もし、「恐怖」というものが悪だというのなら、ヴィンセント・グレイスという存在は、人間にとっても魔族にとっても、悪でしかない存在だった。
そう、今の彼女は思う。
母親の腹を食い破って産まれた。
そう伝えられている魔王の母親は、強大すぎる力を持つ子どもを生んですぐに亡くなった。
人間の母の弟であり、魔王の叔父にあたる青年ディー・クロウは、自分の姉を殺したその子どもを、心から愛し育てた。
父と子どもというよりは、母とその子どものように。
しかし当時デュアルソレイユで、ヴィンセントは混血ということもあり、人間の子どもや大人たちに蔑まれて育った。
『親殺しの子』
『人殺しの魔族の子』
黒髪に赤い瞳。その外見は、人間としては異質だった。
ヴィンセントは人間の世界にありながら、人として生きることを許されなかった。
ある日ヴィンセントは寂しさと悲しみあのあまり、つい魔法を使ってしまった。
『みんなが、僕のことを好きになってくれたらいいのに』
その日から、ヴィンセントの世界は優しいものに変わった。
ヴィンセントは、最初はそれが嬉しかった。
もう自分を、傷つけるものはない。誰もが自分を愛してくれる。
けれど、ある日思ってしまった。
みんなの『本当《こころ》』は、どこにあるんだろう?
本当にみんなはもう、僕のことが嫌いじゃないのだろうか?
「好き」だと告げられるたびに、花を貰うたびに、笑顔を向けられる、そのたびに。
ヴィンセントは後悔した。
願いは確かに叶えられた。もう自分は一人じゃない。なのに――どうして?
どうして心が、こんなにも苦しいのだろう?
ヴィンセントは一人泣いた。
魔法を取消そうにも、取り消したあとの彼らの言葉もまた、結局は今と同じだと思った。もう彼らは、自分の願い通りに動くだけの傀儡《にんぎょう》に過ぎない。
誰からも愛される世界は優しくて甘く、そしてヴィンセントは、昔よりも孤独だった。
一人ぼっちの世界。
けれどそんな世界で、ヴィンセントの魔法にかからなかった人間が、一人だけ存在した。
育ての親であるディー・クロウにだけは、ヴィンセントの力は通じなかった。
『言葉は、誰かに伝えるためのものだから。声が、言葉が届くということは、幸せなことだよ。言葉が、心に響くなんて――君は、本当に凄い力を持っているんだね』
彼は後悔に震える幼いヴィンセントを、いつも優しく抱きしめてくれた。
『自分を否定しないで。君がその力をもって生まれたことに、きっと意味はある筈だよ。――だから。どうか、下を向かないで』
その言葉は、ヴィンセントの氷のように凍てついた心をゆっくりと溶かした。
ヴィンセントは、彼のことが大好きだった。
世界中の誰から嫌われても、この人がいてくれたなら、生きていける。そう思うほどに。
――けれど。
その幸福は、ある日突然壊された。
ヴィンセントの実の父親であった先代魔王は、彼女の目の前で、ディー・クロウを殺した。
優しい世界。陽だまりの世界は、愛しい人の血で赤く染まる。
ヴィンセントは、その後のことをよく覚えてはいない。けれど自分が我に返ったとき、父親《そのおとこ》は、瀕死の状態だった。
『お前こそ、次の魔王に相応しい』
男は、そう言って絶命した。
そしてヴィンセントは魔王になった。
実の父親を殺した、血塗られた魔王に。
『ディー……お願い。目を開けて。お願い……お願いだから……っ!』
けれど何度命じても、愛する人が蘇ることはなかった。
その日、ヴィンセントの『世界《はこにわ》』は壊れた。
冷たい玉座。
初代魔王が建てたという魔王城で、力を使うことに、もう躊躇いなど存在しなかった。
何が壊れようと、誰が死のうと、もうどうでもよかった。
『ディー。ディー。どこに居るの?』
夢の中で、ヴィンセントは何度も彼の名を呼んだ。
美しい薔薇園で、棘に触れて傷を作った。ぷくりと溢れた血は、自分の瞳と同じ赤い色をしていた。
傷は少しだけ痛くて、自分から作った傷を治そうとして、大切な誰かを失ってもなお、実の父を殺してもなお、生きようとする自分に吐き気がした。
しかし、そんな中ヴィンセントにも友達ができた。
ヴィンセントは、彼を――カーライルを信じたいと思った。けれど初めての魔族の友人は、ヴィンセントのために親を殺したと言って笑った。彼の父が、ヴィンセントを弑そうとしていたからと。
そんなある日。
ヴィンセントはデュアルソレイユで一人の少年を見つけた。
名前も与えられず、死んでもおかしくないような環境の中で、子どもは魔族であるがゆえに、死にきれずに生きていた。
黒髪に赤い瞳。
それは、自分とどこか似ていると、ヴィンセントは思った。
自分に似た子供――それでいて。
『俺に命令するな! 誰がお前なんかの命令を聞くか!!』
その子どもは、ディー・クロウと同じ力を持っていた。
ヴィンセントは子どもを連れ帰り、自分の子として王城に招き入れ、ディー・クロウの名前を与えた。
そして、子どもの幼馴染《あそびあいて》として、ルーファス・フォン・アンフィニ――天使のように可愛らしい魔族の少年を城に招くことにした。
ルーファスは、養子であるレイモンドより、ヴィンセントを慕った。
『陛下! 陛下! 陛下にお似合いだと思って、花をつんできました!』
子どもの手に握られていたのは、泥と根っこのついた花だった。
『私と同じ、青と黄色の花なのです!!!』
ヴィンセントは、花を受け取るべきではないと思った。
『お花は、お嫌いですか……?』
それでも、子どもが悲しそうな顔をしたから。
『――すまない。ありがとう。私を思って積んできてくれたんだな』
受け取らずにはいられなかった。
『ディー・クロウ』とは違う。子どもに魔法をかけることなど容易い。
だからその感情が、もしかしたら自分の願望から作り出されたものかもしれないと、心の中では思いながらも。
ヴィンセントは、受け取られずにはいられなかった。
子どもは天使のような笑顔で、花を差し出すほどの優しい心をもっていた。
けれど成長したその子どもは、美しいその金の髪を、鮮血で染め上げた。
ヴィンセントの願いのままに。
――魔法も使えぬ下等種族が、魔族と同じ領地を持つことなど許されない。
――魔族こそが、ニつの世界を制するべき存在なのだ。
――魔王ヴィンセントが人間を殺せと命じた。
――これはすべて魔王のせいだ。
――ヴィンセント・グレイスは、滅ぼすべき悪なのだ!
五〇〇年前。
デュアルソレイユへの侵攻を、ヴィンセントは命じていなかった。
しかし、魔王の権限のみによって開くはずの扉は何故か開かれ、デュアルソレイユは人間たちの血で染まった。
ヴィンセントはルーファスとレイモンドに、自分の代わりに人間界に侵攻する魔族を殲滅するように命じた。
勇者が魔王城に向かっていると、そうカーライルに聞きながら、ヴィンセントは二人を城から遠ざけた。
全て自分の願いが世界を滅ぼすのだ。
優しい誰かも、誰かを思う心まで歪めて、彼らの手を地で染めさせる自分になんて、生きている価値はない。
自分に向けられる心と言葉は、きっと始まりの魔法を使う前と同じなのだ。
『親殺しの子』
『人殺しの魔族の子』
実の母、実の父。育ての父も全部、殺したのは、守れなかったのは、自分自身なのだから。
ヴィクトリアは夢の中、最後に二人に向けられた言葉を思い出した。
『全ては陛下のお望みのままに』
『俺は……アンタのことを親だなんて、一度も思ったことはない』
「……っ」
息が詰まる。
ヴィクトリアは眠りの中、浅い呼吸を繰り返した。
月の光が差し込む部屋で、眠る彼女の顔に影がかかる。
雪のような白い肌をした美しい男は、そっと彼女の喉元に触れた。
目の前の少女は、どう見てもか弱い人間で、一欠片も魔力は感じられない。
自分がこのまま首を絞めてしまえば、彼女は息を引き取るかもしれない。
愛しいと思う相手の、生殺与奪の権限が、今自分の手の中にあると思うと、彼は何故か笑いが込みあげてくるのを感じた。
誰かに奪われる前に、誰にも奪われないように、その身も心も魂も、自分のものにしてしまいたい。
彼は吸血鬼の一族ではなかったが、その血の一滴まで自分だけのものにして、命乞いする彼女に口付けをするのも、悪くないとも思った。
――呼吸することさえ自分に許しを乞う貴方を見れば、この渇きは安らぐのだろうか。
かつて自分の目の前で、自ら死を選んだ彼女に対し、生きることを懇願させたいと思う自分は、やはりどこか歪んでいるのかもしれない。そう思って、彼は一人自嘲した。
「おかしいですね。……愛しているから貴方を殺したいほど憎らしく思うのに、生きることの許しを、貴方に乞うて欲しいと願うなんて」
喉を撫でる指をそっと離す。
「――『ヴィンセント』。これから毎晩少しずつ、この薬を貴方に飲ませてあげましょう」
そう言うと、カーライルは青い小瓶を取り出した。
切子の小瓶の底には、虹色に光る真珠と、魚の赤い鱗のようなものが入っていた。瓶を満たす液体はほんのりと赤く色付いており、まるで切り開いた魚の身のような、そんな色をしていた。
叶わぬ恋を想う人魚の涙からできる真珠と、一〇〇〇年を生きた人魚の鱗。一〇〇匹の人魚の心臓を流れる血液を、一度結晶化させてから海水で溶かすことによって作られる人魚の秘薬。
不老長寿、永遠をも生きる人魚が、生きたいと願うことは、世界の摂理をも変える望みだ。
今のヴィクトリアが人間だとしても、彼女の体の中から作り変えてしまえばいいだけだ。カーライルはそう思った。
魂が本物ならば、やがてその体に魔力は宿ることだろう。
人魚族の薬は、摂取すれば魂の宿る器を変えうるものだ。
「ん……」
寝返りを打つ愛しい少女の髪に触れる。
細い小さな左手の指と指の間に、自分の指を潜り込ませて、カーライルは固くその手を握った。
もう彼女がどこにも行かないように、もう自分から逃れられないように。
瓶の中身を少量口に含んで、カーライルは右手で彼女の頬に手を添えた。
眠っている相手に、薬を飲ませることは難しい。唇を潤すくらいの少量を、閉じた唇に口付けて与える。
記憶があることには気づいている。
カーライルは薄く笑った。
前世で男であると言い張っていたのも笑えたが、記憶があるのにないといいはるには、彼女は天然が過ぎる。
昔は他の者を牽制するのにも使えたし、本人がバレていないと思っているあたりが愚かで可愛いと思っていたけれど、今はもう逃げられないよう、退路を奪うほうがいいように彼には思えた。
離さない。もう、二度と。
けれど力が使えないままでは、彼女の全てを取り戻したことにはならない。
「今すぐでなくともいい。ーー『ヴィンセント』。貴方には、全てを思い出してもらいます」
王に従う従順な臣下でもあるかのように、カーライルは眠るヴィクトリアの手を取ると、その甲に唇を落とした。
「貴方のことも――私のことも」
★
「全く、油断出来ないな」
窓枠に手をかけて、足音も立てず室内に部屋の中に足を踏み入れた男は、棘の残る薔薇の花を取り出すと、グラスの中のものと入れ替えた。
同じ色の花。
変えたとしても、彼女が気付くことはない。ただそれでも、彼女の目に映る赤色は、せめて綺麗であればいいと彼は思った。
「ディー……」
月明かりが差し込む部屋の中で、少女は涙で褥を濡らす。寝台に腰掛けた青年は、壊れ物でも触るようにその頬に触れた。
「……『ヴィクトリア』」
彼の赤い瞳は、昔と同じようにただ真っ直ぐに、彼女だけに向けられている。
「……お前は昔から、誰を思って泣いている?」
涙を拭う手と、眠る少女に問う声は、どこまでも優しかった。
「アルフェリア! エイル!」
ぎゅうううううううううっ!
ヴィクトリアは駆け寄ると、倒れ込むようにして大好きな二人を抱きしめた。
「あいだたたたっ!!」
「ヴィクトリア! 首! 首がしまる!!!」
リラ・ノアールでの勤務から1週間が過ぎた頃。
ヴィクトリアはカーライルに許され、一度アルフェリアたちが住む村に戻っていた。
再会の喜びのあまりヴィクトリアが二人を抱きしめれば、二人は痛みのあまり悲鳴を上げた。
「いい加減にしなさい! さっきから、痛いって言ってるでしょ!」
ドゴッ!!
