『婚約破棄された悪役令嬢は今日から騎士になるそうです。』海の皇女編

『ハロウィン』
 『異世界人《まれびと》』の記録によると、それは死者の霊が帰ってくる時期にやってくる、おばけや魔女を追い払うための祭りだと伝えられている。
 そしてこの祭りでは、一つの合言葉が用いられる。
 
『Trick or Treat』

 「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ(いたずらとお菓子どっちがいい?)」という意味のこの言葉を口にして、子どもたちは仮装をして、『ジャック・オー・ランタン』と呼ばれるかぼちゃの明かりの灯されている家の扉を叩いてお菓子を集めて回る。

 お菓子を集めたあとの楽しみは、どれだけ多くのお菓子を集めたか競い合うこと。
 そしてそのあとは、みんなでごちそうを食べてパーティーをする。
 かぼちゃのケーキ、かぼちゃの種のお菓子。好きな果物にチョコレートをフォンデュしてどんちゃん騒ぎ。
 それが、この世界に伝わる『ハロウィン』だ。



「ローズ。服はもう決めたか?」
「いいえ。まだ……お兄様はもう決められたのですか?」

 パーティー当日。
 ローズは兄に尋ねられ、静かに首を振った。
 今回のハロウィンでは、服は全て学校側が用意することになっていた。
 ベアトリーチェの服に使われていた新素材。伸縮性のある服を用意することで、誰もが着れる服を用意して、仮装のかぶりを減らそうという取り組みだ。
 もともとグラナトゥムで開発された素材ということもあり、学院には各国から生徒が集まっているため、宣伝も兼ねているらしかった。

「今回の仮装は全員分くじで決めることになったから、お前たちも早く引きに行けよ」
「衣装は選べないんですか?」

 リヒトの問いに、ギルバートはにやっと笑った。

「ああ。くじなら平等だろう? 早く行かないと余り物になるぞ。ここはもういいから、お前たちも行ってこい」
「それでは、私たちもはやく引きにいきましょうか。リヒト様」
「……ああ」
 ローズに急かされ、リヒトは頷いた。



「『剣神』様! 『剣神』様がいらしたわ!」
 衣装担当の生徒たちは、ローズを見るなり声を上げた。
 背中に黒い小さな羽と白い羽をつけた少女たちは、二つの箱を抱えていた。

「この二つにはどんな違いが?」
「入っている衣装の系統が違うんです。白の箱には『かわいい』服、黒の箱には『かっこいい』服が入っています」
「黒の箱には吸血鬼や狼男。白の箱には妖精や幽霊、『使い魔』枠で白色コウモリなどが入っておりますの」

 ローズがどちらを引くか悩んでいると、黒い箱を持った女生徒が、目を輝かせてローズに箱を突き出した。

「是非黒い箱を! 吸血鬼だったら素敵です! ローズ様になら、血を吸われたいと思う者もいるでしょう。きっとお似合いになります!」
「何仰ってますの! 剣神様の可愛らしいお姿を見たい者も多いはずですわ! 是非こちらの白い箱を!」

 黒い箱を持った少女に続き、白い箱を持った少女がローズに箱を差し出した。

「ええと……」
「何も分かっていらっしゃらないんですね。ローズ様の魅力を引き出せるのは黒い箱に決まっています」
「貴方こそ、白い軍服を纏うローズ様の神々しさを拝見されたことがないのですわね。ローズ様は白がお似合いになりますの! それに、ローズ様は女性ですわ。可愛らしい服をお召しになっている姿を見たい方だって、きっと多いはずですわ!」
「それは貴方が見たいという話でしょう? 男性に邪な視線を向けられては、ローズ様がお可哀想だとは思われないのですか? 黒ならばその心配がありません!」
「……」
「「どちらをひかれますの(ひくんですか)!?」」

 ――圧がすごい。
 ローズは詰め寄られてたじろいだ。

「あ、あの……っ!」
 面倒だからどちらも選びたくないとローズが思った、まさにその時。
 ローズの前に、もう一つの箱が差し出された。

「せっかくのお祭りなのに……ふたりとも。喧嘩、しないでください。せっかく、みんなで準備したのに……」

 小さなおかっぱ頭の少女の手には、灰色の箱が抱えられていた。
 白と黒とが選べないなら。

「では、私はこちらを引かせていただきます」
 ローズはそう言うと、灰色の箱に手をいれた。



 歩くたび、ちりん、という鈴の音が鳴る。
 長く伸びた黒い尾は揺れ、道行く人の誰もが彼女を振り返る。
 眼を瞬かせて驚く者、小さくこちらを指さす者、頬を染める者。彼らの反応を見ながら、ローズは心の中で溜め息を吐いた。

 ――やっぱり、この衣装は私は似合っていないのではないでしょうか……?

 黒でもない白でもない箱。
 その中から出てきたのは、普段ほローズなら、絶対に選ばない服だった。

 ――丈が短い気がしますし、なんだかスースーします。私はあまりこのような服は着たことがありませんが、もしかしてグラナトゥムでは、こういう服が流行っているのでしょうか……?

 ローズは昔から流行に疎い。というより、関心がなかった。
 いつもは周りが用意した服か、最近は軍服しか着ていなかった彼女にとって、仮装衣装は随分刺激的なものに思えた。
 だが、用意されたものを着ないわけにはいかない。ローズは根が真面目なのだった。

「あ! おねーちゃん来たよ! リヒト様!」
「こっちだよ! おねーちゃん!」

 ジュテファーと入れ替わりでリヒトの護衛になってから、幼等部の生徒たちにローズを受け入れられた。
 ギルバートの妹ということもあり、ローズは『お姉ちゃん』と呼ばれている。
 ただ、少女たちには囲まれても、少年たちはあまりローズに近寄ろうとはしなかった。

 人々の視線を浴びながらパーティー会場まで向かっていたローズは、子どもたちが手を振る姿を見て道を急いだ。
 子どもたちの声でローズに気付いたリヒトは、振り返ってから叫んだ。

「ローズ。着替えてきたか……って。何だよその格好!?」

 『にゃーん』
 ローズの服は、普段の彼女なら絶対に着るはずのない黒猫の衣装だった。
 かっこいい黒とと可愛い使い魔枠を足した結果、魔女の『使い魔』である黒猫が採用されたらしい。

 大きく開いた胸元。丈の短いドレスには、何故か動くしっぽがついていた。首元には、金色の小さな鈴付きの黒いレースのあしらわれたチョーカー。
 高さのある黒いヒールは、ローズが女性の中では身長が高い方ということもあって、リヒトはローズに見下ろされる形になっていた。

「……やっぱり変でしょうか?」
「そんなことないよ! お姉ちゃん可愛いよ!」
 少女たちはローズを励まそうとしたものの、リヒトの反応に、ローズの声の調子が下がる。

「リヒト様のせいでお姉ちゃん落ち込んじゃった……」
「大丈夫だよ。お姉ちゃん。可愛いよ。すごく似合ってる!」
「ね? リヒト様もそう思うよね?」

 団結した少女たちに同意を求められ、リヒトは慌てた。ローズはじっとリヒトを見つめた。

「へ、変じゃない……。似合ってる。けど、でも、でも……!!」
 リヒトはローズを一度直視してから下を向くと、声にならない言葉を発して、自分のマントを脱いでローズに渡した。

「え?」
「さ、寒いだろう? これを着ておけ」
 リヒトの耳は、真っ赤に染まっていた。

「……ありがとうございます」
「よかったね! お姉ちゃん!」
「マントがあるとかっこよくてもっと素敵!」

 リヒトの仮装は吸血鬼だった。
 内側が赤い大きな黒マントを渡され、ローズは少し悩んでからマントを羽織った。
 足下まである黒マントは、黒猫の服と違って温かい。
 ――けれど。

「リヒトの衣装、マントがないと吸血鬼っぽくないな」
「確かに……吸血鬼というより、どちらかというと執事のようですね」
「……」

 フィズとローズに酷評され、リヒトは沈黙した。
 ドラキュラの最大構成要素、黒マント説。
 リヒトは吸血鬼から執事に格下げになり、吸血黒猫が爆誕した。



「光ってる!」
 日が落ちると、学院には光る看板が現れた。

「これは、『夜光塗料』ですね」
 光る文字を目を輝かせて見つめる子どもたちに、ローズは冷静に説明した。

「とある蝶の鱗粉が、光るという性質を活かして作られたものです」
「知っていたのか?」
「お兄様からお話を聞いていたので。暗い道で迷子にならないように、案内を設置すると」

 リヒトの問いにローズは淡々と答えた。
 矢印通りに進めば、中庭へと出たが、そこには光る看板はおろか、灯火一つなかった。

「ここで、場所はあっていると思うのですが……」
 
 その時だった。

「――ようこそ! ハロウィンパーティーへ!」

 広場に集められた生徒たちは、闇の中に響いた『王』の力強い声に、一斉に顔を上げた。
 空から、マントを羽織った男が落ちてくる。
 男は地面に着地する少し前、風魔法を使うと、静かに着地してマントを脱ぎ捨てた。

 狼男の仮装をしたロイは、赤頭巾の格好をしたシャルルを抱きかかえていた。
 ロイの言葉と同時に、オレンジ色の温かな明かりが次々灯る。
 カボチャの形をした灯りの他に、白い浮遊物体が出現し、一部の生徒からは悲鳴が上がった。

「お、おばけぇ……っ!」
 確かに一見、まるで『幽霊』だった。しかしそれにしては――……。

「これ、魔法だな」
 ローズが眼を細めていると、魔法の残滓を可視化できる眼鏡を掛けたリヒトが、ローズよりもはやく上空を見上げていった。

「そうなのですか?」
「ああ。風魔法で誰かが操っているみたいだ。うっすら光っているのは、さっきの塗料のせいらしい」
 よくよく見てみると、白い浮遊物体は薄い紙で出来ているようだった。
 
「――静かに。種明かしは無粋だぞ」

 冷静に分析していると、ロイの窘める声が響いて、リヒトは口を手で覆った。その様子を見て、ロイは頷いた。

「今日はみなに楽しんで貰いたいからな。配慮して貰えると嬉しい」
 ロイがそう言うと、シャルルは小さなカボチャ型の明かりを掲げた。

「今回のハロウィンパーティーでは、学院に飾ってるこの飾りを探してもらう。中には菓子か、鍵が入っている」

 シャルルは、カボチャの中から飴と鍵をとりだした。

「学年ごとに、手にすることが出来る鍵の色は決まっている。幼等部は緑、中等部は赤、高等部は金色だ。この鍵を五つそろえると、とある場所への扉が開かれる。そこでは、より多くの菓子を手に入れることが出来る。……また、今回のハロウィンでは特別に、ある特典を設けることにした。ハロウィンパーティーが終わるまでの間、この学院に最も相応しい行いをしたと判断された者には、俺が何でも一つ、願いごとを叶えてやろう」

 『大陸の王』から願いごとを叶えてもらえる――ロイの言葉に、わっと声が上がる。
 リヒトは、シャルルを抱えたまま生徒たちを見下ろして、王らしく笑うロイを見上げ、独り言を呟くようにローズに訊ねた。

「……なあ、ローズ。『ハロウィン』ってこんな祭りだったか?」
「より多くの生徒が楽しめるよう、仮装してお菓子を集めるという趣旨は残し、魔法学校ということも考慮して企画がねられたそうです」

 ――それはもう、ハロウィンではないのでは?

 リヒトは突っ込みたかったが、雰囲気を壊すのは無粋かと思って口を噤んだ。
 ジュテファーの代わり、リヒトには二人の護衛がついている。
 アルフレッドとローズは、幼等部のメンバーとして参加が許された。
 今回特例として、『自分が命令できる相手』や『護衛』を使うことも許したためだ。

 利用できるものは利用する。
 そして、ロイに『学院に最も相応しいと判断された者』になるために――……各国から集められた王侯貴族の一番多い高等部は、ギラギラと目を光らせていた。
 そんな中。

「優勝するぞ!」
「お――っ!」

 幼等部の子どもたちは円陣を組み、やる気十分だった。


 ハロウィンパーティーの開始の鐘がなり、生徒たちはかぼちゃのランタン探しに躍起になっていた。
 ランタンは空中に浮かんでいることもあり、今回の企画は、空を飛べる生徒たちが有利のようにローズには思えた。
 レオンがそうであるように、高等部の生徒の中には騎乗したうえで飛行可能な、高位の契約獣との契約を行っている者も多い。
 そのことをふまえると、幼等部の生徒たちは明らかに不利だった。

「みんなやる気十分だな」
 それでも、幼等部の生徒たちは負ける気など更々なかった。
 元々魔法の才能をかわれて入学したのだ。『魔法の才能』だけならば、年上だろうと引けは取らない。
 エミリーに子守を頼まれたリヒトは、彼らの行動を見守っていた。

「お姉ちゃん、あったよ! 飴が入ってた!」

 大きな帽子をかぶり、箒にのって飛ぶ。
 風魔法使いの少女はランタンから菓子を取り出すと、ローズに手渡した。

「ありがとう。また一つ増えました」

 ローズは指輪の『収納』を活かして、荷物持ちを担当していた。
 その任をこなしながら、ローズ自身も菓子を集めていく。全属性使えるローズは、当然風魔法での飛行も可能だ。

「ローズ……も、やる気十分だな」
「当然です。やるからには勝たなければ」

 ローズは飴を手に、大きく頷いた。
 今回のハロウィンパーティーでは、光魔法で明かりを作るのは禁じられている。
 白い紙で作られたぼんやり浮かぶ『幽霊』と、オレンジ色のランタンだけが、学園に灯された唯一の光だ。
 夜の校内を歩いて回る――それは、さながら。

「『肝試し』のようですね」
 ローズがぽつりそんなことを呟くと、子どもたちは首を傾げた。

「『肝試し』って、なに?」
「夜の学校を、いくつかの地点を設けてまわるイベントを異世界ではそう呼ぶそうです。中にはいわく付きの場所もあり、任務をこなしながら進む必要もあるようです」
「?? 『いわく』……って?」
 少女は可愛らしく首を傾げた。

「――夜に勝手に動く人体模型」

 その問いに、ローズは声音を変えずに答えた。

「夜に数えると、何故か増える怪談。学校の三階トイレに住んでいるという、火事で焼け死んだ赤いスカートの子どもの霊、誰もいない音楽室から聞こえるピアノの音色を辿り教室の扉を開けると、肖像画から血の涙が流れ出るという……」
「ふぇっ!?」

 ローズが語り出した『怪談』に、少女は思わずリヒトに抱きついた。その体は小さく震えている。

「それから――……」
「ろ……ローズ!」
「はい?」

 まだ続けようとするローズに気付いて、リヒトは声を上げた。
 七不思議を全て話そうとしていたローズは、何故リヒトが声を上げたかわからず首を傾げた。

「その話、今はやめろ。怖がってる!」
「え?」

 リヒトに指定され、ローズはようやく震える子どもたちに気がついて口を閉ざした。どうやら自分は『失敗』したらしいと頭を下げる。

「申し訳ありません。楽しんでもらえたらと思ったのですが……」
「……」

 悪気はなかったと謝るローズを見ながら、リヒトは幼い頃、ギルバートに自分とユーリとローズが夜に脅かされた過去を思い出した。
 自分とユーリが死ぬほど驚いて震えた中、ローズは『白い布を被って脅かす』という発想がすごいと、何故かギルバートを褒め称えていた。

「……それよりローズ、なんでそんな話を知ってるんだ?」
「お兄様が、今回の企画は異世界の異文化交流だと仰っていたので、異世界について私も少し勉強しようかと思いまして」

 ローズはそう言うと、いそいそと指輪から本を取り出した。
 『異世界人《まれびと》』によって書かれた本の表紙には、白い幽霊が描かれている。
 リヒトは頭を抱えた。
 自分の幼馴染みは昔から真面目だが、たまにやることが少しずれている。
 だが魔法の研究においてはおかしいと言われることも多いリヒトは、ローズの疵瑕を責めることはしなかった。

「――うん。わかった。ローズは、みんなを楽しませたかっただけなんだよな? ただ、とりあえずそれはしまってくれ。今は別の話をしよう」

 リヒトはそう言うと、自分の服を掴んで震える子どもたちに笑って尋ねた。

「なあ。みんなは、選ばれたらどんな願いを叶えて貰うんだ?」
 リヒトの問いに、子どもたちの顔が、ぱっと明るくなる。

「私? 私はね、お姫様のドレスを着せてもらいたい!」
「私はね、美味しいごちそういっぱいお願いするの!」
「俺は陛下のレグアルガに乗せてもらう!!」
「魔法の指南をしてもらう!!」
「どれも楽しそうだな」

