無事、睡蓮が楪の花嫁となって一週間が過ぎた。
睡蓮は既に、本拠地を花柳家の離れから楪が住まう天空の社へと変えている。
最近の睡蓮は、社にある現人神や花嫁に関する資料を読み、勉強していることが多い。
現人神をそれぞれ加護する神獣のこと。それぞれの現人神が得意とする術式。花嫁の役割と、幻花と呼ばれる特別な魂について――。
現人神の花嫁として学ぶべきことは、たくさんある。
楪や薫たち〝現人神〟についても、じぶん自身である〝花嫁〟についても、睡蓮はまだまだ知らないことが多過ぎる。
睡蓮に与えられた部屋は、座敷と板間が襖ひとつで仕切られた二部屋。
しかし、睡蓮はいつも資料が保管されている資料庫の窓際にある洋風机と椅子を使って勉強している。
ぱら、と頁をめくる音が響いた。
そういえば、雨の音が消えている。
八角格子窓のほうへ目を向けると、しっとりとした水のにおいが濃くなった。
窓の向こうには、紫陽花がある。青、桃、白の花びらが灰色の空に鮮やかに映える。
近くにある柳の木も、いつもの乾いた葉音ではなく、生き返ったようにみずみずしい葉音に変わる。
睡蓮はそんなささいな変化が好きだった。
水と言えば、東の現人神について調べ始めて、分かったことがある。
楪は水を司る現人神だという。
ほかの現人神――たとえば白蓮路家は風、朱鷺風家は炎、玄都織家は土、である。
そしてひとびとは、その土地を治める現人神が司る力と同じ質の魂を持つと言われている。そのため、現人神は同じ系統の魂を持つ土地から花嫁を選ばなければならない。違う系統の魂では、番となり得ないからである。となると睡蓮は楪と同じ、水の魂を持っているらしい。しかも、その中でも特に稀有な幻の花と呼ばれる魂を。
ふと、資料庫の扉が音を立てて開いた。睡蓮は窓の外から、扉へ目を向ける。
だれだろう、と思って見ていると、入ってきたのは楪だった。社には今のところ、楪と睡蓮しかいないから当たり前と言えば当たり前なのだが。
楪は、紅と桃李もいずれここへ呼ぶつもりだと言っていたが、今のところはふたり暮らしだ。
紅と桃李は今、絶賛特訓中だからである。
なんでも、紅は護衛としての基礎を身につけるため、護衛任務に長けた桃李が特別に特訓するのだという。
しかし桃李の訓練は文字どおり鬼の訓練らしく、紅は半泣きになりながらこなしている、と楪は言っていた。
紅の武運を祈りつつ、睡蓮は毎日勉強している。
「睡蓮、少しいいですか?」
入ってきた楪が睡蓮を呼ぶ。睡蓮は資料を閉じ、立ち上がって楪のもとへ行く。
「どうかしましたか?」
楪は睡蓮と自室に移動すると、言った。
「花嫁の神渡り式が行われることが決まりました」
「花嫁の神渡り?」
睡蓮が首を傾げる。
「はい。以前の契約結婚時も行われる予定だったのですが。覚えていませんか?」
言われてみれば、と思い出す。
「そういえば……前のときはたしか、南の前現人神さまが崩御されて延期になったって、桃李さんから手紙で聞きました。えっと……花嫁の神渡り式って、いわゆる結婚式のことですよね?」
「そうです」
睡蓮と楪は、結婚式がまだなのである。
「そういえば、今南の現人神さまって……」
「炎禾さまが崩御されてからは、双子の妹である詠火さまが務めています」
「えっ! 現人神さまって、みんな男性なんじゃ……」
「まさか。現人神の中でも、朱鷺風家と玄都織家は代々、当主は女性ですよ。龍桜院家と白蓮路家は代々男が継いでいますが」
「なるほど……じゃあ、南と北の土地で幻花を持つのは、花婿さまとなるのですか?」
睡蓮が訊ねると楪は「はい」と微笑んだ。
「神渡り式は二週間後の夜、新月のもとで行われます。式自体は難しいことはないのですが、ただひとつ、睡蓮には話しておかなければならないことがありまして」
「話しておかなければならないこと?」
なんだろう。難しいことじゃなければいいが。
睡蓮はごくりと息を呑む。楪は説明を続ける。
「神渡り式は、月の京という特別な場所で行われます。月の京へは式前日に入って、その日はまず各現人神とその伴侶への挨拶回りがあり、そのあと晩餐会。翌日に式をして、式のあとは現人神と伴侶別れてのお茶会をして、解散……という流れになります」
「は、はい」
なかなか目まぐるしい。
――花嫁の神渡り。
現人神の〝花嫁〟が決まると、まずいちばんに行われる行事のひとつである。
世間で言う、いわゆる結婚式だ。
ただしかし、神事である花嫁の神渡りは、ふつうの結婚式とは少し違うところがある。
それは……。
「神渡り式では、現人神たちが一堂に会します。睡蓮は、この意味が分かりますか?」
「……いえ、えっと……?」
睡蓮は、楪の言葉の意味が分からず首を傾げる。
「現人神は、ひとのかたちをした神です。あくまで、神。そのため、ひととは桁違いの妖気を放っている」
「あっ……!」
それは、睡蓮も勉強した。
楪の言葉の意味を睡蓮はようやく理解する。
「現人神は凄まじい妖気を放つ。ひとの地に降りるときは神の力を封じるため、必ず仮面を被らなければならない」
睡蓮は資料に書かれていた文面を復唱した。楪が頷く。
「そのとおりです。妖気を抑える仮面は、現人神に限らず、強い妖気を持つあやかしには義務づけられています」
「つまり……現人神さまたちの妖気に、私が耐えられるのかが試されているということですか?」
「花嫁や花婿には、まずいちばんに求められる要素ですからね。彼らは式中、仮面は被りません。つまり、式のあいだそれに耐えられなければ、伴侶失格……と、なり得るということになります」
現人神について調べるまで、仮面に妖気を抑える力があるだなんて知らなかった。
高貴なあやかしが仮面を付けている理由は、ただ己の権力を誇示するためだと思っていたが、ちゃんとした理由があったらしい。しかも、ひとに配慮したものだったなんて。
「私に耐えられるでしょうか……」
「おそらく、問題はないかと思います。俺と過ごしてもまるでふつうでしたし、なにより幽雪と対峙したとき、俺は能力を解放していましたが、睡蓮は魂をほぼ失くした状態でも耐えていましたから」
