揺れるカーテンの向こうから、子どもの楽しげな笑い声が聞こえる。
白い病室のベッドに横たわる少女の机の上には、絵本や刺繍、そして本があった。
少女にそれを渡した女性は、相変わらず明るい笑みを浮かべ、幼い小さな手を取って笑う。
『明ちゃんは、こんなにもすごい才能を持っているんだね』
その言葉を聞いて、子どもは拳を握りしめた。
その瞳、その言葉。
彼女の言葉には、今日も『嘘』は感じられない。
それはいつも憐憫の目を向けられて、嘘ばかりだった彼女の世界にとって、初めて射し込んだ日の光のようだった。
『別に……こんなこと、たいしたことではありません』
子どもが顔を背けて言えば、彼女は声を上げて笑った。
『明ちゃんはツンデレだなあ』
『……う、五月蠅いです!』
穏やかに流れる時間。
しかしある時、急に胸に痛みが走り、少女は前屈みに倒れこんだ。
『明ちゃん、明ちゃん……!』
急に苦しみだした少女のために、彼女から笑顔が消える。
『大丈夫。大丈夫だから――……』
彼女は少女の手を取ると、祈るように彼女の手を自分の額に当てた。
大丈夫。大丈夫……。
そう口にしながらも、彼女の手は微かに震えていた。
朦朧とするとする意識の中、少女は彼女に手を伸ばしてその名を呼んだ。
「――さん」
しかしのばした手は宙を掴んで、アカリは一人静かに起き上がった。
そっと胸に手を当てる。
夢の痛みも苦しみも、もう存在しないはずなのに、何故か少し、胸が痛い。
「……もう、朝……」
鳥の鳴き声とともに、カーテンの隙間から、彩度の落ちた光が射し込んでいた。
アカリは眠るローズを見て静かにベッドから降りると、カーテンを少し開いて、一人小さく息を吸い込んだ。
「今日は……今日こそは、ちゃんと成功させないと」
◇◆◇
――眠れなかった。
眠気覚ましに柑橘ジュースを飲んでから、ユーリは待ち合わせ場所へと向かった。
昨夜図書館でリヒトを目撃してからと言うもの、ユーリは何故かずっと落ち着かなかった。
だが自分が焦っているのは、時間が無いというのに、未だにアカリが魔法が成功しないせいだということも、ユーリは理解していた。
そもそもアカリが『光の聖女』としての魔法を成功させたのは、実は数えるほどしかない。
そう考えると、まだ不安定な力を大勢の前で披露させるということ自体、アカリにとって酷だったのではと、今更ながらユーリは思った。
――あのレオン様でさえ、10年の月日を取り戻すのに必死になられているというのに、『光の聖女』に選ばれたに過ぎない異世界から招かれただの少女に、自分たちは期待しすぎていたんじゃないだろうか。
「おはようございます。ユーリ」
「ふわっ!!」
考え事をしていると背後から声をかけられて、ユーリは思わすビクリと体を震わせて頓狂な声をあげた。
「ユーリ、なんて声を上げているんですか。何か考え事でも?」
ユーリは妙な声をローズに聞かれたことを恥じ、少しだけ頬を染め、口元を右手で押さえた。そして、落ち着けと心の中で繰り返す。
「おはようございます。申し訳ございません。はい、少し考え事をしていました。アカリ様はどちらに?」
「アカリはまだ少し時間がかかるそうです。先に行っていてほしいとのことでしたので、ウィル・ゲートシュタインに護衛を頼みました」
「ゲートシュタインに?」
彼はリヒト様の護衛ではなかったか?
ユーリはそう思い首を傾げた。
「彼は光魔法に適性があるので、アカリが私に先に行くように頼むことを予知していたようです」
「なるほど、彼が話しているところを私はあまり見たことがないのですが、アカリ様と同じ光魔法の適性者ですし、案外あっているのかもしれません」
「……そうですね」
ユーリの言葉に、ローズの顔が曇る。
ユーリは首を傾げた。
自分は何か、彼女の心証を損ねるようなことを言ってしまったのだろうか?
