流れるテレビは消音。スマートフォンの電源が切れ、ジャックに繋いで聴いていた店内のBGMも消えた。

「もう、こんな時間か」

 時刻は深夜一時半。食器に弾かれシンクに飛んだ水飛沫を拭っていると、店の戸が引かれた。

「開いた……」

 そう呟きながら店に入ってきたのは、一人の小柄な女性。クローズの看板は出したはず。

 俺は一瞬手を止めたが、なぜだか彼女を咎める気にはならなかった。

 そばにあったワイングラスを手に取る。それを拭き上げながら横目で確認すれば、彼女はその小さな身体のキャパを超えるほどに激しく肩を上下させていた。

「みず、ある?」
「あるよ」
「のめるみず?」

 変な訊き方をする、そう不思議に思いながらもグラスに(そそ)いで出せば、彼女は震える手で口元まで持っていく。でも、その手はすんでで止まった。

「のめない」
「どうして?」
「できない」
「出来ないって……変なもんは入っちゃいないよ」

 俺が言えば、彼女はギュッと目を瞑りながら一気にグラスを傾ける。グッと喉を鳴らして飲むその動作は余りにぎこちなく、薄い口の端に流れた水がそのまま床にぽたぽた落ちた。

 本来ならば、水を差し出す前にもっと訊かなければならないことがあったように思う。でも、俺は彼女の要求を満たすことを優先した。

 グレーの質素なワンピース。そこから伸びる手足があまりにも白く細いせいで、膝の擦りむき傷や足の爪が割れて血が滲んでいるのが目立つ。

 だがそれよりも目についたのは、腰まで伸びた藍色の髪だ。顔も腕もすすだらけ。なのにそのウェーブした髪だけは(なまめ)かしく風を含み、風呂上がりに(くし)を通したみたいにふわっと揺れていた。

「逃げてきた?」
「うん」
「誰かに追われてる?」
「わかんない」
「そう」

 俺はキッチンから出て、既に片付けていた椅子をひとつ、テーブルから降ろした。

「ここに座ってて。外を見てくる」

 俺は入り口の扉に手をかけ、ゆっくり引く。そっと顔を出せば、目視できる距離に赤いポルシェが停まっていた。ボンネットに寄りかかって話し込む男が、二人。

 この辺りは田舎の住宅街だ。その閑散とした街には違和感のある高級車。夜の(とばり)に包まれる中、ちらほらしかない街灯でうっすら光るサングラス。その奥の瞳に捕まる前に、俺はそっと店のシャッターを降ろした。

「あれ」

 店内に戻ると、彼女の姿がない。キッチンやトイレにも居ないようだ。店はカウンター五席、四人掛けのテーブル席が二つあるだけで手一杯のこぢんまりした造りで、他に隠れられる場所もない。

(まさかな)

 俺は入り口とは別の、もう一つの扉を開けた。店は二階建て。上は十畳一間の住居になっている。

 急な階段を登り、ジャラジャラと玉の連なる暖簾(のれん)(くぐ)れば、目の前に彼女。

「何してるの」
「ねむい」
「いや、場所」

 彼女は部屋の中心に置かれた、小さなちゃぶ台の上にいた。三角座りした膝に肘を立て、両手のひらに(あご)を乗せた状態で目を(つむ)る。その身体を這うように、煌びやかに垂れ伸びる髪。

「布団そこにあるよ、敷こうか?」
「わかんない」
「ああ、いつもはベッド?」
「わかんない」
「……とにかく、そこは降りて。傷も消毒しないと」

 俺が近づこうと一歩踏み出せば、少女は驚いたことに膝の傷を自分の舌で舐め始めた。

 その姿は、まるで猫。

「へんな味する」
「あ、ああ」
「これで治る?」
「どうかな」

 季節は秋。まだ暑さの残る、静かな夜。

 こうして千世子(ちよこ)は、俺の元へとやって来た。
「それは、どくだ」
「違うよ、消毒だよ」
「どくだ」
「だから消毒。毒を消す、消毒」
「いたい」
「ごめん」
 
 絆創膏を貼った膝を物珍しそうに見つめながら、千世子は貼りたての絆創膏を剥がした。
 
「とれた。また貼って」
「いや、だから剥がさないで。もう四枚目だよ、それ」
 
 千世子は何故か、ほんのり嬉しそうだ。
 
「苗字、本当にわからない?」
「しらない」
「歳はいくつ?」
「三十七番」
 
 この会話にならない状況に、俺は思考を巡らせるしかなかった。見た目は十代後半から二十代前半。だが会話を鑑みる限り、小学校低学年……いや、もっと言えば未学習児のようにさえ感じられる。
 
