貴族とは普通『魔法を使える存在』であり、貴族は基本的に一定の年齢まで家で魔法の教育を受ける。
そのため、魔法学院では生徒の数が増えるのは初等部の高学年からで、幼等部で学ぶ生徒の殆どは、逆に貴族でない者のほうが多い。
幼児期、魔力の保有を認められた才能ある子どもたちの、その才能を伸ばすために何を教えるべきかは、古くから研究が行われてきた。
しかし今もなお、その最善の方法を、まだこの世界は導き出せてはいない。
◇
「今日の授業について説明します」
教壇に立った教師の言葉に、リヒトはごくりとつばを飲み込んだ。
実力主義の魔法学院。
学院には長く通うものも多くはいるが、今回の短期間での留学の場合、半年後の卒業試験をクリアしなければ、卒業が認められない。
卒業試験では自身の最大限の力を披露し、それが認められれば卒業を許されるが、判定が厳しいことは有名だ。
しかし、この学院を卒業――かつ、もし主席での卒業が出来れば、その名は世界中に轟くとも言われている。
リヒトは、半年後に控えた自分の卒業試験のために、幼等部とはいえ精一杯努力しようと考えていた。
一応、筆記では主席だったのだ。
リヒトは、これからは一日も無駄に出来ないと気を引き締めて授業に臨んだ――のだが。
「今日はみんなでお絵かきをしましょう!」
今日の授業の内容を聞いて、リヒトは目を丸くした。
――何故! 授業が!! 『お絵描き』なんだっ!!??
幼等部教師エミリー・クラーク。
彼女は他の生徒にするように、頭を抱えるリヒトににっこりと笑いかけた。
「はい。リヒトくんには、先生のクレヨンを貸してあげましょうね」
「えっ。あ。はい……」
――……いや、クレヨンって! 俺は五歳児以下か!?
リヒトはエミリーに怒ることも出来ず、渡されたクレヨンを手にぷるぷる震えた。
「そういえばギル兄上に五歳児以下と言われたんだった……。駄目だ。冷静にならなきゃ。ありがとうございます」
律儀に礼を言いながら、リヒトは自分にツッコミを入れた。
「それじゃあ、みんなに紙とクレヨンもいき渡ったということで、今日の授業の内容を説明しますね!」
リヒトにクレヨンを渡したエミリーは、教壇に戻ってチョークを手に持った。
「今日のお題は~~?」
カッカッカッカッ。
深緑色の黒板に、白い文字で文字が書かれる。
エミリーは、お題の横に可愛くハートマークを添えた。
「『お母さん』です!」
◇
「質が悪いというのはどういうことです?」
「人によっては中毒性が強い、というべきか。あの人は無自覚なんだろうが、あの人に習った生徒の中には、彼女を本当の母親のように思ってしまう人間が居る。彼女も良くないと認識しているのか線引きはしているようなんだが、基本あの人は自分を『学校でのお母さん』と思って欲しいという考え方だから、割り切れない生徒が例年生まれてしまうというのも確かでな……」
「……『お母さん』、ですか?」
リヒト同様ローズの母親も、幼い頃に亡くなっている。
ローズは父から母への愛を、耳にタコが出来るほど聞かせられて育った。
だから、ローズはずっと信じている。
父と母は愛し合い、そして兄と自分が生まれたと。自分は望まれて生まれた存在だということを。
兄よりも母に似ているというローズのことを、ローズの父ファーガス・クロサイトは、誰よりも愛し育ててくれた。
だからこそローズは、地属性の適性も備えているのだ。
ローズには、他の人間が『偽物の母親』というものを、そこまで求める気持ちがわからなかった。
「ああ。それで、だな。幼等部で行われる主な実技の授業は、お絵かきや歌や外での運動なんだ」
「お絵かき……?」
ローズは首を傾げた。
魔法とお絵かき。
ローズには、この二つが結びつくとはとても思えなかった。
「想像力。表現力。方法は何でもいい。彼女は、自分を認め、肯定する力――そういうものを幼い頃に身につけることが、魔法を使う上で重要だと考えているんだ」
「自分を認める……?」
生まれながらに力を持ち、誰からも称賛されて生きてきたローズからしたら、それは当然備わっているものだ。
だが今回の試験で、リヒトが幼等部にいれられたということは、自分と同い年であるリヒトに、それが足りないと学院側に判断されたということになる。
「……」
「母親の無償の愛というものを、彼女は心から信じている。その愛情こそが、子どもに魔法を与えることが出来るのだと」
ローズには、ロイの言葉の意味がよくわからなかった。
母親の、無償の愛?
それと魔法に、どんな関わりがあるというのか。
「自分というものを持たない人間は、彼女に依存する傾向が高い。……もしそうなった場合、学院側としては、落第を申し渡さねばならないかもしれない」
「落第……?」
ローズは目を細めた。
わざわざ留学しに来たというのに、卒業も出来ず落第なんてこと、あってはならない。
「しかしまあ、それは仕方のないともいえる。自らの足で立つことの出来ない人間が、この学院の卒業試験を突破出来るはずはないのだから」
苦い表情をするローズを前に、ロイはそうはっきり言った。
◇
小さな手でクレヨンを強く握って、子どもたちはクレヨンを押し付けるようにして紙に絵を描いていた。
髪も目も色とりどり。
学院では貴族による寄付により、平民生徒の学費が賄われている。
世界中から集められた子どもたちは、肌の色も違う。
けれど、母親を描けと言われて課題に取り組む彼らの姿に差はなかった。
しかし中には、リヒトと同じようにポツポツと手の止まっている者もいて、エミリーは彼ら一人一人に声をかけ、穏やかな笑みを向けていた。
「リヒト君、描けてないけど、何か気になることがあるのかな?」
「……すいません。俺の母は幼いときに亡くなったので、殆ど記憶がなくて……」
リヒトはクレヨンを強く握りしめた。
母を描けと言われても、リヒトには『母』がよくわからなかった。
幼い頃の記憶はおぼろげだし、肖像画の中の美しい人は、いつも儚げに微笑むだけだ。
「そっか……」
下を向くリヒトをじっと見つめていたエミリーは、リヒトの背中を軽く叩いたあとに、大きく手を打った。
「よーし。みんな、ちゅうもーく! お母さんが今ここに居なくて、うまく描けないなあって人は、先生を描いてくれると嬉しいです! 本当は、もうみーんなに、先生のことを描いてほしいくらい! なんだけど、もう描いちゃったって人はそのまま続きを描いて下さいね!」
「「「はーい!」」」
「俺、先生のこと描く!!」
「ありがとう。その絵、先生がもらってもいい?」
「先生にあげる~~!!」
「ありがとう。楽しみだなあ。先生とっても嬉しい!」
嬉しいと笑うエミリーを見て、他の子どもたちも、自分も自分もと声を上げる。
母親を描き終わった子どもたちは、次は先生の絵を描いてあげるんだとクレヨンを手に意気込んでいた。
「あの……」
その光景を見て、リヒトは少し動揺した。
――この人は、自分を気遣ってくれたのだろうか?
ちらりとリヒトがエミリーの顔を見れば、彼女はリヒトの耳元で、小さく囁いた。
「リヒト君、気付いてあげられなくてごめんね。もし何か困ったなあってことがあったら、先生になんでも話して下さいね」
この人からは、不思議とお日様のようなにおいがする――エミリーを見つめていると、ふとそんな言葉が頭に浮かんで、リヒトは何故か胸が熱くなるのを感じた。
「――はい」
朗らかに微笑まれ、リヒトは思わず頷いていた。
彼に母親の記憶は無い。
亡くなったのが幼過ぎて忘れてしまった。
ただもし、『母上』と出会えるなら――こんなふうに自分に笑ってくれる人がいいと、リヒトは思った。
◇
「リヒト君!」
「先生?」
『お絵描き』の授業が終わり、昼休み。
リヒトが一人空を眺めていると、エミリーに声をかけてきた。
リヒトの二人の護衛は、少し離れた場所からリヒトを見守ってはいたものの、相手がエミリーということもあり、距離を保ったままだった。
「なんでしょうか?」
「実はリヒト君にはやくお礼が言いたくて、探しちゃいました」
ぱたぱたと走ってきたエミリーは、手に丸めた紙を持っていた。
「隣に座ってもいいかな?」
コクリと頷く。リヒトはあまり、年上の女性と話したことがなかった。
外交の場において年上と話す席はあっても、魔法以外に興味のないリヒトの代わりに、ローズが常に彼らの相手をしていたためだ。
「じゃっじゃじゃーん! リヒト君、これなーんだ?」
「……丸めた紙??」
リヒトは見たままを答えた。
するとエミリーはくすっと笑って、体の前でバツ印を作った。
「ぶっぶー。違います。これは先生の宝物です!」
「たから、もの……?」
リヒトは意味がわからず首を傾げた。
「開いてみて?」
「これ……」
紙を渡されたリヒトは、彼女が宝物だという紙を開いて目を瞬かせた。
そこに描かれていたのは。
「俺の絵……?」
リヒトが授業で描いた、エミリーの絵だった。
リヒトは、あまり絵が得意ではない。
昔から幼馴染の中で、リヒトは一番絵が下手だった。
――そんな俺の絵が、宝物??
「リヒト君にこんなに美人に描いて貰えて、私、とても嬉しいです」
「へたくそです。兄上たちと比べたら……俺は」
リヒトは下を向いた。
自分の絵は、確かに幼等部《こども》の中ではマシかもしれないが、兄たちと比べたら遠く及ばない。
場の雰囲気が重くなる。
しかしエミリーは、気にする様子なくリヒトに近付くと、彼の眉間のシワを人差し指でぐりぐりのばした。
「いいですか? リヒト君」
「?」
「私はリヒト君のお兄さんを知りませんし、知っていても、今の言葉を変えることはありません。貴方が一生懸命、私を想って描いてくれた。それだけで、この絵は私にとって、とても価値あるものです。だから私は、リヒト君にありがとうが言いたくて、貴方を探していたんですよ」
エミリーはそう言うと、リヒトを強く抱きしめた。
「ありがとう。リヒトくん」
彼女の声は、温かい。
リヒトは、その声をとても好きだと思った。それは、彼が知らない温もりだった。
――だが。
「せ、せんせい!」
とあることに気づいて、リヒトは顔を真っ赤に染めた。
「そ、その。ム、胸が」
「あらごめんなさい」
抱きしめられたせいで、自分の顔が、丁度エミリーの胸に埋もれるような形になっていたのだ。
「私は気にしませんが、リヒト君は気になりますか?」
「お……俺は、その……」
「もっとぎゅっとしてもいいんですよ~?」
ふふふっと笑いながら、エミリーはリヒトを再び抱きしめた。
柔らかな感触に、リヒトの顔がさらに赤くなる。
母親の記憶がない上に、婚約者であったローズとはキスすらしたことなかったのだ。
そんな彼が、女性の胸に顔を埋めるなんて――これまで、経験しているはずがない。
リヒトはエミリーから逃れようとはしても、強く拒絶はできなかった。
これが、母上の温もり――。
その柔らかなあたたかさが、彼の判断を鈍らせる。
「――リヒト様」
氷のように冷たい声が、彼の名を呼ぶまでは。
「……な、なんでローズがここに」
エミリーの腕に抱かれていたリヒトは、自分の名を呼ぶローズの声を聞いて、はっと我に返り漸く彼女から逃れた。
振り向いてローズの顔を見る。
元婚約者の幼馴染みは、昔から綺麗な顔をしているが、そんな彼女が冷ややかな表情をしていると、こうまで恐ろしいのかとリヒトは初めて知った。
「ロイ様がアカリと話があるとおっしゃって、少し貴方のことが気になって様子を見に来たんですが、随分お楽しみだったようですね」
――ローズが俺のことを気にして……?
一瞬、ローズの言葉の一部にどきりとしたリヒトだったが、その相手に見られた光景を思い出して、リヒトは体温が下がるのを感じた。
「あら、貴方は……」
エミリーは、ローズを見て目を瞬かせた。
冷たい表情のローズと、明らかに慌てるリヒト。二人を見て、あらまあとエミリーは穏やかに微笑む。
「お友達が来てしまったみたいなので、先生はこれで戻りますね。リヒト君、ありがとう。今日はとっても嬉しかったです」
「ああ。えっと、はい……」
エミリー(手を振られ、リヒトは手を振って返した。
しかしその最中、背後が更に寒くなったように思えて、リヒトは恐る恐る振り返った。
「リヒト様は、胸が大きな方がお好きなのですね」
「は?」
「それでいて、自分の胸に顔を埋めても許してくれるような方が、お好きというわけですね」
「は???」
「なるほど。私にそんなことは出来ませんものね。ああ、アカリに同じようなことはなさらないでくださいね。もしそんなことをなされば、いくら貴方であろうと私が容赦出来ませんので。いえ、言葉を換えましょう。しばらくアカリに近づかないで下さい。アカリが汚れます」
「け……汚れるってなんだよっ!?」
「男性に触れられるだけでも泣いてしまうアカリです。貴方がそのような、欲深い方とは存じませんでしたが、欲望とは一度箍が外れると手綱を引くのが難しいもの。ケダモノのような今の貴方を、アカリに近づけることはできません」
「ちっちが……! あれはそんなんじゃ! ていうか、ケダモノってなんだよ! 俺はそんなんじゃないぞ!?」
「何が違うのですか。あのように、デレデレと、鼻の下を伸ばして」
「俺は鼻のを下を伸ばしてなんか。……あのな、ローズ。話を聞けって。俺はだな」
「――軽蔑、します」
聞く耳持たず。
不機嫌そうな顔をして、ぷいと顔を背けたローズは、リヒトからどんどん離れていってしまう。
リヒトは弁明しようにも、そもそも自分がローズに弁明する必要が無いことに気付いて溜息を吐いた。
婚約者だった頃ならまだしも、婚約破棄を言い渡してきた相手にそんなことをわざわざ追いかけてまで来て言われても、迷惑極まりないだろう。
今の自分と彼女の関係に改めて気付いて、リヒトは頭を抱えた。
「なんでいつもこうなるんだ……」
エミリーの言葉が嬉しかったはずなのに、ローズの冷たい瞳を思い出すと、リヒトの気分は最悪だった。
◇
「ローズさん、お帰りなさい!」
アカリのもとに戻っても、ローズは眉間に皺を作ったままだった。美人が怒ると怖い。
「あれ? ローズさん、どうかしたんですか?」
しかし、よくローズに怒られているアカリは、いつもと変わらぬ調子でローズに尋ねた。
「いえ。何でもありません」
「? そうなんですか?」
アカリは首を傾げた。
ローズは見るからに先程より機嫌が悪そうだが気のせいなのだろうか?
ローズとアカリが、そんなやり取りをしている頃。
ローズたちとは少し離れた木々の間から、鏡合わせのような顔をした双子が、不機嫌なローズをオペラグラス越しに眺めては、きゃいきゃいと楽しげな声を上げていた。
「素晴らしい人材を見つけたのです! 不機嫌そうなところも、凛々しくて麗しいのです!」
「麗しいのです!!!」
「決めました! 今年はあの方にぜひ、あの格好をしていただくと!」
「学院の関係者であれば、全ての物に参加が許される――……」
「彼女こそ、私たちの理想にぴったりなのですっ!」
「「あの方こそ――われわれの、『王子様』に相応しい!!!!」」
双子は楽しげに手を合わせる。
そしてどこからか取り出したスケッチブックに、何やら絵を描き始めた。
目にも止まらぬ速さで線が引かれていく。
「これで、完璧なのですっっ!!! 盛り上がること間違いなしです!!」
双子は恍惚とした表情を浮かべ、出来上がったデザイン画を空に掲げた。
そこには、胸の膨らんだ王子様の服の絵が描かれていた――……。
◇
翌日、ロイはまたローズたちのもとに訪れた。
「なんでまたいるんですか……?」
「シャルルが君たちと昼食をとりたいと言うから、叶えてやろうと思ってな。おかげで仕事を終わらせるために死ぬ目を見た」
「普段からちゃんと仕事をしていないから、予想外の予定が入ると死ぬ思いをするんじゃないんですか?」
「まあそれは確かだが、君の思う仕事量と俺の抱える仕事量が同じとは限らないだろう?」
「だったら昨日も来なければよかったじゃないですか……」
アカリは明らかに不機嫌だった。
「お昼ご飯、です!」
二人の口論など気にもとめず、シャルルは元気よくバスケットの中の昼食を取り出した。
その昼食は、アカリにとって見覚えのあるものだった。
「おにぎり……?」
「グラナトゥムでは、多くの異世界人を歓迎している。だから彼らの食生活を、グラナトゥムでは再現する手助けをしている。おにぎり、といったか? 俺もなかなか美味しくて気に入っている」
「まさか異世界でこれが食べられるなんて……」
「すっぱい!」
アカリが感動している横で、先におにぎりを食べていたローズが叫んだ。
顔を歪めるローズの手の中のおにぎりの中に、赤いものを見つけてアカリは目を輝かせた。
「梅干しまで入ってる! すごい!」
「それはシャルルが作ったんだ。シャルルは料理の才能があるのかもしれないな」
「さようですか……」
溺愛がすぎる。アカリはシャルルを見つめて優しく目を細めたロイを見て表情をこわばらせた。
ロイヒ褒め称えたが、シャルルの握ったというおにぎりは明らかに形が悪かった。
そんな時。
ピンポンパンポン。
『お昼の放送です』
どこからか、アカリには聞き慣れた音が響いた。
「町内放送とかでよくある音?」
「これは拡声魔法だな」
ロイがぼそりと呟く。
『新学期が始まり、今年度もたくさんの新入生を迎えることができました。つきましては、新入生の歓迎会と交流会のため、今年度も舞踏会を執り行います』
「……舞踏会?」
アカリは首を傾げた。
『Happiness』のロイルートで、舞踏会のイベントがあるとは聞いたことがあったが、そこまでプレイしていないためアカリにはよく分らない。
確かそのイベントでは、最も素晴らしいダンスをした少女に、ロイとのラストダンスをする権利が与えられる、とういうものだったはずだ。
アカリはロイを無言で見上げた。彼とラストダンスなんて、死んでもゴメンだ。
『最優秀舞踏賞を受賞した方には、今年度の王子様、ローズ・クロサイト様とのラストダンスが約束されます!』
「……え?」
自身の予想とは違う放送内容に、アカリは間の抜けた声を上げた。
「おや、そうなのか?」
ロイは楽しげに笑ってローズを見ていた。
「……何も聞いていません」
当のローズは初耳だった。
「アカリ、そろそろ休憩しましょうか?」
「……はい。ローズさん」
アカリは自分の不甲斐なさにうつむいた。
ローズによるアカリへのダンスの指導が始まったのは三日前。
拡声魔法による校内放送で執り行われることになった舞踏会の、優勝商品としてローズが指定されてから、アカリはローズのラストダンスを死守しようと毎日練習を重ねていた。
ただ元の世界での生活もあってか、アカリは体を動かすことがあまり得意ではなかった。
これまでの舞踏会のラストダンスは、ロイや他国の王子など、その時の学院関係者の中で最も女子人気が高い人間がつとめてきたらしく、今回のローズのように女性が『王子様』役に選ばれるのは、初めてのことらしい。
異例中の異例。
だというのに、ローズが『王子様』に選ばれても、女生徒達は不満の一つ漏らさず、それどころかこれまでになく、女性陣は舞踏会に向けて猛特訓を続けているという話だった。
「紳士淑女の嗜みだ。君はこの程度もできないのか?」
やり取りを眺めていたロイが、二人の会話に割って入る。
「私の世界じゃ、こんなの踊れるのは、それをちゃんと習っている人くらいなんですっ!!」
挑発するようなロイの言葉に、アカリは噛み付いた。
ロイに対しては相変わらず狂犬のようなアカリの態度に、ローズは宥めようと落ち着いた声音でアカリに諭す。
「アカリ。出来ないからと焦らなくても大丈夫ですよ。アカリなら、きっとちゃんと踊れるようになります」
「ローズさん……!」
ローズはそう言うと、スポーツドリンク(仮)をアカリに手渡した。
氷魔法で冷やされているあたり、ローズの気遣いを感じてアカリは嬉しくなった。
――やっぱり、ローズさんとのラストダンスを他の人に渡したくない……。
アカリの中で、その気持ちが強くなる。アカリは頬を染めてローズを見上げた。
「……全く、見ていられないな。手を出せ。『光の聖女』」
ロイはそう言うと、乱暴にアカリの手をとった。
「え?」
「ロイ様、アカリは……!」
ロイの突然の行動に、ローズとアカリは動揺した。
何故ならアカリは、男性に触られると泣いてしまうからだ。
しかし。
「あれ?」
不思議なことに、今日のアカリはロイに触られても平気だった。
男性が苦手なアカリが、唯一振られても大丈夫な異性――物語で言えば『運命』の相手だとかいう展開になりそうな流れを、ロイはさらっと断ち切った。
「どうやら成功のようだな」
ロイはそう言うと、自らの手を覆っていた、目に見えない程の薄い膜をぺらりと剥がして見せた。
「君が泣くというから。この手袋は特注品だぞ」
はあとため息を付きながらも、どこか安心したように笑うロイを見て、アカリは少しだけ驚いた。
費用も時間もかかったはずだ。だというのに自分のために、こんなものを用意するだなんて。
「これが使えるなら大丈夫だな。君は俺にすべてを委ねればいい」
「へ?」
ぐいっと体を引かれて、アカリはロイの導きのままに体を揺らした。
パートナーのことをきちんと考えた上での動き――ローズの時とは違い、ロイとアカリのダンスはとても絵になっていた。
ロイはアカリを華麗にリードする。
さすが大国の王だけのことある。
彼のダンスのうまさは、ローズよりも遥かに上だった。
ローズがアカリに合わせるのに対し、ロイの場合自分のペースに巻き込むため、結果、下手なアカリがうまく見えるという違いもあるかもしれなかった。
「これさえあれば、闇属性が使える人間であれば君と踊れるというわけだ」
「闇を抱えてそうな人と踊るくらいなら、踊らない方がましです!!!」
本来なら気遣いに感謝すべきところだったが、ロイに素直にありがとうと言えるアカリではなかった。
彼のほうがローズより優れているなんて――その事実は、ロイが嫌いなアカリの癇に障った。
「酷い物言いだな。だがそれだと、君はラストダンスの相手を他の誰かに奪われてしまうぞ? あと、ローズ嬢も闇属性持ちだが?」
「う……っ」
「彼女が他の誰かと踊っても?」
「そ、それは……」
アカリは口籠もった。
それは嫌だ、と思う。男女問わず、ローズに自分以外が関わるのは正直見ていて面白いものではない。
「そういえば」
ローズに視線を移したアカリの中に、ある疑問が浮かんだ。
「なんでローズさん、男役が踊れるんですか?」
「リヒト王子に教えるために練習したらしくてな。それで、どちらも踊れるそうだ」
「……」
流石のハイスペック。
アカリは、ローズの優秀さに胸を高鳴らせると同時に顔を顰めた。
それにしても話を聞く限り、リヒトは魔法の研究以外、本当に何も出来ないのではともアカリは思った。
剣が得意というわけでもなく、ダンスはうまく踊れずローズに教えてもらい、外交に関しては、ロイとの交流を見る限り慣れているとはとても言えない。
レオンが目覚めない間、ローズがいかにリヒトの不出来な部分を補ってきたのか、うかがい知れるというものだ。
だからこそ、アカリは改めて思ってしまった。
次期王妃としてプレッシャーがあっただろうに、長年自分を支えてきてくれた相手に、公衆の面前で婚約破棄を言い渡すのは、いくらなんでも感謝がなさすぎる。
ローズを『悪役令嬢』と認識していたころ、自分のためにセオリー通りに話を途中までは進めてきたアカリだったが、二人のことを知れば知るほど、ローズの高感度は上がって、代わりリヒトの高感度が下がるはばかりだ。
アカリは溜め息を吐いた。
「リヒト様はいつまで、私を好きだなんて馬鹿みたいなこと言うんでしょうか……」
「気づかぬは本人ばかり、か」
「だから私、リヒト様のこと好きじゃないんですよね……。貴方もですけど」
「俺は真正面から嫌いと言ってくる君だからこそ面白いと思っているがな」
くっくとロイは笑う。
その言葉を聞いて、アカリはゲームの中の彼のセリフ思い出した。
彼もついては、ストーリーこそクリアしていないが、セリフについては少しだけは知っていた。
『俺のことを嫌いだと? 面白い。そう言ってきた人間は、君が初めてだ』
なんというテンプレ。
昔で見たときはよくあるセリフだなあと思ったものだが、この世界のロイには、別にちゃんと想う相手がいる。
恋愛関係なしに自分のことを面白いと言っていると考えると、この世界はゲームの世界のはずなのに、まるで彼は別人で、本当にこの世界を生きているようだとアカリは思った。
「しかし君の体質のことを考えると、舞踏賞をとるには、俺くらいしか相手役がいないんじゃないか?」
「………………」
闇属性が使えるだけが条件ならアルフレッドでも問題はないのだろうが、アルフレッドが相手で一位を勝ち得るとは思えない。
そう考えると、ロイの言葉は、最もなようにもアカリは思えた。
ロイとアカリ。二人のやり取りを見ていたローズは、穏やかに笑みをこぼした。
喧嘩するほど仲がいいというが、ロイとアカリの二人はあれはあれで仲がいいのではないかと思う。
ロイはアカリの暴言を許す寛容さがあるし、アカリは本人の自覚こそなさそうだが、ロイ相手なら強く叱られることはないと思っているように思えた。
年の差もある。だとしたら、それは一種の『甘え』に等しい。
二人はまるで、仲の良い兄妹のようにもローズには見えた。
自分と、自分の兄とは違う――喧嘩はするけれど、仲の良い兄妹に。
そう考えてから、ローズはふと、自身のよく知る兄弟のことを思い出した。
第二王子のリヒト。
自分に対する反抗や婚約破棄はまあいいとして、ロイに対するリヒトの態度は目に余るものがある。
本来、アカリとリヒトでは差があるべきなのだ。
異世界人の少女と王子。
王族であるなら、当然身につけていなければならない素養というものがある。
いわゆる処世術というやつだ。
王侯貴族の世界で生きていくには、出来るだけ欠点はないに限るのに、当のリヒトには昔から、自由というか自分本位というか――ローズでも、庇いきれない点が多かった。
「あの方には本当に、王子としてしっかりしていただきたいものです」
グラナトゥムに来てから、ローズはアカリと行動している。
リヒトとアカリの授業が重なっていないこともあり、ローズはリヒトとは殆ど会っていなかったが、最後に会った日の光景を思い出して、ローズは顔を歪めた。
強い魔力を持つ証である赤い瞳の奥で、ゆらりと僅かに魔力の光が揺らぐ。
すると。
「そのお顔、サイコーなのです!!」
