「イリス。体調はどうだ?」
あちこちに隙間風が吹く簡易な木造の小屋に、黒髪の青年が入っていく。
寝台というのも憚られる、質素な台に古びた布をかけただけの場所で、イリスと呼ばれた白髪の青年は身を起こした。
「ありがとう、アモン。だいぶいいよ」
力なく微笑むその顔はすっかりやつれていて、アモンは顔をしかめた。
「全然良くなってないじゃないか。飯は食べたのか?」
「ああ、うん。君が持ってきてくれたものは、少しずつ」
食料を入れた籠に、ちらりと視線をやる。確かに少し減っているが、きちんと食べたのかどうか。
「なぁ、イリス。やっぱり薬を」
「いいってば。僕には、薬代なんて払えないし」
「だからそれは俺が」
「アモンにそこまで世話になれないよ。……それに、多分、もう薬は効かないから」
イリスの横顔を眺めながら、アモンは拳を握りしめた。
イリスはもう長いこと病床に臥せっている。
まだイリスの父が生きていた頃は、イリスも薬を飲んでいた。しかし病状は良くならず、父は薬代のために必死に働いた。そして命を落とした。母はイリスが生まれた時に亡くなっている。
生きることを諦めかけたイリスを支えたのが、アモンだった。
アモンは他所の国からこの街に来た旅人で、気のいいイリスの父が色々と世話を焼いた。家にも何度も招いており、あまり外に出たことのないイリスは、アモンの愉快な旅の話を楽しそうに聞いていた。
イリスの父が亡くなり、アモンはイリスと共に暮らすと言ったが、イリスがそれを拒んだ。体の弱い自分の世話をするために、アモンの時間が奪われるからと。
結局アモンは街に住んだが、ほとんど毎日のように、イリスの住む海辺の小屋に通っている。
「じゃあ、また来るから」
「――――……アモン」
小屋を出ていこうとしたアモンを、イリスが弱々しい声で呼び止める。
「どうした?」
ふわりと笑って、優しい声でアモンが問いかける。
それにイリスは何度か口を開閉させ、やがて眉を下げて微笑んだ。
「ううん、なんでもない」
「変な奴だな」
軽く笑って、アモンは扉を閉めた。
途端、表情を失くす。
イリスは自分を遠ざけようとしている。おそらく、もう長くないのだ。
自分の世話をさせることを申し訳なく感じているようで、もう何度も「来なくていい」という台詞を飲み込んでいる。
今はまだ、申し訳なさよりも寂しさが勝っている。だからアモンを拒みきれない。
けれど、いよいよとなれば。イリスは、自分を看取らせることをしたがらない。
その内に、本当に会わなくなってしまうだろう。
そうなる前に、手を打たなければ。
海辺を歩きながら、アモンは思案する。
やはり薬を飲ませるべきだろうか。しかし、イリスの父は薬を飲ませていたのに、イリスは良くならなかった。医者がやぶだったのだろうか。腕のいい医者に頼めば、あるいは。だがそれには莫大な金がかかる。貴族の屋敷でも襲おうか。
「――――――♪」
ふと、アモンの耳に歌声が届いた。
女の声だ。大層美しい。
このあたりには滅多に人が来ないのに、と警戒しながら、アモンは身を潜めて声の出処を探った。
そして見つけたものに、アモンは大きく目を見張った。
――人魚。
この海には人魚の伝説がある。その歌声は人々を魅了し、姿を見たものは海に引きずり込まれるという。
しかし、命をかけてでも人魚を求める者がいる。何故か。
人魚の肉には、不老不死の薬効があるという。
――あれを食べさせれば。
人魚の肉ならば。薬の効かなかったイリスにも。
アモンは固唾を呑んだ。
慎重に行動しなければならない。人魚は警戒心の強い生き物だ。
「――――♪」
アモンの口から、小さく、だが心地良い旋律が流れ出す。
人魚は驚いて尾で海面を叩いたが、アモンはゆっくりと姿を見せながら、自分の歌声を人魚の歌声に重ねてみせた。
