月の京へ来てから、睡蓮の様子がおかしいことには気付いていた。特に、玄都織家へ挨拶に行ってからだ。
――楓夜さまになにか言われたか……。
あのひとはいいひとだが、若干世話を焼き過ぎるところがある。
もしかしたら、楪のためを思って睡蓮になにか言ったのかもしれない。
ひとは、立場が上のひとの前では盲目的になりやすい。妖狐のときも思ったが、特に睡蓮はそれが顕著だ。自己肯定感が低いことも大きな要因だろう。
睡蓮はおそらく、楓夜の言葉を丸ごと鵜呑みにした。楓夜にとっては軽い助言程度の話だったとしても、睡蓮にとって楓夜は、あまりにも大きな存在だから。
相談に乗りたいが、睡蓮にはあれからずっと避けられている。無理に聞くのはどうなのだろう。余計に彼女を萎縮させてしまうのではないか。
でも……。
――俺は、どうしたらいいのだろう。
「…………」
口元に手をやる。昨夜、思いが溢れて、強引に睡蓮の唇を奪ってしまった。そっとなぞる。唇には、昨夜の睡蓮のぬくもりが未だに残っている気がした。
『大丈夫ですから。ちゃんと覚悟は決めてますし』
睡蓮は覚悟と言った。なんの、覚悟?
『私、もう離縁したいなんて言いませ――』
思い出すだけでも心臓が鷲掴みにされたように痛い。
それでも文句は言えない。だって、先に拒絶したのは楪のほうだ。文句を言えるような立場じゃない。
彼女が望むなら、そのとおりにしてやらなければ。
たとえ胸が引き裂かれるように痛んだとしても、それが、愛することなのだ。そう、楪はおのれに言い聞かせる。
「……はぁ」
……頭が痛い。
楪は額を押さえてため息をついた。
結局一睡もできないまま、朝を迎えてしまった。今日は大切な式典なのに。まさかこんなことになるだなんて。
「楪さま。そろそろ式の準備を」
桃李が部屋へやってくる。楪を一瞥して、わずかに眉を寄せた。
「……今行きます」
立ち上がる楪を、桃李がじっと見つめる。なにか言いたげな視線だ。十中八九睡蓮のことだろう。昨夜、桃李も騒ぎに気付いて駆けつけていたから。睡蓮は、動揺して気付いていなかったようだが。
「……なんです?」
「ひとつだけ、言いたいことがあります」
「…………」
楪は睨むように桃李を見た。
「睡蓮さまは、ご家族とずっとすれ違って来られました」
言われずとも知っている。今さらなんの話だ、と楪は顔をしかめる。桃李は続ける。
「それでも彼女は、ご家族を愛しておられた。もしかしたら、また両親がじぶんを見てくれる日がくるかもしれない。心のどこかで、その期待を捨て切れなかったんでしょう。……それに、私はあの両親を見て思いました。あの親は、睡蓮さまをきらいだったというわけではないと思います。ただ、どう接すればいいか分からなくなってしまったのです。今のあなたのように」
「……どういう意味ですか」
「ひとには、本音を隠すくせがあります。特に大人は」
桃李は言う。
どうしたって血が繋がっているほうを愛してしまうじぶん。娘たちにあからさまな差をつける妻。妻を批難したいけど、愛しているからなにも言えない不甲斐なさ。姉と違って可愛がられるじぶん。お姉ちゃん、とそばへ駆け寄りたくても、親の顔色を見て足を止めてしまうじぶん……。
「ご両親も妹さんも、それぞれ、いろんな思いの中ですれ違った。睡蓮さまは、その犠牲となってしまった。残酷な話かもしれませんが」
なおも眉を寄せる楪に、桃李はため息をつく。
「ひとはすれ違うんですよ。どれだけ思い合っていたとしても、言葉にしなければ見ていないことと一緒なんです」
「……すれ違う……」
「あなたはそれを、彼女から学んだのではなかったのですか」
そのとおりだ。だが、だからといって、彼女に強く出られる立場じゃない。楪は一度、睡蓮をひどく傷付けている。彼女が望むことを邪魔する資格なんて、楪にはない。
「まさか、睡蓮さまがおひとりになることを本気で望んでいるだなんて思っていませんよね?」
「……ひとりになりたいから、ああ言ったんでしょう」
「違います。睡蓮さまは、あなたに愛されないことが苦しくて、あなたから離れようとしてるんです」
「……まさか、そんなこと」
「とにかく、睡蓮さまに誤解されたままがいやなら、本音を言ってください」
「……俺は現人神です。感情なんてそんなもの……」
「また、以前のような失敗をするつもりですか? あの様子では、今度こそどこかのあやかしか現人神にかっさらわれますよ」
「…………」
「立場なんて、考えている場合ですか。あなたはいつになったら男になるのです? 花嫁が泣いてるんですよ。花嫁を助けられるのは、だれですか」
桃李は厳しい顔つきで言いたいだけ言うと、背を向けた。
――花嫁が泣いている。
睡蓮は、泣いている。こうしている今も。
楪は眉を寄せ、ただじぶんの足元を見つめる。
――立場なんて考えるな。
真面目な桃李らしからぬ言葉だ。桃李はなにごとにおいても現人神としての自覚を持てと今までさんざん楪に言ってきた。そんな男が。
頬を張られたような気分になった。
楪は静かに立ち上がり、夜麗殿へ向かった。