「美人の怒り顔は良いものなのです!!」
「血が似合う凄絶さは良いものです!!」
「白い軍服が赤く染まるのもぜひ見てみたいものです!」
白髪と黒髪のうさぎのような二人の少女が、突如現れそう叫んだ。
鏡合わせのオッドアイを身に宿した双子の発言は、やや物騒だった。
ローズは表情を険しくして帯剣に手を延した。
「その表情もサイコーなのです!!! まさに『萌え』というやつなのです!!!」
「モエ?」
アカリやロイの敵かもしれない――そう思っていた相手の口から飛び出した言葉に、ローズは目を瞬かせた。
「大地から植物が芽を出すことを萌えぐというのです。ゆえににょきにょきと、心の中に芽吹き溢れる、この創造性と可能性に満ち溢れた対象の前に、ひれ伏し空を仰ぐような愛しさを、我々は『萌え』と呼んでいるのです!!!」
「萌え……」
アカリは慣れ親しんだ言葉を復唱した。
双子の言いたいことはわからなくもないが、何かが自分の認識と異なる気がする。
「ローズ・クロサイト様!!!! あなたは我々の萌えなのです!!! 我々は是非、貴方に我らの作った服を着てもらいたいのです!!!」
双子はそう言うと、美しい装飾の施された服を取り出した。
「この服は、貴方のために作ったのです!!! 今すぐ着るとよいのです!!!!!」
「わあっ! すごく綺麗……!」
縫製を見たアカリは嘆息した。
服作りを得意とするアカリにはわかる。
双子の作った服は、まさにプロの技としか言いようのない出来栄えだった。
驚くことしか出来ないアカリの後ろで、ロイは楽しげに笑っていた。
「当然だ。彼女たちはこの学院のものづくりにおける教師だからな」
「――教師?」
「ああ。優秀な人間なら、俺は年齢は問わない」
自分の方を振り返ったアカリに、ロイはニヤリと笑った。
「萌えのためなら、三徹くらい余裕なのです!!」
「さあ、覚悟するのです。あなたは何も考えずともよいのです。我々に身を任せればいきのです!!!」
「……きゃあっ!」
「ろ、ローズさん!!!」
双子はローズに襲いかかる。
即席の着替え室がどこからともなく用意され、中でローズが抵抗しているのかカーテンが揺れる。
「完成なのです!!!」
ローズがカーテンの向こうに連れて行かれてからすぐ、双子のどちらかの満足げな声が響いた。
シャッという音ともに、カーテンが取り払われ、服を着替えたローズが現れる。
「最高です!!! このデザイン!! まさにローズさんのためだけに作られたような採寸!!!」
アカリは心からの賛辞を述べた。
双子が誂えた服は、この世界でローズにこそ似あうと思える出来だった。
最近のローズは、騎士ということもあり胸を抑えた服を着ているいるが、双子が作った服は、ローズの体型を活かし魅力を高めるような、女性らしさと凛々しさを融合させたデザインだった。
無理矢理服を着替えさせられたローズは、ややぐったりしていたが、双子の顔は満足したのかツヤツヤしていた。
「我々は天才なので、当たり前なのです!!」
「なのです!!!」
自信満々に言う双子は、普通の人間と呼ぶにはあまりに常識を欠いていた。
しかしその誇らしげな口調や態度は、その異質さに、価値を与えているようにもアカリには思えた。
「我々は、人の体格など目視でわかるのです」
「そこの少女は、先週より胴回りが0.2大きくなったのです!!」
「成長だな。シャルル」
「もっとご飯を食べます!!」
ふんす。
シャルルはやる気十分だった。
いつもはツッコミの筈のロイだが、対象がシャルルということで今は楽しげに笑うばかりだ。
ツッコミ不在の状況にローズは頭痛がした。
ローズは少し不機嫌そうに溜息をついたが、今はその全てが、額縁に入れて飾りたいほど美しかった。
「今の写真撮影したかった……」
ローズを見て、アカリはポツリ呟く。
「しゃしん?」
アカリの呟きに、ロイは首を傾げた。
「でもこの世界に、カメラはないんですよね」
「そういえば以前もそんなことを言っていましたね」
しゅんと項垂れるアカリに、ローズが返す。
二人の会話を聞いていた双子は目を瞬かせた。
「しゃしん、とは、何なのです?」
「簡単に言うと、一瞬で描かける道具…みたいな?」
「確かに、異世界にはそんなものがあると言っていた者もいたな」
「そんなものが異世界には……!!!」
「なんと、素晴らしいのです!!!」
双子は目を輝かせた。
教師だとロイは言ったが、やはり身長が低い上にこの態度や反応――どうみても新しいものが大好きな、小さな子どもにしか見えない。
双子は膝をついて、ロイの前に頭を垂れた。
「陛下!!! ぜひ我らに、それを作る機会をお与え下さい!!!」
「写真というものは、聞けばとても便利なものなのです!!! 作りたいのです!! ただそのためにはお金がかかりそうなのです!!」
「そうだな……」
ロイはふむ、と口元に手をあてて、何か考えているようなポーズをとった。
そしてすぐ、二人に向かって笑みを作る。
「わかった。許可しよう。必要なものがあれば、いつものように報告を上げてくれ」
「かしこまりました! ありがとうございます!!!! 陛下!!!!! では!!! 我々はこれにして!!!」
「「失礼いたします!!!!」」
ロイの返答を聞いて、がばっと勢いよく顔を上げた双子は、ロイたちをおいてそのままどこか走り去っていってしまった。
嵐は去った。
呆然とするアカリとローズ。慣れた様子のロイは、「さて、今回はどのくらいの費用がかかるかな」と呟いていた。
その様子を見るに、ロイはいつも双子にああやって、パトロンとして金を与えているのだろう。ローズはそう思って、彼はやはりこの国の王なのだ、と思った。
自分の何気ない呟き。それがこんなことになるなんて――アカリは、ロイに小声で尋ねた。
「……そんな、簡単にいいんですか? カメラ作るなんて、めちゃくちゃお金がかかりそうなのに……」
異世界人のアカリにだってわかる。
いくらこの世界に魔法があるといっても、ロイが許可した内容は、それなりにお金と時間がかかるものになるだろうと。
この世界の魔法というのは、「なんでも叶えてくれる便利なもの」というよりは、領民を守り支えるための、貴族の力という立ち側面が大きく、祭典や稀に出没する魔物の討伐、公共事業、天災への対処のために利用されており、アカリの世界の科学技術のような、誰もが使える便利な力というわけではないことを、今の彼女は知っていた。
だからこそ魔法を持つ者は、この世界では大事にされる。
「才能がない人間は短期的な自らの欲のためだけに金を使うことが多いが、本当に才能のある人間は、長期的にみれば世界に還元できる自分の欲のために金を使うからな。まあ、大丈夫だろう」
アカリの問いに、ロイは当然のように答えた。
「時間はかかるかもしれないが形になれば国益になるかもしれないしな」
「国益……」
先程の決定は自分のためではない。
言葉の意味を理解して、アカリは口を噤んだ。
最近ロイと過ごして、アカリは少しだがロイという人間を理解しつつあった。
どんな理由があれ、シャルルやローズを傷つけたことを許すつもりはないけれど――シャルルのことを思いながらも、彼がローズの手をとろうとした理由。それには少なからず、彼の立場が影響している。
「それに、今はまだ完全である必要もない。最初からそんなものを望めば、進歩は望めないからな」
大国ゆえの寛容さ。
その裏でのしかかる重圧を顔には出さずに、ロイはいつものように笑みを浮かべた。
◇
「さて、俺たちも練習するか」
その頃。ギルバートとミリア、レオンとジュテファーは、ミリアの作った昼食をとっていた。
本当ならローズのもとに行きたかったミリアだが、ギルバートの護衛があるため難しい。なかなかローズのもとに行けないことを、ミリアはもどかしく思っていた。
「――ミリア、俺と踊ってくれ」
食事を終えたギルバートはそう言うと、ミリアの腰に手を回した。
そして。
「どこ触ってるんですか。この変態!!!」
ミリアの拳を受けて、すぐさま彼は彼女から離れた。
「さすがミリア……! いい一撃だ……!」
しかし、それでへこたれないのがギルバートである。
彼が光魔法の使い手でなければ、ミリアはギルバートを殺しかねない強さで殴っていた。ある意味全力でぶつかってもへこたれないギルバートは、ミリアととても相性が良かった。
「やれやれ。先が思いやられるな……」
ぎゃあぎゃあと騒がしい。
二人の様子を見て、レオンは溜め息を吐いた。
「レオン王子はよろしいのですか?」
「せっかくの『王子様』とのラストダンスをかけた舞踏会なんだ。僕がでしゃばるより、他の人間が選ばれる方がいいだろうと思ってね。ローズは、女性に好かれるようだし」
「レオン様は、そのようにお考えなのですね。周りの女性のために身を引かれるなんて、流石、兄様が主君にと望まれるお方です」
ジュテファーはそう言ってにこりと笑う。
彼の兄はこの場には居ないが、その弟が自分付きになった意味を理解して、レオンは僅かに眉を下げた。
今回の護衛の配置には、ローズの婚約者であるベアトリーチェの意見も反映されている。そのことを踏まえると、彼が自分付きなのは……。
――まるで監視だな。
見た目の子どもっぽさに騙されそうになるが、ベアトリーチェは執着深く、そして過保護だ。
自分が国を出れないからと、わざわざ弟をつけるなんて――ジュテファーにベアトリーチェの影を感じて、レオンは再び長く息を吐いた。
「……とりあえず、僕は勉強をするよ。いいかな?」
「はい」
木陰の下で、レオンは静かに本を開く。
ジュテファーは、何も言わずそのそばに控えていた。
完璧な兄と、礼儀正しい優秀な弟。
ジュテファーはリヒトと違って、レオンの隣に並んでいてもなんの違和感もなく、まるで本物の兄弟のようだった。
「リヒト様〜〜っ!!」
幼等部での生活が始まって一週間。
リヒトはこのところ、毎日同じクラスの少女たちに絡まれていた。
「リヒト様。リヒト様は、今日は何の本を読んでるの?」
まだ小さな子どもということもあり、リヒトのことを様付けで呼びながら、言葉は随分と砕けている。
新しい魔法道具を作るために、暇な時間は読書や研究にあててきたリヒトは、囲まれて少し困った。
自国であれば兄と比べて劣った王子、もしくはローズと婚約破棄した馬鹿王子扱いされているのに、幼等部の子どもたちは、リヒトを王子様と慕っていた。
「リーナ。そんなやつに構うなよ」
特に、リーナという名前の少女はリヒトに熱を上げており、朝会うたびに抱きついてきては、リヒト様リヒト様と名前を呼んで笑った。
リーナは、今までリヒトの周りにはいなかったタイプの少女だった。
ローズは公爵令嬢である立場と性格から、自分に抱きついてくることなかったし、アカリはリヒトが触ったら泣いてしまうという問題があるため、抱きついてくるなんて有り得ない。
「金髪碧眼で王子様なんだから、それだけですっごく素敵だもん!」
「王子って言っても、魔法もろくに使えなくて幼等部に入れられたやつじゃないか。 そんなやつの何がいいんだよ?」
「……」
リヒトは胸を押さえた。
リーナの幼馴染だという少年は、今日も自分に辛辣だ。
「違うもん。リーナと会うために、神様がそうしちゃったんだよ。リヒト様がここにいるのは、リーナのせいなの! だからリーナがリヒト様のお嫁さんになって、リヒト様のこと養ってあげるの!」
夢見がちな少女は、そう言ってリヒトに笑いかけたが、リヒトは戸惑うことしかできなかった。
自分とリーナの年の差は一〇。
とても恋愛対象には見れない――と思ったところで、リヒトはあることを思い出した。
「そういえばローズとベアトリーチェも一〇歳差だった……」
リヒトは頭をかかえた。
自分に好意を向けてくれるのは嬉しいが、幼子にしか見えない彼女をそういう目では見ることは出来ない。
ただ、年月が経てば問題ない実例を知っているだけに、リヒトは頭が痛かった。
「リヒト君、モテモテねえ」
「からかわないでください。先生」
頭を抱えるリヒトを見て、エミリーはくすくす笑った。
そしていつの間にか、リーナにつられて、他の少女たちもリヒトの周りに集まっていた。
「金髪で碧い目! リヒト様って本当に、絵本の中の王子様みたい!」
「……」
リヒトの金髪はクリスタロス王国の王族の髪色で、碧の瞳は魔力が低い印だ。
強い魔力を持つため瞳が赤いローズや、炎属性と氷属性の魔法を使えるがために紫の瞳を持っているレオンと、リヒトは違う。
高貴な家に生まれた、才能のない者の証。
その色を褒められて、リヒトは複雑な気持ちになった。
「ねえ、リヒト様は馬に乗れるのっ?」
「馬?」
リヒトは首を傾げた。
「うん。私、リヒト様が白馬に乗ってるの見てみたいっ!」
白馬。
そう言われて、ようやくリヒトは合点がいった。
つまり彼女たちは、自分に白馬の王子様を期待しているのだろう。
「ごめん。俺、馬には乗れないんだ……」
「ハッ。雑魚じゃん」
リヒトが申し訳なさそうに言うと、フィズか鼻で笑った。
すると。
「サイテー」
「人のことすぐ悪く言う人って最悪だよね」
「ねー!」
リヒトの周りを囲んでいた少女たちは、フィズを冷ややかな目で見つめていた。
その瞳には、軽蔑の色が混じっている。
フィズは慌てた。なんで自分が、ここまで女子に責められるのか理解できない。
そんなフィズを前に、彼の想い人はリヒトに抱きついて言った。
「リヒト様はそんなこと言わないから優しいし、他の男の子とは違って素敵だもん! 王子様っていうのは、やっぱりこういう人のこと言うんだよね!」
「り、リーナ……」
瞳を輝かせてリヒトを見上げるリーナを見て、フィズは彼女に震える手を伸ばした。しかしその手は、リーナによってたたき落とされる。
「触らないで! リーナ、フィズなんて嫌いだもん!」
「…………」
恋する少年を地獄に突き落とす発言をしたあとで、自分に抱きついてにこにこ笑みを浮かべるリーナを見て、リヒトは子どもであろうと女性は怖いと少し思った。
◇
「それでは、ダンスの練習をしましょうか」
校内放送の後、幼等部でも、舞踏会に向けダンスの授業は始まった。
「リヒト君」
「――はい」
幼等部で唯一踊れるリヒトは、エミリーとお手本を見せることになった。
「今日は、リヒト君にも先生になって貰うから、みんなリヒト君の言うことをよく聞いてね?」
「はーい!」
にっこりと笑うエミリー。少女たちは元気よく返事をした。
「リヒト様に教えてもらえるんだって! すごーい! 踊れるなんて、流石本物の王子様は違うね!」
「そうだね。フィズや他の男の子とは大違い!」
リヒトは視線を逸らした。
女の子(幼女)にきゃあきゃあと黄色い歓声を上げられ、同性に睨まれる日が来るなんて、リヒトはこれまで思いもしなかった。
「それじゃあ始めましょう。リヒト君。よろしくお願いします」
「はい」
授業が始まる合図だ。エミリーが手を叩く。
エミリーはまず、自分がリヒトと踊るところを子どもたちに見せた。
幼等部の子どもたち――特に少女たちは、二人の姿を見て目を輝かせた。
「おとぎ話の世界みたいっ! 早く私も踊れるようになりたいっ!」
「せんせいっ! 私にもできる? 私も先生みたいに踊れるかなあ?」
きゃっきゃと声を上げる少女たちの目は、宝石のように輝いていた。
エミリーは、そんな子どもたちに優しい笑みを向けた。
「大丈夫。みんな、踊れるようになりますよ。それに、最初は出来なくて大丈夫。誰だって、最初は初心者なんですから。舞踏会まで少しずつ、上手に踊れるように頑張りましょうね」
「はーい!!!」
リヒトはエミリーの言葉を聞いて、苦笑いした。
エミリーとリヒトによる指導では、リヒトが女子生徒でエミリーが男子生徒だった。
はじめは逆のはずだったのだが、少女たちたっての希望でリヒトが教えることになったのだ。
「少し止まってくれ。危ない」
裾を踏んで転びそうになっていた少女に、リヒトはそっと手を差し出す。
「よし、これでもう大丈夫だ」
服の生地は傷めずに、簡易的に少し裾を短くする魔法道具を使って、リヒトは少女から手を離した。
昔ローズが海で水遊びをしたいと言ったとき、裾が濡れると困っていたため作った道具が、まさかこんなところで役に立つとは――まあ、当のローズは、結局一度も使うことはなかったけれど。
「今のままでもいいんだが、こうするともっとよくなる」
「こう……?」
リヒトは、優しい声音で少女たちに指導していた。少女たちは頬を染め、リヒトの指導を受け入れた。
「そうだ。上手いな」
「あ、ありがとうございます……」
上手くできたら、優しく微笑んで褒めてくれる年上の王子様。リヒトを見つめる少女たちの瞳は、同年代の少年を見つめるものとは違っていた。
「リヒト様優しい! かっこいい!」
「どきどきする~!」
「リヒト様っ! 私にも教えてくださいっ!」
「え? ……あ。俺は……」
もうすぐ授業が終わる。
そろそろ終わりかと高をくくっていたリヒトは、少女たちに囲まれて困惑した。
少女たちの瞳には、期待の色が宿っていた。
「……わかった。出来る範囲で教えるから、俺の周りに集まるのはやめてくれ……」
「はーい!」
少女たちは、逃げ場をなくして手をあげたリヒトに、元気よく返事をした。
◇
「はあ……。やっと終わった……」
「お疲れ様です。お手伝い、ありがとうございました。リヒト君」
「うわっ!」
少女たちの対応を終えたリヒトが一人休んでいると、ぴたりと首元に冷たいものを押し当てられて、彼は声を上げて驚いた。
「お、驚かさないでください……」
「ごめんなさい。リヒト君がどんな表情をするか、少し見て見たくて」
『冷たいもの』の正体は冷えたジュースで、声の主はエミリーだった。
リヒトは困ったように息を吐いて、エミリーからジュースを受け取った。
「リヒト君は本当に、教え方が優しいですね。あの年頃の女の子たちは、貴方のような優しさを持つ人には、みんな弱いものなんですよ」
エミリーは微笑みを浮かべながら、リヒトの隣に腰を下ろした。
「別に俺は優しくなんか……」
自国ではモテた記憶のないリヒトは、エミリーから視線をそらした。
今の自分の評価が、本来自分に与えられるべきものとは、リヒトはとても思えなかった。
「自覚がないんですか? さっきも女の子達に囲まれて困っていたのに、最終的には折れて話をしてあげていたでしょう? それを優しいと言わなくて、なんだと言うんですか?」
否定したのに、改めて自分を褒めるエミリーの言葉に、リヒトはほんの少しだけ頬を染めた。
優しい、だなんて。
出来損ないとは言われても、褒められた経験がそもそもないのだ。リヒトは照れてしまっま。
「……あの、先生」
「なんですか? リヒト君」
「今日の授業で一つ思ったんですが……彼らの年齢で、しかも短時間で習得するというのは、やはり少し無理がありませんか? 魔法の授業を潰してまでやることとはとても思えないし……。あれくらいの練習じゃ、完璧に踊れるなんて俺は思えなくて」
幼等部の生徒たちは、魔法の才能がある庶民の集まりだ。
そんな彼らに、彼らが将来のために学ぶべき魔法の授業を潰してまで、わざわざ舞踏会の練習をさせる必要性があるのか、リヒトにはわからなかった。
リヒトの問いに、エミリーは苦笑いした。
「確かに、リヒト君の言葉は一理あります。でもね、リヒト君。学院での舞踏会を楽しみにしているのは、高貴な身分の方々ばかりではないんですよ。綺麗なドレスを着て、『王子様』と踊る。それは彼女たちにとって、おとぎのような時間なのです。その時間はきっと彼女たちにとって、一生の思い出になるとは貴女は思いませんか?」
王子様。
エミリーの言葉を聞いて、リヒトは自分に構いたがる少女たちの言葉を思い出した。
自分を王子様と慕う、『可愛らしい』というべき少女たちを。
「それにね、リヒト君。別に、完璧じゃなくていいんです。最初から何も出来ないと、必要ないと諦めていたら、今回のことだけじゃない――。そんな人生じゃ、結局は願いは何一つ、叶えることなんて出来ない。何度だって、失敗してもいいんです。頑張って、練習したこと。その記憶があれば、きっとあの子たちは舞踏会で、楽しい時間を過ごせると、私はそう思います」
エミリーはそう言うとふわりと笑った。
まるでお日様のような笑顔に、リヒトは目を瞬かせた。
「それに今日のことは、貴方にとっても無駄な時間ではなかったでしょう? 私、今日は貴方の魅力について、一つわかったことがありますよ。リヒト君。貴方は昔、踊るのが苦手だったのではありませんか?」
「……はい」
リヒトは、静かにそれだけ返事をした。
リヒトはもともと、踊ることは得意ではなかった。今のリヒトが踊れるのは、ローズの指導の賜物だ。
レオンが眠りについてから、時期国王として、国賓として招かれたパーティを控えていた頃。
当時、リヒトはローズに怒られながら練習を重ねた。
正直、自分の幼馴染は鬼かと、当時のリヒトは思っていた。
ただ今になって考えると、当時のローズはリヒトに恥をかかせないように、同い年にも関わらず王子の婚約者として、努力して引っ張ってくれていたようにも思えた。
ツキリと胸が痛んで、リヒトは胸をおさえた。
もしかしたら自分は、彼女に与えられることを、当たり前のように感じていたのかもしれないのではないか――そんなことを、ふと思う。
「出来なかったことが出来るようになったこと。それをきちんと、誰かに教えられること。それは貴方の優しさで、長所です」
「長所……?」
「ええ、そうです。だってもしリヒト君が、最初から完璧に踊れていたら、『周りの人はなんで出来ないんだろう』と思っていたかもしれないでしょう? 出来ないことを知っているから。失敗を知っているから、貴方は人の痛みを理解出来る。それは貴方の魅力だと、私は思います」
「…………」
リヒトは、エミリーの賛辞を、理解できる気がするのに素直に受け入れることができなかった。
「短所は長所ですよ。リヒト君。だから貴方が、下を向く必要なんてないんです。貴方には、誰とも違う魅力がある。人と違うことは、恥じることではありません」
エミリーはそう言うと、リヒトの頭を子どもたちにするように優しく撫でた。
その仕草に、リヒトはまた胸が痛んだ。
リヒトにはまるで彼女が、優しい母親のように思えた。
「先生…………。今日は、ありがとうございました」
ペコリと頭を下げる。そんなリヒトに、エミリーは優しい笑みを返した。
「こちらこそ、ありがとうございました」
一人残されたリヒトは、野原に横になって空を眺めていた。
雲がながれていく様をただ見上げる。
幼いときはよくしていた筈なのに、なんだかこうやって空を眺めるのは、随分久しぶりのことのようにリヒトには思えた。
「失敗を知っているから……か」
自分に向けられた言葉を繰り返す。
その言葉を思い浮かべると、少しだけ心が明るくなるような気がした。
◇
「これからリヒトのところに行こうと思うんだが、お前たちも一緒に来ないか?」
「――お兄様」
彼女の兄であるギルバートがローズの元を訪れたのは、午前の授業の終わったあとの昼過ぎのことだった。
ギルバート、ミリア、レオン、ジュテファーの四人は、ギルバートとレオンの授業が同じであるため、行動を共にしているらしかった。
「お嬢様!」
「……ミリア?」
久々に会えた自分の侍女に突然手を握られて、ローズは目を見開いた。
「お願いします。ギルバート様に仰ってください! この方、私が護衛であることを言いことに……!」
「いいことに?」
「私の像を作って辱めたり、ダンスの練習と称して私を抱きしめられたりされるのです。とにかく、扱いが酷いのです!」
「それってセクハラじゃ……」
アカリがぼそっと呟く。
珍しく顔を赤くして、動揺と怒りを隠しきれていないミリアを見て、ローズは兄であるギルバートに冷たい目を向けた。
「お兄様。本当にそんなことをなさっていらしたのですか?」
「まあ、愛ゆえに?」
「……お兄様がミリアを慕われているのは知っています。ですが、私にとっても大切な人を、これ以上傷付けるのはおやめください」
「別に傷付けるつもりは無かったんだけどな」
「お兄様。ミリアが嫌がっているのなら、それは傷つけているのと同じです」
ローズは兄の反論を許さなかった。
「お嬢様……」
『大好きなお兄様』より、自分のことを考えて行動してくれたローズに、ミリアは胸が高鳴るのを感じた。
私のお嬢様は誰よりも美しく、強く、優しい方でいらっしゃる――。
まさしく理想の王子様だ。
その相手にそっと手をひかれて、ミリアは顔を赤くした。
「ミリア。大丈夫? 私のところに来る?」
「……」
「……ミリア?」
ただミリアは、己の立場は自負していた。
「お嬢様の申し出は嬉しく思います。ですか、私の仕事は護衛です。この国で、この方を一人にするわけにもまいりません」
「ミリア……」
「でも、お嬢様にそう言っていただけて、とても嬉しかったです。ありがとうございました」
「ミリア!」
健気な自分の大切な侍女を、ローズは思わず抱きしめた。
「おっ。お嬢様!?」
「何かあったら、私に言って。貴方は私にとって、家族のようなものなのだから……」
「ミリア。俺と結婚したら、君が好きなローズの本物の義姉《あね》になれるぞ?」
「……ギルバート様。貴方はもう黙っていてください」
感動的な場面もつかの間。
ギルバートがいれたちゃちゃにキレたミリアは、魔法を発動させてギルバートを殴った。
――が、華麗に躱され追撃する。
「体がなまってるんじゃないか? 全然当たらないぞ? ミリア。護衛ならちゃんと俺に攻撃をあててくれ」
「貴方の逃げ足がはやすぎるんですっ! 全力で殴って差し上げますから動かないでください!」
「鬼ごっこだ。ミリア。君の魔法の練習にもなっていいだろう?」
「よくありませんっ!!!」
喧嘩するほど仲がいいともいうが、ギルバートはミリアに殴られても楽しげだった。
「ギルバート様はどうしてあの方に執着されるのでしょう? どうみても嫌われているようなのに……」
二人のやり取りを見て、まだ幼いジュテファーは首を傾げていた。
「……そういうわけでもないんじゃないかな?」
「え?」
「喧嘩するほど仲がいいと言うし。それに彼女は、彼曰く彼の『運命』らしいから」
「……『運命』?」
ジュテファーは、思いもよらぬ言葉に思わず訊き返してしまった。
どうみても仲が良さそうには見えないのに、公爵令息である青年の『運命の相手』が、女性が持てば嫌われる強化魔法をもつ女性だなんて、有り得るのだろうか?
