『婚約破棄された悪役令嬢は今日から騎士になるそうです。』海の皇女編

「……前よりも、随分良くなりましたね」
「本当!?」

 公爵邸にてユーリと手合わせしていたミリアは、武器を収めて静かに言った。
 『剣聖』グラン・レイバルトはユーリの才能を高く評価し、彼を弟子に迎え、直接ユーリは稽古をうけることになった。
 そして一週間ぶりに手合わせを行い――ユーリは以前よりもミリアに近付けたような気がして、満面の笑みを浮かべた。

「やった〜〜! よし……! これならいつか、ミリアにだって追いつけるかも……」

 強く拳を握り、また頑張ろうと意気込む。
 ミリアはそんなユーリを見て、子どもっぽさの残るその頬を、指で抓って引っ張った。

「いたあっ!」
「生意気言わないでください。貴方はまだまだ私より下です」
「な、なんだよ。ひっぱることないだろ!?」
 ユーリが頬をさすりながら反抗すると、ミリアは目を細めて言った。

「……たとえ」
「うん?」
「たとえ貴方の身長が伸びようが、どんな地位につこうが、貴方が私の従兄弟で、年下という事実は永遠に変わりません」
「むぅ……」

 ――確かに、それはそうだけど。
 でもそう言われたら、一生自分はミリアに勝てないじゃないかと思って、ユーリは頬を膨らませた。

「なんですか。不満なんですか?」
「不満って、ワケじゃないけど……。ねえ。そういえば、ミリアはさ」
「はい」
「おじさんの跡を継ぐことって以外に、何かしたいって思わないの?」
「……」
「だってミリアはこんなに強いし、頭だっていいんだから、別に公爵家に仕えなくたって何にだって……」

 ユーリの問いに、ミリアはすぐには答えなかった。
 そしてまるで、そう答えることが『正解』であるかのように彼女は言った。

「私は……。私は、ずっと公爵家の方々にお仕えするために育てられました。だから私の強さも、学の深さも、全てそのためのものなのです」
 
「ミリアがいいなら、俺はそれでいいけど……」
「ユーリ」
「うん?」
「公爵様は、貴方によくしてくださいますか?」
「うん! いろんなことを教えて貰ってるよ」

 ――でもさ、ミリアは本当にそれでいいと思ってるの?

 そう聞こうとしたけれど、ミリアに話を変えられ、ユーリは結局それ以上、何も言う事ができなかった。

「そうですか。ならよかった。ああそうです。ユーリ」
「明日は買い物に行くのですが、貴方も一緒に来ませんか?」
「一緒に行く!」
 そして楽しそうな誘いを受けて、ユーリは彼女に言いたかったことを、完全に頭の中から消してしまった。



「海だ――!」

 ミリアがユーリを連れてきたのは海だった。
 公爵であるクロサイト家の治める領土は広く、その一部には海が含まれる。
 初めて海を目にしたユーリは、日光を反射させてキラキラと輝く海を指さして、ミリアに尋ねた。

「ねえ、ミリア! 海には、人を丸呑みできるくらい大きな魚がいるって本当?」
「ええ、本当ですよ。貴方なんて一口でパクリですよ」
「うえええ……。じゃあ、近寄るのやめとこうかな……?」
「え? なんですか? 『行きたい』?」
「ちがうっ! 俺、そんなこと言ってないっ!」
「わかりましたから騒がないでください」

 顔の近くて大声を出されて、ミリアはユーリを嗜めた。
 ミリアはユーリをのせ、港まで馬を走らせていた。ミリアの馬術の腕前は確かなもので、ユーリはなんでもサラリとこなしてしまうミリアは、やっぱり凄いと心の中で思った。

「ミリアは何を買いに来たの?」
「王都に持っていきたいものを買おうと思って。この辺りにはあまり来ないのですが、貴方もいることですし」
「じゃあミリアは、俺のためにここに来たってこと?」
「…………」

 ユーリの問いに、ミリアはバツの悪そうな顔をした。
 沈黙は肯定を意味している。ユーリはそんなミリアを見上げて、ぱっと花が咲くように笑った。
「ありがとう。嬉しい!」

 魚が多く取れるその地は、古くは人魚が住んでいたという言い伝えもあり、『人魚の涙』と呼ばれる真珠も売られている。
 『青の大海』ディランでも多くの真珠がとれるが、真珠に魔法式を書き込める『精霊晶』は、クリスタロス王国産のもののみである。

「ミリア……。見て。やばい。この石めちゃくちゃ高い」
 宝石店に並べられた値札を見て、ユーリは震える声で呟いた。

「それはそうですよ」
 けれど後ろからそれを見たミリアは、妥当な金額だとユーリに告げた。

「魔法式を保存できる石は高価なのです。加えて、これは加工済みですからね。ただ、真珠を取り囲む金剛石よりも、この真珠一個の値段のほうが高価です。クリスタロスでは不思議なことに、昔からこういったものが多く取れるんですよね」
 真珠は耳飾りとして加工されていた。

「え? じゃあ、俺のこの石も?」
 ユーリは両親から貰った首飾りを指差した。

「それなりに大きさもありますし、かなり高価なもののはずです。見たところ、元々いろいろな魔法式が保存されているようでしたし、貴方が無意識に風魔法を使ったことを考えると、貴方がここまでに来るまでの道中で起きた事件は、全て貴方のせいだったのかもしれません」
「俺のせい? 何かあったの?」
「貴方がここに来るまでに、謎の竜巻に巻き込まれて、指名手配されていた人間が捕まったという事件があったんです」

 ユーリは初耳だった。
 自分が魔法を使ったという自覚はなかったが、とりあえず『悪者退治』の役に立ったのではないかと思って、ユーリは目を輝かせてミリアに尋ねた。

「え? じゃあそれもしかして、俺のおかげってこと?」
「無意識に魔法を使うことは、力を制御できていない証です。魔法の属性に適性がありすぎる場合、魔力の使われず貯蓄が多いと、意図せずして魔法が発動されることがあるというのは聞いたことがあります。――けれどそれは魔法を使う者として恥じるべきことであり、誇るべきことではありません」

 きっぱりと言われ、ユーリは肩を落とした。

「精霊言語を用いて書かれた魔法陣を、石に魔法式として取り込み保存する。魔法の発動には力の制御が必要で、それはどのように魔法を使いたいのか、正確に想像する必要がある。現在の魔法とはそうやって、知識と技術を必要とし、安全に使うものなのです。高等魔法において、詠唱を必要とするのはそのためです。まあ確かにある意味、有り余る魔法適性という点では、無意識に魔法を使える人間は、『才能がある』と表現できるのかもしれません。グラン様が認められたことですし、貴方には才能があるのですから、奢ることなく努力なさい」
「はーい!」

 一度は怒られてしまったが最後は褒められた気がして、ユーリは元気よく返事をして手を上げた。

「言葉伸ばさない」
「はい…………」
 けれど低い声出そう言われ、小さな声でもう一度返事をした。



 神殿に名を連ねる者は、清貧であることを求められる。
 神の恵みを、神が人に向ける慈しみを、広く人に語る彼らは、その存在を表すように、白い服を身に纏う。
 彼らの胸には、光魔法を使うための石の首飾りがあり、彼らはこの世界が平穏であることに、日々祈りを捧げている。
 両親の仕事の都合上、ユーリはそういう家で育ったが、ユーリは清貧が似合う少年ではなかった。

「ユーリ……貴方は食べることしか頭にないのですか?」

 よく食べ、よく喋り、よく眠る。
 勇者に憧れる彼はどこにでもいる少年そのもので、服を汚して豪快にご飯を食べる姿を見ては、ミリアは溜め息を吐いた。
 せっかく髪を切って身なりを整えたというのに、これでは台無しである。

「せいちょーき、ってやつなんだから!」
「どうして解答はバツばかりなのに、そういう言葉だけ覚えているんですか? 貴方は」
「ね、ね、ミリア! 俺せいちょーきだから、あれ食べたい!」
「……とりあえずとまりなさい。今口を拭いてあげますから」

 ミリアはそう言うと、手巾を取り出してユーリの口の周りを拭った。
 上質そうな布が、一瞬で赤と油の色に染まる。
 その時だった。
 二人の背後から、女性の叫び声が聞こえた。

「ひったくりです!」

 振り返れば、女性のものらしき財布を手にした男が、二人に向かって走ってきていた。
 ミリアは、顔を顰めてユーリを背に庇おうとした。
 けれどそんなミリアを押しのけて、ユーリは男を迎え討とうと拳を構えた。

「見てて、ミリア! 俺だって成長したんだから。実力を見せてやるッ!」
「ユーリ!」

 予想外の行動に、ミリアは思わず叫んでいた。
 戦う意思を示すユーリを前に、男はニッと不気味な笑みを浮かべると、懐から短剣を取り出して振り回し始めた。

「うわっ!」

 流石に、真剣を持っている相手に素手で戦うのは無理だ。
 ユーリが男から逃れようと下がると、足元にあった石に躓いて、ユーリの体は後ろに倒れた。

「ぃた……っ」

 その時、地面に落ちていた小さな硝子の欠片が手に刺さって、ユーリは小さくそう漏らした。
 小さな彼の手に、血がぷくりと滲む。
 その瞬間、ミリアの中で何かがぷちりと切れた。

「――覚悟なさい」
 短剣と縄を取り出したミリアは、跳躍して素早く男の背後にまわり込むと、彼の体を一瞬で縛り上げた。

「この子を傷付けた罰は、その体で払っていただきましょう」

 ミリアがそう言って縄を引っ張れば、縄は男の体にめり込んだ。
 カーン……。
 いつの間にか服を切り刻まれ、空中に吊るされた男は、震えながら手に持っていた剣を落とした。
 
 ミリアは手頃な場所に男を固定すると、尻餅をついていたユーリのもとへと駆け寄った。

「ユーリ。怪我は大丈夫ですか?」
「すごい! すごい! ミリア、かっこよかった!」

 心配そうにミリアが尋ねる。
 けれどユーリは、自分の感動と興奮を抑えることが出来なかった。

「剣持ってたのに、距離だって離れてたのに! 一瞬だった! ミリアがいなくなっちゃったな、って、思ったら、もう!!!」

 すごいすごいと鼻息荒く語るユーリの手からは、相変わらず血が滲んでいる。 
 ミリアはしばしの沈黙の後、ユーリの腕を握ると、その手を開かせて硝子を取り去って傷跡を洗い、包帯を巻き付けた。

「あとの手当はお屋敷に帰ってから行います。さ、ユーリ。立ちなさい」
「え? ちょっと、ミリア??」

 自分の怪我の手当を行ってから、まるでこの場所から逃げようとでもするかのように自分の腕を引くミリアに、ユーリは意味がわからす首を傾げた。

 ひったくりを捕まえたのだ。いいことをしたのだ。
 だったからそのことを周りは褒め称えて、お礼を言ってもらってもいいはずなのに――なんだか、様子がおかしい。
 ユーリが考え事をしていると、荷物を奪われたらしい女性が、息を荒らげて二人に駆け寄ってきた。

「あ、あの! ありがとうございました。おかげで助かりました!」
「……これからはお気を付けください。女性の独り歩きは狙われやすいですから。特に貴方のような、可愛らしい方は」

 ミリアがそう言えば、女性の顔が赤く染まる。
 だがミリアは女性には気を止める様子はなく、ユーリの手を強く再び引いて歩き出した。
「行きますよ、ユーリ。ここにこれ以上、長居するつもりはありません」



「どうかしたかね? 集中ができていないようだが」
「い、いえ……。師匠、すいません」

 翌日、グランに稽古をつけてもらっていたユーリは、自分の失態を指摘されて素直に頭を下げた。

「今日の訓練は、これまでにしておこうかの」

 グランは、そう言うと剣をおさめた。
 白ひげの似合う老人は、剣を握っているときとそうでないときとでは、纏う雰囲気が大きく異なる。
 好々爺という言葉が似合う老人の笑みに、ユーリは静かにコクリと頷いた。
 ユーリはその日初めて、ずっと気になっていたことをグランに尋ねた。

「師匠の魔法は、一体何なのですか?」
「儂は、大した魔法は使えんよ」
「そんなことはないはずです」

 ユーリははっきり言った。
 『剣聖』グラン・レイバルト。
 彼と戦っていて、ユーリは違和感を感じることがあったのだ。

「だって師匠は魔王を倒された方ですし、気のせいかもしれないんですけど、なんだか師匠と戦っていると、俺の魔法が弱くなってる? ようにも感じて――……」
「……弟子にまで、嘘はつけないな。いいだろう。ユーリ。君にだけ、儂の魔法を教えよう」
「じゃあ……?」
「儂の魔法は、『打ち消し』の魔法」
「『打ち消し』……?」

 ユーリは、ミリアから魔法について学んでいる。
 けれど、そんな魔法は聞いたことがなかった。

「この国――クリスタロス王国には、古い魔法があるのだ。この国の王都には、この世界には今は存在しないはずの魔法がいくつか残っている。儂はこの力があったからこそ、魔王を倒すことが出来た」
「ではその魔法があれば、俺も魔王を倒せるということですか?」

 ユーリの問いに、グランは首を振った。

「いいや。そうではない。この魔法を使うにも、適性はあるようなのだ。それにもしこの力を得たとしても――きっと、今の君ではまだ無理だ。儂が魔王を倒せたのも、人の助け合ってのもの。人一人のちからだけでは、生きてあれを倒すことは出来ないのだよ」
「魔王は……一人では、倒せない……?」

 ユーリは『勇者』なら、一人で何でもできるものだと思っていた。だからユーリはグランの言葉が、なんだか不思議な話のように思えた。

「それにこの魔法は、近々封印しようと考えているからな」
「え……? どうして、ですか?」
 突然の話に、ユーリは思わずたずねた。

「儂が耄碌して、この魔法を消す前に死んでしまえば、いつかこの魔法は、争いの火種になるかもしれない。魔法は、使い方によっては人を幸せに出来るが、使い方を誤れば、多くの人を傷付ける。強い力は、災いを呼んでしまうものなのだ」
「そうなんですね……」

 強い力があれば何でもできる。
 一人で世界を変えることができる。
 そんな勇者に思いを馳せていたユーリは、グランの言葉を聞いて下を向いた。

「教えてやれずすまない」
「いえっ!」

 困ったように笑みを向けられ、慌ててユーリは首を振った。

「大丈夫です。俺は、俺の魔法と、剣を磨きます!」
「……ユーリ。今の君では君の魔法は、おそらくそう強くならない。個人が使える魔法は、その心の性質に依存するからだ。だから、ユーリ。純粋に正義に焦がれ、力に憧れながらも、どこかで人を傷付けることを嫌う君は、魔法と剣、2つを磨く必要がある。それは難しいことかもしれないが、儂は君になら、それが出来ると信じている」

 風魔法の中には、風を刃として武器にして、敵を傷付けることのできる魔法があることをユーリは教わった。
 けれどユーリは何度試しても、それを使いこなすことができなかった。
 魔法を発動させたあと、意図せずして自分の魔法が人を傷つける可能性を、心のどこかで恐れたためだ。

「王都にはその魔法の名残がある。君も王都に来れば、その魔法に出会うことも出来るだろう。ユーリ。君がもっと強くなることを望むなら、儂と一緒に王都の屋敷に来ないか?」
 
 グランの誘いに、ユーリは目を瞬かせた。

「真っ直ぐな君の剣は、きっといつか、この国を光へと導くだろう。王都では儂の弟子として、屋敷で暮らすといい。そうすれば、騎士として仕官することも容易になるだろう。悪くない提案だと思うが、どうかね?」
 
 王都に行けば――ミリアとも、一緒に過ごせる。
 それに師匠の魔法を引き継ぐことは出来なくても、他の国の人間が知らない古い魔法が王都にあるとするなら、行ってみてみたいとユーリは思った。

「行きたい。行きたいです。そして俺に、もっと剣を教えてださい!」
 ユーリがそう言えば、彼の師は嬉しそうに笑った。


 ミリアと一緒に王都に行ける。
 そこで師匠に剣を見てもらって、いつかこの国の騎士になる。
 両親と同じ仕事を自分がすることを、ずっと想像できなかったユーリにとって、それは初めて自分に示された、これからの自分の人生のしるべそのものだった。

 進むべき道を示されて、ユーリは心が軽くなった気がした。
 足取り軽く、ユーリはミリアに一刻も早くこのことを報告しようと、屋敷の中を走って彼女を探した。
 そして漸くその人の姿を見つけたとき、柱に隠れていた人の言葉に、彼は耳を疑った。

「ミリア! 俺さ、グラン様に王都に一緒に来ないかっていわれたんだ。だから王都に行っても、ミリアとまた一緒に……」
「やめなさい」

 ミリアの父であり、ユーリの叔父にあたるその人は、険しい表情で一人娘を見下ろしていた。

「もう、剣を握るのはやめなさい。ミリア」
「なんでそんなひどいこと言うの!?」
 ユーリは思わず叫んでいた。

「……ユーリ?」
 廊下の向こう側からやってくるユーリに気付いたミリアの父ヘンリーは、宥めるような声で言った。

「ミリアは昨日、街で力を使った。そう報告があってね」
「でもあれは……。あれは、俺のためにしてくれたんだ! それに、助けた女の人だって喜んでた。ミリアに『ありがとう』って、そう言ってたんだ。それなのに、なんでおじさんはそんなこと言うの!? なんで、なんで……? ミリアが、どうして強いことがいけないことなの!?」
「…………」
 ユーリの問いに、ヘンリーは何も言わなかった。

「やめなさい」
 代わりに、ミリアの冷たい声が響いた。

「でも、こんなのおかしいよ!」
「……やめなさい」
「ねえ……。ミリアも、本当はそう思うでしょう!?」
「ユーリ・セルジェスカ!」

 ミリアはユーリの頬を叩いた。
 乾いた音が響いて、ユーリは痛む頬に触れながら、目を潤ませてミリアに尋ねた。

「……なんで? ミリア……」
「申し訳ございません。お父様。これからは、人目に付かぬよう気をつけます」

 ユーリの問いには答えずに、ミリアは静かにヘンリーに頭を下げる。ユーリはわけがわからなかった。
 自分が怒られる理由《わけ》も、ミリアが謝罪する理由《わけ》も。

「ヘンリー」
 その時、グランの声が聞こえて、ユーリは目元をぐいっと拭った。師匠の前で、醜態を晒すわけには行かない。

「旦那様」
「おや。ユーリ、いいところに」
 ヘンリーがグランに向かって頭を下げる。グランはユーリを見つけると、ユーリの肩に手をのせて、ヘンリーにユーリを紹介した。

「実は彼も一緒に来てもらうことにしたんだ。彼には剣の才能がある。王都に戻ったら、孫に剣の稽古をつける予定だ。彼にも一緒に教えたいと思っている」

 グランに認められることは誇らしいことのはずなのに、ユーリは居心地が悪かった。

「――ミリア。今日はもう、部屋に戻りなさい」
「かしこまりました」
「ユーリ。君も一緒に話を……」

 グランがユーリに手を差し出し、ミリアは三人に背を向ける。
 ユーリはグランの手は取らず、部屋へと向かうミリアを追いかけた。

「待って! 待ってよ! ミリア!」
 けれど彼女が、足を止めることはなかった。

「なんで言い返さないんだ! おじさんは、ミリアにいっぱいひどいこと言ったのに!」
「……戻りなさい。貴方はお父様たちと、お話があるでしょう」
「嫌だ! だってそんな顔してるミリア、一人になんて出来ないよ!」
「……ユーリ。貴方は、何もわかっていない」

