五〇〇年前、魔界セレネには一人の王がいた。

 長い黒髪に、血のように赤い瞳。
 夜の闇に、赤く染め上げた月が浮かぶようなその男は、誰よりも強い魔力を持っていた。
 
 破滅の王。漆黒の使者。紅の月。
 様々な名で呼ばれるその存在は、魔族が王を戴いてから、最も残忍な王であったと、人間の世界デュアルソレイユの記録には残っている。

 『征服王』と呼ばれた魔王の名はヴィンセント・グレイス。

 『征服王』は、不思議な力を持っていた。
 彼が願い言葉にしたことは、あらゆることが叶うという不思議な力。
 つまり相手の死を望めば、死をもたらすことができる。
 しかし、『征服王』は力を持ちながら自らは手を下さず、臣下たちに自分に逆らうものを処罰させた。

 ルーファス・フォン・アンフィニ。

 金髪紫眼の、金色狼《きんいろおおかみ》と呼ばれる種族の族長の息子であった彼は、五〇〇年前は『殺戮の貴公子』と呼ばれており、『征服王』に逆らう魔族の多くを殺した。
『赤のルーファス』彼のもう一つの異名は、彼が敵を屠る際、その血を一身に浴び続けたことから名がつけられたものだ。

 人間を殺した悪の魔族のみならず、善良な魔族をも多数弑逆した――しかしその行為は、『征服王』に命じられていたからに過ぎない。
 魔王による洗脳を解かれ、善なる心を取り戻した彼は、『征服王』亡き後は人に歩み寄り、今は良好な関係を築いている。
 ――と、一般的には語られている。
 筈なのだが。



「お嬢様。お召し物はどうぞこちらの中からお好きなものをお選びください」
「……」

 濡れた体のままルーファスに人間界から魔界に連れ去られ、風邪を引くからと城のメイド達に体を洗われてすっかり綺麗になったヴィクトリアは、ずらりと並べられた可愛らしいドレスを前に顔を顰めた。
 華美な装飾が施されている。どう考えても、ただの村娘に着せるようなものではない。

「この服は一体……」

 風呂上がりにローブを着せられ、入浴後の手入れもされるがまま受け入れていた彼女だったが――この服はどう考えても「ない」。

「こちらは、ルーファス様からの贈り物でございます。濡れたものをそのままお召しになってはお風邪を召されます。どうかお召し替えを」
「私が着ていた服は?」
「ただいま洗濯中でございます」
「……」

 明らかに嘘だ。
 人間の世界とは違い、普通魔族なら魔法が使える。ルーファスなら、洗濯物を乾かすくらいわけないだろう。
 しかし、「魔族について知識の無い村娘」を演じている今のヴィクトリアではそれを口にすることも出来ず、彼女は笑顔のまま顔をこわばらせた。

 魔王城リラ・ノアール。
人間の住む世界デュアルソレイユには、魔族の住む世界セレネにある魔王城を、映し鏡の魔法で繋いだ場所がある。

「……」

 何故ヴィクトリアがこの城にいるかというと、時は少し前に遡る。
 ルーファスとレイモンドが村に来るという話を聞いたヴィクトリアは、二人に見つからないよう森に向かったのだが、偶然通りかかった二人に見つかってしまったのだ。
 

『ああ、陛下! こんなに小さくなられて……! あの頃の高貴な風貌も素敵でしたが、今のお姿は大変お可愛らしく』
『離れて!』

 いきなり男に抱きしめられ、ヴィクトリアは反射的に手を上げていた。
 そして、はっと我に返る。

(しまった! 全力で殴ってしまった。熊を一撃で脳震盪にする拳で!)