「それはそうですけど……」
楪の話に、睡蓮の顔はみるみる青ざめていく。
楪はともかくとして、ほかの三神たちに認められる。
そんなこと、なんの取り柄もないじぶんにできるのだろうか。
途端に暗い顔になった睡蓮の背に、楪がそっと手を当てる。
「そう暗い顔をしないで、睡蓮。きっと大丈夫ですよ」 楪の言葉にも、睡蓮の中の不安はまだ消えない。
なぜなら睡蓮はじぶん自身が〝幻花の花嫁〟であると言われても、あまりぴんと来ていない。
幽雪との戦いのとき、己の魂のかたちを見て、それはたしかに、花のかたちをしていたのだけれど。
それだけではない。
睡蓮が楪にもたらしたという、あやかしの邪気を祓う力。
そんなすごい力が本当にじぶんにあるのか、睡蓮は未だに半信半疑だった。
「それからもうひとつ、睡蓮には覚悟していただかないといけないことが」
「ま、まだ覚悟することが?」
今度はなんだろう、とびくびくする睡蓮に、楪は控えめに続ける。
「正式に結婚を認められた場合、誓いの口づけがあるんです」
「く、くち、づけ……!?」
目を白黒させる睡蓮に、楪が小さくため息をつく。
睡蓮は未だに楪との距離感に慣れず、唇への口づけはおろか、楪の手が触れるだけでも身を固くしてしまう。それなのに、口づけだなんて。しかも、大勢のひとの前で。
無茶だ。ぜったい。
あわあわとする睡蓮を見つめ、楪は小さく吹き出した。
睡蓮との夫婦の営みについては、正直楪はもどかしい日々を送っていた。だが、楪は案外それも心地よいと思っていた。
なにしろ、楪だって心から通じ合った乙女は初めてなのである。触れたい反面、なにより大事にしたい存在に変わりない。
……ただ、神事となればべつである。
恥ずかしいからできません、はさすがに許されないだろう。
だが……。
楪はちらりと睡蓮を見た。
睡蓮はただ口づけと言葉にしただけで、顔を真っ赤にしている。
ふたりきりのときでこうなのだ。このままでは、人前で口づけなどおそらく無理に等しい。
「……睡蓮。そんな顔しないでください」
かちこちになってしまった睡蓮に、楪は苦笑混じりにそっと囁く。
「大丈夫ですよ、俺は、あなたがいやがることはぜったいにしません。だから心配しないで」
「え……本当、ですか?」
なおも不安そうな顔をする睡蓮に、楪は優しく微笑みかける。
「当日は、ふりにしましょう」
「えっ……ふり?」
驚く睡蓮に、楪が頷く。
「はい。口づけは式の最後……祭壇の上で行われます。現人神たちの前ではありますが、距離もありますし、ふりでもきっと見えませんよ」
「……そうですか」
「えぇ。だから心配しないで」
「はい……」
睡蓮がふっと息を吐く。どこか安堵したような表情をする睡蓮に、楪は少しの寂寥感を覚える。
睡蓮と思いを通じ合わせたものの、ふたりの間にはまだ距離がある。こうあからさまにホッとされてしまうと、寂しいものがある。
だが、あまり焦って距離を詰めても、彼女を怯えさせるだけだろう。楪は込み上げそうになる感情をぐっと抑えて、笑みを浮かべる。
「……そんなことより睡蓮。今から少し出かけませんか?」
「えっ? お出かけですか?」
「はい。さ、行きましょう」
楪は睡蓮に、いつもどおりの美しい仮面を被った。
その日の昼下がり、睡蓮は楪とともにみずみずしい夏山を背にした川辺を歩いていた。
ちょうどいい場所を見つけ、川べりに降りてひと休みする。
楪が言った逢い引きとは、宿場町へのおつかいのことだった。
以前仕立てを頼んだ着物屋から、商品が完成したと楪のもとに連絡があったらしい。今は着物屋での買い物を済ませ、喫茶店でお茶を飲んだ帰りである。
睡蓮はきらきらと光る水面を眺めて、目を細めた。川のせせらぎが涼やかだ。
久しぶりに来た宿場町は、相変わらず活気があった。
ふたりが背にしているのは、睡蓮の実家がある霊水山である。
「あの、ゆ……桔梗さん。本当に良かったんでしょうか? あんなにたくさんのお着物を買っていただいて……」
うっかり楪、と言いかけて、睡蓮は慌てて言い直した。
「もちろんです」
周囲には、水遊びをしている家族連れや、おしゃべりを楽しむ女学生たちが多くいる。
聞かれていないかとひやひやして周囲を見ていると、楪がとなりでくすっと笑った。
「……大丈夫ですよ。堂々としていれば、案外気付かれないものです」
「は……はい」
楪は今、桔梗の頃使っていた狐の面を被っている。
現人神として町に降り立つとき、楪は基本、仮面を被って素顔を隠す。
それは素顔を隠すためだけでなく、妖気を抑えるためだ。現人神の妖気はすさまじいため、妖気を抑える仮面は必須なのだ。
しかしそれだけでなく、ふだんの町の様子を知るためという意図もある。とりあえず、現人神は多忙を極めるということである。
「あの……桔梗さん。今日はいろいろ、すみませんでした」
桔梗、と呼ばれた楪は、涼しい顔――というか仮面を睡蓮へ向けて、言った。
「とんでもない。さっそく明日から着飾った睡蓮を見られると思うと、楽しみで眠れなさそうです」
「そ……それは……その、お着物に着られないといいんですけど」
「大丈夫ですよ。反物を合わせたとき、とても似合っていましたから」
今日買った着物は、睡蓮に世界一似合うと楪は本気で確信している。
「そ……そうでしょうか……」
「はい」
絶賛してくれる楪に、睡蓮は未だ慣れずにどぎまぎしてしまう。褒められるのは嬉しいけれど、どうもこうまっすぐ褒められると恐縮してしまうのだ。
これまで、こんなふうに褒められるようなことなんてなかったから。
言われていたことといえば、
『――杏子が生まれてきてくれたから、この家は安泰だわ。お姉ちゃん、将来杏子を支えてやってね』
『そうだな。お前はお姉ちゃんだからな』
そんなことばかりだった。
いやな記憶を思い出して、睡蓮はぎゅっと目を伏せる。
川のせせらぎと、華やかな少女たちの笑い声が睡蓮の耳を支配する。笑い声たちがどうしても家族を連想させてしまって、睡蓮はじっと耐えた。
そのときふと、こめかみをさらりとなにかが掠めた。
目を開けると、楪の長い指先が睡蓮の前髪を軽くかき上げていた。
