翌朝。忠はチャイムの音で目を覚ました。やっと妻が帰ってきたのかと、忠は勢いをつけて玄関のドアを開けた。
「おい! お前、今までどこ行って」
「牧野忠様ですね。わたくし、弁護士の霧崎と申します」
「は、あ……?」
ずいっと目の前に出された名刺に、忠はうろたえた。
「本日はお休みだと伺っております。少々、お話よろしいですか」
「え、えぇ。構いませんよ」
忠は内弁慶だ。外面は良い。弁護士という肩書に怯み、表面上は丁寧に接したが、内心は動揺していた。
弁護士が、いったい何をしに自宅まで。
霧崎を家に上げ、ダイニングのテーブルに着かせ、茶を出す。相手が軽く礼をしたのを確認して、忠も向かいに座った。
「それで、何の御用ですか」
「単刀直入に申し上げますと、奥様から、離婚調停を任されております」
「はぁ……?」
寝耳に水、といった様子の忠に、霧崎はいくつかの写真を取り出した。
「これは、忠様で間違いないですね」
それは、不倫相手たちとの写真の数々だった。相手はどれもばらばらで、少なくとも十人以上いる。
「え、えぇ。そうですが」
「ということは、この女性たちと不貞行為があったことは認めるのですね」
「ちょ、ちょっと待ってください」
不貞行為、と言われて、忠はピンときた。まさかとは思ったが、妻は不貞行為を理由に離婚しようとしているのか。
オープンマリッジを言い出したのは、妻の方からだ。契約書もきちんと交わしている。原本を持っているのは妻の方だが、忠は念のためにコピーを個人的に保管していた。
馬鹿な女だ。きっと、原本を隠せばなかったことになると思っているのかもしれない。そんな簡単な手に引っかかったりはしない。
「これ、見てください」
忠は契約書のコピーを霧崎の前に出した。
「私と妻は、オープンマリッジといって、このような契約書を交わしています。これはコピーですが、ほら。二人のサインもちゃんとあるでしょう。私たちは、お互い合意の上で不倫を認めていたんです」
忠の訴えに、霧崎は表情を変えずに、契約書の二つ目を指で示した。
「こちら、ご覧いただけますか」
「え?」
「関係を持った相手の素性を互いに報告すること――とありますね。あなたは、奥様に、きちんと相手の女性のことを伝えていましたか?」
「も、勿論です! 写真を見せて、名前も」
「お相手、全員?」
「――……それ、は」
忠は言葉に詰まった。途中から面倒になって、全員を報告はしていない。
「この写真の女性たち。奥様は、どなたのこともご存じでないそうですよ」
「そ、それは!」
忠は再度写真に目を落とした。もはやどれが誰だかも覚えていないが、確かに彼女たちは比較的新しい不倫相手たちで、報告はしていない可能性が高い。
「ほ、報告は、しました! 妻が覚えていないだけで」
「奥様は、報告された際に、お相手のことを全て写真で記録されています」
「そんなの、消してしまえば、言ったか言わないかなんてわからないじゃないですか」
「ではあなたは、報告した時のことを証明できますか? お相手の写真は全てとってありますか? お名前の記録は?」
忠は黙った。途中から報告をさぼったから、全ての女性の写真はないし、もはや名前も覚えていない。
「ですが、そもそもオープンマリッジというのは、不貞行為を不問にする、という契約でしょう。それを認めた時点で、私の方に責任などないはずです」
忠の態度に、霧崎は溜息を吐いた。
「あのですね。そもそもオープンマリッジとは、当人同士の約束事であって、法的拘束力はないんですよ。契約書も素人の手作りで、弁護士立ち合いの元作成されたものでもない。しかもあなたはその約束事すら破っている。これであなたに勝ち目があるとお思いですか」
忠は言葉に詰まった。弁護士相手にこれ以上やり合うのは分が悪い。
「妻と、話をさせてください。二人で話し合います」
「残念ながら、奥様はあなたとはお会いになりたくないそうです。わたくしが一切を任されております」
「それは一方的すぎやしませんか」
「あなたのしたことを考えれば、当然だと思いますが」
それで納得できるはずがない。妻が言い出したことなのに。自分が悪いはずはない。直接話せば、絶対に妻だって説得できる。
あれほど自分を理解してくれる女はいない。あれほど手際よく面倒を見てくれる女はいない。こんな自由に不倫させてくれる寛大な女はいない。すんなり手放すには、些か惜しい。
「妻の気持ちを考えれば、当然です。ですが、どうしても、直接会って謝りたい。きっと、何か誤解があるんです。許してもらえるまで、私にできる限りのことをします。ですから、どうか、お願いできませんか」
忠は真摯に頭を下げた。このくらいはお手のものだ。
そんな忠をじっと見つめて、霧崎は口を開いた。
「一つ。奥様から、条件を預かっております」
「条件……?」
「簡単な質問です。それに答えられたら、あなたとお会いになると」
「本当ですか!」
「ただし。答えられなかった場合は、慰謝料を請求するそうです」
慰謝料。その言葉に、忠は怯んだ。不倫にさんざん使い込んだので、忠の貯金はほとんどない。
「逃げ道はあります。もし、質問に挑戦せずにこのまま離婚を認めるのであれば、奥様とは会えませんが慰謝料の請求も無しです」
忠は迷った。回答を誤れば、慰謝料。挑戦しなかったら、離婚。どちらにせよ、忠は何かを失う。
何も失わないためには、質問に正解するしかない。霧崎は簡単な質問だと言った。弁護士が、ここで嘘は言わないだろう。
「わかりました。質問を、受けます」
真っすぐ見据えた忠に、霧崎は質問を投げかけた。
「では、お尋ねします。奥様のお名前は?」
忠は拍子抜けした。なんだ、そんなこと。本当に、えらく簡単な質問だった。
そんな、まさか、結婚相手の名前がわからないはず。
そんな、はずが。
「――……」
忠の喉が引き攣る。
待て。待ってくれ。わかる。絶対、わかるはずなんだ。だって何度も呼んでいた。
――本当に?