よくよくユーリがローズの顔を見てみると、彼女の目元は少し朱を帯びていた。
「……あの。ローズ様、大丈夫ですか? 少し瞳が赤いようですが……」
ローズの目が泣いたあとのようにも見えて、ユーリはおそるおそる尋ねた。
けれど、当のローズは特に気にしていないようだった。
「ああ、これはですね」
ローズはそう言うと、指輪に触れて紙の束を取り出した。
相変わらず理屈は不明だが、鍵である指輪は収納が可能である。
「これは?」
「アカリに魔法を教えるのに、使えるかもしれないと思って」
「これは……子ども用の教材ですか?」
「ユーリがそう思うのも、仕方が無いかもしれません。実は、アカリの勉強の役に立てばいいと思って用意したのです。アカリの世界には、魔法は存在しないそうですから。そんな世界を生きてきた彼女に、最初から高度な魔法を望むことこそが、そもそも私たちの間違いだったのかもしれない」
ローズはそう言うと、手製の教材を広げて見せた。
よく見ると、そこには今この世界にはまだ記録の少ない、精霊の愛し子としての力の使い方についての記載もあった。
「私なりに資料をまとめてみたのですが――ただやはり私は、どうも人に教えるのは向いていないようです」
「え?」
「愛し子としての力は、元々私には未知数です。ただ基本的に、私は、人が分らないことが分らない。そんなことが、昔から多くて」
「それはローズ様は昔から才能がおありで、一度で成功されていたのですから仕方ありませんよ。勉学も剣術も魔法も、ローズ様が学院に入学されたら、並べる者などいなかったことでしょう」
ユーリの言葉に、ローズは苦笑いした。
ローズはこれまで確かに努力をしてきたが、きっと他の人間は、同じだけの努力をしても、自分と同じようにはならないだろうとも思っていた。
『まるで生まれながらに、全てを備えて生まれてきたようだ』
『長い時間をかけて習得するべきものを、こんなに早く会得するなんて。まるで教わる前に、全てを知っていたかのようだ』
ローズは不思議と、習ったことは何でも出来た。
しかしただ、『出来る』だけでは意味がない。
速度や精密さ。
組み合わせにより威力を増幅させること。
騎士に求められる戦力としての『強さ』を磨くために、ローズは時間を費やした。
それこそ血の滲む努力を重ねた。
けれど人は本来、ローズが努力を始める前の段階で躓くのだということを、ローズはいろんな人に言われた。
精度を高めることと、失敗を成功に変えるための努力は違う。
ローズには――後者はきっと、わからない。
「私……本当は少し、怖いんです」
「怖い?」
「私は昔、失敗しているから」
「――アカリには、確かに魔法の素質がある。もし力を安定させることができれば、光魔法においては、『光の聖女』であるアカリを超えることのできる人間はこの世界にはいないでしょう。魔王の力さえはねのけた。あの力は、私でも持ち得なかった。あの指輪に刻まれていた古代魔法は、もうこの世界には存在しない魔法だと聞いています。だとすれば私は、彼女の本来の資質には、かなわないのかもしれない。……アカリには、才能がある。そして『魔法は心から生まれる』。だとしたら、別の方法で――アカリの魔法を安定させてあげることが、私たちには必要なのかもしれない。でもそれには、きっとまだ時間がかかる」
「時間?」
「そう。時間、です。アカリが安定して魔法を使うには、おそらくまだ時間がかかる。……でも」
ローズは静かに目を伏せた。
「ユーリをこれ以上、この国にとどめておくことも出来ません。だから、でしょうか? 不甲斐ない話ですが、最近は私自身、少し焦ってしまっているのです。頑張ろうとするアカリを否定することも出来ず、かと言って、それを改善する策も提示出来ない。今のこの時間は、アカリにとって今こうやって私たちと過ごすことは、辛いだけなのかもしれない。ならば私は、彼女には頼らないほうがいいのかもしれないと思うのです。そして、こうもおもうのです。そう思ってしまう私がアカリのそばにいればいるほど、私という存在は、アカリの負担になってしまうのだろうと」
「そんな……」
――そんなことはない。
ユーリはそう口にしようとして、言葉を飲み込んだ。
「ローズ様は、いつだって彼女を思っていらっしゃる。それは彼女だって、理解しているはずです。ですからどうかそんなふうに、ご自分を責めるのはおやめくだださい」