「睡蓮? どうかしましたか?」
「あ……いえ」
慌てて笑みを作る。
「顔色が悪いです。気分が優れませんか? 今日は暑いですから……」
「いえ! 本当に大丈夫ですから」
「……そう、ですか」
大丈夫と言い張る睡蓮に、楪は不服そうにしながらも、ようやく引き下がる。
「それにしても、桔梗さんの言うとおり今日はいい陽気ですね……」
「えぇ。気持ちのいい天気です」
楪も頷いて空を見上げる。
睡蓮はちらりと楪を見た。
さらさらの銀髪は、まるで雨の糸を束ねたような幻想的な雰囲気を持つ。さらに、楪が今日着ているのは、淡い青磁色のお召。
それに加え、上から羽織っている純白の羽織がまるで羽のように美しい。
楪の銀髪が風にさらわれる。
睡蓮はその横顔に、ぼんやりとした寂寥感を覚えた。
「私なんかより、楪さんのほうがよっぽど……」
知らず、睡蓮は呟いていた。
「睡蓮?」
楪の怪訝そうな顔を見て、はっとする。
「あっ……いえ」と、曖昧に笑う。
そんな睡蓮に、楪も小さく笑う。睡蓮は呟いた。
「……私、嬉しいんです」
「え?」
「私にはもう、こんな穏やかな時間はやって来ないと思っていたから」
ふと、夢なのではと思う。
以前、桔梗とふたりで町に来たことを思い出す。
着物屋で見た、美しい反物や帯。そのあと雨宿りで入った喫茶店では、初めて珈琲とチョコレートを食べた。
あのとき楪は、睡蓮にたくさんの着物を注文してくれていたのだ。睡蓮がもう命尽きるということを、知らなかったから。
だけど睡蓮は今、こうして楪とともにいる。また、あんなひとときを楪と送れるだなんて。
本当に、夢のよう。
「……ありがとうございます、桔梗さん」
「こちらこそ。俺を選んでくれて、ありがとう」
楪は、そっと睡蓮の手を取る。睡蓮が顔を上げると、仮面越しに楪が微笑むのが分かった。
「本当のことを言うと、以前仕立ててもらっていた着物ができあがったと連絡があったのは、つい今朝のことだったんですよ」
「え、そうなのですか?」
「明日にでもゆっくり行けばよかったんですけど、どうにも我慢ができなくて。……つい、急いてしまいました」
「……楪さん」
「ちゃんとあなたに贈れる日がきて良かったです」
「……はい」
睡蓮は楪を見上げ、幸せを噛み締める。
――私はなんて、幸せなんだろう。
こんな素敵なひとに愛されて。
こんな素敵な贈り物をいただいて。
「桔梗さん、私――……」
そのときだった。
ふと、すぐ近くの土手に座り込んでいた少女たちの会話が聞こえてきた。
「それでね、彼ったら毎日口づけをねだってくるのよ。じぶんからより、わたしのほうからしてほしいのですって」
睡蓮と楪は吹き出しそうになる。お互い顔を見合せて、しーっと指を唇に当てた。
「きゃあ! なにそれ、素敵!」
「甘過ぎですわ!」
弾けんばかりの声だ。まるで小鳥たちのさえずりのようである。
「……でもね、わたくし、最初は結婚がすごく恐ろしくて、不安でたまらなかったのよ」
「分かるわよ。歳上の、しかも顔も知らないかたと結婚しなければならないなんて、わたくしだって目眩を覚えるわ」
「そうなのよ。だって、大人過ぎてなにを考えているのか分からないし」
そういうものなのか、と思う。たしかに、あまりに歳上だと話が合わなそうな気はするが。
「えぇ。お気持ちは分かるわ。わたくしも、結婚が怖かったですもの! 変なおかただったらどうしようって!」
なるほど。
じぶんとそう変わらない歳頃の女学生たちの会話は、睡蓮にとって貴重だった。
なにしろ睡蓮には友達がいない。紅は大親友だけれどあやかしだし、ふつうの人間の少女たちの価値観とは少し違う気がする。こういった常識は、睡蓮からしたら目から鱗なのである。
睡蓮は彼女たちの会話に聞き耳を立てた。
「でも、今は幸せそうですわ」
「えぇ。じぶんでも不思議なのだけど。いつの間にか好きになってしまったのよ、あのおかたのこと」
「まぁ、素敵」
「私もいつか、あのおかたとそうなれるかしら」
「あのかたって? まさかあなた、良い殿がたがいるの?」
「まぁ……ちょっとだけ、気になってる殿がたがいるわ」
「きゃあ! ちょっと、どんなおかたのよー!」
「ちょっと、内緒よ」
「いいじゃない! 教えてよ」
小鳥たちのさえずりのような楽しげな会話を聞きながら、睡蓮は考える。
――私も、今はすごく幸せ。だけど……。
同時に怖さもある。
この幸せがいつまで続くのか分からないし、そもそもこの幸せが本物かどうかすら、睡蓮には分からないから。
それに、である。
幸せは、ある日突然幻のように消え失せるものだと、睡蓮は知ってしまっている。
――楪さんにはぜったいにきらわれたくない……。
楪にまできらわれてしまったら、睡蓮は今度こそどうしていいか分からない。愛しているはずなのに、一緒にいるのがどうしても緊張して、怖くなる。
恋とは、こういうものなのだろうか。
宿場町からの帰り道。
睡蓮はどうしたらいいのか、よく分からなくなっていた。
それは、花嫁の神渡り式が三日後に迫った日の夜のことだった。
睡蓮が楪と龍桜院家の目録を見ていたとき。遠くで、ちりんと涼し気な音がした。鈴の音である。
社で柳の木に付けられた鈴が鳴ったとき、それはすなわち来客を表す。
ここへ来てすぐの頃、この鈴が鳴るたび睡蓮は紅が特訓を終えて帰ってきたのかと胸を弾ませた。
だが、毎回やってくるのは桃李だけ。話を聞いてみれば、紅は訓練に苦戦していて、合格点を取るのにはまだ時間がかかりそうだと苦笑い。
それから睡蓮は、桃李が来るたびにしたためておいた手紙を渡してもらっているが、返事が来た試しはない。もしかしたら、手紙を読む暇もないのかもしれない。
睡蓮は目録から顔を上げて、「こんな時間に桃李さんでしょうか?」と口にする。
睡蓮がそう思うのも無理はない。
なにしろこの鈴が鳴ったとき、だいたいやってくるのは桃李だけで、桃李以外来たためしがないからだ。
きっと今日も桃李だけだろう。無意識に落胆を醸し出す睡蓮に、楪はどこか意味深な笑みを浮かべた。
さて、と立ち上がり、睡蓮の手を引く。
