翌日、アカリがロイ・グラナトゥムの部屋に向かって少女を呼ぶ声を、ローズは黙って傍で聞いていた。

「しやーるーるーちゃーん!」
「なんでしょう……?」

 勿論その『少女』とは、昨日二人が出逢った『首輪の少女』だ。
 アカリの声に、ひょこりと窓から顔を出したシャルルに向かって、アカリは手を振って満面の笑みを浮かべた。

「こっちにおいでー!」
「……おうさまから、へやからでるなといわれています」

 シャルルはサラッと断った。
 しかしアカリは諦めない。アカリはシャルルの返事を聞いて、笑みを浮かべてからもう一度叫んだ。

「シャルルちゃ〜〜ん!! そんなこと言わずに! シャルルちゃんのためにお菓子とご飯用意したんだよ〜〜!!」

 アカリはそう言うと、皿いっぱいのお菓子と料理を取り出した。
 それを見たシャルルの目が輝く。

「おかし!! ごはん!!!」
「アカリ……それではまるで誘拐犯のやり口です……」

 アカリたちのやり取りを側で見ていたローズは、珍しくツッコミをいれて顔を曇らせた。


 
 話は少し前に遡る。
 シャルルと出会った日の翌朝、アカリに呼び出されたローズは王宮を訪れていた。
 騎士として護衛をアカリに頼まれたからである。
 『光の聖女』として魔王討伐に助力したアカリには、常に騎士団の人間が護衛についている。
 いつもは交代で受け持っているのだが、今日は急遽アカリからの『お願い』で、ローズに担当することになった。
 男性の騎士を連れて街を出歩くのも気が引けるとか、息抜きをしたいからという理由で自分を指名したのかとローズは思っていたのだが、アカリがローズを指名したのは、違う意図があったらしかった。

「絶対に許せないのでこっちも出るとこ出ます」
「……アカリは最近、たくましくなった気がしますね」

 昨日からのアカリの怒りは、まだ収まっていないらしかった。
 『大陸の王』ロイ・グラナトゥムに腹を立てるアカリを見て、ローズはくすっと笑った。

「だって! あんな小さな子にあの扱い! 許せません!!!」

 顔を赤らめて、眉間にしわを作る。
 初めて会ったときと比べて、アカリは表情が増えたようにローズは思った。そしてそんなアカリを見て、ローズは少し嬉しかった。
 『病院』暮らしで、人と関わったことが無かった彼女が、心からの怒りという感情を抱くのはというのは大きな変化だ。そして『聖女』である彼女が怒っている理由が、自分の正義を信じているからだということも、ローズにとっては好ましく思えた。

「アカリの世界では、子どもがこういう扱いをされることは無いのですか?」

 ローズは、どこか諭すよう名声で訊ねた。
 どんなに平和な世界でも、人に意思がある限り、差別や偏見、格差のない完全な幸福などありえない。
 アカリは、あくまで冷静なローズを前に、きゅっと唇を噛んだ。

「それは……そうではない、ですが」

 ローズはアカリから、『アカリの国』に奴隷は居ないと話で聞いていた。
 けれどアカリが召喚されたらしい世界についての書物を読むと、差別や奴隷についての記述があることをローズは知っていた。

「……確かに、私の世界のすべてが、誰も飢えることなく争いもないと言ったら違います。あの子みたいに、親がいない子だっている。放置されて死ぬ子もいる。私の国に、虐待をされない子が居ないとは言いません。私の国の、すべてが平和だって言うわけじゃありません。それでも……。それでも私は、人は、誰もが幸せになる権利があるって、そう信じたいんです」

 ローズの問いに対するアカリの答えは、彼女が『光の聖女』と呼ばれるにふさわしく、『愛』や『夢』、そして『希望』に満ち溢れていた。
 美しいものを信じ、それを正義として内に抱える。『七瀬明《ひかりのせいじょ》』の言葉を、ローズは黙って聞いていた。

「……私は、あの子が今幸せだなんて思えません」

 アカリが語り、望む世界は美しい。 
 だからこそ、ローズはアカリに問いかける。

「それは、本当にそうでしょうか?」
「?」
「貴方には、彼女の幸せを決めることなんて出来ない。それに、『誰もが幸せになる権利がある』――貴方はそう言うけれど、だとしたらたった一人を特別視するというのもどうなのでしょう? 平等なんて、有り得ない。全てを救うことなんて、貴方には出来ません」
「……」

