「ヴィクトリア?」
ヴィクトリアを迎えたエイルは、目を瞬かせて彼女に駆け寄った。
珍しく表情の暗い年下の幼馴染に、彼は視線を合わせてから尋ねた。
「まだ期限はきていないのに、帰ってくるなんてどうしたの? それに、たった一人だなんて。今日は誰も一緒じゃないの? なんだか浮かない顔をしているし……もしかして、何かあったの?」
「…………」
ヴィクトリアは、エイルの問いに答えることが出来なかった。
「おかえりなさい! ヴィクトリア!」
エイルのあとにヴィクトリアを見つけたアルフェリアは、ヴィクトリアの背後からその体をぎゅっと抱きしめた。
「……!」
突然抱きつかれた衝撃に、ヴィクトリアは目を瞬かせた。
満面の笑みのアルフェリアに対し、表情の硬い幼馴染を見て、エイルは眉根を寄せた。
「……アルフェリア。今は僕がヴィクトリアと話してたんだけど」
「そんなこと、どうでもいいでしょ。どうせ大したことは話してなかったんでしょう? それよりとりあえず、一緒にご飯でも食べない? 何があったかはわからないけれど、きっと美味しいものを食べたら元気になれるわ」
グイグイと手を引っ張られ、ヴィクトリアはアルフェリアに引きずられるように足を進めた。
「エイル、今日は特製シチューを作っているんでしょう? これはもう、食べに行かなきゃ。ヴィクトリアもそう思うでしょ? エイルの作るシチューは美味しいもの」
「……エイルのシチュー?」
それは、ヴィクトリアの好物だ。
ヴィクトリアがこくんと頷くと、アルフェリアは嬉しそうに笑った。
「……全く二人とも……。僕の料理を美味しいって言う前に、やるべきことがあるだろ」
立ち止まる。ため息をつくエイルを前に、ヴィクトリアとアルフェリアは顔を見合わせた。
「何言ってるの。家事をしないでいい家に嫁げばいいだけでしょ? ヴィクトリアは家事よりも力仕事が得意だから、代わりにそれをやればいいだけのことだわ。今どき古い価値観ばかり押し付ける男は嫌われるわよ」
「…………別に押し付けてるわけじゃないんだけどさ……。二人とも昔から本当に不器用だよね……」
エイルは遠い目をした。
アルフェリアは、にっこり笑みを浮かべると、ヴィクトリアの手を引いていた手を離して、エイルの襟を掴んで詰めた。
「何? 私たちに文句でもあるのかしら? エイル?」
ぎりぎりぎり。
じわじわと襟を締め上げる幼馴染に、エイルは白旗を上げつつ抵抗した。
「……人の服の襟を掴まない。性別関係なく、これはやっていいことじゃないだろ」
「ま、それもそうね」
アルフェリアはそう言うと、エイルからパッと手を離した。
「それじゃあエイル、お詫びに早めに戻ってシチューを温め直してくれる? アツアツのか食べたいわ」
にっこり。
相変わらず傍若無人な幼馴染に、エイルは溜息を付きながらも従った。
アルフェリアが前を歩いて、ヴィクトリアは彼女に手を引かれて歩く。
ヴィクトリアはそうするうちに、昔のことを思い出した。
『はじめまして。私はアルフェリア。これから仲良くしてね!』
『こんにちは。ヴィクトリア。僕はエイルだよ』
森で過ごす老夫婦に拾われて、初めて二人に出会った日。
二人は当然のように、ヴィクトリアに手を差し出した。
そして二人は、ずっと『兄弟』を知らなかった彼女の、兄と姉のような存在になった。
拾われたときから、ヴィクトリアにはヴィンセントの記憶があった。だから彼らに教わることなど何一つないと思っていたのに、ヴィクトリアは二人から沢山のことを教えてもらった。
自分が苦手なこと、それを出来る誰かがいること。
魔法なんてなくても、生きていけること。
朝を迎える喜びを、夜に明日が楽しみで眠れないときがあることを、ヴィクトリアに教えてくれたのは、幼馴染の二人だった。
それは――魔王という立場の上で繋がったカーライルとでは、決してありえないこと。
「さ、入りましょ。ヴィクトリア」
