前世魔王、500年後に人間として転生したらかつての臣下たちに溺愛されて困っています(若干ヤンデレ化してる気もするけどたぶん気のせいです)! ◆転生魔王は帰還する!編◆

「ヴィクトリア!」

 エイルが叫ぶ。
 ヴィクトリアは、とっさに避けることが出来なかった。
 ぎゅっと、衝撃を予期して目を瞑る。
 ――その時。

「下がってください。ヴィンセント」

 聞き慣れた声が響いて、ヴィクトリアは大きな手に、体を後ろに引き寄せられた。
 しかし閉じた瞳を開けても、彼女の視界は暗いままだった。
 冷たい手。
 ヴィクトリアを抱き寄せたその相手は、彼女の視界を手で覆い隠した。

「…………カーライル……?」
「はい」

 ヴィクトリアがその名を呼べば、返ってきた声はいつもの彼と少し違って、どこか焦りを含んでいるようにもヴィクトリアは感じられた。

「ここは私が対処します。貴方は、このまま動かないで下さい」

 カーライルはヴィクトリアの髪に触れる近さで、彼女にだけ聞こえる声で囁いた。
 小さく頷けば、自分の背後で、カーライルが困ったように笑ったのがヴィクトリアにはわかった。

「護衛は要らないなんて言ったのに、貴方は本当に無茶をする」

 カーライルはそう言うと目を細め、古龍の体を意図で一度貫こうとして――それからピタリと体を制止させて、糸で古龍の体を包みこんだ。

「?」

 古龍の拘束を終えたカーライルに漸く目隠しを外されたヴィクトリアは、てっきり古龍を殺すかと思っていたカーライルが、拘束だけに済ませたことに驚いて目をまたたかせた。
 もう一つの彼女の驚きは、古龍の動きを封じたカーライルが、抱きしめた手を緩めなかったことだ。

 細いようで筋肉のついたカーライルの腕をヴィクトリアがペチペチと叩けば、カーライルは、彼女を抱きしめる腕に更に力を込めた。
 まるで大切なものが壊れていないのを確かめるかのように、カーライルは少しだけ体を震わせて、ヴィクトリアの肩に顔を埋めた。

「!?」
 ヴィクトリアは困惑した。

(こんなカーライル、私は知らない)

 ヴィクトリアの知るカーライルという男は、昔から理性的で、常に冷静な男だ。
 
(おかしい。カーライルはこんなふうに、感情を表に出す人物じゃないはずなのに)

「あの。あの……カーライル……?」

 冷たい髪が、首にかかってくすぐったい。
 ヴィクトリアは震える声で呼びかけたが、彼には届いてはいないようだった。
 そしてカーライルは、少し顔を上げて、ヴィクトリアのうなじにそっと唇を押し当てた。

「!?!?」

 柔らかい唇に触れられて、ヴィクトリアは体をこわばらせた。
 雪女の血をひく彼の唇は冷たいはずなのに、今のヴィクトリアには、確かに熱を帯びているように感じられた。
 言葉にできない熱に当てられ、何故か体が熱くなる。

「や……やだ。かーらいる、カーライルッ!」

 振りほどこうにも、決して離れてくれない幼馴染の名を、ヴィクトリアは顔を真っ赤にして叫んだ。

「そのへんにしておけ、カーライル」
 
 その時だった。
 ヴィクトリアの頭上から静かな声が降ってきて、誰かがカーライルとヴィクトリアの体を離した。

「レイ……モンド……?」
 
 ヴィクトリアに助け船を出したのはレイモンドだった。
 我に返ったカーライルは目を瞬かせて、そうして驚いたように男の名前を呼んだ。
 ヴィクトリアは思わずレイモンドの後ろに隠れた。

 カーライルはそんな彼女を見て頭を抑え――彼女を抱きしめた自身の腕を見つめると、沈黙の後に二人から顔を背けた。
 その耳は、ほんのりと赤く染まっていたようにヴィクトリアには見えた。



「ん……?」

 古龍を無事封じ、アルフェリアは彼女の屋敷へと運ばれた。

 目立った外傷はなく、頭を強くぶつけたため意識を失ったのだろうということで、ヴィクトリアはずっと彼女の手をにぎって、幼馴染の目覚めを待った。
 アルフェリアが目を覚ましたのは、それから二時間ほど経ってのことだった。

「アルフェリア!」
「アルフェリア! よかった。目を覚ましたんだね」
「ヴィクトリア……? ヴィクトリア、怪我はない!?」

 目を覚ましたアルフェリアの第一声は、ヴィクトリアの安全を確認するものだった。
 意識を失って居た相手に突然体を捕まれて、ヴィクトリアは少し慌てた。

「う、うん。私は大丈夫……」

 ヴィクトリアの無事を確認にしてほっと息を吐いたアルフェリアは、それから自分の部屋にいる魔族に気づいて目を瞬かせた。

「なんでカーライル様方が……?」
「……アルフェリア。そのことで私、貴方に話さなきゃいけないことがあるの」

 ヴィクトリアの言葉に、エイルは静かに目を伏せた。

「私がここに帰ってきたのは、これからは私が、セレネで暮らすことになったからなの。私……私は、本当は……」

 真実を告げる前、ヴィクトリアの心臓は、破裂しそうなほど早鐘を打っていた。

「私は、『ヴィンセント・グレイス』の生まれ変わりなの」 

「……それは、本当なの?」

 アルフェリアの表情が、少しだけ厳しくなる。そんな彼女を見て、ヴィクトリアはゆっくりと、小さく頷いた。

「……うん」
「はい。彼女は『ヴィンセント』です」

 カーライルが、ヴィクトリアの背後から静かに言った。
 ――『ヴィンセント』。
 その名で呼ばれ、ヴィクトリアは少しだけ拳に力を込めた。

「そう。……じゃあ、あの話は嘘だったのね」
「え?」

 ヴィクトリアの予想とは違って、アルフェリアの顔が曇ったのは一瞬で、すぐに彼女は表情を緩めた。
 カーライルの言葉を聞いたアルフェリアは、いつものように優しい目で、ヴィクトリアを見つめていた。

「魔王が魔族に、人間を殺すよう命じたって話。だってヴィクトリアが、人間を殺すよう命令するなんて、そんなことあるはずないもの」

 その言葉に、ヴィクトリアは目を瞬かせた。
 ヴィクトリアは、アルフェリアの瞳の中には今も確かに、『今の自分』が映っているような気がした。

「誰かが怪我したりすると自分までつらそうな顔する子が、そんなことできるはずない。……そんな貴方に、村を守るために戦わせてしまったことは、本当に申し訳なく思ってる。でも、貴方が争いがすきじゃないのは、きっと貴方を知る誰もが知っているわ。――エイルも、そう思うでしょう?」

 部屋の隅にいたエイルは静かに頷いた。

「どんな噂があっても、私は、私の知る貴方を信じてる」
「……っ!」

 ヴィクトリアは、幼馴染二人の笑顔を見て下を向いた。
 アルフェリアの声は、優しい姉そのものだった。
 だからヴィクトリアは、まるで子どもが泣くかのように、ぽろぽろと涙を落としてしまった。

「……私、あの時、何が起きていたのか分からなかった。でもみんな、私のせいだって。みんな……私が、私が悪いんだって……。だから、だから私は……」

 感情が、涙があふれて止まらない。
 五〇〇年前から、ずっと誰にも告げることの出来なかった思いが、言葉があふれる。

 前世《むかし》のヴィクトリアは、勇者に殺されることを望んで、死んで人間になろうとした。
 自分が全て背負えば、丸くおさまる。勇者に告げられた言葉は、彼に告げられる前から、心の奥底でずっと彼女自身が考えていたことだった。

 つらいと、口にするのが苦手だった。
 人間と魔族の共存を願っていたからこそ、自分が死ぬしかないのだとそう思った。
 たとえ自分の責任ではないとしても、恐怖しか与えられない魔王に居場所はない。嫌われている自分が死ねば、みんなが幸せになる。――そう、勇者も言ったから。

 『ヴィンセント・グレイス』は、魔王であることをやめるために、力を消すために、『人間になりたい』と願った。

「……ヴィクトリアの言葉なら、私は信じるよ」
「僕も信じる。魔族だろうと何だろうと、ヴィクトリアは僕たちの、大切な幼馴染だからね」
「そうよ。悲しませて泣かせるような真似、絶対に許さない。たとえ相手が、誰であろうと。だから……カーライル様!」
「?」

 突然人間の少女に名を呼ばれ、カーライルは首を傾げた。

「この子のことを、ヴィンセントと呼ぶのはやめてください!」

 アルフェリアはそう言うと、ヴィクトリアの手を引いて、ぎゅっとその体を抱きしめた。

「ヴィクトリアが決めたなら、私は何も言わない。セレネで暮らしたいと言うなら、そうすればいい。でも今のこの子は――私達の幼馴染、ヴィクトリア・アシュレイなんだから!!!」

 魔王城リラ・ノアールの現在の管理人。

 現魔族の中で最も強いとされる男に対し、アルフェリアは怖じ気づくことなく真っ直ぐにその目を見て言い放った。
 まさかただの人間の少女に物申されると思っておらず、カーライルは目を丸くした。
 そんなカーライルを見て、ルーファスがポツリ呟いた。

「……流石、陛下の幼馴染」

 ヴィンセント・グレイスの幼馴染はカーライルだった。
 けれど今の――ヴィクトリアの幼馴染は、アルフェリアとエイルなのだ。

「ご心配なく。彼女の――ヴィクトリアのことは、骨の髄まで愛しておりますので」
「…………」

(その表現《ことば》、物騒だし若干怖いんだけど、私はこれはどんな反応をすれば……)

 助けを求め、ヴィクトリアはレイモンドに視線を向けたが、彼はふうと溜息を吐くだけだけで、今度は何も言ってはくれなかった。




「初めて会った時、あの子は、誰かを探して泣いていたんです。その涙を見て、初めて自分の中に、誰かを慈しむ――いや、感情があることを知りました。守りたいと、支えたいと、そう思った。そして彼女を傷つけようとするものの全てを、排除することを心に決めた。それは、実の父親であっても変わらなかった。だから私は……あの子を殺そうとした、父を殺した」

 幼馴染みとの別れを惜しむヴィクトリアをルーファスに任せ、先にセレネに戻っていたカーライルは、古龍を閉じ込めた繭を見上げ静かに言った。

 もう随分昔のこと。
 けれどその時の自分と父とのやりとりを、カーライルは今でも、不思議とはっきりと思い出すことが出来た。

『お前なら油断するはずだ。カーライル。我が一族のために、ヴィンセントを殺せ』
『あの子を、ヴィンセントと呼ぶことを許されたのは私だけだ』

 一族の誰よりも秀でている。
 カーライルほどの才能を持つ子はもう、蜘蛛の一族からは現れない。
 そう評価されていたカーライルを、彼の父が幼い魔王を殺して王に据えようとしたのは、ある意味当然のこととも言えた。

『――何?』
『ゆるしもえず、その名を口にするな。その名は、今は私だけに許されたものだ』
『まさか、私を殺すのか。父である、この私を……!』

 カーライルが父親に反抗したのは、それが最初で最後だった。

『はい。それに、ヴィンセントも父親を殺している。彼女と同じ行いをすれば、私も彼女の気持ちが分かるかもしれないと思いせんか?』
『――』

『ヴィンセントの世界に、貴方は必要ない。彼女を支えるための一族をまとめる長ならば、貴方より私のほうがうまくやれる。だから、貴方はもう要らない』
『――お前の変化に、もっと早く気づくべきだった』