「この世界では、魔力の強さが重視される。それはアカリ、貴方だって例外ではなく。貴方がこの国で、皆に歓迎されたのは、ひとえにその力あってこそです」

「それは、わかっています。……でも」

 アカリは拳を握りしめた。
 自分の味方だと思っていたローズに否定されるなんて、アカリは思っていなかった。
 それでも自分の意見を覆すことも出来ず、『七瀬明《ひかりのせいじょ》』として、アカリはローズの目を真っ直ぐに見て言った。

「目の前でいじめられている人が居たら、私は放っておけない。たとえそれがどんなに偉い人だって、私は悪いと思ったら立ち向かいたい。……昔の私には、出来なかったから。誰か一人しか救わない、じゃありません。一人が集まって、世界が作られているのなら――。世界を変えるために、まず一人を救うことこそが、私は世界を変えることだと信じたいと思うんです」

 アカリの言葉はどこまでもまっすぐで、希望に満ち溢れていた。
 子どもが理想を語るような、そんなアカリの姿を見て、ローズは微笑んだ。
 世界を変えるためには一人一人を変えねばならないのは本当だろうが、結果よりも原因を変える方が重要だという思いの方が、ローズは強かった。

 上流の水の汚染で下流の水が飲めなくなるならば、長い目で見て必要なのは、下流の水を飲料水に変える方法ではなく、上流の問題を解決することだ。
 次期王妃として期待され、公爵令嬢として育ったローズからすれば、アカリの考え方は結局、たった一人を特別視して投資するだけに過ぎない。

 けれどそうは思いながらも、自分の正義を信じて疑わない彼女を見ると、ローズはアカリを否定するよりも、彼女の信じる美しい世界の先を、見てみたいと思ってしまった。

 『七瀬明』は無知ではない。
 でも、それでも自分の信じる美しいものを信じたいと叫ぶ姿は、ローズには誰かと似ているような気がした。

「アカリがそう願うなら、私は貴方に協力します」
「ありがとうございます」

 人には向き不向きがある。 
 同じ問題を前にして、求められる役割は異なって構わない。
 先を見据えて原因を解決する人間と、既に発生した問題に対処する人間は、異なるのが普通だろう。ローズはそう思った。

 結局人は一人きりで、世界を変えることはできない。
 長い目で見れば、前者が多く貢献したと思われるかもしれない。けれど今を、現実を生きる者たちにとっては、後者のほうが希望となりうる場合もある。
 自分の思う『正しさ』だけが、人の心を動かすわけじゃない。
 『えいえいおー!』と声を上げながら右手を掲げるアカリを見て、ローズはふと、そんなことを思った。



 ――……そして話は冒頭に戻る、というわけである。
 ばぐばぐと食事をするシャルルを、アカリは満足気に眺めていた。
 世界がどんなに変わってもいつの時代でも、空腹は人の敵だ。
 だから空腹時にご飯を与えてくれる相手は、正義のヒーロー(ヒロイン)というに相応しい。
 だが当の正義のヒロインは、何故か針で布をチクチク縫っていた。

「名付けて、『シャルルちゃん改造計画』です!」
 アカリは自信満々に宣言した。

「私、服を作るのが得意なんです。病院で作っていた時期があって」
「凄い。やはり、アカリはとても器用ですね。縫い目も綺麗です」
「ありがとうございます!」

 ローズに褒められて、アカリの布を縫う手が早くなった。

「よーし、出来たっ!」

 そして、ぱちんと糸切狭で糸を切る音がすると、アカリの元気な声が響いた。
 アカリが作ったのは、真っ赤な赤いフード付きのローブだった。

「シャルルちゃん、来て!」
「はい?」

 顔に菓子の屑をつけたシャルルが振り返る。

「??」
 アカリは、そんなシャルルに服を被せた。少し大きめの猫耳フード付きの服は、華奢なシャルルにはよく似合っている。

「可愛い~~! 赤ずきんみたい!」

 少し薄汚れてはいるものの、シャルルが元々着ていたワンピースの白い色が、彼女が動く度に赤の間から見えて可愛らしい。
 アカリは満足げに大きく頷いた。

「『赤ずきん』?」
 だがうんうんと頷くアカリに対し、ローズは首を傾げていた。

「あれ? ローズさんご存知ないですか?」
「ええ……。この世界の話ではないですよね?」
「はい。そうですね。元々は私の世界のお話なんですけど、昔の異世界人《まれびと》さんが書いたっていう本の中には残っていますよ。ただ、図書館にあった本は絵が怖かったのと私が読んだ本と少し言葉が違ったので、私が完全再現して書き直した本がこちらに」

