前世魔王、500年後に人間として転生したらかつての臣下たちに溺愛されて困っています(若干ヤンデレ化してる気もするけどたぶん気のせいです)! ◆転生魔王は帰還する!編◆

「遊んでやるよ。人間!」
「陛下になんてことを!」

 翌日、リラ・ノアールにはまた子どもたちが訪れていた。

「気にしないでください。子どもはこういうものですから」
「しかし……」
「食後の運動ということで。ーーそれに、どうせ遊ぶなら、一緒に楽しんだほうがいいと思いせんか?」
「……わかりました」

 食事のあとは、ヴィクトリアと二人でのんびり過ごしたいと考えていたルーファスは、子どもたちを見て笑うヴィクトリアに嫌とは言えず一人ため息をついた。

「人間! 何かいい遊びを教えろ!」

 カーライルに脅されたにも関わらず、少年は今日もとても生意気だった。
 元気だなあとヴィクトリアは呑気に思った。

(可愛い。ヴィンセントとして生きていた頃は、お目にかかれなかった種類《タイプ》の子だ)

 天真爛漫。自由気まま。
 そんな言葉が似合う子どもは、五〇〇年前の魔界にはいなかった。

「そうですね……」

 ヴィクトリアは考えた。
 カーライルは部屋にいるようだし、城の中には入らず外で遊べて、子どもたちが満足できて――……複数人でやれる遊びが好ましい。

「では、けいどろはどうでしょう?」
「けいどろ?」
 生意気ガキ大将は首を傾げた。

「警察と泥棒、という遊びです」
 ヴィクトリアは、落ちていた石で地面に絵を描き始めた。

「まず警察と泥棒役に分かれて、警察役は泥棒役を捕まえます。捕まった泥棒は檻の中に入れられますが、泥棒は檻の中の仲間を助け出すこともできるという遊びなんです。……勝敗については、泥棒をすべて捕まえれば警察の勝ち、というのはどうでしょう?」
「全てですか?」

 ルーファスが尋ねる。

「はい。私もお昼からまた仕事がありますし、全員逃げきれば泥棒の勝利、一人以上残っていれば引き分けという事で」
「俺たちはそれでいーぜ! さっさと始めるぞ」
「それでは手の裏か表で決めましょう。少ない方を警察とします」

 結果として裏が少なく、裏を出したルーファスと二人の子ども、ヴィクトリアやその他大勢の子どもたちが表を出し泥棒になった。

「おい人間。簡単に捕まるなよ」
「頑張ります」

 リラ・ノアールには、城を取り囲むように森がある。

 けいどろにはその森を使うことになった。
 ヴィクトリアは、少年に向かって笑みを浮かべつつ、首をおさえた。

 時は少し前に遡る。
 カーライルにお願いして、死なない程度に罠を一時的に解除してもらったヴィクトリアだったが、その際に彼は彼女の首に触れると、静かな声で尋ねた。
「捕まる側になるなんて、そういうのが趣味なのですか?」
「裏か表でなっただけです」
 そしてヴィクトリアがあくまで強気に返したら、ふっと笑ってカーライルは言ったのだ。

「ああ。確かに脈拍に変動はないですし嘘はついていないようですね」
「な……っ」

 脈拍で嘘か真かを確かるなんて悪趣味がすぎる。
 首切り発言のあとだったので、何か怒らせたのかと思い一瞬怯んでしまった自分をヴィクトリアは後悔した。

「さっきから首抑えてるけど、どうかしたのか?」
「なんでもないです。ただ、ちょっと首が痛いな――……なんて」

 ヴィクトリアがあははと笑うと、少年はあからさまに眉をひそめた。

「試合の前に怪我とか何してるんだよ。相手はあの赤のルーファスだからな。油断大敵だぞ」
「……ルーファス様は子供ではないのですから、全力で立ち向かわれることはないと思いますけどね」

 カーライルに比べたら、ルーファスは温厚な方だとヴィクトリアは思う。
 子供との遊び程度で、彼が本気を出すはずがない。

「きっとぎりぎり避けられるくらいで追い回していると思いますよ」
「それはそれで悪趣味だろ」
 ヴィクトリアが笑って言えば、少年は顔を顰めた。

「しかし、赤のルーファスから逃げ切ったとあれば自慢出来るしな。俺は全力で逃げ切るぜ!」
「そうですか。頑張ってください」

 拳に力を込める少年の姿に、ヴィクトリアは微笑んだ。やはり子どもが楽しそうにしている姿は可愛くて和む。

「何言ってんた。勝つためには全員逃げなきゃいけないんだから、お前も全力で逃げるんだぞ」
「え……?」
「目指すは完全勝利! 逃げ切って逃げ切って逃げ切るんだ。でも、それでも駄目で、もし誰かが捕まったなら、そのときは助けに行くんだ」

 少年は目を輝かせる。
 その瞳は、やはりヴィクトリアがヴィンセントとして見てきた、セレネの子どもたちとは違っていた。

「仲間なら、助け合うものだからな」
「泥棒なのに熱血ですね」
 子供の言葉一つ一つが、ヴィクトリアは心地よく思えた。
 
(魔族の子供のなかに、そんな考え方をする子がいるなんて――)

「え?」
 それが嬉しくて――嬉しいのに、涙が溢れる。

「お、おい? どうしたんだよ。人間」

 ヴィクトリアが笑みを浮かべたまま涙を瞳に浮かべると、少年は彼女に手を伸ばした。
 しかし二人の間をさくように風が起こり、その瞬間ヴィクトリアはルーファスに抱きしめられていた。

 葉が宙に舞う。
 ヴィクトリアの服の長い裾は、大きく捲れ上がる。
 ヴィクトリアは、慌てて服を手で押さえた。

「――捕まえました」
 ルーファスは、そう言ってヴィクトリアを抱く腕に力を込めた。

「……る、ルーファス様!?」
「陛下。暴れないでください。――私は貴方を迎えに来ただけなのですから」

 ルーファスは耳元で甘く囁く。
 少年は、ヴィクトリアを抱きしめたルーファスを見上げ顔を赤くすると、こう叫んで逃走した。

「いいか? 完全勝利だ! 俺が迎えに来るまでちゃんと待っていろよ!」
「……ふふ……面白い。私相手に宣戦布告とは」

 少年の言葉に、ルーファスはなぜか笑っていた。

「る、ルーファス……?」
 ヴィクトリアは、何故か昔本で読んだ、魔王に攫われたお姫様を勇者が助けに行く話を思い出した。

(おかしいな。本当は、魔王は私だっていうのに)

「……ルーファス様は捕まえには行かれないのですか?」
「はい。私がここにいれば、陛下を私から攫おうとする不届き者からお守りできますので」

(守るっていうか、迎えに来る子どもたち(泥棒)のほうが私の仲間なんだけどね?!)

 ヴィクトリアは、きらきらした笑みを浮かべるルーファスが、この遊びをちゃんと理解しているのか少し不安になった。

「……貴方さえここにいらっしゃれば、少なくとも負けることはないわけですし」

 ヴィクトリアははははと乾いた笑みを漏らした。

(うん。ルーファスはちゃんとこの遊びを理解している)

 子ども相手に全力を出す大人は確かに見苦しい。
 しかし、完全勝利を目指す子どもの熱意を完全に叩き伏せる大人はどうだろう?
 もっと大人気ないと思うのは私だけなんだろうか――地面に描かれた囲いの中で蹲り、ヴィクトリアはふうと溜め息を吐いた。

「ルーファス様、お願いがあるのですがよろしいでしょうか」
「何なりとお申し付けください」
「この檻の範囲ですが、もう少し広くすることひできないでしょうか?」
「なぜですか?」
「……」

 勿論、彼らが助けに来るときのことを考えてのことだ。
 しかしそれを言うことは出来ないので、ヴィクトリアはルーファスが好みそうな答えを返した。

「少し狭くて。……もう少し広いほうが、くつろげる気がして」

 『ここ、ちょっと狭いからもっとひろげてくるない?』警察に対してこんなことを言う泥棒はいないだろうが、相手は自分を陛下と呼ぶルーファスだ。
 多少は考慮してくれるだろうと思っての言葉だった。

「大変失礼いたしました!」
 ルーファスはそう言うと、檻の範囲を広げたあとに、さっとどこからか椅子と机を取り出した。

「え?」
 今のどこから出したの? ヴィクトリアが呆然としていると、ルーファスは苦笑いして頬をかいた。

「陛下と過ごせるのがうれしくて、気がまわらず申し訳ございません。ずっと陛下がお立ちになっていたことに気がまわっておりませんでした。本やお菓子もご準備しておりますので、なんでも私にお申し付けください」

 メイド服を着ているのはヴィクトリアなのだが、ルーファスは完全に忠犬と化していた。 

「じゃあ本をいただけますか……?」
「はい!」
 命令を心待ちにしているかのような彼の姿に、ヴィクトリアは苦笑いしてそう『お願い』した。



 その様子を窺っていた子どもたちは、完全にこちらは眼中にないルーファスに対して怒りを募らせていた。

「ルーファス様と人間がべったりだったら面白くないじゃん!」
「ていうかなんでルーファス様が給仕してるんだよ!」
「人間はなんで本を読みながらのんきに紅茶なんか飲んでるんだ!?」
 魔族の序列三位を顎で使う人間の女なんてありえない。

「へーか、って呼んでたし、もしかしてあの女ってすごいやつなのか?」
「それはないだろ。ただの人間だぞ」
「ただの人間がルーファス様やカーライル様とあんなにしたしげに出来るもんなのか?」
「とうでもいいだろそんなこと!」

 これでは話がまとまらない。
 少年の言葉に、子どもたちは口を閉じた。

「これは勝敗のある遊びなんだ。俺たちがやることは、完全勝利のために、人間を助け出すことだ。こんなに馬鹿にされたんだ。引き分けなんてお前たちも嫌だろう? だったら今は、あの人間が何者かなんて論議している場合じゃない」

 少年の演説に、子供たちは目を輝かせる。指導者が誕生した瞬間だった。

「悪逆非道な警察、赤のルーファスから、人間を助けるぞ!」
 
 時間はもうあまり残されていない。
 もうすぐお昼の休憩が終わるし、この勝負は引き分けかと思いヴィクトリアは本を閉じた。

 迎えに来ると言ってくれていたが、結局それは叶わなかった。
 でも仕方のないことだ、ともヴィクトリアは思った。
 自分より強い相手に勝負を挑むのは難しい。子供が何人たばになろうが、ルーファスには敵わない。

(――あれ?)

 しかしその時、ヴィクトリアは『気配』を感じ取って後ろを振り向いた。彼女の隣にいたルーファスもほぼ同時に振り返る。
 
 そこにいたのは。
 翼をはやした子供が、真っ直ぐにヴィクトリアのもとに降りてきていた。
 魔道具による翼の特徴――翼は虹色の光を放つ金平糖のようなものを纏っていた。

「な、なんで気付くんだよっ!?!?」
「飛行補助用の魔力に気づかないわけがないだろう」
 背後からの奇襲がバレて慌てる子供に対して、ルーファスはさらっと言った。

 子供用の魔法道具は、大人が子供を補助するために感知魔法が付けられている。
 安全性を第一に作られているが、見栄を張りたがる子どもには教えない大人が多い。

 因みに信頼と安心の魔道具店エイプリルは、子供向けの練習用を表向きは取り扱う店だ(表向きでないものは口に出せない)。

 店主である魔女アフロディーテ(美魔女)は、過去ヴィンセントに結婚を迫ってきた女性のうちの一人だ。
 半分人間であるヴィンセントの体の作りを確かめて、人間と魔族の違いについて研究させて欲しいと宣った異常者のことは、ヴィクトリアのなかに悪夢として記憶に刻まれている。

 鋭利な刃物を手に、「痛くしないから……」と距離を詰められたときは、本気で解剖されるかと思ったものである。

 ひと目でヴィンセントが女と見抜いていた上で、実験目的に魔王の体を求めた魔族は彼女だけだった。
 ヴィクトリアは胸を抑えた。
 魔族の中では当時珍しく、人間を劣等種とは言っていなかったため多少交流を持っていたが、彼女からすれば『知的好奇心を抱けない全ての生き物は存在する価値がない』とのことだったので、人間魔族問わず生き物=実験対象だったのは気のせいなのだ。

 心理的付加のせいで心臓が痛い。
 製作者は危険極まりないが安全性だけならセレネいちだ。
 
 子どもはルーファスに捕まるだろう。そうして終わりの時間が訪れる。
 ヴィクトリアはそう思い視線をそらしたが、空中からありえない音がして目を見開いた。

「え?」
 ぱちんと、割れてような音。
 それは、魔法が壊れたときの音だった。

「わあああああああっ!!!」
「まずい」

 ヴィクトリアは地面を強く蹴った。
 逃げやすさを考慮して檻を広くしてもらったのが幸いした。

「――地面に降りるまでの上空も柵のうちということで」

 ヴィクトリアは、墜落した子供を抱えたまま木の上に降りると、何事もなかったようににこりとルーファスに笑いかけた。

「仲間に迎えに来てもらったので、私はこのまま逃げます」
 ルーファスは呆然と、立ち去るヴィクトリアを見つめていた。

 ゴーン。ゴーン。ゴーン。

 城に取り付けられた鐘の音が鳴り響き、泥棒たちは勝利のあまりわあっと声を上げた。

「人間のくせにやるじゃん」
「助けてもらっておいてなんていいぐさだ!」

 時間ギリギリで泥棒の勝利だ。
 泥棒だった子どもたちは、墜落してきた少年を英雄のように讃え、人間と呼ぶ相手に最後助けてもらったことはまるでなかったような扱いだった。

「だってルーファス様はへーかってしか呼ばないから名前知らないし」
 頭にげんこつを入れられた少年は口を尖らせた。

「ヴィクトリア。ヴィクトリアって言います」
「ふーん」
 子どもはそれだけ言うと、ぷいっと微笑む彼女から顔をそむけた。

「せっかく勝負に勝ったことだし、人間が呼んでほしいっていうなら、呼んでやらなくもないけど」
 少年は下手な口笛を吹く。

「……因みに俺の名前はコリンっていうんだぞ」
 ボソッとコリンは呟いた。

「へえ。そうなんですね」
 ヴィクトリアは頷いた。

「……………他になにかないのか?」
「他にとは?」
 ヴィクトリアは首を傾げた。何やら目の前の少年は不満げだが、理由が全く思いあたらない。

「名前を教えるっていうことは、呼んでもいいってことだろ!」
「ああ。なるほど。では……」
 ヴィクトリアはコホンと咳き込んでから彼の名前を呼んだ。

「コリン様?」

 魔族相手、しかもおそらくちゃんとした家の子どもたちだ。
 人間である自分は様付けすべきかと判断してヴィクトリアがそう呼べば、少年の顔か真っ赤に染まった。

「……べ、別にお前に名前を呼ばれたからって、嬉しくなんてないんだからな!!!」
「はい。理解しています」 
「なんでそうなるんだよっ!」
「????」 

 声を荒げるコリンを前に、ヴィクトリアは首をかしげた。

 年頃の男の子の考えは、昔も今もよくわからない。
 せめてヴィンセント時代関わりのあった子どもたちと似ていれば対応ができるのだろうが、ルーファスともレイモンドとも違う言動だから対応に困る。
 敵意は持たれていないように感じるけど、彼が顔を赤くする理由や、自分に無駄につっかかってくる理由は、ヴィクトリアにはわからなかった。

「…………ルーファス様?」

(私の後ろに立っているルーファスの纏う空気が明らかに冷たくなったのは気のせいかな?)