 カーライルは蜘蛛の糸を、そっと父親の首に巻き付けた。
 最後のその瞬間を、一瞬にしようと思ったその理由は――今でもカーライルは、理解《わか》かるようで理解《わか》らない。

『はい?』
『心を持たない人形だったお前が、そんなことを言うなんて』
『出会ったその瞬間から、私の全ては彼女のものだ』
『そうか』

 もうすぐ殺されるというのに、何故か父はカーライルを見上げて笑った。

『気づいていらしたのには少し驚きました』
『私はお前の父親だからな』
『そうですね。でももう、私に貴方は必要ない。――さようなら。父上』

 いつものように糸を手繰れば、殺すのは簡単だった。

『あれ? 変だな……』
 いらない存在だった。
 だというのに、何故か涙がこぼれた。

 ヴィンセントが何故先王を殺したかという話は、セレネには伝わっていない。
 『ヴィンセント・グレイス』は父である魔王を殺した――それだけが、今伝わる全てだ。
 カーライルは、自分も父を殺せば、愛する彼女の気持ちが分かる気がしたけれど、何故か頬を伝うしずくが気になるばかりで、それ以上何も考えることもできなかった。
 ただ、それから父の後を継いで、確かに言えることがあると思った。

 これで彼女の世界は、少しだけ綺麗になった。

『どうして泣いているの?』

 初めて出会った日。
 眠る幼いヴィンセントの涙が、カーライルに感情を与えた。
 色のなかった世界に宿ったのは、愛しい黒と赤い色。
 夜の闇と、血のような赤い色。

 自分も含めて、すべていらない世界だったから。その少女だけが、自分の生きる意味になった。
 人間だけじゃない。魔族もどうでも良かった。
 魔王の王座になど興味はない。彼女が座っていたその場所を、自分から奪おうとするものが現れるなら、全て消してしまおうと思った。

 もう彼女はいないから。
 その場所だけが、彼女が生きていた証だったから。
 たとえもうその場所に、彼女の温もりは感じられなくても、自分が生きている限り、代わりに誰かが座ることを許すつもりはなかった。

『ヴィンセント!!』

 目を瞑ればいつでも、世界は赤く染まっていて。
 彼女を失った日のことを、昨日のことのように思い出す。
 ヴィンセントの死のあとに、魔法がとけ漸くカーライルは彼女に近づくことができた。
 けれどその瞳が、もう開かないことは理解していた。

 失ったものは戻らない。
 手が震えた。聖剣に穿たれ、絶命した愛する人に触れる。
 カーライルは、その日のことを思い出して胸元に手を当てた。
 自分の心を、最後まで受け入れることなく一人で旅立ってしまった彼女を前に、狂ってしまいそうな虚無感が、あの日からずっと彼の中にはある。
 何度思ったことだろう。

 貴方にさえ出会わなければ、自分が空虚であることを知らずに済んだのに。心など、痛みなど知らずに済んだのに。
 どうして愛してしまったのか。
 愛しているという言葉を告げたとしても、自分の力に囚われて、決して心を信じてくれなかった貴方のことを。
 
 けれど長い時を生きる魔族なら、いつか彼女の魂と自分の時が交差することもあるかもしれない。
 だからこそカーライルは城を守り、魂を見分ける金色狼であるルーファスに、ヴィンセントを探すことを許した。

 でもそうやって蜘蛛の糸を張り巡らして、彼女を捕まえようと思っても、彼女をとらえることはできないし、本当の意味で彼女を笑顔にすることができるのは、自分じゃない他の誰かのような気もした。

「昔からあの子を守りたいと思うのに、なかなか上手くいかない」

 絡めとるだけならば、捕まえて箱に閉じ込めるだけならば、簡単なはずなのに。その心を欲しいと思うから、手を伸ばしても届かない。
 彼女の求める何かが、自分の中で噛み合わない。けれど今のカーライルには、その違和感をただす方法がわからなかった。

 繭を運ぶためカーライルに同行していたレイモンドは、黙って彼の言葉を聞いていた。

 昔の彼女の、『ヴィンセント』と同じ色。
 そんな色を宿すレイモンドの赤い瞳を見つめ、カーライルは昔を懐かしむように目を細めた。
 空を見上げれば、ちょうど日が落ちて赤く染まっていた。

 夕焼けの赤い色は、ずっと探していた赤い色と似ている。
 その赤は、もうこの世界には無い。
 求めていた彼女は、これからは手で触れられる場所にあるはずなのに、沈みゆく陽を見ると、カーライルはこれからも、自分はきっと夕焼けを見る度に胸が苦しくなるのだろうと思った。

『どうして同じように生きているのに、傷つけ合わなきゃいけないんだ。下等も劣等もない。傷つけられたなら、誰だって痛いに決まっている。――魔族であろうと、人であろうと』

 魔王という地位を継ぐには、あまりにもヴィンセントは優しすぎた。
 本当は彼女が魔王には向いていないことを、カーライルは知っていた。けれど自分が、支えたいと思うのは彼女だけだった。頭を垂れる価値は、他の者には感じなかった。

「魔族は人間を殺しすぎた。私はあの子の手を汚したくはなかった。だから貴方たちに殺させた。魔族の処罰を、あの子を差し置いて私が命じるわけには行かなかった。そしてあの子は、すべての責任を背負ってから死を選んだ。あの子の死を無駄にはできず、私は和平の道を選んだ。今思えば、バカバカしくてたまらない。……あの子を守るつもりが、追い詰めていたなんて。そしてあの子は、私達を、自分を守って亡くなった。人間と魔族と、共存していくには、たった一人の悪役が必要だった」

 隣り合う世界の二つの種族。

 魔法の使えない人間と、魔法を使うことの出来る魔族。
 故に魔族は人間を下に見る傾向があり、五〇〇年前に魔族は『魔王ヴィンセント・グレイス』に命じられたという名目で、多くの人間を殺した。
 その事件の全てに、ヴィンセントが命じたものは一つもなかったというのに。
 そして、ヴィンセント・グレイスの死後、勇者の力は知らしめられ、魔族と人間の世界を繋ぐ門の殆どは閉められることとなり、表向きは両者にとって平和な時代が訪れた。

「五〇〇年前のことを、私は塗り替えたい。魔王ヴィンセント・グレイスは、確かに多くの魔族《どうほう》を殺すよう命じたけれど、決して人間を襲うようには命じていなかったのだから」

 誰もが彼女のせいにした。
 そして、言葉を引き出すために、命じることが出来なかったヴィンセントは、絶望をひとり抱えることになった。
 誰の言葉も受け入れられず、彼女は『残虐非道な魔王』として死んだ。

「おそらく、今の彼女の魔法は不完全。……皮肉なものだ。だからこそ今の彼女は、私達の言葉を信じてくれる」

 カーライルは静かに言った。

「私は、彼女を愛している。たとえこの体が滅んでも、彼女がこの世界に生きてくれているだけでいいと思うほどに」

 びき……びきき……。
 その時、古龍を拘束していた繭を、何かが内側から溶かしながら破いた。
 レイモンドは、その亀裂を見て目を細めた。

「カーライル。話を聞くのは後だ。どうやら殻を破るようだぞ」
「ああ。わかっている」

 二人はそれぞれ繭に向き直った。
 ――すると。

「ぷはあっ!」

 繭の中から、米粒三つ分ほどの大きさの男が現れ、大きく息を吸い込んだ。

「全くなんてやつだ! 息苦しくて死ぬかと思った!」

 男の声は、龍の声と同じだった。

「全く、どういう神経をしているんだ。古龍を糸で包み込むなんて。……っ!?」 
「――捕まえた」

 二人の殺気にすら気づかず、文句を口にしていたその生き物を、カーライルは指で掴んでとらえた。

「ひえっ!? ……お、お前は、カーライル・フォン・グレイル!?」
「おや。私の名前を知っていたとは話が早い。さっさと死んでもらおうか」

 にこり。
 カーライルは、どこか楽しそうに笑った。

「ま、待てっ!こ、殺すのはやめろ! 見逃してくれたなら、お前にとっておきの情報を教えてやる!」
「……そんなにいいことを知っているのか?」

 カーライルは、男の提案にふむと考えるそぶりを見せて、指の力を弱めた。
 すると男は、服の中から虹色の種を取り出して、カーライルの頭めがけて投げつけた。

「ふっ。これでもうお前の体は俺のものだっ! ……ぐえっ!!!!」

 男の高い笑い声は、途中から蛙が潰されたような声に変わる。

「は? え。ええっ?」
「手品の種は、もうわかっている。これさえなければ、お前は何も出来はしない」

 男の投げた種は、カーライルの糸にくるまれていた。
 氷のように美しい、雪女の一族と蜘蛛の一族の血を引く男は、糸を手繰るように手を動かした。

「力のないただの劣等種が、思い上がりも甚だしい。種で操って強くなったつもりか? こんなもの、お前の力でもなんでもない」

 カーライルはそう言うと、糸で種を押しつぶした。

「ま、待て! 話せばわかるっ!」
「目障りだ――消えろ」

 悲鳴さえあげさせることも許さず、カーライルは諸悪の原因である男を捻り潰した。
 そうして彼は、手についたほこりをはらうように手を動かして、はあとため息をついた。

「こんな雑魚をのさばらせていたなんて、私も気を抜きすぎていたようだ」
「……さっきの、殺さずに口を割らせたほうが良かったんじゃないか。デュアルソレイユへの侵入のこともある」

「門については私がもう一度確認して閉じればよいだけのこと。それに、他に黒幕がいたなんて――せっかく全てが片付いたと思っているあの子に、古龍にはなんの罪もなく、あやつられていただけの生き物を傷つけたと知らせる必要はない」

 ヴィクトリア以外なら、魔族であろうと容赦はしない。同胞を虫けら同然に処理した男は、そう言うと口元を緩めた。

 『ヴィンセント』が生きていた頃、魔王の城(リラ・ノアール)は魔王一人を守るための鳥籠だった。

 しかし鳥は、籠の中で死んでしまった。
 空の青さに焦がれても、空を飛ぶことを許されず、羽根をもがれることを望み、そして一人静かに目を閉じた。

『人間になりたい』
 そんな願いを口にしながら。

 当初の目的を終え、カーライルは古龍を拘束していた糸を解いた。

「それで、これはどうするつもりだ?」
「別に、どうでもいい」

 レイモンドの問いに対するカーライルのこたえは淡泊だった。

「どうでもいいって……」

「彼らをこうした本人なら戻せるかもしれないが、ヴィクトリアの手を煩わせたくはない。言葉を話せない生き物の意志なんてわからない。普通に考えて、違う生き物と体を一つにされるなんて殺された方がましだろうが、この二体はつがいだ。愛するものと一つになっただけなら、喜びこそすれ、死を選ぶ理由になりはしない」
「……」

 カーライルの言葉を聞いて、レイモンドは昔蜘蛛の生態について読んだ本を思い出した。
 その中で、雄蜘蛛が雌蜘蛛に食べられてしまう、という内容があった。

 だとしたらもしかしたら――カーライルにとっての一番の幸せは、愛する少女に食べられて死ぬことなのかもしれないと彼は思った。
 ヴィクトリアの性格上、それは永遠に叶わないことだろうけれど。

 二人の会話をよそに、体を繋がれたつがいの古龍は、息を合わせ大空に飛び立った。
 まるで最初から、そういう生き物であったかとでもいうように。
 徐々に小さくなるその体を、レイモンドとカーライルは何も言わず、空を仰いで見送った。
 
「カーライル。貴方、私が眠っている間に何かしなかった?」

 エイルとアルフェリアの住む村に防壁の魔法をかけてから城に戻ったヴィクトリアは、疑問に思っていたことを尋ねるためにカーライルに詰め寄った。

「何故そう思うのですか?」

「最初森でルーファスとあった時は力が発動したかは微妙だけれど、ずっと目覚めていなかった力が、急にこんなに使えるようになるなんておかしいしから」

「他にも候補はいるでしょう。それでどうして私だと?」
「だって、ルーファスやレイモンドが私になにか仕掛けるとは思えないし――。レイモンドが薬を持っていたのも、元々は誰が管理していたのかを考えると、貴方が1番怪しい」

「なるほど。貴方はそう考えるわけですね」
 カーライルはそう言うと頷いた。

(うん? その物言いは、自分ではないっていうこと?)