 三分クッキング風紹介と共に、アカリは自作の本を取り出した。
 表紙に描かれているのは、赤い猫耳頭巾を被った、どこかシャルルに似た女の子だ。

「……もしかして、アカリは本の内容を全て覚えているんですか? 一言一句違わず?」
「はい! これは私の特技というか…… 一度読んだ本は全部覚えてます」
「……『あかずきん』」

 シャルルは珍しく、自分に似た少女の描かれた本に興味を示していた。
 普通の子どものように目を輝かせるシャルルを見て、微笑むアカリをローズは穏やかな目で見つめていた。

 七瀬明の現在のスペック。
 『光の聖女』
 『精霊の愛し子』
 お菓子作りが得意。
 裁縫が得意。
 絵が得意で本を作ることができる。
 一度読んだ本を全て記憶。

 光の聖女でなくても、アカリはこの世界で彼女は生きていける気がする。ローズはしみじみそう思った。
 そしてもし彼女が病魔に悩むことがなければ、きっと彼女は元の世界でも、その才能を賞賛されていたに違いないだろうと。

「アカリは、本当に多才ですね」
「わ、私の場合、ベッドの上で出来ることが少なかっただけで手を使う作業が得意というだけで」

 アカリの頬に朱が走る。
 『大したことは無いです』そう言うアカリを見て、ローズはふっと笑った。

「やはりリヒト様とアカリは、どこか似ていますね」
「へっ?」
 まさかの人物の名を出され、アカリは思わず首を傾げた。
「ど、どこがですか?」

「――『出来ない』の先に、何かを見つけようとするところでしょうかね。あとは、婚約破棄の時。勿論レオン様などのことも理由にはあるんでしょうが、リヒト様も、私を糾弾された時は本気で私に怒られていました。まっすぐ過ぎて周りが見えていないというか、そういうところは似ているなと思います」

「す、すいません。視野狭窄で……」

 ローズの言葉に、アカリの表情が曇った。アカリの変化に気付いて、ローズは言葉を付け足した。

「別に、責めているわけではないんです。それに私には、それが眩しく映ることもありますから」
「……眩しく?」

「――ええ。公爵令嬢として生きてきた私は、やはりどこかで自分の意思よりも立場を優先してしまいます。今は騎士としての立場もありますし。私はどうしても、どこかで周りのことを考えてしまう。だから二人のように、自分の意思を貫き通すことは、私には難しいことのように感じるときがあるのです」

 ローズは苦笑いした。
 昨日シャルルがロイに不当な扱いをされていたとき、ローズはアカリのように、ロイに怒れなかった。
 いけないとは思っても、やめてほしいとは思っても――自分でも気付かない心の奥底で、感情が制限されてしまうようにローズには思えた。
 自分が発言したり行動することで、周りに迷惑がかかってしまうという考え方は、ローズがこれまで生きてきた中で身についたものだ。
 ベアトリーチェの時だってそうだ。
 悪役を買ってでて、それで自体を収めようとした根底には、生まれ育った価値観が根付いていた。

「だからでしょうか? アカリが、彼女に何かしてあげたいという思いを、私はやはり積極的には賛成できない。けれど貴方がそれを望むなら、貴方がどんなことをしてくれるのか、私は興味を持ってしまうのですよ」

「ローズさん……」
 自分を見つめるアカリのきらきらとした瞳に、ローズは苦笑いした。
 何かを変える。何かを為す。
 物語を突き動かすための圧倒的な力は、きっと既存の概念にとらわれない自由さから生み出される。

「だから貴方はどうか、そのままで」
「――……はい」
 優しく微笑むローズを見て、アカリは少しだけ頬を染め、静かに頷いた。



 アカリから『赤ずきん』の格好をさせられたシャルルは、相変わらずお菓子を頬張っていた。
 飢餓により腹が出るという症状はないものの、小さく細い体は、やはり彼女が普段まともな食事をしていないせいだろうとアカリは考えた。
 許せない、と思う。
 けれど、出会ったばかりの少女の幸福を、自分が決めてはいけないとローズに言われたのを思い出して、アカリは口を噤んだ。

