約束の日が来た。
太陽がまだ顔を出し切る前に、睡蓮はそっと家を出た。桔梗には黙って。
桔梗宛の手紙は、文机の上に置いてきた。いずれ気付いてもらえるように。
いなくなる理由は書かず、これまでの感謝と、もうこの花柳家には帰らないことを書いた。龍桜院家との契約時にもらったお金を、給金として残して。
「……さよなら、桔梗さん」
***
紫色の空に浮かぶ雲はずいぶん低く、近く感じた。
睡蓮は一歩一歩と歩を進め、薫との約束の場所、花柳の家よりもずっと上の山頂を目指す。
零水山の頂上付近は、見渡す限り銀杏の黄色で染まっている。
銀杏の葉の鮮やかな絨毯を進んでいくと、ほどなくして視界が開けた小高い丘に出た。
山頂だからか、それとも既に日の出の時間を過ぎたのか、太陽は向かいの山の上にある。
朝焼け色の宿場町をぼんやりと眺めていると、ふと風がざわっと強く吹き、睡蓮の長い髪を弄んで抜けていった。
その、刹那。
「待たせたな」
声がして、睡蓮は静かに振り向いた。
振り向いた先に立っていたのは、天女のように美しい容姿をした男。
睡蓮が契約を結んだ相手――白蓮路薫だった。
「どうした? 浮かない顔だな。死ぬのが恐ろしくなったか」
睡蓮の暗い顔を見て、薫はどこか楽しげに目を細めた。
「……そんなことは」
「なら、なんだ? 龍桜院と会えなくなるのが悲しいか?」
問われた睡蓮は、そうとも違う、と、困惑する。
そもそも睡蓮は、楪とは一度も顔を合わせたことがないのだから。
薫の言うとおり、楪とこの先二度と会うことは叶わないということはもちろん悲しい。だが、それよりも睡蓮の心に影を落としていたのは、桔梗の存在だった。
――私、いつの間にこんなに桔梗さんのことを……。
いけない、と睡蓮は目を閉じ、静かに深呼吸をした。
すべての感情を、心の奥深くにしまい込んでから、ゆっくりと目を開ける。
再び目を開けたとき、睡蓮の眼差しに迷いはなくなっていた。
「白蓮路さま。最後にひとついいですか」
「なんだ?」
「今まで、ありがとうございました」
「ん?」
これから殺そうとしている相手に突然礼を言われた薫は、怪訝な顔をして睡蓮を見た。
「本音を言うと私……楪さまと結婚してる間、本当はちょっと寂しかったんです。……でも、そんなときあなたがやってきて、私は楪さまを守るためにこの契約をしました。魂と引き換えでしたけど、私、白蓮路さまと話すの好きでした。私に楪さまを助けさせてくれて、ありがとうございました」
「…………」
「白蓮路さま、あとのことはお願いします」
白蓮路はじっと睡蓮を見つめ、口を開く。
「……わたしは」
白蓮路がどこか申し訳なさそうに目を泳がせる。
「……いや、なんでもない。さて。約束どおり魂はいただくぞ、花嫁」
じぶんはもう花嫁ではないが、まぁもうなんでもいい。
「……さよなら」
睡蓮は静かに目を伏せた。
睡蓮を、薫の妖しい煙が包んでいく。
***
その日、睡蓮が庭に出ると、ぱらぱらと雨が降っていた。しばらく日照りの日が続いていたから、恵みの雨だ。生い茂る緑が生き生きとして見える。
この地にもようやく、雨季が来たようだ。
雨音の中、かさ、と乾いた音がした。
まばたきした瞬間、目の前が白く煙った。
驚く間もなく、目の前に見知らぬ男が現れる。まるで天から落ちてきたかのような神々しさをまとっている。
薄紫色の髪は雨の糸を束ねたかのようにきらめき、瞳はまるで宝石を閉じ込めたかのような神秘的な黄金色。
「あなたは……だれ」
突如として睡蓮の前に現れたその男は、かすかな笑みを浮かべ、睡蓮のいるほうへ歩み寄る。
「はじめまして、龍桜院の花嫁。わたしの名は白蓮路薫だ」
「白蓮路、薫さま……それって、もしかして西の……?」
白蓮路薫は、西の土地を統べる現人神の名だ。
どうしよう。なにしにきたのだろう。もしかして、ここに楪がいると思ってきたのだろうか。
もしそうならば、龍桜院の花嫁としてもてなさなければ。
こんなことなら、こういうときどうしたら良いのか、手紙で桃李に聞いておけばよかった。睡蓮は狼狽した。
「そう身構えるな。東の神から花嫁の話は聞いている」
「えっ、楪さまから?」
「あぁ。この前会合があったからな。なんだ、聞いていなかったのか?」
「あっ……いえ」
まずい。楪と睡蓮が契約結婚であることは薫に知られるわけにはいかない。睡蓮は慌てた。
「まぁいい。それより上げてくれ。このままここにいたらずぶ濡れだ」
そういえば今は雨が降っている。見ると、薫の白い肌を雨の雫が滑っていく。
「すす、すみません!! すぐにお風呂沸かしますから」
「いや、手ぬぐいだけ借りれればいいよ。それよりお茶をくれ。茶菓子もな」
「あ、は……はい」
……なんというか、思っていたよりちゃっかりしたひとだ。
これが、薫との出会いだった。それからちょくちょく、薫は睡蓮のもとへ顔を出すようになった。
薫いわく、今東の地で会合があり、しばらく滞在することになったのだという。
薫は来るたび楽しい話を睡蓮にしてくれた。
睡蓮は密かに、薫がやって来るのを楽しみにしていた。
「今日は、とあるあやかしの話をしてやろう」
あるとき、薫は睡蓮へ、とあるあやかしの話を始めた。
そのあやかしは、幼い頃、東の現人神――つまり現在の現人神である楪の父にあたる男だ――に母親を殺され、それ以来ずっと現人神を憎んでいた。母親以外に家族はなく、天涯孤独。
いつも悪さばかりして、たびたび現世へやってきては、町のひとびとを困らせた。
そのたびに現人神は幽世へ還したが、そのあやかしは幽世でも弱いあやかしをいじめるようになった。
「そいつは、ただ触れるだけでも怪我をしそうなほどどうしようもない奴だった」
そして、とうとう幽世も現世も追放されてしまったあやかしは、東の神によって石の中に封印された。
「……まぁ、仕方がないことだったんだろうな」
薫は開け放たれた硝子戸の向こう、青々とした緑の庭を見ながら呟く。淡々とした、心のない口調で。
「仕方がない……」
睡蓮は、あやかしの話をじぶんに重ね合わせていた。
生まれてすぐに親と死別し、孤独に生きてきたあやかし。
どこかじぶんと通ずるところがある。
孤児の睡蓮は、親が死んだのか、捨てられたのかは分からない。だが、孤独という点で同じだ。
「なんだか、かわいそうなお話ですね」
ぴく、と薫が反応する。
「かわいそう……? いや、そいつは散々悪いことしてきたんだ。自業自得だろ」
「たしかに、だれかに迷惑かけるのはいけないことだし、よくないと思いますけど……でも、そのあやかしは寂しくて、ただかまってほしかっただけなんじゃないですか」
「かまってほしかった?」
呆然とした口調で、薫が呟く。
「はい」
そのあやかしがなにを考えていたのかは分からない。
ただいらいらして、本当にひとびとを脅かしたかっただけかもしれない。
でも、もしかしたら……。
