現人神の花嫁〜離縁からはじまる運命の恋物語〜

 もともと孤児(みなしご)だった睡蓮は、五歳のとき花柳家に養子(ようし)として迎え入れられた。子宝に恵まれなかった両親によって。
 花柳家に来た頃、両親は睡蓮を実の子のように可愛がった。
 しかし、睡蓮が花柳家の娘になってまもなく、両親の間に子供ができた。それが、妹の杏子(あんず)だった。
 杏子が生まれると、それまで睡蓮に向いていた両親の愛と関心はあっさりと妹に向いた。
 杏子が生まれてから、睡蓮は〝お姉ちゃん〟と呼ばれるようになった。
 だれも睡蓮のことを、名前で呼ばなくなった。
 そのうち睡蓮にあやかしを感じ得る特殊な力があることが発覚し、家族はさらに睡蓮を敬遠した。
 家で飛び交うのは、母親である〝杏果(きょうか)〟から一字とってつけられた〝杏子〟という名前だけ。
 睡蓮は花柳家で、部外者になった。
 ――私は用済みなの? 私はもう、いらない子?
 妹だけを可愛がる両親を見るたび、睡蓮はいつも心の中でそう問いかけた。
 直近で家族が笑顔を向けてくれたのは、睡蓮が現人神の花嫁に選ばれたときだ。だが、中身が契約結婚であることを正直に打ち明けると、やはりあっさり興味を失くした。
 そのため睡蓮は身ひとつで嫁ぐこととなった。見送りも、お祝いもなかった。
 龍桜院との婚姻期間中、睡蓮には楪が用意した屋敷が与えられた。
 その間、睡蓮は離れて暮らす夫、楪に毎月手紙を送り続けた。
 本人から手紙の返事が来たことはなかったが、代わりに彼の側近を名乗る桃李(とうり)という人物から楪の近況報告の手紙が返ってきた。
 中には楪の普段の仕事の様子や、彼の好物などが書かれていた。
 差出人である桃李からの配慮だった。顔も知らない相手と結婚した睡蓮を哀れに思っていたのだろう。少しでも楪を理解できるよう、手紙にはかなり細かく、丁寧に楪の性格がしたためられていた。
 おかげで睡蓮は楪を愛することができた。
 顔も知らない相手だったが、桃李の送ってくる手紙の中に楪の血や肉が、体温がちゃんと書かれていたから。
 いつか、顔を見せてくれる日が来ることを信じて、睡蓮は龍桜院の屋敷で生きていた。
 しかし婚姻から三年が経った頃、睡蓮は楪に離縁を申し込んだ。
 突然の離縁の話だったが、楪はすんなり睡蓮との婚姻関係を解消した。
 睡蓮はそれが、ちょっとだけ寂しかった。じぶんから言い出したこととはいえ、もう少し渋ってくれるかと思ったのだ。
 しかし、そんなことはなかった。楪は睡蓮を、完全に契約相手としかみていなかったらしい。
 お前の代わりはいくらでもいる。
 そう突き付けられた気分だった。
 睡蓮は、ここでも結局必要とされなかった。
 それから睡蓮は、楪と顔を合わせることのないまま、実家へ戻ることとなった。
 実家へ戻る日、唯一桃李が見送りに来てくれた。
 ずっと手紙でやり取りはしていたものの、桃李と会うのはこのときが初めてだった。
 桃李は鬼のあやかしだ。垂れた目尻が印象的な好青年だった。
 鬼といえばあやかしの中でも特に高貴なあやかしだが、桃李の場合はにこにことして、さらに人の姿に変化していたからか、親しみやすさがあった。
 睡蓮が丁寧な手紙を今までありがとう、と礼を言うと、桃李は困ったように微笑み、お力になれず申し訳ない、と言った。
 その言葉に、どれだけ睡蓮が救われたことか。
 睡蓮は最後、龍桜院家を出るときに桃李にひとつ頼みごとをした。
 それは、手紙のことだった。
 実家に帰ったら、睡蓮はまたひとりになる。憂鬱な日々が待っている。そんな日々を乗り切るために、この手紙を心の支えにしたいと。
 この三年、睡蓮は毎日桃李の手紙の中にある楪の姿を想像し、恋をした。顔も知らない相手だったけれど、どうしようもなく焦がれた。
 孤独な生活を送っていた睡蓮にとって、手紙はなによりの心の支えだったのだ。
 睡蓮の思いを聞いた桃李は、もちろん、と言ってくれた。
 そうして、睡蓮は楪によろしくと桃李へ告げ、龍桜院家を離れた。

 実家に戻ってきた睡蓮に与えられたのは、敷地の隅にある離れだった。
 離れには台所もトイレも風呂もあるため、生活は不自由なくできる。
 もともと離れは部屋がいくつかあるだけで、生活できるような場所ではなかったのだが、戻ってくる睡蓮のため、新たに台所や風呂場、トイレが備えつけられた。
 但しそれは、愛情などではない。
 睡蓮の生活を離れだけで完結させるためだ。
 出戻りの娘がいることは名家にとって恥以外のなにものでもない。周りに知られるわけにはいかないから、母屋にはできるかぎり顔を出すな、という両親の本音が透けて見えていた。
 母屋のほうからは、いつだって楽しそうな団欒(だんらん)の声が漏れ聞こえてくる。けれどそれは、睡蓮には関係のないことだった。
 桔梗がやってきたのは、睡蓮が実家に戻って一ヶ月ほど経った頃だったか。
 ある朝、突然仮面で素顔を隠した謎の青年が、睡蓮のもとにやってきた。青年は睡蓮に、この離れでどうかじぶんを雇ってほしいと頼み込んできた。
 最初、睡蓮は断った。
 しかし、どうしてもと言われ、睡蓮は断りきれずに桔梗を使用人として雇い入れたのだった。
 仮にも睡蓮は元龍桜院家の人間だ。この地に住む者を邪険にすることはできないという思いも心のどこかにあったのかもしれない。
 でも今は、やはり桔梗を迎え入れるべきではなかったと、睡蓮は思っていた。
 だって――。
「――睡蓮さま、次はなにをしましょう?」
 ふと至近距離で桔梗と目が合い、睡蓮はハッと我に返った。視界いっぱいに桔梗の仮面が広がって、さらにふわりと優しい香りがして、睡蓮は慌てて桔梗から離れる。
「……あ、すみません。ええと、今日はもう大丈夫ですから、あとはゆっくりしててください。あ、お茶にしましょうか。今いれますね」
「あ、それなら俺が……」
 素早く立ち上がろうとする桔梗を、睡蓮は大丈夫、と、やんわりと手で制止し、足早に台所へ向かった。
 やかんに湯を入れ、火を付ける。棚にあった茶葉が入った瓶を取り出し、急須に入れる。
 流し台に寄りかかり、お湯が湧くのを待っていると、台所に桔梗が入ってきた。
「待っているのも暇なので、やっぱりお手伝いします」
 桔梗は睡蓮に問われる前に控えめにそう言って、微笑んだ。
「お茶菓子出しますね」
「……ありがとうございます」
 どこまでも働き者な使用人に、睡蓮は小さく苦笑する。
 引き出しを開けながら、ふと桔梗が睡蓮に訊ねた。
「……あの、睡蓮さま」
「はい?」
「睡蓮さまは、あの龍桜院家のご当主さまとご結婚されていたと聞きましたが」
「……まぁ」
 一瞬、睡蓮の目が泳ぐ。しかし、桔梗は棚の奥へ目を向けたままだったので、睡蓮の動揺には気付かなかった。
「……そうですけど」
「噂だと、龍桜院のご当主さまは大変気難しいかただと伺いました。睡蓮さまはどうしてそんなかたとご結婚されたのですか?」
「それは……」
 まっすぐに訊ねられ、睡蓮は返す言葉につまり、黙り込む。
「……だって、現人神さまの花嫁なんて、女の子の憧れじゃない。断るほうがどうかしてますよ」
 誤魔化すように笑って言う。桔梗は饅頭の入った箱を手に振り返った。
「では、なぜそこまで想うかたなのに離縁されたのですか?」
「それは……」
 しまった、と睡蓮は思った。墓穴を掘った。
 なんと返すのが正解なのだろう。分からないが、本当のことを言うことはできない。ぜったいに。
 今度こそ言葉につまった睡蓮を、桔梗は探るような眼差しを向けた。睡蓮は目を伏せ、桔梗からの視線を拒むように遮断する。
 すると、さすがに桔梗のほうから引いてくれた。
「……すみません。出過ぎたことを聞いてしまって」
 桔梗は一度謝ってから、控えめに続けた。
「失礼ながら、実家でこのような扱いを受けているのは、龍桜院との婚姻を破棄したからではないかと」
 睡蓮はゆっくりと目を開けた。
 桔梗の言葉に、睡蓮は困ったように微笑む。
「それは違います。この生活は私にとってはふつうなんですよ。……いいえ、むしろ以前よりずっといいかもしれません」
