「それは、どくだ」
「違うよ、消毒だよ」
「どくだ」
「だから消毒。毒を消す、消毒」
「いたい」
「ごめん」
 
 絆創膏を貼った膝を物珍しそうに見つめながら、千世子は貼りたての絆創膏を剥がした。
 
「とれた。また貼って」
「いや、だから剥がさないで。もう四枚目だよ、それ」
 
 千世子は何故か、ほんのり嬉しそうだ。
 
「苗字、本当にわからない?」
「しらない」
「歳はいくつ?」
「三十七番」
 
 この会話にならない状況に、俺は思考を巡らせるしかなかった。見た目は十代後半から二十代前半。だが会話を鑑みる限り、小学校低学年……いや、もっと言えば未学習児のようにさえ感じられる。
 
「どこから来たの?」
「カステラ」
「なんで逃げてきたの?」
「走った」
 
 思わずため息が出る。もうこれ以上の事情は聞けそうにないので、俺は自分の話をすることにした。
 
「俺の名前は氷見寛治(ひみかんじ)。この下で居酒屋をやってます。歳は二十九」
「ひみかんじ」
「そうそう」
「ひみかんじ、お腹すいた」
「あ、そう」
「ひみかんじ、今はあさ? よる?」
「夜かな」
「ひみかんじ、じゃあ——」
「ちょっと待って」
 
 この後、全部の会話の頭に“ひみかんじ”をつけることを辞めさせるのに十分かかる。
 
「よるは野菜をください」 
「もし今が朝だったら?」
「肉をたべます」
「昼は?」
「しらない」
 
 千世子はつまらなそうに目の光を無くす。
 
 どういう環境で過ごしたら、こういった仕上がりになるのだろうか。たぶん千世子は義務教育を受けていない。でも身体は至って健康そうで栄養不足のようにも見えないし、虐待されているような怯えた様子も感じ取れなかった。膝や足先の傷は真新しく、今日こうして逃げてくる過程に付いたものだろう。
 
 俺は箪笥(たんす)の奥からできるだけ小さいTシャツとハーフパンツを引っ張り出した。
 
「とりあえず着替える? それ、汚れてるし」
「おなじのある?」
「同じのはないな」
「わかった」
 
 次の瞬間、千世子は躊躇なくその場でワンピースを剥ぎ取った。
 
 丸みを帯びたおでこ、短く薄い眉毛。ん、とむくれたみたいに小さい口は、上唇だけがぽってり厚い。胡桃のように丸い目から覗く瞳は、墨で塗りつぶしたかの如く光を通さなかった。
 
 そこにとどめを刺す、藍色の髪。
 
 見てはいけない。でも目が逸らせない。
 
「俺、男だよ」
「わかるよ。わたしとはちがう性別」
「怖くない?」
「通常業務でしょう。チェックするんだよ、こうやって」
 
 一歩踏み出した千世子が、俺の手首を掴む。冷たい手。胸元に引き寄せる迷いのない動作。俺がその手を振り払うと、首を傾げた千世子は眉を上げた。
 
「あ、そうか、間違えた。お金をもらうのが先だった」
 
 催促するように手を差し出す千世子。
  
 そのあまりにも無機質な姿に、俺は彼女に一番欠落しているものを悟った。
 
 彼女の艶かしく揺れる藍色の髪は、決して彼女のために整えられ櫛が通されていたわけではなかったのだ。
 
「ねえ千世子、お腹空いてなかった?」
「そうだった」
「夜はなんだったっけ」
「よるは野菜をたべます」
「うん、野菜ね」
 
 俺が頭にTシャツを被せれば、んぱっ、と(しか)めっ面を出す千世子。長い髪を襟首から出してやると、満足げに手を広げてTシャツを眺めていた。
 
「ズボンは自分で履いて。準備できたら降りてきて、下にいるから」
 
 彼女は知る必要のあることを知らない。でも、知る必要のないことは知っている。
 
(もう少しだけ、様子を見よう)
 
 俺は充電器に繋いでいたスマホを店内のスピーカーに繋げ直し、適当なBGMを流しながら小気味よく野菜を切る。
 
 だが一ヶ月後、俺はこの判断が間違っていたことを痛感するのだ。