リーダー、みたいな人は、どんな集団の中にだっている。

たとえば、中学校のクラスにも。

タピオカジュースをみんなに奢っちゃうような。海辺の白砂に勝手にシートを敷いて、これまた勝手に買ってきたスイカを置いて、目隠しと棍棒を適当な子に渡して、突如スイカ割り大会を開催しちゃうような。幽霊が怖いくせに、自分から友だちを集めて肝試しをやっちゃうような。

……そんな子が、なんか一人くらいは、いる気がする。

というか、いつも、いた。

何を隠そう。玉枝自身が、そういう子だった。
ハッピー番長、なんて、幼稚なのか意外と怖い意味でも込められているのか、よくわからないあだ名で呼ばれていた。
まあ、多分前者なんだろう。
玉枝は全然、怖くない人だったから。
自分で言っていてなんだ、と思うかもしれないけれど、実際そうだった。怖がらせるようなことなんて一度もしたことないし、なんなら、雨みたいにさっぱりしていて虹みたいに明るい人だね玉枝ちゃん、とか真正面から言われたこともある。けっこう嬉しかった。誰が言ってくれたんだったか。まあいいや。忘れたし。


あれは、春。
中学校へ入学してから、さほど時間も経っていなかった頃のこと。
教室の窓が開いていて。
ふわん、と虫が飛び込んできたことがあった。
虫は虫でも、尻に針がついているやつ。つまり、ハチ。

体育前の着替えの時間のことで、ちょうどその教室には女の子しかいなかった。当たり前のように、騒然となった。ぎゃ!とか、わあっ!とか言いながら、身をかがめたり教室の隅っこに退避したり、その隅っこの大変な渋滞になったところへ蜂が飛んできて人間ドミノ倒しが発生しかけたりと、まあカオスなことになっていた。
誰も彼も、何もできずに右往左往、てんやわんや。

玉枝だけが、王者のように立っていた。

「ったく、しょうがねーなぁ。」

力の緩やかに抜けた自然体で、パッと羽織る用のジャージを手に取る。
チェスをやりながら、そういやぁナイトってめっちゃかっこいいよな、なんて言うような気軽さで、玉枝は笑った。

「私がいなきゃ、ミツバチ一匹だれも処理できねーとはなあー。」

あ、あぶないよ!とか、虫取り網を職員室から……いややっぱ事務室に行ってそれから……!とか、やっちゃえハッピー番長!!とか何とか勝手に騒ぎ始める女子たちの声を背に、玉枝はさっとジャージを振った。
はためくジャージ。吹きすさぶ春風。燦然と煌めく玉枝!

ハチの飛行軌道を読む。捉える。全開になっている窓へ連れて行く。そのまま腕ごと突き出して外へ出す。戻ってこないようにと空いてる手で窓を閉めながらゆっくり慎重にジャージを振り、ハチを逃がす。
よし、いけ。そのままいっちまえ!
ブーン、飛んでいく。どこかの花壇か草むらかへ向かって、ハチは静かに飛んでいく————。

できた。
完璧だ。

そう思った瞬間、爆発的な歓声が湧き上がった。

「ありがとう〜っ!!」
「今日から拝みますハッピー番長さま!」
「命の恩人!」
「ちょーかっけえじゃん!!すっげえ!」

いや、いいってそーゆーの、と玉枝はちょっと照れたように笑って言った。
てゆーか、拝むって何だよぉ、私は菩薩のポーズなんて勘弁だぞー?金箔を体に貼ってくれれば満足です!いやいやそっちのほうが嫌だろーが。じゃあ菩薩のポーズならやってくれますか?どうして了解すると思ったんだよオメー。

などと、そんな風にみんなで戯れていれば、当然のように体育の授業に遅刻。
更衣中にハチが乱入して!と全員で言い訳すれば、体育教師は微妙に頷きながらもちょっと難しい顔をしていて。だからみんなで遅刻の一件から教師の気を逸らそうと、玉枝の武勇伝を大袈裟に語り。教師は興味を惹かれたのかついに熱心に話に聞き入り初めて相槌を打ち、「すごいな。」と玉枝のほうを振り返った。