「アカリ。赤ずきんという少女は、食べられて終わりなのですか?」

 シャルルと共に本を読んでいたローズだったが、本をすっかり気に入ったシャルルが本を独占してしまい、ローズはアカリに尋ねた。

「いいえ。赤ずきんちゃんは助かりますよ。だって――」

 アカリが、本の続きを話そうとした時。
 ほとんど喋ることのなかったシャルルが、珍しく口を開いた。

「へいきです。あかずきんはおおかみにたべられても、おうさまがたすけてくれるのです」
「……おうさま?」

 シャルルの語る内容が自分が思っていた内容とは異なり、アカリは思わず訊ねた。

「確か、赤ずきんを助けるのは猟師だったかと……」
「ちがいます。おうさまが、わたしをたすけてくれるのでへいきなのです」
「?????」
 ますます訳が分からない。

「それって、どういう……?」
 アカリは、赤いフードの下でまっすぐに自分を見る少女に手を伸ばした。
 小さな子供の手には、自分が書いた本が握られている。

 しかし。

「シャルル!」
 昨日と同じく、取り乱したロイ・グラナトゥムが現れ、アカリはその手を止めた。

「……ここにいたのか」

 小さな溜め息。
 ロイはシャルルの前の皿の上の菓子を見て、あからさまに顔を顰めた。

「俺以外から、物を受け取るなと言っただろう」
「もうしわけございません」
 シャルルは静かに謝罪した。

「そんな……なんでシャルルちゃんが怒られなきゃいけないんですか! 貴方の方が、児童虐待で訴えられるレベルなのに!」

 この世界に、アカリの言う法律は無い。
 この世界にあるのは、この世界の慣習だけだ。
 王と慕う相手《ロイ》の命《めい》に、僕であるシャルルが逆らう筈がなかった。

「おかえしします」
 シャルルは服を脱ぐと、本と一緒にアカリに返した。

「……シャルルちゃん」
「わたしは、おうさまのものです。だから、おうさまのいうことはぜったいなのです」
「そんな……」

 アカリは愕然とした。
 自分の意思よりも、王《しゅじん》を優先するという子どもの言葉を、アカリは受け入れることが出来なかった。

「そういうことだ。『光の聖女』」
 そんなアカリを見て、ロイはアカリを馬鹿にしたような声で言った。

「人の物に勝手に手を出さないで貰おうか。不愉快だ」
「な……!」

 アカリは怒りで顔を赤らめた。屈辱だ。人間として最低の相手に、どうして自分がこんな暴言を吐かれなきゃいけないのか理解出来ない。

「ローズ嬢」
「はい」

 二人のやり取りを無言で眺めていたローズは、溜息まじりの声でロイに名を呼ばれて返事をした。

「君がこんなことに付き合う人間とは思わなかった。昨日のことといい、君はもう少し、自分の立場を考えて行動するべきじゃないか?」
「……」
「――ローズ・クロサイト。君はそこまで、愚かな人間ではないだろう?」

 ローズは口を噤んだ。
 アカリの願いでなければ、ローズも受け入れはしなかった。それは確かだ。
 しかし、ただの奴隷に食事を与えただけで、ここまでロイに非難されるとはローズは思っていなかった。
 ローズは沈黙した。
 牽制を終えたロイは子どもの手を引くと、ローズとアカリに背を向けた。

 シャルルたちの姿が見えなくなる頃、アカリは小さな声で呟いた。
「……嫌い、です」
「あ……アカリ?」
 拳を強く握って、アカリは今度は大きな声で叫んだ。
「やっぱり私、あの人嫌いです ! ローズさん!!!」


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「なるほど。アカリ様は最近、そのように行動されるようになられたのですね」

 その夜、ローズはベアトリーチェに招かれて伯爵家の屋敷を訪れていた。
 若い二人で食事をということで、ベアトリーチェの他の家族たちは、ローズに挨拶をすると下がってしまった。
 てっきりジュテファーやレイゼルも一緒だと思っていたローズは話に困り、今日の出来事を話すことにした。
 ベアトリーチェは、いつもと同じように最後まで黙ってローズの話を聞いた。
 自分の話に相槌を打ちながら聞いてくれるベアトリーチェに、ローズはどこかほっとしていた。
 外見こそ幼げだが、やはり年の功というものなのかもしれない。

