現人神の花嫁〜離縁からはじまる運命の恋物語〜


 そのあとの晩餐会は、なにごともなく終了した。
 ただ、それは表向きで、睡蓮の心はさらにざわつくこととなった。
 原因は、美風である。
 美風はやはり睡蓮のことがかなり気に入ったようで、終始睡蓮に絡んできた。
 そこで美風は、とんでもない爆弾を落としたのである。
「――初恋のひと?」
 フォークを動かしていた手がぴたりと止まった。
「えぇ。睡蓮はご存知? 楪さまの初恋のおかた」
 困惑しつつ、睡蓮は首を横に振る。楪にそんなひとがいただなんて、桃李からも聞いていない。
 そもそも楪は、ひとぎらいではなかったのか。
 女なんて信用していなかったと……。
「まぁ、私もさっき薫さまから聞いたのだけど」
「あの、そのおかたはどのような」
「さぁ。ただ、相当想っていたそうよ。あのひとぎらいの楪さまが、信じられないけれどね」
「…………」
「それにしても、現人神さまって恋をしてもそのひととはぜったい添い遂げられないのだから可哀想よね」
「……でも、美風さまと薫さまは、仲が良さそうですね」
 睡蓮は一度躊躇ってから、美風へ訊ねた。
「薫さまは、その……いろんなおかたと仲がいいと聞きましたが」
「えぇ、そうね」
 美風は笑顔を崩さずに、平然と答える。
「……その、美風さまはそういうの、いやではないのですか?」
「そうねぇ……西はほかと違って、独特の恋愛観を持つ土地でもあるからね」
 そういえば、そんなことを楪も来るときに言っていた気がする。
「私は薫さまが好きだし、薫さまも私の魂を気に入ってくれてる。よそでどれだけ女と遊んでも、最終的には私の元へ戻って来ざるを得ないって分かってるから、優越感もあるしね」
 ……そう、美風はうっそりと微笑んだ。
「そ……そうですか」
 無邪気な少女のように思っていたが、案外強かというか豪胆というか。
「睡蓮。あなたもほかの女なんかに負けちゃだめよ。あなたは楪さまにとって特別なの。なんと言ったって幻の花をその身体に宿しているのだから!」
 睡蓮はただ曖昧に笑った。
『魂を気に入ってくれてる』
 美風はそう言った。現人神である薫がそういう認識であるとすれば、おそらく、楪もそうだ。
 睡蓮の魂を気に入ってくれている。睡蓮を、ではなく。
「これで、お世継ぎができればもっと安泰よ」
 お世継ぎ。
 さらに崖から突き落とされたような感覚になる。
 そうだ。すっかり忘れていたが、楪は現人神なのだ。じき、後継者となる者を残さなければならない。
 その役目は、睡蓮にもあった。
 いつまでも契約のままでは子は成せない。
 だから睡蓮に、愛していると言った?
 子が欲しいから。
 胸が引き裂かれそうな痛みを覚える。
 苦しくてたまらない。苦悶の表情で美風を見ると、彼女は涼しい顔をしてスープを飲んでいた。
「美風さんは、お強いですね……」
 思わず本音を漏らす睡蓮に、美風が笑う。
「大人なんて、こんなものじゃない?」
 そうなのか。美風とは、ほんの一、二歳くらいしか変わらないはずなのに。
 いずれ、睡蓮もこのように思える日が来るのだろうか。
 ……いや。
 来ない気がした。
 だって睡蓮には、圧倒的に愛された記憶が少な過ぎるから。
 期待をするななんて、息をするなと言っているようなものだ。
 晩餐会の食事は、とんでもないごちそうであったはずなのに、睡蓮はひとつもその味を感じることができないのだった。
 晩餐会のあと、深夜のことである。
 睡蓮は紅が眠ったのを確認して、そっと部屋を出た。
 眠れずに、外の空気を吸おうと思ったのだ。外は風が冷たく、少し肌寒い。
 外廊に腰掛け、墨で塗られたような庭をぼんやりと眺める。
 睡蓮は家族のことを思い出していた。
 杏子――睡蓮の義妹である。
 杏子は、生まれた頃から睡蓮がほしいものすべてを与えられていた。
 おもちゃも、着物も、食べ物も、両親の愛も……。
 杏子が生まれたとき、睡蓮は素直に妹ができたことが嬉しかった。
 でも、両親はどんどん杏子優先になって、睡蓮のことをないがしろにするようになった。
 跡取りができたから、お前はもういらない。
 杏子を抱き、笑みを浮かべる母親を見るたび、睡蓮の心には小さな傷ができた。
 楪との結婚の話が持ち上がったとき、睡蓮は嬉しかった。
 この家を出られるからではない。
 現人神の花嫁になれば、今度こそ両親に認めてもらえるのではないかと思ったからだ。愚かな考えであったが。
 でも、それでも当時は、そこに光を見出していた。じぶんは邪魔ではなかったと、思えるような気がしていた。
 ただ、存在価値がほしかった。それだけのために、睡蓮は楪と結婚したのだ。
「利用してたのは私も同じ……」
 じぶんのことは棚に上げて、傷付くなんて間違っている。
 いつの間にこんなに欲深くなってしまったのだろう。以前は、ただ楪を想えるだけで幸せだったのに……。
 考えて、あのときと同じだ、と、思う。
 孤児であったじぶんが、花柳家に引き取られたとき。
 あの頃、睡蓮は初めてのことばかりだった。じぶんのために出された豪華な食事も、じぶんにだけ向けられた愛情も。初めてのことで感動して、あっという間にそれに順応してしまった。愛なしではいられないほどに。
 だから、杏子に嫉妬して、楪のもとへ逃げた。
 でも、当時楪には愛されていなかったから、片想いでも耐えられた。
 今は――無理だ。一度、楪の愛に触れてしまったから。たとえそれが偽りだとしても。
 ――……知らなければ、幸せだったのかな。
『桔梗ですよ、睡蓮さま』
 妖狐に魂を取られそうになったとき、助けに来てくれた楪の姿が、まだ睡蓮のまぶたの裏に焼き付いている。
 あのときの感動は、今も鮮明に睡蓮の心を震わす。
 楪の懺悔も、楪の優しい眼差しも、ふと見せてくれるようになった眼差しも、ぜんぶ……。
 明日、睡蓮は楪の花嫁になる。
 花嫁は、現人神にとって特別な存在。それ以上を望んではだめ。睡蓮を必要としてくれるだけでじゅうぶんだと思わねばならない。
 もともと不釣り合いだったのだ。
