「もう5年ほど前のことだけど、本社に来てしばらくしたころ、打合せで提携先の会社を訪問した時に、頼まれて合コンに出ることになった。そこで彼女と知り合った。彼女は有名女子大学を出ていて美人で良家のお嬢様と言うか、気立ての良い優しい娘だった。僕は一目で彼女が気に入った」
「先輩も一目惚れしたんですね」
「ああ、どういう訳か、彼女も僕のことが気に入ってくれて付き合いが始まった。彼女は二人姉妹の次女で、姉は結婚していた。付き合って半年くらいで家に招かれて両親に紹介された。奥沢にある大きな一戸建てだった。父親は商社の取締役で、我が家とは雲泥の差だった」
「私とも雲泥の差です。良家のお嬢様ですね。素敵ですね」
「そう思って僕は彼女を大切にして付き合った。デートの場所やレストランにも気を遣った。プレゼントには高価なブランド品を送った。そして男女の関係にもなった。素敵な娘と付き合うのが嬉しかった。でも段々付き合うのに疲れて来た」
「どうしてですか? そんな素敵な人なのに」
「それというのは気を遣うのはいつも僕の方で彼女はそういうことに慣れていた。素敵な娘だったので、周りがそうしていたんだと思う。僕の気遣いが当たり前で、彼女から何か気を遣ってもらったという記憶がないんだ」
「そこは私にはどうしてか彼女の気持ちが分かりません」
「一年位付き合ったころだったけど、そんな一方的に気を遣う関係に疲れてきて、そう思っていることを話した。でも、彼女には僕が感じていることが理解できなかったみたいで、そういう関係も変わらなかった。それでしばらくして別れを切り出した。彼女は突然の別れ話に驚いて泣いていた」
「苦労がなくて、ちやほやされていたお嬢さんだったら分からなかったのかもしれないですね」
「今思うに、彼女は悪くなくて当たり前に自然に振舞っていただけだった。彼女には本当に悪いことをしたと思っている。こんな僕は恋愛には向かないのかもしれない」
「先輩は悪くない。元々相性が合わなかったのだと思います」
「それからは女性とは無理をしてまで付き合おうとは思わなくなった。気遣いするのが面倒に思えて」
「そういうことですか、よく分かりました。でもそんな人ばかりではないと思います。私だったら別れたいと絶対に言わせなかったと思います。先輩のような良い人に!」
「慰めてくれてありがとう」
先輩が初めて自分の過去の失恋の話をしてくれた。私のことを気の置けない後輩だと思って話してくれたので信頼もされていると嬉しくなった。私の気持ちもそれとなく言ってみたけど伝わったかしら? ちょっと鈍いところがあるから聞き流していると思う。
でも、話を聞いてあげて、先輩のことを分かると言ってあげたことで、少し気が楽になったみたいだった。長い間、悔やんでいたのかもしれない。気遣いのできる優しい人だと思った。こんなことでしか先輩の役に立てないのがじれったい。
「ところで上野さんはどうなんだ。恋愛経験はあるんだろう」
「私、父親と二人暮らしだったので、あまりそういうことに関心がなくて。高校生の時は大学受験で精一杯でした。大学でも男子学生が多かったけど、在学中に父が亡くなったので、生活のためにアルバイトしたりで、卒業するのに精一杯でしたから」
「百瀬先生から聞いているよ、大変だったね」
「大学を続けるのをあきらめようとしていたところ、百瀬先生には卒業だけはしておきなさいと奨学金の手続きをしていただいて助かりました。こうして就職して生活していけるようになったのも百瀬先生のお陰です」
「それなら、僕は恋愛のトレーニングをしてあげよう」
「トレーニング?」
「そうだな、僕と『恋愛ごっこ』をしてみないか?」
「『恋愛ごっこ』ですか?」
「『ごっこ』というのは本気じゃなくて、ただ、まねごとをするだけ。むしろ本気にならない方が良いだろう。付き合い方を教えてあげる。これでも失敗はしたけど恋愛経験はあるからね。上野さんの実験台になってあげよう」
「先輩と『恋愛ごっこ』本気じゃなくて、まねごとをする?」
「そうだ、まあ、お芝居みたいな感じかな、やってみるかい。ただし、このことは周囲には秘密にしておく。今後、上野さんが本当に誰かと恋愛するときにまずいだろう」
「分かりました。『恋愛ごっこ』やってみます。よろしくお願いします」
思いもかけない展開になってきた。渡りに船とはこういうことを言うんだ。まねごとでも恋愛は恋愛だ。周りから見たら恋人同士にはみえる。嬉しくてしょうがない。ワクワクする。
「じゃあ、今週の土曜日にでも第1回目を始めようか?」
「ええっ、もう始めるんですか?」
「だいたい週末は空いているから」
「急な話なので少し準備をさせてください。それに心の準備も必要ですから」
「それならいつにする?」
「今月の最終土曜日ではどうですか?」
「3週間ほどあるけど、随分準備期間が必要なんだね」
「かっこいい先輩に一緒にいて恥をかかせないようにしっかり準備しようと思います」
「じゃあ、それまでに上野さんがどこへ行きたいか考えて、集合場所と時間をメールで入れてくれればいい。その方が僕も気楽に『恋愛ごっこ』ができるから」
「それとひとつだけお願いがあります」
「何?」
「今日はご馳走になりますが、これからは割り勘にしてください。恋愛の仕方を教えてもらって、ご馳走になるわけにはいきませんから」
「分かった。気にするならそうしよう。それならあまり費用のかかるところは止めておこう」
「ありがとうございます。これで気兼ねなく『恋愛ごっこ』ができます」
先輩とは帰る方向が同じなのが分かっている。先輩は二子新地に住んでいる。私の住まいはそこからごく近くで3駅向こうの梶ヶ谷だ。二子新地で先に先輩が電車を降りた。私はこれからどうしたら先輩と本当の恋愛ができるようになるかをずっと考えていた。
次の日、友人の工藤由美さんに仕事が終わってから相談にのってもらいたいとメールした。すぐに[了解しました。]の返事をくれた。
◆ ◆ ◆
工藤由美さんは私の1年後輩の文系の学卒で商品開発部に勤めている。私と同じリクルートスーツを着ていつもは目立たない存在だ。偶然、社員食堂で席が同じになって、同じスタイルをしているので話かけたのがきっかけだった。
入社したばかりで友人もいなくて心細いと言っていたので、自分もそうだったけど先輩に相談にのってもらって心強かったから、私でよければ相談にのるからと言ってあげた。そうして仕事の相談にのるうちに仲良くなって、お互いにプライベートなことも相談し合える仲になっていた。
私はどうしたら先輩の気を引けるか、ここのところずっと考えていた。先日、吉岡先輩の話になって、先輩に憧れているけど、先輩は全くその気がないから、こちらを向かせるにはどうしたらよいかと相談したら「片思い相談作戦」を提案された。
工藤さんは新谷さんと付き合い始めてほぼ1年位で順調に交際は進んでいると聞いていた。交際に至るまで、私は彼女に彼についての噂話や彼女がいるかどうかなどの情報を提供してあげていた。良い人のようだからと背中も押してあげた。
「きっかけとして、プライベートなことだけど、片思いをしている人がいるけどどうしたらよいかと先輩に相談してみたらどう? その相手は先輩と同じ部の新谷さんだとか言って」
「新谷さんはあなたの彼氏だけどかまわないの?」
「彼から世話になっている吉岡先輩にだけ私との交際を話したけど、秘密にしてほしいと言ってあるから大丈夫だと聞いているので」
「それで」
「その先輩は上野さんが恋愛なんかに関心がないと思っているだろうから、誰かを好きになったといえば、驚いて相談にのってくれると思うの? それで少しでも先輩と恋愛についてお話できたら良いじゃないですか」
「そんなにうまくいくかしら」
「私もいろいろ試みてみたから何とかなった。やってみないと分からないけど、何もしないでくよくよ考えているよりは良いと思う」
工藤さんは背中を押してくれた。「片思い相談作戦」は思いもかけない展開となって、大成功だった。
◆ ◆ ◆
待ち合わせのフルーツショップへ工藤さんがやってきた。私と同じリクルートスタイルだ。
「工藤さん、聞いてください。あの作戦は大成功で、私には恋愛経験がないと言うと、吉岡先輩が私とまねごとの『恋愛ごっこ』をしてくれるということになったの。恋愛のためのトレーニングだとか言って」
「へー、そんな展開になるとは思っていなかったけど、仕掛けてよかったですね」
「それで早速第1回目の『恋愛ごっこ』をすることになったの。今週の土曜日と言われたけど、突然だし、準備に時間が必要ですと言って、今月の最終土曜日にしてもらいました。デートの場所と時間は私が考えて連絡することになっているから、どうしたらよいかお知恵を貸して下さい」
「お世話になっているので協力させてください。せっかくのチャンスをものにする最良の方法があるのでお教えします。これは私が新谷さんの攻略に成功した方法で実績があるので間違いなく吉岡先輩も攻略できると思います」
「どんな方法? 是非、教えて下さい。その攻略法を」
「最初のデートは、いつもからは想像できないくらいに綺麗で可愛く変身していくこと、衝撃を与えるイメージチェンジが重要なの。彼はいつものスタイルで来るように思っているから、そのギャップに驚いて、こんな素敵な娘だったと気付いて、上野さんを見る目が変わるから」
「そんなにうまくいきますか?」
「その証拠に新谷さんは変身した私に、私が声をかけるまで気付かなくて、その後は私を見る目が変わっていて、一緒に歩いているのがとても嬉しそうに見えました。男は単純で、綺麗で可愛い娘には目がないから、吉岡先輩も間違いなく落ちるから大丈夫、自信を持って」
「それでは綺麗で可愛く変身する方法を教えて下さい。私はおしゃれにはあまり関心がなくてしてこなかったので」