 ヴィクトリアは、予想が外れたのかと首をかしげた。

「え? 貴方じゃないの?」

(じゃあ、誰が――……? )

 犯人探しは急務だ。
 この城に居て自分に危害を加えようとする人物は、今のヴィクトリアにはカーライルしか浮かばず混乱した。

「ああ。私ですよ。貴方が眠っている間に薬を少々」
「な……っ!」

 よくもまあぬけぬけと――ヴィクトリアは、開いた口が塞がらなかった。

(何が少々よ! やっぱりすべての原因はこの男じゃない。この蜘蛛男!)

 古龍から守ってくれたことには感謝しているが、やはりこの男は本当に余計なことしかしない。
 ヴィクトリアは怒りのあまり、カーライルの服の襟を掴んでいた。アルフェリアが、エイルによくやる癖がヴィクトリアにもうつっていた。

「カーライル! やっぱり犯人は貴方だったの!」
「怒りをお鎮めください。ヴィクトリア様」

 カーライルは、わざとらしく様付けでヴィクトリアを呼んだ。
 その瞬間、ヴィクトリアの中で何かがぷつんと切れた。

「……カーライル。ずっと我慢してたけど、貴方から様付けされるの気持ち悪いからやめて。とりあえず反省して貰うから……!」
 
 ヴィクトリアは、すう、と大きく息を吸い込むと、城の中に張られたカーライルの蜘蛛の糸に命じた。

「『束縛の蜘蛛の糸よ。主人《あるじ》を拘束せよ』」

 どこからともなく集まった糸は、ヴィクトリアの命令に従い、自分たちの生みの親を天井から吊し上げた。

「反省した?」

 ヴィクトリアは不機嫌そうに腕を組んで、天井に吊るされて間抜けな姿のカーライルを見上げた。

「はい。よくわかりました」
 カーライルはニコリと笑う。

「貴方に縛られるのも悪くない」
 その笑顔は、ヴィクトリアが転生してカーライルと出会い、一番いい笑顔だった。

(うわ。気持ちわる)

 ヴィクトリアは、思わずその笑顔を見て、けがらわしいものでも見るかのような目でカーライルを見た。
 だが、寧ろカーライルは、ヴィクトリアにそんな視線を向けられて、嬉しそうににこりと笑った。
 侮蔑の目を向けられて、笑みを浮かべる幼馴染に、ヴィクトリアは顔を引つらせた。

 同じ男の幼馴染なのに、カーライルとエイルとでは大違いだ。
 
(エイルなら、きっとほっとする笑顔を向けてくれるはずなのに――エイルの笑顔が恋しい)

 ヴィクトリアがそんなことを考えていると、先ほどとは打って変わって、冷たい声が降ってきてヴィクトリアはびくりと体を震わせた。

「――今。……私と、他の男を比べませんでした……?」
「そ……そんなことは……っ!」

 勘が鋭すぎて怖い。ヴィクトリアはぶんぶん顔を横に振った。



 ヴィクトリアがセレネに戻った頃、外はすっかり暗くなっていた。
 その名の通り大きな月が輝く世界は、二つの太陽の名を持つデュアルソレイユとは違い、夜だというのにまだどこか明るい。

 王の帰還。
 カーライルはヴィクトリアを魔王の玉座に座らせて、彼女に頭を垂れた。

「貴方のことは、私がお守りいたします」
「全ては陛下のお望みのままに。私は貴方の物です」
「王が人間に殺されるなんてことがあったらたまらないからな。――俺もアンタを守ってやるよ」

 カーライルに続き、ルーファスも膝をつく。レイモンドは、戸惑うヴィクトリアにふっと笑った。

「私は、昔のように魔法は使えない。私はこれから、みんなに迷惑ばかりかけるかもしれない。それでも私の力になってくれるの?」
 
「我が王よ。貴方に永遠の忠誠を。貴方がそう望むなら、それこそが私の望み。貴方が助力を願うなら、私が力になりましょう」
「陛下が望まれることは、全てお叶えいたします」

 膝を付き、頭を下げていたはずの二人は、玉座に座るヴィクトリアに近づき手を取ると、その手の甲に口付けた。

「な……な、ななな。なんでキスするの!?」

 右手にルーファス、左手にカーライル。
 そして。
 ぐいと手を引かれ、ヴィクトリアはレイモンドに左手首を噛みつかれた。

「れ、レイモンド……?」

 すると、その瞬間。
 ヴィクトリアの手が、ピカリと光を放った。肌に魔法陣が浮かび上がり、ヴィクトリアは目を瞬かせた。

「……これは」
「これは印だ」
「目印を付けないと、貴方はすぐまたいなくなってしまうかもしれませんので」

「――陛下。どうかお許しください。五〇〇年も『待て』をしてきたんです。いい子に待っていたのですから、これくらい許してくださいますよね?」

 金色の狼は、まるで忠犬のようなことを言った。

「……」
 ヴィクトリアは、三人の言葉を聞いて、反論できずに口をつぐんだ。

 口付けによる追跡魔法。
 これはヴィンセントの時代にもあったものだが、使用方法としては迷子防止のために親が子どもにつける追跡魔法だ。

(確かに自分《ヴィンセント》が死んでから五〇〇年以上生きている彼らからすれば、子どもかもしれないけれど……)

 釈然としない。
 ヴィクトリアは唇を尖らせた。
 すると、カーライルがヴィクトリアの唇の先に、ちょんと冷たい指を押し当てた。

「五〇〇年という時は、魔族の歴史からすれば長いというわけではありません。けれど王座に空位が続くのは、本来褒められるべきことではない。私もそろそろ、貴方の椅子に座ろうとする愚か者の粛清には飽きてきまして。だから、早く私たちのもとに帰ってきてください。私が我が王と、呼びたいのは貴方だけだ。――……『ヴィクトリア』」

 カーライルは珍しく、柔らかく微笑んでいた。

 ヴィクトリアは、カーライルの言葉にはやはり棘がある気がするし、その点は今も昔と同じで気に食わない。ただ、最後の言葉だけは、紛れもない彼の本心のように思えた。

「……」
 そうしてふと、ヴィクトリアはあることに気が付いた。

(今の私は、彼らの言葉を信じられる)

 それはきっと、自ら死を選んで五〇〇年の時の向こうで出会えた、二人の幼馴染のおかげだと彼女は思った。

 アルフェリア、エイル。
 二人の姿を思い出すだけで、ヴィクトリアは胸が熱くなるのを感じた。
 そうしてヴィクトリアは、かつて最愛の人が、自分に与えてくれた言葉を思い出した。

『言葉は、誰かに伝えるためのものだから。声が、言葉が届くということは、幸せなことだよ。言葉が、心に響くなんて――君は、本当に凄い力を持っているんだね』

 これまではディー・クロウの優しい声を思い出すたび、ヴィンセントもヴィクトリアも何度も泣いた。
 けれど今はその言葉が、自分の胸のうちに温かく響いているように彼女は思えた。

『自分を否定しないで。君がその力をもって生まれたことに、きっと意味はある筈だよ。――だから。どうか、下を向かないで』

 かつて自分をかばって、失われてしまった命。
 けれど愛した人は確かに、この胸のうちに生きている。
 今の彼女にはそう思えた。

『一緒に眠ろう。大丈夫。夜は怖くない』

 それに、ディー・クロウはもういなくても。
 この世界には――自分には、自分を思ってくれる人がいる。そばにいてくれる人がいる。
 ならば夜も、もう恐れることはない。愛しい人を思い出して、悲しい記憶が自分を苛んでも、朝になれば大切な人が、きっと自分に笑いかけてくれるから。

「ヴィクトリア」
「陛下」
「ヴィクトリア」

 自分を呼ぶ彼らの声が、今はただ、心地よく耳に響く。
 そしてヴィクトリアは自分の視界《せかい》が、ゆっくりと開けていくような感覚を覚えた。

(私は『ひとり』じゃない。ううん。本当はきっと、ずっと前から、私は『独り』なんかじゃなかった)

 ヴィクトリアはなんだか少し照れくさくて、少し目線を下げてから、彼らに言葉を返した。

「あの日……自分だけで結末決めてしまって、ごめんなさい。ずっと、嘘をついていてごめんなさい。こんな私のことを……ずっと私のことを待っていてくれて――信じてくれて、ありがとう」

 そうしてヴィクトリアは、大切な彼らに向かい、精一杯の笑みを浮かべた。
 自分の決断は、きっと彼らの心に過去深い傷を残した。
 だからこそ――せめてこれからは、彼らの瞳に映る自分が、たくさん笑顔であふれると良いと思った。

「陛下……! はにかんだお顔も可愛らしいです!」
「きゃあっ!」

 すると、狼化したルーファスに、ヴィクトリアは押し倒されてその頬を舐められた。
 ヴィクトリアは彼の行動に驚いたものの、ぶんぶんと揺れる尻尾を見て、思わずぷっと吹き出して声を上げて笑った。

「レイモンド」

 傍目には動物と戯れているようにしか見えない光景を眺めながら、カーライルはボソリ呟いた。

「泣きそうなときは笑ってほしかったのに、笑顔を向けられると泣かせたくなるのは何故だと思う?」
「……その感情は、俺にはよくわからない」

 レイモンドは静かにそう答えた。



 月は煌々と光り輝く。
 夜風が気持ちがいい。ヴィクトリアが一人テラスで空を見上げていると、レイモンドがやってきて、上着を脱いでヴィクトリアの肩にかけた。

「ありがとう。レイモンド」

 まだ彼の温もりが残る服は、気遣いが嬉しいけれど、どこか少し気恥ずかしい。

「……風邪を引く。早く中に戻れ」
 
 目と目が合えば、レイモンドは短く言って、ヴィクトリアに背を向けた。

「――待って。レイモンド」

 ヴィクトリアは、そんなレイモンドを呼び止めた。

「貴方に聞きたいことがあるの。レイモンドは本当は……森で最初にあった時からから、私が私だって気がついてたの?」

 ずっと気になっていたこと。
 不自然な彼の言葉。その行動の理由を、ヴィクトリアはレイモンドの口から聞きたかった。

「……」
 
 レイモンドは何も答えなかった。けれど、彼を知るヴィクトリアにはわかった。

 沈黙は肯定だ。
 ヴィクトリアは、背を向けたままの彼に向かって笑いかけた。
 そして、ぶっきらぼうながらも優しい彼に、あるお願いすることにした。
 
「レイモンド、お願いがあるの。貴方にはこの先も、私の命令は聞かないでほしい。貴方には、自分の意思で行動してほしい」

 それは、無効化の能力《ちから》を持つ彼にだからこそ、唯一絶対に願えること。
 ヴィクトリアがそういえば、レイモンドは彼女に向き直ってからこう返した。

「馬鹿なアンタに命令される筋合いはない」
「なんで馬鹿って……」
「言葉のままだ」

 まさかの返答に、ヴィクトリアは頬を膨らませた。
 馬鹿だなんてそんな言葉、彼に言われたのは初めてだった。

「簡単に自分で死を選ぶようなヤツは、馬鹿で十分だ。馬鹿と呼ばれたくないなら、もう二度と同じことはするな。俺たちがアンタを支える。……だから」
「?」

 ヴィクトリアは首を傾げた。

「――アンタはいつだって、馬鹿みたいに笑っていろ」

「……!」
 その声は、砂糖菓子よりも甘く優しく。
 ヴィクトリアは思わず胸を抑えた。

「俺はアンタのことを、一度も親だなんて思ったことはない。アンタみたいな馬鹿がつくほどの不器用なお人好しが親だなんて、面倒なことこの上ない」

 レイモンドはそう言うと、ヴィクトリアに微笑んだ。

『……いい加減もうそうやって、俺を相手に父親面するな。俺は……アンタのことを親だなんて、一度も思ったことはない』

(待って。あれ……?)

