「ビーチェ様に……接触禁止?」
「『レオン様がいらっしゃらなければ勝てなかった』そう、判断されたということでしょう」
「そんな……」

 契約獣参加の決闘が行われた翌日、公爵家に神殿から届けられた書類を読み上げる、ミリアの表情は険しかった。
 つまり昨日の決闘は、『引き分け』とみなされたということ。
 不安そうなローズに、ミリアは更に穏やかな気分ではいられなかった。ベアトリーチェ不在の中、ロイがローズに会うことは認められたのだ。
 そして特例として、ロイと同じ立場であるレオンが二人っきりであっていたということもあり、ローズと二人で話をしたいというロイの申し出が認められた。

「そう怯えるな。ローズ嬢」
「……」

 ロイがローズを呼び出したのは、人の少ない庭園の一角だった。
 相変わらず何もかもを見通して、傲慢そうにも聞こえる話し方は、ローズはやはり苦手だと感じた。

「ずっと思っていたが、君はどうやら自分の立場を理解していないらしいな」

 口を噤んだままローズが彼から目をそらしていると、ロイは強い口調でローズを責めた。

「国を愛し、そのために自らを犠牲にすることを美徳とし騎士になったというのなら、君の行動は、あまりにその心と乖離している」
「?」
「力ある者は、それを還元させることを求められる。その上に、地位は成り立つ」

 彼の言葉を、ローズは否定はしなかった。
 ローズがベアトリーチェを尊敬しているのは、その言葉が理由だったから。
 ベアトリーチェはこの国を愛している。多くの民に信頼され、彼の周りには笑顔が溢れている。幸運の葉を多くの人に贈られる彼だからこそ、ローズはベアトリーチェに好意を持った。

「俺は王だ。国を守るために血を繋ぎ、そして繁栄をもたらすことが、この命の宿命だ。君も、俺も。王侯貴族に生まれたものは、全てその責任を背負っている」

 ロイはそう言うと、ローズの手を強く握って、ローズを近くの木に追い込んだ。

「国のために結婚する。それのなにがおかしい? 国を守ることが俺たちの義務だ。君も、君の周りの人間も。立場をわきまえて行動すべきことを何もわかっていない」

 赤い瞳の視線が交差する。
 ローズは痛みのあまり顔を顰めた。魔法に男女差がなくても、単純な力比べなら、どうしても力の差は存在する。

「王侯貴族の婚姻など所詮そのようなものだ。力あるもの同士の結びつき。王に望まれた者は逆らうことを許されない。君の役目は望まれたとおりに行動することだ。誰も傷つけたくないと思うのなら、さっさとその身を俺に差し出せばいいだけのこと」

 ロイは、拘束したローズの耳元で冷たい声で尋ねた。

「――どうせ君は、本当は彼を好きでも何でもないんだろう?」
「……!!」
「話を聞けば、彼は君の答えを待っているだけに過ぎないらしいじゃないか」

 ロイはまた、ローズを馬鹿にしたように笑った。
 そしてこの場にいないベアトリーチェのことも、彼は嘲笑っているかのようにローズには感じられた。

「彼が傷付くのは君のせいだな。好きなら結婚すればいいだけの話。君はこの国にとどまりたい。その理由に彼との婚約が必要で、君は彼を利用しながら、褒美はあたえてやらないらしいな?」

「――私、は」
「恋だの愛だの馬鹿らしい。所詮君が守っているものなんて、やがて失われるものに過ぎない。一度失ってしまえばもう価値はなくなる。最初にこだわりたがる人間は、愚かしいとしか言いようがない」

 ロイの赤い瞳は燃えさかる炎のような色をしているのに、その瞳には、なんの感情もないようにローズには思えた。
 あまりに冷淡だ。
 そんなロイの顔が、ゆっくりとローズに近付く。

「あの男が無駄に大事にしている君の最初とやらを、俺が奪ったと知ったら、あの男はどんな顔をするんだろうな?」

 ローズは思わず目を瞑った。

 ――嫌、嫌。一番最初は、好きな人とがいい。こんなふうに強引に、この人に奪われるなんて絶対嫌。

 だがローズは、ロイに対して魔法を使うことが出来なかった。
 もし自分の魔法でロイを傷付けてしまったら――クリスタロスとグラナトゥムの間に荒波を立てることは、ローズには出来なかった。
 少しでも動いてしまえば唇が触れる距離。ロイはその場所でピタリと動きを止めると、ぎゅっと目を瞑るローズを、冷めた瞳で見つめた。
 その時だった。