最後に妻の名前を呼んだのはいつだったか。彼女のことを、名前で呼んでいただろうか。家の中だから。二人しかいないから。名前で呼ばなくても、呼びかければ相手のことだとわかった。
自分が呼んだ女の名前は、不倫相手の名前ばかりだ。いくつもの名前が頭を巡るのに、どれが誰のものかわからない。
スマホの登録名は『嫁』だ。そもそもカンニングは許されないだろう。ああ、さきほど契約書のコピーを渡すんじゃなかった。あれは既に伏せられている。あそこには、妻の名前が書かれていたのに。
思い出せ。今さっき、目にしたはずだ。
「あ」
張りついた喉を、無理やり震わせる。
「――明美」
霧崎は、黙ったまま目を伏せた。
――外れた。
忠は一気に足元から崩れ落ちるような気分になった。エレベーターが高速で降りる時のような、奇妙な浮遊感が襲う。
「残念です。慰謝料の請求については、後日改めてお話に伺います。ひとまず、本日はここまでで」
霧崎が席を立つ。呆然とした忠を残して、霧崎は律儀にお辞儀をして、部屋を出ていった。
残された忠は、強く拳を握りしめ、腹の底から吐き出した。
「くっそおおお!!」
あの女。あの女!
「騙しやがって!!」
オープンマリッジ、などと。耳障りの良い言葉を使って。
結局、これが目当てだったのだ。忠がボロを出して、慰謝料をふんだくれる時が来るのを待っていたのだ。
なんて強欲で計算高い女。
「いいさ。とことん争ってやる」
――俺は悪くない。俺は悪くない……!
忠の目は、ぎらぎらと憎悪に燃えていた。
「終わったぞ」
霧崎が車に乗り込むと、助手席の女がふわりと微笑んだ。
「お疲れさま。どうだった?」
「やはり、名前は言えなかった。自分の妻の名前すら呼べないなんて、どういう神経してるんだか」
「そういう人なのよ」
苦々しげな霧崎に、明里は苦笑した。
「もっと早く離婚すれば良かったのに」
「あれでなかなか、周到な人だから。小心者とも言うけど。以前は証拠が掴めなくて」
明里は、忠と美紀の不倫を把握していた。しかし、なかなか尻尾が掴めずにいた。
そこで思いついたのが、オープンマリッジだ。忠の性格を考えて、明里の方から許可を出してしまえば、これ幸いと奔放に振る舞うだろうと。
そこで仕込んだのが、二つ目の条件。
これを絶対に忘れるだろうと、踏んでいた。忠が、明里との約束事を律儀に守り切るはずがないのだ。適当にしても許されると思っている。
守ってくれるなら、それでも良かった。
名前を、覚えていてくれたのならと。チャンスもあげた。
全てを台無しにしたのは忠だ。もう挽回の余地はない。
「これが無事に済んだら、俺たちも晴れて恋人か」
「そうね。だからもうちょっとだけ、待っててね」
霧崎と明里の間には、恋愛感情がある。しかし肉体関係はない。裁判で不利にならないためだ。だから明里は、オープンマリッジで一度も忠に相手の報告をしていない。そのことにも、気づかなかったのだろう。
馬鹿な人。
「騙される方が、悪いのよ」
忠と二人で暮らしていたマンションを出て。明里は暫くの間、ホテル暮らしをしていた。自分でも贅沢だとは思うが、離婚が成立していない状態で霧崎の家には転がり込めない。家が見つかるまでの辛抱だと言い聞かせた。
忠は案の定ごねていた。これは時間がかかるかもしれない、と明里は溜息を吐いた。
相手の不倫が原因だとしても、それを理由にすぐに離婚することはできない。忠が納得しないのであれば、裁判に持ち込むしかない。不貞の証拠は明らかであるから、争えばまず勝てる。しかしそれでは一年程度かかることを覚悟しなければならない。
弁護士の霧崎がついているし、忠の性格を考えれば、協議離婚は難しいと思っていた。それでも、忠さえ納得してくれるなら、それが最も早く穏便だった。
慰謝料を取ると宣言したものの、それはきちんと制裁を下すという意思表示に過ぎず、正直なところ明里にそれほど金に対する執着はなかった。そんなことでぐだぐだと時間を浪費するくらいなら、財産などくれてやるからさっさと自分を自由にしてほしかった。
明里ももう若くはない。新しい人生を歩むための時間は、少しでも長くほしい。
望めるなら。新しい、家族だって。
ホテルの部屋の窓辺で、明里はそっと胎に手を当てた。
――子ども? 俺たちにはまだ早いんじゃないかな。
妊娠を告げた時。忠は喜んでくれると思っていた。恋人だった頃には、子どもは好きだと言っていたし、結婚後は女の子と男の子、両方が欲しいなどと話していたから。
けれど、結婚後。夫婦なのだからもう必要ないと言って避妊をしなかったのは忠の方なのに、いざ妊娠すると、今の自分の給与では養えないだのなんだのと理由をつけて、結局中絶することになった。
明里は深く傷ついたが、その時はまだ忠に気持ちも残っていたので、子どもの養育環境を考えてのことだと自分を納得させて中絶した。
しかし長く結婚生活を続けてわかった。忠は子どもなど望んでいなかった。
何故なら、忠自身が子どもだったから。いつも自分が一番でなければ気が済まない。明里が自分以外のことに時間を割くのが許せない。いつでも自分を優先してほしい。だから、自分より構われる子どもなど、邪魔なだけだった。
今にして思えば、それが全ての始まりだった。
中絶後、明里は暫くの間性行為を拒み続けていた。とてもそんな気分にはなれなかったからだ。半ば無理やり行為に及ばれたこともあったが、その時の明里の反応が気に食わなかったのだろう。忠は、明里を求めることをしなくなった。そのことに明里は、どこかほっとしていた。そして寂しさを感じない自分が、寂しかった。