 レイモンドのその言葉を、ヴィクトリアはずっと昔に聞いたような気がある気がした。
 魔王として、勇者と戦う少し前。
 レイモンドは今と同じ言葉を、『ヴィンセント』に向けた。それがヴィクトリアに、勇者に一人戦わせる引き金になった。

(五〇〇年前、レイモンドの言葉は私を嫌っての言葉だと思っていたけれど、もしかして、もしかしてあれは、本当は――……?)

「覚えておけ。俺はアンタの命令を聞き入れるような、従順な子どもじゃない」

 しかしその問いの先の意味に行き着く前に、耳元に顔を寄せられて、ヴィクトリアは頭から考えていたことを消去した。

「――ヴィクトリア」
 とろけるような甘い声で名を呼ばれ、ヴィクトリアは顔を真っ赤に染めた。
 かつて手を引いたはずの幼子は、今は艶のある笑みを浮かべて、彼女を見下ろしていた。

「え……っ。な……な……っ!?」
「……アンタ、本当耐性が無いな。それだとこから大変だぞ」
「????」

 レイモンドの言っている意味がわからず、ヴィクトリアは更に慌てた。

(耐性って、大変って――……一体、何?)

 ただ、くくっと珍しく楽しそうに笑うレイモンドの顔を、ヴィクトリアは不思議と嫌いだとは思えなかった。
 いつも表情の変わらない彼が笑うと、なんだか少し幼く見える。

「あいつみたく泣き顔を見たいとは思わないが……まあ、そうやって困っている姿を見るのは……。確かに、悪い気はしないな」 

 ヴィクトリアは冷や汗をかいた。
 なんだかレイモンドが、少しだけ怖い。ヴィクトリアは心のなかで叫んだ。

(カーライルに似て、性悪に目覚めるのだけはやめて。レイモンド!!!)

 自分がアルフェリアに似てしまったぶん、人のことは言えないが……。

 年月は人を変える。
 朱に染まれば赤くなる。
 生きている限り、人は変わらずにはいられない。ずっとどこかで子どもだと思っていた相手の変化に、ヴィクトリアはどう対応すべきかわらかなかった。

 今更父親ヅラも、母親ヅラもできない。
 昔二人を隔てていた壁は、今はもう存在していなかった。

 視線が交差する。
 月の光を浴びて、黒い髪は夜に浮かび上がる。彼の血のような赤い瞳は、かつての自分と同じ色をしているはずなのに、色香のようなものを感じて、ヴィクトリアは息を呑んだ。

「陛下~~!」
 二人が見つめ合っていると、ルーファスとカーライルがやってきて、二人の間に割って入った。

「レイモンド。ヴィクトリアと何を話していたのですか?」
「別に、なんでもない」

 カーライルの問いに、レイモンドは相変わらず短く答えるだけだった。

「ああ。今日は満月だったんですね」
「そうです、陛下! 月を肴に宴でもいかがですか? 陛下のご帰還を祝して、宴を開きましょう!」

 ルーファスは、明るい笑みをヴィクトリアに向けて浮かべる。
 いつの間にか、彼女の隣はルーファスになっていた。
 カーライルとレイモンドは、二人から少し距離をとって、小声で話をした。

「カーライル。イーズベリーは出すなよ」
「そんなことわかっていますよ」
「昔から、気づいていないのはアイツだけだ。意外と鈍いからな。ルーファスは……嗅覚で気づいているだろう。言わないだけで」

 ルーファスは、ヴィクトリアの前では天使のように振る舞っているが、彼の本質は狼だ。そして金色狼の逸話は、大体いろんな意味で血生臭い。

「当然わかっています。全く油断なりませんね、ルーファスは……。いや、本当に油断できないのは……」

 カーライルはそう言うと、じっとレイモンドの目を見つめた。
 『ヴィンセント』と同じ黒髪に赤い瞳。
 二人の外見は、色こそよく似ている親子だったが、血は繋がっていない。
 そしてレイモンドは、今この世界でただ一人、『無効化』の能力の持ち主だ。
 その力は、『ヴィンセント・グレイス』に対しても変わらなかった。

「……」
 カーライルとレイモンドの視線が交差する。ひやりとした冷たい沈黙が、二人の間に流れる。

「二人とも、こそこそなんの話をしているの?」
 その時、ヴィクトリアが振り返って二人に尋ねた。

「安心してください。貴方が気に止めるようなことではありません」
「余計に気になるんだけど……」
「まあ、敵は多いなあってことでしょうかね」
「? ……まあ、そうよね。これからは、色々とまた大変かもしれない」

 『ヴィンセント・グレイス』は、歴代で最も同族を殺した魔王だ。

 そして、魔族は長命な種族だ。
 三人がヴィクトリアに王位を望んでも、魔族の中には、ヴィンセントに家族を殺されたものもいるだろう。
 それにヴィクトリアとしても、使役されていたとはいえ、古龍を倒してしまったことが今後問題になるかもしれない。

「今の私が魔族を一つにまとめようとすれば、当然反発も起きるだろうし……」
「――ヴィクトリア。敵というのは、そういうことではありませんよ」
「え? だって、今敵が多そうだなって……」
「その敵ではありません」

「???」
「……この様子だと、一番の敵はヴィクトリア自身かもしれませんね」

 カーライルは、首を傾げるヴィクトリアを見てため息をついた。

「どういうこと?」
 ヴィクトリアは首を傾げ――つい、カーライルに命令をしてしまった。

「教えなさい。カーライル」

 そうして、はたと気づく。

(しまった。もしかして私今、魔法《ちから》を使ってしまってた!?)

 慌てるヴィクトリアをよそに、魔法をかけられたにもかかわらず、カーライルは無言を貫いていた。

「……あれ?」
「どうやら、効果がもう切れたみたいですね」

 驚くヴィクトリアを前に、カーライルはくすりと笑って言った。

「人魚の秘薬の根本は『力の活性化』です。今の貴女の体は、おそらくはただの人間ですからね。昔と比べたら、力は殆ど使えてないと言って良いかもしれない。私たちとの関わりの中で、一時的に貴方の中に魔力が宿り、魔法が使えた可能性は考えていたのですが――もしかしてさきほどの魔法で、魔力の貯蓄は使い果たてしまいましたか?」

「え……?」

 ヴィクトリアは首を傾げた。
 人を操ることの出来てしまう言霊魔法が常に使えるわけではないというのは昔なら嬉しいが、セレネで魔王として生きていくには、魔法が使えない時があるというのは問題になる可能性がある。

「それじゃあ、次は私で魔力を補給しておきますか? ヴィクトリア」
「!?」

(――補給って、何を!?)

 距離を詰められ、ヴィクトリアは反射的にカーライルから離れた。
 けれど後ろにはルーファスが控えており、彼はヴィクトリアの手を取ると、彼女の前に膝をついた。

「陛下、何かあったときのために力が使えるようにしておくのは大事です。そのお役目、是非私にお与えください」
「る、ルーファス??」
「ルーファス。貴方は下がってください。ヴィクトリア。大事な役目であるからこそ、右腕である私に任せるべきだと貴方も理解できるしょう?」

 カーライルに、後ろから強く抱きしめられ、顎を掴まれて無理矢理上を向かされる。カーライルと目と目が合う。
 幼馴染の彼が何をしたいのか理解して、ヴィクトリアは目を瞬かせた。
 美しい紫水晶《アメジスト》の瞳の中には、今は自分の姿だけが、はっきりと映っている。

「――……私を受け入れてください。ヴィクトリア」

 甘い声で囁かれ、顔に熱が集まって、ヴィクトリアは思わず叫んでいた。
 
「〜〜〜〜ふ、二人とも離れてっ!!!」

 距離が近い。近すぎる。
 ヴィクトリアは耐えられなかった。
 魔族の中でも高位であり、強い力を持つ彼らの見目は美しい。

 『ヴィンセント』であるときは適度に距離をとっていたためさほど気にかけなかったが、『ヴィクトリア』に対する彼らの距離はあまりに近くて、これでは心臓が持たない。

「本当に嫌なら殴ればいい」
「ヴィクトリア。嬉しいなら、もっと素直になっていいんですよ?」
「陛下は私がお嫌いですか?」

 気遣いの人であった人間の幼馴染(エイル)と違い、魔族である三人の発言は、あくまで自由そのものだ。
 ヴィクトリアはぷるぷる震えた。

(顔がいいからって、何をしても許されるわけじゃないんだからね!?)

 ヴィクトリアの顔は、林檎のように真っ赤に染まっていた。

「…………さ、三人とも、全員口を閉じなさい!!!」

「残念ですね。貴方の魔法、今は効かな位というのがわからないのですか?」
「まあ魔法を使えたとしても、今のは発動していたか微妙なんじゃないか」
「……陛下。陛下は本当は、私達に触れられることがお好きなのですか?」

「……!!」
 魔法が使えない。
 そう理解しながらも放った言葉は、自分にも、照れ隠しのただの我儘のようにしか聞こえなかった。
 
「もう知らない! 今日はもう寝るから。カーライル、勝手に寝室に入ってきたら許さないから!」

 ヴィクトリアはいたたまれず、その場を離れようと扉に手をかけた。
 しかしそんな彼女に対し、カーライルはとぼけたことを言った。

「なるほど。あえて駄目だということで私の気を引こうとする――それは、『入ってこい』という意味ですか?」
「違う!!!!」
「いいんですよ? 恥ずかしがらずとも。ご希望とあらば、添い寝して差し上げましょう。なんなら子守唄でも」

 にこりと微笑んで、寝室に来る気満々な幼馴染に、ヴィクトリアは頭に血が上った。

「……カーライル? いい加減にして? 子ども扱いしないで……??」

 ヴィクトリアはカーライルにつめりより、その頬を引っ張った。
 笑顔で青筋を浮かべるヴィクトリアに対し、カーライルは柔和な笑みを浮かべ、自分の頬をつねる彼女の手に優しく触れた。

「肉体的には五〇〇歳ほど離れていますし、問題ありませんよ」

 カーライルは飄々と答えた。

「そういう問題じゃない」

 第一、彼は自分が寝ている間に薬を飲ませた前科持ちだ。一番信用ならない。

「照れ屋ですね。ヴィクトリア」
「照れ屋じゃ!!!! ないっ!!!!!」

 ダン!!!!
 ヴィクトリアは心のなかで机を叩いた。

(この男、どこまで私をおちょくれば気が済むの!?)