 睡蓮が楪を好きになるのは当然。だけど、楪が睡蓮を好きになる要素なんて、これっぽっちもない。
「睡蓮ちゃん」
 吸い込まれそうなほどの静けさの中、声が降ってきた。顔を上げると、薫がいた。
 どうして、と驚く睡蓮に、薫がうっそりと微笑む。甘美な笑みだった。
「少し気になってね。晩餐会のときも寂しそうな顔をしてたから」
 睡蓮は薫から目を逸らした。
「そんなことは」
 ない、と言う前に、薫が睡蓮の手を取り、引き寄せる。突然濃くなった薫の気配に、睡蓮は息を詰めた。
「あの……」
 小さく身動ぎをすると、薫が力を強めた。睡蓮は動けなくなる。
「君の心は泣いてる。愛してほしいって叫んでる。君は花嫁に向いてない。純粋すぎるんだ」
「……そんなこと……」
 ないと言えず、唇を噛む。
 唇を噛み締めて堪えていないと、涙が溢れそうになってしまう。
「……そんなこと、思ってません」
 それでもようやく、震える声で睡蓮は否定する。薫から逃れようと、必死に身体を捩った。
「離して……」
「強がらないでよ。君は――」
「なにしてるんですか」
 背後から、空気を裂くような低い声がした。
 ハッとして振り向くと、楪が立っていた。顔は影になっていてよく見えない。でも、深藍色の妖気が楪の身体から溢れ出しているのが見える。
「睡蓮の妖気に乱れを感じて来てみましたが……やはりあなたですか」
 雲間から月光がふりそそぐ。それが、不意に楪を影から炙り出した。楪は険しい顔をして、薫を見ている。楪は静かに怒っていた。
「あ、あの……楪さん」
 楪は睡蓮をちらりと一瞥したものの、なにも言わず薫へ視線を戻した。
 ――え……。
 いつもと違う冷ややかな眼差しに、睡蓮は急激に心が冷たくなるのを感じる。まるで、冷水を浴びせられたように。
 楪は睡蓮の腕をぐいっと引いて薫から引き剥がすと、前に立った。
「白蓮路さまは、こんな時間にどのような要件で?」
「んー? まあね。君の花嫁が悲しんでいたみたいだから、慰めてあげようかなって」
 飄々とした声で、薫が言う。それに対して、楪は硬い声で返した。
「心配は無用です。睡蓮のことは、俺が分かってますから」
 くっという声がした。楪の背中越しに薫を見ると、彼は楽しそうに笑っていた。
 楪の妖気がさらに強くなるのを感じる。
「分かってる? そうかな?」
 楪は眉を寄せる。
「なにか?」
 楪は、あまり感情を表に出さない。そんな彼が不機嫌を隠そうとしないのは珍しい。
 ――どうしてそんなに……。
 薫と目が合う。
「花嫁の顔を見てみなよ。わたしのところに挨拶に来たときから、泣きそうな顔をしてるっていうのに、君はまったく気付いてない」
 楪が睡蓮を見やる。睡蓮は咄嗟に下を向く。その目を見返すことはできなかった。
「さっき、挨拶に来てくれたとき、あんまりこの子の様子がおかしいものだから、心の中覗いちゃったんだよね。睡蓮ちゃんの過去はなかなか刺激的だったな」
「心の中……?」
 睡蓮が呟く。
 なんとなく、彼にはすべてを見透かされているような気がしていたけれど、その理由はこれか。
「現人神の花嫁に術を使うのは、禁忌のはずですよ。悪趣味な術を、俺の花嫁に使わないでいただきたい」
 咎める楪に、薫は肩を竦める。
「防衛だよ。わたしたちは同盟関係にあるけれど、お互い適度に張り詰めてなきゃならないだろ。わたしの奥さんがずいぶん睡蓮ちゃんに懐いてたものだから、心配になっちゃったのさ」
「快楽主義のあなたがよく言う」
 これはさすがに癇に障ったのか、薫も表情を厳しくした。
「おや……それを言うなら君こそ。俺の花嫁、だなんてよく言うよ。そんなに言うなら彼女の本心、教えてあげようか。ねぇ、睡蓮ちゃん?」
 薫が睡蓮を流し見る。
「結構です。睡蓮とは直接話しますから」
 薫が再びくっと笑う。
「あそ? じゃあ、わたしは帰ろっかな。愛しい奥さんが待ってるし。――まぁ、きっと無理だけどね。今の君たちじゃ、想いはぜったいに交わらない」
 そう言い残し、薫は衣をひるがえして殿舎を出ていった。
 あとには、静寂だけが残された。
 月光の下、気まずさがふたりのあいだに横たわっている。楪がゆっくり睡蓮のほうを向いた。
「睡蓮。大丈夫でしたか」
 ひっそりとした声に、睡蓮は小さく笑みを浮かべ、頷く。
「はい。お騒がせしてすみませんでした」
 まずい。上手く笑顔が作れない。
「あの、睡蓮」
 睡蓮が顔を上げる。
「なにか悩みがあるなら、俺に――」
 話してほしい、と言葉が続く前に、睡蓮は首を振った。
「……いえ、大丈夫です」
 出鼻をくじかれ、楪は言葉を呑む。
「ちょっと眠れなかったんです。その……明日が式だと思うと、ちょっと緊張してしまって。でも、大丈夫ですから。ちゃんと覚悟は決めてますし」
 期待をしないのは慣れている。
 それに、楪にはせめて安心して仕事をしてほしい。楪の気を煩わせるようなことはしたくない。
「睡蓮――」
 睡蓮は決意が揺らがないうちに、と楪を見据えた。
「楪さん。私、式が終わったら、以前のお屋敷に戻りたいです。あの社はやっぱり私にはちょっと荷が重いっていうか……合わない、気がするので」
 楪が息を呑む音がした。わずかな沈黙のあと、楪が言う。
「それは、つまり……俺とはべつで……ひとりで過ごしたいということですか」
 睡蓮は胸の痛みを堪えながら頷いた。
「はい。楪さんも、お仕事忙しいでしょうから。あ、でも大丈夫です。安心してください。私、もう二度と離縁したいなんて言いませんか――」
 言い終わる前に、不意に楪が睡蓮の腕を引き寄せた。そのまま、楪は睡蓮に覆い被さるようにして、強引に口づけをした。
 睡蓮は驚きに目を見張る。
 拒む間もなく、楪は睡蓮を強く腕の中に閉じ込めた。次第にその力は弱まり、力なく離れていく。
「ゆず……」
「……俺があなたを傷付けたから……? 俺には、あなたを愛することさえ許されないんですか」
「え……」
 楪の悲しげな顔を見た瞬間、睡蓮の心に深いひびが入った。
 ――どうしてそんな顔をするの? 私はただの花嫁で……魂しか価値はないはずなのに。あなたが私を好きになる理由なんてないでしょう?
