*
...川、次は品川
車内のアナウンスが聞こえ、ゆっくりと瞼を開けるとサラリーマンの鞄が目の前にあった。扉の開く音と同時に満員電車から体を逃がす。
Suicaをかざし、改札をするりと抜けると目的地へ足を進めた。
***
「ごめんおまたせ。待った?」
声をかけるとスマホから目線をそらしこちらを見つめる。
その瞳は何かを決意したようにみえた。
多少の違和感を感じつつも私は再び動き出し、建物の中に足を踏み入れた。
***
QRコードをかざし、ゲートをくぐると青い世界が広がっていた。独特の雰囲気と空調の効いた室内に心臓が反応する。
階段を上がった先に広がっていたのは、見上げるほど大きな巨大水槽。近くまで来るとガラスの細かい擦り傷が無数に見えた。下を見下ろすと自分の足元よりももっと深くに平べったい生き物が底を這うようにして泳いでいる。
そっと水槽に手を伸ばし、左手に触れたガラスはひんやりと冷たい。水特有の屈折を通して見る光は自分がまるで海の中にいるようだった。
薄暗い館内を水槽の光を頼りに進んでいく。カーペットからフローリングに切り替わり、踵の高い靴が低い音を響かせる。細い通路を抜けた先には大小さまざまな水槽が並び、沢山の魚が展示されていた。その中でも一際暗い展示に惹かれるように真っ直ぐと進んでいく。
『これは深海魚の水槽。深海魚と聞くと水圧を調整していると思われがちだけど実は圧力をかけてない水槽がほとんどなんだよ。』
向こう側が暗いせいでこちら側が反射している。ピントが奥の魚からガラスに変わり、水槽を見つめている自分と目が合った。今私を見ているのは私だけだった。他の人はみな一緒に来ている大切な人を眺めている。そして眺められている人は魚を見ている。
薄暗い館内をひたすら歩いた。特に目的もなく歩く様はまるでクラゲが海を揺蕩う時と似ていた。私の視線の先に魚はいなかった。
屋外エリアに出てみると、磯の香りが鼻腔を刺激する。雲一つない快晴は薄暗い館内から出たばかりの目には少々刺激が強すぎたようだ。太陽の光をまとった海は宝石箱をひっくり返したようにキラキラと輝いていた。遠くから聞こえてくる波の音が耳に入り、脳を巡ってまた耳から出ていく。
一通り展示を見終わり、最後にもう一度巨大水槽を見ようと入り口付近に戻ると吸い寄せられるようにある1人に目が止まった。
白いワイシャツに黒のズボンを履いたその人物を私は知っていた。目に少しかかるくらいの髪の隙間から覗く視線の先は魚ではない何かを見つめていた。
気がつくと私はその人物に声をかけていた。
声に気がついたのかゆっくりとこちらに振り返った。私を見つけると何やら辺りをキョロキョロと見渡し、やがて左の目を少し細めてこちらを見つめていた。
遥か上から差し込む水槽を照らす光が水を通して右側から柔らかく照らしていた。
*
体にスイッチが入ったように全身の感覚がじわりと鋭くなっていく。寒さは刺激として、音は耳から。
布団に覆われた体は熱を持っているが顔の、そう、特に鼻が冷たい。赤くなっている気がする。視点を自分の体から離し、俯瞰して自分の鼻先を見つめる想像をする。
音のする方へ手を伸ばすと氷のように冷たい四角い塊に当たった。日付を確認すると今日は2月9日月曜日。また1週間学校が始まる。
履きなれた上履きで誰も通ってない廊下を一直線に歩いていく。一番奥の教室に着き、少し滑りの悪いドアを開けるといつも先客がいる。勉強熱心な小岩井茜(こいわい あかね)と鞄だけおいて、隣の教室で彼女と喋っている新庄夏樹(しんじょう なつき)だ。
私は窓際の後ろから3番目の席に鞄をかけ、カーテンを少し閉めて読書を始める。高校2年生になってからのルーティンはあと1ヶ月で終わりを迎えようとしている。
そしていつも私の次に来るのが後ろの席の奥田奏(おくだかなで)。
奏は登校してくるといつも、何かをする訳でもなくただ窓の外を眺めるか机に突っ伏して寝ている。窓際の特権と言うやつだ。
時計の長針が12を示すあたりから人がどんどんと増えて教室が満たされていく。人が少ない教室は朝早いということもあり特別感があっていいが、いつもの少し騒がしいくらいの教室ももうすぐ終わりが見えてくると思うと、名残惜しい気もする。
新庄が勢いよくドアを開け、後ろで固まっている男子達に向かって嬉しそうに話しかける。クラスの話題は、今週に控えたバレンタインの事で持ち切りだった。
私はと言うと毎年決まって、同じメーカーのガトーショコラを作っているのだが、少々高価な為1ホールしか作らない。なので渡す相手は慎重に決めないといけないのだ。とはいえ、あげる人はほとんど決まっている。いつも一緒にご飯を食べる友達と部活のメンバーの計5人。1ホールで6個作れるので残りは1つだ。
甘いものを食べると幸せになると言うが、砂糖には依存性があると言われており、それをなにかのテレビ番組で知った時から食べる度に少し躊躇するようになった。更に、毎年作っているというのもあって自分の分は用意していない。
あっという間にバレンタイン当日になり、予定通り前日に仕込んでおいたガトーショコラを保冷バッグに詰めて学校に登校した。