 リヒトは素直にそう思った。小さな子たちが元気なのは微笑ましい。

「……のんきなものですね」
 だがその様子を見て、幼くして騎士としてリヒトの護衛をつとめるアルフレッドは、はあと小さく溜め息を吐いた。

「アルフレッド?」
「彼らの立場からすれば、あの王に将来いい条件で雇ってもらうとかが、一番有益そうですけど」
 いつもは空気を読まない彼の言葉は、年の割に大人びている。リヒトはアルフレッドの言葉に苦笑いした。

「うーん……。でも、そういうことを言うあいつらは見たくないんだよなあ……」
「……じゃあ、リヒト様が」
「ん?」
「リヒト様がもし選ばれたら、どうされるんですか?」
「俺か? 俺は……そうだな」

 リヒトはふむと考えてみた。
 エミリーに引率を頼まれていたため、自分が選ばれる可能性なんて、彼は微塵も考えていなかった。
 だがもし、自分が『願える』なら。

「今日の参加している全員が、楽しめるようなことを頼むかな」
「……自分のためには使われないんですか?」
「自分のため、っていってもなあ……。特に何も思い浮かばないし、強いて言えばクリスタロスのためにとは思うけど、祭りの特典を使って国としてお願いするっていうのは、何か違うとも思うんだよな。両方に利益がある、とかならいいと思うんだけど」

 なんとなく自分はロイを相手に、下手《したて》に出るのが嫌なのかもしれないともリヒトは思った。
 困ったように笑うリヒトを見て、アルフレッドは腕を組んで溜め息を吐いた。

「リヒト様」
 ローズに呼ばれて、リヒトは振り返った。

「ローズ。どうだ? だいぶ集まったか?」
 ローズが回収したお菓子は収納しているため、今の数量がわからない。リヒトの問いに、ローズは首を横に振った。

「お菓子は見つかるのですが、鍵まだ一つしか見つかっていません。ですので、捜索方法を変えた方がいいかもしれません」
 
 ローズの言葉を聞いて、リヒトはふむと口元に手を当てた。
 ――そういえば。

「因みにその鍵って、同じランタンに入ってるんだよな?」
「一個はそうでしたので、おそらくは」

 幼等部が現在持っている鍵は、ローズが見つけたものだ。その際、ランタンの中にはいくつかの鍵が入っていた。
 リヒトはローズの言葉を聞いて頷いた。

「鍵を優先するとするなら、他の人間がどこで見つけたのかが分かればは、捜索の時間は短縮できるかもしれないな。――アルフレッド」
「りょーかいです」

 リヒトに呼ばれ、アルフレッドは石に触れると魔法を発動させた。黒い煙が、彼の足元から舞い上がる。
 アルフレッドは人の良さそうな顔をして、黒い笑みを浮かべた。

「盗み聞きなら、お任せくださいっ!」



 アルフレッドの能力は密偵に適していた。特に夜の場合、自身の体を闇に同化させることが可能だ。

「鍵の場所が特定できたので、その分は回収してきました」

 魔法を解いたアルフレッドは、ローズに鍵を手渡した。

「これで三つ、か……」
「――それと、報告です」
「うん?」
「どうやら他のところは、何かと問題が起きているみたいです」
 アルフレッドはにやりと笑った。

「選ばれるのは一人。だとしたら、争いが起きても仕方ありません」

 ローズは静かに目を伏せた。それは、当初から協力しあっていた幼等部からすれば朗報だった。お互い潰し合ってくれれば、そのぶん時間が稼げる。
 鍵はあと二つ――ローズたちが次はどうするかと考えていたら、子どもたちの声が響いた。

「ねえ、見て! このかぼちゃ、隠されたの!」

 高い木の上に吊るされたランタンは、黒い布のようなもので覆われていた。
 リヒトは木を見上げて呟いた。

「……なるほどな。確かに、妨害は禁じられていない」
「なんだよ。そんなのずるじゃんか!」
「せこい!」

 いい計略だと頷くリヒトに対し、子どもたちからの光の遮蔽作戦の評価は散々だった。
 そしてリヒトは木を見上げながら――あることに気付き、声を上げて笑った。

「ははははは! なるほど、そうだよな!」
「り……リヒト? どうしたんだ? 変なものでも食べたのか?」
「ああいや、そうじゃないんだ。フィズ。もしかしたら……向こうが本当に『隠した』のなら、これは逆に俺たちに有利に働くかもしれないぞ」
「え?」
「リヒト様、もしかして……」
「ああ。これなら、魔法の残滓が確認できる」

 理解できない子どもたちに、リヒトは自作の眼鏡を取り出した。
 この暗闇の中で、『隠す』ために、『見つける』ために魔法が使われたなら、リヒトにとっては目印が用意されたに等しい。
 それは、祭りの後半でこそ使えるリヒトだけの武器だ。

「リヒト、その眼鏡貸して!」
「ダサいけど今日は我慢してやる!」

 早くよこせと手を出す子どもたちに、リヒトは眼鏡を渡した。
 これまで酷評されてきたものが、まさかこんなこところで日の目を見るとは、リヒトは思ってもみなかった。

「見える! 見えるぞ! 隠された財宝が!」
「隠そうと無駄だ! ふはははは! 正義は勝つ!」
 高笑いをする子どもたちの声は闇夜に響く。

「そこ、隠れてる!」
「あった!」
 魔法の残滓を辿る。土の中に隠されようが、地属性魔法を使って開けた穴なら容易に追跡できる。

「なんだか、楽しくなってきましたね」
 ローズは目を輝かせた。
 これなら勝てるかもしれない。自分はリヒトの護衛だが、罠などを仕掛けず正々堂々戦った幼等部が一番になれるとしたら、ローズとしても喜ばしいことに思えた。

「元気が良くて何よりだ。……っくしゅんっ!」
 その時リヒトがくしゃみをして、ローズは目を瞬かせた。

「リヒト様、大丈夫ですか? あの、もしかして私のせいで……」
 ローズにマントを渡したリヒトの服は、よく見ると寒そうに見えた。

「ああいや、問題ない。気にするな」 
 ローズがマントを脱ごうとすると、リヒトは片手を上げてローズを静止した。

「ローズの服は元々薄着だったからな。脱いだらローズが風邪を引くだろ」
「リヒト様……」

 鼻を赤くして自分に笑うリヒトを見て、ローズは足元にあった空《から》のランタンを持ち上げた。

「『光』は駄目だとのことですが、『炎』を使うことは禁じられておりませんでしたので」
 ローズはランタンの中に蝋燭を立て、火をともすとリヒトに手渡した。
 心なしか、温かい……気がする。リヒトはローズからあかりを受け取ると、その優しい色を見て、表情を和らげた。
「ありがとう」

 その時だった。

「五個目の鍵、見つけたぞ!」
 幼等部の生徒の声が響いた。その声に重なるように、放送が学園内に響き渡る。


『幼等部が、五つ目の鍵を集めました!』


「はあ!? 速すぎるだろ!?」
「きっとローズ様の魔法に違いありませんわ!」
「くそ。これじゃああいつらに奪われる!」
「鍵を集めよう! まずはあいつらに追いつくんだ!」

 放送を皮切りに、バラバラだった生徒たちが集まっていく。
 いがみ合い、自分の手柄ばかり考えて、幼等部に遅れを取るわけには行かない。

「リヒト様、ローズ様、急いでください。他の連中も団結し始めました」

 闇に紛れて様子を観察していたアルフレッドは、すぐに合流してから二人に報告した。
 リヒトの手には、五つの鍵がある。

「しかしこれから、どうやってこの鍵を使えばいいんだ?」
 リヒトが首を傾げていると、ローズはあるものを見つけて指さした。

「リヒト様、あれを見てください!」
「これは……」
「『おばけ』が、いっぱい集まってる……?」

 『ハロウィンパーティー』が始まってから、校内に現れた『幽霊』は、列をなしてある方向へと向かっていた。

「たぶん、あれが目印です。行きましょう!」
 ローズの声を聞いて、子どもたちは走り出した。



 暗い道をしばらく進むと、いつもはなにもないはずの場所に、木製の扉のついた『玄関』が現れた。
 扉の前には、黒い魔女の帽子を被ったランタンが置かれていた。
 ローズが扉に触れると、ランタンの中にからシャルルの可愛らしい声が響いた。

「『呪文を唱えて、扉を開けてください』」

 その声は、まるで誰かに渡された紙を読み上げているかのようだった。

「呪文……? 呪文って、何?」
 首を傾げる子どもたちを前に、ローズとリヒトだけが脱力したような顔をしていた。

「リヒト様……これは『あれ』ではないですか?」
「そうだな。たぶんギル兄上の改変のせいで消えたあの呪文だな……」
「お姉ちゃんとリヒト様は知ってるの!? 教えて教えて!」
 ローズとリヒトは子どもたちに耳打ちした。

「では……全員で扉を開けましょう。せーのっ!」
 ローズの声に合わせ、子どもたちの高い声が静寂に響く。
 それは、『呪文』を知らない他の生徒たちの耳にも届く。

「「「とりっく・おあ・とりーと!」」」

「扉が開いた!!!」
「みんな、中に入るぞ!」
 『呪文』により開かれた扉の中に、幼等部の生徒たちは一斉に駆け込んだ。

「ここ、本当なら校庭がある場所だよね……?」
 しかし扉の奥にあったのは、壁で仕切られた空間だった。

「行き止まりになってる……」
「もしかして、これは迷路でしょうか?」
 ローズは壁に触れた。
 ただの迷路なら、解き方は知っている――ローズが、そう思っていると。

「なんだ? あれ……?」
 誰かが空を指して、その声を聞いて全員が空を見上げた。
 そしてそこにあった『ありえない』ものを見上げて、誰かが叫んだ。

「空に、巨大なカボチャが浮かんでる!?」

 空に浮かぶ巨大なジャック・オー・ランタン。
 その周りには、祭祀を行うためかのように、白い『幽霊』たちがぐるぐると取り囲んでいた。
「どうやら間違った方に進むと、罠が待ち受けているみたいです!」
「――リヒト様、試してみましたが、空中を飛ぶのは無理のようです」
「じゃあやっぱり、進むにはこれをとくしかいってことか……」

 アルフレッドとローズの報告を聞き、リヒトは顔を顰めてその『問題』を見た。

 鍵を集めて開いた扉。そして現れた巨大な迷路。しかし先に進むには、問いに答える必要があった。

【『地震〇〇〇〇火事親父』さて、〇〇に入るのはなーんだ?】

「ローズ……これ多分、『異世界』の言葉だよな?」
「異世界?」
 リヒトの問いに、ローズは首を傾げた。

「ギル兄上が言っていたんだろう? 異文化交流だって……」
「確かに、そう仰ってはいましたが……」

 ローズが異世界について勉強しようとしたことは、あながち間違いではなかったのかもしれない。今のリヒトにはそう思えた。

 異世界の記憶を持つ『異世界人《まれびと》』は、アカリの他にも学院内にも存在している。つまり前に進むには、彼らの助力を願うか、実力でとくしかない。
 借り物競争として戦うか、それとも知識で解き明かすか。
 おそらくこれは、そういう勝負だ。
 
「アカリならわかるのかもしれませんが……」 
「アカリは今、どこにいる?」

 アカリは高等部所属だが、ローズが頼めば協力してくれるはずだ。
 リヒトが尋ねると、ローズは表情を少し曇らせた。

「申し訳ありません。最近避けられているようで、話せていないのでわかりません」

 ロイの配慮もあって、今、ローズとアカリの部屋は別室となっている。そのせいで、アカリと顔を合わせるのも、最近のローズには難しくなっていた。

「……なんで避けられてるんだ? ユーリとのことがあって部屋を別れたとは聞いていたけど、喧嘩でもしたのか? 仲は良さそうに見えていたんだが……」
「それが、私にもよくわからなくて」

 ローズは静かに目を伏せた。

「私自身、あまり親しい女性の友人というものがこれまでいなかったので。喧嘩、というものも、あまりしたことがなくて……」

 公の場での『交流』は出来ても、私人として友人を作ることは下手なことはローズ自身自覚していた。

「俺のせいか?」
 ローズが下を向いていると、リヒトが小声で尋ねた。

「いえ。リヒト様と私なら、アカリは私を選んでくれると思うので違うと思います」
「…………そうだな」

 もしかして自分のせいで二人が喧嘩したんだろうか? そう思い尋ねれば、きっぱり否定され、リヒトはガックリと肩を落とした。
 仮にも王子だというのに、何度も振られている気がするのは気のせいだろうか?
 リヒトが項垂れていると、その瞬間、凛とした少女の声が響いた。

「――答えは、『雷』です」

『正解です。雷属性の魔法を使うと、扉が開きます』
 続いて、シャルルの無機質な声が響く。

「わかるのか!?」
 ローズとリヒトが振り返ると、そこには白い布を一枚被った、おばけの格好をした子供がいた。

「雷なら任せろ!」
 子どもたちの一人はそう言うと、貸し出されている石に触れ、魔法を展開させる。
 蛇のように空中を這う雷は、扉の枠を囲むように光を走らせ、一周回ったところで、扉は音を立てて奥の方へと倒れた。

「すごい! 開いた!!!」
 漸く次の道が開かれ、子どもたちがわっと声を上げる。

「リヒト様、あの子……」
「ああ、そうだな。さっきまでいなかった」
 知らぬ間に、一人子どもが増えている。
 リヒトは怪訝な顔をした。
 目元だけくり抜かれた布の奥には、金色の瞳が光って見えた。

【月日が過ぎていくことはとてもはやいということ。矢にたとえてなんという?】

「『光陰矢のごとし』」
『正解です。光魔法と闇魔法を同時に使うと次の道が開きます』
「次は光魔法ね!私に任せて!!」
「闇魔法ならおれがやる!」

 与えられる問題を、お化けの格好をした子どもは次々に解いていく。
 ローズとリヒトは、扉が開くのを後ろから眺めていた。

「……やっぱり、これだけ属性が異なる魔法が必要となると、それを想定してこの迷路が作られた考えるべきだよな」
「そうですね。それぞれ足を引っ張って、自分だけで勝とうとするのは難しいように思います」

 ローズでなくては、全属性の魔法を使うというのは不可能だ。

「だよなあ……」
 となると、ロイの言葉の意味が分からない。
 リヒトはうーんと小さくうなった。

『この学院に最も相応しい行いをしたと判断された者には、俺が何でも一つ、願いごとを叶えてやろう』

 だとしたら、あの言葉の意味はなんだろうか?

「そうなるとやっぱり謎なんだよなあ……」

 鍵をより多く見つめたもの、飴を多く見つけたもの、謎を解いたもの、扉をより多く開いたもの。
 貢献度により表彰されるとして、どれかが該当するにしても、扉を開くための謎解きに魔法が必要になるなら、公平な条件での一人勝ちは難しいようにリヒトは思った。
 そうやって、リヒトが唸っていると。

「リヒト様、わかりました。もしかしたら……」
 ローズが『いいことを思いついた』という顔をして目を輝かせた。

「もしかしたら?」
「あの子は『座敷童』かもしれません!」
「――……は?」
「いないはずのもうひとりの子ども。幸運を運んでくれる存在だと、本に書いてありました!」
「いやいや、待て。なんでそうなる!?」

 積極的に質問を解く座敷わらしがいてたまるか! 
 目立ちすぎである。
 リヒトは頭をおさえた。異世界人《まれびと》の記録は断片的で、ローズがどの本を読んだからはわからないが、リヒトが知る限り、座敷わらしは屋敷に居付くおばけのようなものだったはずだ。
 リヒトがはあとため息を吐くと、ローズが少し不機嫌そうにたずねた。

「では他に何か思いつかれることでも?」
 この学院の――幼等部の生徒には、あんな瞳の色の生徒はいない。

「声を変える方法はあるだろうし、瞳の色を変える方法は、俺が――……」

 『案を考えて、前ロイに提出しているし』
 そう続けようとして、リヒトは目を見開いた。
 ――まさかあれは、自分が考えた研究の結果の……?
 自分がロイに提出したのは『可能性の提示』のみだ。

「リヒト様?」
「いや、なんでもない。とりあえず、俺たちはあの子の進む後に続こう」
 リヒトが無言になったせいで首を傾げたローズに、リヒトは静かに言った。


 白いお化けの格好をした子どもが問題をとき、協力して魔法を使って、扉を壊して前へと進む。
 問題を読み上げるシャルルの声は相変わらず棒読みだったが、子どもたちは楽しそうに笑っていた。

【次が、最後の問題です。次の〇〇に、貴方が適切だと思う言葉を入れてください】

 最後の問題は、空に浮かぶ巨大なジャック・オー・ランタンの下に作られた、屋根のない櫓で読み上げられた。

【あまねく民に、幸いを。命の芽吹きに祝福を。共に生きる者のため、全ての大地に〇〇よ〇〇】

「……え?」
「これは、どういうことでしょうか……?」

 問題の解答はすべて子どもたちに任せていたローズとリヒトは、最終問題に目を丸くした。
 異世界の知識を要する問題ではないように思ったが、かといってこんな文章、自分たちは知らない。

