「うーん。まだまだだとは思うけど、先に分娩台に乗っちゃおうか。歩ける?」
「はい」
パートナーが連れてきた助産師さんは五十代くらいのふっくらした女性だった。目尻の皺やブラウンの下がった眉毛、その柔らかい雰囲気と落ち着く声色に自然と呼吸が整う。
痛みの波の治まったタイミングを見計らって身体を起こし、大股十歩の距離にある分娩室へとゆっくり向かった。
「少し高いけど、足場使ってゆっくりね。パパ、手を貸してあげて」
いわれた通り、パートナーは私の手を取る。そっと台にお尻をつけて、背中をつけて。検診の時と同じく、半分上体を起こした状態で座る。ひっくり返ったカエルのように脚を開き、膝を立てた。その下半身には、ふんわりとした肌触りのバスタオルが被せられる。
見上げた天井にはLEDの照明。それから生まれてくる子供を置くであろうクリアな桶のようなものに、体重計やたくさんのタオル。
隣にパートナーはいるものの、助産師さんがテキパキと動く状況に会話はなかった。
「ついさっき立て続けに二人、出産してね。今はちょうどあなただけなのよ。人が増えると、またバタバタするけれどね」
にこりと笑う助産師さんとは裏腹に、私はいよいよ三分間隔に縮まった陣痛の痛みに身を捩らせて耐えていた。
「あ、あの。あとどれくらいで産めるんでしょうか」
「そうねえ。まだ先生が来てないし、子宮口も開ききってないから、場合によってはもう一度控室に戻ってもらうかもしれないかなあ」
軽く衝撃だった。こんなに痛いのに、まだまだ産める目処が立たないなんて。話に聞けば、出産は何十時間もかかる場合もあるとか。
この痛みを、その間ずっと耐え続けるの?
呼吸が浅くなる。頭もクラクラして、一気に瞼が重くなった。
「そうだ。夜勤の先生に聞いてみましょうね。私なんかの言葉より、先生の言葉の方が安心だものね。ちょっと待ってて」
助産師さんはそういうと、私の立てられた膝をひと撫でして部屋を去っていく。
分娩室には、私とパートナーの二人。
「大丈夫だよ。僕が付いてる」
またもや真剣な眼差しでそう言ったパートナー。私は途端に不安に駆られたが、同時に失礼な感情であることも理解できたので、できるだけその気持ちを悟られないように微笑んで礼を言う。
「ありがとう。喉が渇いたの。飲み物もらえる? それから暑くて、団扇で仰いでもらってもいいかな」
「うん、任せて!」
パートナーはすぐにストロー付きの飲み物を口にあてがってくれ、それから顔のあたりにパタパタと風をくれた。
その風が、絶妙に不快なのだ。
「どう?」
「うん。もう少し弱めにできる?」
「こうかな」
今度は風が来ない。
「もう少し強めに。ゆっくり……ごめんね、わがまま言って」
「ううん。わがままなんて気にしなくていいから、なんでも言って」
なんでも? なら、なんで私の言った加減がうまく出来ないの? どうしようもなく暑いし、どうしようもなく喉が乾くのに、私はその上、痛みにも耐えているんだよ?