教室に入ると相変わらず先客がいたのだが、今日はいつもと違うことがある。奏が先に来ていたのだ。
「おはよう、今日は珍しく早いんだね。」
早起きしたのか、寝不足なのか目の下には青白いクマができており、瞼はいつもより重たそうに見えた。
「昨日変な夢を見て4時くらいに目が覚めたんだけどなんだか落ち着かなくて早めに来た。」
夢か、ここ最近頻繁に見ている気もするが起きた途端に記憶が一気に弾けてどこかへ消えてしまう。思い出そうにも時間が経てば経つほど記憶は遠ざかっていく。やがて本当に夢を見ていたのかすらも怪しくなる。だが、恐ろしい夢を見て目覚めた時の、背中がぐっしょりと濡れて心臓が拍数をあげる感覚は忘れられない。
夢を見ている時は睡眠が浅いと聞いたことがある。もしかしたら奏は疲れているのかもしれない。
「良かったらこれいる?ガトーショコラなんだけど、甘いもの食べると疲れ取れるかもよ。」
保冷バックから形が崩れないように丁寧に取り出し、奏に差し出した。
奏はガトーショコラを受け取ると、左目を細めて笑った。
「水琴(みこと)にも結構家庭的なところあるんだね」
と、いつも通り軽い冗談を言った。
奏はあまり喋る方ではないが、話しかければいつも目を見て話してくれる。たまに冗談を言える程の仲である。
心なしか少しだけ表情が明るくなった気がしたのは気のせいだっただろうか。
段々と人が増えてきて教室はいつも以上に賑やかになり、朝のホームルームが始まる頃には、他の教室からも人が集まってきてチョコを配ったり交換したりする人で溢れかえっていた。
お昼の時間になり隣の教室に移動して始めに目に入ったのは、机の板部分が見えなくなるほどに積まれた大量のお菓子だった。それをまるで工場の作業のように雨宮 和佳奈(あめみやわかな)が家から持ってきたブランドの紙袋に容赦なく入れていく。
隣に座っていた佐倉 凪(さくらなぎ)は、自分の好みのお菓子はないかと和佳奈が片付けた紙袋の中を物色している。
その正反対の2人のやり取りを眺め、私と葉月(はづき)が苦笑する。
早い人で小学校1年生からの付き合いである私達4人は、中学受験を経験しており、県内に1つしかない私立学校に入学した。中学から高校へはエスカレーター式なので、10年来の付き合いということになる。中学に入ってからもクラスは違えど、必ず誰かの教室に集まって一緒にお昼を食べていた。
「おせんべい発見!甘いものしか食べてないからしょっぱいもの食べたかったんだよね。」
凪が勢いよく紙袋からお煎餅を取り出すと、このお菓子ドロボーと和佳菜が叫んだ。少々子供っぽい凪を和佳奈が落ち着かせる。いつもの2人のやり取りは私たちの日常風景だ。
くだらない話をして笑い合えるこの時間が大好きだった。
やがて、全員が食べ終わったタイミングでみんな持ってきたお菓子を交換し合う。和佳奈は可愛らしいピンクベージュの箱に入ったマカロン、凪はお菓子作りが苦手なのでお馴染みのお菓子の詰め合わせ。葉月が持ち手がリボンでできた小さい紙袋を取り出したところで、あっと何かに気付く。
「ごめん1個教室に置いてきちゃった。」
4人の中ではしっかりしてる方の葉月が忘れ物をするなんて珍しい。少し考え込んだ後でこちらに視線を向ける。
「そしたら水琴、この後ミーティングあるし、その後教室寄ってくれる?」
そうだ。今日はバレンタインライブが控えているのでミーティングをすると凌馬(りょうま)くんが言っていた。
「分かった全然いいよ」
そう伝えると葉月は先に和佳奈と凪に紙袋を渡した。
早めに机と椅子を元の位置に戻し、葉月と一緒にオーデトリアムへ向かった。ちょうどタイミングが良かったので遠藤(えんどう)くんと凌馬くんにもガトーショコラを渡した。
甘いものが好きだから嬉しいと喜んでくれた遠藤くんに凌馬くんがツッコミを入れる。
葉月が移動教室ということもあり今日のミーティングはいつもより早めに終わることにした。
自分の教室に帰る前に葉月の教室に行くと、小走りで机に行き、重たそうなリュックから紙袋を取り出した。何か付箋のようなものが付いており、それをサッと取ると私に向けて差し出す。
「家に帰ってから食べてね」
葉月は移動教室だからとすぐに教室を後にした。
「ただいま」
玄関を開けると同時に家のどこかにいるお母さんに向けて大きめの声を出す。
鞄を持ったまま急いでキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。
手作りのものから優先的にしまい、葉月からもらったものは手に持ったままテーブルへ移動する。紙袋から中身を取り出してみると、アップルパイとクッキーが入っていた。アップルパイは作るのにかなりの時間がかかる。それなのにそれとは別にクッキーまで作っているなんて。
もしかすると今年は本命ができたのかもしれない。だとしたら感想を明日伝えてあげよう。アップルパイをアルミホイルに包み、オーブントースターに入れてつまみを回した。温めている間に包みをあけてクッキーを食べる。