「違うんです」
ローズは静かに首を振った。
「私は……結局は自分のためなのかもしれません。アカリのために道を定めることが、私のすべきことなのかもしれないとは思うのに、そうした時に嫌われるんじゃないかと思うと、怖くて何も言えなくなってしまうのです」
「ローズ、様……」
◇
二人と合流したアカリは、ローズが思っていたよりもずっと、顔色が良かった。
「ローズさん」
「護衛、ありがとうございました。ゲートシュタイン。アカリ、体調は大丈夫ですか?」
「はい! 元気いっぱいです! 今日こそ、絶対に成功させてみせます!」
『ローズさんの期待は裏切りません』
ローズには、アカリがそう思っているようにも感じられた。
「無理はしないように――あと、これを」
「もしかしてこれ、ローズさんが作ってくださったんですか?」
アカリは、受け取った教材を見て目を瞬かせた。
「はい。光魔法は、力の循環を司る。光魔法と水魔法はその性質から、魔法の使用難易度が、最も高い魔法とされています。人体の多くを構成する水と、命を司るとする光は、物体として体外に存在する風や地、火といったものと比べ、感覚・知識ともに、より一層把握・理解することが必要となるからです。私は『加護』のような光属性の防御魔法をよく使うわけではないので、完全には参考にならないかもしれないのですが……」
光属性の防御魔法は結界外の情報を受け取ることが出来るが、闇魔法では結界内の情報は一切遮断される。
ローズはどちらも使えるが、後者を使うことのほうが多いのだ。
「嬉しいです。ありがとうございます。ローズさん!」
そんなやり取りを行ってから、今日の訓練は始まった。
アカリは大きく息を吸い込むと、目を閉じて祈るように手を合わせた。
魔法が個人の魔力に依存する力といえど、外界に影響を及ぼすには、体外の情報を「取り込む」必要がある。
「世界」の情報を書き換える。
しかし純粋な魔力のみで、「世界」に影響を与えられる者は多くない。
魔力の増幅など、書き換えるための特別な「魔法文字」は、今はほとんどの人間が見ることの出来ない、精霊の文字を使用しているとも言われている。
精霊文字は、精霊の数だけ存在するともいわれており、過去、人々が精霊を見ることが出来た時代――精霊が友好関係にあった自らの言語を、人に教えたという逸話もあり、世界中の国の言語には、その名残が見受けられる。
『古代魔法』
おとぎ話の魔法とも呼ばれる。
古い魔法書に記されるその魔法は、現在一般的に使用されているものとは異なる精霊言語により書かれたものであるとされる。
だからこそ古代魔法の復元の研究を行う際、リヒトは世界中の言語について学んだが、『赤い本』と呼ばれる古代魔法の魔法書は、近年魔法の存在だけが記され、詳しい内容は意図的に消された可能性が高いということが発見された。
だからこそリヒトの『紙の鳥』を始めととする古代魔法は、存在こそ本に書かれたものであるが、彼自身が新しく作り出した魔法と言っても過言ではない。
リヒトはアカリのために、光魔法による防御魔法についても、新しい魔法を作り上げていた。
しかしローズは、それをアカリに教えることは出来なかった。
『紙の鳥』のような生活で使える魔法ならまだしも、戦闘に用いられるような、攻撃から身を守るための魔法に万が一不具合があれば、アカリが大怪我を負いかねない。
リヒトの気遣いとはいえ、安全の保証されていない魔法を、ローズはアカリに教える勇気が出なかった。
ローズは祈るような思いでアカリを見つめていた。
心臓から血管を通し、指先へと魔力を送る。
半透明の膜がアカリを覆ったのを確認し、ローズは闇魔法を発動させた。
温かな光は、アカリを守るように包んでいた。
――成功だ。
「で、出来ました。ローズさん!」
アカリは魔法の成功を喜んだ。
「よくできました」
ローズは優しくアカリに微笑んだ。
「一度ちゃんとできたことなのですから、きっとまた出来ると思っていました」
けれどローズのその言葉を聞いて、アカリは顔を強ばらせた。
沈黙の後、ぎこちなくアカリは笑う。
「…………そう、ですよね」
アカリはぎゅっと拳に力を込めて、もう一度手を合わせた。
「大丈夫。……私は、出来る」
「では、もう一度」
ローズは指輪に触れて魔法を発動させた。
先ほどよりも魔力を込めて――けれどそれは、ローズが戦った魔王のものに比べたら明らかに劣るものだ。