『ご、ごめんなさ』
 
 しかし、流石魔族は丈夫だった。
 謝ろうとしたヴィクトリアに、ルーファスは笑顔で言った。

『……陛下からもたらされる痛みであれば、私の至福でございます』

 ある意味そこまではまだ、ヴィクトリアにとっては良かったことなのかもしれない。
 問題はそのあとだった。
 なんと、ルーファスに続きレイモンドまで、ヴィクトリアが水浴びをしていた場所に現われたのだ。

『ルーファス。ここで何をしている? ……その少女は何だ?』
 
 レイモンドと呼ばれた黒髪赤目の青年が、少し不機嫌そうにヴィクトリアを見た。ルーファスはぱっと表情を明るくして、レイモンドに言った。

『レイモンド! やっと見つけた。この方こそ、陛下の生まれ変わりだ!』

 レイモンドは、あからさまに顔を顰めた。

『……ルーファス、何を血迷ったことを言っている。こんな小猿のような少女があの男な訳がないだろう。お前の目は腐っているのか』

『レイモンド! 恐れ多くも陛下に拾い育てていただいた身でありながら、あの方の高貴な魂の輝きがわからないとはどれだけその目は節穴なんだ?』 

 普通わからないと思う。というより、外見が違うのにルーファスが見破ったことの方がおかしいのだ。
 ヴィクトリアは口論する二人を前に、そっと手を上げた。

『どうされましたか? 陛下』
『……あの、すいません。とりあえず一度服を着て良いでしょうか?』

 二人から見えぬよう草むらに隠れて、すぐに着替えを済ませる。
 着替えを終えてヴィクトリアが草むらから顔を出すと、そこには驚きの光景が広がっていた。

『気が回らず申し訳ございませんでした。陛下』

 なんとルーファスは、土下座してヴィクトリアを待っていたのだ。

『やめてください。たってください! あとその、陛下って呼ぶの、やめてもらえませんか? ……殴ってしまったのは謝ります。ただ私、魔王ではありませんし、魔族でもないどころか、魔法も使えないただの人間です』
『……ただの人間? 魔法が使えない……?』

 ルーファスは目を大きく見開いた。

『はい。だから私は、貴方が探されている方ではないと思います』

 ヴィクトリアは静かに頭を下げた。そうして二人に背を向ける。
 よし。乗り切った――と、思ったところで。

『そうですか。わかりました』

 背後から聞こえたのは、小さく笑うルーファスの声だった。

『貴方に記憶が無くとも魔法を使えずとも、貴方は間違いなく、私の陛下です。これから城にお連れしますので、続きの話はそこでいたしましよう』
『え?』

 彼は何を言っているのだろう。彼は私の話を、ちゃんと聞いていたんだろうか? 
 ヴィクトリアが目を白黒させているうちに、ルーファスは彼女の体を抱き上げた。

『それでは陛下、参りましょう。暴れると落ちてしまいます。しっかり私にしがみついていてくださいね?』
『わっ』

 ルーファスはそう言うとヴィクトリアに笑顔を向けて、本来の姿に形を変えた。
 美しい、金色の狼に。
 そしてヴィクトリアを背中に乗せると、ルーファスは一気に森を駆け抜けた。

『きゃああああああ!!』

 ヴィクトリアは声を上げた。
 金色狼の『疾風』の異名は伊達ではない。魔法を使えない人間をのせ、金色狼は風となる。

 そうして無理矢理魔王城に連れてこられて、濡れたままでは風邪を引くとお風呂に入れられ、現在着替えの服の揉めている、というわけである。
 どう考えても、ただの人間の村娘には過分なもてなしだ。

「――そう」
 明らかな嘘をつかれてため息を一つ吐いたヴィクトリアは、『ヴィンセント・グレイス』の私室のクローゼットに向かった。
 クローゼットを開ければ、中にはヴィクトリアの普段着が入っていた。
 それもそのはず、魔王の部屋のクローゼットは、『扉を開けた者』が持っている持ち物の中で、そのとき必要とするものを取り出せる魔法がかけられているのだ。

「この服、私が普段来ているものとそっくり! 私はこれを着ようと思います」

 偶然を装ったヴィクトリアがにっこり笑って言うと、メイドたちの表情が少し曇った。
 ヴィクトリアが着替えを終えてすぐ、コンコンと誰かが扉を叩いた。

「――はい」
「陛下! お召し替えは終わりましたか?」

 声の主はルーファスだった。ヴィクトリアは頷いた。 

「はい」
「では、失礼いたします」

 ルーファスは部屋の中に入ると、侍女たちによって髪を編み込まれ、椅子に座らせられたヴィクトリアを見て首を傾げた。

「……随分簡素な服を選ばれたのですね? 私がご用意したものに、そんなものはありましたか?」
「これは、クローゼットにあった服です。私の持ち物によく似たものがあったので。……用意してくださった服は貴方のご趣味ですか? ルーファス様」
「しゅ、趣味だなんて……!」