 ミリアはそう言うと、足を止めて振り向いた。

「お伽話じゃないこの世界では、どんなに思いをかけたとしても、どんなに努力を重ねても、それが形になってかえってくることのほうが、よほど少ないのです」

「ミリア……?」
「ついてきなさい」
 それからユーリの手を取ると、二人がいつも練習を重ねた裏庭に、ミリアはユーリを引っ張った。

「ユーリ・セルジェスカ。剣を取りなさい」
 ミリアはそう言うと、いつものように短剣を取り出した。
「貴方には素質がある。貴方なら、きっと認められる」

 わずかに揺れるミリアの瞳。
 ユーリはミリアに言われたように、長剣を手に取った。
 ミリアの魔法は強化魔法。ユーリの魔法は風魔法。
 加速と空中戦を得意とするユーリとは違い、強化魔法使いのミリアの攻撃をユーリが避けると、その場所にはくぼみのようなものが出来ていた。
 圧倒的な『力』の魔法。
 それは彼女の実力を、強化させただけに過ぎない。ゼロに何をかけてもゼロのままだ。その力の源は、ミリア自身の才覚なのだ。
 ユーリは彼女の剣を受け止めて、その能力の高さに唇を噛んだ。

 ――本当は、知っている。もしミリアが男の子だったら、騎士にだってなれた。いいや、違う。騎士だけじゃない。ミリアは頭がいいから、何にだってなれた。でも、駄目だ。駄目なんだ。今じゃ、この国じゃ。ミリアは公爵家に仕える家の子供だから。そして、何よりも――女性の強さを嫌う今のこの国では、ミリアの強さは認められない。

 ユーリは街でひったくりを捕まえたとき。観衆たちがミリアを見て口にしていた言葉を、ユーリは思い出した。

『身なりは良さそうだが、強化魔法の使い手では、嫁の貰い手もあるかどうか……』
『見たか? さっきの女。怖い怖い。浮気でもすれば殺されかねないな』

 ユーリはミリアに勝てない。けれどグランに認められたのはユーリだけだった。
 自分が得た立場は、本当は正当な評価でない気がして、ユーリは何故か悲しくてたまらなかった。

 ――才能も、努力も。本当は自分ではない他の誰かのほうが、相応しいような気がして。

「……ッ!」
 そんなことをしているうちに、ユーリはいつの間にかミリアに剣を奪われ、地面に押さえつけられていた。
 長剣は弾かれ、終わりを告げるかのように地面に刺さる。

「――男である、貴方なら」

 ミリアが振り下ろした短剣は、ユーリの頬を僅かにかすめた。
 じわじわと鈍い痛みがユーリの中に生まれる。けれどその時、ユーリは自分よりも、ミリアのほうがずっと、強い痛みを抱えているように見えた。
 乱れた髪のせいで、ミリアの表情が見えない。けれどその姿を見て、ユーリは胸が締め付けられた。
 
 ――ミリアはずっと、俺のヒーローだった。でも、この世界は。誰も、俺のヒーローを認めてはくれなかった。



「さあ、出発だ!」
 グランの声を合図に、公爵家の紋章の入った馬車が動き出す。
 ミリアと同じ馬車に乗ることになったユーリは、彼女にどう話しかけていいかわからなかった。

「あの、ミリア……俺さ……」
「『私』」
「え?」
「これからは自分のことは、『私』というようにしなさい。自分の目上の人間の前では」
「わ、わたし……?」

 しかし話しかけようとして、分厚い本を差し出され、ユーリは狼狽えた。

「王都につく前に、この本を全部読んで覚えてください」
「――え?」
「え、じゃありません。王都のお屋敷の方々に会うのに、その言葉遣いはありません。時と場合、身分にあった言葉を使わなければ、大人とは呼べません」

「え……? あの、ミリア……?」

 ――まさか、馬車の中でも勉強をしろと!?

 ユーリは目を丸くした。
 感傷的な彼女はどこへやら。
 『先生』の顔をしたミリアの表情に、ユーリは嫌な予感がした。

「まさか私の従兄弟が、敬語も使えないなんて醜態を晒すはずはありませんね?」
「……お、鬼~~~~ッ!」
 


「ここが、王都……」
「田舎から来たのが丸わかりです。ユーリ」  

 王都の門をくぐったとき、初めて見える風景に、ユーリは興奮で窓から離れることができなかった。

「みてみて! ミリア、凄い! 花がいっぱい飾られてる! あれは何?」

 その中でも、ユーリが特に気になったのは、花に囲まれた純白の建物だった。
 どことなく自分の生家に似たものを感じユーリが指させば、ミリアが読んでいた本を閉じて答えた。

「あそこは王都の神殿です。近々光の祭典が行われます。その準備で、王都は賑わっているのです」
「光の祭典?」

 そういえば毎年春になると、父たちがそんな言葉を口にしていた気がする。
 ユーリが首を傾げれば、ミリアは呆れたという顔をした。

「簡単に言うと、魔物から国を守る結界をはる儀式です。年に一度、神殿の巫女が結界の貼り直しを行うのです」
「巫女って?」

「我が国の今の巫女は、国王陛下の妹君――『光の巫女』と呼ばれるお方です。歴代の巫女の中でも、最も優れた力を持つとも噂されている方です。あらゆる未来を見通す力を持つとされ、その力は『先見の神子』に匹敵すると言われています」

「ごめん。ミリア。あの……先見の神子? って、誰?」
「千年以上の昔から度々歴史書に登場する、この世界で最も強い光属性の魔法を使える方のことです。本来人は生まれ変わるときに前世の記憶を忘れるものですが、その方は自分の前世の記憶を、全て引き継いでいらっしゃるということです」
 
「なにそれ! かっこいい!!」
 ユーリは前のめりになって叫んだ。

「……かっこいい?」
 ユーリの反応にミリアは首を傾げた。

「だって、生まれる前からなんでも知ってるってことなら、勉強も何もしなくて良さそうだし、俺何でも知ってるんだぜ〜〜って自慢できる!」 
「どれだけ貴方は勉強が嫌いなんですか。……全く」
 ユーリが目を輝かせると、ミリアは深くため息を吐いた。
「だって……」

「……一生分の思いを抱えて生きていくのでも大変なのに、前世の記憶まで抱えることが、いいことのわけがないじゃないでしょう? それにもし大切な人がいたとしても、二度と会えないんですよ?」

 両親やミリアや師匠。ユーリは生まれたときから、大切な人がいない世界を思い浮かべた。それだけで、胸が痛かった。

「う……。それは、嫌だ……」
 顔を顰めてユーリが脱力してそう漏らすと、ミリアは苦笑いした。
 
 王都についた夜。
 ユーリはまた不思議な夢を見た。
 夢の中の風景は、王都の景色とよく似ているようにも、違うようにも思えた。

『何をしているんだ?』
『本を読んでいたんだ』
 夢の中で、茶色の髪をした女性は、樹の下で本を読んでいた。

『本?』
『そう。兄上が、書かれた本』
 彼女はそう言うと、こちらに向かって本を差し出した。
 表紙に人形と花の描かれたその本は、彼女には不似合いだった。

『こんな子供向けの本をわざわざ作るなんて。――兄上は、昔から何を考えているのか時々わからない』
『あの方は、特別な方だから。俺たちにはわからないことが、沢山あるんだろう』
『……そうかもしれない』

 どこか少年のような、そんな荒さを残す。その声を、何故か懐かしいとユーリは思った。

『兄上は、遠い未来を知っている。それは時に、兄上を不幸にすることだろう。誰一人として、兄上と同じ世界を見ることはできない。同じ目線で世界を見つめることを、共に生きることだというのなら――それはとても悲しいことだと私は思う。生きているというのに、誰とも心をかわせない。だからせめて、私は兄上が描く物語を、ちゃんと知っておきたいと思う。たとえ同じ目線で世界を見ることはできなくても、せめてそうあることを望む人間がいることを、私は兄上に知ってほしい』

 彼女には兄がいるらしかった。

『でも、こうも思う。もし兄上と同じ目線で世界を見つめられるものがいるとするなら――それは兄上が見た未来を、変えることができる人間かもしれない』
『未来?』
『そう。決められた未来を、【運命】を打ち砕く――そんな力を持つ人が現れたなら、その人はきっと兄上にとって、【運命の人】になり得る人だ』
『運命の、人――……』

 夢の場面が移り変わる。

『おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ!』
 明るい子供の声が響いて、ユーリは少し困惑した。

『母子ともに健康ですよ』
『ほら。ユーリと、私の子どもだ』
 そしてあの茶髪の女性が、小さな赤子を抱いて自分の名を口にしたとき、ユーリは跳ね起きた。

「何? 今の、夢…………?」
 
 ユーリの父や母は光属性の魔法に適性を持っている。
 だからこそユーリは、同じ属性に適性があるのではと言われて育った。
 そして光属性に適性がある人間は、時折『予知夢』をみることがあることを、ユーリは両親から聞いたことがあった。

 ――もしかして、もしかして……?

 ユーリは、とある可能性に気付いて頬を染めた。

 ―――つまり俺はいつかあの子―――じゃない。あの女性と結婚するってことなのか!? もしかして俺、風属性だけじゃなくて光属性も使えて未来が見えるとか!?  有り余る才能――……もしかしたら、俺って天才?

「つまり夢の中の女の子が俺の『運命』の人!」

 言葉遣いは少し乱暴そうな感じはしたが可愛かった気がするし、もし出会えたら絶対に声を掛けよう。
 ユーリはそう、心に誓った。

『ユーリ』

 高鳴る心臓の鼓動に気づかないふりをして、ユーリは布団を被った。
 少しだけ布団から顔を出して窓を見ると、窓の外には月が浮かんでいて、夜の暗い闇の中、ちらほらと雪が降っているように見えた。
 しかし、雪では季節が合わない。
 窓を開けてよく見ると、それは無数の花びらで、それがまるで雪のように、王都に降りそそいでいた。
 幻想的な光景。
 けれど夜の外気はまだ肌寒く、ユーリは窓を締めて再び布団にくるまった。
 彼女の声を思い出すだけで、心臓がどきどきした。

 ――君に、俺の名前を呼んでほしい。君が笑ってくれると嬉しい。君が幸せなら、それだけで、俺はきっと幸せだから。

 会ったことなんてないはずなのに、彼女を思い浮かべると、そんな感情が心に浮かんだ。
「いつか……会えるかな……?」
 星の流れない月の輝く晩に、ユーリは彼女との出会いを願った。



「はじめまして。私は、ユーリ・セルジェスカと申します」

 ――なんで俺が、『私』なんて使わなきゃなんないんだ……!

 グランが用意した服に身を包み、ユーリは、公爵邸を訪れた。
 ミリアの指導通りの言葉遣いは、まだ慣れてはおらずぎこちない。

「貴方が、ユーリ?」

 ――え? この、声――……。

 どこかで聞き覚えのある声に、ユーリは思わず目を瞬かせた。
 そうしてその声の主を見て、ユーリは自分の心臓が跳ねるのを感じた。

「はじめまして。私は、ローズ・クロサイト、です。貴方は、お祖父様の弟子なんですよね? 私、貴方に会えてうれしい!」

『ユーリ』
 夢の中の女の子は、茶色の髪だった。
 目の前の少女は黒髪で、赤い瞳。ドレスを着ていて、勿論軍服なんて着ていない。言葉だって丁寧だ。
 なのに。
 『似ている』と、何故か思った。

「ローズ。ユーリが固まってる」
「お兄様」
「悪かったな。俺はギルバート・クロサイト」 

 ローズの後ろから現れたのは、自分よりも年下のはずなのに、堂々とした少年だった。

「ユーリって、呼んでもいいか?」
「ああ、うん。勿論――って、っったあっ!」

 ギルバートの砕けた言葉遣いにつられユーリが言葉を崩すと、ユーリはミリアに足をふまれた上にギロリとにらまれ、慌てて訂正した。

「……です」
 
 足が痛い。
 痛みをこらえながら涙目で小さく言うと、ギルバートは大笑いした。

「あはははっ! ユーリは面白いな。まあいい。早速だが、屋敷の中を案内しよう」
「お兄さま……」
 ユーリがギルバートに言われるまま、彼のあとをついていくと、残されたローズが悲しげな声で兄を呼んだ。

「ローズもついてこい」
「はい! お兄さま!」
 その一言で、ローズの表情がぱっと明るくなる。
 ユーリはなんだが温かい気持ちになった。彼女が兄を思う気持ちが、手に取るようにわかるようで。

「ローズ様は、ギルバート様がお好きなんですね」
「お兄様は、強くて、賢くて、頭も良くてかっこいいのです!」
「あははは……」

 賢いと頭がいいがダブっている。
 『兄のことが大好きで、少し天然な公爵令嬢』それがユーリが幼い頃抱いていた、ローズに対する印象だった。

 ギルバートは、屋敷の中の図書室もユーリに案内した。

「ここにある本は好きに読んでいい。俺はもう全部頭に入っているから」
「全部!?」

 ユーリは思わず声を上げた。
 自分より年下のはずなのに、どれだけギルバートは優秀だというのか。
 
「お兄様は、何でもご存知なのです! 先生も、お兄様にはもう教えることは何もないっておっしゃったのです!」

 驚くユーリに、目を輝かせてローズが言う。

 ――そういえば夢の中のあの子も、兄を慕っていたっけ。

 そう思って、ユーリは頭を振った。

 ――違う。目の前の少女と、彼女は別人だ。
 ユーリは心のなかで言い聞かせた。そしてミリアから講義を受けてきたユーリ自身、たしかにそう思っていた。
 何故なら夢の中の少女の髪は茶色で、どこにでもいるような平凡な色で、ローズは黒髪に赤い瞳――特別な色を、その身に宿しているのだから。

「ミリア・アルグノーベン」
「はい」
「君には俺の手伝いをと父上は言っていたが……ローズの面倒を君には頼めるだろうか?」
「私がお嬢様を、ですか?」

 アルグノーベン家の長女であるミリアは、元々ギルバート付きになるはずだった。
 主人となるべき相手の言葉に、ミリアは目を瞬かせた。
 驚いていたのはもう一人。

「え!? ではこれからは、もうお兄様は私と遊んでくださらないのですか!? 私、お兄様のご迷惑になっていましたか……?」
「……迷惑、というわけじゃない。だが俺は、いつまでもお前と一緒にいることはできないからな」
「そんな…………」

 ギルバートの言葉に、一番悲しんでいたのはローズだった。

「俺はお祖父様から、そこにいるユーリと一緒に剣をならうよう言われてるんだ」
「え……? お兄様が、剣を!?」
 しかし次の瞬間、兄が口にした言葉によって、ローズの顔色は一瞬で明るくなった。

「楽しみです!」
「そうか」
「お兄さま。お兄さま」

 雛鳥が卵の殻を破って、初めて目にしたものを親と思うかのように――ローズは兄であるギルバートの後ろを、いつもついて回っていた。

 ローズの言うように、ギルバートの優秀さは、数日ともに過ごしただけでもユーリにもよくわかった。

「ギルバート様って、すごく頭が良いんだな。俺が知っている中ではミリアの次だ」
「いえ、でも、あれは――……」

 けれどユーリがそういえば、ミリアは眉間にシワを寄せ、何か考えるような素振りをした。

「? ミリアはそうは思わないの?」
「……いえ。私の勘違いしれませんし、どうか貴方は気にしないでください」

 当時のローズの世界は、兄を中心に回っていた。
 レオンとリヒト。
 年の近い二人の王子が一緒でも、ローズが見ていたのは、兄であるギルバートのようにユーリには見えた。
 
 ある日のことだった。
 ギルバートの姿が見えないと、ローズがユーリの部屋を訪れたことがあった。
 ローズはギルバートを探すのを手伝ってほしいとユーリに言って、ユーリはその願いを受け入れた。
 その途中、ユーリはミリアに出会い、少しの間だけユーリはローズから目を離した。

「ユーリ・セルジェスカ。お嬢様を連れ出して、どこに行ったと思えば――ここには入るなと言われていたでしょう?」
「でも、ローズ様が行きたいって」
「お嬢様の言葉をそのまま受けるものではありません。貴方のほうが歳上なのに」
「――え?」

 ガミガミと怒られて、ユーリは耳を塞いだ。
 そんな時だった。
 当時建築途中だった屋敷の中に入ったローズめがけて、瓦礫が落ちるのがユーリには見えた。

「お嬢様!」

 ミリアの悲鳴が聞こえたかと思うと、どこからともなく現れたギルバートが、冷静な声で言った。

「やはり、こうなったか」

 ユーリは耳を疑った。
 ――この方は、ローズ様に普段あんなに慕われているのに、どうしてこんなに冷静でいられるんだ!?
 そう思ったからこそ、ユーリはギルバートに対して声を荒げた。

「どうして平然としてるんですか! 妹が、ローズ様があんなことになってるのに……!」
「どうしようもないんだ」

 その声はユーリには、何故か泣いているかのようにも聞こえた。

「ここで、また終わる。――やっと全てが、揃ったと思ったのに。今度こそ……やり直せると、思ったのに」
「終わる……?」
「運命は、変えられない」

 全てを諦めたかのような声だった。
 もう何度も、同じ物語を繰り返して――何度も絶望を見たような。
 しかしその瞬間、瓦礫の中から、ローズを抱いたミリアが現れた。

「――ミリア! ローズ様!」

 ユーリは二人の無事を見て安堵した。
 そしてユーリは二人から、目をそらすことが出来なかった。
 傷だらけのミリアの手を、幼いローズの手が包む。
 そしてローズは、まるで小さな薔薇の花のように、美しく微笑んだ。

「私を、助けてくれてありがとう。貴方の手は、人を守ることが出来る手なのね」

 ローズの言葉に、ミリアの瞳が大きく開かれる。
 その瞳は僅かに揺れて、それでもミリアは涙をこぼすことはなく、目を細めて微笑んだ。
 その時からだった。
 小さな『お嬢様』を見つめるミリアの瞳に、主君にのためなら命をなげうつ覚悟のある騎士でもあるかのように、尊敬と忠誠の色が宿るようになったのは。

『私はこの力で、人を守りたいんです』

 大切な人に、自分が掛けることの出来なかった言葉。
 ローズが何気なく口にしたその言葉は、ミリアが心の底から、ずっと求めていた言葉のようにユーリには思えた。

 そしてその時、ユーリは自分の隣でもう一人、大きく目を見開いて、二人を見つめる少年に気がついた。
 自分より年下のはずの少年は、自身より年上であるはずのミリアより、落ち着いた声音でこう呟いた。

「まさか……いや、そうか。運命を打ち破る者に、強化の魔法は与えられる……」

 ユーリは目を瞬かせた。
 なぜならずっと探していた宝物を漸く見つけたとでもいうように――次期公爵であるはずのその人が、真っ直ぐに自分の従姉妹を見つめていたから。

「見つけた。俺の――『運命』」



「ミリア。――君が、僕の『運命』なんだ」
「申し訳ございません。このようなものを、私は受け取ることは出来ません」

 その日からというもの、ギルバートはミリアに好意を示すようになった。
 ユーリやギルバート共に剣を習っていたレオンは、対応に困るミリアに対し、どこか冷めた声で言った。

