魔界セレネには、『夢の通い路』と呼ばれる日がある。
 
 その昔、離れ離れになった恋人が、遠い地で毎夜恋人の夢を見た。
 そして再開した時、離れていた間全く同じ夢を見ていたことがわかって結ばれた――そんな逸話から、二人が初めてお互いの夢を見たとされる日が、そう呼ばれているのだ。

「陛下。とても素敵な話だと思いませんか?」
「確かに」

 ヴィクトリアは、ルーファスの言葉に頷いた。
 素敵というか、血なまぐさい話が多いセレネでは、珍しくまともな話だ。

「まあ、夢の一つで人生が変わるなんて、そんなこともないと思うけど」
「でも、改めて考えると不思議ですよね。どうして私達は、夢を見るんでしょうか?」
「ルーファス。それは、なぜ私たちが夢を見るのか、ということ?」
「はい」

 ルーファスは笑みを浮かべて頷いた。
 ヴィクトリアは、ふむと考えてから顔を上げた。

「以前は、夢は願望の表れであると考えられていたけれど、最近は記憶の整理だと考えられていると本で読んだ気がする……」
「流石、陛下は博識ですね。日頃の研鑽の賜物でしょう」
「別に博識と言われるほどのことではないと思うけれど……」

 ルーファスに褒められて、ヴィクトリアはほんのりと頬を染めた。

 『ヴィンセント』として生きていた時、知識は魔王として君臨するために必要な情報でしかなかった。

 けれど『ヴィクトリア』として過ごす中で――自分はもしかしたら昔から、『知らないことを知ることがただ好きだったのかもしれない』とも思うようになっていた。
 だからこそ今は、自分の知識を褒められることが、ヴィクトリアは嬉しかった。

(不思議。好きなものを肯定されていると思えると、こんなに嬉しいだなんて)

 ヴィクトリアが表情を和らげているとカーライルが図書室にやってきて、にこりと微笑んでこんなことを言った。

「ヴィクトリア。ルーファスと二人っきりでこんな場所で遊びほうけているなんて、いいご身分ですね?」
「……」

 カーライルの手には、びっしりと文字の書かれた書類があった。

「貴方を認めさせるために私は東奔西走しているというのに、嘆かわしい限りです」

 はあ、とあからさまに溜め息をつかれて、ヴィクトリアは表情を強張らせた。

「……私も手伝う。何をすればいいの?」
「まあどれも今の貴方には処理できない問題なんですけど」
「……」

(なら、なんでそんな厭味ったらしく言うの!)

 ヴィクトリアは眉間のシワを深くした。
 カーライルはそんなヴィクトリアに気付くと、書類を机においてから彼女の頬に手を伸ばした。
 カーライルの冷たい手が、ヴィクトリアの心臓の鼓動を速くする。

「労をねぎらってくれるというなら、貴方の口づけで手を打ちましょう」
 ゆっくりと顔が近付いてくるのに気がついて、ヴィクトリアはカーライルの胸を手で押した。

「そ……それはだめっ! だいたい、そういうのは本当に好きな人とするものでしょう!?」
「ヴィクトリア。貴方がいつでも力を使えるようにするには、こうすることが効率的だということは、貴方だって分かっているでしょう?」
「……」

 『ヴィンセント』時代の力を使うためには、それが効率的だということはヴィクトリアだってわかっている。
 でもだからといって、『力』のために口付けをするなんて――ヴィクトリアは、それが嫌だった。

「手を繋ぐとかだって問題ないって……口づけにしたって、手でも大丈夫だって話だったじゃない! だったら、別に今は唇にしなくたって……」

 ヴィクトリアの顔は真っ赤だった。

「目をそらさないでください」
 ぎゅっと目を瞑り下を向く――ヴィクトリアの顎に手を添え、カーライルはふっと甘い笑みを浮かべた。

「私は、貴方だからそそれを望むのです。――この言葉の意味がわからない貴方には、教育的指導が必要ですか?」
「きょ、きょういくてき、しどう?」

(私、カーライルに何をされるの!?)