「そのあやかしは寂しくて、だれでもいいからかまってほしくて、でもそのやりかたが分からなくて……悪さをして、目立つ以外に方法が分からなかったんじゃないかな」
「寂しくて……?」
薫は睡蓮の言葉をぼんやりとした顔で復唱した。
「もし、だれかひとりでもそのあやかしの寂しさに気付いて、寄り添ってあげていたら……そのあやかしは満足して、いいあやかしになれたんじゃないでしょうか。そのあやかしはきっと、ひとやほかのあやかしたちを、信じられるようになりたかったんです。だれか助けてって、だれか僕に気付いてって、ひとりで泣いてたんだと思います」
「……信じたくて……助けを……求めてた……?」
薫は呆然と呟く。
「……な、なんて。なんとなく、ですけどね。……でも、そのあやかしの気持ち、私は分かります」
私もそうだったから、と、そう言いかけて、口を噤む。思わず本音を言ってしまった。
「……睡蓮は、たしか大きな商家の長女だったよな?」
薫の視線を感じ、睡蓮はさらに俯く。
「睡蓮は、家族と上手くいってなかったのか?」
「…………」
これ以上生家のことを聞かれるのがいやで、睡蓮は無理やり笑みを作った。
「いえ。すみません、へんなこと言ってしまって……なんでもないですから」
愛された記憶があるということは、厄介だ。
そのときの光景は脳裏にくっきり刻まれて、死んだって消えてくれない。
日常のほんの些細なこと――たとえば風の匂いとか、だれかの咳とかくしゃみとか――そんな簡単なもので、子どもの頃の記憶が蘇ってきてしまう。
思い出したくなくとも。
愛された記憶がなければ、睡蓮だってこんなにつらくはなかっただろう。
睡蓮はずっと、かまってほしかった。
だけど、どうしたら両親がじぶんを見てくれるのか、分からなかった。
分からなくて、でもそのあやかしみたいに悪さをする勇気も知恵もなくて、だからただ俯くしかなかったのだ。
それが一生続くと思った。
そんな将来を考えるだけでもつらくて、だから睡蓮は楪の契約に乗った。
本当は、現人神の花嫁になりたかったわけじゃない。睡蓮はただ、あの家を出たかっただけだ。
「……睡蓮。ひとつ聞きたい」
「……なんですか?」
あらたまった眼差しで、薫が睡蓮を見つめる。
「睡蓮は、楪のことが本当に好きか?」
どくん、と心臓が跳ねた。
「…………」
――……どうだろう。
楪のことは、顔も知らない。
性格だって、桃李の手紙で書かれていたことしか知らない。
恋をしていると思っていた。
でも、薫と話した今、睡蓮は気付いてしまった。
「……私は」
睡蓮はただ、楪を利用していただけだ。じぶんを守るために。
……だけど。
「好きですよ」
口が勝手にそう紡ぐ。
たとえ嘘でも、睡蓮は現人神の花嫁だから。
薫がなにか言いたげに口を開く。しかし、言葉は続かなかった。
薫はすべてを諦めたようにただ、「そうか」とだけ言った。
その翌日にやってきた薫は、いつもと少し様子が違った。
開口一番、薫は言った。
「今日は花嫁にひとつ、報せがあって来た」
睡蓮はなにも言わず、薫を見つめ返した。じっと次の言葉を待つ。
「お前の夫、もうすぐ死ぬぞ」
閉じた視界は、闇の中ではなく真白の世界だった。
心の中で、紅や桔梗、それから家族の顔を思い浮かべる。
嬉しい。
この短期間で、ずいぶん思い出すひとが増えた。みんな、睡蓮がいなくなったら泣いてくれるだろうか。家族は無理でも……紅や桔梗は、少しは悲しんでくれるかもしれない……なんて。そんなことを考えて苦笑する。
――無理かな。
あやかしにとってはこの世のときの流れなんて一瞬だ。きっとすぐに睡蓮のことなんて忘れてしまうだろう。
それでもいい。ひとときの夢をもらえたから。
後悔はない。寂しくはない。
心を無にして、じっとそのときを待つ。
そして、煙が睡蓮を完全に呑み込んだ、そのとき。
ふたりの周囲にぴゅっと一陣の風が吹いた。
突然の突風に、睡蓮は思わず目を強く瞑る。
「睡蓮!」
すべてを覆い隠すような強い風の隙間から、ふと聞きなれた声が聞こえた気がして睡蓮は顔を上げた。
目の前を、銀色の羽衣が舞ったように見えた。なんだろう、と睡蓮は何度も目を瞬かせる。
「え……?」
羽衣の正体は、髪だった。
睡蓮の目の前に、美しい銀髪の男性がいた。
白皙の若い青年だ。
その容姿は、美しいを凌駕して神々しい。気付けば呼吸を忘れていた。
「睡蓮さま。よかった、無事でしたか」
男性はなぜかほっとしたような顔をして、睡蓮の名前を呼ぶ。が、睡蓮は知らない男性だ。
だれだろう、と考えて、ふと声に聞き覚えがあることに気付いた。
この声は……。
「もしかして……桔梗、さん?」
「……あぁ、この顔を見せたのは初めてでしたか」
驚く睡蓮を見て、仮面を外していることを思い出したのか、桔梗は顔に手を持っていく。そのまま、前髪をぐっとかきあげた。銀色の髪がさらりと揺れる。
再び睡蓮を見て、桔梗はいつもしているように胸に手を添えて頭を下げた。
「桔梗ですよ、睡蓮さま」
初めて見る桔梗の圧倒的な容姿に呆然とする睡蓮を、桔梗は優しく抱き寄せた。
「あ……あの、桔梗さん? 私、今とても大切な用事があって……」
「大切な用事? 妖狐との密会がですか? 夫としては、それはちょっといただけないんですが」
「……夫?」
どういう意味? と、睡蓮は、困惑して桔梗を見る。桔梗は言う。
「俺の本当の名は、龍桜院楪と言います。正真正銘、あなたの夫ですよ」
「え……?」
睡蓮は目を見開き、桔梗を見た。
「桔梗さんが……楪さま……?」
突然の告白に呆然とする睡蓮に、楪はゆったりとした口調で言う。
「ずっと黙っていてすみません。実はずっと、桔梗として睡蓮さまのことを探らせてもらっていたんです」
睡蓮は困惑する。
「探るって、なにを……」
「離縁したいと言われたとき、睡蓮さまがなにか企んでいるのではないかと疑ったんです」
「企む?」
睡蓮はきょとんとした顔をした。楪はばつが悪そうに睡蓮から目を逸らす。
「俺は今まで、ひとを一切信用してきませんでした。失礼な話ですが、花嫁であるあなたのことも、初めから信用していなかった。あなたからの手紙は一度も読んだことがなかったし、差し入れもすべて桃李からのものだと思っていました。たぶん、あなたからの差し入れだと言われたら俺は迷わず処分しただろうから、桃李はあえて伝えなかったのだと思います」
「……そうでしたか」
睡蓮はかすかに微笑んだ。
毎月楪へ送っていた手紙。返事が来ないことは仕方ないと思っていた。けれど、読んでもいなかった、と言われたのはさすがに落ち込んだ。
楪は俯いてしまった睡蓮の顔へ手を伸ばすが、触れる直前でやめた。
「……離縁したあと、桃李から三年分のあなたからの手紙を渡されました。桃李はあなたのことをとても信頼していて、俺にあなたと別れるなとうるさくて……でも、俺はどうしてもあなたのことを信用しきれなくて、桔梗と名を偽って探りにきました」
「…………そうでしたか」
本音を言えば、涙が出そうになるくらいに悲しい。