我が物顔でエイルの家の扉を開けたアルフェリアは、当然のようにヴィクトリアに手を差し出した。
家の中に入れば、美味しそうな香りがだよってくる。
先に家戻っていたエイルは、二人の分のシチューを器に盛り付けた。
木の匙と器。
昔から慣れ親しんだそれが、今のヴィクトリアには何故か遠いものに感じられた。温かみのある木目を、銀器と空目する。
ヴィクトリアは目をつむって、ぱくりとシチューを口に運んだ。その瞬間、彼女の目から涙が零れ落ちた。
「どうしたの? ヴィクトリア」
「何か変なものでも入ってた? だったら、吐き出していいから」
心配してくれる二人の優しさが嬉しくて痛くて、ヴィクトリアは首を振った。
「違うの。美味しいの……」
そして、すぐにシチューを吐き出すようにいうエイルに、ヴィクトリアは昔の彼とのやり取りを思い出した。
エイルは昔、料理が下手でシチューどころか、家業であるパンさえまともに作れない有様だった。彼は生来そこまで器用な方でもなく、パン作りを始めた頃は失敗ばかりだった。
何度やっても失敗ばかり。出来損ないの山を見て肩を落とすエイルを見て、ヴィクトリアとアルフェリアはある作戦を立てた。
それは――エイルのパンを食べる、というものだった。
失敗作を初めて食べたとき、エイルはヴィクトリアやアルフェリアに吐き出すように言った。
けれど二人は、お腹がはちきれそうになるまで、エイルの下手なパンを食べた。
失敗しても、大丈夫。私達が食べるから、なんて言って――そうやって三人で、ずっと笑い合って、協力しあって過ごしてきた。
「美味しくて……。美味しくて、涙が出るの……」
魔王としてセレネで過ごせば、きっとこれまでよりいい生活ができるだろう。
カーライルやルーファスは、ヴィクトリアが望めば、どんなものでも用意するに違いない。
でもそれは、ヴィクトリアには、本当に自分が望むものではないような気がした。
完璧でなくていい。ただ食卓を囲んで、心を許せる大切な人と、笑い合えるこの場所が好きだった。
けれども幸せな時間は、夢のように崩れ去る。
「ヴィクトリア。もしかして今日、急に帰ってきたのには理由があるの?」
「誰かに何か言われた? セレネで何かされたの? 誰かに傷つけられたの? もしそうなら、私が……」
「違う。違うの。他の誰かが悪いんじゃないの」
ルーファスに怪我を負わせてしまった。
今だって、本当は笑顔で囲むはずだった食卓を暗くしている。
(誰か傷つけているのは、いつも私だ)
「……私、もうここには来れない」
今のヴィクトリアはもう、『帰れない』とは言えなかった。
自分の本当にいるべき場所は人間の世界ではないと、彼女は知っていたから。
「魔王城に住むってこと? もしかして……三人のうちの誰かと結婚する、とか?」
ヴィクトリアは首を振った。
あの三人のうち、誰とも結婚なんてありえない。
一人は最低な幼馴染で、一人は育てた子どもで、一人は子どもの幼馴染《ゆうじん》だ。
確かに、成長した彼らに驚かされたのは事実だけれど。
「じゃあなんで?」
「それは私が、本当は……」
――私が、彼らがずっと探していた、魔王ヴィンセント・グレイスだから。
そう答えようとして、ヴィクトリアは言葉を飲み込んだ。
真実を告げたとき、二人が変わってしまうことが怖かった。
五〇〇年前のことだ。
それでもその所業は、今でもデュアルソレイユでは語り継がれている。ヴィンセント・グレイスは、悪逆の限りを尽くした最低最悪の魔王であると。
たとえ『魔王』が人間を殺した魔族を殺すように命じたとしても、それは乱心によるものか、レイモンドやルーファスたちの誠意ある行動、もしくはカーライルによる采配としかみなされない。
人間にやこの世界にとって、魔王《ヴィンセント》は今も、絶対的な悪なのだ。
自分の前世が、魂が、もしそのヴィンセントだと告げたとして。
(二人は真実を知っても、私を嫌わずにいてくれるのだろうか……?)