「そこまでだ!」

 張り詰めた空気を割くように、彼の声は響いた。

「挑戦者と婚約者の、これ以上の接触は認められない」
「……リヒト王子」

 ロイは彼の名前を呼んで、ローズから体を離した。
 自分を睨みつける無力な王子の瞳。そして自分に怯える少女の姿を見て、ロイははあと一つ溜め息を吐いた。

「興が削がれた」
 ロイはローズに背を向けた。

「ローズ!」
 ロイがローズから離れるのを見て、リヒトは彼女に駆け寄った。

「リヒト、様……」
「……わっ!」
 ローズは、自分に駆け寄ってきたリヒトの名を呼ぶと、彼の背の服を掴んで顔を埋めた。

「お、おい。ローズ、何して」
 手の震えが止まらない。でもそれを、ローズはリヒトに見られたくはなかった。
 怖かった。本当に、怖かったのだ。
 自分が選ぶべきはベアトリーチェ。
 でも、幼馴染は大切で。そんな彼らが自分に向けてくれる感情を、ローズはすぐには否定なんて出来ない。

 自分の『好き』は横並びで、彼らが向けてくれる感情に、自分は返せないと知っているから。
 だったら、愛する人たちが一番祝福してくれる相手を選ぶことが、どうして間違いだと言うのだろう――?
 だがローズのその思いも何もかもを、赤い瞳の王は否定する。
 ローズは唇を噛んだ。
 
 誰も選べない。何も捨てられない。そのことが、周りを傷付ける。
 でもだからといって、ローズにはどうすることも出来なかった。

 ――この心は、まだ『恋』がわからないのに。

「ローズ? ……どうしたんだ?」

 異性として扱われるたびに、心が揺れているのがわかる。
 それは、自分の心が人の心を鏡のように移すからだ。
 かつて恋を映さなかったはずの心。心に覆っていた壁を、最初に壊したのはベアトリーチェだった。
 別に誰か一人だけに、心が奪われているわけではない。
 誰かの気持ちを、弄びたいわけじゃない。 
 ただ大切なものが多すぎて、どうしていいかわからない。
 自分はただ、自分が愛するこの国を、この国の民を守り愛していたいだけ。

「申し訳ございません。もう少し、もう少しだけ……このままで……」

 ローズはリヒトの服を掴んで言った。 
 いつも自分の前を歩いていたはずの相手が、自分の背で声を殺して泣いている。その事実に、リヒトは心が落ち着かなかった。

「ローズ」
 リヒトはそっと手を上げた。
 彼女に手を伸ばそうと思ったが、背中で泣かれていては、その頭を撫でてやることもリヒトには叶わなかった。
 リヒトは静かに手を下ろした。
 そしてローズが泣き止むまで、リヒトはずっとそうしていた。

 自らの秘密を、『自分』という存在を開示するときに、人と人は繋がりを深くする。
 人が人に弱さを見せるのは、それを受け入れてほしいと思うからだ。
 弱さを受け入れてくれる相手だと、心の何処かで願うからだ。
 自分が一番辛いときに、手を伸ばしたくなる。そばにいてほしいと、そう願う。
 だとしたらそれは。その感情は、なんと呼ぶべきなのだろう――? 
 