「……何なんだこの問題」

 リヒトがポツリつぶやくと、問題が掘られた木の板の近くに備え付けられたランタンの中から、シャルルの声が聞こえた。

『学院の生徒として、入れるべき言葉を考えて入れてください』

「……質問なんだが、これは何か元ネタがあるのか?」
 リヒトはランタンに向かってたずねた。

『…………王様、これは何か引用先があるのか、とのことです』
『ないな。俺が考えたからな』

 するとランタンの中から、ロイとシャルルの話し声が返ってきた。

「ないのかよ!」

 リヒトは思わず叫んだ。
 ここまでさんざん知識を問うたり魔法を使わせたりしたくせに、最後の問題が単にロイの考えを予測するも問いとはこれはいかに。

「最後だけなんでこんなにテキトウなんだ……」
『テキトウだと? 失礼な。これは俺が考えた言葉だが、この学院の生徒なら、心得ておくべきことだ』
「……学院の生徒なら心得ておくべきこと?」

 ロイの言葉に、その場にいた全員が首を傾げた。
 ますます問題の意味がわからない。
 だがそんな彼らは、今は巨大な迷路の中心部の高い場所におり、中等部や高等部の生徒たちが、問題を解いてこちらを向かっているのが見えた。

 子どもたちの顔に焦りが宿る。
 ランタンから聞こえるロイの声は、まるで揶揄うようにも彼らには聞こえた。

『どうした? 早くしないと、他の奴らに追いつかれるぞ?』
 
「そんな……」
「せっかくみんなで協力して、ここまで辿り着いたのに……!」
「やだ! 負けたくない!!!」

 子どもたちが、口々に叫ぶ中。
 リヒトは静かに上空を見上げて、目を細めていた。

「ローズ。植物は、基本的に水と光があれば育つ。だが人が水を与えないとしても、植物は芽を出して花を咲かせることもある。それは何故だと思う?」
「それは、根が――……」

 水を吸い上げているから。
 そう言おうとして、ローズは目を瞬かせた。

 夜空に浮かぶ巨大なジャック・オー・ランタン。
 その中には、沢山の飴が――……『あめ』?
 ローズの中に、ある答えが浮かんだ。
 しかしローズが答えを口にするより早く、これまですべての問題をといた子どもは、空を見上げて叫んでいた。

「全ての大地に、あめよふれ!」

 言葉と同時、ジャック・オー・ランタンが爆発して、中から飴が降り注いだ。
 飴は、平等に生徒たちの手に届く。
 しかし呪文を唱えた彼女には、一つの飴も届かなかった。
 だがそれでも、その光景を見つめる白い布のおばけの子どもは、嬉しそうに笑っているようにローズには思えた。
 自分は得なんて何もなくても、まるでそう願うことが当たり前で、幸せでもあるかのように。
 
 問題を解いた瞬間、閉幕のベルの音が鳴り響いた。
 ローズたちのいる場所に、シャルルを抱えたロイが、風魔法を使って空中から降りてくる。

「子守りを任せて悪かったな。君もそれなりに楽しめたか?」
「……それなりに」
「そこは言葉を繰り返さずに楽しめたというべきところだぞ」

 リヒトはロイの自分への問いに、少し疲れたような表情をして言葉を返した。そんなリヒトを見て、ロイはくっくと笑う。
 ロイは抱き上げていたシャルルを床に降ろすと、すべての問題を一人で解き明かした子どもを見下ろし目を細めてから、拡声魔法を発動させた。
 迷路の途中で立ち止まり、ロイたちを見上げていた生徒たちに向かって告げる。
 
「今回の祭りでは、飴を最も多く確保した者ではなく、最も多くの飴を、人に与えた者を勝者とする」

 ロイの言葉に、最初自分が誰よりも活躍しようと争っていた生徒たちは、目を瞬かせた。

「『四枚の葉』が、人に自らの幸運を与えたときに三枚の葉になるように、俺はそういう人間こそ、この学院に相応しいと考える」

【あまねく民に、幸いを。命の芽吹きに祝福を。共に生きる者のため、全ての大地に雨よ降れ】

 それは三人の王により、学院が創設された当初の考えに基づくものだ。

「さあ、お前は何を願う?」
 ロイは笑みを浮かべると、白い布を被った子どもにたずねた。子どもは一度下を向いてから、小さな声で願った。

「……全員が楽しめるような、宴を」
「自分の願いでなくていいのか? なんでもいいんだぞ?」
「それはここで貴方に願うことではないもの。それに、私一人では、ここまで辿り着けたなかった。だから私はみんなが、楽しめるようなものがいいわ」

 子どもの言葉にロイは満足したように頷き、高らかに宣言した。

「わかった。では、ハロウィン・パーティー。今宵の祭りの終わりの宴に、みなを招待しよう!」

◇◆◇

 夜のパーティーは屋外で行われ、仮装のまま参加をとロイが呼びかけたおかげで、橙の柔らかな光に浮かぶ人々の顔色は、ほんのりと朱に染まっているように見えていた。

「つまりあの方は……ここまで想定されていたということでしょうか?」
「だろうな。まあ今回は、幼等部全員で勝ち得たようなものだからって、可能な限り願いを叶えてくれるらしい。レグアルガに乗りたいという願いも叶えてやるといっていた」

 ローズとリヒトは、騒がしい人だかりから、少し距離をとってその灯りを眺めていた。
 会場には休憩所も兼ねて、所々に長椅子が設けられていた。
 夜もくれて、空には星が浮かんでいる。
 こんな真夜中に外に出たのは、ローズは久しぶりのことのように思えた。

「リヒト様は、何か願われたのですか?」
 『幼等部』の願いを叶えるとロイが言ったなら、それはリヒトも該当するはずだ。
 リヒトは、『あの子ども』と同様願いはないと言っていたことを思い出し、ローズは訊ねた。

「……これをやる」
 リヒトはしばしの沈黙のあと、ローズに手に小さな包みを置いた。

「この国で今一番有名な製菓店の菓子らしい。願いの中にあったらって、用意していたって」

 ローズはリヒトから渡された包みを開いた。
 中に入っていたのは可愛らしい小さな菓子だった。
 力をこめたらすぐに崩れてしまいそうな、指先でつまめる程度の丸みを帯びたその菓子は、雪化粧のように白いものを纏っていた。

「いただいてもいいのですか?」
「ああ」
 ローズはリヒトが頷くのを見てから、一つだけ口に含んだ。

「……美味しい」
 口に入れた瞬間、じわりと砂糖の特有の甘さが広がる。少し噛むとほろりとほどけ、香ばしい香りが口の中を満たしてくれる。

「よかった。ローズが気に入って」

 美味しくてもう一つとローズが手をのばせば、リヒトはローズを見つめ、くすりと小さく笑った。

「そのお菓子、どうも砂糖にこだわりがあるらしいんだ。粒子が細かいから、そのおかげで独特の食感と甘さがうまれるらしい。昔と比べて甘味は一般的なものになりつつはあるけれど、この砂糖は通常出回っているものより一度に採れる量も少ないから、値段が他のものより張ってしまうらしいと聞いた。グラナトゥムでは、こだわりの一品を求める層を中心に、今人気が高まっているらしい」

 リヒトの説明を聞いて、ローズはなるほどと思った。
 つまり、これまではなかった種類の砂糖、ということだ。グラナトゥムの――赤の大陸は広いから、これから先この砂糖は、この国の新しい特産物になるのかもしれない。

「リヒト様も召し上がられますか?」
 ローズは、菓子を一つ取ってリヒトに見せた。リヒトは首を傾げた。

「口をあけてください」
「……お、俺はいいっ! それは全部、ローズが食べていいから!」

 ローズの行動が読めて、リヒトは慌てた。
 幼馴染で幼い頃はそういうこともあったとはいえ、この年齢になってそれは恥ずかしすぎる。
 リヒトは顔を真っ赤にして、ローズから顔を背けた。

「……あれ?」
 すると、白い布を被った子どもが一人ウロウロしているのが見えて、リヒトは思わず声を漏らした。
 少し観察していると、子どもたちがやってきて、いつの間にか彼女は退路を塞がれていた。

「今日の、本当にすごかった! ありがとう。おかげで俺たち、願いを叶えてもらえることになったんだ!」
「……」
「穴から見えるのは金の瞳だけど、俺たちの暮らすにそんな色いなかったし……。もしかして、新しい編入生か何か?」
「……」
「仮装だってのは分かってるけど、布被ってたままじゃ話しにくいしさ。顔を見せてよ!」

 布を被った少女は答えない。
 だがその時、一人の生徒が子どもが被っていた布を剥ぎ取ってしまった。
 するとロゼリア・ディランの、美しい長い青の髪があらわれた。

「え……? 海の皇女?」

 瞳の色のこともあり、彼女だと予測していなかった生徒たちは、呆然としてその姿を見つめていた。
 ロゼリアはその隙に布を奪い返すと、再び布を被って彼らに背を向けた。

「……わかったでしょう。私と話しても、きっと楽しくないわ。だから放っておいて」

 ロゼリアがその場を去ろうとすると――子どもの一人が叫んだ。

「……待って!!!」
 ロゼリアはピタリと足を止める。

「布を無理矢理とったのはごめん。あのさ、ギル兄上のこともあるからいうけどさ……リヒトに対するあの言葉はやっぱり許せないけど、ああ言ったことに何か理由があるなら、俺たちにもちゃんと教えてほしいんだ」
「……」
「……俺たちはこれから、一緒に学校生活を過ごす仲間なんだから」
「仲、間……?」 

 ロゼリアは、驚いたように振り返った。

「み、身分の差は勿論あるけど! ここではそういうのは関係なくて、みんなが勉強する場所だって陛下には言われてるから。だから……!!」

 白い布の向こう側の、ロゼリアの顔は見えない。
 二人が立ち止まっている内に、楽しげな音楽が響き始める。

「今回は仮面舞踏会ではなく、仮装舞踏会だ。どうかみな、楽しんでくれ」
 ロイの声とともに、音楽が大きくなる。

「一緒に踊ろう!」
 子どもは、立ち止まるロゼリアに手を差し出した。
 だが今の服のままでは、ロゼリアが踊ることは叶わない。彼女がどうしていいかと困っていると。

「「踊るのですか?」」
 どこからともなくマリーとリリーが現れ、ロゼリアから布をとって笑った。

「「衣装の変更なら、我々にお任せするのです!」」

 二人はそう言うと、ハサミや針や糸やらを構えてポーズをとった。
 そして一瞬で、ただの白い布を可愛らしい衣装に変わる。
 仕上げとばかりに、白い大きなとんがり帽を、双子はロゼリアの頭にかぶせた。

「白い魔法使い、の、完成なのです!」
「です!!」
 二人はそう言うと、満足げに頷いた。

「ここにいる全員を、楽しませるのが陛下より申しつけられた私たちの役目。お前たちの役目は、精一杯楽しむことなのです!」

 ロゼリア相手だというのに、態度を変える様子など欠片もなく、双子はそれだけ言うとその場を去った。
 呆然とその背を眺めていた少年とロゼリアだったが、少しして二人が顔を見合わせると、少年は「そんな顔もするんだな」と笑って、ロゼリアに手を差し出した。

「行こう。ほら、もう音楽が鳴ってる!」

 美しい、星の輝く夜のこと。
 人々の楽しげな声は、柔らかな光の下、こだまするように響いていた。

◇◆◇

「こんなところにいたのか」

 始まりの合図をして、宴の席を離れたロイは、一人月を見上げていた少女に声をかけた。
 どこからか笑い声が聞こえる。
 遠くに灯火は見えるのに、その場所からは、人の姿を見ることはできなかった。

「君が考えたあの問題、なかなか楽しませてもらったぞ」
「そうですか」
「なんだ。反応が薄いな。嬉しくはないのか」
「……別に」
「それにどうしてそう、月を見上げて憂いを帯びた顔をしている?」

 ロイが尋ねても、少女は答えようとはしなかった。ロイは少女が身に着けていた服を見て、こんなことを呟いた。

「――まるで、『なよたけのかぐや姫』だな」

 アカリの足下には、使われることのなかった衣装が散乱していた。
 彼女が『異世界人《まれびと》』だからだと用意されたのは、美しい文様の織り込まれた唐衣や袿だった。

「罪をそそぐために下界へと落とされた月の姫君。しかしその罪は、直接的には描かれない。帝からの求婚設けていたというのに、彼女は満月の夜、月の世界へと帰ってしまう」
 
 ロイはただまっすぐに、まるで自分の声など聞こえていないかのように月を見上げる少女を見て、わずかに目を細めた。

「君もまた、月の世界の羽衣を身にまとえば、この世界で感じたあらゆる憂いも感情も、全て失ってしまうのだろうか」

 ロイはこの世界だけでなく、異世界の文化についても本を読んでいた。
 それは彼が王として、『異世界人《まれびと》』を受け入れるときに、必要だと考えたからだ。
 自分の世界を共有できる相手になら、人は自然と心を開くものだから。
 ロゼリアが異世界の知識を多く知っているのも同じ理由だ。
 グラナトゥムに続き、ディランには多くの異世界人《まれびと》が住んでいる。

「もし君が月の帰還を望まないなら、そろそろ彼女のことを、許してやってもいいんじゃないか」

 ロイのその言葉に返すように、少女――アカリは呟いた。

「許すも何も、別に私、ローズさんに怒ってるわけじゃないですよ。元の世界に帰れることを教えてくれなかったのは、確かに傷つきましたけど……」
「ではなぜ、彼女を避ける?」
「……ローズさんって少しだけ、私の知り合いに似てるんですよ」
「ほう?」

 ロイはアカリの言葉が気になって、興味深そうに首を傾げた。

「その人は、子ども好きで、自分勝手で。こっちの気持ちなんてお構いなしに、自分の好きなように生きている人で。魔法の使えない世界で、魔法使いになるのが夢だなんて、馬鹿みたいなことばかり言ってる人でしたけど」

 だが彼女の語る人間と、ローズの印象が一致せず、ロイは眉間にシワを寄せてアカリに尋ねた。

「そんな人間と彼女と、一体何が似ていると言うんだ?」
「……」

 『知り合いに似ているから』
 そんな理由でアカリがローズを避けているなんて、ロイはアカリの心がわからなかった。
 アカリはロイの問いには答えない。
 彼女は静かに月を見上げ月に手を伸ばすと、ピタリとその手を止めて、唇を噛んでから、手を胸元へと下ろした。

 病は治ったはずなのに、もう痛むはずのない胸が痛くて、アカリは胸を押さえた。
 病気は治らない。魔法なんてこの世界にはない。望む世界はいつだって、窓枠の向こう側にある。
 ――ずっと、そう思っていた。
 白い病室の中で、いつだって優しい人が自分に向けてくれた言葉を、否定して生きてきた。彼女が自分に与えてくれるものが、永遠に続くことを疑わずに。
 その彼女が、ある日突然自分の前から消えることなんて、考えもしなかった。

 だから、きっとこれは罰なのだ。
 誰かに思われて生きていた。それは幸福なことであったはずなのに――それでも、窓の向こうを焦がれ続けた自分への。
 アカリはそう思った。

 だから、選択を迫られる。
 こちらの世界を取るのか、それとも元の世界を取るのか。
 まるで贖罪のために地上に落とされた、自分が生きていた世界なら、誰もが知る物語の少女のように。
 そしてアカリは、結局彼女がどちらを選んだのか知っている。
 アカリは月を見上げた。自分がこの世界に来た夜に似た、けれど二つある月が、今は彼女を見下ろしている。

「『光の聖女』?」

 いつもは呼ばれたら反抗するその呼びかけに、アカリは返事をしなかった。

◇◆◇

 長い夜の宴の後に、月の光の射し込む部屋で、少女は一人小さな声で呟く。

「楽しかった。今日は、ちゃんと話せた。……みんな、笑ってた」

 それはまるで、自分に言い聞かせるかのように。

「私が海の皇女でなくても……あの子たちなら、私と友達になってくれるかしら?」

 みんなで笑い合う、笑い声が響く陽だまりのような時間。
 その風景を想像して、けれどロゼリアは『ある言葉』を思い出して、床に膝をついて耳を塞いだ。
 幼い頃は誰かの笑顔が見たくて、そんなものが大好きで、自分はそのために、魔法を使っていたような気がする。
 けれど今の彼女には、自分が誰かの心を動かしたという過去は、偽りでしかなかったようにも思えた。

 ――違う。違うわ。みんな笑っていたもの。喜んでくれていたもの。私の魔法で、みんなを笑顔に出来てたもの。だから違うわ。私が今魔法を使えないのは、あんな言葉のせいじゃない。