忠は明里の代わりに、他の女を求めた。
夫の不倫に気づいた時、世の妻と同じように、明里も勿論ショックを受けた。それでも、「やっぱり」という気持ちの方が強かった。自分がもう、女として見られていないことに、薄々気づいていたからだ。それを言及する気にもなれなかった。不倫を止めたからといって、その分自分を求めてほしいとは思えなかったから。
その後、明里はパートを始めた。忠が他の女に時間を割いているのに、自分ばかりが忠のためだけに時間を使うことに嫌気がさしたのかもしれない。せめてもの抵抗だった。
忠は結婚当初、明里を束縛したいがために専業主婦になることを命じていた。だから明里は正社員の仕事を辞めて、家事に専念していた。けれど、数年が経過すれば、忠の明里に対する執着も薄れていた。パートを始めることに異論はなかった。むしろ、外の世界と接することで、中絶のことを思い出さなくて良いのではないか、と勧められた。明里が外に興味を向けることは、忠にとっても都合が良かったのだろう。
明里は外に働きに出るようになっても、家事に手を抜くことは何一つ許されなかった。だから、毎日の疲労は増していった。
こんなに頑張って、いったい何をしているのだろう。どれだけ夫を支えても、その夫は余所の女に貢ぐために働いている。
けれど忠と別れたとして、その先自分はどうすればいいのか。不倫に気づいたといっても、明確な証拠はない。慰謝料は取れるのだろうか。パートの給料で生活していけるのだろうか。この歳でバツイチなんて、再婚のあてもない。そうしたら、子どもは二度と望めない。もしも、もしも忠が改心するようなことがあれば。子どもを持つことも、この先あるのではないか。
そんな僅かな希望だけを胸に、ぎりぎりの精神で日々を送っていた。
霧崎と出会ったのは、そんな頃だった。
「牧野さん。ちょっといいかな」
「はい」
パート先の上司に呼び出されて、明里はオフィスの部屋を出た。
レジ打ちなどの不特定多数と関わる仕事が苦手だった明里は、オフィスワークを探した。派遣が多いので厳しいかと思われたが、運良く中小企業の事務員として働けることになった。
女性のパートは三人。長年勤めているお局が一人、二児の母が一人、そして明里。直属の上司は四十歳ほどになる男性の課長。
課長は明里を資料室に連れて行った。
ドアを開けてくれた課長に御礼を言うと、課長はそのままドアを閉めた。
明里は、嫌だな、と思いながら口に出せなかった。もう若くもないおばさんが、異性と部屋に二人きりにされたくらいで不快感を示すなど、自意識過剰だと言われるのではないかと躊躇った。
上司なのだし、何か内密な話なのかもしれない、と自分を納得させる。
しかし、明里の不安は的中した。
「牧野さんはさぁ、お子さんいないよね」
「ええ、まぁ」
「それって、夫婦仲が良くないの?」
不躾な質問に、明里は顔を顰めた。
「そんなことを答える義務はありません」
「いや、ごめんごめん。子どもが大きくなって、ってパート始める人は多いんだけどさ。専業主婦から、なんでもないのに急に働き始めるって珍しいから。旦那さんとうまくいってないのかなって」
「課長には関係ありません」
「いや、うちもさぁ。もう夫婦仲なんて、すっかり冷え切っちゃってて。お互いどこで何してようがお構いなし。だからさぁ」
課長に手を握られて、指で手の甲を撫でられる。
その手つきにぞっとした。
「お互い、割り切った関係とか、どう?」
恐怖と羞恥で声が出なかった。今すぐ殴ってやりたいのに、握られた手は氷のように動かない。
せめて罵倒してやりたい。けれど、上司にそんなことをして、クビにならないだろうか。やっと見つけた事務職なのに。やっと仕事にも慣れてきたのに。
そんなことをぐるぐると考えていると、黙っていることを肯定と取ったのか、青ざめた明里の顔が見えていない課長は更にその手を明里の腰元へ伸ばした。
「――失礼」
割って入った声は、低く冷たかった。
誰もいないと思っていた二人は、驚いて声の主を見た。
「な、君、い、いつから!?」
「最初からいましたよ。ここは資料室なんですから、誰がいてもおかしくはないでしょう」
「そ、それはそうだが……君、うちの社員じゃないな?」
「顧問弁護士の顔くらい覚えておいたらどうですか」
「顧問弁護士!?」
来客用の来館証を下げたその男性は、名刺を取り出して課長に差し出した。
「御社の顧問弁護士、霧崎です」
「あ、ああ……」
「ところで。一部始終を聞いておりましたが、上司が部下にする発言としては不適切なものが含まれていたように思いますが」
「あ……! あれは、コミュニケーションの一種で……な、なぁ!?」
課長に振られて、明里は肩を揺らした。
課長のぎらついた目に、言えばどうなるか、という恐怖が喉を詰まらせる。
そんな明里に、霧崎がゆっくり視線を合わせる。
「本当ですか」
「あ……」
「セクハラは被害者の訴えがなければ無効です。あなたの意志表示がなければ、これは無かったことになります」
「セ、セクハラだなんてとんでもない! 弁護士だかなんだか知らないが、この程度のことで口出しされる謂れは」
「あなたには聞いていません。彼女に聞いています」
じろりと睨まれて、課長が口を噤む。霧崎は体格が良く強面だったので、弁護士という肩書を抜きにしても、中肉中背の課長からしたら威圧感があり怖いのだろう。
明里も、初対面の弁護士が僅かばかり怖かった。その表情は優しくも柔らかくもなかった。けれど、目が。
「私は、セクハラだと感じました」