「上野さん、まず、おしゃれにはお金がかかります。これに投資することができますか?」
「はい、もちろん。私は苦学して大学を卒業しましたから、お金の大切さは分かっています。だから倹約もしてきました。でも投資すべき時には思い切って投資します。そのために倹約してきたのですから」
「それとおしゃれはそれぞれその人に合った仕方があります。そのためには自身で努力して自分に合ったおしゃれを工夫しなければなりません。ほかの人の服装やメイクをまねただけではだめなんです」
「分かりました。おしゃれのポイントや要領を教えてください。あとは自分で工夫してみます」
工藤さんは私におしゃれのポイントを教えてくれた。まず、眼鏡をコンタクトに変えること、ヘアサロンに行って髪形をかえること、メイクアップをすること、衣服、靴、バッグなどの持ち物をそろえることとそれらをコーディネイトすることなどをショップについてきてくれてじきじき教えてくれた。
◆ ◆ ◆
その月の最終金曜日の昼休みに私は吉岡先輩にメールを入れた。準備は整っていた。
[上野沙知です。今週の土曜日の午後1時にJR原宿駅の改札口でお待ちしています。]
場所は先輩と一緒に行ってみたいところにした。先輩はすぐに[了解]の返信をくれた。
◆ ◆ ◆
私は約束の午後1時の10分前に着いた。メイクアップとコーディネイトに時間がかかって約束の時間ギリギリになってしまった。
吉岡先輩は改札口の前で時計を見ながら待っていてくれた。私が近づいても気づかないで、私を探してあたりを見回しているので声をかけた。
「あのー」
振り向いてくれたが、私をちょっと見ただけで周りを見回している。
「お待たせしました」
また、ちょっと見ただけで私だと気づかない。相変わらず、黙って周りを見回している。工藤さんが言っていたとおりだった。
「先輩、私です」
どこかで聞いたことのある声だと思ったみたいで、私の方を見た。
「上野です」
「ええっ、上野さん?」
コンタクトに変えていて、あの太ぶちの眼鏡をかけていないから印象が全く違ったと思う。鏡を見て確認してきた。この時が先輩が眼鏡をはずした私の顔を初めて見た時だった。
髪はカールして肩まで垂らしている。服もいつものリクルートスーツとは違って、淡い水色のワンピースにグレイのベストを着ている。しゃれたバッグも持っている。
まさか、これがあの地味な上野沙知か、信じられないと思っているに違いない。表情から読み取れる。工藤さん提案の変身作戦は半ば成功したみたいだ。
「ごめん、全く気が付かなかった。いつものスタイルで来るとばかり思っていたから」
「ちょっと、おしゃれしてみました。かっこいい先輩とせっかく『恋愛ごっこ』ができると思って」
「どうしたの? 会社の上野さんとは全く違う。こんなに綺麗で可愛かったんだ」
私は素敵なワンピースを着ていたし、靴もいつもの黒いシンプルなものとは違っていた。
「そう言ってもらえて嬉しいです。ここでは何ですから、歩きながらお話しましょう」
私はそう言って先に歩き出した。先輩はすぐに追いついてきてそれとなく手を繋いでくれた。突然そうされたので一瞬驚いてどうしようかと思ったが、すぐに手を握った。それからゆっくりと二人は人ごみの中へ入っていく。手を繋いで歩けないほど人が多い。
「これじゃあ人が多くて歩きながら話ができないから、明治神宮の方へ行ってみようか? あそこならゆっくり歩けるだろう」
二人は黙って参道へ向かう。手はぎこちなくつないだままだ。私が可愛くなったので驚いているのか、先輩は緊張しているようだ。参道に入ると人が少なくなった。ようやくゆっくり歩けるようになった。
「話を聞かせてくれる」
「私の友人に相談したんです。誰とは言いませんが、もちろん女性です。彼女も会社ではすごく地味にして目立たない娘なんです。吉岡先輩から『恋愛ごっこ』に誘われた翌日に食堂で一緒になったので、月末に先輩とデートすることになったのでおしゃれしたいけど、どうすれば良いか悩んでいると相談しました。そうしたら良い方法があると教えてくれたんです」
「どんな方法?」
「上野さんは会社では地味にしているけど、いつでもそうなのと聞かれたので、そうだと答えました。それなら、彼女がおしゃれの仕方を教えてあげるというの。彼女は会社では地味にしているけど、休日にデートをするときはおしゃれをしているそうなので」
「それで教えてもらったの?」
「ええ、まずコンタクトを持っているか聞かれました。持っているけど、使い心地があまり好きではなくて、会社では眼鏡にしているというと、休日にデートするときはコンタクトに変えるべきだと言われました。コンタクトの方が見栄えがいいからと」
「確かに眼鏡よりいいね」
「それからその週の土曜日にこの近くの表参道のヘアサロンに連れてきてくれたの。そこでヘアカットしてもらい、最新のへアスタイルにしてもらいました。その仕方を覚えて、自分でセットできるように練習するように言われました。でも会社では元のように後に束ねていることにしています」
「社内で何回か会っていると思うけど、変化には全く気が付かなかった」
「その方が仕事しやすいので。彼女は会社では地味にして、休日はおしゃれを楽しんだらギャップがあって面白いと言うの。先輩が変身した私を見てきっと驚くと」
「ああ、とっても驚いた。確かに休日はいつもとは別の自分というのは気分転換にもいいね」
「そのあとデパートの化粧品売り場で化粧品を選んでくれて、メイクのポイントも教えてもらいました。それからはずっと自分に合ったメイクの練習をしていました。会社では今までどおり薄化粧ですけど」
「すごくメイクがうまくなったと思う。上野さんの良さが引き立っている」
先輩はまじまじと私の顔を覗き込んでいる。その目は以前の私を見る目とは違って、綺麗で可愛いものを見入っている目だった。きっと私がメイクをするとこんなに綺麗で可愛くなると感心して見ていたのだと思う。もう作戦はかなり成功している。
「次の週末にはショッピングについていって、服の選び方を教えてもらいました。それとコーディネイトの仕方も実際の商品を組み合わせて教えてくれました。彼女が私に似合うと勧めてくれたワンピースやブラウスやスカートをいくつか買いました。今日はそれをコーディネイトしてみました。帰ってから、今までの手持ちの服などとのコーディネイトもしてみました。このごろはネットの商品を見ながらコーディネイトを練習しています」
いつの間にか本殿の前まで来ていた。ここは心地よい涼しい風が吹いている。
「お参りしようか?」
二人は階段を上って、お賽銭を入れて二礼二拍一礼をしてお参りをした。私は先輩よりずっと長く拝んでいた。本殿を降りたところで聞いてきた。
「何をお願いしたの?」
「『恋愛ごっこ』が長く続けられますようにお願いしました。先輩は?」
「僕はいつも神仏にはいつもありがとうございますとお礼をいうことにしているんだ」
「どうしてお願い事をしないのですか」
「神様にお願いしても聞き入れてもらえるか分からないし、何ごともなるようにしかならないと思っているから。それに神様もお参りに来る全員からお願いされてもそれぞれ聞き届けるのは大変だろうし」
「そうかもしれませんが、たまたま聞き入れてもらえることもあるかもしれないので、ダメ元でお願いしてみてもいいんじゃないですか?」
「苦しい時の神頼みで、困ったことがあるときはお願いする。ただし、自分でやれることはすべてやり尽くしてから、最後にお願いすることにしている。『人事を尽くして天命を待つ』の心境かな」
「今は特に困っていることはないということですか?」
「まあ、ないことはないけど神様にお願いするほどのことではないというところかな。何事も他人に頼らず自分に厳しくを信条にしているから」
「寂しくありませんか? それに何でも自分で解決できるとは限らないと思いますけど。私は自分で解決できないことを周りの人にずいぶん助けてもらっています」
「それを受け入れられるのが上野さんの長所なんだな。僕は少し肩肘を張り過ぎているのかもしれないね」
「頑張り過ぎです。でも先輩が私の力になってくれて感謝しています」
「自分には厳しく他人には優しく、困っている人には手を貸すことにしている」
「『情けは人の為ならず』ですか?」
「いや、僕は見返りを求めてなんかいない。もちろん上野さんにも。僕に義理立てして恩返しする必要は少しもない。もしそう思うなら、上野さんの後輩に親切にしてあげてほしい。その方がよっぽど良い」
「私も困っている人には手を貸すようにしています。私におしゃれを教えてくれた彼女も入社してきたときに親切にしてあげたんです。それで仲良くなって」
「そうなんだ」
「おみくじを引いてもいいですか? 先輩は?」
「僕はいいから」
「末吉だった」
「末吉は末広がりで、終わり良しのハッピーエンドだね」
「良かった」
「先輩はなぜ引かないんですか?」
「神様だけが知っていればよいことを僕は知ろうと思わない。今を精一杯生きていくだけさ」
「ずいぶん大人ですね。やっぱり先輩は何かすべて超越しているみたいで、近づきがたいです」
「そんなことはない。この年になると一種のあきらめかもしれないね」
「この年っていうけど、私と10歳くらい上だけじゃないですか?」
「おじさんだと思っているだろう。年寄り臭いことばかり言っているから」
「そんなことありません。先輩は十分若いです。もっと自信を持ってください」
「さっき、駅で上野さんに会った時、若々しくてとても眩しく見えた」
「私は先輩をいつも素敵な人だなって眩しく見ています。『恋愛ごっこ』できるだけでワクワクしています」
言ってしまった、先輩は鈍いとこがあるけど通じたかな? いや、気づかないふりをしている?