 けれどまるで杭で打たれたかのように、あの日からの自分の時は、止まっているかのように彼女には思えた。
 耳を塞いでも、時が経っても。
 その言葉を思い出すたびにうまく呼吸が出来なくなって、冷たい海の底に引きずり込まれるような、そんな感覚が彼女の中にはあった。
 違う、違うと彼女は首を振る。いいや、違わなくてはならない。
 自分が、『海の皇女』である限り。

 ――誰かのたった一言で、それだけで魔法が使えなくなるなんて、海の皇女である私が、弱くていいはずがない。三人の王の生まれ変わり。『海の皇女』なら私は――強く、強くなくてはいけないの。

 それでも、魔法が使えなくなった日に聞いた言葉を、今でも彼女は忘れることができずにいた。
 響くのは、幼い子供の笑い声。
 無邪気で、悪びれることなんて欠片もなく――ただ声は、彼女の優しさ(おもい)を否定する。
 差し出した想い(あめ)は、地面に落とされ踏みにじられる。

『あの子が海の皇女でなかったら、友達になんてならなかった』
「リヒトくんとロゼリアちゃんは、試験の準備を始めておいてくださいね」
「じゅ、準備ですか?」

 講義の終わり、エミリーに声をかけられたリヒトは、思わず聞き返してしまった。

「そう。入学の筆記試験で一定の基準を満たしていた場合、学院の卒業試験は半年後であれば受けることができるんです」
「……あ」

 ――そういえば、そんなことを聞いた気がする。

 リヒトはロイの話を思い出した。
 そもそも、リヒトとレオンのどちらが次期国王になるかということもあり、今回の留学は短期間での就学をという話だったはずだ。

「実力さえあれば学位を与えるというのが学院の方針なんです。この学院の卒業生ということが能力を証明するという側面もあり、優秀な学生は、早々にその権利を得ることが認められています。それに、学問というものは日々進化していくものですから、卒業したあとも、卒業生なら講義を受けることは可能なので……」

「なるほど」
 グラナトゥムの魔法学院が『実力主義の魔法学院』そう呼ばれるのには、いくつかの理由が存在している。
 実技と筆記での入学試験を行うことは勿論、卒業試験が自身の特性を活かした形で発表が許されるという点も、そう呼ばれる所以である。

 つまりリヒトが魔法を使えなくとも、この学院の卒業に相応しいという功績を残すことが出来れば、学院はきちんと評価してくれるのだ。
 そして学院では、卒業生の講義の聴講や図書館の利用は許されている。

『学問は日々進化している』

 エミリーの言葉に、リヒトは頷いた。
 であれば当初の予定通り、まだ日はあるものの、準備を始めてもいいかもしれない。
 リヒトが頷いていると、エミリーはにっこり笑って爆弾を落とした。

「今回の卒業試験は三人一組で行うようにとのことでしたので、二人共お友だちを見つけてくださいね」

「………………えっ?」

 エミリーの言葉にリヒトは仰天した。
 三人一組だなんて――『幼等部』に所属するリヒトには、頼める相手がいない。

「それでは、頑張ってくださいね」
 だが困惑するリヒトをおいて、エミリーはそれだけ言うと、その場を去ってしまった。



「……どうされるのです?」
 護衛としてリヒトの側に控えていたローズは、頭を抱えたリヒトに尋ねた。

「ギル兄上に頼む……かな……?」
 筆記試験の成績で受験資格が得られるということであれば、幼等部の生徒から見つけるのは不可能だ。
 かと言ってリヒトが学院内で頼めるのは、アカリ・レオン・ギルバートの三人のみ。
 クリスタロス王国の人間だけで組んだとしてもどう考えても一人余るが、兄なら引く手あまただから問題はないだろうとリヒトは思った。

 ――正直兄上より、ギル兄上の方が頼みやすいし……。
 リヒトがそんなことを考えていると、

「どうやら紙はもらったようだな」
 まるで見計らったかのように、ギルバートが現れた。

「ギル兄上!」
「お兄様、どうしてこちらに?」
「卒業試験のあと一人、誘おうと思ってな」
 ギルバートはそう言うと、いつものようににこりと笑った。

「よかった。俺もちょうど、ギル兄上にお話したいと――……」
 だがギルバートはリヒトを素通りして、ロゼリアの前に立った。

「俺の組はあと一人足りないんだ。だから、俺と一緒に出ないか?」
「え?」

 ロゼリアは、突然のギルバートの申し出に目を丸くして、それからリヒトに視線を向けた。
 絶句しているリヒトを、ロゼリアは少し可哀想だとは思ったが――だが今この学院で、実力を知っており心を許していいと思っているのは、ロゼリアもギルバートだけだった。

「……私でよければ」
 ロゼリアは小さな声で答えた。
「よし! じゃあ、俺たちはこれで決まりだな」
「ぎ、ギル兄上!? じゃあ俺は!?」
 リヒトは叫ぶように訊ねた。

「『お友だち』を、探すしかないな〜」
「そ、そんな……」

 ギルバートはそう言うと、ロゼリアの手を引いて楽しげに笑った。
 この学院の生徒で、自分を仲間に入れてくれるとしたら、リヒトはギルバートと兄くらいしか思いつかない。
 目の前で橋を外されたような気持ちになって、リヒトは呆然と二人の背を見送ることしか出来なかった。



「……よかったの?」
 ギルバートに半ば強引に連れ出されたロゼリアは、上機嫌で鼻歌を歌うギルバートに尋ねた。

「何が?」
「彼、困っていたように見えたけれど」
「大丈夫。何事も、なるようになるものだからな」
 ギルバートは、指でくるくると紐のついた鍵を回しながら答えた。

 ――『鍵』?

「……それは?」

 ロゼリアは、鍵を見て目を細めた。
 何故なら鍵には、グラナトゥムの王族のみにしか使用を許されない紋章が刻まれていたからだ。
 白銀の鍵には石が嵌め込まれており、石の中には水が閉じ込められていた。
 
「今日は『鍵』を借りたから、そこに向かう」

 ギルバートはそう言うと得意げに笑い、回していた鍵を掴むと、『なにもない』はずの場所に差し込んだ。
 その瞬間。
 
「……水音?」
 
 ちゃぷん、という音が聞こえた気がして、ロゼリアは耳に手を当てた。
 それと同時、二人の足元の地面が揺れる。ロゼリアは思わずギルバートの腕を掴んだ。

「意外だな。君は彼から、これを見せてもらったことはなかったのか?」
 ギルバートは、慌てた素振りを見せたロゼリアに笑いかけた。
「これ、は――……」

 ロゼリアは自分の足元から、目には見えない大きな力の流れのようなものを感じた。
 太古の水。
 鍵の中の水と『この世界』の何かが今、自分の足元で共鳴している。

 ゴゴゴゴゴ……。
 地面が音をたて割れたかと思うと、地中から吹き出た透明な水が、高く伸びて空中で固定される。
 水はまるで一つの大きなドームのような形になると、真ん中を一度くぼませて、再び大きく跳ねた。
 そしてまばゆい輝きを放ちながら、水はより複雑な形へと形状を変えていき、扉一つを残して水の『ドーム』は姿を消す。
 それはこの世界で古くから語り継がれる、一つの物語に出てくるものとよく似ているようにロゼリアは思った。
 
 『三つの鍵』

 ディランに『方舟』の物語があるように、グラナトゥムにも世界が『崩壊』した際の古い物語が存在する。
 それはこの世界にかつて『嘆きの雨』が降ったとき、『鍵』により作られた『天蓋』が、人々を守ったというものである。
 雨を身に受ければ体が焼けるという、地獄のようなその話の中で、救いとして描かれる『天蓋』は、巨大なドームのような形状であっとして語り継がれている。

 その『天蓋』を開かせるための世界に三つしかない鍵は、すべてグラナトゥムの国宝に指定されているはずだ。
 だが現国王であるロイは、そのうち二つを、卒業試験の訓練を行う生徒たちに貸し出していた。
 『天蓋』は魔力の込められた水で作られ、その中は外の人間からは見えない。いわば、秘密の特訓にはうってつけ、というわけである。

「それじゃあ、中に入るか」
 ギルバートは確認するかのように一度ロゼリアの方を振り返り、いつの間にか現れた古い石板の扉を開けた。

「わ……っ!」
 外側からは風景に同化して、目視が叶わなくなってしまった巨大な建造物。
 だが扉の向こう側には、「それ」は確かに存在していた。
 目を丸くしてその形を見上げるロゼリアと違い、ギルバートはこれまで何度も見たような顔をして笑った。

「ここには初めて来たわ」
「気に入ってもらえたなら何よりだ」

 ギルバートは扉の内側の小さな箱の中に鍵を入れると、ロゼリアの目を見て訊ねた。

「それで? 君は卒業試験でなにかやりたいことはあるか? どうせやるなら、大掛かりな魔法にしようとおもっているんだが。たとえば、『水晶宮の魔法』とか」

「……」
「君は昔、その魔法を使ったことがあるんだろう?」
 ギルバートの問いに、ロゼリアの顔から笑顔が消える。

「…………駄目なの。私に、あの魔法はもう使えないの。そもそも今は、私、魔法が……その……うまく使えなくて」
「そうか? 君がそう言うなら仕方がないな」

 ギルバートはあっけらかんと言うと、手のひらに載せた紙の鳥をロゼリアに見せ、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。

「なら君には一つ、新しい魔法を使えるようになってもらおうか。君には、まずこの鳥を飛ばしてもらうとしよう」

 『手始めに』と渡された折り鶴を見て、ロゼリアは目を瞬かせた。

「…………えっ?」

「う……っ。く……。ふ、うう……ぐぅ……っ!」

 ギルバートに『課題』を課されてから三日後、ロゼリアは紙の束を前にして、ひとり唸っていた。

「……なんで飛ぶどころか、少しも動かないの!?」

 それは彼女の心からの言葉だった。
 魔力が多すぎて上手く制御できないことは何度もあったが、作動しないというのはロゼリアにとって初めてのことだった。

「この魔法、本当に風魔法が使えなくても使えるの……?」

 『水鉄砲』の魔法確かには水属性の適性がなくとも確かに使えたが、『古代魔法』として語られるだけだった『紙の鳥』を、自分が使う日が来るなんてロゼリアは実感がわかなかった。

「……」
 ただ、ギルバートの言葉が嘘とは思えず――ロゼリアは目をつぶり、彼の言葉を思い出した。
 水属性と光属性に強い適性を持つという彼が、自分に向かって笑いながら言ったことを。

『この魔法には欠点があるんだ。紙の鳥の魔法は、魔法陣に送る魔力が多すぎるとうまく飛ばない。この鳥を飛ばすのに必要なのは、俺たちが普段魔法を使うために必要とするような、大量の魔力じゃないんだ。寧ろ魔法を使えない人間にこそ、この鳥は扱いやすい』

 この世界において、魔法は選ばれた者のみに与えられる異能《ちから》だ。

 王侯貴族――そして、後天的に魔法を使えるようになった者。
 強い意志、強い願いが、人に魔法という力を与える。
 ディランの『海の皇女』として生きてきたロゼリアにとって、その『力』の考え方は変えようがない。

 導く者、与える者。
 付き従い頭を垂れる者、与えられる者。
 その間には大きな壁があり、ロゼリアはずっと、自分は前者であるべきだと考えてきた。
 でももし――本当に『魔法の使えない者』にも使える魔法道具がこの世界に生まれるのなら、世界はこれから、大きな転換期を迎えるのかもしれない。
 そう考えるとロゼリアは、自分もこの魔法を使えるようになりたいと思った。

『目を閉じて、頭の中に思い浮かべるんだ。窓を開けたとき風が吹き込んで、薄いレースのカーテンが波打つ景色。蝋燭に明かりをつけたとき、風に揺らぐ灯火を。その感覚を、全ての紙に与えるんだ。さあ、手を差し出して。今日からこの鳥を飛ばす訓練を行おう』

 頭の中に響くギルバートの声は、ただただ柔らかく温かい。

『大丈夫。君になら千羽だって、簡単に飛ばせるはずだ』

 だが――感覚的すぎるギルバートの教えは、ロゼリアには理解不能だった。

「……あんな教え方で、わかるわけ無いでしょう!?」

 最早詐欺師としか思えない。
 ロゼリアが拳を握って叫ぶと、後ろから呆れたような声が聞こえてきて、彼女はびくっと体を跳ねさせた。

「何ひとりごとを言ってるんだ? 君は」

 『天敵』の声。
 自分とは違い、『完璧な王子』であると讃えられる王子に気付いて、ロゼリアは思わず後退った。

「……な、なんで貴方がここにいるの!?」

 レオンは、まるで逃げるかのように自分から一歩後ろに下がったロゼリアを見て、はあと小さく溜め息を吐いた。

「ギルバートが、君と僕と三人で行うと提出してしまったからね。君だって僕だとわかった上で受けたんだろう?」
「………………」

 卒業試験は三人一組。
 ギルバートの存在がプラス一〇〇なら、レオンの存在はマイナス五〇だ。
 結果としてプラスのチームだったこともあり受け入れたとは、ロゼリアはレオン本人に言う勇気はなかった。

「それにしても遅いな」
「…………」

 時計を気にするレオンを見て、ロゼリアは下を向いてぎゅっと服を掴んだ。
 ギルバートと組みたくてつい了承してしまったが、レオンと自分の相性が良いとはとても思えない。

 ――は、はやくきて。ギルバート・クロサイト……!

 心の中でそう唱えるも、当の本人はいくら待っても来てはくれない。
 そして最悪なことに、ギルバートを待つ二人のもとに『紙の鳥』が届いた。
 クリスタロスの人間しか使えないはずの『紙の鳥』が。

「ギルバートからだ」
「え?」

 紙の鳥はレオンの手にとまると、魔法が解けてもとの手紙へと形を変える。

「……どうやらギルは少し体調が悪いみたいだね。僕に君の練習をみてほしいと都会である」
「ええっ!?」

 ロゼリアは思わず声を上げた。

 ――最悪。苦手な相手と二人っきりだなんて……!!

「なにか問題でも?」
「も、問題なんかないわ……!」
 どこか冷えた声で尋ねられ、ロゼリアは慌てて返した。
 ――……それにしても。

「でも、あの人……簡単に体調を崩すようには見えなかったのだけど。風邪でもひいたの?」

 『光属性持ち』の公爵令息。
 ギルバートは治癒に長けていると聞いていただけに、ロゼリアはギルバートが体調を崩したという話に首を傾げた。

「頑丈さだけがウリのような男なんだけど……『三つの鍵』を使うには、それなりに魔力が必要になるからね。少し疲れたのかもしれない。でもまあ弱っていれば、『彼女』がついているはずだから、案外彼は今頃楽しい時間を過ごしているかもしれない」
「? どういうこと?」

 レオンの言葉の意味がわからず、ロゼリアは首を傾げた。
 体調を崩せば面倒を見てくれるような大切な相手が、ギルバートにはいるということだろうか?