ヴィクトリアは胸をおさえた。
二人のことを信じられない、そんな自分がまた嫌になる。
「ヴィクトリア……?」
「きゃああああっ!」
エイルが、ヴィクトリアに手を伸ばしたとき。
外から女性の悲鳴が聞こえ、三人は動きを止めた。
「いったいどうしたの!?」
外に出ると、巨大な影が三人を横切った。腰を抜かした男は、震える手で空を指差していた。
三人は同時に、視線を上空へと向けた。
「何!? なんなんだあれは……!!!」
エイルが叫ぶ。
ヴィクトリアは、信じられないものを目にして言葉を失った。
「――……え?」
男の指の先には、黒黒とした痩躯で空中を飛ぶ生き物の姿があった。
それは古龍だった。しかも一体ではなく、今度は二体のつがいのようだった。
龍はヴィクトリアをその瞳にとらえると、彼女の前に体を降ろした。
砂埃が舞う。龍はヴィクトリアに近づくと、何故かその頭を下げた。の頭には、ちょこんと何か植物が芽吹いているようだった。
「お初にお目にかかります」
その声に、ヴィクトリアは耳を疑った。
古龍が話せるなんて記録、彼女は聞いたことがない。
しかし、それで驚くのもつかの間。
龍が次に告げた言葉に、ヴィクトリアは驚きを隠せなかった。
「魔王陛下。そのお命、頂戴に参りました」
「………!?」
まさか彼ら以外に、自分のことを『魔王』と認識し、攻撃してくる存在が居るなんて。
(まさかセレネでのことも――ルーファスが怪我を負った原因も、最初から私のせいで……?)
「どうしてこんなところに魔物が……っ!?」
しかし目の前にいる生き物が、ただの魔物出ないことを認識できていたのは、ヴィクトリア一人だった。
呆然とする村人の声に我に返ったヴィクトリアは、幼馴染の前に立った。
「……二人とも下がって。私が戦う!」
魔物を、しかも古龍を、ただの人間が倒せるはずがない。
ヴィクトリアは身に着けていた短剣を取り出した。
リラ・ノアールの宝物庫から持ってきた短剣は、ヴィンセント・グレイスがかつて使っていたもので、魔力を付与させることで相手を切り裂く力が何十倍にも跳ね上がらせることのできる代物だ。
しかもこの剣は、魂の契約者にしか従わないという特性を持っている。剣に主と認められなければ、力は発現しない。
「魂の契約に従い、我に力を与えよ。ノアール・ダガー!」
呪文を唱えれば、魔王の剣は光を纏う。
ヴィクトリアは剣を握りしめた。
こんなにも早く、再び魔法を使うことになるなんて思わなかった。しかも二人の目の前で。
「駄目! そんなの、いくら貴方でも危ないわ。一緒に逃げるのよ。ヴィクトリア!!」
ヴィクトリアの力を知らないアルフェリアは、彼女の前に出て手を引いた。
その瞬間。
「…………危ない! アルフェリア!」
エイルの悲痛な叫びも虚しく、アルフェリアの体は古龍の手で払われ宙に舞う。
勢いよく木にぶつかった彼女は、小さな悲鳴を上げると、意識を失いガクンと崩れ落ちた。
「……ッ!」
エイルは、すぐさまアルフェリアに駆け寄った。だがアルフェリアに庇われたヴィクトリアは、その場から動くことができなかった。
(私の大切な人が、守りたい人がまた、目の前で傷付けられた)
その事実を前に、ヴィクトリアは自分の中に、ふつふつとなにかが湧き上がるのを感じた。
頭痛がする。頭の中に、かつての忌々しい記憶が蘇る。
先代魔王――血の繋がった父親と、初めてあった日。その日も、彼女を止める愛しい人の声は響いた。
『駄目だ。ヴィンセント! 力を使うな!! その人は……!』
ディー・クロウは、魔王《ちち》を殺すなと言った。けれど声と同時、声の主は血を吐いて地面に倒れ込んだ。
『ディー!! 嫌だ。ディー! ディー!!!』
慈悲も憐憫も存在しない。
力による蹂躙だけが、そこにはあった。ヴィンセントとディー・クロウが住んでいた穏やかな時間が流れる美しい村は、一瞬にして血に染まった。
ヴィンセント・グレイスを育てたディー・クロウは、彼女の目の前で実の父親である魔王に体を貫かれて殺された。
「……ディー……」
ヴィクトリアは、もう届かない愛しい人の名前を呟いた。