「それならよかった。これからどうする」
「青山通りをウィンドウショッピングして、どこかでお茶したいです」
二人は元の大通りに戻って、青山通りの方へ歩いて行く。先輩は手を握り替えた。私は先輩の顔を見た。
「これは恋人つなぎと言うんだ。練習、練習!」
私はニコッと笑って指に力を入れてみた。先輩はドキドキしたかもしれない。手の感じでなんとなく分かる。
私は気に入った店があると中に入って見ている。先輩は外から中の様子を見ている。そして私が出てくるのを待ってくれている。先輩の視線をずっと感じている。見られている。見てくれている。思っている良い方向へ進んでいる。嬉しくなる。楽しい。
出て行くと、また手を繋いでくれて、二人は歩いていく。横目で私をじっと見ているようなので、先輩の方を見る。目線があった。待ってましたとニコッと微笑む。先輩は見てはいけないものを見たようにドギマギして目をそらしてしまった。相当に私を意識して歩いているのが分かる。
二人でゆっくり話せそうなコーヒーショップがあったので一休みすることになった。
「ずいぶん見て回ったね。買わないの?」
「ここは値段が高過ぎます。おしゃれもほどほどにしないと生活が成り立ちません。奨学金も返さないといけませんし、贅沢はできません。お金を大切にしたいです。学生の時、苦労しましたから」
「じゃあ、割り勘は止めにしようか?」
「いえ、割り勘でお願いします。私のプライドが許しません。奢られるのがいやなんです。甘えたくないんです。経済的にも自立していたいんです」
「お父さんが亡くなったから苦労したんだね。僕も他人は頼りにしないけど、お金はいざという時に一番頼りになると思っている。キャッシュレスの時代だけど、現金はいつも多めに持っている。でも無駄づかいはしないようにしている」
「父がよく言っていました。出す必要のないものに出さないのが倹約、出すべきものに出さないのがケチだと」
「同感だ」
「私もそう思っています」
こんなことを二人で話したのは初めてだった。会社の食堂やラウンジでいつも話していたが、仕事の話が大方だったので「恋愛ごっこ」をしているのが実感できる。
「せっかくだから夕食でも一緒にどうかな?」
「そうですね。このあたりのレストランは高いですから、私が知っている洋食屋さんでどうですか? 町の洋食屋さんですが、安くておいしいです」
「いいね、そこへ行こう。どうもこの近くじゃなさそうだね」
「溝の口です。もう一か所は大井町にありますが、溝の口の方が二人とも自宅に近いうえに定期券も使えてよいと思います」
「その方が良いかな」
地下鉄と私鉄を乗り継いで溝の口に着いた。ここは乗換駅だから飲食店も多い。私はこの町の洋食屋さんに案内した。
私は見栄を張りたくないし自然体でお付き合いしたい。先輩のように無理をすると長続きしない。身の丈にあったお付き合いがしたいと思っている。
こういうお付き合いが二人に合うか合わないかはまさに相性の問題で、合わなければご縁がなかったとあきらめるしかない。
食堂の中は4人掛けのテーブルが4つほどとカウター席が4つほどある。まだ早い時間だから空いていて良かった。
二人でテーブル席に座ってメニューを見ていると、年配の女性が注文を取りに来た。私はオムライスを、先輩はハンバーグ定食を注文した。私は小声で話しかける。
「中はあまり綺麗ではありませんが、値段の割に味は良いんです」
「楽しみだ。どうしてここを見つけたの?」
「外勤の帰りに食堂を探していてここを見つけました。それからは外勤した時の帰りに時々来ています」
「大井町の店はどうなの?」
「そこも外勤の帰りに大井町駅の回りを見て歩いた時に見つけたお店です。ほかにトンカツのおいしいお店も見つけました」
「今度はトンカツもいいね」
注文したオムレツとハンバーグ定食が運ばれてきた。先輩はすぐに一口食べてみている。お腹が減っていたのかもしれない。わざわざ遠いところまでつれてきて申し訳なかった。
「いい味だ。おいしいね。高級店とそんなに変わらない」
私に気を使ったお世辞かも知れないが、そう言ってくれた。気遣いのできる人だ。
「私はこの店の味が好きで、再現できないか作ってみています」
「再現できている?」
「まずまずといったところでしょうか。それで時々来て味を確認しています」
「なかなか研究熱心だね」
「おいしいと思ったら、自分で作って再現してみたくなるのです」
「じゃあ、レパートリーがどんどん増えていくね」
「まあ、今は20品くらいでしょうか?」
「レストランができそうだね」
「B級グルメですからとても無理です。晩御飯にはなりますが」
「そのうちにご馳走になりたいな」
「ええ、機会があればですが」
どういう意味だろう。こちらも意味不明のことを言ってしまった。チャンスがあればその機会を作りたいが、どういう機会になるだろう。
ここの味付けはとても良い。私は味を覚えるためにいつものようにゆっくり食べる。割り勘にするから私は分相応な店へ先輩を連れてきた。それについて先輩は何も言わなかった。きっと私がどういう生活をしているか想像できたと思う。別れた彼女とは全くタイプが違うというか、生き方が違っていると思う。それは仕方がない。
溝の口駅で二人は反対方向の電車に乗って別れた。とっても楽しかった。別れ際、次の『恋愛ごっこ』を来月の最終土曜日に決めた。こんな二人には月一回位が丁度良いのかもしれない。できることなら毎週でもと思ったが、私はそのことに異論を唱えなかった。月一でも十分過ぎるほど十分だから。
次月の最終土曜日の週の木曜日の昼休み、先輩へ2回目の「恋愛ごっこ」の場所と時間のメールを入れた。
[土曜日午後1時に上野の国立科学博物館の入り口に集合、博物館見学後に動物園へ]
すぐに[了解]の返信が入った。
私はあれから会社の廊下で先輩とすれ違うことが何度かあった。いつもなら「先輩調子どうですか?」とか言って馴れ馴れしく声をかけるところが、先輩の顔をジッと見つめるだけで、声をかけられなくなった。それでよそよそしく早々にすれ違うようになった。
先輩もいつもならば「頑張っている?」と声をかけるところが、あれから声をかけなくなった。二人ともなぜかいつもと違う。お互いに意識するようになったから? どうしてだろう?
それで昼食時に食堂で工藤さんを見つけたので、食事の後でそっとそのことを相談してみた。
工藤さんによると、付き合い始めると二人だけで話をしているから、会社では話をしなくなるし、する必要がないという。それと目立たないように話をしなくなるということだった。
そんなものなの? 私たちはもう付き合っているの? ただ、「恋愛ごっこ」をそれもたった1回しただけなのに、もう付き合っているような二人になっている? 考えすぎかな?
◆ ◆ ◆
待ち合わせの時間の35分も前に到着した。待ち合わせ場所が遠くなると乗り換え時間などかかる時間の誤差が大きくなるので、遅れてはいけないとかなり余裕をもって出かけてきた。
まだ、先輩は着いていない。時間の余裕があるのであたりを見回ってみることにした。国立科学博物館は確認した。近くに東京国立博物館があった。それと国立西洋美術館があった。それからまだ時間があったので上野動物園まで行ってみた。入り口を確認したので戻ってきた。
国立科学博物館の前に先輩が待っているのが見えた。それで手を振ると私だと気づいてくれたようで、嬉しそうに手を振ってくれている。
今日の私は白いレースのワンピースを着ている。そしてヒールの少し高めの白い靴を履いてきた。
「ずいぶん早く着いてしまったので、このあたりを見て回っていました。ここへ来るのは初めてなので」
「この前も時間より早く着いたみたいだけど」
「私、人を待たせるのは嫌いです。もちろん待たされることも好きではありません。だって、時間は大切にしないと」
「同感だ。ところでどこを見てまわっていたの?」
「東京国立博物館と国立西洋美術館、それと後で行く動物園の入り口まで行って確かめてきました。ここからはそんなに遠くはありません」
「初めてここへ来たんだね。僕は上京した時に東京見物の一環としてここへ来た。国立科学博物館と東京国立博物館を見学したことがある。でも動物園には行っていない」
「じゃあ、動物園だけにしますか?」
「いや、上野さんも理系だろう。国立科学博物館は見ておいた方がよい。僕は1回見ているけど内容はほとんど覚えていないから、もう一度見ておきたい」
二人は入場券を買って中へ入った。はじめに日本館、次に地球館を見て回った。先輩は以前に来た時とは展示が変わっているといって丁寧に見ていた。私は特に地球館を熱心に見た。歩き疲れるとときどきベンチに腰掛けて休み休み見て回った。
3時過ぎに出てきた。喉が渇いたので、先輩は自働販売機で缶コーヒーを買ってきた。その間に私はベンチで持ってきた包みを開いて待っていた。
「途中でお腹が減ると思って、サンドイッチを作ってきました。動物園に行く前に食べて元気をつけましょう」
「ありがとう。おいしそうだ」
サンドイッチはハムとレタスのサンドと卵サンドの2種類。パンの耳はついたままで、縦長に2つに切ってある。それぞれラップに包んで食べやすいようにしている。先輩はそれを喜んで食べてくれた。
「このサンドイッチ、どれもとってもおいしいね」
「溝の口に卵サンドのおいしいお店があって、時々買って帰っています。その味を再現しようと何回か作って研究しました。今日はまずまずの出来です。おいしいと言ってもらえてよかった」
「確かに、この卵サンドはおいしい。研究熱心なんだね」
先輩が私を優しく見てくれている。その目を感じながら私は後片付けをする。ベンチの下にゴミが落ちていたので一緒に片付ける。
「誰だろう、後片付けをしない人がいるね。困ったものだ」
「そうですね。こういう人もいるのですね。私、以前はこういう人を見ると注意することもありましたけど、今はしないですね」
「どうして?」
「注意して分かる人は最初からこういうことはしないと思います。そういうことをする人に注意しても、無視されるか、反論されたり絡まれたりすることもあり得ます」
「そういう人は痛い目に合わないと分からないのかもしれないね」