最初は不審がっていた人魚も、アモンの歌声につられて、また美しい声を響かせる。
浜辺には、男女の美しいハーモニーが流れていた。
「驚いた! あなた、とても歌が上手ね」
「どうも。さすがに人魚には敵わないけどな」
アモンが苦笑しながら肩をすくめると、人魚はくすくすと笑った。
「歌ってきたのなんて、あなたが初めてよ。人間はみんな、私たちを見つけると捕まえようとするもの」
「そうなのか? もったいないな。捕まえたりしたら、その可愛い笑顔は見られないだろうに」
微笑んだアモンに、年若い人魚は顔を赤らめた。
「か、可愛いなんて、初めて言われたわ」
「へえ、人魚の男は見る目がないな」
「……そうなのかしら」
口説かれてそわそわと身を捩る様子は、人間の少女と何ら変わらない。アモンは内心でほくそ笑んだ。
「ねえ、私ヘラっていうの。あなたは?」
「俺はアモン。しがない漁師だよ」
「そうなのね。漁師ってことは、またこの海に来るわよね?」
「ああ」
「なら、もし会えたら、また一緒に歌いましょう!」
「約束はしてくれないのか?」
「それはダメ」
いたずらっぽく笑ったヘラに、アモンは苦笑してみせた。
「また君と会えるのを楽しみにしているよ、ヘラ」
「ええ。また会えるといいわね、アモン!」
手を振って、ヘラは海へ帰っていった。
彼女の姿が見えなくなるまで見送って、アモンはすっと目を伏せた。
やはり人魚は警戒心が強い。気安い口をききながら、全く近づいて来なかった。
次の約束をしなかったのも、仲間を引き連れて捕らえられる可能性を危惧したのだろう。
それなりに知恵は回るようだ。
しかし、小娘の浅知恵など。
「――三日、かな」
三日もあれば。あの程度、懐柔できる。
アモンは凶悪な顔で唇を吊り上げた。
★
「アモン、なんか機嫌いいね」
「そうか?」
鼻歌でも歌い出しそうな顔で、アモンはイリスの寝台の布を取り替えた。
果たして、あの人魚は来た。翌日に。まるで初めての恋人でも待つかのように髪を気にしてそわそわと落ち着かない様子に、遠目から見ていたアモンは笑い出しそうだった。ちょろいにもほどがある。
髪を褒めてみたら、軽く触れることに成功した。焦ってそこで欲を出してはならない。触れても平気な相手だと、信じ込ませてからだ。
ヘラの警戒心は、目に見えて薄れていた。あれなら近い内に、人魚の肉は手に入るだろう。
「何か、楽しいことあった?」
「ちょっとな」
「そう……」
「……イリス?」
落ち込んだように顔を伏せたイリスに、アモンは手を止めた。屈み込んで下から窺うように顔を覗き込む。
「どうした?」
「ううん、何でもないよ。アモンが楽しそうで嬉しい」
弱々しく笑うイリスにアモンが眉をひそめると、イリスは視線を落とした。
「嘘じゃないよ、本当だ。アモンが嬉しいなら、僕も嬉しい。だから、何か楽しみがあるなら、僕には構わずそっちに時間を使って。その方が僕も嬉しい」
苦しそうに微笑んだイリスにアモンは目を見開いて、それからイリスをそっと抱き締めた。
「バカだなぁイリスは」
「アモン……?」
「俺にとっては、いつだってイリスが一番だよ。イリスより優先することなんてない」
「でも……」
「俺がイリスに嘘ついたことなんてあったか?」
「……あるよ。例えば、ラズベリーパイの中身を海藻のジャムに入れ替えたこととか」
「あっはっは! そういえばそうだった!」
懐かしい思い出に声を上げて笑ったアモンに、イリスもほっとしたように息を吐いて笑った。
そのまま二人は、暫くの間思い出話に花を咲かせた。
★
「ねえ、アモンは恋人っているのかしら」
三日目の逢瀬。
もじもじと顔を赤らめながら尋ねるヘラに、アモンは内心で「きた」と思った。
勝利は目前だ。駄目だ、焦ってはならない。最後の詰めこそ、慎重に。
「残念ながら」
「まあ、人間の女も見る目がないのね」