でも、同時に……。
睡蓮の脳裏に、ひとりの青年の顔が浮かぶ。
じぶんの知らないところで、桃李は睡蓮のために動いてくれていた。睡蓮はそのことがどうしようもなく嬉しかった。
睡蓮は、ひとりではなかった。
「……あなたと過ごして、なにもかも俺が間違っていたことに気付きました。あなたが権力目当てなんかではなかったこと、あなたが心から俺のことを想ってくれていたこと……それから、俺を守るために離縁を選んでくれたことも」
睡蓮が驚いて顔を上げる。
「……私が白蓮路さまと交わした契約のことまで知っていたのですか?」
「あなたの妖気が日に日に弱っていくから、桃李に調べさせたんです。それから……これはついさっきのことですが。あなたの親友とやらにも、間接的にかなりひどく叱られました」
「親友?」
睡蓮が首を傾げると、楪は言った。
紅さんですよ、と。
睡蓮は目を見張る。
「紅が……」
でも、どうして。
睡蓮は、紅になにも告げずに出てきた。それなのに。
「紅さんから、あなたにこう伝えるよう言われました。〝薄情者〟と」
「薄情者……」
混乱する睡蓮にかまわず、楪は続ける。
「紅さんはすべてを知っていましたよ」
「えっ!? ど、どうして……!?」
「赤蜂は植物と会話することができますから。紅さんは植物たちから、あなたの過去や置かれている状況、妖狐との取引のこともすべて聞いたようです。そして、相談ひとつしてこないあなたと……そばにいながら気付けなかった俺、それからなによりじぶん自身にとてもご立腹でした」
睡蓮はふっと笑った。紅が怒っているその姿が目に浮かぶ。
「……とにかく、間に合ってよかった。まだ、あいつに最後の魂は奪われていないのですよね?」
優しい声に、睡蓮はぎこちなく頷く。
「……はい、まだ……」
「よかった」
楪は睡蓮に向き合うと、その頬を優しく撫でた。睡蓮は楪を見上げる。その頬はほんのり薄紅色に染まっていた。
「睡蓮さま。今さらだけど、これまであなたにしてきた仕打ちを謝らせてください。本当にごめんなさい」
「仕打ちだなんてそんな……とんでもない」
睡蓮はぶんぶんと首を横に振る。
「楪さまは、初めから私に契約結婚であることを打ち明けてくださっていましたし、手紙だって私の自己満足です。それに、お家柄やお力のことで今までご苦労なさってきたでしょうから……周りを疑ってしまうのは仕方のないことですよ」
楪は困ったように微笑んだ。
「あなたは本当に優しいひとですね。……でも、そうだとしても、俺があなたにひどいことしたのはたしかです。しかも俺はひどいことをしている自覚すらありませんでした。この考えかたは、生まれ持って俺の心に染み付いていました。女のことは利用するつもりで、側近には裏切られる覚悟で、常に裏を読むようになっていました。……でも、あなたは違った。あなたは心から優しいひとでした。なにも持たず、なにもできず、素性すらも知れない桔梗という男を優しく迎え入れてくれた」
「お、大袈裟ですよ。私のほうこそ、桔梗さんにはたくさんの愛をもらいました。……その、死にたくないって、思うくらいに」
楪は苦しげな表情で睡蓮を見つめた。
「……すみません。こんなこと……いえ、あの、こんなこと言うつもりはなくて……」
口走った言葉に今さら動揺する睡蓮を、楪は堪らず抱き寄せた。
「あなたは、もう……」
「え……あ、あの、楪……さま」
突然抱き締められ、睡蓮はあわあわと慌てふためく。
「……どれだけ俺を虜にするつもりですか」
楪の言葉に、睡蓮はぽかんとした。
しばらくぽかんとしてから、我に返った睡蓮は楪を見上げる。
「あのっ……そ、それはっ」
どういう意味ですか。そう言おうとした、そのときだった。
楪が羽織の袖で睡蓮の口を塞いだ。
「むっ!?」
「口を閉じて。この妖気を吸っちゃいけない」
楪がひそやかな声で言う。
ふたりの周囲を、怪しげな紫色の煙が満たしていた。薫だ。
足元を見れば、鮮やかな黄色だった銀杏の葉が、濃い茶色に変色していた。
「妖狐の毒です」
――妖狐?
睡蓮は口を袖で覆ったまま、眉を寄せた。
楪は睡蓮を挟んで向かい側にいる薫を睨みつけている。
「あの……白蓮路さまは、なぜ……」
「あいつは白蓮路じゃありません」
「え?」
「白蓮路に化けた妖狐。あなたを騙し、魂を奪おうとした邪悪なあやかしです」
目を見開き、驚く睡蓮の前に、白い狐の姿をした化け物が現れる。
「私は……妖狐に騙されていたの?」
「現人神は魂を犠牲にだれかを救うなんてことはぜったいにしません。この取引自体、有り得ないことです」
「フン。今さら気付いたところでもう遅い」
妖狐の低い咆哮混じりの声が轟いた。
彼の体から発せられる妖気は、さらに周囲を死の色に染め上げていく。
睡蓮は困惑した。
神の力を持つとはいえ、こんな恐ろしい力がひとびとや土地を守るとは思えないからだ。
「そんな……白蓮路さまじゃないなんて」
睡蓮が呟いたその直後。
睡蓮を目掛けて、紫色の炎が飛んできた。楪が睡蓮を抱きかかえ、素早く後方に飛ぶ。しかし、炎は消えることなく、軌道を変え、睡蓮をどこまでも追いかけてくる。楪は睡蓮を抱いたまま、炎から逃げ続けた。楪の腕の中で、睡蓮は訊ねる。
「では、私が魂を差し出しても楪さまは助からないの……?」
不安げな眼差しで楪を見上げる睡蓮に、楪は優しく微笑む。
「それは大丈夫ですよ。そもそも俺が死ぬという話自体、奴の嘘ですから」
え、と睡蓮の口から戸惑いの声が漏れる。
「では……楪さまは死なないのですか?」
「死にませんよ」
「そ、そっか……よかった……」
息をつく睡蓮に、楪が苦笑する。
「わたしの炎を前に、無駄話とは」
妖狐の瞳が紫色に光る。
「死ねっ!」
再び、今度はいくつもの炎が睡蓮たちを襲い来る。
「チッ!」
楪は逃げる。が、次第に追い込まれていく。
炎がとうとう睡蓮と楪に追いつく直前、ふたりのあいだを、ひらりと影が横切った。
じゃきんと刃物同士が擦れ合うような音がして、睡蓮は振り向く。
楪も足を止め、睡蓮を抱いたまま振り返った。
「遅くなりました」
そこにいたのは、両手に刀を構えた侍然とした男性。
額には、大きなひとつの角。赤い瞳は鋭く、少し開いた口からは鋭い犬歯が覗いている。
ただ目が合っただけで、息すらできなくなってしまいそうなほどの迫力。
「ご無事でしたか、楪さま、睡蓮さま」
あやかしは睡蓮と楪を見て、ひそやかな声で言う。
目が合い、睡蓮はあれ、と思った。
その面立ちと声にどこか見覚えがあったのだ。鋭いけれど、どこか優しげな目元。凛としていながらも、柔らかな声。
睡蓮はこのあやかしを知っている。
「もしかして、桃李さん……?」
睡蓮が訊ねると、そのあやかしは両手の刀を下ろし、優雅な所作で会釈した。
「ご無沙汰しております、睡蓮さま」
「桃李さん……うそ、本当に? 本当に、桃李さん?」
凛としたその立ち姿は、まるで別人だ。