「最近ギルは、君にご執心だね」

 まるで観察するような目をレオンに向けられる度、ミリアは居心地が悪そうに表情を曇らせた。

「ユーリ、ユーリ」
 レオンと共に公爵邸を訪れていた幼いリヒトはユーリによく懐いていた。

「なんでしょう? リヒト様」
「これ、お花。ユーリにあげる!」

 それは、白い綿毛のたんぽぽだった。

「たんぽぽ?」
「うん! ここに来る途中、見つけたんだ。白と黄色でユーリみたいだったから」
「わざわざ馬車を止めてまでつんだものだから、受け取ってもらえると助かるよ」

 ユーリが受け取るべきか困っていると、レオンに早く受け取るよう言われて、ユーリは白い綿毛の花を受け取った。

「ありがとうございます。リヒト様」
「どういたしまして!」
 元気よくリヒトは笑う。

「ユーリ、その花は?」
 しかしローズに後ろから声をかけられ、ユーリが驚いた矢先、風が起きて綿毛は空に舞い上がってしまった。

「ローズが壊した!」
「すいません。でもこれは、もともとこういうものでしょう?」
 ローズはそう言うと、綿毛にふうっと息を吹きかけた。
「ほら。風が、種を運ぶんです」
「種?」
 ローズの言葉に、リヒトが首を傾げる。

「これは花自体が、種の集まりなんですよ」
「風が運ぶの?」
 ローズは静かに頷く。するとリヒトは、きらきらと目を輝かせた。

「ユーリと一緒ですごい!」
「凄い?」
 ユーリは首を傾げた。

「ギル兄上が、風は見えないけど、ずっと近くにいて僕たちを守ってくれるんだよって言ってたんだ。だから風は、そういう優しい人のための魔法なんだよって」

 リヒトはそう言うと、その名のように、光《たいよう》のような笑みを浮かべた。

「だから、凄い」
「ありがとうございます」
 ユーリはリヒトに褒められて、目を細めて微笑んだ。



「ユーリ、手を出しなさい」
「これ……」
「受け取っておきなさい」

 それから少しして、ユーリはミリアから耳飾りを受け取った。

「この石って、まさか、おばさんの……」

 ユーリは目を瞬かせた。
 ミリアの母は、数年前に亡くなっている。耳飾りは、生前彼女がよく身に着けていたものだった。

「ええ。でも私には似合いませんし。この石は、貴方の瞳と同じ色。きっと母も、貴方が身につけることを望んでくれることでしょう」

 ユーリは生前、もし息子を授かることが出来たなら、ユーリのような子どもが欲しかったと言われていた。
 そんなユーリに、いつか彼女は耳飾りをあげようとは言っていたが、所詮それは口約束だとユーリは思っていた。

『ミリアはね、頑張りすぎてしまうところがあるの。だから笑うことも苦手なの。でもユーリ君といるときは、なんだかあの子、お姉さんっていう感じで、とても可愛いの』

 そして腕輪はミリアに、耳飾りはユーリに、指輪は夫であるヘンリーに。彼女の遺産は分けられた。

「……ありがとう。大事にする」

 魔法を使う石は、高価だ。
 ユーリの両親がユーリに渡してくれた首飾りは、風魔法を使う自分には、合わないようにも感じていた。
 瞳と同じ色をした、小さめの石のあしらわれた耳飾り。
 ユーリが母の耳飾りを身につけると、ミリアは満足そうに微笑んだ。
 日々は穏やかに過ぎた。
 
「ゆーり、大丈夫?」
「泣きそうな顔をされないでください。リヒト様」

 グランの訓練で生傷は絶えなかったが、ユーリからすれば、ミリアに比べたらグランは優しかった。
 リヒトとローズは訓練には参加せず、兄たちやユーリたちの様子を、一緒に座って見学していた。

「だって……すごく、いたそうだから。ああ、そうだ」

 リヒトは、傷だらけのユーリの手を見て、大きく手を空に向かってあげた。

「いたいのいたいのとんでいけー!」
「……」

 光の名を宿していても、リヒトにまともに魔法を使えない。だから、リヒトの行動は無意味だ。
 けれど気持ちが嬉しくて、ユーリは期待に目を輝かせるリヒトに微笑んだ。

「ゆーり! ゆーり! いたいの、なくなった?」
「……ええ。ありがとうございます。リヒト様」
「リヒトさま。それじゃ駄目です」
 けれどその瞬間、二人に割って入ったローズがユーリの手を取った。

「傷を癒やせ」
 ローズが光魔法を発動させる。
 すると、みるみるうちに傷が消えて、ユーリは目を瞬かせた。

「……! ありがとうございます」
「リヒト様。おまじないでは、傷は治らないのです」
 ローズはユーリの感謝に頷いてから、リヒトを見てばっさり言い切った。

「あにうえはいたいのなくなったって……」
「それは、レオン様がリヒト様に甘いだけです」
「でも、ぎるあにうえが――ぼくにもつかえる、まほうだって」
「お兄様が……?」

 『お兄様』発案だと明かされ、ローズは少しだけ首を捻った。
 けれど一瞬考えてから、ローズはまた冷静に現実をリヒトに告げた。

「……お兄様も、リヒト様に甘いだけです」
「う……」
「リヒト様。魔法のお勉強の続きをしましょう。リヒト様は王子様なんです。今度はちゃんと、出来るはずですから」
「わかった。……ろーず……」
「じゃあ、行きましょう」
 ローズはそう言うと、リヒトの手を引いて屋敷へとは戻っていった。

「ローズもめげないなあ。どうせ無駄だろうに」
「まあ、やりたいようにやらせておけばいい。結果はおのずと分かる」
 二人の兄たちは、小さな背を見送りながら、そんな言葉を口にしていた。



 それから少しした、ある日のことだった。
 ユーリはグランに連れられ、魔物の討伐に参加することになった。

 黒い臭気を纏う。
 狼に似た生き物は、ユーリにとって未知の存在だった。
 いつものユーリなら、避けられる程度の速さだった。けれど臭気から冷たいものを感じて、ユーリはその場から動けなくなってしまった。

 鋭い爪が、ユーリに襲いかかる。爪は、僅かに彼の胸を掠めた。
「ユーリ!」
 グランがユーリの体を引き寄せなければ、ユーリは確実にその瞬間に死んでいた。

「ローズ!」
「おじいさま?」
「ローズ。彼の治療を!」
 魔物の爪には毒があった。討伐隊から離れ、グランはユーリを公爵邸へと連れ帰った。

「ユーリ!?」
 ローズは慌てて魔法を使った。
 ローズの魔法のおかげで、ユーリは回復した。脂汗の浮かんでいた顔に生気が戻る。

「ローズ様、ギルバート様……?」
 目を覚ましたユーリが目にしたのは、自分の手を取り、心配そうに見下ろすローズの顔だった。

「良かった! ユーリ、もう大丈夫?」
「……本物の魔物と、戦ったんです」
 毒のせいで混濁した意識が戻ったとき、安堵と恐怖心から、ユーリは震える声でそう呟いた。

「殺されるかと、思った。足が、動かなくて。師匠がいなかったら、俺は……っ!」
 自分より幼い少女を前に、ユーリは目に涙を浮かべた。

「痛いのは、怖い。死ぬのは、怖い……っ!」
「いたいの、いたいの、とんでいけー!」

 するとその時、ローズがリヒトのように、意味のない言葉を大きな声で叫んだ。
 ユーリは目を丸くした。ローズがそんなことを言う意味がわからなかった。

「……お兄様が、仰っていました」
 ローズは、ユーリの手を握って言った。

「この言葉は、わるいものを、まをはらうのだと」
「……」
「心が弱っていたら、勝てる敵にも勝てません」
 知己的な赤い瞳はまっすぐに、ユーリを見つめていた。
 ローズは、服のリボンを解いた。

「ユーリ」
「?」
「おまじない」

 ローズは、震えるユーリの手にリボンを巻き付けた。

「赤は、悪いものを追い払う色なの」
 それは、ローズの瞳と同じ色。

「ユーリは負けない。ぜったい、ぜったい負けない。もしユーリが、負けそうになったら、私のことを思い出して」
 幼いローズは、強く何度も言った。

「私はユーリの味方。貴方がどんな怪我をしても、私が治してあげるから。ユーリは、死なない。だから、ユーリは大丈夫。だから……だから」
 けれどその瞬間、ぐらりとローズの体が倒れた。

「ローズ様!? ローズ様、大丈夫ですか!?」
 意識がない。
 ローズの異変を前に、ユーリは慌てて彼女の肩を揺らした。けれどその手を、ユーリはギルバートに止められた。

「そう揺さぶるな。単に眠っているだけだ」
 妹が急に倒れたというのに、ギルバートは冷静だった。

「ローズはああ言ったが……光属性の使い過ぎは命を縮める。妹を早死させないでくれよ。ユーリ」
「ギルバート様……」

 子どもの割に大人びた口調や表情。
 兄が特別素晴らしいからだと羨望の目を向ける妹でさえ、いつも冷静に見つめるギルバートに、ユーリが違和感を感じることは何度もあった。
 けれど『賢王』レオンの生まれ変わりとされる第一王子が、大人たちから賞賛を受けている様を見て、特別な二人だからこそ、その地位に生まれたのだとも思っていた。
 次期国王の第一王子と、その補佐となるであろう公爵令息。
 二人を中心に、この国はまわっていくのたからと。
 だからレオンの言葉を、ユーリは否定はしなかった。
 ある日のことだ。
 訓練を終えて昼食をとっていたとき、レオンがこんなことを言った。

「僕がこの国の王となって国を守ろう。僕は優秀だからね。僕以上に相応しい人間は居ないだろう?」
「俺はこの目をこの国の為に使う。それが俺の役目だ」
「私も公爵令嬢として、お兄様と一緒にこの国の為に力を使います!」
「私は、騎士になって、この国を守ります」

 次期国王はレオン。
 ならば自分は騎士として、この国を守ろうとユーリは思った。

「僕としては、ローズが僕の王妃になってくれたら助かるなあ。僕が王様でギルが宰相で、ユーリが騎士団長。名案だとは思わない?」

 そこに幼馴染の中で唯一、リヒトの名前は存在しない。

「あっ。あの、兄上。ぼ、僕は……」
「リヒトは才能がないんだから、どこかの令嬢と結婚でもすべきなんじゃないかな? 良かったね。王族に生まれたおかげで選り取り見取り」
「そんな! 嫌です。僕だって、兄上たちと一緒がいいです!」
「――リヒト」

 そんな彼に、聞き分けのない子どもをなだめるように、彼の兄――レオンは言った。

「人にはね、向き不向きというものがあるんだよ。君は国王には向いていない。でも大丈夫。僕たち四人がいれば、この国は安泰だ」

 レオンの言葉は、それがリヒトにとって幸せなのだと、言い聞かせているかのようにユーリには聞こえた。

「君は、僕が守ってあげる」
「そうだな。お前は何も心配しなくていい。弟みたいなもんだしな」
「リヒト様、大丈夫ですよ」
「リヒト様は、この剣でお守りします」
「――……僕。僕、だって……」

 身分でいえば、到底釣り合うことのない相手。
 けれど弱くて小さな弟のようなその王子を、ユーリは見守ってきた。
 生まれたときから備わった、天命のような魔力《ちから》は、望んで得ることは難しい。

『お伽話じゃないこの世界では、どんなに思いをかけたとしても、どんなに努力を重ねても、それが形になってかえってくることのほうが、よほど少ないのです』

 ふと何故か、かつてのミリアの言葉がユーリの頭をよぎった。
 ユーリは首を振った。

 ――これで、いい。これでいいんだ。どうせ誰も認めてくれないなら、俺が強くなって、大切な人を守れば……。

 『平穏』な日々が続いた。
 その中に僅かに混じる違和感を、ユーリはいつも見ない振りをしていた。
 レオンやギルバート。
 優秀な彼らがいればこの国は大丈夫だと、誰もがそれだけを信じて生きていた。
 彼らが原因不明の長い眠りにつく日が来るなんて、思いもせずに。

「レオン様! ギルバート様!!」
「お兄様!! レオン様!!」

 ミリアとローズの声が響く。
 二人の悲鳴を聞いて駆けつけたユーリが目にしたのは、幼馴染の二人が倒れた姿だった。
 その日から、公爵邸から笑い声は消え失せた。
 花のように笑う少女は、どこか虚ろな目で窓の外を眺めるようになった。
 ミリアに導かれて外を歩いても、ローズに昔のような笑顔が戻ることはなかった。

「兄上たちはもう、目を覚まさないかもしれない。だけど、俺は傍に居る。ローズを一人にして、泣かせたりなんかしない。だから」

 幼い頃――彼らが眠りにつく前のリヒトは、自分のことを「僕」と言っていた。リヒトが「俺」といいだしたのは、彼らが眠りについた後。
 まるでローズが大好きだった、「ギルバート(あに)」の真似をするように。

「俺と、婚約してほしい」
「――はい」
 そしてリヒトの言葉に、ローズは久しぶりに、笑って頷いた。

 十年も前のこと。
 ユーリは落ち込んでいたローズに、どう声をかけるべきか悩んでいた。
 ローズのために花を買って、彼女に贈ろうとしたその日、ユーリは二人のやりとりを目撃した。 
 祝福の言葉は言えなかった。
 ただ二人の婚約を、誰もが落ちこぼれのリヒトを補佐するためのものだと言った。
 
「もともとは公爵の地位をギルバート様に、レオン様の王妃にローズ様をというお話でした。……けれどその二人がいらっしゃらない今、ローズ様の悲しみがどれほど深いか……」

 『お嬢様』を敬愛する従姉妹の言葉に、ユーリは何も言えなかった。

「あんまりです。魔法の使えない第二王子の補佐として、才能ある公爵令嬢であるローズ様を、なんて。……こんなこと、幼いローズ様には重荷でしかない」

 その言葉は事実だ。
 誰の目にも明らかだった。二人の婚約が、『契約』でしかないことくらい。

 黒髪に赤の瞳。強い魔力を持つ者の証。
 『ローズ・クロサイト』という少女に、『リヒト・クリスタロス』は釣り合わない。

 この世界で釣り合う者がいるとしたら、彼女と同じ赤い瞳を持つ者か、次期国王として期待されていた少年だけ。
 もしくは、それに準じるような――神の祝福を受けたと人が思うような、そんな特別な人間だけだ。

「『光の巫女』亡き今、神殿の石を使ってギルバートと様とレオン様の生命維持の魔法が使えるのはローズ様お一人でした。まだ幼いお嬢様が、どんな思いで魔法を使われたのかと思うと……失敗すれば二人が死んでしまうかもしれないなんて、そんな魔法を」

 ミリアは口を噤むユーリの手を取って、昔のように『先生』であるかのように言った。

「私は何があっても、ローズ様をお守りします。ユーリ、貴方も。今の自分に何が出来るか考えて行動しなさい」



「ここが、騎士団……。師匠の、剣の……」
 
 ミリアの言葉の翌日、ユーリは騎士団の門を叩いた。
 騎士団の入団試験。
 『二つ名』を持つ騎士との対決。対戦相手は、『地剣』と呼ばれる騎士だということだけ、ユーリは聞いていた。
 『地剣』は、自分より小さな子どものように見えた。
 けれどユーリは絶対に、手を抜くことは出来なかった。

 ――俺は、ここで上を目指す。

「はああああああっ!」

 跳躍する。
 ミリアがずっと、そうしていたように。
 強化魔法ではなく風魔法で、ユーリはミリアの剣をなぞった。
 そんな自分の姿を、『地剣《かれ》』が見上げているのが見えた。

「これで……終わりだ!!!」
 ユーリがそう叫んで剣を振り下ろせば、なぜか目の前の相手は、少し笑ったように見えた。

「――参りました」
 彼の声を合図に、観衆たちがわっと声を上げ、ユーリを歓迎する声が響いた。
 そんな中で、『地剣《かれ》』はユーリに手を差し出した。

「私は、ベアトリーチェ・ロッド。これからどうぞ、宜しくお願いします」
「まだ小さいのに強いんだな」 

 差し出された手はやはり小さくて、ユーリは思わずそう呟いていた。
 すると『ベアトリーチェ』が眼を瞬かせ、審判をしていた人間に告げられた言葉にユーリは顔を青褪めさせた。

「お前! 彼はお前より年上だぞ!」
「え? あ、え? も、申し訳ございません!」

 慌てて謝罪すると、ベアトリーチェは小さく笑った。

「いいですよ。どうか、そのままで」
 その声があまりに優しくて、ユーリは少し、どきりとした。不思議とその姿が、ミリアと重なって見えたから。

「これから、宜しくお願いします。セルジェスカ」
「……ユーリでいい」

 ミリアにはいつも、そう呼ばれている。
 ユーリがそう言えば、ベアトリーチェはどこか嬉しそうに笑った。

「そうですか。では私のことは、ビーチェと呼んでください」

 数日後、正式にベアトリーチェから『二つ名』を与えられ、ユーリは騎士として生きていくために、公爵邸を去ることになった。

「貴方は『天剣』です。私が、そうつけさせてもらいました。改めて、これから宜しくお願いします。ユーリ」

 また屋敷が静かになると、ユーリに声をかける者もいたが、ユーリは世話になった礼だけ述べて、屋敷を出ることにした。
「騎士団に入ります。今まで、お世話になりました」
 自分がそう告げた時のローズの顔を、ユーリはちゃんと見ることは出来なかった。

◇◆◇

「ここにいらっしゃったのですね」
「ああ、君か」

 ガラス張りの植物園。
 ローゼンティッヒは声をかけられて振り返ったが、すぐに元に見つめていた方向に視線を戻した。

「見てくれ。よく寝ている」
「……寝ているときは、本当に子供のようなのに」

 メイジスはそう言うと、長椅子で眠るベアトリ―チェに静かに毛布を掛けた。
 ベアトリーチェが少し前まで仕事をしていたであろう机には、赤い薔薇の花が一輪飾られている。

「――薔薇の騎士か」
 ローゼンティッヒは花を見て、懐かしいものを見るかのように眼を細めた。

「こいつはつくづく、薔薇に縁があるな」
 その声音はどこか暗い。

「……そうですね」
「なあ君、君に一つだけ、俺の秘密を教えよう」
「?」

 頷くことしか出来ないメイジスに、ローゼンティッヒは目を伏せて静かに言った。

「俺は、本当は――彼女が死ぬのを、知っていた」

「それ、は………」
 メイジスは、彼の告白に息をのんだ。
 そしてすぐ、彼は眠る子どもの方に目をやった。
 ベアトリーチェがすやすやと寝息を立てているのを見て、メイジスはほっと息を吐いた。

「でも、それでも……。俺は、薔薇の少女のことを話さなかった。それが、彼女の『運命』だったから」

 メイジスは、ローゼンティッヒを肯定も否定もしなかった。
 何故ならメイジスの魔法《ちから》もまた、喪失から生まれたものだったから。
 後悔は時に、人を強く突き動し、大きな力を与える。メイジスは、それを知っている。
 ただローゼンティッヒは、ベアトリーチェが悲しむことは望んでいるわけではない――メイジスはそう思った。
 だがたくさんの人間を助けるために必要だと判断すれば、ローゼンティッヒはそれを受け入れることのできる人間なのだろうとも、メイジスは思った。

「何かを手にするには、代償が必要だ。青い薔薇のために――精霊病から人々を守るためには、彼女は死なねばならなかった」

 完全な治療薬が完成してから、さほど時間は経っていない。
 けれど青い薔薇を使った未完成の薬は、病の進行を抑えるだけの効力は有していた。
 ジュテファーが命を取り留めたのも、未完成品の薬の効果のためだ。青い薔薇が無ければきっと、世界中で多くの死者が出たことだろう。 
 メイジスはローゼンティッヒの言葉を、黙って聞くことしか出来なかった。

