『ごほっ』
長い漆黒の髪に血のような赤い目をした魔王が咳込めば、地面に赤い血が広がった。
――一体、何が起きたのかわからない。
魔王はそんな表情をして、己の胸を押さえていた。
そして勇者は、血を吐いて苦しむ魔王を、ただただ静かに見つめていた。
『すいません。私という存在は、人にとっては薬となっても、どうやら魔族にとっては毒らしくて。私の体そのものが、貴方方に対する武器なのです』
そう言うと、勇者は身動きの取れない魔王の剣に、そっと指を押し当てた。
まるで、勝利を確信したかのように。
『まあ私も、貴方の剣に貫かれたら死んでしまうんですが……今の貴方に、そんな余裕はありませんよね?』
聖剣は真っ直ぐに、魔王の心臓を貫く。
『私は神託を受けた勇者として、貴方の力を封じる。一人の悪役を仕立てるだけで、世界に幸福は訪れる――この世界に、貴方は要らない。だから』
『……ッ!』
『死んでください。魔王陛下』
魔力を奪う聖なる剣。
力の全てを奪われた魔王の体は、ゆっくりと勇者の腕へと倒れた。
残虐非道なる魔王。
『征服王』。人間界の殺戮者。
その、討伐。
勇者によるこの歴史的な勝利は、人間と魔族の長きにわたる戦争を終わらせた。
魔王の死を知ったとき、人間だけでなく魔族さえ、喜びの声を上げたという。
だからこそ、彼らは知らない。
勇者に殺された『悪』が『人間の敵』である魔王が、そんな魔王が、最期にひとり、願ったことは――……。
『木漏れ日が似合う人』という言葉がもしこの世界にあるならば、私はその人のことを、そう表現したい。
彼女は、今はそう思う。
『凄いなあ』
優しく頭を撫でる手は、柔らかい声音の割に硬い。
『ヴィンセントには、そんな力があるんだね』
甘い声で彼は言う。
名前を呼ぶ声はただただ温かく、それでいて、春に咲く花の綿毛のように儚く聞こえた。
『嫌だ。……嫌だよ。こんなの、こんな力……全然嬉しくなんてない』
子供は小さな体を震わせて、世界のすべてを否定するかのように声を漏らす。
夜色の髪に夕闇の瞳。
世界を否定して、自分を消してしまいそうな子供の体を、彼は優しく抱きしめた。
『言葉は、誰かに伝えるためのものだから。声が、言葉が届くということは、幸せなことだよ。言葉が心に響くなんて――君は、本当に凄い力を持っているんだね』
長い黒髪を優しく手で梳かして、小さな背中をさすれば、子どもは震える手で彼の服を掴んだ。
『嫌だ。嫌だ。僕は、嫌いだ。こんな力も。……僕自身も』
『自分を否定しないで』
諭すような声だった。
『君がその力をもって生まれたことに、きっと意味はある筈だよ。――だから。どうか、下を向かないで』
大きな手で、彼は子どもの涙を拭う。
見開かれた子どもの瞳は、血のように赤い色をしていた。
『一緒に眠ろう。大丈夫。夜は怖くない』
『……僕に、触るな』
『また、そんなことを言って。本当は君は、一人は寂しいだろう?』
『…………そんなこと、ない』
柔らかい褥の上で、彼は子どもを抱きしめた。
――彼の、鼓動の音が聞こえる。
子どもはその音を聞いて、少しだけ表情を和らげた。
優しくて温かい、命の音。
うとうとして子どもが目を瞑れば、彼は優しく子どもの頭を撫でた。
『大丈夫。泣かないで。君が眠るまで、そばに居るから』
ぴちちちと鳥の声がする。
部屋に明るい陽の光が差し込めば、彼は窓をあけていつも優しく子どもの体を揺するのだ。
『もう夜は明けた。さあ、朝だよ。起きて。起きて。ヴィンセント――……』
★
「ん……。うるさい。ディー……」
「起きて。起きなさい。ヴィクトリア。早く!!!!」
朝を告げる鳥の声をかき消す、頭に響く甲高い少女の声。
聞き慣れた声に目を冷ましたヴィクトリアは、少しだけ瞼を押し上げて、よく知る少女の顔を見て再び毛布にくるまった。
うごうごうご。寝台の上で、虫のように丸く固まる。
それを見た少女は、幼馴染がくるまった毛布に手をかけると、ぐいっと無理やり剥ぎ取った。
「いい加減、起きなさい!!!!!」
「わっっっ!!」
寝台から転がり落ちる。
毛布の中から現れたのは、髪に寝癖のついた、まだ幼さの残る顔立ちの少女だった。
肩にかかるくらいの長さの茶髪に、茶色の瞳。
まるまるとした大きな瞳は、陽の光を浴びてきらきらと輝く。
彼女はふああと小さくあくびをして、目を擦ってから、自分を床に落とした犯人を見上げた。
腰に手を当てての仁王だち。とても年頃の少女とは思えない勇ましさ。
「ようやく起きたわね。ヴィクトリア」
「……アルフェリア」
刺々しい言葉を放つ幼馴染を、少女は呆れた声で呼んだ。
アルフェリア・ギルヴァ。
村長の娘であることもあり、身奇麗な格好をした少女は、不満げなヴィクトリアの声に青筋を浮かべた。
「貴方はもう本当に! いっつもいっつも、私達に起こされなきゃ起きないんだから! もう一五になるんだから、一人で起きれるようになりなさいっていつも言ってるでしょう? 一人で暮らしているからって、遅くまで寝てていい理由にはならないんだからね!」
「……はい」
怒号を前に、ヴィクトリアは寝間着のまま正座して俯いた。
同じ年頃の筈だが、昔からヴィクトリアはアルフェリアに頭が上がらない。
ヴィクトリアが叱責に耐えていると、優しげな声音が彼女の頭上から降ってきた。
「そう朝から大声で怒るものじゃないよ。アルフェリア」
にこりと笑う少年の手には、朝食の入った籠がある。
「おはよう。ヴィクトリア」
「――エイル!」
「よく眠れた?」
「……うん」
優しげな笑みを浮かべる、少し癖のある茶髪の少年。
田舎の純朴な少年を体現したような幼馴染に、ヴィクトリアはつられて微笑んだ。
ただ、エイルの優しい微笑みと声を聞いていると、また眠気が襲ってくる。
ヴィクトリアはのそのそと寝台に戻ると、再び何事もなかったように布団を被った。
「何また眠ろうとしているのかしら?」
「あだだだだ」
しかし、それを見ていたアルフェリアに、問答無用で寝台から落とされる。
「み、耳を引っ張らないで。アルフェリア!」
痛い。
ヴィクトリアが叫び声を上げると、アルフェリアは耳元で、ゆっくり聞き取りやすく彼女に尋ねた。
「こ・れ・で、目が覚めたかしら???」
確実に怒ってる。
ヴィクトリアは震えた。アルフェリアは、絶対に怒らせてはならない人だというのに。
「――アルフェリア。そのへんにしておいてあげなよ。ヴィクトリアが困ってる」
「貴方は黙ってて」
「…………」
ピシャリと言われ、水瓶を抱えていたエイルは笑顔のまま顔を強張らせた。
この場で最年長の唯一の男だというのに、全く立つ瀬が無い。
「暴力は駄目だよ。それに、そんなふうに抓ったら、ヴィクトリアが痛いのは、君だってわかっているだろう?」
「……ごめんなさい」
アルフェリアは、子どもに叱るように話すエイルから顔をそむけると、ヴィクトリアから手を離した。
アルフェリア、ヴィクトリア、エイル。
子どもの減ってしまったこの村で、年の近い三人は実の兄妹のように育てられた。
村長の娘アルフェリア。
パン屋の息子エイル。
そして森に住む老夫婦の養子、ヴィクトリア・アシュレイ。
ヴィクトリアが一人で暮らすようになり、もうすぐ一年になる。
彼女は元々捨て子で、戦争で子を無くした老夫婦に、森で一人倒れていたところを拾われ育てられた。
しかし昨年祖父が倒れ、その後を追うように、彼女を育ててくれた祖母も三ヶ月前に亡くなってしまった。
二人が死んでからというもの、一人暮らす幼馴染の元に、二人は毎朝訪れている。
パン屋の息子であるエイルは、毎朝ヴィクトリアに朝食を届けに来る。
食事にこだわりのないヴィクトリアは、放っておけば一日食べない日も出てきてしまうからだ。
遅めの朝食をとっていると、幼馴染みが今日はいつも以上に立派な服を着ていることに気付いて、ヴィクトリアは尋ねた。
「そういえば、アルフェリア。今日は、いつもより可愛い格好をしてるんだね。何か用事でもあるの?」
今日のアルフェリアは、心なしか華やいでいるようにヴィクトリアには思えた。
いつもなら髪は結い上げるだけなのに、今日は花をさして編み込んでいる。
「それは当然よ!!!」
アルフェリアは胸を叩き、にっと快活そうな笑みを浮かべた。
「なんたって今日は、魔族の方が来るんだもの!」
「……………………魔族?」
ヴィクトリアは食事をする手を止め、長い沈黙の後に言葉を繰り返した。
「それは……そんなに、嬉しいことなの?」
「当たり前でしょ!!」
アルフェリアは即答した。
「今の世界があるのは現貴族派の魔族様のおかげだもの。黒のレイモンド様、赤のルーファス様といえば有名じゃない!!」
先ほどの、暴力的な少女とはとても思えない。
アルフェリアは年相応の夢見る乙女のように、手を合わせて瞳を輝かせていた。
「五〇〇年前、魔王のせいで滅び欠けた世界を救った英雄よ! 人間を殺そうとした悪い魔族たちを静粛して、五〇〇年経つ今もなお、私たち人間のために慈善活動も行ってくださっているんだから!」
「……」
アルフェリアの言葉を聞いて、ヴィクトリアは顔を顰めた。
この世界には、二つの『世界』が存在する。
人間の住む『世界』デュアルソレイユ。
魔族の住む『世界』セレネ。
二つの種族・『世界』は、ちょうど硬貨の裏と表のように存在していたが、五〇〇年前、セレネに住む魔族が人間の住むデュアルソレイユに領地を広めようと侵攻した時代があった。
だからこそ、『悪い魔族』を倒した二人は、『良い魔族』としてデュアルソレイユでは英雄視されている。
「でも、五〇〇年前から生きてるってことは五〇〇歳は超えているんだろう? アルフェリアはそれでもいいの?」
エイルは困惑を隠しきれない様子で尋ねた。
「年齢なんて関係ない! ただし美形に限る! それに結婚できれば玉の輿だし!!」
「アルフェリア……」
鼻息が荒い。
これをきっかけにどっちかを落としてやる! と意気込む幼馴染みに、エイルはがっくりと肩を落とした。
「女の子って、こういうものなのかなあ……? ヴィクトリアも興味ある?」
「私は別に。……『魔族』が来るみたいだけど、私は仕事にいくよ。ご馳走さま、エイル」
「え? ちょっと、ヴィクトリア?」
ヴィクトリアはそう言うと、幼馴染の返事も聞かず走り出した。
「全くもう……。せっかくあの子も可愛くしてあげようと思ったのに。逃げたわね。ヴィクトリア」
アルフェリアは溜め息を吐いた。
ヴィクトリアが勢いよくあけた扉は外れ、ギイコキイコと悲鳴を上げている。
「まあいいじゃないか。どうやらヴィクトリアは、玉の輿には興味がないみたいだし」
それ以上壊れないよう扉を支えてから、元気よく家から飛び出していった幼馴染を思って、エイルは苦笑いした。
★
仕事場《やま》についたヴィクトリアは、木の枝の上に隠れ息を殺していた。
ヴィクトリアは、狩猟を生業にしている。
若い人間が少ない村で、人里を襲う可能性がある動物を狩るのも彼女の仕事だ。
「――よし。いける!」
人並外れた跳躍力。
獲物を見つけた彼女は木を強く蹴って宙に浮くと、落下による加速を利用してそのまま拳を熊の頭に叩き込んだ。
「熊、確保!!!!!」
どおおん!