パートナーの言葉は本当に嬉しかった。だが同時に黒い感情も湧いてしまうのは、私の中で得体の知れないナニカが暴れているから。それは生まれてくる神秘的な存在のことではなく、私自身に芽生えた悪魔の芽。
「ちょ、ちょっと! 顔を近づけないで! 吐く息が熱いの!」
「あ、ご、ごめん」
「あ……もう一回飲み物を、ください……ごめん」
「ううん」
私は痛みにも、この空気にも耐え兼ね、一秒でも早く先生が到着するようにと切に願った。
それから五分も経たないうちに、先ほどの助産師さんは先生と、それからもう一人助産師さんを連れてきた。
先生は三十代くらいの女性で細身、ショートカットに切り揃えられた栗色の髪が、少しばかり潤いを無くしてパサパサしている。
もう一人の助産師さんはというと、最初の助産師さんとこれまた同年代程の女性で、髪はソバージュ。
今後は分かりやすいように、ふっくら助産師、ソバージュ助産師、と呼ぶことにする。
そして今、私はその助産師たちの行動に、痛みに耐えながら戸惑っていた。
「お隣の奥さんのお子さんがね、今年小学生に上がったみたいなんだけど、どうにも引っ込み思案で心配らしいのよ」
「それって男の子? 女の子?」
「男の子よ」
「男の子かあ。それならまだ、しばらくかかるかもね。女の子より男の子の方が甘えん坊が多いじゃない? あ、ママさんは兄弟いるの?」
まさに井戸端会議。その質問の矛先が、絶賛出産中の自分に向いたものだと理解するまでに数秒を要する。
「私ですか……私は兄と姉がいます……うっ!」
「お母さん、お尻を台から上げないで。あぶないから」
広げた足の向こうで、先生は何かを準備しながら、痛み耐える私に冷静に言う。
先生は助産師同士の世間話になど特に興味もないようで、淡々と仕事をこなしていた。
歯を食いしばり、身を捩らせるようにもがく私の右膝を、ソバージュ助産師がそっと手のひらで包み込む。
その瞬間、私の左手を握っていたパートナーと不意に視線が噛み合った。
声は出さずとも、おそらく考えていることは同じ。
これは一体、何の時間だろうか。
陣痛という名の痛みが始まってから約一時間半。私は今尚、分娩台に脚を広げて座っていて、その立てられた膝を一人の助産師にこねくり回されている。
それはまるでボーリングの球を拭き上げるように丁寧に、ゆっくり。
無論、この動作は私の気持ちを落ち着かせるための所作などではなく、手持ち無沙汰で行き場ない助産師の手の収まりどころが、私の右膝になったに過ぎない。
間違いない。いや、絶対にそうだ。
「へえ。ママさん、三人兄弟の末っ子さんかあ。上二人に揉まれて世渡り上手になるものね、どうりで我慢強いわけだ。実を言うとね、陣痛で泣き叫んでパニックになっちゃう子もいるのよ。その点ママさんは痛みに強い方だと思うわ」
ねえ? とソバージュ助産師が言えば、ふっくら助産師がうんうんと頷く。
痛みに強い? 馬鹿な。もう我慢の限界などとっくに過ぎている。心理学の本か何かで見たけれど、実験で電気の流れる床に置かれた犬は、定期的に電流の衝撃が走るその床から逃れる術がないことを悟ると、それまでウロウロもがいていた抵抗を止め、大人しくなる。
更には翌日、柵さえ飛び越えればその電流の床から逃れられる状況に置かれても、犬はその場に留まったまま、柵を飛び越える行動は起こさない。
これを、学習性無力感という。
長期にわたり逃れられない苦痛やストレスに晒され続けると、何をやっても状況を改善できないという感覚を学習してしまい、そこから逃れようとする努力を放棄し無反応になってしまう現象。
私は今まさに、この学習性無力感に陥っているに過ぎないのだ。
泣いても叫んでも、痛みから逃れられる術はひとつ。そのタイミングの目処が経たない以上、私はゴールの見えないマラソンを走り続けるしかない。
「先生……もう、無理です」
「いやいや、無理ではありません。今子宮口一円玉くらいですから。もうすぐもうすぐ」
「一円玉って。それ、一体何円玉になったら産めるんですか」
途端。助産師の二人と先生が同時に噴き出した。
「ママさん、冗談が言えるなんて余裕ですね。何円玉って……いや、お強いお強い。そうですね、五百円玉くらいですかね」
なんだか急に和やかな空気が分娩室を満たしたが、パートナーに向けた私の顔には眉間に皺が寄り、その表情から彼も私の言わんとしていることを悟る。
彼は気まずそうに団扇を顔に向けて仰いできたが、またそれが今までで一番上手であることにも腹が立った。
冗談——じゃ、ないわ。
「あれ。もう、いいかもしれないですね。意外と早く広がってきた。次の陣痛きたら、一回いきんでみましょうか」
それは突然のことだった。
いきむ。何度もイメージした段階まで、やっと辿り着いた。そして何より、ここからは自分が頑張りさえすればすぐに終わるんだとも理解していた。
終わりが見えた。こうなれば、私だって腹を括れる。
「はい吸ってー、吐いてー、いきんで! 目を開ける! 息は止めない! お尻浮かさない! へそ見て! 顔は真っ直ぐ!」
え。要求多し。
息止めない? 息を吐きながらどうやって踏ん張る? こんな、言われたままじっとした姿勢でできるか! へ、へそ?!