 ベアトリーチェの『兄貴分』であり、彼の命の恩人――王妹であった『光の巫女』の子で、元騎士団長。
 魔法を持たないリヒトより、一〇年間ずっと眠っていたレオンより、王に相応しいと思わせるのは、その外見にも現れている。

 クリスタロス王国初代国王と同じ金色の髪。
 強い魔力を持つ証である赤の瞳。
 彼はその姿と能力故に、一〇年ほど前から人前に姿を見せるのを控えるようになった。
 そしてベアトリーチェが薬を完成させ、漸く肩の荷を下ろしたとき、ローゼンティッヒは正式に、騎士団の退団を申し出た。

「なあ、メイジス・アンクロット。君は俺を、残酷だと思うか?」

 ローゼンティッヒはそう言うと、自分を慕う幼い子どもを見下ろした。
 柔らかな茶色の髪に触れて、ローゼンティッヒは顔を歪めた。

「真実を隠す優しい嘘は、時に人の希望に変わる。青い薔薇のおかげで、あいつは『弟』を救い、自らの地位を盤石なものにした。赤い薔薇の少女を守ることが出来るのは、精霊晶を持つベアトリーチェだけだった」

 ティアの死がなければ、誰からも信頼される『今のベアトリーチェ』は存在しない。

「どんな時も、人が生きていくには希望が必要だ。たとえそれが、どんなに嘘にまみれたものであったとしても。その瞬間《とき》を生きぬくための希望《ひかり》は、常になくてはならない。人は今を信じなければ、前に進めはしない」

 眠るベアトリーチェの髪を手で優しく梳いて、ローゼンティッヒは苦笑いした。
 ベアトリーチェの外見は、彼が知る一〇年前とほとんど変わらない。
 だというのに、子どものような彼の肩にのしかかる責任は、この国の中でも重いに違いなかった。
 それは自分が、責任を放棄して彼を置いて国を出たことにも理由があることを、ローゼンティッヒは理解していた。
 けれどもし、時を戻して過去に戻れたとしても、自分は同じ選択をするだろうとローゼンティッヒは思った。

 ベアトリーチェのことを大切だと思う。
 愛しく思う。愛しているかと聞かれたら、そばにいてやりたいかと聞かれたら、自分は躊躇わずに頷くだろう。
 そうわかってはいるけれど、自分には彼以上に、優先すべきことがあることも、ローゼンティッヒは理解していた。
 それに、未来《けつまつ》はすでに見えている。

 誰が何を行い、選択をすることが求められるのか――過程は見えずとも、自分が理想とする未来のために、行動することがローゼンティッヒには出来る。今の自分がこうすることが、『正解』だと知っている。
 そのためには――非道だと思われても、切り捨てなければならないものもあるのだ。
 その時だった。
 ローゼンティッヒの袖を、ベアトリーチェの小さな手が掴んだ。

「――……行かないで」

「ごめんな。ベアトリーチェ」
 ローゼンティッヒはそう言うと、優しく幼子の頭を撫でてから、ベアトリーチェの手をほどいた。そしてローゼンティッヒは立ち上がると、ベアトリーチェに背を向けた。

「……貴方は優しくて、残酷な方です」
 そんな彼の背に、メイジスが言った。

「いいんだ。俺は、どう思われようと」
 ローゼンティッヒはメイジスの声に足を止めたが、振り返ることはなかった。
 彼は扉の前にで立ち止まると、少しだけ寂しそうな顔をして、小さく笑った。

「こいつに一番相応しいのは、あの日からもう、俺じゃない」
「……でも、どうしたらいいんだろう?」

 ローゼンティッヒとの戦いの翌日、ユーリは一人悩んでいた。
 騎士団長になった理由。
 そんなもの、『ベアトリーチェに推薦されたから』としか、今のユーリには言いようがない。

『魔法は心から生まれる。なぜ君がこの地位を望むのか、それを理解しない限り、君が俺に勝つことは出来ない』

 ユーリは、ローゼンティッヒの言葉を思い出して唇を噛んだ。
 ローゼンティッヒがその座にいた頃、ユーリはほとんど彼のことを知らなかった。
 彼はあまり、人の前に姿を晒すことはなかったから。
 ただその存在が、自分にとってずっと大きな壁となっていたことを、ユーリは理解していた。
 遠目に見たことはあった。
 そしてローゼンティッヒという人間は
たとえその場にいなくても、誰もが彼を意識している――彼は、そういう人だった。
 ローゼンティッヒはどことなくギルバートに似ていて、妙に存在感のある人物だった。
 最後にユーリが彼を目にしたのは、彼がこの国を去る前、ベアトリーチェと勝負をしていたときだ。

 その闘いでローゼンティッヒはベアトリーチェに敗北し、そして彼はベアトリーチェに騎士団を任せ、この国を去った。
 だが彼が国を去った後も、ユーリが周りから彼のことを聞くことは何度もあった。
 優秀で頼りがいのあった、前騎士団長として。
 その度に、ユーリは自分との違いを認識せずにはいられなかった。

 『前騎士団長』ローゼンティッヒ・フォンカート。
 騎士団で今誰よりも信頼されている『ベアトリーチェ・ロッド』が、最も信頼を寄せ、補佐をしていた相手。
 その人間が戻ってくるとしたら――自分の立場はどうなるのか、今のユーリにはわからなかった。

「本当に、『騎士団長』に、相応しいのは……」

 その言葉の続きを口にしようとして、ユーリは頭を振った。
 ――違う。弱気になってはいけない。
 そしてその時、ユーリの中にある疑問が頭に浮かんだ。

「あの人より前の……これまでの『騎士団長』は、どんな人だったんだろう……?」
 
 クリスタロス王国王都にある図書館は、歴史ある建築物だ。
 グラナトゥムにある魔法学院からすれば現在の蔵書量では劣るものの、学院を作った三人の王の輩出国ということもあり、古い蔵書だけならば、学院と勝るとも劣らない。

 ユーリが図書館に着くとまた、ふわふわした光が、まるでユーリを歓迎するかのように彼の周りをくるくる回った。
 ユーリがこの図書館に来るのは、ベアトリーチェのことがあって以来だった。
 ユーリが光に触ってみると、不思議とほんのりと温かかった。

「これまでの、騎士団長について教えてくれ」

 ユーリが言うと、光は返事をするかのように点滅して、彼を導くように進み出した。
 どこが楽しげに、追うユーリをからかうかのように――そしてとある本棚を前で、光はパッと弾けて消えた。

「クリスタロス王国……騎士団の……歴史……」

 それはクリスタロス王国が建国されて以来の、騎士団の記録のようだった。
 古い本だ。けれどその本は、本が書かれた頃を思えば、まだ真新しく見えるようにユーリは感じた。
 本はまるで、当時の状態を維持しているかのようだった。まるで本に、魔法がかかっているかのように。
 図書館にかかっている魔法は、導きの光の魔法だけではないのかもしれない――そんなことを、ふと思う。
 戦いの歴史魔法生物との契約。
 そして――過去の騎士団長を始めとした、歴史に名を残した騎士たちの、魔法適性の記録。
 ユーリはその内容を見て、思わず本を落としかけた。
 歴代の『騎士団長』は、ある事柄が共通していたのだ。

「俺以外の、これまでのクリスタロス王国の騎士団長は……全て、光属性の適性者……?」

 そして、初代騎士団長。
 その頁には、こんな言葉が刻まれていた。

【光を以て人を導く者、『聖騎士』の名に相応しき者に、その座は与えられる。】

◇ 

「あれから連絡はないけど、大丈夫だったかな?」

 課題は提出したのに、ロイからあれから音沙汰はなかった。
 樹の下で一人休んでいたリヒトは、本を閉じてぽつり呟いた。

「もしかして、双子に提出すべきだったのか……?」

 リヒトは、双子の姿を思い浮かべて顔を横に振った。フィズの祖母の言葉からすると、ロイに渡すのが正解だと思ったのだ。
 それに『課題』を提出した際、ロイは普通に受け取ったものだからそれでいいのだと思っていたが――間違ったかとリヒトは頭を抑えた。
 
「リヒト」
「ギル兄上?」

 一人悶々としていると、後ろから声を掛けられてリヒトは振り返った。
 ローズの兄のギルバートは、ふっと笑って手を上げた。
 リヒトはその時、ギルバートの、ある異変に気がついた。

「ギル兄上……その手、怪我でもされたのですか?」

 ギルバートが、手に包帯を巻いていたのだ。
 その隙間から、黒ずんだ肌が気がして、リヒトはギルバートに尋ねた。

「まあ、そんなところだ。おかげでしばらく動かすのは難しいかもしれないな」
「ギル兄上は治癒魔法が使えるのですから、その程度の怪我であれば、ご自分で治されればいいのでは?」

 リヒトの問いに、ギルバートは少し間を開けて笑って答えた。

「……こうしているとミリアが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるんだ。怪我の功名というやつだな」
「…………」

  好意を持っている相手に世話を焼かれたいからと、人の善意を利用するのはどうかとリヒトは思う。ギルバートに賛同できず、リヒトは口ごもった。

 ――ギル兄上は、相変わらず自由な人だな。

「それで、リヒト。あの課題は進んでいるか?」
「それならもう提出しました」
「――『大陸の王』に?」
「そう……ですが……? ただ、実験は難しそうだったので、仮説を提出しただけですが……」
「ふうん? じゃあお前は、その状態で、それをあの王に渡したわけだ?」

 ギルバートの声音はいつもと変わらないはずなのに、なんだか冷たいものを感じて、リヒトは首を傾げた。

「そうすることが、最も適切かと思ったので」

 『生きる化石』とも呼ばれる希少な生き物を、自分が実験に使いたいと言ってもどうせ受理はされないだろう。
 けれどリヒトの答えを聞いて、ギルバートは再びリヒトに尋ねた。

「リヒト。お前はその研究について、他の誰かに話したか?」
「いいえ?」
「――そうか……。なあ、リヒト」

 そしてギルバートは、真実を見極めるとされる瞳で、リヒトをまっすぐ見つめた。

「もしお前が目の前に宝が落ちていて、それが自国に長きに渡り富をもたらすものであったなら、お前はどうする?」
「まず持ち主を探します」

 リヒトは即答した。その答えを聞いて、ギルバートは目を細めた。

「……まあ、お前はそういう奴だよな」
「他に、一体何があると言うんですか?」

 リヒトには、ギルバートの問いの意味がわからなかった。
 だからこそ、ギルバートの言葉を聞いて、リヒトは大きく目を見開いた。

「――リヒト。もしその宝が自分のものであると証明が不可能なものであるなら、その宝は見つけた人間が、自らの財だと発表しても、何も問題は起きないと思わないか?」

 リヒトは、ギルバートの意図を理解するまでに時間を要した。 
 リヒトは言葉の意図に気付くと、ぐっと拳に力を込めた。

「お前は、これまで自分の魔法研究について、きちんと発表出来ていない。魔力の低い王子としてしか、周りはお前を認識していない。そんな中、地位ある人間がお前の研究結果を代わりに発表すれば、どうなると思う?」
「――ギル兄上は、俺の研究が盗まれると、そう仰りたいのですか?」
「…………」

 ギルバートはそうだとも、違うとも言わなかった。ただ自分から不自然に避けられた瞳が、問いの答えのようにリヒトは思えた。

「……あいつが、あいつがそんなことするはずない!」
「何故、そう言い切れる?」
「それは……っ!」

 リヒトは言葉につまった。ロイはかつてクリスタロスで、自分たちを傷つけた前科がある。
 出会ったばかりのはずの相手を、かつてローズや家族を傷つけた相手を、どうしてそこまで信頼できると思うのか――?  その理由は、リヒトは自分でもよくわからなかった。
 だがその時リヒトの頭の中には、ロイが笑う姿が頭に浮かんでいた。

『母上の箱を開けることが出来たのは、君たちのおかげだ。――ありがとう』
 
 ――あの笑顔を、信じたいと思うから。

 自分の中に浮かんだ漠然とした答えに気づいて、リヒトは唇を噛んだ。
 こんな答えを口にしても、無駄だということはわかっている。目の前の相手は、こんな思いはきっと、『正解』だとは言ってくれない。

「もしそうなったとき、周りはお前の言葉と彼の言葉、どちらを信じるんだろうな?」

  大国の王と、グラナトゥムと比べたとき国力の劣るクリスタロスの、魔力の弱い第二王子の言葉なら、人はどちらを信じるのか。
 そんなこと、子供でもわかる愚問だ。

「リヒト。お前が人の上に立ちたいと願うなら、人に思いをかけすぎるな。そうしなければ」
 ギルバートは今度は、リヒトを真っ直ぐに見て言った。

「お前が傷つくことになる」
 
「俺は、俺は……」
 下を向くリヒトに頭を、ギルバートは優しく撫でた。

「そんな顔するなよ。とりあえず、昼休みももうすぐ終わる。教室まで送ろう」
 ギルバートはそう言うと、顔色の悪いリヒトの服を掴んで歩き出した。

 そしてリヒトが幼等部に着いた時、教室に響く怒号を聞いた。

「皇女様だし、気付かおうかと思ってたけどやめた! この間リヒトにひどいこと言ったそうだな。リヒトはお前のことを庇ってたのに、よくもそんなこと言えたんだよ! そんな奴、この教室にはいらない!」
「頑張ってる奴はこの学校ではみんな平等だって、先生は言ってたんだ! 頑張ってる仲間を傷つけるような奴を、俺たちは俺たちの仲間を認めない!」

 多勢に無勢。
 ロゼリアは教室で、幼等部の生徒たちに囲まれていた。
 リヒトは、小さな手でドレスをぎゅっと掴んで、涙がこぼれないように耐えているロゼリアに気付いて、彼らを止めようとした。
 だがリヒトより先に、彼の隣りにいた人物の言葉で、全員が動きを止めた。

「――まあまあ。そう喧嘩するなよ」
「なんだよ。お前……? お前には関係ないだろ?」

 幼等部の生徒たちは、ギルバートを見て不快感を示した。
 当然だ。彼らからすれば、『よく知らない年上』に、いきなり話に割って入られただけに過ぎない。
 
「全員頭を冷やせ」
「なっ」

 そんな幼等部の生徒たちに対して、ギルバートは指を鳴らすと、魔法を発動させた。

 バシャア!

 すると空中から大量の水が現れ、リヒトとギルバート以外の、全員を濡らした。勿論その中には、ロゼリアも含まれている。
 リヒトは呆然とした。

 ――ギル兄上は、本当に何を考えて……!?

 そうリヒトが問おうにも、ギルバートは飄々として、子どもたちに対して好戦的な態度を変えようとはしなかった。

「頭は冷えたか?」
「な……なにすんだよ!」
「一人の女の子を、大人数でいじめてるチビたちを見つけたから、頭を冷やしてやろうと思ってな」

 子どもたちは、ギルバートを睨みつけていた。
 しかしギルバートはそんな彼らをみて、にやりと笑うばかりだった。
 これでは火に油だ。

「とうした? ここの教室の人間は、やられても反撃の一つも出来ない意気地なしの集まりなのか?」
「ふざけんな! 勝手に攻撃してきてなんのつもりだっ!」

 歯には歯を。水には水を。
 一人の生徒が水魔法を発動させ、ギルバートに向かって放つ。だがギルバートは、軽々とそれを避けて口笛を吹いた。

「遅いな。それじゃあ俺には当たらないぞ?」
「な……っ!」
「悔しかったら俺に攻撃を当ててみせろ」
 小馬鹿にするようなギルバートの態度に、子どもたちの堪忍袋の緒が切れた。

「あの、ギル兄上……? 一体何を考えてこんなことを?」

 ギルバートが喧嘩を売る意図がわからず、リヒトは呆然としていた。
 ギルバートは、心配そうに自分を見つめるリヒトに、余裕たっぷりに笑った。

「見ておけ。子どもはな、遊びながら学ぶものなんだぞ。だからたまには悪役になってでも、俺たちが鍛えてやらなきゃだよな?」
「あの……それは、どういう……?」
「よし! リヒト、お前も走れ!」

 ギルバートはニヤリと笑って、リヒトの手を引いた。
 リヒトは血の気が引いた。
 自分まで『鬼ごっこ』に巻き込まれるのはゴメンである。リヒトは昔から、研究優先で体は鍛えてはいなかった。
 リヒト(なかま)が攫われたのを見て、子どもたちはそれぞれに魔法を発動させ、ギルバートに向けて放った。

「くそっ! リヒトが攫われたぞ。全員、かかれ〜〜っ!!!」

「これじゃあ駄目なんだ……っ!」
 
 一人訓練をしていたユーリは、新しく精霊晶に書き込んだ魔法が発動できずに叫んだ。
『魔法の才能がある』
 ローズの祖父、『剣聖』グランと出会ってから、ユーリはずっとそう言われて生きてきた。
 けれどユーリは、クリスタロスの『騎士団長』として、足りないものを知ってしまった。

【光を以て人を導く者、『聖騎士』の名に相応しき者に、その座は与えられる。】

 あの日図書館で本を読んでから、精霊晶に光属性の魔法式を書き込んでみたものの、魔力を流しても魔法が発動することはなかった。
 当然だ。ユーリ自身、自分には風属性の適性しかないことは理解していた。
 ローズが触れれば虹色に輝く測定器。
 ユーリがこれまで、光属性の色を灯せたことは、一度もない。

 光属性を持つ両親の元に生まれた。
 けれどユーリに使えるのは、風属性の魔法のみなのだ。

「こんなんじゃ……っ!」

 本には、歴代の騎士団長は『未来予知』、もしくは『光の防壁』のどちらかの魔法を有していたと書かれていた。
 そしてローゼンティッヒ・フォンカートは、『未来予知』を得意とし、彼の予知によって様々な災厄を退けたことから、『先見の神子』の再来と書かれた本もあった。

 つまりローゼンティッヒは、自分の攻撃をすべて予測して避けていたのだ――そのことを思い出して、ユーリは顔を顰めた。
 全部読まれるせいで当たらないなら、同じように自分も未来を読めばいい。しかしそれはユーリにとって、考えるのは簡単だが、かなえるのは難しかった。

 ――このままじゃ、駄目なのに。

 強くなりたいと思う。その座に相応しいように、もっと。
 するとその時、誰かがユーリのことを呼んだ。

「精が出ますな。団長殿」
「貴方は……」
「失敬。驚かしてしまいましたかな」

『団長殿は、惚れた弱みに付け込まれておりますなあ』
 老年の騎士。
 彼はかつて、ユーリがローズに負けたあとの宴で、ユーリのことをからかった男だった。
 年に似合わず鍛えられた体をした白髭の男は、ユーリを見てニカリと笑った。

「よければお手合わせ願えませんかな?」
「……俺でよければ」
 ユーリはそう言うと、剣を構えた。



「いい汗をかくことができました。やはり団長殿を凌ぐ風魔法の使い手は、騎士団にはおりませんな」

 老騎士は、水属性魔法の使い手だった。
 ユーリは、息を乱さず朗らかに笑う騎士を前に、額の汗を拭った。

 ――終始こちらが押していたはずなのに、なんだか負けた気がするのはどうしてだろう?