 子どものことで頭を悩ませつつ、ヴィクトリアが振り返って彼の名前を呼べば、満面の笑みのルーファスは手に武器を持っていた。

「陛下。礼儀のなっていない子どもに罰を与えるのも大人の仕事だとは思われませんか?」
「何言っているんですか?」

 ヴィクトリアは混乱した。
 ルーファスもコリンも、どう対応すべきかわからなくて収拾がつかない。

「とりあえず武器を下ろしてくださいませんか? 子どもたちが怯えてしまいます」

 とりあえず、安全第一で行動しよう。
 ヴィクトリアがルーファスの剣に触れたときだった。


 キイイイイイイイイイイ!!!!


 甲高い音がして、ヴィクトリアは耳を抑え背後を振り返った。
 結界を何者かが壊した音。
 これほどの音となれば、よほど大きなヒビが入ったはず。
 しかし不思議なことに、ルーファスやコリンたちが音に気付いた様子はなかった。

「ぐ……っ!」
 頭に響く音に、目眩がしてヴィクトリアはしゃがみこんだ。

「陛下!? どうされたのです?!」
「どうしたんだよ。ヴィクトリア!」

 ルーファスとコリンはヴィクトリアに素早く駆け寄った。
 その時すぐ横の草むらから、ガサリ、という音がした。
 そして侵入者は、ヴィクトリアたちの前に姿を表した。

「――え?」

 古龍。
 黒い煙を纏う金色の瞳の龍は、ヴィクトリアたちを睨みつけていた。
 セレネを生きている魔族たちの中でも希少種とされる龍種の中で、更に珍しいとされる種族。

 古《いにしえ》を知る龍として、古龍と呼ばれるその生き物を見るのは、ヴィクトリアが魔王ヴィンセント・グレイスとして生きていた頃からかぞえても、それが二度目のことだった。

「どうしてここに暴走した龍種がここに!?」

 子どもたちの言葉に、ヴィクトリアは唇を噛んだ。

 どうやら子どもたちは、敵が何者であるかを正確に認識できていないらしい。
 暴走――魔素をうまく体にためおくことができなかった場合に起こる症状。
 今のところ、この状態に陥った存在が回復した例はない。黒煙をまとい自我を失った存在は、セレネでは討伐対象とされる。

 しかも、今回暴走したのはただの龍種ではない。

 古龍は、魔界の中でも天災級の力を持つ生き物だ。
 魔族の中でも、人魚に次ぐ長命種。
 その鱗は、歳を重ねることに固く層をなす。
 基本的に争いを好まない温和な性質を持つ彼らは岩穴に巣を作り、硬い岩や鋼鉄などの石を主食とするため、顔を見せることほとんどはない。

 明らかに異常だった。
 自我を失い本能のままに行動しているなら、餌を求めるのが普通だろう。
 魔王城の結界内にある森の中には、龍種が最も好むとされる石は存在しない。
 なぜなら『ヴィンセント』時代、餌を求めて彼らが侵入しないように、すべて排除されたからだ。

(その古龍が、どうして……?)

「離れて!」

 ヴィクトリアは、逃げ遅れた子供を抱えて後方に飛び移った。
 龍の爪は、子供がいた場所を深々とえぐっていた。腕に抱えられた子どもは、悲鳴を上げ、ヴィクトリアの腕の中で暴れる。

「大丈夫。――大丈夫だから」

 ヴィクトリアは、落ち着かせるために子どもの体を抱きしめた。
 するとコリンがヴィクトリアから子どもを奪い、体格のいい少年に手渡した。

「何するの」
「そっちこそ何してるんだよ! 殺されるぞ!?」
「動けない子を助けるのは当然でしょう。みんな下がって。――ここは、私がどうにかするから」

 ヴィクトリアは、子どもたちの前にたった。
 しかしコリンは、ヴィクトリアの腕を引くと、一歩彼女の前に出た。

「駄目だ。お前は弱い人間じゃないか」

 しかしその彼を、ルーファスは背に庇った。

「陛下。ここは私に任せてお逃げください」
「な、なにするんだよっ! これからがいいとこで……」

「無駄に仲間を殺す先導者ほど愚かなものはない。弱いお前たちがいても邪魔なだけだ。龍種はこちらでなんとかする。お前たちは陛下を連れてこの場を離れろ」

 コリンを見つめるルーファスの瞳は、氷のように冷たかった。

「……エドヴァルド。ヴィクトリアを抱えて俺の後について来い」
 コリンは自分の背後に控えていた彼に命じると、子どもたちに向かって叫んだ。

「何も言わず、全員俺について来い!」
「ちょっ。ええ!?」
「撤退だっ!」

 ルーファスの姿がどんどん小さくなる。
 エドヴァルドに抱えられ、ヴィクトリアは呆然としていたが、はっと我に返って叫んだ。

「離してっ!! もともと私は狩りを仕事にしてたんだから。私だって戦え……」
「馬鹿っ!!!」

 服のせいで、うまく腕の中から逃げられない。エドヴァルドの腕の中で暴れるヴィクトリアに、コリンは言った。

「人間の世界ごときの動物と、魔物が同じ強さななわけ無いだろ! ただの人間が、どうにかなるとでも思ってるのか!?」
「……っ!」

 ただの人間。
 その言葉が、初めて嫌だとヴィクトリアは思った。

「あいつなら大丈夫だ。もし駄目だとしても、俺たちがどうにかできるわけがない。カーライル様たちを呼びに行くべきだ」

 確かにルーファスが弱点を知っていれば古龍は倒せるだろう。
 ――でも。

「あ」

(ルーファスは敵を見て、『古龍』だとは言わなかった)

「なんてこと」

 その時ヴィクトリアの頭のなかに、ある可能性が浮かんだ。
 ルーファスは弱くはない。
 でももし彼が正しく事態を認識していたのなら、ただの龍種と同じやり方では倒せない古龍を前に、龍種と呼ぶのは考えづらい。

 古龍が強いのには理由がある。
 それは彼らの瞳が、相手の動きを封じる力を持つからだ。
 その瞳に睨まれた者は、一定時間をすぎると、動くことがままならなくなる。

 故に古龍を倒すためには、瞳を潰すことが必要となる。
 瞳の強度はさほど高くはない。人間界の通常の武器であろうとも、貫くことは可能だろう。

 かつて、魔族によるデュアルソレイユ侵攻の際、古龍の一匹が門をくぐり抜けたことがあった。
 多数の死者を出したものの、その際に瞳を潰した人間は存在した。

 龍の体の強度は鉄より硬い。
 しかしその顎の下にある逆鱗は、桜貝のように薄い作りをしており、その場所からなら一気に龍の体を貫ける。いわば龍の心臓とも呼んでもいい場所だ。
 人間による古龍討伐の例は一例だけ存在し、その際は瞳を潰した上で逆鱗から喉を貫いている。

 ルーファスは、基本的にカーライルの命令を受けて行動している。
 子どもたちは古龍を見て『魔物』だと言った。
 古龍なんて滅多に出会わない敵の弱点を、ルーファスが知らない可能性は高い。
 目を潰す前に龍の逆鱗に触れてしまえば、事態はもっと悪化する。
 知識さえあればいい。
 ルーファスと自分が力を合わせれば、古龍は倒せる。

「あの子を一人で戦わせるわけには行かない」

 ヴィクトリアはそう呟くと、心の中で謝罪して、エドヴァルドの体を強く蹴って腕の中から抜け出した。

「ヴィクトリア!!」

 コリンが倒れたエドヴァルドのそばに座り込み、彼に怪我を負わせたヴィクトリアを見て責めるように名を呼んだ。

「ごめんなさい。――でも、行かなきゃいないの」

 苦笑いして背を向ける。
 ヴィクトリアは服に短剣をつきたてると、走りやすいように裾を破いた。

「待て! 駄目だ。行っちゃ駄目だ。ヴィクトリア!!!」

 ヴィクトリアは、静止を聞かずに駆け出した。



 圧倒的な存在感。

 暴走した龍の討伐は、ルーファスは一度行ったことがあったが、今回の敵はどこか違うような気がした。
 何が違うかはわからない。
 そしてその自分の直感が、もしかしたら自分に敗北をもたらす可能性もルーファスは考えていたが、かと言ってここで引くわけにはいかないことも理解していた。

「あの方を、もう目の前で失いたくはない」

 ヴィクトリアのためになら命さえ擲てる。カーライルだって、そのつもりで自分を陛下のそばにおいていたはずだと、ルーファスは自分に言い聞かせた。

 ルーファスは、図書室でのことを思い出した。
 ルーファスがいくら魂を見分けているとはいっても、記憶があることに気付くことは、ヴィクトリアの言葉がなければ難しかった。

 金色狼の特徴についての知識。
 『ヴィクトリア』も、『ヴィンセント』も、昔からどこか抜けている。
 だからこそ、大好きな本を前にすれば、ヴィクトリアかへまをするとふんで、カーライルは自分をヴィクトリアのそばに置いたのだろうと今は思った。

 カーライルは、城を基本離れない。
 だからこそ自分の意思で、常にヴィクトリアを守る盾となる存在が欲しかったに違いない。
 盾は強ければ強いほど利用価値がある。
 そしてその強度は、思いによって変わる。記憶の無い想い人と、記憶があることを隠している想い人なら、後者の方をより守ろうとすると踏んだのだろうとルーファスは思った。

 古龍が一歩足を踏み出せば大地には罅が入り、その爪が触れた木は、まるで蝋のようにドロリと溶け、咆哮は地を揺らす。

 ルーファスは、圧倒的な力を持つ生き物を前に、己が高ぶるのを感じた。
 命がけの戦いになるかもしれない。強者を前に、血が滾るような感覚があった。
 ルーファスはにっと笑うと、自分の手のひらに口づけた。
 すると彼の姿は、美しい狼に変わった。

 金色狼の本来の姿は獣の姿。
 獣の姿を取るときにこそ、ルーファスは全力が出せるのだ。
 ルーファスは古龍に飛びかかると、鱗を引き剥がすように爪を立てた。
 以前彼が龍種を倒した際は、鱗を剥がし、そこから傷をおわせ、血を固めて一気に勝負をつけた。
 今回もその方法でかたをつけようと思っていた彼だったが、鱗のあまりの硬さに驚いて、ルーファスは一度古龍から距離をとった。

「爪が通らない……!?」

 薄々嫌な予感はしていたが、これでは自分の能力を活かした攻撃が出来ない。

「同じやり方では倒せないのか……? 弱点がわかればせめて……」

 ルーファスは敵を観察し、首の下に光る逆さの鱗を見つけて目を細めた。

「あそこが弱点か……?」

 ルーファスは、古龍の喉に攻撃を行おうとしたが、その時龍をめがけて石が飛んできた。ルーファスは空中で石を避けると、地面に降りて『敵』を睨みつけた。

「何をするっ!?」
「下がって! ルーファス!」
「え? 陛下?」

 『敵』からと思っていた攻撃の妨害の相手に、ルーファスは目を丸くした。

「なぜ戻ってこられたのですかっ!」

 叫ぶルーファスに対し、ヴィクトリアは冷静だった。

「古龍相手に長期戦は禁物です。それに、逆鱗に触れれば余計に刺激させるだけ。古龍を倒すには、まず瞳、その後に逆鱗を攻撃せねばならない。貴方は一度姿を隠してください。古龍の力が、もうすぐ発動してしまう!」
「古龍……?」

 ルーファスは、聞き覚えのない名前に目を瞬かせた。

「……古龍の力とは一体何のことですか?」

「やはり知らなかったのですね。一定時間あの瞳に見つめられ続けると、石のように体がかたまり、身動きか取れなくなります。貴方は、もうすぐ症状が出てもおかしくない。一度身を隠してください」

 ヴィクトリアは服の下に隠していた短剣と、カーライルの糸を取り出した。

「今の私では、とどめを刺すことはできない。けれど瞳を潰すくらいならできるはず。私が時間を稼ぎます」

 ヴィクトリアはルーファスを自分の方に引き寄せて森の茂みに隠すと、武器を取り出して地面を強く蹴った。

「陛下っ!」

 古龍の体は、肉を切るカーライルの糸では貫けない。
 それでも、目を潰すくらいはできるはずだ。
 ヴィクトリアは糸で輪を作り、瞳を匙で掬うように動かした。

 ――しかし。

「え……?」

 糸は瞳に触れる直前、何故かじゅうという音とともに溶けた。
 まるでヴィクトリアの持つ、カーライルの糸による攻撃を見越していたかのように。
 瞳には、糸を無効化できる熱の魔法がかけられていた。

「……どうして」

 カーライルの糸を普通の火で燃やすことは出来ない。
 しかしこの世界には一つだけ、カーライルの意思以外で、糸を切る方法が存在する。

 カーライルの糸の弱点は、魔法による温度の変化だ。
 蜘蛛の一族と雪女の一族の魔法をかけ合わせた固有魔法。
 糸に編み込まれた液体に特定の温度の熱を加え、状態を変化させれば糸は無力化できる。
 カーライルが操る糸は、複数の細糸を束ねたものだ。
 カーライルは一つの細糸に対して異なる温度を定めており、糸は特定の温度意外に触れるともとの形に戻るため、彼が操る糸を一度に無力化させることは難しい。
 それができるのは、かつてヴィンセントが創り出した魔法のみだ。

 ヴィンセントの魔法は創造魔法。
 ヴィンセントは魔法の仕組みを理解し、その力をそっくりそのまま使うことが出来た。そしてその力を破ることのできる魔法もまた、同時に作り出していた。

 ヴィンセントは、自分以外が使える魔法を作ることも可能だった。
 だが、仲間を売るほど非情でも愚かではない。カーライルの魔法を妨害する魔法――確かにそれはヴィンセントによってこの世界に生み出されたが、記録はされなかったはずなのに。

「く……っ!」

 龍は、ヴィクトリアの存在に気づき腕を上げた。
 その爪が届く前に、ヴィクトリアは手頃な木の上に着地すると、千切れた糸を回収した。

 敵を倒す術《すべ》は頭に山程浮かぶというのに、そのどれもが、『今の自分』には難しかった。
 ヴィンセントが強かったのは、膨大な知識と魔法、そして身体を強化によるものだ。

 今のヴィクトリアは強いとは言っても、『ヴィンセント』には及ばない。
 レイモンドにさえ敗北した、今の自分では成功する確率は低いかもしれない――そう思う心が、また自分の足枷になるのを、ヴィクトリアは感じていた。

「陛下! ご無事ですか!?」
 
 攻撃に失敗したヴィクトリアを心配して、ルーファスが叫ぶ。
 守りたいからここに来たのに、心配されることしかできないなんて、情けないにもほどがある。

 ルーファスに古龍の倒し方を教えた上でカーライルに助けを求めていたなら、状況は変わっていたはずだ――そう考えて、ヴィクトリアは「違う」と心の中でつぶやいた。

 カーライルの魔法を妨害できる古龍相手なら、レイモンドが駆けつけてくれるのが一番望ましい。
 しかし、レイモンドがカーライルより先に危機を察知して、自分を助けに来てくれるとは、ヴィクトリアに思えなかった。

 ヴィクトリアは古龍を睨みつけた。
 武器が壊れることは想定していなかった。自分を守ろうとしてくれた子どもに怪我を負わせてまで駆けつけたのに、今この状況では、足手まといは自分自身だ。
 そして古龍の爪は、戦う術のないヴィクトリアに振り下ろされる。

「陛下!!!」
 
 ルーファスは、ヴィクトリアを乗せて逃げようとした。
 しかし古龍の力によって、ルーファスの体は氷のように固まってしまう。
 その瞬間、龍の鋭い爪が、ルーファスを襲った。

「ぐっ……っ!」

 バキバキという木の砕ける音と共に、ルーファスの体は地面に叩きつけられる。

「ルーファス! ルーファス!!」
 
 狼の、金色の美しい毛皮から、赤い血が溢れ出る。

 それは、本来のルーファスなら有り得ない光景だった。 
 ルーファスが、これまで一人で多くの魔族を討伐できた理由は、彼の能力に起因する。ルーファスは、いくら的に傷をつけられても、その傷跡を即座に塞いでしまうのだ。

「ぅ……ぁあ……っ」

 しかし、今はどうだろう? 意識のある彼の血が止まらないのは、どう考えてもおかしかった。
 ヴィクトリアは、ルーファスの体を貫いた、龍の爪を観察した。
 
 爪先は、不自然に青い色をしていた。
 金色狼の牙には、血液を凝固させる力があるとされる。
 そしてその反対の力を持つのが吸血鬼だ。吸血鬼の体液から作られる青色の毒は、血液の凝固を防ぐ。血の流れを促すそれは、金色狼の力を妨害できる唯一のもの。

(もし、この仮説が正しいなら)

 ヴィクトリアは唇を強く噛んだ。
 ルーファスはこのまま放っておけば、出血多量で死んでしまう。
 解毒剤は城にある筈だ。
 けれど今のヴィクトリアに、狼を背負って龍から逃げることは難しい。それに、今ルーファスの体を無理に動かせば、それこそ死期をはやめるだけだ。
 
 グオオオオオオオオオ!!!
 
