体は鉛のように重かった。
 寝台から降りようとしたヴィクトリアは、足に力が入らずそのまま崩れ落ちた。

「とうしたんだい!?」
「…………」

 音を聞きつけたミゼルカは、部屋の中に駆け込んで、床に倒れ込むヴィクトリアを見て溜め息を吐いた。

「ったく、何しているんだい? 今日は絶対安静だって言われているだろう? そのためにカーライル様が私をおつけになったんだから」

 ヴィクトリアの体を抱き上げて、寝台に戻し褥をかぶせる。
 ミゼルカは眉間にシワを作ると、ヴィクトリアの額に手を当てた。

「まだ熱が高いね。アンタは人間だから、てっきり魔素中毒かと思ったんだが、こう熱が出るとなると、あの龍の毒にでもやられたんだろう」
「……」

 ミゼルカの言葉に、ヴィクトリアは何も言わなかった。

「ルーファス様もアンタも、本当に無事で良かった。子供たちが血相変えて戻ってきたときは驚いたが、あの魔法にも驚いたよ。レイモンド様が戦われている姿はほとんど見たことがなかったが、カーライル様が認められていた実力は本物だったってことだろうねえ」

 ミゼルカは、事故のことをほとんど何も知らされていないようだった。 
 古龍討伐については、城で働く者には、前魔王ヴィンセント・グレイスの養子であり、カーライルが力を認めるレイモンドがやったと公表されており、誰もがヴィクトリアは巻き込まれた人間として接していた。 

 古龍を倒してから城に運ばれてからずっと、ヴィクトリアは高熱が続いていた。
 ミゼルカは氷の魔石で水を冷やすと、濡らした布をヴィクトリアの額にのせた。

「アンタも災難だったね。こんなことに巻き込まれちまって」
「…………」

 ミゼルカは苦笑いした。

「でもね、ここは本当は、セレネでは安全な場所なんだ。カーライル様やレイモンド様、ルーファス様がいらっしゃるから、これまで危険とは皆無だった。この城で働きだして……人間の寿命からからすればそれなりに長くなるんだけど、ルーファス様が苦戦するようなことは、そもそも初めてだったんだよ」

 それはそうだろう、とヴィクトリアは思った。
 あの三人は、『ヴィンセント』を支えた者たちなのだ。そう簡単に負けるはずがない。

 しかし、今回は負けかけた。
 ルーファスや、カーライルの欠点を、的確につくような魔法や毒によって。
 レイモンドとルーファスは基本単独行動を好む。カーライルは基本城から動かない。

(レイモンドの力は、魔族相手には、殆ど無敵と言っていい)

 レイモンドであれば一人であっても古龍を倒せただろうが、レイモンドは城の者たちの話を聞くに、城に居るほうが稀らしい。
 城のものたちの話を聞いていると、レイモンドはカーライルに頼み事をされる以外は、放浪している方が多いとのことだった。
 ヴィクトリアが城に来てからは、城にいることも増えたとのことだったが――もしそんなときに、今回と同じようなことが起きたら?
 この城が落ちることもあるかもしれない。そうなれば、カーライル達だけではなく、ミゼルカ達だって無事では済まないだろう。

「…………」

 ヴィクトリアは、レイモンドのことを思い出して目を細めた。
 彼が居なかったら自分は死んでいたことだろう。
 しかし、今回のことを考えてるみると――彼の行動の理由が、なおさらヴィクトリアにはわからなかった。

『軽いな。――軽すぎる。アイツの剣はもっと重く、強かった』

『戦えない魔王を据えてなんになる? あまりにも弱い。そんな人間がヴィンセントの魂を継いでいるなんて、それこそ『陛下』に対する侮辱じゃないのか? なんの役にも立ちはしない。その『人間』は、さっさと村に返してくるんだな』