「どこから来たの?」
「カステラ」
「なんで逃げてきたの?」
「走った」
 
 思わずため息が出る。もうこれ以上の事情は聞けそうにないので、俺は自分の話をすることにした。
 
「俺の名前は氷見寛治(ひみかんじ)。この下で居酒屋をやってます。歳は二十九」
「ひみかんじ」
「そうそう」
「ひみかんじ、お腹すいた」
「あ、そう」
「ひみかんじ、今はあさ? よる?」
「夜かな」
「ひみかんじ、じゃあ——」
「ちょっと待って」
 
 この後、全部の会話の頭に“ひみかんじ”をつけることを辞めさせるのに十分かかる。
 
「よるは野菜をください」 
「もし今が朝だったら?」
「肉をたべます」
「昼は?」
「しらない」
 
 千世子はつまらなそうに目の光を無くす。
 
 どういう環境で過ごしたら、こういった仕上がりになるのだろうか。たぶん千世子は義務教育を受けていない。でも身体は至って健康そうで栄養不足のようにも見えないし、虐待されているような怯えた様子も感じ取れなかった。膝や足先の傷は真新しく、今日こうして逃げてくる過程に付いたものだろう。
 
 俺は箪笥(たんす)の奥からできるだけ小さいTシャツとハーフパンツを引っ張り出した。
 
「とりあえず着替える? それ、汚れてるし」
「おなじのある?」
「同じのはないな」
「わかった」
 
 次の瞬間、千世子は躊躇なくその場でワンピースを剥ぎ取った。
 
 丸みを帯びたおでこ、短く薄い眉毛。ん、とむくれたみたいに小さい口は、上唇だけがぽってり厚い。胡桃のように丸い目から覗く瞳は、墨で塗りつぶしたかの如く光を通さなかった。
 
 そこにとどめを刺す、藍色の髪。
 
 見てはいけない。でも目が逸らせない。
 
「俺、男だよ」
「わかるよ。わたしとはちがう性別」
「怖くない?」
「通常業務でしょう。チェックするんだよ、こうやって」
 
 一歩踏み出した千世子が、俺の手首を掴む。冷たい手。胸元に引き寄せる迷いのない動作。俺がその手を振り払うと、首を傾げた千世子は眉を上げた。
 
「あ、そうか、間違えた。お金をもらうのが先だった」
 
 催促するように手を差し出す千世子。
  
 そのあまりにも無機質な姿に、俺は彼女に一番欠落しているものを悟った。
 
 彼女の艶かしく揺れる藍色の髪は、決して彼女のために整えられ櫛が通されていたわけではなかったのだ。
 
「ねえ千世子、お腹空いてなかった?」
「そうだった」
「夜はなんだったっけ」
「よるは野菜をたべます」
「うん、野菜ね」
 
 俺が頭にTシャツを被せれば、んぱっ、と(しか)めっ面を出す千世子。長い髪を襟首から出してやると、満足げに手を広げてTシャツを眺めていた。
 
「ズボンは自分で履いて。準備できたら降りてきて、下にいるから」
 
 彼女は知る必要のあることを知らない。でも、知る必要のないことは知っている。
 
(もう少しだけ、様子を見よう)
 
 俺は充電器に繋いでいたスマホを店内のスピーカーに繋げ直し、適当なBGMを流しながら小気味よく野菜を切る。
 
 だが一ヶ月後、俺はこの判断が間違っていたことを痛感するのだ。
「わーっ、わわーっ!!」
「千世子。やめなさい」

 浴室に響く自分の声に、千世子は満足げにケタケタ笑う。

「ほら、目つぶって。泡が目に入るよ」
 
 泡立つ藍色の髪をもしゃもしゃ洗って、お湯をかける。千世子は我が家の風呂を大層気に入った様子で、隙あらば髪を洗えと俺にせがんだ。

 相変わらず彼女は迷いなく裸になるが、無論俺は着衣したまま。腕をまくり裾をまくり、湯気の立つ風呂場で額に汗を滲ませながら、懸命にクソ長い髪と格闘する。

「千世子、髪切らない?」
「切るの?」
「嫌ならこのままでも良いんだけど。どうにも長くて毎回大変なんだ、洗うの」
「ひみかんじが切る?」
「いや。俺は上手くないから。ちゃんとしたお店で、別の人に切ってもらおうよ」
「やだ」
「そう」
「ひみかんじが切る、ならよい」