 古龍が空に向かって吠える。
 ヴィクトリアは、ルーファスの傷を手でおさえた。しかし魔法が使えない今の彼女に、血を止めることは出来ない。

(このままでは、このままでは――……)

 最悪の事態だけが、ヴィクトリアの頭に浮かぶ。自分をかばって血まみれになったルーファスの姿は、消し去りたい記憶を呼び覚まさせる。

「ディー……ッ」

(嫌。嫌だ。どうしてなの? どうして私は無力なの。どうしていつも、私は誰も守れないの? 大切にしたい人は目の前にいるのに、どうしてそんな人ばかり、失わなきゃならないの?)

 自分自身の問いに、心の中でうずくまる、幼い自分が首を振る。

(――違う)

 『ヴィンセント』なら。
 『ヴィンセント・グレイス』なら、この状況を覆せる。
 どんな未来も、この世界をも、屈服させる力があるならば。
 その力があれば一言で、白は黒に塗り変わる。

 ヴィクトリアはルーファスのそばに蹲り、自分に振り下ろされる鋭い爪を見つめていた。
 今の彼女には、世界はまるで止まっているかのように見えた。
 ヴィクトリアは静かに目を瞑った。
 どこからか、雨音が聞こえるような気がした。

 おめでとう。
 おめでとう。
 この世界は君のものだ。
 君が世界を統べる王。
 君は世界に選ばれた。
 おめでとう。
 おめでとう。
 君の願いは何でも叶う。
 君が願えば、あらゆるものは書き換えられる。
 おめでとう。
 おめでとう。
 君は何者にもなりえない。
 君は誰とも交われない。
 ――残虐非道な魔王の血を継ぐ、君の未来に祝福を。

 けらけらと、けらけらと。嗤い声が頭に響く。
 それはかつて自分が、捨てたはずのもの。
 ヴィクトリアは胸に手を当て、ぎっと敵を睨みつけた。

「『ルーファスは殺させない』」
 
 その瞬間、ヴィクトリアは自分の中で、何かが壊れる音を聞いた。

 殺せ。
 殺せ。
 これは、大切なものを傷つけた。
 これは、大切なものを傷付ける。
 それは、罰を受けるに値する。
 それは、この世界から消えるに値する。
 
「――その命をもって、我に牙を向いた罪を赦さん」

 ヴィクトリアは、ルーファスの目を手で隠し、目を瞑って手を上げた。 
 頭の中に望むものを思い浮べ、そして大きく息を吸い込む。

「星をうつすはその瞳。煌めきは爆撃となりて、視界を封ず」

 一瞬。
 昼の空に星が煌めいたと思うと、流星となって古龍の体に直撃した。
 そして、とびきり巨大な星の礫が、古龍の瞳の前で閃光を放って弾けた。

 グオオオオオオオオ!!!

 古龍の咆哮は風を起こし、ヴィクトリアの髪は風にたなびく。
 これでもう、古龍は目を使えない。ヴィクトリアは目を開けると、少しも怯むことなく次の魔法を繰り出した。

「糸を通すはその鱗。薄氷は鋼鉄より柔い」

 すると、龍の逆鱗がぴききっという音ともに罅を作った。
 ヴィクトリアはその隙を逃さず、頭の中で、逆鱗が壊れる姿を想像し魔法を創った。

「薄紅《うすべに》、桜花《さくらばな》。花散るように、逆鱗《げきりん》は砕け散れ」

 薄桃色の鱗は、はらはらと、まるで桜のように砕けて宙に舞う。古龍は逆鱗の下の、柔い肉を晒していた。

「糸は捻じれ紡がれる。糸よ。矢となり、強弓を以て敵をつらぬけ」

 ヴィクトリアの言葉により、カーライルの糸が空中に浮かぶ魔法陣から出現する。
 糸はくるくると絡まり合い太さを増して、大きな弓と矢となった。
 宙に浮かんだ弓は、大きくしなり、勢いよく晒された肉を貫く。

 ギィイイイイイイイイイイイイイ!!!
 
 古龍は声を上げ、その尾で地面を抉ると、木々をなぎ倒しながら倒れ込んだ。

「は……っ。はっ。は……っ」
 
 ヴィクトリアは、浅く息を吐いて手を下ろした。
 危険が去ったことに対し、安堵で体から力が抜ける。

(もう大丈夫。大丈夫だ。古龍によって、誰かが死ぬことはない。私は。私は大切なものを守れたのだ)

 ――……本当に?

 けれど頭の中で、誰かが自分にそう尋ねた。
 ヴィクトリアは頭をおさえ――そして、自分を濡らす血溜まりに気がついた。

(何故私は、こんなに大切なことを頭から消してしまっていたの?!)

「ルーファス!!」
「へい、か……」

 血だらけのルーファスは、とぎれとぎれにヴィクトリアを呼んだ。
 声に覇気はなく、瞳は見えていないのか、ヴィクトリアを捉えていない。
 ヴィクトリアに伸ばされた手は宙を彷徨う。その手を、ヴィクトリアは震える両手で強く包み込んだ。

「陛下は……ご無事、なのですね……?」
「……っ!」

 血だらけで、死にかけているのに、それでもなお自分を思う彼の言葉に、ヴィクトリアは嘘をつくことはできなかった。

 ヴィンセントの――かつての自分のように、ヴィクトリアは、ヴィンセント・グレイスとして彼に返事をした。

「ああ。――ああ。……私は、ここにいる」
「……よかった」

 その声を聞いて、ルーファスは微笑むと瞳を閉じた。

「……ルーファス? ……ルーファス、ルーファス!!!」

 ヴィクトリアは彼の名を叫んだ。けれどもう、彼が瞳を開けることはなかった。

「嫌」
 ヴィクトリアの瞳から、涙が一滴こぼれ落ちる。

「嫌。嫌なの」

 その涙は、ヴィクトリアの手の甲におちる。
 赤く濡れた手のひらは、涙を含んで薄く広がる。
 ヴィクトリアは短剣を取り出すと、自分の手のひらに傷をつけた。
 その手を、赤い血溜まりの中にひたす。

「傷を。傷を癒せ。糧として、彼にこの身を捧げん」

 すると、ルーファスの体の下に巨大な赤い魔法陣が浮かび上がった。
 それはヴィクトリアとルーファスの体を包みこみ、青ざめていたルーファスの顔には生気が戻っていく。
 ヴィクトリアは、それを見て安堵した。

(よかった。魔法は成功だ)

「……ああ……っ」

 しかしその時、立っているのもままならないほどのだるさと目眩が彼女を襲って、ヴィクトリアはルーファスの体の上に倒れ込んだ。

 深く冷たい水の底に、落ちていくような感じがした。
 魔法陣は光り続けている。ルーファスの回復は済んだというのに、魔法が消えてくれない。
 体から、力が抜けていく。

「あ……う……」

 呼吸が上手くできない。
 遠い日の、あの日と同じ。
 『ヴィンセント』が死んだあの日のように――命が、体から失われていく感覚があった。

(誰か、助けて)

 しかし声は、言葉にならない。

「……ぇい、もん……」
 
 それは――魔力欠乏症の症状だった。
「……う……く……ぅああ……っ!」

 息が、うまく出来ない。

 ルーファスの傷は癒えている。
 魔法を止めようと思っているのに、頭の中から血が流れていく光景が、焼き付いて離れない。
 そのせいで、力の制御ができない。
 自分の中から、命が流れていくような感覚が止まらない。

 想像を、創造する魔法。
 ヴィンセントの創造魔法の弱点は、正確に思い浮かべられなければ使えないことだ。

 昔から、治癒魔法だけは苦手だった。
 その理由も、ヴィクトリアは理解していた。
 けれどルーファスを見殺しにできずに――不完全な魔法を行使した。

「……ぅ……ぅあ……」

 このままでは死んでしまう。

 ヴィクトリアは、せめてルーファスから離れようと体を動かした。
 自分がここで死ねば、一番傷付くのは彼だろうから。
 せめて誰もいない場所にまで、体を動かそうと、ヴィクトリアは体を引きずるように動かした。

(ここで気を失ったら、駄目)

 心ではそう思うのに、体が全く動かない。朦朧とした意識の中で、ぐにゃりと視界が崩れ乱れる。
 その時。
 
「――おい。大丈夫か!!」

 誰かが、息を乱して近づいてくるのがヴィクトリアにもわかった。
 ヴィクトリアは、おぼろげな意識の中彼の前を呼んだ。

(――この声は……?)

「れ、い……?」

(レイモンド、なの……?)

 ヴィクトリアは、何故彼がこんなに早く駆けつけてくれたのかわからなかった。
 もし駆けつけてくれたとしても、カーライルの後に来ると思っていたのに。

「くそっ! なんでこんな……。ルーファス。お前がついていながら……っ!」
 
 レイモンドの声はいつになく真剣だった。
 しかしヴィクトリアには、レイモンドが慌てる理由がわからなかった。
 レイモンドはヴィンセント(じぶん)を嫌っている。昔はそうで、今はただの人間とか思っていない筈なのに。

(その貴方がどうして、私のために、こんな悲痛な声を上げるの?)

「アンタは……その魔法だけは使うなと、あれほど言っただろう……!」
 
 レイモンドはそう言うと、ヴィクトリアとルーファスを繋ぐ魔法の糸を断ち切った。
 赤い糸は、空気に溶けて霧散する。
 血を抜き取られるような感覚が漸く消えて、ヴィクトリアはぴくりと指を動かした。
 
 レイモンドは真っ直ぐに、ヴィクトリアを見つめていた。
 ヴィクトリアは、おぼろげな意識の中思った。
 
(この子は、さっきから一体何を言っているんだろう? それじゃあまるで最初から、私をヴィンセントだとわかっていたみたいじゃない)

「ぇいも……」
「いい。アンタは、今は喋るな……っ!」

 レイモンドは、ヴィクトリアの手を強く握った。
 赤と銀。
 2つの色が混じった光が、彼の手から溢れてヴィクトリアを包み込む。

「……っ!」

 静かな夜のような魔力が、自分の中に流れ込んできて、ヴィクトリアは息を飲んだ。
 魔力は持ち主の人を表すとされているがーー彼の魔力は、ヴィクトリアが想像していたものよりずっと優しく温かかった。

(レイモンド。これが貴方の、本当の貴方だというの?)

 空の器に、魔力が満ちる。
 それでも、人間の体を壊さないように注がれる魔力では足りなかった。満たすべき器はあまりに大きく、流れたものはあまりに多かった。
 このままでは、ヴィクトリアは死んてしまう。
 レイモンドは唇を噛んだ。

「すまない。今はこれしか、方法がない」

 レイモンドはそう言うと、とある小瓶を取り出し口に含んだ。
 その薬は、ヴィクトリアも知るものだった。

 人魚の秘薬。
 その薬は、人を人ならざるものへと変える。 

(どうして、それを……?)

 ヴィクトリアはそう口にしようとしたが、尋ねることは出来なかった。

「我慢してくれ。…………アンタが死ねば、ルーファスが悲しむ」

 レイモンドはそう言うと、ヴィクトリアに口付けた。

 甘くてどこか塩辛い、薬が喉を通って体の中に入ってくる。呼吸さえままならなかった体に、命が吹きこれる。
 血が、滾るように熱かった。
 魂に眠る記憶が、閉じていた箱の中から呼び起こされる。

 かつてヴィンセント・グレイスは『人間になりたい』と願った。
 願いは叶えられ、ヴィクトリアは今は人間として生まれ変わったはずだった。
 人魚の秘薬を飲めば、その器は人ならざるものへと変わる。
 たとえ人の器であろうとも。 

 ヴィクトリアは体に力を込めた。彼を自分を引き離そうと。
 けれど、それは出来なかった。
 レイモンドの表情を見てしまったら、拒絶することは出来なかった。

(どうして? レイモンド。私を嫌っていた貴方が、どうしてそんな泣きそうな顔をしているの……?)
 体は鉛のように重かった。
 寝台から降りようとしたヴィクトリアは、足に力が入らずそのまま崩れ落ちた。

「とうしたんだい!?」
「…………」

 音を聞きつけたミゼルカは、部屋の中に駆け込んで、床に倒れ込むヴィクトリアを見て溜め息を吐いた。

「ったく、何しているんだい? 今日は絶対安静だって言われているだろう? そのためにカーライル様が私をおつけになったんだから」

 ヴィクトリアの体を抱き上げて、寝台に戻し褥をかぶせる。
 ミゼルカは眉間にシワを作ると、ヴィクトリアの額に手を当てた。

「まだ熱が高いね。アンタは人間だから、てっきり魔素中毒かと思ったんだが、こう熱が出るとなると、あの龍の毒にでもやられたんだろう」
「……」

 ミゼルカの言葉に、ヴィクトリアは何も言わなかった。

「ルーファス様もアンタも、本当に無事で良かった。子供たちが血相変えて戻ってきたときは驚いたが、あの魔法にも驚いたよ。レイモンド様が戦われている姿はほとんど見たことがなかったが、カーライル様が認められていた実力は本物だったってことだろうねえ」

 ミゼルカは、事故のことをほとんど何も知らされていないようだった。 
 古龍討伐については、城で働く者には、前魔王ヴィンセント・グレイスの養子であり、カーライルが力を認めるレイモンドがやったと公表されており、誰もがヴィクトリアは巻き込まれた人間として接していた。 

 古龍を倒してから城に運ばれてからずっと、ヴィクトリアは高熱が続いていた。
 ミゼルカは氷の魔石で水を冷やすと、濡らした布をヴィクトリアの額にのせた。

「アンタも災難だったね。こんなことに巻き込まれちまって」
「…………」

 ミゼルカは苦笑いした。

「でもね、ここは本当は、セレネでは安全な場所なんだ。カーライル様やレイモンド様、ルーファス様がいらっしゃるから、これまで危険とは皆無だった。この城で働きだして……人間の寿命からからすればそれなりに長くなるんだけど、ルーファス様が苦戦するようなことは、そもそも初めてだったんだよ」