そして耐えられなくなったアルフェリアは、ヴィクトリアの頭に拳骨を叩き込んだ。
「ごめん。嬉しくてつい……」
頭を押さえつつ謝る。
「ついで殺さないで」
「そんなつもりはなかったんだけど……手加減してたし……」
「ふうん。手加減ねぇ?」
「ごめんなさい……」
頭は少し痛むけれど、軽口を言い合える環境が心地良い。
アルフェリアを前にして、ヴィクトリアは久しぶりに、『本当の自分』に戻れたような気がした。
素直に謝る幼馴染を見て、エイルとアルフェリアは顔を見合わせてふき出した。
「……全く、昔から力だけは強いんだから。いいわ。許してあげる。それよりヴィクトリア。。貴方、お城で高いお皿なんか割ってはいない? 大丈夫?」
「初日から危険って判断されて、薪割りとかが基本だから大丈夫だよ」
「それを自信満々で言うのもどうかと思うけど……」
ヴィクトリアの言葉に、エイルは苦笑いした。
「でも、一ヶ月はお城で働くって言ってたのに、帰ってきて良かったの? なにかしでかしてない?」
「魔王城の食器ともなれば年代物だろうし……」
「二人とも思える心配性だなあ。大丈夫だよ。そこまでヘマはしてないってば」
「貴方は不器用だし無駄に力が強いし、朝には弱い。手のかかる妹みたいなものなんだから、心配になるのは仕方ないでしょ」
アルフェリアは、さらっと厳しいことを言った。
しかしその言葉に、ヴィクトリアはふにゃりと笑った。
「えへへへ」
(妹。妹かあ)
そう思ってもらえていたなんて嬉しい。
ヴィクトリアは気の抜けた笑い方をして――……ハッと我に返った。
背後から視線を感じ、ヴィクトリアはぎぎぎきと錆びついた機械のように振り返った。
「み……っ。見ないでください……!」
「……そういう顔もなさるんですね」
崩れた顔を隠すヴィクトリアを見て、ルーファスは天使の微笑みを浮かべていた。
ヴィクトリアは心の中で転げ回った。穴があったら入りたい!
アルフェリアやエイルには、甘えたいだけ甘えてきたヴィクトリアだったが、二人の前での自分が『ヴィンセント』とは程遠いことは理解していた。
『ヴィンセント・グレイス』は、孤高という言葉が似合う、そんな存在だった。
そんな過去の自分を慕ってくれているルーファスの前で、こんな姿を見せるなんて……!
「し……失望しましたか?」
「いいえ? もっと好きになりました」
小声で尋ねると、ルーファスは満面の笑みで答えた。その笑顔が眩しくて、ヴィクトリアは目を細めた。
「お元気が無いようでしたので安心いたしました。今日はセレネでのことは忘れて、ごゆるりとお過ごしください」
「は……はい」
ルーファスに気遣いの言葉を告げられて、ヴィクトリアは戸惑いが隠せなかった。
セレネで過ごすと、どうしても昔のことを思い出してしまう――そのせいであまり眠れなかったことが、どうやら周囲にはバレていたらしい。
「何か気になることでも? もしかして、私が何か不躾を?」
「いっいえ!」
ヴィクトリアは全力で首を振った。
「そんなこと、ありえません。ルーファス様には良くしていただいています。他の方々にだって……。でも、それにしても、カーライル様がよく許可してくださいましたよね」
ヴィクトリアはカーライルに良くしてもらっているとは言えず、ポツリそう漏らした。
「今回の許可については、一度村にお帰りになる許可を出すべきだと、レイモンドがカーライル様に進言したようです」
「……え?」
ヴィクトリアは、思わず驚きの声を漏らしていた。
(どうして私のためにレイモンドが……?)
ヴィクトリアにはレイモンドがわからなかった。
ヴィクトリアとして生まれ変わって、レイモンドには剣の勝負を挑まれたり、体に傷を負わせたりされたのに、その彼が、まさか自分の体調を気遣ってくれていたなんて――そんなこと、誰が想像できるだろうか?
「カーライル様はレイモンドには一目を置かれていますから、それを受け入れられたようです」
「……そうなんですね」
ヴィクトリアはルーファスの言葉に、そう返すことしか出来なかった。
◆
「ね、魔族ってやっぱり美形が多いの?」
「……アルフェリア」
ヴィクトリアは、幼馴染の言葉に思わず脱力した。
(私の幼馴染は魔素中毒になってもまだ玉の輿諦めてないの!?)
彼女を庇ったがために、自分はカーライルに捕獲されてしまったというのに……。
ヴィクトリアがエイルに視線を向けると、エイルは静かに首を振った。
そしてアルフェリアは、いつもの調子でルーファスに尋ねた。
「ルーファス様は、どなたが一番魔族ではお綺麗だと思われますか?」
「……それは勿論陛……」
「カーライル様、ですよね!」
ルーファスは、『人間の味方であり、魔王ヴィンセント・グレイスの敵』でなくてはならないのに、人間であるアルフェリアの前でそれを言うのはまずい。
ヴィクトリアは、ルーファスの言葉に言葉を重ねた。
「確かに……カーライル様はとてもお綺麗ですね。雪女の一族の血を引いているということで、肌は真っ白で品があるようなお顔立ちですし」
「ですよね!」
ヴィクトリアは、あはははと感情のこもらない声をあげて笑った。
カーライルは、中身はともかく顔だけはいい。中身はともかく――。
「じゃあズバリ、お尋ねしたいんですが」
「はい」
「ルーファス様とカーライル様って、ヴィクトリアのことどう思っているんですか?」
「あ……アルフェリア!?」
(――なんてことをルーファスに聞くの!?)
ヴィクトリアは、思わず声を裏返らせた。
「大好きですよ」
ルーファスは、天使の笑みを浮かべて愛の言葉を口にした。
「それって、一目惚れってことですか?」
「どうでしょう」
ルーファスはくすっとアルフェリアに笑って答えると、それからヴィクトリアの方を見嬉しそうににこりと笑った。
(な、なんなのこの甘い雰囲気は……っ!?)
「…………っ」
自分のことを話されると落ち着かない。
ヴィクトリアは、ルーファスの視線から逃れるように下を向いて拳を握った。
ヴィクトリアは、ルーファスと初めて会った日のことを覚えている。
レイモンドの『幼馴染候補』として招かれた子どもの一人だった彼は、礼儀正しくヴィンセントの前に頭を下げた。
だから、『一目惚れ』ではないだろう、とヴィクトリアは思う。
だいたい男装して男として過ごしていたときに一目惚れされたと言われては複雑な気分だ。
ヴィンセントとして生きていた頃、魔王としての立場もあってか、男女問わず自分と繋がりを求めてくる者はいたが、ルーファスはまだ子どもだったし、自分を好きだったなんてあり得ないはずだとヴィクトリアは頷いた。
「カーライル様も同じってことですか?」
「カーライル様のお気持ちは私にはわかりかねますが……」
ルーファスは苦笑いする。
ヴィクトリアは眉間にシワを作った。
カーライルには、再会してからというもの嫌がらせしかされていないような気がする。
「この500年、ずっと笑われなかったあの方が、最近は楽しそうにされているのを見ることができるようになりました」
(え?)
ヴィクトリアは、その言葉を聞いて目を丸くした。
(楽しそう……? あのカーライルが……?)
「だからカーライル様は……。心の底から、愛していらっしゃるのだと思います」
ルーファスの言葉に、アルフェリアが黄色い声を上げた。
エイルがアルフェリアに声を下げるようたしなめる。
ヴィクトリアはルーファスの言葉に驚いたが、その言葉を口にしたルーファスの表情が、少しだけ暗いことにも驚いた。
「ルーファス様。少しよろしいでしょうか」
「はい。なんでしょう?」
アルフェリアがエイルと話している間、ヴィクトリアはルーファスを人の少なさそうなところに呼んだ。
「村にいる間だけ、呼び方を変えていただきたいんです。ここで陛下と呼ばれたら困ってしまいます」
「……」
「ルーファス様がどう思われていたとしても、ここではヴィンセントの名をだすことはまずいんです」
ヴィクトリアはそう言うと、自分を指差した。
「ヴィクトリア。ここにいる間は、ヴィクトリアとお呼びください」
「しかし、陛」
「ヴィクトリア」
ヴィクトリアは、「無理です」と言いたげなルーファスを前に自分の名前を繰り返した。
「ヴィ……」
ルーファスの声は、とても小さい。
「…………ヴィクトリア……様」
ルーファスは顔を真っ赤にして、少し目を潤ませて、震える声で名前を口にした。
ヴィクトリアは、そんなルーファスを見て苦笑いして、彼の手を握って言った。
「赤くならないでください。それに、様はいりません」
「む、無理です。そんな、だって私には、陛下をお名前で呼ぶ許可なんて……っ!」
(そういえば、ルーファスは昔から礼儀正しかったから、呼び捨てされた記憶はないかもしれない)
ウィンセントとして生きていた頃から、ルーファスは自分のことを、基本陛下としか呼んでいなかった。
そのことに気づいたヴィクトリアは、少しだけいたずら心を出して、彼の目を見て自分の名前を繰り返した。
「ヴィクトリア」
ルーファスは目を瞬かせる。
ヴィクトリアはそんな彼を見て、もう一度名前を繰り返した。
「ヴィク……トリ……」
「様はつけては駄目です」
「ヴィ……ヴィクトリア……さん」
「――はい」
漸く村で使えそうな呼び方をしたルーファスに、ヴィクトリアはニッコリと微笑んだ。
すると、ルーファスが顔を手で覆い、溜め息を吐いて座り込んだ。
「……陛下は、ひどい方です」
「……あはは……そうですね。自覚はあります」
(そうだ。私は、ずっと貴方やレイモンドに、ひどいことをさせてきた)
ヴィクトリアが、少しだけ寂しそうに笑えば、ルーファスは嘆息した。
「……私の言いたいことを何もわかっていらっしゃらないところが、一番ひどい」
ルーファスはヴィクトリアから顔を背けた。
「言いたいこと?」
それってなんだろう?
ヴィクトリアは、しゃがんでから顔を隠すルーファスに視線を合わせた。
「ルーファス様? もう大丈夫ですか?」
「――……ヴィクトリア」
すると、ルーファスはヴィクトリアの腕を掴んで自分の方に引き寄せ、甘い声でその名を呼んだ。
「お慕いしております」
ルーファスはそう言うと、ヴィクトリアの手の甲に口づけを落とした。
「な……っ!」
不意をつかれたヴィクトリアは、彼の言葉に真っ赤に顔を染めた。
立ち上がって顔を隠したいけれど、手を握られているためにそれも出来ない。
「な、なんなんですか。突然……!」
「陛下が私に意地悪なさるからです」
ルーファスは、いたずらが成功した子供のような顔をしていた。
「……ここでは陛下と呼ばないでください」
ヴィクトリアはルーファスから視線をそらした。
なぜだろう。今はなんだかルーファスの顔がまっすぐ見れない。
「ヴィクトリア、ちょっと来て!!」
「あっ。うん」
その時アルフェリアに呼ばれて、ヴィクトリアはなんとかルーファスから逃れて駆け出した。
自分から逃げるように走るヴィクトリアの後ろ姿を見つめて、ルーファスは低い声で呟いた。
「全く、なんてことをお命じになるのか…………。お名前でお呼びするなんて……それだけで、箍が外れてしまいそうになる」
「ヴィクトリア、顔が赤いけどどうしたの?」
「な、なんでもないよ……」
エイルに尋ねられ、ヴィクトリアは思わず手で顔を隠した。
(まずい。顔が熱い――。子どもだと思っていた彼が、あんな瞳《め》で私を見るなんて。……いや流石に、五〇〇年は人を変えるに十分な年月だろうか?)
