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「ことちゃんはさ死ぬのが怖いって思ったことある?」
大きいコンサートホールのような場所で誰かに話しかけられる。想定外の質間に少し驚いたが、すぐに昔のことを思い出した。

心臓が止まったらあたしは死んでしまう。

この小さい心臓が絶え間なく動いているから今あたしは生きている。そう考えたら急に怖くなった。
何かの拍子に少しでも止まってしまったら。そう思うと途端に自分がどうしようもなく脆い割れ物のように思えた。その夜、あたしはすぐに布団に入るとなるべく肌がでないように毛布の中にもぐった。そして体を心臓に集めるように足を抱え、両手で肩を抱いて丸まる。
得体の知れない恐怖があたしを支配していた。目を閉じてしまえば、もう二度と目覚められないような気がして、その日は一晩中眠ることなく夜を明かした。
それがあたしが初めて夜の全てを知った日だった。

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びくっと体が反応し瞬間的に覚醒した。
もう汗をかくような季節ではないにも関わらず、背中から手や足の先にかけてぐっしょりと濡れていた。心臓が早く動いているのがわかる。記憶の片隅に恐怖心の名残を感じた。

長かった夏もいよいよ過ぎ去り、制服は冬服に衣替えする季節となった。
あれから3ヶ月、葉月とは相変わらず一緒にご飯を食べている。和佳奈と凪がいることもあって、私達は離れすぎる事も近くなりすぎることもなかった。

今でも時々考えてしまう。あの時の選択は正しかったのかと。たまに急激な不安に襲われて変な夢を見ることがあった。
私は2人がどれだけ自分のことを好いていたかは分からない。そもそもその重みを知ろうとする事さえ避けている。大したことない、軽い物だと思いたいだけだ。それがその人にとってどれほど意味があるのか、知ってしまったら、1度示された好意の重みに耐えきれずに押しつぶされてしまうだろう。
私には好きも愛も分からない。そもそもそれを認識する器官が欠如しているのだ。そう言いきってしまえたらどれだけ楽だろう。
辛い経験をしてきたからこそ向き合っていこうと決めたのに、後付けされた自分の欠陥を理由に蔑ろにしようとしている。

考えれば考えるほど、好きの意味が分からなくなり、ある種の呪いのようにその言葉は私を縛り付けていった。

どこかへ行きたい。
日常から抜け出したい。
そうだ水族館。もう一度あそこに行こう。
元々魚を見るのは好きだし、あの薄暗い空間は落ち着く。
今週の日曜に行こう。

◇◇◇

QRコードをかざし、ゲートをくぐると青い世界が広がっていた。水を連想させる青と微かに聞こえる水音に心臓が反応する。
階段を上がった先に広がっていたのは、見上げるほどの大きな巨大水槽。奥の壁がはっきり見えるほどガラスの向こう側にある水は透き通っていた。上を見上げると生き物が動く度に構成される波紋が鏡のようにキラキラと光を反射していた。
そっと水槽に手を伸ばし、右手に感じるガラスはひんやりと冷たい。ガラス越しに見る景色は魚の目を通して海の中を眺めているようだ。

「...なで、奏だよね?」

水の流れを見ていると名前を呼ばれた気がした。
声のした方へ振り返ると白いブラウスに黒のすらっとしたズボンを着た水琴がいた。
学校で話している時の水琴とはどこか雰囲気が違うような気がした。いや、水族館という非日常的な場所にいるせいかもしれない。
友達、あるいは恋人と来ているのだろうか。辺りを見てみるがそれらしき人物は見当たらない。思い切って誰かと来ているのか尋ねた。
「いや1人だよ。」
意外な答えが返ってきて思わず
「水族館に1人で来るなんて結構珍しいね。」
と言ってしまった。水琴が少し顔を顰めている。
だがそれだけではなかった。濁りのない真っ直ぐな瞳に微かに溜まる涙を見逃さなかった。
水槽に満たされた水の反射によって広がる光が左側から優しく照らしていた。

「なんで泣いてるの」
気がつくとそう問いかけていた。水琴は驚いたように自分の顔を触り、慌てて答えた。
「私泣いてた?気のせいじゃないかな、ほら照明の反射とかでそう見えただけで…」
言葉と表情は真逆の反応を示していた。吸い込まれそうな大きな瞳からこぼれた雫は青い光を吸収しながら頬を伝っていく。

「水琴、あの実は…」
「奏、この後時間あるかな、もし良かったら少し話さない?」

流れで来てしまったが、水琴とはそこまで仲が良い訳ではない、たまたま席が近いから話すだけの関係であって。
水琴は席に着くと飲み物とパフェを注文した。頼んだアイスティーを何度も口に運んではテーブルに戻す。落ちつかないのはお互い様のようだ。
沈黙を破るように、単刀直入に告げた。
「実は最近様子がおかしいなって思ってた。だけど聞かれたくないこともあるだろうから何も言わなかったんだ。」
目の前のアイスコーヒーにミルクを入れる。
水琴はなぜ1人で、あんな場所へ来ていたのだろう。誰かと会っていた様子はないし、水族館が特別好きという訳でもなさそうだ。
それにあの涙は一体。
最近、朝話しかけても何か思い詰めているような顔をしている。いつもは目を見て話してくれるのにどこか視線が定まらないようだった。一時期、自分に原因があるのではないかと考えた時もあったが、技術の実習の時に火傷をしたり、理科の時間にフラスコを床に落として割ってしまったり明らかに今までとは違う様子だった。