脳天に重い一撃を食らって倒れた熊を前に、ヴィクトリアは一度手を合わせてから、太ももに隠していた短剣でとどめを刺した。
「熊持ち帰ったらエイルからまた心配されそうだけど、一人じゃ食べられないし仕方ないよね……」
解体した熊の体を運びながらヴィクトリアは呟く。
エイルに「うちで働かないか」と、誘われたことはある。
けれどヴィクトリアは、その申し出を受けることは出来なかった。
自分のやっていることが危険であることは重々承知している。でも、誰かがやらなくてはいけないのだ。そしてヴィクトリアは、自分なら殺されない自信があった。
だからどんなに危険な仕事であっても、この仕事こそ自分に与えられたもののようにヴィクトリアには思えた。
たとえそのせいで、自分の手が血で濡れたって――。
「…………」
赤く濡れた手を見て、ヴィクトリアはふう、と深く息を吐いた。
気持ちが沈んでしまう、こんなときは。
「よし、今日も水浴びをしよう!」
水浴びは、ひと仕事終えたあとのヴィクトリアの楽しみの一つだ。
ヴィクトリアは服を脱ぐと、水の中をスイスイ泳いだ。ついでとばかりに、魚を見つけては陸に打ち上げる。
今日の昼ごはんは、焼き魚に決定だ。
「ん~~っ。気持ちいい!」
ぷはあ!
水の中から顔を出すと、ヴィクトリアは思いっきり息を吸い込んだ。
新鮮な森の陽気が、体に満ちる感覚がする。それに水の冷たさは、頭を冷やしてくれる気がして心地よかった。
「……今頃、村についているのかな……」
朝のアルフェリアの言葉を思い出して、ヴィクトリアはぽつりそう呟いた。
(今日は、『二人』が来ると言っていた。)
「でも一体、なんのために、あの子達がこんな場所に……」
呟いて、ヴィクトリアは瞳を閉じた。
『陛下』
柔らかそうな金色の髪に、宝石のような青の瞳。
目を瞑れば記憶の中で、小さな手が自分の手を包んで、ふわりと優しく微笑む。
『陛下。陛下に、このお花を差し上げます』
天使のような笑顔。可愛らしい、幼い声。もうずっと昔に、手を離してしまった小さな手。
そして隣には、黒髪に赤い瞳をした子どもが、少し不機嫌そうな顔をして立っている。
その姿を思い出して、ヴィクトリアは唇を動かしていた。
「会いたいな」
けれど思わず漏らしてしまった言葉に気づいて、彼女はすぐに口を押さえた。
「……私は、何を言って」
震える声で自嘲する。
「今更、会ってなんになるの。……今の私はもう、ただの人間なのに」
その時だった。
背後からかさりという音がして、生き物の気配に気付いた彼女は慌てて服で胸元を押さえた。
敵の襲来に備え剣を構える。
おかしい。この森には、自分以外、人は近づかないはずなのに。
(一体、何だというの……?)
足音はゆっくりと、こちらに近づいてくる。ヴィクトリアは表情を険しくした。
そして、現れた男は。
「――陛下?」
ヴィクトリアを見て一言、そう呟いた。
「……え?」
「陛下! ああ、陛下!! ここにいらっしゃったのですね……!」
ヴィクトリアは思わず剣を落とした。何故彼が、自分をそう呼ぶのか理解出来ない。
呆然と立ちすくむ彼女に対し、男は服が水に濡れることもためらわず一気に距離を詰めると、ヴィクトリアの体を強く抱きしめていた。
――星のように輝く、美しい黄金色《こがねいろ》の髪。海を思わせる青の瞳。人とは思えない、凄絶なまでの美貌。
彼自身に見覚えはない。しかし彼によく似た色をした少年なら、ヴィクトリアはよく知っていた。
自分が死んでから五〇〇年。魔族の寿命は長く、それ故に成長も遅い。ならば自分が魔王だった頃、少年だった人間が大人になっていてもおかしくはない。
(彼は。彼は、まさか――……)
「貴方は……ルーファス・フォン・アンフィニ……?」
震える声で尋ねる。
ヴィクトリアの問いに、青年は心の底から幸せそうに微笑んだ。
「はい。――私は、貴方の剣。この五〇〇年、ずっと貴方を探していました」
ヴィクトリアに、老夫婦に拾われる前の記憶は無い。
けれど確かに、覚えていることがある。
彼女には、誰にも言えない秘密がある。
――それは。
「――ヴィンセント様」
自分の前世が――五〇〇年前勇者に倒された魔王、ヴィンセント・グレイスだということだ。
五〇〇年前、魔界セレネには一人の王がいた。
長い黒髪に、血のように赤い瞳。
夜の闇に、赤く染め上げた月が浮かぶようなその男は、誰よりも強い魔力を持っていた。
破滅の王。漆黒の使者。紅の月。
様々な名で呼ばれるその存在は、魔族が王を戴いてから、最も残忍な王であったと、人間の世界デュアルソレイユの記録には残っている。
『征服王』と呼ばれた魔王の名はヴィンセント・グレイス。
『征服王』は、不思議な力を持っていた。
彼が願い言葉にしたことは、あらゆることが叶うという不思議な力。
つまり相手の死を望めば、死をもたらすことができる。
しかし、『征服王』は力を持ちながら自らは手を下さず、臣下たちに自分に逆らうものを処罰させた。
ルーファス・フォン・アンフィニ。
金髪紫眼の、金色狼《きんいろおおかみ》と呼ばれる種族の族長の息子であった彼は、五〇〇年前は『殺戮の貴公子』と呼ばれており、『征服王』に逆らう魔族の多くを殺した。
『赤のルーファス』彼のもう一つの異名は、彼が敵を屠る際、その血を一身に浴び続けたことから名がつけられたものだ。
人間を殺した悪の魔族のみならず、善良な魔族をも多数弑逆した――しかしその行為は、『征服王』に命じられていたからに過ぎない。
魔王による洗脳を解かれ、善なる心を取り戻した彼は、『征服王』亡き後は人に歩み寄り、今は良好な関係を築いている。
――と、一般的には語られている。
筈なのだが。
★
「お嬢様。お召し物はどうぞこちらの中からお好きなものをお選びください」
「……」
濡れた体のままルーファスに人間界から魔界に連れ去られ、風邪を引くからと城のメイド達に体を洗われてすっかり綺麗になったヴィクトリアは、ずらりと並べられた可愛らしいドレスを前に顔を顰めた。
華美な装飾が施されている。どう考えても、ただの村娘に着せるようなものではない。
「この服は一体……」
風呂上がりにローブを着せられ、入浴後の手入れもされるがまま受け入れていた彼女だったが――この服はどう考えても「ない」。
「こちらは、ルーファス様からの贈り物でございます。濡れたものをそのままお召しになってはお風邪を召されます。どうかお召し替えを」
「私が着ていた服は?」
「ただいま洗濯中でございます」
「……」
明らかに嘘だ。
人間の世界とは違い、普通魔族なら魔法が使える。ルーファスなら、洗濯物を乾かすくらいわけないだろう。
しかし、「魔族について知識の無い村娘」を演じている今のヴィクトリアではそれを口にすることも出来ず、彼女は笑顔のまま顔をこわばらせた。
魔王城リラ・ノアール。
人間の住む世界デュアルソレイユには、魔族の住む世界セレネにある魔王城を、映し鏡の魔法で繋いだ場所がある。
「……」
何故ヴィクトリアがこの城にいるかというと、時は少し前に遡る。
ルーファスとレイモンドが村に来るという話を聞いたヴィクトリアは、二人に見つからないよう森に向かったのだが、偶然通りかかった二人に見つかってしまったのだ。
『ああ、陛下! こんなに小さくなられて……! あの頃の高貴な風貌も素敵でしたが、今のお姿は大変お可愛らしく』
『離れて!』
いきなり男に抱きしめられ、ヴィクトリアは反射的に手を上げていた。
そして、はっと我に返る。
(しまった! 全力で殴ってしまった。熊を一撃で脳震盪にする拳で!)
『ご、ごめんなさ』
しかし、流石魔族は丈夫だった。
謝ろうとしたヴィクトリアに、ルーファスは笑顔で言った。
『……陛下からもたらされる痛みであれば、私の至福でございます』
ある意味そこまではまだ、ヴィクトリアにとっては良かったことなのかもしれない。
問題はそのあとだった。
なんと、ルーファスに続きレイモンドまで、ヴィクトリアが水浴びをしていた場所に現われたのだ。
『ルーファス。ここで何をしている? ……その少女は何だ?』
レイモンドと呼ばれた黒髪赤目の青年が、少し不機嫌そうにヴィクトリアを見た。ルーファスはぱっと表情を明るくして、レイモンドに言った。
『レイモンド! やっと見つけた。この方こそ、陛下の生まれ変わりだ!』
レイモンドは、あからさまに顔を顰めた。
『……ルーファス、何を血迷ったことを言っている。こんな小猿のような少女があの男な訳がないだろう。お前の目は腐っているのか』
『レイモンド! 恐れ多くも陛下に拾い育てていただいた身でありながら、あの方の高貴な魂の輝きがわからないとはどれだけその目は節穴なんだ?』
普通わからないと思う。というより、外見が違うのにルーファスが見破ったことの方がおかしいのだ。
ヴィクトリアは口論する二人を前に、そっと手を上げた。
『どうされましたか? 陛下』
『……あの、すいません。とりあえず一度服を着て良いでしょうか?』
二人から見えぬよう草むらに隠れて、すぐに着替えを済ませる。
着替えを終えてヴィクトリアが草むらから顔を出すと、そこには驚きの光景が広がっていた。
『気が回らず申し訳ございませんでした。陛下』
なんとルーファスは、土下座してヴィクトリアを待っていたのだ。
『やめてください。たってください! あとその、陛下って呼ぶの、やめてもらえませんか? ……殴ってしまったのは謝ります。ただ私、魔王ではありませんし、魔族でもないどころか、魔法も使えないただの人間です』
『……ただの人間? 魔法が使えない……?』
ルーファスは目を大きく見開いた。
『はい。だから私は、貴方が探されている方ではないと思います』
ヴィクトリアは静かに頭を下げた。そうして二人に背を向ける。
よし。乗り切った――と、思ったところで。
『そうですか。わかりました』
背後から聞こえたのは、小さく笑うルーファスの声だった。
『貴方に記憶が無くとも魔法を使えずとも、貴方は間違いなく、私の陛下です。これから城にお連れしますので、続きの話はそこでいたしましよう』
『え?』
彼は何を言っているのだろう。彼は私の話を、ちゃんと聞いていたんだろうか?