「それはそうと、なんでこんなに賑わってるの?」
ヴィクトリアは、明らかに普段とは異なる村の様子を見て幼馴染に尋ねた。
「もともとルーファス様とレイモンド様がいらっしゃるってことで、おもてなしのために用意してたのよ」
「『おもてなし』?」
「そう。ルーファス様はデュアルソレイユでは貴賓扱いだから、今回のことを報告したらまた国の補助がでたって」
「なるほど……」
人間に友好的な上位魔族には媚を売っておこうということか。
ヴィクトリアは一人森に住んでいて把握出来ていなかったが、人間の村が魔族の訪れを歓迎して賑わいを見せるなんて、五〇〇年前には考えられなかったことだ。
「にぎやかで良いですね」
「いつもはもっと静かなんですけど……」
「そうなのですか?」
ルーファスはきょとんとした顔をした。
飼い主のそばにぴったりと寄り添う忠犬のように、ルーファスがヴィクトリアの隣に立っていると、エイルがヴィクトリアの肩を叩いた。
「ヴィクトリア。お願いがあるんだけど、少しの間ルーファス様と時間を潰していてくれないかな?」
「時間稼ぎしろってこと?」
「そういう言い方はしない」
アルフェリアは、ぷにっとヴィクトリアの頬を軽く抓った。
「昼食は、悪いんだけどこれを食べておいて」
エイルはヴィクトリアにパンと牛乳の入った籠を差し出した。
「エイルが焼いたの?」
「うん。ヴィクトリアが帰ってくるって聞いたからね」
「嬉しい! ありがとう! 私、エイルの焼いてくれるパン大好き」
セレネにいたせいで食べられなかった大好物を前に、ヴィクトリアは満面の笑みを浮かべて籠をルーファスに差し出した。
「ルーファス様! エイルのパンです。食べてみて下さい!」
ルーファスは、差し出されるがままに一つ手にとって、パクリと口に含んだ。
「……美味しいですね」
「ルーファス様には別のをご用意してたのに……」
エイルは、突然のヴィクトリアの行動に頭を押さえた。
「エイルのパンは美味しいから大丈夫だよ!」
そんなエイルを前に、ヴィクトリアは自慢げに言った。
「パンを焼くのが唯一の特技だものね」
「アルフェリア。僕が他に何もできないみたいな紹介やめてくれる?」
「でも唯一の特技っていうのは間違いではないでしょ?」
「そりゃあ、間違ってはないけど……」
エイルは溜め息を吐いた。
「お二人は仲がいいんですね」
二人のやり取りを見て、ルーファスがふっと笑う。
「村の同世代は、僕たち三人だけだったので。……僕たちが生まれたときは、戦争がありましたから」
人間同士の争いで、沢山の人が亡くなった。結果として、まだこの国の人口は戻っていない。
「魔族と争わなくても、人間同士で争っていては世話ないですよね。あの、魔族にも戦争ってあるのでしょうか?」
「この五〇〇年はありませんね。カーライル様は優秀な方ですから」
「……」
恐怖政治とも言う。
蜘蛛の糸にかかってしまえば、反旗を翻す前に殺される。
ヴィクトリアはそう思ったが口を噤むことにした。
カーライルは、今の魔族は人間の味方なのだ。その存在が恐怖を抱くべき存在だと、二人に認識させる必要はない。
ヴィクトリアはエイルを連れて森に向かうとこにした。
鳥の鳴き声が響く場所には、穏やかな時間が流れている。
苔の生えた石を滑らないように気をつけて進むと、ヴィクトリアがルーファスたちと出会った、少し開けた水場が見えた。
ヴィクトリアは、そっと水に自分の手を浸すと、ルーファスを手招きした。
「冷たくて気持ちがいいですよ」
ルーファスも彼女に倣い、手を浸す。
「はい。陛下」
二人きりになって、ルーファスの言葉はもとに戻っていた。ヴィクトリアは、それに気づいて一瞬目を細めた。
「陛下がおっしゃるように、本当に気持ちがいい」
ルーファスは今も昔も同じように、ヴィクトリアの全てを肯定する。
「ここは――本当に、静かなところですね」
ルーファスは、そう言うと空を仰いだ。
木々に覆われ、空の光は葉と葉の間から溢れている。
デュアルソレイユという名の通り、二つの太陽を持つ人間の住む世界の気温は、セレネと比べて少し暑い。一部の地域ではその暑さのあまりに人が住むことが出来ず、食物も育たない。
また太陽がなく、人工的な光で世界を照らしている魔界セレナでは、デュアルソレイユの多くの食物は育たない。
つまり太陽の有無が、二つの世界の植生には大きく関わっているのだ。
セレネで生きてきたヴィクトリアにとって、デュアルソレイユの森の涼しさというものは、心地のいいものだった。
上手くは言えない。呼吸がしやすい――なんて思う。
でもだからといって、人の世界を、デュアルソレイユを侵略したいとは、ヴィクトリアは思えなかった。
ルーファスの言葉に、ヴィクトリアは曖昧に微笑んだ。
「私がこの世界で、一番好きな場所です」
森を訪れる村人はあまりいない。
世界でただ一人のように感じられるその場所では、誰かの視線に怯える必要もない。世界はただ目前にあるだけだ。そこには誰の評価介在しない。
「陛下は一人がお好きなのですか?」
ルーファスの問いに、ヴィクトリアは苦笑いした。
「それでは、何故――……」
「ヴィクトリア!」
しかしルーファスの問いは、ヴィクトリアが答える前にエイルの声によって遮られた。
「エイル?」
ヴィクトリアは首を傾げた。
「準備ができたから呼びに来たんだ」
エイルは、ヴィクトリアの手をとった。
「……わかった」
エイルに微笑まれ、ヴィクトリアはつられたように笑みを浮かべた。
ルーファスはその笑顔を見て、二人に見えないように一人拳を握りしめた。
「……ルーファス様もよろしいでしょうか?」
「はい。勿論」
従順な狼は、主人の言葉に首肯した。
◇
「なんだかすごいね」
「だよね」
簡素ではあるものの、音楽隊まで来ているのには驚きだった。
今祭りということもあって、日は違う街からも人が集まってきていた。
早く迎えが来たのは、彼らが手伝いを申し出てくれたためらしい。
「僕の家は特製パンを作ることになってるからもう行くよ。ヴィクトリアは、ルーファス様と楽しんで。それと、女の子は特別に服も貸し出してもらえるみたいだから、ヴィクトリアも借りるといいよ」
「えっ? ちょっとエイル!?」
ヴィクトリアはエイルに手を伸ばしたが、その手をルーファスに掴まれた。
「あちらに服が用意されているようです。是非お着替えください」
動きやすいヴィクトリアの普段着は、ルーファスのお気に召さなかったらしい。ヴィクトリアは顔を強張らせた。
ルーファスの趣味は謎だ。
ヴィクトリアは、改めてそう思った。
ルーファスがヴィクトリアにと勧めてきた服は、どれもフリルたっぷり、リボンや花などがついたもので、まるで貴族の令嬢の服のようだった。
「どの服もお似合いです。世界一可愛らしい。今の陛下を見た者は、きっと女神が降臨したと思うに違いありません」
「な、何を仰っているんですか……?」
結局ルーファスが選んだのは、彼の瞳の色と同じ、青色のドレスだった。
ルーファスは、青い造花の髪飾りをヴィクトリアの髪に飾ると、淑女に対する紳士のように、ヴィクトリアに手を差し出した。
ヴィクトリアが広場に出ると、みなの注目は全て彼女に向けられた。
「貴方が一番美しい」
ルーファスは、ヴィクトリアの耳元で囁いた。
「それはルーファス様となりにいるからで……」
「いいえ。貴方がここで誰よりも、お美しいからですよ」
「……っ!」
ヴィクトリアは息を飲んだ。
(一体どこで、ルーファスはこんな言葉を覚えてきたんだろう……?)
「私と踊っていただけませんか?」
思わず顔をそらしたヴィクトリアに、ルーファスは頭を下げた。
「――はい」
音楽は緩やかに奏でられる。
ヴィクトリアは、ルーファスに導かれるままに体を揺らした。
カーライルの時は断ってしまったが、ここはリラ・ノアールではないし、ちゃんとしたダンスを知っているものはほとんどいない。
ヴィクトリアが多少間違えても、ルーファスの顔に泥を塗るようなことにはならない。
ヴィクトリアは、ルーファスの大きな手や硬い体に触れながら、昔を思って目を細めた。
子供だと思っていた彼に触れるたびに、時間の経過を感じる。
可愛いだけだと思っていた相手が、もう違う存在になったように感じて、ただその中でも、彼が垣間見せてくれる昔のように自分を見つめる瞳の色に気づくたびに、ヴィクトリアは胸が締め付けられるような思いがした。
――どきどき、する。
そして、昔は子どもだと思っていた子に、そんなふうに動揺する自分を恥じる。
「夢のよう、です」
「え?」
音楽と人の笑い声に紛れて、ルーファスの声はうまく聞こえない。
ヴィクトリアが首を傾げれば、ルーファスはヴィクトリアの体を引き寄せた。
「今貴方とこうしていられることが、私にとっては、まるで夢のようです」
その声は、砂糖菓子のように甘い。
「目を閉じてしまったら、全部夢だったと、そう言われてもおかしくないと思えるくらいに。……たとえ貴方が、セレネで過ごすことが辛いと言われても。貴方のそばにいられることに、幸福を感じてしまう私をお許しください」
その声は、祈りのようにも思える小さな声で。賑やかな夜の雑踏の中にかききえた。
◇
祭りを終えた二人は、ヴィクトリアの森にある家を訪れていた。
城に持って帰る荷物をまとめる間、ルーファスは静かに部屋の隅で待っていた。
エイルからはパン、アルフェリアからはリボン。幼馴染からもらったものをヴィクトリアが眺めていると、ルーファスが彼女に声をかけた。
「良い方々ですね。陛下が望まれているものをわかっていらっしゃる。……流石、陛下の幼馴染の方々です」
「……」
「帰りましょう」
ルーファスはそう言うと扉を開けた。
「少しの間だけ、とどまるだけです」
夜の外気が少し寒い。ヴィクトリアは、ルーファスの背を前に立ち止まった。
「私は、貴方の陛下にはなれません。魔王として、リラ・ノアールに住むことは出来ない」
「……」
「この村を守っているのは私で、私がいなくなったら、みんなも困ると思うし」
村に久しぶりに帰ってきて、ヴィクトリアは改めて思っていた。ここが、今の私《じぶん》のあるべき場所なのだと。
ヴィクトリアは自分の体を抱きしめた。
これが正解だと言い聞かせる。彼かどんなに自分を慕っていると言ってくれたとしても、それを受け入れることはできない。
(魔王じゃないただの私を必要としてくれる人たちのそばで、私は生きていたい)
「それが貴方の願いなら、私はそれに従います」
ルーファスは、静かにヴィクトリアの方を振り返った。
「ただ……たまに、会いにきてもいいですか?」
「え?」
「魔王としてあの城に住むことができない。そう仰るのなら、私から会いに来るのには問題はありませんよね?」
「それは……」
「やはり、駄目でしょうか?」
懇願するかのように床に膝を付き、ルーファスはヴィクトリアの手を握る。
見えない耳としっぽが見える。ヴィクトリアはやはり、ルーファスの顔に弱かった。
「わかりました。それならば……」
「ありがとうございます。陛下!!」
「きゃ…っ!」
ルーファスは立ち上がり、ぎゅっとまたヴィクトリアを抱きしめた。
「ああでも、陛下かいいとおっしゃってくださるなら、犬と思って陛下の家においてくださってもよいのですが……」
「それはちょっと……」
押しかけ女房ならぬ押しかけワンコ(狼)はご遠慮したい。
「流石にルーファス様と一緒に住むのは、結婚もしてないのに駄目だとエイルに怒られてしまいそうなので」
「……何故そこでエイルさんの名前を?」
すると一瞬だけ、ルーファスのまとう空気が固くなった。
「……? エイルは私の兄のような人なので」
「そうでしたか。ならよかった」
ルーファスはニコリと笑う。ヴィクトリアは首を傾げた。
(よかった? よかったって、どういうことだろう……?)
「あれ? 傷が治ってる?」
村から戻った翌朝、ヴィクトリアは着替えの際自分の腕を見て驚いた。
レイモンドとの試合の時、彼に切りつけられた場所が傷一つなく治っていたのだ。
「レイモンドにざっくりやられたから、絶対残ると思ったのに……」
ましてや今は人の体だ。人間の治癒力は魔族に劣る。
鏡に映る自分の姿を見て首を傾げる。心なしか肌艶も良い気がするし、髪の毛も何故か綺麗な気がする。
(気にしすぎかな……?)