 それなのにどうしてそんな顔を……。
 訊ねる前に、楪が言う。
「……分かりました。睡蓮が望むなら、そうします」
「あの……楪さま」
 睡蓮がその手を取るが、楪はそれを拒むように睡蓮の手をそっと剥がした。
 はっきりとした拒絶を感じ、睡蓮は絶望した。

 月の京へ来てから、睡蓮の様子がおかしいことには気付いていた。特に、玄都織家へ挨拶に行ってからだ。
 ――楓夜さまになにか言われたか……。
 あのひとはいいひとだが、若干世話を焼き過ぎるところがある。
 もしかしたら、楪のためを思って睡蓮になにか言ったのかもしれない。
 ひとは、立場が上のひとの前では盲目的になりやすい。妖狐のときも思ったが、特に睡蓮はそれが顕著だ。自己肯定感が低いことも大きな要因だろう。
 睡蓮はおそらく、楓夜の言葉を丸ごと鵜呑みにした。楓夜にとっては軽い助言程度の話だったとしても、睡蓮にとって楓夜は、あまりにも大きな存在だから。
 相談に乗りたいが、睡蓮にはあれからずっと避けられている。無理に聞くのはどうなのだろう。余計に彼女を萎縮させてしまうのではないか。
 でも……。
 ――俺は、どうしたらいいのだろう。
「…………」
 口元に手をやる。昨夜、思いが溢れて、強引に睡蓮の唇を奪ってしまった。そっとなぞる。唇には、昨夜の睡蓮のぬくもりが未だに残っている気がした。
『大丈夫ですから。ちゃんと覚悟は決めてますし』
 睡蓮は覚悟と言った。なんの、覚悟?
『私、もう離縁したいなんて言いませ――』
 思い出すだけでも心臓が鷲掴みにされたように痛い。
 それでも文句は言えない。だって、先に拒絶したのは楪のほうだ。文句を言えるような立場じゃない。
 彼女が望むなら、そのとおりにしてやらなければ。
 たとえ胸が引き裂かれるように痛んだとしても、それが、愛することなのだ。そう、楪はおのれに言い聞かせる。
「……はぁ」
 ……頭が痛い。
 楪は額を押さえてため息をついた。
 結局一睡もできないまま、朝を迎えてしまった。今日は大切な式典なのに。まさかこんなことになるだなんて。
「楪さま。そろそろ式の準備を」
 桃李が部屋へやってくる。楪を一瞥して、わずかに眉を寄せた。
「……今行きます」
 立ち上がる楪を、桃李がじっと見つめる。なにか言いたげな視線だ。十中八九睡蓮のことだろう。昨夜、桃李も騒ぎに気付いて駆けつけていたから。睡蓮は、動揺して気付いていなかったようだが。
「……なんです?」
「ひとつだけ、言いたいことがあります」
「…………」
 楪は睨むように桃李を見た。
「睡蓮さまは、ご家族とずっとすれ違って来られました」
 言われずとも知っている。今さらなんの話だ、と楪は顔をしかめる。桃李は続ける。
「それでも彼女は、ご家族を愛しておられた。もしかしたら、また両親がじぶんを見てくれる日がくるかもしれない。心のどこかで、その期待を捨て切れなかったんでしょう。……それに、私はあの両親を見て思いました。あの親は、睡蓮さまをきらいだったというわけではないと思います。ただ、どう接すればいいか分からなくなってしまったのです。今のあなたのように」
「……どういう意味ですか」
「ひとには、本音を隠すくせがあります。特に大人は」
 桃李は言う。
 どうしたって血が繋がっているほうを愛してしまうじぶん。娘たちにあからさまな差をつける妻。妻を批難したいけど、愛しているからなにも言えない不甲斐なさ。姉と違って可愛がられるじぶん。お姉ちゃん、とそばへ駆け寄りたくても、親の顔色を見て足を止めてしまうじぶん……。
「ご両親も妹さんも、それぞれ、いろんな思いの中ですれ違った。睡蓮さまは、その犠牲となってしまった。残酷な話かもしれませんが」
 なおも眉を寄せる楪に、桃李はため息をつく。
「ひとはすれ違うんですよ。どれだけ思い合っていたとしても、言葉にしなければ見ていないことと一緒なんです」
「……すれ違う……」
「あなたはそれを、彼女から学んだのではなかったのですか」
 そのとおりだ。だが、だからといって、彼女に強く出られる立場じゃない。楪は一度、睡蓮をひどく傷付けている。彼女が望むことを邪魔する資格なんて、楪にはない。
「まさか、睡蓮さまがおひとりになることを本気で望んでいるだなんて思っていませんよね?」
「……ひとりになりたいから、ああ言ったんでしょう」
「違います。睡蓮さまは、あなたに愛されないことが苦しくて、あなたから離れようとしてるんです」
「……まさか、そんなこと」
「とにかく、睡蓮さまに誤解されたままがいやなら、本音を言ってください」
「……俺は現人神です。感情なんてそんなもの……」
「また、以前のような失敗をするつもりですか? あの様子では、今度こそどこかのあやかしか現人神にかっさらわれますよ」
「…………」
「立場なんて、考えている場合ですか。あなたはいつになったら男になるのです? 花嫁が泣いてるんですよ。花嫁を助けられるのは、だれですか」
 桃李は厳しい顔つきで言いたいだけ言うと、背を向けた。
 ――花嫁が泣いている。
 睡蓮は、泣いている。こうしている今も。
 楪は眉を寄せ、ただじぶんの足元を見つめる。
 ――立場なんて考えるな。
