちゃってると思う。その上で情報収集のルールを決めておこう」
「ルール?」

 真奈美が言うには情報収集にはタイミングも大事ということで、その場で彼らが話し合って決めたのは二つだけだ。情報収集は必ず放課後に行うことと、担当外のことは極力しないようにする。この二点だけを守ろうと結論が出たところで、今日のところは解散となった。

「明日は土曜日で休みだし、私達先に樺倉さんの家に行ってみるね。だから、涼佑君は大人しくしてて」

「絶対に樺倉さんの家に来ないで」と念入りに真奈美から釘を刺される。もちろん、涼佑は分かっているつもりだが、自分はそんなに信用が無いのかと少し自信を無くした。やや納得できないまま、「分かった」と返事をして涼佑は直樹と一緒に帰路に就いた。