ヴィクトリアが鏡を前に首を傾げていると、コンコンと誰かが扉を叩いた。
「陛下、お着替えはもう終わりましたか?」
「あっ。まだですっ!」
ルーファスが扉越しに聞こえて、ヴィクトリアは慌てて服を着替えた。
村から帰ってみると、部屋にあったメイド服はつくりと色が大きく変わっていた。
以前は黒一色だったが、今度は真っ赤だ。
メイド服というより、エプロンがついたドレスのようにも見える服は、ルーファスの(趣味が悪いとヴィクトリアが思う)服の中から、マシなものを改造したもののようにも見えた。
「やはり陛下は、赤がよくお似合いですね」
赤のルーファスと呼ばれた男は、にこにこと人に好かれそうな笑顔を浮かべてヴィクトリアの髪を整えた。
ルーファスは当然のようにヴィクトリアを仕事場まで送り届けると、こそっと耳打ちしてからその場をあとにした。
『お昼になったら、また迎えに参ります』
ヴィクトリアは、思わず耳を手で押さえた。ルーファスの美声で耳元で囁かれるとくすぐったいし何故か胸が騒ぐ。
こんなことでどきどきするなんてどうかしている――ルーファスは、そんなつもり無いだろうのに。
自分に向かって大きく手を振る彼に、小さく手を振り返しながら、ヴィクトリアは心の中で溜息した。
「どうしてそんなに浮かない表情をしているんだい?」
「……お、おはようこざいます。ミゼルカさん」
「おはよう。昨日は家に帰ったと聞いていたけれど、今日はまた随分可愛い服を着ているんだね。誰かに仕立ててもらったのかい?」
「お城に帰ったらこんな色になっていて……」
ヴィクトリアは裾を持ち上げつつ視線をそらした。断じて、こんな女の子女の子した服は自分の趣味ではない。
どちらかというと、この間の執事服のほうが動きやすいし目立たなそうで好きだった。
「なるほどね。まあ、若いときにだけ着れる色ってもんもある。せっかくの好意だ。受け取るのも若いものの役目ってもんさ」
「……」
ヴィクトリアの背をバンバン叩いて、ミゼルカは豪快に笑った。
◇
「お待たせいたしました! 陛下」
お昼になると、ルーファスは宣言どおりお弁当を抱えてやってきた。そして、彼の後ろには――…。
(あれ? なんで……?)
「レイモンドも連れてきました」
「――おい。ルーファス」
見るからに同意のもとではない。
無理やり連れてこられた、という顔をして、レイモンドはルーファスを睨みつけていた。
「いいだろう。お前も同席しろ」
「……なんで俺が」
「以前陛下――ヴィンセント様ともこちらで食べたことがあるだろう。陛下が記憶を取り戻されるためにも、お前も一緒のほうがいい」
「……」
ルーファスの言葉に、ヴィクトリアはほっと胸をなで下ろした。
今のところ、ルーファスは自分に記憶があることに気づいてはいないらしいと安堵する。
ルーファスは、レイモンドの小言を無視して弁当を広げた。
大人三人分にしては量が多い。
六人分はありそうな量を、二人は黙々と平らげていく。
(よく食べるなあ……。うんうん。子どもがたくさん食べて大きくなるのいいことだよね)
なんとなく、二人を見ていると、ヴィクトリアは親心のようなものが自分の中に生まれるのを感じた。
二人の姿を見て、ヴィクトリアはふふと笑う。
観察していて驚きだったのは、レイモンドの食べ方が意外ときれいな割に、ルーファスはちょっと豪快だったことだ。
ヴィクトリアはルーファスから、狼というか、動物っぽさを感じた。
しみじみとそんなことを思っていると、いきなりルーファスに匙を向けられてヴィクトリアは固まった。
「陛下。これ、美味しいですよ!」
「へ?」
(うん? 何故私は、食べ物を差し出されているんだろう?)
「口を開けてください。陛下」
「えっ? あの……」
「さっ。……ね?」
「えっと……」
ルーファスが絵本の中の王子様のような顔をして微笑んだ。
さっきまで豪快に肉を食べていたのにギャップがすごい――ではなく。
(こ……これはもしかして、『あーん』というやつなのでは!? 本では恋人や幼子にするものだと読んだのになんで私がルーファスに!?)
「わ、私はいいです。ルーファス様が召し上がってください」
恥ずかしくなって顔の周りに手を出せば、ヴィクトリアはルーファスにその手を掴まれた。陛下呼びの割に強引な扱いに混乱する。
「はい。あーん」
ルーファスは、満面の笑みを浮かべていた。
ヴィクトリアは心の中で悲鳴を上げた。
(れ、レイモンドの……前世とはいえ育て子の前で、子どもの幼馴染の男の子にあーんは恥ずかしすぎる!!!)
「る、るーふぁ……」
ぱくん!
きゅっと強く目を瞑り、震える声で彼の名を呼べば、何故か目をあけるとレイモンドがルーファスの匙を咥えていた。
「何するんだレイモンド!」
「固まっているやつをからかうのは関心しない。俺はもう行く」
「レイモンド!」
ルーファスは珍しくお怒りだった。ヴィクトリアは、ルーファスから視線が外れてほっと息を吐いた。
とりあえず、危機は免れた。
ルーファスがレイモンドにあーん、というのはちょっと絵面的に微妙だったかもしれないけれど、ヴィクトリアはレイモンドに心の中で礼を言った(ルーファスの手前口には出せなかったが)。
――ありがとう。レイモンド。
レイモンドは、何事もなかったようにそのまま城の方へ向かっていった。
「……陛下に食べていただきたかったのに」
ヴィクトリアがレイモンドの背を見送っていると、拗ねたようにルーファスが言った。
「ご、ごめんなさい。でももうお腹いっぱいだから……」
本当は他に問題があるのだが、とりあえず彼を傷つけないよう、ヴィクトリアは笑って誤魔化した。
「じゃあ、明日は私の手から食べてくださいますよねっ!」
(そういえば狼は狩りの後に一度食べ物を飲み込んで、巣で吐き戻して食べ物を子どもや妻に与える習性があると昔本で読んだな……うん。たぶん気のせいだよね)
期待の目を向けるルーファスを前に、ヴィクトリアは現実逃避した。
◇
穏やかに時間は過ぎる。
カーライルは三人の様子を窓越しに眺めながら、一人嘆息した。
「全く、いつもいつも懲りない連中だ」
悲鳴を上げる暇もなく侵入者を殺す。
せっかくの彼女の昼食を邪魔しようとするなんて、無粋がすぎるとカーライルは思った。
「イーズベリーを育てるには、この城以上の場所はない」
ヴィクトリアを招いた夜会では、彼女のために一応『ちゃんと育てられた』イーズベリーを取り寄せたが、これまでカーライルが宴で出してきたそれは、全てこの城で育てたものだ。
弱肉強食の食物連鎖。
花の餌になりたくなければ従えと、そういう意味で花は飾られてきた。
邪な心根を持つ者への見せしめとして、侵入者の所持品で花を飾ったとき、一部の魔族が顔を青ざめさせたのは見ものだった。
「雑魚はおいておいて……この報告書は問題か」
カーライルは、レイモンドとルーファスから提出された書類を見て呟いた。
「デュアルソレイユにおける、魔物の暴走……」
五〇〇年前、セレネとデュアルソレイユを繋ぐ門は塞がれた。
それはカーライル自身の糸によって行なわれているもので、破られた形跡はない。
魔物の暴走は、五〇〇年前はよく起きたことだ。
魔族以外にとって、魔素は毒でしかない。
報告によると、漏れ出た月《セレネ》の魔素を吸い込んで、デュアルソレイユの生き物が凶暴化し、人里を襲ったとあった。
レイモンドがいち早くそれに気づいて対応し、ルーファスも彼と協力して、暴走は全て食い止められはした。
――だが原因が分からないと、また同じことが起きかねない。
「まだ人間に発覚していないのが幸い、か。けれど同じようなことが続けば……対策は、早めに講じなければならない」
カーライルはひとりごちると、ヴィクトリアに見つからないように報告書に火をつけた。
「遊んでやるよ。人間!」
「陛下になんてことを!」
翌日、リラ・ノアールにはまた子どもたちが訪れていた。
「気にしないでください。子どもはこういうものですから」
「しかし……」
「食後の運動ということで。ーーそれに、どうせ遊ぶなら、一緒に楽しんだほうがいいと思いせんか?」
「……わかりました」
食事のあとは、ヴィクトリアと二人でのんびり過ごしたいと考えていたルーファスは、子どもたちを見て笑うヴィクトリアに嫌とは言えず一人ため息をついた。
「人間! 何かいい遊びを教えろ!」
カーライルに脅されたにも関わらず、少年は今日もとても生意気だった。
元気だなあとヴィクトリアは呑気に思った。
(可愛い。ヴィンセントとして生きていた頃は、お目にかかれなかった種類《タイプ》の子だ)
天真爛漫。自由気まま。
そんな言葉が似合う子どもは、五〇〇年前の魔界にはいなかった。
「そうですね……」
ヴィクトリアは考えた。
カーライルは部屋にいるようだし、城の中には入らず外で遊べて、子どもたちが満足できて――……複数人でやれる遊びが好ましい。
「では、けいどろはどうでしょう?」
「けいどろ?」
生意気ガキ大将は首を傾げた。
「警察と泥棒、という遊びです」
ヴィクトリアは、落ちていた石で地面に絵を描き始めた。
「まず警察と泥棒役に分かれて、警察役は泥棒役を捕まえます。捕まった泥棒は檻の中に入れられますが、泥棒は檻の中の仲間を助け出すこともできるという遊びなんです。……勝敗については、泥棒をすべて捕まえれば警察の勝ち、というのはどうでしょう?」
「全てですか?」
ルーファスが尋ねる。
「はい。私もお昼からまた仕事がありますし、全員逃げきれば泥棒の勝利、一人以上残っていれば引き分けという事で」
「俺たちはそれでいーぜ! さっさと始めるぞ」
「それでは手の裏か表で決めましょう。少ない方を警察とします」
結果として裏が少なく、裏を出したルーファスと二人の子ども、ヴィクトリアやその他大勢の子どもたちが表を出し泥棒になった。
「おい人間。簡単に捕まるなよ」
「頑張ります」
リラ・ノアールには、城を取り囲むように森がある。
けいどろにはその森を使うことになった。
ヴィクトリアは、少年に向かって笑みを浮かべつつ、首をおさえた。
時は少し前に遡る。
カーライルにお願いして、死なない程度に罠を一時的に解除してもらったヴィクトリアだったが、その際に彼は彼女の首に触れると、静かな声で尋ねた。
「捕まる側になるなんて、そういうのが趣味なのですか?」
「裏か表でなっただけです」
そしてヴィクトリアがあくまで強気に返したら、ふっと笑ってカーライルは言ったのだ。
「ああ。確かに脈拍に変動はないですし嘘はついていないようですね」
「な……っ」
脈拍で嘘か真かを確かるなんて悪趣味がすぎる。
首切り発言のあとだったので、何か怒らせたのかと思い一瞬怯んでしまった自分をヴィクトリアは後悔した。
「さっきから首抑えてるけど、どうかしたのか?」
「なんでもないです。ただ、ちょっと首が痛いな――……なんて」
ヴィクトリアがあははと笑うと、少年はあからさまに眉をひそめた。
「試合の前に怪我とか何してるんだよ。相手はあの赤のルーファスだからな。油断大敵だぞ」
「……ルーファス様は子供ではないのですから、全力で立ち向かわれることはないと思いますけどね」
カーライルに比べたら、ルーファスは温厚な方だとヴィクトリアは思う。
子供との遊び程度で、彼が本気を出すはずがない。
「きっとぎりぎり避けられるくらいで追い回していると思いますよ」
「それはそれで悪趣味だろ」
ヴィクトリアが笑って言えば、少年は顔を顰めた。
「しかし、赤のルーファスから逃げ切ったとあれば自慢出来るしな。俺は全力で逃げ切るぜ!」
「そうですか。頑張ってください」
拳に力を込める少年の姿に、ヴィクトリアは微笑んだ。やはり子どもが楽しそうにしている姿は可愛くて和む。
「何言ってんた。勝つためには全員逃げなきゃいけないんだから、お前も全力で逃げるんだぞ」
「え……?」
「目指すは完全勝利! 逃げ切って逃げ切って逃げ切るんだ。でも、それでも駄目で、もし誰かが捕まったなら、そのときは助けに行くんだ」
少年は目を輝かせる。
その瞳は、やはりヴィクトリアがヴィンセントとして見てきた、セレネの子どもたちとは違っていた。
「仲間なら、助け合うものだからな」
「泥棒なのに熱血ですね」
子供の言葉一つ一つが、ヴィクトリアは心地よく思えた。
(魔族の子供のなかに、そんな考え方をする子がいるなんて――)
「え?」
それが嬉しくて――嬉しいのに、涙が溢れる。
「お、おい? どうしたんだよ。人間」
ヴィクトリアが笑みを浮かべたまま涙を瞳に浮かべると、少年は彼女に手を伸ばした。
しかし二人の間をさくように風が起こり、その瞬間ヴィクトリアはルーファスに抱きしめられていた。
葉が宙に舞う。
ヴィクトリアの服の長い裾は、大きく捲れ上がる。
ヴィクトリアは、慌てて服を手で押さえた。
「――捕まえました」
ルーファスは、そう言ってヴィクトリアを抱く腕に力を込めた。
「……る、ルーファス様!?」
「陛下。暴れないでください。――私は貴方を迎えに来ただけなのですから」
ルーファスは耳元で甘く囁く。
少年は、ヴィクトリアを抱きしめたルーファスを見上げ顔を赤くすると、こう叫んで逃走した。
「いいか? 完全勝利だ! 俺が迎えに来るまでちゃんと待っていろよ!」
「……ふふ……面白い。私相手に宣戦布告とは」
少年の言葉に、ルーファスはなぜか笑っていた。
「る、ルーファス……?」
ヴィクトリアは、何故か昔本で読んだ、魔王に攫われたお姫様を勇者が助けに行く話を思い出した。
(おかしいな。本当は、魔王は私だっていうのに)
「……ルーファス様は捕まえには行かれないのですか?」
「はい。私がここにいれば、陛下を私から攫おうとする不届き者からお守りできますので」
(守るっていうか、迎えに来る子どもたち(泥棒)のほうが私の仲間なんだけどね?!)