「よかった……ちゃんと息をしてる」
アルフェリアの体に触れる。
エイルは幼馴染の少女の呼吸を確認したあとに、もう一人の幼馴染の少女の瞳を見て、驚きのあまり大きく目を見開いた。
「……ヴィクトリア?」
彼女の瞳は血よりも鮮やかな紅に、その色を変えていた。
ヴィクトリアを迎えたエイルは、目を瞬かせて彼女に駆け寄った。
珍しく表情の暗い年下の幼馴染に、彼は視線を合わせてから尋ねた。
「まだ期限はきていないのに、帰ってくるなんてどうしたの? それに、たった一人だなんて。今日は誰も一緒じゃないの? なんだか浮かない顔をしているし……もしかして、何かあったの?」
「…………」
ヴィクトリアは、エイルの問いに答えることが出来なかった。
「おかえりなさい! ヴィクトリア!」
エイルのあとにヴィクトリアを見つけたアルフェリアは、ヴィクトリアの背後からその体をぎゅっと抱きしめた。
「……!」
突然抱きつかれた衝撃に、ヴィクトリアは目を瞬かせた。
満面の笑みのアルフェリアに対し、表情の硬い幼馴染を見て、エイルは眉根を寄せた。
「……アルフェリア。今は僕がヴィクトリアと話してたんだけど」
「そんなこと、どうでもいいでしょ。どうせ大したことは話してなかったんでしょう? それよりとりあえず、一緒にご飯でも食べない? 何があったかはわからないけれど、きっと美味しいものを食べたら元気になれるわ」
グイグイと手を引っ張られ、ヴィクトリアはアルフェリアに引きずられるように足を進めた。
「エイル、今日は特製シチューを作っているんでしょう? これはもう、食べに行かなきゃ。ヴィクトリアもそう思うでしょ? エイルの作るシチューは美味しいもの」
「……エイルのシチュー?」
それは、ヴィクトリアの好物だ。
ヴィクトリアがこくんと頷くと、アルフェリアは嬉しそうに笑った。
「……全く二人とも……。僕の料理を美味しいって言う前に、やるべきことがあるだろ」
立ち止まる。ため息をつくエイルを前に、ヴィクトリアとアルフェリアは顔を見合わせた。
「何言ってるの。家事をしないでいい家に嫁げばいいだけでしょ? ヴィクトリアは家事よりも力仕事が得意だから、代わりにそれをやればいいだけのことだわ。今どき古い価値観ばかり押し付ける男は嫌われるわよ」
「…………別に押し付けてるわけじゃないんだけどさ……。二人とも昔から本当に不器用だよね……」
エイルは遠い目をした。
アルフェリアは、にっこり笑みを浮かべると、ヴィクトリアの手を引いていた手を離して、エイルの襟を掴んで詰めた。
「何? 私たちに文句でもあるのかしら? エイル?」
ぎりぎりぎり。
じわじわと襟を締め上げる幼馴染に、エイルは白旗を上げつつ抵抗した。
「……人の服の襟を掴まない。性別関係なく、これはやっていいことじゃないだろ」
「ま、それもそうね」
アルフェリアはそう言うと、エイルからパッと手を離した。
「それじゃあエイル、お詫びに早めに戻ってシチューを温め直してくれる? アツアツのか食べたいわ」
にっこり。
相変わらず傍若無人な幼馴染に、エイルは溜息を付きながらも従った。
アルフェリアが前を歩いて、ヴィクトリアは彼女に手を引かれて歩く。
ヴィクトリアはそうするうちに、昔のことを思い出した。
『はじめまして。私はアルフェリア。これから仲良くしてね!』
『こんにちは。ヴィクトリア。僕はエイルだよ』
森で過ごす老夫婦に拾われて、初めて二人に出会った日。
二人は当然のように、ヴィクトリアに手を差し出した。
そして二人は、ずっと『兄弟』を知らなかった彼女の、兄と姉のような存在になった。
拾われたときから、ヴィクトリアにはヴィンセントの記憶があった。だから彼らに教わることなど何一つないと思っていたのに、ヴィクトリアは二人から沢山のことを教えてもらった。
自分が苦手なこと、それを出来る誰かがいること。
魔法なんてなくても、生きていけること。
朝を迎える喜びを、夜に明日が楽しみで眠れないときがあることを、ヴィクトリアに教えてくれたのは、幼馴染の二人だった。