うっとりとした顔で、ヘラはアモンを見つめた。
アモンは自分の容姿を自覚している。恋人がいないのは事実だが、多くの娘たちが彼に懸想していることなど、ヘラは知るはずもない。
「ヘラのような可愛い人が側にいてくれたら、毎日楽しいだろうな」
歯の浮くような台詞を吐いて、彼女の濡れた髪に指を絡ませる。ヘラが身を寄せて、アモンの首に腕を回した。
「私も、アモンみたいな素敵な人と過ごせたら、どんなに楽しいだろうと思うわ。会える時間は限られるけれど、恋は障害がある方が燃えるというもの。悪くないわ」
「……なら、俺は君に恋しても許される?」
「……ええ」
蕩けた顔で、ヘラがそっと目を閉じた。
アモンはヘラの腰を抱き寄せて、その唇を塞ぐ。ヘラがキスに酔いしれている内に、後ろ頭に手を回すようにして、そのまま――隠し持っていたナイフを、項に突き刺した。
「っんん!?」
苦痛の声を上げたヘラが体を震わせた。それを押さえ込むように、項から背中へ、まるで解体でもするかのように、真っ直ぐ切り込みを入れていく。
「うぎ……いぃ……ッ」
喉から絞り出すような音だけを零し、ヘラは最後の抵抗とばかりにアモンの唇を噛み切った。
そしてそのまま力尽き、絶命した。
血で染まった海を見ながら、アモンはぺろりと舌で自らの血を舐めた。
★
「イリス、今日はいい魚が手に入った」
上機嫌にそう言ったアモンは、そのままイリスの小屋の厨で夕食を作った。
寝台に横たわるイリスに、湯気のたつ皿を差し出す。
「温かいスープにしてみた。これなら口にしやすいだろう?」
「ああ……ありがとう、アモン。美味しそう」
熱いから、とアモンは匙ですくったスープを何度か吹き冷まして、イリスの口元へ運んだ。
アモンの期待の視線に気づかず、無垢なイリスは疑いもなくそれを口にする。
柔らかな魚の肉は口の中であっという間にほどけて、嚥下され、イリスの腹の中に落ちた。
「うん、すごく美味しい。これ、なんの魚なの?」
無邪気に問いかけたイリスに、アモンは微笑みだけを返した。
「……アモン?」
さすがに不思議に思ったイリスは疑問の声を上げたが、アモンは答えない。イリスが首を傾げていると、急に体の内側が熱くなった。
「――――!?」
熱い。燃えるように熱い。しかし不快ではない。
その感覚に戸惑っていると、やがて熱は引いていった。
残った熱を吐き出すように深く呼吸をすると、イリスはその呼吸が随分と楽にできることに気づいた。
息が苦しくない。体のどこにも痛みがない。頭がすっきりとしている。
「どうして……」
呆然と零したイリスの手を、アモンが握った。
「ああ、良かった。ちゃんと効いたんだな」
「アモン……どういう、こと? いったい、何を食べさせたの?」
不安に揺れるイリスの瞳を見つめて、アモンは穏やかに言った。
「人魚の肉だ」
「に……ん、ぎょ?」
イリスはただ言葉を繰り返した。すぐには意味が飲み込めなかった。にんぎょ、とは何だったろう。
にんぎょ。人魚。人魚の肉。
――不老不死の秘薬。
その意味に思い当たった時、ぞっとした。
先程まですっかり健康な顔色をしていたのに、イリスの顔が白く染まる。
「イリス? どうした、また具合が悪くなったか?」
「なんで……そんな、もの」
「普通の薬じゃ、良くならなかっただろう。だから、人魚の肉なら、イリスの体も治るんじゃないかと思って」
「そんな……!」
イリスは愕然とした。治るどころではない。不老不死など。
イリスは病気が治癒した喜びなど微塵も感じていなかった。ただ唐突に永遠の命を得てしまったことへの恐怖があった。
父も母も死に、家族は誰もいないのに。この先、どうして一人きりで生きられよう。
しかしイリスのために人魚の肉を手に入れてくれたアモンに、その悲しみをそのままぶつけることは憚られた。
