◇◇◇
人通りの多い駅前から少し離れ、目印になりそうなアップルパイのお店を待ち合わせ場所に設定した。
少し時間に余裕を持って着いたので、鏡を見て去年の誕生日に貰ったお気に入りのリップで唇をなぞる。
「ごめんおまたせ。待った?」
走ってきたのか肩で息をしながら私の顔を覗き込む。
鞄に手を入れ、そこのある紙を確認して歩き出した背中を後ろから追いかけた。
◇◇◇
「あれってヒラメ?それともカレイ?」
葉月は私が興味津々に質問するといつもすぐに答えてくれる。魚に関する話をする時はいつも活き活きしていて、それを聞いているのが昔から好きだった。その影響もあり、小学生の頃から毎年必ず1回は2人で一緒に水族館に行っていた。県内の水族館は見尽くしてしまったので、今回は初めて東京に足を伸ばすことにした。
休日ということもあり、館内はカップルや子連れの家族で賑わっており、イルカショーの座席は空席がほとんどない状態だ。
県内の水族館とは違い、敷地はそこまで広くはなかったが最新式のLED照明と装飾で現代アートにも見える。
「今日のワンピースめっちゃ可愛いね。なんだか海のお姫様みたい。」
青い照明を吸収した白いワンピースはまるで海そのものを身にまとっているように見えた。
「ほんと、ありがとう」
髪をくるくるさせながら少し照れたように葉月が答える。
私のサンダルと葉月の少し高めのヒールの音が重なって響く。
「これは深海魚の水槽。深海魚と聞くと水圧を調整していると思われがちだけど実は圧力をかけてない水槽がほとんどなんだよ。」
葉月が指を指した水槽はライトがほとんど付いておらず、中の生物がよく見えない。だが暗闇に息を潜めるそれと一瞬だけ目が合ったような気がした。
結局、館内を全て回るのに3時間ほどかかった。ようやく最後の水槽を見終わり出口に向かおうとする。するともう一度巨大水槽を見たいと言うので、入口の方へ戻ることにした。
巨大水槽を前に葉月は立ち尽くしていた。
横から見ると筋の通った鼻がより目立つ。まつ毛は綺麗に上を向いており、下唇よりも分厚い上唇が印象的である。いつからか化粧をするようになり、涙袋に輝く大粒のラメは淡い光に照らされ、透き通った瞳をより際立たせていた。
何か言いたげな表情をしていたので、何かあったのか問いかけても返事はない。代わりに何やら鞄の中をゴソゴソと探り始めた。やがて一葉の封筒を取り出すと無言でそれを私に差し出す。真っ白の封筒に赤いシーリングスタンプが押されていた。封を開け、紙を取り出して中に書いてある文字をみる。
瞬間、周りの音が聞こえなくなった。視覚だけでなく聴覚までもがこの1枚の紙に釘付けになった。
◇◇◇
***
手が震えている。時刻はAM2:16。今日はもう終わり、昨日になってしまった。代わりに明日が今日になった。
壁に掛けられた白いワンピースがより一層私を焦らせる。
早く書かなければならないのになかなか手を動かすことが出来ない。手汗でびしょびしょになった手はペン先を紙につけていないとどうにかなりそうだった。
遠藤が水琴に告白するー
それを聞いたのはつい先日の事だった。
放課後、オーデトリアムで各々楽器のチューニングをしている時、ひょんなことから恋バナに発展した。凌馬は最近、半年付き合った彼女に振られたと酷く落ち込んでいた。そんな凌馬を励まそうとしたのか、遠藤が近々俺も告白をすると私達の前で宣言したのだ。そして恥ずかしそうに言う遠藤の目線の先に水琴がいることに気がついてしまった。
とはいえ、遠藤が水琴の事を気になっている事には前から薄々気がついていた。本人は勘づかれないようにしていたつもりかもしれないが、水琴と話す時の表情、演奏中の視線を見れば分かる。
私もきっとそうだったから。
◇◇◇
「ごめん、私葉月の気持ち全く知らなかった。」
しばらく渡された紙を凝視して、水琴が最初に口にした言葉がそれだった。
違う、私は謝って欲しかったんじゃない。
遠藤くんが告白する前にどうしても伝えたかった。今までずっと水琴の事を1番近くで友達として見てきた。けれどそれももう限界だ。遠藤くんが告白して付き合うことになったら絶対に後悔する、だから何としてでも先に告白したかった。
いつからと言われて、明確にここからとは答えられないけれど、恐らく一緒に部活をやり始めて少ししたくらいから意識し始めたんだと思う。それまで好きな人ができなかったわけではなかったけれど、周りの子から聞く「好きな人」とはどこか違う気がしていた。確かにかっこいいなとか好きかもしれないと思うことはあったが、手を繋ぐところやキスをするところを想像すると変に心臓が掴まれるように嫌な感じがする。
中学に入り、水琴に誘われて一緒に部活を始めて、最初は男女4人で仲良くやっていたと思う。仲がいい私達は、良くも悪くも距離が近かった。水琴が遠藤や凌馬と仲良さそうにしている所を見て、次第に「何か」が生まれた。今思えばそれは恐らく嫉妬心だったと思う。今までも水琴が男の子と話しているところや告白されているところは見てきたはずだった。なのにどうして今更こんな気持ちになったのか、自分でもよく分からない。
だが、その頃から遠藤が水琴のことを気になり始めた事もあって、その嫉妬心は更に加速して大きくなっていき、気がつけばもう友達として見れていないことに気が付いた。
歌を歌っている時の水琴は誰よりも輝いていて、斜め後ろからスポットライトを体いっぱいで受け止める水琴の姿を見るのが好きだった。