相変わらず葉月の作るクッキーは甘さが控えめで、隠し味に塩が入っていてとても美味しい。夢中で食べているとあっという間にトースターから音がした。
手作りのアップルパイははじめて食べたが、大きめのりんごがいいアクセントになっている。パイ生地はサクサクしていてお世辞抜きでお店で出せるほどに美味しかった。本命をもらう子は運がいい。
和佳奈のマカロンはオレンジ風味で中のクリームにはマーマレードのようなものが使われていた。さっぱりとしていてとても美味しい。
残りのお菓子は家族と協力して食べることにする。
「え、あのマカロンオレンジじゃなくて柚だったの。」
翌日のお昼、和佳奈にオレンジのマカロンが美味しかったと告げると衝撃の返事が返ってきた。
「食べればわかるでしょ、水琴もしかしてバカ舌?」
凪がニヤニヤしながらこちらを見ている。
「そんなことないよ。同じ柑橘系だからセーフでしょ。」
「だそうですよ雨宮(あめみや)シェフ。ガトーショコラ職人の保科(ほしな)さんが何か言ってますよ。」
「料理人として今の発言は解せないですな。」
和佳奈が冗談に便乗して小さな笑いが起きる。
「そういえば葉月のアップルパイもめっちゃ美味しかったよね。あれは結構時間かかったんじゃない?」
「確かにあれは美味しかった。私も来年はアップルパイにしようかな。」
「私ちょっとトースターで温めたんだけどサクサクしててお店のみたいだった。」
葉月がおにぎりを片手に嬉しそうに頷く。
「結構時間かけて作ったから嬉しい。パイ生地を編むのがめっちゃ難しくて途中で諦めようかと思ったよ」
「だよね1人じゃできなさそうだから今度作る時教えて」
「それにあのクッキー…」
と言いかけたところで葉月があと5分で授業が始まることに気が付き、みんなそれぞれお弁当をしまって机と椅子を元の位置に戻した。
教室で次の授業に使う教科書を準備していると奏が話しかけてきた。
「ガトーショコラすごく美味しかった。今度お返しするね。」
朝の時間以外に話すことはほとんどなかったので、少し驚いた。まだなにか言いたげにこちらを見ている。少し間が空いたあと、
「ほんとにありがと」
そう言った。そこまで喜んで貰えるなんて思っていなかったので、また来年もあげようと思った。
秒針はもう間もなく12を指す。時間は絶え間なく過ぎ去っていくものだ。今この瞬間ももう二度と訪れない時間として日々記録され続ける。人々にとって時間が流れていくのは当たり前であり、意識せずとも日常的に起こることだ。
非日常の複数形が日常であるように人間は良くも悪くもイレギュラーな出来事があったとしてもそれが頻繁に起こるようになればやがて慣れがきて日常の一部になる。
近年、日本では異常気象が続き、専門家の人達が温暖化の深刻さについて熱心に解説をする。それを聞いたリポーターがこのままで日本は大丈夫なのでしょうかと視聴者の気持ちを代弁するようなコメントを残す。という一連の流れを何度もニュースでみた。そんな中、今年初めて半袖を着たのは学年が上がって間もない4月の下旬頃だった。
高校2年生も気がつけば終わりを告げ、あと1年で卒業、というところまで来てしまった。
今年度は葉月と凪が同じクラスになったため、私と和佳奈はそれぞれ3組と1組から2人のいる2組に移動してお昼を食べることになる。
まだ5月だというのに窓とドアは全て閉め切られ、教室はクーラーによって冷やされた空気が充満していた。4時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、先生の号令と同時に多くの生徒が冷たい空気と一緒に教室から雪崩のように出ていく。
急に静まり返った教室でお弁当を鞄からだし、席を立とうとしたところを後ろから声をかけられた。同じバンドに所属している遠藤くんだ。そういえば同じクラスになるのはこれが初めてだった気がする。遠藤くんは私の目を見ると一瞬目線を逸らした。
「保科、この間チェックした備品リストに書かれているシールドが1本足りないんだ。ご飯を食べ終わったら一緒に確認してもらってもいい?」
先日のライブで使用したシールドか。会場に運び込みをする際にシールドを倉庫から持ち出したのは私だった。けれど片付けをした時に倉庫に置いてあったのを見た気がする。見間違いだっただろうか。
「分かった。じゃあ食べ終わったら声かけるね。」
用事が出来たので、早めにお昼を済ませなければならない。急いでお弁当を持って2組へ行き、集められた4つの椅子の一つに手をかけた。ちょうど和佳奈も教室へ入ってきたところだった。
「あのさ葉月、シールドが1本足りないらしんだけどどこにあるか知らない?」
ベース担当の葉月なら何か知っているかもしれないと卵焼きをつまみながら聞いてみる。
「いや私はいつも自分の使ってるし分からないな。それ誰から聞いたの?」
遠藤くんから聞いたと伝えると、一瞬葉月の顔が歪み、何か思い詰めたような顔をした。
急いで食事を終えて遠藤くんと合流してオーデトリアムへ向かう。
「葉月に聞いてみたんだけど心当たりないって。」
「ああ、藍川(あいかわ)に聞いたのか。」