並大抵の苦労ではなかっただろう。彼の心遣いを踏みつけにすることは、イリスにはできなかった。
「……ありがとう、アモン。君が僕のことを思ってしてくれたことには、感謝している。けれど、ごめん。素直に喜んでみせることは……できない」
「……どうして? 体が治って、嬉しくないのか?」
「嬉しいよ。健康な体は、嬉しい。だけど、この先この体で、僕は誰と生きていけばいい。老いることも死ぬこともない男に、誰が寄り添ってくれる。孤独は病より辛いことだよ、アモン」
苦しそうに涙を浮かべたイリスに、アモンも苦しさを分けられたように顔を歪めた。
「すまない、イリス。俺はただ、君が元気になってくれたらと、そればかりで」
「いいんだ、それはわかっている。君は悪くない。ただ、僕には……まだ、未来を受け入れるのに時間がかかる」
「……イリス。俺は、どうしたらいい?」
ぎゅっと手を握り直して、アモンがイリスを見つめる。
許しを請うように、切実な声で尋ねる。
「俺は君に何ができる? してしまったことは、取り消せない。だから、今からでも俺がイリスのためにできることを、教えてくれないか。君のためならなんでもする。その覚悟で人魚の肉も手に入れたんだ」
「……だったら」
震える声で、イリスが呟いた。
「アモンも、人魚の肉を、食べてくれないか」
アモンの瞳が、大きく見開かれた。
それを辛そうに見ながら、それでもイリスは言葉を止めなかった。
「僕だけが、この先の永遠を生きるのはあまりにも辛すぎる。だから、アモンも、僕と一緒に生きてくれないか。永遠の間、決して側を離れないと、約束してくれ」
「……イリス……」
「ごめん。こんな、責任を問うような言い方。だけど君しかいない。僕には、君しか、いないんだ。お願いだアモン、僕を一人にしないで」
縋るように握った手を額に当てたイリスに、アモンは微笑んだ。
「バカだな、イリスは」
そして匙でスープをすくうと、ためらいなく自身の口に運び、そのまま飲み込んだ。
「ほら、これで一緒だ」
宥めるように抱き締めたアモンに、イリスは泣きじゃくった。
「ごめん、ごめんアモン……!」
「なんで謝るんだ。全部俺が決めて、俺が自分の意思でしたことだ。イリスは何も悪くない」
「せめてこの先、僕は君のために生きる。約束する……!」
「大袈裟だな」
軽く笑いながらイリスの背を叩いて、アモンのきれいな唇は優しい笑みを象った。
そう。イリスは何も悪くない。イリスにはなんの責任もない。
アモンは、元々不老不死である。
イリスの父に拾われた時から変わらぬ姿。けれど、アモンの外見は既に成人しており、数年程度なら変化がなくても気にならなかったのだろう。加えて、病に罹っていたイリスは視力が弱かった。
不老であるが故に一処に留まれないアモンは、旅をするしかなかった。けれど、イリスの優しさに触れて、アモンはイリスのことが欲しいと思っていた。
いつか彼と同じ時を生きたいと思っていた。そのためには、自分が短命になろうと、彼が不死になろうと、どちらでも良かった。
そこに人魚が現れた。これはアモンにとって好機だった。
人魚の肉を喰わせれば、イリスは自分と同じ時を生きてくれる。
それにはイリスの意思が何より重要だった。無理やり側に置いても、彼自身の意思が伴わなければ離れていってしまう。それでは意味がない。
だから、彼の病を利用した。
あくまでイリスの病を治すために。健気な友人を装って。
そして共に生きることは、イリスの方から望むように。
人魚の肉など食べなくとも、アモンは不老不死だ。けれど、イリスはアモンを道連れにしたと一生思い続けるだろう。
罪の意識がある限り。イリスはアモンの側を離れられない。
何もかもを手に入れた。アモンの強欲さに気づくものがいたならば、きっと彼を真実の名で呼んだだろう。