「――……っ!」
アカリは息をのんだ。
闇の魔法は、死を思わせる冷たさを孕んでいた。
それは彼女が、元の世界で何度も感じたことのある恐れ。
アカリは胸元に手を当てた。
魔法を使わなくてはならない。先ほどと同じように、失敗しないように――……。
けれど呼吸《いき》が――呼吸《いき》が出来ない。
「アカリ!!!!」
魔法を発動できず、その場に崩れ落ちたアカリに、ローズは駆け寄った。
◇
「ローズ嬢! 彼女が倒れたというのは本当か!?」
慌ただしく声を上げて、学院の医務室に入ってきたのはロイだった。
倒れてすぐ、医務室に運ばれたアカリの手を、ローズはずっと握ったままでいた。
ロイの入室にローズが立ち上がろうとすると、彼は左手でそれを制した。
「君はそのまま、回復魔法を続けてくれ」
ロイに促され、ローズはこくりと頷く。
目を瞑ったまま、アカリはまだ目を覚まさない。
「……よかった」
過呼吸のような症状をおこしていたが、今のアカリは正常に呼吸が出来ている。
ロイは、アカリの無事を確認してほっと息を吐いた。
そうして一拍の後、ロイはローズとユーリの二人に厳しい目を向けた。
「ローズ嬢、ユーリ殿。彼女の看病についてはこちらで人員を送る。君たちは発表を優先してくれ。君のような立場の人間を、長くこの国に留めるつもりは、俺は元からないからな」
「――はい」
ロイの言葉は最もだった。ローズは静かに頷いた。
「俺は彼女が、もっと自身の力を使えるものだと思っていた。浄化を成し遂げ、愛し子としての力を使える。そう聞いていたからだ。――まさか彼女が、ここまで実技が不得手だとは思っていなかった」
ロイの声は冷たかった。
「しかし君ならば、それはわかっていたはずだ」
「……」
「期待も、責任も。今の彼女にとって、この時間は重圧にしかならない」
「では止めるべきだったと、そう仰るのですか?」
「そうだ。その通りだ。今の彼女にできることをやらせるべきだった。しかしそうするには、今はあまりに時間が過ぎすぎた。今の彼女にとって、君は魔法を使う重荷にしかならない」
ロイはベッドの上の少女を見て顔を顰めた。
『光の聖女』。
ロイはいつも、アカリをそう呼んでいた。
異世界から召喚され、世界を救った少女に、感謝と敬意と、未来への祝福の意味を込めて。
けれどそれが、アカリにとって重荷になっていたなんて、ロイは知らなかった。
ローズや側にいた人間たちは、アカリに対してそうは接していなかったから。
リヒトと同じ、魔法を使えない人間のようには。
「そんなこと。それに、ローズ様は……っ!」
――貴方に言われなくても、ちゃんと理解していらっしゃる。
反論しようとしたユーリの言葉を、ローズは静かに遮った。
「いいんです。その通りですから」
「自覚はあるんだな」
「言い訳は致しません」
ローズは感情のない声で頷いた。
「……私は」
ローズは眠るアカリの手に、自身の手を重ねた。その手は、少しだけ震えている。
「貴方に、期待しすぎていたのでしょうか……?」
「――ローズ嬢」
その様子を観察していたロイは、ちらりとアカリの方を見て、彼女の名を呼んだ。
「……彼女はもう大丈夫だ。君たち二人は準備を進めてほしい。光の聖女の護衛は、リヒト王子の護衛のうちの一人をつけてくれ」
「――かしこまりました。風と光の属性に適性を持つ彼ならば、今のアカリには最も相応しいでしょう」
ローズはそう言うと、魔法陣が薄っすらと書かれた紙に、サラサラと文字を書いた。
すると、紙はひとりでに形を変えて、鳥の形となった。
白い紙の鳥は、ローズの言葉を待つようにパタパタと羽を動かす。
「行きなさい。――ウィル・ゲートシュタインの元へ」
ローズの声を聞いて、鳥は空へと羽ばたいた。
◇
同刻。
魔法学院に設けられたとある掲示板の前には、人だかりが出来ていた。
「何やら騒がしいね。少し見てきてくれるかい?」
「かしこまりました」
ジュテファーは頭を下げ、レオンの元から離れた。
その後ろ姿を確認して、レオンは人の少なそうな場所を探そうと歩き出した。
――人が多い場所は、話しかけられすぎて面倒だ。
王侯貴族の入学者は、護衛をつけるよう義務づけられては居るが、純粋な強さだけなら、ジュテファーとならレオンが勝つ。
安全なはずの学院内で、レオンはジュテファーの存在を少し面倒だと感じていた。
レオンが一人歩いていると、曲がり角で、彼は走ってきた誰かとぶつかった。