 二人を影からみていた人の少年は、紫水晶《アメジスト》の瞳を煌めかせてポツリ呟いた。
 それは彼が幼い時から、ずっと心に抱いてきた感情。
 差し出されずに枯れていく。花の行方を彼は知る。

「……これだから、感情なんていらないんだ」



「もう、大丈夫か?」
「はい」

 ローズが泣き止むまでのしばらくの間、リヒトは無言で彼女に背中を貸していた。
 けれど彼女が泣き止んで、自分の背から手を離すと、困ったような声でリヒトはローズに諭した。

「ローズ。次泣くときは、俺じゃなくてアイツのところじゃなきゃ駄目だ。アイツは、お前のために戦ってるんだから。それに」

 リヒトは一瞬、言葉を詰まらせた。

「まだ決めてはないんだが、もしかしたら俺は、この国を出るかもしれない」
「え?」

 ローズは目を瞬かせた。
 その瞳は以前より大人びて、リヒトは今は真っ直ぐに、前を見据えているようにローズには見えた。
 兄たちが眠りについてからローズの名声が高まる度に、リヒトは少しずつ変わっていった。自分の変化に、リヒトがどこか不安そうにしていることもローズは知っていた。そしてそのすれ違いを解消する方法がわからないまま、ローズは婚約破棄を言い渡された。
 レオンとギルバート。
 二人が目覚めてからのリヒトは、少しずつだが『昔の彼』を取り戻しているようにローズには思えた。

 魔法の研究も、相変わらずガラクタを量産しているようにしか見えないが、以前よりも顔色がいいことはローズは気が付いていた。
 リヒトは魔法が苦手だった。
 でも、それでも精一杯努力して、涙を拭いながら本に向かう姿を、ローズはずっと見守って来たつもりだった。
 いつか彼が、自分とは違う誰かを選んでも、そんな彼を見守る日々に終わりなんて来ないのだと、ローズは心の何処かで思っていた。

 彼はこの国を愛している。
 だから彼がこの国を出ることはないと、ローズは信じて疑わなかった。
 ――けれど。
 リヒトの瞳を見て、ローズは何も言えなかった。その瞳には確かに、過去たる決意のようなものが感じられた。

「……そんな顏、するなよ」

 何故か兄たちが眠りについてしまった頃のように、不安げに瞳を揺らすローズにリヒトは言った。
 まさかいつだって強気な彼女が、こんな表情をするのをまた見る日が来るなんて、リヒトは思ってもみなかった。  
 けれどどんなに幼馴染が自分との別れを惜しんでくれているように見えても、リヒトは自分の決心を変えようとは思えなかった。

 ここ数日の決闘を見て、リヒトは気付いてしまった。
 兄はこの国を思っている。そして多分、ローズのことも。
 国を守りたいのは本当だ。でも魔法が使えない自分が、果たしてこれから彼のような王たちを相手にしたときに、守れるかというとそうではない。
 自分は、王には相応しくないのかもしれない。
 力の差を思い知らされる。
 自分には所詮、彼らと同じ力はない。
 自分の命をかけてこの国を、ローズを守ろうとする兄を、リヒトは陥れようなんて思えない。
 兄の行動は、自分からこれまでの立場を奪う。でもそれが、この国のための正解ならば。
 ――要らないのは、自分の方だ。

「魔法の研究をしようと思うんだ。王様にはなれなくても、この国を支えられるようなそんな研究を。そのためには、自分は外にでるべきなのかもしれない」

 ローズは何も言えなかった。彼がこの国からいなくなる? そう思うと、何故か泣きたいくらい胸が痛かった。

 ◇◆◇

 赤い色を纏う王の部屋の隅で、首輪を付けた少女はまるで、大きめの籠の中に座っていた。
 周りには食べ物が散らばっていて、少女は床に落ちた果実を拾って、しゃくりと齧る。
 青年はいつものように、本を声に出して子どもに読んで聞かせていた。
 難しい本でさえ彼がそうするものだから、子どもはあまり字を読むことは得意ではないのに、難しい言葉も知っていた。
 いつものような、穏やかな時間が流れる。
 その時、窓の外から、小鳥が部屋の中へと入って来た。
 輝石鳥と呼ばれる鳥には、紙が結わえられていた。

「さいごの一つ、ですか?」
「ああ」
 子供の問いに、青年は頷いた。

「たみは、おきさきさまをのぞんでいます」
「……わかっている」
 吐き捨てるように言う。
 彼はため息を一つついて、再び手の上の紙に目をやった。

「これで全て揃った。君は俺に勝てない。ベアトリーチェ・ロッド」

 自分が持たない全ての属性の精霊晶が集まったという旨の手紙を見て、王になるべくして生まれた男は、赤い炎のような瞳で冷たく世界を見つめていた。