「どうしてそう思われるのです?」
「いえ。私が初めてあったときの彼女は、少し挙動不審、という印象でしたから」
「挙動不審……ですか?」

「まあ、仕方ないと言えば、仕方なかったのでしょうね。ただ、やはり光の聖女として過ごされる以上、光魔法をまだ使いこなせてはないにしても、少しずつでもこの世界に慣れていただけるのは良いことだと思います。……だからこそ、この世界の常識に、反発されることも多いとは思いますが」

「はい。ただ私はアカリには、そのまま変わらないでいて欲しいとも思うのです。そんな彼女のことを、私は好ましいと思いますし」
「……おや。ローズ様は、アカリ様のことが本当にお好きなんですね。――そう楽しそうに話されると、少し妬けてしまいます」

 そんな彼が、いたずらっこのような笑みを浮かべたのに気付いて、ローズは首を傾げた。

「??」
「ローズ様。実は今日は貴方のために、特別に用意したものがあるんです」

 ベアトリーチェがそう言うと、ガラガラという音と共に、新しい料理が運ばれてきた。

 クロッシュの中から現れたのは、『フォンダンショコラ』と呼ばれる菓子だった。
 好物の登場に、ローズは瞳を輝かせた。そんなローズを見てベアトリーチェはくすりと笑った。

「貴方のお口に合うとよいのですが」

 ベアトリーチェはそう言うと、席を立ってローズの菓子をひとすくいした。
 とろりとしたガナッシュが、白い器に広がっていく。

「あ、あの。ビーチェ様……?」
「言ったはずですよ。私が食べさせてさしあげると」

 断ることは許さない。
 優しい口調にそんな意思を感じて、ローズは身動きが出来なかった。

「食べたくはないのですか?」
「そ、それは……」

 ――食べたい、けれど。
 ローズは、顔を赤く染めてベアトリーチェから目を逸らした。
 食べたいけれど、異性に食べさせてもらうという状況は、恥ずかしくてl耐えられない。

「なんだかそういう顔をされると、私が貴方をいじめてしまっているようですね」
「?」
「加虐趣味はないつもりだったのですが、他の人間が知らない貴方の一面を知れるとあれば、少し楽しくなってしまいますね」
「び……ビーチェ様!」

 ローズは思わず声を上げた。
 冷静で思慮深い。誰からも信頼される年上の異性から、甘く微笑みながら甘い言葉をさ囁かれて、ローズは頭がパンクしてしまいそうだった。

「ふふっ。申し訳ございません。……でも、そもそも貴方が、私を夢中にさせるのがいけない」
「決闘中に私を助けようとされて結局はされなかった。私は、それが嬉しかった」
「……」

 ベアトリーチェはそう言うと、どこか寂し気に目を細めた。
 その姿に、ローズは胸が痛むのを感じた。
 長命であるという彼の瞳は、まるで長い時を生きるという精霊のように、温かく涼やかで、そして儚さを感じさせる。

「貴方が信じてくだされば、それが私の力になる」

 ベアトリーチェの人生と、周りの人間の人生は重ならない。
 彼はいずれ一人取り残される。
 そんな運命に苦しみ、縁談を断り続けていた彼が、今は自分に対して好意を示す――そこに込められた思いの深さが分からないほど、ローズは幼くはなかった。

 関係が深くなればなるほど、ベアトリーチェは残された後に傷を抱えるに違いない。
 それでも、婚約者として自分を選び、戦ってくれている。だとするなら、それに見合う『決意』をしめすべきだろうとローズは思った。
 完璧な形をしていた筈のチョコレートは、とろりとした内側を曝け出していた。
 甘い香りが部屋の中に充満する。胸やけをおこしそうな甘い香りに、ローズはほんの少しだけ眩暈がした。