「一緒にお迎えに行きましょうか」
「え……あ、はい」
促されるまま、睡蓮は楪とともに玄関に向かう。
そして、客人の顔を見た睡蓮の顔に、ぱっと花が咲く。
「紅!」
玄関を開けると、そこにいたのは、睡蓮が待ち続けた紅だった。
睡蓮が叫ぶように名前を呼ぶと、紅がぴゅっと小さな風を巻き起こして、睡蓮の頬に飛びついた。
耳元でぶんぶんと懐かしい羽音がする。紅だ。紛れもなく。
「紅……!」
「睡蓮〜!!」
睡蓮が名前を呼ぶと、紅は涙を滲ませて睡蓮のもとへ飛び込んできた。睡蓮は紅を受け止め、そのぬくもりを確かめる。
「特訓は? もういいの?」
「うん! もう完璧に護衛力身につけて……」
きたから――と、自信満々に頷いた紅の声に被せるように、桃李が言う。
「なんとか及第点を越えましたので――お待たせしてしまって申し訳ありませんでした、睡蓮さま」
さらっと言う桃李に、紅は小さく舌打ちをした。
「桃李さん! お疲れさまです」
紅ばかりに気を取られていたせいで、背後に桃李がいたことに気が付かなかった。
「紅の特訓、無事終わったんですね! 紅に良くしてくれて、ありがとうございます」
「いえいえ。まだまだ睡蓮さまをお守りするには気になるところが多々ありますが……まぁ、もうすぐ神渡り式ですし、いざとなれば私もいますからね。こんなのでも、いないよりはマシでしょう」
睡蓮が言うと、桃李はにこにこ笑顔で言った。いつも睡蓮に見せる優しい顔である。
すると、紅がけっと吐き捨てた。
「出たよ、腹黒鬼畜」
「鬼ですがなにか?」
「ああもうムカつく! この鬼畜め!」
「ちょっ……紅ったら、特訓してもらって文句言っちゃだめだよ」
「いいのよ、このくらい!」
たしかに、ちょっと桃李らしからぬ辛辣な物言いだけれど。
「それにね、睡蓮。あれは特訓じゃないわ。あれはいじめよ! もはやい、じ、めっ!」
紅が桃李を睨みながら羽音をぶんぶん鳴らす。ずいぶんとお怒りのようだ。
「そ、そんなに?」
さすがに心配になってきた。
桃李は穏やかでいいあやかしだ。睡蓮にも優しい。でも、彼のことをそこまで知ってるかと言われればそうでもない。
それに、紅のこの様子。
「うぅ……思い出すだけでも羽根が震えるわ……」
紅は良くも悪くも感情が豊かで、まっすぐな子だ。
「紅、いったいどんな特訓をしてきたの?」
「えっとねぇ。まず、乱気流内での長時間飛行訓練でしょ、それから嗅覚訓練、妖力向上訓練に変化術……しかもそれだけじゃなくて、お付のほうの特訓もやらされたんだよ! 料理とか洗濯とか、着物の仕立てかたとか、果ては洗顔用の水の温度とか、挨拶のときのお辞儀の角度まで……もう身体がばきばきだよぉ。ね、鬼でしょ!?」
紅がよろよろとした羽根さばきですがりついてくる。睡蓮は慌てて紅を受け止めた。
「ちょっと、大丈夫……」
「まったく……。睡蓮さま、騙されないでくださいね。紅さんはただ睡蓮さまに心配してほしくて演技しているだけですから」
「んなことないわ! まじでつらかったっつーの! あんた、鬼畜通り越してもはや変態なんじゃないの!」
「人聞きの悪いことを言わないでください。あなたの覚えが悪いからいけないんでしょう。一度言ったことを素直にできれば、私だって口うるさく言うことないんですから」
「はぁ!? あたしがばかだって言いたいの!?」
「おや。その程度の理解力はあるようで」
「くっ! この鬼が……!」
「ふふふ」
えっと、これはまた。どう解釈したらいいのだろう。
相性がいいのか悪いのか。
紅が顔を真っ赤にして睡蓮を見上げる。
「睡蓮、この男はまじで鬼畜だよ! こいつの言うことはもうなにも信じちゃだめよ!」
「わ、分かった分かった。とにかく……紅、疲れてるんでしょ? お風呂一緒に入ろうよ」
どうどう、と睡蓮は紅をなだめるように言う。すると、紅の瞳がきらんと光った。
「お風呂!? 入る!」
「楪さん、いいですか?」
睡蓮は楪を見上げる。
「えぇ、もちろん」
快諾してくれた楪に、睡蓮は笑顔を向けた。
その日の夜は、紅と一緒に寝ることになった。
楪に頼んだら少し渋い顔をしたけれど、今日だけと頼み込んだら渋々承諾してくれた。
しかし、夜、寝室に入っても紅は騒々しかった。
桃李はねちっこいだの、言いかたが気に入らないだのと、桃李の愚痴を散々喚き散らした。
寝落ちるまで、ひっきりなしに。
蜂というより雲雀のあやかしなのではないかと思ったくらいだ。けれど、その彼女らしい騒々しさが懐かしく、睡蓮の心に安心を与えた。
紅がいると、暗く寒い部屋に優しい光が灯ったような心地になるのだ。不思議だ。
楪といても、こうはならない。楪といるのは落ち着くし、安らぐ。だが、同時にとても緊張してしまう。じぶんがどう見られているかが気になって、目を合わせるのが怖くなるのだ。
それがどうしてなのか、睡蓮はまだよく分からない。
楪のことも紅のことも、愛している。
それなのに、楪にだけ緊張したり、不安になってしまうのはどうしてなのだろう……。
ふわり、とあくびが出る。眠くなってきた。
その日、睡蓮は久しぶりに深い眠りについたような気がした。
***
その翌日から、社の空気が変わった。空気に色がついたように華やかに、かつ忙しなくなったのである。
四六時中、紅がぺちゃくちゃとおしゃべりしているということもあるが、紅が戻ってきたことで睡蓮の緊張もいい具合に解けたのである。
楪を前にすると、未だに緊張して萎縮気味になってしまう睡蓮も、紅とのおしゃべりでは明るい笑い声を響かせる。
表情の明るくなった睡蓮に、楪はほっとしていた。
そして、忙しなくなった理由はもうひとつ。
いよいよ、神渡り式の支度に取り掛かり始めたのだ。
式を明日に控えた睡蓮一行はいよいよ今日、式典が行われる月の京へ向かう。
「睡蓮。ごはんだよ」
「はーい」
朝食の支度を終えた紅が、部屋に睡蓮を呼びにやってくる。
紅はいつもの小さなあやかし姿ではなく、人間の姿をしていた。
基本、紅は夜寝るとき以外の時間は、人間の少女に変化している。料理や洗濯のとき、人間姿のほうがなにかと勝手がいいからだ。