 千世子がやってきてから約三週間。俺は自分が知る限りの娯楽を千世子に提供したが、千世子にはどれもハマらなかった。

 服に興味はないし、映画は暗い場所が苦手な様で途中で断念。テレビゲームはコツが掴めずに飽きて放り出し、スポーツや読書も難しかった。

「明日はどこへ行こうか。行きたい場所、ある?」

 水気を切った髪にトリートメントを馴染ませながら俺が訊けば、千世子は黙る。どうかしたのか、と背後から顔を覗こうとするも、理性がそれを止めた。

 人生で初めて買ったトリートメント。一度の入浴で何プッシュも必要とする千世子の髪に、俺は妥当な量かもわからないまま毎度ベタベタに塗りたくる。浸透させるように揉み込むのが良いとのインターネットの情報を鵜呑みにし、髪を挟んだ両手を丁寧に(こす)り合わせた。

 トリートメント以外にも、女性に必要な生活用品は実に多い。弱酸性のボディーソープに化粧水や保湿クリーム、なにより普段着や下着を選ぶことには随分、苦労した。

 なぜなら千世子にどれが良いのか尋ねても、首を(かし)げるばかり。事情が事情なだけに、千世子を連れた状況で店員に声をかけることも(はばか)られたからだ。

「どうした千世子。泡が目に入ったか」
「ううん」
「出かけるの、いやか?」
「ううん」

 行きたい場所がないのか、それとも行きたい場所など思いつかないのか。

「髪を流すから、目をつぶって」
「……千世子はわるいこだから」
「え?」

 洗面器で頭上からお湯をかぶせたと同時、千世子の呟きは床に打ち付けられた水音にかき消される。

「ひみかんじは、いい人? わるい人?」

 千世子はいきなり立ち上がると、俺に振り返ってそう言った。

 その行動に驚いた俺は、首を後ろに引っ込めて距離を取る。顔を逸らした視界の隅には、なよやかな曲線が紛れもなく濡れていた。

「お、おい」
「ひみかんじは、いい人?」
「いいから。あっち向いて座って。身体は自分で洗えるな?」
「それとも、わるい人?」
「それは」

 俺はできるだけ優しく肩を掴むと、千世子の身体の向きを変えて再び座らせる。

 そうして。湯気で曇ったガラスにぼんやりと映る千世子に向かって、言った。

「それは、千世子が決めてくれていい。俺が悪いと思えば出て行っていいし、ここに居たいのなら好きなだけ居てもらって構わない。自分の気持ちに素直に、思うままを言ってくれたら、俺はそれを出来る限りで叶えるよ」
「なぜ?」
 
 ——何故。
 そう訊かれて、言葉に詰まった。 
 
 どうして千世子をそばに置いているのか。

 独り身でもの寂しかったから? 千世子の容姿に惹かれたから? 境遇に興味を持ったから?

 理由なんてたくさんあった。でもそれを詳しく探ることに、俺はずっと二の足を踏んでいる。

「千世子が、いい子だからだよ」

 身体を洗う用のスポンジを泡立てながら俺は言った。その答えに、千世子の肩はピクリと反応する。こちらを振り返るように右へと向いた横顔。それと一緒に、千世子は右手を差し出した。

