ドレスを纏ったローズは、契約水晶を手にベアトリーチェに伴って決闘場へと赴いた。
 相変わらず自信たっぷりな赤眼の王は、目があったローズを見てニヤリと笑った。

「そうしていると、君はまるでただの花のようだな」
「私の婚約者に話しかけないでいただけますか? 減ります」
「君も心が狭いな。それとも俺の力に怯えているのか?」
「昨日負けた貴方が、私に勝てるとでも?」

 自信たっぷりのロイを、ベアトリーチェはせせら笑った。
 昨日の決闘で、圧倒的な力を見せたベアトリーチェは、ローズを背に隠してロイを見据えていた。

「勝てるさ」

 しかしそんなベアトリーチェを前に、ロイは全く怯む様子は見せなかった。
 相変わらず、自分の勝利を疑わない。そんな傲慢さを宿す瞳を細めて、長身のロイはベアトリーチェを見下ろしていた。

「――こちらには翼がある」
 ロイはそう言うと、高く左手を上げた。

「来い。レグアルガ!」

 するとその背後から、彼がこの国にやってきたときに乗っていたあのドラゴンが、高い声を上げて現れた。
 鋼のような、硬質な鱗を持つドラゴンの身体はてらてらと輝き、翼を羽ばたかせるたびに風が起こる。
 ローズの長い髪が、強い風に大きく揺れる。乱れた髪をそのままに、ローズは瞠目した。

「契約獣のことなんて、一度も……」

 決闘がどのようにして行われるのか、ベアトリーチェは聞いていたはずだ。
 だというのにベアトリーチェが自分に教えてはくれなかったという事実に気付いて、ローズは自分の前に立っていたベアトリーチェの服を掴んだ。

「ビーチェ、様……」
 しかし、ベアトリーチェは振り向かない。
 ベアトリーチェが瞳に映しているのは、ロイと彼の契約獣だけだった。

「お前の魔法がどんなに優れていても、その魔法が俺に届かなければいいだけのこと」
 ロイは少し口端をあげ、低い声で言った。

「王の生き物を舐めるなよ」

 ドラゴンはロイの後ろに着地した。
 ロイが体を撫でてやると、ドラゴンは見目とは裏腹に気持ち良さそうな声を上げる。
 力あるものに従属する獣。
 その信頼関係は、決して彼が『王』だからではないということを物語っていた。

「契約獣も、決闘への参加は認められてはいる。君は、彼女に何も言っていないのか?」

 ベアトリーチェの服を不安げに掴むローズの姿を見て、ロイはまた笑った。

「これだけ体を張っても自分を選ばない彼女には、何も言えないということかな?」
「私はただ、愛する婚約者に余計な負担をかけたくないだけです」
「本当に君は、『お優しい』な」

 まるでベアトリーチェを嘲笑うような声だった。
 二人のやりとりをそばで見ていたもう一人の決闘者であるレオンは、自分の存在を示すかのように足音を立てた。

「おや。レオン王子。貴方はもう諦めたかと」
「ローズは貴方には渡さない」
 レオンは静かな、けれどはっきりとした意思の籠もった声で言った。ただその言葉を、ロイは真面目に受け取ろうともしなかった。

「ははははは。実に愉快。君が俺にかなうとでも!?」
「レイザール」

 一瞬唇を噛んだレオンは手を上げた。
 すると、太陽を隠すほどの大きな黒鳥が現れ、宙を旋回してレオンのそばに降りたった。

「なるほど。『最も高貴』とされる生き物。だが……」

 レイザールの美しさは、ロイの契約獣であるレグアルガとは全く違う。
 侵すことのできない漆黒。
 闇夜を思わせるその色は、この世界を生きる生き物の中で最も美しいと言われる、双璧をなす生き物のうちの一つだ。

 『氷炎の王子』――レオンがかつてそう持てはやされたのは、彼がレイザールの契約者であったことが理由でもある。

 力ある生き物は、力を持つ主を選ぶ。
 レイザールは、レオンの力の象徴でもあるのだ。
 だというのに、ロイはその生き物を見ても、顔色ひとつ変えなかった。
 いや、正確に言うと――どこか冷めた目で黒鳥を見たロイは、つまらなそうにこう呟いた。