人間姿の紅は相変わらず小柄だが、睡蓮と同じくらいの年齢に見える。赤毛は自然な栗色に変化し、頭の高い位置でふたつに結えられている。
小町鼠色の生地に銀杏の葉が描かれた単衣に身を包み、帯は藍色の縦縞しじら織半幅帯だ。
人間姿の紅と話していると、ふつうの女子学生に戻ったような気になる。あの頃には経験できなかった友だちとのひとときを過ごしているようで、睡蓮はそれが少し嬉しかった。
紅が用意してくれた朝食を食べ終えると、着替えに入る。
以前、楪とともに出かけた着物屋で仕立ててもらった、特別な着物だ。
白地の生地に、薄紅色の梅の蕾と鶯が描かれた清楚な着物だ。帯は深緑色の薄い市松模様で、帯留めは梅の花だ。蕾の単衣に帯留めの花。つまり一輪だけ咲いた演出である。
梅の枝に止まった鶯が今にも飛び立ちそうで、睡蓮はこの着物が大のお気に入りだが、勇気が出ず、まだ一度も着ていなかった。
髪は紅が結ってくれた。髪には梅の実色の簪を挿して、完成だ。
「できたよ、睡蓮」
紅が満足そうに言う。
「う、うん……」
姿見を見る。やはり、すごく可愛い着物だ。
……けれど。果たしてじぶんに似合っているのだろうか、と不安に思ってしまう。
「紅……私、変じゃないかな?」
「どこが? この世のすべての男が見惚れるって保証する」
「そ、それはないよ……」
自信満々な紅に、睡蓮は苦笑する。
「もう、いいからほら、行くよ。楪さま、待ってるでしょ。あたしも着替えなきゃだし」
「う……うん」
紅にせっつかれ、睡蓮はそろそろと部屋を出る。
着物の裾からは、ひらひらとした布地が見えている。プリーツスカートという西の都で流行っているものだ。
これは、西の素材もなにか取り入れたほうがいい、という桃李の提案である。この式の前夜祭で、薫に紅の雇用の許諾を得るつもりだからだ。
しかしそのおかげで着物特有の重々しさがなくなり、一気に華やかな装いになった。丈が短いため歩きやすい。
「……おまたせしました」
着付けを済ませた睡蓮が楪のいる座敷へ向かうと、楪は睡蓮を見たまま硬直した。
「……どうでしょうか?」
「……あぁ、いや、すみません。あまりにも似合っているものだから……」
まっすぐな褒め言葉に、睡蓮は頬を染めて俯いた。
「ありがとうございます……その、楪さんも……」
そういう楪だって、今日は一段とお洒落に決めている。薄藍色の着物に光沢のある銀色の帯は品がありながらも涼しげで、墨色の羽織りにほどこされた植物の模様は雅やかさを演出している。
とても似合っている。
そのひとことが言いたいだけなのに、どうしても言えない。
――だって……私なんかに言われたって、きっと嬉しくもなんともないだろうし……。
睡蓮は足元を見やる。
昨晩、紅に言われたことを思い出していた。
紅は睡蓮の枕元で散々桃李の文句を言ったあと、ふと我に返ったように言ったのである。
『――で、睡蓮。楪さまとはどうなの?』
『んっ?』
突然話を振られ、それまで愚痴聞き係でこっくり船を漕いでいた睡蓮は、目をしばたたかせた。
『んっ? じゃないよ。ここんとこ、ずっと楪さまとふたりきりだったんでしょ? ね、口づけはした? その先は?』
詰め寄ってくる紅に、睡蓮はぎょっとする。
『しっ……しないよ! そんなことするわけないでしょ!』
真っ赤になって言い返す睡蓮に、紅は呆れた顔をする。
『そんなことってなによ』
紅の呆れたような言いかたに、睡蓮は唇を尖らせる。
『睡蓮は楪さまのことが好きなんだよね? 楪さまだって睡蓮のこと大好きなんだし……それなら、口づけもそれ以上のことも、べつにふつうじゃない。ふたりは夫婦なのよ? してないほうが変だよ』
『それは……』
分かっている。でも、勇気が出ないのだ。
戸惑う睡蓮をよそに、紅は続ける。
『睡蓮、もしかして楪さまのこと好きじゃないんじゃない?』
『えっ……まさか!』
睡蓮はぶんぶんと首を振る。楪のことは好きだ。それだけは間違いない。……はず。
だんだん不安になってきた。好きなのに触れられるのが怖い、と思ってしまうのは、ふつうではないのだろうか。
紅が心配そうな顔をして、睡蓮を覗き込む。
『ねぇ、睡蓮はただ、楪さまに恩を感じてるだけなんじゃないの? それなら触れられたくないっていうのは分かるし』
『そ……そんなわけないよ。手紙だって、私の宝物だし』
『でもさ、好きだったら触れたいって思うんじゃないの?』
睡蓮は考える。
楪に、触れる。
あまり考えてこなかったことだ。そばにいられれば幸せで、それだけでじゅうぶんだと思っていた。
――私、変なのかな……。
……と、そんなことを昨日、紅に言われた。一晩考えてみたけれど、睡蓮は結局、じぶん自身の感情がよく分からないままだった。
ふと暗い影を落とした睡蓮に、楪が眉を寄せる。
「――睡蓮? どうかしました?」
睡蓮はハッとする。
「いえっ……なんでもないです!」
「……そう?」
いけない、しっかりしなきゃ、と睡蓮は両手で軽く頬を張る。
「私、紅を呼んできますね」と、動く。
すると、「あたしならここにいるよ」と、声が飛んできた。そこには既に紅がいた。
「紅!」
いつの間に、と驚く睡蓮は、紅の格好を見てさらに驚いた。
「おまたせ」
「それって、護衛のときに着るって言ってた?」
「うん! そう!」
紅はさっきまで着ていた着物と違って、不思議な衣を身にまとっていた。
紅色の桜の刺繍がほどこされた、いわゆる軍服だ。きゅっとした首元、紅色の花の文様が描かれた肩掛けに、腰には同じく紅色のベルト。スカートは末広がりになっていて、中は花柄のレースがほどこされたふわっとしたフリル。
「どうどう?」
とても可愛い。
「すごく似合ってる」
西の雰囲気が濃い衣だ。おそらく、桃李の配慮だろう。紅はこう見えて、東と西にとってはかなり重要な役割を担っている。
「えへへ! でしょ。このきゅっとした袖とか、ネクタイっていう飾りも素敵でしょ! 腰には剣も収められるんだよ!」
紅は得意げに言いながら、くるくるとその場で回ってみせる。新しい玩具を与えられて喜ぶ無邪気な子どものようで、睡蓮は微笑ましさに目を細めた。