 ルーファスは、ぽっと顔を赤らめた。
 目を彷徨わせ、ヴィクトリアと目を合わせぬよう視線を下に向けて、へそのあたりで手を合わせる。

「へ、陛下がお召しになれば、きっとお人形のように可愛いに違いないと思い……そ、その……」
「……」
「お嫌い、でしたか……?」

 彼に今しっぽが生えていたら、確実にしゅんと下がっているに違いない。
 金色狼の時の姿が思い浮かぶせいか、ヴィクトリアは大型犬を叱っているような気持ちにもなった。
 青い瞳が悲しげに揺れる。
 ヴィクトリアは反応に困った。

(この子は、私がその顔には弱いと知っての行動なの!?)

 自分の『好み(しゅみ)』ぴったりの青年の姿を見て、ヴィクトリアは遠い昔のことを思い出した。

 それはまだ、ルーファスが耳としっぽをまだ制御出来ていなかった頃。
 族長の息子として、そしてヴィンセントの養子であるレイモンドの友人になるべくして連れてこられたルーファスは、少し大きめの服を着てぱたぱたとよく城の中を走っていた。

『陛下! 陛下!』

 レイモンドと共に城の中で魔法の訓練をしていた彼は、しっぽをぶんぶん振りながらヴィンセントに手を差し出した。

『陛下にお似合いだと思って、花をつんできました!』

 手に握られていたのは、泥と根っこのついた花だった。

『私と同じ、青と黄色の花なのです!!!』
『…………』

 ヴィンセントが、ちらりと側に控えていた宰相を見ると、彼は小さく首を振った。
 魔王としては、花は受け取るべきではない、ということだ。
 子どもであろうと、魔族の王であるヴィンセントに、庭で摘んだ花をそのまま差し出すなんて、礼儀知らずも甚だしい。ただ、子ども相手に罰を与える気にもなれず、ヴィンセントはその場を立ち去ろうとした。
 けれど。

『お花は、お嫌いですか……?』

 背後から今にも泣き出しそうな子どもの声がして、ヴィンセントは振り返った。
 青い大きな瞳が揺れる。

『――すまない。ありがとう。私を思って積んできてくれたんだな』

 花を受け取り頭を撫でれば、近くにいた幼馴染が小さく溜め息を吐いたのがわかった。
『はい。陛下!』
 子どもは、花が咲いたように笑った。

「……」
 ルーファスが齢五〇〇を超えていることは間違いないのに、子どもの頃とそっくりな行動のせいで嫌いと言えず、ヴィクトリアは頭を抑えた。

「ルーファス様。何度も言いますが、私は貴方の『陛下』ではありません。ですから、早く私を村に帰してください」
「そんな……!」

 ルーファスは縋るような声で叫んだ。

「陛下は陛下です! 私が間違えようはずがございません。陛下が姿をお隠しになろうとも、このルーファス・フォン・アンフィニ、必ず陛下を探してみせると心に誓い生きてきたのですから!」

「それでも、違うものは違うのです。……私は帰らせていただきます」
「お待ちください。陛下!」

 ヴィクトリアがルーファスの声を聞かず部屋を出ようとすると、硬い胸板にぶつかり、ヴィクトリアは鼻を手で抑えた。

「着替えは終わったのか」

 抑揚のない声が、慌ただしい室内に響く。

「レイモンド」

 ルーファスは扉を押さえ、レイモンドをじっと睨んだ。

「話に割り込むな。俺が今陛下とお話をしているんだ」
「廊下まで声が響いていたぞ。当の本人は魔力も無く、身に覚えも無いと言っている。人違いだ。ならば彼女は帰すべきだろう」
「……人違いだなんて! この方は!!」