前に恋バナをしていた時に、好きかどうか分からない場合はどうしたらいいと聞いてみた。和佳奈が言うには好きかどうかはその人とキスできるかどうかで決まるらしい。
水琴とキスをする。今までの好きな人とは異なり、不思議と嫌な気はしない。それどころか少し興味まで湧いてくる。逆に水琴が他の誰かとキスをしている所を想像すると無意識に下唇を噛んでいた。
和佳奈の助言が確信となり、私は水琴のことが好きだと自覚した。
自分の感情に名前がついたことにより、罪悪感抱くこともあった。水琴は純粋に私の事を友達だと思って接してくれているのに私はと言うと邪な気持ちで水琴と一緒にいる。
私たちは4人グループなので和佳奈や凪への接し方とどうしても差が出てきてしまう。もしそれで誰かに勘づかれてしまったらどうしよう。それでも水琴に対する気持ちを抑えることはできなかった。
今年のバレンタインに水琴にだけアップルパイとは別にクッキーを入れた。クッキーは友達でいようというメッセージがあり、それを無理矢理入れることで諦めようと思っていたんだ。それなのにしばらくして遠藤が告白することを知ってしまった。
どうして諦めさせてくれないの。
思い知ればいい。あの子に私には釣り合わないって。それでボロボロになるまで傷つけばいい。じゃないと忘れられないから。忘れるためには傷が必要。
主人公は私ではないと。
◇◇◇
頭がぼーっとする。確かに紙に書かれた文字を読んでいるはずなのに、どこかの国の呪文のように、意味を成さずに左から右へと流れていく。
この紙に書かれた「好き」の2文字。この文字が一体何を表しているのか、どれだけ重大なことなのか、今の私には全く分からなかった。多少のデジャブを感じたが今私の目の前にいるのは、昔から私のずっと隣にいた葉月だ。
どれくらい立ち尽くしていただろう。一言何か葉月に言った気がするが、何を言ったのか覚えていない。見かねた葉月が、返事は今じゃなくてもいいから。急に混乱するようなこと言ってごめんと私に向かって言う。
脳みそが空っぽになりながらもなんとか手と足を動かして水族館に背を向け、帰路に着いた。
途中の駅で葉月は下車し、私は1人になった。乗り換えの為、一度電車を降り、反対側のホームへ移動する。
しばらくして無機質なスピーカーからアナウンスが鳴り、接近メロディに乗せて今日一日分の後悔が押し寄せる。電車によって無理矢理動かされた空気が風となり、中身のない私の心を体から引き剥がして遠くに吹き飛ばした。
気がつくと家の玄関の前にいて、手には鍵が握られていた。正直どうやって帰ってきたかあまり覚えていない。とりあえず風呂に入ろうと脱衣所へ向かうと、お母さんがおかえりと、2階から階段を降りてきた。何やら私に向かって口をパクパク動かしていたが、何を言っていたのかほとんど耳に入ってこなかった。辛うじて聞き取れたことはお風呂が壊れてしまったから近くの温泉に行って欲しいとの事だった。
このまま家にいては気が狂いそうだったので外出する口実ができたことはよかったかもしれない。
今まで彼女は一体どんな気持ちで私の隣にいたのだろう。日が傾き、道路がオレンジ色に染っていた。歩いているうちに何も考えらずに停止していた思考が段々と戻っていく。
ずっと言いたくても言えずにいた想いを隠すために嘘をつかなければならなかった、辛いことはもちろん、罪悪感も感じてたに違いない。それなのに一体私は今まで葉月の何を見ていたのだろう。知らぬ間に沢山傷つけていたのではないか。
今までの言動一つ一つが葉月にとってどれほど影響を与えていたか、想像するだけで怖くなる。
思い返せば過去に恋愛相談をしたことがあった。もしその時既に私に好意を持っていたとしたら。一度考えだすと、後悔や罪悪感が波のように押し寄せてきた。
誰より近くにいたはずなのに誰よりも遠くに感じさせていたかもしれない。
あの時、葉月はどんな顔をしていたんだろう。
女湯ののれんをくぐる時、一瞬躊躇ってしまった。
人のいない一番端の洗い場に座ると、水圧の調節ができないボタン式のシャワーが容赦なく頭を濡らした。あっという間に髪は水を含んで重たく体にまとわりついていく。目頭が熱くなっていた気もするが既に顔全体が濡れてしまっては確かめようがなかった。いや、本当は確かめたくなかったのだ。
二重扉を抜けて外湯に向かう頃にはすっかり陽は落ちきって竹垣から月が覗いていた。もうすぐ夏とはいえ、濡れている体でいればまだまだ冷える。
左足をそっとお湯につけ、静かに全身を沈めた。湯口からでた湯が岩にあたって注がれている。照明が、水面から伸びていく湯気でぼんやりと霞んでいた。淡い照明をじっと直視していると周りの視界までぼやけて見えてくる。私も空気に混じってどこかへ蒸発してしまえたらどれだけ楽だろう。だが、蒸発する程の温度になるどころか完全に湯に浸かりきれていない肩は冷たくなっていく一方だった。
脱衣所に戻る頃には外で冷えた部分も温かくなり、体全体の血行が促進されて疲労感を感じつつあった。さっきまで水族館にいたのが嘘のように、一日が遠く長く感じる。
無意識に手を口元に持っていくと微かに硫黄の匂いがした。
お湯で流しきれなかった感情を整理し切るには徒歩10分という家までの道のりはあまりにも短すぎたのかもしれない。
人通りの多い繁華街を抜け、家と街灯と電柱が規則正しく並ぶ道が続く。視線は自然と地面の方へ落ち込み、ひびのはいったコンクリートを避けながら歩いた。
家に帰っても何も手につかず、ご飯は喉を通らなかった。ベットに横になることもせず、ただ枕元にあるペンギンのぬいぐるみを力いっぱい抱きしめた。