「馬子にも衣装、ですかね」と、桃李。
辛辣だ。彼らしくない、と睡蓮は思いかけて首を傾げる。どうだろう。これが本当の彼なのかもしれない。桃李と知り合って日が浅い睡蓮には分からない。
ちりん、と柳の鈴が鳴る。窓の向こうへ目を向けると、牛車が見えた。牛車を運ぶのは月の使者である。
「月の使者の迎えが来たようですね」
桃李が窓のほうへ目をやったまま、言う。
「そうですね。では、行きましょうか」
四人は牛車に乗り込んだ。
いよいよ、睡蓮にとって初めての式典が始まる。
睡蓮は今日までに、花嫁の神渡り式に関してひととおりの説明を受けていた。
式は明日の午前十時から小一時間ほどで終わる予定だが、その前に今晩、現人神と花嫁たちで晩餐会が行われることになっている。
実質、そのときが睡蓮のお披露目会だ。晩餐会の前には睡蓮と楪で各現人神への挨拶回りに行く。西の現人神への挨拶の際、紅のことも話す予定だと、睡蓮は楪から聞いている。
道中、睡蓮は幽雪のことを思い出していた。
彼が化けていたのが、薫だったからだ。
薫は、天女のように美しい男性だった。楪もそうだが、現人神の容姿は睡蓮の知る美という次元を逸している。
睡蓮は、ちらりと楪を見上げる。
「あの、楪さん。白蓮路さまというのは、どんなおかたなのですか?」
睡蓮が訊ねると、楪は眉を寄せた。
「ひと当たりのいい色男……というのが、世間一般の白蓮路薫の印象でしょうか」
「……というと?」
「俺には、彼の考えていることが分かりません。彼は腹の底が見えない。正直、睡蓮には会わせたくなかったんですけど」
楪がそこまで言うとは。
白蓮路薫とはいったいどんな男なのだろう。
睡蓮は紅に目を向けた。
「紅は会ったことある?」
「うん。薫さまがご即位されてすぐだったかな。あたしの家に視察に来たんだ。そのときに一度だけ。その頃まだ子どもだったあたしにも、優しく話しかけてくれたよ。お菓子もくれたし、あたしはいいひとだったと思うけどなぁ」
まあたしかに、思ってたことを言い当てられて驚いた記憶もあるけど、と紅が付け足す。
「あの男は、笑顔が胡散臭いんです。どうも、すべてを見透かされている気がして」
言いながら、楪は睡蓮を見つめる。
「睡蓮。白蓮路には、くれぐれも気を付けるんですよ。もしなにか不安なことがあったら、すぐに俺に言って」
睡蓮は帯留めをそっと握った。
「はい」
がたん、と牛車が揺れた。
「どうやら、月の京に入ったようですね」
楪が窓を見やる。といっても、窓には外側から深藍色の暗幕が垂れていて、外の様子は見えない。
月の京が存在する場所は、現人神にさえ教えられていない。
月の京には、凰月家という月の京を管理する一族がいて、彼らは現人神たちがさまざまな式典を行うこの月の京の管理人であり、すべての現人神に仕える公式従者である。
牛車を下りると、小花柄の着物の少女が立っていた。顔の上半分にはうさぎの耳付き仮面を付けている。
少女は恭しく頭を下げながら、挨拶をする。
「わたくし、今回龍桜院家の世話係として仕えさせていただく凰月葉織と申します」
月の京の管理人だ。抑揚のない、淡々とした声だった。
仮面をつけているので顔は分からないが、声を聞く限り、若そうに思える。といっても、彼女があやかしなら、人間の常識とはかけ離れた年齢だろうが。
葉織に案内されながら、睡蓮たちはじぶんたちが寝泊まりすることになる殿舎へ向かう。
「こちらが水晶殿にございます」
水晶殿は、中庭に大きな蓮池と竜胆が咲く美しい殿舎だった。この水晶殿が、式典中睡蓮たちが泊まる殿舎となる。
「晩餐会は午後六時からを予定しております。その頃また、お迎えに上がります」
そう言って、葉織が出ていく。
「では、これからの日程についてですが……」
葉織が出ていくと、桃李が仕切り出す。
楪と睡蓮はこれから、各現人神へ挨拶回りに向かう。付き添いには葉織がつくため、桃李と紅は留守番だ。そのあいだ、桃李は紅に式の日程の再確認をするということだった。
睡蓮と楪はまず、南の宮――蛍煌殿に向かった。
蛍煌殿は鮮やかな唐葵の花が美しい絢爛な宮殿だ。月の京にある殿舎は、それぞれの現人神を彷彿とさせる造りになっているとか。
蛍煌殿は、炎の魂を持つ朱鷺風家にふさわしい朱色が印象的な殿舎だった。
「そなたが花嫁か」
殿舎へ赴くと、さっそく南の現人神、朱鷺風詠火が出迎えた。
燃えるように赤い衣装――壺装束と呼ばれるらしい――をまとったその神は、まだ少女というほかない姿をしていた。歳はおそらく十四、五あたり。
――このおかたが、朱鷺風詠火さま……!?
その容姿に、睡蓮は驚いた。現人神だというから、もっと壮齢のひとを想像していたのだ。
だが、若いからといっても彼女はれっきとした現人神。その小さな身体からも、とんでもない圧を感じる。
楪のときはそう感じたことはなかった。おそらく、睡蓮の身のために抑えてくれていたのだろう。現人神は多少の妖気の調節なら自在にできると聞く。
睡蓮は背筋を伸ばし、挨拶を述べる。
「はい。睡蓮と申します」
首にかけた大きな朱色の数珠飾りがしゃらっと音を立てて揺れる。
顔を上げると、思いの外優しい笑みをたたえた詠火と目が合う。
「そうかしこまらずとも良い」
「は、はい。これからよろしくお願いいたします」
「それよりもそなた、よく決断したな」
詠火は、なぜか一瞬、悲しげな顔をして睡蓮を見つめた。
「え?」
なんのことだろう。
その表情の意味も言葉の意味も分からず、首を傾げていると、詠火が「いや、なんでもない」と言う。
「突然現人神の伴侶となって慣れぬこともあるだろう。なにかあったら、遠慮なく参れ」
「……はい。ありがとうございます」
今のは気のせいだろうか。
凛とした佇まいのわりに詠火は優しい言葉をかけてくれる。睡蓮の中の不安が少し小さくなった。
そういえば、詠火は姉の炎禾が崩御されて現人神の地位を引き継いだと言っていた。
引き継いだ、ということはその場合、彼女にも既に〝花婿〟がいるということか。
こんな幼いのに?