 睡蓮がそう言うと、桔梗の目にかすかに戸惑いの色が滲む。
「以前よりいい……? これが、ですか」
「はい。実は私、もともと花柳家の子どもじゃないんです」
「ですが、あなたはこの花柳家のご長女で……」
「養子なんです。十五年前、子供に恵まれなかった両親が、孤児だった私を家族に迎え入れてくれたんです。でも、そのあとすぐに妹ができて……うちはそこそこ有名な家でしたから、今さら私を捨てることは体裁が悪かったんだと思います。だから、表向きは長女として育てられました」
 あくまで、表向きとしてだけだ。
 睡蓮は、人前ではいつもじぶんを偽って生きてきた。
 名家の長女として、しっかり者で幸せな娘のふりをした。
 ふりといっても、特別演技というわけでもなかったと思う。日頃から虐げられているわけではなかったし、手を上げられたこともない。食事を抜きにされるわけでも、無視されるわけでもない。
 ただ、家族みんな、睡蓮に無関心なだけ。
 睡蓮から話しかけなければ、会話が生まれることはない。学校での様子を聞かれることも、試験の成績を確認されることも、いじめに遭っていないかと心配されることもない。
 花柳家で睡蓮は、透明人間になる。ただ、それだけのことだ。
「血が繋がっていないのだから、私が愛されないのは仕方のないことです。龍桜院に嫁ぐことができたのも、花柳家を継ぐのは妹と決められていたからでしたし。むしろ、運が良かったのですよ」
 龍桜院家の花嫁は、東の土地に住む人間ならだれもが憧れる立ち位置だ。しかし、豪商である花柳家の子供には、本来家を継ぐという責務がある。しかし、花柳家には男子がいない。
 本来なら長女である睡蓮が家を継ぐべきではあるが、血の繋がりを重要視する両親は、妹の杏子が継ぐべきだと考えていた。
 だから、睡蓮が龍桜院の花嫁に選ばれたことは両親にとってこれ以上ない話だった。
 なぜなら厄介だった養子を土地の最高権力者の花嫁にできるのだ。おかげで花柳家は神の加護を正当に受けることができるし、厄介者も排除できる。
「……すみません、俺、なにも知らないで勝手なことを……」
 睡蓮の話を聞いた桔梗は言葉が見つからないのか、それきり黙り込んでしまった。
「……あの、あんまり気にしないでください。離れでの生活は、案外快適で私気に入ってますし。私こそ、今まで黙っていてすみませんでした」
「…………」
 それでも、桔梗は黙り込んでいた。
 お湯が沸いた。
 睡蓮が動き出そうとすると、桔梗はそれを手で静かに制し、火を止めた。保温用の陶器へお湯を移しながら、桔梗はぽつりと言った。
「……知らないということは、罪ですね」
「え?」
 聞き取れず、睡蓮が思わず聞き返すと、桔梗はやかんをそっと置いて、睡蓮に向き直った。
「……睡蓮さま。今から少しお時間ありますか?」
「え? えぇ、ありますけど……」
「では、今から町へ行きませんか?」
 突然の誘いに、睡蓮はきょとんとした顔をする。
「町? えと、でもお茶が……」
 せっかくいれたのに冷めてしまうのでは、と言おうとする前に、桔梗が睡蓮の手を取った。
「お茶は帰ってきてから飲みましょう」
 桔梗はそう言って、睡蓮を連れ花柳家を出た。

 茂る竹の葉の隙間から見える空は、分厚い雲で覆われている。
 花柳家は零水山(れいすいさん)という山の中腹にあった。山を下り、しばらく歩くと街道沿いに並ぶ宿場町に出た。呉服屋、白粉(おしろい)屋、古着屋、煮売り屋、湯屋などさまざまな店が立ち並ぶ。
「あの、桔梗さん。どうしたんですか、急に町に行きたいだなんて」
 手を引かれて歩きながら睡蓮が訊ねると、桔梗は立ち止まり、ようやく手を離した。
「すみません」
「あ、いえ怒っているわけでは」
 ないのですけど、と小さな声で返すと、桔梗はどこか恥ずかしそうに苦笑した。
「なにか、睡蓮さまに恩返しができないかと思って。はしゃぎ過ぎましたね」
「恩返し……ですか?」
「はい。今まで俺、睡蓮さまにはお世話になりっぱなしでしたから」
「恩返しなんてとんでもないですよ。むしろ、お世話になっていたのは私のほうです」
 桔梗が微笑む。
「そんなことありません。もともとなにもできなかった俺に洗濯の仕方や掃除の仕方、料理まで教えてくれたではないですか」
「……そういえばそうでした。でも、今では私よりもずっと上手ですけどね」
「睡蓮さまのおかげです」
 家事のことを言っていたのか、と睡蓮はようやく合点がいった。
 たしかに、桔梗はやってきた頃、家事がなにもできなかった。そのため睡蓮が一からすべて教えたのだ。
 その際、睡蓮もひとに教えるということは初めてでいろいろと失敗も多かったが、なんだかんだ楽しかった。
 桔梗は筋が良く、あっという間に手際よく家事をこなすようになったので、すっかり忘れていた。
「睡蓮さま、あそこ入りましょう」
 歩きながら話していると、桔梗がとある店を指をさした。桔梗の指し示す先にあったのは、呉服屋だった。
「呉服屋さんですか」
 新しい着物でも買うのかな、と桔梗を見る。
 桔梗の今日の装いは、藍色の市松のお(めし)に青碧色の羽織(はお)り。新緑の季節にぴったりだ。
 いつも思っていたが、桔梗は普段からとても洒落(しゃれ)た着物を着ている。
 一方で、睡蓮はじぶんの格好を見た。季節を問わず着られる薄紅色の麻の葉の小紋(こもん)に、無地の茶色(ばかま)臙脂(えんじ)色の羽織りと合わせても、かなり地味な着物だ。
 若い娘ならもっと派手なものを着るものだが、仕方がなかった。
 睡蓮に与えられるのは、いつも母親が着なくなったお下がりの着物や、桐箪笥(きりたんす)の奥にしまわれていた古着だった。流行などとっくに廃れたもの。睡蓮はそれを、丁寧にじぶん用に仕立て直して使っている。
 今までは特に気にしてこなかったが、街へ来ると同年代のお洒落な若者があちこちで視界に入って、じぶんの格好が変なのではないかと思ってしまう。
 特に、桔梗がとなりにいるときは。
 すれ違う女の子たちがちらちらと桔梗を見ては、頬を赤くしてこそこそと話している。
 やはり、桔梗は仮面を被っていても目立つ。
 女の子がちらっと睡蓮を見た。目が合い、睡蓮は慌てて逸らす。
「ねぇ見た? 今のお兄さんのとなりにいた子、なんか地味じゃない?」
「いや、だってあれ、女中でしょ」
「あぁ、そっか」
「だよねー」
 睡蓮はぎゅっと着物の袖を握った。
 ――女中か。私、他人にはそう見えてるんだ……。
 仕方ない。分かっている。睡蓮は地味だ。どう考えても桔梗とは釣り合わない。
 じぶんのことを言われるのは慣れているからいい。それより睡蓮が気にしたのは、桔梗のことだった。
 ――申し訳ない……。
 地味なじぶんが桔梗のとなりを歩いていることが申し訳なく思えてしまって、すっかり足が重くなる。
 ――というか、そもそも私がこんな高級店に入ってもいいのかな。
 古着屋には入ったことはあるが、呉服屋に入るのは初めてだ。慣れていない睡蓮はためらってしまう。
「睡蓮さま、行きましょう」
「あ、う、はい……」
 迷いなく店に入っていく桔梗のあとを、睡蓮はおずおずとついていった。
 店内に入ると、まず目に入ったのは衣桁(いこう)にかけられた鮮やかな振袖(ふりそで)だった。
 真っ赤な布地に、大きな桃色の牡丹(ぼたん)の花がこれでもかと咲いている。
「わ、わぁ……」
 頬を薄紅に染め、睡蓮は目を輝かせる。
「すごいきれい」
「これは京友禅(きょうゆうぜん)ですね。睡蓮さまは色白ですから、この紅色はとても似合いそうです」
 さらりとした桔梗の褒め言葉にもそうだが、それよりも睡蓮は京友禅という言葉にどきりとした。
 京友禅の振袖など、睡蓮にとっては一生縁がない高級着物だ。
「これ、気に入りましたか?」
 桔梗が聞くと、睡蓮は桔梗を見てぶんぶんと勢いよく首を振った。
「とんでもないです!」
 あまりにも必死な顔に、桔梗は思わずぷっと笑った。
「今後の参考に合わせてみるだけでも……」
 ――今後の参考ってなに!?