 ユーリが髪を整えていると、老騎士はユーリが机の上においていた紙の束を手に取り、ほうほうと内容を読んだ。

「おや、これはこれは……。珍しい物をお持ちですな」
「それは……っ!」

 光属性の適性について調べていたメモを見られて、ユーリは思わず紙の束を老騎士から取り上げて胸に抱いた。
 ユーリが顔を真っ赤にしてじろりと老騎士を見れば、彼はまるで子どもを見つめるかのように、ユーリに視線を向けていた。

「そう慌てられずとも、団長殿をからかったりなどはいたしませんぞ」
「……」

 その声からは確かに、ユーリを嘲る意志は微塵も感じられない。
 ユーリは一度紙の束を机に置いて、地面に落ちてしまった紙を無言で拾った。

「ベアトリーチェ殿と、喧嘩でもなされたか?」
「喧嘩、というか……」
 背中越しに問われ、ユーリは眉根を寄せた。

「なかなか難しいお方ですが、何かしらの意図があってのことでしょう。貴方を傷つけるためだけに、行動されるような方ではありませんからな。そんなことは、メイジス・アンクロット殿が許すはずがない」
「メイジス……?」

 それは、植物園にいるベアトリーチェが信をおいている男の名だ。
 かつてベアトリーチェが自分より優先した男の名前を聞いて、ユーリは眉間のしわを深くした。
 十年ほど前までは、メイジスは騎士団に所属していたとユーリは聞いていた。……ベアトリーチェを庇い、片腕を失うまでは。

「メイジス殿のことは、彼が入団される前から存じております。騎士になるより前、彼は店を営んでおられましてな。特に彼のいれる珈琲は、本当に絶品で……」

 老騎士は懐かしむかのように目を閉じた。
 ユーリは、そんな彼に短く尋ねた。

「――じゃあ、ビーチェのことは?」
「入団された頃から存じておりますな」

 老騎士はふっと笑って答えた。

「ベアトリーチェ殿は……昔はやんちゃな方でした。団長殿がここに来られた当初よりも、ずっと。魔力を上手く制御出来ずに、問題を起こしてしまわれることもありました。その制御のために、ベアトリーチェ殿の教育係だった方は、一人称を変えることを指導されたくらいですからな」
「ビーチェが?」

 ――まるでミリアと自分みたいだ。
 ユーリの中に、そんな考えが頭に浮かぶ。

「ベアトリーチェ殿が、『光の巫女』によって生かされたという話は、団長殿はもうご存知なのでしょう? 彼は彼女の息子ということもあり、昔から深いつながりがあったようですからな。ベアトリーチェにとって彼は、命の恩人の息子であり、兄ともいうべき存在なのです。彼がベアトリーチェ殿にとって、大切な存在であることに間違いはない。けれど、邪推する必要はございますまい。ベアトリーチェ殿が親しい名を許すのは、家族を除いては貴方とローズ殿だけなのですから。それに貴方は『天剣』の名を、他ならぬベアトリーチェ殿に与えられたではありませんか」

 ベアトリーチェの剣は、決して空には届かない。空を飛ぶ生き物と契約出来ないのもそのためだ。 
 ベアトリーチェの力は地属性。人と、神に祝福されし者の力。

「でも、ビーチェは……」
 ユーリが小さな声で呟くと、老騎士はユーリの手をそっと握って微笑んだ。
 傷跡の残る手は、ユーリには強く、温かく感じられた。

「それにこの世界でもし、『もう一人の自分』などという存在がいるとするならば」
「?」
「貴方は『過去の彼』であり、彼女は『もう一人の彼』なのです」
「それは、どういう……?」

 ――自分がベアトリーチェの過去であり、ローズ様はもう一人のベアトリーチェ?
 ユーリは首を傾げた。まるで意味かわからない。

「昔の彼は、今の貴方に似ている。ですから私は呼びましょう。貴方のことを、『団長殿』と」
「……貴方は、『俺の味方』なのか?」

 ユーリの問いに、老騎士は手を離すと、人差し指を口元にあててまたニカリと笑った。

「団長殿。私は、貴方もベアトリーチェ殿も、どちらも応援しておりますぞ」
「?」
「この世界で先に生まれた者の役目は、先に死にゆくことではなく、後に生まれた者を導き、育てることなのですから」

 老騎士はそう言うと、はっはっはと豪快に笑いながら、ユーリを残して訓練場を去った。



「あれは、どういう意味だったんだろう……?」

 訓練を終え、夜。ユーリは部屋で一人本を読んでいた。
 図書館で借りた本だ。
 老騎士と話をして、ユーリは最近の自分が、ひどく焦ってしまっていたことに気が付いた。
 けれど老騎士の言葉を聞いて、不思議とユーリは心が軽くなるのも感じていた。
 付け焼き刃の力で敵うほど、ローゼンティッヒはきっと甘くはない。
 なら自分に今できることは何なのか、やっとわかったような気がした。

「――俺は、あいつの『天剣』なんだから……」
 相応しくないなんて、絶対に言わせない。
 そう思い、唇を引き結ぶ。

「目が霞むな……。最近、ちゃんと眠れてなかったからか……?」

 体が万全でなかったら、勝てるものも勝てない。今日は、早く寝なくては――安堵から急に眠気が襲って、ユーリは椅子に座ったまま瞼を閉じた。 
 すると、ユーリが寝静まったのを待っていたかのように、本の隙間からするりと光の玉が現れると、ユーリを心配するかのように頭上でくるくる回った。
 しかしその時、扉を叩く音が響いて、光は再び本の隙間に隠れた。

「こんな薄着で眠っては、風邪をひきますよ。ユーリ」

 ランプを持った小さな少年は室内に入ると、眠るユーリに毛布を掛けた。
 それから少年が音を立てずに部屋を出るのを見送ると、光はそろりと再び本の隙間から出て、ユーリの上で、まるで踊るように点滅しながらくるくる回った。
 光は時折ツンツンと、楽しげにユーリをつつく。
 けれどユーリが目覚めることはなく、光は諦めたかのようにゆっくりとユーリに近づくと、その額に触れて溶けて消えた。



 その夜、ユーリは不思議な夢を見た。
 自分と誰かが、図書館で話している夢だった。

『君は勉強が苦手なのか?』
 柔らかな声だった。
 他の誰かから言われたら、きっと自分を責めていると感じるはずなのに、彼の声からは、微塵も悪意は感じられない。

『よし。じゃあ、この図書館に魔法をかけよう。君に必要な本が見つかるように』

 彼はそう言うと、身につけていた赤い指輪にそっと触れた。彼は指輪から紙を取り出すと、さらさらと魔法陣を書いた。
 陣の中心から光の玉が現れたかと思うと、それは楽しげに、ユーリの周りをくるくる回った。

『ユーリ。この子がこれからは、図書館で君の案内をしてくれる。読みたい本がすぐ見つかるなら、本を読むのも楽しくなるだろう?』

 ――ありがとうございます。

 ユーリ・セルジェスカ(いまのじぶん)より大人びた声が礼を言えば、彼がくすりと笑ったのがわかった。

『よかった。君が、笑ってくれて』

 優しくて、心地いい声。 
 けれどそんな彼は、子どもの声にびくりと体を震わせた。

『我が君! こんなところにいらっしゃったのですね! 執務室が静かだと思えば、いつもいつも、どこかへふらふらと……!』
『す、すまない』

 ベアトリーチェとどこか似ている。その子どものことを、ユーリは不思議とそう思った。

『――またな。ユーリ』 
 彼はユーリに小さく手を振ると、子どもに引きずるように手を引かれていってしまった。
 金色の髪が揺れる背を、ユーリは頭を垂れ、静かに見送った。



「――寝ていた、のか?」

 夜の外気が肌を刺す。目を覚ましたユーリは頭をおさえた。

「なんで、あんな夢……」

 ――机で眠ったから、妙な夢を見たのだろうか?

 ついさっきまで見ていたはずなのに、夢はもうすでにところどころ朧気になっていた。ユーリが首を傾ると、肩にかけられていた毛布が床に落ちて、ユーリは椅子から立ってそれを拾った。

 その時、慣れ親しんだ香りがして、ユーリは目を瞬かせた。
 長くそばにいるうちに、いつの間にか気にもしなくなったのに、最近離れているせいか、今はその香りが、ひどく懐かしく感じた。
 ユーリは毛布を手に、鍵のかかっていない扉の方を振り返った。

 ――あいつの、森の香りがする。

「ビーチェ……?」
「いい表情《かお》だ。騎士たるもの、守るべきものがなくてはな?」

 ローゼンティッヒが試合の場として指定したのは、騎士団の訓練場ではなく、ベアトリーチェの植物園の一角だった。
 ユーリは剣を握る手に力をこめて、ローゼンティッヒの背後を見た。
 ベアトリーチェは、ローゼンティッヒの後ろに隠れるように立っていた。ユーリの視線に気づいてローゼンティッヒは薄く笑うと、ベアトリーチェを隠すように一歩足を前に踏み出した。

「簡単に隠れる光なら、存在する意義はない。誰に認められない感情であったとしても、自分を貫く心こそが力になる。強い意志こそが、人に魔法という力を与える」

 剣を抜いて構える。ローゼンティッヒの大仰な物言いは、どこかロイと似ていた。

「君が俺に勝つことが出来れば、これは君に返そう。だが君が俺に負ければ、俺は君の全てを奪おう。覚悟はいいか? 『天剣』君」

 ユーリはこくりと頷くと、目を閉じて耳飾りに触れた。
 銀色の長い髪が風を纏い、柔らかく舞い上がる。
 その髪が肩に降りるより前に、ユーリは強く地面を蹴った。
 体は宙に浮かせたまま、ユーリは剣を突き出した。剣の切っ先は、真っ直ぐにローゼンティッヒに向けられている。

 雪のような白銀の髪から覗く金の瞳は、獲物を捉えた獅子のようにきらりと光る。
 一瞬で間合いを詰める剣。
 しかしそれを見て、ローゼンティッヒは静かに笑った。
 彼はすんでのところでユーリの剣を避けると、今度はローゼンティッヒがユーリに向かって剣を振り下ろした。
 銀糸のような綺麗な髪が、はらはらと地面に落ちる。

「……ッ!」

 ユーリは目を見開き首筋に触れ、ローゼンティッヒを睨んだ。あと少しずれていれば、確実に血管が切れていた。
 しかしローゼンティッヒはまるで埃でも払うかのように肩を叩いて、ユーリを見て目を細めた。

「駄目だ。それでは、俺には勝てない。君だって、本当はもうわかっているんだろう? 君の攻撃が、全て俺には視えているということを」

 ローゼンティッヒは自分の目尻を軽く指で叩いた。

「どうして光魔法を使おうとすらしない? 君はすでに知っているはずだ。この国の、騎士団長の『資質』を」

 王族であるリヒトが『火属性』を『王の資質』として求められるように。
 『光属性』――それがこの国における、騎士団長の『資質』。
 だが今のユーリに、その魔法は使えない。
 知っているだろうに、「使え」と口にするローゼンティッヒを、ユーリは唇を噛んで真っ直ぐに見つめた。

「『簡単に隠れる光なら、存在する意義はない』――貴方は、俺にそう言った。今の俺に、貴方を凌ぐ光魔法は使えない。でも俺は、『天剣』だ。あいつが俺にこの名を与えた。騎士団長の地位も、『今の俺』の地位はは、あいつに与えられたものに過ぎない」

 ユーリは、自分が光属性の魔法が使えるようになったとしても、ローゼンティッヒのように使いこなせるとは到底思えなかった。
 付け焼き刃ではどうせ、ローゼンティッヒには敵わない。

「今の俺には、貴方の求める言葉がわからない。答えなんて見つからない。でも俺はこの国の騎士団長として、周りに信頼される存在になりたいと思っている。未熟でも、相応しくないと言われても――今の俺では、貴方には勝てなくても。俺は、『騎士団長《こ》の座をかけて戦え』と言われるなら、逃げるつもりは毛頭ない!」

 ユーリはその瞬間、強く地面を蹴った。
 先程と同じ攻撃。
 しかしユーリの攻撃から、ローゼンティッヒは逃れることは出来なかった。
 未来が見えても避けられないほどに、ユーリの剣は速かった。
 ローゼンティッヒに動くことを許さず、ユーリはローゼンティッヒの喉元に剣を突きつけた。

「俺の……俺の勝ち、です。貴方が何者であろうと、今の騎士団長はこの俺だ!」
 
 しかし、ユーリが勝利を確信した瞬間――ローゼンティッヒは不敵な笑みを浮かべた。


「それはどうかな?」

 ローゼンティッヒはそう言うと、視線を上空へと向けた。
 ユーリも彼にならい――落下してくるモノに気付いて、ローゼンティッヒから距離をとろうとしたが、落ちてきた短剣は、ユーリの手を僅かにかすめた。

「……っ!」

 ユーリが怯んだその一瞬。ローゼンティッヒは隠していた新しい剣を取り出し距離を詰めると、ユーリの後ろに回って拘束した。

「君が本気で俺を殺そうとすれば、可能性はあったんだがな」
「……っ!」

 実のところ、『未来を予測する』力は、ユーリが思うほど戦闘中有用なものではなかった。
 光属性持ちが視る『未来』は、あり得るかもしれない可能性であって、僅かな誤差は生じてしまうし、加速しての戦闘スタイルは、風属性や強化属性が得意とする戦闘スタイルだからだ。

 だからこそローゼンティッヒは、昔から不意を突くことを得意としていた。
 それは、魔法の力でも何でもない。
 思考や行動パターンから、敵の行動を予測する戦闘スタイル。ベアトリーチェがロイから勝利したときにシャルルを使ったように、ローゼンティッヒは人の心理を利用して戦うのを得意としていた。

 ユーリが自分を追い詰めて油断することも、視線に誘導されてしまうことも、全てローゼンティッヒの予想通りだった。
 ユーリが勝利を確信する瞬間、逆手に取っての形勢逆転。
 ユーリが動きを止めれば、ローゼンティッヒは剣を下ろした。

「まあしかし、及第点だ」
 ローゼンティッヒはそう言うと、ユーリの手に赤い紐を置いた。

「君の優しさは君の短所であって、それでいて君の最も尊い武器だ。なるほど。俺が未来を予測したとしても、避けられないだけの速さか。これが、今の君の全力というわけだな」

「……どうしてこれを返してくださるんですか。俺は負けた。それにまだ、答えも出せていないのに」
 ユーリは震える声で訊ねた。

「君は本当に真面目だなあ。別にその事は咎めはしない。それに『今の君』にはまだ、光属性は使えない。元々、それが俺の視た未来だったからな。だいたい風属性に強い適性のある君にとって、この問いは難問なんだ。――君の心は、この世界のあらゆる生き物を生かす根幹になりうるものだ。けれど誰も、君の心《やさしさ》には気付かないかもしれない。そして君自身も、それが君の願いであることには気付くことは難しい。何故ならただそこに在ることが、周りを生かすことこそが、君という人間そのものだから」

 ユーリはローゼンティッヒの言葉を、今は完全には理解できなかった。

「だがもし、いつか君が俺の問いに答えを出せる日が来るなら、君はもっと強くなれることだろう。俺は君に、強くなって欲しかった。君に、行動して欲しかった。君の願いを、君の祈りを、君自身に自覚して欲しかった。今のベアトリーチェを支えられるのは、君だけだから」

「でも、俺は……。それに、ビーチェに支えられているのは俺の方で……」
 ユーリがそう小さな声で呟けば、ローゼンティッヒは静かに首を振った。

「いいや。君はアイツにとって、心の支えになっているはずだ。アイツはなかなか言葉にしないだろうが――……。それは、許してやってくれ。地属性のさがのようなものなんだ。まあ君が言うように、確かに『今の君』では俺には勝てない。今俺がこの国に戻れば、俺を騎士団長にと推す声は出るかもしれない。でもだからこそ俺は、君にはもっと強くなってもらいたいと思っている。『騎士団長』として、『ベアトリーチェの対』として」

 ローゼンティッヒはそう言うと、ユーリの肩に手をおいた。

「君には期待している。ユーリ・セルジェスカ。――この国を、ベアトリーチェを任せたぞ」

 その声は真っすぐで、その言葉に偽りがあるとはユーリは思えなかった。

「俺は帰る。――じゃあ、またな。『天剣君』」
 自分の意志だけ告げて、ローゼンティッヒはユーリ――そして、ベアトリーチェの前を歩いて背を向けた。

「ローゼンティッヒ!」

 ベアトリーチェが名を呼んでも、彼は足を止めようとはしなかった。
 ベアトリーチェは追いかけたい気持ちをぐっと抑えて、自分の相棒の方を振り返った。

「ユーリ」
 ベアトリーチェの声は、いつもとは違いどこか落ち着かない。

「貴方を、試すような真似をしてすいませんでした。でも、ユーリ。……私の天剣は、貴方だけです」

 珍しく直接的な表現をしたベアトリーチェは、ユーリの顔色を少しうかがうかのように上目遣いで見つめたあとに、くるりとユーリに背を向けた。

「ローゼンティッヒを送ってきます」

 ベアトリーチェはそう言うと、ユーリを一人残して走って去っていった。
 その横顔が、いつもより少し赤かった気がして――ユーリはベアトリーチェが見えなくなった曲がり角をしばらく見つめてから、自分の手に置かれた髪紐に視線を落とした。

 ベアトリーチェの自分に対する態度に、安堵している自分に気付く。でもだからこそ、ユーリはその心を、素直に受け入れることができなかった。

 ――勝てなかった。絶対に、負けたくないと思ったのに。今のクリスタロスの、騎士団長は俺なのに。

 かつてローズに負けたとき、ユーリは敗北を受け入れた。
 彼女が師の孫であり、師の力の片鱗のようなものを感じたから。
 そして精霊晶を使ったベアトリーチェに負けたときも、ユーリは心のどこかで、『仕方ない』と思っていた自分がいたようなに思えた。

 ようやく気付く。
 恵まれた能力。圧倒的な実力差。
 そんなものを感じたら、負けても仕方がないのだと、これまでの自分は、自分を諦めてしまっていたことに。
 そんな自分が、ユーリは悔しくて、腹立たしくてたまらなかった。

 ――俺が一番苛立っているのは、負けたせいなんかじゃない。そのことを本気で悔しいと思えなかった、これまでの俺自身にだ。
 
「俺は……。俺は、この国の……」

 言葉を続けようとして、ユーリは言葉を飲み込んだ。

『私の天剣は、貴方だけです』
 その時ユーリの頭の中に、ベアトリーチェの声が響いた。回りくどい言葉を好む相棒《にんげん》が、珍しく口にした言葉を思い出し、ユーリは手の中にあった髪紐を、いつの間にか強く握りしめていた。

「もっと……もっと、強くなりたい」

 『今の自分』では勝てなくても、『明日の自分』は、絶対に彼に勝てるように。
 この国の騎士団長として、相応しい自分になるために。
 
◇◆◇

「ローゼンティッヒ!」
「なんだ。俺を見送りに来たのか?」

 ベアトリーチェがローゼンティッヒに追いついたとき、彼はもう契約獣の背に乗り、クリスタロスを離れようとしていた。
 最後に自分と言葉をかわすこともなく、また行方をくらまそうとしていた男を前に、ベアトリーチェは怒気を孕んだ声で言った。

「どうしてあんな言い方をしたんですか。貴方最初から、ユーリからその座を奪うつもりなんてなかった。だから貴方は結局一度も、騎士団には行かなかった」

 ユーリは理由など考えもしなかっただろうが、ローゼンティッヒはクリスタロスの滞在期間中、ずっと植物園で過ごしていた。

 老騎士はベアトリーチェから話を聞いていたため知っていただけで、ローゼンティッヒが国に戻っていた事自体、殆どの騎士《にんげん》に知らされてはいなかった。
 ローゼンティッヒはユーリが不在の間、なにかあったときのための保険でしかなかった。