しかし、相手からの謝罪はない。
「君、ぶつかってきたならちゃんと――……」
レオンは注意をしようとして、やめた。
小さな少女は、目に涙を浮かべていたからだ。
――泣いていた。あれは確か……。
「『海の皇女』……?」
レオンがロゼリアとぶつかっていた頃。
図書館帰りで本を抱えていたリヒトも、同じく掲示板の前で足を止めた。
「これ、なんの集まりなんだ?」
背伸びをして、書かれていた内容を覗き見る。
掲示板には、一枚の張り紙がされているようだった。
それは簡潔に、とある少女の学年を示していた。
「ロゼリア・ディラン――幼等部?」
白い病室のベッドに横たわる少女の机の上には、絵本や刺繍、そして本があった。
少女にそれを渡した女性は、相変わらず明るい笑みを浮かべ、幼い小さな手を取って笑う。
『明ちゃんは、こんなにもすごい才能を持っているんだね』
その言葉を聞いて、子どもは拳を握りしめた。
その瞳、その言葉。
彼女の言葉には、今日も『嘘』は感じられない。
それはいつも憐憫の目を向けられて、嘘ばかりだった彼女の世界にとって、初めて射し込んだ日の光のようだった。
『別に……こんなこと、たいしたことではありません』
子どもが顔を背けて言えば、彼女は声を上げて笑った。
『明ちゃんはツンデレだなあ』
『……う、五月蠅いです!』
穏やかに流れる時間。
しかしある時、急に胸に痛みが走り、少女は前屈みに倒れこんだ。
『明ちゃん、明ちゃん……!』
急に苦しみだした少女のために、彼女から笑顔が消える。
『大丈夫。大丈夫だから――……』
彼女は少女の手を取ると、祈るように彼女の手を自分の額に当てた。
大丈夫。大丈夫……。
そう口にしながらも、彼女の手は微かに震えていた。
朦朧とするとする意識の中、少女は彼女に手を伸ばしてその名を呼んだ。
「――さん」
しかしのばした手は宙を掴んで、アカリは一人静かに起き上がった。
そっと胸に手を当てる。
夢の痛みも苦しみも、もう存在しないはずなのに、何故か少し、胸が痛い。
「……もう、朝……」
鳥の鳴き声とともに、カーテンの隙間から、彩度の落ちた光が射し込んでいた。
アカリは眠るローズを見て静かにベッドから降りると、カーテンを少し開いて、一人小さく息を吸い込んだ。
「今日は……今日こそは、ちゃんと成功させないと」
◇◆◇
――眠れなかった。
眠気覚ましに柑橘ジュースを飲んでから、ユーリは待ち合わせ場所へと向かった。
昨夜図書館でリヒトを目撃してからと言うもの、ユーリは何故かずっと落ち着かなかった。
だが自分が焦っているのは、時間が無いというのに、未だにアカリが魔法が成功しないせいだということも、ユーリは理解していた。
そもそもアカリが『光の聖女』としての魔法を成功させたのは、実は数えるほどしかない。
そう考えると、まだ不安定な力を大勢の前で披露させるということ自体、アカリにとって酷だったのではと、今更ながらユーリは思った。
――あのレオン様でさえ、10年の月日を取り戻すのに必死になられているというのに、『光の聖女』に選ばれたに過ぎない異世界から招かれただの少女に、自分たちは期待しすぎていたんじゃないだろうか。
「おはようございます。ユーリ」
「ふわっ!!」
考え事をしていると背後から声をかけられて、ユーリは思わすビクリと体を震わせて頓狂な声をあげた。
「ユーリ、なんて声を上げているんですか。何か考え事でも?」
ユーリは妙な声をローズに聞かれたことを恥じ、少しだけ頬を染め、口元を右手で押さえた。そして、落ち着けと心の中で繰り返す。
「おはようございます。申し訳ございません。はい、少し考え事をしていました。アカリ様はどちらに?」
「アカリはまだ少し時間がかかるそうです。先に行っていてほしいとのことでしたので、ウィル・ゲートシュタインに護衛を頼みました」
「ゲートシュタインに?」
彼はリヒト様の護衛ではなかったか?
ユーリはそう思い首を傾げた。
「彼は光魔法に適性があるので、アカリが私に先に行くように頼むことを予知していたようです」
「なるほど、彼が話しているところを私はあまり見たことがないのですが、アカリ様と同じ光魔法の適性者ですし、案外あっているのかもしれません」
「……そうですね」
ユーリの言葉に、ローズの顔が曇る。
ユーリは首を傾げた。
自分は何か、彼女の心証を損ねるようなことを言ってしまったのだろうか?