「いいですいいです! そもそも私、古着以外着たことないので……こんな高級なもの、緊張してしまってとても着られません! というか、触ったら燃える!」
「もっ……いや、燃えはしないでしょう」
「と、とにかくいいです、本当に!」
「うーん……似合うと思うのになぁ」
桔梗はぶつぶつ言いながら、他の反物(たんもの)を見た。
「あ、それならこれはどうでしょう?」
 桔梗が持ってきたのは、銀青色の金魚が泳ぐ美しい反物だった。
「わ……きれい」
 珍しい柄に、睡蓮は嘆息する。が、あまりのきらびやかさに慌てて我に返り、
「わ、私はもういいですから! それより、桔梗さんの着物を見ましょう」
「俺はべつに今ある着物で十分ですよ。今日はもともと、睡蓮さまに新しい着物をと思って来たんですから」
「え!? いえ、わわ、私、家柄はともかく、個人で自由になるお金なんて持ってないですから」
 龍桜院家との契約時にもらったお金は多少あるが、それは桔梗への給金として使っているから、じぶんのために使うわけにはいかない。
「もちろん、俺が出しますよ。俺が差し上げたいのです」
「え!? だだ、ダメですよ、そんなの」
 主人が使用人にものをもらうなど、あってはならない。逆はあってもだ。
 名家の長女が物乞(ものご)いのようなことをしてははしたないと、睡蓮は幼い頃から両親にそう教育を受けていた。いや、たとえそんな教育を受けておらずとも、これはさすがにだめだと分かる。
 しかし、桔梗はまるで気にしていなかった。
「うん、やっぱり涼やかでこれからの季節にぴったりです。これにしましょう」
「えっ!?」
「すみません。これ、彼女に合わせていただけますか」
「かしこまりました」
 桔梗は戸惑う睡蓮を無視して、どんどん店側と話をつけていく。
 計測を終え、困った顔をして試着室から出てきた睡蓮を見て、桔梗は小さく笑った。
「そんな顔しないでください。これは俺のわがままですから」
「でも……」
 桔梗が購入しようとしているあの着物は、試着室で店員に値段を聞いたら、睡蓮の目が飛び出るほどに高価なものだった。睡蓮の持ち金ではとても手が届かないものだ。
 桔梗は何者なのだろう。こんな高級品を、惜しげもなく買うなんて。すごいを通り越してもはや怖い。
「気にしないで。俺はただ、着飾った睡蓮さまを見たいだけなんです。そうだ。これを着て、どこか出かけましょう。たとえば海とか。夏祭りもいいですね」
 桔梗はどこか楽しそうな声音で言う。
「……睡蓮さま。それが俺のご褒美なんです。だめですか?」
 そう言われてしまっては、睡蓮はもうなにも言えない。
「では、こちらお仕立て致しますね」
「あぁ、あと帯もいくつかほしいんですが」
「かしこまりました」
 店の人間に言われるまま、さらにいくつかの反物を合わせられた睡蓮。
 すべてが終わった頃には、睡蓮はへとへとになっていた。
「仕立て上がるのが楽しみだな。できたらまたふたりで取りに来ましょう」
 楽しげな桔梗をちらりと見て、睡蓮は小さく口を開いた。
「……あの」
「はい?」
「……あの、桔梗さんはいったい、何者なんですか?」
 睡蓮の問いに、楪が苦笑する。
「何者って……なんですか、急に」
「……だって、こんな高級なお店にも平然と入ってしまうし……しかも、ご贔屓(ひいき)さまみたいだし」
 あんな高級な呉服屋は、花柳の人間ですらあまり出入りできない。それなのに。
 じっと見つめると、桔梗は「あぁ」と納得したように呟いた。
「実は、店主とちょっとした顔見知りなんですよ」
「店主さまと?」
 それは、いったい。ますます気になってしまう。
 と、そのとき。
「――あ、雨?」
 困惑していると、ふたりの頬をぽっと冷たい雫が濡らした。桔梗が空を見上げる。
「雨ですね……」
 ぽつぽつとしていた雨は次第に勢いを強め、ふたりを濡らす。勢いで出てきてしまったから、睡蓮も桔梗も、今は番傘を持っていない。
「とりあえず、どこかで雨宿りしましょうか」
 言いながら、桔梗がこれ以上濡れないようにと睡蓮の頭に羽織を被せる。
「あ、私はじぶんの羽織りで……」
「いいから。それより早く行きましょう」
「あっ……」
 睡蓮は桔梗に連れられるまま、すぐ近くにあった喫茶店の軒下(のきした)に入る。
 ティーカップの形をした看板には、異国の文字が書かれていた。
 ――なんて書いてあるんだろう……。
 首を傾げて見上げていると、桔梗がそっと睡蓮の肩を抱いた。
「ほら、濡れる前に入って」
「あ、はい」
 からん、と軽やかな鈴の音とともに、睡蓮は店内に足を踏み入れる。
 喫茶店の店内は少し薄暗く、レコードプレーヤーからはほのかな音量のクラシックが流れている。
 店に入ってすぐ、睡蓮は足を止めた。店内の客たちはみんな見慣れぬ格好をしている。
 胸元がざっくり空いた不思議な柄の着物だった。腰がきゅっとしていて、腰から下がふわりと、まるで大福のようにふくらんでいる。さらにひらひらした布があちこちに付いていて、まるで魚のひれのよう、と睡蓮は思った。
 今はあのような着物が主流なのだろうか。そういえば、町でも数人あのような格好の若者を見かけた。
 佇んだまままじまじと観察していると、となりで桔梗が苦笑した。
「あれは北の都の者たちでしょう。北はああいった着物を好んで着るんですよ」
「そうなんですね……初めて見るお着物です」
「南や西のひとたちもまた、あれとは違う変わったものを好んで着ているみたいですよ」
「そうなんですか?」
「南は壺装束という着物が主流ですね。西はたしか、漢服という和服に似た衣装だったような気が。まぁ、それぞれの土地を守る現人神が好んで着ているものを、町のひとたちも着るみたいですね。いつだって、お洒落の最先端は現人神やその伴侶のようですから」
「なるほど……。というか桔梗さん、各地のことにすごく詳しいんですね。もしかして、桔梗さんって東の土地のひとじゃないんですか?」
「いえ。実は以前、各地を旅したことがあるので」
「えっ! それは……」
 気になって振り向くと、桔梗はにこりと笑って話を変えた。
「さて、いつまでも立っていると邪魔になります。睡蓮さま、あの席にしましょう」
「あ……はい」
 ふたりは窓際の席に座ると、渡されたメニューを見た。
「睡蓮さま、珈琲(コーヒー)は飲めますか?」
「こー……ひぃ、とは?」
 聞きなれない単語に睡蓮は首を傾げた。桔梗が優しく説明する。
「異国の飲み物なんですが、最近こちらにも流通するようになりまして。香りが素晴らしく良くて、とても美味しいんですよ」
「へぇ。じゃあ私、それを飲んでみたいです」と睡蓮が答えると、桔梗はカウンターの奥にいたマスターを呼んだ。
「珈琲をふたつ。それから、チョコレートを」
「かしこまりました」
 ほどなくして珈琲とチョコレートが運ばれてくると、睡蓮はまずチョコレートに大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「これが食べ物? まるで宝石のようです!」
 睡蓮の目の前には、濃い赤色をした、宝石のような小石。チョコレート、というそうだ。
「珈琲によく合う甘いお菓子なんですよ」
 桔梗は言いながら、一緒に運ばれてきたティーカップを睡蓮の目の前へと滑らせる。その瞬間、ふわりと香ばしい香りが鼻に抜けた。