「まあそれでも、この国に何かあれば、手を貸そうとは思っていたさ」
「嘘吐き」
「そう拗ねるなよ。お前がどんなに俺に怒っても、天剣君の落ち込み具合は変わらないぞ」
「それは貴方のせいでしょう!? だいたい貴方が、私にあんな提案をするから……!」
「仕方ないだろ。これからの彼やこの国のためには、必要なことだったんだ」

 ローゼンティッヒはそう言うと、眉間にシワを作るベアトリーチェに、けらけらと笑いながら言った。

「まあいいじゃないか。俺の目的は果たされたわけだし」

 どごっ!
 ベアトリーチェは、そんなローゼンティッヒの腹に拳を叩き込んだ。

「お前、な……っ? 本気で殴るなよ……」
「ゆっくり反動をつけて殴りましたよ。避けなかったのは、私が怒っても仕方がないと、貴方自身が思っているからでしょう?」

 ローゼンティッヒは否定も肯定もしなかった。

「流石にやり過ぎです。ローズ様からの贈り物を奪うだなんて」
「大丈夫だろう。彼はそこまで弱くはないと思うぞ。それにほら、こんな言葉を聞いたことはないか? 『獅子は我が子を千尋の谷に落とす』って」
「知識の話をしてあるのではありません!」

 ベアトリーチェは声を荒らげた。
 ローゼンティッヒはベアトリーチェが昔のように、悪い癖を出さないかと思わず少ししゃがんだが、何事もないことがわかると、ふうとため息を吐いた。

「そう怒るなよ。ベアトリーチェ。お前だって俺に賛成だったから、話に乗ったんだろ?」
「…………」

 ユーリに強くなって欲しかったのは本当だ。
 ベアトリーチェはそのために、ユーリにきつい訓練を課したこともある。
 だが賛成か反対かだなんて、そんな言葉で自分の感情を分類されるのは、ベアトリーチェは嫌だった。

「なあ、ベアトリーチェ」
「触らないでください! 貴方が、貴方が、ユーリのために必要だと言うから……!」

 ユーリとローゼンティッヒの首をすげ替えるつもりなんて、ベアトリーチェには最初からさらさらなかった。
 たとえ他の誰が望んで、もしそうなったときは――自分も一緒に、副団長の座から降りようとさえ思っていた。
 今の自分は、『ユーリ・セルジェスカ』の対なのだから。
 
「だいたい私が貴方から、グラナトゥムにいると聞かされた時の、私の気持ちが貴方にわかりますか!?」
 
 ベアトリーチェは、ローゼンティッヒに掴みかかった。
 ベアトリーチェはユーリに今よりもっと強くなってほしかった。自分にとっての対は彼だけだと、誰もがそう言うようになるように。
 ユーリが見目麗しいだけの、お飾りの騎士団長だと、他の人間から思われずに済むように。

 でも、幼い頃自分を支えてくれた――兄のようなローゼンティッヒに、クリスタロスに戻って欲しいという思いは本当だった。
 その願いが、叶わないことは知っていた。
 ローゼンティッヒの一番が、自分でないことをベアトリーチェは知っていたから。

 ローゼンティッヒにとっての『ビーチェ』の愛称《なまえ》は、ベアトリーチェ(じぶん)のものではなく、彼が愛するただ一人の女性のものだ。
 だからユーリと違って、ローゼンティッヒは『ビーチェ』とは呼んでくれない。
 彼の『ビーチェ(いちばん)』に、自分はなれない。
 この思いは、子どものような感情だ。ベアトリーチェだって、幼い執着だとわかっている。
 ……それでも。

「ずっと。ずっと……待っていたのに」

 やっと精霊病の薬を作り終わって、ジュテファー(おとうと)の病も治って、これからは自分の手のひらにあるものを、大事にして生きていけると思ったのに。
 これまで一番支えてくれた相手は自分との勝負にわざと負けて、自分一人にこの国を任せて去るだなんて――とんでもない責任放棄だと、当時は思ったものである。
 
『ほら、やっぱりお前はまだ、俺には勝てないだろ』

 なんでもいい。ユーリを負かしたように、ベアトリーチェはローゼンティッヒに負けたかった。そうして自分には、まだローゼンティッヒが必要だと、彼自身に口にしてほしかった。
 そうして『ほら、立て』だなんて言って、いつものように笑いかけてほしかった。

 けれど、ローゼンティッヒが騎士団長をやめた日。
 ローゼンティッヒはベアトリーチェと、全力で戦おうとはしなかった。

 才能あるレオンが目覚めず、第二王子のリヒトは『おちこぼれ』の評価のまま。
 現国王の甥にあたるローゼンティッヒが、難しい立場にあることはベアトリーチェも理解はしていた。
 でも、それでも……。自分のために、この国にとどまってくれると信じていたのに。
 ローゼンティッヒは結局、どこに行くとも告げず、ベアトリーチェを置いて行方をくらませた。

「だが、今のお前の相棒は彼だ。俺は昔から、誰かの場所を奪いがちだからな。だから俺は、この国にはいないほうがいいんだ」
「……」

 今ローゼンティッヒが騎士団に帰れば、ユーリの立場は危うくなる。
 そして騎士団で、ベアトリーチェに唯一勝てるローゼンティッヒは、かつてローズとの結婚を周囲に望まれていた男だ。

 十年間も眠り続けていたせいで、今はロイやベアトリーチェに劣るレオンも、ほとんど魔法を使えないリヒトも、王にいただくには弱い。
 ローゼンティッヒに炎属性はないが、今後騎士団に戻り才覚を再び示すことになれば、ローゼンティッヒを王にと望む声もまた、少なからず増えるかもしれない。

 彼の母は『光の巫女』。
 人の命をも救うことのできる、強い魔力を引き継ぐ赤い瞳。
 クリスタロス王国の王族の血を引く証である金の髪も、何もかもが彼の優位性を示すものとなる。

 昔から神殿は、炎属性よりも光属性を、王にと望む声が強かった。
 『光の祭典』に用いられる水晶を守る神殿は世界中どの国にもあり、神殿に勤める人間の中には、王を傀儡にして利を得ようとする者も存在する。
 立場ある人間の流動性がなく、長く力を持ち続けた組織は、やがてより大きな力を求めて腐敗する。
 アカリが光属性の力のみこそが全てだと神殿で教わっていたように、彼らは自らの属性に固執している。
 だからこそローゼンティッヒは、自分を次期国王にと擁立しようとする声が上がることを恐れた。

『光属性をお持ちのローゼンティッヒ様こそ、次代の王に相応しい』

 『光の巫女』は神殿にとって、彼らが力を誇示するための偶像だった。
 神殿の力をしめすための現人神《あらびとがみ》――だからこそ彼女が子を産むことに、かつて神殿は反対していた。
 しかしその子がいざ高い能力を持って生まれ、王子である二人の影が薄くなれば、神殿は彼を担ごうとした。

 ローゼンティッヒは、政争に巻き込ままれるのも、意思を奪われ誰かの傀儡にされるのも、その中で大事な人を傷付けられることもごめんだった。
 もしそうなれば、妻やこれから生まれる子供が危険に晒される可能性がないとは言えない。
 しかし正当な後継者であるレオンが目覚めたとしても、今の状態で、ローゼンティッヒは国に戻る気にはなれなかった。
 自分が自国に戻り問題になるのは、跡継ぎだけではない。この国の次代を担うべき人間にとって、自分の存在は邪魔になる。

 ユーリやリヒトが望んでも持ち得ない魔法《ちから》は、ローゼンティッヒにとっては足枷でもあった。
 力を持って生まれたことに、ローゼンティッヒは悲観したことは何度もある。けれどその力があったからこそ、得られたことが多かったことも事実だと、今の彼は思えた。
 所詮は硬貨の裏と表だ。どちらか自分に有益な方だけを、選んで得ることはできない。

「お前は俺の弟みたいなものだから。……だから、そんな顔をするな」
「……」
「お前の結婚式にはちゃんと戻ってくるから。俺の席は、空けておけよ?」
「招待状を送ります」
「生憎と、今俺宛の手紙は届かないようになっているんだ」

 輝石鳥を用いて手紙を送る場合、いくつか条件が必要となる。相手がそれを拒否する場合、手紙を届けることは出来ない。

「貴方はいつも、どうしてそうやって……っ!」

 身長の低いベアトリーチェが長身のローゼンティッヒを見上げようとしたとき――ベアトリーチェの視界は大きな手に阻まれて、相手の顔がよく見えなかった。

「ごめんな」
 ただその声はどこか、寂しそうにも彼には聞こえた。

「俺はまだ俺はこの国には帰れない。彼らが自分の立場を確立出来ないうちは、俺はこの国には戻らない」

『レオンかリヒトか。次期王が決まり、ユーリが騎士団長として、ローゼンティッヒと並ぶ実力を手に入れるまで――。自分は、クリスタロスには戻らない』

 暗にそう告げた兄貴分に、ベアトリーチェは唇を噛んだ。
 結局は自分に、目の前のこの人をつなぎとめる術《すべ》なんて無いのだ。
 ローゼンティッヒがベアトリーチェに、わざと敗北したあの日のように。

「でも、ベアトリーチェ。俺が騎士団に戻らなかったのは、お前のためでもあるんだぞ?」
 諭すような声で、ローゼンティッヒは言う。

「鏡のように、人の心を映す。お前は分かっていないかもしれないが、お前は彼が傷つけば、同じように傷つく人間であることを忘れるな」
「――私は、『貴方のため』という言葉が嫌いです」

 ベアトリーチェは、ローゼンティッヒに自分の顔が見えないよう、下を向いて呟いた。

「だってそれは、結局はいつも自分のためだ」
「ほんと可愛くないな。お前」
「……」

 俯くベアトリーチェの瞳が、僅かにきらめく。

「嘘だ」
 ローゼンティッヒは、ベアトリーチェの頭を軽く叩いた。

「お前はお前のままでいい。でもな。全部を抱え込んで、一人で解決しようとするな。たまにはちゃんといき抜きしろ。俺はお前が本音をぶつけられるくらい、彼がしっかりしてくれる日が来ることを願ってる」
「……『大人』のようなことを、言わないでください」
「残念だが、俺はもうとっくに大人だよ。そしてベアトリーチェ。それはお前も、俺と同じだ」
「……」

「幼い頃、『大人』はもっと強くて、かっこいいものだと思っていた。でもお前のいうように、人は簡単には変われない。大人も弱い。しかし社会はそれを許さない。周りは変化を求めるだろう。俺たちが子供だった時、大人が大人であることを望んだように、お前の周りの子供たちも、みんなお前に『大人の姿』を見るだろう」

 ローゼンティッヒの声は静かに、ベアトリーチェにふりそそぐ。

「忘れるな。お前が、しるべだ。お前が俺を望むなら、俺が戻ってこれるよう、お前が彼らを導いてみせろ」

 ローゼンティッヒはそう言うと、下を向いた幼子の目に浮かぶ、涙をそっと拭った。
 昔はよく泣いていた。大切な人を失っていたときだけでなく、泣き言も吐いていた。自分の力を制御できずに、力を発動させていたりもしていた。

 だから平静を保てるように、言葉遣いを改めるよう指導した。それがやがては、ベアトリーチェの為になるだろうと。
 ローゼンティッヒは、ベアトリーチェのことは大切に思っている。
 小さな子どものようなその姿は、きっも自分だけでなく、守ってやりたいと他人に思わせるには十分だろうと思う。クリスタロスに帰りたいと、思わないわけじゃない。でも今の自分には、他に守りたい人がいるのだ。
 誰に否定されたとしても、貫き通したい決意《おもい》がある。
 ならばまだ、自分はこの国には帰れない。

「期待しているぞ。ベアトリーチェ?」

 ローゼンティッヒはそれだけいうと、契約獣の背に載って、空高く舞上がった。

◇◆◇

「ベアトリーチェ」
「……メイジス」
「外は冷えます」

 契約獣が飛び立ったその場所で、一人とどまり続けていたベアトリーチェに、メイジスはそっと肩掛けを掛けた。

「ありがとうございます」
「――いえ。……ベアトリーチェ」
「はい?」
「貴方だって辛いときは、泣いてもいいんですよ?」

 メイジスの言葉に、ベアトリーチェは溜息を吐くかのように呟いた。

「……子供扱いしないでください」
「子供扱いではありません」
 メイジスは静かに首を振った。

「貴方の、友人としての言葉です」
「……」
「大丈夫。貴方が本当に望むものは、きっと貴方のもとへ返ってくる」

 メイジスの声は、今日も変わらず優しい。
 ただ自分を呼ぶ言葉は、ローゼンティッヒがいた頃よりも、自分と近くなったように彼は思った。
 ローゼンティッヒがこの国を去ってから、変わったもの。人との出会いによって、自分の成長によって、手にすることができたもの。
 それは確かに、ここにある。

「それにほら、昔から異世界では、いい子のところには白いひげに赤い帽子を被った老人が、毎年贈り物を届けてくれるそうですし」
「…………その『いい子』は、子どもだと聞いていますが?」
「あっ」

 ベアトリーチェの鋭い指摘に、メイジスは明らかな動揺を見せた。
 ベアトリーチェはじっと彼の様子を見つめると、沈黙の後にこう呟いた。

「――貴方なんか、嫌いです」
「べ、ベアトリーチェ!」

 ぷいと顔をそむけたベアトリーチェを見て、メイジスは慌てた。
 励ますつもりが傷つけてしまうなんて――動揺するメイジスを軽くあしらって、ベアトリーチェは横目でちらりと彼を見て、彼に隠れて小さく笑った。
「よし。追いかけてきたな」

 幼等部の生徒たちをからかったあと、ギルバートはリヒトを連れて走った。
 雷魔法、水魔法、炎魔法――才能を認められた子どもたちの魔法が、容赦なくリヒトを襲う。
 まともな攻撃魔法を使えないリヒトは、ただただ避けるしかない。しかも魔法を使えるギルバートは楽しそうに笑うばかりで、リヒトを攻撃からかばってはくれなかった。
 
 公爵令息ギルバート・クロサイトは、強化魔法の使い手であるミリアにちょっかいをかけては、よく怪我をしている。
 傍から見れば戦闘の才能がないからと誤解されるだろうが、リヒトが知る限り、幼馴染の三人の兄たちのなかで、一番戦闘の才能があったのはギルバートだった。

 水魔法と光魔法。
 圧倒的ともいえる光属性の適性で未来を予測し、水魔法で相手の攻撃を少しずらす。
 そうすれば少ない力で、攻撃を無力化できる。だがギルバートは昔から、あまりこの戦い方は好まなかった。
 魔法の使いすぎを避けるため、自分は体術を極めるのだと、リヒトはギルバートから話を聞いたことがあった。
 そして魔法を使わずに、強化属性持ちのミリアと渡り合えるほど――ギルバートは彼の祖父から、その才能を受け継いでいる。

 子どもたちは、まるで羽が生えているかのように身軽に動くギルバートを見て、時折目を輝かせていた。

 ――なんだあれ、かっこいい……! 

 だがそう思っても、おちょくられたまま反撃しないわけにはいかない。

「こっちだぞっと!」
「うわっ!」
「ご、ごめん! リヒト」

 リヒトは避けきれず、ギルバートに向けられた水魔法の水を被った。
 びしょ濡れになったリヒトを見て、水魔法を使った少年が謝る。

「ぎ、ギル兄上。なんだか俺だけ被害をうけている気がするんですが」
「気のせいだろ。頑張って避けろ」

 ギルバートは相変わらず飄々としていた。彼の魔法の能力は昔と変わらないものの、特別な光魔法のおかげで、身体能力自体は問題はないようにリヒトには見えた。 
 身軽なギルバートはリヒトとは違い、長く走っても息一つ乱れない。

「流石に……俺は、もう、無理です! ……って、なんで突然止まるんですかっ!」

 手をひかれ走っていたら、突然ギルバートが立ち止まったため、リヒトはその背に顔をぶつけた。 
 赤くなった鼻を擦る。気付けば、水魔法の訓練場まで二人は来ていた。
 
「おいで。ディーネ」  

 学園に設けられた巨大な池を前にしたギルバートは、低い声で呼びかける。 
 その瞬間、ちゃぷん、と水が跳ねる音が聞こえたかと思うと、池の中から巨大な『龍』が出現した。

 レイザールと並べて語られる、光の天龍フィンゴットは、正確に言えば『ドラゴン』と呼ぶべき生き物だ。
 対して、ギルバートがディーネと呼んだそれは、『龍』と呼ぶべき存在のようにリヒトは思った。

 ギルバートはリヒトの手を引くと、龍の背にのった。二人から遅れてやってきた子どもたちは、奇っ怪な蛇のような水の塊を見て声を上げた。

「な、なんだあの化け物!」
「おいおい。俺の可愛いお姫様に向かって、失礼なことをいうなよ。まあいい。――さあ、俺と遊ぼうか」

 ディーネと呼ばれた透明な塊は、リヒトとギルバートをのせたまま体を波打たせた。
 ギルバートと違い、体幹を鍛えていないリヒトは、その反動で倒れ込んだ。
 ぐにゅう……。

「!?」

 その時、手に感じた慣れない感触に、リヒトは目を大きく見開いた。
 『ディーネ』の肌の感触は、リヒトが海で一度だけ触れた『クラゲ』と似ていた。
 その瞬間、ディーネに雷魔法が落ちた。
 しかし、ディーネの体はぷるんと少し揺れただけで、なんの変化もない。
 子どもたちとリヒトが目を白黒させていると、ギルバートは彼らを見てニヤリと笑った。

「残念だったな。彼女の能力は蓄積なんだ。お前たちの攻撃は、全て吸収して無効化される。俺たちに当てなくては意味はないぞ?」
「え……」

 子どもたちの顔がさあっと青くなった。
 なんだその、チートすぎる契約獣。皆の心が一致した。

「さて、ここまで俺たちを追ってきたお前たちをどうしてやろうか……」

 にやりと笑ったギルバートは、まるで悪魔のようだった。
 しかしその悪魔は、子どもたちに手を出すことはなかった。代わりに彼は、あるものを子どもたちに投げ渡した。

「お前たち。俺を狙うならこれを使え。リヒトに当たると危ないからな」

 それは昔、リヒトがギルバートとともに作った魔法道具だった。
 水属性に適性がなくても使える水鉄砲。
 リヒトが最近新しく作った、火災などに使える改良型よりも簡素な造りのそれは、元々、幼馴染たちと遊ぶために二人が過去作ったものである。

「あの、それ……俺たちが作った……?」
「ん? ああ。気付いたか」

 ギルバートは笑って頷き、そしてまた、リヒトには予想できない行動をした。

「リヒト。仲間をもう一人連れてきたぞ」
「!?!?!」
「きゃあああああっ!」

 悲鳴の主はロゼリア・ディラン。
 ギルバートは、あろうことがディーネの尾でロゼリアを捕獲したのだ。
 透明な塊に捕獲された海の皇女の体は、宙に浮かされていた。

「なんだあれ! 大丈夫なのか!?」
「怪物に攫われてるぞ!?」
「ロゼリア様、ロゼリア様!」

 ロゼリアは身分もあって、そばには彼女を守る女性騎士も控えていた。メイドのような格好をした騎士は、謎の生物に捕獲された主人を見上げ声を上げた。
 リヒトは絶句した。
 ――兄上といい、ギル兄上といい、二人ともなんでディランと問題を起こそうとするんだ……!