 真面目な桃李らしからぬ言葉だ。桃李はなにごとにおいても現人神としての自覚を持てと今までさんざん楪に言ってきた。そんな男が。
 頬を張られたような気分になった。
 楪は静かに立ち上がり、夜麗殿へ向かった。

 花嫁の神渡り式が始まった。
 睡蓮は豪奢な色打掛に身を包み、そのときを待っていた。
「睡蓮、大丈夫?」
 小さく息を吐く睡蓮を、紅が心配そうに見つめる。
「大丈夫。ちょっと緊張してるだけだから」
「あのさ、睡蓮……今朝のことだけど」
 紅はなにかを言おうとするが、言葉が見つからないのか、口をぱくぱくさせるだけだ。
 今朝、睡蓮は紅に式が終わったら社を出ることを伝えた。楪から許可を既にもらっていることも。
 どうして、と身を乗り出す紅だったが、睡蓮の様子になにかを察したのか、それ以上はなにも言わず、大人しくなった。
 朝から驚かせてしまったことを申し訳なく思いながら、睡蓮は庭に咲いた桔梗から紅へ視線をやった。
「ごめん、こんなときにする話じゃなかったよね。ただ、式が終わったらすぐ帰るだろうから、ちょっと焦っちゃって」
「違うよ。たしかに驚いたけど、あたしが言いたいのはそうじゃなくて……あたしはね、睡蓮がどこに行くとしても、着いてくよ」
「……紅、ありがとう」
「でもさ、その……本当にいいの?」
「なにが?」
「なにが……って、だってその……別宅じゃ、楪さまいないんだよ。また前と同じような生活になっちゃうよ」
「それが私の性に合ってるんだよ。今回、現人神さまたちご夫妻を見て思ったんだ。楪さまと私じゃ、やっぱり釣り合わないなって」
「そんなことないよ。睡蓮と楪さまは……」
「待って待って、紅。べつに、後ろ向きの決断じゃないのよ。ただ、お互いのためを思ってのことなの。私がいると、きっと楪さんは気を遣っちゃうから」
「でも……」
 じぶんたちが夫婦であることに変わりはないし、睡蓮は楪を愛している。
 だからべつに、これは後ろ向きの選択などではないのだ。
 愛されたいと願う気持ちは睡蓮の中にまだあるし、胸は今も引き裂かれるように痛いけれど、それとこれとはべつ。
 楪は夫だ。それが唯一、睡蓮を慰めてくれる事実だった。
 たとえ愛されなくても、楪は睡蓮を必要としてくれる。じゅうぶん、ぜいたくなことだ。
「だから……悲しくなんてないよ」
 睡蓮はじぶんの心に言い聞かせるように呟いた。
「それに、私には紅がいるし。だから大丈夫よ」
 睡蓮はそう言って、親友に笑みを向けた。
 うそじゃない。睡蓮には紅がいる。だから、悲しくないし寂しくないのだ。
 ずず、と鼻をすする音がして、睡蓮は顔を上げる。紅が泣いていた。
「ちょ……紅。泣かないでよ、もうすぐ式が始まるのよ」
「だって、勝手に出てくるんだから仕方ないじゃん」
 紅は鼻声で文句を垂れながら、また鼻をすする。
「悔しいよ……楪さまも楪さまだよ。なんで止めないのかな。意味分かんないし。あのひと、なに考えてるのかもぜんぜん分かんないんだよ。ちょっと良い奴かもって思ったあたしの感動返せよ」
「落ち着いてって、紅」
「う〜」
 睡蓮は泣きながら喚く紅の涙を優しく拭ってやる。紅は、その後もしばらく泣き続けながら、楪や桃李の文句を吐き捨てていた。
 その姿を見て、睡蓮は少し心があたたかくなった。
 じぶんのために泣いてくれるひとがいるということが、嬉しかった。
 式の支度をするあいだ、睡蓮は一度も楪と会話を交わすことはなかった。楪は睡蓮と目を合わせるどころか、途中で殿舎を出ていってしまったきり、戻ってすらこない。
 式直前になっても戻ってこない楪に、さすがに睡蓮も焦り始める。
 昨夜はあんなことがあったし、怒って式に出ない、なんてことになったら……。
 桃李や紅だけでなく、ほかの現人神たちにも迷惑がかかる。
 探しに行ったほうがいいだろうか。でも、じぶんが行ったら余計機嫌が悪くなるかもしれない。桃李に頼んだほうが……。
 ぐるぐると考えていると、桃李が優しく声をかけてきた。
「睡蓮さま、大丈夫ですよ。楪さまは夜麗殿に用事があって、そのまま式に向かうとおっしゃっていました」
「あ……そうだったんですね」
 よかった。
「それでは睡蓮さま。そろそろ参りましょう」
 紅白の巫女服を着た葉織が迎えにやってくる。
 いよいよだ。
 睡蓮は頷いて、葉織に続いた。
 花嫁の神渡り式は、水晶殿から始まる。
 会場である月の舞台まで、花嫁一行が行列を作って歩くのだ。
 楪は先に舞台で待っている……はずだ。
 雅楽の演奏と漆黒の闇に染まる世界を、ゆっくりと仮面を被った巫女たちに先導され、睡蓮は歩いた。
 周囲を照らすのは、竹の中に施されたほんのりとした照明のみ。ぽうぽうとした光を辿ると、竹林の中に人知れず作られた舞台が、ずっと先に見える。
 まるで、おとぎ話の世界に入り込んでしまったような気持ちになりながら、睡蓮たち花嫁一行は、その舞台を目指し歩いていた。
『……れん。睡蓮』
 足元に気を配りつつ歩いていると、ふと、声が聞こえてきた。楪の声だ。睡蓮は顔を上げた。
 姿を探すが、楪は見当たらない。いるわけがない。楪は舞台にいるはずなのだから。気のせい?