「うぅぅぅうう!!」
「はい、次は流すよー」
な、流す?
「次の痛みが来ても踏ん張らないで。いきむのはその次。交互に行きますよ。赤ちゃんも頑張ってますからね」
流すってなんじゃぁぁああ!
「あー来る来る。今のうちに切っちゃいますね。その方が傷が短くて済むので」
ジョキン——
ハサミを入れられた子宮口。間違いなく切れた感覚はあった。だが、不思議なことに痛みはない。
「先に切っとかないと、酷い人は肛門まで裂けちゃう人もいるんですよ。そこから直腸がみえたりなんかして」
「い、いいですいいです! それで、次はいきんでいいんでしたっけ?」
「はいはい。いいですよー」
それから何回か。流してはいきみ、流してはいきみ。時に水分補給をし、パートナーに顔を固定された状態のまま、身体中から湯気をあげる——
「来た来た来た! もう次いきんだら出ますよ! 最後ですよ!」
息を吸って、吐いて。
もう絶対にこの一撃で産んでみせる、そう全ての力を下半身に捧げた。
ドゥルン、と。内臓ごとゴッソリ持っていかれるような感覚に陥った直後。血と白い脂に塗れた小さな小さな生命体は、細い指と喉の奥を震わせて息吹をあげる。
「おめでとうございます。よく頑張りましたね!」
私は産まれたばかりの我が子を目で追った。お湯でさっと洗われ、体重と身長を測った後。小猿のような状態で、彼女は私の胸元にやって来た。
カンガルーケア。その確かな温もりと鼓動に、じわりと目頭が熱くなる。
「はーい。じゃあ写真撮るよー」
助産師に言われ、パートナーと私は声の方へ顔を向ける。
これは後から分かることだが、この時の私の顔は剥きたての茹で卵のようにパンパンで、つるんとテカっていた。
パートナーはそんな私の頬を撫でながら、言う。
「ありがとう。無事でいてくれて、ありがとう」
出産はこれで終わり——ではない。
この後、パートナーと生まれた赤ちゃんは控室に戻っていき、私は一人処置を受ける。
「いっったぁぁぁああい!!」
前代未聞の声が出た。
「お母さん、産むより騒いでどうするんです」
それは子宮の中に手を突っ込まれ、残された胎盤と血液を外へ掻き出す作業だった。
は、は、吐きそう……
そして苦痛は続く。
「は、はははっ、痛い」
「あと四針程度で済みますから、我慢して」
「あー……」
針がザクザク、糸が皮膚を突っ張るたび、裂かれた子宮口を縫われる痛みにお尻を浮かせた。
「はい、終了ですよ。立てますか?」
「た、立てません」
「じゃあ担架で行きましょう」
先生の指示のもと、ふっくら助産師が担架を運んでくる。
「移れる?」
「はい……」
そう返事をして。私は分娩台から、担架へと身を移した。
私のその行動に、分娩室の空気が変わる。
「ちょ、え?」
「え?」
「いや、いやいや、え? ママ、何でその格好?」
「なんか……変ですか?」
「いや、楽ならいいんだけど。じゃあ、行きますか」
助産師や先生がクスクスと笑いを抑えきれない中。私は担架に乗って分娩室を後にする。
「なんかあれだね、波乗りしてるみたいだね。普通、寝っ転がっていくんだけどね」
そう言われて、やっと状況を理解した私は
顔を真っ赤に染めながら担架の両端をがっしり掴んで
綺麗に正座の状態のまま、控室へと運ばれていったのでした。