ヴィクトリアは、きらきらした笑みを浮かべるルーファスが、この遊びをちゃんと理解しているのか少し不安になった。
「……貴方さえここにいらっしゃれば、少なくとも負けることはないわけですし」
ヴィクトリアははははと乾いた笑みを漏らした。
(うん。ルーファスはちゃんとこの遊びを理解している)
子ども相手に全力を出す大人は確かに見苦しい。
しかし、完全勝利を目指す子どもの熱意を完全に叩き伏せる大人はどうだろう?
もっと大人気ないと思うのは私だけなんだろうか――地面に描かれた囲いの中で蹲り、ヴィクトリアはふうと溜め息を吐いた。
「ルーファス様、お願いがあるのですがよろしいでしょうか」
「何なりとお申し付けください」
「この檻の範囲ですが、もう少し広くすることひできないでしょうか?」
「なぜですか?」
「……」
勿論、彼らが助けに来るときのことを考えてのことだ。
しかしそれを言うことは出来ないので、ヴィクトリアはルーファスが好みそうな答えを返した。
「少し狭くて。……もう少し広いほうが、くつろげる気がして」
『ここ、ちょっと狭いからもっとひろげてくるない?』警察に対してこんなことを言う泥棒はいないだろうが、相手は自分を陛下と呼ぶルーファスだ。
多少は考慮してくれるだろうと思っての言葉だった。
「大変失礼いたしました!」
ルーファスはそう言うと、檻の範囲を広げたあとに、さっとどこからか椅子と机を取り出した。
「え?」
今のどこから出したの? ヴィクトリアが呆然としていると、ルーファスは苦笑いして頬をかいた。
「陛下と過ごせるのがうれしくて、気がまわらず申し訳ございません。ずっと陛下がお立ちになっていたことに気がまわっておりませんでした。本やお菓子もご準備しておりますので、なんでも私にお申し付けください」
メイド服を着ているのはヴィクトリアなのだが、ルーファスは完全に忠犬と化していた。
「じゃあ本をいただけますか……?」
「はい!」
命令を心待ちにしているかのような彼の姿に、ヴィクトリアは苦笑いしてそう『お願い』した。
◇
その様子を窺っていた子どもたちは、完全にこちらは眼中にないルーファスに対して怒りを募らせていた。
「ルーファス様と人間がべったりだったら面白くないじゃん!」
「ていうかなんでルーファス様が給仕してるんだよ!」
「人間はなんで本を読みながらのんきに紅茶なんか飲んでるんだ!?」
魔族の序列三位を顎で使う人間の女なんてありえない。
「へーか、って呼んでたし、もしかしてあの女ってすごいやつなのか?」
「それはないだろ。ただの人間だぞ」
「ただの人間がルーファス様やカーライル様とあんなにしたしげに出来るもんなのか?」
「とうでもいいだろそんなこと!」
これでは話がまとまらない。
少年の言葉に、子どもたちは口を閉じた。
「これは勝敗のある遊びなんだ。俺たちがやることは、完全勝利のために、人間を助け出すことだ。こんなに馬鹿にされたんだ。引き分けなんてお前たちも嫌だろう? だったら今は、あの人間が何者かなんて論議している場合じゃない」
少年の演説に、子供たちは目を輝かせる。指導者が誕生した瞬間だった。
「悪逆非道な警察、赤のルーファスから、人間を助けるぞ!」
時間はもうあまり残されていない。
もうすぐお昼の休憩が終わるし、この勝負は引き分けかと思いヴィクトリアは本を閉じた。
迎えに来ると言ってくれていたが、結局それは叶わなかった。
でも仕方のないことだ、ともヴィクトリアは思った。
自分より強い相手に勝負を挑むのは難しい。子供が何人たばになろうが、ルーファスには敵わない。
(――あれ?)
しかしその時、ヴィクトリアは『気配』を感じ取って後ろを振り向いた。彼女の隣にいたルーファスもほぼ同時に振り返る。
そこにいたのは。
翼をはやした子供が、真っ直ぐにヴィクトリアのもとに降りてきていた。
魔道具による翼の特徴――翼は虹色の光を放つ金平糖のようなものを纏っていた。
「な、なんで気付くんだよっ!?!?」
「飛行補助用の魔力に気づかないわけがないだろう」
背後からの奇襲がバレて慌てる子供に対して、ルーファスはさらっと言った。
子供用の魔法道具は、大人が子供を補助するために感知魔法が付けられている。
安全性を第一に作られているが、見栄を張りたがる子どもには教えない大人が多い。
因みに信頼と安心の魔道具店エイプリルは、子供向けの練習用を表向きは取り扱う店だ(表向きでないものは口に出せない)。
店主である魔女アフロディーテ(美魔女)は、過去ヴィンセントに結婚を迫ってきた女性のうちの一人だ。
半分人間であるヴィンセントの体の作りを確かめて、人間と魔族の違いについて研究させて欲しいと宣った異常者のことは、ヴィクトリアのなかに悪夢として記憶に刻まれている。
鋭利な刃物を手に、「痛くしないから……」と距離を詰められたときは、本気で解剖されるかと思ったものである。
ひと目でヴィンセントが女と見抜いていた上で、実験目的に魔王の体を求めた魔族は彼女だけだった。
ヴィクトリアは胸を抑えた。
魔族の中では当時珍しく、人間を劣等種とは言っていなかったため多少交流を持っていたが、彼女からすれば『知的好奇心を抱けない全ての生き物は存在する価値がない』とのことだったので、人間魔族問わず生き物=実験対象だったのは気のせいなのだ。
心理的付加のせいで心臓が痛い。
製作者は危険極まりないが安全性だけならセレネいちだ。
子どもはルーファスに捕まるだろう。そうして終わりの時間が訪れる。
ヴィクトリアはそう思い視線をそらしたが、空中からありえない音がして目を見開いた。
「え?」
ぱちんと、割れてような音。
それは、魔法が壊れたときの音だった。
「わあああああああっ!!!」
「まずい」
ヴィクトリアは地面を強く蹴った。
逃げやすさを考慮して檻を広くしてもらったのが幸いした。
「――地面に降りるまでの上空も柵のうちということで」
ヴィクトリアは、墜落した子供を抱えたまま木の上に降りると、何事もなかったようににこりとルーファスに笑いかけた。
「仲間に迎えに来てもらったので、私はこのまま逃げます」
ルーファスは呆然と、立ち去るヴィクトリアを見つめていた。
ゴーン。ゴーン。ゴーン。
城に取り付けられた鐘の音が鳴り響き、泥棒たちは勝利のあまりわあっと声を上げた。
「人間のくせにやるじゃん」
「助けてもらっておいてなんていいぐさだ!」
時間ギリギリで泥棒の勝利だ。
泥棒だった子どもたちは、墜落してきた少年を英雄のように讃え、人間と呼ぶ相手に最後助けてもらったことはまるでなかったような扱いだった。
「だってルーファス様はへーかってしか呼ばないから名前知らないし」
頭にげんこつを入れられた少年は口を尖らせた。
「ヴィクトリア。ヴィクトリアって言います」
「ふーん」
子どもはそれだけ言うと、ぷいっと微笑む彼女から顔をそむけた。
「せっかく勝負に勝ったことだし、人間が呼んでほしいっていうなら、呼んでやらなくもないけど」
少年は下手な口笛を吹く。
「……因みに俺の名前はコリンっていうんだぞ」
ボソッとコリンは呟いた。
「へえ。そうなんですね」
ヴィクトリアは頷いた。
「……………他になにかないのか?」
「他にとは?」
ヴィクトリアは首を傾げた。何やら目の前の少年は不満げだが、理由が全く思いあたらない。
「名前を教えるっていうことは、呼んでもいいってことだろ!」
「ああ。なるほど。では……」
ヴィクトリアはコホンと咳き込んでから彼の名前を呼んだ。
「コリン様?」
魔族相手、しかもおそらくちゃんとした家の子どもたちだ。
人間である自分は様付けすべきかと判断してヴィクトリアがそう呼べば、少年の顔か真っ赤に染まった。
「……べ、別にお前に名前を呼ばれたからって、嬉しくなんてないんだからな!!!」
「はい。理解しています」
「なんでそうなるんだよっ!」
「????」
声を荒げるコリンを前に、ヴィクトリアは首をかしげた。
年頃の男の子の考えは、昔も今もよくわからない。
せめてヴィンセント時代関わりのあった子どもたちと似ていれば対応ができるのだろうが、ルーファスともレイモンドとも違う言動だから対応に困る。
敵意は持たれていないように感じるけど、彼が顔を赤くする理由や、自分に無駄につっかかってくる理由は、ヴィクトリアにはわからなかった。
「…………ルーファス様?」
(私の後ろに立っているルーファスの纏う空気が明らかに冷たくなったのは気のせいかな?)
子どものことで頭を悩ませつつ、ヴィクトリアが振り返って彼の名前を呼べば、満面の笑みのルーファスは手に武器を持っていた。
「陛下。礼儀のなっていない子どもに罰を与えるのも大人の仕事だとは思われませんか?」
「何言っているんですか?」
ヴィクトリアは混乱した。
ルーファスもコリンも、どう対応すべきかわからなくて収拾がつかない。
「とりあえず武器を下ろしてくださいませんか? 子どもたちが怯えてしまいます」
とりあえず、安全第一で行動しよう。
ヴィクトリアがルーファスの剣に触れたときだった。
キイイイイイイイイイイ!!!!
甲高い音がして、ヴィクトリアは耳を抑え背後を振り返った。
結界を何者かが壊した音。
これほどの音となれば、よほど大きなヒビが入ったはず。
しかし不思議なことに、ルーファスやコリンたちが音に気付いた様子はなかった。
「ぐ……っ!」
頭に響く音に、目眩がしてヴィクトリアはしゃがみこんだ。
「陛下!? どうされたのです?!」
「どうしたんだよ。ヴィクトリア!」
ルーファスとコリンはヴィクトリアに素早く駆け寄った。
その時すぐ横の草むらから、ガサリ、という音がした。
そして侵入者は、ヴィクトリアたちの前に姿を表した。
「――え?」
古龍。
黒い煙を纏う金色の瞳の龍は、ヴィクトリアたちを睨みつけていた。
セレネを生きている魔族たちの中でも希少種とされる龍種の中で、更に珍しいとされる種族。
古《いにしえ》を知る龍として、古龍と呼ばれるその生き物を見るのは、ヴィクトリアが魔王ヴィンセント・グレイスとして生きていた頃からかぞえても、それが二度目のことだった。
「どうしてここに暴走した龍種がここに!?」
子どもたちの言葉に、ヴィクトリアは唇を噛んだ。
どうやら子どもたちは、敵が何者であるかを正確に認識できていないらしい。
暴走――魔素をうまく体にためおくことができなかった場合に起こる症状。
今のところ、この状態に陥った存在が回復した例はない。黒煙をまとい自我を失った存在は、セレネでは討伐対象とされる。
しかも、今回暴走したのはただの龍種ではない。
古龍は、魔界の中でも天災級の力を持つ生き物だ。
魔族の中でも、人魚に次ぐ長命種。
その鱗は、歳を重ねることに固く層をなす。
基本的に争いを好まない温和な性質を持つ彼らは岩穴に巣を作り、硬い岩や鋼鉄などの石を主食とするため、顔を見せることほとんどはない。
明らかに異常だった。
自我を失い本能のままに行動しているなら、餌を求めるのが普通だろう。
魔王城の結界内にある森の中には、龍種が最も好むとされる石は存在しない。
なぜなら『ヴィンセント』時代、餌を求めて彼らが侵入しないように、すべて排除されたからだ。
(その古龍が、どうして……?)