悪魔、と。
あちこちに隙間風が吹く簡易な木造の小屋に、黒髪の青年が入っていく。
寝台というのも憚られる、質素な台に古びた布をかけただけの場所で、イリスと呼ばれた白髪の青年は身を起こした。
「ありがとう、アモン。だいぶいいよ」
力なく微笑むその顔はすっかりやつれていて、アモンは顔をしかめた。
「全然良くなってないじゃないか。飯は食べたのか?」
「ああ、うん。君が持ってきてくれたものは、少しずつ」
食料を入れた籠に、ちらりと視線をやる。確かに少し減っているが、きちんと食べたのかどうか。
「なぁ、イリス。やっぱり薬を」
「いいってば。僕には、薬代なんて払えないし」
「だからそれは俺が」
「アモンにそこまで世話になれないよ。……それに、多分、もう薬は効かないから」
イリスの横顔を眺めながら、アモンは拳を握りしめた。
イリスはもう長いこと病床に臥せっている。
まだイリスの父が生きていた頃は、イリスも薬を飲んでいた。しかし病状は良くならず、父は薬代のために必死に働いた。そして命を落とした。母はイリスが生まれた時に亡くなっている。
生きることを諦めかけたイリスを支えたのが、アモンだった。
アモンは他所の国からこの街に来た旅人で、気のいいイリスの父が色々と世話を焼いた。家にも何度も招いており、あまり外に出たことのないイリスは、アモンの愉快な旅の話を楽しそうに聞いていた。
イリスの父が亡くなり、アモンはイリスと共に暮らすと言ったが、イリスがそれを拒んだ。体の弱い自分の世話をするために、アモンの時間が奪われるからと。
結局アモンは街に住んだが、ほとんど毎日のように、イリスの住む海辺の小屋に通っている。
「じゃあ、また来るから」
「――――……アモン」
小屋を出ていこうとしたアモンを、イリスが弱々しい声で呼び止める。
「どうした?」
ふわりと笑って、優しい声でアモンが問いかける。
それにイリスは何度か口を開閉させ、やがて眉を下げて微笑んだ。
「ううん、なんでもない」
「変な奴だな」
軽く笑って、アモンは扉を閉めた。
途端、表情を失くす。
イリスは自分を遠ざけようとしている。おそらく、もう長くないのだ。
自分の世話をさせることを申し訳なく感じているようで、もう何度も「来なくていい」という台詞を飲み込んでいる。
今はまだ、申し訳なさよりも寂しさが勝っている。だからアモンを拒みきれない。
けれど、いよいよとなれば。イリスは、自分を看取らせることをしたがらない。
その内に、本当に会わなくなってしまうだろう。
そうなる前に、手を打たなければ。
海辺を歩きながら、アモンは思案する。
やはり薬を飲ませるべきだろうか。しかし、イリスの父は薬を飲ませていたのに、イリスは良くならなかった。医者がやぶだったのだろうか。腕のいい医者に頼めば、あるいは。だがそれには莫大な金がかかる。貴族の屋敷でも襲おうか。
「――――――♪」
ふと、アモンの耳に歌声が届いた。
女の声だ。大層美しい。
このあたりには滅多に人が来ないのに、と警戒しながら、アモンは身を潜めて声の出処を探った。
そして見つけたものに、アモンは大きく目を見張った。
――人魚。
この海には人魚の伝説がある。その歌声は人々を魅了し、姿を見たものは海に引きずり込まれるという。
しかし、命をかけてでも人魚を求める者がいる。何故か。
人魚の肉には、不老不死の薬効があるという。
――あれを食べさせれば。
人魚の肉ならば。薬の効かなかったイリスにも。
アモンは固唾を呑んだ。
慎重に行動しなければならない。人魚は警戒心の強い生き物だ。
「――――♪」
アモンの口から、小さく、だが心地良い旋律が流れ出す。
人魚は驚いて尾で海面を叩いたが、アモンはゆっくりと姿を見せながら、自分の歌声を人魚の歌声に重ねてみせた。