「では、素直じゃないですねとでも言っておきましょう」
「……」

 余裕たっぷりに笑うカーライルを、ヴィクトリアは睨みつけた。
 悔しいのは、彼と喧嘩することに対して、確かに苛立ちは感じているのに、少しだけ楽しいと思ってしまう自分もいることだ。

「……ほら、素直じゃない」
「…………五月蝿い。カーライルの馬鹿」

 ヴィクトリアは小さな声で、カーライルの悪口を言った。
 
 するとその時、「あ」と、カーライルはなにか思い出したような声を上げて、ぽんと手を叩いた。

「そういえば貴方が城に戻る前、『ヴィクトリア』を仮魔王に据える旨の手紙をいくつかの種族に出したら、とある一族から認めないと早速手紙が返ってきたんですが……貴方はどうしたいですか?」

「は??? ちょ、ちょっと待って。なんで今それ言うの!? そしてなんで勝手に出してるの!?」

 ヴィクトリアは慌てた。
 そういう報告は、もっと早くにしてくれないと困る。

「ほら、善は急げっていうでしょう」

 いや、それは善ではなく悪手だ。

(ていうか、何本人に内緒で勝手に手紙なんかだしてるの!?)

 ヴィクトリアはキレそうだった。

「誰から!? 誰から届いて……いやでも待って。五〇〇年もたってたら、私が知らない人の可能性も」

 少年だったルーファスとレイモンドが大人になっているのだ。代替わりしている可能性も捨てきれない。

「いやあ。これから色々、忙しくなりそうで楽しみですね? ヴィクトリア。心配せずとも大丈夫。私がそばにいますので」

(それが一番の不安要素なんだけど!?)

 楽しげに笑うカーライルの体をガクガク揺らして、ヴィクトリアは叫んだ。

「ふざけないで! 何が『楽しみ』よ。そもそもの原因は貴方でしょう!? カーライル!!!」
「あはははははは」
「笑ったってごまかされないんだから!」
「ははははははは」
「カーーーーライルッ!!!」

「……なんだかにぎやかだ」
「そうだな」
「陛下も、昔よりも楽しそうだ」

 顔を赤くして本気で怒るヴィクトリアを見つめて、喧嘩を始めた二人から距離を取って眺めていたルーファスは、そう言うと朗らかに笑った。

「……そうだな」
 そしてそんなルーファスの言葉を聞いて、レイモンドは静かに首肯した。


 月が光り輝く夜の世界に、まだ眠りは訪れない。
 魔王が帰還した城には、楽しげな笑い声が響いていた。

「もう、いい加減にして! 私の言うことを聞きなさいッ!!!」

 そうして。
 転生魔王の受難は、まだ続く(?)


********

『前世魔王、500年後に人間として転生したらかつての臣下たちに溺愛されて困っています(若干ヤンデレ化してる気もするけどたぶん気のせいです)!』 転生魔王は帰還する!編【完】

2部 転生魔王は誘拐される!編は吸血鬼族編です。
よければこちらもご覧ください✿※現在執筆中です。
 魔界セレネには、『夢の通い路』と呼ばれる日がある。
 
 その昔、離れ離れになった恋人が、遠い地で毎夜恋人の夢を見た。
 そして再開した時、離れていた間全く同じ夢を見ていたことがわかって結ばれた――そんな逸話から、二人が初めてお互いの夢を見たとされる日が、そう呼ばれているのだ。

「陛下。とても素敵な話だと思いませんか?」
「確かに」

 ヴィクトリアは、ルーファスの言葉に頷いた。
 素敵というか、血なまぐさい話が多いセレネでは、珍しくまともな話だ。

「まあ、夢の一つで人生が変わるなんて、そんなこともないと思うけど」
「でも、改めて考えると不思議ですよね。どうして私達は、夢を見るんでしょうか?」
「ルーファス。それは、なぜ私たちが夢を見るのか、ということ?」
「はい」

 ルーファスは笑みを浮かべて頷いた。
 ヴィクトリアは、ふむと考えてから顔を上げた。

「以前は、夢は願望の表れであると考えられていたけれど、最近は記憶の整理だと考えられていると本で読んだ気がする……」
「流石、陛下は博識ですね。日頃の研鑽の賜物でしょう」
「別に博識と言われるほどのことではないと思うけれど……」

 ルーファスに褒められて、ヴィクトリアはほんのりと頬を染めた。

 『ヴィンセント』として生きていた時、知識は魔王として君臨するために必要な情報でしかなかった。

 けれど『ヴィクトリア』として過ごす中で――自分はもしかしたら昔から、『知らないことを知ることがただ好きだったのかもしれない』とも思うようになっていた。
 だからこそ今は、自分の知識を褒められることが、ヴィクトリアは嬉しかった。

(不思議。好きなものを肯定されていると思えると、こんなに嬉しいだなんて)

 ヴィクトリアが表情を和らげているとカーライルが図書室にやってきて、にこりと微笑んでこんなことを言った。

「ヴィクトリア。ルーファスと二人っきりでこんな場所で遊びほうけているなんて、いいご身分ですね?」
「……」

 カーライルの手には、びっしりと文字の書かれた書類があった。

「貴方を認めさせるために私は東奔西走しているというのに、嘆かわしい限りです」

 はあ、とあからさまに溜め息をつかれて、ヴィクトリアは表情を強張らせた。

「……私も手伝う。何をすればいいの?」
「まあどれも今の貴方には処理できない問題なんですけど」
「……」

(なら、なんでそんな厭味ったらしく言うの!)

 ヴィクトリアは眉間のシワを深くした。
 カーライルはそんなヴィクトリアに気付くと、書類を机においてから彼女の頬に手を伸ばした。
 カーライルの冷たい手が、ヴィクトリアの心臓の鼓動を速くする。

「労をねぎらってくれるというなら、貴方の口づけで手を打ちましょう」
 ゆっくりと顔が近付いてくるのに気がついて、ヴィクトリアはカーライルの胸を手で押した。

「そ……それはだめっ! だいたい、そういうのは本当に好きな人とするものでしょう!?」
「ヴィクトリア。貴方がいつでも力を使えるようにするには、こうすることが効率的だということは、貴方だって分かっているでしょう?」
「……」

 『ヴィンセント』時代の力を使うためには、それが効率的だということはヴィクトリアだってわかっている。
 でもだからといって、『力』のために口付けをするなんて――ヴィクトリアは、それが嫌だった。

「手を繋ぐとかだって問題ないって……口づけにしたって、手でも大丈夫だって話だったじゃない! だったら、別に今は唇にしなくたって……」

 ヴィクトリアの顔は真っ赤だった。

「目をそらさないでください」
 ぎゅっと目を瞑り下を向く――ヴィクトリアの顎に手を添え、カーライルはふっと甘い笑みを浮かべた。

「私は、貴方だからそそれを望むのです。――この言葉の意味がわからない貴方には、教育的指導が必要ですか?」
「きょ、きょういくてき、しどう?」

(私、カーライルに何をされるの!?)

 ヴィクトリアは顔を青ざめさせた。
 すると、カーライルはぱっとヴィクトリアから手を離した。

「まあ、百面相をする貴方はなかなか愉快でしたので、今はこれで我慢しましょう」
「……ゆ、愉快って、貴方ね!?」

 ヴィクトリアは声を荒げた。
 カーライルに完全に舐められている気がする。
 しかしそうやって怒る自分を見て、楽しそうにするカーライルを見るのは、やっぱりヴィクトリアは嫌いではなかった。

(……いじわる)

「――では、ヴィクトリア。今夜、夢で会いしましょう」

 カーライルはそう言うと、ヴィクトリアの手を取って手の甲に口付けた。
 その唇の熱が慣れなくて、ヴィクトリアは思わず体をこわばらせた。
 カーライルは硬直する彼女を見てくすりと笑うと、書類を手に図書室を去った。



「全くもう、なんなのよ……」

 カーライルがいなくなってから平静さを取り戻したヴィクトリアは、彼がいた場所を見つめながら呟いた。

 前世では残忍な面ばかり見ていたような気がする幼馴染みが、最近は自分に甘い言葉ばかりかかけてくるせいで心が落ち着かない。

(カーライルは私のこと……好き? なんだよね)

 でもその好意の全てを受け入れるのは、今の自分には出来ないようにヴィクトリアは思えた。
 五〇〇年分の愛なんてそんなもの、どう受け取ればいいのか――自ら死を選び、人間として生きようとしていた自分には、その感情は身に余るものようにも思えた。

「でも、いつか……受け入れられる日が来るのかな……?」

 自分を好きだと言ってくれる人の言葉や感情をそのまま受け入れて、愛されることに慣れるまで、時間はかかるかもしれない。 
 ただいつかは、そんな日が来ればいいとも、最近のヴィクトリアは思っていた。

 前世ではすべて拒絶して、一人で死を選んだからこそ――だからこそ、誰かの想いを受け入れるだけの心の強さが欲しいと。

 ヴィクトリアは、カーライルに口付けられた手の甲に触れた。
 感触を思い出して、再び顔に熱が集まる。
 ――すると。

「何顔を赤くしているんだ」
「れ、レイモンド……!?」
 
 図書室にやってきたレイモンドに声をかけられ、ヴィクトリアは声を裏切らせた。

「エイルから預かってきた。それでも食べるといい」
「私の代わりに、見回りに行ってくれてありがとう。レイモンド」

 レイモンドは、エイルが作ったパンの入った籠をヴィクトリアに差し出した。

「……別に。これは俺の仕事だからな」

 レイモンドはそっけなく顔を背けた。
 古龍の暴走の件もあり、レイモンドはエイルやアルフェリアがいる村の周辺を、定期的に見回ってくれているのだ。

「……それでも、ありがとう」
 ヴィクトリアが、リラ・ノアールで過ごすようになってから、ルーファスはヴィクトリアの身辺警護と世話を、カーライルは本来魔王が行うべき執務を――そしてレイモンドは、デュアルソレイユの見回りを行っている。

 二つの世界を行き来するなんて面倒な役回りだろうに、文句を言わずにこなしてくれるレイモンドに、ヴィクトリアは心から感謝していた。

「あ! アルフェリアからの手紙も入ってる! 早く読まなきゃ」

 ヴィクトリアは、幼なじみから届いた手紙を見つけて目を輝かせた。
 セレネに来てしまえば、もう二度と大切な親友たちとは交流できないと最初は思っていたが、今もこうやって交流を続けられるのはすべて、レイモンドのおかげだ。

「レイモンド。手紙を書いたら、また届けてもらってもいい?」
「アンタがそれを望むなら」

 ヴィクトリアが嬉しそうな表情のまま訊ねれば、レイモンドはまたそっけなくこたえた。

「……あと、これもやる」
 レイモンドは、可愛らしいリボンのついた包みを取り出すと、ヴィクトリアに差し出した。

「デュアルソレイユで、最近人気の菓子らしい」
「くれるの? ありがとう! レイモンド」
「……アンタの口に合うかは分からないけどな」

 レイモンドはそう言うと、再びヴィクトリアから顔をそむけた。
 
(なんだかんだいって、レイモンドは私に優しい気がする)

 その優しさが、ヴィクトリアは純粋に嬉しかった。
 レイモンドは、同い年のルーファスと比べてあまり表情を変えない。ただそのせいか、レイモンドの気遣いはどこか『静か』で、ヴィクトリアはその穏やかな優しさが、心地よくも感じられた。

 そうして、調子が戻ったヴィクトリアは、ぱっと表情を明るく事故手を叩いた。

「そうだ! よかったらふたりとも、これから一緒に食べない?」
「はい。陛下の望まれるままに」
「……ちょうど腹も減っていたからな」
 ヴィクトリアの申し出を、ルーファスとレイモンドは受け入れた。



 昼食は、『ヴィンセント』がかつて植えた花の木の下でとることにした。 

 柔らかな木陰が心地よい。たまにひらひらと花びらが落ちてくることもあるが、そこはご愛嬌というものだ。

「本当に、陛下は彼の作るパンが好きなんですね」
「うん。昔から大好きなの」

 素直にヴィクトリアが頷けば、何故かルーファスが無言になったのに気づいて、ヴィクトリアは首を傾げた。

(あれ? いったいどうしたんだろう?) 