ヴィクトリアが目を白黒させているうちに、ルーファスは彼女の体を抱き上げた。
『それでは陛下、参りましょう。暴れると落ちてしまいます。しっかり私にしがみついていてくださいね?』
『わっ』
ルーファスはそう言うとヴィクトリアに笑顔を向けて、本来の姿に形を変えた。
美しい、金色の狼に。
そしてヴィクトリアを背中に乗せると、ルーファスは一気に森を駆け抜けた。
『きゃああああああ!!』
ヴィクトリアは声を上げた。
金色狼の『疾風』の異名は伊達ではない。魔法を使えない人間をのせ、金色狼は風となる。
そうして無理矢理魔王城に連れてこられて、濡れたままでは風邪を引くとお風呂に入れられ、現在着替えの服の揉めている、というわけである。
どう考えても、ただの人間の村娘には過分なもてなしだ。
「――そう」
明らかな嘘をつかれてため息を一つ吐いたヴィクトリアは、『ヴィンセント・グレイス』の私室のクローゼットに向かった。
クローゼットを開ければ、中にはヴィクトリアの普段着が入っていた。
それもそのはず、魔王の部屋のクローゼットは、『扉を開けた者』が持っている持ち物の中で、そのとき必要とするものを取り出せる魔法がかけられているのだ。
「この服、私が普段来ているものとそっくり! 私はこれを着ようと思います」
偶然を装ったヴィクトリアがにっこり笑って言うと、メイドたちの表情が少し曇った。
ヴィクトリアが着替えを終えてすぐ、コンコンと誰かが扉を叩いた。
「――はい」
「陛下! お召し替えは終わりましたか?」
声の主はルーファスだった。ヴィクトリアは頷いた。
「はい」
「では、失礼いたします」
ルーファスは部屋の中に入ると、侍女たちによって髪を編み込まれ、椅子に座らせられたヴィクトリアを見て首を傾げた。
「……随分簡素な服を選ばれたのですね? 私がご用意したものに、そんなものはありましたか?」
「これは、クローゼットにあった服です。私の持ち物によく似たものがあったので。……用意してくださった服は貴方のご趣味ですか? ルーファス様」
「しゅ、趣味だなんて……!」
ルーファスは、ぽっと顔を赤らめた。
目を彷徨わせ、ヴィクトリアと目を合わせぬよう視線を下に向けて、へそのあたりで手を合わせる。
「へ、陛下がお召しになれば、きっとお人形のように可愛いに違いないと思い……そ、その……」
「……」
「お嫌い、でしたか……?」
彼に今しっぽが生えていたら、確実にしゅんと下がっているに違いない。
金色狼の時の姿が思い浮かぶせいか、ヴィクトリアは大型犬を叱っているような気持ちにもなった。
青い瞳が悲しげに揺れる。
ヴィクトリアは反応に困った。
(この子は、私がその顔には弱いと知っての行動なの!?)
自分の『好み』ぴったりの青年の姿を見て、ヴィクトリアは遠い昔のことを思い出した。
それはまだ、ルーファスが耳としっぽをまだ制御出来ていなかった頃。
族長の息子として、そしてヴィンセントの養子であるレイモンドの友人になるべくして連れてこられたルーファスは、少し大きめの服を着てぱたぱたとよく城の中を走っていた。
『陛下! 陛下!』
レイモンドと共に城の中で魔法の訓練をしていた彼は、しっぽをぶんぶん振りながらヴィンセントに手を差し出した。
『陛下にお似合いだと思って、花をつんできました!』
手に握られていたのは、泥と根っこのついた花だった。
『私と同じ、青と黄色の花なのです!!!』
『…………』
ヴィンセントが、ちらりと側に控えていた宰相を見ると、彼は小さく首を振った。
魔王としては、花は受け取るべきではない、ということだ。
子どもであろうと、魔族の王であるヴィンセントに、庭で摘んだ花をそのまま差し出すなんて、礼儀知らずも甚だしい。ただ、子ども相手に罰を与える気にもなれず、ヴィンセントはその場を立ち去ろうとした。
けれど。
『お花は、お嫌いですか……?』
背後から今にも泣き出しそうな子どもの声がして、ヴィンセントは振り返った。
青い大きな瞳が揺れる。
『――すまない。ありがとう。私を思って積んできてくれたんだな』
花を受け取り頭を撫でれば、近くにいた幼馴染が小さく溜め息を吐いたのがわかった。
『はい。陛下!』
子どもは、花が咲いたように笑った。
「……」
ルーファスが齢五〇〇を超えていることは間違いないのに、子どもの頃とそっくりな行動のせいで嫌いと言えず、ヴィクトリアは頭を抑えた。
「ルーファス様。何度も言いますが、私は貴方の『陛下』ではありません。ですから、早く私を村に帰してください」
「そんな……!」
ルーファスは縋るような声で叫んだ。
「陛下は陛下です! 私が間違えようはずがございません。陛下が姿をお隠しになろうとも、このルーファス・フォン・アンフィニ、必ず陛下を探してみせると心に誓い生きてきたのですから!」
「それでも、違うものは違うのです。……私は帰らせていただきます」
「お待ちください。陛下!」
ヴィクトリアがルーファスの声を聞かず部屋を出ようとすると、硬い胸板にぶつかり、ヴィクトリアは鼻を手で抑えた。
「着替えは終わったのか」
抑揚のない声が、慌ただしい室内に響く。
「レイモンド」
ルーファスは扉を押さえ、レイモンドをじっと睨んだ。
「話に割り込むな。俺が今陛下とお話をしているんだ」
「廊下まで声が響いていたぞ。当の本人は魔力も無く、身に覚えも無いと言っている。人違いだ。ならば彼女は帰すべきだろう」
「……人違いだなんて! この方は!!」
ルーファスの言葉を、レイモンドは低い声で遮った。
「人間の味方だと噂のお前が、ただの人間の少女を連れ去ったなんて、外聞が悪いとは思わなかったのか?」
「……っ」
レイモンドの言葉に、ルーファスの瞳が僅かに揺らぐ。その隙に、レイモンドはヴィクトリアの腕を掴んだ。
「帰りたいならぐずぐずするな。ただの人間が一人で帰るのは難しいだろう。帰りは俺が来ってやる」
「は、はい」
「待て。レイモンド! そのお方を何処に連れて行く気だ!」
「村に送り届けるだけだ」
レイモンドはそう言うと、ルーファスの言葉を無視して階段へと向かった。
★
「……あの、ありがとうございました。助けてくれて」
腕を引かれながら、ヴィクトリアは謝辞を述べた。
だが青年――レイモンドは、前を向いたまま、一言も話そうとしなかった。けれどそんな彼を見て、ヴィクトリアは胸が熱くなるのを感じていた。
まさか『彼』が助けてくれるなんて、思いもしなかった。
「……アイツが勝手に連れ去ったのが問題なんだ。村への訪れもなくなってしまったし、村には偶然会ったアンタに俺たちが迷惑を掛けて、詫びのために少し預かると伝えてある」
「そうなんですか? お気遣いありがとうございます」
予想外の配慮にヴィクトリアは目を丸くした。
彼が冷静に気をまわしてくれていたなんて驚きだ。
レイモンド・ディー・クロウ。
黒髪赤目。『黒のレイモンド』と呼ばれる彼は、ルーファスとは対称的に、一滴たりとも血を浴びずに殺戮を行った。
レイモンドは『ヴィンセント』の養子だったが、ヴィクトリアは自分が彼に好意的だった記憶はあまりない。
その彼が、自分のために……いや、ただの人間のために行動してくれるようになっていたなんて。
五〇〇年は、時は偉大だ。
かつての育て子がすくすく育ってくれたことに対する喜びと、彼の行動に、ヴィクトリアは顔を綻ばせた。
ルーファスに連れ去られ、彼が追ってこなかったときは見放されたと思ったけれど、どうやらそうではなかったらしい。
「レイモンドさんは、優しい方なんですね」
「……」
ヴィクトリアが微笑めば、ピタリとレイモンドは足を止めた。
再び鼻を打った。ヴィクトリアが顔を抑えていると。
(私、何でレイモンドに顔をまじまじ見られてるの……?)
昔は彼を見下ろすばかりだったのに、今は身長差もあって見下される形になってドキリとする。
これでは昔と立場が逆だ。
「どうかされましたか?」
ヴィクトリアは(必然的に)上目遣いで彼に尋ねた。
「――いや」
レイモンドは短く言うと、ヴィクトリアに背を向けた。
我が子ながらやはり読めない。
でも生まれ変わって、こうやって一緒に歩けたのは、少し嬉しいとヴィクトリアは思った。心なしか歩きがゆっくりなのは、自分に合わせてくれているからだろうか?