「やはり君の契約獣は、フィンゴットではないんだな」
「?」

 ロイの言葉の意味がわからず、レオンは首を傾げた。
 レイザールと双璧をなすドラゴンは今は眠りにつき、卵から目覚めないという話なのに。
 ――この男は一体、何を言っているんだ……?
 訝しむレオンの隣で、ベアトリーチェは閉じていた目をゆっくり開いた。

「もう、いいですか? さっさと決闘を始めましょう」
「いいだろう」
 ロイは余裕たっぷりに言った。

 地上でしか戦えない場合と、飛行が可能な場合は、大きく戦闘が異なる。
 自身の契約獣の背に乗るレオンとロイに対し、ベアトリーチェはいつものように薔薇の剣を手にしていた。
 そんな彼を揶揄するかのように、ロイは飛び立つ瞬間、わざとドラゴンにベアトリーチェに向かって翼を羽ばたかせた。

「……っ!」
 飛ばされぬよう、剣を地面につきたて手を体を支えたベアトリーチェを、ロイは嘲笑った。

「空を飛べない人間は、地面に這いつくばっているのがお似合いだ」
「ビーチェ様!」

 ローズは婚約者の名を呼んだ。魔法を使う戦闘の前から、これでは分が悪すぎる。

「ロイ・グラナトゥム殿」
 そんなロイに向かって、レオンは訊ねた。

「私の弟に、やたらとかまっていらっしゃる理由を教えていただきたい」

 怒りを隠すような低い声。
 ローズには、レオンが今なぜそれを聞くのかわからなかった。
 レオンは――レオン・クリスタロスは、弟であるリヒトを嫌っているはずなのだ。そのはずの彼がなぜこの瞬間、わざわざ弟のことを聞くのか。
「こたえてください」

「傀儡にできそうな人間が王になる方が、御しやすいと思っただけだ」

 ロイはそう言うと、小馬鹿にするように笑った。
 レオンの表情は変わらない。けれどその手は、僅かに震えていた。

「……わかりました」
 レオンはそう短く言うと、さっと左手を高く上げた。

「レオン、様?」
 彼のもう片方の手は、ベアトリーチェの手を掴む。
 彼は自分の契約獣の背に、ベアトリーチェを乗せた。そして、自身もまたその背に乗った。

「れ……レオン様?」
「――飛べ。レイザール」
「何の真似だ? レオン・クリスタロス」
「僕は、この国を守る王子だ」
 その声は時期国王に相応しく、王の威厳を宿らせる。

「名声なんて必要ない。誰に非難されても、否定されても。僕はこの国を……ローズを選ぶ。貴方のような人に、ローズは……。ローズは、渡さない!」
「レオン、様……?」

 ベアトリーチェは空を飛べない。
 彼は慣れない空の上で、振り落とされないよう鳥の背を掴んでいた。

「レイザール。僕の魔力の全てを与えよう。かの王から、僕らを守る壁を作れ」

 この世界に、『最も高貴』とされる生き物は二ついる。
 全てを阻む闇属性のレイザール、光の祝福を与えるフィンゴット。
 ただその二つの生き物は、強い力の代償に、どの契約獣よりも主に魔力を要求する。
 力ある生き物は力を持つ生き物を選ぶ。
 一説には、彼らには主の魔力を自分の中で増幅させる機能を持つ力があるといわれている。

「レオン様」
「単純な魔力だけなら、君の方が強い筈。これで彼には勝てるだろうね?」

 レオンはベアトリーチェの方を振り返りはしなかった。
 レオンからは敵意を感じず、ベアトリーチェは静かに頷いた。

「……はい」
 レオンの助力を得て、ベアトリーチェはロイを見据えた。
 空中戦対空中戦ならば、ベアトリーチェにも勝機はある。

「私の勝ちです」

 ドラゴンから振り落とされたロイに突きつけられたのは、鋭い剣の切っ先だった。
 だが、ベアトリーチェの肩は上がっていた。
 一方、負けたはずのロイにはまだ余裕があった。
 それを物語るかのように、武器を向けられているというのに、ロイの表情はいつもとそうかわらなかった。
 まるでこれまでの全てが、盤上の遊戯でてもあるかのように――そんな余裕を感じさせる雰囲気は、どこかいつものレオンと似ていた。

 しかしレオンとロイには、大きな違いがあった。
 それは二人の持つ気質が、どれほどの時をもって培われたかによる差だ。
 レオンとギルバートは、十年間眠っていた。
 二人は当時から、子供らしくない子供だった。だからこそ周囲は理解していないが、この十年眠り続けた今の二人は、十年前の心そのままに、姿が変わっただけに過ぎない。
 加えて二人の年の差は、ロイにレオンとは異なる威圧感を与えていた。