ジュテファーは首を傾げた。
「なんだか、不思議な方ですね。ギルバート様は……」
普通の男なら死んでもおかしくない攻撃を受けながら、楽し気に笑うギルバートを見て、ジュテファーはそう呟くことしか出来なかった。
「今日は私が女の子を見るので、リヒト君には男の子を見てもらいます」
「え〜〜!」
「リヒト様がいい!」
「先生がいい!」
エミリー・クラークの言葉に対する、子どもたちの反応は様々だった。
すっかり『幼等部の王子様』となったリヒトの周りには、女の子たちが集まっている。
教室は完全に二分されていた。
しかしそんなことは気にもとめず、エミリーはリヒトに笑いかけた。
「騒がない騒がない。リヒト君と私では、思うことも違うかもしれませんから。今日はこのやり方で行います。リヒト君、宜しくお願いしますね」
「――はい」
柔らかく微笑まれ、リヒトはゆっくり頷いた。
◇
「うん。昨日習ったばっかりだとは思えないくらい上手い」
「まじ!? へへっ! 褒められた!」
少年たちの指導をすることになったリヒトは、一人一人のいいところを褒めていた。
魔法学院への入学を許されるだけあって、基本的に能力が高子どもが多いのか、昨日習ったばかりだというのに、卒なくこなす子が多く、リヒトは驚いた。
自分が初めての時はこうはいかなかった――そう思うだけに、自然と称賛の言葉が溢れる。
「じゃあリヒト、俺は、俺はっ?」
「姿勢がいい」
「姿勢かあ! 意識してはなかったけど、なんか嬉しい!」
褒められた少年は満面の笑みを浮かべ、練習に戻っていく。
因みにダンスの練習は、『魔法人形』と呼ばれる人形で行う。
これは、『自分の魔力を流し込むことで、相応しい動きをしてくれる』というものだが、規則的な動きしか出来ないため、応用が効かない。
そのためリヒトとエミリーから合格をもらった子たちから、実際に男女ペアになって練習を始めていた。
「あの……。ごめんなさい。僕、ここがよくわからなくて……」
「ん? じゃあ、一緒にやってみようか」
リヒトはうつむく少年の手をとった。
少年はリヒトに手を引かれ、少しだけ頬を染める。
リヒトの丁寧な指導により踊れるようになった少年は、リヒトに抱きついて謝辞を述べた。
「できたっ! ありがとう。リヒトお兄ちゃんっ!」
「……お、おう。よかったな」
リヒトは突然の彼の行動に驚きつつも、ぽんぽんと優しくその頭を撫でた。
――これで、大方の生徒は合格だろうか?
リヒトが周囲を見回すと、一人の少年が壁に同化していることに気付いて、リヒトは駆け寄った。
「こんなところで何をしてるんだ?」
リヒトが彼に触れようとすると。
「俺に触んな!」
彼――フィズは、力いっぱいリヒトの手を払った。
「気にしなくていいって。フィズ、うまく出来ないから拗ねてんだよ」
「……」
リヒトから早いうちに『合格』をもらった子の一人が、ぼそっとそんなことを言う。
「いいじゃん。勝手に拗ねて諦めてるだけだし、放っておけば。それよりあっちで、みんなで練習しようぜ」
少年はにかっと笑って、リヒトの手を引いた。
けれどリヒトはその手を解いて、一人くらい表情を浮かべるフィズの前で膝を折った。
「どっかいけよ。目障りなんだよ」
「……フィズ」
「どうせお前も俺のこと、かっこ悪いって思ってるんだろ。俺、お前嫌い。俺なんか庶民でこんな色なのに、お前は王子様で、なんかキラキラした色で。……リーナはお前のことばっか、綺麗だって言うし」
フィズの髪と目の色は茶色だ。
リヒトのように、金糸を紡いだような色でも、美しい湖面のような碧ではない。
「俺のこと、馬鹿にしてるんだろ。なんでこんなことも出来ないのかって。馬鹿みたいだって」
「してない」
「嘘吐くなよ!!」
リヒトを責め立てる――でも、フィズのその声は、リヒトには泣いているようにも聞こえた。
いつも周囲の人間と比べて、自分がそうであったように。
リヒトは静かにフィズの目を見て言った。
「本当に、してないよ」
「……そんな言葉、信じられない」
下を向いたまま呟くフィズ。
そんな彼を見て、リヒトは苦笑いした。
――ああ。やっぱり、昔の俺みたいだ。
「……フィズ。上手く出来なくて、悔しい気持ちはわかるけど、人の話を聞かないのは違うだろ?」
フィズの柔らかい髪をそっと撫でる。
落ち着きのある優しい声で、リヒトは彼の名を呼んだ。
「昔の俺と比べたら、十分今のお前はうまいよ。だからそんなふうに、自分のことを否定するなよ」
「……」
「お前は俺のことが気に食わないかもしれないけどさ、あの子にいいとこ見せたいなら、俺と喧嘩するより、やるべきことがあるだろ?」
リヒトの言葉に、フィズは返事はしなかった。
そんなことをしているうちに、エミリーが手を叩いて、授業終了を告げた。
「今日の授業はこれで終了です! お休みが終わったら、また一度みんなでおさらいをしましょう。来週の舞踏会、みんなで楽しみましょうね!」
教室で一人だけ。
合格出来なかったフィズを置いて、昼食をとるためにみんな生徒は部屋から出ていった。
◇
昼休み。
リヒトは相変わらず、一人空の雲を眺めていた。
リヒトの護衛を任された二人は、リヒトから少し距離を取りながら彼を見守っていた。
空を眺めながら、静かだ、とリヒトは思った。
幼等部は庶民が特に多いということもあり、学院の中では外れに作られている。
そんな場所に、わざわざ来ようという者はほとんどいない。
学院に通いだしてから兄であるレオンも、これまで一度もリヒトのもとを訪れたことはなかった。
「まあ、兄上が……来るわけないか」
来てくれると心の何処かで期待していた。そんな自分に気がついて、リヒトは苦笑した。
いずれ自分から全てを奪う兄。
なんでも持っているその人が、出来損ないの自分を気にかけてくれるなんて有り得ないのに。
「――おい。リヒト」
「ん?」
リヒトが一人そんなことを考えていると、空を誰かが遮った。
「……フィズ?」
リヒトは思わず、気の抜けた声をこぼした。
「なんだよ。俺じゃまずいかよ」
「そういうことではないけど。驚いて」
リヒトは起き上がって首を傾げた。
まさかフィズが、自分に自発的に話しかけてくるなんて――予想外の事態だ。
「どうかしたか? 俺に何か用か?」
リヒトが問えば、フィズはリヒトから顔を背けた。
「俺に、教えて欲しいんだ。俺も、踊れるようになりたいから……」
「え?」
一度は自分を拒んだ人物の申し出に、リヒトは目を瞬かせた。
聞き間違いかと一瞬思う。
「だから……っ! いいから、俺を踊れるようにしろって言ってるんだよ!」
教えをこう側だというのに、相変わらずの上から目線の物言いに、リヒトは思わず笑ってしまった。
「……ふ。あははははっ!」
「な、何笑ってんだよ!」
「いや、だってまさかそう来るとは思ってなくて……」
笑ってこぼれた涙を拭う。
「……わかった。わかった、教えるよ。だったら、フィズ。俺が言うことには、ちゃんと聞けよ?」
「……わかってるよ」
「よし。なら、さっそく特訓しよう。大丈夫。フィズなら、すぐ出来るようになる」
「……なんでそんなことが言えるんだよ」
「だってお前は、俺より筋がいいから」
相変わらず拗ねてばかりのフィズに、リヒトは笑った。
リヒトの予想通り、フィズはすぐに上達した。
そして特訓の成果もあり、いつの間にかフィズは、他の生徒よりもうまくなっていた。
「――合格だ。フィズ」
「本当かっ!?」
フィズは目を輝かせ、リヒトに駆け寄った。
「うん。本当だ」
始めとは明らかに違う。
いつの間にか自分にいろんな表情を見せてくれるようになったフィズに、リヒトは微笑んだ。
なんだか、弟でも出来た気分だ。
「じゃあ、リーナを誘ったらリーナはOKしてくれるか!?」
「うーん……それはどうかな?」
「……やっぱり駄目なのか?」
首を傾げるリヒトに、フィズが顔色を曇らせる。
「いや、駄目とか駄目じゃないとかじゃなくて。それって、フィズかどうこうというより、リーナがどうするかだろ? でも、フィズが一緒に踊りたいって思うくらい上手ければ、きっとリーナもお前と踊りたいって思うんじゃないかな?」
「なるほど……。わかった。じゃあ、もっと練習する! よーし。リヒト、ちゃんと見てろよ!」
フィズはそう言うと、魔法人形での練習を再開した。
元気よく笑うフィズを見て、リヒトの頭の中に、過去の記憶が蘇った。
――苦笑いばかりで、上手く笑えないようになったのはいつからだったろう……?
ローズが魔王を倒し兄が目覚めるまで、リヒトはずっと自分の手では何も掴めないのだと思っていた。
けれど同時に、そんな自分を気にかけてくれた『誰か』がいたことは、幸福なことだったのかもしれないとも今の彼には思えた。
『リヒト様。違います。そこはこうだと、昨日もお教えしたはずですが?』
婚約者だから、ローズだから。
彼女が尽くしてくれることを、昔のリヒトは普通のことだと思っていた。
その時間を削って、リヒトが出来ない理由を一生懸命考えて、指導してくれたことに、感謝出来ていなかった自分に気付く。
『リヒト様にわかりやすいように、図を描いてみたんです。これなら大丈夫ですか?』
感謝どころか当時のリヒトは、自分に厳しいローズのことを、心の何処かで責めていた。
お前は出来るから、出来ない自分の気持ちがわからないのだと――だからこう厳しく自分に接するのだと。
今思えば、なんて自分は馬鹿なんだろうと思う。
『そんなに落ち込まないでください。大丈夫。リヒト様ならちゃんと、出来るようになりますから。一緒に頑張りましょう』
教える立場になって、リヒトは漸くわかった。
人に教えるのは、通常の何倍もの理解を必要とする。
それにローズは基本、何でもサラリとこなしてしまうのだ。
リヒトが『出来ない』からこそ人に教えるのが得意だと言うなら、最初から出来るローズは、出来ない理由を考えるのが大変だっのではないかと、今のリヒトは思った。
――結局は、全部俺のせいだ。
ローズ・クロサイトは優秀な人間だ。リヒトは心のどこかで、そんな彼女と共にあることが苦しかった。
出来損ないの自分と彼女の違いを、いつも見せつけられているようで。
リヒトには、忘れられない記憶がある。
それはレオン、ローズ、ギルバート――そして、ユーリと五人で過ごした時、交わされた言葉だ。
『僕としては、ローズが僕の王妃になってくれたら助かるなあ。僕が王様でギルが宰相で、ユーリが騎士団長。名案だとは思わない?』
『あっ。あの、兄上。ぼ、僕は……』
レオンは眠りにつく前、こんな話をしていた。
『リヒトは才能がないんだから、どこかの令嬢と結婚でもすべきなんじゃないかな? 良かったね。王族に生まれたおかげで選り取り見取り』
『そんな! 嫌です。僕だって、兄上たちと一緒がいいです!』
リヒトは立ち上がって叫んだ。
嫌だった。大切な幼馴染と、大切な人に、否定されるのが苦しかった。
自分も共にありたいと思っても、それすら許されず泣きたくなった。
『――リヒト』
そんなリヒトに対し、聞き分けのない子どもをなだめるように、レオンは言った。
『人にはね、向き不向きというものがあるんだよ。君は国王には向いていない。でも大丈夫。僕たち四人がいれば、この国は安泰だ』
誰もが王に相応しいと疑わなかった第一王子のレオン、真実を見極める瞳を持つ公爵子息のギルバート、全ての魔法属性に適性を持つ公爵令嬢のローズ。そして、『剣聖』に才能を認められたユーリ。
特別な彼らの中に、リヒトの居場所なんてどこにもなかった。
『君は、僕が守ってあげる』
『そうだな。お前は何も心配しなくていい。弟みたいなもんだしな』
『リヒト様、大丈夫ですよ』
『リヒト様は、この剣でお守りします』
『――……僕。僕、だって……』
誰からも信じてもらえない。
自分には、誰を守る力もない。その日リヒトは、大切な人々にそう言われたような気がした。
頑張っても無駄なのだと。
彼らと自分は、同じ線の上にさえ立てていないと。それは一生変わらないのだと――……。
十年間目覚めなかった優秀な兄。
誰からも望まれない弱い自分が、誰からも慕われるローズの婚約者であることは、心の何処かでだんだんと重荷になっていた。
レオンや兄が眠りについた時、重圧に押しつぶされて、壊れてしまいそうな彼女の力になりたくて、リヒトはローズに指輪を差し出した。
赤い瞳を持つ、強い力を持った幼馴染。
王妃となるべくして生まれたような、兄の妃になるはずだった相手。でも、その兄が目覚めないなら。
リヒトは、自分が彼女を笑わせたいと思った。
幼馴染みんなで過ごしたあの日々の中で、たとえ自分が一人だけ取り残されたように感じる瞬間があったとしても、リヒトはローズに、あの日のように笑っていてほしかった。
リヒトは、昔から人の笑う顔を見るが好きだった。
『兄上たちはもう、目を覚まさないかもしれない。だけど、俺はそばにいる。ローズを一人にして、泣かせたりなんかしたい。だから』
だから、婚約を申し込んだ。その日リヒトは、ローズに指輪を贈った。
『俺と、婚約して欲しい』
『――……はい。リヒト様』
でも、そばにいればいるほど。
自分は彼女に相応しくないのだと、リヒトはそう思い知らされた。
毎日、毎日。
自分に出来ることを重ねて、リヒトは努力したつもりだった。
けれどそれは、全部無駄だったと否定された。
『お前の魔法は認められない。発表することは許さない』
『何故。何故ですか……!』
『不完全な魔法。もしその魔法に何か不具合があったとき、お前は責任が取れるのか? そんなことがあれば、お前への評価も、この国の評価も、今よりも悪いものになる。可哀想だが、それがこの世界なのだ。魔力の弱い人間の作った魔法は、認められない。諦めなさい。リヒト』
紙の魔法。光の階段の魔法。
誰もなし得なかった古代魔法の復元。
それが出来れば、自分への評価は変わると信じて努力した。
けれど出来たとしても、リヒトは父にさえ認めてもらえなかった。
クリスタロスは資源が豊富な国だ。
その国の人間は、不思議なことに強い魔力を持つ者が他国よりは数が多い。
しかしその国土の広さは、大国であるグラナトゥムなどに比べればだいぶ劣る。
戦火の火種になるような厄介事を、リヒトの父は嫌う人だった。
そんな中で、救国の英雄――『剣聖』が亡くなり魔王は復活した。
魔王を倒すために、異世界から『光の聖女』は召喚された。
その少女は、リヒトの知る『女の子』とは、全く違う少女だった。
七瀬明は不思議な存在だった。
光の聖女として召喚されながら、力の使えない異世界の少女。
周りから期待されながら、その力を行使できない無力な存在。
『はじめまして。私は、七瀬明と言います』
『俺はリヒト・クリスタロス。この国の王子だ』
ローズとは違う柔らかな目元だとか、柔らかい雰囲気だとか。
庶民的というか、自分を取り繕わない彼女の雰囲気は、リヒトはそばにいて落ち着いた。気を使わずにいられた。楽だったといえばそれまでだ。
『魔法が使えることって、そんなに大事なことなんですか? 私の世界には魔法なんてなかったから、私にはそれがよくわからないんです』
『アカリは変わっているな』
もともと、異世界には興味があった。
異世界の話をアカリから聞くのは楽しかった。
ある日の夜、リヒトが一人部屋で魔法の研究をしていると、扉を叩く音がした。
『――はい』
誰だろう、と思った。
兄が眠りについてから、自分の部屋に訪れる人間なんて居なかったから。
『リヒト様。……入ってもいいですか?』
『アカリ!?』
思いもよらぬ声に、扉を開けたリヒトは目を瞬かせた。
『一体どうしたんだ? こんな夜遅く……』
『リヒト様とお話がしたくて、来てしまいました。駄目でしたか?』
彼女の手には夜食があった。
『駄目というわけではない、でも……』
リヒトは扉の入り口で、ちらりと自分の部屋を振り返った。
山積みになった本。書き散らかした紙と机と寝台。
魔法の研究のための部屋は、特に面白みのある部屋とは言えない。
それに相手が聖女とはいえ、婚約者のいる自分が、こんな時間に他の女性を招き入れていいはずがない。
勿論アカリは『異世界人』で、この世界の常識が通じないのはわかっていたけれど。
『すまない。君を部屋に入れることは出来ない。……少し散らかってるのもあるし、こんな時間だし……』
『そうですよね。こんな時間にすいません』
『俺の方こそすまない』
『リヒト様は魔法の研究をされているんですね』
アカリは、ちらっと部屋の中を見てリヒトに尋ねた。
『ああ。……その成果を、認めてはもらえてはいないけれど』
『でも、夜遅くまで頑張られていてすごいです。きっと、いつか周りの人も、それを認めてくれますよ。貴方には、貴方のいいところがある』
夜に女性が男の部屋を訪ねるなんて真似、本来であれば褒められたものではない。
ローズであればこうはならない。
でも、そんなアカリの気遣いや行動が、リヒトは少し嬉しかった。
『……だといいな』
リヒトは苦笑いした。
アカリの不思議と、たまに本当にリヒトが欲しかった言葉をくれた。
アカリは優しい子なのだと思った。
自分に心を砕いてくれる、彼女の力になりたいとリヒトは願った。
しかし、リヒトは魔法をうまく使えない。そんな自分が、彼女に教えを与え、支えることなんて出来ないことはわかっていた。
そんな日々を過ごす中で、リヒトはアカリへのローズの態度や行動が目につくようになっていった。
この国、この世界のために、たった一人招かれた異世界人《まれびと》。
異世界に無責任にも責任を押し付けられただけのアカリに対しても、ローズはいつものように厳しかった。
この世界で、アカリは弱者だ。
その相手を、強者であるローズが否定していいはずがない。
ローズは――彼女はいずれ、この国の母になる存在なのに。
『ローズ・クロサイト。俺は君との婚約を破棄する。お前は、王妃には相応しくない。弱き者を虐げるために力を使う。そのような人間が、国を守る国母となれるはずがない』
だから、婚約破棄しようと思った。
この国を救うために、世界から、家族から無理矢理引き離されたアカリに対して、ローズはあまりに無慈悲に思えたから。
そして兄が目覚める前のリヒトは、自分自身が周囲からの重圧で押しつぶされそうになっていて、アカリの心を思いやれない彼女を罰することこそが、正義だとしか思えなかった。
今になって思えば、なんて自分は浅はかたったのかとリヒトは思う。
もしローズとの婚約を破棄するにしたって、正式な手順を踏むべきだった。
アカリがいじめられていると勝手に思い違いをして、自分を支えてくれた婚約者を大衆の門前で断罪するなんて、馬鹿王子と罵られても反論が出来ない。
「……」
「おーい。リヒト? 何ぼーっとしてるんだ?」
「……あ。す、すまない」
フィズに声をかけられて、リヒトははっと我に返った。
「なら、いいけど。顔色悪いし、体調悪いならちゃんと言えよ? 一応俺、光魔法も使えるんだ」
「気を使わせてしまってすまない。大丈夫だ」
『光魔法も』
その言葉を聞いて、リヒトは苦笑いした。
複数属性持ちで、魔法学院の幼等部に通うことを許された平民。
フィズは今リヒトに教えをこうてはいるが、やがて彼はこの世界を担う人材になることだろうと思う。
自分とは違って。
「……そういえば、さ。俺はお前のこと馬鹿にしたのに、なんで俺に教えてくれるんだよ」
「俺もできなかったから……それに俺も、人に教えてもらったし」
フィズの答えに、リヒトはくすりと笑った。
「出来ないなら、人より頑張ればいい。頑張れば、人に追いつけることなら……」
「リヒト?」
――でも、魔法はそうはいかない。
リヒトの胸がずきりと痛む。
フィズはリヒトの僅かな雰囲気の変化に気付いて、心配そうに彼の名を呼んだ。
リヒトはその声を聞いて、ぱっと表情を戻した。
年下相手に、自分とは違って才能のある子どもに、余計な心配をさせるわけにはいかない。