 きょろきょろしていると、となりを歩いていた巫女が「どうかなさいましたか」と話しかけてきた。
「あ、いえ……なんでも」
 ハッとして、再び歩くことに集中する。
『睡蓮』
 するとまた、声が聞こえてきた。
『驚かせてすみません。俺です。楪です。これは、念術と呼ばれる、特定のひとの頭に直接話しかける術です』
 やはり、この声は楪。
 周囲を見る。みんな、楪の声には反応していない。術を使って話しかけてきているらしいから、おそらくこの声は睡蓮にしか聞こえていないのだろう。
 驚いた。楪はそんな術も使えたのか。
『どうかそのまま、歩きながら聞いてください』
 睡蓮は、静かに楪の声に耳を傾けることにした。
『睡蓮。昨日は、すみませんでした。式を前にして、あなたが不安になるのは当たり前のことなのに、俺は配慮が足りていませんでした。それどころか、あなたが俺になにも相談してくれないことが不満で……』
 頭の中に直接響く楪の声は、いつもより少し弱々しい気がする。
『今朝、薫さまのところへ行って、いろいろと話を聞いてきました』
「え……」
 声が漏れてしまい、睡蓮は慌てて口を噤む。
 なぜ薫に? と内心睡蓮が疑問に思いながら歩いていると、楪は心の内を読んだかのように付け足す。
『彼は念術を得意とする現人神ですから、あなたの心を覗くことができるのです。実は今も、彼の力を借りて話しかけています』
 そういえば、昨夜もそのようなことを言っていた。
『あなたが俺を信用できないのは、楪としてのかつての行いのせいだと理解しています。……だからこそ、あなたにこれ以上いやな思いをさせないよう、考えて……配慮して行動していたつもりだったんですが……』
 楪の言葉が一度途切れる。
『……俺は、桔梗でいたほうがよかったでしょうか』
 足が止まりかけた。慌てて足を出すが、おかげで着物が引っかかって足がもつれそうになる。咄嗟に葉織が支えてくれた。
「す……すみません」
「いえ。お気を付けください」
 睡蓮は慎重に歩みを進める。一方で、心は動揺していた。楪がそんなことを思っていただなんて、ぜんぜん知らなかった。
 桔梗でいたほうがよかったか……なんて。
 ――そんなこと、思うわけない。
 むしろ、桔梗が楪だと知って睡蓮は心の底から嬉しかったし、ホッとした。楪が想像通り優しいひとだったと分かったから。
 だから……違うのだ。
 そう言いたいが、楪は近くにいない。
 いくら心の中で思っても、睡蓮の心の声は楪には届かない。
『俺は……桔梗でいたほうが、あなたを守れたでしょうか』
 ――そんなことない!
 楪の声は聞こえるのに、姿が見えず、話しかけられないもどかしさが焦燥を掻き立てる。
 今、楪はどんな顔をしているのだろう。苦しげな声が、切ない。
『昔……よく、幸せ者だなと言われました』
 神の力を得て。
 優れた容姿を持って生まれて。
 由緒正しい家に生まれて。
 なんて幸運なおかた。
 なんて羨ましい。
『ことあるごとに、会う大人みんなに、そう言われました。だから俺は、大人たちの刷り込みをまんまと信じて、幸せとはこういうことなのだと思って生きてきました』
 自由がなくても、仕方がないのだと。
 騙されても、騙されるほうが、信じたほうが悪いのだと。
 財力も地位も権力もある。
 これこそが幸せ。
 たとえだれも信じられず、孤独の中にいたとしても。
『……でも、違いました。あなたに出会って、あなたを知って、初めて俺は本当の幸せを知ったんです。あなたと一緒に飲むお茶が、なにより美味しい。あなたに似合うと言われた着物は、毎日でも着たくなる。あなたと出かけたときに飲んだ、あの珈琲が忘れられない。この離れのにおいも、縁側から見る庭の花も、歩くとしなる板の間の音も……すべて。あなたと過ごした何気ない日常が、愛おしくてたまらないんです』
 楪の声は、柔らかさの中にどこか切実さを帯びていた。
『これまで口にしてきたものは、安全で安心で、さらに最高級のものでした。それでも今、俺がいちばんに思い出すのは、あなたと一服したときに飲んだお茶や、あなたが美味しいと言ったものでした。あの喫茶店の珈琲も、チョコレートも。俺にとっては、『いつもの』ものでした。けれど、睡蓮と雨宿りで入ったあの日の珈琲は違いました。いつもと同じ珈琲のはずなのに』
 紛れもなく特別だった、と、楪は言う。
『俺は、あなたと出会ってすっかり変わりました。あなたにだけ、欲が尽きないんです。あなたに好かれたいだとか、あなたに触れたいだとか……でも、なによりもあなたにきらわれてしまうことが怖くて』
 これまで、みんなに現人神さまと敬われてきた。それが当たり前で、そこに疑問など感じたことはなかった。
 けれど、あなたといると、どうも心が穏やかじゃいられないんです。
 楪は言う。どこか、懇願するような響きを声に滲ませて。
『あなたのことになると、とても冷静じゃいられない。あなたに近づく男には無条件にいらつくし、あなたに隠しごとをされると不安でたまらなくなる。あなたのすべてを独り占めしたいと思ってしまうんです』
 そのうち、少しづつ舞台が近付いてきた。
 心臓がどくんと跳ねる。
『桃李に言われました。いくら思っていても、声にしなければ思っていないことと同じだと。そんなこと、と思いました。勝手に、伝わってる、と思っていました。……俺は間違っていた。桔梗としてそばにいて、あなたの性格はよく分かっていたはずなのに……』
 舞台の上に、うっすらと楪の影が見えた。けれど、暗くて顔は分からない。こちらを見ているかどうかすら……。
 ふと、楪の影が揺れた。こちらを見た、気がした。
 舞台に辿り着く。
 雅楽の演奏が止み、ぱっと照明が消える。
 辺りが暗闇と静寂に包まれる。かすかな衣擦れの音がよく響いた。
「それではこれより、龍桜院家の神渡り式を行うこととする」
 式が始まる。
「――睡蓮」
 深閑とした中、楪の声が響く。今度こそちゃんと楪の声が耳に届き、顔を上げる。