震える声で言いながら、ぎゅっと手でスカートを握りしめる。
「立場の差を利用して、関係を迫るような発言は恐怖でしかありません。二度と私に関わらないでください」
――その目が、大丈夫だと言っている。
セクハラだと言い切られた課長は声を荒げようとしたが、霧崎がそれを制した。
「お聞きの通り、被害者の証言も取れましたので、あなたの処分は追って通達があるでしょう。では」
「ま、待て! そんな勝手なことが」
「行きますよ、牧野さん」
促されて、明里は半ば呆然としながら資料室を出た。後ろから課長が何か言っているようだったが、耳に入らなかった。ただ黙って歩く広い背中だけを見て、明里は小走りで付いていった。
「大丈夫ですか」
小さな休憩スペースにつくと、ようやく霧崎が口を開いた。それにはっとして、明里は慌てて頭を下げた。
「た、助けていただいてありがとうございました!」
「いえ、仕事ですから」
淡々と言われて、明里は何故だか少しだけ気落ちした。そんなことはわかっていたはずなのに、どんな言葉を期待したのか。
「先ほどの会話は録音してあります。詳しい調査はこれからになりますが、最低でもあなたと部署が離れるように配慮しましょう。報復行為があるかもしれませんから」
「報復……」
不穏な言葉に顔が青くなる。霧崎は気遣う気配を見せたが、そのまま言葉を続けた。
「他にも証言が取れて、被害者が複数存在し、かつ悪質だと判断されたら懲戒処分も可能ですが。今回の件のみでは、厳重注意と、できて異動までかもしれません。継続性があればまた別ですが……会話からすると、あれが初回ですよね?」
「……はい」
明里は暗い顔で俯いた。あの場での危機は脱したが、明里の感じた恐怖に見合う制裁はあの男には与えられないのだ。
異動というのだって、課長が異動になるのではなくて、明里の方が異動になるのかもしれない。やっと仕事に慣れてきたところだったのに。
それでも、会社からすれば、パートの方がどうとだってできるのは当然だ。
「男の人って、いいですね」
脈絡がないと思える明里の発言に、霧崎は戸惑うように眉を上げた。
「あんな風に人を踏みつけにして、ちょっと怒られたら、それで済むんですね。学校みたい」
先生に怒られて、喧嘩両成敗で、はい仲直り。我慢するのはいつだって被害者の方だけ。
向こうはそれで済むことを知っている。許されることが織り込み済みなのだ。
「セクハラしても、知らなかったとか、からかっただけとか。不倫しても、男の甲斐性とか、満足させない妻が悪いとか。なんでそんな、子どもみたいな言い訳、するんでしょうね。それが通っちゃうんでしょうね。こっちばっかり、仕事辞めさせられたらどうしようとか、生活費渡されなかったらどうしようとか、いつも立場が弱くって。逆らえないことばっかり」
黙っている霧崎は、女は話が飛んでばかり、とでも思っているだろうか。
霧崎に不倫のことを零しても仕方ないとわかってはいるが、課長のセクハラで、明里は忠のことを思い出していた。
どうせ明里が逆らえないと知っている。離婚なんかしたら生きていけないことを知っている。
いつも有利な立場から、人をコントロールして。生殺与奪を握っている。
でもそんな弱音を吐けば、世間は握らせた方が悪いという。
悔しくて、明里は涙を零しながらも、嗚咽は漏らさぬようにと唇を噛みしめた。
「……どうぞ」
差し出されたハンカチを明里は黙って受け取った。自分のハンカチは持っていたが、こんな状況でも相手に恥をかかせるまいと働いた頭が滑稽だった。
霧崎はそれきり、ただ黙って明里の前に立っていた。
肩を抱くことも、頭を撫でることもしなかった。セクハラになるから当然だろう。
けれど、慰めの言葉一つかけないとは。
今まで出会った男性で、泣いている女にこんな態度を取る人は初めてだった。大抵は機嫌を取ろうとするか、興味がなければ放置するか。
けれど、言い訳もせず、慰めもせず、立ち去りもせず、本当にただそこにいるだけの男が。
今まで出会った男性の中で、最も誠実だと思った。
暫く静かに泣き続けて、明里が落ち着きを見せ始めると、霧崎は名刺を取り出した。
「これを」
「ええと……?」
「社内で話しにくいことがあれば、いつでもご連絡下さい。或いは、別件でも」
別件。つまり、セクハラの件以外でも、相談にのってくれるということだろうか。
「わたくしの専門は企業案件ですが、家庭問題に強い者を紹介することもできますので」
どきりと、明里の心臓が鳴った。不倫と零してしまったから、慰謝料や離婚の相談をしたいと思われているのかもしれない。
正直、まだそこまで踏み切れてはいない。夫婦間のことは夫婦で解決できたら理想だとは思う。けれどこの名刺は、御守として持っておくのもいいかもしれない。
「……ありがとうございます」
名刺を受け取ると、霧崎は次の仕事があると言って、足早にその場を立ち去った。
もしかして、次の予定が詰まっているのに、明里が泣き止むまで付いていてくれたのだろうか。そう思えば、自然と頬が緩んだ。
「……あ、ハンカチ」
返しそびれてしまった。
汚れたまま返すわけにもいかないし、洗って返さなくては。何か御礼の品の一つでも付けた方がいいだろう。何がいいだろうか。
そんなことを考えながら、明里は自分の心が久しぶりに浮かれているのを感じていた。
「ねぇ、忠。もし、私がパート辞めるって言ったらどうする?」
「はぁ?」
夕食をとりながら明里が話を振ると、忠は不機嫌そうに声を上げた。
「何だそれ。お前がやりたいって言ったんじゃん」