「もしかして――……」

 ギルバートのそばにいた女性はただ一人。
 茶髪に金の瞳の気の強そうな、鷹のような女性を思い出して、ロゼリアが口を開こうとすると、レオンは言葉を遮った。

「君が知る必要のないことだ」
 レオンはそう言うと、ポツンと置かれた石の扉に鍵を差し込んだ。

「それでは、扉を開くとしよう」



 グラナトゥムの魔法学院では、『3つの鍵』はその日与えられる問題を最初にクリアした者に与えられる。

 一つ目の鍵は、魔法の実技によって貸し出され、二つ目の鍵は知識によって貸し出される。
 レオンが手にしていたのは、ギルバートか手にしていたものと同じ、魔法を要求されるほうの鍵だった。
 当然のように鍵を手にしたレオンは、『天蓋』の中にロゼリアを招いた。

「ところで、ギルからは何をするよう言われているの?」
「紙の鳥を飛ばせるようになれ……と」

 ロゼリアはギルバートた渡された紙をレオンに見せた。
 水魔法を使えないレオンに、ロゼリアと同じ適性を持つギルバートのような教え方は出来ない。
 たが紙の鳥の魔法なら、レオンだって教えることはできる。

「……なるほど。なら今日は、僕が教えるとしよう」

 レオンはそう言って頷くと、ロゼリアに魔法を使うよう促した。



「く……う……っ。……うう……っ!」
 そして、その後。
 ロゼリアは大量に地面に置かれた紙に触れて唸っていた。
 かれこれもう数十分間。
 欠片も動く様子のない紙の前に、大国の皇族でありながら地面に膝をつき唸るロゼリアを見て、レオンは呆れたような声で彼女を呼んだ。
「――君」
「な、なに?」
「さっきもだけど、一体何をしてるんだ?」
「ま、魔法を使おうと……」
 ロゼリアはレオンから視線をそらしながらそうかえした。
「それにしては一羽も飛んでないけれど」
 レオンは静かな声で指摘した。
 ロゼリアは胸に冷たい氷の矢をいられたような思いがした。

「駄目なの。私が何度やっても飛ばないの。私には、やっぱり出来ないのよ。私には、やっぱりもう魔法なんて……」

 自分を否定するロゼリアの言葉に、レオンは顔を顰めた。
「君はどうしていつも、下を向いているんだ? 君には溢れるほどの魔法の才能があるのに、そうやってすぐ自分を諦めるのはどうかと思うけど」
「……でも! だって、私には、あの日からもう……」
 ロゼリアは、言葉を続けようとして口籠った。そんな彼女に気付いて、レオンは静かに目を伏せた。

「君が魔法を使えなくなった理由は、僕にはわからない。でも、たとえ今、この世界にある他の魔法を君が使えなくても、この魔法だけは、『使えない』なんてありえない。この魔法は、すべての人が使えるようにと作られたものだから」

「すべての……」
「そう。今魔法が使える人間も、使えない人間も。みんなが魔法を使えるように」
 ロゼリアが言葉を繰り返すと、レオンがふっと優しく微笑んだようにロゼリアにね見えた。

「だから、君だって使えるはずだ」
 その表情は、いつもの『レオン・クリスタロス』とは別人のようにロゼリアには見えた。
 どこか人に壁を作る、そんな作り物の笑顔なんかじゃない。まるで春の柔らかな日差しが雪を溶かすかのような、そんなものを感じてロゼリアは目を瞬かせた。
 『氷炎の王子』――氷と炎の魔法を使う、王になるべくして生まれた完璧とまで称された人間がこんな表情《かお》をするなんて、ロゼリアは思いもしなかった。
 驚きを隠せないロゼリアに、レオンは距離を詰めると、ロゼリアの後ろに回り込んで囁いた。

「本当はこういうことは、光魔法の遣い手が一番向いているんだけど……」
「?」
「――触れるよ」
 そう言うと、レオンはロゼリアの右手に、自分の手を差し込んだ。
「……え!?」
 指と指の間に、大きな手が入ってくる。
 その感覚に、ロゼリアは胸の鼓動がはやくなるのを隠せなかった。
「えっと、その……あの」
 ――近い。
「力を抜いて」
 それは、これまで腫れ物のように、もしくは大国の皇族として扱われてきたロゼリアにとって、知らない感覚だった。
 落ち着いた、すこし低い声で耳元で囁かれると、頭の中が真っ白になる。

「僕に触られるのは、君にとって不快かもしれないけど耐えてくれ。君に教えるために必要なことだ」

 不快かどうかでいえば、嫌ではなかった。彼の手は少し冷たくも感じたが、必要以上に触れようというような、そんな意図は汲み取れない。

「まず、ギルバートに命じられたからと言って、全て飛ばそうと考えるのはやめるんだ。最初は一羽からでいい。古代魔法は、そもそも僕たちが使う魔法とは、使う魔力の量や感覚が違う」

 その声はまるで、自分よりも幼い相手に教えるかのようで、ギルバートとは違う柔らかさをロゼリアは感じた。

「想像してみてほしい。静まり返った水面に触れるとき、わずかでも指をつけたら波紋が広がるすがたを」

 その瞬間、僅かな痛みとともに、見えない力が自分の中をかけていくのをロゼリアは感じた。
 氷と炎の魔力。
 あたたかさと冷たさと、そんな力が、繋がれた手のひらから伝わってくる。

「魔法陣に直接触れずとも、強い魔力を持つものは、『触れない』ことで使える場合がある」

 レオンはそう言うと、ゆっくりと繋いだロゼリアを降ろした。
 そして、その手が上に近付いたとき――触れるより前に、ぴくりともしなかった魔法陣の描かれた紙が、目の前で鳥の形へと変形すると、ふわりと浮いて飛び立った。
 白い紙の鳥は空を飛ぶ。
 ロゼリアは、大きく目を見開いて空を見上げた。

「とん、だ……!」
 レオンはその姿を見て、そっと彼女から手を離した。鳥は空中を数度旋回すると、『天蓋』の天井を突き抜けて飛んでいく。
「飛んだ! 飛んだわ!!!」
「ああ。そのままギルバートのもとにいったみたいだね」
 レオンは冷静にそう呟く。
 興奮のさめないロゼリアは、自分に教えたのがレオンだとすっかり忘れて、思わず後ろを振り返って、満面の笑みを彼に向けた。

「こんなふうに、ちゃんと魔法を使えたのは久しぶり。本当にありがとう!」
 自分を前に、暗い顔ばかりしていた相手。
 ロゼリアのその笑顔に、レオンは驚いたような顔をしたあとに、少し困ったように微笑んだ。
「――……ああ。おめでとう」

 その声は、ただ優しく。
 ロゼリアは何故かその声を聞いた瞬間、胸が締め付けられるのを感じた。
 ――どうして。この人が笑うと、胸が苦しくなるの? 苦手だと、そう思っていたはずなのに。

 ロゼリアは、顔に熱が集まるのを感じて、立ち上がってからレオンに背を向けた。
「それにしてもこの魔法、すごいのね。最近は古代魔法の復元が活発に行われているの? ロイに瞳の色を変える魔法を教えて貰ったのだけど――……」
 矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。そんな彼女の言葉を遮るように、レオンは静かに言った。

「――この魔法は、僕の弟が作ったものだ」

「え?」
「確証はないけれど――おそらく、君が『ハロウィン』の時に使っていた魔法も、ね。弟は魔法は使えない。でもだからこそ、魔力が少ない者でも使える、誰もが使えるそんな魔法を作った。これもその一つだ」

「ごめんなさい」
 レオンの声は、ロゼリアを責めるような声ではなかった。
 けれどロゼリアは、思わずそう呟いていた。
 『紙の鳥の魔法』――『古代魔法』の復元。
 そんなことは、きっと自分じゃできない。ロゼリアは振り返り、レオンに頭を下げて謝罪した。

「……僕に言われても困る。謝るなら、僕でなく弟に言ってくれ」
 
 責めるような、声ではなかった。
 ロゼリアは真っ直ぐにレオンの顔を見たわけじゃない。ただそれでも、ロゼリアにはそう感じた。



 翌日、高等部の講義に、ギルバートは参加していた。
 昼休み、ギルバートとレオンは外で昼食を取りながら外で話をしていた。
「へえ。じゃあ昨日は、彼女はついに一羽飛ばすことができのか」
「一羽だけだけど」
「少しは時間がかかると思っていたから、お前のおかげだよ。でも、レオン。お前が人に教えるなんて珍しいな? ああ、そうか。お前には、彼女が『誰か』と重なって見えたのか?」
 ギルバートの言葉に、レオンは顔を顰めた。

「……五月蝿いよ。ギルバート。だいたい、自分が教えるとぴ出しておきながら、いきなり体調を壊すし君らしくもない。彼女が使えなかったのも、君の目算が甘いのが原因だろう。あんな教え方じゃ、ローズくらいじゃないと理解できないよ」

「――甘いのは、そっちの方だろ」
 ギルバートの声は冷たかった。
「触れずに魔法を使う、『無駄』が生まれるお前の方法は、彼女の自信には繋がっても、根本的な解決にはならない。彼女なら、俺のやり方なら最初から千羽といわず一万羽だって飛ばせるはずなんだから」
「……でも彼女は、今は……」
「小手先の魔法の使い方を学んでも、結局は彼女のためにはならない。そんなものは、海の皇女にはふさわしくない」
 そしてギルバートは、まるでかつてロイがリヒトに向けたような言葉を口にした。

「海を統べる、それだけの力を持っているからこそ――彼女は『ロゼリア』の名を与えられたんだから」
「なんか最近、少し変じゃねえ?」
「だよな。いっつも上の空だし……」
「何かあったのかな? ロゼリア」
「…………ん? もしかして彼女のこと、ロゼリアってよんでるのか?」

 休み時間。
 教室でぼんやりと考え事をしていたリヒトは、クラスメイトの言葉を聞いて目を瞬かせた。
 
「うん。だって、本人がいいって言ったから!」
「俺たち、同じ教室で勉強する仲間だし!」
「……」

 満面の笑みを浮かべる子どもたちを見て、リヒトは無言になった。
 『クリスタロスの王子』として、『青の大海』の『海の皇女』を呼び捨てにする勇気は、今のリヒトにはなかった。
 かと言って『様』づけも『ちゃん』づけもしっくりこず、リヒトは腕を組んでうーんと唸った。

「なあ。リヒトはさ、ロゼリアがこんなふうになった理由、何か知らないか!? 授業中とかは普通だった気がするんだけど……」

 彼らがロゼリアについてリヒトに尋ねるのは、ある意味当然とも言えた。
 ロゼリアとリヒトは入学時の筆記の成績が良かったこともあり、座学は普通幼等部の学生では選択出来ない講義を多く選択している。
 つまりリヒトが、一番ロゼリアと同じ時間を過ごしていると言っても過言ではなかった。
 
「特に何もなかった。……と、思う」

 リヒトは、とあることを思い出して苦笑いした。
 昨日、二人きりのときにいきなりロゼリアに頭を下げて謝られたときは、驚いたものである。
 ひどいことを言ってしまったと――ただ、心境の変化の理由までは、リヒトは尋ねることは出来なかった。

 だからこそ、ロゼリアの変化の理由について疑問に思っているのは、リヒトも同じだった。
 幼等部の男子生徒たちがロゼリアの話題で騒いでいると、本を抱えた女生徒たちがキラリと瞳を輝かせた。

「――それはきっと恋、ね」
「「こい?」」

 リヒトも含め、少年たちはぽかんと間抜けな顔をして首を傾げた。

「恋って、あの……?」
「いやいやいや、そんなはずは……!」
「じゃあもしかして、この中にその相手が……?」

 突然の話題に、男子生徒たちの顔が赤く染まる。

「い、いや〜〜。モテて困るな」
「誰がお前だって言ったよ。お前なわけ無いだろ」

 鼻をさすって照れた少年の一人に、友人から厳しい指摘が飛ぶ。だが女生徒の反応は、友人より冷ややかだった。

「何馬鹿なこと言ってるのよ。ロゼの相手はこの教室にはいないわよ」
「ロゼはこの教室の男子なんかに興味なんてないはずだよ。リヒト様も違うみたいだし。きっと、他の教室の人だと思う」
「ね、最近ロゼって、誰と会ってたっけ?」
「試験のお勉強だって言って、ギルバートお兄様と一緒にいたりしてたはずだけど……」

 幼等部の生徒に『お兄様』と呼ばれるギルバートの生徒人気は、学院の中でもそれなりに高い。
 遊び心のある実力者。
 長い眠りから目覚めた、『剣神様』の唯一の兄という立場は、ローズを慕う人間からして特別なものに映るらしかった。

「……兄上とギル兄上だったら……」
 リヒトが腕をくんでうーんとうなっていると、
「お兄様はないと思います」
 ローズがばっさりと言い切った。

「お兄様は憧れられることはあっても、それは尊敬の対象であって、恋愛の対象にはならない気がします」
「じゃあ……つまり、兄上と何かあったのか? でも兄上は以前彼女を泣かせるくらい厳しい物言いを……」

 リヒトは、レオンの過去の行動を思い出して言葉をと切らせた。
 自分を庇って、ロゼリアに反論した兄を――リヒトは少しだけ胸が苦しくなる。

「リヒト様? もしかして私のいない間に何かあったのですか?」

 事件のことを知らないローズは、不思議そうな顔をしてリヒトを見た。
 ローズの視線に気付いて、リヒトは苦笑いして、なんでもないと小さく手を振る。

「……いや。別にたいしたことはなかったから、気にするな」
「そうは仰いましても、先ほどより少し元気がないように見えるのですが……」
「それは……」

 自分を案じるようなローズの目に耐えられず、リヒトは思わず顔を背けた。
 ロゼリアには謝ってもらっているし、今更ことを大きくする気はないのだけれど――……。
 リヒトが困っていると、空気を断ち切るように快活な声が響いた。
 
「わかってないなあ、二人とも! 大嫌いな相手の優しい一面を知ってしまったら、胸がどきどきしてしまうものなの! 異世界ではなういうものを、『ぎゃっぷもえ』というんだよっ!」

「『ぎゃっぷ』……『もえ』?」
 あまり聞いたことのない言葉に、ローズは思わず言葉を繰り返していた。

「印象最悪からの恋に落ちるお話は、物語の王道なの!」
「おうどう……」

 いまいちピンとこない。
 ローズは首を傾げながら眉間にシワを作る。

「ローズ様は聞いたことがない? 『はぴねす』っていう本なんだけど、ギャップ萌えがすごいの! なんでも、昔『光の巫女』っていう、すごい方が書かれた本なんだって!」

 幼等部の生徒は、実年齢の離れたローズとリヒトには様付けだったが、言葉自体は砕けていた。
 言葉遣いは気にしていない――だが、ある言葉が引っかかって、ローズは大きく目を見開いた。

「はぴ……ねす?」

 それは、聞き覚えのある名前。
 少女はそう言うと、にっこり笑って本の表紙をローズに見せた。
 そこに描かれていたのは、ベアトリーチェがローズに渡したのと同じ、『四枚の葉』だった。

 『四枚の葉』は珍しい植物で、それを育てている人間を、ローズはクリスタロスではベアトリーチェくらいしかしらない。
 そんな植物の名前と同じ本を――そして異世界からやってきたアカリが、この世界と関わりがある『げーむ』の名前だと言っていた『はぴねす』を、『光の巫女』が書いた、なんて。 
 ――そんな偶然があるんだろうか?

「ローズ? さっきから固まってるけど、何か気になることでもあるのか?」
「……いいえ。なんでもございません」

 ローズは胸騒ぎがした。
 だが心配そうに自分を見つめるリヒトには、なんでもないように笑ってごまかした。

「『ロゼリア・ディラン』はいるか?」

 その時だった。
 レオンが幼等部の教室の柱を叩いた。

「え? 兄上?」
「……な、なんで貴方がここに」
 レオンの声に気付いて、ロゼリアは勢いよく立ち上がった。その顔は、真っ赤に染まっている。

「忘れ物を届けに来たんだ」
「か……かっこいい〜〜!!」

 突然現れたレオンに、女生徒たちが黄色い声を上げる。

 ギルバートは貴族というより兄貴ということはが似合う。
 リヒトは性格のせいもあり、あまり『王子』らしくはない。
 対してレオンは、姿も中身も『完璧な王子様』そのものだ。
 絵本から抜け出したようなレオンを間近に見て、少女たちは目を輝かせた。

「あ、ありがとう……」
 ロゼリアはレオンから本を受け取ると、ぎゅっとその本を抱いた。
 レオンはそんなロゼリアわ少女たちには目もくれず、人だかりの中にローズを見つけると、ふっと笑みを浮かべてから、静かに教室を後にした。

「兄上のこと、苦手みたいだったんだけど……反応からして、やっぱり兄上なのか?」 

 兄が届けた本を手に、一人笑みを浮かべるロゼリアを見て、リヒトは呟いてから――幼馴染の少女の変化に気づいて尋ねた。

「ローズ? 手をさすってどうしたんだ?」
「な、何でもありません……」

 ローズはバツが悪そうにこたえると、リヒトから目をそらした。

◇◆◇

「じゃあ、まずは昨日のことのおさらいから」
 放課後、いつものように卒業試験のための訓練を行っていたロゼリアは、レオンを前に体を強張らせていた。

「……わ、わかったわ。ひゃっ!」
 訓練のために――レオンの手が触れて、ロゼリアは思わず高い声を上げてびくりと体を震わせた。

「……君」
 挙動不審なロゼリアに、レオンはあからさまに顔を顰めた。

「手が触れたくらいで、なんて声を上げてるんだ? そんな声を出されたら、まるで僕が君になにか無礼でも働いたみたいじゃないか」
「そ、それは、その……」
「なら、どうして逃げるの?」

 じりじりと、レオンがロゼリアとの距離を詰める。
 これまで自分にあからさまな敵意や苦手意識を向けてきた相手が、突然よそよそしい反応をする理由が、レオンにはわからなかった。

 ――いつもの彼女の勢いはどうしてしまったんだろう? 
 