「離れて!」
ヴィクトリアは、逃げ遅れた子供を抱えて後方に飛び移った。
龍の爪は、子供がいた場所を深々とえぐっていた。腕に抱えられた子どもは、悲鳴を上げ、ヴィクトリアの腕の中で暴れる。
「大丈夫。――大丈夫だから」
ヴィクトリアは、落ち着かせるために子どもの体を抱きしめた。
するとコリンがヴィクトリアから子どもを奪い、体格のいい少年に手渡した。
「何するの」
「そっちこそ何してるんだよ! 殺されるぞ!?」
「動けない子を助けるのは当然でしょう。みんな下がって。――ここは、私がどうにかするから」
ヴィクトリアは、子どもたちの前にたった。
しかしコリンは、ヴィクトリアの腕を引くと、一歩彼女の前に出た。
「駄目だ。お前は弱い人間じゃないか」
しかしその彼を、ルーファスは背に庇った。
「陛下。ここは私に任せてお逃げください」
「な、なにするんだよっ! これからがいいとこで……」
「無駄に仲間を殺す先導者ほど愚かなものはない。弱いお前たちがいても邪魔なだけだ。龍種はこちらでなんとかする。お前たちは陛下を連れてこの場を離れろ」
コリンを見つめるルーファスの瞳は、氷のように冷たかった。
「……エドヴァルド。ヴィクトリアを抱えて俺の後について来い」
コリンは自分の背後に控えていた彼に命じると、子どもたちに向かって叫んだ。
「何も言わず、全員俺について来い!」
「ちょっ。ええ!?」
「撤退だっ!」
ルーファスの姿がどんどん小さくなる。
エドヴァルドに抱えられ、ヴィクトリアは呆然としていたが、はっと我に返って叫んだ。
「離してっ!! もともと私は狩りを仕事にしてたんだから。私だって戦え……」
「馬鹿っ!!!」
服のせいで、うまく腕の中から逃げられない。エドヴァルドの腕の中で暴れるヴィクトリアに、コリンは言った。
「人間の世界ごときの動物と、魔物が同じ強さななわけ無いだろ! ただの人間が、どうにかなるとでも思ってるのか!?」
「……っ!」
ただの人間。
その言葉が、初めて嫌だとヴィクトリアは思った。
「あいつなら大丈夫だ。もし駄目だとしても、俺たちがどうにかできるわけがない。カーライル様たちを呼びに行くべきだ」
確かにルーファスが弱点を知っていれば古龍は倒せるだろう。
――でも。
「あ」
(ルーファスは敵を見て、『古龍』だとは言わなかった)
「なんてこと」
その時ヴィクトリアの頭のなかに、ある可能性が浮かんだ。
ルーファスは弱くはない。
でももし彼が正しく事態を認識していたのなら、ただの龍種と同じやり方では倒せない古龍を前に、龍種と呼ぶのは考えづらい。
古龍が強いのには理由がある。
それは彼らの瞳が、相手の動きを封じる力を持つからだ。
その瞳に睨まれた者は、一定時間をすぎると、動くことがままならなくなる。
故に古龍を倒すためには、瞳を潰すことが必要となる。
瞳の強度はさほど高くはない。人間界の通常の武器であろうとも、貫くことは可能だろう。
かつて、魔族によるデュアルソレイユ侵攻の際、古龍の一匹が門をくぐり抜けたことがあった。
多数の死者を出したものの、その際に瞳を潰した人間は存在した。
龍の体の強度は鉄より硬い。
しかしその顎の下にある逆鱗は、桜貝のように薄い作りをしており、その場所からなら一気に龍の体を貫ける。いわば龍の心臓とも呼んでもいい場所だ。
人間による古龍討伐の例は一例だけ存在し、その際は瞳を潰した上で逆鱗から喉を貫いている。
ルーファスは、基本的にカーライルの命令を受けて行動している。
子どもたちは古龍を見て『魔物』だと言った。
古龍なんて滅多に出会わない敵の弱点を、ルーファスが知らない可能性は高い。
目を潰す前に龍の逆鱗に触れてしまえば、事態はもっと悪化する。
知識さえあればいい。
ルーファスと自分が力を合わせれば、古龍は倒せる。
「あの子を一人で戦わせるわけには行かない」
ヴィクトリアはそう呟くと、心の中で謝罪して、エドヴァルドの体を強く蹴って腕の中から抜け出した。
「ヴィクトリア!!」
コリンが倒れたエドヴァルドのそばに座り込み、彼に怪我を負わせたヴィクトリアを見て責めるように名を呼んだ。
「ごめんなさい。――でも、行かなきゃいないの」
苦笑いして背を向ける。
ヴィクトリアは服に短剣をつきたてると、走りやすいように裾を破いた。
「待て! 駄目だ。行っちゃ駄目だ。ヴィクトリア!!!」
ヴィクトリアは、静止を聞かずに駆け出した。
◇
圧倒的な存在感。
暴走した龍の討伐は、ルーファスは一度行ったことがあったが、今回の敵はどこか違うような気がした。
何が違うかはわからない。
そしてその自分の直感が、もしかしたら自分に敗北をもたらす可能性もルーファスは考えていたが、かと言ってここで引くわけにはいかないことも理解していた。
「あの方を、もう目の前で失いたくはない」
ヴィクトリアのためになら命さえ擲てる。カーライルだって、そのつもりで自分を陛下のそばにおいていたはずだと、ルーファスは自分に言い聞かせた。
ルーファスは、図書室でのことを思い出した。
ルーファスがいくら魂を見分けているとはいっても、記憶があることに気付くことは、ヴィクトリアの言葉がなければ難しかった。
金色狼の特徴についての知識。
『ヴィクトリア』も、『ヴィンセント』も、昔からどこか抜けている。
だからこそ、大好きな本を前にすれば、ヴィクトリアかへまをするとふんで、カーライルは自分をヴィクトリアのそばに置いたのだろうと今は思った。
カーライルは、城を基本離れない。
だからこそ自分の意思で、常にヴィクトリアを守る盾となる存在が欲しかったに違いない。
盾は強ければ強いほど利用価値がある。
そしてその強度は、思いによって変わる。記憶の無い想い人と、記憶があることを隠している想い人なら、後者の方をより守ろうとすると踏んだのだろうとルーファスは思った。
古龍が一歩足を踏み出せば大地には罅が入り、その爪が触れた木は、まるで蝋のようにドロリと溶け、咆哮は地を揺らす。
ルーファスは、圧倒的な力を持つ生き物を前に、己が高ぶるのを感じた。
命がけの戦いになるかもしれない。強者を前に、血が滾るような感覚があった。
ルーファスはにっと笑うと、自分の手のひらに口づけた。
すると彼の姿は、美しい狼に変わった。
金色狼の本来の姿は獣の姿。
獣の姿を取るときにこそ、ルーファスは全力が出せるのだ。
ルーファスは古龍に飛びかかると、鱗を引き剥がすように爪を立てた。
以前彼が龍種を倒した際は、鱗を剥がし、そこから傷をおわせ、血を固めて一気に勝負をつけた。
今回もその方法でかたをつけようと思っていた彼だったが、鱗のあまりの硬さに驚いて、ルーファスは一度古龍から距離をとった。
「爪が通らない……!?」
薄々嫌な予感はしていたが、これでは自分の能力を活かした攻撃が出来ない。
「同じやり方では倒せないのか……? 弱点がわかればせめて……」
ルーファスは敵を観察し、首の下に光る逆さの鱗を見つけて目を細めた。
「あそこが弱点か……?」
ルーファスは、古龍の喉に攻撃を行おうとしたが、その時龍をめがけて石が飛んできた。ルーファスは空中で石を避けると、地面に降りて『敵』を睨みつけた。
「何をするっ!?」
「下がって! ルーファス!」
「え? 陛下?」
『敵』からと思っていた攻撃の妨害の相手に、ルーファスは目を丸くした。
「なぜ戻ってこられたのですかっ!」
叫ぶルーファスに対し、ヴィクトリアは冷静だった。
「古龍相手に長期戦は禁物です。それに、逆鱗に触れれば余計に刺激させるだけ。古龍を倒すには、まず瞳、その後に逆鱗を攻撃せねばならない。貴方は一度姿を隠してください。古龍の力が、もうすぐ発動してしまう!」
「古龍……?」
ルーファスは、聞き覚えのない名前に目を瞬かせた。
「……古龍の力とは一体何のことですか?」
「やはり知らなかったのですね。一定時間あの瞳に見つめられ続けると、石のように体がかたまり、身動きか取れなくなります。貴方は、もうすぐ症状が出てもおかしくない。一度身を隠してください」
ヴィクトリアは服の下に隠していた短剣と、カーライルの糸を取り出した。
「今の私では、とどめを刺すことはできない。けれど瞳を潰すくらいならできるはず。私が時間を稼ぎます」
ヴィクトリアはルーファスを自分の方に引き寄せて森の茂みに隠すと、武器を取り出して地面を強く蹴った。
「陛下っ!」
古龍の体は、肉を切るカーライルの糸では貫けない。
それでも、目を潰すくらいはできるはずだ。
ヴィクトリアは糸で輪を作り、瞳を匙で掬うように動かした。
――しかし。
「え……?」
糸は瞳に触れる直前、何故かじゅうという音とともに溶けた。
まるでヴィクトリアの持つ、カーライルの糸による攻撃を見越していたかのように。
瞳には、糸を無効化できる熱の魔法がかけられていた。
「……どうして」
カーライルの糸を普通の火で燃やすことは出来ない。
しかしこの世界には一つだけ、カーライルの意思以外で、糸を切る方法が存在する。
カーライルの糸の弱点は、魔法による温度の変化だ。
蜘蛛の一族と雪女の一族の魔法をかけ合わせた固有魔法。
糸に編み込まれた液体に特定の温度の熱を加え、状態を変化させれば糸は無力化できる。
カーライルが操る糸は、複数の細糸を束ねたものだ。
カーライルは一つの細糸に対して異なる温度を定めており、糸は特定の温度意外に触れるともとの形に戻るため、彼が操る糸を一度に無力化させることは難しい。
それができるのは、かつてヴィンセントが創り出した魔法のみだ。
ヴィンセントの魔法は創造魔法。
ヴィンセントは魔法の仕組みを理解し、その力をそっくりそのまま使うことが出来た。そしてその力を破ることのできる魔法もまた、同時に作り出していた。
ヴィンセントは、自分以外が使える魔法を作ることも可能だった。
だが、仲間を売るほど非情でも愚かではない。カーライルの魔法を妨害する魔法――確かにそれはヴィンセントによってこの世界に生み出されたが、記録はされなかったはずなのに。
「く……っ!」
龍は、ヴィクトリアの存在に気づき腕を上げた。
その爪が届く前に、ヴィクトリアは手頃な木の上に着地すると、千切れた糸を回収した。
敵を倒す術《すべ》は頭に山程浮かぶというのに、そのどれもが、『今の自分』には難しかった。
ヴィンセントが強かったのは、膨大な知識と魔法、そして身体を強化によるものだ。
今のヴィクトリアは強いとは言っても、『ヴィンセント』には及ばない。
レイモンドにさえ敗北した、今の自分では成功する確率は低いかもしれない――そう思う心が、また自分の足枷になるのを、ヴィクトリアは感じていた。
「陛下! ご無事ですか!?」
攻撃に失敗したヴィクトリアを心配して、ルーファスが叫ぶ。
守りたいからここに来たのに、心配されることしかできないなんて、情けないにもほどがある。
ルーファスに古龍の倒し方を教えた上でカーライルに助けを求めていたなら、状況は変わっていたはずだ――そう考えて、ヴィクトリアは「違う」と心の中でつぶやいた。
カーライルの魔法を妨害できる古龍相手なら、レイモンドが駆けつけてくれるのが一番望ましい。
しかし、レイモンドがカーライルより先に危機を察知して、自分を助けに来てくれるとは、ヴィクトリアに思えなかった。
ヴィクトリアは古龍を睨みつけた。
武器が壊れることは想定していなかった。自分を守ろうとしてくれた子どもに怪我を負わせてまで駆けつけたのに、今この状況では、足手まといは自分自身だ。
そして古龍の爪は、戦う術のないヴィクトリアに振り下ろされる。
「陛下!!!」
ルーファスは、ヴィクトリアを乗せて逃げようとした。
しかし古龍の力によって、ルーファスの体は氷のように固まってしまう。
その瞬間、龍の鋭い爪が、ルーファスを襲った。
「ぐっ……っ!」
バキバキという木の砕ける音と共に、ルーファスの体は地面に叩きつけられる。
「ルーファス! ルーファス!!」
狼の、金色の美しい毛皮から、赤い血が溢れ出る。
それは、本来のルーファスなら有り得ない光景だった。
ルーファスが、これまで一人で多くの魔族を討伐できた理由は、彼の能力に起因する。ルーファスは、いくら的に傷をつけられても、その傷跡を即座に塞いでしまうのだ。
「ぅ……ぁあ……っ」
しかし、今はどうだろう? 意識のある彼の血が止まらないのは、どう考えてもおかしかった。
ヴィクトリアは、ルーファスの体を貫いた、龍の爪を観察した。
爪先は、不自然に青い色をしていた。
金色狼の牙には、血液を凝固させる力があるとされる。
そしてその反対の力を持つのが吸血鬼だ。吸血鬼の体液から作られる青色の毒は、血液の凝固を防ぐ。血の流れを促すそれは、金色狼の力を妨害できる唯一のもの。
(もし、この仮説が正しいなら)
ヴィクトリアは唇を強く噛んだ。
ルーファスはこのまま放っておけば、出血多量で死んでしまう。
解毒剤は城にある筈だ。
けれど今のヴィクトリアに、狼を背負って龍から逃げることは難しい。それに、今ルーファスの体を無理に動かせば、それこそ死期をはやめるだけだ。
グオオオオオオオオオ!!!