 それはそうだろう、とヴィクトリアは思った。
 あの三人は、『ヴィンセント』を支えた者たちなのだ。そう簡単に負けるはずがない。

 しかし、今回は負けかけた。
 ルーファスや、カーライルの欠点を、的確につくような魔法や毒によって。
 レイモンドとルーファスは基本単独行動を好む。カーライルは基本城から動かない。

(レイモンドの力は、魔族相手には、殆ど無敵と言っていい)

 レイモンドであれば一人であっても古龍を倒せただろうが、レイモンドは城の者たちの話を聞くに、城に居るほうが稀らしい。
 城のものたちの話を聞いていると、レイモンドはカーライルに頼み事をされる以外は、放浪している方が多いとのことだった。
 ヴィクトリアが城に来てからは、城にいることも増えたとのことだったが――もしそんなときに、今回と同じようなことが起きたら?
 この城が落ちることもあるかもしれない。そうなれば、カーライル達だけではなく、ミゼルカ達だって無事では済まないだろう。

「…………」

 ヴィクトリアは、レイモンドのことを思い出して目を細めた。
 彼が居なかったら自分は死んでいたことだろう。
 しかし、今回のことを考えてるみると――彼の行動の理由が、なおさらヴィクトリアにはわからなかった。

『軽いな。――軽すぎる。アイツの剣はもっと重く、強かった』

『戦えない魔王を据えてなんになる? あまりにも弱い。そんな人間がヴィンセントの魂を継いでいるなんて、それこそ『陛下』に対する侮辱じゃないのか? なんの役にも立ちはしない。その『人間』は、さっさと村に返してくるんだな』

『くそっ! なんでこんな……。お前がついていながら……っ!』

『我慢してくれ。…………アンタが死ねば、ルーファスが悲しむ』

 好かれているはずはない。
 彼は前世で、自分を嫌っていたと理解している。それなのに泣きそうな彼の顔が、頭から離れない。

「何怖い顔してんだい?」
「!」

 ミゼルカは、考え事をして顔をしかめていたヴィクトリアの眉間に、指をとんと置いた。

 ぐりぐりぐりぐり。
 軽く触って皺を伸ばす。
 そうして、はっと我に返ったヴィクトリアを見て、ミゼルカは笑って軽く掛け布団を叩いた。

「ゆっくり休みな。体がきついときは周りを心配させないようしっかり休んで元気になるのも、子どもの仕事さね」

 水の入った桶を抱えて、ミゼルカは部屋を出ていった。



「レイモンド。まずはヴィンセントを助けてくれてありがとう、と言っておこうか」

 魔王の執務室で、魔王をの座を継ぐことなく執務をこなすカーライルは、部屋に入ってきたレイモンドを一瞥することもなくそう言い放った。

「……俺が薬を持っていたことに対しては何も言わないのか」

 書類に署名を行いながら、カーライルはいつものように、リラ・ノアールによって承認されたことを証明するための魔法印を押した。

「それは、薬を入れ替えていたことを謝罪しているのか?」
「……」

 カーライルの言葉に、レイモンドは口を噤んだ。
 最初から気づいていた――それは、そんな口ぶりだった。

「別に構わない。それにお前が持っていてくれて助かった。確かに夜に少しずつ飲ませるのもいいけれど……。大事なのは結果だからね」

 すり替えを気付かれている可能性はレイモンドも考えていた。
 けれどあくまで、彼が自分に手を出さなかったのは、ヴィクトリアは自分の手中に収まると考えてのことだったというカーライルの口ぶりに、レイモンドは唇を噛み締め、感情を押し殺したような声で言った。

「……アイツは」
「うん?」
「生きたいように、生きていいんだ」
「だが、あの子から最終的に選択を奪ったのはお前だ」

 カーライルの声は冷たかった。
 それでいて、レイモンドを嘲笑うような声だった。

「薬を飲ませてから打消せばいいとでも考えていたようだけれど――どうやらお前の力は、薬には効かないようだな。仕方ない。あれは薬であって、毒ではない」

 カーライルはそう言うと、ガラスペンを置いてレイモンドに微笑んだ。
 
「意外な弱点か? レイモンド。――無効化の能力をもってしても、防げないものがあったなんて」

 レイモンドは、カーライルの言葉に目を細めた。
 体を壊して、薬を飲んだことはある。しかしそれを無効化しようだなんて思ったことはなく、レイモンド自身、自分の力が薬に通じないことを認識したのは初めてのことだった。

「お前を害することができるのは物理的な力だけだと思っていたが、どうやらそれだけでもないのかもしれないな」

「……俺に毒でも盛るつもりか? カーライル」

「まさか。ヴィンセントを守る最強の盾を、殺すなんてもったいない。あの子は昔から用心深くて、いつも自分の敵になるかもしれない存在の攻略法を考えていたから、つい思考が重なってしまったようだ」

 カーライルはそう言うと、机の中から箱を取り出して、中から小さなものを取り出した。

「それはなんだ?」
「ヴィンセントが倒した古龍から見つかったものだ」

 それは、虹色に輝く美しい種子だった。 
 しかしその種は、カーライルの肌に触れているところから、糸のように細い根をのばしはじめた。
 カーライルはそれを見て目を細めると、自分に侵食しようとしていた根を切り落とし、それから糸で根を包み込んで箱に戻した。

 自分の体以外で、攻撃を防ぐことができない生き物ならば防げない謎の種。
 これは――……。

「……」

 涼し気な表情のカーライルを前に、レイモンドは険しい顔をした。
 つまり今回のことは、単なる偶然ではないということだ。
 野生生物を種で使役し、ルーファスの弱点となる吸血鬼の毒を使う何者かかいると考えるべきだろう。

「……カーライル。これは……」
「ああ、そうだ。今回の事、もしかしたら黒幕がいるかもしれない」



 暫く眠っていたヴィクトリアは、目を覚ますと自分の喉に手を当てた。

 人魚族にはこんな言い伝えがある。
 昔、人間に恋をした人魚は、人間の体を望み、魔女からとある薬を手に入れた。
 人魚は薬によって人間の体を手に入れるが、声は出なくなってしまう。
 人魚の秘薬をレイモンドに無理やり飲まされたとき、焼け付くように喉に痛みを感じたが、それもある種の副作用かもしれないとヴィクトリアは思った。

(薬を飲ませるために、レイモンドは私に――……)

 唇の感触を思い出して、ヴィクトリアは頬を染めた。

「……どうして、あの子は」

 ヴィクトリアとして、誰かと唇を重ねるのは初めてだと彼女は思った。
 前世で一度だけ他人と口付けをしたことはあるが、あれは不本意なことこの上ななく、数に入れる気にもならない。
 ヴィクトリアは、最悪の出来事を思い出して顔を顰めた。
 どうやら自分は、薬という名の毒を無理やり飲ませられるのには、つくづく縁があるらしい。

「……どうしよう」

 あの魔法を使っておいて、ヴィンセントの記憶がないという言い訳はもうできない。
 ヴィクトリアは頭をおさえた。
 今の体が女とはいえ、前世では養父だった存在に口づけるとは、レイモンドも変わっている。
 ルーファスといいカーライルといい、前世では男として自分を扱っているようだったのに、なんで自分を女扱いして優しくしてくれるのかわからない。

 そして――……。
 ヴィクトリアは一番の疑問を思いだして、表情を固くした。窓枠の向こうの、あたたかな陽を眺める。

(わからない。人間であるはずの自分が、急に魔法が使えるようになった理由も)

 ただの人間に、魔法が使えるはずがない。
 化け物並みに力が強いとはエイルやアルフェリアに言われたことはあるが、それは戯言でしかない。

 一時的に魔法が使えるようになった? だとしたら、その発端はなんだろうか。
 そうして、どうしてレイモンドは、あの薬を持っていたのか?
 そのすべてが、今の彼女にはわからなかった。
 
「う……っ!」

 ヴィクトリアが寝台から降りようとした床に足をつけた瞬間、ピキキと音がして床に罅が入った。そのまま再び床に倒れ込む。
 ヴィクトリアは頭を押さえた。頭が割れるように痛かった。

 こぽ、ごぽ、こぽぽ……。

 自らの体の内側で、何かが脈動するような、湯が滾るような音が響いている。
 ヴィクトリアは再び熱を持つ体に苛立ちをつのらせた。
 制御出来ない力が溢れる。この感覚はまるで――……。

(――まるで?)

 人魚族の秘薬の根本的な力は、『力の活性化』だ。
 不老不死と言われる所以は、体内の活性化による効能であると言われている。
 その力故に人魚族は多く殺され、魔王ヴィンセントは彼らを守ることを約束し、対価として彼らから秘薬を預かった。

「……どう、して」

 零に一〇〇〇をかけたとしても、もとが零なら何をかけても零のままだ。
 人間である自分の中に、力が芽生える理由がわからない。
 滾るように熱い体を壁に持たれかけさせて、ヴィクトリアは浅く息を吐いた。

 かつての自分の言葉を思い出す。

『人間になりたい』
 魔王『ヴィンセント・グレイス』が、勇者に殺される瞬間に願った言葉を。
 ヴィクトリアは唇を噛んで、自分の予測を確かめるために、窓枠の向こう側に見える木の葉を睨んだ。

「……『風よ、切りさけ。葉よ落ちろ』」

 まだ芽吹いたばかりに見える若々しい葉は、彼女の言葉に命じられるがままに、不自然に地面へと落ちた。
 それを見て、彼女は震える手で口を押さえた。

 『人間になりたい』と願って人間になった。
 『会いたい』と口にしてルーファスに見つかった。

 (だとしたら。もしかして、私の魔法《ちから》は最初から――……)

 ヴィクトリアは体を震わせた。

(信じたくない。失望したくない。誰も信じることができなかった、昔に戻るのはもう嫌なのに)

 震える声で彼女は呟く。


「……魔法は、まだ続いている…………?」
「体調は、もう大丈夫ですか?」

 ヴィクトリアがルーファスのもとを訪れたのは、それから数日経ってのことだった。
 寝台の上で本を読んでいたルーファスは、ヴィクトリアの姿を見て本を閉じると、柔らかく微笑んだ。

「大丈夫です。傷は塞がっておりますし、陛下のご心配には及びません」

 ヴィクトリアは、傷口を押さえて笑うルーファスの手に、自らの手を重ねた。

「……貴方が無事で、本当に良かった」
「……」

 ヴィクトリアは血溜まりを思い出して、きゅっと目を瞑った。
 あれは――普通の人間なら、死んでもおかしくない血の量だった。
 天敵でもある吸血鬼の毒もあったのだ。金色狼という種族でなければ、ルーファスは間違いなく死んでいたことだろう。
 ルーファスは、そんなヴィクトリアを見て苦笑いした。

「そんな顔なさらないでください。私はあの時、貴方を守る使命があった。デュアルソレイユの人間を城に招き、セレネで大怪我を負わせるなんて、魔族としても困りますから」

 人間の住む太陽の世界デュアルソレイユ。
 魔族の住む月の世界セレネ。
 異界に招き客人に怪我をおわせたとなれば、それは過去の問題を掘り起こしかねない。

 魔族はかつて人間を殺し、デュアルソレイユを我が物にしたと、今でも人間は覚えている。
 そして魔王ヴィンセント・グレイスが、魔族にそうさせたのだということも。

「…………」

 ヴィクトリアは拳を握りしめた。
 いつもなら自分を『陛下』と呼ぶ彼が、なぜ呼ばないのかなんて、考えられるのは一つだけだ。

「……ルーファス」
「……」
「ごめんなさい。ルーファス」

 『ルーファス様』
 これまでヴィクトリアはずっと、彼のことをそう呼んできた。
 そうすることで、自分は彼が求める、ヴィンセントではないと否定してきた。
 けれど今の彼を前に――ヴィクトリアは、もう嘘をつくことが出来なかった。

「――…………陛下」

 長い沈黙の後、ルーファスはヴィクトリアのことをそう呼んだ。
 今、彼にそう呼ばれると、ヴィクトリアは泣き出してしまいそうだった。

「そんな悲しそうな顔、なさらないでください」

 ルーファスの手が、そっとヴィクトリアの頬に触れる。
 温かくて大きな手に、ヴィクトリアは思わず体をピクリとふるわせた。

「……」
「貴方は謝らなくていい。陛下が謝られる必要なんて、どこにもありません」

 向けられた言葉はあまりに優しくて、ヴィクトリアは自分の頬に触れるルーファスの手に触れて、ポロポロと涙をこぼした。

「でも、私が最初から明かしていたら、貴方は怪我なんてしなかった。私が……私が嘘をついたから、貴方は対処法もわからず戦わなきゃいけなかった……っ」

 最初から自分がヴィンセントであると明かしていれば、きっとルーファスは傷つかずに済んだのに。

「あの子達が、私を庇おうとしたのも――全部、私が……私が、ちゃんと本当のことを話していたら……っ!」

(私さえ自分を守らずにいたら、みんながこんな目あうことなんてなかった)

「……陛下ッ!」

 張り裂けそうなほど胸が痛かった。
 涙をこぼして自分を責めるヴィクトリアの体を、ルーファスは優しく抱きしめた。

「る、るーふぁ……」
「お願いですから、そのようにご自分を責められるのはおやめください」

 ルーファスがどんな顔をしてその言葉を口にしたのか、ヴィクトリアにはわからなかった。
 けれどその声からは、強い意志を彼女は感じた。
 それは、彼女が知る子どもの頃の彼とは違う――地に足のついた強さに裏打ちされたものように彼女には思えた。

 自分が知らない間に、彼はこんなにも成長しているというのに――自分だけが子どもに戻って、昔に戻りたくないと願い、弱いままでいたいと心の中で叫んでいる。

(ルーファスに陛下と呼ばれるならば――私は、『ヴィンセント』は、強くなくてはいけないのに、ヴィクトリアとして生きていた時間が、私の中から消えてくれない)

「笑ってください。陛下」
「……え?」

 『陛下』に戻るのが、ヴィクトリアは本当は怖かった。
 けれど自分を思ってくれるルーファスに、自分は『ヴィンセント』ではないと、もう嘘はつきたくはなかった。

「陛下が笑われる姿を見ていると、私は元気になれるんです」
「――……こう?」
 ヴィクトリアは、精一杯笑みを作った。

「ありがとうございます。陛下」
 その笑顔を見て、ルーファスは花が咲いたように笑った。

「私のために陛下が微笑んでくださるなんて、私にとって、これ以上の褒美などございません」
「ルーファス」
 ヴィクトリアは、涙をこらえてルーファスの手を両手でぎゅっと包み込んだ。

「ありがとう。ルーファス」
「はい。――陛下」
 ルーファスの声は、どこまでも甘く優しく、今のヴィクトリアには聞こえた。



「それでは、別れを告げるために一度デュアルソレイユに戻りたいと?」

 ルーファスの部屋を後にしたヴィクトリアは、カーライルのもとを訪れていた。
 本を手に彼女の話を聞いた彼は、本を閉じると口の端を少し上げた。

「わかりました。貴方がそう望まれるなら、許可しましょう。実に喜ばしい限りです。貴方がこの城に、留まる決意をしてくださるなんて」
「――カーライル」

 ルーファスとは違い、明らかに自分を怒らせようとしている前世の幼馴染を、ヴィクトリアは呼び捨てにして睨んだ。
 カーライルは、そんなヴィクトリアを見て嬉しそうに笑った。