『くそっ! なんでこんな……。お前がついていながら……っ!』

『我慢してくれ。…………アンタが死ねば、ルーファスが悲しむ』

 好かれているはずはない。
 彼は前世で、自分を嫌っていたと理解している。それなのに泣きそうな彼の顔が、頭から離れない。

「何怖い顔してんだい?」
「!」

 ミゼルカは、考え事をして顔をしかめていたヴィクトリアの眉間に、指をとんと置いた。

 ぐりぐりぐりぐり。
 軽く触って皺を伸ばす。
 そうして、はっと我に返ったヴィクトリアを見て、ミゼルカは笑って軽く掛け布団を叩いた。

「ゆっくり休みな。体がきついときは周りを心配させないようしっかり休んで元気になるのも、子どもの仕事さね」

 水の入った桶を抱えて、ミゼルカは部屋を出ていった。



「レイモンド。まずはヴィンセントを助けてくれてありがとう、と言っておこうか」

 魔王の執務室で、魔王をの座を継ぐことなく執務をこなすカーライルは、部屋に入ってきたレイモンドを一瞥することもなくそう言い放った。

「……俺が薬を持っていたことに対しては何も言わないのか」

 書類に署名を行いながら、カーライルはいつものように、リラ・ノアールによって承認されたことを証明するための魔法印を押した。

「それは、薬を入れ替えていたことを謝罪しているのか?」
「……」

 カーライルの言葉に、レイモンドは口を噤んだ。
 最初から気づいていた――それは、そんな口ぶりだった。

「別に構わない。それにお前が持っていてくれて助かった。確かに夜に少しずつ飲ませるのもいいけれど……。大事なのは結果だからね」

 すり替えを気付かれている可能性はレイモンドも考えていた。
 けれどあくまで、彼が自分に手を出さなかったのは、ヴィクトリアは自分の手中に収まると考えてのことだったというカーライルの口ぶりに、レイモンドは唇を噛み締め、感情を押し殺したような声で言った。

「……アイツは」
「うん?」
「生きたいように、生きていいんだ」
「だが、あの子から最終的に選択を奪ったのはお前だ」

 カーライルの声は冷たかった。
 それでいて、レイモンドを嘲笑うような声だった。

「薬を飲ませてから打消せばいいとでも考えていたようだけれど――どうやらお前の力は、薬には効かないようだな。仕方ない。あれは薬であって、毒ではない」

 カーライルはそう言うと、ガラスペンを置いてレイモンドに微笑んだ。
 
「意外な弱点か? レイモンド。――無効化の能力をもってしても、防げないものがあったなんて」

 レイモンドは、カーライルの言葉に目を細めた。
 体を壊して、薬を飲んだことはある。しかしそれを無効化しようだなんて思ったことはなく、レイモンド自身、自分の力が薬に通じないことを認識したのは初めてのことだった。

「お前を害することができるのは物理的な力だけだと思っていたが、どうやらそれだけでもないのかもしれないな」

「……俺に毒でも盛るつもりか? カーライル」

「まさか。ヴィンセントを守る最強の盾を、殺すなんてもったいない。あの子は昔から用心深くて、いつも自分の敵になるかもしれない存在の攻略法を考えていたから、つい思考が重なってしまったようだ」

 カーライルはそう言うと、机の中から箱を取り出して、中から小さなものを取り出した。

「それはなんだ?」
「ヴィンセントが倒した古龍から見つかったものだ」

 それは、虹色に輝く美しい種子だった。 
 しかしその種は、カーライルの肌に触れているところから、糸のように細い根をのばしはじめた。
 カーライルはそれを見て目を細めると、自分に侵食しようとしていた根を切り落とし、それから糸で根を包み込んで箱に戻した。

 自分の体以外で、攻撃を防ぐことができない生き物ならば防げない謎の種。
 これは――……。

「……」

 涼し気な表情のカーライルを前に、レイモンドは険しい顔をした。
 つまり今回のことは、単なる偶然ではないということだ。
 野生生物を種で使役し、ルーファスの弱点となる吸血鬼の毒を使う何者かかいると考えるべきだろう。