遠藤くんは少々動揺した様子で更に歩く速度を早めた。
かなり急いでいるのか私の数歩先を歩き、足と逆方向に規則正しく揺れる手は固く握られていた。
断熱材と吸収材の詰まった重い扉を開け、壁に無数に配置してある照明のスイッチから1番下の1列を押す。すると入口付近だけに明かりがついた。
スポットライトに照らされる役者のように、ゆっくりと奥に向かって進んでいく。するとちょうど真ん中らへんで遠藤くんは急に足を止めて、機材が収納してある倉庫に背を向けた。
何かが私の胸をざわつかせた。その本能的な予感は、すぐに間違いじゃなかったと分かる。
「ずっと前から保科の事が好きでした。良ければ俺と付き合って下さい。」
遠藤くんはそのようなことを私に言った、気がした。
あまりに急な出来事に、足元がぐらついた。ステージ上でお芝居をするみたいに私では無い誰かに向けた言葉のように感じる。
けれど遠藤くんは紛れもなく私に視線を向けていた。今にも震えが伝わってきそうな細くて長い手を私の前に差し出す。
一人も観客のいないオーデトリアムからは、二人の呼吸音と心音、時計の秒針が時を刻む音だけが静かに響いていた。
「ごめんなさい。気持ちは凄く嬉しい、けど付き合うことは出来ない。」
私は遠藤くんの目をしっかりと見つめ、ゆっくりと告げた。
指先がだんだんと冷たくなっていく。違う選択をしていればこの指先は今頃温もりを感じていただろうか。いつも間にか自分の心臓の音は聞こえなくなっていた。
こういう時どういう顔をしたらいいのか。いま私はどんな顔をしているのだろう。
私の言葉を最後まで聞くと、ふーっと息を吐き、やっぱりダメかと肩の力を抜いた。
そして空気を入れ替えようと無理矢理笑って見せた。
午後の授業は集中することが出来ず、気がつけば帰りのホームルームが終わっていた。昇降口を抜けると雨が降りそうな分厚い雲が空いっぱいに広がっている。外の空気は湿っていて土の香りがする。どれだけコンクリートで人工的に整備しようと結局人間は自然には叶わないのだ。雨の日の香りを鼻腔に届けるように深く息を吸った。
乳白色の空に流れる灰色の雲。この雲はなんのために空を流れるのだろうか。
その晩、私は少し早めにベットに入り、じっと天井を見上げていた。UFOのような平べったい円盤が光を放ち、白い壁に囲まれている。重力が体全体を押さえ付け、起き上がることは出来なくなった。
遠藤くんは確かに好きだと言った。まだ本気で人のことを好きになったことのない私に。
自分の感情を安定させることができないのに他人と感情を共有したり駆け引きをしたりする事。それはつまり、足し算ができないのにいきなり掛け算を始めるくらい無謀だ。
そのことに気がついたのはいつだったか。
それはきっと過去に付き合っていた時に知ったことだ。
そっと目を閉じて、意識を過去に遡らせた。
□□□
「大好きだよ水琴」
そう私に告げるのは、高校1年生の時に付き合っていた人だ。体育祭の後に告白され、周りの勧めもあって一度付き合ってみることにした。
初めて目に見えない契約を結んだ私にはその責任についてまだ知らないことが多すぎたのかもしれない。お互い好きなことが前提の関係。その当たり前に持ち合わせている感情をいかにして伝えるか。私はいつまでこの辛うじて好きと分類出来そうな気持ちが続くのかと不安で堪らなかった。
相手の子はよく私に愛情表現をしてくれた。それは言葉だったり行動だったり。時にはハグやキスをされることもあった。
けれどその愛情を表す行動は私の中ではただの出来事でしかなく、キスに関しては最初にこの行為に特別な意味を持たせたのは何処の誰だと、本気で疑問に思ったほどだ。
いつだって一番信用できないのは自分自身で、私の中にある感情と相手の感情には大きな差がある。いつになったら同じ目線になれるのだろう。
最初のうちは時間が解決してくれると思っていたんだ。
だが実際には、付き合った時から頭のどこかで既に終わりを見据えていたのかもしれない。
毎日まだ好きでいられているか、自分に問いただす日々。最後の方には好きでいなければならないとある種の義務の様なものすら感じていたかもしれない。
短い付き合いの中で私は一度たりとも好きと言わなかった。もし口にしてしまったらそれが嘘だと気づいてしまう気がして怖かった。
相手を欺くことはできても自分を騙すことはできない。自分の気持ちが分からないから自信が持てない。数ヶ月、数年なんて途方もない時間に思える。
この先、他人以上に距離が開いて目も合わせられなくなる。廊下ですれ違う度にお互いが見て見ぬふりをして視界に入れないように。そんな終わりのさらに先を考えてしまう。
□□□
部屋に置かれたベットの真ん中で夢と過去の回想が入り交じった意識の中をさまよった。その間も止まることなく秒針は時を刻み続け、やがて3つの針がピッタリと重なった。
こうして金曜日は幕を閉じ、長かった平日が終わりを告げて休日が訪れる。
...川、次は品川
車内のアナウンスが聞こえ、ゆっくりと瞼を開けるとサラリーマンの鞄が目の前にあった。扉の開く音と同時に満員電車から体を逃がす。