「その表情、懐かしいですね。『ヴィンセント』――これからはまた、貴方のことをそう呼んでも?」
「……好きなようにすればいい」

 吐き捨てるかのようにヴィクトリアは言った。

 ひとつ、またひとつ。
 カーライルと言葉を交わすたびに、ヴィクトリアは自分の中に重いものが覆い被さるような感覚を覚えていた。
 退路を断たれて、鎖で繋がれて。
 指の先まで動かせない、そんな毒で侵される。それは、妙な感覚だ。

「貴方の早いお帰りをお待ちしています。ヴィンセント。――護衛は、レイモンドをつけましょうか? 何かと物騒ですし、貴方もまだ本調子ではないようですから」
「護衛なんていらない」

 この城に来て、張り巡らされた蜘蛛の糸を断ち切って、利用してきたつもりだった。けれどやはり、そううまくは行かないらしい。

「カーライル」
「はい」
「この私に、護衛が必要とでも?」
「――わかりました。ヴィンセント」

 カーライルは、『ヴィンセント』が自分の部屋を去るのを見送ってから、窓の向こう側を眺めた。
 見れば空を、雲が覆いつつあった。
 黒と白を混ぜたような濁った雲は、陽の光を遮っている。

「……今夜は、雨が振りそうだ」
 カーライルはそう呟くと、彼女の話を聞くために、止めていた仕事を再開した。



 夜の暗い帳のなかで、その音だけがまるで生きてでもいるかのように、雨音は響いていた。

 ひとっこひとり居ない夜の道。
 雨音に紛れ、その声は楽しげに弾む。
 幼子のような高い声。
 それはどこか、歪なものを感じさせる。

「『それでは、種をまきましょう。
 とびきり綺麗に血に濡れた。
 真っ赤な花が咲くように』」

 ざあざあと雨が降る。
 声はけらけらという笑い声にかわり――そうしてまた、雨音の中に消えた。



 
「ヴィクトリア?」

 ヴィクトリアを迎えたエイルは、目を瞬かせて彼女に駆け寄った。
 珍しく表情の暗い年下の幼馴染に、彼は視線を合わせてから尋ねた。

「まだ期限はきていないのに、帰ってくるなんてどうしたの? それに、たった一人だなんて。今日は誰も一緒じゃないの? なんだか浮かない顔をしているし……もしかして、何かあったの?」
「…………」

 ヴィクトリアは、エイルの問いに答えることが出来なかった。

「おかえりなさい! ヴィクトリア!」
 エイルのあとにヴィクトリアを見つけたアルフェリアは、ヴィクトリアの背後からその体をぎゅっと抱きしめた。

「……!」
 突然抱きつかれた衝撃に、ヴィクトリアは目を瞬かせた。
 満面の笑みのアルフェリアに対し、表情の硬い幼馴染を見て、エイルは眉根を寄せた。

「……アルフェリア。今は僕がヴィクトリアと話してたんだけど」

「そんなこと、どうでもいいでしょ。どうせ大したことは話してなかったんでしょう? それよりとりあえず、一緒にご飯でも食べない? 何があったかはわからないけれど、きっと美味しいものを食べたら元気になれるわ」

 グイグイと手を引っ張られ、ヴィクトリアはアルフェリアに引きずられるように足を進めた。

「エイル、今日は特製シチューを作っているんでしょう? これはもう、食べに行かなきゃ。ヴィクトリアもそう思うでしょ? エイルの作るシチューは美味しいもの」
「……エイルのシチュー?」

 それは、ヴィクトリアの好物だ。
 ヴィクトリアがこくんと頷くと、アルフェリアは嬉しそうに笑った。

「……全く二人とも……。僕の料理を美味しいって言う前に、やるべきことがあるだろ」

 立ち止まる。ため息をつくエイルを前に、ヴィクトリアとアルフェリアは顔を見合わせた。

「何言ってるの。家事をしないでいい家に嫁げばいいだけでしょ? ヴィクトリアは家事よりも力仕事が得意だから、代わりにそれをやればいいだけのことだわ。今どき古い価値観ばかり押し付ける男は嫌われるわよ」
「…………別に押し付けてるわけじゃないんだけどさ……。二人とも昔から本当に不器用だよね……」

 エイルは遠い目をした。
 アルフェリアは、にっこり笑みを浮かべると、ヴィクトリアの手を引いていた手を離して、エイルの襟を掴んで詰めた。

「何? 私たちに文句でもあるのかしら? エイル?」

 ぎりぎりぎり。
 じわじわと襟を締め上げる幼馴染に、エイルは白旗を上げつつ抵抗した。

「……人の服の襟を掴まない。性別関係なく、これはやっていいことじゃないだろ」
「ま、それもそうね」

 アルフェリアはそう言うと、エイルからパッと手を離した。

「それじゃあエイル、お詫びに早めに戻ってシチューを温め直してくれる? アツアツのか食べたいわ」

 にっこり。
 相変わらず傍若無人な幼馴染に、エイルは溜息を付きながらも従った。

 アルフェリアが前を歩いて、ヴィクトリアは彼女に手を引かれて歩く。
 ヴィクトリアはそうするうちに、昔のことを思い出した。

『はじめまして。私はアルフェリア。これから仲良くしてね!』
『こんにちは。ヴィクトリア。僕はエイルだよ』

 森で過ごす老夫婦に拾われて、初めて二人に出会った日。
 二人は当然のように、ヴィクトリアに手を差し出した。
 そして二人は、ずっと『兄弟』を知らなかった彼女の、兄と姉のような存在になった。
 拾われたときから、ヴィクトリアにはヴィンセントの記憶があった。だから彼らに教わることなど何一つないと思っていたのに、ヴィクトリアは二人から沢山のことを教えてもらった。
 自分が苦手なこと、それを出来る誰かがいること。
 魔法なんてなくても、生きていけること。

 朝を迎える喜びを、夜に明日が楽しみで眠れないときがあることを、ヴィクトリアに教えてくれたのは、幼馴染の二人だった。
 それは――魔王という立場の上で繋がったカーライルとでは、決してありえないこと。
 
「さ、入りましょ。ヴィクトリア」

 我が物顔でエイルの家の扉を開けたアルフェリアは、当然のようにヴィクトリアに手を差し出した。
 家の中に入れば、美味しそうな香りがだよってくる。
 先に家戻っていたエイルは、二人の分のシチューを器に盛り付けた。

 木の匙と器。
 昔から慣れ親しんだそれが、今のヴィクトリアには何故か遠いものに感じられた。温かみのある木目を、銀器と空目する。
 ヴィクトリアは目をつむって、ぱくりとシチューを口に運んだ。その瞬間、彼女の目から涙が零れ落ちた。

「どうしたの? ヴィクトリア」
「何か変なものでも入ってた? だったら、吐き出していいから」

 心配してくれる二人の優しさが嬉しくて痛くて、ヴィクトリアは首を振った。

「違うの。美味しいの……」

 そして、すぐにシチューを吐き出すようにいうエイルに、ヴィクトリアは昔の彼とのやり取りを思い出した。
 エイルは昔、料理が下手でシチューどころか、家業であるパンさえまともに作れない有様だった。彼は生来そこまで器用な方でもなく、パン作りを始めた頃は失敗ばかりだった。

 何度やっても失敗ばかり。出来損ないの山を見て肩を落とすエイルを見て、ヴィクトリアとアルフェリアはある作戦を立てた。
 それは――エイルのパンを食べる、というものだった。
 失敗作を初めて食べたとき、エイルはヴィクトリアやアルフェリアに吐き出すように言った。
 けれど二人は、お腹がはちきれそうになるまで、エイルの下手なパンを食べた。
 失敗しても、大丈夫。私達が食べるから、なんて言って――そうやって三人で、ずっと笑い合って、協力しあって過ごしてきた。

「美味しくて……。美味しくて、涙が出るの……」

 魔王としてセレネで過ごせば、きっとこれまでよりいい生活ができるだろう。
 カーライルやルーファスは、ヴィクトリアが望めば、どんなものでも用意するに違いない。
 でもそれは、ヴィクトリアには、本当に自分が望むものではないような気がした。

 完璧でなくていい。ただ食卓を囲んで、心を許せる大切な人と、笑い合えるこの場所が好きだった。
 けれども幸せな時間は、夢のように崩れ去る。

「ヴィクトリア。もしかして今日、急に帰ってきたのには理由があるの?」
「誰かに何か言われた? セレネで何かされたの? 誰かに傷つけられたの? もしそうなら、私が……」
「違う。違うの。他の誰かが悪いんじゃないの」

 ルーファスに怪我を負わせてしまった。
 今だって、本当は笑顔で囲むはずだった食卓を暗くしている。
 
(誰か傷つけているのは、いつも私だ)

「……私、もうここには来れない」

 今のヴィクトリアはもう、『帰れない』とは言えなかった。
 自分の本当にいるべき場所は人間の世界ではないと、彼女は知っていたから。

「魔王城に住むってこと? もしかして……三人のうちの誰かと結婚する、とか?」

 ヴィクトリアは首を振った。
 あの三人のうち、誰とも結婚なんてありえない。
 一人は最低な幼馴染で、一人は育てた子どもで、一人は子どもの幼馴染《ゆうじん》だ。
 確かに、成長した彼らに驚かされたのは事実だけれど。

「じゃあなんで?」
「それは私が、本当は……」

 ――私が、彼らがずっと探していた、魔王ヴィンセント・グレイスだから。

 そう答えようとして、ヴィクトリアは言葉を飲み込んだ。
 真実を告げたとき、二人が変わってしまうことが怖かった。

 五〇〇年前のことだ。
 それでもその所業は、今でもデュアルソレイユでは語り継がれている。ヴィンセント・グレイスは、悪逆の限りを尽くした最低最悪の魔王であると。
 たとえ『魔王』が人間を殺した魔族を殺すように命じたとしても、それは乱心によるものか、レイモンドやルーファスたちの誠意ある行動、もしくはカーライルによる采配としかみなされない。
 人間にやこの世界にとって、魔王《ヴィンセント》は今も、絶対的な悪なのだ。
 
 自分の前世が、魂が、もしそのヴィンセントだと告げたとして。

(二人は真実を知っても、私を嫌わずにいてくれるのだろうか……?)

 ヴィクトリアは胸をおさえた。
 二人のことを信じられない、そんな自分がまた嫌になる。

「ヴィクトリア……?」
「きゃああああっ!」

 エイルが、ヴィクトリアに手を伸ばしたとき。
 外から女性の悲鳴が聞こえ、三人は動きを止めた。

「いったいどうしたの!?」

 外に出ると、巨大な影が三人を横切った。腰を抜かした男は、震える手で空を指差していた。
 三人は同時に、視線を上空へと向けた。

「何!? なんなんだあれは……!!!」

 エイルが叫ぶ。
 ヴィクトリアは、信じられないものを目にして言葉を失った。

「――……え?」

 男の指の先には、黒黒とした痩躯で空中を飛ぶ生き物の姿があった。

 それは古龍だった。しかも一体ではなく、今度は二体のつがいのようだった。
 龍はヴィクトリアをその瞳にとらえると、彼女の前に体を降ろした。

 砂埃が舞う。龍はヴィクトリアに近づくと、何故かその頭を下げた。の頭には、ちょこんと何か植物が芽吹いているようだった。

「お初にお目にかかります」

 その声に、ヴィクトリアは耳を疑った。
 古龍が話せるなんて記録、彼女は聞いたことがない。
 しかし、それで驚くのもつかの間。
 龍が次に告げた言葉に、ヴィクトリアは驚きを隠せなかった。

「魔王陛下。そのお命、頂戴に参りました」
「………!?」

 まさか彼ら以外に、自分のことを『魔王』と認識し、攻撃してくる存在が居るなんて。
 
(まさかセレネでのことも――ルーファスが怪我を負った原因も、最初から私のせいで……?)

「どうしてこんなところに魔物が……っ!?」

 しかし目の前にいる生き物が、ただの魔物出ないことを認識できていたのは、ヴィクトリア一人だった。
 呆然とする村人の声に我に返ったヴィクトリアは、幼馴染の前に立った。

「……二人とも下がって。私が戦う!」

 魔物を、しかも古龍を、ただの人間が倒せるはずがない。
 ヴィクトリアは身に着けていた短剣を取り出した。
 リラ・ノアールの宝物庫から持ってきた短剣は、ヴィンセント・グレイスがかつて使っていたもので、魔力を付与させることで相手を切り裂く力が何十倍にも跳ね上がらせることのできる代物だ。 
 しかもこの剣は、魂の契約者にしか従わないという特性を持っている。剣に主と認められなければ、力は発現しない。

「魂の契約に従い、我に力を与えよ。ノアール・ダガー!」

 呪文を唱えれば、魔王の剣は光を纏う。
 ヴィクトリアは剣を握りしめた。
 こんなにも早く、再び魔法を使うことになるなんて思わなかった。しかも二人の目の前で。
 
「駄目! そんなの、いくら貴方でも危ないわ。一緒に逃げるのよ。ヴィクトリア!!」

 ヴィクトリアの力を知らないアルフェリアは、彼女の前に出て手を引いた。
 その瞬間。

「…………危ない! アルフェリア!」

 エイルの悲痛な叫びも虚しく、アルフェリアの体は古龍の手で払われ宙に舞う。
 勢いよく木にぶつかった彼女は、小さな悲鳴を上げると、意識を失いガクンと崩れ落ちた。

「……ッ!」

 エイルは、すぐさまアルフェリアに駆け寄った。だがアルフェリアに庇われたヴィクトリアは、その場から動くことができなかった。

(私の大切な人が、守りたい人がまた、目の前で傷付けられた)

 その事実を前に、ヴィクトリアは自分の中に、ふつふつとなにかが湧き上がるのを感じた。

 頭痛がする。頭の中に、かつての忌々しい記憶が蘇る。
 先代魔王――血の繋がった父親と、初めてあった日。その日も、彼女を止める愛しい人の声は響いた。

『駄目だ。ヴィンセント! 力を使うな!! その人は……!』

 ディー・クロウは、魔王《ちち》を殺すなと言った。けれど声と同時、声の主は血を吐いて地面に倒れ込んだ。

『ディー!! 嫌だ。ディー! ディー!!!』

 慈悲も憐憫も存在しない。
 力による蹂躙だけが、そこにはあった。ヴィンセントとディー・クロウが住んでいた穏やかな時間が流れる美しい村は、一瞬にして血に染まった。
 ヴィンセント・グレイスを育てたディー・クロウは、彼女の目の前で実の父親である魔王に体を貫かれて殺された。

「……ディー……」
 ヴィクトリアは、もう届かない愛しい人の名前を呟いた。
 
「よかった……ちゃんと息をしてる」
 アルフェリアの体に触れる。
 エイルは幼馴染の少女の呼吸を確認したあとに、もう一人の幼馴染の少女の瞳を見て、驚きのあまり大きく目を見開いた。

「……ヴィクトリア?」
 彼女の瞳は血よりも鮮やかな紅に、その色を変えていた。


 五〇〇年前、魔界セレネには一人の王がいた。

 黒髪に、血のように赤い瞳。
 夜の闇に、赤く染め上げた月が浮かぶようなその男は、誰よりも強い魔力を持っていた。
 破滅の王。漆黒の使者。紅の月。
 様々な名で呼ばれるその存在は、魔族が王を戴いてから、最も残忍な王であったと、人間の世界デュアルソレイユの記録には残っている。
 『征服王』と呼ばれた魔王の名はヴィンセント・グレイス。