 甘い、甘い。
 そのことが嬉しい筈なのに、何故か苦しい。
 このお菓子も、彼が自分に与えてくれる感情も。
 その理由は、ローズにはわからなかった。

「だから頑張った私に、一口だけご褒美をくださいませんか?」
「……わかり、ました」

 ローズは顔を手で覆って、ゆっくりと口を開いた。
 するとカチャリという音がして、ローズの手に体温の高い誰かの手が、そっと添えられた。

「駄目ですよ。顔を隠さないでくださいと、そう言いました」
「……ビーチェ、様」
「今は仕事中ではないのですから。私で照れている貴方を堪能させてください」

 ふわりとベアトリーチェが笑う。
 その笑顔を見て、ローズは呼吸を止めた。
 少しだけ目を伏せて、彼が差し出した菓子を食べる。
 とろけたチョコレートは口の中で広がって、自分の中に甘いものが広がっていくのをローズは感じた。
 微笑みを浮かべるベアトリーチェを見つめる。
 彼は――ベアトリーチェは、レオンとは違った意味で意地悪かもしれない。ローズはそう思った。

「貴方のいろんな表情を、この目に焼き付けさせてください」

 ローズは、自分に向けられた言葉の意味に気付いて、思わず彼の名を呼んでいた。

「ビーチェ様……」
 胸が締め付けられる。

「……やはり甘い、ですね」
 そんなローズを前に、ベアトリーチェは先程ローズに差し出したスプーンで、自分の菓子を食べた。

「……っ!」
「照れ過ぎですよ。ローズ様?」

 ベアトリーチェは静かに言った。

「これでその反応となると、貴方から口づけていただくには、まだ時間がかかりそうですね?」

 ベアトリーチェは、羞恥で撃沈しているローズに、ニッコリと笑みを作った。

「ビーチェ様は、意地悪です……」
「申し訳ございません。でもそうやって顔を赤くされて、拗ねたように『意地悪』だなんて言われても、『可愛いなあ』としか思えません」
「……」
「好きな子を苛めたくなる男の気持ちが、私にも少しわかってしまいました」
「…………ッ!」

 くすくす笑うベアトリーチェ。
 それが本当の『意地悪』なら、拒絶も出来るはずなのに。
 彼の言葉や行動からは、自分への好意しか感じられず、ローズはやめてほしいと言えない自分に気付いた。

 少しずつ少しずつ。
 自分の中に、よくわからない感情が増えていく。
 『意地悪』されて嫌なはずなのに、彼が幸せそうに笑うのは嬉しいと思ってしまう。
 その感情に名前を与えることが出来ずに、ローズはベアトリーチェから視線を逸らした。
 顔が赤いのも、心臓の鼓動が何時もより速いのも、きっとそう気のせいなのだ。

「ビーチェ様、今夜はありがとうございました」

 食事を終えたローズは、ベアトリーチェに見送られて門の前に立っていた。門の前には、公爵家の馬車が停まっていた。
 ローズは自分を迎えに来た馭者のミリアを仰ぎ見た。
 ベアトリーチェと過ごす自分をミリアがどう見ているのか、ローズは確かめたかったが、月の薄明かりに照らされた彼女の顔は良く見えず、ローズはほんの少し不安になった。
 赤の瞳が微かに揺れる。

「……貴方を帰したくないな」

 その時、ベアトリーチェはローズの手を引いた。
 予想していなかった彼の行動に、ローズはベアトリーチェに倒れ込んだ。

「び、ビーチェ様?」
 いつもは見下ろす顔が、今は見上げる顔だ。

「――もし、よければ。泊まっていかれませんか? ローズ様」
 ベアトリーチェは、ローズの耳元で甘く囁く。

「け……結構です!」
 現実に引き戻される。
 公爵令嬢としての振る舞いを心がけているローズだったが、動揺のあまり声は裏返っていた。

「それは残念」
 そんなローズに、ベアトリーチェは小さく笑った。
 体勢を崩したローズに手を差し出し立ち上がらせる。
 ローズはベアトリーチェの顔を見ることができず、ずっと下を向いていた。
 そんなローズの手をとって、ベアトリーチェはいつものようにその甲に口付けた。

「次にいらした時は、貴方が『はい』といってくださるよう、一層努力致しましょう」

 閉じた瞳をゆっくり開く。
 ベアトリーチェは、今度はローズの顔を見上げた。
 相変わらず赤いローズを見て、ベアトリーチェは微笑んだ。
 ベアトリーチェはローズが馬車までエスコートし、遠くなる馬車を見送りながらポツリ呟いた。