「こーひぃも、すごく良い香りがします」
「でしょう? きっと、飲んだらもっと驚きますよ。ささ、どうぞ、飲んでみてください」
 睡蓮が頷き、すすっと珈琲をすする。
「…………」
 そして、なんとも言えない顔をした。そんな睡蓮を見て、桔梗は肩を揺らして小さく笑った。
「苦いでしょう?」
 まるで用意しておいたような口ぶりだった。睡蓮は頷く。
「……えと、香りは、とても好きなんですけど……」
 睡蓮は口の中の苦味を誤魔化そうと、必死に瞬きを繰り返した。
「睡蓮さま、こちらを飲んでみてください」
 なんとも言えない顔のままの睡蓮に、桔梗はじぶんの珈琲を差し出した。
「え……なにか違うのですか?」
 身構えつつティーカップを受け取った睡蓮は、中身を見て驚いた。
「えっ! 色がぜんぜん違います!」
 桔梗の珈琲は、優しい薄茶色をしていた。
「味も違いますよ」
「…………」
 たしかに、見た目は少し優しい色になっているが。舌に残るあの味がまだ忘れられない。
「もう一度だけでいいですから、騙されたと思って飲んでみてください。きっとびっくりしますよ」
 桔梗に言われ、睡蓮はおそるおそる珈琲に口をつけた。
「!」
 とろりとした優しい甘さが口に広がり、睡蓮は弾かれたように顔を上げ、桔梗を見た。
「甘いです!」
「でしょう?」
「桔梗さん。どうして同じ珈琲なのに、こんなに色と味が変わるのですか?」
 弾んだ返事を返す睡蓮に、桔梗は言う。
「砂糖とミルクを入れたんですよ」
「砂糖とミルク……なるほど……私、こんな不思議な飲み物は初めてです」
「気に入りましたか?」
「はい!」
 無邪気に笑う睡蓮に、桔梗は眩しいものを見るように仮面の下の目を細めた。
「それにしても、桔梗さんはとても物知りですね」
「とんでもない」
 ふと、桔梗の顔が曇る。
「……俺は、なにも知らなかった」
「……桔梗さん?」
「俺は、あなたのことをなにひとつ知らなかった。……いや、違うな。知ろうともしてなかったんです。人間はみんな、権力や地位にばかり固執するものだと……ただ気に入られようとしているだけだと、勝手に決めつけて……」
 いつもと違う桔梗の寂しげな声に、睡蓮は首を傾げる。
「桔梗さんが私を知らないのは当然です。私たちはまだ出会ったばかりなんですから。私だって、桔梗さんのことをまだぜんぜん知りません。だけど今日は、ずいぶんと桔梗さんのことを知れた気がします」
 睡蓮がにこっと人懐っこく笑う。その笑みに、桔梗は静かに息を呑んだ。
「……そう、ですね」
 そのまま、桔梗は黙り込んだ。
 急にふたりを包む音楽の音が大きくなったような気がした。
「……睡蓮さまは俺のこと、どう思ってますか」
「え?」
 突然の問いかけに、睡蓮は戸惑う。
「……桔梗さんは、とても優しいかただと思います」
「……そうですか」
 桔梗の声音が、少し下がったような気がした。
 なにか気に障るようなことを言っただろうか、と睡蓮はひやりとする。
「……あの、桔梗さん。すみません、私……」
 謝ろうとすると、桔梗は睡蓮の声に被せるように言った。
「例えばの話ですけど。もし俺が、これからもっとあなたのことを知っていきたいと言ったら、これからもっと俺を知ってほしいと言ったら、許してくれますか」
「え……」
 睡蓮は今度こそ動揺した。
 桔梗は仮面に手をかけ、言葉を続ける。
「睡蓮さま、実はあなたにずっと隠していたことが……」
「すみません」
 今度は睡蓮が桔梗の言葉を遮った。
「……すみません」
 睡蓮だって桔梗のことをもっと知りたいけれど、それはできないのだ。
 なぜなら、睡蓮に未来はないから。
 沈黙が落ちた。
 しばらくして、桔梗が口を開いた。
「……睡蓮さまにとって、龍桜院楪はどんなひとでしたか」
「え……楪さま、ですか?」
 睡蓮はしばらく黙り込んでから、
「……楪さまは、妹が生まれてから居場所を失っていた私を初めて必要としてくれたひとです。それだけじゃなくて……初恋のひとでもありました。私は楪さまに、とても感謝しています」
「居場所って……でも、それはただのあちらの都合でしょう」
「……だとしても、嬉しかったから。これから先も、楪さまが元気でいてくれれば、私はそれだけでじゅうぶんなんです」
「…………」
 曇りのない眼差しの睡蓮に、桔梗はそれ以上なにも言えなくなった。

 桔梗がその手紙を見つけたのは、ちょうど睡蓮が町へ出かけているときだった。
 手紙は引き出しの奥に丁寧に仕舞われていた。
 この手紙は、ことあるごとに睡蓮が読んでいるものだ。ふと睡蓮を見ると、彼女はだいたいいつもこの手紙を大切そうに見つめている。
 差出人と中身が気になって、以前、睡蓮の背後からこっそり手紙の内容を見たことがある。
 睡蓮の様子から手紙の相手はだいたい検討が着いていたが、果たして手紙の相手は桔梗の予想通りの人物だった。
『睡蓮さま、お手紙ありがとうございます。楪さまの代わりに、今回も桃李が代筆致します――』
 桃李というのは、龍桜院楪の側近だ。
『以前、睡蓮さまが送ってくださった五三焼き、楪さまは喜んで召し上がっておられました。好物がひとつ増えたようです。また、最近は――』
 手紙の中には、側近から見た龍桜院楪の様子が丁寧に書かれていた。楪の近況や、睡蓮が差し入れた手料理を食べたときの楪の様子、楪の好物や苦手なものなど。
 楪と睡蓮は契約結婚。睡蓮が契約結婚をどう捉えていたかは分からないが、楪側に愛情はないと分かっていたはずだ。
 ……けれど。
 手紙を読む睡蓮の眼差しは、どこまでもまっすぐに、楪を思っていた。少なくとも睡蓮にとって楪は、とても特別で大切な存在だったのだろう。
 離縁したあとですら、こうして手紙を大切にしまい、何度も読み返しているのだ。婚姻中は、きっともっと彼を……。
 ――でも、それならばなぜ、婚姻関係を解消したのだろう?
 玄関のほうから、物音が聞こえた。
 桔梗は急いで手紙をもとに戻し、玄関へ向かう。
「おかえりなさい、睡蓮さま」
 玄関へ睡蓮を出迎えに行くと、睡蓮は桔梗を見て、「ただいま」と柔らかに微笑んだ。しかし、睡蓮の顔色は真っ青だった。
「睡蓮さま、どうしましたか?」
「ううん。ちょっと久しぶりに町へ出て疲れただけなので」
「ですが、顔色が」
「大丈夫大丈夫。私、今日はちょっと休みますね。すみません」
 睡蓮は桔梗に背を向けると、逃げるように自室に入ってしまった。


 ***


 それから睡蓮は、日に日に弱っていくようだった。とはいっても見た目は変わらないし、睡蓮は基本この離れでひとりで過ごしているから、だれも彼女の変化に気付かない。いや、仮に家の人間と顔を合わせていても気付かれないだろう。
 睡蓮の調子がおかしいと分かるのは、妖気が分かる桔梗だからだ。
 生き物は個人差はあれど、必ず妖気というものを放っている。
 ふつうは目に見えないが、妖力を持つあやかしはその気配を感じることができる。
 また、ひとでも稀に妖気を感じることができる者もいる。ごく少数の者に限られるが。
 睡蓮の妖気は、桔梗がここへ来てからというもの、日に日に弱くなっていた。特にそれを感じるのは、睡蓮が町から戻ってきたときだ。
 彼女はなにも言わないが、おそらく睡蓮は、町であやかしと会っている。
 ――いったいだれと?