「うん、そうなんだけどね。ちょっと、居辛くなるかもしれなくて」
「なんかやらかした?」
平然と聞く忠に、何故この人の思考はこうなのだろう、と溜息が出る。普通に何かあったのかと聞けないのだろうか。
「上司がね、男の人なんだけど。ちょっと……セクハラ? みたいなの、されちゃって」
冗談めかして笑ってみせる。それに忠は思い切り顔を顰めた。
「そんなの気のせいじゃない? 二十歳そこらの新入社員ならまだしも、その歳で自意識過剰だって」
ずきりと、胸の奥が刺されたように痛んだ。
こういう回答がくるって、わかっていたはずなのに。
「そもそも、そんくらい受け流すのが社会人だろ。パートだからって仕事なめてんじゃないの? ま、専業主婦だったし無理ないか。いいよなー女は。ちょっと嫌なことがあったら、旦那の稼ぎをアテにして辞めちまえるんだから」
「……忠が、専業主婦になれって言ったんじゃない」
言い返した明里にむっとして、忠は乱暴に食器の音を立てた。
「そりゃ結婚したんだから、夫の世話するのが最優先に決まってるだろ。お前は要領悪くて仕事と両立なんかできっこないから、専業主婦で許してやったんじゃないか」
「ならパートを辞めることも許してくれればいいじゃない。どうして今になって駄目なの?」
「お前もいい加減、主婦の仕事に慣れただろ。家事ごときで一日終わるわけないんだし、暇してるくらいなら少しは家計を助けろよ」
だったらその家事ごときを、一度でいいから私と同じレベルでやってみせてよ。
そう言いたくなったのをぐっと堪えて、なるべく穏便な言葉を選ぶ。
「だから、パートを始めたじゃない。いずれ子どもができた時のために、少しでも貯めておこうって。でも、働きながら忠の要求するレベルで家事をこなすのはしんどいの。二人とも働くなら、少しでいいから手伝ってもらると助かるんだけど」
「働きたいって言い出したのお前だろ。やりたいことやらしてやってんのに、何でその負担を俺が背負わないといけないんだよ」
「忠が自分の稼ぎだけじゃ子どもは無理って言ったからでしょ。仕事もして、家事もして、育児も私だけがするの? 忠は子どもができても、全部私にやらせる気なの!?」
子どものことを持ち出した明里に、忠は一層不機嫌になり席を立った。
「母親なんだったら、全部できて当然だろ。それができないと思うなら、お前は母親になる資格なんかない」
言い捨てて、忠はダイニングを出て行った。ドアが強く閉まる音がしたので、自室に籠もったのだろう。都合が悪くなるとすぐ逃げる。
もう駄目だ。忠と話し合いで解決することは不可能に近い。それでも、明里は少しだけすっきりしていた。心臓がうるさく音を立てているが、嫌な感じではなかった。ついに言ってやった、という気持ちがあった。
こんなに強く自分の意見を言ったのは初めてだった。ずっと夫に従順な妻を演じ続けてきたから。
自分の意見はどうせ全部潰される。だったら黙って従った方が傷つかない。
それ以外に生きる術がなかった。忠に捨てられたら、自分の未来は真っ暗なのだと思っていた。
そんなことはないと。ほんの一瞬でも、思えたから。
明里は御守りを取り出して、スマホのキーパッドを一つずつ押す。
「――もしもし。ご相談が、あるのですが」
「お待たせいたしました」
「霧崎さん」
自宅からも会社からも離れたカフェで、待ち合わせに現れた霧崎に、明里は笑顔を向けた。
「こんなところまで呼び出してしまって、すみません」
「いえ。事務所は牧野さんの会社から近いですから、来づらいでしょう」
「お気遣いありがとうございます」
向かいの席についた霧崎は、アイスコーヒーを頼んだ。それに合わせて、明里もホットのカフェオレを頼む。
「あの、まずは忘れない内に」
明里はテーブルの上に、綺麗にアイロンがけをして包んだハンカチと、小さなナッツの詰め合わせを置いた。
「先日は、大変お世話になりました。お借りしていたハンカチと、ささやかですが御礼に。甘いものはお好きかわからなかったので、お菓子じゃなくておつまみにしたんですけど……あ、アレルギーとか大丈夫ですか?」
「いえ、特には。ですが、わざわざ御礼をいただくほどのことでは」
「ご迷惑でなければ、貰ってください。その方が私の気持ちも晴れますので」
「……では、いただきます。ありがとうございます」
にこりともしない生真面目な様子に、明里は苦笑した。こんな風で弁護士としての営業は大丈夫なのだろうかと思ったが、霧崎は企業専門とのことだったから、愛想は必要ないのだろう。むしろこの威圧感が、頼もしさを演出しているのかもしれない。
頼んでいたドリンクが運ばれてきて、テーブルに並べられる。明里が店員に会釈をして正面を見ると、霧崎も同じように会釈をしていた。それを見て、明里は無意識に目を細めた。忠だったら、絶対にそんなことはしない。
自分を見る明里の視線に気づいた霧崎が、不思議そうに目を瞬かせた。それがなんだか可愛らしく思えてますます笑ってしまいそうだったが、馬鹿にしていると取られたら失礼すぎるので頬の内側を噛んで耐えた。
「課長の件、どうなりましたか?」
相談と言って呼び出したからには、まずは仕事の話をしなければなるまい。霧崎の担当でもある、今日の本題を切り出す。相手の時間を使ってもらっているのだから、無駄話で引き延ばすわけにはいかない。先に目的を済ませてしまえば、その後の無駄話に付き合うかどうかは霧崎の自由だ。嫌なら帰ってしまえる。
