「おはよう、千世子ちゃん」
「おはようございます」
あれから一年。私は今、高卒認定を取るべく勉学に励んでいる。
あの日。私がゴロウを刺した後、すぐに警察が施設に突入した。いつの日か居酒屋で見た新規の女性客は警察関係者で、氷見寛治の元を飛び出した私はずっと跡をつけられていたらしい。
「あれ。また少し背が伸びた?」
「なんだか、ご飯が美味しくて」
私はゴロウを刺した罪で現行犯逮捕され、身柄を勾留された。
生まれた後すぐに捨てられた私は、物心つく前にゴロウに目をつけられ、あの施設に引き取られた。施設に集められた女の子たちのほとんどに身寄りがなく、中には私のように無戸籍な子もたくさんいたんだ。
ねえ、私っていま十九歳なんだって。もうすぐ成人。
どうしてあんなことが起きたのか。なぜ気がつかなかったのか。政治や権威などの大きな力が働いていたのではないかと、さまざまな憶測や意見をワイドショーは言うけれど。
私にとっての過去をほじくり返されるのは正直、胸が痛い。
「じゃあ、今日は分数からね。前回の小数点の計算は覚えてる?」
「はい」
どうして、なぜ。それを考えたところで、私たちの過去は変わらない。
生きてきた人生を『人の道』と呼ぶには随分な日常だった。私にとって全てだったあの世界は、異常で、真っ暗で、ドロドロした沼地。自分がされてきた事を思うと、今でも頭がズキズキする。だから、そこから私を逃がしてくれた十和子には、今でも心の底から感謝をしている。
「じゃあこの問題からやってみようか」
「わかりました」
こうして外の世界に出てみて、周りからは好奇な目を向けられることもまだまだある。
でも嫌な気持ちになる反面、それは喜びを実感できる瞬間でもあった。
私たちは確かにここに存在していて、これからの人生を生き抜く権利を持っている。その権利を貰えたことが、何よりも嬉しかった。
「八……ですか?」
「うん、もう一回解いてみて。ゆっくりでいいから」
ゴロウは一命を取り留めた。私は実刑判決確実と思われたけど、優秀な弁護士さんのお陰で執行猶予付きの判決に留まる。
メディアが大々的に報道したこともあり、氷見寛治は過去の悪事を週刊誌に掘り起こされ、居酒屋の評判はガタ落ち。私の諸々の事情が落ち着いた頃にはもう、居酒屋があった場所は更地になっていた。つい最近まで美容室がそこに建っていたけれどそれも潰れ、近頃また新しい建物が建つ予定みたい。
「うーん、難しいかな? 今日はここまでにしよっか」
「はい。ありがとうございました」
サポートセンターを出て、家に向かう帰り道。そっと辺りを見回せば、誰かに見られているような気がして。そんな人影はひとつもないことに、フっと嘲笑が漏れた。
私は今、保護観察付きで生活している。生活保護を受け、さまざまな国の制度に助けられ、今日がある。
ねえ氷見寛治。私と知り合ったこと、後悔してる? きっと私と出会わなければ、あなたは今もあの場所でお店が出来ていたよね。
でもね。あの居酒屋で氷見寛治と過ごした三週間は、私の中で希望になりつつあるよ。
この世界には、優しい人もちゃんといる。私を傷つけたのは男だったけれど、救ってくれたのもまた、氷見寛治っていう男だった。
全てを嫌いにならずにこうして前を向けているのは、間違いなく氷見寛治のおかげ。
だからね。本当は名前を変えることも提案されたのだけど、断りました。
千世子——そう私を呼ぶ氷見寛治の声が、大好きだったから。
暫くぶりに通る道。その角を曲がったところで、私は思わず足を止めた。
「あ……新しいお店、出来たんだ」
看板には『アイス×チョコ』の文字。
「スイーツ屋さんかな——」
「いらっしゃい」
透き通った冷たい風が吹く、冬の初めに
不意に聞こえた懐かしい声。
「……ただいま。寛治」
私は今日この瞬間からまた、生きるのだ。