「――それはどうかな?」
「え?」
「この戦い、勝つためのものではない。これで手の内はわかった。やはり君は、空を飛べない」
「……!!!」
「勝負など、最後に勝てばいいだけの話。暇つぶしはここまでだ」
「……貴方は。最初から、そのつもりで」

 ベアトリーチェの言葉に、ロイは不敵な笑みを浮かべた。

 幸運・魔法・精霊晶。そして、空を飛べるかどうか。
 最後には勝てばいい決闘で、三回行われたこれまでの戦いは、小手調べに過ぎないと言われたベアトリーチェは顔を顰めた。
 そしてベアトリーチェの横で、ぐらりと何がが倒れ込んだ。
 ロイを睨んでいたベアトリーチェは、少女の悲鳴に我に返って、漸く異変に気が付いた。

「――レオン様! レオン様!」
 それは、この勝利の代償。

「挑発にのせられるとは馬鹿な男だ。『偽物』風情が出しゃばるな」 
「――レオン、様……!」

 ベアトリーチェは、レオンの名を呼んで駆け寄った。
 かつて自分が主君に望み頭を垂れたその相手は、国と少女を守るために、魔力を枯渇させて意識を失った。

◇◆◇

「……ローズ?」
「お体は、大丈夫ですか?」

 レオンが目を覚ましたのは、彼が倒れて三時間ほど後のことだった。
 そばで光魔法をかけ続けていたローズは、幼馴染《レオン》の無事を見てほっと息を吐いた。

「倒れたのか……僕は」

 天井をぼんやりと見つめる。まだ体に力が入らないのか、レオンは動けないようだった。

「はい。決闘の、その後すぐ」
「……そうか。――全く、情けないな。今の僕は」

 『今の僕』。彼の言葉の意味に気付いて、ローズは何も言えなかった。
 『氷炎の王子』――そう持てはやされた過去のレオンは、目覚めてからの彼とはあまりにかけはなれている。
 ただそれは、レオンのせいではないのも事実だった。
 眠り続けたこの十年、彼は何も出来なかったのだから。 
 ただそれを考慮してくれるほど、世界は甘くないことをレオンは知っていた。
 だから彼は目覚めてから、血の滲むような努力した。
 それでも、駄目なのだ。月日はそう簡単には取り戻せない。

「あの王は、僕が気に入らないらしい」
「あの方は、一体何を考えていらっしゃるのでしょうか……?」

 ローズの呟きに、レオンは苦笑した。ローズの言葉にはレオンも同意だった。
 レオンを『偽物風情』と罵ったり、ロイの行動には謎が多すぎるのだ。
 まるで自分達の知らない意図をもってこの国に来て、そのために戦っているようにも――ただそれがなんなのかは、ローズもレオンも思いつかなかった。
 うーんとローズが腕を組んで顔を顰めていると、自分をじっと見つめる瞳に気がついて、ローズは顔を上げた。

「なぜ私の顔をまじまじと見ていらっしゃるのですか?」
「……こうやって、君とちゃんと話すのはいつ以来だろうと思って」

 レオンの声はほんの少しだけ、いつもより柔らかかかった。
 いつもの彼は威圧的で、隙あらば婚約者のいるローズをなんのためらいもなく口説いてくるというのに。
 相手が弱っているせいか調子が狂ってしまい、ローズはレオンから顔をそらした。

「……それは、いつもレオン様が、私をからかわれるからでしょう?」
「……ああ。そうだ」

 くすくすとレオンは笑う。やっぱり自覚があるのか、この人は――……。 
 レオンに対するローズの心象は、あまり良いとは言えなかった。
 ほら、やっぱり。いつも私を口説いてくるのは、私をからかっているだけなのだ。そんなことを思って不機嫌になるローズに向かって、レオンは先程より小さな声で、ローズに尋ねた。

「でも……本当に、それだけだった?」
「レオン様?」

 その声は、いつもの彼の声とはどこか違うように彼女には思えた。

「……ねえ、ローズ。君の手を、握ってもいいかな?」
「いつもは勝手に行動されるのに、どうして尋ねられるのです?」
「……なぜだろうね」

 レオンは苦笑いした。
 力の入らない手を精一杯持ち上げて、愛し気に手に触れる。
 いつもは偉そうだとか意地悪だとかしか思えない相手が、弱々しく自分の手を握って、どこか安堵したような笑みを浮かべる。その姿を見て、ローズは怒ることができなかった。