「そういう人はきっと痛い目にあっても分からないと思います」
「あり得る。僕も何度も痛い目にあっているのに直せないことがある」
「どういういう痛い目か分かりませんが、先輩なら1回でも痛い目に合えばもう2度としないでしょう」
「そうでもないかもしれない。性格というか性根というものはそう簡単に変えられないと思っている。だから、気が付いたら、何でも注意してほしい。直すから、いや直そうと努力するから」
「先輩にはそういうところはないと思いますが」
「いやいやいっぱいあるんだ。まだ気がつかないだけだと思う」
「ずいぶん、謙虚なんですね」
「いつも謙虚にと思っている。謙虚だけが取り柄かもしれない」
「でも、謙虚、謙虚と自分で言うのもどうかと思いますが」
「まさに、そこなんだ。参ったな。動物園へ行ってみようか?」
二人は手を繋いで歩き出した。動物園にはすぐに着いた。まず東園を見て回る。ゴリラやゾウなどを見て回った。それからモノレールで東園駅から西園駅へ向かった。窓から不忍池が見える。
西園を見て回ると不気味な大きな鳥がいた。全く動かない。生きているのか? まるで剥製みたいだ。頭が大きくて眼が不気味だ。私は怖がった振りをして先輩に身体を寄せてみる。先輩はまんざらでもないみたい。こういうチャンスは大事にしないといけない。
名前を確かめると「ハシビロコウ」だった。
「動かないけど生きているのかしら?」
「そういえば以前テレビで見たことがある。ああして動かないで獲物が近づくのを待っていて首を伸ばして素早く狩りをする鳥だった。ただ、実物を見るのは初めてだけど、怖そうだね」
二人が見ている間、ハシビロコウは少しも動かなかった。離れておそるおそる見ていたが、動く気配がないので、あきらめてこれで帰ることにした。
「あの鳥、何を考えてあんなに静かに待っていられるのでしょうか?」
「分からない。きっと身体が大きいからエネルギーの消耗を控えて狩りをする方法を見つけたんだろうな。それにあんな大きな身体では敏捷に動いて獲物を追いかけられないだろうし」
「先輩の推理はきっと合っていると思います。自然界ではそれぞれ身の丈に合った最善の方法を探して生きているんですね」
「弱肉強食だけど強いものでも自然界で生き抜いていくのは大変だ。人間の世界でも同じだけどね」
「私は一人ですけど、先輩を始めいろいろな人に助けられて生きています。動物と人間の違いでしょうか」
「いや群れを作る動物もやはり助け合って生きている。でもね、一人で生きていくという気概は大事だと思う。上野さんがそう思っているように」
「私には一人で生きていくという気概があるというのですか?」
「ああ、そう感じている」
「あの鳥はきっと群れは作らないで、いつもは1羽で生きているのだと思います。先輩のように強い動物は群れを作らなくても生きていけるから」
「僕が強い?」
「ええ、先輩を見ているとそう思います」
「人は一人で生まれてきて、一人で死んでいく。人は孤独なものだと思っている。誰も助けてくれない。誰にも助けを求められない。そう考えることで、僕は人に頼るとかという思いがなくなった。だから、そう見えるだけだ」
「私も一人になって、人は孤独なもので、その寂しさが分かったので、人を大切にして、優しくできるようになったように思います。それにほんの僅かな繋がりであっても、人との繋がりを大切にしなければならないと思うようになりました」
「僕と考え方が似ているね」
二人は池之端口から千代田線根津駅まで話しながら歩いた。夕食を誘われた。せっかくだから大井町のおいしい食堂へ一緒に行きたかったけどあきらめた。
もう歩き疲れて足が痛くなっていたので、早く家へ帰って休みたいと先輩にお願いした。それでこのまま帰ることになった。
私は疲れてしまっていたので、電車で眠っていた。先輩は下りるときに私を揺り起こして立っているように忠告してくれた。私は立って先輩を見送って、そのまま立って梶ヶ谷で降りた。座っていたら、きっと眠ってしまって終点まで行っていたと思う。
私が家へ着いてまもなく先輩から電話が入った。
「無事、家へ着いた? 乗り過ごしたのではないかと心配だから電話を入れたけど、大丈夫? 今日はずいぶん歩いたから疲れたんだろう」
「ご心配かけました。大丈夫です。無事帰宅しました。せっかく夕食を誘ってくださったのに申し訳ありませんでした」
「次回は疲れないところにしよう」
「はい、考えてみます。楽しみにしています」
今回は靴で失敗してせっかくの食事の機会を失ってしまった。おしゃれもほどほどにして臨機応変が大切だと思った。今度はスニーカーにしよう。
次月の最終土曜日の週の木曜日の昼休みに私は『恋愛ごっこ』3回目の場所と待ち合わせ時間のメールを入れた。
[土曜日午後1時に上野の東京国立博物館の入り口に集合、その後国立西洋美術館へ]
すぐに[了解]の返信が入った。
◆ ◆ ◆
金曜日の朝、出勤して席について、今日の予定を確認していると、先輩からメールが入った。
[風邪をひいたので、今日は欠勤する。すまないが土曜日までに回復の自信がないので、中止にしてほしい]
すぐに返信を入れた。
[了解しました。おだいじにしてください]
チャンス到来。今日の帰りに先輩のマンションにお見舞いに行こう。私を売り込む絶好の機会だ。昼休みにその作戦を考えよう。
風邪がうつらないようにしよう。マスクをしていけば大丈夫だと思うけど、でもうつたらうつったときで、もし先輩が回復していたら、風邪をうつしてごめんと言って、きっとお見舞いに来てくれると思う。どうであれ、これは行かない手はない。
それに先輩がどんなところに住んでいるか確かめておく必要があるし、行けば女性のにおいがするかも分かる。私はそういうにおいというか雰囲気には敏感だ。
夕食に何か作ってあげよう。二子玉川で降りて材料を買って行こう。何がいいか? インスタント食品や冷凍食品を買って行って、チンでは芸がなさ過ぎる。でも男の一人暮らしだから食器や調理器具や調味料がどの程度あるかも分からない。
無難なところで、うどんはどうか、出汁付きを買えばよい。鍋とどんぶりかご飯茶碗くらいはあるだろう。それにうどんはお腹にやさしい。風邪には丁度良い。
一度行ってみて鍋や食器や調味料を確かめておけば、その次に行くときにどんな料理を作れるかの判断材料になる。
それに事前に行くからと相談すると断られる恐れがあるから、駅に着いたら、準備してきたからと言って、マンションへ無理やり押しかけるのがベストだ。住所と部屋番号を知らないから教えてもらわないといけない。私のことが気になっていれば、きっと来ても良いというと思う。それを確かめるよい機会だ。
◆ ◆ ◆
6時半過ぎに二子新地駅に着いた。先輩の携帯に電話を入れる。なかなか出ない。風邪がひどくて寝入っているのかもしれないと心配になる。やってと出てくれた。
「先輩、風邪はいかがですか?」
「朝、頭痛がして熱が38℃もあったので、医者へ行ったらインフルエンザB型と診断された。薬ももらってきたから、もう大丈夫だ。でも申し訳ないけど土曜日は中止でお願いしたい」
「もちろんOKです。ところで今、二子新地の駅を降りたところですが、お見舞いに来ました。お住まいの場所を教えて下さい」
「いいよ。うつるといけないから。大丈夫だから」
「私、インフルエンザの予防注射をしているので大丈夫です。お見舞いに行きますから、行き方を教えて下さい。夕食の準備もしてきましたので」
思っていたとおり、マンションの場所と部屋番号を教えてくれた。5分ほどで着いた。
ドアホンを鳴らす。先輩がドアを開けてくれた。私は会社帰りなので、いつものリクルートスタイルでマスクをしていた。手にレジ袋をぶら下げている。
「入って良いですか?」
良いとも言われないうちに、すぐに靴を脱いで上がった。先輩はパジャマ代わりにジャージの上下を着ていた。
先輩は二子新地駅から徒歩5分の1LDKの賃貸マンションに住んでいた。3階の301号室。玄関を入ると右側に洗面所、全自動乾燥洗濯機、それにトイレとバスタブのバスルーム、中央がリビングダイニング、キッチンには大型の冷凍冷蔵庫を置いてあり、リビングの奥に寝室がある。ベランダからは多摩川が見える。私のアパートよりかなり広い。
リビングには二畳ほどのカーペットが敷いてあり、その上に大きめの座卓を置いてある。座卓の後ろには寝転べる3人掛けのソファー、それから42インチの4Kテレビを置いている。寝室にはセミダブルの大きめのベッド、パソコンとプリンターを置いた机と本棚が置いてある。私と同じで家具は少ない方だ。
「さっぱりしたお部屋ですね。それに思っていた以上に綺麗にお掃除されていますね。先輩らしいです」
「会社の帰りにわざわざ寄ってくれたんだ。ありがとう。大丈夫だから。まあ、座って」
私は部屋を見舞わしながらソファーの端に座った。先輩は離れて反対側に座った。
「女性の痕跡はないですね。彼女のいないのは本当ですね」
「あたり前だ」
「そう思って、夕食を作ってあげようと準備してきました。病気だから消化の良いうどんにします。出汁付きの讃岐うどんと卵、それに桃を買ってきました。キッチンをお借りします。寝室で休んでいてください」
「ありがとう。お言葉に甘えることにしよう」
「一人前作ります。私は家に帰ってからにします。鍋とか食器などはどこですか?」
「キッチンの上下の棚に入っている。どんぶりもあると思う。調味料は冷蔵庫の中にあるから」
私はキッチンの棚や冷蔵庫を開いて何があるか確認した。当初の予定どおりだ。冷蔵庫の中を見る。砂糖、塩、醤油、マヨネーズ、ポン酢、ソースなど、ひとおとりの調味料はある。お米もある。棚の中には、電気釜、フライパン、鍋はある。引き出しにはスプーンやお箸などがあった。食器はというと大きめのどんぶり、ご飯茶碗、お椀、大小のお皿が数枚あった。自炊できるほどのものはそろっていた。その中から必要なものを取り出す。
「月見うどんができました。うどんがのびないうちに召し上ってください」
先輩は眠っていたみたいだった。返事がなかったが、しばらくしてこちらへ来た。
「熱を測ったら37℃だった」
座って座卓の上にうどんのどんぶりを見ている。