 睡蓮が会っているであろうあやかしの妖気は、桔梗にはまったく感じられない。それはすなわち、睡蓮が会っているのがみずからの妖気を消せるほどの力を持つあやかしだということだ。
 そしてそのあやかしは、十中八九彼女に害を及ぼさんとする邪悪な者だろう。
 桔梗はしばし黙考し、とある人物に連絡をとった。
 布団に倒れ込み、睡蓮は大きく息を吐いた。
「ちょっと睡蓮〜。大丈夫?」
 桐箪笥の中から、小さな影が睡蓮の横たわる布団へと飛んでくる。紅だ。
「大丈夫、大丈夫……」
 なんとか返しながら目を開けると、すぐそばにいた紅の心配そうな顔が視界に映った。
「でも、すごい顔色悪いよ」
 紅が心配そうに睡蓮の額に小さな手を乗せる。紅の小さな手はひんやりしていて、心地いい。なによりこんなじぶんを心配してくれることがありがたかった。
「心配してくれてありがとうね、紅」
 ほんのり笑ってみせると、紅は睡蓮の顔を覗き込み、しゅんとした顔をした。直後、ハッとした顔をして、
「もしかして、あの男が原因なの? それならあたしが今すぐとっちめてやる!」
 ぶぶぶっと、これまでにない羽音がする。見れば、紅の身体が橙色にぽうぽうと光っていた。これは、紅が怒っているときの特徴だ。
「睡蓮をこき使いやがって、あのくそ野郎。待ってて睡蓮! あたしの毒はどんな大きな獣だって一撃ひっさ……」
「ちょっ、待って待って!」
 なにを勘違いしたのか、紅は睡蓮の体調が悪いのは桔梗のせいだと思ったらしい。今にも部屋を飛び出していきそうな紅に、睡蓮は慌てて身を起こして止めに入る。
「ち、違うよ、紅! 桔梗さんはぜんぜん関係ないから落ち着いて!」
「え、そうなの?」
 紅がきょとんとした顔をする。
「そうそう」
 紅の羽音が落ち着いて、睡蓮はほっと肩から力を抜く。
「町へ出てちょっと疲れただけだから。……あ、そうだ。それより紅って西の出身だったよね?」
「そうよ。ここよりずっと西の、海辺の町。それがどうしたの?」
「家族は元気なの?」
「うん、みんな元気だよ。そもそもあやかしは、人間よりずっと寿命が長いし。お母さんも、ばりばり現役だしね」
 紅の家は、西の幽世にある。
 幽世に迷い込んだ人間の船を現世に(かえ)すという西の現人神から直々に与えられた役目を担っているらしい。
 家を守っているのは紅の母親で、且つ仕事を担っているのは紅の兄妹たちだ。
 紅もずっと家の手伝いをしていたが、兄妹がたくさんいるから紅ひとりいなくなったところで特に問題はないと以前言っていた。
「紅も、たまにはお家に帰ったほうがいいよ。家族がいるって、幸せなことだから」
「…………」
 睡蓮は遠い目をして呟いた。
「いくら家族がたくさんいるからって、お母さんが寂しくないわけはないよ。じぶんの子だもの」
「……睡蓮」
 睡蓮がふと奥の机を見る。つられるように紅もそちらへ目を向けた。机の上に見慣れぬ包みがある。
「それ、さっき買ってきたチョコレート。良かったら手土産に持っていって」
「ちょこれいと?」
 紅が目をしばたたく。
「うん。すごく美味しいお菓子なの。私もこの前桔梗さんに教えてもらって初めて食べたんだ。手土産なしで帰るよりいいかなって、ね。お母さんや兄妹のみんなと食べて」
「ありがとう……でも急にどうしたのよ?」
 紅はいよいよ睡蓮のことが心配になった。これまでにも何度か睡蓮が体調を悪そうにしていることはあったけれど、ここまでではなかった。
 まるで、紅を追い出そうとしているようにすら思う。
「ねぇ、睡蓮てば。なんかあるの?」
「……ごめん。私、ちょっと眠るね」
 心配する紅の声を遮るように、睡蓮は布団を頭まで被る。
「……分かった」
 紅はしょぼんとしたまま、睡蓮の部屋を出た。
 紅が部屋から出ていくと、睡蓮は布団から顔を出した。寝返りを打ち、壁にかけてあるカレンダーをぼんやりと見上げる。
「あと一回……」
 今日、睡蓮はとある人物と会ってきた。
 その人物は、睡蓮の願いを叶えるただひとりの人物であり、災厄の張本人でもある西の最強権力者――白蓮路(かおる)だ。
 薫と出会ったのは、睡蓮が楪と婚姻し、龍桜院の屋敷にひとり暮らしていたときだった。
 屋敷に現れた薫は、ぞっとするほど美しい声で言った。
『龍桜院楪はじきに死ぬだろう』
 ひとの死を予知する力があるという薫は、楪がじき死ぬ運命にあると言った。
 最初、なにを言われたのか分からなかった。
 楪が死ぬ。
 契約とはいえ、唯一睡蓮を必要としてくれたひとが。
 薫の言うじきとはいつだろう。もし楪がいなくなってしまったら、この東の地はどうなるのだろう。楪にはまだ後継者がいない。睡蓮と楪は契約結婚だし、世継ぎを残すとか、そういうことがないどころか、まだ会ったことすらないのだ。
 いくらか呆然としつつ、睡蓮は薫の話を聞いていた。
 ショックで放心する睡蓮を見かねたのか、薫は囁いた。
 楪が助かる方法が、ひとつだけあると。
 それは、死ぬはずの楪の代わりに、睡蓮が命を差し出し、身代わりになるというものだった。
 睡蓮は、そんなことで楪が助かるならばと、薫に魂を差し出す契約をしたのだ。
 これまで睡蓮は、数度にわたって薫と会ってきた。会うたび、分割した魂を差し出した。
 しかし、その魂も残りひとつ。
 次に魂を薫に差し出したとき、睡蓮は消失する。
 後悔はしていない。
 気がかりがあるとすれば、それは紅と桔梗のことだった。
 紅は睡蓮が匿ってくれたことに恩を感じてくれているのか、ずいぶんと睡蓮に懐いてくれた。そんな彼女に本当のことをなにも言わずに消えなきゃならないのは心が痛んだ。
 しかし、現人神にかかわることを民に知られるわけにはいかない。話すことはできない。
 代わりに、睡蓮は喫茶店であのチョコレートを買ったとき、中に手紙を忍ばせた。
 紅へ、これまでの感謝とこれからも元気でという別れの挨拶を綴った。
 あとは、桔梗だ。桔梗にはまだ、なにもしていない。桔梗にこそ、感謝を伝えなければならないのに。
 睡蓮はよろよろと起き上がり、棚を開けた。
 中には、楪から届いた三年分の手紙の束が入っている。それから、書く相手を失い、用済みとなったまっさらな便箋。
 睡蓮は力を振り絞り、文机に向かった。
 最後に一枚、手紙を書くために。
 せめて桔梗へ、これまでの感謝を伝えなければ。
 震える手で筆をとる。
 睡蓮はじき、消える。そうしたらもう桔梗とは会えなくなる。
 薫と契約を交わしたのは睡蓮自身。
 楪を守るために命を差し出すと決めたのも睡蓮自身。
 今、あのときに戻ったとしても、睡蓮はきっと同じ選択をするだろう。
 頭ではちゃんと覚悟を決めているはずなのに。
 そこに後悔などないはずなのに。
 手紙を書く手が震え、嗚咽が漏れた。
 桔梗ともっといたい。桔梗に助けてとすがりつきたい。
 そんなことを思ってしまうじぶんがいる。
 桔梗と出会わなければ、きっとこんな思いは知らなかった。
 睡蓮の心は、初めての感覚に動揺していた。

 約束の日が来た。
 太陽がまだ顔を出し切る前に、睡蓮はそっと家を出た。桔梗には黙って。
 桔梗宛の手紙は、文机の上に置いてきた。いずれ気付いてもらえるように。
 いなくなる理由は書かず、これまでの感謝と、もうこの花柳家には帰らないことを書いた。龍桜院家との契約時にもらったお金を、給金として残して。
「……さよなら、桔梗さん」


 ***


 紫色の空に浮かぶ雲はずいぶん低く、近く感じた。
 睡蓮は一歩一歩と歩を進め、薫との約束の場所、花柳の家よりもずっと上の山頂を目指す。
 零水山の頂上付近は、見渡す限り銀杏の黄色で染まっている。
 銀杏の葉の鮮やかな絨毯を進んでいくと、ほどなくして視界が開けた小高い丘に出た。
 山頂だからか、それとも既に日の出の時間を過ぎたのか、太陽は向かいの山の上にある。
 朝焼け色の宿場町をぼんやりと眺めていると、ふと風がざわっと強く吹き、睡蓮の長い髪を弄んで抜けていった。
 その、刹那。
「待たせたな」
 声がして、睡蓮は静かに振り向いた。
 振り向いた先に立っていたのは、天女のように美しい容姿をした男。
 睡蓮が契約を結んだ相手――白蓮路薫だった。
「どうした? 浮かない顔だな。死ぬのが恐ろしくなったか」
 睡蓮の暗い顔を見て、薫はどこか楽しげに目を細めた。
「……そんなことは」
「なら、なんだ? 龍桜院と会えなくなるのが悲しいか?」