Suicaをかざし、改札をするりと抜けると目的地へ足を進めた。
***
「ごめんおまたせ。待った?」
声をかけるとスマホから目線をそらしこちらを見つめる。
その瞳は何かを決意したようにみえた。
多少の違和感を感じつつも私は再び動き出し、建物の中に足を踏み入れた。
***
QRコードをかざし、ゲートをくぐると青い世界が広がっていた。独特の雰囲気と空調の効いた室内に心臓が反応する。
階段を上がった先に広がっていたのは、見上げるほど大きな巨大水槽。近くまで来るとガラスの細かい擦り傷が無数に見えた。下を見下ろすと自分の足元よりももっと深くに平べったい生き物が底を這うようにして泳いでいる。
そっと水槽に手を伸ばし、左手に触れたガラスはひんやりと冷たい。水特有の屈折を通して見る光は自分がまるで海の中にいるようだった。
薄暗い館内を水槽の光を頼りに進んでいく。カーペットからフローリングに切り替わり、踵の高い靴が低い音を響かせる。細い通路を抜けた先には大小さまざまな水槽が並び、沢山の魚が展示されていた。その中でも一際暗い展示に惹かれるように真っ直ぐと進んでいく。
『これは深海魚の水槽。深海魚と聞くと水圧を調整していると思われがちだけど実は圧力をかけてない水槽がほとんどなんだよ。』
向こう側が暗いせいでこちら側が反射している。ピントが奥の魚からガラスに変わり、水槽を見つめている自分と目が合った。今私を見ているのは私だけだった。他の人はみな一緒に来ている大切な人を眺めている。そして眺められている人は魚を見ている。
薄暗い館内をひたすら歩いた。特に目的もなく歩く様はまるでクラゲが海を揺蕩う時と似ていた。私の視線の先に魚はいなかった。
屋外エリアに出てみると、磯の香りが鼻腔を刺激する。雲一つない快晴は薄暗い館内から出たばかりの目には少々刺激が強すぎたようだ。太陽の光をまとった海は宝石箱をひっくり返したようにキラキラと輝いていた。遠くから聞こえてくる波の音が耳に入り、脳を巡ってまた耳から出ていく。
一通り展示を見終わり、最後にもう一度巨大水槽を見ようと入り口付近に戻ると吸い寄せられるようにある1人に目が止まった。
白いワイシャツに黒のズボンを履いたその人物を私は知っていた。目に少しかかるくらいの髪の隙間から覗く視線の先は魚ではない何かを見つめていた。
気がつくと私はその人物に声をかけていた。
声に気がついたのかゆっくりとこちらに振り返った。私を見つけると何やら辺りをキョロキョロと見渡し、やがて左の目を少し細めてこちらを見つめていた。
遥か上から差し込む水槽を照らす光が水を通して右側から柔らかく照らしていた。
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体にスイッチが入ったように全身の感覚がじわりと鋭くなっていく。寒さは刺激として、音は耳から。
布団に覆われた体は熱を持っているが顔の、そう、特に鼻が冷たい。赤くなっている気がする。視点を自分の体から離し、俯瞰して自分の鼻先を見つめる想像をする。
音のする方へ手を伸ばすと氷のように冷たい四角い塊に当たった。日付を確認すると今日は2月9日月曜日。また1週間学校が始まる。
履きなれた上履きで誰も通ってない廊下を一直線に歩いていく。一番奥の教室に着き、少し滑りの悪いドアを開けるといつも先客がいる。勉強熱心な小岩井茜(こいわい あかね)と鞄だけおいて、隣の教室で彼女と喋っている新庄夏樹(しんじょう なつき)だ。
私は窓際の後ろから3番目の席に鞄をかけ、カーテンを少し閉めて読書を始める。高校2年生になってからのルーティンはあと1ヶ月で終わりを迎えようとしている。
そしていつも私の次に来るのが後ろの席の奥田奏(おくだかなで)。
奏は登校してくるといつも、何かをする訳でもなくただ窓の外を眺めるか机に突っ伏して寝ている。窓際の特権と言うやつだ。
時計の長針が12を示すあたりから人がどんどんと増えて教室が満たされていく。人が少ない教室は朝早いということもあり特別感があっていいが、いつもの少し騒がしいくらいの教室ももうすぐ終わりが見えてくると思うと、名残惜しい気もする。
新庄が勢いよくドアを開け、後ろで固まっている男子達に向かって嬉しそうに話しかける。クラスの話題は、今週に控えたバレンタインの事で持ち切りだった。
私はと言うと毎年決まって、同じメーカーのガトーショコラを作っているのだが、少々高価な為1ホールしか作らない。なので渡す相手は慎重に決めないといけないのだ。とはいえ、あげる人はほとんど決まっている。いつも一緒にご飯を食べる友達と部活のメンバーの計5人。1ホールで6個作れるので残りは1つだ。
甘いものを食べると幸せになると言うが、砂糖には依存性があると言われており、それをなにかのテレビ番組で知った時から食べる度に少し躊躇するようになった。更に、毎年作っているというのもあって自分の分は用意していない。
あっという間にバレンタイン当日になり、予定通り前日に仕込んでおいたガトーショコラを保冷バッグに詰めて学校に登校した。