 ヴィクトリアは顔を青ざめさせた。
 すると、カーライルはぱっとヴィクトリアから手を離した。

「まあ、百面相をする貴方はなかなか愉快でしたので、今はこれで我慢しましょう」
「……ゆ、愉快って、貴方ね!?」

 ヴィクトリアは声を荒げた。
 カーライルに完全に舐められている気がする。
 しかしそうやって怒る自分を見て、楽しそうにするカーライルを見るのは、やっぱりヴィクトリアは嫌いではなかった。

(……いじわる)

「――では、ヴィクトリア。今夜、夢で会いしましょう」

 カーライルはそう言うと、ヴィクトリアの手を取って手の甲に口付けた。
 その唇の熱が慣れなくて、ヴィクトリアは思わず体をこわばらせた。
 カーライルは硬直する彼女を見てくすりと笑うと、書類を手に図書室を去った。



「全くもう、なんなのよ……」

 カーライルがいなくなってから平静さを取り戻したヴィクトリアは、彼がいた場所を見つめながら呟いた。

 前世では残忍な面ばかり見ていたような気がする幼馴染みが、最近は自分に甘い言葉ばかりかかけてくるせいで心が落ち着かない。

(カーライルは私のこと……好き? なんだよね)

 でもその好意の全てを受け入れるのは、今の自分には出来ないようにヴィクトリアは思えた。
 五〇〇年分の愛なんてそんなもの、どう受け取ればいいのか――自ら死を選び、人間として生きようとしていた自分には、その感情は身に余るものようにも思えた。

「でも、いつか……受け入れられる日が来るのかな……?」

 自分を好きだと言ってくれる人の言葉や感情をそのまま受け入れて、愛されることに慣れるまで、時間はかかるかもしれない。 
 ただいつかは、そんな日が来ればいいとも、最近のヴィクトリアは思っていた。

 前世ではすべて拒絶して、一人で死を選んだからこそ――だからこそ、誰かの想いを受け入れるだけの心の強さが欲しいと。

 ヴィクトリアは、カーライルに口付けられた手の甲に触れた。
 感触を思い出して、再び顔に熱が集まる。
 ――すると。

「何顔を赤くしているんだ」
「れ、レイモンド……!?」
 
 図書室にやってきたレイモンドに声をかけられ、ヴィクトリアは声を裏切らせた。

「エイルから預かってきた。それでも食べるといい」
「私の代わりに、見回りに行ってくれてありがとう。レイモンド」

 レイモンドは、エイルが作ったパンの入った籠をヴィクトリアに差し出した。

「……別に。これは俺の仕事だからな」

 レイモンドはそっけなく顔を背けた。
 古龍の暴走の件もあり、レイモンドはエイルやアルフェリアがいる村の周辺を、定期的に見回ってくれているのだ。

「……それでも、ありがとう」
 ヴィクトリアが、リラ・ノアールで過ごすようになってから、ルーファスはヴィクトリアの身辺警護と世話を、カーライルは本来魔王が行うべき執務を――そしてレイモンドは、デュアルソレイユの見回りを行っている。

 二つの世界を行き来するなんて面倒な役回りだろうに、文句を言わずにこなしてくれるレイモンドに、ヴィクトリアは心から感謝していた。

「あ! アルフェリアからの手紙も入ってる! 早く読まなきゃ」

 ヴィクトリアは、幼なじみから届いた手紙を見つけて目を輝かせた。
 セレネに来てしまえば、もう二度と大切な親友たちとは交流できないと最初は思っていたが、今もこうやって交流を続けられるのはすべて、レイモンドのおかげだ。

「レイモンド。手紙を書いたら、また届けてもらってもいい?」
「アンタがそれを望むなら」

 ヴィクトリアが嬉しそうな表情のまま訊ねれば、レイモンドはまたそっけなくこたえた。

「……あと、これもやる」
 レイモンドは、可愛らしいリボンのついた包みを取り出すと、ヴィクトリアに差し出した。

「デュアルソレイユで、最近人気の菓子らしい」
「くれるの? ありがとう! レイモンド」
「……アンタの口に合うかは分からないけどな」

 レイモンドはそう言うと、再びヴィクトリアから顔をそむけた。
 
(なんだかんだいって、レイモンドは私に優しい気がする)

 その優しさが、ヴィクトリアは純粋に嬉しかった。
 レイモンドは、同い年のルーファスと比べてあまり表情を変えない。ただそのせいか、レイモンドの気遣いはどこか『静か』で、ヴィクトリアはその穏やかな優しさが、心地よくも感じられた。

 そうして、調子が戻ったヴィクトリアは、ぱっと表情を明るく事故手を叩いた。

「そうだ! よかったらふたりとも、これから一緒に食べない?」
「はい。陛下の望まれるままに」
「……ちょうど腹も減っていたからな」
 ヴィクトリアの申し出を、ルーファスとレイモンドは受け入れた。



 昼食は、『ヴィンセント』がかつて植えた花の木の下でとることにした。 

 柔らかな木陰が心地よい。たまにひらひらと花びらが落ちてくることもあるが、そこはご愛嬌というものだ。

「本当に、陛下は彼の作るパンが好きなんですね」
「うん。昔から大好きなの」

 素直にヴィクトリアが頷けば、何故かルーファスが無言になったのに気づいて、ヴィクトリアは首を傾げた。

(あれ? いったいどうしたんだろう?) 

