この日、拍子抜けの状態で仕事を終えた美玲。
 帰宅後、誠一と通話していた。
 美玲はこの日の出勤後に起こった一連の出来事を話していた。
『へえ、そんなことがあったんだ』
 スマートフォン越しの誠一の声も意外そうである。
「うん。本当にびっくり。冬田がクビになってたなんて。でもこれでパワハラとか嫌がらせを受けずに済む。壊れたパソコンの件も冬田の責任になってたし」
 美玲の声は晴れやかであった。そして改めてこの日あったことを思い出す。

◇◇◇◇

 時は遡り、美玲の職場にて。
 冬田の懲戒解雇が伝えられ、美玲は少し戸惑いつつも快適に仕事ができるようになっていた。
 故障したパソコンの始末書についても、美玲の責任ではなくなっていたので、その件について総務部から連絡がきていた。

「あの、岸本さん……」
 美玲が休憩に行こうとした時、同期である祥子に呼び止められた。
「その……今まで見て見ぬ振りしてて本当にごめんなさい」
 心底申し訳なさそうな表情の祥子。
 美玲が冬田からパワハラや嫌がらせを受けていた時、気まずそうに見て見ぬ振りをしていたのである。
 しかし、美玲はもうそんなことなどどうでもよかった。
「小島さん、私、もう気にしてないから。それに、小島さんが曽我部部長や労基に駆け込んでくれたからさ」
 美玲は穏やかな表情である。
「岸本さん……」
 祥子は少し涙ぐんでいた。
 そして同じ部署のメンバーからも見て見ぬ振りをしていたことに対して謝罪があった。
 これからはできることなら何でも協力してくれるとのことだ。
 美玲は謝罪を受け取ることにした。

「でも、よく労基がすんなり動いたね」
 昼休み、美玲は祥子と一緒に昼食を取っていた。
「それが、労基の人、元々ここで働いてたみたいで」
 祥子の話を聞き、美玲は目を丸くした。
「意外だね」
「うん。何でも、労基のその担当者、冬田係長からパワハラとか嫌がらせを受けたせいで辞めたみたいなの」
「うわ……」
 美玲は盛大に表情を歪ませた。
「その人、自分のような思いをする人を減らすために、公務員試験を受けて労基に転職したみたいなんだよ」
 弁当のおかずを飲み込んだ祥子がそう口にする。
「……労基の人、よっぽど悔しかったんだろうなあ。だからきっとめちゃくちゃ頑張って労基に入ったんだね」
 美玲はしみじみと頷いていた。
「多分そうだと思う」
 祥子もうんうんと頷く。

 労働基準監督署の強制調査が入ったことで、冬田が過去に(おこな)っていた美玲以外へのパワハラや嫌がらせの証拠が次々と出てきたのである。
 擁護できないレベルだったので、冬田は即懲戒解雇となった。

 そして更に会社にとっては割と大きな事件が起こっていた。
 冬田が懲戒解雇になった翌日、何と冬田は祥子の退勤時間まで会社前で待ち伏せし、祥子が出てきたところで殴りかかろうとしたのだ。
 祥子が労働基準監督署に通報したせいで懲戒解雇になった冬田は祥子に対して恨みを抱いていたそうだ。
 しかし、その場にいた男性社員に取り押さえられたので、祥子に怪我などの被害はなかった。
 当然祥子は警察に通報し、冬田は暴行容疑の現行犯で逮捕されたのである。
 その事件はネットニュースになり、冬田は容疑者として本名を全国に公開されてしまったのだ。

 美玲は一連のことを祥子から聞き、証拠への心配、驚き、戸惑い、そして冬田への侮蔑が入り混じった感情になっていた。
 その時、別の部署の男性社員の会話が聞こえてきた。
「聞いたか? 冬田の奴、懲戒解雇になった上逮捕されたらしいぞ。俺、あいつと同期だったけど、本当に嫌な奴だったからざまあみろって感じだ」
「確かにそうですよね。僕も冬田係長は好きじゃないです。それにあの人、いい歳してまだ実家暮らしですよ」
「おう、知ってる。実家に金を入れたり、自分のことを自分でやっているのなら別に実家暮らしでも問題はないが、冬田はヤバいぞ。実家にお金入れない上、料理とか洗濯とか自分の世話は全部母親任せ。母親が体調悪くても自分の世話を母親にやらせるんだぞ。おまけに残業で遅くなった時は母親に会社まで車で迎えにきてもらってたぞ」
「ええ! タクシー使えばいいのに。障害とかやむを得ない事情を除いて、自分の世話を自分でできない人って人間として終わってますね」
 冬田への悪口が炸裂していた。

「やっぱり冬田係長、相当嫌われてたんだね」
 祥子が苦笑した。
「小島さんは本当に怪我とか被害はないんだね?」
 美玲は若干心配そうである。
「うん。全然平気。ありがとう、岸本さん」
 祥子は柔らかな笑みを浮かべていた。
(それにしても、こんな結末になるんだったら私も最初から労基に駆け込んどけばよかったな……)
 今になって美玲はそう思えたが、当時は追い詰められてその選択を思いつかなかったのだ。
(人生を終わらせようとしたら、私じゃなくてクソ冬田の人生が終わってたなんて)
 美玲はクスッと笑うのであった。

◇◇◇◇

「それでさ、一応転職エージェントには登録したけど、冬田がいなくなってくれたからさ、とりあえず今の職場でまた頑張ろうかなって思って」
 美玲はお菓子を食べながら、誠一にそう話す。
『そっか。まあよかったな』
 スマートフォン越しに、誠一がフッと笑ったのが分かる。
「うん。でも今はもう何が起こるか分かんないからさ、転職も視野に入れて動いてみる」
 美玲は前を見据えていた。
『そうだな。それがいいと思う』
「それとさ、中川くんと通話する少し前に大学、大学院時代の同期から連絡がきたんだ。元彼の浮気野郎のことで」
 美玲は元彼の郁人のその後について、大学、大学院時代の同期から連絡がきていたのだ。

 郁人は浮気相手の女から借金の保証人にされていた。おまけに浮気相手の女に逃げられ、借金の取り立てにあっていたのだ。
 おまけにその借金取りはヤクザであった。
 そこで美玲からお金をせびろうとしたらしいが、美玲はその時フランスを満喫している最中で連絡が取れなかった。
 そこで美玲が住むマンションに入ろうとしたところ、不法侵入で通報されて逮捕された。
 その後釈放されたのだが、借金取りのヤクザに捕まりかなり危険な場所で働かされているらしい。
 しかも浮気相手の女の借金は相当な額だったので、数年は働かされ続けるだろうとのこと。

『うわ……ヤバいなそれ。岸本さんには何も被害はないよな? 何かあったら俺を呼べよ』
 スマートフォン越しの誠一の声は心配そうであった。
「うん。ありがとう、中川くん」
 美玲はホッとしたように微笑んだ。
 美玲の憂いはこれで完全に消えたのである。