その時。
「――ッ!」
レイモンドの顔に、鋭い刃でも当てられたかのような傷が出来て血が滲んだ。
レイモンドの前に出ようとしたヴィクトリアを、レイモンドが手で制止する。
古い城の中には、天窓から光が射し込んでいた。
よく見てみると、光に翳さなければわからない程度の細い糸が、あたりに張り巡らされている。
彼女はその魔法を、よく知っていた。
「待ちなさい。レイモンド。――その方は、一体どなたです?」
糸の魔法。氷の魔法。
そしてその声は、ヴィクトリアのよく知るものだった。
「…………カーライル」
レイモンドは静かな声で、その男の名を呼んだ。
「……レイモンド。その方を連れて、私の部屋に来ていただけますね?」
カーライル・フォン・グレイル。
魔王の片腕であり、五〇〇年前は宰相を務めていた男。
あらゆるものを切り裂く魔法の蜘蛛の糸。
魔王ヴィンセント・グレイスのただ一人の幼馴染みは、そう言って妖しく笑った。
カーライルとヴィンセントが初めて出会ったのは、リラ・ノアールの中の薔薇園だった。
育ての親であるディー・クロウを失った幼い頃のヴィンセントは、夢の中でその影を探して、いつもその名前を呼んでいた。
『ディー。ディー、どこにいるの……?』
薔薇園は、魔王となったばかりのヴィンセントのお昼寝の場所だった。
自分に害をなそうとする者が、眠る間に近付けないように魔法をかけて、ヴィンセントは花の香りに包まれて眠っていた。
ある日いつものように薔薇園で眠っていると、誰かが自分の頬に触れたのに気付いて、ヴィンセントは跳ね起きた。
『誰!?』
ヴィンセントの声に、少年は目を丸くする。
雪のような白い肌に、葡萄酒のように蠱惑的な紫の瞳。
少し青みがかった雪のような色の長い三つ編みの髪は、左肩にかかるように下ろされ、髪を止める金の輪には、魔法の暴走を制御するための紫水晶が嵌められていた。
ヴィンセントが声を上げたあと、薔薇園を誰かが走る足音が響いた。
『申し訳ございません。陛下! 愚息がご迷惑をおかけしました』
ルーデウス・フォン・グレイル。
蜘蛛の一族の族長であった男は、少年の頭を押さえつけて無理矢理頭を下げさせた。
『ご紹介が遅れて申し訳ございません。これは私の息子のカーライルと申しまして、本日は是非陛下にご挨拶をと』
しかしその、力によって押さえつけるやり方が、ヴィンセントは気に食わなかった。
『下がれ』
『――え?』
『その子を残して、お前は下がれと言っている』
赤い瞳で睨みつければ、逃げるように男は場を離れ、地べたに這いつくばっていた少年は、宝石のような瞳でヴィンセントを見上げた。
『陛下』
『ヴィンセントだ』
自分より背の高い少年に手を差し出す。
『お前は、ヴィンセントでいい』
少なくとも眠っている自分に触れた相手なら、命を心配する必要はないだろう。
ヴィンセントがそう言うと少年はカーライルは手を取り、
『はい。――ヴィンセント』
頬を赤く染めて笑った。
その表情は、魔族だというのに、まるで心を持つ人間のようだとヴィンセントは思った。
★
「……それでは貴方は、レイモンドではなく、ルーファスに連れてこられたのですね」
流石、今世で会いたくなかった魔族第一位。
笑顔の裏で、何を考えているか分らない。
前世の幼馴染に、一人、魔王の執務室に通されたヴィクトリアは、考えていることが顔に出ないよう平静を装うので精一杯だった。
「申し訳ございません。私の管理不足で、ご迷惑をおかけしました」
カーライルはそう言うと、人間であるヴィクトリアに頭を下げた。
「申し訳ございません。本来であれば、人間である貴方をこのような場所に連れてきてしまい、諍いを避けるためにも王自ら謝罪を行うべきなのでしょうが、今、セレネに今、『王』はおりません。ですので、私から謝罪させていただきます」
「……いえ。お気になさらず」
魔族の序列は強さで決まる。
そして王が死に空位となれば、本来一位のものが魔王の座を継ぐ。だというのに今カーライルが魔王になっていないのは、異例中の異例といえる。
「私のことわりなく城に招いたことはきちんと処罰を行うつもりですが、ルーファスが貴方に対して暴走したことには、理由があるのですよ」
「……理由?」
「はい。――ただ、これから話すことは、内密にしていただけますか?」
カーライルは穏やかな笑みを浮かべると、人差し指を口元に押し当てた。
「はい」
「貴方も人間であるならば、彼がデュアルソレイユで熱心に活動していることはご存じでしょう?」
「はい……」
「実はあれは、ヴィンセント様の魂を探すために行っているんです」
「……え?」
ヴィクトリアは、カーライルの言葉が理解できず、思わずそう漏らしていた。
「五〇〇年間ずっと、彼はあの方を探してきました。ヴィンセント・グレイスは必ず転生していると信じて――けれど、セレネでは見つからなかった。だからこそ彼は、デュアルソレイユに、かの王が生まれ変わったのではと……。そう考えて、慈善活動と称しては、世界中を訪れていたのです」
「五〇〇年間、ずっと……?」
信じられない。
ヴィクトリアは、思わず聞き返していた。
ルーファス・フォン・アンフィニ。
彼に自分がしたことといえば、自分の命令を聞かない魔族を殺すことを命じたくらいで、好かれる理由が全く思いつかない。
その彼が自分を五〇〇年も……?
ヴィクトリアは、自分を見つめるルーファスの瞳を思い出した。前世でのように命じているわけでもないのにあの反応――確かに、嫌われているとは思い難い。
「ルーファスは、金色狼と呼ばれる種族なのです。彼らはただ一人のつがいを一生愛するという一族でして、ルーファスはヴィンセントこそが自分の運命だと言って聞かず、転生者を探し出すと言って縁談を断りつづけ、友好を示すという名目で、デュアルソレイユでの捜索を続けてきました」
カーライルはそう言うと、ヴィクトリアに本を差し出した。
その本の表紙には、金色の狼が描かれていた。
今の話とこの本になんの関係が?
ヴィクトリアは疑問に思いながらも、その絵本をペラペラめくった。
「金色狼は愛が深く、悪く言えば執念深い一族です。故に彼らは、魂の捜索に長けている。以前、金色狼のとあるおすが、問題を起こしたことがありました。つがいを失った彼は、妻の死後はずっと独り身で、新しく嫁を迎えることなかった。しかしある日、一人の女性を連れて戻ってきた。女性は、花嫁衣裳を着ていた。――その服は、本来彼女の夫となるはずだった男の血で、真っ赤に染まっていたそうです」
きれいな表紙に騙されたが中身は血みどろだった。背景には幸せそうに綺麗なお花が咲いている。
めでたしめでたし。
否。何がめでたいものか!
ヴィクトリアは、本の作者の名前を見た。ルミアス・フォン・アンフィニ――どう考えてもルーファスの血縁である。
しかも、ご丁寧に『この本のお話は、実際に起きた出来事です』の一文が添えてあった。
どうやら五〇〇年の間に、金色狼は物騒な逸話を残したらしい。
ヴィクトリアは震えた。実話を絵本にするのはいいとして、他に題材はなかったのか。こんなの、子どもに読ませる内容じゃない。怖すぎる。
「たとえ生まれ変わったとしても、自分以外の誰かを選ぼうものなら、相手を殺してでも奪い取る。金色狼は、そんな獰猛さも備えている一族なんですよ。ですから、そんな彼が見つけた貴方なら、今は記憶がないにしても、是非私もこの城にとどまっていただきたいと考えております」
「……」
カーライルはそう言うと、ヴィクトリアの髪を一房手にとって口付けた。
「王が不在、王の力となるべき臣下が、度々あちらの世界に赴くのは好ましくない。今は魔法が使えなくても、記憶がなくても構わない。魔族の寿命は長いですから、貴方のために研究するのも悪くない。……魂に宿る記憶の復元。それが叶うなら貴方は、『本当の貴方』を取り戻せるかもしれない」
甘く、優しく。けれどどこか、底知れぬ熱と冷気を帯びる。
そんな声に囁かれ、『普通の少女』なら彼に落ちてしまいそうな場面で――ヴィクトリアは、髪に触れていたカーライルの手をはたきおとした。
「貴方は……貴方はもう一度、人間と魔族で争いたいんですか!?」
ヴィクトリアはカーライルを睨めつけて叫んだ。
「人間をセレネの王に迎えるのは貴方方の勝手です。しかし、もしその存在がヴィンセント・グレイスの生まれ変わりだということがデュアルソレイユに伝われば、どうなるかわかっているのですか!? 魔王が復活して、その人間を貴方たちが担げば、世界がどう動くか分らないんですか!? また、沢山の人が死ぬ。皆が血を流す。そんな場所に……その発端に、私になれと言うんですか!?」
ヴィクトリアは唇を噛んだ。
口の中に、血の味が広がる。けれど、今はそんなことどうだってよかった。
【魔王の転生者と思われる人間を担ぎ、時代の魔王に仕立て上げる】
そんなことをすれば、人間と魔族の共生など夢のまた夢だ。
不適格な存在を王に担げば、人間界でも魔界でも、戦争が起きてしまうだろう。
再び戦争が始まれば、多くの命が失われる。
そんなのは――それだけは、ヴィクトリアは絶対に嫌だった。
「――お静かに」
その時ヴィクトリアの唇に、そっと長い指が触れた。
人とは違う冷たい手。
ヴィクトリアはびくっと体を震わせると、唇を噛む力を緩めた。
力のない今のヴィクトリアを殺すことなど、カーライルからすれば、きっと赤子を殺すのと変わらない。
「私は、ヴィンセントを悪く言う者は許しません。たとえ貴方が、ヴィンセント自身であろうとも」
「…………」
「……それに、ヴィンセント・グレイスは、貴方が思っているような――人に語られているような、残酷な王ではありませんでしたよ。むしろ私やルーファスのほうが、過激な思想を持っていたに違いない」
ヴィクトリアは唇を噛んで、カーライルから視線をそらした。
ヴィクトリアとして生まれ変わり、魔族について少しだけ調べたことがある。
魔王の死後のカーライルの行動は、極めて冷静なものであった。ルーファスもそれは同じだ。
絶対的であったはずの王を殺した勇者を、二人は殺そうとしなかった。勇者を英雄として崇める世界を受け入れ、代わりに『魔王に命じられ人間を殺そうとした魔族』はすべて彼らによって駆逐された。
それは魔王ヴィンセント・グレイスの洗脳がとけたからだと、そう言われても、否定は出来ないほどに。
ルーファス、レイモンド、カーライル。
だからこそ彼らは魔族でありながら、人間の英雄になったのだ。
「魔族にも、強い者と弱い者がいる。だからこそ魔王の地位は、先代を倒した者か、その時最も強い魔族に与えられる。しかしそれだけで、果たして王に相応しいと言えるでしょうか? 強さだけでは、従えることはできない。まとめることは出来ない。私には、この世界を束ねるだけの力はありません。だからこそ私たちは――ずっと、王の帰りを待っていたのです」
「言葉の力を使って――ですか?」
ヴィクトリアは、ハッと鼻で笑った。
ヴィンセント・グレイスの固有魔法は、『言霊』と呼ばれるものだった。
その魔法によって、ヴィンセントが望んで口にしたことは、全て現実のものとなった。
「そんな力、私にはありません」
ヴィクトリアははっきり言った。
「まとめることなんて、私には出来ない。ましてや人間でなく、魔族なんて。それに魔界でこの城の結界を出れば、人間である私は、死んでしまうことでしょう。そんな私が誰かを救おうだなんて、守ろうだなんて。そんなだいそれたこと、私に出来るはずがありません。だから私を、元いた場所にかえしてください。私は、ただの人間です」
ヴィクトリアはそう言うと、頭を下げて部屋を出ていった。
部屋の外に出ると、レイモンドが控えていた。
「帰るならこっちだ。――来い」
再び手を引かれ、後を歩く。
そんなヴィクトリアとレイモンドを、カーライルは冷たい瞳で見つめていた。
氷を思わせる冷たい視線は、繋がれた手に向けられている。
「この城と――魔素について、知っていた」
人間の世界に作られた、写し鏡の城。この城の中だけでは、結界のおかげで人間にとって毒となる魔素の影響を受けない。
だがその事実を、ただの村娘が知っているなど有り得ない。
それこそ――彼女が、魔族の知識を持っていない限りは。
「本当に昔から、詰めが甘い。ただのデュアルソレイユの村娘が、この城とセレネのことを、あの場ですぐ口に出来るとでも?」
二つの太陽を意味するデュアルソレイユ。
月を意味するセレネ。
魔族の世界セレネには太陽が存在せず、人間の世界には存在しない魔素が存在する。
人間は普通、魔素に対する抵抗力が無い。よって人間は本来、セレネでは生活出来ないのだ――唯一、このデュアルソレイユに作られた写し鏡の城をのぞいては。
しかしそのことは、人間の世界でも知っているのは王族くらいのものだ。だからこそ、魔族への玉の輿などを夢見る人間の少女がうまれる。
息をすることすら叶わない。そんな魔界で、『人間』が幸せになることなど叶わないのに。
つまりこの事実を知ることこそが、『彼女』が何者かを証明することとなる。
『魂』を見分けることの出来るルーファスが『陛下』と呼び、魔界の知識を持ち、カーライルに臆することのない村娘。
そんな人間が、もし存在するとするならば。
「見つけましたよ。ヴィンセント」
彼女の後姿を移す窓硝子を、カーライルは優しく撫でた。
「今度こそ私は――……。貴方のことを、逃しはしない」
白い雪を纏う男は、楽しげに嗤った。