「なんでもない。俺はお前が踊れるようになってくれたら嬉しい。それだけだ」
「リヒトって、あんま人のこと否定しないよな。先生が、リヒトは優しいから、リヒトに教えてもらいなさいって言った意味、わかるかも」
「え?」
「『駄目』とか『出来ない』ってさ、人に言わないじゃん。それって、すごいと俺は思う。そーゆーの言われると、やっぱり傷つくし。その気遣いとかは、やっぱお前って歳上なのかなって思うんだよな」
「……ありがとう」
リヒトは、フィズの言葉を聞いて少し笑った。
どうやら彼が自分のもとにきたのはエミリーの仕業だと知って、彼女の笑顔を思い出して、リヒトはわずかに心が温かくなるのを感じた。
でも、同時に思い出す。
かつて自分はアカリを、出来ないと言って部屋に閉じ込めたことがあることを。
だってまるで彼女は、自分のように見えたから。
誰かを思うことは出来るのに、自分や自分に似た相手だと、感情がうまく制御できない。
向けられる褒め言葉。優しいという誰かの声も、心の何処かでは、自分のことのように思えないところがあって。
嬉しいはずなのにいつだって、どこかで自分のことを否定する気持ちが止まらない。
そんな時だった。
「リヒト」
「ギル兄上?!」
突然知った声に名前を呼ばれてリヒトが振り返ったると、そこにはローズとレオン、ギルバートとミリア、そしてジュテファーとアカリの姿があった。
ジュテファー・ロッド。
ローズの婚約者、ベアトリーチェの弟である彼はレオンのそばに控えていた。
地属性を持つ、伯爵家の血筋の騎士。
彼はリヒトと違って、レオンのそばにいても、なんの違和感も抱かせない。
リヒトのそばにいたフィズは、彼らを見て目を瞬かせていた。
「練習は順調か?」
「……それなりに」
リヒトは、顔をそむけてぼそっと答えた。
「お前、先生してるんだって?」
そんなリヒトに、ギルバートは笑みを向けた。
「頑張ってるな」
「ギル兄上。俺のことを子ども扱いしないでください……」
幼い頃のように頭を撫でられて、リヒトは拗ねた。
「悪い悪い。ほら、さー。なんかお前って、中身五歳児みたいなとこあるから感慨深くてな」
「俺は五歳児ではありませんっ!」
リヒトは声を荒げた。
違う。自分は、変わったのに。頑張って、変わろうと努力したのに……。それをこの人は認めてくれないのかと、胸が苦しくなる。
リヒトはギルバートを見上げていた。
「――リヒト」
すると、リヒトを咎めるかのように声は響いた。
「あまりそう、声を荒げてはいけないよ」
「兄上……」
「仮にも君は王族なんだから。そのことを自負して行動しなければならない。君だって、それはわかっているだろう?」
「……申し訳、ございません……」
幼い子どもを叱るようにレオンは言う。
それは、遠い昔の頃と全く変わっていなかった。
あの日と今日とが重なって、リヒトは俯いた。
「生徒の指導を任されているとは聞いていたけれど、これではちゃんと出来てるか疑わしいな」
――レオン様。
ローズは、レオンを止めようとした。
しかしその声を遮るように、アカリの声が響いた。
「そこまで言わなくてもいいじゃないですかっ! リヒト様だって頑張ってるんだから……そういう言い方は酷いですっ!」
「……なぜ君が怒るんだ」
「目の前でひどいことをあなたが言うからですっ!」
「アカリ。落ち着いてください」
「ろ、ローズさん……っ!」
後ろからローズに抱きしめられて、アカリは顔を真っ赤に染めた。
最近ローズは発見した。
アカリは自分に抱きつかれると、何故か大人しくなることを。
「すいません。リヒト様。心配になって見に来ましたが、ご迷惑になってしまいましたか?」
「いや……別に。大丈夫だ」
リヒトはローズに抱きつかれているアカリを見た。
――……ちょっと、羨ましい。
その時ふと、そんな思いが自分の中に生まれて、リヒトがぶんぶん顔を振った。
――アカリが羨ましいなんて、俺は何を考えているんだ!?
心の中に生まれた感情を否定する。
ローズは挙動不審那リヒトのを見てきょとんとしていた。
「……リヒト様?」
「い、いや! な、なんでもない!!!」
リヒトは慌てて否定した。
「そうですか。なら良いのですが……。そういえば、今は指導もされているとか。頑張ってくださいね」
「……お、おう……」
ローズに微笑まれ、リヒトは小さな声で返事をした。
「むかつく」
レオンたちが帰って、すぐ。フィズは腕組みをして、苛立ちを行動で示していた。
「何なんだよ、アイツ。あの金髪の奴! めちゃくちゃ性格悪そうだったっ! 偉そうっていうかムカつく! 王子様っぽいとこが特にやだっ!!!」
「俺も王子なんだけどな」
――……『一応』。
リヒトは、心に浮かんだ言葉を声に出さず飲み込んだ。
「リヒトって、兄貴と全然似てないんだな」
「兄上は、優秀な人だから」
とても十年間、『魔王』のせいで眠っていたとは思えない。
十年間の壁をものともしない。
学院の入学試験で好成績をはじき出したあたり、兄や兄貴分であるギルバートは、自分とは違う人種のようにもリヒトには思えた。
「でも、俺はあいつなんか嫌い。自分は出来ますーって感じのやつって、やっぱ鼻につくんだよな」
「……」
「さっきの姉ちゃん優しくて良い人そうだった。リヒトのために怒ってたし! もしかして付き合ってるとか? リヒトにめちゃくちゃ合いそう。雰囲気とかも」
フィズは、アカリのことを嬉しそうに笑って話した。
「でも、『王子様』のほうは美人だけど気が強そうだし、俺はやだ。女子からキャーキャー言われるだけあってなんか男っぽいし。それに『頑張ってください』ってさあ、なんか上から目線じゃねえ?」
「……ローズは男っぽいってわけじゃ……。それに、上から目線ってわけじゃないと思うけど」
黙ってフィズの話を聞いていたリヒトだったが、ローズに対する批判には、リヒトは反論した。
上から目線というか、そもそもリヒトに教えてくれたのはローズなのだ。
ローズをフィズは男っぽいというが、婚約破棄する前は、ローズは普通に公爵令嬢らしい格好をしていた。
それにベアトリーチェの決闘を見守るときも、ドレスを着ていたし――……。
そんなローズを思い出して、リヒトはまた首を振った。
やっぱり騎士の格好も似合うけれど、女性らしい服を着ているときも綺麗だ、なんて――自分は何を考えているんだろう?
「やけに庇うな。知り合いなのかよ」
「知り合いというか元婚約者だ」
「……元?」
不意は首を傾げた。
「リヒト、婚約者いたのか?」
「これでも一応王子だからな。まあ、今は婚約は白紙になったけど」
「そう言えばそうだったな。リヒトって、あんまり偉そうじゃ無いっていうか、王子様っぽくないから忘れそうになるんだよな……」
「……よく言われる」
リヒトは苦笑いした。
◇
「できたのです!!!」
リヒトとフィズが話をしていた丁度その頃。
学院の中の研究室で、双子に呼び出されたロイは、彼女たちが作り出した【かめら】を黙って見つめていた。
「でもっっ!!! これは失敗作なのです!!!」
双子はそう言うと、片方が被写体となって【しゃしん】を撮った。
「……失敗なのか?」
「そうなのですっ!」
ロイの問いに、双子は元気よく答えた。
「ただ、これは面白い力を持っているのです!!! 陛下をお呼びしたのはそのためなのですっ!!!」
「面白い、力……??」
ロイは首を傾げた。
『彼』ほどではないとはいえ、天才と呼ばれる双子の発明品だ。彼女たちが面白いというのだからよほどのものなのだろうとロイは推測した。
「これは、魔力をためおくことのできる、器を映し出すことのできる【かめら】なのです!!」
「器を映し出す……?」
「そうなのです。これを使えば、その者の、今後の能力の推移のおおよその予測がつくのです」
彼女はそう言うと、先程自分の前でとってみせた【しゃしん】とは違う髪をロイに見せた。
そこには、人体の心臓付近に、赤と黒のはっきりした影が映し出されていた。
「空白が、現時点のその者の伸びしろなのです。赤は今の力なのです」
「確かに。これは、面白いな……」
紙を受け取ったロイは目を瞬かせた。
今の測定機を用いた検査では、その人間の伸びしろや、溜め置くことが出来る魔力の最大量ではなく、その人間が現在扱うことができる魔力量しか測れない。
魔力の強さは十五歳でおおよそ確定するというのが定説だが、これを使えば定説が覆るかもしれないとも彼は思った。
「しかし、これには問題があるのです。一枚【げんぞう】するのに時間がかかるのです」
「技術の進歩には時間がかかるのです」
「しかし最初は不完全なのは当然なのです」
「失敗から生まれたものでも、発見は発見なのです」
「これは新たなる一歩なのです!!!」
双子は交互に言う。
「ああ、確かに――これはこれで面白いかもしれないな。潜在能力を図ることも可能かもしれないし」
ロイはそういうと、いつものように優しく双子に笑いかけた。
「これは――まあ、実技の結果順でいいか」
ロイはポツリとそう呟く。
「この【かめら】で、学院の人間全員分の写真を撮ってもらって構わないか?」
「かしこまりました!」
「しかし、【げんぞう】には時間がかかるのです」
「全員の写真ができるのは、半年ほどかかるかもしれないです」
「作ったばかりものであればそれは仕方ないだろう。それで構わない。進めてくれ」
ロイは頷いた。
「彼は最下位だったからな。それまでに間に合わせてくれればいい」
「「彼?」」
双子はロイの言葉の意味がわからず、同時に首を傾げた。
「ああ。先日編入してきた他国の王子だ」
「ああ……。あの『馬鹿王子』ですか?」
「――……『馬鹿王子』?」
双子の言葉を聞いて、ロイは目を細めた。
「『令嬢騎士物語』と今回の試験結果もあって、そう呼ばれているのです。彼としては不本意でしょうが、仕方のないことなのです」
「魔法が使えない者が、この学院に入学出来たことをおかしいと言う者もいるのです。陛下の贔屓ではと」
「贔屓はしていないんだがな……まあ、仕方がないことか」
学院の試験において、実技より筆記のほうが、本来は難しいのだ。
その筆記で満点をはじき出したリヒトは、間違いなく知識だけなら学院一だ。
魔法の研究――その第一線の知識。まだ公開されて間もないものまで、問題には含まれていた。
リヒトはそれを難なく答えてみせた。
しかも公開された研究結果を知っていたわけではなく、自分で導き出したのだと言った。
リヒト自身に魔力はほとんどない。
けれど紙の鳥という古代魔法の復元といい、リヒトが公にしていない知識は、この世界の魔法を進化させる足がかりにもなる可能性があるものが多く見受けられた。
だからロイはリヒトを評価する。
けれどこの世界の信頼は、魔法を使える者である限り、『魔力』が重視されてしまう。リヒトに対する評価は、今は最低だと言ってもいい。
リヒトが不正をしたことを疑われるほど。
「知っているのです。筆記だけで見れば、その知識はこの世界の中でも優秀だと言って良いでしょう」
「あの年で、あの知識。最早、執念とも言ってもいいのです。でも、それだけのものを持ちながら、魔法を使えないというのは、可哀想ですが彼には魔法を使うの才能はないのかもしれないのです」
「そうだな……」
「しかし彼が、本当に力を手に入れたなら。きっとそのときは、誰も彼には勝てないと私は思うのです」
「なのです」
「?」
ロイは双子の言葉に首を傾げた。
「古代魔法の一つ――『三重の魔法陣』。もし彼がその魔法を復元出来れば、その時は世界の力の均衡を崩しかねない力を、彼は得るかもしれないのですから」
魔王の力をも跳ね除けた強大な力を持つ魔法。
それは、古代魔法の一つ。
古代魔法について、『こういう魔法があった』という記録が残されているだけだ気の魔法だったが、もしリヒトがその魔法を復元させることができたなら、世界の地図が変わる可能性だってあった。
魔王をも跳ね除けるほどの力。
その魔法を復元できたなら、国を消すことも、力を振りかざしてあらゆるものを奪うことも可能なはずだ。
「しかしあれには、かなりの魔力を必要とすると考えられているのではなかったか?」
「そうなのです。けれど力を使う人間は、別に彼でなくとも構わないのです」
「彼が魔法を使うための下地を作り、別の者がそれを使えばいいのです。強大な力を生み出す可能性を、彼は秘めている。そんな人間が、自分の力を知らないでいることは恐ろしいことなのです。彼は一体、どんな教育を受けてきたのです? もし周りの人間が、彼を否定しかしてこなかったというなら、それは、あまりにも愚かしい」
「人の才能に気づけないのは、才能を持たぬ凡人の証なのです」
「あの国の王は、国を守る王であろうという意識が強いからな。それに、リヒトのあの性格だ。魔法そのものから離れた生き方を、彼は息子に望んでいたのしれない」
自分で自分を追い込みすり減らし、それでも理想を追い求める。魔力という評価基準があるせいで、今のリヒトは卑屈に育ってしてしまっている。
価値の基準を変えることは難しい。何故ならそれは、世界を変えることと同義だからだ。
だったら親であるクリスタロスの王が、子に魔法とは別の道を選択させたいと思っても、おかしなことではないようにロイには思えた。
「親が子にしてやれる唯一のことは、子の可能性を見出し成長を見守ることだというのに。国王としては立派でも、彼の親は親としては失格なのです」
「その点私達の親は好きにさせてくれていい親だったのです」
「私達は天才なので当然なのです!」
「……まあ、親も人間だ。そう、責めてやるな」
ロイは苦笑いして言った。彼は静かに目を細めた。
お互いを思い合っていても、正しい選択をしようとしても、ままならないことがあることを、今のロイは知っている。
「しかし、陛下。やはり、彼のことはきちんと考えていかねばなならないのです。我が国をも脅かす可能性だってあるのです。彼をこちら側に招くことが一番ですが、それが出来ないならどうするおつもりなのです? 力を持つ者には責任が伴うのです。彼がその力を誤った方向に使わないように、導く者が必要なのです。彼の周りに、そんな人間はいるのですか?」
もし、リヒトが闇に落ちてしまったら。
彼が光を失えば、文字通り世界は闇に包まれるかもしれない。
魔王という脅威は消えても、リヒトという存在が、意思を持った魔王を生む可能性があるのだ。
「……そうだな。いるにはいるが、なかなか難しいかもしれないな」
「どうしてです?」
「彼女は彼がこの学院を卒業すれば、別の人間と結婚する予定だからな」
ロイはそう言って、窓の外を見た。
すると、その時。
「ローゼンティッヒ・フォンカートです。少しお話したいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「ああ、君か。入ってくれ」
扉を叩く音がして、男の声を聞いてから、ロイは中に入るよう言った。
双子の研究室ということもあり、ロイは扉にかけていた魔法を解いた。
「失礼いたします」
中に入ってきたのは、金髪赤目の男だった。
「突然申し訳ございません。しばらくの間、お暇をいただきたく参りました」
「君にはこれからも光魔法の教師として教壇に立ってもらいたかったんだが……なにか問題が起きたのか?」
「そういうわけではありませんが、実は古い友人に少し用がありまして。あと……」
男は、心からの笑みを浮かべた。
「妻が懐妊したのです。ですから少しでもそばにいて、彼女の支えになりたくて」
「君は、本当に愛妻家だな」
男の言葉にロイは笑った。
「私と彼女を引き離すものならば、祖国であろうと私は捨てますよ」
「……そういえば君は国ではなく、彼女を選んだのだったな」
はっきりと男は言う。
そんな彼の言葉に、ロイはかつて男がこの国にやってきた日を思い出して苦笑いした。
「わかった。君と彼女の子であれば、良い子が生まれるだろう。子どもが生まれたら、顔を見せに来てくれ。そしてまたこの学院で働いてもらえると助かる」
「ありがとうございます。その時は、是非。――それでは、私はこれで失礼いたします」
男はロイに頭を下げると、すぐに部屋を出ていった。
二人のやり取りを見ていた双子は、目を瞬かせて訊ねた。
「よろしかったのです……?」
「まあ、彼に関してはこの国にいる間臨時で頼んでいるだけだったからな」
ロイは双子に笑いかけた。
「しかし、あの彼が国に帰るとは……よほど重要なことなのか?」
「彼は何者なのです? ただの光魔法の教師ではなかったのです?」
「とんでもない。彼がこの学院に居てくれるのはこちらとしてはありたがたい限りだったが、彼は産まれも才能も、一介の教師にしておくには惜しい男だ。レオン王子が眠りについた際、彼を次期王にという声もあたっというからな。事実、彼にはそれだけの才能がある」
ロイは大きく頷いた。
「今のクリスタロスの騎士団長ユーリ・セルジェスカは、ベアトリーチェ・ロッドが指名したために、その座にいるに過ぎない。ローゼンティッヒ・フォンカート――彼はクリスタロスの前騎士団長であり、王妹、亡き『光の巫女』の血を継ぐただ一人の人間だ。魔力を持たない平民の恋人と引き離されるのが嫌で彼が国をでなければ、公爵令嬢である彼女は、彼と結婚して子を設けていてもおかしくはなかったほどだ。なんせ二人とも、赤い瞳の持ち主だからな」
かつてはくすんだ色に染めていた金色の髪を揺らして、颯爽と部屋を出ていった男を思い出して、ロイは苦笑いした。
瞳の色はわからない。けれどロイの知る『彼』は金髪だった。
ローゼンティッヒは『彼』とどことなく似ているが、『彼』ではないとロイは思った。
理由は簡単だ。
「もし彼が『彼』であれば、いくら愛する者のためとはいえ、国を捨てられるはずがないからな」
『彼』ならば国を選ぶ。
誰よりも民を思っていた『彼』が、個人《じぶん》を優先して国に不利益を与える可能性のある未来を選ぶわけがない。
「????」
ロイの言葉の意味がわからず、双子は首を傾げた。
「王様」
ロイの言葉の意味を知るシャルルは、静かにロイを呼んだ。
「気にするな。ただの一人言だ」
側に控えていたシャルルに声をかけられて、ロイはシャルルの頭を優しく撫でた。
「緊張します。ローズさん」
ドレスに身を包み、髪を結ったアカリは、落ち着きのない様子で呟いた。
今日の舞踏会の『景品』であるローズは、長い黒髪をいつものように高く結い上げ、双子が用意した『王子様』の衣装を纏っていた。
ローズがアカリの頭を優しく撫でると、アカリの頬がほんのり染まる。
「――ローズ嬢、『光の聖女』」
「ロイ様」
「うえっ」
そんな時、突然声を掛けられ、アカリはあからさまに顔を顰めた。
「『うえ』とはなんだ。『うえ』とは。全く、『光の聖女』。人に対する態度がなっていないぞ」
ロイは大きな溜め息を吐いた。
アカリは、やれやれといった様子のロイにカチンときた。
「なんで貴女は私のこと、いつもいつも『光の聖女』って呼ぶんですか! 私には、名前があるんです。ちゃんと名前で呼んでください!」
「……『アカリ・ナナセ』」
「フルネームで呼ばないでください!」
ギャンギャンとアカリは吠える。
その様子を見ながら、『ふるねーむ』? とローズは首を傾げた。
魔王討伐以外では異世界召喚が禁じられている今、異世界の記憶を持つ人間は、『異世界人《まれびと》』と呼ばれている。
彼らの多く国に招き入れ、保護している大国の王であるロイは言葉を理解しているようだったが、ローズは意味がわからずにいた。
「君は、本当に面倒で騒がしいな」
「私のせいみたいに言うのはやめてください。そうさせているのは貴方です!」
「まあいい。今日は君にご相手願う予定なのだから、くれぐれもおとなしくしていてくれよ」
「は?」
「俺と踊った少女が、野良猫だと言われるのは、俺もあまり気分の良いものではないからな」
「野良……っ!?」
アカリは、顔をかっと赤くした。
呼び方もムカつくが、野良猫だなんて失礼な!