教室に入ると相変わらず先客がいたのだが、今日はいつもと違うことがある。奏が先に来ていたのだ。
「おはよう、今日は珍しく早いんだね。」
早起きしたのか、寝不足なのか目の下には青白いクマができており、瞼はいつもより重たそうに見えた。
「昨日変な夢を見て4時くらいに目が覚めたんだけどなんだか落ち着かなくて早めに来た。」
夢か、ここ最近頻繁に見ている気もするが起きた途端に記憶が一気に弾けてどこかへ消えてしまう。思い出そうにも時間が経てば経つほど記憶は遠ざかっていく。やがて本当に夢を見ていたのかすらも怪しくなる。だが、恐ろしい夢を見て目覚めた時の、背中がぐっしょりと濡れて心臓が拍数をあげる感覚は忘れられない。
夢を見ている時は睡眠が浅いと聞いたことがある。もしかしたら奏は疲れているのかもしれない。
「良かったらこれいる?ガトーショコラなんだけど、甘いもの食べると疲れ取れるかもよ。」
保冷バックから形が崩れないように丁寧に取り出し、奏に差し出した。
奏はガトーショコラを受け取ると、左目を細めて笑った。
「水琴(みこと)にも結構家庭的なところあるんだね」
と、いつも通り軽い冗談を言った。
奏はあまり喋る方ではないが、話しかければいつも目を見て話してくれる。たまに冗談を言える程の仲である。
心なしか少しだけ表情が明るくなった気がしたのは気のせいだっただろうか。
段々と人が増えてきて教室はいつも以上に賑やかになり、朝のホームルームが始まる頃には、他の教室からも人が集まってきてチョコを配ったり交換したりする人で溢れかえっていた。
お昼の時間になり隣の教室に移動して始めに目に入ったのは、机の板部分が見えなくなるほどに積まれた大量のお菓子だった。それをまるで工場の作業のように雨宮 和佳奈(あめみやわかな)が家から持ってきたブランドの紙袋に容赦なく入れていく。
隣に座っていた佐倉 凪(さくらなぎ)は、自分の好みのお菓子はないかと和佳奈が片付けた紙袋の中を物色している。
その正反対の2人のやり取りを眺め、私と葉月(はづき)が苦笑する。
早い人で小学校1年生からの付き合いである私達4人は、中学受験を経験しており、県内に1つしかない私立学校に入学した。中学から高校へはエスカレーター式なので、10年来の付き合いということになる。中学に入ってからもクラスは違えど、必ず誰かの教室に集まって一緒にお昼を食べていた。
「おせんべい発見!甘いものしか食べてないからしょっぱいもの食べたかったんだよね。」
凪が勢いよく紙袋からお煎餅を取り出すと、このお菓子ドロボーと和佳菜が叫んだ。少々子供っぽい凪を和佳奈が落ち着かせる。いつもの2人のやり取りは私たちの日常風景だ。
くだらない話をして笑い合えるこの時間が大好きだった。
やがて、全員が食べ終わったタイミングでみんな持ってきたお菓子を交換し合う。和佳奈は可愛らしいピンクベージュの箱に入ったマカロン、凪はお菓子作りが苦手なのでお馴染みのお菓子の詰め合わせ。葉月が持ち手がリボンでできた小さい紙袋を取り出したところで、あっと何かに気付く。
「ごめん1個教室に置いてきちゃった。」
4人の中ではしっかりしてる方の葉月が忘れ物をするなんて珍しい。少し考え込んだ後でこちらに視線を向ける。
「そしたら水琴、この後ミーティングあるし、その後教室寄ってくれる?」
そうだ。今日はバレンタインライブが控えているのでミーティングをすると凌馬(りょうま)くんが言っていた。
「分かった全然いいよ」
そう伝えると葉月は先に和佳奈と凪に紙袋を渡した。
早めに机と椅子を元の位置に戻し、葉月と一緒にオーデトリアムへ向かった。ちょうどタイミングが良かったので遠藤(えんどう)くんと凌馬くんにもガトーショコラを渡した。
甘いものが好きだから嬉しいと喜んでくれた遠藤くんに凌馬くんがツッコミを入れる。
葉月が移動教室ということもあり今日のミーティングはいつもより早めに終わることにした。
自分の教室に帰る前に葉月の教室に行くと、小走りで机に行き、重たそうなリュックから紙袋を取り出した。何か付箋のようなものが付いており、それをサッと取ると私に向けて差し出す。
「家に帰ってから食べてね」
葉月は移動教室だからとすぐに教室を後にした。
「ただいま」
玄関を開けると同時に家のどこかにいるお母さんに向けて大きめの声を出す。
鞄を持ったまま急いでキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。
手作りのものから優先的にしまい、葉月からもらったものは手に持ったままテーブルへ移動する。紙袋から中身を取り出してみると、アップルパイとクッキーが入っていた。アップルパイは作るのにかなりの時間がかかる。それなのにそれとは別にクッキーまで作っているなんて。
もしかすると今年は本命ができたのかもしれない。だとしたら感想を明日伝えてあげよう。アップルパイをアルミホイルに包み、オーブントースターに入れてつまみを回した。温めている間に包みをあけてクッキーを食べる。
相変わらず葉月の作るクッキーは甘さが控えめで、隠し味に塩が入っていてとても美味しい。夢中で食べているとあっという間にトースターから音がした。