「いただきます」
先輩はすぐに平らげてくれた。桃も食べている。
「ありがとう。おいしかったし身体が温まった。来てくれてありがたいけど、インフルエンザがうつらないか心配している」
「予防注射を打っているから大丈夫だと思います。予防注射は毎年必ずしています。父はインフルエンザをこじらせて亡くなったので」
「そうなのか、学生時代に亡くなったとは聞いていたけど」
「肺炎で急に亡くなりました。先輩も無理しないで下さい」
「ああ、気を付けている」
「それに今回は『恋愛ごっこ』の一環です。恋仲の彼氏が病気になったら看病に行くでしょう、その練習だと思ってください」
言い方が私の気持ちと合っていなかった。
「まあ、それなら、そういうことにしよう。でも元カノは僕が病気で寝込んでも看病には来てくれなかったな。早く治してと言われただけだった」
「本当に二人は恋人同士だったのですか?」
「男女の関係にもなったから、間違いないと思っているけど」
「私なら好きな人が病気になったら万難を排して看病に行きますけど、そうでしょう、違いますか?」
こう言うべきだった。
「そういわれると僕も心配になって駆け付けると思うけど、元カノが病気になった時は行かなかった」
「どうしてですか?」
「自宅だから遠慮した」
「それは仕方がないでしょう。ご両親がいるのだから。一人暮らしだったら行っていたでしょう」
「間違いなく行っていたと思う」
私が病気になったら来てくれるかしら、きっと来てくれると思う。
「先輩が別れたいと思って別れたのは正解だったと思います」
「一事が万事だったのかもしれないね。そう言ってもらえてようやく後悔の念が薄れてきて、気が楽になった」
「先輩は人が良いというか、情が厚いですね」
そういうと先輩はほっとしているようだった。今夜はゆっくり休んでほしい。私は後片付けを終えると明日は11時ごろに看病に来ますと言って帰ってきた。
今日は土曜日だから目覚ましをかけないで寝たけれど6時には目が覚めた。今日は11時に先輩のマンションへ行くことになっている。予定どおりうまく行っている。今日もまた来ると言って帰ったけど、先輩は来ないでも良いとは言わなかった。
溝の口のスーパーによって、お昼と晩ごはんの材料を仕入れて行こう。材料の無駄がないように昼は親子丼、晩は焼き鳥丼にしよう。お味噌汁は昼と晩は同じで良いと思う。卵は昨日買ったのがある。電気釜とお米はあった。
◆ ◆ ◆
マンションのドアチャイムを鳴らす。玄関ドアが開くまでに少し時間がかかった。きっとまだ寝ていたのだと思う。少しは良くなったのかしら? でも私をじっと見ていた。
今日の私は土曜日の可愛いスタイルにしている。先輩が喜ぶことが分かっている。マスクをしているが、メガネはかけていない。白いブラウスに薄茶色のベスト、動きやすいように同じ薄茶色のスラックスを履いている。手にはレジ袋をぶら下げている。昨日と同じですぐに靴を脱いで上がって行く。
「おはようございます。調子どうですか?」
「頭痛はなくなった。朝、体温を測ったら平熱だった」
「油断しないで寝ていて下さい。父も油断していました。簡単なお昼ごはんを作ります。ごはんを炊きますので少し時間がかかります。できたら声をかけます」
そういうと、私はキッチンへ行った。先輩は寝室に戻って横になった。昨日キッチンの状況を調べておいたから、調理しやすい。結婚したらこんな感じかな? そうなるといいな。ふと思って一人で笑った。
ご飯を炊くのに時間がかかった。炊きあがったらすぐに盛り付けた。お味噌汁もできている。私もお腹が空いた。
「お昼ご飯ができました。胃に負担のかからないように親子丼とお味噌汁です。私も食べます」
私の声で目が覚めたみたいだ。やはり眠っていた。平熱と言っていたけど大丈夫かな。時計をみると12時30分だった。テレビをつけた。
座卓の上のどんぶりとご飯茶碗にそれぞれ親子丼、おわんとカップにそれぞれお味噌汁が入っている。先輩が寝室から出てきて座卓の上を見ている。
「食器が一組しかないのですね。なんとか二人分を盛り付けましたが」
「仕方ないだろう。独り身だから一組で十分だ」
「女っけがないのは良いとしても、男性って夢がないのですね」
「夢って、女子は二組持っているのか?」
「私は二組もっています。友人を招いたときに必要ですから。それに」
「それに」
「彼氏ができたら必要になると思いますので、まあ、夢ですが」
「夢ね、早く現実になるといいね」
先輩がなってくれれば手っ取り早いのに、他人ごとみたいに言う。
「あまり期待していません。冷めないうちに食べましょう」
先輩が食べ始めた。お腹が空いているとみえて、黙々と食べている。私も黙ってご飯茶碗に盛り付けた小盛りの親子丼とカップに入れたお味噌汁の味を確かめながら食べている。
親子丼は鶏肉と卵がほどよい柔らかさになっていて出汁も効いていておいしくできている。お味噌汁も具をたくさん入れてボリューム感があるように作った。味もまずまずかな。
「すごくおいしい」
「よかった。近くに親子丼のおいしい食堂があるので、それをまねて作りました」
「料理が上手だね」
「まねをしているだけです。それから、夕食に焼き鳥丼のたねを鍋に作っておきましたので、どんぶりにご飯を入れてそれを載せてチンしてください。お味噌汁もあります」
「焼き鳥丼定食だね、楽しみだな、ありがとう」
食べ終わったら、すぐに私は後片づけをする。これからまだやることがある。先輩はソファーに座ってそれを見ている。片付けが終わると先輩のところへ行った。
「着替えをしてください。汚れた下着は健康によくありません。洗濯と掃除をします。空気を入れ替えますので、窓を開けます」
先輩もそう思ったのか、寝室へいって着替えをした。上下のジャージと下着を別のものに取り換えた。私はたまっていた汚れものと一緒に洗濯機に入れた。全自動だから乾燥までしてくれるので、このままで良い。
「掃除機はありますか?」
「クローゼットにハンディ掃除器があるし、クイックルもあるけど」
「拝借します。ベッドで横になっていてください。すぐに終わります」
まず、バスルームへ入って掃除をした。掃除はしているようでそんなに汚れてはいなかった。綺麗好きは本当みたいだ。先輩はベッドに座っている。バスルームの掃除が終わったので、今度はベランダのガラス戸を開けて、部屋を掃除機で綺麗にする。
床や敷物の掃除が終わると今度は座卓やパソコン机、本棚の上を拭いて回る。大掃除のつもりで隅々まで綺麗にしたい。
テレビの台も拭く。台の下の棚にほこりがたまっていると思って、中味を取り出した。何枚もDVDが入っていた。その時に先輩があわててこっちへ飛んできた。
「そこはだめだ」
そのDVDは20枚ほどあった。ちっとカバーを見ただけでそれが何だか分かった。全部アダルトビデオだった。
「キャーいやだ」
ちょっと見ただけでもこっちが恥ずかしくなるようなものばかりだった。
「見られてしまったか。しょうがないだろう。これでも健康なおじさんだから、見たい時もあるさ」
先輩は開き直って言い訳をしている。へへッ、先輩の弱みを握ってしまった。私はそれで気持ちのゆとりができて棚の中をゆっくり拭いて、DVDをまた元のところへしまった。
「カバーを見ただけですが、内容がすごそうですね」
「見たことあるの?」
「おしゃれを教えてくれた友人のアパートへ行ったときに、見せてもらったことがあります」
「どうだった」
「恥ずかしくてよく見ていませんでした。それに肝心なところがぼやけていたし」
「よく見ていたんじゃないか。それなら貸してあげようか?」
一瞬、私はそれを聞いて驚いて先輩の顔を見た。先輩はまずいことを言ってしまったと後悔しているように見えた。これは完全な『セクハラ』だと思う。困った表情が見て取れる。でもここで先輩を困らせてはいけない。とっさに思いついた。
「貸して下さい。勉強のために」
「ええっ」
「恋愛の勉強のために見ておきたいと思いますので、貸してください」
「いいけど、どれがいい」
「どれがいいといっても、お勧めはありますか?」
「お勧めといっても好みというか、趣味があるからなあ、選ぶのは難しい」
「それなら、全部貸して下さい」
「ええっ全部?」
「全部貸して下さい。お願いします」
「そうまでいうなら全部貸そう。いろいろなタイプがあるから参考になると思う」
先輩は観念したようにそういった。私から『セクハラ』だと言われて嫌われなくて良かったと思っているのだろう。
「ありがとうございます。勉強になります」
「それじゃあ、10枚ずつ束にして紙で包んで紙の手提げバッグに入れて帰ったら良いと思う。人に見られるとまずいから」
「そうします」
私は包装紙で丁寧に包んで紙の手提げバッグに入れて帰り支度を始めた。
「DVDプレーヤーはあるの?」
「映画のDVDを借りて見ているのであります」
「これで帰ります。明日の朝、10時ごろに電話します。まだ、熱があるようだと、またお昼ご飯を作りにきます。良くなっていれば遠慮します」
「ありがとう。気を付けて帰って、インフルエンザがうっていなければいいのだけど」
「大丈夫だと思います」
私は帰ってきた。少し疲れた。先輩とはいえ独身男性の部屋に一人で行っていたのだから、やはり緊張していたのだと思う。2日間、看病に行ったけど、受け入れてもらえた。心地よい疲労と満足感で今夜はぐっすり眠れそうだ。
翌朝、10時に私は先輩に電話を入れた。体温が下がったから大丈夫だと言われたので、今日は行かないことにした。今日は借りてきたDVDでも見てゆっくりしよう。
先輩は日曜日一日ですっかりインフルエンザから回復したようだ。月曜日に出勤した時に廊下で先輩に会ったときには元気そうでそっと看病に来てもらったお礼を言われた。でも私はいつものようによそよそしく軽く会釈してすれ違った。
ビデオどうだった? なんて聞かれなくてよかった。『セクハラ』だと言ってにらみつけたかもしれない。でも先輩は絶対に聞いてこないと思っていた。私が恥ずかしがることは絶対にしてこない。そういう人だ。
それからすぐに携帯にメールが入った。
[前回は中止したけど、次回の「恋愛ごっこ」はいつがいい?]