「ロイ様。アカリをからかうのはおやめください」
「こうも態度に出して俺に怒る人間も少ないからな。なかなか面白くてな」
くすくすとロイは笑う。
「なっなっな……っ!」
アカリは、思わず手が出そうになった。一回殴らないと気がすまない。
「アカリ。――抑えてください」
しかし大国の王であるロイを、しかも人前で殴るのは問題だ。
ローズはアカリをなだめる為に、そっと彼女の手をとった。
「ローズさん……」
アカリと視線を合わせ、ローズは微笑む。
「ローズ嬢。君は今日の景品だ。こちらへ来てくれ」
だがロイは、アカリとローズの間に割って入ると、ローズの手を引いて壇上へと上がった。
そこには二つの椅子が置いてあり、一つはロイの玉座のようで、もう一つはロイのものには劣るが、立派な造りだった。
ロイはローズを椅子に座らせた。
そして彼女に王冠を被せると、ふわりと赤いマントをかけた。
「きゃああっ! 素敵!」
これで、『王子様』の完成だ。
女性陣からきゃあきゃあという声が上がるのを聞いて、ロイは満足そうに頷いた。
「あの、何故王冠をかぶる必要が……?」
「今日の趣向だ。それに、そちらのほうが盛り上がる」
困惑顔のローズとは対照的に、ロイは楽しげに笑って言った。
「では、舞踏会を始めよう」
ロイがそう言って精霊晶のはまった剣を天井に掲げると、大広間の天井が消え満天の星空が映し出された。
空には星が流れ、『こちら側』に現れた星は、壁にかけられていた蝋燭の一つ一つに、星の魔法を灯していく。
踊るように蝋燭のまわりをくるりと星が回ると火は大きなり、星が通り抜けた後の壁の装飾は、一瞬で別のものへと塗り替えられる。
星は、まるで子どもが駆け回るように楽しげに広間の中を飛び回ると、きらきらした星屑を人々に降らせた。
そして最後に、人々の手の中に落ち着くと、流星は金平糖へと変わった。
それはあまりに綺麗で甘くて、優しい魔法だった。
「これ、は……」
まるで夢でもみているかのような美しい光景に、誰もが目を見張った。
魔力の強さが地位に比例するともされるこの世界で、宴の演出は主催者の能力を知らしめるという意味もあるが、こんなに素晴らしいものを見るのは、ローズも初めてだった。
「学院の教師の双子は発明が得意でな。今日の演出も二人に任せている」
ロイの言葉を聞いてローズは驚いた。
天才と変人は紙一重だとはいうが、まさにあの双子に相応しい言葉だとローズは思った。
ロイが主催の舞踏会。
舞踏会では、主催かそれに親しいものが、最初に踊るのが普通だ。
ロイはローズを残して階段を下りると、アカリの体をぐいと引き寄せた。
「――光の聖女。俺と踊れ」
「あのですね。こういうのは、男性が『踊ってください』ってですね!!!」
ローズと踊るために仕方ないとはいえ、あまりにもムードのない誘い方に、アカリはイラッとした。
王様だというのに、そういう配慮も出来ないのか――そう思って、アカリはロイを睨みつけた。
「君は案外夢見る乙女なんだな。騒がしいから、そういうことは気にしない人間かと思ったが」
「んなっ!!!」
アカリの意志など関係ない。ロイがアカリの手を取り踏み出せば、美しい演奏が響き渡る。
楽器も、奏者も、魔法も――どれをとっても一級品だ。
「素敵!」
「ねえ、見て。ロイ様が笑ってらっしゃるわ」
「一緒に踊られている方はどなたかしら?」
ロイに導かれてアカリは踊る。
ロイは手に、黒い手袋をはめていた。
それが自分を気遣っての行動だと思うと、アカリは気に食わないとはいえ、ロイの足をわざと踏むことはできなかった。
「よかったな。注目されているぞ。『光の聖女』」
「だから、私の名前は光の聖女ではないと……!」
不満げなアカリを、ロイは笑ってそう呼んだ。
「まあ、あの方があの『光の聖女』様なの?」
「魔王を倒すために異世界から招かれた方!」
「なんて素敵なお二人かしら」
「聖女様ならロイ様と踊られていても違和感はないわね」
「可愛らしいお顔の方ね」
――『光の聖女』。
周りの人々の声を聞いて、アカリはふと、彼が自分のことをそう呼ぶのには、理由があるのかもしれないと思った。
もともとこの世界の人間で、有名だったローズと違い、アカリは顔も名前も広くは知られていない。
だとしたら、アカリの存在を周知させるには、名前ではなく肩書きで呼ぶのが効果的なのかもしれなかった。
ロイのように――『光の聖女』、と。
「……」
「静かになったな。自己紹介の前に君のことを皆が知ってくれたからよかったじゃないか。君はあまり、人と話すのは得意ではないだろう?」
「貴方は、最初からそのつもりで」
「さあな。とりあえず、君は今日は笑っておいたほうがいい。いくら俺と踊ることで君が選ばれやすいとは言っても、不機嫌でしかめっ面の女性を一番に選ぶわけもいかないのだから」
「……こう、ですか?」
アカリは精一杯笑ってみた。
だがその笑顔は、どこかぎこちない。
「作り物感がひどいな。もっと自然な笑い方は出来ないのか?」
「……」
しかし精一杯の努力へのロイの評価は散々なもので、アカリは本気でロイの足を踏んでやろうかと思った。
ロイ・グラナトゥムという男は、何もかもが見えているようで気に食わない。
「……君は本当に、彼女のためならなんだって我慢しそうだな」
――だから。
呆れたように呟かれたロイの言葉を、アカリは無視することにした。
二人のダンス終わると、どこからともなく拍手が起こった。
踊り終えたアカリはロイを置いて、すぐにローズのもとへ駆け寄った。
「食事はいいのか?」
「……これだけの人の多さですし、何かあったら困りますから」
「まあ確かに、君に泣き出されるのもは困るが」
ロイは冷静に呟く。
「アカリ、せっかくですし楽しんできてはどうですか? 何事も経験ですよ」
「でも……」
自分を気遣うように笑うローズの顔を見て、アカリは少しだけ苦い顔をした。
「……そうですね。やっぱり、ちょっとだけ食べてきます。ここのご飯、実は私の世界と同じものが結構あって、懐かしかったんですよね」
ぱっと表情を明るくして、アカリは階段をおりた。
走り去る様子は優雅とは言えないが、アカリらしいといえば、らしいと言える。
「……行ってしまいました」
ローズは苦笑いした。
「グラナトゥムの料理人には異世界人《まれびと》がいるからな。だがなんというか……それでもアカリは変わっているな。記憶と召喚の差かもしれないが」
「ロイ様はどうして、本人に対しては名前で呼ばれないのです?」
「こちらのほうが面白い反応が返ってくるからな」
「まるで子どものようなことを仰るのですね」
ロイの返答に、ローズはくすりと笑った。
「……まあ、こうやって話をできる相手は、俺にとって珍しい。だから君たちのことは、大切にしたいと思っている。彼がいなければ、君たちともこうはいかなかっただろうが」
「『彼』?」
大国の王の口から、『大切にしたい』などという言葉が出て、ローズは少し驚いた。
言葉といい態度といい、クリスタロス王国の人間に対するロイの態度は、国の規模からすれば恐れ多いことだが、やはりとても有り難い。
「ローズ嬢。一つ質問をいいだろうか」
「ええ。なんでしょう?」
「君は本当に彼らがこの学院を卒業したら、ベアトリーチェ・ロッドと結婚するのか?」
「そうですね。お父様たちも、それをお望みですし」
ローズの答えは、貴族の娘としては正解だった。
「そうか……」
だが答えを聞いて、ロイの顔は少し曇った。
「それが何か?」
「君は、これからリヒト王子がどうするつもりか何か聞いているか?」
「……リヒト様ですか?」
「ああ」
ローズは首を傾げた。
元婚約者について、どうして自分に彼が尋ねてくるのか理解出来ない。
「リヒト様については、私は何も……。アカリにプロポーズされていらっしゃいますが、陛下があまりよく思われていないので、保留という形になっているかと思うのですが……」
「保留?」
「陛下が認めてくだされば、というところだと思います。先日、レオン様がリヒト様にひどい物言いをされていたとき、アカリはリヒト様を庇っていましたし、仲は悪くないのではないかと思っていますが」
「……彼は、あまり兄とは仲が良くないのか?」
「レオン様は完璧主義なところがおありですから。リヒト様は自由といいますか……その、少し変わったところもお有りですので」
「……そうか」
ロイは腕を組んで、思案するように目を伏せた。
「もしかして、レオン様やリヒト様が何かご迷惑を?」
「いや、そういうわけではないんだが。……それにしても」
「はい?」
「なんというか、君も変わっているな。鋭いのか鈍いのか、よくわからないところがある」
「????」
苦笑いをして呟かれたロイの言葉の意味がわからず、ローズは再び首を傾げた。
◇
舞踏会に参加するため大広間に来ていたリヒトは、ずっと壁に寄りかかって楽しげな人々を眺めていた。
会場にかけられた魔法について、おおよその予想はついたが、それらを組み合わせることで場を盛り上げらせるように演出するという芸当は、今の自分には出来ないなとリヒトは思った。
魔法の仕組みはわかっても、使えないのと同様に、自分は芸術性に欠けている。
見たままを再現するのは出来たとしても、人に好まれるような構成を作り出せるかというとそうではない。
「リヒト!!!」
「フィズ」
リヒトが感心して広間を眺めていると、フィズが駆け寄ってきた。
舞踏会では服の指定は特にないが、庶民も通っていると言うこともあり、服を持たない者には無償で貸出が行われている。
学院から支給された服に身を包んだフィズは、髪をきっちり整えていて、いつもより凛々しく見える。
「お前は踊らないのか?」
「俺は、別に得意ではないからいい」
「えっ? 俺たちに教えてくれたのに、リヒトは得意じゃないのか?」
フィズの問いに、リヒトは曖昧に微笑んだ。
本当はリヒトはアカリを誘おうと思っていたが、リヒトはロイのように、アカリを輝かせる自信がなかった。
それにリヒトは、闇魔法を使えない。
「……」
リヒトは王冠とマントを被り、椅子に座るローズを見上げた。
ローズに、ロイが話しかけている。
赤い瞳を持つ人間。
魔力の強い証であるその色を宿した二人を見て、リヒトは顔を顰めた。
美男美女でお似合いだ。
クリスタロスにいた頃は、ローズはロイといる時明らかに嫌そうだったのに、今は心を許しているのか、ローズもロイも、その表情は柔らかいようにリヒトには見えた。
「まあ、踊りたい相手は俺が誘うと困ってしまうだろうから」
リヒトは困ったように笑った。
そして、ドレスを着たフィズの想い人を見つけて、リヒトはフィズの背を押した。
「さあ、行け。フィズ」
「うわっ。押すなよ! リヒトっ!!」
リヒトに突然背中を押されたフィズは、バランスを崩したまま足を踏み出し、いつの間にかリーナの前に来ていた。
「……フィズ」
よろめくフィズを見て、リーナは眉根を寄せた。
「お……俺と、踊ってくれ!」
しかし体勢を整えたフィズが、膝をついて懇願すると、リーナは一度瞬きしたあとに、『仕方ないわね』とフィズの差し出した手に自らの手を載せた。
「仕方ないわね。一回だけよ?」
「う、うん」
リーナから了承をもらえて、フィズは思わず照れ笑いした。
音楽が始まる。
授業では、一人踊れないまま終わったフィズが、リーナを華麗に導いていく。
「……いつの間にこんなにうまくなったの?」
「秘密」
リーナは、フィズの上達ぶりに驚いているようだった。
フィズは、リヒトの方に振り返って、歯を見せて笑った。
リヒトはフィズの笑顔を見て小さく頷いた。それからリヒトは、広間に集まった他の生徒たちを眺めていた。
中でも、一際目を引いていたのは。
「レオン様〜!!」
「兄上は相変わらずだな……」
たくさんの人の中でも、相変わらず目立つ兄の姿を見つけて、リヒトは嘆息した。
レオンは、高等部に在籍しているであろう女性たちに囲まれていた。
リヒトは少し予想外だったが、ギルバートとミリアが踊る予定はないようだった。
ギルバートが他の女性に声をかけられて踊るのを、護衛としてミリアは見守っていた。
いつもはミリアに構ってばかりなのに、今日のギルバートは、彼女を認識していないようにすらリヒトには見えた。
「ギル兄上は、何をお考えなのかやっぱりよくわからないな……」
ポツリリヒトは呟く。
ギルバートは、昔から不思議な人だった。
幼い頃、時折全てを見通しているようだとは感じていた。
未来を見通す光属性。
その属性と強い魔力の両方を持つ相手だったからこそ、リヒトはギルバートが、何も告げず眠りについたことを疑問に思ったものだ。
ギルバートであれば、こうなることはわかっていたはずなのに、と。
ローズが塔から落ちたとき、水属性を使えるギルバートがいれば、ベアトリーチェがいなくてもローズは助ったはずだ。
それなのに、ギルバートはあの場にいなかった。直前までそばにいたにもかかわらず、だ。
結果として、あの出来事があったからこそ、ローズはベアトリーチェに深い信頼を寄せるようになった。
しかしそれを見越して、妹の危機を見過ごしたと言うなら、それは兄としてはあまりに非情だ。
ローズは、ギルバートを兄として誰よりも敬愛している。
ギルバートも、いつもは妹であるローズを可愛がっているように見える。
だからこそその相手の危険を放置した理由が、リヒトにはわからなかった。
それに、ミリアのことだってそうだ。
ギルバートはミリアがローズを助けてから、『運命』と彼女のことを呼んでいるのをリヒトは知っている。
もしその『運命』が、『運命の相手』という意味での言葉なら、その相手を無視して他の女性と楽しげに踊るのは、あまりに薄情だ。
「……一体、何を考えて……」
ギルバートは、今日も人当たりのいい笑顔を浮かべている。
リヒトは時計を取り出した。
時計は二重構造になっており、その中には、ローズがかつてベアトリーチェのために国中に飛ばした四つ葉が入っていた。
時計は以前リヒトが作ったもので、リヒトがローズに贈った薔薇の入れ物のように、二重構造の一部分に生体を維持するための魔法がかけられている。
「もうそろそろ、時間か……」
もうすぐ、舞踏会は終了の時間だ。
少し眠いとリヒトが目を擦っていると、大広間に一人の少女が入ってきた。
一瞬で思わず目を奪われる。
海を思わせる青い髪は、緩やかに波打っている。
堂々とした態度はどこか雄々しく、雄大で静かな海を思わせる。
仮面の間からのぞく瞳は、まるで海の宝石アクアマリンのように煌めいていた。
身長は、アカリより小さくシャルルよりは大きい。
空色のドレスを身に纏った彼女の肌は真っ白で、その手には傷一つ有りはしない。
仮面をしていても明らかだった。
他の人間とは生まれも育ちも違う高貴さを、その少女は宿していた。
少女が入ってきた瞬間、誰もが自らの敗北を理解した。
彼女のために、道が開かれる。
――まるで、モーセの海割りだ。
アカリはその光景を見て、そんなことを思った。
その光景を見て、ロイは笑った。
玉座に座っていた彼は階段を降り少女に近づくと、恭しく彼女に頭を垂れた。
「一曲、踊ってもらえるか?」
「…………」
ロイは少女の手をとった。それと同時に音楽が変わる。
アカリとロイの組み合わせとは違う。
二人は、まさに完璧だった。
おとぎ話に出てくるヒロインが、王子様に魔法をかけられたと表現すべきなのがアカリなら、今ロイの手を取る少女は、生まれながらにプリンセスというべきオーラがあった。
曲が終わり、二人の手が離れる。
「素晴らしい時間だった。ありがとう」
ロイの言葉を聞いて、誰もが思った。
今日の勝者は彼女に決まりだ。
元々主催者であるロイの意向により勝者が決まるのだ。最初にロイがアカリを選んだときはアカリに決まると誰もが思ったが、圧倒的な差を見せつけられては、誰も反論はできない。
ロイに口付けられても、少女の方は表情一つ変えなかった。
「それでは、最優秀舞踏賞を発表しよう」
壇上に戻ったロイはそう言って、ローズに耳打ちした。
「あとは頼んだ。台詞はさっき伝えたもので頼む」
「かしこまりました」
ローズはロイの支持どおり、仮面の少女の前に立った。
「おめでとう。貴方が一番素晴らしかった。一緒に踊ってくださいますか? 姫君」
ローズはそう言うと、膝をついて少女の手の甲に口づけた。
「きゃああああっ!」
女性陣から声が上がる。
「本当に物語の王子様のようだわ。……ああ、私が踊りたかった」
「無理よ。あんなものを見せられたのでは、勝てる気がしないわ」
「……」
アカリもローズと踊りたかったが、格の違いを見せられてはどうにもできない。
「これ、貴方の指示ですよね?」
「ああ。面白い趣向だろう?」
アカリの問いに、ロイはにやりと笑った。
アカリは顔を膨らませた。
自分がされたら嬉しいが、他の誰かなら面白くない。
それにローズは今日の『王子様』なのは知っているが、ローズは男装はしているが女性なのだ。
その相手に同性相手に口付けるよう指示を出すなんて、大国の王とはいえどうなのか。
「君は不満らしいが、別に彼女は特に気にしていないようだったぞ。というより、同性のほうが気が楽らしい」
「……」
ロイの言葉をきいて、それもどうなのだろうかとアカリは思った。
ローズと少女の踊りは素晴らしかった。
ローズは相手を気遣うように微笑みを浮かべながらステップを踏む。
公爵令嬢としてのその表情と、彼女の格好の雰囲気の違いが、またローズに別の魅力を与えていた。
そんな彼女に見惚れていたのは、『王子様』とはしゃいでいた少女ばかりではない。
他国の王侯貴族も通う学院で、性別問わずその場にいた人間を、ローズは惹きつけていた。
『光り輝く赤き薔薇』――公爵令嬢と過ごしていた時から、ローズのことを持て囃すものは多かった。
ローズが王子《リヒト》の婚約者だったからこそ、身を引いた者も多い。
だからこそ、ローズが王子と婚約破棄をして、騎士として魔王を倒したとき、彼女を妻にと多くの国の王子たちが名乗りを上げた。
赤い瞳を持つ公爵令嬢。
そして、魔王を倒した器。
それだけでもローズには価値があると誰もが理解するのに、ローズ本人はほとんど無自覚だった。
ローズからすれば、人に優しくするのは当然で、強い魔力を持つ者が優遇されるのは当たり前で、周りの人間が自分に優しいのは当然でしかないのだ。
共に魔王を倒した『神に祝福された子供』――ロイをも倒した今の婚約者ベアトリーチェ・ロッドがいるために、求婚の決闘を申し込む者は今のところいないが、人が人を思う気持ちは止めることは出来ない。
ローズは今日も、無自覚に信者を増やしていた。
音楽が終わる。
ローズは少女の仮面に手を伸ばし、そっとその紐を解いた。
「仮面ははずさせていただだきますね。――姫君。どうか貴方の美しいその青の瞳を、私に見せてください」
『青の瞳』――ここまでは、ローズがロイに必ず言うように指示されていた台詞だ。
「お名前を、うかがってもよろしいですか?」
「……」
少女は答えない。
ただ、そんな彼女を見て、周囲の者たちがこそこそと話を始めた。
「『海の皇女』?」
「『海の皇女』様だ」
「まさかあの方が、この学院に……?」
「……有名な方なんですか?」
その様子を壇上から見下ろしていたアカリは、ロイに尋ねた。
「……彼女の名前はロゼリア・ディラン。青の大海『ディラン』の第一皇女。そして、この学院の創設者である三人の王――『海の皇女』の魂を継ぐ者であるといわれている」
「『海の皇女』……?」
アカリはもう一度、少女の方を見た。
青の大海。
波の神格化であるというディランを国の名にいただく国の皇女は、その名を体現したような容姿をしていた。
「緊張します。ローズさん」
ドレスに身を包み、髪を結ったアカリは、落ち着きのない様子で呟いた。
今日の舞踏会の『景品』であるローズは、長い黒髪をいつものように高く結い上げ、双子が用意した『王子様』の衣装を纏っていた。
ローズがアカリの頭を優しく撫でると、アカリの頬がほんのり染まる。
「――ローズ嬢、『光の聖女』」
「ロイ様」
「うえっ」
そんな時、突然声を掛けられ、アカリはあからさまに顔を顰めた。
「『うえ』とはなんだ。『うえ』とは。全く、『光の聖女』。人に対する態度がなっていないぞ」
ロイは大きな溜め息を吐いた。
アカリは、やれやれといった様子のロイにカチンときた。
「なんで貴女は私のこと、いつもいつも『光の聖女』って呼ぶんですか! 私には、名前があるんです。ちゃんと名前で呼んでください!」
「……『アカリ・ナナセ』」
「フルネームで呼ばないでください!」
ギャンギャンとアカリは吠える。
その様子を見ながら、『ふるねーむ』? とローズは首を傾げた。
魔王討伐以外では異世界召喚が禁じられている今、異世界の記憶を持つ人間は、『異世界人《まれびと》』と呼ばれている。
彼らの多く国に招き入れ、保護している大国の王であるロイは言葉を理解しているようだったが、ローズは意味がわからずにいた。
「君は、本当に面倒で騒がしいな」
「私のせいみたいに言うのはやめてください。そうさせているのは貴方です!」
「まあいい。今日は君にご相手願う予定なのだから、くれぐれもおとなしくしていてくれよ」
「は?」
「俺と踊った少女が、野良猫だと言われるのは、俺もあまり気分の良いものではないからな」
「野良……っ!?」
アカリは、顔をかっと赤くした。
呼び方もムカつくが、野良猫だなんて失礼な!