そもそも、炎禾の花婿のほうもどうなったのだろう。疑問に思っていると、詠火がふっと背後へ視線をやった。
「すまない、詠火。遅くなった」
奥から、臙脂色の袴姿の男が出てきた。歳の頃は三十前後くらいだろうか。人当たりの良さそうな笑みを浮かべた好青年だ。
整った顔立ちをしているが、着物を崩して着ていたり軽く寝癖が残っていたりするせいか、柔らかな印象を受ける。
「これは、焔さま。お久しぶりです」
楪が親しみの笑みを浮かべる。
「おっ?」
珍しい。だれかにこんな笑みを向けるのを、睡蓮は初めて見たような気がする。
楪は彼を焔、と呼んだ。ということは、彼が詠火の花婿なのだろう。
「なんだ、楪じゃないか!」
焔は楪を見るなり、さわやかに破顔した。
「結婚おめでとう。ええと……」
焔がちらりと睡蓮へ目を向ける。すかさず楪が睡蓮の肩を抱き、紹介する。
「花嫁の睡蓮です。睡蓮、彼が詠火さまの花婿の焔さんですよ」
楪に紹介された睡蓮は、ぺこりと頭を下げた。
「睡蓮さん。会えて嬉しいよ。このたびは結婚おめでとう。いや、それにしても君たちはもう結婚してずいぶん経ってるのに、炎禾の件で神渡り式を延期にしてしまって申し訳なかったね。無事、今日という日が迎えられてよかった」
「いえ、とんでもないです」
焔の言うとおり、契約結婚時代を合わせれば睡蓮と楪の夫婦生活はたしかにずいぶん経つ。だが、思いを通じ合わせてからは、まだ一ヶ月ほどだ。むしろ早すぎる式だとすら思っている。
「炎禾さまの件は、残念でした」
楪が言うと、詠火はなにも言わずに目を逸らした。代わりに焔が反応する。
「いや……まあな。仕方なかった。炎禾は昔から、身体が弱かったからな……神の力に、その身が耐えられなかったんだろう」
「……焔。余計なことを申すな」
詠火が言う。驚くほど低い声だった。見ると、詠火は焔を睨んでいた。
「あ、あぁ……すまない」
これにはさすがに、焔だけでなく楪も黙り込んだ。
空気がひりつく。
「気分が悪い。わらわは先に部屋に戻る」
「おい、詠火。せっかく挨拶に来てくれたのにその態度はないだろ」
詠火を焔がたしなめるが、楪はかまわない、と言った。
「まだほかへの挨拶も済んでいませんし。睡蓮、そろそろ俺たちも帰りましょう」
「はい」
「なんか、悪いな。最近の詠火はずっとあんな感じで。前はもっと素直な子だったんだけど」
彼女の背中を見送りながら、焔がため息を着く。
「……詠火さまはまだ、お姉さまのことを引きずっておられるのですか」
楪の言葉に、焔は「あぁ」と頷いた。
「……まぁ、詠火は炎禾のことが大好きだったからな。詠火は炎禾が崩御してから、ずっとムスッとしてるんだ」
「……そうですか」
今度はしんみりとしてしまった。
「いや、こんなおめでたいときにする話じゃなかったな。失礼、忘れて」
「いえ」
「さて、それじゃあ俺たちはそろそろ行きましょうか」
「あぁ。じゃあ、また晩餐会でな」
睡蓮は蛍煌殿を出ると、楪に訊ねた。
「あの……楪さん。焔さまと詠火さまって、ご夫婦なんですよね?」
「えぇ。建前上は」
「建前?」
睡蓮の問いに楪はしばし黙り込んだあと、「睡蓮にも、話しておいたほうがいいですね」と言う。
「焔さまは、もともと炎禾さまの花婿だったのですよ」
「えっ!?」
睡蓮が思わず声を上げる。
つまり、焔は炎禾が崩御されたあと、義妹であった詠火のもとへ嫁いだということか。それはなんというか、だいぶ複雑だ。
花婿は花嫁より稀な存在と言われているとはいえ。姉妹に順に婿入りする、というのは焔のほうも複雑な思いだろう。まだ年端もいかない詠火が相手では、なおさら。
「まぁ、政略結婚というのはそういうものですから」
「…………」
冷めた口調で言う楪に、睡蓮は無言になる。
楪は以前、結婚は契約だと言っていた。
それは楪だけでなく、ほかの現人神も同じ認識らしい。
考えてみれば、じぶんが恋した相手が幻の花を持つ者である確率など、ないに等しいのだから当然だ。
睡蓮はなんとなく、詠火のさきほどの表情の意味を理解した気がした。同情していたのだ。
詠火は、睡蓮と楪のあいだにあったできごとを知らない。睡蓮と楪の結婚も、愛のないものだと思っているのだろう。
睡蓮は楪をちらりと見る。
おそらく、楪も詠火の誤解に気付いていた。
……でも。楪は、それを否定しなかった。
「…………」
――考え過ぎかもしれないけど……。
ほんの少し、寂しさを感じた。
「さて、睡蓮。次は玄都織家へ挨拶に行きましょう」
楪が言う。
「あ……は、はい」
睡蓮は慌てて歩き出す――が、急いだせいでつんのめってしまった。前のめりに倒れそうになる睡蓮を、楪が受け止める。
「わ……あ、す、すみません」
「いえ」
楪は睡蓮が顔を上げると、すっと手を離した。あっさりと離れていくぬくもりに、睡蓮の胸になんとも言えない寂しさが募っていく。
玄都織家が滞在するのは、向日葵が壮大な香林殿と呼ばれる殿舎だった。元気な向日葵が、太陽へ向かってすっと背を伸ばしている。美しさだけでなく、たくましさを備えた花である向日葵は、玄都織家を象徴しているようだ。
玄都織楓夜。現在最年長の現人神である。
「おーおー、よく来たなぁ」
出迎えた玄都織楓夜は、中性的な雰囲気を漂わせる美しいひとだった。
ひとつに束ねられた黒橡色の髪はつややかで、まるで川の流れのように緩くウェーブがかっている。
歳は三十代半ばくらいだろうか。漆黒の衣に身を包んでいる。珍しい形の衣装だ。以前、睡蓮はよく似た衣装を町で見かけた。ドレスという衣装なのだと楪に教えてもらった。
黒の中にも、きらきらと光の加減によって煌めく布や宝石がちりばめられていて、品がありながらも美しい。
「やあ、いらっしゃい」
一方、楓夜のとなりで柔和な笑みをたたえているのは、楓夜の花婿、玄都織十明である。
こちらもまた、上品な物腰の男性だ。歳はおそらく楓夜とそう変わらなそうだが、その物腰のせいか年齢よりも落ち着いて見える。
「ご無沙汰しております、楓夜さま、十明さま」
楪が頭を下げる。睡蓮も続いて頭を下げた。
「うむ。まあ、中に入れ」
睡蓮は、十明が出してくれた紅茶を静かに飲みながら、楪と楓夜の会話を聞いていた。
「いやぁ、それにしても子供の成長とはあっという間だ。前に会ったときはこんな小さかったのになぁ。しかも、こんなきれいな花嫁をもらうとは。うむ! 母は嬉しいぞ」
「ありがとうございます……」
びっくりするほど幼かったり、美しい顔をして豪快に笑ったり……現人神は、案外見かけによらない、と、睡蓮は思った。薫はどうなのだろう。
酔っ払いのように楪に絡む楓夜を、睡蓮は紅茶を飲みつつ眺める。
楓夜はひとしきり楪にじゃれたあと、つと睡蓮を見た。目が合い、睡蓮は思わず姿勢を正した。楓夜は立ち上がり、テーブルの周りをぐるりと回って睡蓮の目の前までやってくる。
「さて」
片膝をつき、楓夜は睡蓮の顔をまじまじと見つめる。品定めするかのような眼差しに、睡蓮はごくりと息を呑んだ。
「あ……あの……?」
「うん! 可愛いな!」
楓夜は突然大きな声で言うと、睡蓮を軽々と抱き上げた。
突然浮遊した身体に、睡蓮はわっと声を漏らす。思わず楓夜の首に手を回すと、至近距離で目が合った。
楓夜が微笑む。
「くっ……玄都織さま!」
「楓夜でよいよい」
「楓……楓夜さま。私その、重いので……」
というか、美しいが過ぎる。麗しきその眼差しに、睡蓮は目眩がした。
「……そなた、なんともないのか?」
楓夜がまじまじと睡蓮を見る。
「え……?」
……なんだろう。
美しいひとに見つめられると落ち着かない。
「……いや」
楓夜はなにかを言いかけて、やめた。
「うん、可愛い花嫁だ! 母は気に入ったぞ、楪!」
やはりその美顔に似合わないからっとした声で、楓夜が言った。語尾が弾んでいる。相当嬉しいらしい。
「あ……あの、楓夜さま。そろそろ下ろしていただけると……私、本当に重いですから」
「どこが? ぜんぜん重くないぞ。むしろ軽過ぎて仔猫を抱いているようだよ」
「いっ……いやいや……」
さすがにそれはないだろう。
「楓夜さま、睡蓮は……」
さすがの楪も止めに入ろうとするが、楓夜は知らんぷりをして、睡蓮を抱いたままくるくると回っている。目が回る。
「よしよし。可愛らしいそなたには菓子をやろう。さて、どこにあったかな。私の部屋だったかな?」
楓夜はマイペースに座敷を出ていく。
「えっ!?」
――まさか、このまま!?