最初は不審がっていた人魚も、アモンの歌声につられて、また美しい声を響かせる。
浜辺には、男女の美しいハーモニーが流れていた。
「驚いた! あなた、とても歌が上手ね」
「どうも。さすがに人魚には敵わないけどな」
アモンが苦笑しながら肩をすくめると、人魚はくすくすと笑った。
「歌ってきたのなんて、あなたが初めてよ。人間はみんな、私たちを見つけると捕まえようとするもの」
「そうなのか? もったいないな。捕まえたりしたら、その可愛い笑顔は見られないだろうに」
微笑んだアモンに、年若い人魚は顔を赤らめた。
「か、可愛いなんて、初めて言われたわ」
「へえ、人魚の男は見る目がないな」
「……そうなのかしら」
口説かれてそわそわと身を捩る様子は、人間の少女と何ら変わらない。アモンは内心でほくそ笑んだ。
「ねえ、私ヘラっていうの。あなたは?」
「俺はアモン。しがない漁師だよ」
「そうなのね。漁師ってことは、またこの海に来るわよね?」
「ああ」
「なら、もし会えたら、また一緒に歌いましょう!」
「約束はしてくれないのか?」
「それはダメ」
いたずらっぽく笑ったヘラに、アモンは苦笑してみせた。
「また君と会えるのを楽しみにしているよ、ヘラ」
「ええ。また会えるといいわね、アモン!」
手を振って、ヘラは海へ帰っていった。
彼女の姿が見えなくなるまで見送って、アモンはすっと目を伏せた。
やはり人魚は警戒心が強い。気安い口をききながら、全く近づいて来なかった。
次の約束をしなかったのも、仲間を引き連れて捕らえられる可能性を危惧したのだろう。
それなりに知恵は回るようだ。
しかし、小娘の浅知恵など。
「――三日、かな」
三日もあれば。あの程度、懐柔できる。
アモンは凶悪な顔で唇を吊り上げた。
★
「アモン、なんか機嫌いいね」
「そうか?」
鼻歌でも歌い出しそうな顔で、アモンはイリスの寝台の布を取り替えた。
果たして、あの人魚は来た。翌日に。まるで初めての恋人でも待つかのように髪を気にしてそわそわと落ち着かない様子に、遠目から見ていたアモンは笑い出しそうだった。ちょろいにもほどがある。
髪を褒めてみたら、軽く触れることに成功した。焦ってそこで欲を出してはならない。触れても平気な相手だと、信じ込ませてからだ。
ヘラの警戒心は、目に見えて薄れていた。あれなら近い内に、人魚の肉は手に入るだろう。
「何か、楽しいことあった?」
「ちょっとな」
「そう……」
「……イリス?」
落ち込んだように顔を伏せたイリスに、アモンは手を止めた。屈み込んで下から窺うように顔を覗き込む。
「どうした?」
「ううん、何でもないよ。アモンが楽しそうで嬉しい」
弱々しく笑うイリスにアモンが眉をひそめると、イリスは視線を落とした。
「嘘じゃないよ、本当だ。アモンが嬉しいなら、僕も嬉しい。だから、何か楽しみがあるなら、僕には構わずそっちに時間を使って。その方が僕も嬉しい」
苦しそうに微笑んだイリスにアモンは目を見開いて、それからイリスをそっと抱き締めた。
「バカだなぁイリスは」
「アモン……?」
「俺にとっては、いつだってイリスが一番だよ。イリスより優先することなんてない」
「でも……」
「俺がイリスに嘘ついたことなんてあったか?」
「……あるよ。例えば、ラズベリーパイの中身を海藻のジャムに入れ替えたこととか」
「あっはっは! そういえばそうだった!」
懐かしい思い出に声を上げて笑ったアモンに、イリスもほっとしたように息を吐いて笑った。
そのまま二人は、暫くの間思い出話に花を咲かせた。
★
「ねえ、アモンは恋人っているのかしら」
三日目の逢瀬。
もじもじと顔を赤らめながら尋ねるヘラに、アモンは内心で「きた」と思った。
勝利は目前だ。駄目だ、焦ってはならない。最後の詰めこそ、慎重に。
「残念ながら」
「まあ、人間の女も見る目がないのね」