 ヴィクトリアが疑問に思っていると、ルーファスは、ヴィクトリアの手を取って、まっすぐに目を見つめて尋ねた。

「陛下は……私が彼より上手に作ることができたら、私のパンも召し上がってくださいますか?」
「えっ? エイルはお父さんがパン屋さんだからパンを焼くのがうまいけど、ルーファスは私の護衛をしてくれているんだし、別にルーファスはパンを焼くのがうまくなる必要はないんじゃない?」

 こういうのは適材適所というものだし、そもそも家業だと思うし、ルーファスがパンを作りを極めたい理由がわからない。
 ヴィクトリアが素直に思ったことを口にすると、今度はルーファスの顔が曇った。

「る、ルーファス? 私、何か貴方を傷付けるようなことを言ってしまった?」
「……いいえ。申し訳ありません。浅はかな願いを抱いてしまった自分に気付いてしまっただけのことです」
「??」

 お気になさらず、とルーファスは言って悲しげに微笑んだ。
 そう言われると余計に気になってしまう――ヴィクトリアがルーファスに手を伸ばそうとしたとき、氷のように冷たい声が響いた。

「私抜きで楽しそうで何よりですね」

 声の主はカーライルだった。
 雪女の血を継ぐだけあってか、ヴィクトリアはカーライルの背後に、吹雪が見える気がした。

(あ。そういえばここ、執務室から見える場所だったんだった……)

 失念していたことを思い出して冷や汗をかきつつ、ヴィクトリアは荷物を避けてカーライルの座る場所を確保した。

「ここに座って! も、勿論、カーライルのぶんのパンもあるから!」

 ヴィクトリアが慌てていえば、カーライルはふうと溜め息をつきながら、ヴィクトリアの隣に座った。
 パンを渡せば、カーライルは大人しくそれを口にしたが、ヴィクトリアの心中は穏やかではなかった。

 別に、カーライルをのけものにしたいわけではない。
 ただ、会うたびにグイグイ来られるとどう対処すればいいかわからなくて、距離を取りたくなってしまうのだ。

(許されたい、この思い!)

 ヴィクトリアは心のなかでほろりと涙を流した。
 せめてご飯のときくらいは、のんびり心穏やかに取りたいものである。



「今日もたくさん本を読んだなあ……」
「今日も一日、お疲れ様でした。陛下」

 お風呂にはいって就寝の準備を済ませたヴィクトリアは、寝台に腰掛けて体を伸ばした。
 リラ・ノアールに暮らすようになってからというもの、彼女には常にルーファスが護衛についている。
 ヴィクトリアが気の抜けた顔をしていると、ルーファスは穏やかな笑みを浮かべて、彼女をねぎらう言葉を口にした。

 ヴィクトリアはこのところ、毎日ここ五〇〇年のセレネの状況を把握するために記録を読んで過ごしていた。

 ヴィンセント・グレイスが死んでからというもの、新しくいくつかの派閥が出来ているらしく、『ヴィクトリア・アシュレイ』が次期魔王としてカーライルから発表されたせいで、セレネは更に混沌としているようだった。

 我こそ魔王に、いやこの方をこそ魔王に――それぞれの魔族に思惑があるらしく、人間の新参者のくせに魔王城で魔界トップ三に守られるヴィクトリアは、格好の暗殺対象になってしまっているのは仕方ないとも言えた。

 元の力を完全に使えるわけではない自分が、セレネで生きていられるのは三人のおかげだ。ヴィクトリアは、それを理解していた。
 分かっている――それでも。

「……カーライルが今日はやたらと話しかけてきたから少し疲れちゃったかも」
「陛下は、カーライル様が苦手なのですか?」
「苦手っていうか、ううんと……上手く言えないんだけど……」