☆★☆★☆
ヴィクトリアが家に帰ることが出来たのは、夜も遅い時間だった。
「つ……疲れた」
「お疲れ様、ヴィクトリア」
へろへろと歩いて寝台に横になると、森の家まで同行したエイルが苦笑いした。
暗い森の中を女の子一人帰らせるわけには行かないと、エイルが送ると言って聞かなかったのだ。
室内は、少しだけ仄暗い。
灯りは二人の間に、揺れる影を作っていた。
「まさか、質問攻めに遭うなんて……」
レイモンドによって無事村に送り返されたヴィクトリアだったが、アルフェリアを筆頭に、村人たちに囲まれてしまったのだ。
『二人になにかされなかったか』
とか、
『魔王城に連れて行かれたと聞いたけど体に不調はないか』
とか、
『連れ去られたと聞いてどれだけ驚いたか。本当に何もなかったのか』
などなど。
当然かもしれないが、誰一人して、ヴィクトリアの前世がヴィンセントだなど疑っている者はいなかった。
「みんな君が心配なんだよ」
「そうなのかな……」
「うん。そうだよ。それにアルフェリアは玉の輿って言っていたけれど、実際のところ魔族と人間が恋をしたという話は、あまり聞かないから心配してるのさ」
エイルは自分も椅子に座ると、真面目な顔をして言った。
「魔王ヴィンセント・グレイスは、人間の少女が魔王に襲われて出来た子で、母親の腹を食い破って生まれたという話は有名だろう? 僕もさ、魔族も昔とは違うのかなって思うし、恋に落ちて幸せになれるなら、魔族でもいいのかなって思うところはあるけれど。腹を食い破るっていうのは……ね。噂とはいえ、その、心配で」
「……まあ、玉の輿って息巻いてる前では話せないよね」
エイルの言葉に、ヴィクトリアの胸はつきりと傷んだ。
『ヴィンセント・グレイス』が母の腹を食い破って産まれたのは事実ではないが、自分を産んで母が死んだのは本当だということを、ヴィクトリアは知っている。
「アルフェリアだけじゃない。僕もいつだって、君を心配しているよ。ヴィクトリアも……その、君は僕にとって、一番大切な人だからね」
エイルはそう言うと、ヴィクトリアの前に膝をついて右手を両手で掴んだ。
その頬は明かりに染まって、ほんのりと赤く染まっているようにヴィクトリアには見えた。
優しくて大きな手。それは昔から、ヴィクトリアの大好きな手だった。
「……うん。ありがとう、エイル……あのね。私もね」
ヴィクトリアは微笑んで、悪気など一切ない、心からの思いを口にした。
「昔からエイルのこと、お兄ちゃんみたいで大好きだよ」
二人きりの室内に、沈黙が続く。
「………………そっか……お兄ちゃんか……」
エイルはそう呟くと立ち上がり、室内をウロウロしたあとに肩を落とした。
「つまり……いつか、お兄ちゃん以上になればいいわけで……」
「エイル? 一人で何言ってるの?」
挙動不審な幼馴染みに、ヴィクトリアは首を傾げた。
エイルの様子がおかしい。何か私は彼を傷付けることでも言っただろうか? 私が傷付けたなら、教えてほしいんだけど。
そう、ヴィクトリアがエイルに伝えたようとした時。
「ヴィクトリア!!!! 大変よ!!!」
ばああんと勢い良く扉が開く音がして、アルフェリアが家の中に入ってきた。
「すごいの! とにかくすごいの!! 今すぐ貴方に、伝えなきゃいけないの!!!」
アルフェリアの声は、もう梟の声も響く森の中でよく響いていた。
その手には紫色の蠟で封のされた手紙が、一通握られていた。
わざわざアルフェリアが一人夜の森に来るなんて、ヴィクトリアは嫌な予感しかしなかった。
魔族の間では、封蝋は自分の瞳の色を使う文化がある。
つまりこの手紙の送り主は――……。
ヴィクトリアは、逃げだしたい気持ちでいっぱいだった。
「貴方宛に、魔王城で開かれる夜会の招待状が届いたの!」
「……え? 夜会への招待状?」
エイルは目を瞬かせた。
「そうなの! カーライル・フォン・グレイル様から届いたの!」
「限魔王代理の? それ、断ったら問題になるんじゃ……」
王と等しい立場にある魔族から、ただの村娘に届いた招待を、断るなんて不敬が過ぎる。
「私はお断りしたいな~なんて……。あははは……はは………ははは……」
ヴィクトリアの声はだんだん盛り下がる。
「……ヴィクトリア。やっぱり僕たちに、何か隠し事してない?」
「してないよ。二人に話せないことなんて、あるわけない……」
そう。二人に話せないことを、誰かに話せるわけがない。だから自分の秘密は、誰にも告げるつもりはない。
心配そうヴィクトリアを見つめるエイルとは正反対に、アルフェリアはやる気たっぷりだった。
「夜会と言えば素敵な魔族様と出会いがあるに違いないわ! 行かなくてどうするのよ! それに見て。ここ。『お一人では心配でしょうからご友人もご一緒に』って」
この一文で、ヴィクトリアはすべてを察した。
本当に、蜘蛛のような男だ。ヴィクトリアはそう思った。
玉の輿を夢見る幼馴染を使って、自分を誘い込もうとするなんて――。
「でも服がないし」
「全部用意してくれるって」
「礼儀とかわからないし」
「主催はカーライル様だから気にしなくていいって」
「セレネに行くの不安だし」
「今日身をもって安全は確認してきたんでしょう? 大丈夫。心配ないわ」
「…………」
ヴィクトリアは頭を抑えた。
まずい。本気で退路が塞がれている。
「行くわよね? ヴィクトリア」
ヴィクトリアが黙ると、ずずいっとアルフェリアが顔を寄せてきた。
ヴィクトリアは思わず後退った。なんだろう。幼馴染が怖い。
「アルフェリア。勝手に決めたら駄目だよ。二人で行かせるなんて、僕は心配で心配で……」
救世主現る。ヴィクトリアは期待の目をエイルに向けた。
どうにかしてこのアルフェリアの意気込みを叩き潰してほしい。
「何言ってるの?」
しかしアルフェリアは、エイルの言葉に首を傾げるだけだった。
「貴方も一緒に行くのよ? エイル」
「え?」
「ええ???」
エイルも行くの? 本気で??
それがアルフェリアの決定事項なら、今の二人に彼女を止める術はなかった。
「いざゆかん! 3人で、リラ・ノアールへ!」
ちゃらっちゃっちゃちゃーん。
あの夕焼けに向かって走るのよ!(星の輝く夜だけど)とでも言いたげに、アルフェリアはエイルとヴィクトリアの肩を掴んだ。
目指すは魔王城の仮面舞踏会。
アルフェリアは目を輝かせていた。
エイルは頭をおさえて「頭痛がする」と呟いた。
ヴィクトリアの顔面は蒼白だった。
彼女は叫びたい気持ちでいっぱいだった。
(ねえ。お願いだから、アルフェリア。お願いだから私たちの話を聞いて…………!?!?!?)
人間とは違い、色鮮やかな髪を持つことの多い魔族の夜会。
人間ではよくある色だが魔族では珍しい茶髪を隠すため、ヴィクトリアはカーライルの用意した長い黒髪の鬘をかぶり、黒を基調としたドレスを纏っていた。
ドレスには繊細な刺繍が施されている。
仮面は黒の蝶。螺鈿《らでん》の細工は、夜会に灯された魔法の光を反射させ、怪しげな光を放っていた。
「…………」
正直、ヴィクトリアはこの衣装が不満だった。
というのも、ヴィンセントとして生きていた頃、彼女は真っ黒な服ばかり着ていたからだ。しかも用意された鬘が長い黒髪というのも、何かしら意味があるような気がして、ヴィクトリアは頭痛がした。
(カーライルが何を考えているのか本気でわからない。少なくとも、記憶があることはバレていないと思うけれど、記憶が戻るよう、誘導されているような気がする……)
「大丈夫? ヴィクトリア。このお城、本当にすごいね。自分なんかがこんなところに来るなんて、場違いな気がしてならないよ」
「……エイル」
そしてヴィクトリアに同行するため、アルフェリアに連行されてきたエイルは、壁に隠れるようにして立っていた。
身だしなみを整えたエイルは、いつもの冴えない彼とは違って、少し凜々しくヴィクトリアには見えた。仮面を外しているときに思ったことだが、エイルは調えたら案外素材は良かったらしい。
誠実そうで優しそうな性格や外見は魔界では珍しいタイプだ。それもあってか、彼に話しかけようとする女性も見受けられた。
……主に、少しお年を召した女性を中心に。
仮面一枚で隠し通せるものではないらしい。
そして、妙齢なご婦人方からのアプローチを避けるように、今の彼は壁の花となっているわけである。
そんなエイルだが、実は彼は数日前から、腹痛と胃痛に悩んでいた。
ヴィクトリアはエイルが気の毒でならなかった。
いきなり魔界の魔王城での仮面舞踏会に幼馴染の付き添いで赴いたら、ご婦人方に囲まれるとは、どう考えても不憫が過ぎる。
「二人とも、何壁に隠れているの! こういうときこそ、堂々としてなきゃ駄目よ!」
お腹をおさえるエイルに対し、アルフェリアの態度は言葉通り堂々としたものだった。幼馴染だというのにえらい違いだ。
そしてアルフェリアは、ヴィクトリアの予想外の言葉をぼそりと呟いた。
「失敗したわ。……仮面で顔がよく見えないじゃない」
いい魔族の男を手に入れる! と意気込んでいただけに、顔が見えないというのはいただけないらしい。
そのガッツはどこから来るんだろう? ヴィクトリアは、ほんの少しだけ幼馴染を遠く感じた。
「こんばんは」
対称的な二人をヴィクトリアが無言で眺めていると、甘い声が背後から降ってきてヴィクトリアは振り返った。
「私がお渡しした服が、とてもよくお似合いですね」
「……あ、ありがとうございます」
カーライルの言葉は柔らかく配慮を感じさせるものなのに、ヴィクトリアは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……今宵は、お招きいただきありがとうございました。衣装も……こんなに豪華なものを」
「いえいえ。やはり貴方には、黒がとてもよくお似合いですね」
カーライルは、ヴィクトリアの黒い手袋に当然のように口付けた。
「……黒は、女性を引き立たせるといいますからね」
「おや、素敵な言葉をご存知ですね。私もそう思います」
手を自分の方に引きながら、ヴィクトリアはとりあえずそう返せば、カーライルはくすくす笑った。
「貴方の螺鈿の面は、今宵のために作らせた特注品なのです。今宵の貴方は、夜に浮かぶ蝶のように美しい」
仮面の中から覗く紫の瞳は、射るように真っ直ぐにヴィクトリアに向けられている。
「私の花に誘われて、貴方から私に近づいてくだされば、これ以上の喜びはないのですが……。いかがでしょうか?」
カーライルの仮面には、美しい花が刻まれていた。
「私は美しい花よりも、美味しい食べ物のほうが好きですね」
確か、どこかの国の言葉にあったはずだ。花より団子。
ヴィクトリアが話題をそらすために言えば、カーライルはその言葉を最初から予期していたかのように、彼女に皿を差し出した。
「そうですか。では、こちらを」
皿に載っていたのは、魔界にのみ群生する果実だった。
デュアルソレイユでは、大きな街にでかけたときに見かけたことはあったが、輸入品のためか高額で食べられなかった。
「美味しい」
「おや、真っ先にそれに手を出されるなんて、不思議なこともあるものですね。その果実、実はセレネでしか取れないものなんですよ。こちらでは比較的安価な果物なのですが、デュアルソレイユでは高値で取引がされているようで」
カーライルが差し出した果実を冷静になって見てみると、どの果物もデュアルソレイユでは同じくらいの価格で取引されているものだった。しかし先程自分が手を出したものだけが、セレネでしか育たない。
ヴィクトリアは果実を食べる手を止めた。自分の全ての行動を監視されているようで居心地が悪い。
「おや、もうよろしいのですか? それでは是非、私と一曲いかがですか?」
「遠慮しておきます」
「ダンスはお嫌いですか?」
「嫌い……というか、私は踊れませんので」
ただの村娘が社交界のダンスを習うはずもない。
そして五〇〇年前は、男《ヴィンセント》として過ごしていたせいで、ヴィクトリアは女として踊ったことがなかった。
『男役なら踊れますが貴方女役出来ます?』
ムカつく相手にそう聞いてやりたい気もしたが、正体を自白することになるためヴィクトリアは口を噤んだ。
「そうですか。もしつまらなければ、休憩できる場所もありますよ。ここは夜の社交場ですから、『そういう楽しみ方』をされている方もいらっしゃいます」
「夜の社交……。……………!!」
ヴィクトリアは、カーライルの言葉の意味に気付いて顔を真っ赤に染めた。
夜の社交場仮面舞踏会では、一夜の恋も、遊戯《あそび》の一つ。
「け、けっこうっですっ!!!!」
「……おや、今の意味がわかられたのですか? 少し驚きました」
しかしそんな話を、ただの村娘が知っているなど有り得ない。
しまった。さっきのも罠!? ヴィクトリアが思ったときにはもう遅く、カーライルはヴィクトリアの腕を掴んでいた。
「もしかして、彼に操を立てていらっしゃるのですか? 貴方を心配してこんなところに来るなんて、恋人か何かでしょうか?」
「エイルはただの幼馴染です。そういう間柄ではありません」
「それは良かった」
「良かった?」
「はい」
幼馴染みだから、わかる。カーライルは心の底から微笑んでいた。
ヴィクトリアは混乱した。
幼馴染が女に転生したとして、恋人がいなくて良かったと言うなんて、カーライルが何を考えているのかわからない。
「それならば私にも、可能性はありますよね?」
(――可能性??)