それは――魔王という立場の上で繋がったカーライルとでは、決してありえないこと。
「さ、入りましょ。ヴィクトリア」
我が物顔でエイルの家の扉を開けたアルフェリアは、当然のようにヴィクトリアに手を差し出した。
家の中に入れば、美味しそうな香りがだよってくる。
先に家戻っていたエイルは、二人の分のシチューを器に盛り付けた。
木の匙と器。
昔から慣れ親しんだそれが、今のヴィクトリアには何故か遠いものに感じられた。温かみのある木目を、銀器と空目する。
ヴィクトリアは目をつむって、ぱくりとシチューを口に運んだ。その瞬間、彼女の目から涙が零れ落ちた。
「どうしたの? ヴィクトリア」
「何か変なものでも入ってた? だったら、吐き出していいから」
心配してくれる二人の優しさが嬉しくて痛くて、ヴィクトリアは首を振った。
「違うの。美味しいの……」
そして、すぐにシチューを吐き出すようにいうエイルに、ヴィクトリアは昔の彼とのやり取りを思い出した。
エイルは昔、料理が下手でシチューどころか、家業であるパンさえまともに作れない有様だった。彼は生来そこまで器用な方でもなく、パン作りを始めた頃は失敗ばかりだった。
何度やっても失敗ばかり。出来損ないの山を見て肩を落とすエイルを見て、ヴィクトリアとアルフェリアはある作戦を立てた。
それは――エイルのパンを食べる、というものだった。
失敗作を初めて食べたとき、エイルはヴィクトリアやアルフェリアに吐き出すように言った。
けれど二人は、お腹がはちきれそうになるまで、エイルの下手なパンを食べた。
失敗しても、大丈夫。私達が食べるから、なんて言って――そうやって三人で、ずっと笑い合って、協力しあって過ごしてきた。
「美味しくて……。美味しくて、涙が出るの……」
魔王としてセレネで過ごせば、きっとこれまでよりいい生活ができるだろう。
カーライルやルーファスは、ヴィクトリアが望めば、どんなものでも用意するに違いない。
でもそれは、ヴィクトリアには、本当に自分が望むものではないような気がした。
完璧でなくていい。ただ食卓を囲んで、心を許せる大切な人と、笑い合えるこの場所が好きだった。
けれども幸せな時間は、夢のように崩れ去る。
「ヴィクトリア。もしかして今日、急に帰ってきたのには理由があるの?」
「誰かに何か言われた? セレネで何かされたの? 誰かに傷つけられたの? もしそうなら、私が……」
「違う。違うの。他の誰かが悪いんじゃないの」
ルーファスに怪我を負わせてしまった。
今だって、本当は笑顔で囲むはずだった食卓を暗くしている。
(誰か傷つけているのは、いつも私だ)
「……私、もうここには来れない」
今のヴィクトリアはもう、『帰れない』とは言えなかった。
自分の本当にいるべき場所は人間の世界ではないと、彼女は知っていたから。
「魔王城に住むってこと? もしかして……三人のうちの誰かと結婚する、とか?」
ヴィクトリアは首を振った。
あの三人のうち、誰とも結婚なんてありえない。
一人は最低な幼馴染で、一人は育てた子どもで、一人は子どもの幼馴染《ゆうじん》だ。
確かに、成長した彼らに驚かされたのは事実だけれど。
「じゃあなんで?」
「それは私が、本当は……」
――私が、彼らがずっと探していた、魔王ヴィンセント・グレイスだから。
そう答えようとして、ヴィクトリアは言葉を飲み込んだ。
真実を告げたとき、二人が変わってしまうことが怖かった。
五〇〇年前のことだ。
それでもその所業は、今でもデュアルソレイユでは語り継がれている。ヴィンセント・グレイスは、悪逆の限りを尽くした最低最悪の魔王であると。
たとえ『魔王』が人間を殺した魔族を殺すように命じたとしても、それは乱心によるものか、レイモンドやルーファスたちの誠意ある行動、もしくはカーライルによる采配としかみなされない。
人間にやこの世界にとって、魔王《ヴィンセント》は今も、絶対的な悪なのだ。
自分の前世が、魂が、もしそのヴィンセントだと告げたとして。
(二人は真実を知っても、私を嫌わずにいてくれるのだろうか……?)