「あやかしの姿で会うのは初めてでしたね。驚かせてしまい、申し訳ありません」
睡蓮はぶんぶんと首を振る。
「会えて嬉しいです……!」
心がパッと、太陽に包まれたような安心感を覚えた。
「桃李、助かった」
楪が桃李に声をかける。
「お怪我はございませんでしたか、楪さま」
「はい。助かりました」
桃李は楪へ素早く駆け寄ると、その場に跪いた。
「さて」と、楪が妖狐へ冷淡な眼差しを向ける。
「妖狐。今までは大目に見ていましたが、今回ばかりは許しはしません」
楪が凄む。しかし妖狐は楪の言葉を鼻で笑い飛ばした。
「フン。わたしはただ、この娘との契約を遂行しただけだ。お前に文句を言われる筋合いはない」
「一方にしか利益がない取引を、契約とは言いませんよ」
「今さら喚いたところで無駄だ。娘の魂のうち、八つはもうわたしの中にある。残りひとつをもらったら、その娘は消える」
「……どんな卑怯な手を使って彼女を騙したのかは知りませんが、この契約は破棄させてもらいます。あなたが奪った彼女の魂、今ここで大人しく返せばこの話は不問にしてやりますが?」
「それはできないな」
桔梗の眉間に皺が寄る。
「あなたはいったい、なにが目的なんです? なぜ彼女を狙う」
「決まってるだろ。復讐だ」
「復讐だと?」
妖狐の体が、激しい紫色の炎に包まれていく。
「お前に封印されたときから、わたしはずっとお前の一族を陥れることだけを考えてきたというのに!」
大きな咆哮が空に抜ける。
「あなたが悪事ばかり働くから封印しただけですよ。逆恨みされても困ります。それより妖狐、あなた、どうやって俺の封印を解いたのです?」
「フッ……解いたんじゃない。勝手に解けたのだ」
「勝手に解けた……?」
「あぁ。岩が割れたんだよ。お前の力が弱ったのか、それとも俺の力が強くなったのかは知らんがな。おかげでわたしはもう完全に自由だ」
そう言って、妖狐はにやりと口角を上げ、怪しげに笑った。
「お前に復讐をと思っていたとき、結婚したと聞いてな。わたしが身動き取れずにいたあいだに、お前だけ幸せになりやがって……。だから花嫁を見つけ出し、三ヶ月後にお前が死ぬと吹き込んでやった。そうして、囁いた。お前を生かすには、じぶんの魂を差し出すしかないと。そうしたらその娘はあっさり魂を差し出したよ。可哀想に。お前の大切な花嫁は、お前のせいで死ぬんだ。お前自身が愛しい花嫁を殺すんだよ」
妖狐の声は、楪の胸に深く、低く、重く落ちた。楪がなにも言い返せず黙り込んでいると、
「違います」
と、凛とした睡蓮の声が響いた。
楪と桃李が振り向く。
「私があなたと契約したのは私の意思です。楪さまは関係ありません」
「……睡蓮」
「ですから、楪さまが心を痛める必要なんてひとつもないのです」
楪が苦しげな表情で睡蓮を見る。
「なぜ、あなたは顔も知らない男のためにそこまで……」
「……それは」
睡蓮は一瞬言葉につまる。
楪の言葉が頭の中をぐるぐる巡る。
なぜ、楪の身代わりになったのか。
考えるまでもない。
好きだったからだ。楪のことが。
睡蓮にとって、楪はすべてだった。
でも、そんなことはとても言えない。今のじぶんたちは夫婦ではないから。
黙り込んでしまった睡蓮に、楪は困った顔をする。
「……顔を上げて。そんな顔をしないでください、睡蓮。すべてが終わったら、ちゃんと話しましょう」
楪は妖狐へ目を向けた。
「……今はまず、奴に奪われたあなたの魂を取り返さなければ」
楪は睡蓮を背後に隠すと、氷のように冷たい眼差しを妖狐に向けた。
妖狐は口の端を上げ、不気味に笑う。綺麗な顔が不気味に歪み、びりびりと口が裂けていくようだった。
妖狐はこれまでよりさらに強い妖気を放ち始める。木々が枯れ、花は散り、色が消えていく。
「娘はわたしのものだ。この娘を奪って、これからはわたしがお前の代わりに東の土地の天上人になる」
静かな咆哮。けれど、その低く深い声はどこまでも染み込み、臓器を直接揺さぶるようだった。
しかし、威勢を示す妖狐を前にしても、楪は怯まない。
楪は懐に手を入れると、煙管を取り出した。火をつけながら、ちらりと挑発的な視線を妖狐に向ける。
「大人しく魂を返せば、愛玩動物として可愛がってやらないこともないのに、残念ですね」
妖狐の眉間がひくりと動いた。
「貴様……」
妖狐は鼻の頭に皺を寄せ、恐ろしい形相で楪を睨んでいる。
凄まじい目力に、睡蓮は肩を竦めた。一方で楪は、呑気に煙管を蒸かしている。
ふぅっと息を吐くたび、楪の唇から零れた銀青色の煙がみるみる灰色だった周囲を塗り替えていく。
「すごい……」
枯れていた草花が、見る間に元の色に戻っていく。どうやら、楪が吐く息の力のようだった。
一面に漂っていた死の気配は消え、代わりにみずみずしい植物たちの気配でいっぱいになる。
「ほら。もう花は息を吹き返しましたよ。大した自信だったようですが、口ほどにもありませんね」
妖狐が唸る。
「小僧が生意気を語るなぁっ!!」
妖狐が飛び上がると同時に、楪は睡蓮を強く抱き寄せた。
「睡蓮、少しだけ我慢してくださいね」
「わっ……」
楪と身体が再び密着する。小さく震えている睡蓮に気付いたのか、楪は睡蓮に口を寄せ、優しく言った。
「大丈夫ですよ」
楪のたったひとことで不思議と恐怖は消え、震えが止まる。
「はい」
睡蓮は頷き、じっと楪に張り付く。
「目眩しのつもりか? こんなもの、千里眼を持つわたしにはなんの意味もないぞ!」
地鳴りのような咆哮が、凄まじい勢いでふたりの元へ向かってくる。
桃李が刀を構えた。
視界は不明瞭だが、妖狐が地を蹴る音がものすごい勢いで近づいてくる。
まずい、と思ったときにはもうすぐ目の前で妖狐が大きな口を開け、睡蓮たちに襲いかかっていた。
その刹那。
ピン、と強い光が一瞬、睡蓮たちの周囲を包んだ。
「ギャンッ!」
悲鳴が聞こえた。おそるおそる目を開けると、睡蓮の目の前に小さな小狐がいた。綺麗な毛並みの、ほんの猫ほどの小狐だ。
「えっ?」
思わず可愛い、と呟く睡蓮。
ぺたっと地面に張り付いていた小狐は、むくっと起き上がると、
「貴様、よくも! わたしの力を返せ!!」
と、叫んだ。声が異様に高く、やかましいだけでさっきまでの迫力はまるでない。
「なにがわたしの力、ですか。ひとを喰らわなければ妖狐の姿すら維持できないくせに」
「黙れこのやろー!!」
小狐は小さく唸りながら再び楪に飛びかかってくる。楪はそれをハエでも叩き落とすようにぺっと弾くと、冷ややかに言った。
「さて。覚悟はできていますね?」
楪の瞳が淡く発光し――耳をつんざくほどの大きな爆発音が響いた。
「ギャァァア!!」
小狐が悲鳴を上げる。
突然の爆発音と小狐の悲鳴に、睡蓮は反射的に強く目を瞑る。
空から降った落雷が、妖狐を直撃したのだった。
ほどなくして音が止み、周囲に静けさが戻ると、睡蓮はようやく目を開けた。
目の前にあるのは、焼け焦げた地面とぼろ雑巾のようになった小狐だった。小狐は力尽きたのか、地面に伏せたまま荒い息をしていた。