「ロイ様。アカリをからかうのはおやめください」
「こうも態度に出して俺に怒る人間も少ないからな。なかなか面白くてな」
くすくすとロイは笑う。
「なっなっな……っ!」
アカリは、思わず手が出そうになった。一回殴らないと気がすまない。
「アカリ。――抑えてください」
しかし大国の王であるロイを、しかも人前で殴るのは問題だ。
ローズはアカリをなだめる為に、そっと彼女の手をとった。
「ローズさん……」
アカリと視線を合わせ、ローズは微笑む。
「ローズ嬢。君は今日の景品だ。こちらへ来てくれ」
だがロイは、アカリとローズの間に割って入ると、ローズの手を引いて壇上へと上がった。
そこには二つの椅子が置いてあり、一つはロイの玉座のようで、もう一つはロイのものには劣るが、立派な造りだった。
ロイはローズを椅子に座らせた。
そして彼女に王冠を被せると、ふわりと赤いマントをかけた。
「きゃああっ! 素敵!」
これで、『王子様』の完成だ。
女性陣からきゃあきゃあという声が上がるのを聞いて、ロイは満足そうに頷いた。
「あの、何故王冠をかぶる必要が……?」
「今日の趣向だ。それに、そちらのほうが盛り上がる」
困惑顔のローズとは対照的に、ロイは楽しげに笑って言った。
「では、舞踏会を始めよう」
ロイがそう言って精霊晶のはまった剣を天井に掲げると、大広間の天井が消え満天の星空が映し出された。
空には星が流れ、『こちら側』に現れた星は、壁にかけられていた蝋燭の一つ一つに、星の魔法を灯していく。
踊るように蝋燭のまわりをくるりと星が回ると火は大きなり、星が通り抜けた後の壁の装飾は、一瞬で別のものへと塗り替えられる。
星は、まるで子どもが駆け回るように楽しげに広間の中を飛び回ると、きらきらした星屑を人々に降らせた。
そして最後に、人々の手の中に落ち着くと、流星は金平糖へと変わった。
それはあまりに綺麗で甘くて、優しい魔法だった。
「これ、は……」
まるで夢でもみているかのような美しい光景に、誰もが目を見張った。
魔力の強さが地位に比例するともされるこの世界で、宴の演出は主催者の能力を知らしめるという意味もあるが、こんなに素晴らしいものを見るのは、ローズも初めてだった。
「学院の教師の双子は発明が得意でな。今日の演出も二人に任せている」
ロイの言葉を聞いてローズは驚いた。
天才と変人は紙一重だとはいうが、まさにあの双子に相応しい言葉だとローズは思った。
ロイが主催の舞踏会。
舞踏会では、主催かそれに親しいものが、最初に踊るのが普通だ。
ロイはローズを残して階段を下りると、アカリの体をぐいと引き寄せた。
「――光の聖女。俺と踊れ」
「あのですね。こういうのは、男性が『踊ってください』ってですね!!!」
ローズと踊るために仕方ないとはいえ、あまりにもムードのない誘い方に、アカリはイラッとした。
王様だというのに、そういう配慮も出来ないのか――そう思って、アカリはロイを睨みつけた。
「君は案外夢見る乙女なんだな。騒がしいから、そういうことは気にしない人間かと思ったが」
「んなっ!!!」
アカリの意志など関係ない。ロイがアカリの手を取り踏み出せば、美しい演奏が響き渡る。
楽器も、奏者も、魔法も――どれをとっても一級品だ。
「素敵!」
「ねえ、見て。ロイ様が笑ってらっしゃるわ」
「一緒に踊られている方はどなたかしら?」
ロイに導かれてアカリは踊る。
ロイは手に、黒い手袋をはめていた。
それが自分を気遣っての行動だと思うと、アカリは気に食わないとはいえ、ロイの足をわざと踏むことはできなかった。
「よかったな。注目されているぞ。『光の聖女』」
「だから、私の名前は光の聖女ではないと……!」
不満げなアカリを、ロイは笑ってそう呼んだ。
「まあ、あの方があの『光の聖女』様なの?」
「魔王を倒すために異世界から招かれた方!」
「なんて素敵なお二人かしら」
「聖女様ならロイ様と踊られていても違和感はないわね」
「可愛らしいお顔の方ね」
――『光の聖女』。
周りの人々の声を聞いて、アカリはふと、彼が自分のことをそう呼ぶのには、理由があるのかもしれないと思った。
もともとこの世界の人間で、有名だったローズと違い、アカリは顔も名前も広くは知られていない。
だとしたら、アカリの存在を周知させるには、名前ではなく肩書きで呼ぶのが効果的なのかもしれなかった。
ロイのように――『光の聖女』、と。
「……」
「静かになったな。自己紹介の前に君のことを皆が知ってくれたからよかったじゃないか。君はあまり、人と話すのは得意ではないだろう?」
「貴方は、最初からそのつもりで」
「さあな。とりあえず、君は今日は笑っておいたほうがいい。いくら俺と踊ることで君が選ばれやすいとは言っても、不機嫌でしかめっ面の女性を一番に選ぶわけもいかないのだから」
「……こう、ですか?」
アカリは精一杯笑ってみた。
だがその笑顔は、どこかぎこちない。
「作り物感がひどいな。もっと自然な笑い方は出来ないのか?」
「……」
しかし精一杯の努力へのロイの評価は散々なもので、アカリは本気でロイの足を踏んでやろうかと思った。
ロイ・グラナトゥムという男は、何もかもが見えているようで気に食わない。
「……君は本当に、彼女のためならなんだって我慢しそうだな」
――だから。
呆れたように呟かれたロイの言葉を、アカリは無視することにした。
二人のダンス終わると、どこからともなく拍手が起こった。
踊り終えたアカリはロイを置いて、すぐにローズのもとへ駆け寄った。
「食事はいいのか?」
「……これだけの人の多さですし、何かあったら困りますから」
「まあ確かに、君に泣き出されるのもは困るが」
ロイは冷静に呟く。
「アカリ、せっかくですし楽しんできてはどうですか? 何事も経験ですよ」
「でも……」
自分を気遣うように笑うローズの顔を見て、アカリは少しだけ苦い顔をした。
「……そうですね。やっぱり、ちょっとだけ食べてきます。ここのご飯、実は私の世界と同じものが結構あって、懐かしかったんですよね」
ぱっと表情を明るくして、アカリは階段をおりた。
走り去る様子は優雅とは言えないが、アカリらしいといえば、らしいと言える。
「……行ってしまいました」
ローズは苦笑いした。
「グラナトゥムの料理人には異世界人《まれびと》がいるからな。だがなんというか……それでもアカリは変わっているな。記憶と召喚の差かもしれないが」
「ロイ様はどうして、本人に対しては名前で呼ばれないのです?」
「こちらのほうが面白い反応が返ってくるからな」
「まるで子どものようなことを仰るのですね」
ロイの返答に、ローズはくすりと笑った。
「……まあ、こうやって話をできる相手は、俺にとって珍しい。だから君たちのことは、大切にしたいと思っている。彼がいなければ、君たちともこうはいかなかっただろうが」
「『彼』?」
大国の王の口から、『大切にしたい』などという言葉が出て、ローズは少し驚いた。
言葉といい態度といい、クリスタロス王国の人間に対するロイの態度は、国の規模からすれば恐れ多いことだが、やはりとても有り難い。
「ローズ嬢。一つ質問をいいだろうか」
「ええ。なんでしょう?」
「君は本当に彼らがこの学院を卒業したら、ベアトリーチェ・ロッドと結婚するのか?」
「そうですね。お父様たちも、それをお望みですし」
ローズの答えは、貴族の娘としては正解だった。
「そうか……」
だが答えを聞いて、ロイの顔は少し曇った。
「それが何か?」
「君は、これからリヒト王子がどうするつもりか何か聞いているか?」
「……リヒト様ですか?」
「ああ」
ローズは首を傾げた。
元婚約者について、どうして自分に彼が尋ねてくるのか理解出来ない。
「リヒト様については、私は何も……。アカリにプロポーズされていらっしゃいますが、陛下があまりよく思われていないので、保留という形になっているかと思うのですが……」
「保留?」
「陛下が認めてくだされば、というところだと思います。先日、レオン様がリヒト様にひどい物言いをされていたとき、アカリはリヒト様を庇っていましたし、仲は悪くないのではないかと思っていますが」
「……彼は、あまり兄とは仲が良くないのか?」
「レオン様は完璧主義なところがおありですから。リヒト様は自由といいますか……その、少し変わったところもお有りですので」
「……そうか」
ロイは腕を組んで、思案するように目を伏せた。
「もしかして、レオン様やリヒト様が何かご迷惑を?」
「いや、そういうわけではないんだが。……それにしても」
「はい?」
「なんというか、君も変わっているな。鋭いのか鈍いのか、よくわからないところがある」
「????」
苦笑いをして呟かれたロイの言葉の意味がわからず、ローズは再び首を傾げた。
◇
舞踏会に参加するため大広間に来ていたリヒトは、ずっと壁に寄りかかって楽しげな人々を眺めていた。
会場にかけられた魔法について、おおよその予想はついたが、それらを組み合わせることで場を盛り上げらせるように演出するという芸当は、今の自分には出来ないなとリヒトは思った。
魔法の仕組みはわかっても、使えないのと同様に、自分は芸術性に欠けている。
見たままを再現するのは出来たとしても、人に好まれるような構成を作り出せるかというとそうではない。
「リヒト!!!」
「フィズ」
リヒトが感心して広間を眺めていると、フィズが駆け寄ってきた。
舞踏会では服の指定は特にないが、庶民も通っていると言うこともあり、服を持たない者には無償で貸出が行われている。
学院から支給された服に身を包んだフィズは、髪をきっちり整えていて、いつもより凛々しく見える。
「お前は踊らないのか?」
「俺は、別に得意ではないからいい」
「えっ? 俺たちに教えてくれたのに、リヒトは得意じゃないのか?」
フィズの問いに、リヒトは曖昧に微笑んだ。
本当はリヒトはアカリを誘おうと思っていたが、リヒトはロイのように、アカリを輝かせる自信がなかった。
それにリヒトは、闇魔法を使えない。
「……」
リヒトは王冠とマントを被り、椅子に座るローズを見上げた。
ローズに、ロイが話しかけている。
赤い瞳を持つ人間。
魔力の強い証であるその色を宿した二人を見て、リヒトは顔を顰めた。
美男美女でお似合いだ。
クリスタロスにいた頃は、ローズはロイといる時明らかに嫌そうだったのに、今は心を許しているのか、ローズもロイも、その表情は柔らかいようにリヒトには見えた。
「まあ、踊りたい相手は俺が誘うと困ってしまうだろうから」
リヒトは困ったように笑った。
そして、ドレスを着たフィズの想い人を見つけて、リヒトはフィズの背を押した。
「さあ、行け。フィズ」
「うわっ。押すなよ! リヒトっ!!」
リヒトに突然背中を押されたフィズは、バランスを崩したまま足を踏み出し、いつの間にかリーナの前に来ていた。
「……フィズ」
よろめくフィズを見て、リーナは眉根を寄せた。
「お……俺と、踊ってくれ!」
しかし体勢を整えたフィズが、膝をついて懇願すると、リーナは一度瞬きしたあとに、『仕方ないわね』とフィズの差し出した手に自らの手を載せた。
「仕方ないわね。一回だけよ?」
「う、うん」
リーナから了承をもらえて、フィズは思わず照れ笑いした。
音楽が始まる。
授業では、一人踊れないまま終わったフィズが、リーナを華麗に導いていく。
「……いつの間にこんなにうまくなったの?」
「秘密」
リーナは、フィズの上達ぶりに驚いているようだった。
フィズは、リヒトの方に振り返って、歯を見せて笑った。
リヒトはフィズの笑顔を見て小さく頷いた。それからリヒトは、広間に集まった他の生徒たちを眺めていた。
中でも、一際目を引いていたのは。
「レオン様〜!!」
「兄上は相変わらずだな……」
たくさんの人の中でも、相変わらず目立つ兄の姿を見つけて、リヒトは嘆息した。
レオンは、高等部に在籍しているであろう女性たちに囲まれていた。
リヒトは少し予想外だったが、ギルバートとミリアが踊る予定はないようだった。
ギルバートが他の女性に声をかけられて踊るのを、護衛としてミリアは見守っていた。
いつもはミリアに構ってばかりなのに、今日のギルバートは、彼女を認識していないようにすらリヒトには見えた。
「ギル兄上は、何をお考えなのかやっぱりよくわからないな……」
ポツリリヒトは呟く。
ギルバートは、昔から不思議な人だった。
幼い頃、時折全てを見通しているようだとは感じていた。
未来を見通す光属性。
その属性と強い魔力の両方を持つ相手だったからこそ、リヒトはギルバートが、何も告げず眠りについたことを疑問に思ったものだ。
ギルバートであれば、こうなることはわかっていたはずなのに、と。
ローズが塔から落ちたとき、水属性を使えるギルバートがいれば、ベアトリーチェがいなくてもローズは助ったはずだ。
それなのに、ギルバートはあの場にいなかった。直前までそばにいたにもかかわらず、だ。
結果として、あの出来事があったからこそ、ローズはベアトリーチェに深い信頼を寄せるようになった。
しかしそれを見越して、妹の危機を見過ごしたと言うなら、それは兄としてはあまりに非情だ。
ローズは、ギルバートを兄として誰よりも敬愛している。
ギルバートも、いつもは妹であるローズを可愛がっているように見える。
だからこそその相手の危険を放置した理由が、リヒトにはわからなかった。
それに、ミリアのことだってそうだ。
ギルバートはミリアがローズを助けてから、『運命』と彼女のことを呼んでいるのをリヒトは知っている。
もしその『運命』が、『運命の相手』という意味での言葉なら、その相手を無視して他の女性と楽しげに踊るのは、あまりに薄情だ。
「……一体、何を考えて……」
ギルバートは、今日も人当たりのいい笑顔を浮かべている。
リヒトは時計を取り出した。
時計は二重構造になっており、その中には、ローズがかつてベアトリーチェのために国中に飛ばした四つ葉が入っていた。
時計は以前リヒトが作ったもので、リヒトがローズに贈った薔薇の入れ物のように、二重構造の一部分に生体を維持するための魔法がかけられている。
「もうそろそろ、時間か……」
もうすぐ、舞踏会は終了の時間だ。
少し眠いとリヒトが目を擦っていると、大広間に一人の少女が入ってきた。
一瞬で思わず目を奪われる。
海を思わせる青い髪は、緩やかに波打っている。
堂々とした態度はどこか雄々しく、雄大で静かな海を思わせる。
仮面の間からのぞく瞳は、まるで海の宝石アクアマリンのように煌めいていた。
身長は、アカリより小さくシャルルよりは大きい。
空色のドレスを身に纏った彼女の肌は真っ白で、その手には傷一つ有りはしない。
仮面をしていても明らかだった。
他の人間とは生まれも育ちも違う高貴さを、その少女は宿していた。
少女が入ってきた瞬間、誰もが自らの敗北を理解した。
彼女のために、道が開かれる。
――まるで、モーセの海割りだ。
アカリはその光景を見て、そんなことを思った。
その光景を見て、ロイは笑った。
玉座に座っていた彼は階段を降り少女に近づくと、恭しく彼女に頭を垂れた。
「一曲、踊ってもらえるか?」
「…………」
ロイは少女の手をとった。それと同時に音楽が変わる。
アカリとロイの組み合わせとは違う。
二人は、まさに完璧だった。
おとぎ話に出てくるヒロインが、王子様に魔法をかけられたと表現すべきなのがアカリなら、今ロイの手を取る少女は、生まれながらにプリンセスというべきオーラがあった。
曲が終わり、二人の手が離れる。
「素晴らしい時間だった。ありがとう」
ロイの言葉を聞いて、誰もが思った。
今日の勝者は彼女に決まりだ。
元々主催者であるロイの意向により勝者が決まるのだ。最初にロイがアカリを選んだときはアカリに決まると誰もが思ったが、圧倒的な差を見せつけられては、誰も反論はできない。
ロイに口付けられても、少女の方は表情一つ変えなかった。
「それでは、最優秀舞踏賞を発表しよう」
壇上に戻ったロイはそう言って、ローズに耳打ちした。
「あとは頼んだ。台詞はさっき伝えたもので頼む」
「かしこまりました」
ローズはロイの支持どおり、仮面の少女の前に立った。
「おめでとう。貴方が一番素晴らしかった。一緒に踊ってくださいますか? 姫君」
ローズはそう言うと、膝をついて少女の手の甲に口づけた。
「きゃああああっ!」
女性陣から声が上がる。
「本当に物語の王子様のようだわ。……ああ、私が踊りたかった」
「無理よ。あんなものを見せられたのでは、勝てる気がしないわ」
「……」
アカリもローズと踊りたかったが、格の違いを見せられてはどうにもできない。
「これ、貴方の指示ですよね?」
「ああ。面白い趣向だろう?」
アカリの問いに、ロイはにやりと笑った。
アカリは顔を膨らませた。
自分がされたら嬉しいが、他の誰かなら面白くない。
それにローズは今日の『王子様』なのは知っているが、ローズは男装はしているが女性なのだ。
その相手に同性相手に口付けるよう指示を出すなんて、大国の王とはいえどうなのか。
「君は不満らしいが、別に彼女は特に気にしていないようだったぞ。というより、同性のほうが気が楽らしい」
「……」
ロイの言葉をきいて、それもどうなのだろうかとアカリは思った。
ローズと少女の踊りは素晴らしかった。
ローズは相手を気遣うように微笑みを浮かべながらステップを踏む。
公爵令嬢としてのその表情と、彼女の格好の雰囲気の違いが、またローズに別の魅力を与えていた。
そんな彼女に見惚れていたのは、『王子様』とはしゃいでいた少女ばかりではない。
他国の王侯貴族も通う学院で、性別問わずその場にいた人間を、ローズは惹きつけていた。
『光り輝く赤き薔薇』――公爵令嬢と過ごしていた時から、ローズのことを持て囃すものは多かった。
ローズが王子《リヒト》の婚約者だったからこそ、身を引いた者も多い。
だからこそ、ローズが王子と婚約破棄をして、騎士として魔王を倒したとき、彼女を妻にと多くの国の王子たちが名乗りを上げた。
赤い瞳を持つ公爵令嬢。
そして、魔王を倒した器。
それだけでもローズには価値があると誰もが理解するのに、ローズ本人はほとんど無自覚だった。
ローズからすれば、人に優しくするのは当然で、強い魔力を持つ者が優遇されるのは当たり前で、周りの人間が自分に優しいのは当然でしかないのだ。
共に魔王を倒した『神に祝福された子供』――ロイをも倒した今の婚約者ベアトリーチェ・ロッドがいるために、求婚の決闘を申し込む者は今のところいないが、人が人を思う気持ちは止めることは出来ない。
ローズは今日も、無自覚に信者を増やしていた。
音楽が終わる。
ローズは少女の仮面に手を伸ばし、そっとその紐を解いた。
「仮面ははずさせていただだきますね。――姫君。どうか貴方の美しいその青の瞳を、私に見せてください」
『青の瞳』――ここまでは、ローズがロイに必ず言うように指示されていた台詞だ。
「お名前を、うかがってもよろしいですか?」
「……」
少女は答えない。
ただ、そんな彼女を見て、周囲の者たちがこそこそと話を始めた。
「『海の皇女』?」
「『海の皇女』様だ」
「まさかあの方が、この学院に……?」
「……有名な方なんですか?」
その様子を壇上から見下ろしていたアカリは、ロイに尋ねた。
「……彼女の名前はロゼリア・ディラン。青の大海『ディラン』の第一皇女。そして、この学院の創設者である三人の王――『海の皇女』の魂を継ぐ者であるといわれている」
「『海の皇女』……?」
アカリはもう一度、少女の方を見た。
青の大海。
波の神格化であるというディランを国の名にいただく国の皇女は、その名を体現したような容姿をしていた。
目を閉じて本に触れる。
指に意識を集中させて、僅かな凹凸を読み取り、そこに『書かれた』言葉を辿る。
「リヒト何して……って。何だよこの本!? めちゃくちゃ難しいじゃん……」
フィズの声が聞こえて、リヒトはゆっくりと目を開いた。
「フィズか?」
「……リヒト。なんで目ぇ閉じて本読んでるんだ?」
「点字の本があったから、読んでみようかと思って」
「リヒト、そんなのまで読めるのか? この間はいろんな国の本読んでたし……。なんでいつも、本ばっか読んでるわけ?」
「そこに本があるから?」
「真面目に答えないと怒るぞ」
「……この学校にいる間に、たくさんのことを吸収したいんだ」
誤魔化そうとしたところ年下の友人に睨まれて、リヒトは素直に答えることにした。
「俺の国……クリスタロスでは、読めない本がここにはたくさんある。もしかしたらその中に、俺が求めていたもののヒントがあるかもしれない」
「でもこの本、点字だぞ。目がいい奴用のは他にあるだろ? なんでわざわざ」
「この本の著者は、生まれたときは見えていたけど、途中で目が見えなくなったんだ。確かに彼の著作は、点字でないものもあるけど、俺はこの本を、著者の視点で一度でいいから読んでみたいとずっと思っていて……」
リヒトはそう言うと、そっと本の表紙を撫でた。
「彼の人生が紡ぐ、言葉を辿りたいんだ。彼の魔法がこの世界に生み出された、根源に触れてみたい。彼が伝えたかった、本に込められた、本当の思いが知りたいんだ」
「……なんか意外。リヒトって、案外ちゃんと考えて生きてるんだな」
「意外って……。まあ確かに、ギル兄上に比べたら俺の考えはまだ浅いのかも知れないけど」
「ギル兄上?」
「ああ」
リヒトは頷くと、少し声の調子を落とした。
「『必要のないものなんて、この世界にはきっとない。この世のあらゆるものは、全てに繋がりがある。歴史を学ぶとき、そこには必ず原因があるように。血の繋がり、宗教、金の流れ。それらは全て、糸のように絡み合っている。学問も、言葉も、それだけを見るから難しくなる。物事は俯瞰して見ねばならない。そうでなければ人は、目の前の出来事に踊らされるだけになってしまう。先導を務める人間には、才能が必要だ。そして持ちうる知識を紐付け、簡略化できる能力――結び紐解く能力こそ、才能と呼ぶに相応しい』」
「……何それ。リヒトが考えたのかよ?」
「いや、これは――昔、ギル兄上が言っていた言葉で……」
リヒトはそう言うと、フィズから視線をそらした。
つい口調を真似をしてしまったことが、今更ながら少し恥ずかしい。
「『兄上』? いや、何歳だよ。ソイツ。随分じじいみたいなこと言うんだな?」
「ギル兄上は昔からこんな感じで……。今は18だけど、ギル兄上がこれは言ってたのは、確か……8歳だったかな?」
「はあっ!? はっさい!?」
眠りにつく前だったから、確かそのくらいだ。
リヒトが思い出したように言えば、フィズが声を上げた。
「いや、さっきのはどう考えても、子どもの言葉じゃないだろ!?」
「確かに……そう、だな?」
リヒトは首を傾げてから小さく頷いた。
確かに、今になって考えてみると、年の割に達観しすぎているような気もした。
自分やローズが、ギルバートという人間が、何でも知っている全能な神のように感じていたのものそのせいだろう。
そう考えて、リヒトは眉間のシワを深くした。
幼さ故に気付けなかった。
ギルバートに対するリヒトの『違和感』は、彼が目覚めてから大きくなるばかりだ。
「……」
ギル兄上は、一体何を考えているのか――?
リヒトが沈黙の中考え込んでいると、昼休みが終わる鐘が鳴り響いた。
もうすぐ午後の講義が始まる。
「あっ。鐘だ!」
険しい顔をするリヒトを、心配そうに見つめていたフィズは、その音を聞いて急いで荷物をまとめた。
「今日の午後は別だよな? じゃあ俺はこれから講義あるから! リヒトも頑張れよ!」
「……ああ」
やや遅れて返事をしたリヒトは、頭を振って立ち上がった。
「俺も、そろそろ行かないとな」
リヒトは講義の予定こそなかったが、急遽一五歳以上の生徒は講堂に集まるようにと言われていたのだ。
「一体、何が行われるんだ……?」
◇
「リヒト様」
リヒトが一人手持ち無沙汰で立っていると、背後からよく知った声に話かけられて、彼は勢いよく振り返った。
「ろ、ローズ。なんでお前がここに居るんだよ!?」
声が裏返る。
舞踏会での大立ち回りもあって、ローズは周囲に羨望の目を向けられていた。
リヒトはそれが苦手だった。
どうも落ち着かない、慣れない視線だ。
「何故って、アカリの付き添いに決まっているわけではありませんか」
「こんにちは。リヒト様」
ローズが溜め息を吐いて答えた後、ローズの後ろから、小柄なアカリがひょっこり現れた。
相変わらず騎士団の軍服のローズは、まるで姫を守る騎士のようだった。
「……ああ。元気か? アカリ」
「はい。おかげさまで」
――会話が終了してしまった!!