小さい頃夜は永遠で幻の様なものだと思ってた。昔は遅くても10時には寝ており、目を覚ませば太陽が顔を覗かせ地上に光を届けている。眠りに落ちている間の時間は私にとっては想像もつかない果てしないものだった。空白の時間を包み込む夜の全容を完全に暴くことはできない。
けれど時が経ち、初めて暗い空が段々と光を含み始めるまでの過程を一部始終見た。それでようやく昼と同じで限られた時間のありふれた時間と認識することができた。夜は幻でも永遠でもなく昼と平等に訪れる時間だ。
日が沈み、訪れる暗闇は自身の姿を隠してくれる。夜の闇に紛れていると何者にもならずに済む、だから居心地が良かった。
いつの間にか眠りについていたらしく、ベットに体育座りのような体勢で目が覚めた。背中と腕が痛む。腕の中にいたペンギンのビーズでできた目が訴えかけるようにこちらを見ている。
それから私は学校を2日間仮病で休んだ。
お母さんが心配をしているのは知っていた。あえて深堀はせずにいつも通り接してくれたことにすごく感謝している。
学校に行くと決めた日の朝は驚くほどの快晴で、学校までの道のりはいつも以上に体力を消費した。
今までと変わらず少し早めに学校に着くと、人の少ない教室で去年と同じ窓際の席に鞄を置き、椅子に座る。だが本を読む気にはなれなかったので、ひたすら外を眺めていた。ドアが開く音がして、目線をそっちの方へ向けると、奏がちょうど教室に入ってきたところだった。
久々に見る奏の姿で、高校3年生の始業式の日を思い出す。クラス替えの時、下駄箱に張り出されたクラス名簿に奥田奏という文字を見た時は正直嬉しかった。そこまで仲がいいという訳では無いが、席が前後だったということもあり、よく話していた。席はと言うと私の後ろではなく右隣になった。クラスといい席といい、何かと縁があるのかもしれない。
奏は鞄を机の右側にかけるとおはようと声をかけてくれた。
いつも通り返したつもりが、何やらこちらをじっと見つめている。
「水琴、何かあった?」
そう言われてドキッとした。そんなに顔に出ていただろうか。
「え?なんで?」
「いや2日も学校休んでたから何かあったのかなって」
そういえば私は2日間学校を休んでいたのだ。それをすっかり忘れてしまうほど今の私の脳みそは他のことでいっぱいなのだ。
1時間目の授業は技術で、先週からはんだごてを使用して簡単な機械作りをしていた。連続2時間の授業で、それぞれのグループに分かれて作業をする。
基板にハンダ付けをしていた時、手が滑ってハンダが床に落ちてしまった。足元には落ちていないので机の下を覗き込む。一時的に置いておいたはんだごての先端部分に腕が一瞬触れた。
「あつっ」
すぐに痛覚を認識してその痛みの先に目を向けた。腕の内側の薄い部分がじんじんと痛み、ドクドクと血液の流れを感じた。
腕を動かすと収縮した皮膚が引き攣ってる感覚がある。
痛い。痛い痛い痛い痛い。
痛むのは火傷だけじゃない。もっと深いところだ。
すぐに先生が来て、保健室に行くよう促された。
物理的な痛みは一目見れば分かるのに心に抱えている傷はどうして見えないのだろう。見えなければ誰にも気づいて貰えず、1人で透明な大きい傷を背負っていかなければならない。けれど助けを求めて手を伸ばすことも、それに気づき手を差し伸べることも簡単なことでは無い。
人を助けるということは時に自分を犠牲にすること。
助けを求めるということは自分の弱さや限界を知り、誰かを信じること。
私は決断しなければならなかった。しかしそれは、「はい」か「いいえ」で答えられるような単純なものではなく、自分の気持ちをしっかりと相手に伝えること。誰かに相談することも考えたが、葉月の立場を考えると相談するのはあまり得策とは言えない。
そもそも私は何をそんなに悩んでいるのだろう。遠藤くんの時はすでに答えは決まっていた。けど葉月の時は。
確かにあの時動揺していたのは事実だけど、もし答えが決まっていたとしたらすぐに言うべきだったのではないだろうか。
そうしなかった理由。
そうだ、あの時葉月は覚悟をしてたんだ。真っ直ぐに私を見つめて、全てを捨てる覚悟を持っていたのだ。それが瞳の奥から溢れるように伝わってきた。
半端な気持ちで答えを出してはいけないと思った。今まで葉月が苦しみ、悩んだ分私もそれを理解しようと時間をかけて考えなければならないと思った。
いや違う、怖かったんだ。本気なのが伝わってきたからこそ、自分のせいで葉月が傷ついてしまうところを見たくなかった。けれどそれは結局自分を守るための言い訳でしかない。葉月の事を想うなら例えどんな決断だったとしてもきちんと伝えなくてはいけない。
今私がやるべき事は過去をふりかえって後悔することじゃない。しっかり現実を受け止めて「これから」のことを考えていかないといけないんだ。
告白をされた4日後、私は放課後、葉月を呼び出した。
私と葉月を含め、制服姿の学生が店内の7割を占めていたと思う。目の前に置かれたアイスティーの入ったグラスが結露し、水滴が重力に引っ張られて机に溜まっていく。
私達はお互いの目をしっかりと見つめる。
自分の中で伝えることは決めてきたはずなのに、いざ葉月を前にすると中々最初の言葉が出てこなかった。
どのくらい沈黙していただろう。気がつけば、グラスに入った氷は半分以上溶けていた。
深呼吸をして自分の口から声を発する。
「私ね、葉月の気持ちを全て理解することはきっとできない。だけど、私なりにこの数日で必死に考えて、悩んで答えを出したの。