 楪と目が合った。ただ目が合っただけなのに、泣きそうになってしまう。
 思えば今日、睡蓮は楪と一度も目を合わせていなかった。
「俺は、あなたのことが好きです」
 息が止まる。声が出ない。さっきまで、あんなに言いたいことがあったのに。
「睡蓮が花嫁だとか、特別だとか、そんなことはどうでもいい。だれがなんと言おうと、俺は睡蓮のことが好きです」
 楪は睡蓮を見つめ、困ったように笑った。
「不安にさせてすみません」
「……っ……」
 楪の顔を見て、睡蓮はようやく気がついた。
 楪のことが、好きだ。どうしようもなく。
 最初から、愛されているかどうかなんて、関係なかったのだ。
 もう好きになってしまったのだから。
 ずっと、家族に愛されなかった辛さがどうしても足を引っ張って、睡蓮をその場へ留めていた。
 深みにはまってしまう前に、引かなければと。それがじぶんを守る最善の行動だと。
 ……そんなこと、できるはずないのに。
 楪の顔を見た瞬間、睡蓮の中にあった恐怖がほどけていく。
 睡蓮は顔を上げ、楪を見る。
 ――好き。
 今すぐに伝えたい。
 けれど、ちょうど修祓と呼ばれる清めのお祓いがはじまってしまった。話せる機会を逃してしまった。
 そのあいだも、式は淡々と進んでいく。
 楪はもう、睡蓮を見ていない。ただ、まっすぐ前を見ている。
 お祓いに続いて祝詞奏上に移り、そしていよいよ、式は誓いの儀を残すのみとなる。
 向かい合わせになり、睡蓮は再び楪を見上げた。
 言うなら今だ。
 だけど……。
 心臓が最高潮に脈を打つ。緊張して、とてもそれどころではない。
 楪は睡蓮と目が合うと、心配はいらないというように微笑んだ。それだけで、睡蓮の心臓は壊れそうなほど鼓動を早める。
 楪が身をかがめ、ゆっくりと睡蓮に近付く。しかし唇が触れ合う直前、楪は動きを止めた。ふたりの唇は、触れそうで触れ合わない。
 睡蓮はまつ毛を震わせる。
 楪は、ふりで終わらせるつもりなのだ。睡蓮を気遣って……。
 そうこうするうち、楪がゆっくりと離れていく。儀式が終わる。
 無性に寂しさを感じ、気が付いたら睡蓮は楪の手を掴んでいた。楪がハッとしたように睡蓮を見る。
「すい……」
 かすかにじぶんを呼ぶ声が聞こえたが、睡蓮はかまわず楪の手を引き、背伸びをする。
「!」
 そして、楪の唇に口づけた。
 好き、と精一杯の気持ちを込めて。

 みずみずしい花の香りがする。
 睡蓮の姿を探していると、縁側でのんびりと庭を眺める彼女を見つけた。楪は外廊に佇んで、その横顔を眺めていた。
 先日行われた花嫁の神渡り式は、滞りなく終了した。
 晴れて公式の夫婦になった睡蓮と楪は、もう一度挨拶回りをしてから月の京を出た。
 式が終わると、楪は睡蓮ともう一度ちゃんと話をした。おかげでお互いの誤解は解けた。拍子抜けするくらいに、あっさりと。
 睡蓮は臆病だ。そして愛されたがり。
 控えめで、優しくて、我慢強い女の子。そしてたまに、大胆なことをして楪を驚かせる。
 妖狐のことしかり、式の口づけしかり。
 楪は先日の式を思い出す。
 式のとき、楪は睡蓮へ思いをすべて打ち明けた。
 式の朝……薫から睡蓮の心の声を聞いたとき、楪は愕然とした。
 楓夜や薫から契約結婚であると指摘され、動揺した睡蓮は、そのまま楪の言葉まで信じられなくなってしまったのだという。
 そんなばかな、と思った。
 楓夜と睡蓮はその日少し話をしただけ。そんなひとの話をだれが信じるのか。
 それくらいには信頼されていると思って自惚れていた。おろかだった。
『私、式が終わったら、以前のお屋敷に戻りたいです』
 そう言われたとき、感じたことのない感情を味わった。
 心が悲鳴を上げたような気がした。
 薫になにかされたのか。唆されたのか。
 瞬間湯沸かし器のように、一瞬で頭に血が昇った。
『わたしのところに挨拶に来たときから、泣きそうな顔をしてるっていうのに、君はまったく気付いてない』
 けれど、その熱は薫のひとことで一瞬で冷えて、代わりに胸に残ったのは、自己嫌悪だった。
 睡蓮はもともと、愛されずに生きてきた。
 心が揺らぐのも仕方のないことだ。
 それでなくても、睡蓮は新しい環境や初めて会う現人神たちに極度の緊張状態にあった。
 分かっていたつもりだった。けれど、裏切られたような気になってしまったのだ、どうしても。それで、冷静な判断ができなくなっていた。
 睡蓮のことになると、楪は途端に無力になる。
 桃李や紅や、薫の後押しのおかげでなんとか睡蓮の誤解は解けたが……。
 ――だが、あのとき……。
 まさか、睡蓮がじぶんから口づけしてくるとは思わなかった。
 楪は、想いを伝えられただけで満足だった。だから、あのときもふりにした。睡蓮の気持ちをまだ聞けていなかったからだ。
 睡蓮の眼差しを見て、はっきりと感じた。想いが伝わった感覚を。
 ……知らなかった。
 じぶんの想いが伝わるということは、じぶんを受け入れてもらうということは、こんなにも胸を満たすものなのか……と。
 今まで、じぶんの気持ちを話すことは無駄なことだと思っていた。
 もともと本音を話すことに慣れていない楪は、言葉足らずなところがある。
 べつにそれでもかまわないと思っていた。そのやり方でも仕事で問題は起こらなかったし、桃李も楪の考えていることはだいたい察してくれた。
 でも、それではだめだと桃李に言われて驚いた。
 桃李は楪を理解しながらも、怒っていた。ずっと不満だったのだろう。言葉足らずの楪が。
 でも、我慢していたのか桃李は言わなかった。
 だから楪は知らなかった。言われなきゃ、分からないのだ。どんなにそばにいても。
 桃李や紅に叱咤され、薫に挑発され、楪はようやくじぶんが間違っていたことに気付いた。
 ずっとひとりだと思っていたけれど、そんなことはなかった。
 楪はずっと守られ、助けられていたのだ。
 睡蓮や桃李だけじゃない。楓夜や、薫たち現人神にも。
 現人神はひとだ。ひとはひとりでは生きられない。