 ヴィクトリアが疑問に思っていると、ルーファスは、ヴィクトリアの手を取って、まっすぐに目を見つめて尋ねた。

「陛下は……私が彼より上手に作ることができたら、私のパンも召し上がってくださいますか?」
「えっ? エイルはお父さんがパン屋さんだからパンを焼くのがうまいけど、ルーファスは私の護衛をしてくれているんだし、別にルーファスはパンを焼くのがうまくなる必要はないんじゃない?」

 こういうのは適材適所というものだし、そもそも家業だと思うし、ルーファスがパンを作りを極めたい理由がわからない。
 ヴィクトリアが素直に思ったことを口にすると、今度はルーファスの顔が曇った。

「る、ルーファス? 私、何か貴方を傷付けるようなことを言ってしまった?」
「……いいえ。申し訳ありません。浅はかな願いを抱いてしまった自分に気付いてしまっただけのことです」
「??」

 お気になさらず、とルーファスは言って悲しげに微笑んだ。
 そう言われると余計に気になってしまう――ヴィクトリアがルーファスに手を伸ばそうとしたとき、氷のように冷たい声が響いた。

「私抜きで楽しそうで何よりですね」

 声の主はカーライルだった。
 雪女の血を継ぐだけあってか、ヴィクトリアはカーライルの背後に、吹雪が見える気がした。

(あ。そういえばここ、執務室から見える場所だったんだった……)

 失念していたことを思い出して冷や汗をかきつつ、ヴィクトリアは荷物を避けてカーライルの座る場所を確保した。

「ここに座って! も、勿論、カーライルのぶんのパンもあるから!」

 ヴィクトリアが慌てていえば、カーライルはふうと溜め息をつきながら、ヴィクトリアの隣に座った。
 パンを渡せば、カーライルは大人しくそれを口にしたが、ヴィクトリアの心中は穏やかではなかった。

 別に、カーライルをのけものにしたいわけではない。
 ただ、会うたびにグイグイ来られるとどう対処すればいいかわからなくて、距離を取りたくなってしまうのだ。

(許されたい、この思い!)

 ヴィクトリアは心のなかでほろりと涙を流した。
 せめてご飯のときくらいは、のんびり心穏やかに取りたいものである。



「今日もたくさん本を読んだなあ……」
「今日も一日、お疲れ様でした。陛下」

 お風呂にはいって就寝の準備を済ませたヴィクトリアは、寝台に腰掛けて体を伸ばした。
 リラ・ノアールに暮らすようになってからというもの、彼女には常にルーファスが護衛についている。
 ヴィクトリアが気の抜けた顔をしていると、ルーファスは穏やかな笑みを浮かべて、彼女をねぎらう言葉を口にした。

 ヴィクトリアはこのところ、毎日ここ五〇〇年のセレネの状況を把握するために記録を読んで過ごしていた。

 ヴィンセント・グレイスが死んでからというもの、新しくいくつかの派閥が出来ているらしく、『ヴィクトリア・アシュレイ』が次期魔王としてカーライルから発表されたせいで、セレネは更に混沌としているようだった。

 我こそ魔王に、いやこの方をこそ魔王に――それぞれの魔族に思惑があるらしく、人間の新参者のくせに魔王城で魔界トップ三に守られるヴィクトリアは、格好の暗殺対象になってしまっているのは仕方ないとも言えた。

 元の力を完全に使えるわけではない自分が、セレネで生きていられるのは三人のおかげだ。ヴィクトリアは、それを理解していた。
 分かっている――それでも。

「……カーライルが今日はやたらと話しかけてきたから少し疲れちゃったかも」
「陛下は、カーライル様が苦手なのですか?」
「苦手っていうか、ううんと……上手く言えないんだけど……」

 ヴィクトリアはどうしても、そう思ってしまうのだった。

 カーライルと過ごしていると、精神がゴリゴリ削られる――気がする。
 女扱いをするなと言えば笑顔でお風呂で背中を流しましょうかと言い始め、いつでも魔法を使えるようにという名目で、自分に触れようとしてくるカーライルははっきり言って心臓に悪い。

「単に私が、ああいうのになれてないって言うのが大きいのかもしれない……」

 ルーファスは素直で聞き分けが良くて、こちらの気分を損ねるようなことはしないし、レイモンドは基本、要件があるとき以外話しかけてこない。
 まあレイモンドからは、きちんと休養をとっていないと眠るように言われたり、食事で好き嫌いをすれば怒られるけれど――と考えて、ヴィクトリアはあることに気づいてしまった。

(あれ? なんだかレイモンドって、私の『お母さん』みたいだな……?)

 夜の漆黒。寡黙な彼が、白いフリフリのエプロン姿をしているのを想像して、ヴィクトリアは思わず声を上げて笑ってしまった。
 似合わない。この上なく似合わない。

「どうかなさいましたか?」
「ううん。なんでもないよ」

 突然笑い出した自分を心配そうに見つめるルーファスに、ヴィクトリアは片手をあげて心配しないようにと手を振った。
 あまりにおかしすぎて涙がでてしまった。涙を拭ってから深く息を吐く。

「今日も一日ありがとう。明日も頑張らなきゃいけないし、そろそろもう寝ようかな」
「かしこまりました。それでは、私はこれで下がらせていただきます」

 ルーファスはそう言うと、ランプを手に扉のほうへと向かった。
 日中の警護はルーファスが担っているが、夜の警護は持ち回りだ。
 今日の夜の警護はレイモンドの予定だった。

「うん。ありがとう。また明日」
 ヴィクトリアに見送られていたルーファスは扉の前で足を止めると、ヴィクトリアの方を振り返ってこんなことを言った。

「陛下。私も、今宵は陛下の夢を見ることができると嬉しいです」 

 いつもの忠犬のような彼とは違う、青年らしい笑みを向けられ、ヴィクトリアはどきりとした。

「えっとその、私は……」

 セレネでは、夢の通い路で会いたいと告げるのは、愛を囁くのと同義なのだ。
 ヴィクトリアがすぐに返事を出来ずに困っていると、ルーファスはぺこりと静かに頭を下げた。

「では、また明日。おやすみなさいませ。――……ヴィクトリア様」

 夜の別れの挨拶。
 ヴィクトリアはぎこちないながらも、なんとかいつものようにルーファスに言葉を返すことにした。

「う、うん。おやすみなさい。ルーファス……」

 ルーファスが部屋を去ってから、ヴィクトリアは気恥ずかしさのあまり枕に顔を埋めた。

「な……なんだったの! さっきのは何だったの!」

 いつもは自分のそばで優しい笑みを浮かべる忠犬のような彼が、急に自分の心臓にふれたような感覚があって、寝る前だと言うのに妙に心が落ち着かない。

「ルーファスってば、突然どうしたんだろう……? まさか、カーライルの悪影響で……?」

 いつも自分をからかっては笑みを浮かべている幼馴染みを思い浮かべて、ヴィクトリアは震えた。

(ルーファスは確かに血なまぐさい逸話の多い金色狼だけど、純粋で優しくていい子のはずなのに!)

 悪影響があるならルーファスからカーライルは距離を置いて欲しいと思ったが、すでに五〇〇年も側にいたなら、自分の知らない二人の時間の方が長いことに気付いてヴィクトリアは沈黙した。

 ……今更、どうしようもないのかもしれない。そう思うと悲しいかな、ヴィクトリアは溜め息を吐くことしか出来ないのだった。
 思案の末、ルーファスの更生計画を諦めた彼女は、床につくことにした。
 しかしその時、枕が違うことに気付いて彼女は首を傾げた。

「枕が変わってる? 誰かが新しいのに変えたのかな?」

 まあ別に、枕が変わったせいで眠れなくなるような繊細な性格でもない。ヴィクトリアは「まあいいか」と呟くと、枕を戻して布団を被った。

「なんだか、甘い香りがする……」

 すぐには眠れないと思っていたのに急に眠気が襲ってきて、ヴィクトリアは瞳を閉じた。 

 『夢の通い路』
 ヴィンセントとして生きていた時、一度も見ることができなかった夢だ。きっと今日も、自分は何も見ないだろうと思って――……。
「ヴィクトリア。朝ですよ。起きてください」

 鳥の声が響く。
 カーテン向こうから、柔らかな朝日が射し込んでいる。
 誰かに優しい声で朝を告げられて、ヴィクトリアはゆっくりとまぶたを押し上げた。

「ん……? カー……ライル?」

 意識がまだはっきりしない。ヴィクトリアは寝ぼけ眼を擦って、友人の名前を呼んだ。

(ここは、一体どこだろう?)

 ルーファスに寝室でおやすみを告げて――それから眠った記憶はあるが、何故ルーファスではなくカーライルが自分をおこすのか、ヴィクトリアは分からなかった。

「私の私室ですよ。昨晩はこちらに泊まったでしょう?」
「へ!?」

(待って。それって、一体どういうことなの?!)

 ヴィクトリアは混乱して、急いで立ち上がろうとして――寝台の上で躓いた。

「危ない!」

 大きめのパジャマだ。
 ぶかぶかの服のせいで、転んだヴィクトリアの体を、カーライルは慌てて抱きとめた。

「……何をしているんですか」
「だ、だって……」

 カーライルの胸元に顔を埋めるような形で体を支えられて、ヴィクトリアは気恥ずかしさでカーライルを真直ぐ見ることが出来なかった。

「仕事ばかりで疲れていたのでしょう。無理もありません。魔王として貴方を認めさせることは、平坦な道ではありませんでしたから」

 しかしいつもならヴィクトリアをからかってくるはずのカーライルは、何故か優しい眼をしてヴィクトリアにそう言うと、静かに彼女の体を抱きしめた。

 壊れ物を抱きしめるようなそんな腕の力は、いつもの強引なカーライルとはまるで違う。
 何が起きているか理解できない。
 自分を脅してこない、甘いだけのカーライルなんて、変な薬でも飲んだんじゃないかとヴィクトリアは思った。

(と、いうか……。今の私はまだセレネで魔王として認められていないし。じゃあ、これは夢ってこと?)

 夢。
 そう思えば、ヴィクトリアは全てが納得がいくような気がした。
 穏やかな表情をした優しいカーライル。
 なんだか慣れないけれど、いつもの強引な彼よりは、ヴィクトリアは好ましく思えた。
 だが――……。

「横になってください」

 当然のようにお姫様抱っこされて、寝台に寝かされたヴィクトリアは体を強張らせた。

「えと、その、あの……」

 いつものカーライルに同じことをされようものなら殴って反抗しているところだが、夢の中の紳士的なカーライルだとヴィクトリアは強く出れなかった。
 
 ヴィクトリアが反応に困っていると、カーライルは人差し指を軽く一周させた。
 するとどこからともなく無数の糸が現れ、ヴィクトリアの体は糸に拘束されてしまった。

「え?!」

 油断していたらこれだ!
 動けなくなったヴィクトリアは、カーライルに騙されたと思って睨み付けた。

(しおらしいと思ったら、ついに監禁にまで目覚めたって言うの!?)