[今週の土曜日に前回の分を同じ時間、同じ場所でどうですか?]
[了解]
◆ ◆ ◆
約束の時間の10分前に私は着いた。先輩は15分前に着いたと言っていた。今日は疲れないように軽快な服装にした。短めのピンクのスカートに白のポロシャツ、靴は白のスニーカーだ。これなら歩き疲れることもないと思う。
私は東京国立博物館では遮光器土偶などの古代の展示物と刀剣に興味があった。それで熱心に見て回った。その後、東京国立西洋美術館へ行った。ここでは著名な洋画の作品を見て回った。
見終わって出てきたら、もう4時半を過ぎていた。歴史や美術の教科書に載っていた本物が見られてよかった。
「これからどうしよう。この前、インフルエンザに罹った時の看病で食事を作ってもらったお礼に、夕食をご馳走したいけど、どうかな?」
「いつもお世話になっていたので、当然のことをしたまでです。お礼には及びません」
「そう言わないで、僕の気持ちが済まないから、遠慮しないで」
「そうまでおっしゃるのなら、トンカツをご馳走してください。前にお話しした大井町のとんかつ屋さんで、少し値段は高めですが、かまいませんか?」
「僕はホテルのメインダイニングでフランス料理とでも思っていたけど」
「それには及びません。それにこんな格好では入れませんから」
「それでいいのなら、そうしよう」
「とってもおいしいので、一度連れて行ってあげたいと思っていました」
二人はJR上野駅まで戻って、京浜東北線で大井町まで来た。駅を降りると東急の大井町線駅まで歩いて、商店街を道沿いに歩いた。
「ここを入ったところに、おいしい洋食屋さんがありますが、とんかつ屋さんはもう少し先です」
商店街の中ほどにその店がある。中に入ると小さめのテーブルが並んでいる。大きな店ではない。時間が早いせいか客はまばらだった。
「空いていてよかった。いつもは結構混んでいるんです」
私は先輩にメニューを渡す。ロースかつ、ヒレかつ、エビフライなど品数は多くない。
「何がお勧めかな?」
「やはりロースかつ定食でしょうか? ヒレカツ定食も良いと思います」
「じゃあ、ロースかつ定食」
「私はヒレカツ定食でもいいですか? 少し高いですけど。いままで一回しか食べたことがないので」
私はこの二つを注文した。
「この前は歩き疲れて夕食を一緒に食べられなくてごめんなさい。おしゃれし過ぎました。今回は疲れないように準備してきました。せっかくの『恋愛ごっこ』ですから」
「二人で博物館や美術館巡りも落ち着いていいね。ああいうものをみていると作者の意欲というか熱意が伝わってくる。本物を見ていると得した気持ちになるね」
「やっぱり本物は迫力がありますね。見とれてしまいます」
「次はどこにする? また、別の博物館か美術館にする?」
「今度は郊外の遊園地みたいなところはどうですか? せっかく『恋愛ごっこ』しているんですから、恋人同士が行きそうなところが良いです。考えさせてください」
トンカツが運ばれてきた。久しぶりの揚げたての分厚いトンカツだ。お腹が空いているのですぐに食べ始める。
「おいしい。こんなにおいしいトンカツは初めてだ」
「久しぶりに食べたけど、おいしいですね。やっぱり肉と衣ですね。私には再現できません」
「挑戦しているんだ」
「元々豚肉が違います。これだけは入手できないので難しいです」
「専門店だからプロだからできることもあるさ」
二人は夢中で食べた。おいしいと無言になる。
「ご馳走様、おいしかった。お腹がいっぱいになりました。ところで今度、夕食を食べにきませんか?」
私は食べている間にずっと考えていた。思い切って誘ってみようと、断られてもダメ元だからと思った。でもきっと断らないという確信はあった。初めての『恋愛ごっこ』の時に先輩は私の料理を食べてみたいと何気なく言っていた。
先輩は驚いている。私の意図を測りかねている。きっと、どういう意味で言っているんだろう? 女子が自分の部屋に招待するということがどういうことか分かっているのか? なんて考えているに決まっている。
でも私はそう考えている。この機会に誘惑してみよう。
「上野さんのお家に?」
「先輩のマンションほどではなくて、1DKのアパートですが。今日の食事のお礼がしたくなりました。何かお好きなものを作ります。遠慮なくおっしゃって下さい。だだし、ほとんどB級グルメですが」
「レパートリーが分からないから教えてくれる?」
「じゃあ、あとでメニューを送ります。それから数品選んでください」
私がさらりと夕食に招待したので、やはり私の気持ちを測りかねている。先輩はなぜ招待してくれたのか深く考えないことにしたに違いない。『恋愛ごっこ』の一環だから、素直な気持ちで招待してくれたのなら、素直な気持ちで招待を受け入れるのが礼儀だとでも思ったに違いない。結果オーライだ。
それから会計を済まして東急大井町駅に行って電車に乗った。これで二子玉川駅で乗り換えれば良い。始発駅だから楽に二人並んで座れた。
私はここで前哨戦として先輩に仕掛けてみることにした。前回は疲れすぎて思いつかなかった。今日はそんなに疲れてなくて気持ちにゆとりがある。
二人並んで座ってしばらくして私は眠った振りをして先輩の肩に寄りかかってみた。すぐに肩が緊張するのが分かった。先輩は動かずにそのままにしてくれている。しめしめ、先輩も慣れてきて緊張がほぐれてきている。女子に肩で眠られるのも悪くないと思っているに違いない。
二子玉川駅に近くなってきて、先輩が眠っているのに気が付いた。
「乗り換えですよ!」
私は先輩をゆり起こした。
「私も眠っていたみたい。乗り換えましょう。そうしないとまた大井町まで戻って行ってしまいますよ」
二人は急いでホームに降りて乗り換えた。そして電車で別れた。
翌日の日曜日の午後に私はメールで料理のリストを送った。和食、中華、洋食のメニューの中からお好みの数点を選んで下さい。和食、中華、洋食のミックスになってもかまいませんと書いた。
和食:親子丼、焼き鳥丼、鰻重、海鮮丼、散し寿司、炊き込みご飯、生姜焼き、治部煮、豚汁、すき焼き、鰆の西京焼き、出汁巻き卵、茶わん蒸し
中華:餃子、チャーハン、酢豚、エビチリ、八宝菜、中華丼、五目焼きそば、チンジャオロースイ、マーボ豆腐、ホイコーロー
洋食:オムレツ、チキンライス、カレー、ビーフシチュウ、クリームシチュウ、ボルシチ、ポークソテイ、ハンバーグ、エビフライ、クリームコロッケ
しばらくして返信があった。
[どれもおいしそうで食べたいのですが、お言葉に甘えて、以下の和食6点をお願いします。鰆の西京焼き、治部煮、出汁巻き卵、茶わん蒸し、豚汁、炊き込みご飯。品数が多くなったけど、大丈夫ですか? 材料費は僕が負担します]
[大丈夫です。材料費も大丈夫です。多めに作って冷凍して、自分用にしますから。それと日時ですが、今週の土曜日午後5時に来ていただけますか? 住所と地図はメールでお送りします]
[ありがとう。楽しみにしています]
◆ ◆ ◆
私は住所と地図を木曜日にメールで送った。先輩は地図アプリでその場所を確認したと思う。梶ヶ谷駅から徒歩4~5分のところにあるアパートの201号室だからすぐに分かる。
土曜日、私は朝早めに起きて部屋の掃除をした。バスルーム、キッチン、ダイニング、寝室を隅々まで綺麗にした。10時過ぎに買い出しに溝の口のスーパーまで行った。帰って来て簡単な昼食を食べてから、すぐに夕食の準備にとりかかった。
3時までには下ごしらえができた。4時から仕上げにかかる予定だ。その前にシャワーを浴びて着替えをする。土曜日の可愛いスタイルになる。
出来立てを食べてもらいたいと思っている。でもテーブルが大きくないので料理は何品も置けない。その都度、お皿に盛り付けて出すことにした。
準備がようやくできたところ5時丁度にドアホンが鳴った。すぐにドアを開いた。先輩が私をじっと見ている。私は花柄のブラウスに紺のスカート、白いエプロンをしている。髪は後ろに束ねて、眼鏡をかけている。料理をするときは眼鏡の方が良いと思ったからだ。
先輩は買ってきた果物とケーキの箱を渡してくれた。
「ありがとうございます。お気を遣わせてすみません。すぐにここが分かりましたか? 先輩の部屋ほどではありませんが、お入り下さい」
先輩は興味津々の面持ちで入ってきた。私の部屋は玄関を入るとすぐにダイニングキッチンがある。その横にバスルーム、反対側は寝室。ダイニングにはテーブルを置いて椅子が二脚。テーブルの上には鰆の西京焼きと出汁巻き卵のお皿を並べておいた。
「テーブルが狭いので、食べたら料理のお皿を入れ替えます。すぐに食べられるように準備してあります」
先輩がテーブルに着いた。料理をじっと見ている。
「僕と違って、やはり食器は二つずつあるんだ。さすが女子だね」
「お酒はどうしましょうか? ビールと日本酒を準備していますが」
「せっかくだから日本酒で」
「お燗しますか?」
「いや、冷でいいよ」
私は日本酒のボトルとガラスのお猪口を二つ持ってきて座った。そしてお酒を注いであげる。先輩も注いでくれる。
「乾杯、ご馳走になります」
先輩はまず出汁巻き卵を食べている。味は確かめたから大丈夫だと見ている。次に鰆の西京焼きを食べている。下味をしっかりつけておいたからおいしいはずだ。
私がお酒を注ぐと先輩もお返しに注いでくれる。お互いにお酒が進む。私はいつもよりお酒を飲むペースを速くしている。先輩はお腹が空いていたと見えて、すぐに二品を平らげてくれた。
「とってもおいしい。ご免ね、おいしいので夢中で食べてしまった」
「そう言ってもらえて作った甲斐がありました。味わって食べていただけたみたいでよかったです」
私は味を確認して食べ終えると席を立って次の料理の盛り付けにかかる。手早く治部煮を盛り付けて、茶碗蒸しを電子レンジでチンする。
「治部煮」は鴨肉や鶏肉の切身に小麦粉をまぶして、季節の野菜と一緒に出し汁で煮込んだ郷土料理だ。
「この治部煮、いつか料亭で食べたのと同じ味だ。おいしいね」
「亡くなった父が好きでしたので、よく作っていました。父は味にうるさくて好みの味になるまで何度も味見をしていました」
「思い出の料理をありがとう」
私はお酒を頻繁に注いであげるので、先輩も注ぎ返してくれる。私も料理の味を確かめながらしっかり飲んでいる。考えがあってわざとお酒のペースを速くしている。
「茶わん蒸しの味はいかがですか?」
「これも出汁が効いて、優しい味だね。おいしいね。よく味わって食べさせてもらいます」
「次は締めの炊き込みご飯と豚汁になります」
「炊き込みご飯もおいしそうだね。豚汁も楽しみだ」
先輩は夢中で炊き込みご飯を食べている。もう一杯食べたくなったといってお替りをしてくれた。おいしくできていてよかった。豚汁も具がたくさん入っていて刻んだネギがアクセントになってとてもおいしいと言ってお替りをしてくれた。
食事を終えたとき、先輩はもうお腹が一杯になったようで安心した。招待した甲斐があった。そして二合瓶の日本酒は空になっていた。二人で飲んでいたけど、間違いなく半分くらいは私が飲んだ。日本酒は後でまわると聞いている。それを期待して飲んでいた。
「お酒をずいぶん飲んだけど大丈夫?」
「大丈夫です」
予想したとおり、酔いが回ってきたみたいで、後片付けに立った私はよろけた。先輩がすぐに気が付いて、手を伸ばして身体を支えてくれた。作戦どおりだ。私は先輩に身体を預けて抱きついた。良い感じ!