 問われた睡蓮は、そうとも違う、と、困惑する。
 そもそも睡蓮は、楪とは一度も顔を合わせたことがないのだから。
 薫の言うとおり、楪とこの先二度と会うことは叶わないということはもちろん悲しい。だが、それよりも睡蓮の心に影を落としていたのは、桔梗の存在だった。
 ――私、いつの間にこんなに桔梗さんのことを……。
 いけない、と睡蓮は目を閉じ、静かに深呼吸をした。
 すべての感情を、心の奥深くにしまい込んでから、ゆっくりと目を開ける。
 再び目を開けたとき、睡蓮の眼差しに迷いはなくなっていた。
「白蓮路さま。最後にひとついいですか」
「なんだ?」
「今まで、ありがとうございました」
「ん?」
 これから殺そうとしている相手に突然礼を言われた薫は、怪訝な顔をして睡蓮を見た。
「本音を言うと私……楪さまと結婚してる間、本当はちょっと寂しかったんです。……でも、そんなときあなたがやってきて、私は楪さまを守るためにこの契約をしました。魂と引き換えでしたけど、私、白蓮路さまと話すの好きでした。私に楪さまを助けさせてくれて、ありがとうございました」
「…………」
「白蓮路さま、あとのことはお願いします」
 白蓮路はじっと睡蓮を見つめ、口を開く。
「……わたしは」
 白蓮路がどこか申し訳なさそうに目を泳がせる。
「……いや、なんでもない。さて。約束どおり魂はいただくぞ、花嫁」
 じぶんはもう花嫁ではないが、まぁもうなんでもいい。
「……さよなら」
 睡蓮は静かに目を伏せた。
 睡蓮を、薫の妖しい煙が包んでいく。


 ***


 その日、睡蓮が庭に出ると、ぱらぱらと雨が降っていた。しばらく日照りの日が続いていたから、恵みの雨だ。生い茂る緑が生き生きとして見える。
 この地にもようやく、雨季(うき)が来たようだ。
 雨音の中、かさ、と乾いた音がした。
 まばたきした瞬間、目の前が白く煙った。
 驚く間もなく、目の前に見知らぬ男が現れる。まるで天から落ちてきたかのような神々しさをまとっている。
 薄紫色の髪は雨の糸を束ねたかのようにきらめき、瞳はまるで宝石を閉じ込めたかのような神秘的な黄金色。
「あなたは……だれ」
 突如として睡蓮の前に現れたその男は、かすかな笑みを浮かべ、睡蓮のいるほうへ歩み寄る。
「はじめまして、龍桜院の花嫁。わたしの名は白蓮路薫だ」
「白蓮路、薫さま……それって、もしかして西の……?」
 白蓮路薫は、西の土地を統べる現人神の名だ。
 どうしよう。なにしにきたのだろう。もしかして、ここに楪がいると思ってきたのだろうか。
 もしそうならば、龍桜院の花嫁としてもてなさなければ。
 こんなことなら、こういうときどうしたら良いのか、手紙で桃李に聞いておけばよかった。睡蓮は狼狽した。
「そう身構えるな。東の神から花嫁の話は聞いている」
「えっ、楪さまから?」
「あぁ。この前会合があったからな。なんだ、聞いていなかったのか?」
「あっ……いえ」
 まずい。楪と睡蓮が契約結婚であることは薫に知られるわけにはいかない。睡蓮は慌てた。
「まぁいい。それより上げてくれ。このままここにいたらずぶ濡れだ」
 そういえば今は雨が降っている。見ると、薫の白い肌を雨の雫が滑っていく。
「すす、すみません!! すぐにお風呂沸かしますから」
「いや、手ぬぐいだけ借りれればいいよ。それよりお茶をくれ。茶菓子もな」
「あ、は……はい」
 ……なんというか、思っていたよりちゃっかりしたひとだ。
 これが、薫との出会いだった。それからちょくちょく、薫は睡蓮のもとへ顔を出すようになった。
 薫いわく、今東の地で会合があり、しばらく滞在することになったのだという。
 薫は来るたび楽しい話を睡蓮にしてくれた。
 睡蓮は密かに、薫がやって来るのを楽しみにしていた。
「今日は、とあるあやかしの話をしてやろう」
 あるとき、薫は睡蓮へ、とあるあやかしの話を始めた。
 そのあやかしは、幼い頃、東の現人神――つまり現在の現人神である楪の父にあたる男だ――に母親を殺され、それ以来ずっと現人神を憎んでいた。母親以外に家族はなく、天涯孤独。
 いつも悪さばかりして、たびたび現世へやってきては、町のひとびとを困らせた。
 そのたびに現人神は幽世へ還したが、そのあやかしは幽世でも弱いあやかしをいじめるようになった。
「そいつは、ただ触れるだけでも怪我をしそうなほどどうしようもない奴だった」
 そして、とうとう幽世も現世も追放されてしまったあやかしは、東の神によって石の中に封印された。
「……まぁ、仕方がないことだったんだろうな」
 薫は開け放たれた硝子戸の向こう、青々とした緑の庭を見ながら呟く。淡々とした、心のない口調で。
「仕方がない……」
 睡蓮は、あやかしの話をじぶんに重ね合わせていた。
 生まれてすぐに親と死別し、孤独に生きてきたあやかし。
 どこかじぶんと通ずるところがある。
 孤児の睡蓮は、親が死んだのか、捨てられたのかは分からない。だが、孤独という点で同じだ。
「なんだか、かわいそうなお話ですね」
 ぴく、と薫が反応する。
「かわいそう……? いや、そいつは散々悪いことしてきたんだ。自業自得だろ」
「たしかに、だれかに迷惑かけるのはいけないことだし、よくないと思いますけど……でも、そのあやかしは寂しくて、ただかまってほしかっただけなんじゃないですか」
「かまってほしかった?」
 呆然とした口調で、薫が呟く。
「はい」
 そのあやかしがなにを考えていたのかは分からない。
 ただいらいらして、本当にひとびとを脅かしたかっただけかもしれない。
 でも、もしかしたら……。
「そのあやかしは寂しくて、だれでもいいからかまってほしくて、でもそのやりかたが分からなくて……悪さをして、目立つ以外に方法が分からなかったんじゃないかな」
「寂しくて……?」
 薫は睡蓮の言葉をぼんやりとした顔で復唱した。
「もし、だれかひとりでもそのあやかしの寂しさに気付いて、寄り添ってあげていたら……そのあやかしは満足して、いいあやかしになれたんじゃないでしょうか。そのあやかしはきっと、ひとやほかのあやかしたちを、信じられるようになりたかったんです。だれか助けてって、だれか僕に気付いてって、ひとりで泣いてたんだと思います」
「……信じたくて……助けを……求めてた……?」
 薫は呆然と呟く。
「……な、なんて。なんとなく、ですけどね。……でも、そのあやかしの気持ち、私は分かります」
 私もそうだったから、と、そう言いかけて、口を噤む。思わず本音を言ってしまった。
「……睡蓮は、たしか大きな商家の長女だったよな?」
 薫の視線を感じ、睡蓮はさらに俯く。
「睡蓮は、家族と上手くいってなかったのか?」
「…………」
 これ以上生家のことを聞かれるのがいやで、睡蓮は無理やり笑みを作った。
「いえ。すみません、へんなこと言ってしまって……なんでもないですから」
 愛された記憶があるということは、厄介だ。
 そのときの光景は脳裏にくっきり刻まれて、死んだって消えてくれない。
 日常のほんの些細なこと――たとえば風の匂いとか、だれかの咳とかくしゃみとか――そんな簡単なもので、子どもの頃の記憶が蘇ってきてしまう。
 思い出したくなくとも。
 愛された記憶がなければ、睡蓮だってこんなにつらくはなかっただろう。
 睡蓮はずっと、かまってほしかった。
 だけど、どうしたら両親がじぶんを見てくれるのか、分からなかった。
 分からなくて、でもそのあやかしみたいに悪さをする勇気も知恵もなくて、だからただ俯くしかなかったのだ。
 それが一生続くと思った。
 そんな将来を考えるだけでもつらくて、だから睡蓮は楪の契約に乗った。
 本当は、現人神の花嫁になりたかったわけじゃない。睡蓮はただ、あの家を出たかっただけだ。
「……睡蓮。ひとつ聞きたい」
「……なんですか?」
 あらたまった眼差しで、薫が睡蓮を見つめる。
「睡蓮は、楪のことが本当に好きか?」
 どくん、と心臓が跳ねた。
「…………」
 ――……どうだろう。
 楪のことは、顔も知らない。
 性格だって、桃李の手紙で書かれていたことしか知らない。
 恋をしていると思っていた。
 でも、薫と話した今、睡蓮は気付いてしまった。
「……私は」
 睡蓮はただ、楪を利用していただけだ。じぶんを守るために。
 ……だけど。
「好きですよ」
 口が勝手にそう紡ぐ。
 たとえ嘘でも、睡蓮は現人神の花嫁だから。