 怯えるような、自分に期待するような瞳を受けられると、調子が狂って落ち着かなかい。

「今日の教室のでもそうだったし……顔が赤いけど、体調でも悪いの?」
「わ、私に触らないでっ!」

 レオンが伸ばした手を、ロゼリアは勢いよく払った。

「…………」
「ごめんなさい。あの、でも本当に大丈夫だから……」
「……気に食わないな」

 レオンは低い声でぼそりと言った。

「いくら大国の皇女とはいえ、君のことを心配している人間の手を叩き落とすことはないんじゃないかな。仮にも、これからも一緒に練習する仲間だっていうのに」
「……た、叩き落としたつもりないわっ!」
「でも、見てよ僕の手。ほら、君のせいで赤くなってる」

 レオンはロゼリアが叩いた手を、彼女には患部が見えないようにさすってみせた。

「えっ? だ、大丈夫……?」

 ロゼリアは、慌ててレオンの手に手を伸ばした。
 手を取って、手を確認する――が、特段赤くなっているわけでもない。

「――嘘」
 レオンは、心配して近寄ってきたロゼリアの手をつかんで、自分の方へと引き寄せた。

「馬鹿だね。これくらいで赤くなるわけがないだろう?」
「だ、騙したの!?」
 ロゼリアは思わず叫んだ。

「君が僕から距離をとろうとするのが悪い。……それより熱、やっぱり少し高いみたいだけど。本当に体は大丈夫?」
「……っ!!!」 
 
 顔が近い。逃げられない。
 ロゼリアが顔を真っ赤に染めていると、ひょっこり現れたギルバートがぱんぱんと手を叩いた。

「まあまあ。お二人さん、そのへんで」
 レオンの手の力が緩んだことに気付いて、ロゼリアはレオンから逃れた。

「紙の鳥についてだが、レオンは触れないやり方を教えたみたいだか、俺はちゃんと、君には触れる方向で覚えてもらうぞ?」
「……」
「レオンのやり方だとどうしても、無駄が生まれてしまうんだ。俺は最初君に千羽飛ばせるようにといったが、レオンのやり方では君でもせいぜい5羽がやっとだ。たしかに君が、この魔法だけを使えるようになるために勉強するならそれでいいかもしれない。でも、それは君にとって本意ではないだろう?」

 ギルバートの問いに、ロゼリアは答えなかった。
 沈黙は肯定だ。ギルバートはそんな彼女に、にこりと笑った。

「だったら、改めてまた頑張ろうな?」



 卒業試験に向けて、ロゼリアの訓練に付き合っていたギルバートは、レオンと彼女のやり取りを見て笑みを浮かべ呟いた。

「なんだか楽しくなってきたな」
「どうしてです?」
「普段平静を装っている人間が、素を隠せずにいるのを見ると、どうしても頬が緩んでしまうんだよな」
「性格が悪いです」

 軽い調子で笑うギルバートを、ミリアがたしなめる。

「俺は性格はいいほうだぞ?」

 ケロリとした顔をしたギルバートからかえってきた言葉に、ミリアは「はあ」と大きなため息をついた。

「ご自分で仰らないでください……。それより、本当にお体は大丈夫なのですか?」
「ああ。問題はない」 

 ギルバートはそう言うと、包帯を巻いた手に触れた。

「昨日《さくじつ》、ベアトリーチェ様に手紙を送りました。数日のうちに薬が届くことでしょう」
「ありがとう。……ただ、結局何をしようと俺のこれは、緩和治療でしかないかもしれないけどな」

 ギルバートはそう言うと、道端に落ちていた小石を蹴って水たまりに落としてしまったときのような顔をして、遠くを見て少し笑った。



「……本当に、どうかしているわ」

 訓練を終えたロゼリアは、部屋に戻って枕に顔を埋めた。
 今日のレオンとのやり取りを思い出す。
 最近のロゼリアは訓練のあと、言葉にできない焦燥とともに、少しだけ疲労感を覚えるようになった。

 ――彼のことが気になって、ずっと、気を張っているせいかしら?

 ごろんと寝返りを打って、天井を仰いだロゼリアは胸をおさえた。
 この感情に名を与えてはならないことはわかっているのに、最近自分の胸の鼓動ははやくなるばかりだ。

 魔法を使えることが権威となるこの世界で、クリスタロスの時期国王は、レオン以外にありえない。
 そんな相手にこんな感情を抱くのは、間違いだと知っている。ロゼリアは何度も心のなかで繰り返した。

 せめて、順番が逆だったら。
 リヒトがレオンより優れた力を持っていれば、この思いが叶うことを願うことは許されたかもしれないのに。
 でもリヒトがレオンより強い力を持つ日がくるなんて、ロゼリアはとても思えなかった。
 そして少しずつでも、かつての力を取り戻しつつある今の自分は、きっとやがてディランの王位を継ぐことを望まれることだろう。
 その隣に望んでいい人間に、他国の次期国王は含まれない。
 『三人の王』の転生者同士が結ばれる世界など、この世界は望まない。

 ――想いが叶わなくても、届かなくても、いい。あともう少しだけ、そばにいたいと願うことは、私には許されないことかしら?

 ロゼリアはそう考えて――ふと、机の上に手紙が置かれていることに気がついた。
 送り主は彼女の父だった。
 手紙には彼女を気遣う言葉が綴られ、最後にこう書かれていた。 

【お前が魔法を使えないままなら、その時は国に連れて帰る】
「ローズ。最近、彼女に何か変わったことはあった?」

 ローズがレオンに声をかけられたのは、リヒトの座学の試験中、一人廊下で待っている時だった。

「『彼女』、とは?」
「……『海の皇女』――ロゼリア・ディランのことだ」

 レオンは珍しく、少し間を置いてこたえた。
 いつもは余裕たっぷりのレオンが、妙に落ち着かない様子に見えて、ローズは不思議に思って彼に尋ねた。

「レオン様は、ロゼリア様と仲がよろしいのですか?」
「…………は?」
 長い沈黙の後、レオンはぽかんと口を大きく開けた。

「その、なんといいますか。レオン様は周りにたくさんの女性を侍らせても、一人の方に執着されているようには、あまり見えなかったので……。ただ、彼女に対しては少しは違う気がして」
「それは僕が君を――いや、これは……今はいい」

 ローズの言葉にレオンは深いため息を吐いて、頭痛がするとでもいいたげに頭を抑えた。

「君が何を勘違いしているかはしらないけれど……。君の兄が勝手に決めたとはいえ、今回のことは彼女が失敗すれば僕も被害を被る。だからできるだけ早く、問題は解決しておきたいんだ」

 レオンの言葉は、完璧主義の彼らしい言葉ではあった。
 レオン・クリスタロスという人間は昔から、基本的に打てる先手はすべて打つ、という性格なのだ。
 
「そうですね。数日前……レオン様が幼等部に来られた次の日あたりから、元気がないように見えます。ここ数日、何かずっと思い悩んでいる様子でしたし、学校以外のことなので、何か悩まれているのかもしれません」
「ローズも僕と同意見か」
「レオン様もそう思われていたのですか?」

「まあね。どうにも訓練にも身がはいらない――という様子だったんだ。僕が彼女に会うのは基本放課後だけだけどね。リヒトのお守りで、そばで見る機会の多い君が言うなら間違いはないだろう。今日も訓練の約束をしているし、本人に聞いてみることにするよ」
「……レオン様が真正面からお尋ねに?」
「ああ」

 ローズは驚きを隠せなかった。
 いつものレオンなら遠回しに言葉を選ぶか、周りの人間から真実を探りそうな気がするのに。
 ロゼリアに関しては、自分から自発的に動くつもりらしい。

 『三人の王』。
 もしかしたら前世での繋がりが、レオンにそうさせるのだろうかと考えて――ローズはその考えを、頭から打ち消した。
 レオン・クリスタロスは、現実《いま》を重んじる人間だ。
 だがだとしたら、レオンが『出会ったばかりの少女』を気にかける理由がなんなのか、ローズにはわからなかった。

「用は済んだし、僕はこれで失礼するよ」
 リヒトが教室から出てくるより前に――レオンはそう言うと、ローズに背を向けた。
 ローズはそんな彼の背中を見ながら、不思議そうな顔をして呟いた。

「いつもなら慎重なあの方が……一体、どうなさったのでしょう?」



「……約束、破ってしまったわ」
 学院の中の湖を前に、ロゼリアは一人、手紙を手にうなだれていた。

「何も言わずに行かなかったこと、彼は怒っているかしら」

 今日は訓練をする約束をしていた。
 けれど父からの手紙のことが気にかかって、ロゼリアは二人との約束をすっぽかしてしまった。
 キラキラと光る湖の水面を見つめて目を細める。
 自分の魔法のことでこれまでずっと悩んできたというのに、『水』に関わる場所が一番落ち着くだなんて、矛盾していると心のなかで自嘲する。

「私のために、二人とも時間を割いてくれているのに。……でもお父様のことで、とても他の人に相談なんてできないわ」

『魔法が使えないなら国に連れ戻されると言われているの。だから、魔法を使えるようにもっと協力してほしいの』
 そんなこと誰かに相談したとして、相手を困らせるだけだ。

 ――私は、『海の皇女』なのに。こんな私じゃだめなのに。

 ロゼリアがそう考えて顔をしかめていると。

「え?」

 急に地面に影がさしたに気付いて、ロゼリアは顔を上げて目を瞬かせた。
 空を仰げば、日を隠すほどの大きな鳥が、頭上を飛んでいたからだ。
 巨大な黒鳥はロゼリアを見つけると、ゆるやかに高度をおとし近寄ってくる。
 ロゼリアは慌てた。
 赤い瞳に黒い翼。そんな鳥の名前なんて、一つしか浮かばない。

「ここにいたのか。『ロゼリア・ディラン』」

 巨大な黒鳥――レオンはレイザールから降りると、つかつかとロゼリアのもとへと近寄った。
 ロゼリアは思わず一歩後退ると、上目遣いで彼に尋ねた。

「どうして、貴方がここに」
「君が時間になっても約束の場所に来ないから、空から探させてもらった。僕との約束を破るなんて、随分といい度胸だね?」

 レオンの声は語尾こそ上がっていたが、目は笑っていなかった。

「ご、ごめんなさ……」

 ――確実に怒らせた。

 ロゼリアはそう思い、慌てて頭を下げた。

「簡単に謝るくらいなら、約束を破るのはよくないな。ところで」
 レオンはロゼリアの目線の高さにかがむと、彼女の目元に指を添えた。
「どうして君はいつも、一人で隠れて泣いているんだ?」
「……っ!」

 レオンの指先は、透明な雫で濡れていた。
 ロゼリアは乱暴に手で顔を拭った。

「わ、私は、泣いてなんかないわっ!」
「嘘をついても無駄だよ。……ああもう、目を擦ったらダメだ。赤くなってる。ほら、こっちを向いて」

 レオンはそう言うと、手巾を取り出してロゼリアの目元を拭った。
 その仕草は、まるで幼い子どもにするように、どこか優しい。

「……ごめんなさい」
 ロゼリアは無意識に、そう口にしていた。
 レオンはその言葉を聞いて、はあと深いため息を吐いた。

「謝る前に、どうして君が泣いているのか教えてくれ。僕は別に、理由なく君を叱ったことなんてないはずだけど? 悩みがあるなら、それはそれでいいよ。でも君が僕に君のことを教えてくれないと、僕は君に何もしてやれないだろう?」
 
「貴方が私のためになにかしてくれるの……?」

 慰めようとしてくれているのだろう、とロゼリアは思った。
 だがその中で、レオンが口にした思いがけない言葉に、ロゼリアは目を瞬かせて尋ねていた。
 レオンはロゼリアから視線を反らして言った。

「……君が転べば僕やギルバートも転ぶ。今の僕たちはいわば、運命共同体だからね」

 あくまで試験のために心配してるのだ、というレオンの言葉に、ロゼリアはどこか納得して――それから、少しだけ胸が痛むのを感じた。

「そうよね。……私達、同じ仲間だもの」
 
 沈んだ彼女の声を聞いて、レオンは一瞬ばつの悪そうな顔をすると、ロゼリアの隣に黙って腰を下ろした。

「それで? 君は、何を悩んでいるんだ?」
「お父様が。……お父様が、ここに来ると仰ったの」
「それの何が問題なの?」
「お父様がいらっしゃったとき、私がもしまだ魔法を使えないままなら、国に連れて帰ると仰ったの」
「……なるほどね」

 レオンは表情の暗いロゼリアを見て、合点がいったという顔をした。

「それが、君が最近元気がなかった理由か」
「……」

 沈黙は肯定だ。レオンはそう判断した。

「一つ、君に質問してもいいかな?」
「何?」
「君の父は、どういう人?」
 レオンの問いに、ロゼリアは返答に少し迷った。

「お父様は……厳しくて、『優しい』人よ」
「『優しい』?」
 ロゼリアの言葉にレオンは首を傾げた。

「魔法を使えない限り、皇族である私は後ろ指をさされる。お父様は、私のことを心配してくださっているの。私のお母様は、私が幼いときに病でなくなったの。私のことを気にかけられるのは、そのせいというのもあるかもしれないわ」

 愛しているからこそ、心配してくれる。

 それは理解しているけれど――ロゼリアは、父の愛情が辛かった。
 『心配』される度に、『結局お前はダメなのだ』と、そう突きつけられている気がして。
 胸をおさえたロゼリアを見て、レオンはふと何か思い出したような顔をした。

「もしかしたら――君の父は、僕の父上に似ているのかもしれない」
「え?」
 ロゼリアは、レオンの言葉の意味がわからず首を傾げた。

「僕とリヒトの母は、幼いときに亡くなっている。父上は――叔母上も早くになくしているから、昔から僕やリヒトのことが気がかりみたいだった」

 母を早くに亡くした父。
 その点において、確かに二人は似ているようにロゼリアは思った。

「父上は昔から、僕に期待を向ける一方で、リヒトには期待する素振りを見せなかった。今、僕が十年もの眠っていたせいで、少し揉めているけれど……多分父上はこれ以上、リヒトに無理をさせたくないんだと僕は思う。魔法を使えないことは、今のこの世界では、王族であるなら非難の目を向けられる理由になるからね」

 これ以上リヒトが傷つかなくていいように――真綿にくるんで大切に大切に……。

 だが真綿といえば、こんな言葉もある。
 『真綿で首を絞める』
 そんな言葉が頭に浮かんで、レオンは小さく頭を振ってから、落ち着いた声でロゼリアに尋ねた。

「それで? 君はどうしたいの? 君の父の言うように、国に戻りたい? それとも、ここにいたいの?」
「私は……」

 レオンがロゼリアに、そう訪ねた瞬間だった。草むらから、幼等部の生徒たちが一斉に現れた。

「今の話、どういうこと!? ロゼ、国に帰っちゃうの!?」
「どうして、みなさん、ここに……」
「ロゼが元気がなかったから、お菓子でも一緒に食べようって誘おうって……でも、そしたら、二人の話が聞こえて」
「やだよ、ロゼ。せっかく仲良くなれたのに、帰っちゃうなんて嫌だよ!」

 ここにいてほしい。一緒に学院で過ごしたい。
 そう口にする子どもたちを前に、ロゼリアは困惑の表情を浮かべていた。

◇◆◇

「なるほどな。……昨日、そんなことが」

 翌日。
 幼等部の教室で、リヒトとローズは昨日の出来事のあらましを聞いた。

「だからさ、ロゼリアのお父さんが来るまで、みんなでロゼリアのために出来ることをしようと思うんだ」
「例えば?」
「グラナトゥムにこれないよう、罠を仕掛ける、とか」
「危険なことはだめですよ。それに大国の王相手にそんなことをしたら、どんな罰がくだるかわかりません」

 ローズは冷静だった。
 
「でも、王様がこなかったらいいんだろ!? だったら妨害すればいいじゃん!」
「それは解決策とは呼べません。そもそも、そんなことをすればロイ様にも迷惑がかかります。それに、ロゼリア様の父君でいらっしゃるディランの皇帝は、貴方方が敬愛してやまないロイ様の叔父にあたる方でしょう?」
「叔父?」

 子どもたちは目を瞬かせた。

「ロゼリア様の母君は、グラナトゥムの第一王女だった方なのです。また、ディランはグラナトゥムに並ぶ大国です。貴方たたちがこの問題に手を出すのはおすすめしません」
「なんだかとたんに怖くなってきた……」

 ロゼリアのために、何かできることをしよう! と意気込んでいた子どもたちは、ローズの話を聞いて肩を落とした。

「誰かを傷つける方法じゃなくても、さ。俺は彼女のことを信じてあげたり、応援したり、そういう気持ちが彼女にとって力になると思う。それにお前たちが動いて、それで罰せられるようなことがあれば、その時に一番悲しむのは、彼女だと俺も思うぞ」

 ローズの言葉で落ち込んだ様子の子どもたちは、リヒトの言葉を聞いて少しだけ元気さを取り戻した。

「……わかった。そうだよな。妨害とかじゃなくても、応援することはできるもんな」
「最近頑張ってるし、ロゼリアにならきっと出来るよ!」
「うん。きっとそう!」

 リヒトの言葉を聞いた子どもたちは、明るい言葉が飛び交わせる。
 そんな中、幼等部の生徒の一人が、こんなことを呟いた。

「でも俺はさ、ロゼリアみいにすれ違えるのも、羨ましいなって思ったりもするよ。魔法が使える子どもは、貴族の養子に迎えられることが多くて。……そうなったら、今のお父さんやお母さんとは、縁を切るように言われることもあるって聞いたんだ。俺はロゼリアのお父さんのことはよく知らないけど、家族だからすれ違える――って、そんな感じがするから。すれ違える相手がいるって、幸せなことだとも俺は思うんだ」