正直気持ちを伝えられてすごく怖くなった、今まで何気なくかけてきた言葉でどれだけ葉月が苦しんできたかを知ることが怖かったの。後悔することは数え切れないほどあって、その度に葉月の顔が浮かんだ。けどそれはあくまで私の想像でしかない。だから実際に葉月が感じていたことを全て知ることは出来ないの。」
向けられた視線は逸れることなく真っ直ぐに注がれ続けている。
「それ以前に私は好きっていう気持ちに自信が持てない。葉月はちゃんと自分の気持ちを形にして、それを伝えることが出来て本当にすごいなって思った。何度も考えた。どうしたら葉月の気持ちに答えられるのか。けれど私はまだ自分自身の弱さを受け入れられないから、葉月に真っ直ぐ向き合ってあげることが出来ない。だからごめんなさい。葉月の気持ちに答えることはできない。」
ゆっくりと瞼を閉じてまばたきをした瞳には今にも零れそうな熱い水が溜まっていた。
「ずるいって思われるかもしれないけどこれだけは言わせて欲しい。今まで辛い思いをさせてごめんね。そして私を好きになってくれてありがとう。」
もし私が葉月の事を好きになれていたら。
もっと自分の事を理解出来ていたら。
そう思わずにはいられなかった。
涙を目元にうっすら浮かべる葉月を心から美しいと思ったから。
◇◇◇
「やっぱり水琴のこと好きになってよかった。そうやって人一倍相手のことを考えて悩むところもちゃんと向き合って答えを出してくれたところも全部好きだよ。」
心からの言葉だった。振られて辛いはずなのに、なぜか妙にすっきりして清々しい気分だった。
水琴の顔がだんだん霞んできた。自分の瞳に涙が溜まっていくのが分かる。けれど決して泣かないように決めたんだ。どうかこれ以上涙を溢れさせないで。
「泣かせてごめん。私色々な人を傷つけちゃった。」
その言葉を聞いてまさかと思った。
「それってどういうこと?もしかして…」
「実はね、水族館に行く少し前に遠藤くんにも告白されたんだ。けどそれも断っちゃったんだけどね。」
そうか、そうだったのか。あれだけ焦っていたことも結局は無意味だった。遠藤も水琴に振られたのだ。順番はどうであれ、今の水琴は誰のにもならなかった。
「1つ隠していたことがあるの。遠藤が水琴に告白しようとしてるの本当は知ってたんだ。もしそれで2人が付き合うことになったらって考えたら私焦っちゃって。今思うとバカみたいだよね。水琴の気持ちも考えずに自分勝手に気持ちを伝えて自己満足しようとしてた。ほんとごめんね。」
自嘲気味に言う。改めて自分の愚かさに気がつく。けれど気持ちを伝えたことに後悔はなかった。いずれ伝えることに変わりはなかったと思うから。
「そんなこと謝る必要はないよ。でも私、嬉しかったんだ。突然のことでかなり動揺してたけど、それ以上に葉月が私のことを1人の人として見てくれたことが。これはきっと葉月だったからそう思えたんだと思う。」
最後まで水琴はそういうところがずるい。
これからまた今まで通りって訳にはいかないかもしれない。だけど言えずに隠していたことがなくなってこれからは本音で語り合える気がする。
また水琴の隣を歩ける日が来るように。
一度席を立ち、溶けきった氷の入ったコップを持ってドリンクバーへ向かった。
◇◇◇
数分にも数時間にも感じられた時間が過ぎ去り、私と葉月はファミレスを後にした。
結局、葉月の涙が頬を伝うことはなかった。
重いスクールバッグを左手に持ち、まだ痛む右腕の火傷をさすりながら家を目指して地面を足で押し出していく。
私のこの決断は間違いではなかったのだろうか。心のざわつきはまだ収まることなく私の心に居座り続けた。
家に着き、玄関のドアノブに手をかけたタイミングで少々遠くから声をかけられた。お隣に住んでいる唐木田(からきだ)さんだ。幼稚園へ行く時間帯によく犬の散歩に出かける唐木田さんに会い、挨拶をしたものだ。
久しぶりに話をした唐木田さんは気がつけば煙草をやめていた。昔から煙草を吸っているイメージがかなり強かったのでかなり驚いた。
年配の人の時間は流れているようで流れてないと勝手に思い込んでいたんだ。だが、変化は誰でもする。いつもいるお隣さんももう昨日のお隣さんでは無いのだ。
いつもの住み慣れた家の匂いを感じて、一気に疲れが押し寄せる。修理したばかりのお風呂は、微かに化学物質の匂いがした。いつもより少し長めに湯船に浸かり、肩まで温める。体温が上がり、火傷した傷口が少し傷んだ。
水色のお気に入りのパジャマに袖を通す。着替えを済ませ、2階に続く階段を上がっていく。昔この階段で転んで派手に落ちたことがあったっけ。怪我をしてもその大体は時間が経つにつれ薄くなり、消えていく。けれど痛かったという記憶は残り続けるものだ。それは二度と同じ過ちを繰り返さないようにする為の印なのだろうか。
ドアノブに手をかけ、一室に入っていく。いつだって自分の部屋が1番落ち着く。何かを考えるにもここでないと落ち着かない。
これからあのファミレスに行く度に今日あった出来事を思い出すだろう。記憶と場所は親密に結びついている。思い出や記憶は色に似ていると私は思う。三組の教室、駅のホーム、水族館。目から入る景色は記憶を掘り起こすトリガーとなり、良い記憶も悪い記憶もその両方が脳裏を掠めていく。だからこそ、この部屋だけは私の好きな水色でもなく誰かが好きだった紫でもなく、何色でもない無色な場所であって欲しかった。
この部屋にすら色がついてしまったら私の居場所はどこにもなくなってしまうような気がした。