 薫がなにか言いたげに口を開く。しかし、言葉は続かなかった。
 薫はすべてを諦めたようにただ、「そうか」とだけ言った。

 その翌日にやってきた薫は、いつもと少し様子が違った。
 開口一番、薫は言った。
「今日は花嫁にひとつ、報せがあって来た」
 睡蓮はなにも言わず、薫を見つめ返した。じっと次の言葉を待つ。
「お前の夫、もうすぐ死ぬぞ」

 閉じた視界は、闇の中ではなく真白の世界だった。
 心の中で、紅や桔梗、それから家族の顔を思い浮かべる。
 嬉しい。
 この短期間で、ずいぶん思い出すひとが増えた。みんな、睡蓮がいなくなったら泣いてくれるだろうか。家族は無理でも……紅や桔梗は、少しは悲しんでくれるかもしれない……なんて。そんなことを考えて苦笑する。
 ――無理かな。
 あやかしにとってはこの世のときの流れなんて一瞬だ。きっとすぐに睡蓮のことなんて忘れてしまうだろう。
 それでもいい。ひとときの夢をもらえたから。
 後悔はない。寂しくはない。
 心を無にして、じっとそのときを待つ。
 そして、煙が睡蓮を完全に呑み込んだ、そのとき。
 ふたりの周囲にぴゅっと一陣の風が吹いた。
 突然の突風に、睡蓮は思わず目を強く瞑る。
「睡蓮!」
 すべてを覆い隠すような強い風の隙間から、ふと聞きなれた声が聞こえた気がして睡蓮は顔を上げた。
 目の前を、銀色の羽衣が舞ったように見えた。なんだろう、と睡蓮は何度も目を瞬かせる。
「え……?」
 羽衣の正体は、髪だった。
 睡蓮の目の前に、美しい銀髪の男性がいた。
 白皙(はくせき)の若い青年だ。
 その容姿は、美しいを凌駕(りょうが)して神々しい。気付けば呼吸を忘れていた。
「睡蓮さま。よかった、無事でしたか」
 男性はなぜかほっとしたような顔をして、睡蓮の名前を呼ぶ。が、睡蓮は知らない男性だ。
 だれだろう、と考えて、ふと声に聞き覚えがあることに気付いた。
 この声は……。
「もしかして……桔梗、さん?」
「……あぁ、この顔を見せたのは初めてでしたか」
 驚く睡蓮を見て、仮面を外していることを思い出したのか、桔梗は顔に手を持っていく。そのまま、前髪をぐっとかきあげた。銀色の髪がさらりと揺れる。
 再び睡蓮を見て、桔梗はいつもしているように胸に手を添えて頭を下げた。
「桔梗ですよ、睡蓮さま」
 初めて見る桔梗の圧倒的な容姿に呆然とする睡蓮を、桔梗は優しく抱き寄せた。
「あ……あの、桔梗さん? 私、今とても大切な用事があって……」
「大切な用事? 妖狐との密会がですか? 夫としては、それはちょっといただけないんですが」
「……夫?」
 どういう意味? と、睡蓮は、困惑して桔梗を見る。桔梗は言う。
「俺の本当の名は、龍桜院楪と言います。正真正銘、あなたの夫ですよ」
「え……?」
 睡蓮は目を見開き、桔梗を見た。
「桔梗さんが……楪さま……?」
 突然の告白に呆然とする睡蓮に、楪はゆったりとした口調で言う。
「ずっと黙っていてすみません。実はずっと、桔梗として睡蓮さまのことを探らせてもらっていたんです」
 睡蓮は困惑する。
「探るって、なにを……」
「離縁したいと言われたとき、睡蓮さまがなにか企んでいるのではないかと疑ったんです」
「企む?」
 睡蓮はきょとんとした顔をした。楪はばつが悪そうに睡蓮から目を逸らす。
「俺は今まで、ひとを一切信用してきませんでした。失礼な話ですが、花嫁であるあなたのことも、初めから信用していなかった。あなたからの手紙は一度も読んだことがなかったし、差し入れもすべて桃李からのものだと思っていました。たぶん、あなたからの差し入れだと言われたら俺は迷わず処分しただろうから、桃李はあえて伝えなかったのだと思います」
「……そうでしたか」
 睡蓮はかすかに微笑んだ。
 毎月楪へ送っていた手紙。返事が来ないことは仕方ないと思っていた。けれど、読んでもいなかった、と言われたのはさすがに落ち込んだ。
 楪は俯いてしまった睡蓮の顔へ手を伸ばすが、触れる直前でやめた。
「……離縁したあと、桃李から三年分のあなたからの手紙を渡されました。桃李はあなたのことをとても信頼していて、俺にあなたと別れるなとうるさくて……でも、俺はどうしてもあなたのことを信用しきれなくて、桔梗と名を偽って探りにきました」
「…………そうでしたか」
 本音を言えば、涙が出そうになるくらいに悲しい。
 でも、同時に……。
 睡蓮の脳裏に、ひとりの青年の顔が浮かぶ。
 じぶんの知らないところで、桃李は睡蓮のために動いてくれていた。睡蓮はそのことがどうしようもなく嬉しかった。
 睡蓮は、ひとりではなかった。
「……あなたと過ごして、なにもかも俺が間違っていたことに気付きました。あなたが権力目当てなんかではなかったこと、あなたが心から俺のことを想ってくれていたこと……それから、俺を守るために離縁を選んでくれたことも」
 睡蓮が驚いて顔を上げる。
「……私が白蓮路さまと交わした契約のことまで知っていたのですか?」
「あなたの妖気が日に日に弱っていくから、桃李に調べさせたんです。それから……これはついさっきのことですが。あなたの親友とやらにも、間接的にかなりひどく叱られました」
「親友?」
 睡蓮が首を傾げると、楪は言った。
 紅さんですよ、と。
 睡蓮は目を見張る。
「紅が……」
 でも、どうして。
 睡蓮は、紅になにも告げずに出てきた。それなのに。
「紅さんから、あなたにこう伝えるよう言われました。〝薄情者〟と」
「薄情者……」
 混乱する睡蓮にかまわず、楪は続ける。
「紅さんはすべてを知っていましたよ」
「えっ!? ど、どうして……!?」
「赤蜂は植物と会話することができますから。紅さんは植物たちから、あなたの過去や置かれている状況、妖狐との取引のこともすべて聞いたようです。そして、相談ひとつしてこないあなたと……そばにいながら気付けなかった俺、それからなによりじぶん自身にとてもご立腹でした」
 睡蓮はふっと笑った。紅が怒っているその姿が目に浮かぶ。
「……とにかく、間に合ってよかった。まだ、あいつに最後の魂は奪われていないのですよね?」
 優しい声に、睡蓮はぎこちなく頷く。
「……はい、まだ……」
「よかった」
 楪は睡蓮に向き合うと、その頬を優しく撫でた。睡蓮は楪を見上げる。その頬はほんのり薄紅色に染まっていた。
「睡蓮さま。今さらだけど、これまであなたにしてきた仕打ちを謝らせてください。本当にごめんなさい」
「仕打ちだなんてそんな……とんでもない」
 睡蓮はぶんぶんと首を横に振る。
「楪さまは、初めから私に契約結婚であることを打ち明けてくださっていましたし、手紙だって私の自己満足です。それに、お家柄やお力のことで今までご苦労なさってきたでしょうから……周りを疑ってしまうのは仕方のないことですよ」
 楪は困ったように微笑んだ。
「あなたは本当に優しいひとですね。……でも、そうだとしても、俺があなたにひどいことしたのはたしかです。しかも俺はひどいことをしている自覚すらありませんでした。この考えかたは、生まれ持って俺の心に染み付いていました。女のことは利用するつもりで、側近には裏切られる覚悟で、常に裏を読むようになっていました。……でも、あなたは違った。あなたは心から優しいひとでした。なにも持たず、なにもできず、素性すらも知れない桔梗という男を優しく迎え入れてくれた」
「お、大袈裟ですよ。私のほうこそ、桔梗さんにはたくさんの愛をもらいました。……その、死にたくないって、思うくらいに」
 楪は苦しげな表情で睡蓮を見つめた。
「……すみません。こんなこと……いえ、あの、こんなこと言うつもりはなくて……」
 口走った言葉に今さら動揺する睡蓮を、楪は堪らず抱き寄せた。
「あなたは、もう……」
「え……あ、あの、楪……さま」
 突然抱き締められ、睡蓮はあわあわと慌てふためく。
「……どれだけ俺を虜にするつもりですか」
 楪の言葉に、睡蓮はぽかんとした。
 しばらくぽかんとしてから、我に返った睡蓮は楪を見上げる。
「あのっ……そ、それはっ」
 どういう意味ですか。そう言おうとした、そのときだった。
 楪が羽織の袖で睡蓮の口を塞いだ。
「むっ!?」
「口を閉じて。この妖気を吸っちゃいけない」
 楪がひそやかな声で言う。
 ふたりの周囲を、怪しげな紫色の煙が満たしていた。薫だ。
 足元を見れば、鮮やかな黄色だった銀杏の葉が、濃い茶色に変色していた。
「妖狐の毒です」
 ――妖狐?