古龍が空に向かって吠える。
ヴィクトリアは、ルーファスの傷を手でおさえた。しかし魔法が使えない今の彼女に、血を止めることは出来ない。
(このままでは、このままでは――……)
最悪の事態だけが、ヴィクトリアの頭に浮かぶ。自分をかばって血まみれになったルーファスの姿は、消し去りたい記憶を呼び覚まさせる。
「ディー……ッ」
(嫌。嫌だ。どうしてなの? どうして私は無力なの。どうしていつも、私は誰も守れないの? 大切にしたい人は目の前にいるのに、どうしてそんな人ばかり、失わなきゃならないの?)
自分自身の問いに、心の中でうずくまる、幼い自分が首を振る。
(――違う)
『ヴィンセント』なら。
『ヴィンセント・グレイス』なら、この状況を覆せる。
どんな未来も、この世界をも、屈服させる力があるならば。
その力があれば一言で、白は黒に塗り変わる。
ヴィクトリアはルーファスのそばに蹲り、自分に振り下ろされる鋭い爪を見つめていた。
今の彼女には、世界はまるで止まっているかのように見えた。
ヴィクトリアは静かに目を瞑った。
どこからか、雨音が聞こえるような気がした。
おめでとう。
おめでとう。
この世界は君のものだ。
君が世界を統べる王。
君は世界に選ばれた。
おめでとう。
おめでとう。
君の願いは何でも叶う。
君が願えば、あらゆるものは書き換えられる。
おめでとう。
おめでとう。
君は何者にもなりえない。
君は誰とも交われない。
――残虐非道な魔王の血を継ぐ、君の未来に祝福を。
けらけらと、けらけらと。嗤い声が頭に響く。
それはかつて自分が、捨てたはずのもの。
ヴィクトリアは胸に手を当て、ぎっと敵を睨みつけた。
「『ルーファスは殺させない』」
その瞬間、ヴィクトリアは自分の中で、何かが壊れる音を聞いた。
殺せ。
殺せ。
これは、大切なものを傷つけた。
これは、大切なものを傷付ける。
それは、罰を受けるに値する。
それは、この世界から消えるに値する。
「――その命をもって、我に牙を向いた罪を赦さん」
ヴィクトリアは、ルーファスの目を手で隠し、目を瞑って手を上げた。
頭の中に望むものを思い浮べ、そして大きく息を吸い込む。
「星をうつすはその瞳。煌めきは爆撃となりて、視界を封ず」
一瞬。
昼の空に星が煌めいたと思うと、流星となって古龍の体に直撃した。
そして、とびきり巨大な星の礫が、古龍の瞳の前で閃光を放って弾けた。
グオオオオオオオオ!!!
古龍の咆哮は風を起こし、ヴィクトリアの髪は風にたなびく。
これでもう、古龍は目を使えない。ヴィクトリアは目を開けると、少しも怯むことなく次の魔法を繰り出した。
「糸を通すはその鱗。薄氷は鋼鉄より柔い」
すると、龍の逆鱗がぴききっという音ともに罅を作った。
ヴィクトリアはその隙を逃さず、頭の中で、逆鱗が壊れる姿を想像し魔法を創った。
「薄紅《うすべに》、桜花《さくらばな》。花散るように、逆鱗《げきりん》は砕け散れ」
薄桃色の鱗は、はらはらと、まるで桜のように砕けて宙に舞う。古龍は逆鱗の下の、柔い肉を晒していた。
「糸は捻じれ紡がれる。糸よ。矢となり、強弓を以て敵をつらぬけ」
ヴィクトリアの言葉により、カーライルの糸が空中に浮かぶ魔法陣から出現する。
糸はくるくると絡まり合い太さを増して、大きな弓と矢となった。
宙に浮かんだ弓は、大きくしなり、勢いよく晒された肉を貫く。
ギィイイイイイイイイイイイイイ!!!
古龍は声を上げ、その尾で地面を抉ると、木々をなぎ倒しながら倒れ込んだ。
「は……っ。はっ。は……っ」
ヴィクトリアは、浅く息を吐いて手を下ろした。
危険が去ったことに対し、安堵で体から力が抜ける。
(もう大丈夫。大丈夫だ。古龍によって、誰かが死ぬことはない。私は。私は大切なものを守れたのだ)
――……本当に?
けれど頭の中で、誰かが自分にそう尋ねた。
ヴィクトリアは頭をおさえ――そして、自分を濡らす血溜まりに気がついた。
(何故私は、こんなに大切なことを頭から消してしまっていたの?!)
「ルーファス!!」
「へい、か……」
血だらけのルーファスは、とぎれとぎれにヴィクトリアを呼んだ。
声に覇気はなく、瞳は見えていないのか、ヴィクトリアを捉えていない。
ヴィクトリアに伸ばされた手は宙を彷徨う。その手を、ヴィクトリアは震える両手で強く包み込んだ。
「陛下は……ご無事、なのですね……?」
「……っ!」
血だらけで、死にかけているのに、それでもなお自分を思う彼の言葉に、ヴィクトリアは嘘をつくことはできなかった。
ヴィンセントの――かつての自分のように、ヴィクトリアは、ヴィンセント・グレイスとして彼に返事をした。
「ああ。――ああ。……私は、ここにいる」
「……よかった」
その声を聞いて、ルーファスは微笑むと瞳を閉じた。
「……ルーファス? ……ルーファス、ルーファス!!!」
ヴィクトリアは彼の名を叫んだ。けれどもう、彼が瞳を開けることはなかった。
「嫌」
ヴィクトリアの瞳から、涙が一滴こぼれ落ちる。
「嫌。嫌なの」
その涙は、ヴィクトリアの手の甲におちる。
赤く濡れた手のひらは、涙を含んで薄く広がる。
ヴィクトリアは短剣を取り出すと、自分の手のひらに傷をつけた。
その手を、赤い血溜まりの中にひたす。
「傷を。傷を癒せ。糧として、彼にこの身を捧げん」
すると、ルーファスの体の下に巨大な赤い魔法陣が浮かび上がった。
それはヴィクトリアとルーファスの体を包みこみ、青ざめていたルーファスの顔には生気が戻っていく。
ヴィクトリアは、それを見て安堵した。
(よかった。魔法は成功だ)
「……ああ……っ」
しかしその時、立っているのもままならないほどのだるさと目眩が彼女を襲って、ヴィクトリアはルーファスの体の上に倒れ込んだ。
深く冷たい水の底に、落ちていくような感じがした。
魔法陣は光り続けている。ルーファスの回復は済んだというのに、魔法が消えてくれない。
体から、力が抜けていく。
「あ……う……」
呼吸が上手くできない。
遠い日の、あの日と同じ。
『ヴィンセント』が死んだあの日のように――命が、体から失われていく感覚があった。
(誰か、助けて)
しかし声は、言葉にならない。
「……ぇい、もん……」
それは――魔力欠乏症の症状だった。
「……う……く……ぅああ……っ!」
息が、うまく出来ない。
ルーファスの傷は癒えている。
魔法を止めようと思っているのに、頭の中から血が流れていく光景が、焼き付いて離れない。
そのせいで、力の制御ができない。
自分の中から、命が流れていくような感覚が止まらない。
想像を、創造する魔法。
ヴィンセントの創造魔法の弱点は、正確に思い浮かべられなければ使えないことだ。
昔から、治癒魔法だけは苦手だった。
その理由も、ヴィクトリアは理解していた。
けれどルーファスを見殺しにできずに――不完全な魔法を行使した。
「……ぅ……ぅあ……」
このままでは死んでしまう。
ヴィクトリアは、せめてルーファスから離れようと体を動かした。
自分がここで死ねば、一番傷付くのは彼だろうから。
せめて誰もいない場所にまで、体を動かそうと、ヴィクトリアは体を引きずるように動かした。
(ここで気を失ったら、駄目)
心ではそう思うのに、体が全く動かない。朦朧とした意識の中で、ぐにゃりと視界が崩れ乱れる。
その時。
「――おい。大丈夫か!!」
誰かが、息を乱して近づいてくるのがヴィクトリアにもわかった。
ヴィクトリアは、おぼろげな意識の中彼の前を呼んだ。
(――この声は……?)
「れ、い……?」
(レイモンド、なの……?)
ヴィクトリアは、何故彼がこんなに早く駆けつけてくれたのかわからなかった。
もし駆けつけてくれたとしても、カーライルの後に来ると思っていたのに。
「くそっ! なんでこんな……。ルーファス。お前がついていながら……っ!」
レイモンドの声はいつになく真剣だった。
しかしヴィクトリアには、レイモンドが慌てる理由がわからなかった。
レイモンドはヴィンセントを嫌っている。昔はそうで、今はただの人間とか思っていない筈なのに。
(その貴方がどうして、私のために、こんな悲痛な声を上げるの?)
「アンタは……その魔法だけは使うなと、あれほど言っただろう……!」
レイモンドはそう言うと、ヴィクトリアとルーファスを繋ぐ魔法の糸を断ち切った。
赤い糸は、空気に溶けて霧散する。
血を抜き取られるような感覚が漸く消えて、ヴィクトリアはぴくりと指を動かした。
レイモンドは真っ直ぐに、ヴィクトリアを見つめていた。
ヴィクトリアは、おぼろげな意識の中思った。
(この子は、さっきから一体何を言っているんだろう? それじゃあまるで最初から、私をヴィンセントだとわかっていたみたいじゃない)
「ぇいも……」
「いい。アンタは、今は喋るな……っ!」
レイモンドは、ヴィクトリアの手を強く握った。
赤と銀。
2つの色が混じった光が、彼の手から溢れてヴィクトリアを包み込む。
「……っ!」
静かな夜のような魔力が、自分の中に流れ込んできて、ヴィクトリアは息を飲んだ。
魔力は持ち主の人を表すとされているがーー彼の魔力は、ヴィクトリアが想像していたものよりずっと優しく温かかった。
(レイモンド。これが貴方の、本当の貴方だというの?)
空の器に、魔力が満ちる。
それでも、人間の体を壊さないように注がれる魔力では足りなかった。満たすべき器はあまりに大きく、流れたものはあまりに多かった。
このままでは、ヴィクトリアは死んてしまう。
レイモンドは唇を噛んだ。
「すまない。今はこれしか、方法がない」
レイモンドはそう言うと、とある小瓶を取り出し口に含んだ。
その薬は、ヴィクトリアも知るものだった。
人魚の秘薬。
その薬は、人を人ならざるものへと変える。
(どうして、それを……?)