「あの、何を……」
『仰っているんですか』
そう尋ねようとしたときには、いつの間にかヴィクトリアは壁に追い込まれていた。
これでは逃げられない。
冷や汗をかいて挙動不審になるヴィクトリアを前に、カーライルは楽しげに笑っていた。
「貴方に一目惚れしました。ですから、私の妻になっていただけませんか?」
「何故……」
「貴方の全てが欲しいんです。貴方の全てを私の物にしたい。いけませんか?」
「……」
まるで愛の告白である。
ヴィクトリアは言葉が出なかった。
ヴィンセントとして生きていたとき、ルーファスやレイモンドと同世代の子どもに女だと思われて(まあ実際男装していただけだが)結婚を申し込まれたことがあった。
その際男だと言って断ったはずだが、ヴィンセントが男だと口にしたのは、カーライルとルーファスだったはずだ。
だとしたら、今カーライルは前世が男だと思っていた相手に求婚してくることになり――やはり彼の言葉は、魔王ヴィンセント・グレイスを城に閉じ込めるための戯れとしかヴィクトリアには思えなかった。
ヴィクトリアは自分に体を近付けてくるカーライルの胸に手を伸ばし、自分から遠ざけるようにその体を押した。
「……からかわないでください。第一、貴方が欲しいのは、私に宿るという魔王の魂だけでしょう?」
「いいえ」
カーライルは何故かヴィクトリアの手袋をゆっくりと脱がすと、顕わになった素肌に、触れるだけのキスをした。
「私が欲しいのは、貴方の魂。そして貴方の――……」
「……貴方の?」
仮面越しに、二人の視線が交差する。
珍しく真剣な声音に、ヴィクトリアは何故か鼓動が高鳴るのを感じた。
「…………なにか問題が起きたようですね」
しかしその続きを言いおえる前に、カーライルはヴィクトリアから体を離した。
確かに広場を見てみると、中央に人だかりができていた。
その中心には『誰か』が横たわっており、誰かが必死に声をかけていた。
――それは。
「アルフェリア! アルフェリア!!」
エイルの声だった。
ヴィクトリアはそれに気づくと、人だかりを押しのけて彼らのもとへと向かった。
「どいてください!! 知り合いです!!!」
身分も本当の姿も隠した仮面舞踏会で、倒れた幼馴染のもとに駆け寄って名前を呼んで泣き叫ぶなんて、場を乱すのもいいところだ。
聴衆達はエイルに蔑みの目を向けていたが、ヴィクトリアは人だかりを押しのけてアルフェリアの元に辿り着くと、彼女の呼吸、脈拍を確認して顔をしかめた。
呼吸はしている。
アルフェリアは、苦しそうに胸を押さえていた。
脈拍が明らかに速い。ヴィクトリアは原因を探るため、アルフェリアの体に素早く触れた。
そして彼女の症状から、ヴィクトリアが導き出した結論は――……。
「これは、魔素中毒の症状……」
「魔素中毒?」
ヴィクトリアの言葉を、エイルが繰り返す。
ヴィクトリアは眉間の皺を深くした。魔王城リラ・ノアールは結界で覆われているのだ。人間が中毒を起こすような魔素が存在するはずがない。
ヴィクトリアは原因を探そうとしてカーライルの姿を見つけ、動きを止めた。
彼はヴィクトリアを見て、楽しげに笑ったのだ。
「まさか」
ヴィクトリアの中で、疑問だった点と点が結ばれる。
彼がわざわざ、自分以外の人間を魔界に招くのには、自分をおびき寄せるために他に理由があるような気がしていた。
その理由が、今わかった。
このためだったのだ。誰か一人でもいい。誰か一人が問題を起こせば、そのための対処をヴィクトリアがするしかないから。その行動を見て、ヴィクトリアの正体を確かめるつもりで。
(――なんて男!)
ヴィクトリアは、腸が煮えくり返る思いだった。
しかし冷静に考えれば、カーライルがヴィクトリアが対応出来ないほどの問題を起こすとは考えづらい。
つまり、ヴィンセント・グレイスの記憶を継ぐ人間として行動が出来れば、アルフェリアの命は助かる。
ヴィクトリアは今夜城に来てからの、カーライルの言葉を思い出した。
『貴方の螺鈿の面は、今宵のために作らせた特注品なのです。今宵の貴方は、夜に浮かぶ蝶のように美しい』
――夜に浮かぶ蝶。
『私の花に誘われて、貴方から私に近づいてくだされば、これ以上の喜びはないのですが』
――花に近付く。
『その果実、実はセレネでしか取れないものなんですよ。こちらでは比較的安価な果物なのですが、デュアルソレイユでは高値で取引がされているようで』
――セレネにしかない植物。
そこから、導き出される答えは?
「――わかった」
ヴィクトリアはテーブルの上に咲く巨大な花を見つけると、その花めがけて跳躍した。
魔界に咲く花の一つ。
セレネに生きる魔族にとっての甘美な芳香は、デュアルソレイユを生きる人間には、時に毒薬となる場合がある。
イーズベリーは、食人花の異名を持つ。
その芳香は、生き物を引き付け殺す甘い毒。その体は普通の生き物のように固く、茎は巨大なものであれば人の胴体ほどもあり、簡単に斬れる代物ではない。
けれど、カーライルの蜘蛛の糸ならば話は別だ。
仮面舞踏会の会場に、何故か彼の『糸』が残っていて、危険だと思って回収したのは正解だった。
カーライルの糸には、いくつか硬度がある。
鉄を切り裂く糸、肉を切り裂く糸、そして束縛するための糸。ヴィクトリアが回収したのは肉を切る糸だった。
つまり何も知らずその糸の前を通れば、さくっと首が落ちてもおかしくないという代物。
どうせカーライルのことだ。
『誰かが怪我をする前にヴィクトリアが回収する』ことも織込み済みだったに違いない。
(じゃあ私はずっと、カーライルの手のひらの上だったってこと?)
ヴィクトリアは空中で自嘲した。
だが、彼の手のひらの上だろうが何だろうが、今はそんなことどうでもいい。今大事なことはアルフェリアを助けるために、目の前の敵を倒すことだけ。
ヴィクトリアは器用にフォークに巻き付けた糸を操ると、花を糸でぐるぐる巻きにした。
そして。
「散りなさい」
グッと糸を手繰れば、花は「キエエ」という醜い悲鳴を上げて、バラバラに分解され崩れ落ちる。
ヴィクトリアは花の香りが逃げないように、素早くテーブルクロスで花の残骸を包み込んだ。
一般に、魔素中毒の症状は高山病と似ていると言われている。
高山病では、山から下山するのがまず最初に行うべきことだ。魔素中毒も、原因を絶てば症状は緩和する。
「ヴィク……トリア……?」
アルフェリアは大きく息を吐くと、ヴィクトリアの名前を呼んで、彼女が握っていた手を握り返した。
(よかった。もう、大丈夫。大丈夫だ――……)
しかし、安堵したのもつかの間。
ヴィクトリアは巨体の仮面の女性に、むんずと腕を掴まれていた。
「貴方! よくも私が端正込めて育て上げたローズマリーちゃんを、みじん切りにしてくれたわね!」
(――ローズマリー? あの花の名前は、食人花イーズベリーのはずなんだけど……)
ヴィクトリアは内心首を傾げていた。
イーズベリーは生き物の肉を食べたあと、それによって果肉を増していくため、ある程度育つと最上級の肉としても扱われる。
大方あの肉(花)は、この夜会のために、彼女がカーライルに贈ったものだったんだろう。
それを台無しにしたとあれば、激高するのも理解できるけど……。
そう考えて、ヴィクトリアはあることに気がついてしまった。
なるほど、ここまでが彼の計画というわけか。自分はあくまで、場を収めたという立場を取るつもりらしい。
よくもまあ他人からの贈り物をズタズタにさせる計画で人を陥れようなんて、思いつくものである。
「申し訳ございません。ご婦人。少し、お時間をいただけますか?」
全ての事件を引き起こした張本人は、まるで聖人君子のような笑顔をして、ヴィクトリアの肩を叩いた。
カーライルに休憩室に連れて行かれたヴィクトリアは、まだ少し体調が悪そうなアルフェリアに寄り添っていた。
「ごめんなさい。ヴィクトリア……せっかくのお招きだったのに」
「気にしないで。そんなことよりアルフェリア、もう体は大丈夫?」
ヴィクトリアが尋ねると、アルフェリアは喉のあたりを撫でて笑った。
「さっきカーライル様がお薬をくださったの。それを飲んだおかげで、だいぶ良くなったわ」
「……そう。ならよかった」
ヴィクトリアは、ほっと息を吐いてアルフェリアに微笑んだ。
ただ、内心ヴィクトリアは胃が痛かった。
一般的、魔素中毒の緩和薬は量産されているものではないため高価になるのだ。アルフェリアの治療の代償に、カーライルからなんらかの要求をされてもおかしくはない。
「カーライル様って笑顔が素敵で知的だし、お優しい方ね」
「……」
それはどうだろう?