「ひみかんじ」
「ん?」
「からだ、洗う」
「うん」

 俺は泡立てたスポンジをその手に置いた。小さな手から溢れんばかりの泡を眺める千世子のまつ毛が、キラキラ光る。

 あと何度、こうして彼女の髪を洗えるだろう。
 そんなことを考えながら浴室を出れば、数分後には下着を身につけた千世子が脱衣所から出てきた。

「服も着て来いって」
「ひみかんじ、あれ歌って」
「あれって、また? 俺、苦手なんだよな」
「ききたい。歌って」

 服を着せ、濡れた髪をタオルで丁寧に拭きながら、遠慮がちに口ずさむ。
 
 その歌は某チャリティ番組で長距離マラソンを必死に走る人に贈られる、応援歌。女性の歌でキーも高いし、正直サビ以外よく分からない。

「へたくそ」
「悪かったな。自分で歌ったら?」
「歌うと、涙出る。とわこが泣く」
「とわこ?」
「とわこが走れ言った。だから走った」

 聞けば、とわこはよくこの曲を千世子に歌い聴かせてくれたらしい。千世子はとわこを慕い、懐いていた。

「ひみかんじに出会った日、とわこ泣いてた。血だらけで泣いてた。たぶん千世子が歌を歌ったから、泣いた」
「何で血だらけだったか、わかる?」
「水飲んだら、血を吐いた」

 あまり触れたくない。知りたくない。でも、知らなきゃ千世子を(まも)れない。

「とわこは千世子のお姉さん?」
「ちがうよ」
「じゃあ、友達?」
「ちがうよ、商品。千世子、とわこ、ももこ、みんな商品。ゴロウに声をかけられたとわこたち、もう何人もお別れした」
「え、とわこって何人も居るの?」
「いるよ」

 商品——とわこ、ももこ、そしてゴロウ。頭の中に羅列する名前に、俺は瞬時に蓋をした。これ以上考えれば、間違いなく俺はその先の真実に辿り着く。

「よし。俺が切る。だから髪、短くしよう」
「ひみかんじ、歌へたくそ」
「歌は関係ないでしょ。手先は器用だから」

 ビニールを敷き、カッパを着せて準備をする。
 シャクっと刃先が重なるたびに、まだ乾き切ってなかった髪が床のビニールに落ちる。その様子を見たくて千世子が頭を動かすから、俺はその度に顔をまっすぐ直した。

「髪、死んだ」
「死んでないよ」
「殺した」
「人聞き悪いこと言うなって」

 その後も千世子は何か言っていたような気がしたが、俺は無心で千世子の髪を切り続けた。

 切り落とされる髪が増えるたびに、心の騒めきもゆっくりと静まっていくのを感じて。俺は千世子の髪を整えることに、今ある集中力の全てを注いだのだった。
「あれ。チョコちゃん髪切ったの?」

 振り向くと、住居側の扉から千世子がひょこっと顔を出していた。

 肩に掛かるくらいの長さで揃えた自称、前下がりボブ……のつもりで切ったのだが、千世子には変だのなんだの散々文句を言われた。

 照れ臭そうに襟足を撫でたと思えば、なぜかムッとした顔で仁王立ちの千世子。

「ひみかんじが切った」
「へえ、寛治がねえ」

 居酒屋の営業時間。千世子は度々下に降りてきては客とよく話した。客も千世子を新しいアルバイトかなんかだと認識し、『チョコちゃん』なんてあだ名まで貰って和気藹々(わきあいあい)としている。

 本音を言うと、煙草の煙や酒の臭いに千世子をさらすのは嫌だった。だが本人が来てしまうのでどうしようもない。

 日本酒を煽りながらニヤつく常連客に、俺は注文されていたイカの塩辛をカウンターから出す。

「またこんなもん食って、痛風悪化しますよ」
「うるせえな、食いたいもん食って身体に悪いわけないだろよ。ところでさ、そろそろ教えなって寛治。チョコちゃんって何者?」
「はい?」

 既に茹でダコみたいに顔を真っ赤に染めた常連オヤジは、酔うと必ずこの話題に触れてくる。正直面倒だが、嫌な顔をするわけにもいかない。

「彼女っていうには若いもんなあ。寛治いま幾つだっけ?」
「二十九」
「ああ、そりゃ犯罪だ」
「勘弁してくださいよ、そんなんじゃありませんから」

 今日はカウンターにこのオヤジと、端っこに座る新規の女性客がひとり、それだけだった。俺は注文を一通り片付け終えると、ケースから煙草を一本取り出して(くわ)え、火をつける。