 睡蓮は口を袖で覆ったまま、眉を寄せた。
 楪は睡蓮を挟んで向かい側にいる薫を睨みつけている。
「あの……白蓮路さまは、なぜ……」
「あいつは白蓮路じゃありません」
「え?」
「白蓮路に化けた妖狐。あなたを騙し、魂を奪おうとした邪悪なあやかしです」
 目を見開き、驚く睡蓮の前に、白い狐の姿をした化け物が現れる。
「私は……妖狐に騙されていたの?」
「現人神は魂を犠牲にだれかを救うなんてことはぜったいにしません。この取引自体、有り得ないことです」
「フン。今さら気付いたところでもう遅い」
 妖狐の低い咆哮混じりの声が轟いた。
 彼の体から発せられる妖気は、さらに周囲を死の色に染め上げていく。
 睡蓮は困惑した。
 神の力を持つとはいえ、こんな恐ろしい力がひとびとや土地を守るとは思えないからだ。
「そんな……白蓮路さまじゃないなんて」
 睡蓮が呟いたその直後。
 睡蓮を目掛けて、紫色の炎が飛んできた。楪が睡蓮を抱きかかえ、素早く後方に飛ぶ。しかし、炎は消えることなく、軌道を変え、睡蓮をどこまでも追いかけてくる。楪は睡蓮を抱いたまま、炎から逃げ続けた。楪の腕の中で、睡蓮は訊ねる。
「では、私が魂を差し出しても楪さまは助からないの……?」
 不安げな眼差しで楪を見上げる睡蓮に、楪は優しく微笑む。
「それは大丈夫ですよ。そもそも俺が死ぬという話自体、奴の嘘ですから」
 え、と睡蓮の口から戸惑いの声が漏れる。
「では……楪さまは死なないのですか?」
「死にませんよ」
「そ、そっか……よかった……」
 息をつく睡蓮に、楪が苦笑する。
「わたしの炎を前に、無駄話とは」
 妖狐の瞳が紫色に光る。
「死ねっ!」
 再び、今度はいくつもの炎が睡蓮たちを襲い来る。
「チッ!」
 楪は逃げる。が、次第に追い込まれていく。
 炎がとうとう睡蓮と楪に追いつく直前、ふたりのあいだを、ひらりと影が横切った。
 じゃきんと刃物同士が擦れ合うような音がして、睡蓮は振り向く。
 楪も足を止め、睡蓮を抱いたまま振り返った。
「遅くなりました」
 そこにいたのは、両手に刀を構えた侍然とした男性。
 額には、大きなひとつの角。赤い瞳は鋭く、少し開いた口からは鋭い犬歯が覗いている。
 ただ目が合っただけで、息すらできなくなってしまいそうなほどの迫力。
「ご無事でしたか、楪さま、睡蓮さま」
 あやかしは睡蓮と楪を見て、ひそやかな声で言う。
 目が合い、睡蓮はあれ、と思った。
 その面立ちと声にどこか見覚えがあったのだ。鋭いけれど、どこか優しげな目元。凛としていながらも、柔らかな声。
 睡蓮はこのあやかしを知っている。
「もしかして、桃李さん……?」
 睡蓮が訊ねると、そのあやかしは両手の刀を下ろし、優雅な所作で会釈した。
「ご無沙汰しております、睡蓮さま」
「桃李さん……うそ、本当に? 本当に、桃李さん?」
 凛としたその立ち姿は、まるで別人だ。
「あやかしの姿で会うのは初めてでしたね。驚かせてしまい、申し訳ありません」
 睡蓮はぶんぶんと首を振る。
「会えて嬉しいです……!」
 心がパッと、太陽に包まれたような安心感を覚えた。
「桃李、助かった」
 楪が桃李に声をかける。
「お怪我はございませんでしたか、楪さま」
「はい。助かりました」
 桃李は楪へ素早く駆け寄ると、その場に跪いた。
「さて」と、楪が妖狐へ冷淡な眼差しを向ける。
「妖狐。今までは大目に見ていましたが、今回ばかりは許しはしません」
 楪が凄む。しかし妖狐は楪の言葉を鼻で笑い飛ばした。
「フン。わたしはただ、この娘との契約を遂行しただけだ。お前に文句を言われる筋合いはない」
「一方にしか利益がない取引を、契約とは言いませんよ」
「今さら喚いたところで無駄だ。娘の魂のうち、八つはもうわたしの中にある。残りひとつをもらったら、その娘は消える」
「……どんな卑怯な手を使って彼女を騙したのかは知りませんが、この契約は破棄させてもらいます。あなたが奪った彼女の魂、今ここで大人しく返せばこの話は不問にしてやりますが?」
「それはできないな」
 桔梗の眉間に皺が寄る。
「あなたはいったい、なにが目的なんです? なぜ彼女を狙う」
「決まってるだろ。復讐だ」
「復讐だと?」
 妖狐の体が、激しい紫色の炎に包まれていく。
「お前に封印されたときから、わたしはずっとお前の一族を陥れることだけを考えてきたというのに!」
 大きな咆哮が空に抜ける。
「あなたが悪事ばかり働くから封印しただけですよ。逆恨みされても困ります。それより妖狐、あなた、どうやって俺の封印を解いたのです?」
「フッ……解いたんじゃない。勝手に解けたのだ」
「勝手に解けた……?」
「あぁ。岩が割れたんだよ。お前の力が弱ったのか、それとも俺の力が強くなったのかは知らんがな。おかげでわたしはもう完全に自由だ」
 そう言って、妖狐はにやりと口角を上げ、怪しげに笑った。
「お前に復讐をと思っていたとき、結婚したと聞いてな。わたしが身動き取れずにいたあいだに、お前だけ幸せになりやがって……。だから花嫁を見つけ出し、三ヶ月後にお前が死ぬと吹き込んでやった。そうして、囁いた。お前を生かすには、じぶんの魂を差し出すしかないと。そうしたらその娘はあっさり魂を差し出したよ。可哀想に。お前の大切な花嫁は、お前のせいで死ぬんだ。お前自身が愛しい花嫁を殺すんだよ」
 妖狐の声は、楪の胸に深く、低く、重く落ちた。楪がなにも言い返せず黙り込んでいると、
「違います」
 と、凛とした睡蓮の声が響いた。