手作りのアップルパイははじめて食べたが、大きめのりんごがいいアクセントになっている。パイ生地はサクサクしていてお世辞抜きでお店で出せるほどに美味しかった。本命をもらう子は運がいい。
和佳奈のマカロンはオレンジ風味で中のクリームにはマーマレードのようなものが使われていた。さっぱりとしていてとても美味しい。
残りのお菓子は家族と協力して食べることにする。
「え、あのマカロンオレンジじゃなくて柚だったの。」
翌日のお昼、和佳奈にオレンジのマカロンが美味しかったと告げると衝撃の返事が返ってきた。
「食べればわかるでしょ、水琴もしかしてバカ舌?」
凪がニヤニヤしながらこちらを見ている。
「そんなことないよ。同じ柑橘系だからセーフでしょ。」
「だそうですよ雨宮(あめみや)シェフ。ガトーショコラ職人の保科(ほしな)さんが何か言ってますよ。」
「料理人として今の発言は解せないですな。」
和佳奈が冗談に便乗して小さな笑いが起きる。
「そういえば葉月のアップルパイもめっちゃ美味しかったよね。あれは結構時間かかったんじゃない?」
「確かにあれは美味しかった。私も来年はアップルパイにしようかな。」
「私ちょっとトースターで温めたんだけどサクサクしててお店のみたいだった。」
葉月がおにぎりを片手に嬉しそうに頷く。
「結構時間かけて作ったから嬉しい。パイ生地を編むのがめっちゃ難しくて途中で諦めようかと思ったよ」
「だよね1人じゃできなさそうだから今度作る時教えて」
「それにあのクッキー…」
と言いかけたところで葉月があと5分で授業が始まることに気が付き、みんなそれぞれお弁当をしまって机と椅子を元の位置に戻した。
教室で次の授業に使う教科書を準備していると奏が話しかけてきた。
「ガトーショコラすごく美味しかった。今度お返しするね。」
朝の時間以外に話すことはほとんどなかったので、少し驚いた。まだなにか言いたげにこちらを見ている。少し間が空いたあと、
「ほんとにありがと」
そう言った。そこまで喜んで貰えるなんて思っていなかったので、また来年もあげようと思った。
秒針はもう間もなく12を指す。時間は絶え間なく過ぎ去っていくものだ。今この瞬間ももう二度と訪れない時間として日々記録され続ける。人々にとって時間が流れていくのは当たり前であり、意識せずとも日常的に起こることだ。
非日常の複数形が日常であるように人間は良くも悪くもイレギュラーな出来事があったとしてもそれが頻繁に起こるようになればやがて慣れがきて日常の一部になる。
近年、日本では異常気象が続き、専門家の人達が温暖化の深刻さについて熱心に解説をする。それを聞いたリポーターがこのままで日本は大丈夫なのでしょうかと視聴者の気持ちを代弁するようなコメントを残す。という一連の流れを何度もニュースでみた。そんな中、今年初めて半袖を着たのは学年が上がって間もない4月の下旬頃だった。
高校2年生も気がつけば終わりを告げ、あと1年で卒業、というところまで来てしまった。
今年度は葉月と凪が同じクラスになったため、私と和佳奈はそれぞれ3組と1組から2人のいる2組に移動してお昼を食べることになる。
まだ5月だというのに窓とドアは全て閉め切られ、教室はクーラーによって冷やされた空気が充満していた。4時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、先生の号令と同時に多くの生徒が冷たい空気と一緒に教室から雪崩のように出ていく。
急に静まり返った教室でお弁当を鞄からだし、席を立とうとしたところを後ろから声をかけられた。同じバンドに所属している遠藤くんだ。そういえば同じクラスになるのはこれが初めてだった気がする。遠藤くんは私の目を見ると一瞬目線を逸らした。
「保科、この間チェックした備品リストに書かれているシールドが1本足りないんだ。ご飯を食べ終わったら一緒に確認してもらってもいい?」
先日のライブで使用したシールドか。会場に運び込みをする際にシールドを倉庫から持ち出したのは私だった。けれど片付けをした時に倉庫に置いてあったのを見た気がする。見間違いだっただろうか。
「分かった。じゃあ食べ終わったら声かけるね。」
用事が出来たので、早めにお昼を済ませなければならない。急いでお弁当を持って2組へ行き、集められた4つの椅子の一つに手をかけた。ちょうど和佳奈も教室へ入ってきたところだった。
「あのさ葉月、シールドが1本足りないらしんだけどどこにあるか知らない?」
ベース担当の葉月なら何か知っているかもしれないと卵焼きをつまみながら聞いてみる。
「いや私はいつも自分の使ってるし分からないな。それ誰から聞いたの?」
遠藤くんから聞いたと伝えると、一瞬葉月の顔が歪み、何か思い詰めたような顔をした。
急いで食事を終えて遠藤くんと合流してオーデトリアムへ向かう。
「葉月に聞いてみたんだけど心当たりないって。」
「ああ、藍川(あいかわ)に聞いたのか。」
遠藤くんは少々動揺した様子で更に歩く速度を早めた。