 『征服王』は、不思議な力を持っていた。
 王が願い言葉にしたことは、あらゆることが叶うという不思議な力。
 しかしその王は、元は虫も殺せないような、心優しい子どもだった。

 ヴィンセント・グレイスが変わったのは――『魔王』になったのは、目の前で、誰より愛していた人間が目の前で殺された日。

『どうして。……どうして、ディーを……ッ!』

 一度も会いに来なかった、本当の親。
 先代の魔王によって血を流す愛しい人の体を抱いて、ヴィンセントは叫んだ。
 傷口を塞ごうとしても、彼女の言葉は効かなかった。その理由を、ヴィンセントは理解していた。
 昔森で見つけた小鳥に命を与えようとしたとき、魔法が効かなかった時と同じだ。
 ヴィンセントの魔法は、死んだ者には通じなかった。

『なぜ怒る?』

 男は――先代魔王であった彼女の実父《ちち》は、涙をこぼす彼女を見下ろして、理解出来ないとでも言うような声で言った。

『人間など、魔法も使えない下等種族。だというのに、デュアルソレイユという広大な地を、我が物顔で占領しているのは、おかしなことだと思わないか? 魔族こそ、デュアルソレイユとセレネ、二つの世界を統治すべき種族なのだ』

『どうして。同じように……同じように、生きているのに!』

 ヴィンセントは叫んだ。
 胸が痛くて、心臓は張り裂けそうなほど痛かった。
 こんな男が、自分の父親だというのか。こんな穢れた血が、自分には流れているというのか。
 そう思うと、死んでしまいたいほど胸が苦しかった。

『生きている? ……ああ。まあ、確かにそうだな。しかし生きているとは言っても、人間など、我らにとって虫にも等しい存在ではないか。虫が一匹死んだくらいで、お前は何故そう心を乱す?』
『……ッ!!』
『――なあ、我が子よ』

 愛する人の血に濡れた手で、男はヴィンセントの頬を撫でた。
 その瞬間、ヴィンセントは自分の世界が、凍ってしまったような感覚を覚えた。
 愛しい人から教えてもらった、与えられた感情が、感覚が、一瞬にして遠のいていく。
 そして壊れた世界の向こう側で、便せんとは思ってしまった。

 弱いせいで奪われるなら、弱いことが罪ならば。
 ――力を以て、蹂躙せよ。
 自分を傷つけるものがあるならば、自分を害するものがあるならば、同じことをすればいい。
 奪われる前に、自分が奪ってしまえばいい。

 かつて、ディー・クロウの死をきっかけに、ヴィンセントの心は壊れた。
 そして今度は、意識を失ったアルフェリアを見て、ヴィクトリアの中で何かが壊れた。



「『ヴィンセント・グレイス――いや、ヴィクトリア・アシュレイの名をもって命ず』」

 赤い瞳を輝かせ、ヴィクトリアは魔法を発動させる。

「『たとえ翼を持とうとも、汝《なんじ》、空を飛ぶこと能《あた》わず。翼は連なろうとも心は連ならぬ。比翼《ひよく》は連なり枷《かせ》となる』」

 ヴィクトリアが願い言葉を紡げば、2匹の翼が繋がり、制御が取れなくなった龍はバタバタと翼を動かし始める。

「わっ。うわっ。ああっ!!」

 すると、男の高い声が響いた。
 ヴィクトリアは気に留めず、パチンと指を鳴らした。

「――『堕ちろ』」
「わああああああっ!? おっ落ちる! 何が起きて……!?」

 悲鳴と共に、空を旋回していたはずの龍は、轟音とともに地面に墜落した。
 ヴィクトリアはそんな龍を、意思を宿さぬ瞳で見つめ、剣を握る手に力を込めた。

 魔族の父。人間の母。
 ヴィンセントの母は魔王の子を産み、その力に耐えきれずに亡くなった。
 そんな自分を育ててくれた、育ての親を殺した実の父を、かつてヴィンセントは殺した。
 親殺しは禁忌。
 残虐非道な魔王と言われても、否定できないことをした。
 この手は血で染まっている。
 洗っても洗っても、赤がこびりついて離れない。

『――いい目だ。俺の跡継ぎに相応しい。魔王の目だ』

 自分が初めて殺した父親《いきもの》の言葉は、永遠に魂を蝕み続ける。

『さあ、殺せ。力あるものがこの世界を統べるべきなのだ。お前は、その力を持っている』

 呪いのように、響き続ける。

 それでも、願わずにはいられなかった。
 それがたとえ、叶わない夢であったとしても。

 ――人間になりたい。
 誰かと心を通わせて。笑いあえる、普通の生活がほしい。
 『好きだ』って『愛してる』って、そう言ってほしいと言ったとき。
 返ってくる言葉が、偽りでないと思えるように。
 この人生ではきっと、それは叶わないから。

 今度生まれ変わったら、どうか。
 この願いを叶えて。
 この呪いのような声を消して。
 そうして誰かを愛することを、その喜びを。
 生きる喜びをください。

 お願い神様。
 貴方がこの世界にいるなんて、本当はどこかで信じてないけれど。
 それでも、どうか。
 どうかこの願いを。
 ――叶えて。

 赤い瞳が熱を帯びる。
 力を使えと魂が叫ぶ。

『ヴィンセント。お前が、次代の王となるのだ。王《われ》を殺す強きものにこそ――お前こそ、魔族の王に相応しい――……』
『黙れ。喋るな』

 男は死の直前まで、戯言を呟いていた。

『二度と言葉を……口にするな……っ!』

 ヴィンセントが震える声で叫べば、男は口を閉じた。

『私の父は、ディー・クロウ、ただ一人だけだ……っ!』

 そうして、初めて父《まぞく》を殺した日。
 『魔王ヴィンセント・グレイス』は、この世界に生まれた。

 何処からが雨音が響いているような気がした。自分を嘲笑うかのような子供の声が、雨音に混じって聞こえた。
 魂は何処かへと飛んでいって、身体だけがこの世界に取り残されてしまったように、身を打ち付ける冷たい雨は、ただただ音としてそこにあり、胸の痛みも何もかも、うまく感じることが出来なかった。

 虚無感だけが心を満たす。
 長く雨に打たれ、一晩夜を明かし、目を焼くような朝日の眩しさを目にして、そして、唐突に理解した。
 どんなに痛みを抱えても、必ず朝は来る。
 痛みを、苦しみを乗り越えることなんて出来なくても、時間は変わらず過ぎてゆく。
 変わる事の出来ない自分を、この世界に取り残したまま。

 足元に横たわる二つの骸を見て、ヴィンセントは声にならない声を上げた。

 ――神様。
 この慟哭が、貴方に届いているなら。
 どうして貴方は、この人の命を返してくれないの? 
 神様なんて嫌い。大嫌い。
 こんな呪いを私に与えたくせに、私が本当に欲しいものを、与えてくれない神様なんて。

『ディー』

 身を丸め、愛しい人の名を繰り返す。
 愛している。
 私に心を与えてくれた貴方を。愛というものを教えてくれた貴方を。
 誰よりも何よりも、貴方のことを愛している

 ……だから、ヴィンセントは決めた。
 自分は、魔族に人間を殺させない魔王になることを。

『新しい魔王陛下に、祝福があらんことを』

 そんな彼女の意図など知らず、先代魔王を殺した子どもに、全ての魔族が頭を垂れた。
 馬鹿馬鹿しい、と思った。
 信用ならない、と思った。
 祝福の言葉を述べるのは、ただヴィンセントの力に畏怖しているだけにすぎないことは明白だった。

 人間を下等種族と決めつける魔族が許せなかった。
 だからそんな自分の心を、理解してくれそうな相手を、カーライルを、そばに置いたつもりだった。

 ――けれど。

 幼いヴィンセントが、魔王に就任したばかりの頃。
 魔族同士での諍いはなく、誰もが幼過ぎる魔王の、圧倒的とも言える力に服従するしかなかった。

 カーライルの他にも、魔王の幼馴染として息子をさしだそうとしたものはいたが、誰もがヴィンセントの作った罠にはまり、怪我を負っては引き下がった。

 子どもたちは所詮、ヴィンセントを殺すための布石でしかなかった。
 その中で、唯一ヴィンセントに危害を加えず、罠にかからなかったカーライルがヴィンセントの唯一の側近となり、二人は殆ど行動を共にするようになった。

 ある日カーライルは父親から呼び出され、数日間不在にした。
 籠いっぱいのお菓子を抱えて戻った彼は、いつものように優しい笑みを浮かべて、ヴィンセントに菓子を差し出した。

『お菓子?』
『はい。甘い甘いお菓子が手に入ったんです』

 カーライルはそう言うと、お菓子を包みから取り出してヴィンセントの口に押し込んだ。 
 ヴィンセントは、彼から与えられたお菓子を、疑うことなく咀嚼した。カーライルは、そんなヴィンセントを見て口元を緩めた。

『ルーデウスとの用事はもういいの?』
『はい。全部終わりました』
 いつものように、カーライルはにこにこと笑いながら問いに答えた。

 ヴィンセントは、もう彼が自分から離れていかないのかと安堵して、新しい菓子に手を伸ばした。
 幸せな気持ちだった。――彼の、言葉の続きを聞くまでは。

『あの男は、もうこの世にはいません』
『え……?』

『私なら、貴方も油断している。父に貴方を殺せと言われたものですから、父を殺すことにしたんです』

 カーライルはそう言うと、ヴィンセントに与える際、指についた菓子の砂糖をぺろりと舐めた。
 父親を殺したというのに、まるで何事もなかったように。

『カーライル……どうして……っ』
 震える声で彼の名を呼べば、カーライルはヴィンセントを抱きしめた。
 
『――動かないでください。私は貴方を傷つけたくはありません』
 その瞬間、背後から悲鳴が聞こえた。

『この方は、お前たちが触れていい方じゃない』

 むせ返るような花の香りに混じって、鉄錆のような匂いがした。
 ヴィンセントは彼の力をその時初めて知った。張り巡らされた蜘蛛の糸は、一歩でも動けば身を切り裂くことが出来る。

 魔族の世界は実力主義だ。魔王には、最も強い魔族がなる。
 魔王城といえど平和ではない。魔王の座を狙い、多くのものがヴィンセントの命を狙う。
 カーライルの糸からは血が滴り落ちる。
 血に濡れた手でヴィンセントの頬に触れ、まるで何事もなかったように、嬉しそうに彼は微笑んだ。

『ああでも、よかった。これで貴方の敵は一人居なくなった。ヴィンセント。この世界は貴方にとってまた少し、綺麗になったと思いませんか?』

 ぴちゃん、と水音が聞こえたような気がした。
 血に濡れたその手は、ぞっとするほど冷たく感じた。

 カーライルは、ヴィンセントには優しくても、他の誰にも優しくなかった。
 そしてカーライルは、人間が死んでも、全く心を動かすことはなかった。

 魔族にとって、人間はいい玩具に過ぎなかった。
 人の命など虫以下だ。
 それでも、彼らが傷つけた相手は、簡単に殺した相手は、大切な誰かだったに違いない。
 ヴィンセントは魔族による人間の被害報告を見るたびに、いつもそう思った。
 同じように傷付く。同じように悲しむ。人間と魔族の血を引く自分にはそれがわかるのに、どうして魔族はそれを理解し得ないのか。

 ヴィンセントは、『魔族』が理解出来なかった。

 そんなある日、ヴィンセントはデュアルソレイユで一人の子供と出会った。

『人間と魔族の血を引く混血児のくせに!!』

 人間の大人たちに迫害され、子どもらに虐められていたその子どもは、まるで獣のような身なりをしていた。

『おいで』

 そんな子どもに、ヴィンセントは手を差し出した。

『人間も魔族もだいっきらいだ! 俺は誰も信じない。俺を拾ってくれたじいちゃん以外、誰も……!』

 ヴィンセントは知っていた。子どもが独りであること。彼を拾い育てた老人は、彼を庇って怪我を負わされ、その傷が原因で命を落としていた。

『来るんだ』

 一人きりになった身寄りのない子ども。
 自分と同じ混血の子ども。黒と赤。自分にどこか似た色を持つ子供。
 それでいて――自分の能力《ちから》の通じない、最愛の人と同じ力を持った子ども。

『君を今日から、私の息子として育てることにした。今日から君は、レイモンド・ディー・クロウだ』

 そんな子どもに、ヴィンセントは育ての親と同じ名前を与え、育てた。

 混血の子どもは実に優秀だった。
 彼の遊び相手となった金色狼の子どもは、優秀かつ何故かヴィンセントに懐いた。

『ルーファスとレイモンドは、優秀な子たちだ』

 子どもだったはずの二人は、いつの間にかカーライルの指揮のもと、ヴィンセントの手足となっていた。

『大丈夫。ヴィンセント。貴方が直接手を下す必要はない。彼らになら、任せても怪我を負うことすらない』
『任せた。ルーファス』
『はい。全ては陛下のお望みのままに』

 金色の髪は血に濡れて、その名のとおりに赤く染まる。優しい笑顔はそのままに、彼は任務を遂行した。
 ヴィンセントの願う、人間と魔族の共存のために。

『レイモンドの話では、貴方に命じられて人を殺したと、そう言ってデュアルソレイユの民を殺しているものがいるそうです』

 しかしヴィンセントの思惑に反して、何故かヴィンセントが魔族に人間を殺させているという噂が、デュアルソレイユには蔓延しつつあった。
 そしてセレネでも、人間を殺せばヴィンセントが喜ぶという話が広まっていた。

 ヴィンセントには理解が出来なかった。
 嘘を流布させ、魔王に責任を押し付け、一体誰に利益があるというのか。
 しかし、これだけはわかった。

 ――殺せ。

『どうしますか?』

 ――殺さなければ。

『ヴィンセント』
 かつての自分と同じように、人間の誰かが傷つく前に。

『人にあだなす魔族は、全て殺せ』
 それだけが、やるべきことだと。


 それは、粛清と言う名の殺戮だった。
 魔族も人間も嫌いだといっていた子どもは、ある日ヴィンセントにこう尋ねた。

『また、魔族を殺すのか』
『……』
『本当に、それでいいのか?』
『いいも何も、こうすることしかできない。レイモンド。命令だ。私の言うことを聞きなさい』

 軽くあしらおうとすれば、ヴィンセントはレイモンドに壁に追い込まれた。
 レイモンドに強く握られた手が、ヴィンセントは少しだけ痛かった。

『俺が勝てたら』
『……何?』
『……俺が勝てたら、アンタは戦いをやめるのか』

 レイモンドの問いの意味が、ヴィンセントには理解出来なかった。
 ただ彼が勝負を望んでいるようだったので、ヴィンセントは受けることにした。
 レイモンドの能力は無効化だ。
 ヴィンセントがどんなに知識を駆使して魔法を放っても、レイモンドはその魔法を知らずとも無効化できる。
 レイモンドを倒すには、彼を戦闘で上回るしかない。
 レイモンドの剣は、ヴィンセントの姿を捉える。

 しかし、そもそもレイモンドに戦う術を教えたのはヴィンセントだ。
 五〇〇年前、レイモンドは純粋な実力で、ヴィンセントに届かなかった。

『ぐ……っ!』

 左手を切りつけて、相手の剣を落とす。レイモンドの喉元に剣を突きつけ、ヴィンセントは氷のような声で、『子ども』に敗北を告げた。

『私の勝ちだ。……所詮誰も、私には届かない』

 諦めたかのようにヴィンセントが呟けば、血の流れる左手で、レイモンドはヴィンセントの腕を掴んだ。

『なんのつもりだ? 離しなさい。レイモンド。魔王相手に――いや親を相手に、こんなことが許されると?』
『……いい加減もうそうやって、俺を相手に父親面するな。俺は……アンタのことを親だなんて、一度も思ったことはない』