人通りの多い駅前から少し離れ、目印になりそうなアップルパイのお店を待ち合わせ場所に設定した。
少し時間に余裕を持って着いたので、鏡を見て去年の誕生日に貰ったお気に入りのリップで唇をなぞる。
「ごめんおまたせ。待った?」
走ってきたのか肩で息をしながら私の顔を覗き込む。
鞄に手を入れ、そこのある紙を確認して歩き出した背中を後ろから追いかけた。
◇◇◇
「あれってヒラメ?それともカレイ?」
葉月は私が興味津々に質問するといつもすぐに答えてくれる。魚に関する話をする時はいつも活き活きしていて、それを聞いているのが昔から好きだった。その影響もあり、小学生の頃から毎年必ず1回は2人で一緒に水族館に行っていた。県内の水族館は見尽くしてしまったので、今回は初めて東京に足を伸ばすことにした。
休日ということもあり、館内はカップルや子連れの家族で賑わっており、イルカショーの座席は空席がほとんどない状態だ。
県内の水族館とは違い、敷地はそこまで広くはなかったが最新式のLED照明と装飾で現代アートにも見える。
「今日のワンピースめっちゃ可愛いね。なんだか海のお姫様みたい。」
青い照明を吸収した白いワンピースはまるで海そのものを身にまとっているように見えた。
「ほんと、ありがとう」
髪をくるくるさせながら少し照れたように葉月が答える。
私のサンダルと葉月の少し高めのヒールの音が重なって響く。
「これは深海魚の水槽。深海魚と聞くと水圧を調整していると思われがちだけど実は圧力をかけてない水槽がほとんどなんだよ。」
葉月が指を指した水槽はライトがほとんど付いておらず、中の生物がよく見えない。だが暗闇に息を潜めるそれと一瞬だけ目が合ったような気がした。
結局、館内を全て回るのに3時間ほどかかった。ようやく最後の水槽を見終わり出口に向かおうとする。するともう一度巨大水槽を見たいと言うので、入口の方へ戻ることにした。
巨大水槽を前に葉月は立ち尽くしていた。
横から見ると筋の通った鼻がより目立つ。まつ毛は綺麗に上を向いており、下唇よりも分厚い上唇が印象的である。いつからか化粧をするようになり、涙袋に輝く大粒のラメは淡い光に照らされ、透き通った瞳をより際立たせていた。
何か言いたげな表情をしていたので、何かあったのか問いかけても返事はない。代わりに何やら鞄の中をゴソゴソと探り始めた。やがて一葉の封筒を取り出すと無言でそれを私に差し出す。真っ白の封筒に赤いシーリングスタンプが押されていた。封を開け、紙を取り出して中に書いてある文字をみる。
瞬間、周りの音が聞こえなくなった。視覚だけでなく聴覚までもがこの1枚の紙に釘付けになった。
◇◇◇
***
手が震えている。時刻はAM2:16。今日はもう終わり、昨日になってしまった。代わりに明日が今日になった。
壁に掛けられた白いワンピースがより一層私を焦らせる。
早く書かなければならないのになかなか手を動かすことが出来ない。手汗でびしょびしょになった手はペン先を紙につけていないとどうにかなりそうだった。
遠藤が水琴に告白するー
それを聞いたのはつい先日の事だった。
放課後、オーデトリアムで各々楽器のチューニングをしている時、ひょんなことから恋バナに発展した。凌馬は最近、半年付き合った彼女に振られたと酷く落ち込んでいた。そんな凌馬を励まそうとしたのか、遠藤が近々俺も告白をすると私達の前で宣言したのだ。そして恥ずかしそうに言う遠藤の目線の先に水琴がいることに気がついてしまった。
とはいえ、遠藤が水琴の事を気になっている事には前から薄々気がついていた。本人は勘づかれないようにしていたつもりかもしれないが、水琴と話す時の表情、演奏中の視線を見れば分かる。
私もきっとそうだったから。
◇◇◇
「ごめん、私葉月の気持ち全く知らなかった。」
しばらく渡された紙を凝視して、水琴が最初に口にした言葉がそれだった。
違う、私は謝って欲しかったんじゃない。
遠藤くんが告白する前にどうしても伝えたかった。今までずっと水琴の事を1番近くで友達として見てきた。けれどそれももう限界だ。遠藤くんが告白して付き合うことになったら絶対に後悔する、だから何としてでも先に告白したかった。
いつからと言われて、明確にここからとは答えられないけれど、恐らく一緒に部活をやり始めて少ししたくらいから意識し始めたんだと思う。それまで好きな人ができなかったわけではなかったけれど、周りの子から聞く「好きな人」とはどこか違う気がしていた。確かにかっこいいなとか好きかもしれないと思うことはあったが、手を繋ぐところやキスをするところを想像すると変に心臓が掴まれるように嫌な感じがする。
中学に入り、水琴に誘われて一緒に部活を始めて、最初は男女4人で仲良くやっていたと思う。仲がいい私達は、良くも悪くも距離が近かった。水琴が遠藤や凌馬と仲良さそうにしている所を見て、次第に「何か」が生まれた。今思えばそれは恐らく嫉妬心だったと思う。今までも水琴が男の子と話しているところや告白されているところは見てきたはずだった。なのにどうして今更こんな気持ちになったのか、自分でもよく分からない。
だが、その頃から遠藤が水琴のことを気になり始めた事もあって、その嫉妬心は更に加速して大きくなっていき、気がつけばもう友達として見れていないことに気が付いた。
歌を歌っている時の水琴は誰よりも輝いていて、斜め後ろからスポットライトを体いっぱいで受け止める水琴の姿を見るのが好きだった。