 話さなきゃ、相手にはなにも伝わらない。
 知らないものを警戒するのは、当たり前のことだ。
 だからみんな知ろうとする。
 今まで楪に近づいてきた彼らの中にも、もしかしたらただ純粋に、楪の人柄を知りたいだけだったひともいたかもしれない。
 そのことに楪はずっと気付けなかった。
「――楪さん?」
 ふと、声をかけられて我に返る。
 楪に気付いた睡蓮が、不思議そうに首を傾げていた。
「そちらでなにを?」
「あ……いえ。なんでもありません」
 微笑みを返す楪を見て、睡蓮はわずかに首を傾げた。立ち上がり、楪のもとへ駆け寄ってくる。
 楪の前に立つと、睡蓮はおもむろに手を伸ばしてきた。
「睡蓮?」
 睡蓮の指先が髪に触れて、楪はハッと息を呑む。
「花びら」
 楪の髪に付いていた花びらを、睡蓮は指先で摘んでみせた。赤い花びらだ。
 いったいどこから、と思っていると、ふとすぐ近くに睡蓮を感じて息を詰める。
「あ――ありがとうございます」
 睡蓮はいいえと言うように微笑むと、花びらに視線を落とした。
「なんの花かな。風に飛ばされてきたんでしょうか」
 庭にはたくさんの花がある。
 だが、似た花びらは庭には見当たらなかった。ならばいったい、この花びらはどこから来たのだろう。
 楪はふと、怖くなることがある。
 もし、睡蓮と出会っていなかったら。
 睡蓮があのまま、じぶんのために妖狐に魂を差し出してしまっていたら……。
 たまに夢に見るのだ。睡蓮が蝶になって、どこかへ飛び去ってしまう夢。
 そんな夢を見るたび、楪は彼女の手を引いて、籠の中に大切に閉じ込めてしまいたくなる。おかしいだろうか。
 睡蓮を好きになってから、楪はどんどんじぶんが弱くなっているような気がする。
 でも、それすら心地いいと感じてしまうのは……。
「……幻の花、でしょうか」
 ぽつりと、そんな言葉が漏れた。
 睡蓮はきょとんと楪を見上げたあと、次第に嬉しそうな笑みを滲ませた。
「そうかもしれません」
「……なんだか、あなたのようですね」
「え?」
「儚くて、幻想的でありながらもまっすぐで、しっかりとした色がある」
「…………」
「……椿は寿ぎの象徴で、とても縁起のいい木とされているんです」
「そうなんですか?」
「この庭にも、椿を植えましょう。記念に」
「…………あの、楪さん」
「ん?」
 睡蓮は一度、もぞっとためらってから、意を決したように楪を見上げた。
「ずっと言えていなかったんですけど……」
「はい?」
「私、楪さんのことが好きです。現人神さまだからとか、そういうことは関係なく」
「…………うん」
 あぁ、やっとだ。
 愛を確かめあったのはずいぶん前のはずなのに、今、ようやく睡蓮と繋がれた気がする。
 ようやく見つけた。
 愛おしくて、かけがえがないひと。
 楪は微笑み、睡蓮の前髪をそっと掬う。
 睡蓮はくすぐったそうに身を震わせた。
 そんな些細な仕草にすら愛おしさを感じる。
 楪は睡蓮の後頭部に優しく手を滑らせると、そのままゆっくりと屈む。
 睡蓮の顔に影が落ちる。睡蓮はもう、迫る楪を拒まない。
 睡蓮の唇にそっと口づけしようとしたとき、とん、とかすかな物音がした。
「ちょっ……ばか、押さないでよ」
「押してません。あなたこそ黙りなさいって言ってるでしょうが」
「うっさいわね、どっか行ってよ」
「喋らない、気付かれたらどうするんです」
 外廊の向こうで、ひそかに言い合う声が聞こえる。
 声のするほうを見ると、桃李が紅の口元を手で塞いで、身動きを封じているところだった。
 おおかた、紅が覗こうとしているところに桃李が居合わせたとかだろう。
 楪はため息をつきつつ、睡蓮へ視線を戻す。従者たちは無視してふたりの時間に戻ろう、と思ったのだが。
 睡蓮は見られていたことが恥ずかしかったのか、耳まで朱に染めてもじもじしている。さすがにこの状況で続きをするのははばかられた。
「……お茶にでもしましょうか」
 睡蓮に言うと、案の定、睡蓮は真っ赤な顔のままこくこくと頷いた。
 楪は睡蓮から離れると、桃李へ言う。
「桃李。お茶」
「……かしこまりました」
 桃李が背中を向ける。ご丁寧に、桃李は紅も連れていった。
 楪は部屋に戻る――と見せかけて、不意打ちで睡蓮の唇を奪った。
 睡蓮はすぐにはされたことが飲み込めなかったようで、きょとんとしている。次第に、落ち着きかけていた肌の色がぽぽっと朱に染まった。花……ではなく、果実のようだ。いっそのこと食べてしまいたくなる。
「ゆっ……楪さん!」
「遠慮すると、不安になってしまうのでしょう?」
 いたずらな笑みを見せる楪に、睡蓮はさらに顔を染め上げる。
「う……そ、それは……」
 楪は笑って部屋に戻る。
 もう離れないように、愛しい花嫁の手をしっかりと握って。

 向日葵ほど奇妙な花はないと、詠火は香林殿の庭を眺めて思った。
 まっすぐ太陽に向かって顔を上げて咲く姿は凛として、みんなが美しいという。だけどその健やかさが詠火はどうも苦手だった。
 睡蓮と楪たち龍桜院の者が京を離れたあとも、詠火たちほかの現人神は、まだ殿舎に残っていた。
 現在は香林殿でお茶会の最中だ。最年長の現人神、楓夜の呼び掛けである。
「いやぁ、それにしてもまさか、楪があんなに熱い男だったとはねぇ。母は嬉しいぞ」
 楓夜はごきげんに紅茶を飲んでいた。
 楓夜が言っているのは、昨日の神渡り式のことである。
 式の最中、花嫁一行が舞台へと向かっているときのことだった。
 突然、頭の中に楪の声が響いた。わずかに驚いて顔を上げると、焔や楓夜も同様にわずかに眉を寄せていた。聴こえているのは、詠火だけではないらしい。
 詠火は薫を見やった。どこか楽しげな表情をしている。
 やはり、薫の仕業だ。これほどの念術を使えるのは、薫だけ。
 声はずっと頭の中に響き続けている。楪らしくない、甘ったるくて身体中が痒くなりそうな言葉が。
 楪は花嫁にしか聴こえていないと思っているのだろう。つくづく思った。薫は性格が悪い。