「君の手は、温かいな」
 ポツリ呟かれたその言葉は、やけにローズの耳に残った。

 ベッドに横になるレオンの手をローズが握る。そんな時、とんとんと音がして、部屋の扉が開かれた。

「ローズ様」

 中に入ってきたのはベアトリーチェだった。
 ローズは思わず、レオンに握られていた手を離した。
 ベアトリーチェはローズの行動を見て少し目を伏せたが、責めるようなことはしなかった。

「王族に何かあったとき、貴方は彼らを救う役目を負っている。貴方は私の婚約者ですが、その役目もになっている。今日は、レオン様についていてください」

 『光の聖女』が来る前は、ローズが『光の巫女』の代わりだった。
 ただローズは、王子《リヒト》の婚約者という立場ゆえに、神殿入りしなかっただけだ。
 神殿の巫女は、本来結婚をするのを望まれていない。現国王《リカルド》の妹だった『光の巫女』は、半ば駆け落ちのような形で子を産んだだけで、その後は神殿に身を捧げている。
 彼女の息子である前騎士団長ローゼンティッヒ・フォンカートが、母から引き離され父親の家で育てられたのもそのためだ。

「はい……」
「――レオン様」

 ローズは、何故かベアトリーチェを真っ直ぐ見ることが出来なかった。ベアトリーチェはそんな彼女を責めることなく、レオンを見て言った。

「今回のこと。私はレオン様の評価を、少し改めようかと思います」
「……」
 決闘中の婚約者の言葉にしては、ベアトリーチェは少し異様だった。
 評価を改めるという言葉の真意がわからず、レオンはベアトリーチェを見つめた。

「貴方は、本当はローズ様のことを……いえ」
 ベアトリーチェは言葉を続けようとしたけれど、険しい表情《かお》をしたレオンに気付いて口を噤んだ。

「今の私が、貴方に言えることはありませんね」
 ベアトリーチェはそう言うと、レオンに頭を下げた。
「では、私はこれで」
 ベアトリーチェはそう言うと、二人の居る部屋を後にした。



「ミリア……と、ユーリ?」
「お迎えに参りました」

 その日ローズが城から帰ったのは、夜も深まり始めた時間だった。 
 城門の前、鬼灯の形をした明かりの灯る下で、その男は立っていた。
 ユーリ・セルジェスカ。
 彼はローズのもう一人の幼馴染であり、今は彼女が所属する騎士団の、騎士団長でもある。

「ローズ様。お手を」
 ローズはユーリに言われるままに手を伸ばした。
 けれどその時、彼女は自分の胸が少しざわつくのを感じた。
 差し出される手の温かさに、昔よりも熱を感じる。

「どうかされましたか?」
「い、いえ。……それより、ユーリが何故ここに?」
「ビーチェに代わりを頼まれたので」

 ユーリは当然のようにそう答えた。
 その返事に、ローズはドキリとした。
 自分を迎えに来たのがベアトリーチェでなくてどこか安心していたというのに、彼のはからいと言われては、意識せざるを得ない。

「ローズ様。どうされたのですか?」
 彼が居ないところでも彼を感じる。その時間の積み重ねが、ローズは自分を変えていくように感じられた。

「顔を赤くされて、どうされたのですか?」

『君の手は、温かいな』
 最近やけに高鳴る胸の音に気づくたび、ローズは自分の心がわからなくなった。
 他者《だれか》を本気で異性を意識したことなんて、ローズはこれまではなかったように思った。だから――今はその変化に、心が追いつかない。
 そして今、夜の道を走る馬車の内は、ローズとユーリの二人だけだった。
 ローズがユーリを直視出来ず下を向いていると、突然馬車が大きく揺れた。

「危ない!」

 その瞬間、ユーリはローズに手を伸ばした。
 おかげで、ローズが予測していたような衝撃はなかった。

「……!」
 ユーリが、ローズの体を支えてくれていたためだ。
 あの日ローズが魔王を倒し、空から墜落した時に支えてくれたのと同じように、ユーリはローズを守っていた。