「寛治、落ち着いたならお前もなんか飲め」
「ありがとうございます、頂きます」

 俺はグラスにウイスキーを注いだ。

「寛治、チョコちゃんが来てからなんか物腰柔らかくなったよな」
「そうですかね。そんなに変わりませんよ」
「いや、変わったね。前はもっとツンケンしてた。ここ開店した当初から通う俺が言うんだから、間違いねえよ」
「店開いてから何年経ったと思ってるんですか。歳のせいですよ」
「歳ぃ? ひと回り以上年上の俺に歳の話すんなよー」
「ははっ、すみません」

 適当に会話を流しながらふと端に目をやると、女性客のビールジョッキは既に空っぽだった。

「あ、遠慮しないで注文してくださいね。なんか飲みます?」
「いいえ結構よ。お勘定もらえるかしら」
「あ、はい」

 俺は煙草を急いで灰皿に押し付ける。女性は手早く会計を済ますと、颯爽と店を出て行った。

「ご新規さん、結構美人だったな。声かけりゃよかった」
「いやいや、オヤジさんの圧に負けて居づらくなったんですよ、きっと」
「はあ? 俺のせいかよぉ。常連に冷たいねえ、ここの店主は。なあチョコちゃん——あれ?」

 狭い店内。辺りを見回すも、千世子の姿は見えなかった。

「どこいったんだ」

 ふとキッチン台に視線を落とす。俺は慌てて住居への階段を駆け上がった。

「お、おい……」

 千世子はさっき俺が(そそ)いだウイスキーグラスを両手に包み、ちゃぶ台の上に三角座りして居る。

「これ、どく?」
「違うよ。でも勝手に飲んじゃダメ」
「これ飲んだら、とわこに会える?」

 ぼうっとグラスの中身を見つめる千世子の瞳は、初めて会った日と同じで光を映さない。

「たのしかった。ひみかんじが教えてくれたこと全部、ワクワクして、キラキラして……でも同じくらい、お腹の中がチクチク、いたかった」

 そう言いながら千世子が押さえたのは、胸だった。

「ふわふわな服、とわこが着たら可愛い。真っ暗な映画館、とわこと手を繋いでいたら怖くなかった。テレビゲームを見たらこんなの初めてだねって。きっと、とわこなら笑う。スポーツも読書も、とわこが隣にいないとぜんぶ……」

 千世子の頬に伝った涙は、線になってグラスを持つ小さな手に落ちた。

「ぜんぶ、千世子にはわからない」
「あのな千世子」

 その時、下の居酒屋から常連客の声がした。どうやら帰るようだ。

「待ってて。すぐ戻ってくるから。それ貸して」

 グラスを寄越すように言っても、千世子に俺の声は届かない。

「本当に、すぐ戻るから」

 俺は急いで下に降り、会計を済ましてオヤジを見送る。店の看板をクローズにひっくり返し、キッチンから住居に繋がる扉を開けると、冷たい風が髪を揺らした。

 その先の勝手口の扉が開いていたのだ。
 
「千世子!」
 
 その日、千世子は俺の前から姿を消した。

 ちゃぶ台に倒れたグラス。溢れたウイスキーは池を作り、ポタポタと垂れる滴が畳に染み込む。

 俺はその様子を、しばらく眺めていることしかできなかった。
一週間後——

「最近チョコちゃん見ないね」
「ああ。あの子、うち辞めたんですよ」
「そうなの。看板娘だったのにねえ」

 テーブル席。常連の主婦が三人、生ハムやチーズを(つつ)きながらワインを飲む。

「ねえねえ知ってる? 最近この辺りをウロウロしてる不審者の男の話」
「なにそれ」

 俺は食器を洗いつつ、話半分に耳を傾けていた。

「それがどうも、夜出歩いてる若い女子に片っ端から声をかけてさ、肩掴まれては『違う』って」
「やだ、怖いわね。うちの子最近遊び盛りだし、心配だわ」
「大丈夫よ、おたくの娘さん金髪でショートヘアでしょう? 声かけられる子は決まって、青みがかるくらいの黒髪でロングヘアらしいから」

 
 ——思わず、皿を落とす。

 
「寛治くん大丈夫?」
「あ、いや……すみません」

 割れた破片を拾いながら、動悸がした。
 その男が探しているのは十中八九、千世子だ。

 家に帰ったんじゃなかったのか? いや、だいたい千世子に身寄りがあるようには思えなかったじゃないか。唯一口にした“とわこ”や“ももこ”は姉でも友達でもなく商品だと千世子は言っていた。