正社員の頃によくあった。仕事を口実に人を呼び出して、途中で帰れない状況を作り出してから、いつまでも本題に入らず話に付き合わせようとする男達。あれが心底嫌いだったので、仕事の延長線上にある人との関係は特に気を遣う。仕事以外で全く関わらないように、とまで断ち切ってしまうと交流が持てなくなってしまうが、仕事を質に取るようなやり方は吐き気がする。ああはなるまい、と思うものの、人間自分のことになれば目が曇るものだ。霧崎はその辺りはっきり口にしそうではあるが、迷惑そうな素振りがあればすぐに気づけるように、と気を張った。
「浅見課長ですが、余罪がありました」
「えっ」
「詳しいことはまだ調査中ですが、別の女性社員も、誰かが訴えたという話を聞いて告発することにしたようです。やはり女性の場合は連帯感が強いですね。一人だと泣き寝入りしがちですが、複数人まとまれば話しやすいようで」
「そう……ですか……」
「プライバシーがありますので、あなたの名は出ていません。ただ、望むなら被害者同士で情報を共有いただいても構いません」
ほっと肩の力が抜けた。せっかく勇気を出して意思表示をしたのに、意味のないことになったらどうしようかと、実は不安だった。
「あなたのおかげですよ」
「え?」
「一人だと泣き寝入りしがちだと、言ったでしょう。最初の一人が声を上げないと、誰も続けない。あの手の輩はだいたい繰り返しますから、叩けば埃が出るものなんです。けれど被害者の訴えがなければ、動きようがない。あなたがあの時勇気を出したから、他の被害者も、これから出たかもしれない被害者も救われたんです」
明里はぎゅっと拳を握りしめて俯いた。そうでないと、泣いてしまいそうだった。
自分のしたことが、誰かのためになったと。嬉しくて。
いつも家の事ばかりで、褒められることも、役に立ったと思えることもなくて。
そんな自分が、胸を張れる出来事が、一つできた。
明里の涙は喜びであったが、俯いた明里をどう取ったのか、霧崎が僅かに狼狽えた。
「すみません、救われたなどと。まだ何も解決してはいないのに」
「いえ……いいえ」
「あの時も……立場上、不確かなことは言えませんから。その時に判明している事実から、お伝えするしかなくて、あのような言い方に。今思えば、配慮に欠けていました。申し訳ありません」
「謝らないでください。霧崎さんのおかげで、私、救われたんです。本当に。だから……ありがとうございます」
深々と頭を下げた明里に、霧崎は少し口ごもって、「仕事ですから」と答えた。
誠実な霧崎の人柄に、明里はどんどん惹かれていった。正義感の強い霧崎もまた、明里がされた仕打ちに同情し、それでも前を向こうとする彼女を好ましく思った。
相談と称して逢瀬を重ねる内に、二人の気持ちが通じ合うのに時間はかからなかった。
ただし、恋人らしいことは何一つしなかった。これは霧崎の方から言い出したことだった。
最初から離婚の相談をしていたので、明里が忠と別れるつもりであることは承知している。それでも現在は婚姻関係であるのだから、裁判になった時のことを考えて、不利になることはしない方がいい。
「それに、あなたに触れる時は、罪悪感なく堂々と触れたい」
そう言った霧崎に、明里は自分の心をこんなにも理解してもらえるものかと泣きそうになった。
いくら別れるつもりだと言っても、やはり忠は夫なのだ。夫がいる限り、明里は霧崎に触れてもらえたとしても、心の何処かでずっと罪悪感を抱え続けることになるだろう。
忠を愛していた時は、尽くす愛だった。捧げることで相手が喜ぶことを愛だと思っていた。他人同士が完璧に理解し合うことなどできないのだから、妻の方が夫に合わせるのが自然なことだと思い込んでいた。思い込まされていた。
そんなことをしなくても、こんな風に、考え方がかっちりとはまる人がいるなんて、想像もしなかった。
この人と生きていきたいと、初めて強く思った。
霧崎と会う時はいつも開けた人目のある場所で、万が一探偵などを雇われて写真を取られても、問題がない範囲でしか行動しなかった。
それでも、目が。
目を合わせるだけで、自分を好きだと言っていることがわかる。視線の温度だけで、想いを交わせる。
そんな体験は初めてだった。キスもセックスもしないのに、全く不安はなかった。
この人は自分を愛している。お互いの気持ちが通じている幸福感が常にあった。
だから明里も、冷静に忠への対処を考えられた。
未来に不安はない。忠と別れても、自分は生きていける。
明里はなんとか不倫の証拠を掴もうとした。探偵を雇えば金がかかる。最終手段としては選択肢に含めるが、離婚後のために、できるだけ温存しておきたい。
それに、忠の性格を考えれば、探偵を雇うという行為が相当癇に障るだろう。より離婚を渋る原因になりかねない。
そうして模索し続けて、考えついたのがオープンマリッジだった。
結果として、時間はかかったものの、これは上手くいった。
だが肝心の離婚については、忠は拒否し続けている。どうしたものか、と明里は溜息を吐いた。
「映画?」
「ああ。気晴らしにどうだ? 明里の好きな監督の新作をやってるだろう」
霧崎からの誘いに、明里は二つ返事で頷いた。こうして自分の好みを覚えていてくれることがとても嬉しい。それは普通のことなのだと霧崎に言われて、いかに自分が忠の洗脳に染まっていたのかを思い知る。
普段よりおしゃれをして、霧崎と二人で街を歩く。手を繋ぐことすらしないが、隣にいるだけで明里は十分に幸せを感じていた。
「あのね、今回の撮影は――」
明里が嬉々として映画の話をしていた時、急に霧崎の雰囲気が張り詰めた。