「くそっ……貴様のような人間ごときにわたしが屈するなんて……くそっ、くそっ!」
喚く小狐に楪はゆっくりと歩み寄り、低い声で言う。
「さて。これが最後通告です。死にたくなければ、今すぐ睡蓮に魂を返しなさい」
小狐は楪を見上げ、鼻で笑った。
「断る」
楪はやれやれとため息をついた。
「……そうですか。なら力ずくで返してもらうまで」
楪の瞳が青白く光る。
大地が唸り、なにもなかった地面に旋風が巻き起こる。旋風の中心から水が吹き出し、その水は束となって容赦なく小狐を覆っていった。
「なっ……なんだこれは!」
怯んだ小狐に、楪はゆっくりと近付き、煙管の煙を吹きかけた。
その刹那。
パキッと音がした。
見ると、小狐が氷漬けになっている。楪の吐息が引き金となり、小狐を覆っていた水の粒子が凝結したのだ。
氷漬けにされぴくりともしない小狐に、睡蓮はだんだん不安を募らせた。
もしかして、楪はこの小狐を殺してしまうつもりなのだろうかと。
「あ、あの楪さま……彼はどうなってしまうのですか? もしかして……」
「大丈夫、あなたの魂と不必要な力を奪ったら、術は解きますよ」
睡蓮の言いたいことを察した楪は、優しく微笑んだ。小狐へ手を翳し、手のひらをくるりと翻し、見えない糸でも引くように手を自身の胸へと引き寄せた。
小狐の胸辺りから、すうっとなにか白いものが揺らめきながら現れた。
目を凝らして見ると、それは花だった。
紅色をしたきれいな椿だ。現れた椿は、まるで花自身に意思でもあるかのように、まっすぐ睡蓮のもとへとやってきた。
睡蓮は椿をそっと両手で包む。花はそのまま胸へと吸い込まれていった。花が消えた瞬間、睡蓮はじぶんの身体がふわりと軽くなるのを感じた。
「なんだか……身体が軽くなったような」
睡蓮の言葉に、楪がほっとしたように笑う。
「よかった。無事、ちゃんと魂が戻ったようですね」
「……あの、楪さま」
睡蓮は氷漬けにされた小狐から楪へ目を向け、目で訴える。
「……俺の花嫁を騙し、魂を喰らおうとした罪は重い。本来なら再び溶岩に閉じ込めたいところなのですが……」
睡蓮の顔を見て、楪は苦笑する。
「……それは望んでいないようですね」
「私……どうしても嫌いになれないんです。彼は、私が孤独だったとき、たったひとりそばにいてくれました。もちろんそれは、私を欺くための演技だったのかもしれません。でも……楽しかったから」
複雑な顔をする楪の向こうで、氷漬けにされたままの小狐の瞳がきらりと光る。
また術を使うのかと楪は身構えた。……が、そうではなかった。小狐は涙を流していた。
楪はわずかに目をみはる。
「……あなたは、すごいな。千年を生きる妖狐の心まで奪ってしまうなんて」
楪はやれやれと肩を竦めて、小狐の身動きを封じていた氷に息を吹きかけた。たちまち、氷は銀青色の煙と化して溶けていく。
術を解かれた小狐はその場にごろりと崩れ落ちた。
「力は奪いました。もう悪さはできないでしょう。彼女に感謝するんですね」
楪は後半、小狐に向けて言った。
睡蓮が小狐に駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
小狐は肩で息をしながら「あぁ」と漏らす。
「……お前は正真正銘の馬鹿だな。わたしはお前を殺そうとしたんだぞ。それなのに……助けるなんて」
小狐はときおり苦しげに息を吐きながら言った。
「ふふ……ですね。でも私、まだ死んでませんし」
控えめに微笑んだ睡蓮から小狐は目を逸らし、ぽつりと言った。
「……変な娘だ」
小狐はそう吐き捨てると後方に飛び上がり、ふたりから距離を取った。
「とにかく、魂は返したからな!」
「……はい」
「さっさと失せなさい」
楪が冷ややかに言う。
「フン。言われなくとも」
小狐の憎々しげな視線に、睡蓮は少し寂しさを覚えた。小狐が立ち去るのを見守っていると、不意に小狐が振り返った。
「おい、娘」
睡蓮は顔を上げ、首を傾げて小狐を見た。
「お前もともに来るか」
「えっ!?」
小狐の言葉に睡蓮は驚き、瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「お前も分かっているだろう。その男は、ひともあやかしも、身内ですら信用しない。そんな男といても幸せにはなれないだろう。だが、わたしは違う。わたしはお前を気に入った」
すかさず楪が睡蓮の前に立つ。
「あなた、どさくさに紛れてなにひとの花嫁を口説いているんです?」
「お前らはもう離縁しているだろうが。お前に責められるいわれはない」
「それは……」
ぴしゃりと言い返され、楪は言葉につまる。苦い顔をする楪と小狐を交互に見比べ、睡蓮は俯いた。
「そうですね……私は、楪さまとはもう他人なのでした」
悲しいけれど。
呟いた睡蓮と楪の間を、風が吹き抜けていく。
風は地面に落ちた銀杏の葉を巻き上げ、睡蓮の視界を鮮やかな黄色に染め上げた。
「娘、わたしと共に行こう。土地に縛られず、自由に生きるのだ。わたしと、ふたりで」
小狐は再び睡蓮に近付き、誘う。
「…………」
睡蓮は少しの間を空けてから、小狐を見てはっきりと告げる。
「……ごめんなさい。素敵なお誘いですが、あなたと一緒に行くことはできません」
「……なぜだ?」
「私には、どうしても忘れられないひとがいるんです」
そう言って、睡蓮は楪を見た。
「私は……もう死ぬと思っていました。だからぜんぶ、諦めてたんですけど……でも」
生きられると分かった今、睡蓮の中の楪への思いはさらに大きくなっていた。
生きることが許されるのならば、もう少し楪を想っていたい。
桔梗が楪だと知った今、さらにその思いは強くなっていった。
「……フン。つまらん」
小狐は興味は失せたとばかりに睡蓮に背を向けた。
「あっ……待って!」
再び歩き出そうとする小狐の背中に、睡蓮は呼びかける。
呼び止められた小狐は一瞬動きを止め、振り返らないまま答えた。
「なんだ?」
「……あなたの、本当の名前はなんて言うの?」
「…………幽雪だ」
幽雪はわずかに顔を睡蓮の方へ向け、言った。
「幽雪さん。ひとりぼっちだった私の話し相手になってくれてありがとう」
幽雪の耳がぴくりと動く。
「幽雪さん。あなたは――私の友だちよ。あなたがそう思っていなくても、私はずっとそう思っています。……お元気で」
幽雪はなにも答えない。ただ、前を向く直前、頷くようにひとつだけ瞬きをした。
そして――幽雪はその場に仄かな煙を残し、消えた。
「あの……楪さま。今日はありがとうございました」
睡蓮は、改めて楪に礼を言った。
「……あなたが無事で、本当によかったです」
楪が優しく睡蓮を抱き締める。
楪のぬくもりに、睡蓮は胸がいっぱいになった。
楪に抱き締められているだなんて、夢のようだ。これまで一度も、顔を見ることも、手紙すら返ってこなかったのに。
身体を離し、睡蓮は楪を見上げる。