水琴は少し顔を歪ませた後、息を吸い深く吐き出した。そして、覚悟を決めたように記憶を辿りながら話し始めた。


正直話の内容には驚いた。名前は伏せていたが、告白したのは恐らく一緒にお昼を食べている佐倉さんか、雨宮さんか藍川さんの誰かだろう。
話の途中に運ばれてきたいちごがたっぷりのったパフェを見ると、今までの深刻な話を一瞬忘れたかのような屈託のない笑顔でパフェを眺めていた。パフェ用の長いスプーンを持ち、美味しそうに食べる。その手に握られたスプーンを見て初めて水琴が左利きだということを知った。
学校で少し話すだけでは、利き手すら知ることはできなかっただろう。それなのに、何故大切なことを話してくれたのか。いや自惚れてはいけない。偶然休日に会ったのがクラスメイトで、それが偶然少し喋れる隣の席の人だっただけであって、相手はきっと誰でも良かったんだ。
けれど、たとえ偶然であっても話をしてくれたことが嬉しかったことに変わりはない。
すべて話終えた水琴の表情が少し和らいだ気がした。
「それで、数ヶ月経った今も悩み続けているのはどうしてなの?」
核心をついた質問に表情が曇る。
「自分でも正直なんでこんなに思い詰めているのか分からないの。もしかしたらその分からないことが問題なのかもしれないけれど。」
悩みの理由が分からない事はそこまで珍しいことじゃない。しかしその場合、改善策を見つけることが難しいのだ。
だけど、と水琴が話を続ける。
「短期間の内に2人の好意に触れて、私自身の中にある好意ってなんだろうって考えたの。付き合ってる人はしばらくいないし、それほど恋に興味がある訳じゃなかったからこういうことを改めて真面目にに考えるのって久しぶりだった。そしたら気づいたんだと思う。好きがなんだか分からないことに。きっと私は今まで本当の意味で好きになった人がいないんだと思う。そう思ったらなんだか自分は感情の一部が欠けていておかしいのかなって。」
水琴の言葉は今の自分にも少なからず当てはまるものだった。
小学校から中学校に上がり、周りの友人達は次々に見た目が変化していった。その辺からだった。
奏は男の子なの?女の子なの?と聞かれるようになったのは。
昔から自分の性別を強く意識したことはなかった。けれど、周りから疑問を持たれるようになって、男か女かはっきりさせないといけないと言われている様な気がして息が詰まりそうだった。
良くも悪くも中学校からは制服があったので、そのように聞いてくる人はほとんどいなくなったが、なぜ性別によって服が分けられているのかは理解できなかった。
自分が周りと違うと気づかされた時、どうして自分は普通じゃないんだと訴える自分と、考えを曲げてまで周りと同じでいたくないという自分が頭の中で同時に現れる。
だが、それは本当に正しい普通なのだろうか。

例えば家庭での常識が学校に通い、はじめてズレていると気がつく。でも新しく得た常識はあくまで学校での常識にすぎなくて、それは社会に出ると少数派だと指摘される。しばらくして久しぶりに会った地元の友達になんか変わったねと言われる。
結局学校も社会も全て共通の常識や普通なんて存在しないのだ。新しいコミュニティを構築していく度に更新される常識の範囲はあまりにも小さく限定的で、どんどんその小さい常識を更新していくと気が付かないうちに取り返しのつかない所までいってしまうかもしれない。

「水琴はきっと寄り添おうと努力したんだね。その人たちがくれた好きをちゃんと理解してあげたくて。」
上手く伝わるかは分からないけれど、自分なりに言葉を選んで、形にしていく。
「でも間違った好きなんてないんだよ。水琴には水琴の好きがあっていいと思う。言葉は誰かと比べて自分を否定する為に使うものじゃない。相手に歩み寄って理解しようとする為に言葉を使うんだ。」
共感しているように見えて実際に分かり合えているのはほんの一部分でしかない。同じ言葉を使っているからといって必ずしもその言葉の定義が同じとは限らない。
これは自分が実際に経験して最終的に出した今の答えだ。

気がつくと水琴はまた涙を流していた。少しでもこの言葉が届いてくれたら嬉しい、そう思いながら、次々に流れる美しい涙をじっと見守っていた。

◇◇◇

奏の顔がだんだんぼやけていく。それはお店の中にある光をこれでもかと集めて私の視界を遮った。だがそれもやがて大きなひとつの形になって頬を伝った。
冷たい液体が手の甲に落ちて始めて自分が涙を流していることに気が付いた。

最初からそうだったんだ。遠藤くんも葉月も自分の好きを理解して、それを信じて私を好きになってくれたんだ。遠藤くんの好きと葉月の好きももちろん違う。同じ言葉だけれどその言葉の意味は使う人の数だけある。この世に世界共通の好きなんて存在しないんだ。

人の数だけ好きがあるように恋愛の仕方も人の数だけあっていい。そもそもおとぎ話のような王子様とお姫様が結ばれる話だって数ある恋愛のたった一つに過ぎないんだ。

ある人は悩んでいた。形にならない感情を抱えて。
その人は言葉を与えられた。
ある人は悩んだ。言葉の意味に縛られて。
その人は答えは1つじゃなくていいと知った。


奏が左目を細めてこちらを見つめている。左目を細めて笑う癖に気がつくのにかなり時間がかかってしまった。奏の顔が私の中ではっきりと脳に届けられていく。


奏が私に与えてくれた言葉は私の中に入り、認識されて新しく解釈していく。
奏に相談して本当に良かった。誰にも相談できずに周りが見えなくなっていた私を見つけてそこから救ってくれたのはあなたの「言葉」だった。