「兄上! 本当に、一体何を考えて……!」
 
 しかし問題を起こした張本人はまるで悪びれる様子もなく、ディーネの尾からロゼリアを受け取ると、まるで悪役のような高笑いをして言った。

「ははははは! お前たちの仲間は預かった。これから俺は反撃するが、攻撃は彼女の力をもって行う。それ以上濡れたくなかったら、頑張って避けるんだな」

 ギルバートはとても悪い顔をしていた。

「なんだよっ! そんなの、絶対そっちが有利に決まってるじゃん!」
 子どもは当然のごとく反論した。

「リヒトか俺に、三回当てたら負けを認めてやろう。煮るなり焼くなりしていいぞ?」
「だから、なんで俺まで巻き込むんですかっ!?」

 理不尽がすぎる。
 リヒトはツッコんだが、誰もリヒトの話なんて聞いてはいなかった。

 事態が読み込めないロゼリアに、ギルバートは優しい笑みを浮かべると、彼女の小さな手を取った。

「いいか? 俺の攻撃は君の魔法を使う。君も知っているだろうが、光魔法は力の循環を司る。当たっても問題ない程度に、俺が調節してやる。君はただ、魔法を使うために意識を集中させろ。――じゃあ、行くぞ」

 光属性に適性があれば、魔法を使える人間の力の操作を、補助することは可能だ。
 ギルバートはロゼリアの後ろから彼女の手を取ると、ニヤリと笑って魔法を発動させた。

「せーのっ!」
 その瞬間、ロゼリアの魔法が子どもたちを襲った。
 ロゼリアは魚のように、口をパクパクさせた。

「なんだこれ!?」
「あははははは! 次行くぞ次!」

 ギルバートは、今度はロゼリアの手を上に向けて魔法を放った。 
 その瞬間、頭上から樽をひっくり返したような水が、子どもたちに降り注ぐ。

「うわ、濡れた! なんなんだよこの大規模魔法っ! 範囲広すぎるって!」
「悔しかったら早く反撃したらどうだ? それなら、水魔法適性が扱えなくても扱えるぞ」

 ギルバートは子どもたちを煽るように満面の笑みで告げる。

「俺は水魔法使えないしつかえるわけ……って、え!? 本当に使える!!!」

 『これまでの魔法』なら、属性への適性がなければ魔法は使えない。
 しかしリヒトが初めてギルバートと作った魔法道具は、魔力《ちから》さえあれば、その他の属性魔法《ちから》もつかえるというものだった。

 一つの属性さえ使えれば、あらゆる属性魔法が使える魔法道具の研究。
 元々この研究をしていたのは、ギルバートだったとリヒトは記憶している。
 ローズの尊敬する『お兄様』は、大人たちにその才能を語ることはなかったが、同じ時を生きていたなら認めざるを得ないほど――紛れもない『異質さ(てんさい)』だった。

「壮観壮観」
「ギル兄上、全員へばっています……」 

 だがギルバートとリヒトが一緒に魔法道具の研究をしていた頃、魔法陣はまだ未完成だった。
 そのために、別の属性の魔法を使うには一の威力使うために、ニ以上の魔力を必要とする魔法道具がこの世界に生まれた。

「もう……むり……」
 魔法道具の魔力消費に耐えきれず、次々に子どもたちが地面に膝を付ける。
 ギルバートはディーネから降りると、動けずに地面に倒れ込んでいる子どもたちの前でしゃがんだ。

「なんだよこの道具……」
「これは俺とリヒトが、お前たちと同じくらいの頃に作ったものだ」
 ギルバートはふっと笑う。

「お前たちも思うところはあるだろうけど。この子はここで、お前たちと一緒に学ぶ仲間なんだ。喧嘩はしてもいじめはするなよ。な?」
「まさかそれを教えるために……?」
「ああ、そうだ」

 ギルバートは優しい笑みを浮かべた。
 仲裁のための行動と言われては、子どもたちは疲れていたこともあり反抗できなかった。
 その瞬間、ディーネの尾が池をうちつけ、ギルバートの全身を濡らした。

 ――沈黙。
 静寂を破ったのは、ギルバートの笑い声だった。

「はははは! ついに俺もびしょ濡れになってしまったな。仕方ない。この勝負、引き分けということにしよう」
「引き……分け?」
「ああ……お前たちとの戦いで疲れてしまっての失敗だからな」
「……」

 リヒトは、白々しい演技をするギルバートを無言で見つめていた。
 ギルバートは昔から、人を懐柔するのがうまかった。
 頭がよく外見も優れており、年上で、魔法を使うことも上手い。
 子どもたちはいつの間にか、ギルバートを尊敬の眼差しで見つめていた。

「ねえ。名前、なんて言うの?」
「ギルバートだ」
「じゃあギル兄って呼んでいい?」
「ああ。いいぞ」
「ギル兄!」
「ギルにい!」

 ギルバートを呼ぶ子どもたちの声は、次第に大きくなる。
 リヒトは『リヒト』で、ギルバートは『ギル兄』呼び。

 ――なんだこれ……。

 リヒトは幼い頃、自分やローズがギルバートはすごいという話をすると、顔をしかめたことがあることを思い出した。
 幼い頃は気付いていなかったが、ギルバートの中毒性のあるカリスマ性は、傍から見ると少し異常だ。

「ギル兄か……。リヒトは『リヒト』なのにな? ごめんな? リヒト」

 ギルバートはそう言うと、リヒトに向かってニコリと笑った。



 ものはいいようである。
 水鉄砲の魔法道具はその後、『魔力を枯渇させることで蓄積できる魔力量をあげる効果が見込める』ものとして、ギルバートとリヒトの連名で、研究結果が発表されることになった。
 魔法機関は優れた魔法の研究を行う者に、補助金を与えている。ギルバートはその金で、リヒトは研究をすればいいと言った。 
 ギルバート本人はもう、魔法道具には興味はないらしかった。

「でも、こんな不完全なものでいいんですか……?」
「役に立つなら何でもいいだろ。だいたい、この国の王は、あの双子の研究だって認めたんだろ?」
「それは、そうですが……」

 リヒトは、ギルバートの言葉に素直に頷くことができなかった。
 表情を暗くしたリヒトの頭を、ギルバートはわしわし撫でた。

「な、何をするんですかっ! ギル兄上!」
「そんな顔するなよ。まあ本当は、お前の名前だけで出したかったんだがな。……誰が作ったとか、誰が発表したとか、本当はそんなこと、どうでもいいはずなのにな」

 魔法をろくに使えないリヒトだけでは、その価値を示せないから、だから連名にするのだと――ギルバートの言葉に、リヒトは首を傾げた。

「? ギル兄上の研究結果なのですから、当然のことです」
「――いや、あの魔法はお前のものだよ」
「それは、どういう……?」

 リヒトの問いにギルバートが答える前に、子どもたちがギルバートに群がった。

「ギル兄! 来てたの!?」
 水鉄砲の事件の後、ギルバートは幼等部でも、『お兄様』と化していた。

「……お兄様」
「ローズ。元気か?」

 アカリの護衛を離れたローズは、ユーリとともに魔王討伐の発表を終えたこともあり、ウィルの代わりにリヒトを見守ることになった。

「はい。……あの、今日はまだここにいらっしゃるのですか?」
「いや、魔法道具のことがあって、これから大陸の王と会う予定なんだ」

 ローズは兄にまだそばにいてほしかったが、軽く断られて肩を落とした。

「この魔法道具を、君が?」
 ギルバートを呼び出したロイは、第一声そう尋ねた。

「はい。リヒトと共に」
 ギルバートは静かにこたえた。

「リヒトの魔法については、よくご存知でしょう? リヒトの魔法道具の研究には、ほとんどこの魔法式が利用されているはずですので」
 ギルバートは、リヒトの魔法がロイの手の内にあることを知っている。

「まあ今のリヒトなら、これよりも優れたものを完成させているでしょうが」
「何が言いたい?」
「いいえ、何も」
 ギルバートは静かに首を横に振った。

「ただ私は、私の弟分を悲しませるようなことはしないでいただきたいと、そう願っているだけです。海の皇女に、貴方が願うように」
「……」
「ロイ・グラナトゥム様。私から一つ、提案させていただけないでしょうか?」

 ギルバートはそう言うと、口を閉ざしたロイに、提案書を差し出した。

「『ハロウィンパーティー』?」
「はい。ロゼリア様にとっても、学院の他の生徒にとっても、きっといい経験になると思います」

 ギルバートは公爵令息らしい笑みを浮かべた。

「ほう?」

 『ハロウィンパーティー』
 その祭りのことは、ロイも以前『異世界人《まれびと》』の本で読んだことがあった。

「なるほど面白い」
 ロイはギルバートの差し出した計画書をパラパラと読んでから、ふっと笑った。

「いいだろう。――君の提案を受け入れよう」
 少女の世界は昔から、白いカーテンと壁と天井だけだった。
 まるで白いキャバスのような部屋。
 それが本当に白いキャンバスなら、なんでも描くことができるはずなのに、『その場所』から動けない少女には、何を描いていいかわからなかった。

『――明ちゃん』
 窓から日がさしている。
 ああ朝か、と少女が思うと、楽しげな誰かの声が耳に響いた。

『おはよう。朝だよ。明ちゃん』
『起こされなくても、もう起きてます』
『アカリちゃん、今日もいい一日にしようね。というわけで、検温です』
『……』

 はいと手渡されて、渋々受け取る。
 少女は幼い頃から病院で過ごしてきたが、ここまでなれなれしい看護師は初めてだった。

『ねえねえ、聞いて! 明ちゃんに、私の夢を教えてあげる!』
 彼女はよく、少女に話しかけてきた。

『夢?』
 こっちは夢も何もない。
 いつ自分は死ぬのだろうと、そればかり考えているというのに、何を言い出すのかと少女は顔をしかめた。

『私ね、魔法使いになるのが夢なんだ!』
『……いい年した大人が、何を言っているんですか』

 彼女の『夢』があまりに荒唐無稽だったがために、少女は怒りではなく、ため息しか出なかった。

『大人とか、そんなの関係ないんだからっ! いい? 明ちゃん。信じる者は救われるのです』
『……魔法なんて、この世界には存在しません』
『――本当に、そう思う?』
『……』

 改めて聞かれると困る。
 魔法なんてこの世界には存在しないはずだ。だってこの世界は、お伽噺ではないんだから。

 少女は彼女のことが苦手だった。
 だが彼女は少女がどんなに拒絶しても、少女の前に現れては、予想がつかないことをした。

『お誕生日おめでとう! 明ちゃん! 明ちゃんにプレゼントです!』  

 色鉛筆と画用紙、布に針と糸、そして本。
 頼んだわけでもないのに、彼女は少女の誕生日に、沢山のプレゼントを持ってきた。

『……これで私に、何をしろっていうんですか?』
『明ちゃんいっつも暇そうだから、暇つぶしになるかと思って。とりあえずやってみようよ!』
『いいです。別に興味なんてありません』
『えー。せっかく買ってきたのに……! 勿体無いから、私が使ってみよう……』

 彼女はそう言うと、色鉛筆で絵を描き始めた。少女がチラリと絵を見てみると、気持ち悪い物体が紙の上に浮き上がっていた。

『どれだけ不器用なんですか!? うわ。気持ち悪い……』
『気持ち悪いとは失礼な! なら、明ちゃんが描いてみてよ!』
『仕方ないですね……』

 少女はしぶしぶ絵を描いた。
 昔から、記憶するのとは得意だった少女は、絵を描くことは苦ではなかった。

『すごい! すごいよ。明ちゃん天才!』
『別に……普通です』
『ううん。すごい! 明ちゃんは、こんなことができるんだね!』
『私は、凄くなんか……』
『凄いよ。だって、私には出来ない。明ちゃんだからできることだよ。ねえ、明ちゃん。もっと沢山描いてみて。絵だけじゃない。明ちゃんの絵本も読んでみたいな。編み物だって見てみたい。明ちゃんなら、きっとなんだって出来るから』

 自分を否定してばかりだった少女に、彼女はそう言って笑った。

『すごーい!』
『別に、大したものではないです』
『そんなことないよ。だって明ちゃんがいなければ、この本も、この服も、この世界には生まれなかった。これは全部、明ちゃんがいたから、この世界に生まれたものだよ。明ちゃんは、魔法使いみたいだね』

 彼女があまりにも褒めるものだから、少女は沢山絵を描いた。絵本を描いた。その本のキャラクターを、編み物で模して作った。
 裸のままは可愛そうだと服を作れば、彼女はそれを目を輝かせて抱き上げた。

 彼女に出会うまで、少女は自分なんて何も出来ない存在で、誰かを悲しませるばかりで、生まれた意味なんて無いんだと思っていた。
 でも彼女と出会って、初めて少女は自分が、その世界に生きているのだと思えた。

『明ちゃんは、魔法使いみたいだね』
『大丈夫。明ちゃんなら、きっとできるよ』

 口癖のように彼女は言った。
 いつも当たり前のように笑っていた。
 だからこそ、彼女の周りは陽だまりのように温かくて、きっと彼女の人生は、幸せだけに満ちているんだろうと――少女はそう思っていた。

 幸福だから人に優しく出来る。誰かを思うことが出来る。
 そんな優しさ(もの)は偽善だと、そう否定したくても、何度も自分に向けられる笑顔に、いつの間にか心は絆されて。
 少しずつ自分がその人の言葉を、受け入れようとしていることに、少女は気がついた。

 だが一個人を特別視することは、彼女の立場上、あまり褒められたことではなかったらしかった。

『懲りない人ですね』
『しー! 静かにっ! 今日の私は、明ちゃんの友達として会いに来てるんだから……』

 少女に構いすぎた彼女は担当が変わり、彼女は休日に少女のもとを訪れるようになった。

『そういえば、聞いていた時間より遅かったですけど、何かあったんですか?』

 彼女が約束を破ることは珍しかった。少女が尋ねれば、彼女は苦笑いした。

『あはは……。子供が迷子になっててね……。話しかけたら通報されちゃって……。力になりたかっただけなんだけど、なかなか今の時代は、難しいのかなあ……。その音で親御さんは見つかったんだけど……』

 男装が仇となったらしい。少女はそれを聞いて、思わず笑いかけてしまった。

『……おせっかいは程々にしてください。迷惑だと思う人もいるんですから』
 
『そうだ! 今日は良いもの持ってきたんだよ。明ちゃんに、このゲームをあげよう!』
『……人の話を聞いてください』
『私の推しはレオンなんだけど、明ちゃんがクリアしたら、誰が好きだったか教えて!』

 ある日彼女は少女に、とるゲームを差し入れた。
 『Happiness』――幸福を意味するそのゲームには、美しい少年たちが描かれていた。

『レオン?』
『そう! この乙女ゲームの中の、主人公が異世界転移する国の第一王子だよ。ちなみに婚約者持ちです』
『婚約者も持ちって……。なんでそんな人がゲームに……?』
『このゲームには、悪役令嬢が登場するの。うまくやらなかったら、こっちが断罪される側になるから気をつけてね?』
『……断罪?』
『そう。裁かれちゃうから』
『裁かれるってどういうことですか……? あと、悪役令嬢ってなんなんですか?』
『最近の流行り、かなあ?』

 彼女はそう言うと首を傾げた。
 彼女の話をまとめると、悪役令嬢とは自分《プレイヤー》の恋敵ということだった。

 自分には、何も出来ない。誰の力にもなることが出来ない。生まれた意味を見いだせない。
 病のせいで、自分は大切な人を泣かせてしまう。
 自分の存在は、誰かにとって重荷でしかない。そう思っていた少女にとって、『魔法の使えない王子』の話は、なんだか妙に気になった。

『リヒト王子って、なんだか、私に似てる……。私も……誰かの力に、なれるかな?』

 無力な王子が世界を救う。
 それは、そんな物語。

『私も、強く――……』

 そうしてちらちらと、雪が降っていたある日のことだった。
 少女の容態が、彼女の目の前で急変した。

『大丈夫。大丈夫だから……落ち着いてください』

 友人として訪れていたはずの彼女は、まるで『看護師』のように少女に言った。

 ――嘘つき。貴方の言葉は、嘘ばかりだ。

 そんな言葉が、少女の脳裏に過ぎった。
 彼女は嘘をついている。それは、震える手が証明している。
 人間は嘘つく。うわべの言葉だけなら何だっていえる。
 そう思っていた、のに。
 彼女の手を、少女は振り払うことが出来なかった。

 自分のために震える彼女の心が、嘘偽りのない本物だと思えたから。
 だから、少女は生きようと思った。
 もうすぐ自分は死ぬかもしれない。でも、彼女が最後のそばに居てくれるなら。その日までは生きようと――そう、思った。

 ――大丈夫。大丈夫だ。きっと、死ぬのは怖くない。だって私には貴方がいる。貴方がそばにいてくれるなら、私はその瞬間を、迎えることだって怖くない。

 けれど。

『……あの。――さんは』
『退職されました』
『なんで。……なんで私を、置いていったの?』

 ずっとそばにいてくれると思っていた看護師《そのひと》は、ある日何も告げずに少女の前から姿を消した。
 そして再び彼女の名を少女が見つけたのは、お昼のニュースだった。
 夏休みに川遊びをして、溺れかけた子どもを助け、自分だけ亡くなった女性。

『ねえ、この間のニュースって、この間退職した……』
『うん。そうらしいよ。子ども庇って、溺れて亡くなったって』

 生きてさえいれば。
 もしかしたらいつか会える日が来るかもしれないと、心のどこかで思っていた。

 けれど誰かの命を救おうとして、亡くなったその人のことを、世界は否定した。
 水の流れを考えるなら、飛び込むのは間違いだったと。子供の命は救われても、それで自分が死んだのでは意味が無いのだと言って、画面の向こう側を生きる人々は、冷静に彼女が本当にとるべきだった行動を述べた。
 まるで亡くなったヒーローは、無駄に命を失った、道化とでも言うように。

『……魔法なんて、貴方に使えるはずがない。私に、使えるはずがない』

 その言葉を聞きながら、少女はひとり呟いた。
 この世界に奇跡は起きない。だから自分の病が治る未来なんてあり得ない。そう、思って。

『しばらく家に帰って、ゆっくり過ごすのもいいのかもしれません』

 余命いくばくとしれぬ命をどう生きるか。
 問われたとき、少女は家に帰ることを望んだ。自分の意志というよりは、家族がそう願っていると思ったからだ。

『道でたおれたら、流石に迷惑、かな』

 少女は家を抜け出して外に出た。
 どこか遠くに行きたかった。短い時間でもいい。自分が病気だと、もうすぐ死ぬ命だと、それを知らない誰かの前で。
 最期くらい、『普通の女の子』として生きたかった。

『誰かっ。誰か助けて!』

 その時だった。
 少女が炎の中から、幼い子供の声をきいたのは。

 ――助け、なきゃ。

 そう思うと、体が動いていた。
 子どもは恐怖のあまり動けないで居るようだった。少女のポケットには、彼女に送るつもりだった刺繍の入ったハンカチがあった。
 少女は子どもにそれを渡しすと、手を引いて玄関へと急いだ。

 ――絶対にこの命を、失ってはならない。

 だが吸い込んだ煙のせいで発作がおき、息苦しさのあまり少女は床に崩れた。
 上手く息が出来ない。意識が朦朧と仕掛けたとき、子どもが甲高い声で叫んだ。

『お姉ちゃん、危ない!!』

 崩れた天井が、体にのしかかる。

 ――おかしいな。まだ大丈夫だと思っていたのに。いつの間にこんなに、火が広がっていたんだろう? ああ。でも、よかった。ここまで来たら、この子は助かる。

 動けなくなった少女の頭に浮かんだのは、そんな言葉だった。

『お姉ちゃん! お姉ちゃん!』

 でも同時に、もし自分が死んだなら、馬鹿な行いをしたと、きっと人は言うだろうとも少女は思った。
 誰かの命を救っても、自分が死んでしまったら、それでは何の意味も無い。
 望む世界はいつだって、向こう側にある。
 自分が生きていても、何の意味もない。

『お姉ちゃん!!』
『はやく、逃げて』
『でも』
『いいから……行きなさい!』

 少女は子供に向かって怒鳴った。
 泣きそうな顔をしていた子どもは、びくりと震えて走り出す。

『貴方は、生きて。貴方は……』

 自分の命の代わりに助けた子どもの姿が、小さくなる姿を眺めて、少女は微笑んだ。
 あの子は助かるだろう。あの子には未来がある。未来のない自分より、あの子が助かることのほうがずっといい。自分はここで死ぬだろう。仕方ない。これは、自分の選択だ。病気で死ぬはずだった自分が、たった一つだけこの世界に残せたのが、自分にはない未来を持ったあの子で良かった――少女は、心からそう思った。

 ――明が、無事でよかった。
 ――明。もう、大丈夫。大丈夫よ……。

『……お母さん、お父さん』

 炎の勢いが増していく。自分を取り囲む炎を見ながら、両親の顔を思い出して、少女は涙した。
 これまで生きてきて、ずっと抱えていた感情が蘇って、少女は胸が苦しくなった。

 二人は悲しむだろうか。自分の死を、泣いて悲しんでくれるだろうか。それとも――咲くことのない蕾が枯れて、新しい花を咲かせられることを、喜んでくれるだろうか?
 美しい薔薇を咲かせるには、剪定が必要だ。
 自分という蕾を切ることで、いつかもしかしたら二人のもとに、新しい花を咲かせることができるかもしれないなら。

『要らないのは、私』

 望むのは、窓枠の向こう側。
 それは永遠に手に入らなくても、少女は何もできない無力な自分が、少しだけ世界に関わることができたような気がした。

 その時だった。
 少女は先ほどとは違う子どもが、自分の前に立っていることに気がついた。

『……貴方は、誰?』
『――貴方こそ、光の聖女に相応しい』

 子どものような小さな手が、自分に向かって差し伸べられる。子どもは、色とりどりの宝石で作られた首飾りを身につけていた。
 その後のことはもう、少女は意識を失ってしまって覚えていない。

『光の聖女様だ! 召喚は成功だ!』

 少女が目をあけると、窓の向こうに月が見えた。

『俺はリヒト・クリスタロス。君の名前は?』

 ――僕はレオン・クリスタロス。君の名前は?