 睨むような視線を送れば、薫だけでなく楓夜まで肩を震わせていた。おまえ、最年長だろう、と言いたくなる。
 うしろを見る。焔はどこか嬉しそうに口角を上げて、そのとなりにいた美風は瞳を輝かせている。
 楪は舞台の中央で花嫁を待っているため、現人神(じぶんたち)がいる主賓席の様子にはまったく気付いていない。
「……はぁ」
 詠火はくだらないと呆れながら、式がさっさと終わるのを待った。
 楪は花嫁へ向けて話していた。
 誤解した花嫁に、心からの愛の言葉を送り続ける。
 詠火は楪の花嫁――睡蓮のことを思い出す。
 漆黒のつややかな髪は彼女の心根を映したようにまっすぐ、ほんのり桃色が乗った白い肌は玉のように滑らかで美しい。美しいが、どこか薄幸そうな印象を受ける少女だった。
 少女とはいっても詠火よりは歳上だったが。それでも、なんというか放っておけなくなるような、守ってやりたくなるような少女だった。こんな少女が楪の花嫁だなんて哀れに思った。〝花嫁〟でなければ、幸せな結婚ができただろうに、と。
 勝手に、同志のように思っていた。
 だからつい、あんなことを言ってしまったのだ。
『突然現人神の伴侶となって慣れぬこともあるだろう。なにかあったら、遠慮なく参れ』
 詠火や楓夜、薫は、ふたりが契約結婚だと思っていた。
 だってまさか、楪がひとを愛するなんてだれが思うか。昔から、ひとをむしけらのようにきらっていたあの能面が。
 しかし、それが花嫁を惑わせてしまったらしい。あのあと、ふたりには申し訳ないことをした、と少しだけ反省をした。
 それにしても、あの男にいったいどんな心境の変化があったというのだろう。
 まさか式典で、ここまでのことをしでかすとは。
「にしても、まさかゆずくんが本気で惚れた花嫁を連れてくるなんてねぇ」
 薫が言った。
「神はひとだった。そういうことだな。なぁ詠火」
 楓夜はなぜか詠火を見て言った。
「なぜわらわに言う」
「そなたも楪に似て、素直でないからな」
 詠火はふん、と顔を逸らした。楓夜は薫以上になにを考えているのか分からない。苦手だ。
「そーそ。焔くんに甘えてばかりじゃだめだよ。詠火ちゃんも立派な現人神なんだからね。……あ、じぶんで言いづらいならわたしが代わりに詠火ちゃんの本音、焔くんに伝えてあげようか?」
 薫が前のめりに言ってくる。顔に好奇心が滲み出ている。
 詠火は静かに立ち上がった。
 手のひらから赤黒い炎を生み出し、薫に向き合う。
「ひとの丸焼きというのは美味しいのか、おぬしで試してやろう」
「じょ、冗談だよ……」
 顔を引き攣らせて後退る薫に、詠火はふん、と息を吐く。
「にしてもあのゆずくんが慌てる姿、最高に面白かったなぁ」
「はっはっは。あやつには昔からもう少し表情を顔に出せと言ってたんだがな。残念なことに、ああなってしまった。ま、花嫁にはでれでれのようだから、母は許そう」
 楪がああなったのは、十中八九こういう大人がそばにいたからだろう、と詠火は内心思う。おそらく、詠火も楪路線を進んでいる気がする。まぁ、ふたりには言わないが。言ったらそれはそれで面倒なのである。まぁ、薫には読まれているかもしれないが。
「楪は、わらわたちに声が漏れていたことを知っているのか?」
 詠火は気を取り直して薫へ訊く。
「うん。だって楓夜さまがぜんぶぺらぺらしゃべっちゃうんだもん。おかげでとんでもない水攻めを受けたよ。一張羅だったのにさ」
 薫は今、いつもの衣ではなく、東の衣装である浴衣を着ていた。品のいい浅葱色の衣だ。楪のものだろう。
 なるほど。
 ことの次第を知った楪が激高し、そこへ睡蓮が慌てて止めに入って着替えさせた……といったところか。もらった着物をそのまま身につけているところがまた、薫らしい。薫はそういう男である。
「……くだらない」
「そう言うな。だれより若いそなたが愛を信じなくてどうする」
「愛など……現人神には必要ない。現人神に必要なのは、花嫁と花婿だ」
 詠火には、焔が必要だ。幻の花と呼ばれる魂を持つから。
 詠火は紅茶を飲み干すと、黙って立ち上がった。
「帰るのか?」
「あぁ」
「そうか。焔にもよろしくな」
 詠火は小さく頷いて、衣をひるがえらせた。
 門を出るところで、ふとあることを思い出した。立ち止まって振り返る。
 見送りに来ていた楓夜と薫が、振り返った詠火にん? と目をしばたたかせた。詠火はいつも、出ていくときはうしろを振り返らないのである。
「そういえば、そなたの花嫁が晩餐会のときに言っていたんだが。楪の初恋とは、だれのことなのだ?」
 詠火が薫に訊ねると、楓夜が目を丸くした。
「なんだって? あいつにそんなのがいたのか? 母は聞いてないぞ」
 そりゃ晩餐会のとき、楓夜はべろべろに酔っ払っていたからな。
 さすがにその言葉は飲み込んで、詠火は楓夜に呆れた視線だけを送る。すぐに薫へ視線を戻した。
「あぁ。あれね。あれはね、睡蓮ちゃんだよ」
「は?」
 睡蓮が楪の初恋?
「……じゃあ、美風は睡蓮本人に楪の初恋の話をしていたっていうのか」
「いやぁ実はさ、奥さんにその話をしたとき、そういえば名前を言ってなかったなって。だから勘違いしちゃったんだね!」
 軽く言ってくれる。そのせいで睡蓮はずいぶん心を痛めただろうに。
「…………そなたらは楪になにか菓子折でも持っていってやったほうがいいぞ。口を聞いてもらえなくなる前に」
 なんだと、と、楓夜が驚愕の顔を向ける。わざとらしい。
「とうとう反抗期がきたか」
「違う」
「ま、わたしはつんけんしてるゆずくんも好きだからね! にしても傑作だったなぁ、あのゆずくんの告白!」
「母は泣くのをこらえるのに必死だったぞ。あれはもう……ぷっ」
「くくっ……」
 思い出し笑いをするふたりに、詠火は白い目を向ける。
「……わらわは失礼する」
 詠火は、耐え切れずけらけらと笑い出した楓夜と薫を見て、楪たち夫婦を憐れむとともに、こういう大人にはならないようにしよう、と心に決めるのだった。