一歩前に出て明里を庇うように動いた霧崎にどうしたのだろうと思っていると、ふらふらとこちらに向かってくる一人の男がいた。
――忠。
さすがに夫を見間違えたりはしない。幾分かやつれているし、目はぎらぎらと怪しく光っているが、あれは忠だ。家から離れた場所なのに、何故こんなところにいるのか。
明里は怯えて、霧崎の背に隠れるように身を引いた。
「なんだ。お前、人に不倫だのなんだのと言っておきながら、自分だって男といんじゃん。とんだクソビッチだな」
言い返そうと口を開きかけた明里を、霧崎が制する。
「会話する必要はない」
「ってかそいつ、あれじゃん。家に来た弁護士じゃん。あー、そっかそっか。お前らグルか。これだから女はさぁ」
嘲るような忠の言葉に、不快感から顔が歪む。
これは、自分は微塵も悪くないと思っている。反省どころか、明里を逆恨みしているようだ。
「おんなじことしてんのに、俺ばっか、離婚とか、慰謝料とか、不公平じゃん? だからさぁ……お前もちょっとは、痛い目見ろよ」
明里に向かって真っ直ぐ走ってきた忠の手元が、キラリと光った。
それが刃物だとわかった明里は、全身の血の気が引いた。しかし、足は動かない。
恐怖に立ち竦んでいると、迫ってきた忠の体が、宙を舞った。
「いってぇ!! 放せ、放せよぉ!!」
わあわあと喚く忠の声にはっと正気を取り戻すと、霧崎が忠を取り押さえているところだった。
「つくづくクズだな、お前は。だがちょうどいい」
霧崎は膝で忠を押さえつけたまま、離婚届を取り出した。
「書け」
「っはぁ!? この状況で脅迫とか、ふざけんな」
「この状況だからだ。片や刃物を持って襲いかかってきた暴漢。片や通りすがりの一般人。肩の一つくらい砕いても……正当防衛で通るだろうな」
霧崎が忠の腕を捻りあげると、忠が悲鳴を上げた。温度のない瞳に、本気を感じ取ったのだろう。忠は慌てて離婚届に記入をした。
「か、書いた、書いたよ! これでいいんだろ! 放せよ!」
「いいぞ。警察も来たようだしな」
通行人が通報していたようで、制服を着た警官が走ってくるのが見えた。彼らに忠を引き渡すと、警官の一人が霧崎に敬礼をした。
「霧崎さん! お久しぶりです!」
「敬礼はやめろ」
「はっ、すみません。ついくせで」
苦笑した警官は、霧崎よりいくらか若かった。弁護士だから関わりがあるのだろうか、と首を傾げながら、明里はそれを見ていた。
「お休みのところ申し訳ありませんが、事情聴取にお時間いただいても構いませんでしょうか」
「ああ」
「そちらの彼女さんも」
「えっ? あ、はい! もちろん」
ここで彼女ではない、と否定するのも変な気がして、明里はとりあえず肯定を返した。
警官が離れてから、そっと霧崎に話しかける。
「庇ってくれてありがとう。危ない目に遭わせてしまって、ごめんなさい」
「明里が謝ることじゃない。怪我がなくて良かった」
「それにしても、凄かったわね。武道か何かやってたの?」
「ああ……まぁ、元警察官なんだ。俺は」
ばつが悪そうに頭をかいた霧崎に、明里は目を丸くした。
「警察官!?」
「さっきの奴も、その頃の知り合いで」
「そう……なの……」
いくら弁護士だといっても、企業弁護士である霧崎が刑事事件に多数関わっているとも思えず、不思議に感じていた。まさかそういうことだとは。
「離婚届、無理やり書かせちゃって大丈夫だったの?」
「むしろあのタイミングしかない。拘置所に入ってからじゃ、まず書かせるのが難しくなる。このままだと明里が犯罪者の妻になるしな。事情聴取が終わったら、そのまま離婚届を出しに行こう」
「……ありがとう」
そこまで考えて、あの状況で行動に移してくれたのか。いくら元警察官とはいえ、丸腰で刃物を持った男など、何をするかわからないのに。
「しかしあっさり脅しに屈する小物で助かった」
「え?」
「元警察官、だからな。本当に肩を砕いたら正当防衛にはならない」
明里はぽかんと口を開けた。つまり、あれははったりだったのだ。意外に大胆なことをする。
新たな一面が見られたと、明里はこっそり微笑むのだった。
事情聴取を終えた後、明里は時間外受付をしている窓口へ離婚届を出しに行った。
婚姻届を出した時は二人だったのに、自分一人で、こんな紙切れ一枚で関係を終わらせることができるなんて。結婚とは、いったい何なのだろう。
「お待たせ。終わったわ」
力なく微笑んだ明里に、霧崎は一瞬手を伸ばしかけて、そのまま下ろした。
「お疲れ様。……よく、頑張ったな」
「――うん」
泣き出してしまいそうだったが、それが悲しみからなのか、安堵からなのかはわからなかった。
「今日は疲れただろう。ホテルに戻ってゆっくり休むといい。これからのことは、また明日考えよう」
「もう帰るの?」
反射的に返してしまってから、明里は俯いた。霧崎は明里を気遣ってくれたのに、自分ばかり性急に。欲求不満みたいだ、と恥ずかしくて顔を上げられなかった。
霧崎は驚いたように息を呑んで、口元を手で覆った。彼が照れている時の仕草だった。
「その、さすがに今日すぐに、というのは、些か」
「そうよね、ごめんなさい。私ったら、恥ずかしいことを」
「ああいや、そうではなく。俺の方が……がっついてしまいそうで」
意外な言葉に、明里は目を瞬かせた。いくら裁判で不利になるからといっても、全然触れてこないものだから、性欲は薄い方なのだと思っていた。
先ほど触れようとして止めた手。あれが、もし。そういうことなら。
「私は……それでも、構わないのだけど」
勇気を出して言葉にすると、目を丸くした霧崎が、明里の手を引いた。
「えっ?」