前に恋バナをしていた時に、好きかどうか分からない場合はどうしたらいいと聞いてみた。和佳奈が言うには好きかどうかはその人とキスできるかどうかで決まるらしい。
水琴とキスをする。今までの好きな人とは異なり、不思議と嫌な気はしない。それどころか少し興味まで湧いてくる。逆に水琴が他の誰かとキスをしている所を想像すると無意識に下唇を噛んでいた。
和佳奈の助言が確信となり、私は水琴のことが好きだと自覚した。
自分の感情に名前がついたことにより、罪悪感抱くこともあった。水琴は純粋に私の事を友達だと思って接してくれているのに私はと言うと邪な気持ちで水琴と一緒にいる。
私たちは4人グループなので和佳奈や凪への接し方とどうしても差が出てきてしまう。もしそれで誰かに勘づかれてしまったらどうしよう。それでも水琴に対する気持ちを抑えることはできなかった。
今年のバレンタインに水琴にだけアップルパイとは別にクッキーを入れた。クッキーは友達でいようというメッセージがあり、それを無理矢理入れることで諦めようと思っていたんだ。それなのにしばらくして遠藤が告白することを知ってしまった。
どうして諦めさせてくれないの。
思い知ればいい。あの子に私には釣り合わないって。それでボロボロになるまで傷つけばいい。じゃないと忘れられないから。忘れるためには傷が必要。
主人公は私ではないと。
◇◇◇
頭がぼーっとする。確かに紙に書かれた文字を読んでいるはずなのに、どこかの国の呪文のように、意味を成さずに左から右へと流れていく。
この紙に書かれた「好き」の2文字。この文字が一体何を表しているのか、どれだけ重大なことなのか、今の私には全く分からなかった。多少のデジャブを感じたが今私の目の前にいるのは、昔から私のずっと隣にいた葉月だ。
どれくらい立ち尽くしていただろう。一言何か葉月に言った気がするが、何を言ったのか覚えていない。見かねた葉月が、返事は今じゃなくてもいいから。急に混乱するようなこと言ってごめんと私に向かって言う。
脳みそが空っぽになりながらもなんとか手と足を動かして水族館に背を向け、帰路に着いた。
途中の駅で葉月は下車し、私は1人になった。乗り換えの為、一度電車を降り、反対側のホームへ移動する。
しばらくして無機質なスピーカーからアナウンスが鳴り、接近メロディに乗せて今日一日分の後悔が押し寄せる。電車によって無理矢理動かされた空気が風となり、中身のない私の心を体から引き剥がして遠くに吹き飛ばした。
気がつくと家の玄関の前にいて、手には鍵が握られていた。正直どうやって帰ってきたかあまり覚えていない。とりあえず風呂に入ろうと脱衣所へ向かうと、お母さんがおかえりと、2階から階段を降りてきた。何やら私に向かって口をパクパク動かしていたが、何を言っていたのかほとんど耳に入ってこなかった。辛うじて聞き取れたことはお風呂が壊れてしまったから近くの温泉に行って欲しいとの事だった。
このまま家にいては気が狂いそうだったので外出する口実ができたことはよかったかもしれない。
今まで彼女は一体どんな気持ちで私の隣にいたのだろう。日が傾き、道路がオレンジ色に染っていた。歩いているうちに何も考えらずに停止していた思考が段々と戻っていく。
ずっと言いたくても言えずにいた想いを隠すために嘘をつかなければならなかった、辛いことはもちろん、罪悪感も感じてたに違いない。それなのに一体私は今まで葉月の何を見ていたのだろう。知らぬ間に沢山傷つけていたのではないか。
今までの言動一つ一つが葉月にとってどれほど影響を与えていたか、想像するだけで怖くなる。
思い返せば過去に恋愛相談をしたことがあった。もしその時既に私に好意を持っていたとしたら。一度考えだすと、後悔や罪悪感が波のように押し寄せてきた。
誰より近くにいたはずなのに誰よりも遠くに感じさせていたかもしれない。
あの時、葉月はどんな顔をしていたんだろう。
女湯ののれんをくぐる時、一瞬躊躇ってしまった。
人のいない一番端の洗い場に座ると、水圧の調節ができないボタン式のシャワーが容赦なく頭を濡らした。あっという間に髪は水を含んで重たく体にまとわりついていく。目頭が熱くなっていた気もするが既に顔全体が濡れてしまっては確かめようがなかった。いや、本当は確かめたくなかったのだ。
二重扉を抜けて外湯に向かう頃にはすっかり陽は落ちきって竹垣から月が覗いていた。もうすぐ夏とはいえ、濡れている体でいればまだまだ冷える。
左足をそっとお湯につけ、静かに全身を沈めた。湯口からでた湯が岩にあたって注がれている。照明が、水面から伸びていく湯気でぼんやりと霞んでいた。淡い照明をじっと直視していると周りの視界までぼやけて見えてくる。私も空気に混じってどこかへ蒸発してしまえたらどれだけ楽だろう。だが、蒸発する程の温度になるどころか完全に湯に浸かりきれていない肩は冷たくなっていく一方だった。
脱衣所に戻る頃には外で冷えた部分も温かくなり、体全体の血行が促進されて疲労感を感じつつあった。さっきまで水族館にいたのが嘘のように、一日が遠く長く感じる。
無意識に手を口元に持っていくと微かに硫黄の匂いがした。
お湯で流しきれなかった感情を整理し切るには徒歩10分という家までの道のりはあまりにも短すぎたのかもしれない。
人通りの多い繁華街を抜け、家と街灯と電柱が規則正しく並ぶ道が続く。視線は自然と地面の方へ落ち込み、ひびのはいったコンクリートを避けながら歩いた。
家に帰っても何も手につかず、ご飯は喉を通らなかった。ベットに横になることもせず、ただ枕元にあるペンギンのぬいぐるみを力いっぱい抱きしめた。