「……やはり、既婚者のテクニックは伊達ではないようですね」

 ベアトリーチェの口説き方は、アンクロットに確実に影響を受けていた。

 元騎士にして今は植物園の職員、メイジス・アンクロット。
 ベアトリーチェは知っていた。
 彼は亡き妻を思い再婚を考えてはいないようだが、実は幅広い年齢の女性から人気があることを。
 顔は中の上と言ったところなのだが、声や立ち振る舞い、紳士さが、周りの女性をひきつけてやまないらしい。

「ローズ様があんな顔をなさるなんて……」

 声を裏返らせたときの表情。
 いつもの照れと理性の理性で揺れる彼女ではなく、素で照れていた彼女の顔を思い出して、ベアトリーチェはくすりと笑った。 
 自分にだけ見せてくれる女性としての表情が、もっと増えてくれるといい。―――。
 自分の中に産まれる温かな感情に、ベアトリーチェは苦笑いした。まさか自分が、『彼女』以外に好意を持つ日が来るなんて、つい先日まで思いもしなかった。
 でも、だからこそ心が落ち着かないのもまた事実だった。

「早く。貴方を私の屋敷に迎えたい」

 一年間待つという約束が、他の男が彼女に付け入る隙を与える。
 ただ無理に彼女にそれを願うことを、ベアトリーチェ自身望むことは出来なかった。
 彼女の心が欲しい。これから、自分たちの前に誰が現れようと、その関係が崩れることのない確かな証がほしい。決闘で負けるかもしれないから選ばれるなんて、そんなことは絶対に嫌だった。

「指輪をお借りして言ってみたら、また別の反応がかえって来るのでしょうか……?」

 ローズに口付けた自分の唇を、ベアトリーチェは静かになぞった。
 そしてふと、とある手紙の内容を思いだして、彼は表情を険しくした。

「そういえば……あの男がなんのために時間を与えたかが気になるところです」

 決闘は明日再開される。その内容は、ローズが屋敷に来る少し前に、輝石鳥によって届けられた。

「契約獣参加での決闘、ですか」

 『決闘形式 契約獣参加での決闘』
 愛する鳥が運んできた手紙に記されていた内容は、ベアトリーチェの予測の範囲内だったが、彼には厳しい内容だった。

「ピィ」
「セレスト、貴方は連れていけませんよ」

 神々の住まうという至上の空の色。
 その名を与えた小さな鳥が、心配そうに自分を見ている事に気が付いて、ベアトリーチェはそっと鳥の頭を撫でた。

「お気遣いありがとうございます」

 カーテンは開いている。窓枠の向こう側には、美しい夜空が広がっていた。
 ベアトリーチェは一人、鳥を肩にとめたまま空を仰いだ。
 深淵を思わせる、夜の闇の中に光る月光。
 青い薔薇の咲く植物園で、一人ガラス越しに差し込む光を眺めていた頃の彼はもう居ない。
 今の彼には守るべき人間が居る。その相手は、この世界に今生きている。簡単に、誰かに奪わせるつもりはない。
 ――でも。

「……はあ」
 自分一人だけの力なら、ベアトリーチェは絶対に負けない。
 では、他の力を借りていいというのなら――?
 ベアトリーチェは強い。ただ地属性が強すぎる彼は、本来その魔力があれば結べるはずの空を飛ぶ生き物との契約が結べない。

「……全く。どうしていつもこうなのか」

 『地剣』ベアトリーチェ・ロッドは空を飛べない。



 同刻。
 窓の向こう側に見える月の光を、少年は一人見上げていた。
 体を抱くようにして窓辺に座り込む。そんな彼の手には、手に収まる程度の小さなものが握られていた。
 月の光を浴びてきらめく銀色の時計には、百合の花が刻まれている。

 沈黙。
 彼の部屋からは、物音一つしやしない。ただ動くのは、時計の中の針だけだった。
 がた、がたがたがたっ。
 そんな静寂を切り裂いたのは、窓を揺らす音だった。

「レイザール」

 静かで、優しい。窓を開いた彼は、そんな声で愛すべき生き物の名を呼んだ。
 カーテンが大きく揺れる。机の上に置かれた書類が、鳥の羽ばたきのせいで地面に落ちる。

「僕は平気だ。明日はよろしく頼むよ?」

 僅かな月の光では、彼の表情は読み取れない。

「――絶対に。ローズは渡さない」

 それでも、彼が呟くその声には、確かな意思が宿っていた。