一瞬の出来事だったから、先輩はどうしてよいか分からずに戸惑ったみたい。でも気を取り直して私をゆっくり椅子に座らせた。
「大丈夫かい。後片付けは僕がしよう。余っている料理は冷蔵庫に入れておくから」
私は「すみません」といって頷いた。予定どおりとは言え、こんなに急にアルコールが回るとは思わなかった。いままでこんなに日本酒を飲んだことがなかったので、酔いの回る時間と程度の予測ができていなかった。
ふらふらして意識がもうろうとしてきた。これから予定どおりの行動ができるか怪しくなってきた。あまり、お酒を飲むのではなかったと後悔した。でもこれでよかったのかもしれない。酔った勢いというのがある。勢いが大切だ。でも眠くなってきた。
「大丈夫? こんなところで寝ていたらいけないよ! 一生懸命、僕のために料理を作ってくれて疲れたんだね。それでお酒を飲んだから酔いが早くまわってしまったんだ。きっと」
その声で一瞬気が付いた。私はテーブルに顔をつけていつの間にか眠っていた。
「眠りたい」
先輩は私をベッドに寝かせるほかはないと思ったようだ。私は先輩に抱きかかえられた。そう思ったら先輩がよろけた。私はとっさに先輩にしがみついた。朦朧となってはいたが、これがチャンスとしっかり抱きついたのは覚えている。
先輩は驚いたかもしれない。それが無意識にか意図的にかと考えたと思う。先輩が私を寝室まで運んでベッドに降ろして横たえようとした時、私はさっき落ちないように抱きついたようにまた強く抱きついた。
このとき「大好き」と言えばよかったのかもしれない。私は朦朧としていてそこまで思いつかなかった。いや思いついたとしてもきっと言えなかったと思う。
先輩は一瞬動きを止めた。これはやはり意図的か? 誘っているのかな?と思ったに違いない。
「さあ、ゆっくり眠って」
先輩は私をなだめるようにそう言って、しがみついている手をゆっくりほどいて、寝かしつけて布団をかけてくれた。私はなすがままになっていた。そうすること以外何もできなかったし、してはいけないと思った。
「ごちそうになったね。ありがとう。おいしかった。おやすみ。帰るよ。明日電話するからね」
そう言って、先輩はその場を離れた。ひょっとして、こういう展開もあるかもしれないと、私は玄関脇の棚の上に部屋の鍵を二つ置いておいた。このまま鍵をかけないで帰ると不用心なので、予想したとおり、先輩はその一つで鍵をかけて持ち帰った。
◆ ◆ ◆
日曜日の朝、6時に目が覚めた。頭が少し痛いし胃のあたりに不快感がある。目覚めも悪かった。
先輩はキッチンのシンクおいてあった食べ終わった食器をきれいに洗って、洗い籠に入れておいてくれた。
余った料理はそれぞれお皿にとってラップして冷蔵庫にしまってくれた。余っていた豚汁はどんぶりに移して冷蔵庫にしまってあった。
先輩が二人で食べようと買ってきてくれたケーキも冷蔵庫に入っていた。先輩に悪いことをした。そして玄関脇の棚の鍵は一つになっていた。
日曜日の朝9時過ぎになって先輩から電話が入った。
「おはよう、昨日はご馳走になってありがとう。酔って眠ってしまっていたけど、調子はどう?」
「ごめんなさい。ご招待したのに酔ってしまって、後片付けまでしていただいて。朝、目が覚めたら、ベッドで寝ていたので、驚いて跳び起きました。食事が終わってからの記憶がほとんどありません。ちょっと頭が痛いです。こういうのを二日酔いというのですか? 酔って失礼はありませんでしたか?」
「いやいや、眠いと言って静かに眠っていたけど。それから鍵が二つあったので、そのうちの一つで鍵をかけて、持って帰って来た。月曜にでも返すから」
先輩は私に抱きつかれたとは言わなかった。仮に私が意図的に抱きついたとしたら私の気持ちを無視したことになるし、無意識に抱きついたとしたら私がお酒に酔って醜態をみせたことになる。いずれにしてもなかったことにするのが一番と思ったのだろう。気配りのできる人だ。
「いえ、しばらく持っていてください。先輩にまた来ていただくこともあるかもしれませんので」
「分かった」
「失礼します」
先輩に鍵を渡すことには成功した。持っていてほしいから、恋人には部屋の鍵を渡すというから、そうしたかっただけだ。先輩はどうとったかは分からないけど、好意を示されたので、それに応えて持っていてくれることになったのだと思う。
ただ、今回の「酔ったふりした誘惑作戦」は失敗だった。先輩は酔った私を自分のものにしてしまおうなどとは思わなかったに違いない。もし私が望んでいるとしても、こんな酔っている状態で自分のものにしたところで後悔するに違いないと思っただろうし、私も酔った勢いで誘惑したことを後悔すると思ったのだろう。
私の考えが間違っていた。あんなに良い先輩にこんなことは二度としないでおこう。
でも酔って誘ってみたのに先輩が何もしなかったことには少し失望した。そんなに私って魅力がないのかしら? どうしたら、もっと私のことを気にかけてくれるようになるか考えてみよう。
それで先輩の気を引く方法を思いついた。とっても簡単だった。会社のほかの人からも綺麗で可愛いと思われることだ。先輩はうかうかしていられなくなると思う。
月曜日、会社の廊下の向こうから先輩が歩いてくる。私の方をじっと見ている。近づくと私だと分かったみたい。私はいつもと同じリクルートスタイルだけど、おしゃれしてイメージチェンジをしている。
まず、眼鏡をかけていない。『ごっこ』の時のようにコンタクトに変えている。髪はカットしてショートにしている。上着の下はフリルのついた淡いピンクのブラウスに変えている。靴は黒のハイヒールを履いている。メイクアップも工夫して派手さがなく清楚な感じに仕上げた。「恋愛ごっこ」の時とはまた別の大人の綺麗さ可愛さを工夫してみた。
日曜日の午後に思い立って表参道のヘアサロンに行ってきた。工藤さんに前から小顔で顔立ちがはっきりしているから髪をショートにした方が良いと勧められていた。会社でイメージチェンジをするなら髪形を変えるのが一番だと、思い切ってショートカットにしてもらった。言われたとおり自分でも驚くほど似合っていた。
先輩がじっと見ているので、すれ違いざまにいつもと違ってニコッと微笑んであげた。驚いているのが見て取れた。会社にいる時の以前の私とはまったく違うイメージチェンジをしていたからだ。
先輩には綺麗に可愛く変身するのは『恋愛ごっこ』の時だけで、会社ではいつものとおりにしていると言っていたけど、これからはこうすることにした。先輩にだけ綺麗で可愛い私を見せてあげていたから、きっとこの変身はどういう心境の変化かと気になってしかたがないと思う。
昼食時に食堂へ行く途中で広報部の山本さんと廊下ですれ違った。山本さんは私だと気が付いて驚いてじっと見ていた。すれ違いざまに先輩にしたのと同じようにニコッと微笑んであげた。山本さんはとっても驚いていた。きっと先輩に私のイメチェンのことを話すと思う。
◆ ◆ ◆
突然、私が綺麗で可愛く変身して通勤するようになって2週間がたった。次のデートの約束はまだしていない。あれ以来、先輩と廊下ですれ違うと、以前のよそよそしさとは違って、目を合わせてニコッとする。
先輩はどういう意味だろうか、ほかの人にもニコッとしているのだろうかと心配しているに違いない。ひょっとして綺麗に変身した私に誰かが交際を申し込むかもしれないと心配していることもあり得る。
それを試す丁度良いチャンスが訪れた。水曜日の夜、9時過ぎに先輩に電話を入れた。
「先輩、ご相談があります」
「何か困ったことでもできたのか?」
「あのー、総務課の荒木さんから食事に誘われたんですが、どうすればよいかと思って迷っています」
「ええっ、食事に誘われた!」
電話口からも驚いてうろたえている感じが分かった。予想したとおりの反応だった。ちょっと間があって、先輩は平静を装って話してくる。
「荒木君と言えば、確か有名国立大学出身で、総務課でも超エリートだぞ」
「そうです。すごくかっこいい人です。廊下で呼び止められて、今度一度夕食でも一緒にしないか、あとで連絡するからとそっと小声で言われました。まだ連絡はありませんが」
「へー、それでどうするつもりなんだ」
「どうしてよいか分からないから相談しているんです」
「受けてみたらどうかな。『恋愛ごっこ』もしているから、なんとかなるだろう」
「すごく緊張しています。荒木さんはすごくかっこいいから、声をかけられるなんて思ってもみなかったので」
「確かに前に上野さんが惚れたと言っていた新谷君よりかなり良いとは思う。ただし、彼女がいるかどうかは分からないし、同じようにほかの誰かとも食事をしているかもしれないが、それは分からない」
「そうですね」
「何事も経験だから、気楽に受けてみればいいじゃないか? 恋愛において一番大切なことは、自分の気持ちに正直になることだと思うけど、どうなの?」
いいの? 先輩、荒木さんと付き合っても。それは本心なの?