よくよくユーリがローズの顔を見てみると、彼女の目元は少し朱を帯びていた。
「……あの。ローズ様、大丈夫ですか? 少し瞳が赤いようですが……」
ローズの目が泣いたあとのようにも見えて、ユーリはおそるおそる尋ねた。
けれど、当のローズは特に気にしていないようだった。
「ああ、これはですね」
ローズはそう言うと、指輪に触れて紙の束を取り出した。
相変わらず理屈は不明だが、鍵である指輪は収納が可能である。
「これは?」
「アカリに魔法を教えるのに、使えるかもしれないと思って」
「これは……子ども用の教材ですか?」
「ユーリがそう思うのも、仕方が無いかもしれません。実は、アカリの勉強の役に立てばいいと思って用意したのです。アカリの世界には、魔法は存在しないそうですから。そんな世界を生きてきた彼女に、最初から高度な魔法を望むことこそが、そもそも私たちの間違いだったのかもしれない」
ローズはそう言うと、手製の教材を広げて見せた。
よく見ると、そこには今この世界にはまだ記録の少ない、精霊の愛し子としての力の使い方についての記載もあった。
「私なりに資料をまとめてみたのですが――ただやはり私は、どうも人に教えるのは向いていないようです」
「え?」
「愛し子としての力は、元々私には未知数です。ただ基本的に、私は、人が分らないことが分らない。そんなことが、昔から多くて」
「それはローズ様は昔から才能がおありで、一度で成功されていたのですから仕方ありませんよ。勉学も剣術も魔法も、ローズ様が学院に入学されたら、並べる者などいなかったことでしょう」
ユーリの言葉に、ローズは苦笑いした。
ローズはこれまで確かに努力をしてきたが、きっと他の人間は、同じだけの努力をしても、自分と同じようにはならないだろうとも思っていた。
『まるで生まれながらに、全てを備えて生まれてきたようだ』
『長い時間をかけて習得するべきものを、こんなに早く会得するなんて。まるで教わる前に、全てを知っていたかのようだ』
ローズは不思議と、習ったことは何でも出来た。
しかしただ、『出来る』だけでは意味がない。
速度や精密さ。
組み合わせにより威力を増幅させること。
騎士に求められる戦力としての『強さ』を磨くために、ローズは時間を費やした。
それこそ血の滲む努力を重ねた。
けれど人は本来、ローズが努力を始める前の段階で躓くのだということを、ローズはいろんな人に言われた。
精度を高めることと、失敗を成功に変えるための努力は違う。
ローズには――後者はきっと、わからない。
「私……本当は少し、怖いんです」
「怖い?」
「私は昔、失敗しているから」
「――アカリには、確かに魔法の素質がある。もし力を安定させることができれば、光魔法においては、『光の聖女』であるアカリを超えることのできる人間はこの世界にはいないでしょう。魔王の力さえはねのけた。あの力は、私でも持ち得なかった。あの指輪に刻まれていた古代魔法は、もうこの世界には存在しない魔法だと聞いています。だとすれば私は、彼女の本来の資質には、かなわないのかもしれない。……アカリには、才能がある。そして『魔法は心から生まれる』。だとしたら、別の方法で――アカリの魔法を安定させてあげることが、私たちには必要なのかもしれない。でもそれには、きっとまだ時間がかかる」
「時間?」
「そう。時間、です。アカリが安定して魔法を使うには、おそらくまだ時間がかかる。……でも」
ローズは静かに目を伏せた。
「ユーリをこれ以上、この国にとどめておくことも出来ません。だから、でしょうか? 不甲斐ない話ですが、最近は私自身、少し焦ってしまっているのです。頑張ろうとするアカリを否定することも出来ず、かと言って、それを改善する策も提示出来ない。今のこの時間は、アカリにとって今こうやって私たちと過ごすことは、辛いだけなのかもしれない。ならば私は、彼女には頼らないほうがいいのかもしれないと思うのです。そして、こうもおもうのです。そう思ってしまう私がアカリのそばにいればいるほど、私という存在は、アカリの負担になってしまうのだろうと」
「そんな……」
――そんなことはない。
ユーリはそう口にしようとして、言葉を飲み込んだ。
「ローズ様は、いつだって彼女を思っていらっしゃる。それは彼女だって、理解しているはずです。ですからどうかそんなふうに、ご自分を責めるのはおやめくだださい」
「違うんです」
ローズは静かに首を振った。
「私は……結局は自分のためなのかもしれません。アカリのために道を定めることが、私のすべきことなのかもしれないとは思うのに、そうした時に嫌われるんじゃないかと思うと、怖くて何も言えなくなってしまうのです」