 五〇〇年前から頭がおかしいことは理解していたが、まさか彼に蜘蛛の糸でぐるぐる巻きにされる日が来るなんて! 夢とはいえ捕食される未来が頭をよぎり、ヴィクトリアは体を震わせて、精一杯の声で叫んだ。

「カーライル。いっておくけど、私は監禁なんて絶対嫌だからね!」
「今日も執務、ごくろうさまでした。疲れたでしょう? 最近知ったのですが、デュアルソレイユにはこうやって、一度体を圧迫して緩めることで、血の流れを良くするという治療法があって――…………って、は?」
「えっ?」
 
 すらすらと話をしていた紳士的なカーライルは、ヴィクトリアの言葉を聞いて固まった。

「監禁? 一体何を言っているんですか?」

 『何言ってるんだこの人は』――怪訝な顔をしたカーライルに見下ろされ、ヴィクトリアは顔を真っ赤に染めた。

(おかしい。納得いかない。これじゃまるで、自分の方が頭がおかしいみたいじゃない!)

「だって貴方が体を糸で拘束するなんて、それ以外考えられないし……」
「……昔の私ならそうしたかもしれませんが、今はそんなことしませんよ」 

 カーライルはそう言うと、糸をほどいてはあと深い溜め息を吐いた。

「……貴方は私の思いを受け入れてくれたのに、これ以上貴方に無理強いする理由がどこに?」

 カーライルはそう言うと、ヴィクトリアの手を取って、その手に輝く指輪にキスをした。
 よく見ると同じ指輪が、カーライルの指にも嵌められていることにヴィクトリアは気が付いた。

「愛している。ヴィクトリア」
 いつもとは違う、毒気のない甘い笑み。
 恋人に愛を囁くようなそんな声――。

「わああああああああっ!!!」

 ヴィクトリアは跳ね起きた。

(何今の!? 今の誰!? あれが本当にカーライルなの!?)
「ううん? ここは……」

 ふわふわのクッションとぬいぐるみが山のように置いてある。
 とても自分が選ばないようなファンシーな部屋で目を覚ましたヴィクトリアは、部屋の中で遊ぶたくさんの子どもたちを見て、更に事態が飲み込めず目を丸くした。

(ここは一体どこだろう? 自分はリラ・ノアールの自室で眠ったはずなのに――)

 再び魔王としてセレネで生きていくなら、その座を狙う多くの魔族に命を狙われていることをヴィクトリアは理解していた。
 だから自分がさらわれることはある意味想定の範囲内だったが、牢に繋がれてなぶり殺されるならまだしも、誘拐されたあとに、こんな待遇を受けるなんて予想していなかった。

 (子どもたちは可愛いし、こんなの、拷問というよりご褒美なのでは……?)

 ヴィクトリアは、顔が緩みそうになって顔をぶんぶん横に振った。

 違う。こんな異常事態に、和んでいる場合ではない。
 これがもし自分に対する罠だとすれば、これから自分は、こんなに可愛い子どもたちを盾に脅されるかもしれないのだ。
 
 ヴィクトリアは通俗小説で、子どもを盾に脅される主人公を思い出した。

『この子たちに痛い思いさせたくなかったら、ここで首を切るんだなあ!』
『うわああん。お姉ちゃん助けて!』
『なんて卑劣な! それが人間のやることか!』
『はっ。俺たちは人間じゃなくて魔族なんだよなあ!』

 確か、悪役の台詞は概ねそんな感じだった気がする。
 ヴィクトリアはうんと頷いてから、静かに眼を細めた。

 そんな極悪非道、許していい訳がない。
 ヴィクトリアは心の中で、何があっても子どもたちを守り抜くことを誓った。
 ただ冷静になって考えると、レイモンドたちの監視の目をくぐり抜け、眠っていた自分をここまで連れてこれたのなら、その間に殺すことなんて簡単だったのではとも彼女は思った。

(――本当に、ここはいったいどこなんだろう?)

 そう、ヴィクトリアが首を傾げていると。

「ママ!」

 子どものうちの一人が、元気よくヴィクトリアに抱きついて、絵本を手渡してきた。

「あのね、ぼく、このご本読んでほしいの!」

(……え?)

 ヴィクトリアは、目を丸くした。

「えっと、ママに……私に本を読んでほしいの?」
「うん。これが『じゅんあい』なんだって、パパがそう言ってたの!」

 子どもが手にしていたのは、金色狼に伝わるあの血なまぐさいお話の絵本だった。

(純愛……?)

 ヴィクトリアは頭痛がした。
 生まれ変わって、新しい人生を歩もうとしていた花嫁を攫って自分のものにするのが純愛だって?
 ここは大人として、子どもたちに正しい倫理観を教えねばならない。
 ヴィクトリアは子どもにそう告げようとして――子どものある言葉に気付いてピタリと動きを止めた。

「え? パパ?」

 金色狼の逸話を元にした絵本。子どもたちは冷静になってよく見てみると、尻尾や耳がはえている子もいた。

(待って。私がママで、子どもたちが金色狼の血を引いているなら、彼らのいう『パパ』ってまさか……)

 頭の中がぐるぐるする。
 ヴィクトリアが一人頭を抱えて混乱していると、そんな彼女に気付いて、子どもたちが不安そうな顔をして集まってきた。

「……ママ、どうしたの?」
「ママ、体調、わるい?」
「ママ、ここのおふとんの上で眠っていいよ。ふかふかなの」

 子どもたちの気遣いは、自分に尽くしてくれるとある青年とよく似ていた。
 
(こ、これは夢。夢なんだから……!)

 ヴィクトリアは頭痛がした。
 夢だとしても、子どもの数が多すぎる。しかも、子どもたちの年齢は、そう変わらないようにヴィクトリアには見えた。

「なんだろう。こういうのを、犬に噛まれるって言うのかな……」

 ヴィクトリアは考えることを放棄した。笑えない冗談だ。
 
(そうよ。これは夢! だって、天使みたいに可愛いはずのルーファスが、そんな野獣なはずないもの!)

 確かに久々にあったときは話も聞かず無理矢理城に連れて行こうとしたり、狼の姿のときにじゃれつかれたことはあるけれど、いつも礼儀正しく気遣い屋のルーファスを思い出して、ヴィクトリアは頷いた。

(そうよ。ルーファスは、カーライルと違って優しくていい子なんだから……)
 
「ヴィクトリア様」

 ヴィクトリアが一人悶々としていると、扉が開いてルーファスが入ってきた。
 ヴィクトリアは名前を呼ばれて、びくっと体を震わせた。

 穏やかな笑みを浮かべる彼はいつもと変わらないはずなのに、彼が『自分との間にたくさんの子どものいる夫』だと思うと、ヴィクトリアは逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。

「パパ!」
「パパ! おかえりなさい!」 

 子どもたちは笑顔を浮かべ、ルーファスのもとに駆けよっていく。
 ルーファスは子どもたちに優しく声をかけて頭を撫でてやると、座ったまま、じっとその光景をみていたヴィクトリアの前にやってきて跪いた。

「ただいま帰りました」
 ルーファスはそう言うと、まるでこの世界で最も尊いものに触れるかのようにヴィクトリアの足を持ち上げて、その甲に口付けた。

「わあああああっ!?」

 予想していなかったルーファスの行動に驚いたヴィクトリアは、思わず叫んで、勢いよく足を自分の体へと引き寄せた。
 本気モード(?)のルーファスを前に、ヴィクトリアの心臓は破裂してしまいそうだった。

(――な、なんなの!? これはなんなの!? 私の可愛い天使はどこに?)

 前世の自分に花を差し出した、幼い頃のルーファスを思い出して、ヴィクトリアは悶絶した。

(確かにあれから五〇〇年くらい経ってるけど! 時の流れが残酷すぎる!)

 しかし、『夢の中のヴィクトリアとルーファス』にとって、その光景は普通のことだったのかもしれない。
 パパ(仮)から距離をとったママ(仮)を見て、こんなことを尋ねた。

「ママ、どうしたの? パパと喧嘩でもしたの?」

(逃げたい。全力でこの場から逃げたい!)

 ヴィクトリアはそう思って退路を探したが、子どもたちが『いつもとは違う』『不仲そうな』両親を見て、不安そうに目を潤ませていることに気付いて、彼女は動きを止めた。

 今のルーファスからは全力で逃げたいが、子どもに泣かれるのは良心が痛む。
 どうしようかと悩んでいたら、背後からそっとルーファスに抱きしめられて、ヴィクトリアははっとした。 

「……ヴィクトリア」

 いつもとは違う、対等な相手に対する声。
 そんな声音で名前を呼ばれて、ヴィクトリアはドキリとした。

「子どもたちが心配しています。だから、どうか私を避けないでください」

 腕にこめられた力は弱い。
 ここは夢の中だ。だがいくら記憶がないとはいえ、子どもの話をされると、ヴィクトリアはその手を振り払えなかった。

「パパとママ、仲良し?」
「とても仲良しだよ。ママもぎゅうっとされて嬉しそうだろう?」
「ママ、ぎゅう、嬉しい?」
「……ママ、ぎゅう好き……?」

 子どもの期待の目に抗うことができない。ヴィクトリアは、精一杯の同意としてこくりと頷いた。

「じゃあ、僕もママにぎゅう、する!」
「私も!」

 ヴィクトリアの言葉に安心したらしい子どもたちは、私も僕もと、ヴィクトリアに抱きついてくる。
 ヴィクトリアは子どもを産んだ記憶は全くなかったが、子どもたちに囲まれるのはなんだか幸せだなと思ってしまった。
 金色狼の子だけあって、モフモフのしっぽや耳をもつ子どもたちは可愛いし、これはちょっとありかもしれない。

「子ども体温あったかい……」

 あったかくて、なんだか眠くなってきた。

 ヴィクトリアがそんなことを考えて表情を和らげると、自分を抱きしめるルーファス腕の力が、少しだけ強くなったことにヴィクトリアは気がついた。

「……あ、あの、ルーファス?」

 どうしたんだろうと思って名前を呼べば、更にルーファスの腕の力が強くなった。これでは腕の中から抜け出せない。
 ヴィクトリアがどうしたものかと困っていると、ルーファスがヴィクトリアに群がっていた子どもたちに言った。

「みんな、今日はもう寝なさい」
「はあい」

 子どもたちは聞き分けが良かった。
 ヴィクトリアから子どもたちは離れると、おのおのぬいぐるみや毛布を引きずりながら、子供部屋がある(たぶん)ほうに向かっていく。
 一人また一人――部屋の子どもの数が減っていくのを眺めながら、ヴィクトリアは鼓動が速くなるのを感じていた。
 今ルーファスと二人っきりになるのはいろいろとまずい気がする――ヴィクトリアの中の危機管理能力が、全力でそう訴えていた。
 だが、どんなにあがこうとも腕の中から抜け出せない。
 ついに最後の一人になったとき、その子どもは扉の前で立ち止まると、振り返ってから二人にたずねた。

「パパたちはまだ寝ないの?」

 寝ます。全力で貴方たちと寝ます。
 ヴィクトリアはそう言いたかったが、腕の力を緩められたかと思うと、ルーファスに唇に人差し指を押し当てられて、何もしゃべることが出来なかった。