「私こそ、なにも言わずにすみませんでした。まさか桔梗さんが楪さまだったなんて、私……今までいろいろとても失礼なことをしてしまいましたよね」
頭を下げようとする睡蓮の手を、楪は「違います」と言いながら掴んで引き寄せる。
「謝るのは俺のほうです。最初はあなたを探るために身分を偽って使用人になったのに……同じ時間を過ごすうちに、あなたとの時間がどんどんかけがえのないものになっていって……。桔梗としてなら、ずっとあなたのそばにいられるかもしれない、だなんて都合のいいことを考えてしまいました。俺はあなたに、取り返しがつかないことをしたのに」
楪は目を伏せる。じくじくとした後悔が楪から伝わってきた。
でも、それなら睡蓮だってそうだ。
「……私もです」
楪が顔を上げる。
「私は、死ぬ運命にありました。だからこそ楪さまと離縁して、最後はひとりで過ごさなけばならないって決めていたのに……それなのに、桔梗さんと出会ってしまって、知れば知るほど桔梗さんに惹かれていくじぶんがいて。そのたびに楪さまのことが頭をよぎりました。恩人の楪さまを、裏切っているような気持ちになりました。私、じぶんがこんなに薄情な人間だったなんて、知りませんでした」
じぶんを花柳家から連れ出してくれた楪を守るため、妖狐と契約をした。
それなのに、桔梗に惹かれ始めて、魂を捨てるのが怖くなった。
睡蓮は自身の両手のひらを見つめた。
この手は無力だった。
魂を差し出すことすらできず、結局楪や桃李に守られてしまうばかりで。
この手は、四神の力を持つ現人神の花嫁としてふさわしくない手だ。
睡蓮は手をぎゅっと握り締め、別れの言葉を選ぶ。
「私……楪さまと過ごしたこのひとときのこと、一生忘れません。宝物として、これから生きていきます」
視界が滲んで不明瞭になっていく。
最後なのだから、しっかりと楪の顔を目に焼き付けたいのに、心はままならない。
せめて笑顔で。そう思い、睡蓮は涙を流しながらも精一杯に笑顔を向けた。
「今までお世話になりました。お元気で……」
「……待ってください」
身を引こうとする睡蓮の手を、楪が掴む。
「……楪さま」
楪は睡蓮をじっと見下ろし、告げる。
「今さらこんなこと、都合が良過ぎると分かっています。でも……あなたを失いそうになってあらためて、自覚しました。俺は、あなたが好きです。これからもずっと、あなたのそばにいたい」
楪の背後にいた桃李が、楪になにか紙のようなものを差し出す。
睡蓮はその紙を見て目をみはった。それは、睡蓮が楪へ送った離縁の紙だった。
「これ……」
「実は、これは最近まで俺も知らなかったことなんですが……。この紙はずっと桃李が保管していたみたいなんです」
「えっ? じゃあ、私たちって……」
「はい。俺たちは、まだ正式には離縁していないんですよ」
「そ、そうだったのですね……」
「睡蓮。……離縁の話を、破棄させてほしい。……もう一度、俺と生きてもらえませんか」
「……え……」
「今度は契約じゃない、本物の……愛の結婚をしてほしいんです」
「…………」
睡蓮はぽっかりと目を開けたまま、固まった。静かに涙が頬を伝い落ちていく。
夢だろうか、と睡蓮は思う。
ずっとひとりぼっちだと思っていた。
両親は妹ばかりを愛して、睡蓮など相手にしなかった。
居場所のない花柳家を、早く出たかった。けれど、睡蓮にはなにもない。ひとりで生きていく勇気も、力も、財力も。
楪からの婚姻の話は、またとない話だった。
たとえ契約結婚だろうとも、顔すら知らないひとでも、睡蓮は初めて必要とされたような気がして嬉しかった。
睡蓮は楪に、好意というよりは憧れのような感情を抱いていた。
龍桜院の屋敷では、楪へしたためる文の内容を考えることが楽しくて、返事が返ってくることが待ち遠しくて、三年なんてあっという間だった。
まだ、ぜんぜん足りない。もっとそばにいたい。何度そう思ったか分からない。
――それが、叶うかもしれない……?
黙り込んだままの睡蓮に、楪がそっと声をかける。
「睡蓮?」
睡蓮がハッとして顔を上げる。
「……す、すみません。感動してしまって……」
「感動……ですか?」
「だって、夢のようで……」
睡蓮の頬を伝っていく雫を、楪が指の腹で優しく拭う。
「夢になどしないでください」
優しく微笑む楪を、睡蓮はまっすぐ見つめた。
睡蓮の小さな手には、なにもない。
神の力を持つ楪に見合うような、たいそうな人間でも。
けれど、それでも楪は、睡蓮が必要だと言う。
それならば。
睡蓮は全身全霊をかけてその愛を受け止め、そして返したい。
「私も、楪さまとずっと一緒にいたいです」
その瞬間、楪は離縁の紙を破り捨て、睡蓮を強く抱き寄せた。
「睡蓮。愛してる」
睡蓮は楪の腕の中で、幸せを噛み締めるのだった。
楪は、ことの次第を紅から聞いたと言っていた。
紅は数日前から、忽然と姿を消していた。チョコレートの包みがなくなっていたから、睡蓮はてっきり幽世に帰ったのだと思っていた。
だが、どうやら違ったらしい。紅は、睡蓮のことを心配して、喫茶店やかつて睡蓮が暮らした屋敷に行き、独自に調べてくれていたらしい。そして、そこにあった植物たちから、白蓮路の話を聞いたのだそうだ。
すぐにおかしいと思ったらしい。
現人神とあろうものが無断で世界を渡るなど有り得ない。土地をまたぐときは、必ず事前に使いを出すものだ。さすがの紅も、それくらいは知っている。
つまり、睡蓮が白蓮路とふたりきりで会うわけがない。
おかしい。なにかが。紅はすぐに勘づき、自らが咎められることを覚悟の上で、現人神である楪のもとへ助けを求めに行った。
しかし、楪は現在睡蓮のもとで素性を隠して暮らしていたため、不在。代わりに桃李が対応し、桃李が楪に報告したという。
ちょうど同時期に楪からも睡蓮の様子がおかしいという報告を受け、睡蓮が暮らしていた屋敷に残った妖気を探っていた桃李は、すべてを理解し慌てた。
とにかく、睡蓮は楪だけでなく、紅や桃李のおかげで助かったということだった。
離れに戻ると、案の定紅はカンカンに怒っていた。身体を発光させて飛びついてきては、睡蓮の身体のあちこちに思い切り体当たりをしてくる。
そのたび、ぱちっ、ぱちっと火が爆ぜるような音がして、全身に痛みが走った。
「紅……本当にごめんね」
紅は最後、睡蓮の頬にぱちんと飛びつくと、そのまま張り付いて泣き出した。
「ばかっ、ばかっ!!」
「紅……」
切ない泣き声に、紅が心から心配してくれていたことが分かり、睡蓮の胸はぎゅっと絞られるように痛んだ。
睡蓮は、手のひらを紅の小さな身体にそっと添えるようにして抱き締める。
「あたし、怒ってるんだからね!」
いつにない剣幕の紅に、睡蓮は目を伏せ、「ごめん」と呟く。
謝る睡蓮に、紅は深くため息を漏らした。
「なんで……なんでこんな大切なこと相談してくれなかったのよ」
睡蓮は震える声で答えた。
「だって……迷惑かけると思ったし……それに、こんなこと相談されたって重いだけで、気持ち悪がられると思って……」