「……カーライル。これは……」
「ああ、そうだ。今回の事、もしかしたら黒幕がいるかもしれない」



 暫く眠っていたヴィクトリアは、目を覚ますと自分の喉に手を当てた。

 人魚族にはこんな言い伝えがある。
 昔、人間に恋をした人魚は、人間の体を望み、魔女からとある薬を手に入れた。
 人魚は薬によって人間の体を手に入れるが、声は出なくなってしまう。
 人魚の秘薬をレイモンドに無理やり飲まされたとき、焼け付くように喉に痛みを感じたが、それもある種の副作用かもしれないとヴィクトリアは思った。

(薬を飲ませるために、レイモンドは私に――……)

 唇の感触を思い出して、ヴィクトリアは頬を染めた。

「……どうして、あの子は」

 ヴィクトリアとして、誰かと唇を重ねるのは初めてだと彼女は思った。
 前世で一度だけ他人と口付けをしたことはあるが、あれは不本意なことこの上ななく、数に入れる気にもならない。
 ヴィクトリアは、最悪の出来事を思い出して顔を顰めた。
 どうやら自分は、薬という名の毒を無理やり飲ませられるのには、つくづく縁があるらしい。

「……どうしよう」

 あの魔法を使っておいて、ヴィンセントの記憶がないという言い訳はもうできない。
 ヴィクトリアは頭をおさえた。
 今の体が女とはいえ、前世では養父だった存在に口づけるとは、レイモンドも変わっている。
 ルーファスといいカーライルといい、前世では男として自分を扱っているようだったのに、なんで自分を女扱いして優しくしてくれるのかわからない。

 そして――……。
 ヴィクトリアは一番の疑問を思いだして、表情を固くした。窓枠の向こうの、あたたかな陽を眺める。

(わからない。人間であるはずの自分が、急に魔法が使えるようになった理由も)

 ただの人間に、魔法が使えるはずがない。
 化け物並みに力が強いとはエイルやアルフェリアに言われたことはあるが、それは戯言でしかない。

 一時的に魔法が使えるようになった? だとしたら、その発端はなんだろうか。
 そうして、どうしてレイモンドは、あの薬を持っていたのか?
 そのすべてが、今の彼女にはわからなかった。
 
「う……っ!」

 ヴィクトリアが寝台から降りようとした床に足をつけた瞬間、ピキキと音がして床に罅が入った。そのまま再び床に倒れ込む。
 ヴィクトリアは頭を押さえた。頭が割れるように痛かった。

 こぽ、ごぽ、こぽぽ……。

 自らの体の内側で、何かが脈動するような、湯が滾るような音が響いている。
 ヴィクトリアは再び熱を持つ体に苛立ちをつのらせた。
 制御出来ない力が溢れる。この感覚はまるで――……。

(――まるで?)

 人魚族の秘薬の根本的な力は、『力の活性化』だ。
 不老不死と言われる所以は、体内の活性化による効能であると言われている。
 その力故に人魚族は多く殺され、魔王ヴィンセントは彼らを守ることを約束し、対価として彼らから秘薬を預かった。

「……どう、して」

 零に一〇〇〇をかけたとしても、もとが零なら何をかけても零のままだ。
 人間である自分の中に、力が芽生える理由がわからない。
 滾るように熱い体を壁に持たれかけさせて、ヴィクトリアは浅く息を吐いた。

 かつての自分の言葉を思い出す。

『人間になりたい』
 魔王『ヴィンセント・グレイス』が、勇者に殺される瞬間に願った言葉を。
 ヴィクトリアは唇を噛んで、自分の予測を確かめるために、窓枠の向こう側に見える木の葉を睨んだ。

「……『風よ、切りさけ。葉よ落ちろ』」

 まだ芽吹いたばかりに見える若々しい葉は、彼女の言葉に命じられるがままに、不自然に地面へと落ちた。
 それを見て、彼女は震える手で口を押さえた。

 『人間になりたい』と願って人間になった。
 『会いたい』と口にしてルーファスに見つかった。

 (だとしたら。もしかして、私の魔法《ちから》は最初から――……)

 ヴィクトリアは体を震わせた。

(信じたくない。失望したくない。誰も信じることができなかった、昔に戻るのはもう嫌なのに)

 震える声で彼女は呟く。


「……魔法は、まだ続いている…………?」