「よく考えてみます。夜分、相談にのっていただいてありがとうございました」
先輩は私がなぜ相談の電話をかけてきたのか考えてくれたのだろうか? 『恋愛ごっこ』をしているから先輩に遠慮してかと思った?
先輩は私にその話は断れとは言ってくれなかった。先輩のことだから、私のことを思って、私の意志を尊重してくれたのだと思う。でも本当はどうなの? 私のことどう思っているの? はっきりしてほしい。知りたいのは先輩の本心です。
◆ ◆ ◆
木曜日の晩の同じころにまた先輩に電話を入れた。先輩はすぐに出てくれた。
「どうした?」
「荒木さんからお誘いの電話が入りました。それで今週の土曜日に渋谷でデートすることになりました」
「そうか、それはよかった。頑張って」
「結果はご報告します」
「分かった。なら話を聞くよ。『恋愛ごっこ』の指導者だから責任がある」
「お願いします。じゃあ」
荒木さんと木曜日に土曜日のデートの約束をしてから、私は迷っていた。はじめは素敵な人から誘われてとっても嬉しかった。でもそうはお答えしたもののあまり気が進まない。
先輩はあの時に言ってくれた。『何事も経験だから、気楽に受けてみればいいじゃないか? 恋愛において一番大切なことは、自分の気持ちに正直になることだと思うけど、どうなの?』
木曜の晩に先輩に電話でデートすることを話してから、一晩中眠れなかった。それで結論が出た。金曜日の昼休みに荒木さんに電話を入れて、思っている人がいるので、申し訳ないけど、デートをやめにしたいと話した。荒木さんは無理に誘って申し訳なかったと受け入れてくれた。
それから日曜日の夜まで、先輩とのことをどうすればよいのか、ずっと考えていた。あっという間に夜になってしまった。ようやく私は自分の気持ちをはっきり言ってしまおうと決心した。夜9時過ぎになって、先輩に電話を入れた。
「どうなった? 心配していたよ」
「夜遅く申し訳ありません。明日の月曜日、仕事が終わってから、ご相談したいことがあります。どこか静かなところで話を聞いて下さい。お願いします」
「分かった。話を聞こう。それなら新橋駅近くに『四季』という和食店があるので予約しておこう。個室ではないけど、囲いがあって声が漏れず人目もそんなに気にならないから。7時にそこで。場所が分からなかったら電話を入れて」
「分かりました。7時に『四季』ですね。お願いします」
何の相談だろう。先輩はそう思ったに違いない。
◆ ◆ ◆
月曜日は朝からあれこれ考えて仕事が手に付かなかった。どう言ったらよいか? 断られたらどうしよう。きっと泣いてしまうだろう。すごく時間が進むのが遅く感じられた。もうあれこれ考えていてもしかたがない。なるようにしかならない。後悔しないように話してみよう。先輩は何というだろうか?
6時過ぎに会社を出て出口から離れたところで先輩が出てくるのを待っている。6時半になったところで、先輩が出てきた。いつもなら飛んでいくところだけど、気づかれないように、あとについて行く。新橋の『四季』へ向かうが、付いて行けば間違いないし、待たせることもない。
先輩が店に入った。ちょっとの間をおいて私も店へ入った。先輩はすぐに私に気が付いた。振り向いた先輩の顔が緊張しているのが分かった。私も緊張している。
二人は店員さんに案内されて席に着いた。掘りごたつの席で通路側だけが開いていて、前後は高い間仕切りがしてあって、声が漏れないようになっている。
先輩が飲みものを聞いてくるので何でも良いと言うとサワーを二つとつまみになるような料理を3品ほど注文してくれた。その間、私は黙っている。
飲み物が来るまで二人は話そうとしない。サワーが運ばれてきた。とりあえず乾杯したが、お互いに無言だ。私はすごく緊張している。でも先輩も緊張しているのが分かった。
「相談って何?」
少し間をおいて私は先輩の目を見ながら落ち着いてゆっくりと言った。
「もう『恋愛ごっこ』を終わりにしたいのですが?」
先輩はそれを聞いて目を見開いて、すぐに私の話をさえぎって言ってくれた。
「じゃあ『恋愛ごっこ』は終わりにして、僕と本当の恋愛をしてくれないか?」
こう言って先輩はようやく一息ついたのが分かった。
私はそれを聞いてとても驚いて先輩の顔をじっと見た。言ってもらえたんだ。どう言おうかずっと考えて悩んでいた時間はなんだったのだろう。
良かった。嬉しさがこみあげてくる。私はきっとこれまで先輩に見せたことのないような笑顔で言ったと思う。
「はい、喜んでお受けします」
「そうか、ありがとう。自分に素直になってよかった」
「本当は私も先輩と本当の恋愛をしたいと言おうと思っていたんです。それで今までずっと悩んでいました。断られたらどうしようと思って。もう安心しました」
「良かった。荒木君と交際したいから『恋愛ごっこ』を終わりにしたいというのではないかと心配していたんだ」
「実は荒木さんとは一度は電話でデートのお約束したんですが、前日になって思っている人がいるのでデートをお受けできませんとお断りの電話を入れました。そして土曜日と日曜日に先輩にどう言おうかとずっと考えていました」
「二人の思いは同じだったということか?」
「そうみたいです」
「これからはちゃんと付き合おう」
「ありがとうございます。とっても嬉しいです。でもこれまではちゃんと付き合っていなかったのですか?」
「いや、『ごっこ』だから制約があるだろう」
「どんな制約ですか?」
「どんなって、キスするとか、抱き締めるとかは『ごっこ』には入っていないから」
「そうだったのですか? これからは制約なしでお願いします」
「ああ、分かった」
ここで本当なら、私を抱き締めてキスしてほしかった。でも通路には人が通る。残念ながらあきらめざるを得ない。でも手くらい握ってほしかった。先輩は私の答で満足してしまっている。先輩らしい。まあ、良しとしようか?
「それから、私のこと上野さんじゃなくて、沙知と名前で呼んでくれませんか? でもさっちゃんは止めてください。童謡にありますが、いやなんです」
「呼び捨てはどうかと思うので、沙知さんでどうかな? 僕のことも先輩と言わずに勉さんとか呼んでくれないか? 僕も童謡にあるような勉君はやめてほしい」
「分かりました。でも先輩の方が言いやすいので、これまでどおりに言ってしまうと思います。会社では今までどおりで、休日はできるだけ名前で言うことでも良いですか?」
「ああ、それでもいいよ」
それからはすっかりいつものように楽しい会話が続いた。夕食になるようなものも頼んで食べた。先輩は調子にのって私が聞かれたら困るなと思っていたことを聞いてきた。
「ところであの貸してあげたDVD見た?」
私は恥ずかしくて顔が赤くなっていたと思う。顔がほてった。先輩は私の様子からやはりまずいことを聞いたかなと思ったみたい。これは『セクハラ』だと思う。
「ええ、見ています。勉強になります。もう少し貸しておいて下さい」
「あげるよ、ゆっくり見たらいい」
「先輩、いえ勉さん、聞いていいですか? カバーだけを見ても、いろいろ変わったタイプのものがあるようですが、ああいう趣味があるのですか?」
これは『逆セクハラ』だけど、お返しに聞いてみた。
「いや、そういう訳でもない。興味本位でいろいろなものが見たかっただけだから」
興味本位で買ったからしかたがないというけど、そういうことに興味があるということを間接的に言っているのと同じだと思う。先輩は全部貸すのはまずかった、差しさわりのないものを選んで貸すのだったと思っているに違いない。
「顔が赤くなっていますよ」
「沙知さんも」
「僕が悪かった。もうこの話はやめよう。もともとああいうものはこっそり一人で見るものだから」
「そうしましょう」
「今日はまだ月曜日だからそろそろ帰ろうか? 今日の会計は僕に払わせてほしい。僕の方から沙知さんに気持ちを伝えたかったのだから」
「いえ、私が相談を持ち掛けたので、私に払わせて下さい」
「じゃあ、お互いに気の済むように割り勘にしようか?」
「そうしてください。これからも」
「分かった。そうしよう」
二人は店を出て、地下鉄の駅へ向かう。私が先輩に身体を寄せると肩をしっかり抱いて歩いてくれた。先輩の気持ちが伝わってくる。良い感じだ。もう『恋愛ごっこ』は終わった。制約もないと言ってくれた。会社の誰かに見られるかもしれないけど、もうかまわない。その方が好都合だ。思い出の晩になった。