もともと孤児(みなしご)だった睡蓮は、五歳のとき花柳家に養子(ようし)として迎え入れられた。子宝に恵まれなかった両親によって。
 花柳家に来た頃、両親は睡蓮を実の子のように可愛がった。
 しかし、睡蓮が花柳家の娘になってまもなく、両親の間に子供ができた。それが、妹の杏子(あんず)だった。
 杏子が生まれると、それまで睡蓮に向いていた両親の愛と関心はあっさりと妹に向いた。
 杏子が生まれてから、睡蓮は〝お姉ちゃん〟と呼ばれるようになった。
 だれも睡蓮のことを、名前で呼ばなくなった。
 そのうち睡蓮にあやかしを感じ得る特殊な力があることが発覚し、家族はさらに睡蓮を敬遠した。
 家で飛び交うのは、母親である〝杏果(きょうか)〟から一字とってつけられた〝杏子〟という名前だけ。
 睡蓮は花柳家で、部外者になった。
 ――私は用済みなの? 私はもう、いらない子?
 妹だけを可愛がる両親を見るたび、睡蓮はいつも心の中でそう問いかけた。
 直近で家族が笑顔を向けてくれたのは、睡蓮が現人神の花嫁に選ばれたときだ。だが、中身が契約結婚であることを正直に打ち明けると、やはりあっさり興味を失くした。
 そのため睡蓮は身ひとつで嫁ぐこととなった。見送りも、お祝いもなかった。
 龍桜院との婚姻期間中、睡蓮には楪が用意した屋敷が与えられた。
 その間、睡蓮は離れて暮らす夫、楪に毎月手紙を送り続けた。
 本人から手紙の返事が来たことはなかったが、代わりに彼の側近を名乗る桃李(とうり)という人物から楪の近況報告の手紙が返ってきた。
 中には楪の普段の仕事の様子や、彼の好物などが書かれていた。
 差出人である桃李からの配慮だった。顔も知らない相手と結婚した睡蓮を哀れに思っていたのだろう。少しでも楪を理解できるよう、手紙にはかなり細かく、丁寧に楪の性格がしたためられていた。
 おかげで睡蓮は楪を愛することができた。
 顔も知らない相手だったが、桃李の送ってくる手紙の中に楪の血や肉が、体温がちゃんと書かれていたから。
 いつか、顔を見せてくれる日が来ることを信じて、睡蓮は龍桜院の屋敷で生きていた。
 しかし婚姻から三年が経った頃、睡蓮は楪に離縁を申し込んだ。
 突然の離縁の話だったが、楪はすんなり睡蓮との婚姻関係を解消した。
 睡蓮はそれが、ちょっとだけ寂しかった。じぶんから言い出したこととはいえ、もう少し渋ってくれるかと思ったのだ。
 しかし、そんなことはなかった。楪は睡蓮を、完全に契約相手としかみていなかったらしい。
 お前の代わりはいくらでもいる。
 そう突き付けられた気分だった。
 睡蓮は、ここでも結局必要とされなかった。
 それから睡蓮は、楪と顔を合わせることのないまま、実家へ戻ることとなった。
 実家へ戻る日、唯一桃李が見送りに来てくれた。
 ずっと手紙でやり取りはしていたものの、桃李と会うのはこのときが初めてだった。
 桃李は鬼のあやかしだ。垂れた目尻が印象的な好青年だった。
 鬼といえばあやかしの中でも特に高貴なあやかしだが、桃李の場合はにこにことして、さらに人の姿に変化していたからか、親しみやすさがあった。
 睡蓮が丁寧な手紙を今までありがとう、と礼を言うと、桃李は困ったように微笑み、お力になれず申し訳ない、と言った。
 その言葉に、どれだけ睡蓮が救われたことか。
 睡蓮は最後、龍桜院家を出るときに桃李にひとつ頼みごとをした。
 それは、手紙のことだった。
 実家に帰ったら、睡蓮はまたひとりになる。憂鬱な日々が待っている。そんな日々を乗り切るために、この手紙を心の支えにしたいと。
 この三年、睡蓮は毎日桃李の手紙の中にある楪の姿を想像し、恋をした。顔も知らない相手だったけれど、どうしようもなく焦がれた。
 孤独な生活を送っていた睡蓮にとって、手紙はなによりの心の支えだったのだ。
 睡蓮の思いを聞いた桃李は、もちろん、と言ってくれた。
 そうして、睡蓮は楪によろしくと桃李へ告げ、龍桜院家を離れた。