 ヴィクトリアはどうしても、そう思ってしまうのだった。

 カーライルと過ごしていると、精神がゴリゴリ削られる――気がする。
 女扱いをするなと言えば笑顔でお風呂で背中を流しましょうかと言い始め、いつでも魔法を使えるようにという名目で、自分に触れようとしてくるカーライルははっきり言って心臓に悪い。

「単に私が、ああいうのになれてないって言うのが大きいのかもしれない……」

 ルーファスは素直で聞き分けが良くて、こちらの気分を損ねるようなことはしないし、レイモンドは基本、要件があるとき以外話しかけてこない。
 まあレイモンドからは、きちんと休養をとっていないと眠るように言われたり、食事で好き嫌いをすれば怒られるけれど――と考えて、ヴィクトリアはあることに気づいてしまった。

(あれ? なんだかレイモンドって、私の『お母さん』みたいだな……?)

 夜の漆黒。寡黙な彼が、白いフリフリのエプロン姿をしているのを想像して、ヴィクトリアは思わず声を上げて笑ってしまった。
 似合わない。この上なく似合わない。

「どうかなさいましたか?」
「ううん。なんでもないよ」

 突然笑い出した自分を心配そうに見つめるルーファスに、ヴィクトリアは片手をあげて心配しないようにと手を振った。
 あまりにおかしすぎて涙がでてしまった。涙を拭ってから深く息を吐く。

「今日も一日ありがとう。明日も頑張らなきゃいけないし、そろそろもう寝ようかな」
「かしこまりました。それでは、私はこれで下がらせていただきます」

 ルーファスはそう言うと、ランプを手に扉のほうへと向かった。
 日中の警護はルーファスが担っているが、夜の警護は持ち回りだ。
 今日の夜の警護はレイモンドの予定だった。

「うん。ありがとう。また明日」
 ヴィクトリアに見送られていたルーファスは扉の前で足を止めると、ヴィクトリアの方を振り返ってこんなことを言った。

「陛下。私も、今宵は陛下の夢を見ることができると嬉しいです」 

 いつもの忠犬のような彼とは違う、青年らしい笑みを向けられ、ヴィクトリアはどきりとした。

「えっとその、私は……」

 セレネでは、夢の通い路で会いたいと告げるのは、愛を囁くのと同義なのだ。
 ヴィクトリアがすぐに返事を出来ずに困っていると、ルーファスはぺこりと静かに頭を下げた。

「では、また明日。おやすみなさいませ。――……ヴィクトリア様」

 夜の別れの挨拶。
 ヴィクトリアはぎこちないながらも、なんとかいつものようにルーファスに言葉を返すことにした。

「う、うん。おやすみなさい。ルーファス……」

 ルーファスが部屋を去ってから、ヴィクトリアは気恥ずかしさのあまり枕に顔を埋めた。

「な……なんだったの! さっきのは何だったの!」

 いつもは自分のそばで優しい笑みを浮かべる忠犬のような彼が、急に自分の心臓にふれたような感覚があって、寝る前だと言うのに妙に心が落ち着かない。

「ルーファスってば、突然どうしたんだろう……? まさか、カーライルの悪影響で……?」

 いつも自分をからかっては笑みを浮かべている幼馴染みを思い浮かべて、ヴィクトリアは震えた。

(ルーファスは確かに血なまぐさい逸話の多い金色狼だけど、純粋で優しくていい子のはずなのに!)

 悪影響があるならルーファスからカーライルは距離を置いて欲しいと思ったが、すでに五〇〇年も側にいたなら、自分の知らない二人の時間の方が長いことに気付いてヴィクトリアは沈黙した。

 ……今更、どうしようもないのかもしれない。そう思うと悲しいかな、ヴィクトリアは溜め息を吐くことしか出来ないのだった。
 思案の末、ルーファスの更生計画を諦めた彼女は、床につくことにした。
 しかしその時、枕が違うことに気付いて彼女は首を傾げた。

「枕が変わってる? 誰かが新しいのに変えたのかな?」

 まあ別に、枕が変わったせいで眠れなくなるような繊細な性格でもない。ヴィクトリアは「まあいいか」と呟くと、枕を戻して布団を被った。

「なんだか、甘い香りがする……」

 すぐには眠れないと思っていたのに急に眠気が襲ってきて、ヴィクトリアは瞳を閉じた。 

 『夢の通い路』
 ヴィンセントとして生きていた時、一度も見ることができなかった夢だ。きっと今日も、自分は何も見ないだろうと思って――……。