 なぜ目を瞑った? なぜもっと探さなかった? なぜなかったことにしたんだ、俺は。

 ああ……そうだ。理由なんて明白だ。
 考えられる心当たりが、俺にあったからだ。



 
 
 閉店作業を終えた俺は車を走らせた。自宅から約二十分。裏路地に入った先のぼろアパートの前に停車する。

 明かりがついていることを確認し、チャイムを鳴らした。

「はい……って、え? うーわ、めっちゃ久しぶりじゃん氷見! どうしたんだよ急に」
「話がある。中に入れろ」
「え? あー、はいはい。でも今ちょっと取り込み中で」
「いいから」

 俺は靴も脱がずに無理やり室内に足を踏み入れた。

 ヤニの染みついた壁、混ざる甘ったるい香水の臭い。転がる無数のペットボトルにゴミ袋の山。
 その先に、ズタボロに傷ついた女の子が二人、肩を寄せ合って震えていた。

「最近噂になってる不審者ってお前か秦野(はたの)
「え、俺噂になってんの? 有名人?」

 ガハハっ、と下品な笑い声と共に、秦野は室内にいた男二人に目配せした。男の手元の刃物が、座り込む女の子たちに向いている。

「ふざけてる場合じゃない。こんな事して、犯罪だぞ」
「はあ? お前に言われたかねーよ。お前だって現役の頃はこれくらい……いや、これ以上のこと鼻くそほじるみたいに平気でやってただろーが。シロウさんにうまく取り入って、金までもらって足抜けした奴がよ、今更どのツラ下げて来やがった」
「お前、俺と同い年だったよな。いつまでこんな事してんだよ、いい加減目を覚ませ!」

 その瞬間、秦野が振り上げたビール瓶がガラステーブルに打ち付けられ、砕け散った。響く、涙まじりの悲鳴。

「うるせえんだよ! ああむかつく。上から目線で説教かよ。大体てめえが抜けてから上手くいかなくなったんだ。シロウさんは組を解体しようなんて寝ぼけちまって、キレたゴロウさんに刺されて死んじまうし、ゴロウさんに代替わりしてからしのぎは更にキツくなって……もう俺らも首まわんねーの」
「シロウさん、死んだのか」
「ああ?! 全部てめえのせいだろ氷見!」

 秦野は割れたビール瓶を俺に向けた。

「帰れ。もうここにお前の居場所はないんだ、ほっとけ」
「無理だ。人を探してる。お前らも探してんだろ? 藍色のロングヘアの女の子」

 秦野の目つきが変わった。奥の男たちも互いに目を合わせ、ゆっくり立ち上がる。

 秦野が突き出したビール瓶を左に避け、腕をロックする。右膝で蹴り上げれば、瓶はあっさり手から落ちた。

「氷見。なんでお前がその女を知ってる」
「説明する義務はない」

 互いに距離をとった一瞬の隙で、俺は秦野の左顔面を思い切りぶん殴った。積み上げられたゴミ袋の山に沈む秦野。それを見て、奥の男たちも一斉に向かってくる。

 肩を掴み頭突き。怯んでガラ空きになった顎先に下から拳を振り抜けば、男は口から歯を二本吐き出して真後ろに倒れた。

「す、すいません。俺まじでこんな事するつもりなくて……」

 後退(あとずさ)る、最後の男。ぎゅっと唇を噛み締めたと思えばくるっと振り返り、手を伸ばす。俺はその手が女の子に触れるより先にシャツの襟を掴み、引き寄せた首を腕で締めた。

「早く逃げて。大通りに出れば何とかなるから」

 女の子たちは怯えた様子で何度か頷くと、玄関にあったハイヒールを掴み取り部屋を駆け出して行った。

 男の腕がだらんと垂れ下がったのを確認して、手を離す。

 ゴロウ。そいつの元に行けば、千世子に会える。俺は足元のゴミを蹴飛ばしながら玄関に向かった。

 
 ゴンっ

 
 頭に受けた衝撃で、視界がぐらつく。半開きになる口。舌を噛まないようにその口を閉じたと同時に、目の前がぐるっと暗転した。
 
「クソ野郎が。てめえは、ゴロウさんへの手土産だ」
 ズキン、と。頭の痛みに呼び起こされた俺は、意識を取り戻して最初に目に入った光景に眉を(ひそ)めた。

「なんだよ、これ」

 じっとこちらを見つめる目が、二つ、四つ、八つ。俺を取り囲むように立ち尽くす、グレーのワンピースの女の子たち。光を失ったその眼差しに、俺は見覚えがあった。

(何人いるんだ……)