ヴィクトリアは苦笑いした。
(本人には伝えていないが)おそらくアルフェリアが倒れたのはカーライルのせいだ。
原因は彼にあるのに、症状が悪化しないように薬を事前に準備していたことに感謝するのは、少し違うようにヴィクトリアは思った。
「ヴィクトリアは大丈夫?」
「え?」
「だって、貴方と私は同じ人間じゃない。体が変な感じがするとかは、ない?」
当然のように、心配そうに自分を見つめる瞳。
ヴィクトリアはそんなアルフェリアを愛しく思った。
自分が一番辛いだろうに、すぐに他人のことを思いやれる彼女は、やっぱり最高の幼馴染だ。
「大丈夫。それに魔素中毒は、なりやすい人とそうでない人がいるって話したでしょう? あの花が近くにあったからアルフェリアだって倒れただけで、この城にいるだけなら問題はないというはずだから」
「そうなの? ……でも、そういえばヴィクトリア、貴方がしばらくここで罰として働くと聞いたけど、本当なの?」
「――うん。本当だよ」
ヴィクトリアは頷いた。
時を遡ること少し前、ヴィクトリアは別室でイーズマリーの育成者(生産者?)から怒鳴られていた。肉の花の母に相応しいふくよかな女性だ。
『神聖なる魔王城で、カーライル様ご主催の場で、あんな野蛮な真似をするなんて! 貴方、一体何を考えているの!?』
『……』
床に正座させられたヴィクトリアは黙って夫人の言葉を聞いていたが、引っかかるところもあった。
(神聖なるってどうなんだろう。私の記憶が正しければこの城は血塗られた魔王城なんだけどな……?)
そもそも、この城の元の主は自分である。五〇〇年前のこととはいえ、この城のことは少なくとも彼女よりわかっているつもりだった。
『貴方を叱るなんて、ブクブク太った豚は、花の餌にでもなってくれたらいいんですがね』
ヴィクトリアか下を向いてじっと耐えていると、頭上から囁くような小さな声で、物騒な言葉が聞こえてきた。
『え?』
(聞き間違いかな? いや、そんなはずは……)
『どうかしましたか?』
『……いえ』
にこり。
カーライルの笑顔を見て、ヴィクトリアは背筋が寒くなるのを感じた。理解する。この件は、これ以上聞いてはならない。
『彼女は私の招待客です。どうやら、イーズベリーのせいで友人が体調を崩してしまったらしく、とっさに花を切り刻んでしまったようなのです。せっかく貴方がくださったものなのに……。本当に残念です。ただ、彼女も大切に相手を思うからこその行動だったのです。申し訳ございません。どうか今宵は私に免じて、彼女を許してくださいませんか?』
そっと、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うような手つきで、カーライルは肉のついた女性の白い手をとって笑う。
『か、カーライル様がそうおっしゃるなら……』
女性の頬が、恋する乙女のようにぽっと染まる。
まるで詐欺師だ。ヴィクトリアはそう思った。
『わ、わかりましたわ。今夜のことは、カーライル様に免じてお許しします。それでも、やはり大事に大事に育てたローズマリーちゃんを、あんなふうに無残な姿にされたことには、どうしても腹が立つのです。あの子はカーライル様に召し上がっていただきたくて、丹精込めて育て上げましたのに。……彼女には、何かしらの罰を受けていただきたいですわ。そうでなくては、私の気がおさまりませんの』
『では』
宝石の輝く扇で顔を隠しながら、婦人は静かに言う。
するとカーライルは婦人と一度視線を合わせ、そのまま視線をヴィクトリアへと誘導した。
『では罰として、彼女には暫く私の下で労働してもらうというのはいかがでしょう?』
『カーライル様の下で……?』
『はい。そうすれば、貴方のお怒りも静まりますか?』
カーライルは人の良さそうな笑みを浮かべていた。婦人は静かに頷いた。
『……貴方、まだ幼いようだけれど、苦労を知るのも大切なことなのですからね。しっかりカーライル様から教育していただきなさい』
ローズマリー(故)の母君は、意外と子供思いの女性のようだった。
魔族にしては温和な方だ。
カーライル主催の夜会に参加していたということは、それなりの地位の女性なのだろうだけれど、子沢山のおかあさんという雰囲気がピッタリだともヴィクトリアは思った。
ローズマリーという名前も、本当に大切に育てていたという証なんだろう。
魔界では、イーズベリーは残飯処理で育てるものも多いとされるが、豚や牛など、調理されていない家畜などを食わせるほうが味はいいとされている。
能力主義の魔界で、次期魔王と評されるカーライルのために育てた花。
大事に育て、漸くお嫁(物理)に出したら、即切り刻まれたとあれば、怒っても仕方が無いのかもしれない。
『着飾った女性が、そう床に膝をつくものではありませんよ。せっかく私が贈った服が、汚れてしまうではありませんか』
完璧な紳士。
カーライルはそう言うと、正座していたヴィクトリアの手を引いて立ち上がらせた。
すると女性は、肉で押しつぶされてい瞳をかっと開いた。
『……彼女に服を贈られたのは、カーライル様でしたの?』
その瞳は、好奇心でキラキラと輝いている。
『はい。彼女には、私の選んだ服を着てほしくて』
『……まあ!』
すると女性は扇で顔を隠したまま、甲高い声を上げた。
『カーライル様にそんな方がいらしたなんて初耳ですわ。それではもう、指輪を贈られたのかしら?』
『いいえ。それはまだ受け取ってもらえていなくて……』
指輪? ヴィクトリアは首を傾げた。
セレネの、特に蜘蛛と雪女の一族には、婚約の際自分の心を示すために、契約を違えれば(不倫などの裏切りがあれば)、死さえ与えられる(一種の呪いの)指輪を相手に贈る風習があるが――計算高いカーライルが、風習とはいえ自分に指輪を贈るなんて、ヴィクトリアはとても想像ができなかった。
『ふふふ。それでは私、お二人の心の、黄金の矢の射手になれたかしら?』
『そうなることを願うばかりです』
くすくすと楽しげに笑う女性に合わせて、カーライルは柔和な笑みを浮かべた。
黄金の矢に胸を射抜かれた者は、燃え上がるような恋をするという話がある。
女性は楽しげに談笑したあと、ひとり取り残されていたヴィクトリアの前でパチンと扇を閉じた。
『貴方、今後はカーライル様の顔に泥を塗らないよう、きちんとしつけてもらわなくては駄目よ? カーライル様は素敵な殿方なのだから、これを機会に、もっと素敵な淑女に、そして親しくおなりなさい』
『は、はあ……』
なにを勘違いしたのか、女性は顔を赤らめていた。
『……ふふふ……。まさか夜会でこんな楽しい話を聞けるなんて。今日は来てよかったわ。思い出すわ。私が夫と出会ったのも、ちょうど貴方くらいの頃だったわ』
『……』
魔族と人間の見た目年齢には乖離があるので、それはないだろうとヴィクトリアが冷静に思ったのは秘密だ。
「私のせいで……ごめんなさい」
「気にしないで。全部、私がやったことだし。ちゃんとしたイーズベリーは、育てるのに結構な値段がするものなの。だから怒られるのも仕方ないっていうか……」
珍しく落ち込んだ様子のアルフェリアを見て、ヴィクトリアは慌てて否定した。
そう。責任は全て自分にある。だからアルフェリアが、心を痛める必要などない。
「イーズベリー?」
ヴィクトリアが何気なく口にした言葉に、アルフェリアは首を傾げた。
「とうしてそんなこと、ヴィクトリアが知ってるの?」
まずい。墓穴を掘った。
イーズベリーは人間と魔族が戦争していた時代、人間の殺戮に使われていた歴史もあり、今は人間界には植生していことをすっかり忘れていた。
「……って、カーライル様が言ってたんだよ! あはははは」
ヴィクトリアは全力で、笑って誤魔化した。
「……そう」
そんなヴィクトリアに、アルフェリアは沈黙の後苦笑いして、優しく彼女の髪を撫でた。
「ヴィクトリア。何か困ったことがあったらいってね。力になるから」
「……ありがとう。アルフェリア」
★
「はじめまして。本日から一緒に働かせていただくヴィクトリア・アシュレイです」
翌朝、レイモンドに迎えに来てもらったヴィクトリアは、荷物を抱えて魔王城に訪れていた。
しかし場所は城の中ではなく、馬小屋と野菜畑の近くである。
五〇〇年前の魔王存命の頃より、魔王城では食料の自給自足が可能な造りとなっている。
それは魔王の地位を狙う者たちに狙われた際、結界内で籠城を行うためでもある。
そして今、魔王城の台所を支えているのは、年の割には筋肉のついた男性と、丸みを帯びた女性の二人だった。
「よく来たね。私は、ここを任せられていミゼルカ・フィアス。こっちは夫の、ガルガ・フィアスだよ。私達は三〇〇年ほど前雇われてね。種族はご覧の通り、ドワーフと人間の混血さ」
二人の外見的特徴は、人間の混血というせいもあってか、一般的なドワーフの身長とは少し異なっている。少し大きい。しかしその、童話の中にいそうな独特の雰囲気は、確かに二人の中からもヴィクトリアは感じられた。
「カーライル様たちより魔力が低くてね、年齢としては私達のほうが若いんだが、外見ではもうこのとおりさね」
ミゼルカと名乗った女性は豪快にかっかと笑う。
ガルガはそんなミゼルカの前を通り、無言でヴィクトリアが抱えていた荷物に手を伸ばした。どうやら妻と違い、彼は寡黙な
人間らしい。
「随分多い。何か持ってきたのかい?」
「あ、これは……」
ヴィクトリアは荷に手を突っ込み、大きな包みを二人に手渡した。
「幼馴染と幼馴染のご両親が、私の仕事先の方々に渡してくれと」
いわゆる賄賂的な。
荷を受け取ったガルガが、クンクンと瓶の中身を確認した。
「……ほう。これは良い酒だ」
ガルガは関心したかのようにぼそりと呟いた。
「うちの旦那が褒める酒とは! よっぽどいいものなんだねえ! その幼馴染には、よく礼を言っといてくれ。あんたが里帰りするときには、私からもあんたに何か持たせようじゃないか」
ミゼルカはそう言うと、また豪快に笑った。
「あんた、本当に人間とは思えないほどの怪力だねえ。顔に似合わずすごいじゃないか!」
ミゼルカに割り振られた仕事を見事全て失敗した結果、ガルガの仕事を手伝うことになったヴィクトリアは、元気に薪割りに励んでいた。
普通の女性が運べぬ量を、ひょいひょいと軽く担いで、重さを感じさせない動きをするヴィクトリアに、ミゼルカは呆れた声で言った。
「いや、ねえ。カーライル様が初めて女性を招かれるっていうんで、私達は遂に想い人を迎えられて魔王に就任されるのかと騒いでいたわけだけど、まさかあんたみたいな子が来るなんて、本当に驚きだよ。しかもあんた、夜会でイーズベリーをぶったぎったっていうじゃないか。その細い体のどこに、そんな力が隠されているんだい? 全くもう、恐れ入ったよ」