「楓夜さま、申し訳ありませんが……」
さすがに部屋を出ようとする楓夜を見て楪が腰を上げたが、
「すまないねぇ。うちのは可愛い子に目がなくって。少しの間だけ付き合ってやってくれ、睡蓮さん。――さて、楪くん。楪くんは僕と庭を散歩でもしようか」
十明ののんびりとした声に遮られてしまった。
楪は、睡蓮が消えた廊下に心配そうな眼差しを向けつつ、十明とともに外へ出た。
楓夜は外廊を進み、最奥の部屋に入ると、ようやく睡蓮を下ろした。
「さて、連れ出して悪かったな、睡蓮」
「いえ……」
睡蓮は着物を整え、その場に座り直した。その正面に楓夜も座ると、にこっとして言った。
「睡蓮。そなたは素晴らしい妖気を持っているな」
「えっ? 妖気……ですか?」
困惑する睡蓮に、楓夜はふっと微笑む。
「あぁ。神渡りの式ではな、実は私たち現人神には、花嫁や花婿の力を試す役割があるんだよ。資格のない者を伴侶にするわけにはかないからな」
そうだったのか。
まさか、ほかの現人神たちに試されているだなんて知らなかった。楪は知っていたのだろうか。
考えていると、楓夜が言った。
「さて、睡蓮。そなたは、楪をどう思っているのかな?」
「え……?」
パッと顔を上げる。
「楪さんですか?」
突然の問いに、睡蓮は困惑する。
「そなたらは契約結婚なのだろう?」
「えっ……」
睡蓮は楓夜をじっと見つめた。すると睡蓮の警戒心を悟ったのか、楓夜がふっと息を吐くように笑った。
「楪はひとを愛さない。付き合いが長い私には分かる。楪がいずれ現人神になる日が来たら、こうなるだろうと思っていたからな」
「えっと……それは」
たしかに、以前はそういう考えだった。だが、今は違うはずだ。だって楪は、睡蓮を愛していると言ったのだから。
しかし、睡蓮が否定する前に、楓夜は続ける。
「あやつは昔からひとを信用しないくせに、信用させるのだけは上手いからな」
「え……」
楓夜は、睡蓮を同情するような眼差しで見つめた。
「それ、は……」
たしかに始まりはそうだったけれど……。
――違う、はず……だよね。
睡蓮の中の不安が大きくなっていく。
ふと、疑問が浮かんだ。
そういえば、睡蓮はいつから、楪に愛されていると感じていたのだろう。
妖狐から救われたとき?
ふと、じぶんの魂の形を思い出す。
「幻の花……」
楪は本当に、睡蓮を愛しているだろうか?
ただ、花嫁を手放したいだけじゃなくて?
不安ばかりが広がっていく。
「現人神にとって、花嫁や花婿というのは、どんな存在ですか?」
楓夜は少し黙ってから、静かに言った。
「……特別だ。特別だからこそ、一線を置く。楪はそういう男だろう。あやつは根が真面目だから、とにかく土地を守ることしか考えていなかった。そのために女を利用することは多々あったが、決して特別な存在というのは作らなかった。特別な存在を作れば、守らねばならなくなる。守るというのは、そう容易いことではない」
楪は東の土地を守る現人神である。今さら思い出した。楪は物腰柔らかだが、ああ見えて合理主義者だ。楪はどんなときも現人神としての利益をまずいちばんに考えている。
そんなひとが、睡蓮を好き?
そんなことがあるだろうか。
「楪はおそらく、土地を守るためならそなたのことも切り捨てるだろう。そなたにその覚悟はあるか?」
ごく、と喉が鳴る。
――利用……。
楪は、睡蓮を利用している。
そもそも、楪が睡蓮に契約を持ちかけたのは、睡蓮が幻の花を持つ花嫁だからだ。
楪が睡蓮を妖狐から守ろうとしたのも、睡蓮を守るためではなく、花嫁を守るため。花嫁は珍しいから。楪にとって利益になるから。
楪が愛してると言ったのも、贈り物をくれるのも、口づけはふりでいいと言ったのも――愛しているからではなく、すべては睡蓮を逃がさないためであったとしたら……。
すべての辻褄があってしまった。
こんなじぶんが愛されるわけないのに。いつの間にか、ずいぶん傲慢になっていたらしい。
睡蓮の心に暗い翳が落ちた。
「でも、私は……楪さんのことが好きです……」
これだけは、変えられない事実である。
今にも消え入りそうな声でぽつりと漏らす睡蓮を、楓夜がそっと抱き締める。
「それはもちろんかまわない。だが、たとえ愛されなくてもどうか楪を責めないでやってくれ。現人神の花嫁になるということは、そういうことだ」
睡蓮は顔を上げた。その顔には、あの頃得意にしていた長女の笑顔が浮かんでいる。
「……分かっています」
楪を責めるつもりなんてない。
ただひとつ、欲を言っていいのなら。
――今度こそ、愛されたかった……。