小さい頃夜は永遠で幻の様なものだと思ってた。昔は遅くても10時には寝ており、目を覚ませば太陽が顔を覗かせ地上に光を届けている。眠りに落ちている間の時間は私にとっては想像もつかない果てしないものだった。空白の時間を包み込む夜の全容を完全に暴くことはできない。
けれど時が経ち、初めて暗い空が段々と光を含み始めるまでの過程を一部始終見た。それでようやく昼と同じで限られた時間のありふれた時間と認識することができた。夜は幻でも永遠でもなく昼と平等に訪れる時間だ。
日が沈み、訪れる暗闇は自身の姿を隠してくれる。夜の闇に紛れていると何者にもならずに済む、だから居心地が良かった。
いつの間にか眠りについていたらしく、ベットに体育座りのような体勢で目が覚めた。背中と腕が痛む。腕の中にいたペンギンのビーズでできた目が訴えかけるようにこちらを見ている。
それから私は学校を2日間仮病で休んだ。
お母さんが心配をしているのは知っていた。あえて深堀はせずにいつも通り接してくれたことにすごく感謝している。
学校に行くと決めた日の朝は驚くほどの快晴で、学校までの道のりはいつも以上に体力を消費した。
今までと変わらず少し早めに学校に着くと、人の少ない教室で去年と同じ窓際の席に鞄を置き、椅子に座る。だが本を読む気にはなれなかったので、ひたすら外を眺めていた。ドアが開く音がして、目線をそっちの方へ向けると、奏がちょうど教室に入ってきたところだった。
久々に見る奏の姿で、高校3年生の始業式の日を思い出す。クラス替えの時、下駄箱に張り出されたクラス名簿に奥田奏という文字を見た時は正直嬉しかった。そこまで仲がいいという訳では無いが、席が前後だったということもあり、よく話していた。席はと言うと私の後ろではなく右隣になった。クラスといい席といい、何かと縁があるのかもしれない。
奏は鞄を机の右側にかけるとおはようと声をかけてくれた。
いつも通り返したつもりが、何やらこちらをじっと見つめている。
「水琴、何かあった?」
そう言われてドキッとした。そんなに顔に出ていただろうか。
「え?なんで?」
「いや2日も学校休んでたから何かあったのかなって」
そういえば私は2日間学校を休んでいたのだ。それをすっかり忘れてしまうほど今の私の脳みそは他のことでいっぱいなのだ。
1時間目の授業は技術で、先週からはんだごてを使用して簡単な機械作りをしていた。連続2時間の授業で、それぞれのグループに分かれて作業をする。
基板にハンダ付けをしていた時、手が滑ってハンダが床に落ちてしまった。足元には落ちていないので机の下を覗き込む。一時的に置いておいたはんだごての先端部分に腕が一瞬触れた。
「あつっ」
すぐに痛覚を認識してその痛みの先に目を向けた。腕の内側の薄い部分がじんじんと痛み、ドクドクと血液の流れを感じた。
腕を動かすと収縮した皮膚が引き攣ってる感覚がある。
痛い。痛い痛い痛い痛い。
痛むのは火傷だけじゃない。もっと深いところだ。
すぐに先生が来て、保健室に行くよう促された。
物理的な痛みは一目見れば分かるのに心に抱えている傷はどうして見えないのだろう。見えなければ誰にも気づいて貰えず、1人で透明な大きい傷を背負っていかなければならない。けれど助けを求めて手を伸ばすことも、それに気づき手を差し伸べることも簡単なことでは無い。
人を助けるということは時に自分を犠牲にすること。
助けを求めるということは自分の弱さや限界を知り、誰かを信じること。
私は決断しなければならなかった。しかしそれは、「はい」か「いいえ」で答えられるような単純なものではなく、自分の気持ちをしっかりと相手に伝えること。誰かに相談することも考えたが、葉月の立場を考えると相談するのはあまり得策とは言えない。
そもそも私は何をそんなに悩んでいるのだろう。遠藤くんの時はすでに答えは決まっていた。けど葉月の時は。
確かにあの時動揺していたのは事実だけど、もし答えが決まっていたとしたらすぐに言うべきだったのではないだろうか。
そうしなかった理由。
そうだ、あの時葉月は覚悟をしてたんだ。真っ直ぐに私を見つめて、全てを捨てる覚悟を持っていたのだ。それが瞳の奥から溢れるように伝わってきた。
半端な気持ちで答えを出してはいけないと思った。今まで葉月が苦しみ、悩んだ分私もそれを理解しようと時間をかけて考えなければならないと思った。
いや違う、怖かったんだ。本気なのが伝わってきたからこそ、自分のせいで葉月が傷ついてしまうところを見たくなかった。けれどそれは結局自分を守るための言い訳でしかない。葉月の事を想うなら例えどんな決断だったとしてもきちんと伝えなくてはいけない。
今私がやるべき事は過去をふりかえって後悔することじゃない。しっかり現実を受け止めて「これから」のことを考えていかないといけないんだ。
告白をされた4日後、私は放課後、葉月を呼び出した。
私と葉月を含め、制服姿の学生が店内の7割を占めていたと思う。目の前に置かれたアイスティーの入ったグラスが結露し、水滴が重力に引っ張られて机に溜まっていく。
私達はお互いの目をしっかりと見つめる。
自分の中で伝えることは決めてきたはずなのに、いざ葉月を前にすると中々最初の言葉が出てこなかった。
どのくらい沈黙していただろう。気がつけば、グラスに入った氷は半分以上溶けていた。
深呼吸をして自分の口から声を発する。
「私ね、葉月の気持ちを全て理解することはきっとできない。だけど、私なりにこの数日で必死に考えて、悩んで答えを出したの。