「村に戦える人があまりいなくて、私が一人で獣を狩ったりしていたら……こんな感じに?」
ヴィクトリアは手を広げた。
どこに隠されているのかと言われても、隠しているつもりはさらさらない。
「ふふっ。変わった子だねえ。でもいい子だ。私は、あんたのことは好きだよ」
そう言うと、ミゼルカはヴィクトリアの手を自分の手で包み込んだ。
まるで彼女を拾い育ててくれた、老夫婦が生前よくしてくれたように。ヴィクトリアは傷だらけの皮膚の厚いミゼルカの手を見て、静かに目を細めた。
「ありがとうございます」
★
「何故貴方が薪割りを?」
カーライルがヴィクトリアのもとを訪れたのは、ちょうどお昼頃、昼食を済ませて作業を再開していた頃だった。
いい汗をかいたと空を仰いでいると、突然声をかけられヴィクトリアはびくっと体をはねさせた。
「カ、カーライル様。こんにちは。これは……その、私、家事が壊滅的に昔から出来なくて……。それでこの仕事を任せてもらったんです。獣を捕まえるのと肉を焼くのと、果物を素手で絞るのなら得意なんですけど……」
「とても女性とは思えない発言で、いっそ清々しいですね」
カーライルはそう言うと、くっくと笑った。
ヴィクトリアは目を丸くした。いつもどこか冷めた笑いしかしない彼が珍しい。
「嫌いになりましたか?」
「いいえ。個性的でますます興味深く思います」
にっこり。
しかし次の問いをする頃には、カーライルはいつものような笑顔を浮かべていた。
「ルーファス。貴方もそう思うでしょう?」
「はい。野生的でとても素敵だと思います」
カーライルの背後には、ルーファスも控えていた。
ヴィクトリアは反応に困った。
ルーファスは中身が狼なので、本気なのかお世辞なのかわからない。
カーライルはヴィンセント時代から腹黒くて少し苦手だったが、ルーファスについては初めて出会ったのが子どもだったというだけに、今の彼は大きく育ったのに可愛いと思ってしまう自分に気付く。
(――こう……大型犬が懐いてくれたみたいな嬉しさが……。)
「何を黙っていらっしゃるんですか?」
「ええ、あ……いえ」
ヴィクトリアは頬をかいた。
「まさか、好意的な反応が帰ってくるとは思ってなかったので」
「私はいつも貴方に好意的ですよ? だから貴方も、私にそう接してください」
カーライルの言葉は、怒らせようとしているのか笑わせようとしているのか、それとも彼の気が狂っているのかヴィクトリアにはわからなかった。
好意を持ってほしい相手の大切な人間に毒を盛るのは、どう考えても頭がおかしい。
ヴィクトリアはカーライルから視線を逸らした。
するとカーライルは、左手の人差し指を口元に当て、冷静に紫の瞳でヴィクトリアを観察してから、淡々とした声で彼女に言った。
「ここはもういいでしょう。午後は城の中の仕事をお願いします」
『午後は城の中で』――まさかその一言が不幸の始まりとなるなんて、ヴィクトリアは思っても見なかった。
「きゃあああああああああああああああっ!」
魔王城リラ・ノアール。
城の中を全力疾走していたヴィクトリアは、すんでのところで自分を追いかけていた玉を避けてへたりこんだ。
「な、なにこれっ!」
巨大な鉛玉はバルコニーをぶち壊し、円を描いて城の外にある海の中へと落ちる。
「罠にかかったんですか?」
「かかったんですか? じゃ、ない!」
身の危険を感じただけに、ヴィクトリアはカーライルに思わず声を荒げていた。
城の中を普通に歩いていたら、突然ガコンという音がして、階段が現れたと思ったら巨大な玉が落ちてくるなんて、誰が想像できるというのか!
「防犯のためです」
カーライルは悪びれずサラッと言った。
防犯にしたって、どう考えても罠の質が(悪趣味な方に)上がっている。
「因みにいくつあるんですか?」
ヴィクトリアは珍しく息を荒げていた。
運動能力に自身がある自分だからこそ死ななかったものの、アルフェリアやエイルなら確実に死んでいる。
ヴィクトリアの問いに、カーライルは指で六を作った。
「六六六ですかね」
なぜだろう。なんとなく不気味で、耳に馴染む数字だ。
「金色狼の毒の牙の落とし穴、落ちたら体をサイコロ状にされる蜘蛛の巣の張った落とし穴、地底に繋がっているとも言われる、かつて罪人を閉じ込めたという底なし井戸の牢獄、グツグツに煮えたぎる銅の温泉等、様々ご用意しております」
(前二つの罠の材料提供者、絶対にルーファスとカーライルじゃない!)
ヴィクトリアはワナワナ震えた。
因みに金色狼は相手を噛んだ際毒を流し込むことが可能であり、その毒は血液を凝固させると言われている。
(本当に物騒。底なし井戸については、前世私が城に入る前に先代魔王が使っていたという噂もあるらしいけど……)
自分のことを魔王と呼ぶなら、即刻罠は全て排除してほしい。
ヴィクトリアは心の底から願った。今のただの人間の体では、次こそ罠にかかれば死んでしまうかもしれない。
「城の中にいるだけでいい修行になると、もっぱらの評判ですよ」
絶対嘘だ!! ヴィクトリアは確信していた。
「……まあ、というのはまあ冗談で」
カーライルは、ヴィクトリアの髪に触れるとくすりと笑った。
「貴方にだけは、命に関わる罠は発動しないようにさっき設定したので安心してください」
(私がここで働く前に、何故それをしなかった!)
ヴィクトリアはカーライルを睨みつけた。
「……貴方の慌てる姿を見たかったので」
まるで自分の心を読んだかのようなカーライルの言葉に、ヴィクトリアは震えた。
幼馴染と 以心伝心 でも怖い
字余り。
「すいません。この仕様は、どうか我慢してください。この城は今王が不在なため、その座を狙うものが多くやってくるのです。魔王の権限をもってすれば城を守る方法も別にありますが、私もルーファスも、そのつもりはありませんので」
「……」
セレネでは、城の周りには防壁の魔法をかけるのが普通だ。
城の中心部に核となる玉を置き、それによって魔法を固定させるのだ。玉に魔法を書き込めるのは、その城の主のみ。
防壁の呪文は、基本的に年に一度張り替えられる。
リラ・ノアールもそれは同様であるから、ヴィンセントがかけた魔法とはいえ、五〇〇年もそのままということもあれば、多少の『侵入者』を許してしまうというのは、おかしな話ではなかった。
魔法を固定できる玉は大変めずらしいもので、種族の頭領に受け継がれるほどの代物なのだ。
「魔王を据えられるつもりはないんですか?」
「……これでも私は、現在のセレネにおける第一席です。ルーファスは二人いますが……一応、三席です」
つまり、城のために魔王を据えようにも、それに最も相応しい者が拒否している、という状況ということだ。
「三席?」
「二席はレイモンドです」
カーライルは静かに言った。
「とは言っても、レイモンドは私と本気で戦ったことはないので、どちらが強いかは微妙なところですが。彼はヴィンセント様の育て子で、とても優秀ですからね」
『ヴィンセントを慕う優秀な宰相』の皮を被ったカーライルは、その養子であるレイモンドを褒めた。
まあ確かに、親の欲目を抜いても『レイモンド』の能力は魔族からすれば厄介なことこの上ないものだ。
そして能力を抜きにしても、身体能力や剣術等、レイモンドは昔から才能が抜きん出ていた。
その剣は、かつて『ヴィンセント・グレイス』と対戦した際、あと一歩というところまで届きかけた。届く前に、『ヴィンセント』は死んだわけだが。
それにしても――……。
ヴィクトリアは渋い顔をした。
カーライルに『様』付けされると、妙に気持ちが悪い。
「ヴィンセント様も彼に跡を継いでほしかったでしょうし。彼を差し置いて、私が魔王になることは出来ません」
「……本当にそれだけですか?」
「というのは建前で」
カーライルは人差し指を唇に当てて笑った。
「私は、待っているのです。もう一度、彼に出会えることを」
「……」
「私が生きているうちは、ヴィンセント様以外を王に据えるつもりはない。人間との共存は……少なくとも、彼が生きていれば望んでいたことは、私が生きているうちは魔族は従わせるつもりです」
カーライルは、ヴィクトリアを見てふっと笑った。
「たとえどんなことをしても、ね」
ぶるり。
その笑顔に、ヴィクトリアは寒気がした。
カーライルの考えは、昔からヴィクトリアにはよくわからない。
ただ昔から、蜘蛛のような周到さを、ヴィクトリアはカーライルに感じていた。
おうちに帰りたい。正しくいうなら、アルフェリアとエイルの素朴さが、ヴィクトリアは恋しかった。
(同じ幼馴染だというのに、何故こんなに違うんだろう?)
ヴィクトリアがカーライルから離れようとすると、カーライルは逆に彼女との距離を詰めた。
「どうなさったんですか? そんな――怯えたような顔をして」
「……これは、その、ですね」
(貴方が、脅すような真似ばかりするからでしょう!?)
ヴィクトリアは叫びたかったが、口を噤んで視線を逸らした。
カーライルはそんな彼女の横顔を、冷たく見つめていた。
まるで、獲物をどう料理してやろうか、とでも言うように。
しかしその時、廊下の向こう側から聞き慣れた声がして、ヴィクトリアはぱっと表情を明るくした。
――この声は。
「陛下!!!」
「ルーファス!」
カーライルと話した後なだけあって、お日様と青空のような彼の金色と青の色が、ヴィクトリアにはより愛しく感じられた。
「これから少し、私にお時間をいただけませんか?」
ルーファスは、ヴィクトリアの手をとってにこにこと明るく笑う。
「お城の中を、一緒に探検しましょう!!!」
「え……でも」
カーライルが私に押し付けたい仕事があるんじゃ? ちらりと横目でヴィクトリアがカーライルを見ると、彼はもうどうでも良さげな顔をしていた。
「カーライル様、お願いします。陛下に、お城を案内して差し上げたいのです。お城の中を回っていたら、昔のことを思い出されるかもしれないじゃないですか」
「……いいでしょう」
「カーライル様からお許しをいただきましたし。……ね?」
「私は……」
ヴィクトリアは別に城の中など見ても、面白いことはないように思えた。
それに、まだ見ぬ罠のことも心配だ。
「……駄目、ですか?」
ヴィクトリアが返事を迷っていると、ルーファスはヴィクトリアの手をぎゅっと掴んだまま動きをとめ、それからこてんと首を傾げた。
身長も伸びてしっかりした大人に成長したというのに、纏う空気は昔と変わらずあざといままだ。
「〜〜〜〜…………わかりましたっ!」
『ヴィンセント』同様、ヴィクトリアはルーファスには弱かった。
「ありがとうございます!!!」
ルーファスは、その髪の色と同じ色の大輪の花が咲くように、心から嬉しそうに笑った。