それは、花嫁の神渡り式が三日後に迫った日の夜のことだった。
睡蓮が楪と龍桜院家の目録を見ていたとき。遠くで、ちりんと涼し気な音がした。鈴の音である。
社で柳の木に付けられた鈴が鳴ったとき、それはすなわち来客を表す。
ここへ来てすぐの頃、この鈴が鳴るたび睡蓮は紅が特訓を終えて帰ってきたのかと胸を弾ませた。
だが、毎回やってくるのは桃李だけ。話を聞いてみれば、紅は訓練に苦戦していて、合格点を取るのにはまだ時間がかかりそうだと苦笑い。
それから睡蓮は、桃李が来るたびにしたためておいた手紙を渡してもらっているが、返事が来た試しはない。もしかしたら、手紙を読む暇もないのかもしれない。
睡蓮は目録から顔を上げて、「こんな時間に桃李さんでしょうか?」と口にする。
睡蓮がそう思うのも無理はない。
なにしろこの鈴が鳴ったとき、だいたいやってくるのは桃李だけで、桃李以外来たためしがないからだ。
きっと今日も桃李だけだろう。無意識に落胆を醸し出す睡蓮に、楪はどこか意味深な笑みを浮かべた。
さて、と立ち上がり、睡蓮の手を引く。
「一緒にお迎えに行きましょうか」
「え……あ、はい」
促されるまま、睡蓮は楪とともに玄関に向かう。
そして、客人の顔を見た睡蓮の顔に、ぱっと花が咲く。
「紅!」
玄関を開けると、そこにいたのは、睡蓮が待ち続けた紅だった。
睡蓮が叫ぶように名前を呼ぶと、紅がぴゅっと小さな風を巻き起こして、睡蓮の頬に飛びついた。
耳元でぶんぶんと懐かしい羽音がする。紅だ。紛れもなく。
「紅……!」
「睡蓮〜!!」
睡蓮が名前を呼ぶと、紅は涙を滲ませて睡蓮のもとへ飛び込んできた。睡蓮は紅を受け止め、そのぬくもりを確かめる。
「特訓は? もういいの?」
「うん! もう完璧に護衛力身につけて……」
きたから――と、自信満々に頷いた紅の声に被せるように、桃李が言う。
「なんとか及第点を越えましたので――お待たせしてしまって申し訳ありませんでした、睡蓮さま」
さらっと言う桃李に、紅は小さく舌打ちをした。
「桃李さん! お疲れさまです」
紅ばかりに気を取られていたせいで、背後に桃李がいたことに気が付かなかった。
「紅の特訓、無事終わったんですね! 紅に良くしてくれて、ありがとうございます」
「いえいえ。まだまだ睡蓮さまをお守りするには気になるところが多々ありますが……まぁ、もうすぐ神渡り式ですし、いざとなれば私もいますからね。こんなのでも、いないよりはマシでしょう」
睡蓮が言うと、桃李はにこにこ笑顔で言った。いつも睡蓮に見せる優しい顔である。
すると、紅がけっと吐き捨てた。
「出たよ、腹黒鬼畜」
「鬼ですがなにか?」
「ああもうムカつく! この鬼畜め!」
「ちょっ……紅ったら、特訓してもらって文句言っちゃだめだよ」
「いいのよ、このくらい!」
たしかに、ちょっと桃李らしからぬ辛辣な物言いだけれど。
「それにね、睡蓮。あれは特訓じゃないわ。あれはいじめよ! もはやい、じ、めっ!」
紅が桃李を睨みながら羽音をぶんぶん鳴らす。ずいぶんとお怒りのようだ。
「そ、そんなに?」
さすがに心配になってきた。
桃李は穏やかでいいあやかしだ。睡蓮にも優しい。でも、彼のことをそこまで知ってるかと言われればそうでもない。
それに、紅のこの様子。
「うぅ……思い出すだけでも羽根が震えるわ……」
紅は良くも悪くも感情が豊かで、まっすぐな子だ。
「紅、いったいどんな特訓をしてきたの?」
「えっとねぇ。まず、乱気流内での長時間飛行訓練でしょ、それから嗅覚訓練、妖力向上訓練に変化術……しかもそれだけじゃなくて、お付のほうの特訓もやらされたんだよ! 料理とか洗濯とか、着物の仕立てかたとか、果ては洗顔用の水の温度とか、挨拶のときのお辞儀の角度まで……もう身体がばきばきだよぉ。ね、鬼でしょ!?」
紅がよろよろとした羽根さばきですがりついてくる。睡蓮は慌てて紅を受け止めた。
「ちょっと、大丈夫……」
「まったく……。睡蓮さま、騙されないでくださいね。紅さんはただ睡蓮さまに心配してほしくて演技しているだけですから」
「んなことないわ! まじでつらかったっつーの! あんた、鬼畜通り越してもはや変態なんじゃないの!」
「人聞きの悪いことを言わないでください。あなたの覚えが悪いからいけないんでしょう。一度言ったことを素直にできれば、私だって口うるさく言うことないんですから」
「はぁ!? あたしがばかだって言いたいの!?」
「おや。その程度の理解力はあるようで」
「くっ! この鬼が……!」
「ふふふ」
えっと、これはまた。どう解釈したらいいのだろう。
相性がいいのか悪いのか。
紅が顔を真っ赤にして睡蓮を見上げる。
「睡蓮、この男はまじで鬼畜だよ! こいつの言うことはもうなにも信じちゃだめよ!」
「わ、分かった分かった。とにかく……紅、疲れてるんでしょ? お風呂一緒に入ろうよ」
どうどう、と睡蓮は紅をなだめるように言う。すると、紅の瞳がきらんと光った。
「お風呂!? 入る!」
「楪さん、いいですか?」
睡蓮は楪を見上げる。
「えぇ、もちろん」
快諾してくれた楪に、睡蓮は笑顔を向けた。