正直気持ちを伝えられてすごく怖くなった、今まで何気なくかけてきた言葉でどれだけ葉月が苦しんできたかを知ることが怖かったの。後悔することは数え切れないほどあって、その度に葉月の顔が浮かんだ。けどそれはあくまで私の想像でしかない。だから実際に葉月が感じていたことを全て知ることは出来ないの。」
向けられた視線は逸れることなく真っ直ぐに注がれ続けている。
「それ以前に私は好きっていう気持ちに自信が持てない。葉月はちゃんと自分の気持ちを形にして、それを伝えることが出来て本当にすごいなって思った。何度も考えた。どうしたら葉月の気持ちに答えられるのか。けれど私はまだ自分自身の弱さを受け入れられないから、葉月に真っ直ぐ向き合ってあげることが出来ない。だからごめんなさい。葉月の気持ちに答えることはできない。」
ゆっくりと瞼を閉じてまばたきをした瞳には今にも零れそうな熱い水が溜まっていた。
「ずるいって思われるかもしれないけどこれだけは言わせて欲しい。今まで辛い思いをさせてごめんね。そして私を好きになってくれてありがとう。」
もし私が葉月の事を好きになれていたら。
もっと自分の事を理解出来ていたら。
そう思わずにはいられなかった。
涙を目元にうっすら浮かべる葉月を心から美しいと思ったから。
◇◇◇
「やっぱり水琴のこと好きになってよかった。そうやって人一倍相手のことを考えて悩むところもちゃんと向き合って答えを出してくれたところも全部好きだよ。」
心からの言葉だった。振られて辛いはずなのに、なぜか妙にすっきりして清々しい気分だった。
水琴の顔がだんだん霞んできた。自分の瞳に涙が溜まっていくのが分かる。けれど決して泣かないように決めたんだ。どうかこれ以上涙を溢れさせないで。
「泣かせてごめん。私色々な人を傷つけちゃった。」
その言葉を聞いてまさかと思った。
「それってどういうこと?もしかして…」
「実はね、水族館に行く少し前に遠藤くんにも告白されたんだ。けどそれも断っちゃったんだけどね。」
そうか、そうだったのか。あれだけ焦っていたことも結局は無意味だった。遠藤も水琴に振られたのだ。順番はどうであれ、今の水琴は誰のにもならなかった。
「1つ隠していたことがあるの。遠藤が水琴に告白しようとしてるの本当は知ってたんだ。もしそれで2人が付き合うことになったらって考えたら私焦っちゃって。今思うとバカみたいだよね。水琴の気持ちも考えずに自分勝手に気持ちを伝えて自己満足しようとしてた。ほんとごめんね。」
自嘲気味に言う。改めて自分の愚かさに気がつく。けれど気持ちを伝えたことに後悔はなかった。いずれ伝えることに変わりはなかったと思うから。
「そんなこと謝る必要はないよ。でも私、嬉しかったんだ。突然のことでかなり動揺してたけど、それ以上に葉月が私のことを1人の人として見てくれたことが。これはきっと葉月だったからそう思えたんだと思う。」
最後まで水琴はそういうところがずるい。
これからまた今まで通りって訳にはいかないかもしれない。だけど言えずに隠していたことがなくなってこれからは本音で語り合える気がする。
また水琴の隣を歩ける日が来るように。
一度席を立ち、溶けきった氷の入ったコップを持ってドリンクバーへ向かった。
◇◇◇
数分にも数時間にも感じられた時間が過ぎ去り、私と葉月はファミレスを後にした。
結局、葉月の涙が頬を伝うことはなかった。
重いスクールバッグを左手に持ち、まだ痛む右腕の火傷をさすりながら家を目指して地面を足で押し出していく。
私のこの決断は間違いではなかったのだろうか。心のざわつきはまだ収まることなく私の心に居座り続けた。
家に着き、玄関のドアノブに手をかけたタイミングで少々遠くから声をかけられた。お隣に住んでいる唐木田(からきだ)さんだ。幼稚園へ行く時間帯によく犬の散歩に出かける唐木田さんに会い、挨拶をしたものだ。
久しぶりに話をした唐木田さんは気がつけば煙草をやめていた。昔から煙草を吸っているイメージがかなり強かったのでかなり驚いた。
年配の人の時間は流れているようで流れてないと勝手に思い込んでいたんだ。だが、変化は誰でもする。いつもいるお隣さんももう昨日のお隣さんでは無いのだ。
いつもの住み慣れた家の匂いを感じて、一気に疲れが押し寄せる。修理したばかりのお風呂は、微かに化学物質の匂いがした。いつもより少し長めに湯船に浸かり、肩まで温める。体温が上がり、火傷した傷口が少し傷んだ。
水色のお気に入りのパジャマに袖を通す。着替えを済ませ、2階に続く階段を上がっていく。昔この階段で転んで派手に落ちたことがあったっけ。怪我をしてもその大体は時間が経つにつれ薄くなり、消えていく。けれど痛かったという記憶は残り続けるものだ。それは二度と同じ過ちを繰り返さないようにする為の印なのだろうか。
ドアノブに手をかけ、一室に入っていく。いつだって自分の部屋が1番落ち着く。何かを考えるにもここでないと落ち着かない。
これからあのファミレスに行く度に今日あった出来事を思い出すだろう。記憶と場所は親密に結びついている。思い出や記憶は色に似ていると私は思う。三組の教室、駅のホーム、水族館。目から入る景色は記憶を掘り起こすトリガーとなり、良い記憶も悪い記憶もその両方が脳裏を掠めていく。だからこそ、この部屋だけは私の好きな水色でもなく誰かが好きだった紫でもなく、何色でもない無色な場所であって欲しかった。
この部屋にすら色がついてしまったら私の居場所はどこにもなくなってしまうような気がした。