リヒトはアカリに話かけようとして、自分たちから視線を外し、周囲を警戒するローズに気づいて口を噤んだ。
「ローズさん、ローズさん」
「はい。なんですか? アカリ」
アカリはローズの仕事などお構いなしで、ローズに声をかけていた。
「これからのお話の担当の先生って、あの双子さんなんですよね?」
「ええ。そう聞いています」
「双子?」
リヒトは二人の話が見えず、思わず尋ねていた。
「ええ。私の舞踏会での衣装を作ったり、演出したりは同じ方がやられています」
「まさか……。それって、『マリーアンドリリー』か?」
「ご存知なのですか?」
「ご存知も何も、この本の著者だ」
リヒトは、手に持っていた本をローズに渡した。
「『天才が凡百の人間に教えるために噛み砕いて噛み砕いてついに粉になった本』???」
何だこの、人を見下して馬鹿にし腐ったようなタイトルは。
横から本を覗いていたアカリは、本の表紙を見て顔を顰めた。
「そんな表情になるのも無理はない。でも、確かににこの本の著者たちは天才だ」
「……天才?」
リヒトがアカリの問いに答えようとした瞬間。
窓にさっと黒いカーテンがかけられ、室内は闇につつまれた。
その空間の中で、静寂を切り裂くように、よく劣る高い声は響いた。
「ひとーつ!」
「一を聞いて千を知り」
カン!
どこからか響く太鼓の音と共に、スポットライトが一人の少女を照らす。
燕尾服を着て顔を隠すかのように仮面をつけた少女の頭には、英国紳士のような帽子が一つ。
「ふたーつ」
「能ある鷹は、気付かれる前に敵を爪で切り裂く」
カカン!
続いてスポットライトが照らしたのは、もう一人の少女だ。
スリットの入った赤いドレスを着た彼女の手には、杖《ステッキ》が握られている。
「みーっつ」
「凡百なる市民に時間を割いてやる優しさはオフェリア海峡よりも深い!」
カカカン!
「我ら!」
ドレスを着た少女が、燕尾服を着た少女が手にしていた帽子を叩いた。
すると中から、大量の鳩が現れた。
「マリーアンドリリー! 天才双子にして神の申し子!」
ちゅどーん!
仕上げとばかりに、二人の背後で何かが爆発して教室が揺れる。
本来荷物を置くための教壇の机を、まるでステージであるかのように使い、靴のままバッチリポーズを決める姿は、その人間が凡人とは違う感性を持っていることを示すには十分だった。
「オフェリア海峡ってなんですか?」
「世界で一番深いということが分かっていれば十分かと」
「なるほど」
「……ローズ、そこは冷静に答えるとこじゃないだろ」
「学ぼうという意思を持つことは良いことです」
「……」
ボケに見せかけて真面目過ぎてツッコめない。
気になるべきとこはそこじゃないだろというリヒトのツッコミは、アカリとローズには通じなかった。
「よく集まったのです。皆の衆! 今日一五歳以上の生徒を集めさせてもらったのにはわけがあるのです!」
「天才の我々は、最近新しい発明品を作ったのです!!」
「とても素晴らしいものなのです!」
双子はそう言うと、音も立てずひらりと机から降り、布を取り払って自らの発明品を披露した。
「異世界には、『カメラ』という、一瞬で絵を描くことのできる便利な魔法があるのです!」
「我々はその『カメラ』を作ろうとして……」
「見事に失敗したのです!!!」
………失敗したのかよ!?
誰もが偉そうな双子を見て思ったが、あまりにも堂々と言われては、誰一人としてその言葉を口に出すことはできなかった。
自らを天才だと豪語する双子は、あくまで自由に話を進める。
「どんな発明にも失敗はつきものなのです。しかし、この我々の失敗は、我々にとって大きな成功とも言えるのです!」
「これはなんと!」
「その人間の魔力の量――器を可視化できるものなのです!」
「器を可視化……?」
ローズは思わず言葉を繰り返していた。
まさか姿を映す『かめら』の話から、そんな話になるなんて全く予想していなかったからだ。
「今年度の魔法実技の成績順に『さつえい』を行うのです。実験体たち、さっさと一列に並ぶが良いです!」
「です!」
――今、実験体って言った!!!!
双子の言葉に、生徒たちの顔が青褪める。
この学校に通う者たちは、魔法を持つ『選ばれた者』たちなのだ。
そんな自分たちが、何故このような危険な『お遊び』に付き合わねばならないのか。
中には、不快感を顕にする者もいた。
「心配するななのです。この『かめれ』については、陛下がすでに被験者になっているので安全は保証されているのです」
――いや。自国の王を実験台にするなよ!!!
その瞬間、『全く、ここにいる人間は意気地なしばかりなのです』と暴言を吐く双子に対し、全員の心が一致した。
「あのう……」
そんな中、一人の生徒が手を上げた。
「すいません。器を可視化して、私たちに一体何の徳があるのですか?」
「我々に発言するなです。平凡な学生」
「えっ」
「演出家であり発明家でもある私たちがこの学院で教師を務めているのは、知識の浅く学のない者の中から少しでも使える人間を育てるためなのです。どう教えればいいかはこっちで考えているから、余計な発言は求めていないのです」
「なんというか、やっぱりなかなか強烈な方々ですよね」
アカリはしみじみ小声で言った。
「天才と変人は紙一重と言いますから。リヒト様しかり」
頷いて、ローズも小さな声で言う。
しかし、ローズの言葉が気に食わなかったリヒトは、立ち上がって大きな声で叫んだ。
「おい。ローズ、変人ってなんだよ!?」
一同の視線が、教壇の双子からリヒトへと変わる。
声を荒げたリヒトを冷静な目で見つめて、ローズは彼の背後を指さした。
「あ」
背後から冷気。
リヒトは冷や汗を垂らしながらゆっくりと振り返り、青筋を立てて笑う二人の少女を見て顔をこわばらせた。
「……――私たちの授業で喋るとはいい度胸なのです。リヒト・クリスタロス」
「へ?」
――どうして彼女たちが俺の名前を?
マリーとリリーは、「興味にない人間の名前は覚えない」と公言している。
リヒトは、自分が双子に認識されている理由が分らず固まった。
双子は、人格が破綻しているのは間違いなくとも、自分とは違って世界に認められた優秀な人間のはずなのに。
「せっかくなので特別に課題を与えてやるのです。しっかりこなすがいいのです」
「はっ?」
そしてそんな二人に『特別な課題』を与えられると言われ、リヒトは顔を青くした。
「な……なんで俺だけっ!?」
◇◆◇
全員分の撮影が終わり、『げんぞう』に時間がかかると言われた生徒たちは、本来の講義の時間より早めに帰された。
話によると撮影には時間はかからないが、それを『しゃしん』にするのには時間がかるらしい。
『しゃしん』は実技の成績順に『げんぞう』されることが決まり、『げんぞう』が最後になるリヒトは卒業までに間に合わないかもしれないと双子に告げられた。
みんなの前で。
大きな声で。
「いや、なんで本当に俺だけなのか、理解出来ないんだが!?」
おかげで、『あれが実技最下位で幼等部入りした馬鹿王子』と罵る声も聞こえて、リヒトは肩身が狭かった。
穴があったら入りたい。
おまけに、リヒトだけ課題まで出されたのだ。
しかもその課題は、かなりの難題だった。
「うーん。リヒト様はあの時声を上げて立たれてしまったので、それで目を付けられてしまったのではとしかいいようがないのではないでしょうか」
「アカリ……」
好意を告げている相手に、味方になるどころかさらっと失態を指摘され、リヒトは項垂れた。
せめて慰めの言葉が欲しかった。
「よっ! 災難たったな」
ローズ、アカリ、リヒト――。
三人が並んで話をしていると、後ろから揶揄するような、けれどどこか楽しげな声をかけられて、リヒトは振り返って相手の名を呼んだ。
「ギル兄上!」
「教師に目を付けられる様なことわざとするなんて。いや~。流石リヒトだな?」
その『流石』の使い方は趣味が悪い。
「でも、あれはローズが!」
リヒトはローズを指差した。
「別に私は思ったことを言っただけですので」
「お前、俺が変人って授業中に悪口を……」
「事実でしょう」
「……」
子どものように怒るリヒトに対し、ローズはいつものように平然としていた。
そんなローズの態度に、リヒトの表情がみるみるうちに暗くなる。
「…………まあまあ。落ち込むのは別にして。それで? どんな課題なんですか?」
リヒトに冷たい態度をとるローズを見て、アカリは慌ててリヒトに尋ねた。
「ええっと……これだ」
リヒトは、アカリの言葉に少し表情を明るくして、双子に渡された紙を取り出した。
「『透眼症の患者に対する効果的な処方について』……?」
それは、アカリは初めて聞く言葉だった。
「透眼症ってなんですか?」
「実を言うと俺もそこまで詳しくない」
リヒトは首を振った。
魔力の少ない自分が魔法を使うための魔法道具――魔法陣などの魔法の研究には取り組んできたリヒトだが、医療分野については、実はあまり詳しくないのだ。
アカリの問いに答えたのはローズだった。
「簡単に言うと、原因不明の魔力の低下に起因する視力の低下と、それに付随しておこる目の色素が薄くなってしまう病のことです。アカリもすでに知っているかとは思いますが、この世界で魔力を持つ人間の多くは、その人間の魔力の適性を、瞳の色に宿します。地属性の方は緑や茶色、風属性は金や水色、水属性は青。魔力の強さや弱さによって、別の色となるばあいもありますが……。透眼症は、病などにより魔力が弱くなり、視力の低下とともに瞳の色が失われる症状のことを言います。瞳の色が薄くなることを恥じて、色付きの眼鏡などをかけて生活する方もいらっしゃいますが、やはり奇異の目で見られることも多いそうです」
「よく知っていたな。彼の影響か?」
「……そのようなものです」
尊敬する兄に婚約者のことを指摘され、ローズはほんのり顔を赤く染めた。
リヒトはわずかに目線を下げた。
「まあ、落ち込むなよ? リヒト。あの王はお前のことを妙に気に入っているからな。もしかしたらこれも、彼からの指示かもしれないぞ?」
ギルバートは、リヒトの変化に気付いて、弟分の肩を軽く叩いた。
「あの王?」
「大陸の王は、お前を気に入っているだろう?」
「そんな馬鹿な」
リヒトはぶんぶん顔を横に振った。
「あいつはやたら突っかかって来るというか……。俺としては、完全に遊ばれているようにしか思えないんですが」
「彼は立場ある人間だ。気に入らない人間の為に時間を割くような人ではない筈だぞ。ここに来てからも、何度か会っているんだろう?」
「まあ……」
確かにそうだけれど……『気に入られている』と言われると妙な感じがして、リヒトは首を傾げた。
「この学校には世界中から立場ある人間や能力がる人間が集まっている。良い繋がりを結べれば、お前のためにもなる。――繋がりは、大事にしろよ」
「繋がりっていっても……幼等部は、子どもばかりなんですが」
「おや、お前はその見方でいいのか?」
ギルバートは大人びた笑みを浮かべた。
「ベアトリーチェの例もある。幼等部は子どもばかりだが、優秀さを買われて特別に入学を許されたものばかりが在籍しているとも言えるんだぞ? 優秀な人間を早いうちに見つけて自分側に引き入れることも、上に立つ者に必要な素質だぞ?」
ギルバートは、まるで子供にヒントを与える大人のような口調でリヒトに語りかけていた。
けれどその言葉に、リヒトは顔を歪めた。
「……俺は、そういう利害関係を考えて彼らと接したくないです」
拗ねた子供のように唇を尖らせる。
下を向いて、自分から目を逸らしたリヒトを見て、ギルバートはどこか懐かしむように目を細めた。
「そうだな。……それが、お前だったな」
そうして彼は、ふ、と笑みを浮かべて、下を向くリヒトの頭をわしゃわしゃ撫でた。
「ちょっ!? ぎ、ギル兄上っ! 子ども扱いはやめてくださいっ!!」
朝から整えた髪がぐちゃぐちゃだ。
リヒトは、鏡を取り出して髪を整えた。
王族として、身だしなみは整えていなさいと渡されたものだ。
「ああ、すまない」
百合の花の刻まれた鏡。
自分にそれを渡した相手を思い出して、リヒトは動きを止めた。
「あの、ギル兄上」
「なんだ?」
「……兄上は、どうされていますか?」
「レオンか? そうだな。優秀な友達が増えたかな」
自分とは、全く違う優秀な兄。
その兄から、リヒトは鏡を渡された。
鏡を渡した時のレオンの、呆れたような顔を思い出して、リヒトはまた下を向いた。
ギルバートは、そんなリヒトに気付いて、何か思い出したかのように手を叩いた。
「――ああ、そうだった。ローズ」
「なんでしょう? お兄様」
「お前に伝えておくことがあったんだった。ユーリ、今日来るらしいぞ」
「えっ?」
唐突な報告に、珍しくローズは目を丸くした。
兄の言葉が信じられず、ローズは思ったまま兄に尋ねる。
「何故ユーリが……それに、それではクリスタロスの守りは? 私はここにいてよろしいのですか?」
「お前が帰らずとも大丈夫だ。前騎士団長殿が、今は国に戻っているからな。はっきり言って、ユーリより彼のほうが安心だ。彼はユーリとは違って、光魔法が使えるからな」
「前騎士団長というと……?」
「ん? リヒトは会ったことなかったか? 簡単に言うと、お前の従兄弟なんだが」
「え」
今度はリヒトが目を丸くした。
確かに年上の従兄弟が騎士団長だったことは知っているが、今は行方不明扱いだったはずで、自分と兄が国を上げている時に、突然ユーリの代わりにクリスタロスに戻ったなんて想像もしていなかったからだ。
「因みに彼は既婚者だぞ」
「えええええ!?」
行方不明扱いだった従兄弟が既婚者!?
初めて聞く話に、リヒトは思わず叫んでいた。
「もっと面白いことを言うと、レオンが目覚めずリヒトが魔法を使えないままなら、ローズの婚約者にという話があがりかけた頃、彼は騎士団長の仕事をユーリに押し付けて国を出て行方知れずになっていた。彼は光の巫女――つまり国王陛下の妹君の第一子に当たる方だ」
ギルバートの発言に、とあることに気付いたローズが、ゆっくり手を上げて発言した。
「あの、お兄様……。その話が本当ならば、私はその方に出会う前に振られているということになるんですが……」
「まあ、気にするな」
あっけらかんとギルバートは言う。
「気になります!」
「気にします!」
そんな彼を前に、リヒトとローズと声がハモった。
「ユーリ様あああああっ!」
「本当に、麗しくていらっしゃるわっ!」
「銀の髪に金の瞳。ああ本当に、天剣の名に相応しく、まるで天使のように美しい方ね」
「それに契約獣は銀色に金の瞳の鳥だなんて、とってもお似合いだわっ!」
銀色の髪に金の瞳。
クリスタロス王国騎士団騎士団長ユーリ・セルジェスカがグラナトゥムに到着したのは、午後二番目の講義が始まる頃だった。
魔法実技の講義のためにリヒトが幼等部に帰る頃、銀色の大翼の生き物に乗った青年は、静かに地に降り立った。
白地に金の飾り。
クリスタロス王国の軍服は、まるで彼のために仕立てられたようだった。
「ユーリは国外でも、こんなに人気なんですね……」
きゃあきゃあと黄色い声が響く。
幼馴染が女の子たちに囲まれている様を、ローズはどこか冷めた瞳で眺めていた。
「ローズさんも似たようなものだと思います。というより、多分ローズさんのほうがファンの数も多いと思うんですけど……」
「妹はこう見えて鈍いんだ。しかも無頓着だからな。まるで人の好意には気付いてないぞ。危機感も皆無だ」
自分のことにはまるで興味のないローズは、ユーリを見て、ふとあることを思いだして尋ねた。
「そういえばずっと気になっていたのですが、ユーリの出自について誤解されている方って多いのでしょうか?」
「まああの外見だし、曲がりなりにも『騎士団長』だからな。ユーリは平民の出だが、本人の魔力の高さもある。貴族の落胤を疑われるのも仕方がないな」
「ユーリはあまりミリアとは似ていませんし……」
「そうだな」
ギルバートは静かに頷いた。
ミリアとは違って、ユーリには華がある。
「ところでお兄様。ミリアは一体どこに?」
「ずっと護衛は疲れるだろうと思ってな。少しだけ眠ってもらった」
ミリアが仕事を放棄して惰眠を貪るはずがない。つまり無理矢理眠らせたということである。そのことに気付いて、ローズは溜め息を吐いた。
「……お兄様。ミリアに手荒な真似はなさらないでくださいね」
「傷つけるような真似はしていない」
ギルバートは静かに目を伏せた。
ローズは、その返事を聞いて胸をなでおろした。
兄は妹である自分に嘘は言わない。
二人が騒ぎを傍観してのんきに話をしていると、ローズを見つけたユーリが叫んだ。
「すいません。通してください! 自分はローズ様に用が……」
「ローズ、呼ばれているぞ」
「お兄様、私があの中に私が入っても無意味です」
「ローズ。助けを求めている幼馴染を前に冷静に言うなよ。今はお前の上司でもあるんだろう?」
「……」
――さあ、早く行け。
兄に促され、ローズは渋々前に出た。
「申し訳ありません。少し道を――……」
しかしその時、上空を影が横切り、ローズは一歩下がった。
「きゃあっ! 空から人がっ!!!」
ユーリに群がっていた生徒の悲鳴が響く。
「ユーリ・セルジェスカ!」
それとほぼ同時、怒気を含んだミリアの声と、金属がぶつかる音が響いた。
「なぜ貴方がここにいるのです!?」
「ミリア!? 突然斬りかかってくるなよ!」
ユーリはなんとか防いだものの、突然短剣を向けられて、ミリアにおされる形となっていた。
強化魔法の使い手。
ミリアの速さには対応できたとしても、ユーリの力は、物理的にはミリアに劣る。
「貴方は自分の立場をわかっているのですか!? ユーリ・セルジェスカ!」
「なんの、ことだ……っ!」
ローズからすれば、いつもどおりの従姉妹同士の喧嘩に過ぎない。
けれど観衆たちは、魔王を倒した『あの』ユーリ・セルジェスカを、力で圧倒する平凡な顔をしたメイドを見て、一様に眉を顰めていた。
「何ですの? あの方」
「あの力……もしかして強化魔法……?」
「女性なのに? 野蛮だわ」
その声に気付いて、ミリアの剣を持つ手に力が籠もる。
「――ミリア、剣を納めろ」
それを見て、二人の間に割って入ったギルバートは、慣れた手付きでユーリから剣を奪うと、そのまま切っ先をミリアに向けた。
「ここは国の外だ。ミリア・アルグノーベン。俺の護衛として、君には勝手な行動は慎んでもらう。これは命令だ」
「……っ」
ギルバートに命令だと言われれば、ミリアは逆らえなかった。
アルグノーベンは元々、公爵家の執事の家系だ。主人に武器を向けるのは、彼女の血が許さない。
ミリアは唇を噛んで短剣を下ろした。
「賭けは、俺の勝ちだな」
ミリアを背に庇い、ギルバートはにこりと優雅な笑みを観衆に向けた。
「すまないが、彼はこれから用がある。君たちの相手は出来ない。ユーリ、ローズ。一度場所を移動しようか」
余裕を感じさせる貴族的な笑み。
ローズには、今のこの瞬間だけは、兄は『次期公爵』だと確かに思えた。
◇
「ローズ様にビーチェから、手紙を預かっています」
「ビーチェ様から?」
ローズたちはその後、薔薇園に移動した。
学院の中にある薔薇園は、公爵家の庭とどこか似た造りをしており、ローズのお気に入りの場所でもある。
手紙にはこう書かれていた。
【ローズ様
お元気でお過ごしでしょうか。
クリスタロスは平和な日々が続き、騎士団の団員も変わりなく過ごしております。
ただ異国で過ごす貴方のことが心配で、この手紙を書いている今も、叶うなら手紙を運ぶ輝石鳥の背に乗って、貴方にお会いしたいという思いは募るばかりです。
しかしローズ様がいらっしゃらない中、私は陛下のためにも、国を離れることは出来ません。
ですから私は、ユーリにこの手紙を託しました。
現在クリスタロスは、ユーリの代わりに、前騎士団長である私の友人を呼び寄せております。
ですからローズ様は引き続き、アカリ様の護衛に専念なさってください。
もし必要なものがあれば手配いたしますので、遠慮なく仰ってくださいね。
最近は肌寒くなってまいりましたので、どうか体にはお気をつけください。
遠く離れても、今日も貴女のことを想う婚約者より。
ベアトリーチェ・ロッド】
「ビーチェ様……」
ベアトリーチェの手紙は相変わらず丁寧で優しく、そして情熱的だった。
輝石鳥に乗って自分の元に来たいだなんて、まるで恋人に語らうようではないか――そう思って、ローズは顔を赤くした。
恋人、ではない。彼は自分の婚約者だ。
しかし彼は空を飛べない。そして立場があって、彼は国から出られない。
その状況の中、ユーリに手紙を渡したベアトリーチェを思って、ローズはためらいがちに手紙を胸に抱いた。
「……お元気そうで安心しました」
そんなローズを見て、ユーリは苦笑いした。
「何故今日来ると、早く教えてくれなかったのですか?」
「ビーチェの手前、手紙を出すのは憚れてしまって。ギルバート様には先にお伝えしていたのですが……?」
「ああ。だからさっき言った」
ギルバートは悪びれた様子もなくさらりと言った。
「………………さっき!?」
ユーリは沈黙の後に叫んだ。
「ああ。だって、そっちのほうが面白いだろう?」
「面白いって……。そんな……」
「ユーリは、すぐに帰るのですか?」
「いえ。少しの間ですが、私はこの国にとどまらせていただくことになっております」
「?」
「手紙を届けるだけなら、輝石鳥でもこと足りる。自分がここに来たのは、魔王を倒した四人のうち三人に、特別講義を頼みたいと依頼があって――……。ローズ様とアカリ様と私、の三人ですね。それが終わるまでは、この国にとどまる予定です」
「では、その間は――」
「前騎士団長、ローゼンティッヒ・フォンカート様が、代わりをつとめてくださるとビーチェからは聞いています」
ユーリはそう言うと、にこりとローズに笑いかけた。
「ユーリ」
「はい?」
「そのことに関して、お前は何か思うことはなかったのか?」
ギルバートは、ローズに笑顔を向けるユーリに静かに尋ねた。
「何か、とは?」
「ミリアはわかっているようだがな。……まあ、わからなければそれでいい」
「???」
ユーリは、ギルバートの問いの意味がわからず首を傾げた。
「そういえば、お兄様。ミリアと、なんの賭けをなさっていたのですか?」
「ん? まあ。そうだな……」
ギルバートはいつもとは少し違って、妹の問いに答えるまで時間をかけた。
「簡単なことだ。ユーリがここに来るかどうか、だよ」
「???」
ユーリ同様、ローズもギルバートの意図がわからず、きょとんとした顔をした。
◇
金色の髪に赤の瞳。
クリスタロス王国の王族特有の金髪に、強い魔力を持つ証である赤の瞳。
「ベアトリーチェ! 久しぶりだな。元気にしていたか?」
長身痩躯のその男は、植物園に入るなり、植物の様子を記録していたベアトリーチェに背後から抱きついた。
「は、離してくださいっ!」
「お〜〜。よしよし。相変わらず小さいな。昔と全く変わらなくて安心したぞ」