ヴィクトリアは胸をおさえた。
二人のことを信じられない、そんな自分がまた嫌になる。
「ヴィクトリア……?」
「きゃああああっ!」
エイルが、ヴィクトリアに手を伸ばしたとき。
外から女性の悲鳴が聞こえ、三人は動きを止めた。
「いったいどうしたの!?」
外に出ると、巨大な影が三人を横切った。腰を抜かした男は、震える手で空を指差していた。
三人は同時に、視線を上空へと向けた。
「何!? なんなんだあれは……!!!」
エイルが叫ぶ。
ヴィクトリアは、信じられないものを目にして言葉を失った。
「――……え?」
男の指の先には、黒黒とした痩躯で空中を飛ぶ生き物の姿があった。
それは古龍だった。しかも一体ではなく、今度は二体のつがいのようだった。
龍はヴィクトリアをその瞳にとらえると、彼女の前に体を降ろした。
砂埃が舞う。龍はヴィクトリアに近づくと、何故かその頭を下げた。の頭には、ちょこんと何か植物が芽吹いているようだった。
「お初にお目にかかります」
その声に、ヴィクトリアは耳を疑った。
古龍が話せるなんて記録、彼女は聞いたことがない。
しかし、それで驚くのもつかの間。
龍が次に告げた言葉に、ヴィクトリアは驚きを隠せなかった。
「魔王陛下。そのお命、頂戴に参りました」
「………!?」
まさか彼ら以外に、自分のことを『魔王』と認識し、攻撃してくる存在が居るなんて。
(まさかセレネでのことも――ルーファスが怪我を負った原因も、最初から私のせいで……?)
「どうしてこんなところに魔物が……っ!?」
しかし目の前にいる生き物が、ただの魔物出ないことを認識できていたのは、ヴィクトリア一人だった。
呆然とする村人の声に我に返ったヴィクトリアは、幼馴染の前に立った。
「……二人とも下がって。私が戦う!」
魔物を、しかも古龍を、ただの人間が倒せるはずがない。
ヴィクトリアは身に着けていた短剣を取り出した。
リラ・ノアールの宝物庫から持ってきた短剣は、ヴィンセント・グレイスがかつて使っていたもので、魔力を付与させることで相手を切り裂く力が何十倍にも跳ね上がらせることのできる代物だ。
しかもこの剣は、魂の契約者にしか従わないという特性を持っている。剣に主と認められなければ、力は発現しない。
「魂の契約に従い、我に力を与えよ。ノアール・ダガー!」
呪文を唱えれば、魔王の剣は光を纏う。
ヴィクトリアは剣を握りしめた。
こんなにも早く、再び魔法を使うことになるなんて思わなかった。しかも二人の目の前で。
「駄目! そんなの、いくら貴方でも危ないわ。一緒に逃げるのよ。ヴィクトリア!!」
ヴィクトリアの力を知らないアルフェリアは、彼女の前に出て手を引いた。
その瞬間。
「…………危ない! アルフェリア!」
エイルの悲痛な叫びも虚しく、アルフェリアの体は古龍の手で払われ宙に舞う。
勢いよく木にぶつかった彼女は、小さな悲鳴を上げると、意識を失いガクンと崩れ落ちた。
「……ッ!」
エイルは、すぐさまアルフェリアに駆け寄った。だがアルフェリアに庇われたヴィクトリアは、その場から動くことができなかった。
(私の大切な人が、守りたい人がまた、目の前で傷付けられた)
その事実を前に、ヴィクトリアは自分の中に、ふつふつとなにかが湧き上がるのを感じた。
頭痛がする。頭の中に、かつての忌々しい記憶が蘇る。
先代魔王――血の繋がった父親と、初めてあった日。その日も、彼女を止める愛しい人の声は響いた。
『駄目だ。ヴィンセント! 力を使うな!! その人は……!』
ディー・クロウは、魔王《ちち》を殺すなと言った。けれど声と同時、声の主は血を吐いて地面に倒れ込んだ。
『ディー!! 嫌だ。ディー! ディー!!!』
慈悲も憐憫も存在しない。
力による蹂躙だけが、そこにはあった。ヴィンセントとディー・クロウが住んでいた穏やかな時間が流れる美しい村は、一瞬にして血に染まった。
ヴィンセント・グレイスを育てたディー・クロウは、彼女の目の前で実の父親である魔王に体を貫かれて殺された。
「……ディー……」
ヴィクトリアは、もう届かない愛しい人の名前を呟いた。
「よかった……ちゃんと息をしてる」
アルフェリアの体に触れる。
エイルは幼馴染の少女の呼吸を確認したあとに、もう一人の幼馴染の少女の瞳を見て、驚きのあまり大きく目を見開いた。
「……ヴィクトリア?」
彼女の瞳は血よりも鮮やかな紅に、その色を変えていた。