紅が小さな両手でぱちぱちと睡蓮の頬を叩く。
「ばか!!」
睡蓮はびくっと目を瞑る。
「迷惑ってなに? 気持ち悪いってなに? そんなこと思うわけない! それともなに。あたしには心配すらさせてくれないの!? あたしは睡蓮の友だちじゃないの!?」
紅は全身を真っ赤にして、睡蓮へ訴える。
「とも、だち……?」
声を詰まらせながら呟く睡蓮に、紅はさらに迫る。
睡蓮の鼻先に飛びついて、
「そうだよ! あたしたちは友だちでしょ! 違うの!?」
睡蓮は目を泳がせる。
「紅は……私がたまたま迷い込んできたところを助けて、庭に匿ってあげたから……だから仕方なく仲良くしてくれてたんじゃ……」
「ばかっ!!」
「いたっ……」
「ばか!」
紅は容赦なく、両手を睡蓮にぶつける。睡蓮は目をぎゅっと瞑って、火が爆ぜるようなその痛みにじっと耐える。
「ばか! ばかっ! そんなわけないじゃん! なんであたしが仕方なく人間と仲良くすんのよ!」
「じゃあ……な、んで」
おそるおそる、睡蓮は訊ねる。すると、紅は叫ぶように言った。
「好きだからだよ!! 優しくてちょっと抜けた睡蓮のことが、大好きだから一緒にいたの! あたしを匿ってくれてるからとか、そんなくだらない理由であたしが行動するわけないじゃん!!」
睡蓮は息を呑んで紅を見つめる。熱をはらんだまっすぐな眼差しが、睡蓮の心を射抜く。
じわっと紅の姿が滲む。睡蓮は顔を歪めて、小さなあやかしを見つめた。
「紅……っ、わ、たし……」
睡蓮は振り絞るように声を出す。
「私も、紅のことが大好き。でも、私はいつも愛されないから……だから、期待するのが、怖くて」
言いながら、睡蓮の唇がきゅっと苦しげに歪む。唇の隙間から、かすかに嗚咽が漏れた。
睡蓮はいつも片想いだった。
どんなに愛しても、愛を返してくれるひとはいなくて。いつしか期待することを諦めた。
見返りなんて求めちゃいけない。愛は、一方通行が当たり前なのだから。
「紅のこと、好き……私も……好きって、言っていい……?」
「当たり前じゃん……っ!」
紅が睡蓮の頬に抱きつく。小さな身体が震えている。睡蓮は喉を鳴らした。
「あたしも、もっとちゃんと言葉にすればよかった。睡蓮のこと大好きだって! ずっと一緒にいたいって! ごめんね、ごめんね睡蓮。ずっとひとりにしてごめん」
睡蓮の目が、雨粒が落ちた水溜まりのごとく揺らぐ。
「紅……ありがとう……」
睡蓮の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちていく。睡蓮の頬に抱きついたままの紅と一緒になって、睡蓮は声を上げて泣いた。
しばらくして泣き止むと、睡蓮は楪と桃李にもう一度頭を下げた。
「おふたりにも、迷惑かけてしまってごめんなさい」
「とんでもない。睡蓮さまがご無事でよかった」
桃李の陽だまりのような笑みに、睡蓮も口元を緩める。
そして睡蓮は、紅がふたりに報せてくれたと聞いて、気がかりとなっていたことを訊ねた。
「あの……楪さま、桃李さん。紅はやはり、幽世へ帰らなくちゃだめなんでしょうか?」
紅は現在、現世に不法滞在している。これまで紅は睡蓮とふたりきりのとき以外は姿を隠していたが、今回のことで楪や桃李に知られてしまった。強制送還、なんてことにはならないだろうが、だからといって、このまま見過ごすということもないだろう。
睡蓮が問うと、楪の代わりに桃李が答えた。
「たとえ花嫁の頼みとあっても、正当な理由もなく贔屓することはできません。現人神さまの信頼にかかわってきてしまうから」
桃李の解答に同意するように、楪が目を伏せる。
「そう……ですよね」
紅もしゅんとしてしまった。
「紅。ごめん。私のせいで……」
「こら」
睡蓮が謝ろうとすると、紅がぱちんと再び睡蓮の頬を叩いた。
「またそうやって〝私のせい〟なんて言って! あたしは睡蓮のことが好きだからやったわけだから、これは睡蓮の問題じゃなくてあたしの問題! そうやってすぐじぶんを下げるの、睡蓮の悪い癖よ! 直しなさい!」
「う……ごめん。でも、紅と離れるのが寂しくて」
「それはあたしだってそうだけど……」
ふたりして再びしゅんとしたとき、楪が言った。
「そういえば桃李。俺の花嫁に護衛を付ける話をしていましたが」
「えぇ。その必要はなくなったようですね」
楪と桃李はなにやら意味深に微笑み合う。そして、楪は紅を見て言った。
「紅。あなたにはこれから、花嫁の護衛として、現世で働くことを命じます」
「えっ……」
「ど、どういうこと?」
困惑気味に顔を見合わせる睡蓮と紅に、桃李が説明した。
「言ったでしょう? 花嫁の友人といえど、正当な理由もなく贔屓することはできない。ですが、花嫁の護衛であれば、これ以上ない重要な役目です。もともと今回の件も、あなたに護衛を付けることが遅くなってしまったから起こってしまったことですし……紅さんなら、睡蓮さまとの信頼関係も十分ですし、なにより行動力がある。これ以上ない人材です」
と、いうことは。
睡蓮と紅はもう一度顔を見合わせた。
「じゃあ、私たちはこれからも一緒にいられるのですね!」
「やったぁ睡蓮〜!!」
手を離して喜び合うふたりに、楪は穏やかに微笑んだ。
「ただし」
……が、喜ぶふたりを、桃李の鋭い声がスパッと両断する。
「紅さんは西の幽世出身です。しかも不法滞在の身。東で正式に採用するには、白蓮路さまに許可を取らなくてはなりません」
睡蓮はハッとする。そういえばそうだった。
紅は西の幽世生まれで、西の現人神である白蓮路薫から直々に仕事を請け負うほどの名家の娘。
紅の家族への報告もそうだが、現人神にもその旨を伝えなければいけない。
「えぇ、そんなのべつによくない?」
紅がげーっと面倒そうに眉を寄せて言うと、桃李が厳しい言葉を返した。
「よくありません。それから、花嫁の護衛という重要な役割を担うことになりますので、しばらくは私の特訓を受けてもらいますからね。その特訓に合格しなければ、問答無用で西へ強制送還です。いいですね?」
すると紅はあからさまにいやな顔をした。
「えぇ〜!! それじゃ睡蓮のそばにいられないじゃん!」
「それがいやなら幽世へ大人しくお帰りなさい」
ぶーぶーと文句を言う紅に、桃李はぴしゃりと鼻先で戸を閉めるような口調で言う。
「ちっ……鬼め」
文句が通じないと悟ると、紅は今度は小さく舌打ちをした。桃李が紅をじろりと睨む。
「鬼ですがなにか?」
たしかに桃李は鬼だった。
「あはは、なんでもないでぇ〜す」
ふたりの掛け合いを、睡蓮はぽかんとした顔で見ていた。
桃李の態度があまりにも睡蓮の知る彼と違い過ぎて、若干脳内が混乱していた。
傍らにいた楪が、「どうしました?」と首を傾げる。
「いえ……桃李さんがこんなにきりっとしたかただと思ってなかったので。お手紙でも、お会いしたときもとても丁寧で物腰も柔らかかったし」