「パパたちは――……」

 ルーファスはそういってヴィクトリアを見つめると、いたずらっ子のこどものような、それでいて艶のある、甘い笑みを浮かべた。

「これから大人の時間だから」
 


「わああああああああああ!!」

 その瞬間、ヴィクトリアは跳ね起きた。

「な、何今の!? し、心臓に悪い……!」

 実に心臓に悪い夢だった、と思う。
 ヴィクトリアは、ばくばくと音を立てる胸に手を当てた。
 『貴方だけを愛しています』そんな笑顔を向けられて、心臓が破裂するんじゃないかと思ったが、どうやらまだ破裂はしていないようだと安堵する。
 どうやらドキドキしすぎての死は免れたらしい。

「全然眠れない……」

 ヴィクトリアは、深く息を吐いた。それからもう一度、布団の中に戻った。

「今度こそちゃんと眠れますように……」
 体が、あつい。喉が渇く。体の内側に、熱がこもっている感じがする。

(――苦しい)

 昔なら、痛みも苦痛も、すべて一人で耐えることが出来たはずなのに。今は温かさを知ってしまったせいで、ヴィクトリアはそれがたまらなく辛かった。

(お願い。私を一人にしないで、そばにいて。この熱がおさまるまで、どうかこの手を握っていて)

「ヴィクトリア。熱、少しは下がったか?」
「? れい、もんど……?」

 その優しい声が、以前彼が自分に人魚の秘薬を飲ませたときと似ているように感じて、それが夢だと気付くのに、ヴィクトリアは少し時間がかかった。

「ほら、水だ」

 カーライルはそう言うと、水差しの水をコップにつぎ分けて、ヴィクトリアに差し出した。
 だが水を飲もうにも、体が重くて起き上がれない。
 ヴィクトリアが子どものように首を振れば、ふっとレイモンドが笑うのが彼女には分かった。

「オレに直接飲まされたくなかったら、ちゃんと自分で飲むんだな」

 からかうような声音なのに、いまはそれが不思議と心地いい。

「ほら、薬。飲まなきゃ下がらないだろう」

 その声に身を任せるように目を瞑れば、はあとレイモンドが溜め息をはく音がヴィクトリアには聞こえた。

「仕方がないな」

 レイモンドはそう言うと、ヴィクトリアの背にに腕をさしこんで、ゆっくりと彼女の体を起き上がらせた。
 柔らかいクッションを背中の辺りに置いてそれに寄りかからせると、レイモンドは腕を抜いて、もう一度ヴィクトリアにコップを差し出した。

「ほら、これなら飲めるだろう?」

 こくり、と頷く。
 ヴィクトリアはレイモンドから水を受け取ると、水と一緒に薬を嚥下した。
 喉を冷たい水が通り抜ける。それが気持ちいいのに、なんだか頭がふわふわして落ちつかない。

「俺の服を掴むな。水をかえにいけないだろう」

 無意識だった。
 ただ、なんたか心細くてだって――ヴィクトリアは、自分から離れようとするレイモンドの服を掴んだまま、ふるふると小さく首を振った。

「……はあ。全く、こうしてると、まるで子どもみたいだな」

 レイモンドが苦笑する。
 彼は水桶を置くと、ヴィクトリアの手に、そっと自分の指を差し込んだ。
 大きくて冷たい手。
 指と指の間から、冷たい熱が自分の体に伝わっていく感覚があって、ヴィクトリアはゆっくりと目を開いて彼の顔を見た。

「――俺に、そばにいてほしい?」

 上手く体が動かせない。そのせいで、相手の表情がよく見えない。
 だがその声が少しだけ嬉しそうに聞こえて、その声を聞いていると、ヴィクトリアは自分が安堵していることに気がついた。

「アンタがそれを望んでくれるなら、俺はずっとそばにいる。だから……どうかこの手を、もう二度と離さないでくれ」

 レイモンドはそう言うと、寝台の前で膝をついて、繋いだ手に口付けた。
 
 柔らかな、感触。
 祈るように紡がれたその言葉が、嬉しいのにヴィクトリアは胸が痛んだ。
 理由なんてわかっている。自分がかつてこの手を振り払ったことを、今でもはっきり覚えているからだ。
 それでもそんな弱い自分のことを、彼が待って、受け入れてくれたからだ。

「早く元気になってくれ。アンタは笑っていてくれないと、調子が狂う」

 困ったようにレイモンドが笑う。
 そうして、何か思い出したかのような声を上げてから、彼は寝台に腰掛けた。

「……そういえば、風邪は他人に移したほうが早く治るきいたことがあるな」
「?」
「いっそ俺に移してみるか? ……どうする? ヴィクトリア」

 レイモンドはそう言うと、ヴィクトリアの唇に指を滑らせた。
 薄い形の良い唇が、少しだけ弧を描く。
 どこか蠱惑的な笑みに、ヴィクトリアの心臓の鼓動がはやくなる。

(どうする? って、それは――……)
「なんて夢を見てしまったの? 私は……!」

 夢から目覚めたヴィクトリアは、頭を抑えて溜め息を吐いた。

「眠れなかった……」

 眠りが浅かったせいか、頭がガンガンする。
 ろくに眠った気がしないとヴィクトリアが思っていると、いつものようにルーファスがノックとともに部屋に入ってきた。

「おはようございます。昨夜はよくお眠りになれましたか?」

 いつもと変わらない、ルーファスの言葉。
 だがヴィクトリアは、ルーファスにすぐに返事をすることが出来なかった。

「へ、陛下! 顔色がお悪いですが、大丈夫ですか?」
「……!」

 カーテンを開けたルーファスが、ヴィクトリアに気付いて近づく。
 だが彼の手が頬に触れそうになったとき、ヴィクトリアは夢を思い出して、思わずその手を払ってしまった。

「……陛下?」

 あからさまな拒絶に、ルーファスは目を丸くした。

「ご……ごめんなさい! 私の体調は大丈夫だから! 気にしなくても景気だから! ほら、元気元気!!」

 夢の中でルーファスを汚してしまった気がして、ヴィクトリアは心の中で平身低頭して謝った。

 朝食をとってヴィクトリアがカーライルの執務室に行くと、何故かカーライルは上機嫌だった。

「昨夜はよく眠れましたか?」
「この顔が眠れたように見える?」
「もう一眠りした方が良さそうな顔をしていますね」

 どこか楽しそうに、カーライルはにこりと笑う。
 そんな彼にいらだちが募って、ヴィクトリアは頭を抑えたままバランスを崩した。

「クラクラする……」
「陛下!」

 戸棚にぶつかりそうになったところで、ヴィクトリアはルーファスに体を受け止められた。

「大丈夫ですか? おけがは……」
「あ……あ、ありがとう……。ルーファス……」

 ヴィクトリアは、ぎこちなくルーファスに礼を言った。
 その瞬間、何かが棚から落ちた。

「……ん? なにこれ。『恋の魔道具カタログ』??」

 カーライルが読むにしては、色合いが少々奇抜すぎる。
 冊子を拾い上げたヴィクトリアは、嫌な予感がしてペラペラとそれをめくった。

「『夢で、気になるあの子をオトす!? 夢の通い路用・縁結び枕発売開始』……?」『夢の中で貴方の愛を伝えよう!』 ……?」

 そのカタログに載っていた枕は、昨夜自分お部屋に置いてあった枕とうり二つだった。

「……魔界の魔法道具店のものだな」

 背後からカタログを覗いたレイモンドがポツリつぶやく。

「なにこれ高っ! 桁が多い!」

 ヴィクトリアは思わず叫んだ。
 そこには、とても枕の値段とは思えない法外な値段が記載されていた。

「――ところで、質問なのですがヴィクトリア。昨夜の夢に、私は現れましたか?」

「……………………もしかして、私が眠れなかった原因が貴方だったりする?」

 ヴィクトリアは長い沈黙の後、静かにカーライルに訊ねた。

「残念。気づいてしまいましたか」

 全ての元凶である男は、悪びれる様子一つなく、善人のような笑みを浮かべていた。

「貴方の中に私への好意をすり込もうと思っていたのに」
「? 刷り込みですか?」
「はい。潜在意識に訴えようかと」

 ルーファスの問いに、カーライルはさらりと答えた。

「カーライル……! こんなものを使って、また私の気持ちで遊んで……!」

(寝不足は全部この男のせいじゃない!)

 ヴィクトリアは眠さも相まって、頭に血が上った。

「本よ燃えて灰となれ!」

 彼女は枕を部屋に取りに戻ると、カーライルの目の前で枕を燃やした。

「なんてことするんですか。高かったのに」
「……カーライル……? いっそ貴方のことも燃やしてあげましょうか……?」

 火球を手に、ヴィクトリアはカーライルの服の襟を掴んで笑った。

「いいですよ。貴方に与えられる痛みならよろこんで」

 ヴィクトリアの提案に、カーライルはとても嬉しそうに笑った。
 その笑顔を見た瞬間、ヴィクトリアはひどく疲れた。

(ああそう。そうだった。これでこそカーライルだった……。こういう脅しは、全部この男には無駄だったんだった……)

 ヴィクトリアはがっくりと肩を落とした。幼馴染みの気持ち悪さになれてしまった自分が悲しい。

「本当にろくなものを作らないな。この魔道具屋は。以前町で客引きで声をかけられたんだが、何故カーライルはこの店を知っていたんだ?」
「まあ、夢魔が経営している店ですからね。品揃えはいいんですよ。媚薬から致死毒まで幅広く品揃えがあったんですが、一部の毒薬は流石に危ないと思ったので販売は停止させました」
「仕事で知っていたわけか」

 ヴィクトリアはレイモンドとカーライルの会話で更に精神が摩耗していくのを感じた。
 レイモンドにはどういうシチュエーションで声をかけられたのか、小一時間正座させて問い詰めたい気分だった。――前世の養い親として。

「それで? 一体どんな夢を見たんですか?」
「ぜ……絶対に言わない!」

(夢の中ではカーライルが意外と紳士で、ルーファスが野獣で、レイモンドが激甘だったなんて、絶対に言えない……!)

 ヴィクトリアは何があっても夢については話さないことを心に決めた。
 いつもと印象が真逆すぎる。いや、ルーファスはある意味種族に忠実なのかもしれないけれど!

 そう思ってヴィクトリアが顔を真っ赤にして蹲ると、その光景を見てカーライルはふむと頷いた。

「なるほど……。こういう反応が見られるなら、今後も道具を使うのもありかもしれないですね」
「これもあれも全部燃えろっ!!!」

 その言葉を聞いて、ヴィクトリアは再び火球を出現させた。
 カーライルに向かって投げつけるも、雪女の血を引く彼は、あっさり火球を無力化してしまう。

「次回の購入の検討なんてしないでいいからね! あとまた私で試したら次こそ本気で怒るからね!」
「わかりました。『また面白い商品が出ていたら、私のために買ってきて』ですね」
「私の話の何を聞いたらそうなるのっ!!!!」

 弾むような声で言われ、ヴィクトリアは思わず叫んだ。


 

「陛下……。どうして私から逃げようとなさるのですか? 逃げないでください。逃げられたら、追いたくなってしまいます」

 因みにその後、枕は実は夢の中に出てきた相手の願望をみせるということを知ってしまい、ヴィクトリアが三人の顔をまともに数日間見れなくなったせいで、不安になった(?)らしいルーファスやカーライルに、彼女が追いかけられたり追い込まれたりしたのは、また別の話である。

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