うっとりとした顔で、ヘラはアモンを見つめた。
アモンは自分の容姿を自覚している。恋人がいないのは事実だが、多くの娘たちが彼に懸想していることなど、ヘラは知るはずもない。
「ヘラのような可愛い人が側にいてくれたら、毎日楽しいだろうな」
歯の浮くような台詞を吐いて、彼女の濡れた髪に指を絡ませる。ヘラが身を寄せて、アモンの首に腕を回した。
「私も、アモンみたいな素敵な人と過ごせたら、どんなに楽しいだろうと思うわ。会える時間は限られるけれど、恋は障害がある方が燃えるというもの。悪くないわ」
「……なら、俺は君に恋しても許される?」
「……ええ」
蕩けた顔で、ヘラがそっと目を閉じた。
アモンはヘラの腰を抱き寄せて、その唇を塞ぐ。ヘラがキスに酔いしれている内に、後ろ頭に手を回すようにして、そのまま――隠し持っていたナイフを、項に突き刺した。
「っんん!?」
苦痛の声を上げたヘラが体を震わせた。それを押さえ込むように、項から背中へ、まるで解体でもするかのように、真っ直ぐ切り込みを入れていく。
「うぎ……いぃ……ッ」
喉から絞り出すような音だけを零し、ヘラは最後の抵抗とばかりにアモンの唇を噛み切った。
そしてそのまま力尽き、絶命した。
血で染まった海を見ながら、アモンはぺろりと舌で自らの血を舐めた。
★
「イリス、今日はいい魚が手に入った」
上機嫌にそう言ったアモンは、そのままイリスの小屋の厨で夕食を作った。
寝台に横たわるイリスに、湯気のたつ皿を差し出す。
「温かいスープにしてみた。これなら口にしやすいだろう?」
「ああ……ありがとう、アモン。美味しそう」
熱いから、とアモンは匙ですくったスープを何度か吹き冷まして、イリスの口元へ運んだ。
アモンの期待の視線に気づかず、無垢なイリスは疑いもなくそれを口にする。
柔らかな魚の肉は口の中であっという間にほどけて、嚥下され、イリスの腹の中に落ちた。
「うん、すごく美味しい。これ、なんの魚なの?」
無邪気に問いかけたイリスに、アモンは微笑みだけを返した。
「……アモン?」
さすがに不思議に思ったイリスは疑問の声を上げたが、アモンは答えない。イリスが首を傾げていると、急に体の内側が熱くなった。
「――――!?」
熱い。燃えるように熱い。しかし不快ではない。
その感覚に戸惑っていると、やがて熱は引いていった。
残った熱を吐き出すように深く呼吸をすると、イリスはその呼吸が随分と楽にできることに気づいた。
息が苦しくない。体のどこにも痛みがない。頭がすっきりとしている。
「どうして……」
呆然と零したイリスの手を、アモンが握った。
「ああ、良かった。ちゃんと効いたんだな」
「アモン……どういう、こと? いったい、何を食べさせたの?」
不安に揺れるイリスの瞳を見つめて、アモンは穏やかに言った。
「人魚の肉だ」
「に……ん、ぎょ?」
イリスはただ言葉を繰り返した。すぐには意味が飲み込めなかった。にんぎょ、とは何だったろう。
にんぎょ。人魚。人魚の肉。
――不老不死の秘薬。
その意味に思い当たった時、ぞっとした。
先程まですっかり健康な顔色をしていたのに、イリスの顔が白く染まる。
「イリス? どうした、また具合が悪くなったか?」
「なんで……そんな、もの」
「普通の薬じゃ、良くならなかっただろう。だから、人魚の肉なら、イリスの体も治るんじゃないかと思って」
「そんな……!」
イリスは愕然とした。治るどころではない。不老不死など。
イリスは病気が治癒した喜びなど微塵も感じていなかった。ただ唐突に永遠の命を得てしまったことへの恐怖があった。
父も母も死に、家族は誰もいないのに。この先、どうして一人きりで生きられよう。
しかしイリスのために人魚の肉を手に入れてくれたアモンに、その悲しみをそのままぶつけることは憚られた。