 それはまるで、昔したことのある『ゲーム』の台詞ような。
 でも本当に『ゲーム』なら、そのセリフはレオンの言葉のはずだった。

『リヒト、様……?』
『私は、ユーリ・セルジェスカ。クリスタロス王国の騎士団長を努めております。この国のために、ともに戦ってください。光の聖女様』

 そこは、二つの月が存在する世界。
 二つの月が重なる夜に、異世界の扉は開かれる。
 少女はその夜、『光の聖女』として、魔王を討伐するために召喚されたのだと聞かされた。
 『召喚』された世界には、ゲームのようなステータスなんて存在しない。
 魔法が存在しない世界で生きてきた少女に、魔法を正しく教えてくれる人間は、誰一人としていなかった。
 それでも聖女としての力を、異世界の人間たちは少女に求めた。

『聖女様は、まだ魔法を使えないらしい』
『召喚は、失敗だったか?』
 
 そんな言葉を、何度も少女は聞いた。
 否定されることには慣れていた。希望なんて、抱くほど悲しくなる。未来を夢見て前を向けば向くほど、世界は自分を否定する。
 この世界も同じだと少女は思った。世界は私を疎外する。人を信じることは馬鹿げている。所詮信じた分だけ、期待した分だけ傷付くだけだ。

『お嬢様! この女を信用してはいけません。彼女がお嬢様のことを、どう呼んでいたかご存知ですか? 彼女は――……お嬢様のことを悪役令嬢などと!』

 この世界は、ゲームの『セカイ』。
 けれどその中でたった一人だけが、少女に『向こう側』から手を差し伸べた。
 だから少女はその言葉を、信じたいと思った。

『私は、貴方を信じます』

 ――明ちゃんなら、きっとできるよ。

 その言葉が、行動が、もうこの世界には居ない誰かと重なる。
 だからこそ、温かな手に触れられて、少女は涙が止まらなかった。

 震える手を覚えている。優しい嘘を知っている。

「夢。これは」

 少女はそっと、自分の手を包んだ。
 ――大丈夫。大丈夫だ。私の手はずっと、震えてなんかいない。

「全部夢、なの……」

◇◆◇

「それでは、作ったお菓子はローズ様に贈っても宜しいのですか?」
「はい。あの、ただ子どもたちに配るものを、先に作っていただけたらと」

 ギルバートの提案により急遽開催されることになった『ハロウィンパーティー』の準備で、学園は騒がしさを増していた。
 ギルバートに菓子の調達を頼まれたローズは、グラナトゥムに来てから自分に菓子を渡そうとしてきた人々に声をかけることにした。
 ローズの頼みとあって、誰もが快諾してくれた。

 ――魔王を倒した『剣神』ローズ・クロサイト様が、『ハロウィンパーティー』のためにお菓子を集めているらしい――

 この噂はまたたく間に広まり、それに伴い『ハロウィンパーティー』のために仮装用の衣装や、魔法での演出が出来る人間が必要という話も広がり、学院中はわずか数日で、お祭りモード一色になった。
 
「異世界の文化を楽しめるように場を設けようとご提案なさるなんて、流石ローズ様ですわ!」
「その通りですわ!」
「あの、ですからこの提案はお兄様が……」
 
 ロイに提案をしたのは、ローズではなく兄のギルバートである。
 ローズは訂正しようとしたが、誰も彼もローズを褒め称えるばかりで、訂正はかなわなかった。

 ――駄目だ。誰も私の話を聞いていない。

 誰もが自分をもてはやす。そんな光景に、ローズは少し引いていた。
 彼らの中には、『自分ではない自分』がすでに存在しているような気がして、ローズは強く否定ができず口を噤んだ。

「ローズ。準備は進んでいるか?」
「お兄様!」

 ローズが溜め息を吐いていると、大好きなその人に名前を呼ばれ、ローズは目を輝かせた。
 ギルバートは珍しく眼鏡をかけていた。

「お兄様、どうして眼鏡を?」
「リヒトから借りたんだ」

 ギルバートは眼鏡をおしあげて答えた。
 以前リヒトが、自分にいるかと聞いてきたことをローズは思い出した。
 特殊な性能があるものなのだろうと思いつつ、ローズはめったに見れない兄の眼鏡姿を凝視していた。

「あんまり見るな」
「も、申し訳ございません」

 額につんと指を押し当てられ、ローズは慌てて頭を下げる。おずおずと顔を上げると、ローズは兄に尋ねた。

「そういえば、お兄様。このはろうぃん、というお祭りは、実際どんなお祭りなのですか?」
「何も知らずに協力していたのか?」
「お兄様が考えられたことですし。それにお菓子の調達となりますと、早めに頼んだ方がいいかと思いましたので」

 兄が提案し、ロイが許可を出した。
 ならば悪いことではないだろうとローズは考え、とりあえず兄に任された仕事を効率よくこなすために、人に頼もうと思い動くことにしたのだ。
 自分に絶対的な信頼を寄せる妹の返答に、ギルバートは苦笑いした。

「ありがとうな」

 ギルバートはそう言うと、ローズに微笑んだ。
『ハロウィン』
 『異世界人《まれびと》』の記録によると、それは死者の霊が帰ってくる時期にやってくる、おばけや魔女を追い払うための祭りだと伝えられている。
 そしてこの祭りでは、一つの合言葉が用いられる。
 
『Trick or Treat』

 「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ(いたずらとお菓子どっちがいい?)」という意味のこの言葉を口にして、子どもたちは仮装をして、『ジャック・オー・ランタン』と呼ばれるかぼちゃの明かりの灯されている家の扉を叩いてお菓子を集めて回る。

 お菓子を集めたあとの楽しみは、どれだけ多くのお菓子を集めたか競い合うこと。
 そしてそのあとは、みんなでごちそうを食べてパーティーをする。
 かぼちゃのケーキ、かぼちゃの種のお菓子。好きな果物にチョコレートをフォンデュしてどんちゃん騒ぎ。
 それが、この世界に伝わる『ハロウィン』だ。



「ローズ。服はもう決めたか?」
「いいえ。まだ……お兄様はもう決められたのですか?」

 パーティー当日。
 ローズは兄に尋ねられ、静かに首を振った。
 今回のハロウィンでは、服は全て学校側が用意することになっていた。
 ベアトリーチェの服に使われていた新素材。伸縮性のある服を用意することで、誰もが着れる服を用意して、仮装のかぶりを減らそうという取り組みだ。
 もともとグラナトゥムで開発された素材ということもあり、学院には各国から生徒が集まっているため、宣伝も兼ねているらしかった。

「今回の仮装は全員分くじで決めることになったから、お前たちも早く引きに行けよ」
「衣装は選べないんですか?」

 リヒトの問いに、ギルバートはにやっと笑った。

「ああ。くじなら平等だろう? 早く行かないと余り物になるぞ。ここはもういいから、お前たちも行ってこい」
「それでは、私たちもはやく引きにいきましょうか。リヒト様」
「……ああ」
 ローズに急かされ、リヒトは頷いた。



「『剣神』様! 『剣神』様がいらしたわ!」
 衣装担当の生徒たちは、ローズを見るなり声を上げた。
 背中に黒い小さな羽と白い羽をつけた少女たちは、二つの箱を抱えていた。

「この二つにはどんな違いが?」
「入っている衣装の系統が違うんです。白の箱には『かわいい』服、黒の箱には『かっこいい』服が入っています」
「黒の箱には吸血鬼や狼男。白の箱には妖精や幽霊、『使い魔』枠で白色コウモリなどが入っておりますの」

 ローズがどちらを引くか悩んでいると、黒い箱を持った女生徒が、目を輝かせてローズに箱を突き出した。

「是非黒い箱を! 吸血鬼だったら素敵です! ローズ様になら、血を吸われたいと思う者もいるでしょう。きっとお似合いになります!」
「何仰ってますの! 剣神様の可愛らしいお姿を見たい者も多いはずですわ! 是非こちらの白い箱を!」

 黒い箱を持った少女に続き、白い箱を持った少女がローズに箱を差し出した。

「ええと……」
「何も分かっていらっしゃらないんですね。ローズ様の魅力を引き出せるのは黒い箱に決まっています」
「貴方こそ、白い軍服を纏うローズ様の神々しさを拝見されたことがないのですわね。ローズ様は白がお似合いになりますの! それに、ローズ様は女性ですわ。可愛らしい服をお召しになっている姿を見たい方だって、きっと多いはずですわ!」
「それは貴方が見たいという話でしょう? 男性に邪な視線を向けられては、ローズ様がお可哀想だとは思われないのですか? 黒ならばその心配がありません!」
「……」
「「どちらをひかれますの(ひくんですか)!?」」

 ――圧がすごい。
 ローズは詰め寄られてたじろいだ。

「あ、あの……っ!」
 面倒だからどちらも選びたくないとローズが思った、まさにその時。
 ローズの前に、もう一つの箱が差し出された。

「せっかくのお祭りなのに……ふたりとも。喧嘩、しないでください。せっかく、みんなで準備したのに……」

 小さなおかっぱ頭の少女の手には、灰色の箱が抱えられていた。
 白と黒とが選べないなら。

「では、私はこちらを引かせていただきます」
 ローズはそう言うと、灰色の箱に手をいれた。



 歩くたび、ちりん、という鈴の音が鳴る。
 長く伸びた黒い尾は揺れ、道行く人の誰もが彼女を振り返る。
 眼を瞬かせて驚く者、小さくこちらを指さす者、頬を染める者。彼らの反応を見ながら、ローズは心の中で溜め息を吐いた。

 ――やっぱり、この衣装は私は似合っていないのではないでしょうか……?

 黒でもない白でもない箱。
 その中から出てきたのは、普段ほローズなら、絶対に選ばない服だった。

 ――丈が短い気がしますし、なんだかスースーします。私はあまりこのような服は着たことがありませんが、もしかしてグラナトゥムでは、こういう服が流行っているのでしょうか……?

 ローズは昔から流行に疎い。というより、関心がなかった。
 いつもは周りが用意した服か、最近は軍服しか着ていなかった彼女にとって、仮装衣装は随分刺激的なものに思えた。
 だが、用意されたものを着ないわけにはいかない。ローズは根が真面目なのだった。

「あ! おねーちゃん来たよ! リヒト様!」
「こっちだよ! おねーちゃん!」

 ジュテファーと入れ替わりでリヒトの護衛になってから、幼等部の生徒たちにローズを受け入れられた。
 ギルバートの妹ということもあり、ローズは『お姉ちゃん』と呼ばれている。
 ただ、少女たちには囲まれても、少年たちはあまりローズに近寄ろうとはしなかった。

 人々の視線を浴びながらパーティー会場まで向かっていたローズは、子どもたちが手を振る姿を見て道を急いだ。
 子どもたちの声でローズに気付いたリヒトは、振り返ってから叫んだ。

「ローズ。着替えてきたか……って。何だよその格好!?」

 『にゃーん』
 ローズの服は、普段の彼女なら絶対に着るはずのない黒猫の衣装だった。
 かっこいい黒とと可愛い使い魔枠を足した結果、魔女の『使い魔』である黒猫が採用されたらしい。

 大きく開いた胸元。丈の短いドレスには、何故か動くしっぽがついていた。首元には、金色の小さな鈴付きの黒いレースのあしらわれたチョーカー。
 高さのある黒いヒールは、ローズが女性の中では身長が高い方ということもあって、リヒトはローズに見下ろされる形になっていた。

「……やっぱり変でしょうか?」
「そんなことないよ! お姉ちゃん可愛いよ!」
 少女たちはローズを励まそうとしたものの、リヒトの反応に、ローズの声の調子が下がる。

「リヒト様のせいでお姉ちゃん落ち込んじゃった……」
「大丈夫だよ。お姉ちゃん。可愛いよ。すごく似合ってる!」
「ね? リヒト様もそう思うよね?」

 団結した少女たちに同意を求められ、リヒトは慌てた。ローズはじっとリヒトを見つめた。

「へ、変じゃない……。似合ってる。けど、でも、でも……!!」
 リヒトはローズを一度直視してから下を向くと、声にならない言葉を発して、自分のマントを脱いでローズに渡した。

「え?」
「さ、寒いだろう? これを着ておけ」
 リヒトの耳は、真っ赤に染まっていた。

「……ありがとうございます」
「よかったね! お姉ちゃん!」
「マントがあるとかっこよくてもっと素敵!」

 リヒトの仮装は吸血鬼だった。
 内側が赤い大きな黒マントを渡され、ローズは少し悩んでからマントを羽織った。
 足下まである黒マントは、黒猫の服と違って温かい。
 ――けれど。

「リヒトの衣装、マントがないと吸血鬼っぽくないな」
「確かに……吸血鬼というより、どちらかというと執事のようですね」
「……」

 フィズとローズに酷評され、リヒトは沈黙した。
 ドラキュラの最大構成要素、黒マント説。
 リヒトは吸血鬼から執事に格下げになり、吸血黒猫が爆誕した。



「光ってる!」
 日が落ちると、学院には光る看板が現れた。

「これは、『夜光塗料』ですね」
 光る文字を目を輝かせて見つめる子どもたちに、ローズは冷静に説明した。

「とある蝶の鱗粉が、光るという性質を活かして作られたものです」
「知っていたのか?」
「お兄様からお話を聞いていたので。暗い道で迷子にならないように、案内を設置すると」

 リヒトの問いにローズは淡々と答えた。
 矢印通りに進めば、中庭へと出たが、そこには光る看板はおろか、灯火一つなかった。

「ここで、場所はあっていると思うのですが……」
 
 その時だった。

「――ようこそ! ハロウィンパーティーへ!」

 広場に集められた生徒たちは、闇の中に響いた『王』の力強い声に、一斉に顔を上げた。
 空から、マントを羽織った男が落ちてくる。
 男は地面に着地する少し前、風魔法を使うと、静かに着地してマントを脱ぎ捨てた。

 狼男の仮装をしたロイは、赤頭巾の格好をしたシャルルを抱きかかえていた。
 ロイの言葉と同時に、オレンジ色の温かな明かりが次々灯る。
 カボチャの形をした灯りの他に、白い浮遊物体が出現し、一部の生徒からは悲鳴が上がった。

「お、おばけぇ……っ!」
 確かに一見、まるで『幽霊』だった。しかしそれにしては――……。

「これ、魔法だな」
 ローズが眼を細めていると、魔法の残滓を可視化できる眼鏡を掛けたリヒトが、ローズよりもはやく上空を見上げていった。

「そうなのですか?」
「ああ。風魔法で誰かが操っているみたいだ。うっすら光っているのは、さっきの塗料のせいらしい」
 よくよく見てみると、白い浮遊物体は薄い紙で出来ているようだった。
 
「――静かに。種明かしは無粋だぞ」

 冷静に分析していると、ロイの窘める声が響いて、リヒトは口を手で覆った。その様子を見て、ロイは頷いた。

「今日はみなに楽しんで貰いたいからな。配慮して貰えると嬉しい」
 ロイがそう言うと、シャルルは小さなカボチャ型の明かりを掲げた。

「今回のハロウィンパーティーでは、学院に飾ってるこの飾りを探してもらう。中には菓子か、鍵が入っている」

 シャルルは、カボチャの中から飴と鍵をとりだした。

「学年ごとに、手にすることが出来る鍵の色は決まっている。幼等部は緑、中等部は赤、高等部は金色だ。この鍵を五つそろえると、とある場所への扉が開かれる。そこでは、より多くの菓子を手に入れることが出来る。……また、今回のハロウィンでは特別に、ある特典を設けることにした。ハロウィンパーティーが終わるまでの間、この学院に最も相応しい行いをしたと判断された者には、俺が何でも一つ、願いごとを叶えてやろう」

 『大陸の王』から願いごとを叶えてもらえる――ロイの言葉に、わっと声が上がる。
 リヒトは、シャルルを抱えたまま生徒たちを見下ろして、王らしく笑うロイを見上げ、独り言を呟くようにローズに訊ねた。

「……なあ、ローズ。『ハロウィン』ってこんな祭りだったか?」
「より多くの生徒が楽しめるよう、仮装してお菓子を集めるという趣旨は残し、魔法学校ということも考慮して企画がねられたそうです」

 ――それはもう、ハロウィンではないのでは?

 リヒトは突っ込みたかったが、雰囲気を壊すのは無粋かと思って口を噤んだ。
 ジュテファーの代わり、リヒトには二人の護衛がついている。
 アルフレッドとローズは、幼等部のメンバーとして参加が許された。
 今回特例として、『自分が命令できる相手』や『護衛』を使うことも許したためだ。

 利用できるものは利用する。
 そして、ロイに『学院に最も相応しいと判断された者』になるために――……各国から集められた王侯貴族の一番多い高等部は、ギラギラと目を光らせていた。
 そんな中。

「優勝するぞ!」
「お――っ!」

 幼等部の子どもたちは円陣を組み、やる気十分だった。