 ルーファスの言葉を、レイモンドは低い声で遮った。

「人間の味方だと噂のお前が、ただの人間の少女を連れ去ったなんて、外聞が悪いとは思わなかったのか?」
「……っ」
 
 レイモンドの言葉に、ルーファスの瞳が僅かに揺らぐ。その隙に、レイモンドはヴィクトリアの腕を掴んだ。

「帰りたいならぐずぐずするな。ただの人間が一人で帰るのは難しいだろう。帰りは俺が来ってやる」
「は、はい」
「待て。レイモンド! そのお方を何処に連れて行く気だ!」
「村に送り届けるだけだ」

 レイモンドはそう言うと、ルーファスの言葉を無視して階段へと向かった。



「……あの、ありがとうございました。助けてくれて」

 腕を引かれながら、ヴィクトリアは謝辞を述べた。
 だが青年――レイモンドは、前を向いたまま、一言も話そうとしなかった。けれどそんな彼を見て、ヴィクトリアは胸が熱くなるのを感じていた。
 まさか『彼』が助けてくれるなんて、思いもしなかった。

「……アイツが勝手に連れ去ったのが問題なんだ。村への訪れもなくなってしまったし、村には偶然会ったアンタに俺たちが迷惑を掛けて、詫びのために少し預かると伝えてある」
「そうなんですか? お気遣いありがとうございます」

 予想外の配慮にヴィクトリアは目を丸くした。
 彼が冷静に気をまわしてくれていたなんて驚きだ。

 レイモンド・ディー・クロウ。
 黒髪赤目。『黒のレイモンド』と呼ばれる彼は、ルーファスとは対称的に、一滴たりとも血を浴びずに殺戮を行った。

 レイモンドは『ヴィンセント』の養子だったが、ヴィクトリアは自分が彼に好意的だった記憶はあまりない。
 その彼が、自分のために……いや、ただの人間のために行動してくれるようになっていたなんて。
 五〇〇年は、時は偉大だ。
 かつての育て子がすくすく育ってくれたことに対する喜びと、彼の行動に、ヴィクトリアは顔を綻ばせた。

 ルーファスに連れ去られ、彼が追ってこなかったときは見放されたと思ったけれど、どうやらそうではなかったらしい。

「レイモンドさんは、優しい方なんですね」
「……」

 ヴィクトリアが微笑めば、ピタリとレイモンドは足を止めた。
 再び鼻を打った。ヴィクトリアが顔を抑えていると。

(私、何でレイモンドに顔をまじまじ見られてるの……?)

 昔は彼を見下ろすばかりだったのに、今は身長差もあって見下される形になってドキリとする。
 これでは昔と立場が逆だ。

「どうかされましたか?」  

 ヴィクトリアは(必然的に)上目遣いで彼に尋ねた。

「――いや」

 レイモンドは短く言うと、ヴィクトリアに背を向けた。
 我が子ながらやはり読めない。
 でも生まれ変わって、こうやって一緒に歩けたのは、少し嬉しいとヴィクトリアは思った。心なしか歩きがゆっくりなのは、自分に合わせてくれているからだろうか? 

 その時。

「――ッ!」

 レイモンドの顔に、鋭い刃でも当てられたかのような傷が出来て血が滲んだ。
 レイモンドの前に出ようとしたヴィクトリアを、レイモンドが手で制止する。 

 古い城の中には、天窓から光が射し込んでいた。
 よく見てみると、光に翳さなければわからない程度の細い糸が、あたりに張り巡らされている。
 彼女はその魔法を、よく知っていた。
 
「待ちなさい。レイモンド。――その方は、一体どなたです?」

 糸の魔法。氷の魔法。
 そしてその声は、ヴィクトリアのよく知るものだった。

「…………カーライル」

 レイモンドは静かな声で、その男の名を呼んだ。

「……レイモンド。その方を連れて、私の部屋に来ていただけますね?」

カーライル・フォン・グレイル。
魔王の片腕であり、五〇〇年前は宰相を務めていた男。
 あらゆるものを切り裂く魔法の蜘蛛の糸。
 
 魔王ヴィンセント・グレイスのただ一人の幼馴染みは、そう言って妖しく笑った。