 彼の顔が自分へと近付く。
 何をされるか理解できず、ヴィンセントは思わずレイモンドの頬を叩いていた。

『だとしても、王に対して不敬が過ぎる。王として命ずる。――レイモンド。私の前に、しばらく顔を見せるな』
『……』

 レイモンドは、ヴィンセントの言葉に従いその場を離れた。その背を見て、何故か胸がヴィンセントは苦しくなった。

『父親面するな、か……』
 きりきりと痛む胸に手を当てる。

『はは……この私が……動揺している……なんて』

 『アンタのことを親だなんて、一度も思ったことはない』――その言葉に、レイモンドとの距離を感じた。
 ヴィンセントは泣きたかった。でも泣けなかった。泣いたとしてももう、昔のように自分を優しくあやしてくれる愛しい人がこの世界にはいないという事実だけが、彼女の心に暗い影を落とした。

『ディー……』

 レイモンドに謹慎を申し渡して少し経った頃。
 人間を殺すよう魔族を扇動した魔王ヴィンセント・グレイスを殺すために、勇者がリラ・ノアールに近づいていることをカーライルに告げられた。

『勇者が、貴方を殺しにここに向かっているそうです。どうしますか? ヴィンセント』

 ルーファスやカーライル、レイモンドと協力すれば、勇者を倒すことは可能かもしれなかった。
 けれどもう――そこまでして生きる気力が、その時のヴィンセントには残ってはいなかった。 

『魔王は勇者に殺される。そういう運命だ』

『ヴィン……ッ』
『もう、しゃべるな』

 言葉にすれば現実になる。
 そう理解しながら、ヴィンセントはカーライルの口を封じて小さく笑った。

『戦いが終わるまで、何者も立ち入りは許さない』

 全てを終わらせてしまいたかった。
 無意味な自分の生涯を。
 そうしたら。――……そうしたら。

『ディー。……もうすぐ私は、貴方に逢えるだろうか……?』

 名前を呼ぶ優しい声。
 ディー・クロウの声はいつまでも、心の中に響いている。

 そして魔王ヴィンセント・グレイスはたった一人、勇者と戦うことを選んだ。

『……どうして、同じように生きているのに、争い合わなきゃいけないんだ』

 ヴィンセントの言葉に、勇者は静かに言った。

『人は強大な力を恐れ、そして安寧を求める生き物なのです』

 聖剣で切られた場所がずくりと傷む。
 勇者は、剣士というより聖職者のような男だった。

『う……っ!』
『痛みに歪むその顔。……いいですね。『魔王陛下』貴方はとても美しい。他の魔族たちが、貴方にこだわるのもよくわかる』

『何を言って……』

 ヴィンセントは、勇者の言葉が理解出来なかった。
 所詮、人の心を操る力の持つ自分の周りに集まるものなんて、なんの価値もありはしない――その時のヴィンセントの心を満たしていたのは、抱えようのない虚無感だけだった。

『貴方のそういうところ、私も好ましく思います』
『……!?』

 勇者は魔王に口付けた。
 彼の行動理由が理解が出来ず、ヴィンセントは目を見開いた。
 その瞬間、どくん、と胸が大きくはねた。
 頭の奥が痺れるような感覚。手が震えて、ヴィンセントは剣を落とした。

『ごほっ』

 ヴィンセントは大きく咳き込んだ。地面に、赤い血が広がる。
 ヴィンセントは目を瞬かせた。肺が焼けるようにあつかった。

『すいません。私という存在は、人にとっては薬となっても、どうやら魔族にとっては毒らしくて』

 勇者の声は、血を吐く生き物を前にしているには、あまりに冷静だった。

『私の体そのものが、貴方方に対する武器なのです』

 勇者は、身動きの取れないヴィンセントの剣に、そっと指を押し当てた。

『まあ私も、貴方の剣に貫かれたら死んでしまうんですが……今の貴方に、そんな余裕はありませんよね?』

 ぷくりと滲む血を見て楽しげに笑う男は、勇者と呼ぶにはあまりに狂っていた。

『貴方の人となりは理解しました。貴方がもし魔王でなかったら、貴方という人は、私好みだったかもしれない。力を持ちながら、その力で、誰かを傷つけることを望まない貴方は、とても高潔で美しい。しかし貴方は、自分を活かす術を知らない。貴方は誰も信じていないから、貴方は今も、一人で戦わねばならなくなってしまった』

 聖剣は真っ直ぐに、魔王の心臓を貫く。

『私は神託を受けた勇者として、貴方の力を封じる。一人の悪役を仕立てるだけで、世界に幸福は訪れる――この世界に、貴方は要らない。だから』
『……ッ!』

『死んでください。魔王陛下』

 貫かれた剣から、力が抜けていくのを感じる。
 魔力を奪う聖なる剣。
 命が吸い取られる。ルーファスとカーライルの声のあと、ヴィンセントは誰かが自分を呼んだような気がした。
 けれど、何も聞こえない。
 もう、何も。視界は白く霞んで――そうしてぷちんと意識は途切れた。

『ヴィンセント!』
『陛下!!』

 そしてヴィクトリアとして生まれ、幼馴染の二人と楽しい時を過ごしても、その悲痛な叫び声が、ずっと頭から離れてはくれなかった。

 まるで罰でもあるかのように、彼らの叫び声が、ずっとヴィクトリアの中には響いていた。
 だから、本当は最初からわかっていた。
 生まれ変わっても、何も変えることなんて出来ない。この魂の、運命は変えられない。
 結局自分は、悪役にしかなれないのだ。

 古龍を殺した。だったらあと何人殺そうが、何匹殺そうが変わらない。 
 この手は、血に染まっている。



 ヴィクトリアは静かに、古龍を見つめ言葉を唱えた。

「『その行い、その命をもって』」

 ――償え。
 ヴィクトリアは古龍に向かい、剣を振りおろそうとした。
 しかしその時、アルフェリアを抱いたエイルが、大きな声で叫んだ。

「やめるんだ。ヴィクトリア!!! 僕たちの幼馴染は……ヴィクトリアは、簡単に人を殺せるような子じゃないだろう!?」

 その言葉に、ヴィクトリアはピタリと手を止めた。

「えい……る……?」
「君は……君は人を、生き物が傷つくのも、傷つけるのも嫌いなはずだ。そうだろう? ヴィクトリア!!!」

 ヴィクトリアは混乱した。
 こんな姿を見てもなお、彼は私を、幼馴染だと言ってくれるのだろうか。
 心を持つ同じ人間だと、認めてくれるのだろうか。
 エイルの言葉に、ヴィクトリアの瞳が揺れる。

「エイル……アルフェリア……」

 ヴィンセントであるとき、ずっと、人間になりたいと願っていた。
 人間になって、誰かのことを信じたかった。信じてほしかった。自分の、本当の思いを。
 
(私、本当は。本当はずっと――……)

 誰も、傷つけたくなんかなかった。でもそんな願いは、『魔王』である限り叶わない。

「私……それでも、私は……っ」

 剣を握る手が震える。
 今も昔も、目の前の相手の命を奪うことは容易い。
 たとえ、自分が望まなくとも。
 そして本当は誰も傷付けたくはなくても、守りたいものを守るためには、大事な者を傷付ける敵は葬らなければ、また同じことが起こってしまう。

 力あるものが、決断をくださねばならない。
 たとえそのせいで、誰に誹られようと、誰かに嫌われようと。

『大丈夫。泣かないで。君が眠るまで、そばに居るから』

 優しい声を覚えている。優しい手を、温もりを覚えている。

 幼い頃の、陽だまりのような記憶。愛した人は、自分のために亡くなった。
 そして知ったのだ。
 奪われた命は、もう二度と、返ることはないことを。

「いいんだ。ヴィクトリア。君は、それでいい。君は戦わなくても……」

 エイルが、そうヴィクトリアに声をかけた時。 
 突如として嘲笑う男の声が響いて、戦意を喪失したヴィクトリアに、古龍はその爪を向けた。

「ハハッ! 隙だらけだ!」
「ヴィクトリア!」

 エイルが叫ぶ。
 ヴィクトリアは、とっさに避けることが出来なかった。
 ぎゅっと、衝撃を予期して目を瞑る。
 ――その時。

「下がってください。ヴィンセント」

 聞き慣れた声が響いて、ヴィクトリアは大きな手に、体を後ろに引き寄せられた。
 しかし閉じた瞳を開けても、彼女の視界は暗いままだった。
 冷たい手。
 ヴィクトリアを抱き寄せたその相手は、彼女の視界を手で覆い隠した。

「…………カーライル……?」
「はい」

 ヴィクトリアがその名を呼べば、返ってきた声はいつもの彼と少し違って、どこか焦りを含んでいるようにもヴィクトリアは感じられた。

「ここは私が対処します。貴方は、このまま動かないで下さい」

 カーライルはヴィクトリアの髪に触れる近さで、彼女にだけ聞こえる声で囁いた。
 小さく頷けば、自分の背後で、カーライルが困ったように笑ったのがヴィクトリアにはわかった。

「護衛は要らないなんて言ったのに、貴方は本当に無茶をする」

 カーライルはそう言うと目を細め、古龍の体を意図で一度貫こうとして――それからピタリと体を制止させて、糸で古龍の体を包みこんだ。

「?」

 古龍の拘束を終えたカーライルに漸く目隠しを外されたヴィクトリアは、てっきり古龍を殺すかと思っていたカーライルが、拘束だけに済ませたことに驚いて目をまたたかせた。
 もう一つの彼女の驚きは、古龍の動きを封じたカーライルが、抱きしめた手を緩めなかったことだ。

 細いようで筋肉のついたカーライルの腕をヴィクトリアがペチペチと叩けば、カーライルは、彼女を抱きしめる腕に更に力を込めた。
 まるで大切なものが壊れていないのを確かめるかのように、カーライルは少しだけ体を震わせて、ヴィクトリアの肩に顔を埋めた。

「!?」
 ヴィクトリアは困惑した。

(こんなカーライル、私は知らない)

 ヴィクトリアの知るカーライルという男は、昔から理性的で、常に冷静な男だ。
 
(おかしい。カーライルはこんなふうに、感情を表に出す人物じゃないはずなのに)

「あの。あの……カーライル……?」

 冷たい髪が、首にかかってくすぐったい。
 ヴィクトリアは震える声で呼びかけたが、彼には届いてはいないようだった。
 そしてカーライルは、少し顔を上げて、ヴィクトリアのうなじにそっと唇を押し当てた。

「!?!?」

 柔らかい唇に触れられて、ヴィクトリアは体をこわばらせた。
 雪女の血をひく彼の唇は冷たいはずなのに、今のヴィクトリアには、確かに熱を帯びているように感じられた。
 言葉にできない熱に当てられ、何故か体が熱くなる。

「や……やだ。かーらいる、カーライルッ!」

 振りほどこうにも、決して離れてくれない幼馴染の名を、ヴィクトリアは顔を真っ赤にして叫んだ。

「そのへんにしておけ、カーライル」
 
 その時だった。
 ヴィクトリアの頭上から静かな声が降ってきて、誰かがカーライルとヴィクトリアの体を離した。

「レイ……モンド……?」
 
 ヴィクトリアに助け船を出したのはレイモンドだった。
 我に返ったカーライルは目を瞬かせて、そうして驚いたように男の名前を呼んだ。
 ヴィクトリアは思わずレイモンドの後ろに隠れた。

 カーライルはそんな彼女を見て頭を抑え――彼女を抱きしめた自身の腕を見つめると、沈黙の後に二人から顔を背けた。
 その耳は、ほんのりと赤く染まっていたようにヴィクトリアには見えた。



「ん……?」

 古龍を無事封じ、アルフェリアは彼女の屋敷へと運ばれた。

 目立った外傷はなく、頭を強くぶつけたため意識を失ったのだろうということで、ヴィクトリアはずっと彼女の手をにぎって、幼馴染の目覚めを待った。
 アルフェリアが目を覚ましたのは、それから二時間ほど経ってのことだった。

「アルフェリア!」
「アルフェリア! よかった。目を覚ましたんだね」
「ヴィクトリア……? ヴィクトリア、怪我はない!?」

 目を覚ましたアルフェリアの第一声は、ヴィクトリアの安全を確認するものだった。
 意識を失って居た相手に突然体を捕まれて、ヴィクトリアは少し慌てた。

「う、うん。私は大丈夫……」

 ヴィクトリアの無事を確認にしてほっと息を吐いたアルフェリアは、それから自分の部屋にいる魔族に気づいて目を瞬かせた。

「なんでカーライル様方が……?」
「……アルフェリア。そのことで私、貴方に話さなきゃいけないことがあるの」

 ヴィクトリアの言葉に、エイルは静かに目を伏せた。

「私がここに帰ってきたのは、これからは私が、セレネで暮らすことになったからなの。私……私は、本当は……」

 真実を告げる前、ヴィクトリアの心臓は、破裂しそうなほど早鐘を打っていた。

「私は、『ヴィンセント・グレイス』の生まれ変わりなの」 

「……それは、本当なの?」

 アルフェリアの表情が、少しだけ厳しくなる。そんな彼女を見て、ヴィクトリアはゆっくりと、小さく頷いた。

「……うん」
「はい。彼女は『ヴィンセント』です」

 カーライルが、ヴィクトリアの背後から静かに言った。
 ――『ヴィンセント』。
 その名で呼ばれ、ヴィクトリアは少しだけ拳に力を込めた。

「そう。……じゃあ、あの話は嘘だったのね」
「え?」

 ヴィクトリアの予想とは違って、アルフェリアの顔が曇ったのは一瞬で、すぐに彼女は表情を緩めた。
 カーライルの言葉を聞いたアルフェリアは、いつものように優しい目で、ヴィクトリアを見つめていた。

「魔王が魔族に、人間を殺すよう命じたって話。だってヴィクトリアが、人間を殺すよう命令するなんて、そんなことあるはずないもの」

 その言葉に、ヴィクトリアは目を瞬かせた。
 ヴィクトリアは、アルフェリアの瞳の中には今も確かに、『今の自分』が映っているような気がした。

「誰かが怪我したりすると自分までつらそうな顔する子が、そんなことできるはずない。……そんな貴方に、村を守るために戦わせてしまったことは、本当に申し訳なく思ってる。でも、貴方が争いがすきじゃないのは、きっと貴方を知る誰もが知っているわ。――エイルも、そう思うでしょう?」

 部屋の隅にいたエイルは静かに頷いた。

「どんな噂があっても、私は、私の知る貴方を信じてる」
「……っ!」

 ヴィクトリアは、幼馴染二人の笑顔を見て下を向いた。
 アルフェリアの声は、優しい姉そのものだった。
 だからヴィクトリアは、まるで子どもが泣くかのように、ぽろぽろと涙を落としてしまった。

「……私、あの時、何が起きていたのか分からなかった。でもみんな、私のせいだって。みんな……私が、私が悪いんだって……。だから、だから私は……」

 感情が、涙があふれて止まらない。
 五〇〇年前から、ずっと誰にも告げることの出来なかった思いが、言葉があふれる。

 前世《むかし》のヴィクトリアは、勇者に殺されることを望んで、死んで人間になろうとした。
 自分が全て背負えば、丸くおさまる。勇者に告げられた言葉は、彼に告げられる前から、心の奥底でずっと彼女自身が考えていたことだった。