「おはようございます」
あれから一年。私は今、高卒認定を取るべく勉学に励んでいる。
あの日。私がゴロウを刺した後、すぐに警察が施設に突入した。いつの日か居酒屋で見た新規の女性客は警察関係者で、氷見寛治の元を飛び出した私はずっと跡をつけられていたらしい。
「あれ。また少し背が伸びた?」
「なんだか、ご飯が美味しくて」
私はゴロウを刺した罪で現行犯逮捕され、身柄を勾留された。
生まれた後すぐに捨てられた私は、物心つく前にゴロウに目をつけられ、あの施設に引き取られた。施設に集められた女の子たちのほとんどに身寄りがなく、中には私のように無戸籍な子もたくさんいたんだ。
ねえ、私っていま十九歳なんだって。もうすぐ成人。
どうしてあんなことが起きたのか。なぜ気がつかなかったのか。政治や権威などの大きな力が働いていたのではないかと、さまざまな憶測や意見をワイドショーは言うけれど。
私にとっての過去をほじくり返されるのは正直、胸が痛い。
「じゃあ、今日は分数からね。前回の小数点の計算は覚えてる?」
「はい」
どうして、なぜ。それを考えたところで、私たちの過去は変わらない。
生きてきた人生を『人の道』と呼ぶには随分な日常だった。私にとって全てだったあの世界は、異常で、真っ暗で、ドロドロした沼地。自分がされてきた事を思うと、今でも頭がズキズキする。だから、そこから私を逃がしてくれた十和子には、今でも心の底から感謝をしている。
「じゃあこの問題からやってみようか」
「わかりました」
こうして外の世界に出てみて、周りからは好奇な目を向けられることもまだまだある。
でも嫌な気持ちになる反面、それは喜びを実感できる瞬間でもあった。
私たちは確かにここに存在していて、これからの人生を生き抜く権利を持っている。その権利を貰えたことが、何よりも嬉しかった。
「八……ですか?」
「うん、もう一回解いてみて。ゆっくりでいいから」
ゴロウは一命を取り留めた。私は実刑判決確実と思われたけど、優秀な弁護士さんのお陰で執行猶予付きの判決に留まる。
メディアが大々的に報道したこともあり、氷見寛治は過去の悪事を週刊誌に掘り起こされ、居酒屋の評判はガタ落ち。私の諸々の事情が落ち着いた頃にはもう、居酒屋があった場所は更地になっていた。つい最近まで美容室がそこに建っていたけれどそれも潰れ、近頃また新しい建物が建つ予定みたい。
「うーん、難しいかな? 今日はここまでにしよっか」
「はい。ありがとうございました」
サポートセンターを出て、家に向かう帰り道。そっと辺りを見回せば、誰かに見られているような気がして。そんな人影はひとつもないことに、フっと嘲笑が漏れた。
私は今、保護観察付きで生活している。生活保護を受け、さまざまな国の制度に助けられ、今日がある。
ねえ氷見寛治。私と知り合ったこと、後悔してる? きっと私と出会わなければ、あなたは今もあの場所でお店が出来ていたよね。
でもね。あの居酒屋で氷見寛治と過ごした三週間は、私の中で希望になりつつあるよ。
この世界には、優しい人もちゃんといる。私を傷つけたのは男だったけれど、救ってくれたのもまた、氷見寛治っていう男だった。
全てを嫌いにならずにこうして前を向けているのは、間違いなく氷見寛治のおかげ。
だからね。本当は名前を変えることも提案されたのだけど、断りました。
千世子——そう私を呼ぶ氷見寛治の声が、大好きだったから。
暫くぶりに通る道。その角を曲がったところで、私は思わず足を止めた。
「あ……新しいお店、出来たんだ」
看板には『アイス×チョコ』の文字。
「スイーツ屋さんかな——」
「いらっしゃい」
透き通った冷たい風が吹く、冬の初めに
不意に聞こえた懐かしい声。
「……ただいま。寛治」
私は今日この瞬間からまた、生きるのだ。