 俺は椅子に座らされ、手足をロープで固定されている。

「おや、お目覚めかな。みんな少し避けてくれるかい」

 静かな声を受け、一斉に壁際に避ける女の子たち。その奥から歩み寄る、ひとりの男。

「ゴロウさん……」
「覚えて頂いていたとは、光栄ですね。シロウが余計なことをしなければ、今頃あなたは僕の右腕になっていただろうに」

 白いスーツに身を包むゴロウ。その手には、日本刀が握られている。

「可愛いでしょう、この子たち。腕に黒いバンドをしているのが『十和子(とわこ)』で、ピンクのバンドをしているのが『百々子(ももこ)』です」
「……全員、同じ名なんですか」
「そうです。十和子は十人探せば一人は見つかるそれなりに可愛い女の子。百々子は百人に一人の美少女」
「じゃあ千世子は」
「お察しの通り。あなたが知り合った千世子は、千人に一人の逸材でした」

 ゴロウは日本刀を抜くと、(さや)を放った。

「僕が手塩にかけて育てているんです。大事なクライアントに贈るための商品。それをたかが十和子風情(ふぜい)が千世子を(そそのか)しましてね。不覚、逃げられてしまいました」
「千世子は今どこに」
「ふふっ。気になりますか? なりますよねえ、随分ご酔心したでしょう? あれは類を見ない最高傑作でしたから。でもまさか、あれを誘き寄せる餌があなただったとは、盲点」

 奥の扉が開く。その懐かしい顔に、俺はグッと固唾を飲んだ。

「あなたがここにいると知って、戻ってきました。感謝しますよ」

 グレーのワンピース。そこから伸びる手足は白く、最後に見た時より遥かに痩せ細っていた。

「罰を与えているんです。悪いことをしたら罰を受ける、当然のルールですよね。だから最後に、とっておきの絶望を与えてあげようと思います。十和子に百々子、あなたたちもよく見ておきなさい。僕に逆らうとこうなるのです」

 ゴロウは刀を構え、俺に向かって一気に振り上げた。

 ——が。その刃先は俺に届かない。

 血管を浮かばせ眼球が揺れたと思えば、溺れるほどに込み上げた口内の血液を、ゴロウは一気に吐き出した。
 
「千世、子……」
 
 両手に握りしめたナイフ。その小さな身体で、なんども、なんども、なんども。千世子はゴロウの背中に刺したナイフを引き抜いてはまた、突き刺す。

「おまえは、わるい人」
「な、なにを……」
「ひみかんじは、いい人」
「やめろっ」
「ひみかんじは! 氷見寛治はぜったいに殺させない! お前が死ねえ!」

 不意を突かれたゴロウ。その日本刀を振る腕は(くう)を切り、その腕に振り回された身体が半回転してよろめくも、腰を刺されたゴロウに踏ん張る力はない。

 そのまま顔面から床に沈んだゴロウに、千世子は馬乗りになって掴みかかった。

「とわこを返せ」

 ずっと光を通さなかった千世子の瞳。その瞳が今、殺意というエネルギーを得て初めて輝いている。

「わたしを返せ!」

 千世子の叫びに、気を失ったゴロウは反応できない。

「千世子……やめてくれ」

 当然、俺の呼びかけなど届くはずもなく。ただ縛られてなす術のない状態で、俺は拳を振るわせるしかなかった。
 
 ああ……俺はなんてことをしてしまったんだろう。何も知らなければ、何も気づかなければ。千世子はこんな絶望を知ることもなかったはずなのに。
 
 ごめんな。何もしてやれなくて。
 ごめんな。助けてやれなくて。
 ごめん……君を、ひとりにして。
 
「千世子……こんな世界で、ごめん」
 
 血飛沫(ちしぶき)を受けた千世子の横顔を。涙に濡れ詰まる悲痛に割れた声を。
 俺は二度と忘れないよう、目に焼き付けた。