ヴィクトリアはそう口にしようとしたが、尋ねることは出来なかった。
「我慢してくれ。…………アンタが死ねば、ルーファスが悲しむ」
レイモンドはそう言うと、ヴィクトリアに口付けた。
甘くてどこか塩辛い、薬が喉を通って体の中に入ってくる。呼吸さえままならなかった体に、命が吹きこれる。
血が、滾るように熱かった。
魂に眠る記憶が、閉じていた箱の中から呼び起こされる。
かつてヴィンセント・グレイスは『人間になりたい』と願った。
願いは叶えられ、ヴィクトリアは今は人間として生まれ変わったはずだった。
人魚の秘薬を飲めば、その器は人ならざるものへと変わる。
たとえ人の器であろうとも。
ヴィクトリアは体に力を込めた。彼を自分を引き離そうと。
けれど、それは出来なかった。
レイモンドの表情を見てしまったら、拒絶することは出来なかった。
(どうして? レイモンド。私を嫌っていた貴方が、どうしてそんな泣きそうな顔をしているの……?)
体は鉛のように重かった。
寝台から降りようとしたヴィクトリアは、足に力が入らずそのまま崩れ落ちた。
「とうしたんだい!?」
「…………」
音を聞きつけたミゼルカは、部屋の中に駆け込んで、床に倒れ込むヴィクトリアを見て溜め息を吐いた。
「ったく、何しているんだい? 今日は絶対安静だって言われているだろう? そのためにカーライル様が私をおつけになったんだから」
ヴィクトリアの体を抱き上げて、寝台に戻し褥をかぶせる。
ミゼルカは眉間にシワを作ると、ヴィクトリアの額に手を当てた。
「まだ熱が高いね。アンタは人間だから、てっきり魔素中毒かと思ったんだが、こう熱が出るとなると、あの龍の毒にでもやられたんだろう」
「……」
ミゼルカの言葉に、ヴィクトリアは何も言わなかった。
「ルーファス様もアンタも、本当に無事で良かった。子供たちが血相変えて戻ってきたときは驚いたが、あの魔法にも驚いたよ。レイモンド様が戦われている姿はほとんど見たことがなかったが、カーライル様が認められていた実力は本物だったってことだろうねえ」
ミゼルカは、事故のことをほとんど何も知らされていないようだった。
古龍討伐については、城で働く者には、前魔王ヴィンセント・グレイスの養子であり、カーライルが力を認めるレイモンドがやったと公表されており、誰もがヴィクトリアは巻き込まれた人間として接していた。
古龍を倒してから城に運ばれてからずっと、ヴィクトリアは高熱が続いていた。
ミゼルカは氷の魔石で水を冷やすと、濡らした布をヴィクトリアの額にのせた。
「アンタも災難だったね。こんなことに巻き込まれちまって」
「…………」
ミゼルカは苦笑いした。
「でもね、ここは本当は、セレネでは安全な場所なんだ。カーライル様やレイモンド様、ルーファス様がいらっしゃるから、これまで危険とは皆無だった。この城で働きだして……人間の寿命からからすればそれなりに長くなるんだけど、ルーファス様が苦戦するようなことは、そもそも初めてだったんだよ」
それはそうだろう、とヴィクトリアは思った。
あの三人は、『ヴィンセント』を支えた者たちなのだ。そう簡単に負けるはずがない。
しかし、今回は負けかけた。
ルーファスや、カーライルの欠点を、的確につくような魔法や毒によって。
レイモンドとルーファスは基本単独行動を好む。カーライルは基本城から動かない。
(レイモンドの力は、魔族相手には、殆ど無敵と言っていい)
レイモンドであれば一人であっても古龍を倒せただろうが、レイモンドは城の者たちの話を聞くに、城に居るほうが稀らしい。
城のものたちの話を聞いていると、レイモンドはカーライルに頼み事をされる以外は、放浪している方が多いとのことだった。
ヴィクトリアが城に来てからは、城にいることも増えたとのことだったが――もしそんなときに、今回と同じようなことが起きたら?
この城が落ちることもあるかもしれない。そうなれば、カーライル達だけではなく、ミゼルカ達だって無事では済まないだろう。
「…………」
ヴィクトリアは、レイモンドのことを思い出して目を細めた。
彼が居なかったら自分は死んでいたことだろう。
しかし、今回のことを考えてるみると――彼の行動の理由が、なおさらヴィクトリアにはわからなかった。
『軽いな。――軽すぎる。アイツの剣はもっと重く、強かった』
『戦えない魔王を据えてなんになる? あまりにも弱い。そんな人間がヴィンセントの魂を継いでいるなんて、それこそ『陛下』に対する侮辱じゃないのか? なんの役にも立ちはしない。その『人間』は、さっさと村に返してくるんだな』
『くそっ! なんでこんな……。お前がついていながら……っ!』
『我慢してくれ。…………アンタが死ねば、ルーファスが悲しむ』
好かれているはずはない。
彼は前世で、自分を嫌っていたと理解している。それなのに泣きそうな彼の顔が、頭から離れない。
「何怖い顔してんだい?」
「!」
ミゼルカは、考え事をして顔をしかめていたヴィクトリアの眉間に、指をとんと置いた。
ぐりぐりぐりぐり。
軽く触って皺を伸ばす。
そうして、はっと我に返ったヴィクトリアを見て、ミゼルカは笑って軽く掛け布団を叩いた。
「ゆっくり休みな。体がきついときは周りを心配させないようしっかり休んで元気になるのも、子どもの仕事さね」
水の入った桶を抱えて、ミゼルカは部屋を出ていった。
◇
「レイモンド。まずはヴィンセントを助けてくれてありがとう、と言っておこうか」
魔王の執務室で、魔王をの座を継ぐことなく執務をこなすカーライルは、部屋に入ってきたレイモンドを一瞥することもなくそう言い放った。
「……俺が薬を持っていたことに対しては何も言わないのか」
書類に署名を行いながら、カーライルはいつものように、リラ・ノアールによって承認されたことを証明するための魔法印を押した。
「それは、薬を入れ替えていたことを謝罪しているのか?」
「……」
カーライルの言葉に、レイモンドは口を噤んだ。
最初から気づいていた――それは、そんな口ぶりだった。
「別に構わない。それにお前が持っていてくれて助かった。確かに夜に少しずつ飲ませるのもいいけれど……。大事なのは結果だからね」
すり替えを気付かれている可能性はレイモンドも考えていた。
けれどあくまで、彼が自分に手を出さなかったのは、ヴィクトリアは自分の手中に収まると考えてのことだったというカーライルの口ぶりに、レイモンドは唇を噛み締め、感情を押し殺したような声で言った。
「……アイツは」
「うん?」
「生きたいように、生きていいんだ」
「だが、あの子から最終的に選択を奪ったのはお前だ」
カーライルの声は冷たかった。
それでいて、レイモンドを嘲笑うような声だった。
「薬を飲ませてから打消せばいいとでも考えていたようだけれど――どうやらお前の力は、薬には効かないようだな。仕方ない。あれは薬であって、毒ではない」
カーライルはそう言うと、ガラスペンを置いてレイモンドに微笑んだ。
「意外な弱点か? レイモンド。――無効化の能力をもってしても、防げないものがあったなんて」
レイモンドは、カーライルの言葉に目を細めた。
体を壊して、薬を飲んだことはある。しかしそれを無効化しようだなんて思ったことはなく、レイモンド自身、自分の力が薬に通じないことを認識したのは初めてのことだった。
「お前を害することができるのは物理的な力だけだと思っていたが、どうやらそれだけでもないのかもしれないな」
「……俺に毒でも盛るつもりか? カーライル」
「まさか。ヴィンセントを守る最強の盾を、殺すなんてもったいない。あの子は昔から用心深くて、いつも自分の敵になるかもしれない存在の攻略法を考えていたから、つい思考が重なってしまったようだ」
カーライルはそう言うと、机の中から箱を取り出して、中から小さなものを取り出した。
「それはなんだ?」
「ヴィンセントが倒した古龍から見つかったものだ」
それは、虹色に輝く美しい種子だった。
しかしその種は、カーライルの肌に触れているところから、糸のように細い根をのばしはじめた。
カーライルはそれを見て目を細めると、自分に侵食しようとしていた根を切り落とし、それから糸で根を包み込んで箱に戻した。
自分の体以外で、攻撃を防ぐことができない生き物ならば防げない謎の種。
これは――……。
「……」
涼し気な表情のカーライルを前に、レイモンドは険しい顔をした。
つまり今回のことは、単なる偶然ではないということだ。
野生生物を種で使役し、ルーファスの弱点となる吸血鬼の毒を使う何者かかいると考えるべきだろう。
「……カーライル。これは……」
「ああ、そうだ。今回の事、もしかしたら黒幕がいるかもしれない」
◇
暫く眠っていたヴィクトリアは、目を覚ますと自分の喉に手を当てた。
人魚族にはこんな言い伝えがある。
昔、人間に恋をした人魚は、人間の体を望み、魔女からとある薬を手に入れた。
人魚は薬によって人間の体を手に入れるが、声は出なくなってしまう。
人魚の秘薬をレイモンドに無理やり飲まされたとき、焼け付くように喉に痛みを感じたが、それもある種の副作用かもしれないとヴィクトリアは思った。
(薬を飲ませるために、レイモンドは私に――……)
唇の感触を思い出して、ヴィクトリアは頬を染めた。
「……どうして、あの子は」
ヴィクトリアとして、誰かと唇を重ねるのは初めてだと彼女は思った。
前世で一度だけ他人と口付けをしたことはあるが、あれは不本意なことこの上ななく、数に入れる気にもならない。
ヴィクトリアは、最悪の出来事を思い出して顔を顰めた。
どうやら自分は、薬という名の毒を無理やり飲ませられるのには、つくづく縁があるらしい。
「……どうしよう」
あの魔法を使っておいて、ヴィンセントの記憶がないという言い訳はもうできない。
ヴィクトリアは頭をおさえた。
今の体が女とはいえ、前世では養父だった存在に口づけるとは、レイモンドも変わっている。
ルーファスといいカーライルといい、前世では男として自分を扱っているようだったのに、なんで自分を女扱いして優しくしてくれるのかわからない。
そして――……。
ヴィクトリアは一番の疑問を思いだして、表情を固くした。窓枠の向こうの、あたたかな陽を眺める。
(わからない。人間であるはずの自分が、急に魔法が使えるようになった理由も)
ただの人間に、魔法が使えるはずがない。
化け物並みに力が強いとはエイルやアルフェリアに言われたことはあるが、それは戯言でしかない。
一時的に魔法が使えるようになった? だとしたら、その発端はなんだろうか。
そうして、どうしてレイモンドは、あの薬を持っていたのか?
そのすべてが、今の彼女にはわからなかった。
「う……っ!」
ヴィクトリアが寝台から降りようとした床に足をつけた瞬間、ピキキと音がして床に罅が入った。そのまま再び床に倒れ込む。
ヴィクトリアは頭を押さえた。頭が割れるように痛かった。
こぽ、ごぽ、こぽぽ……。
自らの体の内側で、何かが脈動するような、湯が滾るような音が響いている。
ヴィクトリアは再び熱を持つ体に苛立ちをつのらせた。
制御出来ない力が溢れる。この感覚はまるで――……。
(――まるで?)
人魚族の秘薬の根本的な力は、『力の活性化』だ。
不老不死と言われる所以は、体内の活性化による効能であると言われている。
その力故に人魚族は多く殺され、魔王ヴィンセントは彼らを守ることを約束し、対価として彼らから秘薬を預かった。
「……どう、して」
零に一〇〇〇をかけたとしても、もとが零なら何をかけても零のままだ。
人間である自分の中に、力が芽生える理由がわからない。
滾るように熱い体を壁に持たれかけさせて、ヴィクトリアは浅く息を吐いた。
かつての自分の言葉を思い出す。
『人間になりたい』
魔王『ヴィンセント・グレイス』が、勇者に殺される瞬間に願った言葉を。
ヴィクトリアは唇を噛んで、自分の予測を確かめるために、窓枠の向こう側に見える木の葉を睨んだ。
「……『風よ、切りさけ。葉よ落ちろ』」
まだ芽吹いたばかりに見える若々しい葉は、彼女の言葉に命じられるがままに、不自然に地面へと落ちた。
それを見て、彼女は震える手で口を押さえた。
『人間になりたい』と願って人間になった。
『会いたい』と口にしてルーファスに見つかった。
(だとしたら。もしかして、私の魔法《ちから》は最初から――……)
ヴィクトリアは体を震わせた。
(信じたくない。失望したくない。誰も信じることができなかった、昔に戻るのはもう嫌なのに)
震える声で彼女は呟く。
「……魔法は、まだ続いている…………?」