かなり急いでいるのか私の数歩先を歩き、足と逆方向に規則正しく揺れる手は固く握られていた。
断熱材と吸収材の詰まった重い扉を開け、壁に無数に配置してある照明のスイッチから1番下の1列を押す。すると入口付近だけに明かりがついた。
スポットライトに照らされる役者のように、ゆっくりと奥に向かって進んでいく。するとちょうど真ん中らへんで遠藤くんは急に足を止めて、機材が収納してある倉庫に背を向けた。
何かが私の胸をざわつかせた。その本能的な予感は、すぐに間違いじゃなかったと分かる。
「ずっと前から保科の事が好きでした。良ければ俺と付き合って下さい。」
遠藤くんはそのようなことを私に言った、気がした。
あまりに急な出来事に、足元がぐらついた。ステージ上でお芝居をするみたいに私では無い誰かに向けた言葉のように感じる。
けれど遠藤くんは紛れもなく私に視線を向けていた。今にも震えが伝わってきそうな細くて長い手を私の前に差し出す。
一人も観客のいないオーデトリアムからは、二人の呼吸音と心音、時計の秒針が時を刻む音だけが静かに響いていた。
「ごめんなさい。気持ちは凄く嬉しい、けど付き合うことは出来ない。」
私は遠藤くんの目をしっかりと見つめ、ゆっくりと告げた。
指先がだんだんと冷たくなっていく。違う選択をしていればこの指先は今頃温もりを感じていただろうか。いつも間にか自分の心臓の音は聞こえなくなっていた。
こういう時どういう顔をしたらいいのか。いま私はどんな顔をしているのだろう。
私の言葉を最後まで聞くと、ふーっと息を吐き、やっぱりダメかと肩の力を抜いた。
そして空気を入れ替えようと無理矢理笑って見せた。
午後の授業は集中することが出来ず、気がつけば帰りのホームルームが終わっていた。昇降口を抜けると雨が降りそうな分厚い雲が空いっぱいに広がっている。外の空気は湿っていて土の香りがする。どれだけコンクリートで人工的に整備しようと結局人間は自然には叶わないのだ。雨の日の香りを鼻腔に届けるように深く息を吸った。
乳白色の空に流れる灰色の雲。この雲はなんのために空を流れるのだろうか。
その晩、私は少し早めにベットに入り、じっと天井を見上げていた。UFOのような平べったい円盤が光を放ち、白い壁に囲まれている。重力が体全体を押さえ付け、起き上がることは出来なくなった。
遠藤くんは確かに好きだと言った。まだ本気で人のことを好きになったことのない私に。
自分の感情を安定させることができないのに他人と感情を共有したり駆け引きをしたりする事。それはつまり、足し算ができないのにいきなり掛け算を始めるくらい無謀だ。
そのことに気がついたのはいつだったか。
それはきっと過去に付き合っていた時に知ったことだ。
そっと目を閉じて、意識を過去に遡らせた。
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「大好きだよ水琴」
そう私に告げるのは、高校1年生の時に付き合っていた人だ。体育祭の後に告白され、周りの勧めもあって一度付き合ってみることにした。
初めて目に見えない契約を結んだ私にはその責任についてまだ知らないことが多すぎたのかもしれない。お互い好きなことが前提の関係。その当たり前に持ち合わせている感情をいかにして伝えるか。私はいつまでこの辛うじて好きと分類出来そうな気持ちが続くのかと不安で堪らなかった。
相手の子はよく私に愛情表現をしてくれた。それは言葉だったり行動だったり。時にはハグやキスをされることもあった。
けれどその愛情を表す行動は私の中ではただの出来事でしかなく、キスに関しては最初にこの行為に特別な意味を持たせたのは何処の誰だと、本気で疑問に思ったほどだ。
いつだって一番信用できないのは自分自身で、私の中にある感情と相手の感情には大きな差がある。いつになったら同じ目線になれるのだろう。
最初のうちは時間が解決してくれると思っていたんだ。
だが実際には、付き合った時から頭のどこかで既に終わりを見据えていたのかもしれない。
毎日まだ好きでいられているか、自分に問いただす日々。最後の方には好きでいなければならないとある種の義務の様なものすら感じていたかもしれない。
短い付き合いの中で私は一度たりとも好きと言わなかった。もし口にしてしまったらそれが嘘だと気づいてしまう気がして怖かった。
相手を欺くことはできても自分を騙すことはできない。自分の気持ちが分からないから自信が持てない。数ヶ月、数年なんて途方もない時間に思える。
この先、他人以上に距離が開いて目も合わせられなくなる。廊下ですれ違う度にお互いが見て見ぬふりをして視界に入れないように。そんな終わりのさらに先を考えてしまう。
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部屋に置かれたベットの真ん中で夢と過去の回想が入り交じった意識の中をさまよった。その間も止まることなく秒針は時を刻み続け、やがて3つの針がピッタリと重なった。
こうして金曜日は幕を閉じ、長かった平日が終わりを告げて休日が訪れる。