 つらいと、口にするのが苦手だった。
 人間と魔族の共存を願っていたからこそ、自分が死ぬしかないのだとそう思った。
 たとえ自分の責任ではないとしても、恐怖しか与えられない魔王に居場所はない。嫌われている自分が死ねば、みんなが幸せになる。――そう、勇者も言ったから。

 『ヴィンセント・グレイス』は、魔王であることをやめるために、力を消すために、『人間になりたい』と願った。

「……ヴィクトリアの言葉なら、私は信じるよ」
「僕も信じる。魔族だろうと何だろうと、ヴィクトリアは僕たちの、大切な幼馴染だからね」
「そうよ。悲しませて泣かせるような真似、絶対に許さない。たとえ相手が、誰であろうと。だから……カーライル様!」
「?」

 突然人間の少女に名を呼ばれ、カーライルは首を傾げた。

「この子のことを、ヴィンセントと呼ぶのはやめてください!」

 アルフェリアはそう言うと、ヴィクトリアの手を引いて、ぎゅっとその体を抱きしめた。

「ヴィクトリアが決めたなら、私は何も言わない。セレネで暮らしたいと言うなら、そうすればいい。でも今のこの子は――私達の幼馴染、ヴィクトリア・アシュレイなんだから!!!」

 魔王城リラ・ノアールの現在の管理人。

 現魔族の中で最も強いとされる男に対し、アルフェリアは怖じ気づくことなく真っ直ぐにその目を見て言い放った。
 まさかただの人間の少女に物申されると思っておらず、カーライルは目を丸くした。
 そんなカーライルを見て、ルーファスがポツリ呟いた。

「……流石、陛下の幼馴染」

 ヴィンセント・グレイスの幼馴染はカーライルだった。
 けれど今の――ヴィクトリアの幼馴染は、アルフェリアとエイルなのだ。

「ご心配なく。彼女の――ヴィクトリアのことは、骨の髄まで愛しておりますので」
「…………」

(その表現《ことば》、物騒だし若干怖いんだけど、私はこれはどんな反応をすれば……)

 助けを求め、ヴィクトリアはレイモンドに視線を向けたが、彼はふうと溜息を吐くだけだけで、今度は何も言ってはくれなかった。




「初めて会った時、あの子は、誰かを探して泣いていたんです。その涙を見て、初めて自分の中に、誰かを慈しむ――いや、感情があることを知りました。守りたいと、支えたいと、そう思った。そして彼女を傷つけようとするものの全てを、排除することを心に決めた。それは、実の父親であっても変わらなかった。だから私は……あの子を殺そうとした、父を殺した」

 幼馴染みとの別れを惜しむヴィクトリアをルーファスに任せ、先にセレネに戻っていたカーライルは、古龍を閉じ込めた繭を見上げ静かに言った。

 もう随分昔のこと。
 けれどその時の自分と父とのやりとりを、カーライルは今でも、不思議とはっきりと思い出すことが出来た。

『お前なら油断するはずだ。カーライル。我が一族のために、ヴィンセントを殺せ』
『あの子を、ヴィンセントと呼ぶことを許されたのは私だけだ』

 一族の誰よりも秀でている。
 カーライルほどの才能を持つ子はもう、蜘蛛の一族からは現れない。
 そう評価されていたカーライルを、彼の父が幼い魔王を殺して王に据えようとしたのは、ある意味当然のこととも言えた。

『――何?』
『ゆるしもえず、その名を口にするな。その名は、今は私だけに許されたものだ』
『まさか、私を殺すのか。父である、この私を……!』

 カーライルが父親に反抗したのは、それが最初で最後だった。

『はい。それに、ヴィンセントも父親を殺している。彼女と同じ行いをすれば、私も彼女の気持ちが分かるかもしれないと思いせんか?』
『――』

『ヴィンセントの世界に、貴方は必要ない。彼女を支えるための一族をまとめる長ならば、貴方より私のほうがうまくやれる。だから、貴方はもう要らない』
『――お前の変化に、もっと早く気づくべきだった』

 カーライルは蜘蛛の糸を、そっと父親の首に巻き付けた。
 最後のその瞬間を、一瞬にしようと思ったその理由は――今でもカーライルは、理解《わか》かるようで理解《わか》らない。

『はい?』
『心を持たない人形だったお前が、そんなことを言うなんて』
『出会ったその瞬間から、私の全ては彼女のものだ』
『そうか』

 もうすぐ殺されるというのに、何故か父はカーライルを見上げて笑った。

『気づいていらしたのには少し驚きました』
『私はお前の父親だからな』
『そうですね。でももう、私に貴方は必要ない。――さようなら。父上』

 いつものように糸を手繰れば、殺すのは簡単だった。

『あれ? 変だな……』
 いらない存在だった。
 だというのに、何故か涙がこぼれた。

 ヴィンセントが何故先王を殺したかという話は、セレネには伝わっていない。
 『ヴィンセント・グレイス』は父である魔王を殺した――それだけが、今伝わる全てだ。
 カーライルは、自分も父を殺せば、愛する彼女の気持ちが分かる気がしたけれど、何故か頬を伝うしずくが気になるばかりで、それ以上何も考えることもできなかった。
 ただ、それから父の後を継いで、確かに言えることがあると思った。

 これで彼女の世界は、少しだけ綺麗になった。

『どうして泣いているの?』

 初めて出会った日。
 眠る幼いヴィンセントの涙が、カーライルに感情を与えた。
 色のなかった世界に宿ったのは、愛しい黒と赤い色。
 夜の闇と、血のような赤い色。

 自分も含めて、すべていらない世界だったから。その少女だけが、自分の生きる意味になった。
 人間だけじゃない。魔族もどうでも良かった。
 魔王の王座になど興味はない。彼女が座っていたその場所を、自分から奪おうとするものが現れるなら、全て消してしまおうと思った。

 もう彼女はいないから。
 その場所だけが、彼女が生きていた証だったから。
 たとえもうその場所に、彼女の温もりは感じられなくても、自分が生きている限り、代わりに誰かが座ることを許すつもりはなかった。

『ヴィンセント!!』

 目を瞑ればいつでも、世界は赤く染まっていて。
 彼女を失った日のことを、昨日のことのように思い出す。
 ヴィンセントの死のあとに、魔法がとけ漸くカーライルは彼女に近づくことができた。
 けれどその瞳が、もう開かないことは理解していた。

 失ったものは戻らない。
 手が震えた。聖剣に穿たれ、絶命した愛する人に触れる。
 カーライルは、その日のことを思い出して胸元に手を当てた。
 自分の心を、最後まで受け入れることなく一人で旅立ってしまった彼女を前に、狂ってしまいそうな虚無感が、あの日からずっと彼の中にはある。
 何度思ったことだろう。

 貴方にさえ出会わなければ、自分が空虚であることを知らずに済んだのに。心など、痛みなど知らずに済んだのに。
 どうして愛してしまったのか。
 愛しているという言葉を告げたとしても、自分の力に囚われて、決して心を信じてくれなかった貴方のことを。
 
 けれど長い時を生きる魔族なら、いつか彼女の魂と自分の時が交差することもあるかもしれない。
 だからこそカーライルは城を守り、魂を見分ける金色狼であるルーファスに、ヴィンセントを探すことを許した。

 でもそうやって蜘蛛の糸を張り巡らして、彼女を捕まえようと思っても、彼女をとらえることはできないし、本当の意味で彼女を笑顔にすることができるのは、自分じゃない他の誰かのような気もした。

「昔からあの子を守りたいと思うのに、なかなか上手くいかない」

 絡めとるだけならば、捕まえて箱に閉じ込めるだけならば、簡単なはずなのに。その心を欲しいと思うから、手を伸ばしても届かない。
 彼女の求める何かが、自分の中で噛み合わない。けれど今のカーライルには、その違和感をただす方法がわからなかった。

 繭を運ぶためカーライルに同行していたレイモンドは、黙って彼の言葉を聞いていた。

 昔の彼女の、『ヴィンセント』と同じ色。
 そんな色を宿すレイモンドの赤い瞳を見つめ、カーライルは昔を懐かしむように目を細めた。
 空を見上げれば、ちょうど日が落ちて赤く染まっていた。

 夕焼けの赤い色は、ずっと探していた赤い色と似ている。
 その赤は、もうこの世界には無い。
 求めていた彼女は、これからは手で触れられる場所にあるはずなのに、沈みゆく陽を見ると、カーライルはこれからも、自分はきっと夕焼けを見る度に胸が苦しくなるのだろうと思った。

『どうして同じように生きているのに、傷つけ合わなきゃいけないんだ。下等も劣等もない。傷つけられたなら、誰だって痛いに決まっている。――魔族であろうと、人であろうと』

 魔王という地位を継ぐには、あまりにもヴィンセントは優しすぎた。
 本当は彼女が魔王には向いていないことを、カーライルは知っていた。けれど自分が、支えたいと思うのは彼女だけだった。頭を垂れる価値は、他の者には感じなかった。

「魔族は人間を殺しすぎた。私はあの子の手を汚したくはなかった。だから貴方たちに殺させた。魔族の処罰を、あの子を差し置いて私が命じるわけには行かなかった。そしてあの子は、すべての責任を背負ってから死を選んだ。あの子の死を無駄にはできず、私は和平の道を選んだ。今思えば、バカバカしくてたまらない。……あの子を守るつもりが、追い詰めていたなんて。そしてあの子は、私達を、自分を守って亡くなった。人間と魔族と、共存していくには、たった一人の悪役が必要だった」

 隣り合う世界の二つの種族。

 魔法の使えない人間と、魔法を使うことの出来る魔族。
 故に魔族は人間を下に見る傾向があり、五〇〇年前に魔族は『魔王ヴィンセント・グレイス』に命じられたという名目で、多くの人間を殺した。
 その事件の全てに、ヴィンセントが命じたものは一つもなかったというのに。
 そして、ヴィンセント・グレイスの死後、勇者の力は知らしめられ、魔族と人間の世界を繋ぐ門の殆どは閉められることとなり、表向きは両者にとって平和な時代が訪れた。

「五〇〇年前のことを、私は塗り替えたい。魔王ヴィンセント・グレイスは、確かに多くの魔族《どうほう》を殺すよう命じたけれど、決して人間を襲うようには命じていなかったのだから」

 誰もが彼女のせいにした。
 そして、言葉を引き出すために、命じることが出来なかったヴィンセントは、絶望をひとり抱えることになった。
 誰の言葉も受け入れられず、彼女は『残虐非道な魔王』として死んだ。

「おそらく、今の彼女の魔法は不完全。……皮肉なものだ。だからこそ今の彼女は、私達の言葉を信じてくれる」

 カーライルは静かに言った。

「私は、彼女を愛している。たとえこの体が滅んでも、彼女がこの世界に生きてくれているだけでいいと思うほどに」

 びき……びきき……。
 その時、古龍を拘束していた繭を、何かが内側から溶かしながら破いた。
 レイモンドは、その亀裂を見て目を細めた。

「カーライル。話を聞くのは後だ。どうやら殻を破るようだぞ」
「ああ。わかっている」

 二人はそれぞれ繭に向き直った。
 ――すると。

「ぷはあっ!」

 繭の中から、米粒三つ分ほどの大きさの男が現れ、大きく息を吸い込んだ。

「全くなんてやつだ! 息苦しくて死ぬかと思った!」

 男の声は、龍の声と同じだった。

「全く、どういう神経をしているんだ。古龍を糸で包み込むなんて。……っ!?」 
「――捕まえた」

 二人の殺気にすら気づかず、文句を口にしていたその生き物を、カーライルは指で掴んでとらえた。

「ひえっ!? ……お、お前は、カーライル・フォン・グレイル!?」
「おや。私の名前を知っていたとは話が早い。さっさと死んでもらおうか」

 にこり。
 カーライルは、どこか楽しそうに笑った。

「ま、待てっ!こ、殺すのはやめろ! 見逃してくれたなら、お前にとっておきの情報を教えてやる!」
「……そんなにいいことを知っているのか?」

 カーライルは、男の提案にふむと考えるそぶりを見せて、指の力を弱めた。
 すると男は、服の中から虹色の種を取り出して、カーライルの頭めがけて投げつけた。

「ふっ。これでもうお前の体は俺のものだっ! ……ぐえっ!!!!」

 男の高い笑い声は、途中から蛙が潰されたような声に変わる。

「は? え。ええっ?」
「手品の種は、もうわかっている。これさえなければ、お前は何も出来はしない」

 男の投げた種は、カーライルの糸にくるまれていた。
 氷のように美しい、雪女の一族と蜘蛛の一族の血を引く男は、糸を手繰るように手を動かした。

「力のないただの劣等種が、思い上がりも甚だしい。種で操って強くなったつもりか? こんなもの、お前の力でもなんでもない」

 カーライルはそう言うと、糸で種を押しつぶした。

「ま、待て! 話せばわかるっ!」
「目障りだ――消えろ」

 悲鳴さえあげさせることも許さず、カーライルは諸悪の原因である男を捻り潰した。
 そうして彼は、手についたほこりをはらうように手を動かして、はあとため息をついた。

「こんな雑魚をのさばらせていたなんて、私も気を抜きすぎていたようだ」
「……さっきの、殺さずに口を割らせたほうが良かったんじゃないか。デュアルソレイユへの侵入のこともある」

「門については私がもう一度確認して閉じればよいだけのこと。それに、他に黒幕がいたなんて――せっかく全てが片付いたと思っているあの子に、古龍にはなんの罪もなく、あやつられていただけの生き物を傷つけたと知らせる必要はない」

 ヴィクトリア以外なら、魔族であろうと容赦はしない。同胞を虫けら同然に処理した男は、そう言うと口元を緩めた。

 『ヴィンセント』が生きていた頃、魔王の城(リラ・ノアール)は魔王一人を守るための鳥籠だった。

 しかし鳥は、籠の中で死んでしまった。
 空の青さに焦がれても、空を飛ぶことを許されず、羽根をもがれることを望み、そして一人静かに目を閉じた。

『人間になりたい』
 そんな願いを口にしながら。

 当初の目的を終え、カーライルは古龍を拘束していた糸を解いた。

「それで、これはどうするつもりだ?」
「別に、どうでもいい」

 レイモンドの問いに対するカーライルのこたえは淡泊だった。

「どうでもいいって……」

「彼らをこうした本人なら戻せるかもしれないが、ヴィクトリアの手を煩わせたくはない。言葉を話せない生き物の意志なんてわからない。普通に考えて、違う生き物と体を一つにされるなんて殺された方がましだろうが、この二体はつがいだ。愛するものと一つになっただけなら、喜びこそすれ、死を選ぶ理由になりはしない」
「……」

 カーライルの言葉を聞いて、レイモンドは昔蜘蛛の生態について読んだ本を思い出した。
 その中で、雄蜘蛛が雌蜘蛛に食べられてしまう、という内容があった。

 だとしたらもしかしたら――カーライルにとっての一番の幸せは、愛する少女に食べられて死ぬことなのかもしれないと彼は思った。
 ヴィクトリアの性格上、それは永遠に叶わないことだろうけれど。

 二人の会話をよそに、体を繋がれたつがいの古龍は、息を合わせ大空に飛び立った。
 まるで最初から、そういう生き物であったかとでもいうように。
 徐々に小さくなるその体を、レイモンドとカーライルは何も言わず、空を仰いで見送った。