「ローズ様、大丈夫ですか?」

 ユーリの唇が目に入る。
 抱きしめられた手の強さに、ローズは体を強張らせた。

「申し訳ありません。あ……ありがとうございます。ユーリ」

 ベアトリーチェの体は、小さいながらもローズと比べると硬い。
 ユーリの硬さに、自分とは違うものを感じて、ローズは顔を赤く染めた。
 これまでの、ローズのユーリに対する反応とは明らかに異なる――それははじめて、ローズがユーリを意識した瞬間だった。

「……ッ」
 その瞬間、離れようとしたローズの体を、思わずユーリは抱き寄せていた。

「えっ?」
 ユーリの思わぬ行動に、ローズは目を瞬かせた。

「あ、あの。ユーリ?」

 ローズは、ユーリの腕から逃れるために彼の体を押した。
 昔ならなんとも思わなかった性別の違いを感じて、ローズは更に動揺した。

「――ローズ様、お願いします。どうか私に時間をください。私は……私は必ず、貴方に相応しい男になってみせる」

 熱のこもった力強い声。固くて大きな体に抱かれる。
 強く打つ。心臓の鼓動の音がする。
 ローズは息を飲んだ。
 婚約者がいる自分が、他の誰かに心を揺らすなんて、本当はいけないことなのに。
 以前より誰かを意識してしまう自分に、自分の心がまたわからなくなる。

「ユーリ……?」
「お慕いしています。ずっと。貴方が私に、赤い紐を私に結んでくださったあの日から。――貴方を。貴方だけを」

 ユーリはそう言うと、力を緩めてローズを自分から離し、ローズへと顔を寄せた。
 ローズは思わず唇を手で塞いだ。
 婚約者であるベアトリーチェにすら許していない場所を、ユーリに許すわけにはいかない。

「ローズ様が恐れていらっしゃるようなことは致しません」

 目を瞑るその向こう側で、ローズはユーリが微かに笑ったような気がした。
 その声が、少し傷付いているように聞こえたのは、きっと勘違いなどではない。
 ユーリはそう言うと、ローズの瞼に静かに口付けた。
 瞼へのキス。その意味は憧憬。

「ユーリ……」
「ローズ様。貴方のお心が私に無くても、貴方に憧れることだけは、どうかお許しください」
「……っ」

 ユーリはローズを拘束する手を解いた。
 ユーリの体からローズは離れる。躊躇うように触れた唇の熱は、もうそこには残っていない。
 その時ふと、自分の名を呼ぶベアトリーチェの声が聞こえた気がして、ローズは胸を抑えた。
 『好き』だなんて言葉は、婚約者がいる自分が与えられていい言葉ではないはずなのに。
 それでも、震える誰かの手をすぐに拒むことができないのは、それが彼らにとって初めての感情だと、そう思ってしまうからだ。
 誰かが大切に抱えてきた感情を、否定する程の強い思いが、今の自分にはないことに、その時ローズはやっと気がついた。

 ――私は、この国を愛している。それ以上のものを作れない。人にどんなに愛を囁かれても、一番好きはわからない。

 兄を永遠に失うと思った日。
 大切な人を、自分に光を与えてくれた人が死ぬと思った日に宿った強い思いは、自分から彼らのように、誰か個人《ひとり》を思うということを奪ったのかもしれないとローズは思った。

 ――『好き』ならばよくわかる。でも、『愛』はわからない。

 彼らが自分に求めるのは後者の感情だ。
 だからローズは苦しくなる。
 たった一人だけを選ぶことができたら、そしたら自分は苦しくなんてないはずなのに。その感情だけが、ローズにはわからなかった。
 ふと、頭がずきりといたんだ。

『――薔薇の騎士』
 ローズの頭の中で、『誰か』が彼女を呼んだ。誰かがこちらに笑いかける。
 白いドラゴンに乗るその人が、こちらに向かって手を伸ばす。
 『彼』の名前が思い出せない。『彼』の顔がよく見えない。知らない風景。知らない場所。それでも――確かに知っている、そんな気がする。

『空を飛べない君に、俺がこの国を見せてやる』
 その声は、甘く優しく。
 ローズには声の主は、どこか兄と似ているような気がした。知らないはずのその声に、ローズは胸が高鳴るのを感じた。

 ――どうして?

 ローズにはわからない。
 自分は、空を飛べるはずなのに。白いドラゴンは、この世に一つしかいないと聞かされたばかりなのに。
 金色の髪が揺れる背に、そっと『誰か』が手を伸ばす。
 上空から見下ろしたその風景は、ローズの愛するこの国と、よく似ているような気がした。