並大抵の苦労ではなかっただろう。彼の心遣いを踏みつけにすることは、イリスにはできなかった。
「……ありがとう、アモン。君が僕のことを思ってしてくれたことには、感謝している。けれど、ごめん。素直に喜んでみせることは……できない」
「……どうして? 体が治って、嬉しくないのか?」
「嬉しいよ。健康な体は、嬉しい。だけど、この先この体で、僕は誰と生きていけばいい。老いることも死ぬこともない男に、誰が寄り添ってくれる。孤独は病より辛いことだよ、アモン」
苦しそうに涙を浮かべたイリスに、アモンも苦しさを分けられたように顔を歪めた。
「すまない、イリス。俺はただ、君が元気になってくれたらと、そればかりで」
「いいんだ、それはわかっている。君は悪くない。ただ、僕には……まだ、未来を受け入れるのに時間がかかる」
「……イリス。俺は、どうしたらいい?」
ぎゅっと手を握り直して、アモンがイリスを見つめる。
許しを請うように、切実な声で尋ねる。
「俺は君に何ができる? してしまったことは、取り消せない。だから、今からでも俺がイリスのためにできることを、教えてくれないか。君のためならなんでもする。その覚悟で人魚の肉も手に入れたんだ」
「……だったら」
震える声で、イリスが呟いた。
「アモンも、人魚の肉を、食べてくれないか」
アモンの瞳が、大きく見開かれた。
それを辛そうに見ながら、それでもイリスは言葉を止めなかった。
「僕だけが、この先の永遠を生きるのはあまりにも辛すぎる。だから、アモンも、僕と一緒に生きてくれないか。永遠の間、決して側を離れないと、約束してくれ」
「……イリス……」
「ごめん。こんな、責任を問うような言い方。だけど君しかいない。僕には、君しか、いないんだ。お願いだアモン、僕を一人にしないで」
縋るように握った手を額に当てたイリスに、アモンは微笑んだ。
「バカだな、イリスは」
そして匙でスープをすくうと、ためらいなく自身の口に運び、そのまま飲み込んだ。
「ほら、これで一緒だ」
宥めるように抱き締めたアモンに、イリスは泣きじゃくった。
「ごめん、ごめんアモン……!」
「なんで謝るんだ。全部俺が決めて、俺が自分の意思でしたことだ。イリスは何も悪くない」
「せめてこの先、僕は君のために生きる。約束する……!」
「大袈裟だな」
軽く笑いながらイリスの背を叩いて、アモンのきれいな唇は優しい笑みを象った。
そう。イリスは何も悪くない。イリスにはなんの責任もない。
アモンは、元々不老不死である。
イリスの父に拾われた時から変わらぬ姿。けれど、アモンの外見は既に成人しており、数年程度なら変化がなくても気にならなかったのだろう。加えて、病に罹っていたイリスは視力が弱かった。
不老であるが故に一処に留まれないアモンは、旅をするしかなかった。けれど、イリスの優しさに触れて、アモンはイリスのことが欲しいと思っていた。
いつか彼と同じ時を生きたいと思っていた。そのためには、自分が短命になろうと、彼が不死になろうと、どちらでも良かった。
そこに人魚が現れた。これはアモンにとって好機だった。
人魚の肉を喰わせれば、イリスは自分と同じ時を生きてくれる。
それにはイリスの意思が何より重要だった。無理やり側に置いても、彼自身の意思が伴わなければ離れていってしまう。それでは意味がない。
だから、彼の病を利用した。
あくまでイリスの病を治すために。健気な友人を装って。
そして共に生きることは、イリスの方から望むように。
人魚の肉など食べなくとも、アモンは不老不死だ。けれど、イリスはアモンを道連れにしたと一生思い続けるだろう。
罪の意識がある限り。イリスはアモンの側を離れられない。
何もかもを手に入れた。アモンの強欲さに気づくものがいたならば、きっと彼を真実の名で呼んだだろう。
悪魔、と。