「別に、そんな大したことやってねーっすよ。」
頭をかきながら言うと、教師は「ほんとに?」と聞いてきた。
もちろんみんなが、「絶対に大したことをやっていた。」と玉枝の発言を全否定する。教師の顔には笑顔が戻り、遅刻は見逃され、説教もなく、いつも通り楽しい体育の授業が始まった。


玉枝の虫好きは、ゆるやかに知れ渡った。

————玉枝ちゃんって、ハチ怖くないの?
————うーん、別に。ミツバチとかなら、むしろ可愛いやつらだしなー。
————かっ…可愛い……?
————そーだな。虫はみんな好きだかんな、私。
————へえ……。

目を丸くして玉枝を見つめるクラスメイト。
自分を見る目があの体育教師みたいにキラキラしていて、尊敬や憧憬の念を含んでいるのがわかって、玉枝は嬉しかった。

ハッピー番長の意外な一面を発見した、ということで、この情報は数日でクラス中に広まることとなる。

そして。






楽しかった。
嬉しかった。
幸せだった。

……なのに。

玉枝は、あの頃のことを思い返すたび、どうしてだろう、と思う。あんなに満ち足りていたはずなのに、どうしてだろう、と。

ハッピー番長でいる自分が大好きだった。自分もみんなも、幸福そうに笑っていた。
それでも、どこか玉枝は……虚しかった。
辛かった。
苦しかった。
もがいてももがいても抜け出せない網に絡まっているような息苦しさを、感じていた。

変わらない日々。
殻を破れず、どこに向かっても飛び立てず。
よくわからない薄ぼんやりした何十年後かの自分のために生き続けているような、そんな感覚がずっと付き纏っていて。
誰のために笑っているのかも、わからなくなっているような。
知っているはずなのに。それなのに、知らない。わからない。

……つまり“あの出来事“は、根本の原因ではないのだ。と、玉枝は何度も思っていた。
あれは、きっかけだった。
いつ崩れるともしれないトランプタワー。それを壊す静かな風が、たまたまあの日に吹いただけ。風なんていつか吹くものなんだから。遅かれ早かれ、同じ結果になっていた、と思う。


クラスの男子の雑談。
声を潜めていなかったのは、それが悪口や陰口の類ではなかったから。けれど玉枝に聞かせる気があったかといえば、それは否だったのだと思う。

「————なあ、合理的に考えて、彼女にするとしたクラスメイトの誰が理想だと思う?」

壁を挟んで漏れ聞こえた会話。
玉枝は続きが気になって、思わず立ち止まった。
その理由の一つに……『ハッピー番長』の言葉が聞こえたから、というのもあっただろう。
何気なく、耳をそばだててみた。

「番長は、うーん……縄文時代の完璧ガールフレンドって感じじゃねえか?」
「ハアー?縄文時代?」
「ほら、虫も怖がらねえし。採集とか集落のみんな引っ張ってバンバンやってくれそうじゃん。飢え死にしそうな冬も元気づけてくれてさ。な、縄文時代の嫁さんとしちゃあ最高だろ?」
「ほーん。」
「なあ、現代だったらどうよ?」
「現代?……とりあえず……番長は除外するとして……うーん、現代っぽいやつ……川島とか?」
「ギャルじゃねーか。」
「オメーそれ、現代ファッションと映画とメイクが好きだから選んだだけだろおー。バレバレだぞー。」
「覚えてんぞー。この前、大人しい子が好みっつってたよなぁ?」
「理想のガールフレンドの話だろーが。恥ずかしがんなよなー。」
「………。」
「おいおいコイツ本気で悩み始めたぞ。大丈夫かー?」

————ぷっつん。

何かが、どこかで、切れたような気がした。

……ああ、そう。

玉枝は冷えきった何かが、腹の底に降りていくのを感じていた。

私は縄文時代に最適なガールフレンド。
でも。現代においては。
とりあえず除外することが許されてしまう存在なんだ。


こんなのはただノリに任せて喋ってるだけの男子の戯言だ、とか。玉枝がクラスで絶対的な人気者であるからこそ、あんなふうにジョークでいじることができているのだ、とか。冷静に考えてすぐに思い浮かんだ思考が、全てどうでもよくなっていた。

そう。
本当の、本当に。
何もかもがどうでもよくなっていて。だから。

……学校、やめてしまおうかな。

昨日までだったら、絶対に思いつかないようなことを、玉枝は考えた。

そして、実際に。
翌日から玉枝は、不登校になった。