そのまま通りに出て、タクシーを拾う。霧崎が明里の宿泊するホテルを告げて、タクシーが走り出した。
二人は終始無言だった。ただ、握られた手が、やけに熱かった。
ホテルにつくと、霧崎はフロントでダブルの部屋を取った。明里の部屋はシングルで連泊しているので、霧崎を連れては入れない。幸い空きがあったようで、キーを受け取って、二人は部屋に向かった。
明里は心臓がうるさいくらいに音を立てているのを自覚していた。別に処女ということもないのに、初めてのような期待と緊張があった。
ドアを開けて部屋に入ると、自然に閉まる時間すら惜しいというように霧崎が強くドアを押して閉めた。後ろからついていく形だった明里が、ドアと霧崎に挟まれる。
明里が声を上げる間もなく、霧崎は明里を強く抱きしめた。
「明里……っ」
切羽詰まったような声で頭まで抱え込まれて、明里はやっと、この人の腕の中に収まることを許されたのだと、涙が零れた。
「修司さん……!」
霧崎の名を呼んで、その広い背を抱き返す。
明里の涙を拭った手で頬を包んで、霧崎が明里にキスをする。
随分と長い間していなかった行為に、呼吸の仕方を忘れそうになりながらも、明里は夢中で応えた。
ドア一枚隔てたところは廊下だというのに、部屋の中までの僅かな間も待てなかった。
そのまま貪るようにキスを繰り返して、霧崎の手が明里の服にかかった時、ようやく明里は待ったをかけた。
「待って。さすがにそれは、シャワーを浴びてから」
「待てない」
間髪入れずに返ってきた答えに、腹の奥が疼いた。こんなにも自分を求められるのは、いつぶりだろうか。
「せ、せめてベッドに……ひゃあ!?」
軽々と抱え上げられて、明里が悲鳴を上げる。そのまま広いダブルベッドに横たえられて、覆いかぶさった霧崎と目が合った。
この目が。何度も自分を助けてくれた。
この人の目が好きだ。
そして今、その目は情欲の色に染まっている。それを引き出したのが自分だということに、目眩がした。
もうこのまま溶けて消えてしまっても、幸せだと思った。
霧崎の愛撫は性急だが優しかった。本当にそのまま蕩けてしまいそうだと思っていたところで、霧崎が避妊具を取り出した。
「――あ」
「どうした?」
声を上げた明里に、霧崎が問いかける。明里は言おうか言うまいか迷って、意を決して口にした。
「あのね、私、子どもが欲しいの。だから、できればそのままで」
明里の言葉に、霧崎は呆けているようにも見えた。やってしまった、と明里は唇を震わせた。先走ってしまった。霧崎は恋人になってくれるとは言ったが、その先をどうするかなど、一度も話したことはないのに。
考え込むように眉を寄せた霧崎に、忘れて欲しいと撤回しようとすると。
「半年だけ、待ってくれないか」
「……え?」
予想の斜め上からきた回答に、明里は間抜けな声を漏らした。
「いや、明里の年齢を考えれば、すぐにでも妊娠のために取り組みたい気持ちはわかる。けど、せっかくの新婚期間が殆どないのは少し寂しい。半年だけ、二人きりの時間をくれないか」
ぽかんとしたままの明里に、霧崎が焦った様子を見せる。
「わ、悪い。わがままだろうか」
「……結婚、してくれるの?」
「ん? ああ、子どもが欲しいと言うから、てっきり結婚もするものかと……は、早とちりか!?」
「ううん、そうじゃなくて。恋人になるって話はしてたけど、結婚のことは、言わなかったじゃない。だから、するつもりがあると思わなくて」
「それは……明里は、結婚で辛い思いをしただろう。それなのに、すぐに再婚という気分にはなれないだろうと。だから、明里の傷が癒えるまで待つつもりだった」
「待って、その後は……?」
「勿論、プロポーズするつもりだった」
最初から。この人は、ずっと一緒にいてくれるつもりだった。
そのことがわかって、明里はまた涙を零した。
離れることを怖がっていたのは、自分だけだった。
この人は、明里を裏切ったりはしない。
霧崎は泣きじゃくる明里の頭を撫でて、キスを落とした。
宥めてくれている霧崎が辛そうで、明里ははっとした。
「ご、ごめんなさい、途中で」
「いや……大丈夫か?」
「うん、もう大丈夫だから。今日はこれ……有りで、続きしましょ」
言いながら、明里は避妊具を手に取った。そしてそれを明里の手で霧崎につけてやる。
口でつけるやり方も忠に教わったが、あれはあまり好きではない。それに、霧崎に手慣れているとも思われたくなかった。
手でつけるのも微妙だっただろうか、と顔色を窺ったが、多分喜んでいそうなので良しとした。
薄い膜を一枚挟んで、霧崎と繋がる。
もうすっかり忘れていた女としての機能が、全て目覚めていくようだった。
誰かと繋がるということが、こんなにも温かくて、満たされるものだったとは。しがみつくように握った手を、ずっと離さないでいてくれる。何も言っていないのに、どうして明里の心がわかるのだろう。
離さないで。離れないで。この人を、決して手放したくない。
「……明里」
大好きな目が、自分だけを映している。
今霧崎の世界には、明里だけが存在している。
明里の世界にも、霧崎だけが存在している。
世界に二人きりになっても、生きていける気がした。
「修司さん、愛してる」
キスをせがんだ明里に、霧崎が深く口づける。
「俺も、愛してる」
幸せ過ぎると怖くなる。
忠を騙して手に入れた幸福だ。いつか、しっぺ返しが来るかもしれない。
だとしても、もう諦めたりはしない。泣き寝入りなどしない。
どんな手を使ってでも、この幸福を守り抜いてみせる。
決意と共に、明里は霧崎の首に腕を絡めた。