「ローズ、様……」
◇
二人と合流したアカリは、ローズが思っていたよりもずっと、顔色が良かった。
「ローズさん」
「護衛、ありがとうございました。ゲートシュタイン。アカリ、体調は大丈夫ですか?」
「はい! 元気いっぱいです! 今日こそ、絶対に成功させてみせます!」
『ローズさんの期待は裏切りません』
ローズには、アカリがそう思っているようにも感じられた。
「無理はしないように――あと、これを」
「もしかしてこれ、ローズさんが作ってくださったんですか?」
アカリは、受け取った教材を見て目を瞬かせた。
「はい。光魔法は、力の循環を司る。光魔法と水魔法はその性質から、魔法の使用難易度が、最も高い魔法とされています。人体の多くを構成する水と、命を司るとする光は、物体として体外に存在する風や地、火といったものと比べ、感覚・知識ともに、より一層把握・理解することが必要となるからです。私は『加護』のような光属性の防御魔法をよく使うわけではないので、完全には参考にならないかもしれないのですが……」
光属性の防御魔法は結界外の情報を受け取ることが出来るが、闇魔法では結界内の情報は一切遮断される。
ローズはどちらも使えるが、後者を使うことのほうが多いのだ。
「嬉しいです。ありがとうございます。ローズさん!」
そんなやり取りを行ってから、今日の訓練は始まった。
アカリは大きく息を吸い込むと、目を閉じて祈るように手を合わせた。
魔法が個人の魔力に依存する力といえど、外界に影響を及ぼすには、体外の情報を「取り込む」必要がある。
「世界」の情報を書き換える。
しかし純粋な魔力のみで、「世界」に影響を与えられる者は多くない。
魔力の増幅など、書き換えるための特別な「魔法文字」は、今はほとんどの人間が見ることの出来ない、精霊の文字を使用しているとも言われている。
精霊文字は、精霊の数だけ存在するともいわれており、過去、人々が精霊を見ることが出来た時代――精霊が友好関係にあった自らの言語を、人に教えたという逸話もあり、世界中の国の言語には、その名残が見受けられる。
『古代魔法』
おとぎ話の魔法とも呼ばれる。
古い魔法書に記されるその魔法は、現在一般的に使用されているものとは異なる精霊言語により書かれたものであるとされる。
だからこそ古代魔法の復元の研究を行う際、リヒトは世界中の言語について学んだが、『赤い本』と呼ばれる古代魔法の魔法書は、近年魔法の存在だけが記され、詳しい内容は意図的に消された可能性が高いということが発見された。
だからこそリヒトの『紙の鳥』を始めととする古代魔法は、存在こそ本に書かれたものであるが、彼自身が新しく作り出した魔法と言っても過言ではない。
リヒトはアカリのために、光魔法による防御魔法についても、新しい魔法を作り上げていた。
しかしローズは、それをアカリに教えることは出来なかった。
『紙の鳥』のような生活で使える魔法ならまだしも、戦闘に用いられるような、攻撃から身を守るための魔法に万が一不具合があれば、アカリが大怪我を負いかねない。
リヒトの気遣いとはいえ、安全の保証されていない魔法を、ローズはアカリに教える勇気が出なかった。
ローズは祈るような思いでアカリを見つめていた。
心臓から血管を通し、指先へと魔力を送る。
半透明の膜がアカリを覆ったのを確認し、ローズは闇魔法を発動させた。
温かな光は、アカリを守るように包んでいた。
――成功だ。
「で、出来ました。ローズさん!」
アカリは魔法の成功を喜んだ。
「よくできました」
ローズは優しくアカリに微笑んだ。
「一度ちゃんとできたことなのですから、きっとまた出来ると思っていました」
けれどローズのその言葉を聞いて、アカリは顔を強ばらせた。
沈黙の後、ぎこちなくアカリは笑う。
「…………そう、ですよね」
アカリはぎゅっと拳に力を込めて、もう一度手を合わせた。
「大丈夫。……私は、出来る」
「では、もう一度」
ローズは指輪に触れて魔法を発動させた。
先ほどよりも魔力を込めて――けれどそれは、ローズが戦った魔王のものに比べたら明らかに劣るものだ。
「――……っ!」
アカリは息をのんだ。
闇の魔法は、死を思わせる冷たさを孕んでいた。
それは彼女が、元の世界で何度も感じたことのある恐れ。
アカリは胸元に手を当てた。
魔法を使わなくてはならない。先ほどと同じように、失敗しないように――……。
けれど呼吸《いき》が――呼吸《いき》が出来ない。
「アカリ!!!!」
魔法を発動できず、その場に崩れ落ちたアカリに、ローズは駆け寄った。