不思議そうにする睡蓮の横で、楪がくすっと笑う。
「桃李は仕事となれば厳しいですよ。昔、俺もずいぶん叱られましたから」
「えっ、楪さまが?」
睡蓮はぎょっとして楪を見上げた。
「えぇ」
楪が桃李に怒られる。……意外だ。意外過ぎて想像ができない。ちょっと見てみたい気もするが。
「さて。彼女のことは桃李に任せるとして」
おもむろに楪が睡蓮の肩を抱き寄せる。
「楪さま?」
睡蓮が楪を見上げた刹那、楪は睡蓮の身体を軽々と横抱きにした。
「きゃっ……」
驚く睡蓮に、楪が優しく微笑む。
「しっかり掴まっていてくださいね」
言われたとおりぎゅっとしがみつくと、楪が地を蹴った。
睡蓮を抱いた楪は、天へ昇る龍のごとく、ぐんぐんと駆け上がり、地上から離れていく。
身体をちぢこませ、ぎゅっと目を閉じる睡蓮に、楪が声をかける。
「睡蓮。目を開けて」
まるで子猫に問いかけるような優しい声に、睡蓮はおそるおそる片目を開ける。
その目に映ったのは、まるで未明の濃紺色と薄明の桃色がとろりと混ざり合ったような、神秘的な空だった。
「わっ……」
――きれい。
見事な景色に、睡蓮は息を呑む。
「こんな空、見たことない……」
睡蓮の視界の中には、余計なものはなにもない。
花も、鳥も、家も、ひとも。けれど、それがかえって空の美しさを引き立てている……が。
「あの、楪さま。いったいどこへ……」
向かっているのですか、と訊ねようとする睡蓮に、楪は意味深に口角を上げる。
「着いてからのお楽しみです」
睡蓮はそれ以上は聞かずに、不思議な色をした空を眺めていた。
そうして辿り着いたのは、天空にそびえる荘厳な城だった。
雲の上に建つその城の周囲は、さっきまでのなにもない空間ではなく、みずみずしい草花に彩られている。
漆喰総塗籠の白壁は目に鮮やかで、いぶし瓦は太陽の光を受けて銀色に輝いている。
大きな門扉の周りには柳の木が植えられ、さわさわと優しい風に揺れていた。
「ここ……」
「ここは、現人神の社です」
「やしろ?」
つまり楪の家、ということだろうか。
「行きましょう」
楪は睡蓮を下ろすと、そのまま睡蓮の手を引いて門扉をくぐる。睡蓮は大人しくあとに続いた。
中には、美しく手入れされた庭があった。
植えられている和花は鮮やかに咲き、紅葉はみずみずしい葉を茂らせている。松の影が落ちる池には生き物の姿はないものの、その代わり、池をとり囲む石についた苔の緑を美しく水面に映していた。
「すごい……」
「これからあなたは、ここで俺と暮らすことになります」
「えっ! あの、前に住まわせてもらった家では」
「あれは別邸ですから。ここが本家。ここには、現人神である俺と、俺が妖力で生み出した人形しかいません。基本的にここに入ることができるのは、現人神が認めた者だけです」
特別、と言われたようで、嬉しさが込み上げてくる。紅や楪にもらったあたたかな感情たちに胸がいっぱいになっていると、ふと大切なことを思い出す。
まだ、紅のお礼を言えていなかった。
「あの……楪さま。紅のこと、私の護衛にしてくれて本当にありがとうございます。それから……ずっと紅のこと隠していてすみませんでした」
「俺もじぶんを偽っていたのだから、お互いさまですよ。……それに、睡蓮にあんな不安な顔はもうさせたくないですからね」
睡蓮は困惑する。
「……私、そんな不安な顔してましたか?」
「まぁ、そうですね……夫が妬いてしまうくらいには?」
楪がいたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「う……」
睡蓮はどぎまぎしながら、瞬きを繰り返した。楪にまっすぐ見つめられると、どうも落ち着かない。
すると頭上から、ふっとかすかな笑い声が降ってきた。
顔を上げると、
「冗談ですよ。……彼女については、睡蓮がずいぶん信頼しているようでしたし……彼女が相談に来たあと、すぐに桃李が素性をすべて調べましたからね。心配はしていませんでした。それにしても……本当に彼女のこと、信頼しているんですね」
「紅は、私に初めてできた親友、ですから」
楪が柔らかく笑う。どうにも気恥ずかしくなって、睡蓮は話を変えた。
「……そうだ。ところで楪さまは、私と契約結婚していたとき、ずっとこのお社に?」
「はい。ここは唯一、俺の心の休まる場所です」
「そんな大切な場所なのに、いいんですか?」
私なんかが、と続ける前に、楪が言う。
「あなたと出会って、少し心境が変わったんです」
「心境?」
「……その、睡蓮とは、片時も離れたくないな……と。睡蓮がいやでなければ、ここで一緒に暮らしたい」
「いやだなんてそんな……嬉しいです。ただ、私なんかがこんな特別な場所に来てしまっていいのかなっていう不安はやっぱりありますけど」
……と、未だにこの状況を信じられず、おどおどとする睡蓮に、楪は柔らかな笑みを浮かべる。
「当たり前です。あなたは俺の、唯一無二の花嫁なんですから。……俺は、あなたに出会って恋をして……ずいぶん変わりました」
ひとに興味が湧いた。
ひとを信頼できるようになった。
愛されることを心地良いと思えた。
愛したいと思った。
……強く。
そう、楪は目を細めながら、しみじみと語る。
「ぜんぶあなたのおかげです」
「……そんなことありませんよ」
睡蓮はくすぐったい気持ちになった。
「ねぇ、睡蓮」
楪が睡蓮の名を呼ぶ。楪が砕けた口調で話しかけてくるのはまだ慣れなくてどきどきする。
「は……はい。なんですか」
どきどきしながら楪を見上げる。
「楪、と呼んでくれませんか」
「えっ」
「俺は、あなたの前では現人神でなく、ただの俺でありたいんです」
まっすぐな眼差しに、睡蓮は息を呑む。
「睡蓮」
もじもじしていると、楪が優しく催促する。
「ゆ、ずりは……さん」
勇気を出して名前を呼ぶと、楪は嬉しそうに頬を緩め、睡蓮を抱き寄せた。
「あ、あの……?」
少し強引だったが、触れかたは優しい。ただ、恥ずかしさで息が止まりそうになった。
楪はさらに無茶を言う。
「……もういっかい」
「えっ!?」
耳元で、まさかのおかわり。
「は、恥ずかしいです」
拒む睡蓮にも、楪は譲らない。
「大丈夫。ここには俺しかいない。俺しか聞いてないから」
「そ、そういう問題では……」
ないのだが。
「……お願いします。もういっかいだけ」
楪は言いながら、睡蓮の肩に顔をうずめる。首筋に楪の滑らかな銀髪が流れてくすぐったい。声が漏れそうになる。
「呼んでくれるまで離しませんから」
「!?」
とうとう子どものようなことを言い出す楪に、睡蓮は軽く絶望する。
「……楪さん」
仕方なく恥ずかしさをこらえ、もう一度名前を呼んだ。
「……うん、睡蓮」
「く、くすぐったいです……」
「ごめん」
くすぐったいけど、いやじゃない。
恥ずかしいけど、嬉しい。
こんな気持ちは初めてだ。
ただ名前を呼ぶだけのことが、こんなにも恥ずかしくて幸せだなんて、睡蓮は知らなかった。