暴れるベアトリーチェを、片手で抱き上げて頭を撫でる。
「ローゼンティッヒ! 子供扱いはするなとあれほど!!!」
「ああ、悪い悪い。十歳は大人だったな」
ローゼンティッヒは揶揄するようにそう言うと、暴れる『子ども』の体をおろした。
おかげで、当の『子ども』はご立腹だ。
「……わざと私を怒らせるようなことを言って試さないでください。今の私は、それくらいで力を暴発させるようなことはありません」
「悪い悪い。昔のお前からの成長具合が見たくてな」
「全くもう……」
ベアトリーチェは溜め息を吐いた。
ローゼンティッヒ・フォンカート。
現国王の亡き妹、『光の巫女』の血を継ぐ唯一の人物で、クリスタロス王国騎士団前騎士団長。
彼は、以前はありあまる力を暴発させていたベアトリーチェが常に理性的でいられるように、言葉遣いを直させた張本人だ。
その彼に「合格」と言われ、ベアトリーチェはなんだか昔に戻ったような気がして、突然一方的に連絡を断った相手に対し、恨み言を言おうとしていたがやめた。
リヒトとローズが婚約関係があった間もずっと、次期国王としてローズとの結婚を望む声があり、当時の恋人を連れ国を出たローゼンティッヒは、長くベアトリーチェに、自らの所在を明かしていなかった。
時折手紙は届いたものの、いつも発送先は違うし、姿を変え偽名を使い、身分を偽って行動しているローゼンティッヒの所在を、ベアトリーチェはずっと知ることが出来ていなかった。
――魔王がローズにより倒され、時期国王に望まれていた、レオンが目覚めるまでは。
「その髪の色は?」
変装――といえば。
ベアトリーチェは、自分の知る彼とは違う髪色に気付いて尋ねた。
くすんだ金色だった筈のローゼンティッヒの髪が、美しい金色に変わっていたからだ。
「ああ。レオンが目覚めたから戻したんだ。俺はもともと、この色だしな」
「……なるほど」
ベアトリーチェは静かに頷いた。
つまりレオンが目覚めたから、クリスタロス王家の象徴である金色の髪を隠す必要がなくなったということだ。
二人が植物園で話をしていると、メイジス・アンクロットが現れ、ローゼンティッヒに気付いて深く頭を下げた。
「お久しぶりです。ご健勝のようで何よりです」
「おお。アンクロット! 久しぶりだなあ! 元気にしていたか?」
「はい。恐れ入ります」
メイジスは、ローゼンティッヒに背中を叩かれても動じることなく、いつものようににこりと笑う。
「お飲み物をお持ちします。どうぞこちらでお待ち下さい」
メイジスは、ローゼンティッヒをテーブルに案内すると、静かに椅子を引いた。
「ああ、ありがとう」
「いえ」
メイジスはまた柔らかく微笑むと、二人に一礼して背を向けた。
「メイジス。私が作ったケーキも一緒にお願いします」
「はい」
ベアトリーチェは立ち上がり、メイジスに頼んだ。
メイジスは少しだけ驚いた表情を浮かべた後、小さく笑って頷くと、奥の部屋へと消えていった。
「――『メイジス』、ねえ?」
「……なにか問題でも?」
ガラス張りの植物園では、緩やかに時間が流れていく。
ローゼンティッヒは、昔より落ち着きを備えたように見える弟分を見てニヤリと笑った。
「漸くそう呼ぶ仲になったのか? お前も少しは成長したか?」
「別にどうでもいいでしょう」
「それにケーキ、だなんて。お前が菓子づくりをするなんて意外だ」
「ローズ様がお好きなんです。ですので、その練習に。口に合わないことはないと思うので貴方にもごちそうして差し上げます。とは言っても、彼女に出すものとは違って、今回作ったのは甘さは控えめですが」
「お前、昔から甘いものはそんなに好きじゃなかったからなあ……。愛だな」
「五月蝿いですよ。ローゼンティッヒ」
冷やかすような言葉と態度に、ベアトリーチェは冷たい声で返した。
「拗ねるなよ。子供っぽいぞ」
「五月蝿い」
ベアトリーチェは、今度は言葉を飾らなかった。
あからさまな不快感を示す弟分。
相変わらずの彼の態度に、ローゼンティッヒは思わず笑ってしまった。
ベアトリーチェはメイジスと過ごす中で彼に少し似てきたが、本質的なところでは、まだまだ彼には及ばない。
「婚約者もできたということだし、お前にも俺のような大人の色気というやつが……」
「大人の色気?」
ローゼンティッヒの言葉を、ベアトリーチェは鼻で笑った。
「貴方はまるで変わっていないように思えます。中身が変わらないのでは、色気も何もないでしょう?」
「お前は昔より口だけは達者になったなあ」
「人間そう中身は変われません。貴方も、私も」
「自分で言うなよ」
「でも私より変わっていないのは、貴方の方です。大人げない」
「はいはいそうだな。俺が悪いな」
「なんですか。その、乱暴な返事は」
「……」
――こいつ、相変わらずめんどくさいな。
自分の言葉一つ一つに反応するベアトリーチェに、ローゼンティッヒはそう思った。
そして、ずっと疑問だったことを尋ねた。
「しかし、いいのか? 愛する婚約者に、彼女に好意を寄せている人間を近付けて」
「…………」
ローゼンティッヒの言葉に、ベアトリーチェの動きが止まる。
ユーリがローズに恋心を抱いているという話は一度もしていないのに、それを話題にするあたりが『読めない』――ベアトリーチェは顔を顰めた。
「大丈夫ですよ。私は――ユーリのことも、好きですから」
「信じてるんだな」
にっと笑うローゼンティッヒに、ベアトリーチェは返事をせずに小さく笑う。
そんな話をしていると、お茶とお菓子を持ってきたメイジスがやってきた。
ステンドガラスのような美しいテーブルの上に、質のいい陶器が並べられる。
「どうぞ」
メイジスは、ケーキの載った皿をローゼンティッヒの前に置いた。
「あ、これ俺の好きなやつ」
「存じております。実は昨晩、貴方のためにベアトリーチェが、一生懸命作っていたんですよ。果物から切って……。可愛らしいでしょう?」
「……め、メイジス!?」
差し出されたハーブティーを優雅に飲んでいたはずのベアトリーチェは、突然の発言に噎せてから、ぎっとメイジスを睨みつけた。
「なるほど。お前は、婚約者と天剣君と、そして俺も好きなんだな??」
明らかな動揺。
その様子を見て、ローゼンティッヒはニヤニヤして、慌てるベアトリーチェを観察した。
「そ、それはもう食べなくていいです!」
ベアトリーチェは、顔を真っ赤にしてケーキの載った皿を取り上げた。
「嫌だ。食べる。せっかくお前が俺のために作ってくれたのに、食べるなとは酷い言いようだ」
「私は、貴方のためになんて作ってませんっ!」
「ふーん?」
「な、なんですか」
「わざわざ俺の好きな茶葉まで用意して、俺の好きなコンフィまで作って、それを言うのか?」
「…………!!!」
「相変わらずの天邪鬼だな。ベアトリーチェ」
子供を手の上で転がす大人。
ローゼンティッヒはベアトリーチェの細い腕を掴むと、彼の手の上の皿からケーキをとって、平然とそれを口に運んだ。
「うん。ありがとうな、ベアトリーチェ。これかなり美味いな。妻にも食べさせたいからまた作ってくれ」
「〜〜ッ!!! ……貴方なんか、嫌いです!」
年下の前では大人ぶる、自分より年下の上司の子供のような姿を見て、メイジスはクスクス笑った。
魔王討伐に関わった者たちによる特別講義。
ローズ、アカリ、そしてユーリは、講義のために話し合いを行うことになった。
「ただ正直、自分がこんな場所で魔法を披露するなんて、恐れ多いような気もします」
ユーリは緊張した声音で言うと、困ったように微笑んだ。
その言葉を聞いて、ローズは苦笑した。
「ユーリは昔から、勉強があまり得意ではなかったですからね」
「はい……」
ローズの言葉に、ユーリはガックリと肩を落とした。
「ローズさんとユーリさんって、勉強も一緒にしてたんですか?」
「ええ。お祖父様が、上に立つものは学があったほうがいいと力説されて……。私とお兄様、レオン様やリヒト様も、一緒に勉強していました。お兄様は流石というか、その頃からお一人だけ全問正解されていましたが」
「あの方は昔から、本当に優秀で……」
相変わらずのローズのブラコンぶりに、ユーリが笑みを浮かべる。
「お祖父様は、お兄様やレオン様にも剣の稽古をつけられて。お兄様は、自分は戦闘職につくつもりはないのにとぼやいていらしていらっしゃいました。ただ、お祖父様はお兄様にも問答無用、といいますか……。負けず嫌いな方でしたので、お兄様がお祖父様の剣を全て見切られたときなどは、『自分の剣が当たるまで勝負だ』などとも仰られる始末で。当時のお兄様の年齢を思えば、少し大人げなかったのかもしれませんね」
「……確かに」
「あれは、戦闘狂――とでも言うべきだったのでしょうか?」
「そうかもしれません。ですが私からすれば、尊ぶべき師です」
「ええ。それは、私にとっても」
ローズは、ユーリの言葉に頷いて笑みを向けた。
ユーリの顔が赤く染まる。アカリは、二人のやり取りを見て何事もなかったように目を伏せた。
「なるほど……『剣聖』さんって、そんな人だったんですね」
「はい。自慢の祖父でした」
懐かしむようにローズは目を細めた。
そんな彼女を、ユーリは静かに見つめていた。
ユーリが『剣聖』の弟子ならば、ローズは『剣聖』の後継者だ。
油断していたということもあるが、入団試験で、ユーリはローズに敗北している。
「しかしまあ、お祖父様は殆ど魔法が使えない方でしたし、今になって考えてみると、お祖父様が魔王を倒されたという功績は、異例と言ってもおかしくはなかったかもしれません。家宝の聖剣と、お祖母様が協力されたおかげとは聞いていますが……」
「『お祖母様』?」
前回の『魔王討伐』。
ローズの祖父の話は聞いていたが、祖母の話は初耳で、アカリは思わず訊ねた。
「はい。私のお祖母様は公職令嬢だったのですが、少し普通ではない……といいますか、行動力に溢れた方で、魔王を倒せたらお祖父様との結婚を認めてほしいと直訴して、お祖父様と一緒に魔王を倒されたと聞いています」
「なるほど」
公爵令嬢でありながら、恋仲にあった騎士と魔王を倒す。
アグレッシブがすぎる――アカリは深く息を吐いた。
「なんというか、ローズさんみたいな方だったんですね」
「確かに、祖母に似ているとは祖父によく言われましたね。ただ、私はお祖母様には会ったことがないんです。私が生まれる前に亡くなられたので」
最愛の亡き妻によく似た孫娘。
その相手に剣を叩き込んだと考えると、なかなか鬼畜の所業だ。アカリはそう思った。
「……アカリが聞いても面白い話ではないでしょうし、この話はこのあたりで終わりましょうか。ユーリ」
「は……はいっ!」
名前を呼ばれて、ユーリはびくりと体を震わせた。
「それで、ロイ様はなんと?」
「実は何を話してほしい、ということなどは言われていないんです。自由にして欲しいとのことでした」
「であれば、せっかくですし実践的な方が良いのでしょうか……?」
ローズはふむ、と考えるように腕を組んだ。
「とりあえずせっかくですし、少し腕ならしでもしませんか?」
「……はい?」
返事をする、ユーリの語尾は上がっていた。
◇
魔法を使うための訓練場は、魔法の暴走時の周囲への被害を防ぐため、闇属性の魔法により作られた立ち入り禁止区画にあった。
ローズが選んだ訓練場は、『風のフィールド』と呼ばれる場所だった。
クリスタロスの王国騎士団の訓練場に似たフィールドは、足場が不安定な作りで、風魔法が使えなければ立ち入りさえ叶わない。
アカリを抱きかかえたまま空を飛び、ローズは訓練場に入ると、アカリを安全な場所に移動させてから彼女の周りに結界魔法を張った。
アカリに聖剣を預けると、ローズは別の剣を手に、鋭い剣の切っ先のような岩の上を器用に飛び跳ねるようにして渡っていく。
まるで花の剣山だ。
一度足を踏み外して落ちようものなら、命の保証はない。
「それでは、早速始めましょうか」
「――はい」
ローズは一瞬目を細めて指輪に触れた。
金剛石が強い光を放ち、複数の魔法陣が空中に浮かび上がる。
色違いの魔法陣は、風・光・闇、そして水に氷だ。
ローズはまず、光魔法を発動させた。
「……っ!」
眩しさにユーリは目を瞑る。その隙に、空中へと舞い上がったローズは、水魔法を展開した。
「大地をうるわす水よ。私に従え」
ローズはそう言うと、巨大な水の塊を空中に出現させて、ローズはユーリのいる訓練場へと手を下げた。
水球は『風のフィールド』に落下して大きな水しぶきを上げる。
元より不安定な足場だ。
バランスを崩したユーリは、慌てて風魔法で自分の体を浮かした。
その間に、フィールドはまるでダムのように、水でいっぱいになっていた。
ユーリは、目を瞬かせた。
光属性ほどは消費しないと言われているが、かといって規模が大きければ大きいほど、魔法を使うには多くの魔力を消費するのは変わらない。
景観を変える程の強力な水魔法を、『腕ならし』の試合で発動させるなんて、常人ならば有り得ない。
「足場が不安定な中戦うのは慣れていないので、戦場は変えさせていただきます」
ローズはそう言うと、パチンと指を鳴らした。
すると。
「水が、凍っていく……??」
突然ローズの周りを吹雪が包み込み、それはやがてフィールドに溜まっていた水を氷結させた。
ベアトリーチェに勝つために、不安定な足場での風魔法を使った戦闘訓練をユーリは重ねてきたが、地形を変えられては、その訓練で培った優位性は発揮出来ない。
「足場があれでは、流石に風魔法専門のユーリには勝てませんから」
ローズはそう言うと、氷の上に降りたユーリに剣を向け、以前戦ったときと同じように、彼からやすやすと剣を奪った。
◇
「やはり全力のローズ様相手に、風魔法だけでは太刀打ちできませんね」
「ユーリは近距離戦は得意ですが、遠距離戦には苦手ですね」
全ての魔法を消して、三人は訓練場をあとにした。
傷一つない自分と違い、少し服を汚したユーリのために、ローズは浄化の魔法を発動させた。
「風魔法自体では攻撃って出来ないんですか?」
「私は、あまり得意ではなくて」
アカリの問いに、ユーリは苦笑いした。
意図せずして人を傷付けかねない風魔法の攻撃は、ユーリは自身の性格もあって、昔から上手く使うことが出来なかった。
「魔法は、適性の中にも種類があります。同じ光魔法ですが、私は怪我を治すことは出来ても、未来を見通すのは、あまり得意ではありません」
ローズはアカリが用意したおやつを食べながら話した。
今日のおやつは、色とりどりのマカロン。ローズの好きなお菓子の一つだ。
「苦手なことを得意にするのって、可能なんですか?」
「魔法の属性、適性は、後天的に増えることがあることも報告されています。私の魔力回復や、精霊病を経験したジュテファー・ロッドがいい例でしょう。ユーリも、ユーリが変われば、使える属性魔法や得意な魔法の種類が増えるのではないかと思います」
「なるほど……。ローズさんは、本当に何でもご存知なんですね」
ふむふむと頷くアカリに、ローズは苦笑いした。
「そんなことはありませんよ。私も知らないことばかりです。事実青い薔薇について、私は無知でしたし」
謙遜ではない。ローズは自分の知識に足りないことがあるのは理解している。
自戒するローズ見て、ふとアカリの中にとある疑問が浮かんだ。
「でも、そうなら……」
「アカリ、どうかしましたか?」
「お勉強あんまり得意じゃないって話だったのに、ユーリさんはどうやって、あの本を見つけたんですか?」
「――え?」
「だってベアトリーチェさんの本、ユーリさんが見つけたって話でしたよね?」
知識があってこそ、欲しい情報を見つけることが出来るはずなのだ。
だというのに、ベアトリーチェの本を見つけたのは、ローズではなくユーリだった。アカリはそれが疑問だった。
「よくわからないんですが、光を追いかけていたら、あの資料があって」
ユーリは焦りつつ返事をした。
「ひっ光?」
ユーリの言葉に、アカリは顔を青ざめさせた。
「……ま、まさか幽霊とか!? クリスタロスの図書館にはもしかして幽霊がいるんですか!?」
「――違いますよ」
震えるアカリを前に、ローズは冷静だった。
軍服を纏い優雅に紅茶を飲む様子は、公爵令嬢と言うには男勝りだが、騎士と言うには仕草が洗練されすぎている。
「クリスタロスの図書館には昔から、その人間に必要な本を、探せる魔法がかかっているんです。アカリは、クリスタロスの図書館にいったことはないのですか?」
「王宮の人に言えば手配してもらえますし……。神殿やローズさんからお借りした本を読んでいて、実は私自身はまだ行ったことはなくて」
「なら、一度行ってみるといいですよ。貴方に必要な本を、光が導いて教えてくれますから」
「なんだか検索機みたい……あっ!」
ごん!
「ど、どうしたのですか!? アカリ!」
ローズは、突然テーブルに額をつけたアカリの行動を見て、慌てて声をかけた。
顔を上げたアカリの額に触れて、光魔法をかけてやる。
「すいません。ありがとうございます。少し夢のないことを考えてしまって、自分で落ち込んだだけなので、あまり気にしないでください……」
「ならいいのですが……」
ローズは、アカリの言葉の意味がわからず、手持ち無沙汰な手を下げるべきかなやんで、「あっ」と声を漏らした。
「図書館といえば、リヒト様は毎日図書館で課題をこなされているそうです」
「……課題?」
突然ローズが口にした名前を聞いて、ユーリの表情が少し強ばる。
「ええ。リヒト様は先日少し問題を起こされまして、その際に先生に、特別に課題を与えられたんです。ただ、なかなか難航しているようですね」
「……そうですか」
ユーリは、アカリが淹れた紅茶に手を伸ばした。
「よかったらユーリも会いに行ってあげてください。きっと喜ばれると思います」
ユーリとリヒトは、身分に差はあれど幼馴染だ。
ローズに微笑まれ、ユーリは手をテーブルの下に隠して拳を作った。
そのユーリの変化に、ローズは気付くことが出来なかった。
◇◆◇
与えられた課題の役に立ちそうな本を、手当たり次第読み耽る。
最新の情報を得るために、リヒトは授業の合間をぬって、様々な国の新聞にも目を通していた。
魔法の論文は、基本的には同じ言語で書かれている。
公用語として用いられる言語は、クリスタロスと同じということもあり問題なく読むことができるが、まだ世界に広く認知されていない発見――国内でのみ発表された論文や新種の魔法生物、古代の魔法についてなどについての情報を知るためには、多数の言語を習得する必要がある。
言葉の成り立ちなどが近ければ、違う言語であるとしても似る傾向にあるが、島国や閉鎖的である国、人種などの差により、クリスタロスとは全く異なる文の構成を持つ言語も、この世界には多く存在する。
「わからん……!!」
リヒトの前には、あらゆる言語の資料が山積みになっていた。
生まれてこの方一六年。
この学院に来てからというもの、リヒトはこれまで習得していなかった言語も読めるように勉強した。
歴史・地理などはてんでだめ。マナーも言葉遣いもなっていない。そうローズにダメ出しされてきたリヒトだが、魔法に対する熱意は本物だ。
リヒトの研究の核は、微量の魔力しか持たない人間でも、魔法を使える方法はないかというものだった。
眼精疲労抑制。
メガネを掛けたリヒトは、山積みにした本に手を伸ばした。
速読には自信がある。一〇冊ほどを読み終えて、リヒトは机に突っ伏した。
――目当ての本に出会えない。
「どうだ? 課題は進んでいるか?」
そんな時頭上から、聞き覚えのある声が聞こえてリヒトは顔を上げた。
「……な、なんでここにいるんだ? 暇なのか?」
「そういう言い方はないだろう?」
慌てるリヒトを見てロイは笑う。
「実は、今度君の幼馴染たちに、特別講義をしてもらうことになった」
「わざわざそれを伝えに来たのか?」
「まあ、それだけじゃない」
ロイは腕を組んで壁にもたれかかった。
「君の課題がどうなっているか興味があったからな。俺個人としての意見だが、これでも君には期待しているんだ。君の才能は、君の国では認められない。けれど俺は、君を評価したいと考えている」
「評価するって言われても、今のところ俺は幼等部なんだが……?」
余裕たっぷりの大国の王。
色香を含んだ笑みを向けられ、リヒトは顔をそらした。
「不満か? 俺が評価しなければ、そもそも君は入学を認められていなかったさ。それに、こうも言うだろう?『獅子は我が子を千尋の谷に落とす』と」
「……それは、俺は子どもっぽいって言いたいのか?」
リヒトは唇を尖らせた。子どものような行動をするリヒトを見て、ロイはくすりと笑った。
「伸びる前の芽は、いつだって小さいものだ」
「……」
その言葉は、『リヒト』という人間に対する祝福であるかのようでもあった。
「リヒト王子」
「……なんだ?」
『王子』と呼ばれ、リヒトは緩みかけた顔を強ばらせた。
「君の国とは関係なく、俺は君の才能を買っている。君とは個人的に協力関係を築きたい。研究を援助して、新しい商売のも面白い。もちろん収益は君にも渡そう。ただそうなると、安全性の保証のためにも、複製禁止魔法などがあるのが望ましいな」
リヒトは目を丸くした。まさかそこまで、彼が自分に期待してくれているなんて思っても見なかった。
だが。
「『複製禁止魔法』? それってあの、古代魔法の?」
思わぬ話を振られて、リヒトは思わず尋ねていた。
「ああ。不可能と言われていた魔法だが、紙の鳥を復活させた。――君ならば、可能だろう?」
「……」
目の前のこの王は、自分に期待してくれている。
しかしリヒトは、その問いに答えることは出来なかった。
可能かもしれない。でも、もしそんなことをすれば。
金銭的な問題で、魔法を使える人間と使えない人間の壁は、さらに厚くなるかもしれない。
「俺の話はこれだけだ。まあ、頑張ってくれ」
相変わらずの自分勝手だ。
話を終えたロイは、何事もなかったかのように図書館を後にした。
その背を、小さな体がぱたぱたと走って追いかける。しかし彼女はクリスタロスに来る前とは違い、今は可愛らしいドレスを纏っていた。
二人を目で追いながら、リヒトは拳に力を込めた。
魔法を使えるものが、優位に立つことができる。それが、この世界の仕組みだ。
リヒトは殆ど魔法が使えない。
ロイに認めれることができれば、リヒトの存在価値は上がるはずだ。
でもロイを、リヒトは自分のために利用したくはなかった。
そして今のロイが望む自分は、きっと自分が望む自分と完全に一致するわけではないようにリヒトは思った。
「……俺は、クリスタロスの王子だ」
二番目だったとしても、自分が王族であることに変わりはない。
でも自分は、兄にはなれない。
兄のように、誰かを守る圧倒的な力はこの手にないことを知っている。
それでもいい。
昔から掲げる己の理想は、きっと兄とは違うのだから。
「――民と共にあれ。民と友であれ」
幼い頃から心に浮かぶ、理想の『王様』。
その言葉を呟いて、リヒトは胸を押さえた。
「俺は……」