◇
「ローズ嬢! 彼女が倒れたというのは本当か!?」
慌ただしく声を上げて、学院の医務室に入ってきたのはロイだった。
倒れてすぐ、医務室に運ばれたアカリの手を、ローズはずっと握ったままでいた。
ロイの入室にローズが立ち上がろうとすると、彼は左手でそれを制した。
「君はそのまま、回復魔法を続けてくれ」
ロイに促され、ローズはこくりと頷く。
目を瞑ったまま、アカリはまだ目を覚まさない。
「……よかった」
過呼吸のような症状をおこしていたが、今のアカリは正常に呼吸が出来ている。
ロイは、アカリの無事を確認してほっと息を吐いた。
そうして一拍の後、ロイはローズとユーリの二人に厳しい目を向けた。
「ローズ嬢、ユーリ殿。彼女の看病についてはこちらで人員を送る。君たちは発表を優先してくれ。君のような立場の人間を、長くこの国に留めるつもりは、俺は元からないからな」
「――はい」
ロイの言葉は最もだった。ローズは静かに頷いた。
「俺は彼女が、もっと自身の力を使えるものだと思っていた。浄化を成し遂げ、愛し子としての力を使える。そう聞いていたからだ。――まさか彼女が、ここまで実技が不得手だとは思っていなかった」
ロイの声は冷たかった。
「しかし君ならば、それはわかっていたはずだ」
「……」
「期待も、責任も。今の彼女にとって、この時間は重圧にしかならない」
「では止めるべきだったと、そう仰るのですか?」
「そうだ。その通りだ。今の彼女にできることをやらせるべきだった。しかしそうするには、今はあまりに時間が過ぎすぎた。今の彼女にとって、君は魔法を使う重荷にしかならない」
ロイはベッドの上の少女を見て顔を顰めた。
『光の聖女』。
ロイはいつも、アカリをそう呼んでいた。
異世界から召喚され、世界を救った少女に、感謝と敬意と、未来への祝福の意味を込めて。
けれどそれが、アカリにとって重荷になっていたなんて、ロイは知らなかった。
ローズや側にいた人間たちは、アカリに対してそうは接していなかったから。
リヒトと同じ、魔法を使えない人間のようには。
「そんなこと。それに、ローズ様は……っ!」
――貴方に言われなくても、ちゃんと理解していらっしゃる。
反論しようとしたユーリの言葉を、ローズは静かに遮った。
「いいんです。その通りですから」
「自覚はあるんだな」
「言い訳は致しません」
ローズは感情のない声で頷いた。
「……私は」
ローズは眠るアカリの手に、自身の手を重ねた。その手は、少しだけ震えている。
「貴方に、期待しすぎていたのでしょうか……?」
「――ローズ嬢」
その様子を観察していたロイは、ちらりとアカリの方を見て、彼女の名を呼んだ。
「……彼女はもう大丈夫だ。君たち二人は準備を進めてほしい。光の聖女の護衛は、リヒト王子の護衛のうちの一人をつけてくれ」
「――かしこまりました。風と光の属性に適性を持つ彼ならば、今のアカリには最も相応しいでしょう」
ローズはそう言うと、魔法陣が薄っすらと書かれた紙に、サラサラと文字を書いた。
すると、紙はひとりでに形を変えて、鳥の形となった。
白い紙の鳥は、ローズの言葉を待つようにパタパタと羽を動かす。
「行きなさい。――ウィル・ゲートシュタインの元へ」
ローズの声を聞いて、鳥は空へと羽ばたいた。
◇
同刻。
魔法学院に設けられたとある掲示板の前には、人だかりが出来ていた。
「何やら騒がしいね。少し見てきてくれるかい?」
「かしこまりました」
ジュテファーは頭を下げ、レオンの元から離れた。
その後ろ姿を確認して、レオンは人の少なそうな場所を探そうと歩き出した。
――人が多い場所は、話しかけられすぎて面倒だ。
王侯貴族の入学者は、護衛をつけるよう義務づけられては居るが、純粋な強さだけなら、ジュテファーとならレオンが勝つ。
安全なはずの学院内で、レオンはジュテファーの存在を少し面倒だと感じていた。
レオンが一人歩いていると、曲がり角で、彼は走ってきた誰かとぶつかった。
しかし、相手からの謝罪はない。
「君、ぶつかってきたならちゃんと――……」
レオンは注意をしようとして、やめた。
小さな少女は、目に涙を浮かべていたからだ。
――泣いていた。あれは確か……。
「『海の皇女』……?」
レオンがロゼリアとぶつかっていた頃。
図書館帰りで本を抱えていたリヒトも、同じく掲示板の前で足を止めた。
「これ、なんの集まりなんだ?」
背伸びをして、書かれていた内容を覗き見る。
掲示板には、一枚の張り紙がされているようだった。
それは簡潔に、とある少女の学年を示していた。
「ロゼリア・ディラン――幼等部?」