 その話を聞いて、ローズは自分の婚約者であるベアトリーチェが、養父に止められたわけではなかったものの、自分の意志で家を出たというのともあり、ここ最近まで実の親とまともに話していなかったという話を思い出した。
 相手を思うからこそ――すれ違うこともある。
 でもその思いが、本当に相手を思ってのことなら、いつかはすれ違うのではなく、目線を合わせて話が出来ればいいのにとローズは思った。

 それから数日後、グラナトゥムの港にディランより巨大な船がやってきたという話が学院に届いた。
 その日の正午頃、魔法学院の門前に一両の馬車がとまった。

「ついにやってきたぞ!」

 『敵兵敵兵! 襲来しました!』
 ロゼリアを心配して、門の近くで見張りをしていた子どもたちは、その光景を見て驚きを隠せなかった。
 馬車から従者の手を借りて降りてきたのは、青い長い髪が特徴の、美しい青年だったからだ。

「…………って、めっちゃ若い!?」

 予想していなかった『父親』の姿に、誰もが心の中で突っ込んだ。

「ようこそ。アジュール陛下」
「お久しぶりです。今日はロゼリアのことで、突然お仕掛けてしまい、申し訳ありません。それより、その呼び方はやめて欲しいと、以前そう伝えましたね?」

 アジュールとは、青を意味する言葉だ。
 『海の大海』ディランの王は、美しい青の瞳で、じっとロイを見つめた。
 子持ちの国王だと知らなければ、絶世の美女とも思える外見は、人を魅了する力がある。

「……お久しぶりです。叔父上」
「はい。ロイくん」

 くすりと笑うその姿は、まるで水の精霊のように美しい。
 血脈を辿れば人魚の血も混ざっているとされるディランの皇族の系譜には、美しい髪と瞳を持って生まれる人間が時折生まれる。

 その中でも、アジュールは先祖返りと呼ばれるほどの美貌の持ち主だ。
 外見だけなら母親似で父親と比べると快活そうなロゼリアとは違い、アジュールは儚げな印象を周囲に与えるのに、彼の口から出るロイと交わす言葉は、まるでロイと同い年の青年のようでもあった。
 ロイは昔から、アジュールの前になると幼い頃に戻ったような気持ちになる。
 アジュールがロイを甥っ子として子供扱いするせいもあるのだが、ついアジュールの魔塔独特な雰囲気に飲まれてしまうのだ。

「あの子のことを、貴方に任せてしまって申し訳ありません。一人娘ということもあってどう接してよいか、僕もわからないところがあるのです」
「ロゼリアとは昔からよく話をしていましたし、叔父上は気になさらないでください。それにロゼリアも、最近は友人も出来たようですし、魔法の訓練も意欲的に行っています。手紙でロゼリアが魔法を使えなければ連れて帰ると仰っていましたが、その判断は時期尚早かと思います」

 ロイの言葉に、アジュールは波の模様の描かれた空色の扇を手に苦笑いした。

「ありがとう。でも、ロイくん。あの子は僕のただ一人の後継者。そう思って育ててきましたが、そうやって期待をかけすぎるのも、良くなかったのではないかと最近は思っているのです。君があの子を思ってくれていることは知っています。ですが、父として、国を治める者として――線引きは必要かとも思います。あの子が僕のあとを継ぐに相応しい者かどうかは、今日判断させてもらいます」

 人ならざるほど美しいその人に、反論は許さないという強い意思を感じて、ロイは言葉を飲み込んだ。

◇◆◇

「ロゼリア」

 アジュールのまとう空気が、少しだけピリリとしたものに変わる。
 ロゼリアの待つ訓練場についたアジュールは、後継者に対するいつもの口調で命じた。

「約束通り、お前が今使える魔法を、今日は見せてもらおう」

 ロイに対する、アジュールの口調は柔らかい。
 だがそれは、甥であるロイの前だからだ。皇帝としてのアジュールの口調は違う。
 凄絶な美貌故に、『皇帝』としてのアジュールは、人に畏怖の念を抱かせる。
 
「……わかりました」

 ロゼリアは深呼吸をすると、石に魔力を込めた。
 『もし失敗したら』と思うと、ロゼリアは手が震えた。そのせいで、魔法が上手く使えない。

 ――やっぱり。やっぱり、私はダメなの? 私は変れないの……?
 その時だった。
 隠れていた子どもたちが立ち上がり、大きな声で叫んだ。

「頑張れ~~!!!」
「え……? なんで、みんなが……」

 ロゼリアは魔法を使う手を止めて、声の方を振り返った。

「……ロイくん。今日はここに子どもをいれないで欲しかったのですが」

 突然の乱入者に、アジュールはロイに咎めるような視線を向けた。

「すいません。彼らがどうしてもというので」
「……」
「実は先日学院でとある催しをしたのですが、その際に一つ、彼らの願いを聞くと約束していまして。それの彼らが、どうしても彼女を応援したいと願うものですから」

 グラナトゥムの国王が一度だけ与えた権利。
 それを娘のために使おうとするなんて――アジュールは、娘にそれほど親しい存在が出来たことが驚きだった。
 『友人』になり得る年頃の子どもたちから、ある時期から距離を取ろうとした娘が。

「彼らはロゼリアの友人なのですか? 少し年が離れているように思いますが……」
「……」

 クラスの編成が実技の試験の結果のせいで決まったことは、ロイはアジュールには言えなかった。
 実力主義の魔法学院。
 入学時の正当な評価とはいえ、ロゼリアの学院での評価をアジュールに話すことは憚られた。

 ロイとアジュールが二人が話をしている間、ギルバートはこっそりロゼリアに近付くと、いつもの調子で話しかけた。

「よっ。元気か?」
「きゃっ」
 意表をつかれたロゼリアは、思わず声を上げた。

「ど、どうして貴方がここに」
 突然の乱入者。
 だが張り詰めていた緊張が、ギルバートがそばにいるというだけでとけたことにロゼリアは気が付いた。
 手の震えも、いつの間にかおさまっていた。

「君がなかなか魔法を使えないみたいだから、見に来たんだ」
「……戻って。このままだと、お父様が貴方をお怒りになるわ」

 ロゼリアは、ギルバートにそう告げることしかできなかった。
 自分のせいで、彼にまで迷惑をかけるわけにはいかない――しかしロゼリアの思いなどおかまいなしで、ギルバートはロゼリアに尋ねた。

「ところで、ロゼリア。君はいつから、魔法がうまく使えなくなったんだ?」
「……どうして今、そんなことを聞くの?」
「何事も、原因があるから結果がある」

 少し疲れたように尋ねたロゼリアに、ギルバートは落ち着いた声で言いきった。

「私が使えなくなったのは、『海の皇女じゃないなら、私に価値なんてない』そう言われてからよ」
「それで? 君はその言葉を、『正しい』と思ったのか?」

 ロゼリアは、ぎゅっと拳を握りしめた。

「……わからない。私は、誰かの笑う顔が好きだった。それだけで、幸せだった。でもそうやって、私がなにか行動するたびに、それは施しであったり利用できると彼らはいったの。私は……私は、ただ」

 誰かに自分が持つ水を、あげたいと思っていただけだった。
 
 空から降る雨が、全てのものに恩恵をもたらすように。
 だがそれを傲慢だと、利用価値があるとか誰かに評価されたときに、ロゼリアはどうすれはいいかわからなくなってしまったのだ。
 自分のすべてを、否定されたような気がして。

「じゃあ君は『彼ら』も、そんな人間だと思っているのか?」
「それは……」
 ロゼリアは返事に詰まった。

「君には彼らが、君に利益を求める人間のように見えるのか?」
「……もしかしたらいつかは、彼らもそうなるかもしれないわ」

 父を前にしている今だからこそ、ロゼリアはそう思った。
 学院の中は、外の世界とは違う。
 魔法の才能があっても、王族と平民には大きな壁がある。
 この学院は、この場所は、夢のような場所だ。誰もが平等なんて理想に過ぎない。
 力を示さなければ、存在を認められない世界があることを、ロゼリアは知っている。
 ――……でも。

「本当はその答えは、もう出てるんだろう?」

 自分のことを心配そうに、でもどこか期待して見守る幼等部の生徒たちを見て、ロゼリアは唇を噛んだ。
 たとえ可能性が低いとしても、これからも彼らに変わらぬ瞳を向けてほしいと、そう思う自分の心こそが、答えなのだと知っている。

「君は今、檻の中に居る。君は――鳥はずっと、檻の中に居た。そしてずっと焦がれていた。自分も、みんなと同じように青い空をかけたい。悠然と広がるあの青を、共に飛び回りたい」

 ディランの後継者として、ロゼリアは周囲に期待されて育った。けれど本当は、『普通の少女』でいたいと思うことは何度もあった。
 『普通の少女』のように、友人を作って、笑い合えることを願っていた。

「その願いは、空へと届く。だから君は、君の心のままに飛べばいいんだ」

 ギルバートの言葉は優しく響く。
 ロゼリアはその声を聞いて、自分の胸の中に、風が吹き抜けたような感覚があった。
 ――信じても、願ってもいいのだろうか?
 でもその思いを否定する昔の記憶が蘇って、彼女は目を閉じた。

「自分を否定するな」
 ギルバートはそう言うと、ロゼリアの頭を優しく撫でた。

「君がもし、近くに居る者だけに水を与えることで否定されて苦しんだなら、もっと広い世界を知ればいい。でも君の想いを受けとめてくれる誰かに、君の心や魔法が、支えになるようなそんな誰かに出会うためには、君は世界を知らなくちゃいけない。今の君は、井戸の中にいるようなものだ。世界を知らない君は、とじられた井戸《せかい》の中で、自分の作り出した水に溺れている。そんなの、勿体無いと思わないか?」

 ――勿体ない、だなんて。
 そんな考え方を、ロゼリアは初めて聞いた気がした。

「井戸の蓋は俺が壊してやる。俺も、君も。この力は、一人で抱えるべきものじゃない。自分のためだけのものじゃない」

 十年間眠っていた少年が口にする言葉の筈なのに、ロゼリアはギルバートの言葉が、もう何十年、何百年も生きてきた人間の言葉のようにも思えた。

「大丈夫。君なら出来る。今はその感覚を、少し忘れてしまっているだけだ。だって君は、その名に相応しい魂をその体に宿している。そのことは君が誇るべきことで、君を否定するものじゃない。『君は今のままでいい』なんて言葉は、きっと今の君は、求めてはいないんだろう?」

 それはロゼリアが、『海の皇女』として生きることを諦める言葉だ。

「だから俺は、君に言おう。自分を誇れ。君の弱さ、優しさを。それこそが君の強さだと、かつての君はちゃんとわかっていたはずだ。だって君は紛れもなく――『海の皇女』なんだから」

 ギルバートはそう言うと、パチンと指を鳴らした。
 すると同時に、二人を水が取り囲んだ。
 空の色をうつす水はキラキラと輝き、紙で作られた海の生き物たちは、楽しそうに空を泳いでいた。
 ロゼリアは目を見開いた。

 ――自分はこの光景を、知っている。いいえ、違う。私は、ずっと知っていた。知っていたのに、失った。

 小さな紙の魚たちは、水で作られた空を泳ぐ。
 それは幼い頃のロゼリアが、使っていた魔法とよく似ていた。

 『水晶宮の魔法』

 ただ彼の魔法は、幼い頃彼女が操っていたそれよりは、生き物たちの動きが随分とぎこちない。
 それはギルバートが自分と違って、海の中の魚の動きを、詳しくは知らないためだと彼女は思った。
 
 魔法が使えなくなり、部屋の前に閉じこもる前――ロゼリアは、海が大好きだった。
 『青の大海』ディランの皇女として生まれ育ったロゼリアにとって、海の中の生き物たちは、ずっと彼女の誇りだった。
 『海の皇女』と呼ばれることも、未来を期待されることも、何もかもが自分にとって誇らしいものの筈だった。
 だから、知ってほしいと願った。
 自分が愛する愛しい世界。そんなものを、誰かと共有したいと思った。
 でも、その心は踏みにじられた。

 自分の心をわかってくれる人なんて、この世界には一人もいない。
 『あの日』からずっと――そう思って生きてきた。

「君が『君』でいたいなら、信じる相手を間違えるな」
「――私は……」

『みんなは喜んでくれるかしら』
 昔のロゼリアは、貴族の子供たちを招待してお茶会を開くこともあった。
 彼女の暮らす宮殿は龍宮と呼ばれており、かつて『海の皇女』が暮らした場所だとされていた。

 『三人の王』の一人、『海の皇女』ロゼリア・ディラン。
 数多くの功績を残したその女性は、海を、そして海の生き物を愛していた。
 龍宮の中心部にはガラス細工や宝石で作られた講堂があり、その壁にはこの海に生きるあまたの生き物が、回遊する姿が写し取られている。
 触れればひやりと冷たいその場所が、ロゼリアはお気に入りだった。

『明日は何かあるのか?』
『大切なお友達だもの。みんなにも私の見てもらいたいの。楽しみだわ』
『そうか。――いい一日になるといいな』
『ありがとう。ロイ!』

 『友人たち』を招く前の日に、ロゼリアはロイとそんな話をして笑っていた。 
 きっと素敵な一日になる。
 そう期待して、ロゼリアは『彼ら』を招いた。

『この場所には、秘密があるの!』

 ロゼリアはそう言って、魔法を発動させた。
 講堂は水で満たされる。

 『海の皇女』ロゼリア・ディラン。
  ディランの歴史上唯一の女性でありながら、王として国を導いた女性は、生涯誰とも結ばれることなく、一生を終えたと言われている。
 彼女が愛したのは誰だったのか――その説は様々あるが、異国の王であったという話も残っている。
 その『海の皇女』が最も愛したという魔法――そしてその名を継ぐ自分が、この世界で一番愛する魔法を。
 知ってほしいと願わなければ、喜んでほしいと思わなければ――今のように魔法が使えなくなることなんて、なかったのかもしれない。

『な、なんだ?! これ』
『まさかこれ……水晶宮の魔法!?』
 
『大丈夫。水の中でも息が出来る魔法も一緒にかけているから』
 美しいこの国の景色。
 大切だから、大切な友達だと思っていから。見てほしかった。知ってほしかった。
  美しいこの景色を、自分が愛するものを。
 けれどロゼリアのその思いは、彼らに届きはしなかった。

『突然魔法を使うなんて、何を考えているんだか』
『自分が使える魔法を、見せびらかしたかったのよ』
『そんなこと、言ったら駄目よ』
 『水晶宮の魔法』を披露した後で、ロゼリアは偶然『友人達《かれら》』の話を聞いてしまった。
 その声は、まるで愚かな道化を嘲笑うかのようだった。

『遠い異国の舶来の品も、あの子に頼めばなんだって手に入るんだから』
『最初から何でも持っている、皇女様が羨ましいわ』
『ええそうよ。海の皇女でなかったら』
『友達になりなさいとお父様が仰らなければ』
『友達になんてならなかった』

 その言葉を聞いてしまった時、ロゼリアは自分の心にヒビが入る音を聞いた気がした。
 器は、心は、ひび割れて溢れてしまう。
 それからだった。ロゼリアが、魔力の制御が上手く出来なくなったのは。

『――ロゼリア様? どうかなさいましたか?』
 けれどロゼリアは、何も知らない周囲の人間たちに、彼らのことを告げ口する気にはなれなかった。
 そうしてしまえば、自分という存在を、自分が否定するような気がした。
 自分の意に反する者たちを、ロゼリアは罰することは望んでは居なかった。
 ただ悲しかった。胸が痛くてたまらなかった。
 水魔法。
 息をするかのように使えていたはずのものが、腕いっぱいに抱えていた宝物が、手のひらからすり抜けていくのをロゼリアは感じた。

『一時的なものでしょう。大丈夫。ロゼリア様のお年頃であれば、よくあることですよ』
『しかし……』

 大国の跡継ぎとして期待されていた『海の皇女』の名を継いだ人間が、今更魔法が使えないなどあってはならない。
 周りの大人たちの視線は、憐れむようにも、蔑んでいるようにも彼女には見えた。
 胸を押さえる。目を瞑る。忘れてしまえと思うのに、自分を否定する言葉は消えてはくれない。

 『国の宝』から『出来損ないのお姫様』。
 やがてロゼリア自身に関わることを周りの大人たちはためらうようになり、『友人』たちの訪れもなくなった。
 期待して、厳しく接していた父は、自分に無理をさせないように気をつかっているようにロゼリアには見えた。

 そんな中、唯一自分に態度を変えなかったのは、ロイ・グラナトゥムだけだった。
 彼だけは信じていい。彼だけは分ってくれる。
 そう思って、ロゼリアはロイと二人で時を過ごした。
 しかしあるとき、ロイはロゼリアにこう尋ねた。

『ロゼリア。お前は、前世のことを覚えているか?』
『え……?』
『すまない。妙なことを聞いた』

 その時、ロゼリアは気付いてしまった。
 天才だと呼ばれるロイの力が、前世に起因するものだと言うことを。
 彼には昔の記憶があることを。だから誰に否定されても、揺るがぬ自分で居られるのだと。
 そう思ったとき、やはり自分の心を理解してくれる人なんて居ないのだと思った。 

 ――彼は、私とは違うのだ。私とは違って、自分が自分でいい記憶《りゆう》を手にしている。

『三人の王』の転生者。
 そのはずなのに、『同じ』じゃない。彼に私の気持ちなんてわからない。私の魔法は壊れてしまった。この心は壊れている。そんな自分が、魔法を使えるはずなんてない。

 暗い部屋で、一人で過ごす日々が続いた。
 そんな自分を見かねてか、父に無理やり入れられた学院で、沢山の人の目の前でロゼリアは魔法を失敗した。
 実技での結果のせいで幼等部に入られて、そこでロゼリアはリヒトと出会った。
 どんなに頑張っても魔法を使うことができない彼は、今の自分と同じだと思った。   

 誰からも期待されない、同じ『出来損ない』なのだと。
 だがそう思うことに、彼の実の兄は怒りを示した。
 強い否定の言葉を、直接向けられることは久しぶりのような気がした。
 そして一人泣いていたそんなときに、ロゼリアはギルバートと出会った。

『子どもは、遊びながら学ぶものなんだぞ』

 陽だまりのような笑顔は、不思議と『誰か』に似ている気がして心地よかった。
  空を翔る鳥。
 魔力を持つ者と、そうでない者との間にある大きな壁。
 その壁を超えた古代魔法の紙の鳥は、平和の象徴である純白の鳥のように今のロゼリアには思えた。 
 ロゼリアは、水中を泳ぐ魚たちを見上げた。 

『海の皇女。約束通り、君にこの魔法を渡そう。誰よりも海を愛する君にこそ、この魔法は相応しい』

「……っ!」
 その時、知らない声が頭に響いて、ロゼリアは思わず目を瞑った。
 記憶の中で、『誰か』が笑う。
 白い鳥を空へと飛ばす。金色の髪を揺らして。
 それは紙の鳥。『彼』が作り出した、平和と幸福の象徴。 

 ――これは祈りだ。これは、『彼』の祈りだ。 

 そんな言葉が、ロゼリアの頭に浮かぶ。

『協力してくれ。大陸の王。海の皇女!』

 その声は、確かに自分の中に響いているはずなのに、強く胸を打つはずなのに、すぐに朧気になって消えてしまう。
 『彼』を思い出そうとすると、まるで魔法にかかったかのように、靄がかかって思い出せない。
 でも、これだけはわかる――ロゼリアは、何故かそう思えた。

 ――これは記憶だ。きっと、遠い昔の。優しい貴方との、大好きだった貴方との、懐かしい思い出だ。

「私、私は……」

 ――ああそうだ。今も昔も変わらない。私はただ、みんなが笑えるそんな世界を作りたいと願っていたの。誰かにその感情を否定されても、それが私だったの。それこそが、『海の皇女』だったの。

 『彼』の声を聞いたせいだろうか。
 今のロゼリアは、不思議とそう思えた。

「さあ、『海の皇女』。今度は俺に、君の魔法を見せてくれ!」

 ギルバートは『彼』によく似た笑みを浮かべて、高らかに言った。
 ギルバートが魔法を解いたその瞬間、ロゼリアの視界には、青い空が目に写った。
 ロゼリアは大きく息を吸い込んで、それから紙に触れて魔力を込めた。
 失敗する姿なんて、もう頭の中には浮かばなかった。

 ――私なら、出来る。だって私は、『海の皇女』なのだから!

「――飛び立て!!!」
 ロゼリアの声と同時に、空に一斉に、真っ白な紙の鳥が飛び立っていく。

「とんだ……!」
「すごい。すごーい! いっぱい、いっぱい!!」
 美しいその光景に、子どもたちが声を上げる。

「でき……た……?」

 ロゼリアは、空を見上げて目を大きく見開いた。

 ――よかった。できた。出来たんだ……。

 だがその瞬間、安堵感と一緒に張り詰めていた気が緩んで、どっと疲労感がロゼリアを襲った。
 うまく立つことができずよろめいた彼女の体を、背後にいた大きな手が支えた。

「……大丈夫?」
 声の主が誰か気付いて、ロゼリアは思わず顔を上げた。
 『賢王』レオン――自分を気遣うような彼の瞳に、ロゼリアは目を瞬かせ、それから顔を隠して視線をとそらした。

「――だ、大丈夫。ありがとう。気が抜けただけ」
 心臓の鼓動の音がうるさい。
 ギルバートだと安心出来るのに、レオンだとどうして自分の心はこうも騒ぐのか――彼に触れられている場所から、体に熱が広がっているように思えて、ロゼリアは緊張した。

「ロゼリア」

 レオンから表情を隠すように、少し距離を取って背を向けたロゼリアを、アジュールは静かに呼んだ。
 ディランの皇族の印である青の瞳には、ロゼリアは今も昔も、優しい色が灯っているように思えた。
 ロゼリアは父が、自分とロイとでは口調を変えていることを知っている。
 不器用な人なのだと、そう思う。
 精霊病と呼ばれる病で、愛する人を失って。ただ一人の娘である、後継者が魔法を使えなくなったことで――どれだけ父が悩んだか、ロゼリアにはわからない。
 部屋に引きこもっていた自分を突然学校に行かせたり、行動は読めないところもあるけれど、それはすべて自分を思っての行動のように、今のロゼリアには思えた。
 
「お父様。心配して来てくださったのに、申し訳ありません。確かに私の魔法は、不完全です。私じゃない人が復元したこの魔法だけが、今の私が扱える、ただ一つの魔法です」

 『古代魔法』の一つとされる『紙の鳥』。
 基本的に魔力が低くとも扱えるとされる古代魔法は、その魔法を復元した人間が褒められたとしても、使えるだけの人間が誇れるものではない。

「昔のように魔法を使うことは、今の私には出来ません。――でも。ここで、やりたいことが出来ました。この場所で同じ時を過ごし、学びたい仲間が出来ました。だからまだ、国には帰りません。……私は」

 ロゼリアは、まっすぐに父を見つめて言った。

「私は、ここにいたい。ここでもう一度、頑張りたいと思うのです。だから……もう少しだけ私のことを、諦めないで待っていてください」

「……そうか」
 長い沈黙の後、アジュールは静かに頷いた。

「それでは、頑張りなさい。ロゼリア」
 ロゼリアはその日初めて、自分に向けられた父の笑顔を見たような気がした。
 後継者に対してではない――娘の成長を喜ぶような彼の笑みに、ロゼリアは胸が締め付けられるのを感じた。

「はい。お父様」
 青色の瞳は弧を描く。血の繋がりのある二人の笑みは、どこか似ている。
 アジュールはロゼリアに背を向けると、静かにその場を後にした。
 アジュールの後を追うように、ロイも場を離れる。

「ロゼリア!」
「ロゼ〜!!!」

 アジュールがいなくなった瞬間、ロゼリアの周りには幼等部の生徒たちがどっと押し寄せた。
 よかった、よかったと口にすつ彼らに抱きつかれ、頭を撫でられてもみくちゃにされ、ロゼリアは少し慌てたあとに、困ったように息を吐いて、子どもらしく笑った。



「しかし、一つ疑問なのですが」
「なんでしょうか。叔父上」

 それから少しして、ロイと共に歩いていたアジュールは、とあることに気付いてぴたりと足を止めてロイに尋ねた。

「彼はどうして、『水晶宮の魔法』が使えるのでしょう?」

 ディランに古くから伝わる古い魔法。
 それは魔法陣の刻まれた複数の対象物を、水の中で同時に動かす魔法だ。
 直接水晶に魔法陣を刻んでいるため、使おうと思えば他の人間も使えるだろうが――その魔法陣は、本来公開されていない。
 そしてその魔法を使うには高度な魔力操作と魔力量が必要なため、扱えたのは『海の皇女』のみとされる。
 そもそもその魔法が使えたからこそ、ロゼリアの名は世界に轟いたのだ。

 『ハロウィンパーティー』なんて馬鹿げた企画をギルバートが持ってきたときから、ロイはずっと気になっていたことがあった。 
 それはギルバートが、『彼』と関わりのある人物ではないか、ということだ。
 『先見の神子』――ギルバートの行動や能力・言葉は、ロイには記憶の『彼』と似ているように思えた。

 『水晶宮の魔法』
 その魔法を作ったのが誰なのかを、ロイは知っている。制作者なら、『彼』なら、使えてもおかしくはない。
 いや、もし彼でなくても――『先見の神子』であるなら、自分と同じように『彼』を知る人間ならば……。
 ロイの中の、『彼』の時代の記憶は曖昧だ。
 そして『先見の神子』にまつわる記憶もまた、ロイはうまく思い出すことが出来なかった。

「……そのことについては、自分もまだわかりません」
 アジュールの問いに、ロイはそう返すことしか出来なかった。

◇◆◇

「『ありがとう。凄く、上手だね』」

 アカリのいない部屋で、ローズは一人呟く。
 
「駄目ですね。これでは、やはり違和感が……。『普通』に喋ろうと思っても、つい癖でこちらが出るあたり、私は完全な騎士というのには程遠いのかもしれません」

 公爵令嬢として生きてきた自分が、騎士言葉《おとこことば》で話をすれば、どうしても自分の中に違和感が生まれる。
 ローズは最近、それを強く感じていた。

「女の子は――『王子様』に、やはり憧れるものなのでしょうか」

 学園に来て、アカリの護衛だというのに他の生徒たちから好意を向けられて、ローズはその瞳の中に宿る『期待』に気が付いた。

 心優しい王子様。
 自分に望まれるのがそれならば、『そうあろう』と思っても、なかなかうまく行かない。
 だがそもそも、この姿でいられるのも、ローズはあと少しの時間しかないように思えた。
 学院から国に戻れば、すぐに自分の結婚式だ。
 それまでに、ベアトリーチェにとって『相応しい自分』にもならないといけないような気がして、ローズは頭をおさえた。

 王子様のような騎士。
 貴族の妻として恥ずかしくない淑女。
 それは、正反対の生き方だ。

「『私』は、周りに私が求められる、『私』は……」

 寝台に寝っ転がって天井を見上げ、小さな声で呟く。
 自分で選んだものは殆どない、家族が選んだ美しい家具の並ぶ部屋を思い浮かべて、ローズは静かに瞳を閉じた。

「契約が可能な生き物は、下級、中級、上級、最上級に分かれています。現在、最上級とされる生き物は、この世に二つしか存在しません。さて、ではその二つとは何でしょうか? では、そこの貴方」

「ふぃ、フィンゴットとレイザールです」
 教壇に立つ教師に視線を向けられ、リヒトは一度びくりと体を跳ねさせてから、おずおずと答えた。

「その通り。『最も高貴』とされるのは、光の天龍『フィンゴット』、闇の黒鳥『レイザール』です」

 黒いドレスの、まるで物語に出てくる魔女のような格好をした教師は、リヒトの答えを聞いて頷くと本を開いた。

「契約を結ぶことの出来る生き物は、主人となる貴方方の魔法への適性が強く影響します。水属に適性を持つなら水の生き物、風属性であれば飛行種との契約は、通常よりも容易となります。逆に地属性に適性が強い場合、まれに飛行種との契約が難しくなるという事例も報告されています」

 地属性の適性がある人間が、飛行種との契約が結べない――それは、ベアトリーチェが良い例だ。
 リヒトはそう思いながら、本に描かれたページの、ただ一つの生き物を見つめていた。

「この授業では、世界に存在する様々な生き物について学び、より強いと判断される個体と契約を結んだ者に、実技における高評価を与えます」



「いいなあ! リヒトは十五歳を超えてるから、もうその講義取れるんだ!」

『世界の生き物とその契約』
 リヒトが教室で教科書を読んでいると、幼等部の生徒が声を弾ませて教科書を覗き込んできた。
 その声を皮切りに、子どもたちがリヒトの周りに集まる。リヒトは笑って、教科書を彼らに手渡した。
 子どもたちは目をきらきらと輝かせ、食い入るように教科書に描かれた生き物たちを見つめていた。

「この講義、お前たちはまだ取れないんだったか?」
「リヒト様。契約獣との契約は、十五歳以上が推奨されています」
 護衛のためリヒトの側にいたローズは、そっとリヒトに告げた。

「……ああ。そうか」
 魔力が「固定される」年齢で契約を結ぶ。
 とすれば、学院側が年齢を制限するのは理に適っている。

「いいよなあ。ドラゴン! 憧れる。グラナトゥムにはいくつか騎士団があるけど、龍騎士団はやっぱり一番かっこいいもんなあ。レグアルガもかっこいいし……」
「わかる! 確かに! ドラゴンって、それだけでもうドキドキする!」
「でもやっぱり、一番契約したいのは――……」

 子どもたちは、目線を合わせてにっと笑った。

「『フィンゴット』だよな!」
 
 子どもたちの明るい声は重なる。うんうんと、誰もが一様に頷いていた。

「レグアルガも伝説級で上級だけど、フィンゴットとレイザールが別格って言われてるし。もうレイザールは契約されちゃってるから、狙うなら、フィンゴットしかないじゃん!」

 現在、レグアルガはロイと、レイザールはレオンと契約を結んでいる。

「でも、なんでそもそも『別格』なわけ?」
「そのことについては僕がお答えよう」

 首を傾げる子どもたちを前に、読書家らしい少年が、丸みを帯びた眼鏡をくいっと持ち上げて答えた。

「フィンゴットとレイザールは、一定期間を経て卵に戻る生き物とされている。そしてその性質を持つこの二つの生き物は、光と闇の、世界の始まりの生き物とも言われており、最古の生物として広く知られているんだ。また、この二つの生き物はかつてとある国の王と契約を結んだ際、人の姿をとって国を導いたという話もあり、これは『聖獣奇譚』として記録に残っている。そして学院には、そのフィンゴットの卵がある。『石の卵』と呼ばれるものだけど、グラナトゥムの魔法学院に世界中から王侯貴族が入学したがるのもこれが理由の一つで、最も高貴とされる生き物に認められれば、自分の価値の証明になると考えれているからだと聞いたことがある」

 『王を選ぶ生き物』
 フィンゴットとレイザールが、『最も高貴』とされるのは、そういう理由もあるのだ。

「お貴族様のことは俺にはよくわかんないけど……。でもいいよな~~! フィンゴット!  世界で一匹しかいない白い龍なんて、契約できたら最高じゃん!」
「でも学院に卵があるのに、これまで誰も目覚めさせられなかったってなると……やっぱり難しいのかなあ」
「三人の王が『フィンゴットの卵』を学院におさめたという記録は残っている。ただ学院に『卵』はあるけど、フィンゴットは千年以上ずっと目覚めていないっていうのも事実だね。そのせいで、もしかしたら存在自体架空なんじゃないかっていう人間もいるくらいだ」

 眼鏡の少年の言葉に、他の子どもたちはうーんと唸ってから尋ねた。

「確かフィンゴットの前の契約者は、三人の王の一人なんだっけ?」
「え? それってレイザールだろ? だから三人の王の――『賢王』レオンと契約してたからこそ。レオン王子と契約したのも納得っていうか、元主だろ」

 異例中の異例。
 『賢王』レオンの生まれ変わりだからこそ、年齢や魔力量が条件を満たしていなくても契約を結べた――だがこの言葉に、少年は左手を口元に添えて苦笑いした。

「正確に言うと少し違う。『賢王』レオンは、レイザールと契約していたっていう説と、フィンゴットと契約していたという説あって、どちらが正しいのか、どちらも正しいのかわかっていないんだ」
「そうなのか!? でも、どっちもだったら正直やばいよな。最も強い力を持つ生き物を両方従えるなんて、本人が世界最強じゃんか」

 太古の力。
 始まりの力。
 ローズも、レオンがレイザールの力を借りているところを見たことはある。
 レオンがその力を使いこなせているかというと、今のローズには分からない。
 ただその生き物と契約を結んでいるということが、世界でどういう評価を受けるのかは、ローズだって知っている。

 『三人の王』
 この世界で知らない者がいないその存在の転生者とされるレオンは、今の彼がどうであれ、子どもにとっては憧れの存在なのだ。
 ましてや、すでに『最も高貴とされる生物(レイザール)』と契約を結んでいるなら尚更。
 
「でも、本当にレオン王子がフィンゴットと契約を結ぶ可能性はあるよな。だってここには、フィンゴットの卵だって言われている、『石の卵』があるんだから!」
 
 『フィンゴットと契約を結びたい』
 そう言っていたはずの少年は、瞳を輝かせて、その弟であるリヒトの前で声を弾ませた。